今の自衛隊にも、最新型のジェット戦闘機を操り、縦横無尽に活躍しているパイロットがいます。東京オリンピックや大阪万国博覧会では、航空自衛隊が誇る「ブルーインパルス」が、大空に舞いながら編隊飛行をする姿は、見た者の心を揺さぶり、その技術の高さに驚かされました。また、中国やロシアの脅威に晒されている日本は、連日「スクランブル」がかかり、その度に各基地のジェット戦闘機が発進し、外国軍機が領空侵犯をしないように警戒を続けています。こうした自衛隊の任務は、なかなか国民の眼には触れませんが、実際に外国軍機に対峙するパイロットたちは、もの凄い緊張感の中で、日々を過ごしているわけですから、私も国民の一人として、彼らに敬意と感謝の気持ちを持ちながらも、国防の重要性を改めて認識する次第です。彼らは、何年もの時間をかけて、過酷な訓練に励み、選ばれた者たちだけが「国防の最前線」に立つわけです。それは、暢気に生きている私たちには理解できない壮絶な世界だと思います。
さて、今から80年前、日本にも多くのそんな「空の勇者」たちがいました。当時のパイロット(海軍は搭乗員と呼称)のほとんどは軍人です。それも志願兵です。この時代は、だれもが進学できる時代ではありませんでしたから、軍人になることは、「出世」の近道でもあったのです。たとえ、小学校しか出ていなくても、軍隊に入って成績がよければ、専門教育を受けることができました。搭乗員になるための「飛行科」は、海軍であれば、海兵団で新兵教育を受けた後、軍艦や各部隊に配属されますが、その中で「操縦練習生募集」という公開された募集制度がありました。志願する者は、直属の上官にその旨を伝えて受検のための勉強をしたのです。中には「何が飛行科だ!貴様、生意気だぞ!」と、先輩たちからぶん殴られた話もありますから、余程頭が良くないと合格は難しかったようです。それでも、「飛行機に乗りたい…」と思う若者は多く、倍率は常に100倍は超えていましたから、搭乗員への道は険しかったのです。そして、運良く合格すると「横須賀航空隊」や「霞が浦航空隊」などで訓練を受けて「搭乗員(操縦員・偵察員)」になりました。このころは、飛行機の発達が著しく進んだ時期で、日本も欧米に追いつき、追い越せとばかりに開発に励んでいました。飛行機は、それだけ高価な代物で、機数もあまりありませんでした。
第一次世界大戦時には、「木製・布張り」の複葉機だったものが、昭和に入ると、金属製・単葉機が登場し、そのうち、車輪が自動で収納できる機体が登場するまでになってきました。エンジンも1000馬力級と大きくなり、速さも「時速500㎞」を超えるようになると、飛行機は、さらに高速化していったのです。日本は、明治維新以降、積極的に近代化に取り組みましたが、いくら工業化に成功したと言っても、幕末からわずか60年足らずで、欧米の第一線機と肩を並べようというのですから、とんでもない速さです。既に軍艦は、自前で建造できるようになり、軍隊も近代化していきましたが、それは、飽くまで表面上のことで、内部では、予算も含めて相当に無理をしていたのです。国民は、重税に喘ぎ、税金の半分以上が「軍事費」となって消えて行きました。そんな中でのパイロット養成ですから、「少数精鋭主義」にならざるを得なかったのが現実です。欧米のように、自動車が普通に道路を走る国とは違います。自転車がやっとという国で、自動車を飛び越え「飛行機を操縦する」ことが如何に夢物語か、わかろうと言うものです。そんな経験しかしてこなかった若者が、飛行機の操縦をしようというのですから、それは大変なことでした。しかし、人間には不思議と「飛行適性」という能力が備わっているものです。人それぞれではありますが、その適性試験に合格して大空に飛躍したのが、これから紹介する「名パイロットたち」なのです。
彼らは、「操縦練習生」や、後にできる「飛行予科練習生」出身者、そして幹部となる兵学校出身者たちで、数年間の基礎訓練を終えた後、時間をかけて飛行訓練を受けた強者たちでした。その多くは、日中戦争前に訓練を受けた人たちで、徹底した「天才教育」を受けました。しばらく訓練をして、「適性が無い」と判断されれば、それまでのキャリアなど関係なく、すぐに「原隊に復帰」させられます。当然、飛行訓練で起きた事故でのけがなどもありました。それでも、「不合格」となれば、元も部隊に元の階級のままで帰されるのですから、冷たいものです。そして、そこで勝ち残った者が、前線へと送られて行ったのです。彼らは、昭和の初めころから中国戦線で戦い、そして、大東亜戦争が始まると、太平洋やアジアの空で戦いました。そして、多くのパイロットが大空に散っていったのです。最後には、陸海軍共に「特別攻撃隊」と称する「体当たり部隊」を編成して、敵の艦船に突っ込んで行きました。昭和の初期のころは、訓練による飛行時間が「1000時間」くらいにならないと前線には出してもらえなかったそうですが、それが、戦争が始まると、「パイロット(搭乗員)」の数が必要になり、「500時間程度」でも前線に出て行きました。最後のころは、100時間にも満たない搭乗員が飛んで行ったそうです。「100時間程度」では、やっと離陸して水平飛行するのが精一杯だったようで、多くは「特攻隊」に編入され、250㎏爆弾を吊り下げて敵艦目がけて突っ込んで行きました。それは、「パイロット」と言うにはあまりにも未熟で、彼らにももっと多くの時間がかけられれば、軍人らしい戦い方ができたでしょう。それが、残念でなりません。それでは、私が知る限りの「名パイロット(搭乗員)」たちを紹介したいと思います。
1 海軍飛行兵曹長 西澤広義(にしざわ ひろよし) 最終階級「海軍中尉」
戦記マニアであれば、「ラバウルの魔王」と呼ばれた「西澤広義」を知らぬ人はいないはずです。敵機の撃墜数は、推定で「150機」。まさに日本の撃墜王に相応しい撃墜数を誇った名パイロットです。勿論、愛機は「零戦」です。西沢は、長野県の農家の出で、昭和11年に「海軍乙種飛行予科練習生」に合格し、日本海軍の飛行機乗りとなりました。「乙種」とは、小学校卒業程度の資格があれば受験できた制度で、高等小学校を出た西沢は、募集のポスターを見て応募した少年の一人でした。当時の男子にしては背が高く、顔立ちも端正です。農家の子供ですから、体力には相当の自信を持っていたはずです。また、当時の「予科練」は、少年たちの人気が高く、相当の学力がなければ試験を突破することはできません。現在、茨城県の阿見町に「予科練記念館」がありますが、そこで展示されている資料を見ると、今の高校生の上位の生徒でも難しい問題を解いていたことがわかります。やはり、飛行機を操縦するためには、相当の学力が必要だったのです。
西沢が、飛行兵になったころは、中国との戦争は始まっていましたが、飛行機もやっと金属製が登場してきたころのことです。日本の主力戦闘機は、ちょうど西沢が予科練に入ったころに正式になった「九六式艦上戦闘機」でした。「九六式」とは、「皇紀2596年式」という意味です。「零戦」は「皇紀2600年式」の意味で付けられました。この飛行機は、三菱が世界水準を超えようと会社の総力を挙げて設計した機体で、足は、まだ収納式ではありませんでしたが、小回りが良く利き、速度の速い優秀戦闘機でした。日本海軍は、この戦闘機を駆って中国空軍と戦っていたのです。当時の中国空軍は、自国で飛行機の生産ができず、ほとんどがソ連製の飛行機でした。ソ連は、まだ飛行機の性能において欧米に追いついておらず、戦闘機も複葉機が多く、日本の単葉、金属製の「九六式艦戦」には遠く及びませんでした。西澤は、飛行兵としての初期をそうした中国空軍相手に戦ったのです。それでも、多くの戦友が中国の空に散っていきました。そして、昭和15年に入り、いよいよ世界最高の戦闘機である「零式艦上戦闘機」が登場してきました。ただし、日本の生産力では、「月間100機」ほどしか造ることができず、西澤たちは、しばらくは旧式の「九六艦戦」で戦っていました。もし、日本が「零戦」を開発できず、戦闘機が「九六艦戦」だけだったとしたら、対米英戦争にはならなかったかも知れません。いや、それより、戦い方そのものが違っていたはずです。
西澤が活躍するのは、有名な「台南航空隊」に異動し、坂井や太田、笹井などの凄腕パイロットたちと共にラバウルを拠点に戦ったときからです。西澤は、戦闘機パイロットとしては大柄で、身長は180㎝ほどあったそうです。当時の日本人の男性は、160㎝位が平均だったはずですので、目立って大きな人でした。特に日本の戦闘機の操縦席は狭く、西澤は余程窮屈な思いをして操縦席に座っていたのだと思います。彼の特長は、やはり、「眼がいい」ということです。これは、単に視力だけのことを言うのではなく、危機に際しての「勘」がいいのです。記録を読んでも、西澤がいち早く敵機を発見する場面が多く、できるだけ有利な体勢から敵を攻撃しています。また、射撃の腕がよく、「見切り射撃」という技を身につけていました。これは、敵機の行動を予知し、敵の次の動きを予測して撃つことです。きっと、何もない空中に弾丸を撃つわけですから、周囲から見れば、「おい、何処に向かって撃っているんだよ…?」と思われたはずですが、なんと、そこに敵機が突っ込んで来るわけですから、まるで「魔法使い」のように見えました。こうした「勘のよさ」と「予測能力」を駆使して、西澤は撃墜数を増やしていきました。そして、彼は、けっして自分を危険に晒すことはしませんでした。これも空中戦の極意なのです。
