最近のニュースで気になるものがありましたので、ひと言申し上げます。単刀直入に言えば、これからも「教員不足」は、なくなりません。但し、「今のままでは…」ですが…。そもそも、日本の教育がここまで酷くなった原因は、教師の多忙化でも時間外労働でもありません。国(日本政府や役所)の教育や教員に対する「考え」が、あまりにも未熟だったからです。日本政府は、「日本の教育は、教師を管理して政府の言う通りにコントロールすれば、もっとよくなる」と考えており、政治家や官僚は、学歴を鼻に掛け、「あんな偏差値の低い奴らに何ができる…?」「俺たちの言うとおりにしていればいいんだ…」と「上から目線」で見ていたからです。しかし、この傲慢な態度が、今の日本の教育を壊した元凶です。マスコミの言う「教師の多忙化」や「部活動」「時間外労働」が、主たる原因ではありません。よく考えてみてください。昔だって教師は多忙でした。自分が担任する子供は、だれもがかわいいと思うものです。たとえ、人の子であっても、親よりずっと長い時間共に生活をしているのです。それも、誉めたり、叱ったり、教えたり、諭したりする毎日です。何処かの「子供のことは、おまえ(妻)に任せた…」というような父親とは違います。
「忙しいんだから、静かにして!」「疲れたから一人でご飯食べて…」という母親とも違います。雨の日も風の日も子供は登校してきます。始業時間になれば、学校のカリキュラムに則って生活が始まります。担任は、朝から子供の顔を見て出席をとると、そこからはずっと一緒です。せめて、トイレには自由に行きたいと思いますが、それすらもままならない時間が過ぎていきます。担任は、授業だけでなく、本来自由であるはずの「昼食」も「給食」という特別時間がありますので、準備から会食、後片付けまで一緒に行います。その後の「清掃」も子供に手本を示しながら一緒に行います。さらに、僅かな「子供の休み時間」は、誘われれば一緒に遊ぶこともありますし、相談に乗ったり、個別指導をしたりと、やはりトイレには行けません。その間には、突発的に子供同士のトラブルが起こり、仲裁しながら、原因を突き止め説諭するのも担任の役目です。そして、また午後の授業が始まり、それが終われば「下校指導」で、校門に立ったり、通学路で指導することもあります。これで、またトイレには行けません。子供を下校させてほっとしていると、次は予定されている「会議」や「研修」が待っています。中学校や高校では、「部活動練習」に教師も参加します。たとえ子供たちの自主練習でも、「学校内でなにかあったら、学校の責任問題になる」からです。そして、時計を見ると、夏場以外は夜になっています。それでも、一生懸命に練習に取り組んでいる子供たちを見ると、応援したくなるのも人情でしょう。
部活動の顧問になれば、放課後だけでなく、休日も朝から子供たちを指導し、暑い日は飲み物を差し入れたり、寒い日は一緒に暖をとって雑談に花を咲かせたりします。顧問は、部活動の練習中だけでなく、子供が自分の家を出て帰宅するまでの責任を負っていますので、気が休まる時間はありません。これだけ働いても、休日手当は「高校生のバイトの子よりも安い」のですから、国も安価な労働力を見つけたものです。その上、年に数回開かれる大きな大会などは、休日に開かれるのが一般的で、その引率は、顧問に任されています。(親たちは、応援に来るだけです。まあ、お弁当くらいは作りますが…)。しかし、顧問にしてみれば、ここまで一緒にやってきた子供たちの頑張りは、素直に評価したいものです。だから、そんな待遇にも文句も言わず、頑張るものなのです。(ここに国が関わることは一切ありません)冷静に考えてみれば、これを普通の公務員として考えたとき、一体、「時給」いくらで命じることができるのでしょう。少なくても「時給2000円」程度は支給しなくては、「労働基準法違反」なのではないですか?いくら、「教師は特別扱いだ…」としても、そんな理不尽な扱いをしていいんでしょうか?(法律がよくても、雇用する側の人間としてどうなのかと思いますが…)
そんな部活動を年間とおしてやっても、教師が社会から感謝されることはありません。全国大会などもテレビ放送されたり、記録が出ればマスコミが騒いだりしますが、そこで賞賛されるのは選手である「子供」であって、指導した教師ではないのです。もちろん、それに不満があるわけではありませんが、そうした「陰の人間の支え」があって初めて、結果となって現れることを知って欲しいと思います。中には、「高校野球」みたいに、監督業を請け負う「セミプロ」にような指導者もいますので、「監督=教師」というわけではありませんが、普通の中学校や高校の監督は、学校の教師が「顧問」という責任者としてやっていることです。それでも、関係者や子供の親から感謝されれば、納得もできますが、最近では、「もっと、うちの子を出せ!」とか、「あんな指示は変だろ!」などという苦情までもらうケースが増えているようです。少子化が原因なのか、親たちには親なりの「言い分」があるのでしょうが、少しは、指導している教師の苦労もわかってほしいと思います。(何度も言いますが、時給は、高校生のバイトより安い…)それでも、毎日接している子供は「かわいい」と思うのも人情でしょう。しかし、そこに付け込んで「労働者をこき使うシステム」は、どっか間違っていると思いませんか?
