「酷いことになったなあ…?」と言うのが、風天としての正直な感想です。最近の報道で知りましたが、「教師の休職者数7,000人超え」とか、「教師の志願者倍率2倍切り」とか…。まあ、よくもここまで酷いことになったもんだ…と改めて感動しました。それに対して、文部科学省の言い草が「定年退職者数が増えたため…」だとか言っているのだから、危機感はほとんど「ゼロ」です。これもまた吃驚です。それにしても、よくもまあ、長い期間ほったらかしにしたもんだと呆れてものが言えません。20年前には「日本の教育は世界一」だと自負していた時代もありましたが、今では、「日本の教育は世界最低レベル」に落ちたと思います。これで、よく国民は怒りませんね…。それもまた吃驚です。それだけ、日本人は教育に「関心」を失っているのでしょう。長い間、教育は「学校丸投げ状態」でしたから、関心がないのもわかりますし、少子化が進み、子育てに関わっていない人も大勢いますから、ニュースを見ても「へえ、そうなんだ…?」「先生もお気の毒に…」程度の会話で終いでしょうね。それより、「物価高何とかしてよ…」「年金じゃ、暮らせねえよ…」といった愚痴の方が先に出ます。それでも、「風天」のような「元教師」には、結構、堪えるニュースなんですよ。だって、40年以上も頑張ってやってきたのに、あれよあれよと言う間に、こんな状態になってしまって、もう「がっかり…」です。どれもこれも、日本政府の「政策の失敗」なんですけどね。そう言えば、国会で「令和〇〇組」とかいう女性議員が、学校の現状を憂えて吠えていました。話し方や内容は、誉められたものではありませんでしたが、関心を向けない政治家より、ずっとましに見えます。心の中では「がんばって…」と応援してしまいました。もう、ため息しか出ませんよ。
1 やっぱり「こうなっちゃった…」
そりゃ、なりますよね。日本政府って、日本の「教育を壊したい」勢力に乗っ取られているのではないでしょうか。確かに、善意で考えれば、「新しい時代に適応した教育」と言うこともできますが、結果から見れば、政府が進めて来た教育は、そのすべてが「失敗作」で、今現在の政策も「どうしようもない失敗作」ばかりです。例を挙げれば、あの悪名高き「全国学力調査」でしょうか。やればやるほど、「学力が下がる」という面白い現象が起きています。だれも「やってくれ」なんて頼んでもいないのに、「子供の学力を調査して、学習指導改善に役立てる」などと言っていましたが、あれをやったお陰で、都道府県別の「序列」はつくし、地方では、「対策」を熱心にやり過ぎて、「過去問」ばかりを解かせている始末です。それで、結果が都道府県の上位に入ると、知事自らが嬉しそうに「我が県の学力は、非常に高いんですよ…」と高笑いする始末です。学校の教室で何が行われているのかも知らず、「学力が高い」というまやかしに踊らされ、知事もいい気なもんです。それから、鳴り物入りで始めた小学校での「英語教育」も、今や、中学校英語を小学校に下ろしてきただけのことで、小学生の「英語嫌い」がどんどん出て、不登校の原因を作っています。だから、始めるときに、「英語の教師たち」があれほど言ったのに、政府は何も聞く耳を持たないのだから、やっぱり「ばか」なのでしょうか。日本は「日本語」で生きていく社会なのですから、英語より「日本語重視」は当然でしょう。あんたらは、何人を造りたいんですか?
