老人の独り言21 映画「ペリリュー」鑑賞話

映画「ペリリュー」~「楽園」のゲルニカ~ という、今話題のアニメ映画を見ました。ひと言で言えば、「今の時代になって、やっとこうした映画が作られるようになったのか…」という気持ちでした。それも「アニメーション」ですから、日本だけでなく、世界中の子供たちにも見て欲しいという願いを込めて制作された意図を感じます。何より、今の技術の成果なのか、まず、「映像が美しい」ことに感動しました。南国の島の自然や風景、鳥や生き物などの描写がすばらしく、その色彩は鮮やかで、そうした美しい「自然そのもの」をずっと見ていたくなる気持ちにさせられました。(こんな美しい場所を、人間の醜い争いで汚してしまっていいのだろうか…?)、という疑問は、当時の兵士たちが感じたことなのでしょう。そうやって、観客を映画の世界に誘って行きます。そして、そこに生きる動植物、そして空と海の描写の緻密さは、人間が「アニメっぽく」描かれているだけに、余計に際立つのかも知れません。あれで、人間までも緻密に描いてしまえば、怖ろしくて見ていることが苦しかったはずです。その「対比の妙」が、この映画の一つの特長になっています。声優には、今をときめく若手俳優を配し、何処かで聞き覚える声が、懐かしく響いて来ます。

まるで、「自分の家族が戦場にいる…」ような錯覚さえ芽生えそうになりました。その声は、優しげで常に淡々としており、登場人物のだれもが、普段は穏やかで温厚な人柄が偲ばれます。(ああ、この人たちは、ここに来るまでは、きっと争いのない世界で生きてきた普通の人たちなんだろうな…)と思い、それは、自分を投影しているようでした。それが、時間と共に、変わっていく姿は、何とも切ないのです。そして、エンディングに流れる「主題歌・奇跡のようなこと」は、これもよく知る俳優さん(女性)で、その声は、まるで、昔聴いたであろう「母の子守歌」にさえ聞こえました。「無惨に殺し合う戦場」と「母の子守歌」は、あまりにも場違いな対比でありながら、主人公の若者の優しさと勇気が、この「母の声」と結びつくのです。「さあ、終わりかな…」と思って席を立とうとする瞬間に流れる、優しいゆったりとした旋律は、耳奥に響き、心を揺さぶられました。そして、もう一度、座席に座り直すと、じっと眼を閉じて「母の歌」に聴き入りました。周囲を見ても、だれも席を立とうとはしません。暗い中で、人の影が映ります。その影の多くは、手を顔に当てているようでした。私も、込み上げてくる熱いものをぐっと堪え、その歌声を聴きました。それは、今でも耳の奥に残像のように残っています。

1 私とパラオ・ペリリュー島

私はちょうど10年前に「パラオ共和国」を訪ねました。目的は、リフレッシュもありましたが、やはり、大戦中の激戦地を訪れて「慰霊」をしたいと考えていたからです。スーツケースの中には、少しばかりの「お線香とお酒」を入れて飛行機に乗りました。さすがに、戦場跡を歩くのに「物見遊山」というわけにもいきません。せめて、日本人として「手を合わせる」くらいのことはしたかったのです。本当は、私の伯父が戦った千島列島の「占守島」を訪れたかったのですが、今ではロシア領となっているので、気安く渡航することはできません。「硫黄島」も米軍と自衛隊の基地のみで、民間人の渡航は一部の許可を取った人のみです。それに、民間人が巻き込まれたサイパン島や沖縄は、観光地として有名になりすぎており、気持ちが前向きになれませんでした。「パラオ」であれば、親日国としても有名でしたし、小説「天皇の島」を読んでいたこともありました。それに、成田空港から直行便が出ており、時差がないのも魅力でした。まあ、動機はこの程度のものでしたが、「慰霊」の気持ちは本当です。因みに私の伯父は、陸軍の「伍長」で、戦車兵でした。戦後は、農業一筋に働き、先年、亡くなりました。占守島の戦いで辛うじて生き延びた伯父は、その後「シベリア」に抑留され、昭和23年の夏に日本に帰還しました。戦争中の出来事は、家族にもあまり語りたがらなかったそうです。