教育に関心のない人たちにはわからないでしょうが、子供って成長すると「目の色が変わる」んですよ。パッと明るくなると言うか、顔を上げて前を向き、嬉しそうに瞳が笑うんです。「瞳が輝く」というか、そんな顔をみなさんは、見たことがありますか?失礼を承知で申し上げれば、「子育て」が上手にできた人は、親たちの半分もいないと思います。大人になった息子や娘は、今どうされていますか?今でも親子の会話はありますか?親子で楽しく笑い合える時間はありますか?こうやって聞いていくと、おそらく、半分以上の人は「…?」と言葉を返せないと思います。それだけ、子育てって難しいものなんです。ならば、それは学校で子供を預かる教師だって同じはずです。「いい先生」って、どんな先生でしたか?怒ってばっかりいる先生ですか?誉めてばっかりいる先生ですか?立派なことばっかり言っている先生ですか?違いますよ。「いい先生」って、子供の気持ちがわかる先生のことです。子供だって人間です。それも未成熟な「ひよこ」みたいなものです。確かに、ちょっと大人びた小賢い子供はいます。でも、まだまだ「甘えたい年頃」なんです。憎たらしい小理屈は喋っても、一人になれば寂しくて、だれかに側にいてもらいたいんです。時には、頭を撫でてもらいたいし、ギュッと抱きしめてももらいたい。手も繋いでもらいたいんです。小賢しいことを言っているからといって、彼らは大人じゃありません。
「いたずらっ子」「意地悪をする子」は、本当は寂しいんです。親に構ってもらえないから、教師に構ってもらいたくて「いたずらや意地悪」をするんです。それを理屈で咎めても仕方がありません。子供の行動は、理屈ではなく「感情」なんですから…。そんないたずらっ子も、教師が真剣に向き合ってやれば、少しずつ頑なな心は溶けていくものです。でも、時間はかかります。それを小賢い大人が、「まだか、まだか…」とせっつくから、溶け始めた心をまた凍らせてしまうのです。知らない大人に限って、何でも理屈で相手をやり込めようとしますが、それを子供は一番嫌います。理屈で子供が大人に敵うはずもなく、たとえ言いたいことがあっても、親や大人に逆らえば、金もない、仕事もない、何も持たない子供に何ができるの言うのでしょう。子供は、親の前では絶対的に「無力」なのです。そんな親が、自分の主張を通したいあまり、担任教師の悪口を言っても、それに抗う術はありません。本当は、親たちだってそれがわかっているからこそ、強気になれるんです。会社では、へいこらしている人だって、学校や役所では大威張りの人はたくさんいます。それを容認し「下手に出ろ!」と命じた国は、一体何を考えているのでしょう?教師だって一人の人間です。「一生懸命」頑張ったって、最後は全部「おまえが悪い!」と言われるのであれば、「こんな(くそ)みたいな仕事に執着してたまるもんか…!」と思うのが、教師の本音なんですよ。それが、わからないと問題は解決しないでしょうね…?
1 「教員不足」になる原因
今更ながら、日本の報道機関には危機感がありません。「教員不足問題」が、そんな程度であるはずがないじゃないですか?学校現場に行ってみなさいよ。政府発表なんかで誤魔化されているから、いい加減な報道になっていることにすぐ気がつきます。学級って、担任教師が一日休むだけだって、子供は大変なんですよ。一日6時間の授業があって、その大半が「自習」だとしたら、あなたはどう思いますか?よその教師が来るときは、「自習の監督」だけ。じゃあ、この時間は「教師不在」ですか?違いますよね。教師はいるんですから、取り敢えず「指導」されているんです。でも、こんな日が、何日も続いたら子供はどう思うでしょう?「おい、いい加減にしてよ。ぼくらの先生は、もう来ないの?なんで来ないの?」って、騒ぎ出すに決まっています。そして、その代替が「教頭先生…?」ですか?ただでさえ忙しい教頭が、担任ができるはずがありません。授業準備はできないし、評価だってだれがやるんですか?子供が、「先生…先生…」って寄って行ったところで、「ああ、ご免ね。先生、ちょっと忙しいから後でね…」と言って、職員室に直行してしまうはずです。
教頭職って、「学校で一番忙しい職」だと言われているのですが、知りませんか?そして、学級についていたら、その間の「教頭の仕事」は、いつやるんですか?そんなの「夜中」にやるしかないでしょう。これが、実態です。その上、教育委員会に「代替教師の派遣」を頼んでも、「いない」となれば、校長が自分で探すしかありません。知り合いに声をかけても、「今の学校って大変なんでしょ。それは、無理ですよ…」と断られるか、「もう、免許は失効しているから、できません」でお終いです。だれも、今の学校なんて怖ろしくて入れるはずがありません。もちろん、一生懸命やりたい気持ちはあります。「子供はかわいい」気持ちも持っています。それでも、少しでも誤解が生じれば、徹底的に叩かれるのだとしたら、こんなに怖ろしい「職場」はないでしょう?教師だって人間です。いくら完璧を求められても、できるはずがありません。頼むときは、「大丈夫、私たちが助けますから…」と言われてその気になり、後で「裏切られた話」は、山のようにあります。人間、いざとなれば「我が身かわいさ」に人を裏切るものです。今の教育関係者は、みんな知っています。文部科学省が発表している数値なんて表面的な数字をさらっただけのことで、実際は、その「10倍以上」は、教員不足なのです。
それなら、学校の先生って、どれだけの力量があればいいんでしょう?それだけの能力を身に付けるための教育は、何処かでしているのでしょうか?私も「教育学部」出身ですが、そんな教育を受けた覚えはありません。どちらかというと、若いころは先輩の姿を見、自分で好きなことを研究し、何度も実践を繰り返して身に付けてきたことばかりです。当然、「失敗」は山ほどありますが、それを今に当て嵌めれば、全部、「教師としての力量不足」として扱われることでしょう。子供や保護者から苦情が出たかも知れません。教育委員会に呼ばれて叱られたかも知れません。それでも、続けたかと言われれば、それは「NO!」です。教育界に早々に見切りを付けて転職したはずです。今でも料理は好きですから、もう一度、料理の専門学校に通い直して、好きな「パン屋」を開きたいと思います。頑張って修行をして、お客さんから「美味しいね…」と言われたら、最高の喜びでしょう。一生懸命がんばっても報われない「学校の先生」より、絶対やりたい仕事です。これが、「普通の感覚」だと思いませんか?
ちょっと宜しいですか?