西澤は、ラバウルで戦った後、フィリピンの第一戦で活躍しました。そのころになると、「西澤広義」の名は、撃墜王として全軍に轟いていました。そして、「神風特別攻撃隊」の第一陣となる「敷島隊」の護衛任務に就きました。特攻の始まりです。西澤が、この特攻作戦をどのように見ていたかはわかりませんが、当時の空気として「特攻やむなし…」という雰囲気はあったようです。まして、連合艦隊最後の決戦である戦艦部隊の「レイテ湾突入作戦」は、是が非でも成功させなければならない作戦でした。もし、フィリピンを失えば、日本は戦争に必要な物資を本土に輸送できなくなってしまうのです。既に、サイパン島は落ち、その上フィリピンまで敵の手に渡れば、日本の「敗戦」が事実上決まってしまうのです。大西瀧治郎中将が、特攻作戦を実行した理由はここにありました。そして、第一陣に選ばれた「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」は、実戦経験のあるパイロットたちで編成され、一番手の敷島隊には、海軍兵学校出の「関行男大尉」が隊長に指名されました。しかし、関大尉は、この指名に納得はしていなかったようです。彼は、元々は艦上爆撃機の搭乗員で戦闘機での空戦は不慣れでした。その上、フィリピンには来たばかりで、周囲とも馴染んでいなかったといいます。幹部たちにしてみれば、これまで一緒に戦ってきた戦友より、見知らぬ男の方が命令しやすかったのでしょう。
指名された関大尉は、悶々とした不満を抱えながら、出撃を待っていました。西澤が、関大尉に挨拶に行ったとき、関は、「なんだ、その態度は!?」と怒りだし、何発も西澤をなぐったそうです。西澤は兵曹長で、相手は大尉ですから、階級差は如何ともし難いものがありました。しかし、西澤も準士官であり、歴戦の搭乗員でしたから、そんな理不尽な暴力を受ける謂われはありません。しかし、西澤は、関の心を忖度して大人しく殴られていたそうです。関も自分の行いが理不尽だと言うことは百も承知していて、それでも、気持ちの収まりがつかず西澤を殴ったのでしょう。それを西澤の部下たちが見ていました。部下の飛行兵たちは、「この野郎、うちの隊長になにしやがる!?」と怒り、報復しようとしたのを西澤が止めました。西澤には、関の気持ちが痛いほどわかっていたのです。そして、敷島隊は、出撃して行きました。当然、その護衛には西澤小隊がつきました。西澤は、敷島隊の突撃を見届けると、すぐに基地にとって返し報告をしました。関大尉たちは、敵部隊の上空に達するや否や、躊躇うことなく各々の判断で、敵空母に向けて突っ込んで行きました。そして、正確に敵の航空母艦に突入したのです。だれもが、二十歳そこそこの若いパイロットたちでした。
報告を済ませ、護衛任務を終えた西澤たちが原隊に帰ろうとすると、飛行長の中島少佐が西澤に声をかけます。中島少佐は、西澤が台南航空隊時代の飛行長でした。それは、「おい、西澤。悪いが、お前たちの飛行機を置いて行ってくれ…。特攻機が足らんのだ…」というものでした。もちろん、所属が違うので断ることもできましたが、西澤は「わかりました…」そう言って、自分たちの零戦を置いて、輸送機に乗り込んだのです。おそらく、顔見知りで、元上司だった中島少佐の依頼に近い命令を断りにくかったのでしょう。中島少佐という男は、海軍一の「特攻推進者」として有名で、「若い搭乗員を次々と特攻に出してしまう…」と、搭乗員たちから怖れられ、嫌われていました。なぜそうなったかは、わかりませんが、おそらく「特攻に魅入られて」しまったのでしょう。戦後もしぶとく生き残り、航空自衛隊などで働きました。しかし、元搭乗員たちからは「蛇蝎の如く」嫌われ、戦友会には顔を出せなかったそうです。このときも、西澤の零戦を取り上げなければ、西澤が輸送機などで、無惨な死を遂げることはありませんでした。西澤に零戦さえ預けておけば、特攻隊の何倍もの働きをしてくれたはずです。そんなことさえわからなくなった中島の頭は、「特攻さえあれば、日本は勝てる」と本気で信じていたのでしょう。
輸送機に乗り込んだ西澤たちでしたが、後間もなく、自分たちの基地だというところで、アメリカ軍戦闘機に発見され、銃撃を受けました。西澤は、「しまった。俺だけでも零戦で帰るんだった…」と後悔したはずです。輸送機は、敵機の銃弾を浴びて穴だらけにされ、西澤も機上で戦死したのでしょう。静かに煙を吐きながら海上に墜ちていきました。彼の死は、全軍に布告され「二階級特進」の栄誉を受け、「海軍中尉」となりました。しかし、日本海軍は、西澤という「宝」をみすみす敵に与えてしまったのです。「価値を知らない」というか、本気で戦争に勝とうとしているのかさえわからない判断力の鈍さが、海軍にはあったのです。ものの順序や優劣も付けることができず、目先の利益を追い求めるあまり、チャンスを掴むことができない日本海軍は、その後も失敗続きでした。それは、組織の問題と言うより、日本人の体質なのかも知れません。「西澤広義」の名は、敵国アメリカでも有名となり、今でもアメリカの戦争博物館には、「日本の撃墜王」として紹介されているそうです。
2 海軍上等飛行兵曹 坂井三郎(さかい さぶろう) 最終階級 「海軍中尉」
坂井三郎は、戦後の著書「坂井三郎空戦記録」で世に知られるようになりました。この著書は、後に「大空のサムライ」と改題され、世界中で翻訳されて読まれました。私も子供のころに学校図書館にあった「大空のサムライ」を読んで、強く感動した一人です。坂井は、中学校を退学して海軍に志願兵として入隊し、やはり、「操縦練習生」に応募して戦闘機パイロットになった一人です。西澤よりも少し年上で、ラバウルの台南航空隊では「先任搭乗員」として活躍しました。坂井が負傷で本土に帰った後の先任搭乗員が西沢広義です。「先任搭乗員」というのは、下士官兵の中の最古参の兵隊が就く役職で、下士官兵のリーダーという扱いです。但し、戦闘機乗りは、元々優秀な上に「操縦」という難度の高い技術を身に付けていましたので、だれもがプライドが高いのです。たとえ、自分より位の高い上官であっても、操縦技術の未熟な者は「じゃく(若・弱)」と呼んで憚りませんでした。したがって、坂井も西澤も操縦技術においては、抜群の腕を持っていた搭乗員だったのです。坂井は、中国戦線で戦った後、大東亜戦争開始時のフィリピン攻略に空から参加しています。そして、続いて ニューギニアの「ラバウル」に台南航空隊の一員として派遣されました。この「ラバウル」は、ニューギニアの南に位置し、オーストラリアとアメリカの交通を遮断するために基地が造られ、対米戦争の天王山と呼ばれました。
そして、日本軍が、前線基地である「ガダルカナル島」に飛行場を建設したところから、日米の争奪戦が開始されたのです。もし、日本がラバウルとガダルカナルに航空基地を完成させ、オーストラリアが常に攻撃範囲に入ってしまうと、アメリカは、オーストラリアとの交通が遮断され、連携した戦いができなくなるのです。そして、オーストラリアが日本軍の手によって降伏でもすれば、アメリカは、南太平洋の大きな拠点を失うことになります。そこで、それを阻止するために「ガダルカナル島」の争奪戦が始まりました。しかし、ラバウルからガダルカナルは遠く、約1000㎞もありました。距離で言えば、東京から九州南端にまで届く距離です。片道3時間半、往復7時間。その上、ガダルカナル上空には、アメリカ海軍の戦闘機が島の防衛を担って飛んでいました。当然、日本軍機が飛来すれば、そこで戦闘になります。坂井たちは、爆撃機(一式陸上攻撃機)を護衛しての戦闘です。時間は、せいぜい15分。それ以上は、さすがの零戦でも帰りの燃料が保ちません。そんな過酷な戦いは、映画「永遠の0」でも描かれていました。主人公の「宮部久蔵一飛曹」が言います。「無理だ。こんなに長い距離を飛んで戦い、還って来るのは無理だ!」と。実際、零戦の航続距離は長大でしたが、残念ながら、そこに「搭乗員」が操縦していることは念頭にありませんでした。人間は、休まなければ戦えないのです。
坂井がガダルカナルで負傷したのは、作戦の初日でした。やはり、長距離飛行が坂井の勘を狂わせていたのかも知れません。坂井は日頃から下士官兵の搭乗員に「いいか、見張りを大事にしろ!」「先に敵を見つけた方が勝ちだ!」と教えていました。当時、坂井の眼は「2.5」で、真昼の星までも見つけることができました。それは、彼自身の不断の努力の賜物だったのです。先の西澤も坂井も、零戦の性能にそれほど依存はしていませんでした。いくら、旋回性能が優れていても、格闘戦はリスクがあります。乱戦に巻き込まれれば、敵の動きの予測ができません。どこから銃弾が飛んでくるかもわからない戦闘は、できるだけしないのが鉄則だったのです。彼らは、常に敵を先に発見し、敵の死角から攻撃するのを得意としていました。そのための「視力」なのです。しかし、この日ばかりは、坂井にも隙ができたようです。ガダルカナル上空での空戦が終わり、「さあ、引き揚げるか…」と思った矢先、敵機の編隊を見つけたのです。それは、遠目には戦闘機の編隊に見えました。「よし、もう一丁!」とばかりに、坂井は敵編隊に近づいて行きました。普段なら、よく敵機を見極めてから動く坂井が、何故か、この日ばかりは猪突猛進してしまったのです。敵はこちらに気づいている様子はありません。「よし、これはチャンスだ!」と、機銃の発射把柄を握ろうとしたその瞬間です。なんと、敵の編隊は後部銃座を持つ「艦上爆撃機」だったのです。