占守島の戦いは、「ソ連軍」との戦いでしたが、「祖国防衛」という意味では、この「ペリリューの戦い」と同じです。伯父は、志願兵でしたが、「少年戦車学校」を出たばかりの10代の若者でした。ある意味、生き残ったのは「奇跡」でしょう。しかし、終戦後も日本には帰国できず、3年もの間、酷寒の「シベリア」で重労働を強いられ、仲間の多くがそこで亡くなりました。帰還してきた時、妹である母は、乞食のようにボロボロの服でよろよろと歩いてくる伯父を見たそうです。「もう、戦死したものと思っていた…」と語っていました。しかし、伯父の軍隊時代の話やシベリア抑留の話を聞いた家族は僅かです。私が質問しても、「千島にいた…。戦車に乗っていた…」くらいで、詳細は知りませんでした。伯父が亡くなったとき、弔辞を読んだ伯父の従兄弟が、その苦労を弔辞に読んだことで、家族は知ることになったのです。親友だった従兄弟には、伯父も話をしたのでしょう。そうした辛い苦しい話だったからこそ、語れなかった気持ちはよくわかります。ペリリュー島から還ってきた人たちも、黙って戦後を生きたのではないかと思います。

実は、「戦争の話」というものは、苦しければ苦しい経験をした人ほど話したがらないという傾向にあります。「敗戦」によるショックもありますが、「普通の生活」に戻ってみれば、「軍隊」や「戦争」は、決して普通ではないからです。そんな「異常な世界」を喜んで語る人はいないでしょう。平和な時代になればなるほど、異常な世界の話に共感する人もいません。逆に気味悪がられて、遠ざけられるかも知れません。それに、だれもが「他人に言える」ような「立派な話」ばかりではないのです。映画にも描かれていましたが、主人公の若者が任命された「功績担当兵」は、遺族に戦場で亡くなった兵隊の「功績」を書き送るのが仕事です。そこには、事実と異なる「立派な最期」が創作され、遺族の悲しみが少しでも和らぐような配慮があったとのことでした。言われて見れば、「なるほど…」と納得できます。実際、戦争は映画のような作り物ではありません。現場には、格好いい「ヒーロー」はいませんし、死ぬときは、必ずしも「戦闘」で死ぬとは限らないのです。「ペリリュー」や「占守」は、敵の上陸部隊と戦った戦場でしたが、「ガダルカナル島」や「ビルマ」での戦いは、戦闘より、「飢えと病との戦い」だと言われています。映画でも「飢え」の問題は描かれていましたが、「補給路」を持たない最前線の戦いなどは、作戦として成り立つわけがないのです。たとえ、どんなに精強な部隊であっても、「武器弾薬・食糧」のない戦争で勝てるわけがありません。そして、そんな場所を「戦場」に選んではいけないのです。ここにも、日本軍統帥部の計画が如何に杜撰だったかがわかります。

ある日、私は、ペリリュー島から生還を果たした元兵士の手記を書店で見つけました。そして、その苛烈な戦場の様子と、指揮官だった「中川州男大佐」のことが書かれていました。当時、パラオは、南洋における日本海軍の拠点のひとつで、戦艦も入港できる港を持ち、南洋最大の飛行場がありました。日本海軍は、パラオと「トラック島」という二大拠点を設けて、アメリカ海軍に「決戦」を挑もうとしていたのです。パラオにアメリカ軍が攻撃を始めると、やはり、「ペリリュー島」が狙われることはわかっていました。ここの「飛行場」を奪わなければ、パラオ周辺の「制空権」を奪えないからです。アメリカ軍は、パラオが制圧できれば、そこから北上し、日本本国まで「飛び石伝いに」辿り着く作戦を考えていたのです。そして、数万人を超える兵員と数百の艦艇を「パラオ攻略」に送りました。昭和19年9月15日のことです。アメリカ海軍は、最初は、戦艦などからの「艦砲射撃」と航空機による「空爆」を行います。日本兵が隠れやすいジャングルを焼き尽くし、地上にいる人間を焼き殺すためです。こうした攻撃を三日間ほど続けて、日本兵の士気を喪わせようと考えたのです。しかし、中川大佐は、こうした攻撃は想定済みでした。中川大佐が採った作戦は、小さな「ペリリュー島」に「地下通路」を掘り巡らせ、ゲームの「モグラ叩き」のように、神出鬼没に地上に出ては、敵を攻撃するという戦法でした。そのため、兵隊には「死ぬ」ことを許さなかったといいます。