最近では、「アクティブラーニング」とやらで、自分で調べて、教室で「討論」をするのが流行りだそうですが、「読み書き算盤」という基本が碌にできない子供に「討論」なんてさせても、基礎学力がないのだから、碌な「結論」が出るはずもなく、いい加減な資料を基に適当なことを言い合う時間になっているそうです。「読解力もない」「常識的な知識もない」「計算力もない」「漢字も読めない」で、どうやって、資料を見て考察するのでしょう。どうせ、タブレットを使って適当な「資料」を見つけ、そこに書いてあることを鵜呑みにして「写す」のが精一杯に違いないんです。だから、「嘘か真か…」わからないままに、「資料に書いてありました…」でお終い。自分の考えより、「資料の製作者」の意見を重んじるのは、脳が十分に機能していない子供時代にはよくあることです。「おいおい、ネットなんかの資料をあてにしていると、変な情報もたくさんあるんだよ…」。だから、「教科書を使う」ことになっているのですが、どうも、「タブレット」を使っていると、さもさも、コンピュータを操っているかのような錯覚に陥るのでしょう。これで、学力がつくはずがありません。
文部科学省ときたら、とにかく、教科書の内容を増やし、教科書を分厚くすれば「学力がつく」とでも思っているのでしょうか。マスコミから、「教科書が重すぎて子供が泣いているぞ…」と言われただけで、「教科書は、教室に置いて行っていいですよ…」という「置き勉」なる方法を推奨する始末です。昔から「家に帰ったら、復習と予習をすること」という教えは、どうなったんでしょう。今の子供たちは、あんな分厚い教科書を見ただけで、学校に行きたくなくなるはずです。その上、これからは、「電子教科書」だそうですから、「タブレットだけを持って行けばいいんですよ…」になるようです。これも、既に外国(先進国)では失敗に終わり、また、「紙の教科書」に戻すようですよ。政府のみなさん大丈夫ですか。「タブレット」で困るのが、故障したり、壊れたりすることです。「先生、壊れちゃいました…」と、教室で手を挙げられれば、授業はストップしてしまいます。昔から、「教科書忘れ」はありました。すると、先生が、「おい、隣の教科書を見せてもらいなさい」と言えば、隣の子供が教科書をずらして見せてくれました。しかし、タブレットでは、斜めからは画面が見えません。それに、調べたいことが同じではないので、「隣に見せて貰う」ことができないのです。そのうち、机から落として「先生、壊れちゃいました…」という子供が続出しています。それって、だれが修理費用を出すのですか。買い換えはだれがやるんですか。そんなに学校や自治体には「予算」がありませんよ。
こんな道具を子供に渡すと、今度は、「大人向けサイト」にアクセスして遊び出します。友だちを「盗撮」して、みんなに流します。それが、女子を撮った「わいせつ画像」だったら、どうするんですか。こんなことは、日常茶飯に起きている事件です。どれも、文部科学省が、危険を承知で前のめりになった結果です。本当に、文部科学省の「有識者会議」というのは、危ない組織だと思います。どうせ、「御用商人」みたいな学者たちが集められて、政府の意向に沿った答申を出すに決まっているのですから、ふざけた話です。こうして、問題点を指摘すると、政府は必ず、「それは、十分に趣旨を理解しない教師が、子供に指導しないままに行った結果です」「きちんと趣旨を理解して指導するよう、全国に通知をしたところです…」なんて言い訳をします。おいおい、違うだろう。「あんたたちの政策の失敗を現場の教師に責任転嫁するなよ!」と言いたいところですが、人事権と予算を握られている「地方教育員会」は、政府には何も言えません。そうなると、同じように人事権と予算を握られている「学校」も何も言えません。つまり、教師たちは「泣き寝入り」するしかないのです。これで、「教師になりたい」と思う学生がいたら、見てみたいものです。
2 国民・市民・保護者は、そんなに偉いのか?