日本の学校というところは、戦前からずっと「学級担任制」で行われてきました。よく、「昔は、教師一人で50人くらいの子供を教えていた…」と言う人がいますが、それは、昔だからできたことです。教える内容が薄く、コンピュータも英語も「総合的な学習」などの新しい教科もない時代なら、少しくらい子供がいたって教えられます。学校で教える基礎は「読み書き算盤」なのですから、それに集中すれば、今より、もっと学力の高い子供を育てることができたでしょう。やればやるほど学力が下がるのは、文部科学省が左翼学者などに煽動された結果だと思っています。それに、昔は「学級王国」って言われるくらい、その学級での担任教師の権威・権力は「絶対」だったのです。体罰だって、普通に容認されていましたから、子供が悪さをすれば、物差しや平手で「パシッ!」と叩くなんて当たり前の指導でした。そんなことで、いちいち苦情を言う親もいなかったし、親たちは挙って「うちの子が悪さでもしたら、先生、思い切り叩いてやってください!」と言っていた時代です。子供だって、家に帰れば、家の手伝いは当たり前だし、親に反抗でもすれば、そりゃあ酷い罰を受けました。私が経験しただけでも、「叩かれる」だけでなく、「柱に縛り付けられる」「物置の閉じ込められる」「ごはん抜き」…なんかがあり、親たちも自分たちが受けた罰を継承していたのです。ました。そんな扱いをされている子供ですよ。50人いたからってどうということはありません。
それが、今じゃ、子供が悪さをしても、叱るのではなく「諭す」「理解させる」指導をするのだそうです。少しでも怖い顔をすると、子供は家に帰ってから「先生が怖いから、学校に行きたくない…」と親に訴えます。それだけで、「教師の指導が悪い…」と言われるのですから、だれがやっても教師の仕事ができるとは思えません。(高級官僚や中教審で偉そうにしている大学の先生にでもやってもらったら如何ですかね…)こんな状態ですから、悪いことをして「げんこつ」でもしようものなら、国まで大騒ぎして「体罰教師」のレッテルを貼られて退職に追い込まれてしまいます。昔の親父なら、「げんこつ」は当たり前、テレビアニメの「サザエさん」の波平さんは、今なら「体罰親父」ですよね。学校の教師から「権力」も「権威」も奪っておいて、「子供を毅然とした態度で指導しろ!」ですから、みんな心の中で(おまえがやってみろ!)と叫んでいますよ。それでいて、学級に「いじめ」が起きれば、「あんた、何を指導してたんだ!」と怒鳴られ、「教師失格」の烙印が押されます。子供の言い分だけを聞いていると、「どっちもどっち」で、どうしようもないのですが、ここに親が加わると、親同士のプライドがぶつかり合い、折り合いなどつくはずがありません。「そっちが悪い」「うちの子は悪くない」の応酬ですから、最後は、「学校が悪い!担任教師が悪い!」で一件落着です。こうなると、反省しなければならない子供は、蚊帳の外で、何も罰を受けないことになります。(言い逃れた方が勝ち!)
そして、親たちは校長に向かって勝ち誇ったように、「こんな教師、早く辞めさせてください!」とか、「もう、担任替えてくださいよ!」と言い放って学校を出て行きます。その後は、もう校長室や職員室は修羅場です。「全部私が悪いことにされて、校長は何も庇ってくれなかった!」「悪いのは、子供じゃないんですか?」といった応酬が担任や職員と管理職の間で続き、最後は、「もう、いいです!」と担任がぶち切れてお終いになります。味方した職員も「何、この管理職、ばかじゃないの!」と大怒りです。これで、学校のチームワークは崩壊します。翌日から、だれも管理職の言うことを聞かない学校になります。校長は、やむを得ず教育委員会に救いを求めますが、これはこれで教育長から「あなたに学校を任せたのに、職員の指導や監督もできないんですか…?」と呆れられて翌年度には異動になります。校長にしたって、(じゃあ、どうしたらいいんだよ!親と喧嘩でもしろって言うのか?!)と腸が煮えくり返る思いで転勤していくのです。そして、そんな学校に赴任してくる翌年度の先生方は、暗い雰囲気の学校を立て直さなければなりません。(さあ、どうしたらいいんでしょう…。)
そして、完全に悪者にされたその教師は、翌日から出勤して来ません。「来ない」んじゃありません。もう、体が動かないのです。人間は、あまり理不尽な目に遭うと、脳が自己防衛本能を起動させるのか、体を「固定」させてしまうようです。心は「行かなければ…」と思っているのですが、脳がその指令を出さなくなる現象です。幸い、私は、その経験はありませんが、それを語ってくれた友人がそんなことを話してくれました。そして、行き先は「精神科」です。そんな状態の教師を見て、医師は「こんな状態で働くのは無理ですね…」と、診断書を書いてくれます。状況を聞けば、医師だって(これは、酷い職場だなあ…)くらいはわかります。夜も眠れないし、食欲もなくなり、何故だか涙が溢れてくるようになって、初めて、家族や周囲の人間が気づくのです。これが、親や配偶者だったら、どんなに気の毒に思うか知れません。(こんな酷い目に遭って…可哀想に)と同情してくれれば、まだいい方です。これが独身だったら、立ち直れないかも知れないくらいのダメージを受けるのです。そして、しばらく休んだ後、「自己都合」で退職していきます。学校には、二度と顔を出せないまま、書類だけの「退職」です。本当は、教室に行って子供たちに会いたいんですよ。「お別れの言葉」だって言いたいんです。未練はあります。中には、心配な子供だっているし、自分を慕ってくれている子供もいます。心配してくれる親だって少なからずいるものです。でも、一度「折れた心」は、もう、修復ができないくらい傷んでいるんです。これって、本当に学校や教師が悪いんですかね…?(こうして、犯罪でもない行為で教師失格の烙印を押され、泣いている元教師は、全国に山ほどいるのです…)