戦闘機と違い、二人乗りの爆撃機は空中戦こそできませんが、編隊を密にして後部にある13粍機銃で応戦するのを常としていました。一機対一機では、戦闘機には敵いません。しかし、機銃の集中攻撃であれば、敵機を怯ませることができます。そう考えた敵編隊の隊長は、編隊を組み直させ、坂井機が向かって来るのを待ち構えていたのです。坂井が「しまった…!」と気づいたときには、時既に遅し、敵の機銃弾は坂井の零戦の各所に当たりました。坂井機は、風防を破壊され、機体には多くの銃弾が命中しました。自分の頭にも銃弾が掠め、肉を抉り取ったと本人が記録しています。普通であれば、ここで「坂井三郎」というパイロットは戦死することになります。ところが、強運の持ち主だった坂井は、エンジンに被弾していないことに気づきました。「エンジンさえ、無事なら、何とかラバウルまで還れるかも…?」と考えたのです。この場面は、「大空のサムライ」に登場してきますが、人間が死力を尽くして生き延びようとする壮烈な姿が描かれ、子供心に体が震えたことを覚えています。きっと、世界中の読者も、この場面があるからこそ、「大空のサムライ」は大ヒットしたのだと思います。そして、坂井は、頭部と眼をやられ、顔面は血だらけです。頭が朦朧とする中で必死に耐え、たった一人で航空図を頼りにラバウルまでの1000㎞を飛行するのです。健康な状態でも疲れる7時間の飛行を、「零戦」という優れた飛行機と不屈の闘志のお陰で成し遂げました。
坂井が、ラバウル基地に降り立ち、基地の仲間たちに囲まれる写真が残されていますが、飛行帽をきつく締め、血で汚れた白いマフラーを首に巻き、顔は赤く腫れ上がり、朦朧としている坂井が写っています。本人は「大丈夫だ。司令に報告をする…」と言っていたそうです。普通なら、燃料がなくなり、海に墜落していてもおかしくない夕暮れに、たった一機で帰還してきた坂井三郎という男の執念は、私たちも見習うべきものがあります。彼は、日頃から「燃料の消費」について研究を続けており、効率よく飛行する術を身に付けていたと言います。また、小まめに記録をする癖があり、自分が飛んだ航路を航空図に細かくチェックし、一人でも基地に帰れるよう準備を怠りませんでした。海軍のパイロットは、海上を飛行するため、たとえ大海原に一人取り残されても、方角を知る手立てを講じていたそうです。今の時代のように、レーダーもない時代です。無線も不具合で、コンピュータで位置を知ることもできません。そんな時代でも、人間の知恵と努力次第で「為せば成る」ことを坂井の物語は教えてくれています。
結局、坂井は日本に送還されることになりました。そして、別れ際に、上官であり、教え子でもあった中隊長の「笹井醇一中尉」から「虎の彫り物」のあるバックルをもらいました。笹井中尉は坂井に「虎は、千里を行って千里を還るという。坂井、きっと帰って来いよ…」と言って渡したのです。しかし、その笹井中尉も、しばらく戦った後、やはりラバウルの空に散りました。坂井という相棒がいたことで戦えた空の勇者も、連日の戦闘で疲弊し大空に消えて行きました。やはり、ガダルカナルは遠すぎました。もし、海軍の首脳陣が「人命を重視する」人たちだったら、間違いなく「7時間も飛んで還って来る」などという無謀な作戦は立てなかったでしょう。当然、ラバウルとガダルカナルの中間点に基地を造り、パイロットたちを大事にした作戦を考えたはずです。「人を大事にする」という思考は、それだけ「戦力を保持する」ということなのですが、日本人は、人命を軽視し、急激な戦力低下を招いても、その原因を追究する姿勢に欠けていました。昔から、「根性論」が盛んに言われましたが、指導力のない人間ほど「根性論」を振りかざし、勢いだけで戦おうとします。しかし、冷静に考えれば、「合理的」な思考がなければ、長期的な戦いに勝利することはできません。よく、アメリカと日本の野球を比較しますが、たとえば、10試合程度の短期決戦ならば、根性論で「6対4」で勝利できるかも知れませんが、これが、100試合になれば、おそらく8割はアメリカが勝つでしょう。「短期決戦思考」で、戦争を始めた日本軍の敗北は最初から見えていたのです。
日本に帰還して手術を受けた坂井でしたが、傷ついた眼の視力は戻らず、昔のような操縦はできなくなっていました。それでも、戦うことを諦めない坂井は、「硫黄島での戦い」にも参加します。しかし、やはり、敵の発見が遅れ、十分な戦いはできませんでした。その後、「本土防空戦」にも参加しますが、周囲の若い搭乗員からは煙たがれ、上司からも疎まれたようです。それは、坂井の苛立ちもあったようですが、あまりに直裁的な言動が、周囲が坂井を遠ざけた原因だと言われています。「そんなんじゃ、すぐに敵に墜とされちまうぞ!」とか、「こんな戦力で戦うつもりですか?」といった言動は、確かに、現状を指摘した言葉ですが、そんなことは百も承知の上で「やるしかない」現実の前で、坂井の言葉は、あまりにも辛辣過ぎたのです。結局、坂井は、その力を十分に発揮できないまま終戦を迎えました。その間には、ラバウルで戦った多くの仲間が死に、坂井自身が居場所を失っていたのかも知れません。そして、戦後書いたのが「坂井三郎空戦記録」でした。彼は、非常に細かい性格で「メモ魔」と呼ばれるくらい記録を大事にしていました。そんな「記録」と「記憶」を頼りにペンを走らせたのでしょう。それが、まさか世界中でベストセラーになるとは、本人も思いよらぬことでした。
しかし、そのことが、また、多くの仲間の反感を買うことになります。アメリカなどでは、坂井は、「日本のトップエース」として話題になり、来日したアメリカの軍人は、坂井に会いたがったそうです。今でいう「スター選手」のようなものでしょう。坂井としては、心ならずもそうした待遇に驚いたと思いますが、自分の話を聞いてくれる存在は嬉しいものです。国内でも「大空のサムライ」は、有名になり、坂井はテレビや雑誌などに取り上げられるようになりました。映画も製作され、有名なアクション俳優が坂井を演じたことで、「坂井三郎」の名前は、零戦パイロットの象徴になっていったのです。しかし、テレビや映画などは、多くの脚色がつきものです。「大空のサムライ」も、各所に坂井の記憶違いや脚色がありました。それはそうでしょう。これは、飽くまで坂井自身の記録と記憶を元に書いたものであり、最初から世に出すつもりなどなかったのですから…。そんな言い訳はできたでしょうが、有名人が非難されるのは昔も今も同じです。
零戦パイロットの仲間たちからも疎まれ、坂井の名前を利用した「ネズミ講」のような詐欺紛いの商売にも利用されたといいます。しかし、坂井はそれでもテレビや雑誌などの取材を受け、堂々と「自らの戦争論」を語り続けました。あるテレビの討論番組では、左翼的な評論家たちが、自分の「戦争論」を蕩々と述べていると、坂井がひと言「やったもんにしかわからんよ…」と言っただけで、だれもが口を閉ざしてしまいました。それくらい実戦経験は大きいのです。いくら、偉そうな学者や評論家がくちばしを黄色くして騒いでも、実弾の中を潜り抜けた実績は、人間の器の違いを見せつけました。やはり、あの「大空のサムライの坂井三郎」の名は大きかったと言うことです。坂井は晩年まで、アメリカ軍の軍人との交流を絶やしませんでした。仲間内からは非難されたこともありましたが、日本のパイロットがどんな気持ちで戦い、大空に散っていったかを知らしめるためには、やはり、実体験に基づいたノンフィクションは重要でした。「坂井三郎」の名は、これからも「大空のサムライ」と共に不朽のものになると思います。
3 海軍少尉 赤松貞明(あかまつ さだあき) 最終階級 「海軍中尉」
赤松貞明と言えば、自称「撃墜数350機」を誇る、日本の絶対的エースパイロットです。その操縦技術は、歴戦のパイロットの中でも群を抜いており、どんな戦闘機も彼にかかれば「名機」になってしまうような「巧みの技」を持っていました。そのひとつが、「ひねりこみ」という高等技術でしょう。この操縦はもちろん「教本」には載っていない特殊技術でした。戦闘機パイロットの中でも、かなり経験を積んだ熟練搭乗員しかできない技で、非常に難しかったと言われています。私も解説はできませんが、敵機が後ろに食いついた時、機体を横滑りさせながら、主翼の先端を中心に円を描くようにして旋回するのだそうです。そうすると、一時期「失速状態」になりますが、大きな楕円形を描くことなく、最少の小回りで旋回するため、後ろにいた敵機が前につんのめり、そのまま敵機の後ろに食いついて射撃をするというものだそうです。赤松は、これを重い局地戦闘機「雷電」でもできたといいますから、その操縦技術は「神の領域」に近いものだったといえます。