日本という国は、「民主主義」という政治体制を敷きながら、どうも、心の何処かでは「差別的な意識」が強い国民性があるようです。「どんな職業にも貴賤はない」という建前ですが、常に自分と人を見比べて「どっちが偉い…?」などと考えている節があります。よく、「〇〇に仕える」などという言い方がありますが、私の時代でも「〇〇校長に仕えた…」などという台詞を吐く教員がいました。私などは、(はあ、仕える…?いつの時代だよ…?)と思って聞いていましたが、時代錯誤も甚だしく、未だに「身分制度」から逃れられない日本社会に呆れてしまいます。「学校」にとっても、こうした「カースト制度」のような序列は存在します。これも、そう思うかどうか…の問題ではありますが、「文部科学省→県教育委員会→市町村教育委員会→校長→教頭→教員」といった具合に、明確な序列が見られます。ある男性校長は、女性事務官に「事務風情が…」と言って大顰蹙を買った例があります。きっと、この校長は相当に「ばか」なのでしょう。また、「国民・市民・保護者→役所(公務員)・学校(教員)」という序列もあり、役所の人間は、市民に対して丁寧に対応し、市民から罵詈雑言を吐かれても低姿勢で応対するのが常です。彼らは「お客様」と呼ばれ、「おい、担当者呼べ!」とか、「課長はいねえのか?課長出せよ!」と窓口で怒鳴られても、「申し訳ございません。〇〇課長は、ただ今、席を外しておりまして…」と言い訳をします。(本当は、隠れていますが…)。これが、ごく普通の役所で見られる光景です。そのため、役所勤めの公務員には、「心の病」で休職を取る人がとても多いのが現実です。「公務員は楽でいい…」なんて言っていた時代は、もう、何処にもありません。
それが、いつの間にか伝染でもしたかのように、学校でも同じ対応が求められるようになりました。「電話は三回のベルが鳴り終わるまでに出ろ!」「お客様には、常に腰を低く頭を下げろ!」「お客様には、湯茶の接待をせよ!」「お客様を玄関までお見送りせよ!」「お客様のお車が学校の門を出るまで頭を下げていろ!」…。あるのかないのか、こうした「裏マニュアル」が学校にも蔓延しているのです。さらに、「お客様からの苦情電話は切るな!」というマニュアルもありましたから、今を騒がす「熊騒動」で困っている役所に、「熊が可哀想だろ!」「この熊殺しが!」「鳥獣保護法はどうした!」などと、連日100件以上の苦情電話が入っても、職員は、電話を耳に当てたまま平身低頭で謝っていたはずです。こうなると、「お客様」と呼ばれた市民は、「俺様」になり、自分が疲れるまで怒鳴り続けます。そのうち、要求が受け入れられないと「てめえなんか、辞めさせてやる!」「名前を言え!」となり、モンスター市民は名乗らないのに、職員は「〇〇課の〇〇でございます…」と言うしかありません。これで「毅然とした態度」を採ろうものなら、モンスターお客様は烈火の如く怒り、「市長を出せ!」とまでいっちゃう人もいますから、「俺様」にも困ったものです。これで、約1時間の勤務時間が無駄になりました。(これでは、病気にならない方がおかしい…)と思うのですが、常識的にどうなんでしょう。
大体、「モンスターペアレント」なる親が登場してきたのは、こうした「公務員」の態度に問題があったんです。平成のころの役所は、「市民サービスのためなら何でもやる」といった雰囲気があり、役所内に「なんでもやる課」なんていう部署を設けたり、「市民の声を聞く」といった理由で、「市長への手紙」や「役所へのメール」が推奨されました。職員は、「おいおい、そんなことしていいのかよ…?」「何でも役所に来ちゃうぜ…」と心配していたとおり、毎日、たくさんの「手紙やメール」が届くようになりました。ただでさえ、電話対応・窓口対応で大変なのに、そんな手紙やメールにまで返事を書かなければならないのです。そして、書いたら書いたで、また、文句を言われ、モンスター市民からは、「いい加減な仕事をしてんじゃねえよ!」「書き直せ!」といった苦情にも「申し訳ございません…」と頭を下げるのですから、市民が「超モンスター」になって当然です。それと同じような人物が「学校」にも現れました。親は、教師の話より我が子の話を鵜呑みにして、怒り狂ったまま学校に怒鳴り込んで来るのです。「おい、〇〇(教師)呼んで来いよ!」「てめえじゃ、話にならねえよ!」「校長は、何処だ!」と、散々悪態を吐いて、怒鳴り散らし、「子供が家で泣いてんだよ。どうしてくれんだよ…?」「〇〇さん(先生)、何とか言えよ!」こんな調子でモンスターが暴れまくったんです。それでも、学校は警察に通報することもなく、校長はとにかく「穏便に、穏便に…」と言っては、「謝罪」しまくっていました。