子供って、今も昔もさほど変わっていないというのが、私の印象です。確かに、昔と違って社会が大きく変化していますから、「何も変わらない」という意味ではありませんが、根本は「変わらない」と思っています。それだけ、子供は「無力」なんです。子供は、いつだって大人の「顔色」を窺う存在です。それは、子供が持つ「本能」みたいなもので、近寄ってくる大人が「安全か、危険か」を見極めるのは、生きる上で非常に重要な感覚なのです。「用心深い」のは、当たり前で、「子供が懐かない」と言いますが、そう簡単に知らないおやじに懐かれては困ります。今だって、子供に近寄ってくる大人は不審な大人は多く、「人さらい」や「児童盗撮」など、世界中で子供が「商売の種」になっている事実を見過ごすことはできません。子供は、それくらい用心深くていいのです。ところで、よく、教師間で言われるのが、「担任のお試し期間は、1週間」というものです。今は「三日」くらいかもしれません。子供は、年度初めに新しい担任教師と顔を合わせます。子供だって(今度の先生は、どんな人かなあ…)って、心配しているものです。
そして、すぐに、自分の担任がどんな人間なのか「値踏み」を始めます。(必ずします。)その猶予期間は、以前なら「1週間」くらいあったような気がしますが、今は、時間の流れが速いので「三日」くらいでしょうか。その間に、担任が「何を話し」「どんな考えを持ち」「自分たちにどんなことをするのか」見定めるのです。それは、即座に家庭に報告され、親自身の評価の資料になっていきます。そして、少しずつ、担任が困るようなことを仕掛けてきます。まあ、「授業中のお喋り」や「ふざけ合い」「小さないたずら」など、仕掛けは様々ですが、そうやって、「担任教師の力量」を計るのです。もし、これを適当にあしらったり、さほど効き目のない「注意」程度で終わるようであれば、行為は次第にエスカレートし、授業中であっても収拾がつかないことになります。彼らは、自分が「納得」するまで、こうした「お試し」を続けるのです。これも、大人が信用できるかどうかの判断材料になりますので、子供を責めることはできません。しかし、一旦「信用ならない」となると、子供の行為は止まるところを知らず、担任が「お手上げ状態」になることもしばしばです。いわゆる「学級崩壊」は、こうした流れから起こるのです。子供の中には、家庭的に恵まれず、心が少しひねてしまった者がいます。もちろん、性格的に粗野な人間もいますが、そんな子供でも、教師の力でコントロールすることは可能です。(けっして、力で抑え付ける必要はありません…)
但し、大人がやりがちな、「子供は、教師や大人の言うことを聞くもんだ!」といった古い価値観で指導をしようとすると、必ず「猛反発」が起き、学級内に「教師対子供」という図式が生まれることになります。こうなると、だれが出て行ってもどうしようもありません。校長が、「じゃあ、俺が…」と言って、子供から消しゴムを投げつけられたりした例を私は知っています。これなどは、大人の権威が子供に通用すると思っている大人の大いなる「勘違い」の典型です。やはり、子供といえども、「一人の人間」として尊重し、その「長所(個性)」を伸ばしてやろうという姿勢がなければ、教師は務まりません。単に「クラスをまとめる」と言いますが、縦社会で仕事をしているような大人には、到底務まらないでしょう。「命令」ひとつで人を動かしてきた人間は、「感情」で動く子供の動かし方なんてわかるはずがありません。子供はだれにも「忖度」しませんから、ただ、親だけは「怒らせたくない」という気持ちがあるだけです。やっぱり、子供にしてみても「母親」が泣く姿はみたくないものです。何故か母親にだけは「郷愁」を抱くのは、大人も子供も同じみたいです。そんな母親が、自分より別の人を愛してしまったとなると、もう手がつけられなくなります。それも、やっぱり「人間の情」なんだと思います。要するに、「子供を舐めるな!」と言うことです。ところが、こうした「指導法」は、教育界では、けっして「ポピュラー」ではないから不思議です。
実は、大学でも、教員研修でも、こうした「子供の心理を理解する」ための勉強の機会がないのです。一応、大学で「児童心理学」は勉強しますが、具体例に乏しく、学問として勉強したに過ぎません。まあ、覚えているのは「ギャングエイジ」という言葉くらいです。そして、教員採用試験でも、教師になってからもよく聞かれたのが、「あなたは、どうして教員になろうと思ったのですか?」という月並みな質問です。そして、答えは「子供が好きだからです…」が質問者が求める答え(正解)だそうです。本当に何を言っているのでしょうか?昨今の「あぶない教師」の事件を見ればわかるように、彼らは、みんな「子供好き」と答える人たちばかりです。それも、歪んだ「性癖」があってのことですが…。だから、安易に「子供が好きですか?」みたいな質問をしてはいけないのです。もし、学級でこんな噂が流れれば、その教師は完全に「アウト!」です。もう、子供も親も職員も、だれもその人間を信頼することはないでしょう。それだけ、注意を払うべきデリケートな問題なのです。「子供の前でにこやかで優しい先生」が、裏ではとんでもない「犯罪」に手を染めているとすれば、これをどうすれば防げるのでしょう。そろそろ、国も「教員適性検査」を心理学の面からしっかり研究をして、早急に実施することを望みます。