従来、島での戦争は、「海岸線」に壕(トーチカ)を設けて、上陸してくる敵軍を「水際」で叩くというものでした。日本でも昔、「元寇」のとき、博多湾の海岸線に「堡塁」を設置し、やはり、水際で戦う戦法を採用して戦い、勝利を収めました。しかし、火器が発達した近代戦において、敵軍の上陸の前に「艦砲射撃と空襲」が行われるのは常識でした。それなら、敵軍を上陸させてから、神出鬼没に攻撃を加えた方が、敵を混乱させ出血を強いるには最適だと考えたのです。もちろん、本部からは反対論も出ましたが、中川大佐は、「これ以外に採る道はない!」と断言し、現地指揮官の判断として、この「地下通路作戦」を実行に移したのです。それは、兵隊たちに戦い以上の苦労をかけることになりました。ペリリュー島は珊瑚の岩盤でできており、穴を掘るという作業は困難を極めたといいます。しかし、「1万人」の兵力しか持たぬ日本軍が、その数倍を擁すアメリカ軍を迎え撃つ以上、少しでも敵軍を足止めしなければなりません。そして、そのころ、ペリリュー島にいた島民たちに「パラオ本島に還れ!」と命じました。これまで、友好を築いてきた島民の若者たちは、「いや、俺たちもここで日本軍と共に戦う!」と譲りませんでしたが、中川大佐は、心を鬼にして「原住民の貴様等などと一緒に戦えるか!」と、人種差別的な乱暴な言葉を遣って島から追い出したのです。それは、中川大佐の思い遣りから出た言葉でした。

中川大佐は、「この戦争は、日本とアメリカの戦争だ。パラオの住民には関係ない…」「戦争が終わったとき、戻って来て島を復興してもらわねばならぬからな…」と、寂しく呟いたと言います。追い出されるようにして故郷を離れねばならなかった島民たちからしてみれば、「なんだ、日本人の野郎…、おれたちをばかにしやがって!」と怒り、悔しそうに船に乗り込みました。船のエンジンがかかり岸壁を離れると、何処からか多くの日本兵が現れて船に向かって手を振る光景が飛び込んできました。「おうい、元気でなあ…!」「また、会おうなあ…!」「さよならあ…!」そう言う声は、谺のようなうねりになって船の中の島民たちに届きました。島で作業をするとき、一緒になって歌った歌声も聞こえてきました。そして、島民たちは、はっと気がつきました。「そうか、俺たちを助けるために、わざとあんな風に憎まれるように言ったんだ…」と涙を流しました。日本軍にしてみれば、現地に詳しい島民を味方につけ、少しでも有利な戦いをしたかったはずなのに、「これは、日本とアメリカの戦争だ…」と言い切り、島民全員を疎開させた中川大佐こそ、本物の武人だったのです。ペリリュー島、そして隣のアンガウル島の守備隊が全滅し、パラオでの戦争が終わると、島民たちは続々と島に戻ってきました。そして、無惨になった故郷を眺めては涙を流しました。そこには、あのときの「日本兵」の無惨な姿があったからです。アメリカ軍は、戦争が終わると、すぐに戦死者の遺体を確認し船に収容しますが、日本兵の戦死者まで収容することはありません。南国で、遺体はすぐに腐り、骨だけになっていきます。島民は、それらを集めて埋葬しました。しかし、次第に樹木は育ち、ジャングルが元に戻ると、収容しきれなかった遺体は、野に朽ちて土となっていくのです。日本兵、約1万2千。生き残った兵隊は、「34人」でした。