事の真相なんか、もうどうでもいいんです。「我が子に恥を掻かせやがって、この野郎、とっちめてやる!」といった風情で、まさに、市民は「モンスターお客様」になり、そのうち「ヤクザもどき」になっていきました。そのうち、モンスターは、弁護士を雇って学校に乗り込み、「訴えるからな!覚悟しとけよ!」と、ヤクザ弁護士共々、教師たちを脅かすのですからすごいものです。こうなると、もう、校長は「土下座」しかありません。そうやって溜飲を下げたモンスターは、肩で風を切って校門を出て行くのです。そうなると、もう、担任教師はやってられません。「何で、あんな人の言うことを聞いて、私が頭を下げなくちゃ行けないんですか?」「何も調べもしないで、これでいいんですか?」そう問われても、無力な校長は反論する術がありません。「あ、あわわ…」と狼狽えてお終いです。マスコミは、簡単に「モンスター」って言いますが、その中味は、ほとんど「反社・ヤクザ・暴力団」の世界なのです。善良な教師が、太刀打ちできる相手ではありません。先日も、都内で、母親が煽動して「反社」みたいな男たちが、教室に酔って乱入したという事件がありましたが、もう、こうした親たちは、「ああ、学校は大丈夫だよ。あんな奴らチョロいさ…」「何をしたって、警察なんか呼べっこないよ!」「少し、ヤキ入れてやんなよ!」と言った調子で、学校に平然と乗り込んで来るのです。これも、日本政府のご指導の「賜物」と言ったら言い過ぎでしょうか。できることなら、文部科学省か総理官邸に怒鳴り込んで欲しいものです。
3 「さあ、みなさん…」では、だれも言うことを聞かない
日本人って、「子育て」を舐めていませんか。「子供は国の宝」とか言いながら、日本政府は教育にはあまりお金をかけたがりません。理由は「家庭教育、社会教育、学校教育…って、一体いくら金があればいいんだよ…?」「そんなに教育にばかり、金を掛けられねえよ」と言うのが、官僚の言い分です。そんなのは、当たり前。「教育って、国の根幹を造る大事な仕事なんじゃないの?」と思うのは、教師くらいなものかも知れません。文部科学省という役所だって、教員には強いけど、政府の役所の中では「最低ランクの役所」だし、財務省なんかには遠く及ばない「末端の機関」という扱いでしょう。大臣になる人だって「だれ、この人?」程度の国会議員で、官僚の答弁書そのままを読んでお終い。そして、だれも長く務めたいという大臣はいません。学校が「ブラック」だって、ずっと報道されていても、学校現場の声は届かず、予算もちょっと増えるだけ…でお終い。総理大臣の答弁だって、通り一遍で終わり。不登校が増えようが、教師が病気になろうが、教員志願者が減ろうが、そんなことは「興味もない…」という態度で、何もしようとはしません。そのくせ、学校に対して「命令」だけは得意で、何かあるとすぐに「通知」を出します。そして、上手くいかないと責任は、すべて「校長にあり」という態度では、信頼をなくすのも当然です。そんな「上部機関」でしかないのだから、日本の教育がよくなるはずもないでしょう。本当は、「国民の義務」を遂行させなければならない重要機関なんだから、学校現場の「要望」も聞いて、一緒になって「日本の教育を立て直す」気にはならないのかな…。こういう指摘をすると、彼らは決まって「私たちも一生懸命努めているところです…」という答弁で終わりです。「一生懸命…って、何を…?」と言うぐらい、国民は呆れているのではないでしょうか。
今ほど、学校や教師が子供に「阿る」時代はないでしょう。まあ、これまでの「反動」と言えばそうなんでしょうが、本当に呆れるくらい子供に「気を遣う」ようになりました。学級担任をしたことのないマスコミや学者たちは、子供と教師が「対等の関係」になれると本気で思っているようです。そして、それが「いいこと」だと信じて疑わないのですから、子供の何たるかを何にもわからず生きてきたのでしょう。おそらく、家庭でも子供のことは妻任せで、「俺は、仕事で忙しいんだ…!」などと偉そうにしている男に限って、「子供目線で話をしましょう…」などという能天気な発言ができるのです。よく、保育園や幼稚園の先生が、「さあ、みなさん…。よい子のみなさんは、〇〇をしてみましょう…」「わあ、できたね。えらいねえ…」などと「猫撫で声」で指導している姿を見かけます。「幼児」ならば、それもいいのでしょうが、小学生や中学生に「さあ、みなさん…」なんてやったら、それこそ、子供たちから白い目で見られ、「おい、あいつキモいよ…」とか、「先生、ちゃんとしなよ!」と叱られるのが精々です。子供も「自我」が出て来る年頃になると、望んでいるのは「対等の関係」などではなく、自分たちを強く引っ張ってくれる「先生・指導者」を望んでいるのです。「力はないけど、優しくて物わかりがいい教師や親」が、理想だなんて思ったら大間違いです。