赤松は、かなり早い「操縦練習生」出身者で、日中戦争の初期から大陸で活躍しました。そして、自分の身に銃弾を受けたことはなく、機体もほぼ無傷で還ってきたと言われています。彼は、格闘技にも優れ、柔道・剣道・合気道・銃剣道等の有段者で、無類の酒好きでした。品行方正と言うわけにはいかず、かなりの武勇伝を残した人物ですが、自分の思ったことはすぐに口に出すため、周囲からは煙たがれる存在でした。その点は、坂井三郎によく似ています。戦場を駆け巡った人間でしたから、戦争というものの本質をよく見抜いていたということでしょう。いくら、頭の良い兵学校出や大学出が細かい作戦を立てても、赤松にかかれば、「くだらねえ…」でお終いです。そんな机上の計画など、実戦では意味がないと言いたかったのだと思います。ただ、赤松を庇護する上官がいました。それが、「海軍302航空隊」の「小園安名大佐」です。小園も名物司令と言われた男で、終戦間際の本土防空戦で「厚木基地」を拠点にB29の迎撃に大きな戦果を挙げました。その隊員の中に赤松はいました。そして、赤松は零戦ではなく、自ら局地戦闘機「雷電」に乗り、大活躍をするのです。
「雷電」という戦闘機は、零戦を設計した三菱航空機の「堀越二郎技師」が、これまでの戦闘機の概念を覆した野心作でした。零戦が1000馬力級に対して雷電は、爆撃機用の1500馬力のエンジンを装備していました。また、欧米の戦闘機並に旋回性能よりも高速で飛び、強力な武装(20粍4門)を施した「一撃離脱型」の戦闘機でした。ところが、エンジンが大きくなったために胴体が太くなり、視界が不良という問題が起きました。また、高速性能重視のために主翼が短く、安定感からすれば、零戦には遠く及ばなかったのです。それでも、加速の違いは歴然としており、最高速度も時速600㎞を超えました。但し、航続距離は短く、まさに「局地」的に使用する「迎撃機」だったのです。当初、零戦に乗り慣れた搭乗員の多くは、「雷電は、乗りにくい…」と不平を漏らし、積極的に乗ろうとする人はいなかったのです。雷電は、主翼が短く、その上スピードがありますので、着陸時の速度が抑えられず、脚を折る事故が多発しました。零戦になれている搭乗員たちは、この癖を修正できなかったのです。また、生産機数も少なく、配備されても整備が上手くいかず、基地に野ざらしにされているような有様でした。そこで、「よし、儂が乗りこなしてやるわ…」と操縦席に座ったのが赤松です。赤松は、最初の試運転で、この戦闘機の特性を見抜き、「よし、雷電は儂の愛機にするぞ!」と宣言して、早々に乗りこなしました。そして、実際、B29による空襲が始まると、赤松は、高速を生かした「一撃離脱方式」で、次々と敵機を撃墜していったのです。
たとえ、敵機が戦闘機であっても、雷電の高速を生かした攻撃で戦果を挙げる赤松を見て、司令の小園大佐も自信を深めることになりました。しかし、戦局は益々悪化し、本土の都市のほとんどは、B29の爆撃によって焼け野原にされてしまいました。そんな赤松にも「終戦の日」はやってきました。赤松には、その日が間近であることはわかっていたようです。そして、終戦の報せを淡々とした気持ちで聞きました。しかし、収まらないのが「小園安名大佐」です。小園司令は、終戦の報せを聞くと、「陛下は騙されておられる。大日本帝国に敗戦はない!」「厚木だけでも、徹底抗戦を続けるのみ!」と宣言して、各地の基地に「戦争継続のビラ」を飛行機から配布し、同調する部隊を集め始めたのです。302航空隊には、高松宮殿下を初めとして多くの小園の上官がやって来て「矛を収めよ!」と厳命しましたが、小園やそれに同調する若い士官たちは、それぞれの飛行機で厚木基地を飛び立って行きました。まさに、終戦の日の「叛乱」です。しかし、赤松は、それには同調することなく、自分の仲間たちと共にトラックで基地を離れて行きました。やはり、「赤松がいれば何とかなる」と思われたくなかったのです。長く戦ってきた赤松には、最早、日本は限界が来ていることがわかっていました。それは、戦争を戦い抜いた「古武士」だけがわかる心境だったのかも知れません。
結局、小園司令は、その晩から熱病を発症し、無理矢理拘束されて海軍病院に送られてしまいました。そして、叛乱に加わった部下たちも、同調する部隊がなくなり、それぞれが各基地で投降しました。中には、奪った零戦で東京湾に突っ込んで自爆した若い士官もいました。そのころ、小園が同志と信頼していた海軍軍令部次長の「大西瀧治郎中将」が、次長官邸で割腹自殺を遂げていました。大西中将は、フィリピンで始まった「特攻作戦」を指揮した将軍でした。そして、その後も特攻作戦は続き、8月15日の終戦の日も特攻機は飛び立って行ったのです。大西は、そんな「特攻隊員と遺族」に対して「謝罪」し、一人静かに腹を斬りました。それを聞いた小園たちは、「最早、これまで…」と諦めたのだと思います。そして、小園や叛乱に加わった士官たちは、軍法会議にかけられ、禁固刑に処せられました。小園が恩赦で刑務所を出たのは、それから10年も経過した後のことでした。赤松は、それでも、「空を飛ぶ」ことは諦めず、仲間と共にアメリカの軽飛行機を購入して、飛行機を必要とする仕事に就きました。あるときなどは、大雨をついて離陸し、人命救助に貢献したこともあったそうです。やはり、「飛行機」からは離れられない人生でした。
4 海軍大尉 菅野 直(かんの なおし) 最終階級 「海軍中佐」
海軍士官の中で「名パイロット」を一人挙げるとすれば、やはり、343航空隊の「菅野直大尉」ではないかと思います。菅野大尉は、兵学校70期の卒業ですから、決してベテランパイロットではありません。しかし、彼の類い希な闘志と指揮官としての能力は、抜群だったと思います。この「343航空隊」は、本拠地を四国の松山に置き、広島や呉の軍事拠点を防衛するために作られた航空隊です。司令は、真珠湾攻撃からミッドウェイ、そして、南太平洋海戦まで機動部隊の参謀、そして飛行長を務めた「源田実大佐」です。源田大佐は、生粋の「飛行機乗り」で、戦前は、横須賀航空隊のベテランパイロットを率いて全国を飛び回り、「飛行機」を国民に知らしめました。彼のチームは「源田サーカス」と呼ばれ、編隊でのアクロバット飛行を見せて、国民を熱狂させました。まさに、今の「ブルーインパルス」です。そして、日本の機動部隊の航空参謀、空母瑞鶴の飛行長を歴任し、海軍軍令部参謀として「特攻作戦」を推進しました。良くも悪くも「大東亜戦争の中心人物」なのです。そんな源田が、起死回生を狙って作ったのが「343航空隊」でした。この部隊は、新鋭機「紫電改」を擁し、2000馬力エンジンと20粍機関砲4門を持った新型戦闘機で、来襲する敵戦闘機を駆逐しようと企てたのです。
そこには、戦地から優秀な指揮官が集められました。特に戦闘機部隊では、菅野の他に「鴛淵孝大尉」「林喜重大尉」を召集し、部下のパイロットにもベテランを配置しました。新鋭機「紫電改」という戦闘機は、「川西航空機」が製作した機体で、今までの日本軍機にはない「2000馬力エンジン」を搭載したことが特長です。このエンジンは「誉」と呼ばれ、中島航空機が製作した高出力エンジンでした。しかし、その整備は非常に難しく、国内の設備が整った基地でしか使用できないため、紫電改も「局地戦闘機」として生まれたのです。その点、零戦の1000馬力「栄エンジン」は、故障が少なく、南国や火山灰の降るラバウルでも十分稼動しました。実際、ラバウルなどでは、壊れた零戦の部品を組み合わせて、新しい機体を作り上げたといいますから、余程、エンジンに信頼があったのでしょう。しかし、1000馬力では、時速500㎞が最大速力で、アメリカ軍機が、やはり2000馬力以上のエンジンを積むようになると、時速600㎞以上が求められたのです。そういう意味では、紫電改は、アメリカ軍機に匹敵する名機と言うことができます。
菅野は、この紫電改を駆使して「B29」への独特の攻撃方法を編み出しました。それが、「逆落とし戦法」です。これは、紫電改の上昇速度を利用してB29編隊の上位に位置するや否や、そのまま機体を反転する形で「背面急降下」に入れます。そのとき、もの凄いG(圧力)を体全体で受けながら90度に近い角度でB29の操縦席目がけて「20粍弾」を撃ち続けるのです。急角度のついた弾丸は、威力を増して敵機の操縦席付近に炸裂するという寸法です。操縦席に飛び込んだ弾丸は、操縦席も人もすべて破壊し尽くし、コントロールを失った機体は、そのまま墜落していくのです。もし、今、これを再現するとすれば、ジョットコースターが背面で急降下滑走することを想像してみてください。おそらく、髪は逆立ち、血液は逆流し、前を見ていることはできないと思います。しかし、菅野は、これを実行し、機体をコントロールして離脱したのです。これができるのは、余程の体力と気力、そして胆力を持つ者だけしかいないはずです。菅野は、この戦法を駆使して撃墜数を増やしていきました。普段はお茶目で元気な隊長でしたが、実戦となると「鬼」のような働きをしたそうです。