2 南国の楽園「パラオ」諸島

「パラオ」という音の響きに誘われるように、観光パンフレットを見ると、そこは、まさに「南国の楽園」です。観光の目玉は「ダイビング」。多くの若者たちが、珊瑚礁に囲まれた海に潜り、海亀や小魚たちと戯れる写真。何処までも碧く、空と海が一体となったかのような水平線に浮かぶ島々「ロック・アイランド」。小麦色をした島民たちの屈託のない笑顔、そして、洒落たコテージ風のホテル。どこを切り取っても「本当に、楽園ってあるんだな…?」と思い、その美しさに私は魅了されました。しかし、私は、歴史としてこの「楽園」が辿った運命を知っています。なぜなら、「パラオ」は、日本海軍の南洋の重要拠点でもあったからです。今から80年前、この楽園は「戦場」になりました。「パラオ」は、第一次世界大戦後に日本が、国際連盟の委任を受けて「統治」することになった島です。当時、パラオには、日本の「南洋庁」が置かれ、日本の企業が進出したことで、島全体が発展していきました。今でも、当時の建物が「パラオ共和国」の施設として使用されており、日本統治の跡を見ることができます。このころの日本は、以前、統治していたドイツとは違い、島民たちに対して友好的に接していました。日本の統治方法は、欧米の「植民地方式」ではなく、いずれ、島民たちが自立できるよう「教育を施す」ことにありました。今でも、日本が海外に支援をするときは、惜しみなく「日本の技術」を指導し、自立を促すような方式を採っています。そのため、日本人が帰国しても、そこで学んだ現地の人の手によって運営されていきます。こうした「目に見えない支援」こそが、日本人の「心意気」なのです。

戦後、パラオはアメリカの統治を受けますが、やがて、「共和国」として独立を果たしました。パラオは、戦前の日本に感謝し、日本語を多く「パラオ語」に採り入れています。今でも、「ベントー(弁当)」「ダイジョーブ(大丈夫)」「デンキ(電気)」「カツドー(活動・映画)」「センセー(先生)」などが遣われているそうです。そのためもあってか、パラオは、今でも「親日家」の人が多く、日本人の私からすれば「親しみの持てる国」のひとつでした。旅行に出かけたとき、楽しい思い出として「美しい自然・風景」や「健康名所・旧跡巡り」「その土地ならではの食べ物」は、欠かせないものだと思います。しかし、そこには、「人の営み」があることを忘れてはなりません。旅行者は、その「人の営み」を妨げないように、その土地と人に「尊敬の念」を持つことが大切でしょう。もし、海外で「親日家」の多い土地柄なら、尚のこと、人との触れ合いも楽しい「思い出」になるはずです。何気ない会話のひとつ、「ありがとうございます…」の言葉ひとつ、丁寧なサービスひとつに心が動きます。今でも、ホテルや港、お店で働く現地の人の優しい微笑みを忘れることができません。三泊四日の旅でしたが、楽しい思い出です。

話は違いますが、以前、私の乗る「新幹線」が東京駅に着いたとき、子供連れの「外国人家族」が私の前に降りました。小さな女の子をパパが抱き、奥さんが大きなスーツケースを持って降りました。新幹線のホームはいつものように混んでいて、乗り降り時は忙しいものです。その家族を後ろで何気なく見ていた私の眼に、棚に載っている白い「帽子(キャップ)」が目に止まりました。私はリュックだったので、降りる間際、素早く「棚」に手を伸ばしその帽子を取ると、急いで新幹線を降りました。(あの家族は、何処かな…?)と、キョロキョロしていると、私の数m先にいるではありませんか。私は、その「白い帽子(キャップ)」を振って「ユーのではありませんか?」と身振りで示すと、母親が目を見開いて、「オーッ…」と声を挙げました。それは、まさに、「パパさん」の帽子だったのです。私は、そのパパさんに帽子を手渡すと、「じゃあ…」と手を挙げて合図を送ると、三人がこちらを向いて手を小さく振り、笑顔を見せてくれました。日本に来て、日本人に車内に忘れた帽子を届けてもらい、この家族は、「日本人って、やさしいね…」って、話をしてくれたのではないかと勝手に想像しています。自慢するほどでもない、ちょっとしたエピソードですが、海外に出たとき、現地の人のそんなささやかな「優しさ」が、嬉しいものなのです。「笑顔」は、まさに万国共通の「外交手段」なのだと思いました。