こういう厳しい環境の中で、まじめな教師は生きています。それは、若かろうがベテランだろうが関係ありません。そんな中に、何も考えずに飛び込めば、あっと言う間に周囲から「袋叩き」に遭うでしょう。ちょっとした発言が、あちこちに広がって誤解されることもあります。保護者面談にスマホの「録音機能」をオンにして、教師の一言一句を記録する親もいます。(もちろん、許可が前提ですが、さて、みんな許可を取っていますかね…?)それを家庭で再生し、夫や子供に聞かせるそうですから、吃驚します。これでは、内々の話はできません。(保護者面談って、子供に話して欲しくないことだってあるんじゃないんですか…?)場合には、授業参観でも録音し、後で質問する親もいるそうですから、教師たちは安心して子供の指導に専念できません。そう言うと、「じゃあ、やましいことがあるんですか?」と言われてしまうので、返答に困りますが、学級での教師の指導は、全体だけでなく「個人」に関わることもあります。当然、「プライバシー保護」の観点からも、すべて「オープン」は、学校には相応しくありません。それでも、「開かれた学校」をキャッチフレーズにしていると、困った問題が起きるのです。(多分、文部科学省は、そんなことも考えず、闇雲に学校開放を命じたいのだと思います…)
但し、親の思いと子供の考えが必ずしも一致するものではありません。親にとって「好ましくない教師」であっても、子供には「いい先生」ということがあります。親たちは、「噂」として入ってくる情報を元に教師を評価しようとしますが、子供は、毎日直に会って生活を共にしているのですから、子供の眼の方が正しいと言えるでしょう。そして、たとえ、悪い噂が入ってきたとしても、それを打ち消してくれるのは、実は「子供」なのです。そもそも、子供は「嘘」が嫌いです。子供が嘘を吐くときは、大体、親の気持ちを忖度して自分の身を守ろうとしたときです。(これを言えば、親は、家に帰ってから、もの凄く怒るな…?)と思えば、仕方なしに嘘も吐きます。そんなとき、子供はずっと下を向いて顔を上げません。心の中では(もう、やめようよ。勘弁してよ…)と思っているのですが、親の剣幕に気圧されて言葉が出ないのです。しかし、それは、ずっと「心の傷」として残り、自分の親を軽蔑し続けるのです。しっぺ返しを親が喰らうのは、子供が大人になったときなのです。(親が年老いて、子供が仕返しをするというのは、本当に怖ろしいものですね…)
子供の時代は、親も教師も建前として「嘘は吐くな!」と言い聞かせるはずです。しかし、子供が親たち大人が四六時中「嘘」をついていることを知っています。私も子供のころ、大人の嘘に何度騙されたことか…。そして、親は自分に都合が悪いと、子供にも平気で「嘘を吐かせる」のですから、始末に負えません。それでも、「平気な顔」をしているものです。(みなさんも覚えがありませんか?)そんな経験を散々してきますから、子供は、「大人の嘘」を見破るのが得意になります。それが、学校だと親ほど忖度する必要がありませんから、担任が少しでも「嘘を吐く」と、子供は怪訝な眼を向けてきます。そして、それを誤魔化せば、さらに「怪しさ」が増幅し、教師は信頼を失っていくのです。ところが、常に真実を語るよう努力し、できないことや間違えたことは正直に「謝る」ことのできる教師は、子供たちが事情を理解し、それをいつまでも言うことはありません。それよりも、「先生、仕方ないよ…」と慰めてもくれます。そして、何かあれば助けてもくれるのです。「先生だって頑張ってたじゃん…」「失敗はだれにでもあるからさ…」と。何度、私もそんな言葉に助けられたか知れません。「正直」「素直」「情熱」「説明」「謝罪」「助け合い」こそが、教師の使命なのです。しかし、これを子供の前で行うのは、意外と難しいものです。一歩間違えば「だらしない」とか、「頼りない」になってしまうからです。そこには、「子供を守る気概」が絶対に必要です。「命に替えても守る!」という気概が、子供を突き動かすとしたら、人は子供も大人も関係ないことがわかります。子供にだって「勇気」もあれば、「気概」だってあるのです。
2 「先生」を尊敬しない国
日本人は、いつごろから学校の教師を尊敬しなくなったのでしょう。(しなくてもいいと思うようになった。かな…?)少なくても、私が教師になった「昭和の後期」までは、親たちは、教師に対して一定の「敬意」は払う習慣がありました。もちろん、当時、私自身も20代前半の若造ですから、偉そうなことは言えませんが、会えば親たちは、だれもが「先生、よろしくお願いします」と言って、頭を下げてくれました。それが、別にわざとらしくもなく、自然にそうした態度で接してくれたものです。私たちの子供時代も当然、親たちは「先生、よろしくお願いします」という態度でしたので、自分がその立場になったとき違和感は感じませんでした。ところが、今の時代は大人たちが、学校の教師を尊敬しているような雰囲気は社会全体にありません。私が退職した7年前にもありませんでした。どちらかと言うと、学校は気楽に訪ねられる雰囲気があり、だれでも「ウェルカム状態」だったと思います。これも、文部科学省が「開かれた学校づくり」を推奨した賜物だと思います。それは、それでいいのですが、たとえば、「授業参観」などで校内を巡視していても、親と思しき大人の雰囲気が依然と全然違うことに気づかされました。帽子は被ったまま、サングラスは嵌めたまま、裸足にスリッパ、髭はそのまま、挨拶はこちらがしても首をちょこっと動かすだけ。(おい、おまえ不審者か…?)とも思いますが、どうやら、保護者様なのです。