菅野には、ひとつ大きなエピソードがありました。彼は、本当は「特攻第一号」として指名される男だったのです。これは、運命のいたずらとしか思えませんが、フィリピンでの戦いの中で、菅野の敢闘精神は有名になりました。普段は物静かな好青年でしたが、一旦操縦桿を握ると、無茶と思われるような操作をして、ベテラン搭乗員をも唸らせました。それに、飛行学生時代から練習機を壊す有名人で、「デストロイヤー」のあだ名までもらっていたのです。飛行機の操縦は、少しのミスで命さえ失いかねない難しいものです。それを、練習生段階ですら何機も壊すということは、どれだけ荒い操縦をしているかがわかります。菅野にしてみれば、「教本どおりの操縦では、敵に見抜かれてやられてしまう…」という理屈があったのです。それ故に、空に上がれば、どんな動きでも試してみたかったのです。そして、完成したのが「逆落とし戦法」でした。フィリピン戦線でもそうした操縦で敵機を撃ち落とすと、だれもが「ありゃあ、すごい奴が来たもんだ…」と驚きました。だからこそ、大西中将が「特攻」の話を持ち出したとき、基地の幹部たちはだれもが「菅野直」の名が浮かんだのです。ところが、そのとき、菅野は別命を受けて、日本に新しい機体を受け取りに行って留守にしていました。そこで、やむなく使命したのが菅野の兵学校同期の「関行男大尉」だったのです。
菅野がフィリピンに戻ってきたときには、既に特攻は始まっており、関は「特攻隊長」に決まっていました。菅野はそのことを終生悔やんでいたといいます。やはり、赴任してきたばかりで、新婚だった関を行かせてしまったことを自分事のように悔しかったのでしょう。それに、菅野の性格では、特攻作戦には反対だったはずです。「行くしかない」となれば、自分が行くつもりはあっても、人間の命を軽んじるような作戦を認めたくなかったはずです。こういう菅野ですから、フィリピンでの作戦でも、上官たちとはかなり激しく議論しました。最前線で戦う指揮官として「納得できない戦い」はしたくなかったのです。あるときなどは、参謀の理不尽な命令に耐えきれず、持っていた拳銃を「暴発」させたという事件も起こしました。もちろん、相手には向けてはいませんが、拳銃の引き金に手をかけたことは事実です。しかし、フィリピンでは、次々と指揮官が戦死していく中で、猛将の菅野を軍法会議にかけることなどできるはずもありませんでした。そんな男を「面白い…」と拾ったのが、源田実大佐です。源田は、軍令部参謀として特攻作戦の推進者でしたが、やはり、生粋の「戦闘機乗り」でもあったのです。新鋭機「紫電改」の話を聞いた源田は、「敵と対等以上に戦える部隊を作る」と言って、「343航空隊」の司令となり、本土防空戦の指揮を執るのです。
最初のうちは、紫電改部隊は大活躍をします。敵の戦闘機である「グラマンF6Fヘルキャット」も紫電改の前には苦戦を強いられました。対戦闘機戦だけでなく、対爆撃機戦にも使える紫電改は、まさに、日本が誇る「万能機」でしたが、生産機数が少なく、全国の部隊に配置することはできませんでした。東京は「小園安名大佐」の「302航空隊」が「雷電」や「月光」を駆使して戦っていましたが、やはり主力は「零戦」なのです。もし、後一年早く紫電改が各部隊に配備されていれば、フィリピンの戦局も変わっていたかも知れません。しかし、アメリカは、既に最新鋭の「P51ムスタング」戦闘機が配備され、紫電改を上回る攻撃力を有していました。他にも高出力の「サンダーボルト」や「F7Fベアキャット」など、アメリカは、その国力を生かして次々と高性能の兵器を開発して戦場に投入していったのです。そのころになると、優秀な搭乗員を集めた「343航空隊」も、多くのパイロットが大空に散っていました。「林大尉」も「鴛淵大尉」もいません。その中で菅野は一人生き残っていましたが、二番機として菅野を守っていたベテランの「杉田庄一上飛曹」も戦死しており、紫電改も可動機を大幅に減らしていました。そして、終戦間際の8月1日、菅野にも最期の時がやって来ました。
「敵機来襲、多数!」の連絡を受けて飛び立った菅野たちでしたが、たちまち乱戦になりました。それでも、少ない機数で立ち向かって行った紫電改部隊でしたが、もう、編隊での空戦にはなりません。それぞれが、単独で戦う他はない状態になりました。菅野についていた部下が、菅野機を見ると、主翼から煙を出している隊長機を見つけます。なんと、菅野機は、機銃の「筒内爆発」を起こし、退避しているところでした。「筒内爆発」とは、20粍機銃内で弾詰まりを起こし、爆発する現象です。あまり多くない事故ですが、最悪なことに、それが菅野の戦闘中に起きてしまいました。主翼がめくれ、もう、急激な操縦はできません。そのとき、一本の無線が入りました。「こちら、菅野一番、菅野一番…。空戦を終了して集合せよ!」。部下たちは、その無線を聴くと、すぐに隊長機がいると思われる空域に集まりました。しかし、何処を見ても隊長機は見つかりませんでした。そして、それが菅野の最期となったのです。この2週間後、日本は戦争に敗れました。「ブルドック隊長」とか、「デストロイヤー」と呼ばれ、不死身の隊長として知られた「菅野直」は、こうして仲間の前から忽然と姿を消したのです。結局、菅野の戦死は、「敵機の奇襲攻撃に遭った…」ものや、「自爆…」が考えられましたが、それは、今も謎です。
5 海軍飛行兵曹長 岩本徹三(いわもと てつぞう) 最終階級 「海軍少尉」
「零戦虎徹」という文字を飛行服の背中に大きく書いた「岩本徹三」こそ、日本海軍航空隊を代表する名パイロットでした。小説「永遠の0」の主人公である「宮部久蔵」を思い出させる人物です。岩本は、昭和初期からのパイロットで、志願兵として海軍に入り、最初は「整備兵」になりました。しかし、そこからまた志願して、赤松貞明のように「操縦練習生」に採用されました。日中戦争時からのパイロットで、中国大陸では赤松の後輩として出陣しています。彼は、操縦技術だけでなく、射撃の腕もよく、初陣で敵機を墜としたという実績を残しています。日米開戦時には、既にベテランパイロットで、真珠湾攻撃にも参加しています。開戦直後は、空母「瑞鶴」の搭乗員で、主に「上空直衛」の任務に就くことが多く、敵機の来襲時には、敵の雷撃機などを多数撃墜しています。真珠湾の後は、「珊瑚海海戦」まで「瑞鶴」乗り組で、日本に帰国後しばらくして、西澤や坂井たちが戦った「ラバウル」に派遣されました。岩本が、零戦パイロットとして優秀だったのは、操縦技術もありますが、やはり、「整備兵出身」ということも大きかったと思います。搭乗員の中には、一生懸命働く整備兵に対して労いのつもりで、整備してくれた機体に何も言わずに乗り込む人も多かったようですが、岩本は、整備兵上がりだったこともあり、少しの違和感も見逃しませんでした。「ちょっと、普段より震動が大きいな…」とか、「エンジンの油漏れが多かった…」などと、気になることを整備兵に直言していたのです。
また、口で言うだけでなく、自分も整備兵と一緒に愛機を整備したともいわれています。若い整備兵の中には、「岩本兵曹は、細かくて嫌になりますよ…」と、愚痴を溢す人もいたようですが、機体が万全でなければ、命を預けることはできません。映画「永遠の0」でも、最終章で、主人公「宮部久蔵」が特攻に出るとき、新型「零戦52型」に異常を感じ、頼んで旧式の「21型」に乗り換える場面が描かれていますが、少しの「違和感」を大事にするパイロットだったからこそ、ずっと最前線で戦い続け、終戦を無傷で迎えることができたのです。また、岩本は、敵機を先に見つけるために、あらゆる努力をしています。本人は、それを「勘」だと言っていますが、敵が来るであろう方向を予測し、空や雲の状態を見、高度を計算して「見張り」を厳重にしていたのです。さらには、敵機の無電(短波)を傍受して、その音の大きさや雑音で、おおよその数を予測したりしていました。これは、坂井三郎や西澤広義にもない行動です。確かに、ベテラン搭乗員ともなると、これまでの実戦経験から、様々な予測ができるのだろうと思いますが、「敵の無電」にまで注視していたとは驚きです。
岩本は、体も小さく細身で、普段は優しい男だったようです。但し、なかなかの頑固者で、たとえ上官であっても、「おかしいことはおかしい」と言ってしまう性格で、下からは尊敬されても、上からは疎まれていたようです。フィリピンで戦っていたときに「特攻作戦」が始まりましたが、彼は絶対に志願せず、「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き落としていくのが任務じゃないか。一度きりの体当たりで死んでたまるか。俺は否だ!」と広言して憚りませんでした。上層部にしてみても、そんな岩本は煙たい存在でしたが、彼の実績は抜群で、「金鵄勲章」ももらっている人間でしたから、闇雲に命令を下すこともできなかったのです。岩本の戦術は、とにかく「一撃離脱戦法」で、なるべく早く敵機を発見すると、高い位置から高速を利用して敵の油断を突くという戦い方でした。それが、時には「卑怯だ!」と思う搭乗員もいたそうですが、彼にしてみれば、「一機でも敵を墜とすことが目的なんだから、弱い敵を墜として何が悪い!」と言い、時には「空戦が終わるのを待って、疲れた敵を後ろから狙って墜とすことも厭わない」と言っていたそうです。その言葉に、あの西澤も何も言えなかったという記録があります。西澤にしてみれば、「俺たちが戦った後、あいつが旨いところを奪って行く…」ような気がしたのでしょう。しかし、それも戦争だと考えれば、岩本を非難することはできなかったのです。