「物わかりがいい」は、子供にしてみれば、「なんだ、何でもいい…って言ってんじゃないよ!」と怒鳴られるのがオチです。子供は意外とわかって無理なことを言うことがあります。これが、大人への「お試し行動」です。そして、大人の反応を見て「たいしたことないなあ…」と思うと、もっと、強めに大人を「試し」ます。それは、大人が困ることをやることです。学級担任が教室に入ると、次第に騒がしくなってきます。そうやって、「今度の担任は、どう出るかな…?」と試すのです。ベテラン教師になると、そんなことを考えているときの子供の「眼」ですぐにわかります。ちょっと上目遣いで、口元が微笑んでいる姿です。そんなとき、「さあ、みなさん。静かにしましょうね…」などと言う教師は失格です。手をパンパンと叩いて、「さあ、みなさん…」はいただけません。ベテランは、「おい。今から先生が話をするから、よく聞くように!」「そこの…立て!」「いいか、二度と言わないからな!」と言って、口を開きそうな子供をギッと睨み付けます。そして、フッと口を歪め、「おいおい、教師を試すんじゃないよ!」と言ってやれば、これで「教師の貫禄勝ち」です。できれば、早々に子供たちの「氏名」を覚えておいて、「おい、〇〇くんよ…」と名前で呼んでやると、相手は(こいつ、なかなかやるじゃないか…?)と一目置くことになります。こうして、教師と子供の「立場の違い」をわからせるのです。「さあ、みなさん…」で始まった教師は、その後もずっと、「お試し状態」が続き、そのうち、何も聞かなくなってしまうのがオチなのです。
今の時代は、こういう教師は大抵「嫌われ」ます。それは、子供にではなく、体制に阿りたい教師や時代の流行に乗せられている親たちにです。「今度の先生の言葉遣い、少し乱暴ね…?」とか、「何か、子供に強い口調で言うみたいよ…」などと言って、自分たちに阿らないことが面白くないのです。しかし、子供は、そんな「大人に阿らない教師」が大好きなのです。だれも、校長や親の前でペコペコしている担任を好きになるはずがありません。「俺たちの先生は、格好いいんだ!」「先生の悪口を言ったら、俺たちが承知しねえからな!」となったら、教師は、どんどん大切なことを教えてあげることができます。「この先生について行ったら、間違いない!」と子供たちが思うことができたら、子供は間違いなく、グングンと成長していきます。わかりますか…?。未成熟な子供だからこそ、教育を職業としている「専門家」が、子供の心を掴んで指導していくことが「真の教育」なんですよ。子供が何も考えずに「やりたいことだけをやる」では、成長はありません。たかが、10年ちょっとしか生きていない子供が、本当に「やりたいこと」が見つかるはずがないじゃありませんか。「やりたいこと」と言うのは、長い時間をかけた「不断の努力」の末に見つかるものであって、気分で「見つける」ものじゃないんですよ。
4 現代教育を受けた人が、今の「教師」じゃないの?
文部科学省が、「学校はサービス業です」と宣言して以降、日本の学校と教師は、「聖職」ではなくなりました。マスコミは、何かあると皮肉たっぷりに「聖職者(教育者)のくせに…」といった記事を掲載し溜飲を下げるようですが、今の時代、「聖職者」も「教育者」もいません。いるのは、一応、「先生」と呼ばれる「サービス業従事者」たちです。少し前までは、「お客様は神様論」が流行っており、店員にいちゃもんをつけて「土下座」させたというニュースが話題になりましたが、こうした不逞の輩が逮捕され、「脅迫罪」なる罪になることが知られるようになると、少し風向きが変わり、店員に横柄な態度をとる輩が減ったようです。それに、「ハラスメント」が注目されると、こうした相手に対して「威圧的行為」をすることが、「人権侵害」になるということで、社会が少し大人しくなったような気がします。最近では、クレームをつける親たちが、教師を前にして、取り敢えず「あの、私モンスターではありませんので、悪しからず…」といった前置きをするのだそうです。教師からしてみれば、間違いなく「モンスター」ですが、言い訳から入るところが、現代的なのでしょう。こうした人たちは、共通して「導火線が短い」傾向にあります。すぐに「火がつき」、自分でどんどん「薪をくべる」タイプの人が増えました。彼らは、目つきが尋常ではないので、「ひょっとしたら、薬の副作用…?」を疑ってしまいます。