昭和のころは、「授業参観日」ともなれば、だれもが余所行きの一枚を羽織り、身なりを整えて来るものでした。普段着なんかで行けば、ちょっと周囲から浮いてしまうようで恥ずかしかったものです。それに、親たちのお喋りも少なく、「学校に行く」ということだけでも緊張感があったのではないでしょうか?今では、たとえ授業参観日でも普段着が普通で、近所のスーパーに気軽に行くような装いで、廊下や教室は「お喋り」が絶えません。みんながみんな…というわけではありませんが、いつからか、学校に対して日本人は敬意を払わなくなったような気がします。こんなことを言うと、「なんだ、敬意を払って欲しいのか?」と言われそうですが、教師たちが「スーツ姿」で授業をしているのですから、参観する側も「遠慮」というものがあってもいいのではないか…と思います。文部科学省は、以前、「学校が閉鎖的だから、日本の教育は発展しないんだ…」的な発言をよくしていました。元々、学校は「聖域」だったと思います。たとえば、寺院や神社が、だれもが出入りできる「開かれた場所」であることを望む人はいないでしょう。(わかりませんが…)寺の本堂や墓地などで遊んでいれば、当然叱られたものです。本堂や神殿は「神聖な場所」として人は、敬意を払って頭を下げたものです。
もし、これが崩れたら、宗教界はなんと言うのでしょうか?昔は、学校も実は「聖域」でした。だから、宗教家と同じように教師は「聖職」と言われたのです。この「聖職」という言葉も、今では死語になりました。時々、マスコミが意地悪で「聖職者である教育者が…」と、事件を起こした教師などに対してわざと使うくらいでしょう。今時、教師自身も「聖職者」だなんて思っていません。せいぜい「教育公務員」ですか…。しかし、何故か、文部科学省は、学校を聖域にしたくなかったようで、日本人が変わってきた原因を「学校のせい」でもあるかのような言い方をし始めたのです。「若者のマナーができていない…」「若者の犯罪が増えてきた…」などと、恰も若者だけが悪いかのように言われましたが、一番酷かったのは、立派な肩書きを持った大人たちの方でした。平成になって、「セクハラ・パワハラ・モラハラ…」と、いわゆる「いやがらせ」で問題になったのは、一見立派な大人たちです。報道されただけでも、検事、高級官僚、医師、教師、企業家、政治家…など、「えっ、こんな立派な人が…?」と絶句したものです。「いじめ」だって、わざわざ「子供はいじめをしてはいけない」という法律まで作りましたが、大人のいじめは、子供より、相当に酷い有様です。(子供にだけ限定するな…と言うのが、教師たちの声です)
文部科学省は、よく「学校が変われば地域が変わる…」というキャッチコピーを作り、如何にも「学校が悪いから、地域がよくならないんだ!」というキャンペーンを始めました。「えっ、そうなの?」と思ったのは、教師たちだけじゃないでしょう?よくも、自分が所管する「機関」をここまでばかにした言い方ができるもんだ…と感心したものです。「身内を庇え」とまでは言いませんが、普段から偉そうに命令ばかり出している役所が、「お前等が悪いから、俺たちが悪く言われるんだ!」と聞こえます。そうそう、このころ、偉い文部科学省の次官が、恥ずかしい風俗店に「視察」と称して出入りしていたというニュースが流れました。その偉い人は、今でも上から目線で政府に噛み付いています。(左翼のマスコミが大好きな人のようです…)そんな人が全国の「先生」の頂点に立っていたのですから、「文部科学省」って役所も相当に問題のある役所だと思いますよ…。穿った見方をすれば、文部科学省って、左翼マスコミと結託した「似非教育機関」なのではないでしょうか?そう思えば、これまでの一連の動きはよくわかります。
とにかく、学校を「聖域」とするのを怖れた文部科学省は、教師を「聖職」から剥がすことに躍起になりました。おそらくは、中国や欧米の学校を視察してきた学者などが政治家や官僚を煽動して、「だから、日本の教育は遅れているんだ…」とばかりに「開かれた学校」を目指させたのでしょう。当時、日本の学校には世界中から視察者が訪れ、「日本の教育はすばらしい」と絶賛していたころです。外国では、学校の自由化が進みすぎて、子供が勝ってきままに生活するようになり、欧米などでも「学校の荒れ」が社会問題化していました。まさに、今の日本の学校を見るかのようです。きっと、子供たちが教師の言うことを聞かず、あまりにも自由に振る舞う姿に、教師のなり手がいなくなったのでしょう。それと同じことを日本に起きています。まさに、文部科学省が意図的に仕組んでいるとしか思えません。その第一弾が、文部科学省が言う、「学校は、教師のものじゃない。地域のものだ!」という主張です。そして、教師たちの意見も聞かないまま、学校を「だれでもウェルカム」にしてしまったのです。それが、日本人が学校や教師に敬意を抱かなくなった原因です。(こうした策略を指摘すると、すぐに陰謀論とか、妄想とか言われてしまいますが…)