西澤は、特攻隊の掩護をした後に、上官から零戦を置いて行くように命令され、輸送機に乗って戦死しました。もし、岩本であれば、「私は戦闘機乗りです。もし、どうしても置いて行けと仰るのなら、うちの司令の許可を取ってください!」と言ったはずです。たとえ、位が上であっても所属が違えば、それなりの手続きが必要なのです。人のいい西澤は、情のために死んだようなものだったのです。しかし、物事を合理的に考える岩本は、「生きて戦ってこその戦闘機乗りだ!」という信念は生涯変えることはありませんでした。彼が後に「零戦虎徹」と大書した飛行服を着ていたのは、そうした意地と誇りがあったからです。また、早くからパイロットになった岩本にしてみれば、学校を出たからと言って威張っている上官たちに持つ「反感」があったはずです。坂井三郎も、偉そうに「机の上で計画を立てる」参謀たちに、心の底から怒っていました。これは、今の社会でもあることですが、現場の苦労も知らず、能書きだけ垂れている上司が嫌われる典型です。あの「特攻」も、本気で搭乗員にすまないと思いながら、命令を下した人は何人いたでしょう。元軍令部の参謀だったある司令官は、終戦直後、部下の心配をよそに「俺は、死ぬ係じゃないから…」と嘯いていた話を聞いたことがあります。その部下は、「軍令部で特攻を推進した人が、死ぬ係じゃない…とは…」と呆れたという話です。その責任を取って一人腹を斬ったのは「大西瀧治郎中将」だけでした。後は、みんな「死ぬ係じゃない人」だったということです。
岩本は、海軍の特殊兵器の中では成功しなかった「三号爆弾」を使いこなした唯一のパイロットで、この兵器を駆使して、アメリカ軍の爆撃機の多数を撃墜しています。「三号爆弾」というのは、いわゆる「クラスター爆弾」で、元々は、アメリカ軍の航空基地などの攻撃用に製造されました。しかし、地上用には、通常爆弾の方が使い易いということで、「対空用」として使用されたのです。日本軍は、アメリカ軍のような「近接信管」を製造することができず、「時限信管」で対応するしかありませんでした。アメリカの開発した「近接信管」は、別名「マジックヒューズ」と呼ばれ、アメリカ海軍の艦艇に装備され、日本軍機が来襲した際、防禦のために撃ち出す砲弾に装備されました。つまり、「砲弾が通過する近くに金属が探知されると爆発する」という信管です。このために、日本軍機は、砲弾が命中しなくても、攻撃中に次々と被弾したために、その攻撃力は著しく減衰されました。「時限信管」は、たとえば、爆弾を投下後「〇〇時間後に爆発」するという兵器です。普通に言えば「時限爆弾」になります。これだと、そこに敵がいなければ爆発しても効果は薄く、効果的な信管とは言えませんでした。但し、爆撃機などでは、この「時限信管付爆弾」を使用し、敵の艦船に爆弾が命中して数秒後に爆発するよう仕掛けられていました。そのため、表面ではなく、深い部分で爆発するため、被害が大きくなるのです。
「三号爆弾」は、この「時限信管付クラスター爆弾」で、主に敵爆撃機編隊の上空から落とし、花火のように爆弾が破裂して敵機を墜とそうとする兵器でした。しかし、かなりの速度で飛んでいる飛行機から爆弾を投下しても、自分の目標とした場所に着弾させるには、余程の経験と計算が必要です。日本の「艦上爆撃機」が、敵の艦船に爆弾を命中させる高度は「450m」だったと言われていますが、この高さは、急降下した機体を引き上げる「ぎりぎりの高度」だと言われています。これ以上低くなると、飛行機は海面に激突してしまうのです。つまり、高度が高ければ、いくら爆弾を目標に向かって投下しても、当たる確率は非常に低くなるということです。おそらく、1000mもの高度では、大きな艦船も「海に浮かぶ小さな落ち葉」くらいにしか見えないはずです。それでも、「急降下爆撃」ですから、「線と面」で考えることができますが、「三号爆弾」は、「面と面」ですから、当たる確率は限りなく小さくなるのです。それを予測して当てるには、高度だけでなく、「速度計算」や「爆発時間計算」も必要になり、実際、扱ったパイロットたちからは不評でした。それを、かなりの確率で敵機を撃墜したと言うのですから、岩本は只者ではありません。
終戦後、岩本は生まれた北海道に帰り、結婚もしました。しかし、飛行機とは違う仕事に就きました。本当は、飛行機に乗りたかったのかも知れません。しかし、その体は、自分が思っていた以上にボロボロになっていました。長年、戦場で戦ってきた人間の体が健康でいられるはずがありません。結局は、何度も手術を繰り返し、戦時中の面影はありませんでした。それでも、正義感は強く、近所で結核の病人が出たとき、親身になって看病をしたのは、岩本だったそうです。戦場で多くの仲間の死を見てきた岩本には、病で死ぬ人間を放っておくことはできなかったのでしょう。戦場で実戦を経験した人は、戦後も多くを語りたがりません。それは、だれもが心に大きな傷を抱えているからです。それに、戦場は「非日常の空間」です。そこに長く身を置くと、平和な日常に慣れるのが難しいと言われています。戦後、闇市で「ヒロポン」という覚醒剤が流行しましたが、戦地から復員してきた元兵士にとって、心の負った傷を癒やすには「覚醒剤」くらいしかなかったのかも知れません。家族に言っても分かってもらえるわけでもなく、そんな病を治療してくれる病院もありません。だれもが「孤独」を抱えながら生きて行くしかなかったのです。岩本が、戦時中「零戦虎徹」と大書した飛行服を着ていたのは、そんな、「孤独な老剣士」の胸中だったのかも知れません。そして、岩本は、病に苦しみながら、三十代半ばで亡くなりました。まさに「虎徹の死」でした。
6海軍大尉 遠藤幸男(えんどう さちお) 最終階級 「海軍中佐」
「遠藤幸男」は、戦後有名になった「海軍飛行予科練習生」第一期の卒業生です。そして、予科練出身者で「中佐」にまで昇進した唯一の軍人です。最初の予科練は、「甲乙丙」の種別はなく、小学校卒業程度の学力で受験が可能でした。当時は、中学校への進学率は低く、小学校卒でも非常に優秀な少年がたくさんいました。このころの日本は、農家が多く、遠藤も農家出身です。勉強がよくできたために農林学校に進学していますが、昭和初期のころですから、社会は不景気風に煽られ、自分の将来を考えたとき「軍人」での出世は、ひとつの選択肢でした。遠藤もそうした少年の一人として「予科練」を志願し、100倍以上と言われた難関を突破して航空兵の道を進み始めたのです。全国から選りすぐれた少年たちですから、だれもが賢く、中学校を出ていれば、間違いなく「海軍兵学校」に合格した者はたくさんいたはずです。そんな中で飛行機のパイロットとしての訓練を重ねて行きました。そして、遠藤は、最初は艦上攻撃機、そして偵察機の操縦員として経験を積んでいったのです。
遠藤幸男といえば、やはり、夜間戦闘機「月光」を駆使して、B17、B29の撃墜王としての功績を書かなければなりません。遠藤を見出したのは、「302航空隊司令」を務めた「小園安名大佐」です。戦後、小園の名は、源田実に比べて世に出ることはありませんでしたが、その功績は源田以上だったと思います。小園も大正から昭和初期の飛行機乗りで、遠藤の教官でもありました。歯に衣を着せぬ性格で、訓練中は「鬼の小園」でしたが、部下の面倒見はよく、訓練が終われば、何でも話せる「おやじ」の姿を見せました。そんな面身見のよさが小園が下級士官や下士官兵に人気があった理由でしょう。そして、小園は類い希なアイデアマンでもありました。その代表的な兵器が「斜銃」です。当時、海軍航空隊は、ラバウル方面に出現した「空の要塞B17」に手を焼いていました。日本では考えられないほどの大型爆撃機で、その防禦体制も完璧に近く、弱点があまり見つけられませんでした。何処から近づいても、備えられた複数の機銃によって撃退されてしまうのです。零戦で攻撃するのですが、20粍機銃弾が複数命中しない限り、撃墜は難しい爆撃機でした。
そこで小園大佐が考えついたのが、偵察機の背中「斜め30度」に20粍機銃を2門装備するというものでした。海軍ではこれを「斜銃」として正式に兵器として認めています。しかし、当初、小園が、これを軍令部に持ち込みましたが、参謀たちは「そんな兵器じゃ、当たるわけがない…」と、だれも本気で取り合いませんでした。特攻兵器である「回天」や「桜花」は認めても、通常兵器である「斜銃」は認めないというのも、所詮は人間関係だったようです。小園は、兵学校出の正規将校ですが、成績は下位、そのくせ、飛行機の操縦は上手い。会えば、常に大声で相手に議論を吹きかけ、文句を言うような人間でしたから、たとえ先輩後輩でも「気にくわない男」なのです。特に源田実は、同じ飛行機乗りですから、余計、嫌いだったのでしょう。それでも、小園の実績は認めざるを得ませんでした。開戦と同時期に、ラバウルの台南航空隊副長として坂井や西澤など、名だたる名パイロットを擁して、一時はラバウルの空を支配していたのですから、実績十分です。ところが、源田は、ミッドウェイで大敗し、空母の飛行長に左遷されていました。その後、山本五十六の引きで軍令部に返り咲きますが、小園ほどの実績がありません。エリートを自負する源田としては、悔しくて仕方がないのです。方や正攻法の戦闘機部隊長、方や特攻推進派のエリート参謀では、まさに「水と油」です。そんな源田が小園の持ち込んだ「斜銃」など認めるはずもありませんでした。