日本人から見れば、「パラオ」は、特に大きな産業もない「辺境の地」なのかも知れませんが、それでも、国民は豊かな自然に囲まれて穏やかに暮らしています。それは、この地に人類がやって来た時から、まるで「時間が緩やか」な進み方をしているように見えます。「国と暮らし」は、必ずしも「=」で結びつけられるわけではありません。国が近代化を目指し、発展していっても、そこで暮らす国民にとって「幸福か…?」と問われれば、人それぞれの意見があるはずです。私たちが、コロールの港から「ペリリュー島」に渡るときに、案内に立ってくれたのは、旅行社の「あずみ」さんという若い女性でした。もちろん、日本の方です。彼女は、日本の旅行会社に就職すると、希望をして「パラオ」に赴任したそうです。そこで、現地の男性と知り合い、結婚して、パラオで暮らしています。彼女が言うには、「たまに日本に帰ると、目が回るようで疲れてしまいます…」と言っていました。「だって、シャンプー一つ買うにしても、あまりにも数が多すぎて、選べないですよ…」「こちらなら、これしかない…ということが多く、選択肢はありませんから楽です」というわけです。小麦色に焼けた肌で、とても健康そうでした。それを聞くと、「人の幸せは、いろいろあるんだなあ…」と思います。そんな「楽園」のような島にも、80年前には、あの「戦争」がありました。

日本が言う「南洋」とは、「南太平洋」を指します。地図を見ればわかるとおり、太平洋は広大です。その太平洋を挟んで西に日本列島があり、東に「アメリカ大陸」があるという地理的要因がありました。アメリカにとって、大西洋を横断すれば、ヨーロッパ大陸はさほどの距離ではありません。しかし、太平洋側は、ずっと続く海原ばかりで、点在する島も少数です。しかし、この太平洋を何処の国が支配するかは、重要な問題だったのです。そして、太平洋に点在する島々には、欧米列強の手が伸びていきました。特に、「ハワイ諸島」は、規模が大きく、アメリカにとって魅力的な島でした。なぜ、日米戦争が「太平洋戦争」と呼ばれるようになったのかと言えば、アメリカにとって「日米戦争」とは、太平洋の島々を奪い取る戦争だったからです。しかし、日本は、この戦争を「大東亜戦争」と呼称することに決めました。それは、「東アジアを欧米列強から解放するための戦争」だったからです。つまり、日本の戦争は、中国での日本の権益を守り、次いで「東南アジア諸国」を欧米の植民地から解放し、日本と「共栄圏」を創ろうという目的があったからです。さらには、「大国インド」をイギリスから解放し、中東アジアにまで経済圏を広げる構想を持っていました。そう考えると、「太平洋」は、その「アジア解放」のための戦争(局地戦闘)でしかなかったと言うことです。

「ペリリュー島の戦い」は、「大東亜共栄圏」建設に障害となる「アメリカ軍」を弱体化することにありました。しかし、それは、「アメリカ海軍」の太平洋艦隊を動けなくするだけで十分だったのです。しかし、アメリカ政府によって仕掛けられた「罠」に嵌まった日本は、太平洋艦隊の拠点である「ハワイ島真珠湾」の艦隊を先制攻撃してしまいました。本当は、フィリピンに日本軍が進めば、自ずとアメリカと戦争になります。フィリピンは、アメリカ唯一のアジアにおける植民地でしたから、その防衛は、アメリカ軍が担っていました。日本は、対米戦争になれば、太平洋艦隊がフィリピンの応援に駆けつけるのを待って、「サイパン島」あたりの「中部太平洋」で待ち伏せして、これを撃滅するつもりでいたのです。しかし、それを見抜かれたアメリカによって、ハワイまで誘き出された日本海軍は、広大な太平洋全域を戦場にしてしまいました。それは、「補給」を無視した作戦でした。連合艦隊では、とにかく、アメリカ艦隊を叩き、太平洋の「制海権」と「制空権」を奪ってしまえば、戦争は早期に終結すると考えていました。しかし、強力なアメリカ海軍は、初戦の不利な戦いを必死に耐え抜き、太平洋にある日本軍の拠点をひとつひとつ潰しながら、北上をしていく作戦を採りました。その中に、「パラオ攻略」と「ペリリュー島の奪取」があったのです。