日本人は、少し「平和慣れ」しているところがあるので、そうした煽動には意外と乗りやすい性質を持っているようです。外国では、常にスパイが暗躍しており、謀略は日常茶飯事です。戦前の日本やアメリカも、このスパイ活動によって「国策」が決められた歴史があるのに、未だに日本には「スパイ防止法」がありません。(いや、作らせないのもスパイによるものですが…)そのため、「偉い人」や「マスコミ」が言うと、何も考えずに信じてしまうのです。私の父もよく「だって、〇〇新聞に書かれているじゃないか…?」と言っては、某左翼新聞紙を広げては「フムフム…」と頷いていました。特に「外国に遅れる…」というフレーズは、戦後の高齢者にはよく効く薬のようで、何かと言えば「外国の方が優れている」と思い込まされているようです。(これも、きっと敗戦の後遺症か、GHQによる洗脳工作だったと思いますが…)そして、「外国に遅れちゃ大変だ!」とばかりに、多くの国民を欺き、次々と学校改革に手を染めたのです。これまで「世界一の教育国」だった日本が、この改革によって急速に「国力」を弱めていきました。
酷いのは、「学校に地域の力が必要だ」と叫び、無理矢理、「学校運営協議会制度」を創り上げ、「学校のカリキュラムに地域の意見を入れろ!」と命令してきたのです。学校現場のだれも賛同しない制度を国の力で無理矢理「押し付けた」制度は、結局は今尚何一つ実を結んではいません。それはそうでしょう。協力してくれるはずだった高齢者のほとんどが、働く時代になってしまったからです。国は、教育改革と反比例をするように、年金支給を遅らせ、退職を65歳以降になるように制度を変えていきました。これで、「地域の力」はまったくあてにならなくなったのです。今でも「部活動の指導者」を地域に求めているようですが、そんな暇な人はいません。意図的なのか、わからないのか、国のやることは「デタラメ」です。できもしない制度を無理矢理「やらされた」学校では、なんとか「学校評議員制度」までは作りましたが、それ以降はお手上げ状態で定着しませんでした。それに、先行して実施した学校の悲惨な末路を見るにつけ、「こんな制度は、無理だ!」とわかってしまったからです。結局、「地域の力」と称して進めた学校では、これまでのカリキュラムが壊され、地域の代表という人たちの「好き勝手な意見」に振り回され、管理職を初め、担当した教師たちも「過重労働」を強いられる原因になりました。
その上、文部科学省は「学校管理」を徹底し、教師の個性を潰し、少しでも「異論を述べる」ような人間を排除していきました。最後は、「教員免許更新制度」という悪法です。日本には「免許」を必要とする職業は山ほどありますが、学校の教員だけを狙い撃ちにして「更新」を義務化し、国の管理体制下(監視下)に置いたのです。結果、政府に「もの申す」ような教職員は一掃されましたが、個性(独特な感性と能力)ある教師たちも現場から去っていきました。失礼ながら、優秀な教員は、どの仕事についてもその優秀さは発揮されるものです。ある教師は、企業の営業職に転職し、教員時代の倍以上の給料をもらっているそうです。進学塾の講師に転職した者もいます。進学のノウハウを持っている教師は、進学塾では大歓迎でしょう。そんな優秀な人材を排除して、子供たちは喜ぶのでしょうか?(それがねらいなら、国の改革は大成功したことになりますが…)
「子供のために」頑張った教師たちも、社会が「敬意」を忘れ、教師を見下すようになれば、最早教職の道で生きる術はありません。僅かな給料と公務員という肩書きだけで人生を送れとでも言うのでしょうか。「やり甲斐」「働きがい」を失った教師は、もう、学校現場に戻ろうとはしません。「夢も希望も失った教師たち」を見ていた次の世代も、早々に教師の道を諦め、別の生きる道を探しています。今、教員採用試験倍率が「2倍」を切り、「1.5倍」以下になれば、だれもが「教員」になれるはずです。教員免許状を大学で取得し、願書さえ出せば合格できるとなれば、一般企業で採用されなかった人たちが教壇に立つことになります。小学校6年生の各教科は、思いのほか難しいと思います。その上、英語やコンピュータまで教えなければなりません。子供の中には、有名私立中学校や高校を受験する者もいます。ただ免許を持っているだけで教えられるものではありません。おそらく、採用されて数ヶ月後には、子供たちから呆れられ、自ら退職していかざるを得ないでしょう。教室で教師が「立ち往生」することくらい惨めなことはありません。「なんだ、先生、こんな問題を教えられないの…?」という不満は、あっと言う間に保護者間を駆け巡り、翌日には、校長室に不満を持った親たちが押しかけるでしょう。さて、それはどうなんでしょう?
結局、穿った見方をすれば、日本政府に入り込んだスパイが仕組んだ計画(教育破壊工作)は、30年ほどで完成したのです。きっと、それを企んだ政治家や学者、官僚たちは、あの世でほくそ笑んでいることでしょう。(但し、日本の仏や神々は、それを許さないでしょうが…)そして、お隣の「日本を弱体化」させたい国々も喜んでいるに違いありません。所詮、その国が大事にしてきた「聖域」を犯した罪は未来永劫なのです。この後、もし、そうした勢力が未だに存在するのなら、寺院も神社も聖域ではなくなり、僧も神官も牧師も、みんな「聖人」ではなくなるはずです。そして、それが、国の未来にどう作用するか、これまでの「教育改革」を見ればおわかりになると思います。「国の心棒」を失った国は、滅びるのが自然なのです。今、高市早苗内閣では、一生懸命「国の防衛」に力を入れていますが、いくら予算をつけても、大きな護衛艦(戦艦)を造っても、最新兵器を持っても、国民に防衛する意思がなければ、国は守れません。「自衛官」だって「警察官」だって、学校教育を受けて育った人たちなのですから、その根本である「学校教育」を自らの手で壊してしまった政府に何が残されているのでしょう。この企みを破壊しない限り、日本の「教育再生」どころか、「国の防衛」すらできなくなることを指摘しておきます。
3 子供には、「教育を受ける権利」もないのか!?