しかし、小園は、遠藤たちと共に開発に成功し、双発偵察機の背中に斜銃を装備すると、ラバウルで次々とB17を墜とし始めたのです。そして、それを見た陸軍は、早速小園を訪ねて「斜銃」の説明を受け、「上向き砲」として正式に双発偵察機「屠龍」に装備しました。さすがに軍令部もこれを認めざるを得ず、海軍も「斜銃」として正式に認めました。「斜銃」は、敵爆撃機と同じ速度で飛行し、爆撃機の腹の下から「20粍弾」を撃ち続けるという兵器で、機体の下部には回転銃座がありますが、これを破壊されれば、最早、どうしようもありません。操縦席から見えない下方からの攻撃ですから、爆撃機としては、とにかく下を見張るしか方法がないのです。まして、夕方から夜間となり、忍者のように忍び込まれれば、どうすることもできませんでした。小園は、この斜銃を上にも下にも、脇にも付けるよう進言して「万能機」を目指しましたが、従来の戦闘機パイロットからは不評で、成功したのは、偵察機改良型の夜間戦闘機「月光」だけだったようです。陸軍の「屠龍」も同じように元は偵察機ですから、復座の偵察機が一番「斜銃」には適していたのでしょう。同じころ、ドイツでも斜銃の開発が行われていたそうですから、発想はまったく同じ物でした。
遠藤は、そんな斜銃を装備した「月光」で本土防空戦を戦いました。しかし、そのことが遠藤を追い詰めることになったのです。昭和19年末から始まったB29による本土空襲は、日を追う毎に激しさを増し、サイパン島やテニアン島の守備隊が全滅すると、アメリカ軍はここに航空基地を建設しました。ここからなら、B29が日本本土を爆撃して帰還できるからです。しかし、当初、アメリカ軍は護衛用の戦闘機を配備することができませんでした。テニアンから東京までは、約2400㎞。往復で5000㎞を飛ばなければなりません。B29の航続距離は、爆弾を満載して5000㎞が精々でした。そうなると、日本本土への空襲は、B29だけで行わなければなりませんでした。そのため、航続距離の短いアメリカ軍の戦闘機は護衛に使えなかったのです。他にも中国から九州へ向かうB29の部隊もありました。遠藤は、厚木基地を拠点とした「302航空隊」に所属し、小園司令の命令の下に「月光」に乗り込んで、B29の迎撃に飛び立ったのです。そして、一日に二機、三機と撃破・撃墜する日もありました。そんな遠藤の活躍をマスコミが放っておくはずがありません。連日のように「撃墜王遠藤幸男大尉」の名が新聞紙上を賑わせました。基地に戻ると、すぐに報道班員たちが遠藤を囲んで取材が始まります。そして、それは、遠藤を次第に苦しめていったのです。
遠藤は、西尾上飛曹とペアを組み、連日出撃していましたが、それが、いつの間にか夜間だけでなく昼間も出撃することになったのです。もう、B29が現れると、世間は遠藤の撃墜を期待するようになっていました。昭和20年1月14日、名古屋の軍需工場を目標に70機以上のB29が来襲しました。静岡県から愛知県方面を哨戒していた302航空隊に緊急連絡が入りました。小園司令は、昼間に「月光」を使用することを躊躇いましたが、既に遠藤と西尾コンビの「月光」は、豊橋上空でB29の編隊を発見します。ちょうど、B29の編隊は、目標に投弾後、海上に抜けるところでした。遠藤は、後席の西尾上飛曹に合図を送ると、「敵、11機発見。我、これに突撃す」と打電し、攻撃を開始しました。しばらくすると、厚木基地に「我、1機撃墜す」という無電が入りました。さらに、遠藤機は追撃を続け、「我、さらに1機撃破。なお、追撃中」と打電し、その後、通信が途絶えたのです。そのとき、B29編隊の下方銃撃によって遠藤機は被弾、炎上し、回復不可能な状態になりました。遠藤は、後席の西尾に「おい、西尾、先に降りろ!」と命じました。西尾上飛曹は、その命令を受けると、「わかりました。隊長もすぐに脱出してください…」と言って、風防を開けて外へ飛び出したのです。しかし、西尾の落下傘は開きませんでした。体を外に出して飛んだとき、西尾の落下傘の紐を尾翼が切断してしまったのです。
続いて、操縦不能になった機体から遠藤が飛び降りました。しかし、時既に遅く、もう、月光の高度は300mしかなかったのです。落下傘が開くには、後数百mの高さが必要でした。遠藤は、そのまま地上に落下しました。これを、田原町の防空監視所の兵隊が目撃していたといいます。慌てた防空監視所では、急いで遠藤の墜落地点まで車を走らせましたが、遠藤も西尾も生還することはありませんでした。「月光」という機体は、元々が復座の偵察機ですから、単座の戦闘機のように旋回性能がよいわけでもなく、速度が速いわけでもありません。ただ、背中に装備した「20粍斜銃」だけが唯一の武器だったのです。敵機が単機であれば、下方銃座の射撃を回避することも可能だったかも知れませんが、10機以上の編隊の中に入ってしまえば、多くのB29から射撃を受けることになります。もちろん、遠藤も西尾も十分にわかっていながら攻撃を続行したのです。この遠藤たちの戦死は、大きく新聞にも取り上げられ、厚木基地で葬儀が行われました。そして、二人共に「二階級特進」の栄を受け、遠藤は「中佐」になり、西尾も「少尉」になりました。しかし、その後、硫黄島が陥落すると、B29には陸軍の「P51ムスタング戦闘機」などが護衛に就くようになり、「月光」が活躍する場は、なくなっていったのです。
7 海軍大尉 関 行男(せき ゆきお) 最終階級 「海軍中佐」
「関行男」という名前を聞いて頷く人は、結構、年配の人たちだろうと思います。もちろん、高齢の方々は、「神風特別攻撃隊」の「特攻第一号」として知っていると思います。戦争中では、日本の人なら知らない人がいない有名人でした。しかし、本人は、運命の糸に導かれるようにして「特攻」を命じられ、職務に忠実に生きた軍人の一人です。自分の死後、自分の名前が、それほど大きくなろうとは考えもしなかったでしょう。そういう意味では、特別な能力を持ったパイロットではありませんでした。関は、海軍兵学校出の飛行将校で、「菅野直」と同期です。愛媛県の西条の出身で、背の高いスマートな軍人でした。元々は、艦上爆撃機乗りで、戦争が激しさを増してくると、「艦上爆撃機」そのものの活躍する場がなく、多くのパイロットが「戦闘機」に移って行きました。したがって、同期の菅野のような「エースパイロット」ではありません。そんな関が、有名になったのは、ほんの偶然みたいなものでした。海軍の上層部も、艦上爆撃機から移って来た関のような搭乗員をどう扱っていいか、迷うところがあったのでしょう。飛行学生を卒業しても、実戦の場がなく、内地での「教官配置」が主な任務になっていたのです。
そのころ、関は、医師の娘である「まり子」という女性と結婚したばかりでした。関は、母一人、子一人の家庭で、既に数年前に父親は亡くなっていました。中学校で優秀な成績だった関は、海軍士官を目指して「海軍兵学校」を受験して合格します。既に日中戦争が始まっており、日本の社会も「戦争熱」に煽られていました。当時の日本人は、戦争をすることを特段反対する人は少なく、「また、始まったか…」程度の感覚でした。日清、日露の戦争の後も、軍隊の海外派遣などは日常であり、映画のニュースや新聞、ラジオなどでも「軍隊の話題」は、普通の出来事でしかありませんでした。戦争ともなれば、軍人は社会の注目を浴びる存在ですから、中学校生徒にとって「陸軍士官学校」や「海軍兵学校」に入ることは、軍隊に志願したと言うより「有名校に進学した」といった感覚なのです。それに、関の家もそうですが、中学校までは何とか進学させられても、それ以上の学校に進ませることは経済的にも無理でした。優秀な少年にとって「進学」は、立身出世につながる「夢」でもあったのです。この時代は、今よりももっと「出世」に対しては、強い願望があり、私たちの子供のころでも「大学進学は、出世の早道だ」と信じられていましたから、昭和初期は、もっと強い進学願望があったはずです。
こうして、経済的に恵まれない少年たちは、「軍人」を出世の道と考えて志願したのです。そういう意味では、健康に恵まれ、頭脳明晰の関少年にとって「海軍兵学校進学」は、夢を叶える第一歩でした。しかし、彼ら「70期生徒」が卒業したのは、昭和16年11月です。僅か半月後には、日本は対米英戦争に突入してしまったのです。彼らは、考える暇もなく、戦場の第一線の下級指揮官になる道がここで決まりました。まさに「戦争の申し子」と言える世代です。さて、話が変わりますが、70期生徒として思い出されるのが、「平柳育郎生徒(後中尉)」です。平柳は、70期の首席として「恩賜の短剣」を戴く栄誉に浴しました。これは、「勝利の基礎(いしずえ)」として、ニュース映画になり、今でもネットで見ることができます。海軍兵学校の首席卒業となれば、将来、海軍部内での出世は間違いなく、連合艦隊司令長官や海軍大臣なども夢ではない肩書きなのです。しかし、戦争は、彼らにそんな悠長なことは許してくれませんでした。卒業して2年後、平柳中尉は「駆逐艦文月」に乗り込み、砲術長として南太平洋で戦っていました。昭和19年1月4日、ガダルカナル周辺海域において、敵機の攻撃を受け、平柳は艦上で斃れました。胸と腹部へ機銃弾を受けた壮烈な戦死でした。文月は沈みませんでしたが、甲板上で戦っていた兵隊の多くがここで亡くなりました。平柳中尉は、僅か21歳7ヶ月だったそうです。