「ペリリュー島」には、アジア最大と呼ばれた日本軍の飛行場がありました。と言うのも、この島は平坦で、日本軍は島の平坦部分を使って「大滑走路」を建設したのです。それは、大型機も発着陸できる広さがあり、今も、その主要部分はそのまま残されています。「ペリリュー島」は、小さな島で、一日もあれば、周囲を歩けるくらいの大きさしかありません。北部には、小さな丘がありますが、「山」と呼ぶほどの大きさではありません。したがって、ここに10000人もの日本兵が守備隊としていたこと自体が不思議です。確かに、この程度の島であれば「三日もあれば、攻略できるだろう…」と、アメリカ軍の指揮官が考えたとしても無理はないと思います。まさか、こんな小さな島の地下をくり抜き、「洞窟陣地」を構築するとは、思いもよらなかったはずです。それに、この辺りは、堅い珊瑚礁で覆われており、岩盤を崩すのも容易ではありませんでした。まして、肝腎の「水」がありません。山や川がないのですから、真水が手に入るはずがないのです。あっても、雨水か、塩辛い水しか飲めませんでした。ここで三ヶ月近く戦い抜いた日本軍は、本当に強かったのです。

3 映画「ペリリュー」が伝えたかったこと

正直に言って、まさか、「ペリリュー島の戦い」が映画化されるとは思いもしませんでした。それも、外国映画ならいざ知らず、日本で制作されることに驚き、そして、それを実施した関係者に敬意を表したいと思います。戦後、日本はずっと「GHQ」の洗脳計画によって、「東京裁判」をそのままに受け入れた歴史観しか認められませんでした。特に「学校教育」と「マスコミ」においては、それを批判したり、疑ったりすることはタブーでした。そのために、戦後の日本人は、本当の意味での「日本の戦争」を知りません。当時、日本人が何を考え、どう行動し、どう生きたのか…という「声」が聞こえてこないのです。戦争で生き残った人たちも、その時代を忘れてしまいたいかのように、家庭でも学校でも、体験者は何も語りませんでした。それだけ、思い出せば、「心が傷つく」のでしょう。確かに、平和な時代になってみると、「戦時中」は、まさに「異常な時代」に見えます。何かが狂ったように動き、国中が熱に魘されたようになって戦争に前のめりになっていきました。「鬼畜米英」という言葉が、日常的に遣われる世界は、やはり「異常」です。自分の父親や息子、兄弟、恋人を「万歳!」と叫んで、戦場に送り出すのも「異常」です。そして、「御国のために立派に死んで来い!」と励ますのです。そうした「異常さ」を知っているからこそ、価値観が180度変わった「平和な時代」では、口を閉ざすしかなかったのが現実です。

しかし、そこを日本に「革命」を起こさせたいと願う「左翼」に利用されてしまいました。だれも語らないことをいいことに、「東京裁判」を権威に見立てて、日本の戦争を「侵略戦争」と断定し、戦った兵士を「残虐な日本兵」と吹聴し、死んで行った人々を「犬死」と貶めたのです。学校でもそう教わった戦後の子供たちは、まるで洗脳されたかのようにそう信じ込まされ、テストで「〇」をもらいました。真実を知ろうとする子供の点数は低いままで、テストでは何も評価されません。ある学校(高校)では、修学旅行先に中国や韓国の「現代史施設」を選び、「反日歴史観」を現地で学ばせ、「反日思想」を日本の子供(生徒)に植え付けようとさえしました。それを、当時の親たちは「異常」とさえ思わなかったのです。マスコミは、今でも「反日思想」に塗れ、日本人が「真実」に迫ろうとする動きを牽制しています。最近になって、やっと「中国や韓国の言っていることは、おかしいんじゃないのか…?」という声が聞こえるようになってきましたが、それらの多くは、洗脳されている「高齢者」ではない「若者たち」だというのも面白い現象です。今の20代までの若者たちは、皆「平成以降の生まれ」の人たちです。彼らは、「ネット社会」が誕生してから産まれてきました。そのため、情報が一方に偏ることがなく、「自分で考える習慣」が身についているのです。