相手をする教師たちも、以前なら修羅場を潜った「海千山千」の強者教師がいましたので、ドスの利いた声で、「はい。ご用件は何でしょう?」と言って、モンスターの前に立ち塞がりましたから、モンスターも「小モンスター」で終わるところがありました。しかし、今の教師は、親や教師から、「いい子、いい子…」と「猫撫で声」で育てられた「坊ちゃん・お嬢ちゃん先生」ですから、本当の苦労などはしたことがありません。小さいころから「危ないこと」は、一切しないで育ってきた人たちです。それに、学校も「よいところを見つける評価」に変わりましたから、敢えて「欠点」には、眼を瞑ります。通知表の所見には「〇〇をよくがんばりました」的な表記ばかりで、昔なら「陰日向があります」なんて書かれるような性格でも、そのことには一切触れません。因みに「陰日向がある」と書いたのは、私の小学校5年時の担任教師です。母親は、それを見て驚いていましたが、私は、まったくの事実なので、「ふうん…」でお終いでした。「意外と先生は、俺のことをよく見てるな…?」と感心したくらいです。子供だって、少し大きくなると「空気」というものを読むようになります。表だってはいい子を演じていても、裏ではいたずらもするものです。それが「欠点」と言われてしまえば、まあ、誉められた話ではありませんが、私としては「長所」だと思っていました。それを、すべて「いい子(大人にとっての)」になってしまえば、こんなにつまらない人生はありません。したがって、その「評価」は、まったく正しいのです。
子供のころに、「長所ばかり」の人間なんているはずがありません。それを、日本政府はいつごろからか、「いいところを評価すること」と、決めてしまったのです。おそらく、マスコミ辺りから叩かれるのが怖くなり、臆病な大臣や議員が、文部科学省を責めたのでしょう。そもそも、文部科学省の偉い人は、ペーパー試験で偉くなった人ですから、特に人格が優れているわけではありません。確か、「取材」と称して、風俗通いをすっぱ抜かれた「事務次官」がいましたっけ…。この御仁は、今では、左翼の大物ぶりを発揮して、中国に忖度するコメントを、やはり「左翼マスコミ」に載せています。文部科学省って、「左翼」でなければ出世しないことがこれでわかってしまいました。そういう役所なんです。こうして、「長所」ばかりを誉められて育った人が教師になり、教壇に立つわけです。そこには、ちょっと捻くれた少年・少女が手ぐすね引いて待ち構えているわけですから、まさに「蛇に睨まれた蛙状態」になります。そして、どんな暴言を吐かれても「長所を誉める」教育しかできないのですから、病気にもなるでしょう。誤解のないように言っておきますが、子供たちは、決して「不良」ではありません。性格が「ちょっと捻くれた…」程度の子供が数人いると言っているだけで、この「捻れ」をクイクイっと元に戻してやると、本当に「素直で元気な子供」になるんですけどね…。
本当は、「教師になろう」って人間は、なる前に、とことん「苦労」をした方がいいと思います。それは、スポーツの世界でもいいですし、どん底の貧乏生活でもいいでしょう。肉体労働のアルバイトでもして、厳しい自然環境に身を置くのもいいと思います。そして、そこで、何か「哲学」というか、「真理」を見つけ出すことです。そうすれば、少し捻くれた子供程度なら、簡単にあしらうこともできるでしょう。程度の悪いモンスターなど、その身に付けた「威圧感」で圧倒してしまえばいいんです。本当に苦労をした人間は、醸し出す雰囲気が他人とは違います。「怖い」というか、「近寄り難い」というか、何か持っている「未知なる力」が、オーラとなって見えるものです。それがないと、教師は務まらないでしょう。今、日本社会は「労働者不足」で喘いでいます。「優しく」「長所ばかり」を見て「いい子理論」で育った人たちは、「辛抱・我慢」という言葉を知りません。人間が成長する上で絶対に欠かせない「価値観」なのに、これを否定するとは、その人間を壊すことになります。それを平気で実行する日本政府は、まさに「滅びる役所」と言えるでしょう。日本人を壊し、社会を壊し、国を壊す。そうした思想の人間が政府機関を動かしているとすれば、本当に怖ろしいことです。それでも、本気で「教師になろう」と思うのなら、「人のやらない苦労」を買ってでもしてみることです。それ以外に方法はありません。(風天の独り言でした…)

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