その平柳が、兵学校生徒だったころ、元旦に母校である「浦和中学校」を訪れました。まだ、大東亜戦争開戦前の正月です。そのころの海軍兵学校生徒と言えば、学校にとっても自慢の生徒であり、彼に続くことをだれもが期待していました。平柳は、そこで、校長に促されて演壇に立つと、次のようなスピーチをしたのです。「諸君は、いたずらに軍人に憧れてはいけない。軍人は、一部の者だけが使命とすればよいのだ。我々はこれから海に出て戦うが、諸君には各々の本分を尽くして欲しい…」と。まさか、浦和中学校始まって以来の秀才であり、海軍兵学校首席の先輩から、このような話を聞くとは、生徒も職員も思いもよらないことでした。しかし、平柳には、「戦争」がどんなものか、また、日本の将来が危ういことを覚っていたのでしょう。沈着冷静で、合理的な精神を持つ彼が、日本の未来が危ういものであることに気づいていたが故に、後輩生徒に自重を促したのです。そして、平柳が予感したとおり、日本は破滅の道を突き進みました。平柳たちが卒業すると、兵学校の首席だろうが何だろうが、最前線に送られました。その頭脳は、もっと活用する方法があったにも関わらず、柔軟な人事ができない海軍は、70期トップを駆逐艦に配置して「名誉の戦死」を遂げさせたのです。
平柳と関が、兵学校時代にどのような関わりを持ったかは定かではありませんが、その後の言動を見ていると、関は、平柳ほどの冷静な分析はできていなかったようです。事実、教官時代には、関は積極的に「体当たり攻撃」を主張していたと言います。また、部下を殴って鍛えることを厭わず、大尉になってからも、部下の中尉を人前で殴ったり、撃墜王の「西沢広義」を殴ったりして、周囲の反感を買っていますので、平柳と異なり「時代の波に飲み込まれた男」だったと言えると思います。しかし、フィリピンで、自分が「特攻隊長」に指名されると、その胸中は複雑でした。親一人、子一人の身の上に、結婚したばかりの若妻を残して死んでいくことを考えたとき、彼の心は乱れました。唯一親しくなった報道班員の記者に本音をぶつけています。「私みたいな優秀なパイロットを一回の出撃で死なせてしまっていいんですかね…?私なら、500㎏爆弾を敵艦の甲板に当てて見せます。私は日本帝国のためとか、天皇のためとかじゃなくて、愛するKA(妻の隠語)のために行きますよ…」そう言って、ニヒルな微笑みを見せたそうです。作戦としては「体当たり攻撃しかない」と思っていた関でも、自分事となると、冷静ではいられなかったのでしょう。
それでも、関を隊長とした「神風特別攻撃隊」の第一陣は、通常攻撃では考えられない大戦果を挙げました。そして、日本で「関行男」は、真珠湾の「九軍神」に次ぐ「軍神」となったのです。しかし、関の家族は、時代の波に翻弄されることになります。母の「さかえ」は、急に「軍神の母」に祭り上げられ、葬儀の席でも涙ひとつ見せられませんでした。気丈に振る舞い、「さすが、軍神のお母様だ…」と言われなければならないのです。妻の「まり子」にとっても、それは辛い毎日でした。さかえは、まり子に「あなたは、もう、関の家にいる必要はないんだよ…」そう言って、まり子に気遣いを見せたそうです。まり子は、元々、鎌倉の医者の娘ですから、実家に戻ることもできたのですが、終戦後、しばらくは、さかえの面倒を見ながら過ごしたと言います。しかし、さかえの説得もあって、しばらくして実家に戻りました。終戦ともなれば、だれも「軍神の母」のことなど、考えもしなくなっていたのです。まり子は、その後、ある医師と再婚し、幸せに暮らしたといいますから、関も安心したことでしょう。母のさかえは、草餅を売って生活したり、縁を頼って学校の用務員になったりと、苦労の多い人生を送りました。本当は、頼りになるはずの一人息子を戦争で死なせてしまったのですから、心の中では泣いていたはずです。それでも、用務員としては働き者で、多くの子供たちや教職員から慕われていたそうです。その「軍神の母」も、長年の過労のせいか、仕事中に斃れてそのまま亡くなりました。そんな「さかえ」の葬儀には、世話になった多くの子供たちや先生方が参列し、その人柄が偲ばれたそうです。
「関行男」は、海軍の中で優秀なパイロットではありませんでしたが、その名は、日本の近現代史にしっかりと刻まれています。今後、日本軍が採った「体当たり攻撃」のような作戦は、たとえ戦争中とはいえ「あってはならない作戦」として批判され続けるはずです。しかし、一方、「そうでもしなければならなかった」事情もわかります。特攻を指揮した大西瀧治郎中将は、これを「統率の外道」と言い放ちました。たとえ軍隊であろうと、「やってはならない作戦」なのです。それがわかっていたが故に、大西は敗戦直後、責任を取って「割腹自殺」をしました。それは「統率の外道」を指揮した人間の責任の取り方としては立派な行為だと思います。許せないのは、敗戦後、同じように外道の指揮を執った多くの軍人たちが、「知らぬ顔」を決め込んで、懺悔の言葉ひとつ口にしなかったことです。関に命じた当時の航空隊の副長と参謀は、戦後、自分たちに都合のいいように脚色した著書を出版しました。そこには、関は「ぜひ、自分にやらせてくれ」と言ったと書かれています。だれもが、上官から圧力をかけられたと思っているのに、それも「自ら志願した」ように書くことで、自らの責任を回避しようとしたのです。この副長は、戦後、仏門に入り、戦死者を弔う道を選びました。しかし、その死後、副長だった男の娘は「終戦の時、父は、責任を取って死ぬべきでした…」と語っています。それが、「特攻の真実」なのだと私は思います。
8 最後に…
ここに、大東亜戦争で名を残した7人の日本海軍のパイロット(搭乗員)を紹介しました。本当は、もっと多くの搭乗員について書きたかったのですが、まだまだ研究が足らず、取り敢えず、この7人に絞りました。7人の男たちは、平和な時代に生まれていたら、平凡な人生を歩むことができたかも知れません。菅野や関は、中学生時代は「文学少年だった」という話もあります。そんな文学を愛する少年が、軍人になり、最前線に駆り出されることで、何とか自分を変えてでも、その時代に順応していこうとする努力が垣間見られます。順応することが必ずしもよかったか…と問われれば、それも難しいところでしょう。平柳育郎のように、微力ながら、後輩に自分の思いを託して死んで行く若者もいました。坂井三郎のように、自分の生き方を誇ることで、自分を納得させた人もいたでしょう。映画「永遠の0」の中で、主人公の宮部が、若い部下に対して「おまえが死んで泣く家族はいないのか?悲しむ人間はいないのか?」と問い、「いるだろう。そんな人たちを悲しませないためにも生きろ。生きる努力をしろ!」と激しく叱る場面があります。それを口に出せないとしたら、それは、そんな社会が悪いのです。そんな時代が間違っているのです。この7人の生き様から、そんなことを考えさせられました。
戦争は、今日もテレビを点けると報道されています。そして、理不尽に死んでいった人たちは、「〇〇人」という数字でしかありません。実際、戦争を始めるのは、軍人ではなく政治家です。日本では、「軍人が戦争を始めた」ように言いますが、本当は「政治」が戦争を始めるのです。軍人は、政治家であるトップが命令を下すことで軍隊を動かすに過ぎません。ここで紹介した「7人の搭乗員」も、自分の意思とは違うところで敵と戦いました。坂井三郎の逸話に、こんな話が残されています。あるとき、坂井は敵の輸送機を発見します。もちろん、アメリカのマークを付けた軍用機です。碌な武装のない輸送機など、坂井の操縦する「零戦」であれば、数秒で撃墜することができるでしょう。「これで、一機撃墜だ…」そう思って輸送機に近づいたそのとき、坂井の眼に窓に映る婦人と少女の顔が映りました。なんと、その輸送機には民間人が乗っていたのです。しかし、軍用機を攻撃するのは軍人の義務です。数秒間、坂井は躊躇いました。そして、坂井は翼を翻して輸送機から離れて行ったそうです。これは、軍人としてあるまじき利敵行為になります。しかし、坂井は、武器を持たない女性や子供を殺すことはできなかったのです。戦後、この婦人は、このときの日本軍パイロットを探しました。数年後に坂井に面会した婦人は、涙を流し「あなたは、私たちの命の恩人です…」と感謝の言葉を述べたそうです。軍人としての義務を果たすべきか、人間としての心を忘れないでいるべきか…、考えさせられるエピソードでした。

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