今の日本の大人は、「一人で大きくなった」と思ってはいませんか?特に頭がいいみなさんには、そうした傾向が強いように思います。そもそも、文部科学省って役所は、政府官庁の中で一番軽んじられる省庁なのだという噂です。要するに「生産性がない金食い虫」だからだそうです。もし、政治家や官僚たちがそう考えているとしたら、日本は「腐っている」証拠でしょうね。確かに、教育は「金食い虫」かも知れません。学校を作るにも、教師を雇うにも、子供を教育するにも「お金」がかかります。しかし、そこから生み出される「お金」はありません。税金をつぎ込むだけです。「だったら、そんなもんなくしちまえ!」と考える人がいたら、その国は間違いなく滅びるでしょう。実際、学校は地域の「迷惑施設」と呼ばれています。幼稚園や保育園も同様に「迷惑施設」なのだそうです。それって、本気ですか?「子供の声がうるさい!」「子供がチョロチョロして邪魔くさい!」なんて声は、よく学校に苦情として投げ込まれてきます。これが、日本の大人の意識の現状だとしたら、もう、高市総理が何をやっても手遅れかも知れません。
どうも、今の日本は、子供の教育に関心が薄すぎるようです。「少子高齢化」が進むのも、日本人が「教育」を「迷惑事業」だと思っているからでしょう?平成になったころから、「子供は社会で育てます!」というフレーズで当選した議員が多数いました。最初は、「へえ、そうなんだ?」と思いましたが、ちょっと変じゃありませんか?「子供は家庭で育てる」ものでしょう?「社会」育ててくれるの?じゃあ、社会が子供を産めばいいじゃん?とんでもない論理に見えますが、子供からしたら、そんなもんです。要するに、「社会が育てる」なら、「親は要らない」と言われているような気がしているんです。子供の心って意外と敏感で、親に「見捨てられる」ことを極端に怖れます。小さければ小さいほど、世界は「家庭」しかないのですから当然です。「児童虐待」という言葉が聞かれて久しいですが、今では、そのニュースも小さくなってきました。最初のころは、「親が子供を虐待して殺す…?」なんて、信じられない「鬼畜の所業」だと思っていましたが、今では「普通のニュース」になってしまいました。
でも、そういう親ばかりを責められない事情もあります。社会がいつまでも「子育て」を大事にしてくれないからです。もちろん、表面的には「育休制度」の充実や「児童手当」「授業料の無償化」など、「やってる感満載」ですが、なんか、少子化対策としてやってるだけで、日本人の「やる気」は見えません。企業だって「めんどくさいなあ…」「仕方ねえからやっとけ…」程度の関わりしか持ちたくないでしょう?だって、「金にならない事業」なんですから。きっと、企業内で、そんなことを頑張っても出世にはつながらないし、高い評価も得られないのでしょうから…。昔、イザベラ・バードというイギリス人女性が、明治初年に日本に来日したときのことを本に書いています。そこに、日本人が「子供を可愛がる姿に感動した」と書かれています。だれもが、子供を中心に置き、みんなで可愛がる姿を見て、日本にすばらしい「文化」があることに気づいたそうです。今の朝ドラでも子供が産まれる場面が描かれていましたが、家族みんなが大喜びをして、「これ以上の幸せはない」といった表情をしていました。これが、「子育ての原点」なのではないですか?なんか、今の日本人って「冷めて」いるのか、「諦めて」いるのか、よくわかりません。
だから、学校に教師がいなくなっているのに、大して騒ぎもせず、国会でも大した議論にならないのです。本当なら、国を挙げて大騒ぎする話なのですが、「別に教員が足らないからって、何も変わらないだろう…?」くらいにしか考えないのでしょう。でも、今、学校に就学している子供には大問題なのです。それに、憲法に保障されている「教育を受ける権利」は、何処にあるのでしょう。本来なら、「どんなことをしてでも教員不足を起こさない!」「子供の権利を守る!」という決意を総理大臣自ら発信すべき問題です。しかし、いくら国会中継を見ていても、教育問題に触れるのは弱小野党の議員だけでは、寂しい限りです。政治家が選挙のときだけ「子供は国の宝です!」なんてフレーズで票をもらおうと躍起になりますが、実際、当選した後、「宝のこと」はどうなったんでしょう?「子ども家庭庁」を作ったのなら、専門の役所らしく、「教員不足問題は、子供の権利の問題だ!」くらい言ったらいいと思いますが、そんな発信は皆無です。きっと、(それは、文部科学省の所管事項でしょう?)くらいの感覚でしょうから、役所を作っても「魂入らず」では、使い物になりません。
「教育」と言うだけで、なんでもかんでも「学校」に押し付けておいて、少しでも気にくわないことがあれば、がんがん文句を言い、それでも収まりがつかないと「そんな教師辞めさせろ!」と校長に罵声を浴びせ、次々と教師が辞めていっても「知らぬ顔」。子供が「先生がいないよう…」と泣いているのに、国も役所も「努力してます!」と言うだけ。こんな職業に集まる方がおかしいと思いませんか?今のこうした事態を招いたのは、日本政府であり「国の機関」だということを認識して欲しいと思います。国は、裁判で負けない限り謝罪はしないそうですから、まるで「倒産しない企業」みたいなものです。倒産するときは、国がなくなる時ですけど…。
本当は、日本全国の子供たちが結集して「ストライキ」でも起こせばいいのですが、金もない、肩書きもない、信用もないんでは、どうしようもありません。今や、自力でなんとかするしかないのが現状です。この国は「子供の権利」ほど粗末にされるようです。「教育を受ける権利」って、なんでしょうね。以前、よく、「戦争中の子供のことを思いなさい!」とか、「今でも飢えに苦しむ子供や教育を受けられない子供は世界中にたくさんいるんですよ!」と、今の日本の子供が如何に幸せかを聞かされましたが、今、同じことが「先生の来ない教室」で話せますか?文部科学省は、「学習指導要領」だけは、意固地になって「世界トップレベルの教育」だと言って学校に押し付けてくるのでしょうが、今や「やる人がいない」「やれる人がいない」のが現状です。難しいことを山ほど載せて、役人はご満足なのでしょうが、現場を見てください。そんな難しいことができる「先生」はいませんよ。あんたたちが、みんな辞めさせちゃったじゃないですか?
昔、戦争末期になると高齢の補充兵しか集まらず、「敵が来るから、穴を掘れ!」と命じ、小銃が足りないから兵隊に「竹槍を持たせた」という笑えない話があります。なんか、今の日本の教育と同じに見えます。国は、「やれ!やれ!」と命じても、やれる優秀な兵隊はみんな「戦死」してしまい、命令されたら「逃げ出す兵隊」ばかりじゃ戦争にはなりません。そして、ポツンと取り残されたのが、国民だったのではないですか?それが、今では「子供」がポツンと教室に取り残されています。こうしている間にも子供は成長し、一応、学校を卒業しただけの大人を作っていくのです。最近、若者たちの「闇バイト」なる犯罪が話題になっていますが、「一応学校を出た」だけの若者が、自分の進む道を見つけられず、足掻いた結果だとは思いませんか?それを、すべて「自己責任」で済ませるのは、それこそ「無責任」の極みでしょう?親たちだって、一人か二人しかいない我が子に期待をしているんです。それが、道を踏み外しては泣くに泣けません。それも、すべて「自己責任」ですから、自分を責めて終わりです。そんな社会が正常だとは思いませんが、愚痴を繰り返しても仕方がありません。社会があてにならないのなら、やはり「自力解決」しかないのでしょう。結局、そこに行き着くのが正解だと言うことにしましょう。

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