多くの情報に触れ、テレビや新聞等のマスコミが言うことと、「ネット情報」が言うことが全然違うのですから、自分で考えて「判断」するしかありません。さすがに、学校でも昔のように「反日教育」をすれば、子供が「先生、それおかしいよ…?」と、すぐに自分のタブレットから情報を持って来て反論します。親たちからも、「あの先生、変なことを子供に教えている…」と、教育委員会や文部科学省に訴えられます。これでは、偏った不正確な情報は口に出せません。昔なら「子供だまし」ができましたから、「先生がそう言っている…」と信じ込ませられたものが、通用しなくなったのです。また、テレビ業界は、会社自体の「不祥事」が明るみに出たり、あまりにも偏った報道でネット上で騒がれたりと、信用は昭和時代の半分もないでしょう。それでも、自ら改革ができないテレビ業界は、さらに凋落していくことは間違いありません。既に「紙媒体」を中心とする出版業界は廃れ、新聞社も購読者が激減しています。これでは、国民を洗脳しようにも、為す術がない状態です。そんな時代だからこそ、「ペリリュー」のような良質な映画を作ることができたのだと思います。

あの時代、ごく普通の若者が、軍に召集されて戦場に送られて行きました。「そんなのは、拒否すればいい…」という無責任な言葉を吐く人もいますが、「徴兵令」という国の法律で定められている「国民の義務」を拒否するということは、自分の暮らす社会を拒否することに他なりません。そんなことが、現実にできるはずがありません。そんなことをすれば、自分だけでなく、家族みんなが地域社会にいられなくなるのです。だれもが、(行きたくないなあ…)と思いながらも、社会に合わせて「御国のために戦ってきます!」と誓う他はなかったのです。けっして勇ましくもなく、特殊な戦闘能力を持たない若者が、過酷な戦場で「敵」と呼ばれる同世代の「外国の若者」たちと殺し合う場面は、たとえ、アニメーションとはいえ、眼を覆いたくなるシーンの連続でした。だれも、本気で、見ず知らずの外国人を憎く思えるはずがありません。「敵だ!」と言われるから、銃を向けて引き金を引くのです。それは、正常な心では、けっしてできない行為だと思います。しかし、一人の人間としては、「できない」ことであっても、「国が、家族が、恋人が…」と思うと、心を鬼にしてでも、敵を斃さなければなりません。事実、ペリリュー島の兵士たちは「太平洋の防波堤たらん…」という決意で戦ったといいます。「少しでも、日本への侵攻を遅らせたい…」という願いは、尊いものです。それも自分の命を捨てて行うのです。最前線での戦いは、そんな若者たちによって行われ、死んで行くのも、名もない若い兵士たちなのです。

しかし、彼らがこの戦争を始めたわけではありません。自分のまったく関係のない世界で「戦争」が開始され、知らないうちに自分が、その「矢面」に立たされているのです。世界の政治家たちは、そんな戦場の兵士とは、まったく違う世界で「戦争」を語り、その後の世界を夢見ているのです。そして、だれも「自分の命」を危ぶむ者はいません。彼らにとっては、戦争は、常に「ゲーム」なのです。当時、アメリカ政府には、「ソ連のスパイ」が多数暗躍し、日本を壊滅させるための戦争を画策しました。そして、日本を「共産主義国家」としてソ連の衛星国とし、いずれは、アメリカをも共産化させ、ソ連を世界の支配者にしようと企んでいたのです。その証拠に、戦後、アメリカではそのことが暴露され、「共産主義者追放運動(レッドパージ)」が起こり、アメリカと日本の「共産主義革命」は辛うじて抑えられました。しかし、アメリカがあれほど支援した中国は、共産化され、ソ連崩壊後も、共産主義国として世界の脅威となっています。

「原爆」を日本に投下したのも、アメリカがソ連を牽制するためであり、トルーマンという大統領の「名誉欲」のためでもあったのです。そんなつまらない理由で、数十万人が死のうと、政治家の心には何も響かないのですから、「権力」というものが如何に怖ろしいかわかるというものです。権力者は、自分にとって都合のいい人間を上手く操っているつもりが、いつの間にか「操られている」ということに気がつきません。アメリカ大統領のルーズベルトもトルーマンもそうした人間でした。それを簡単に「愚か…」と言うことはできますが、今でも、日本国内には、世界中のスパイが暗躍しているに違いありません。なぜなら、日本には日本の国益を損なうような「スパイ行為」を罰する法律がないからです。法律がないのですから、いくらスパイ行為をしても、罰せられることはありません。よく、犯罪を犯した人間が、「俺は、罪になるようなことはしていない…」と嘯きますが、たとえ「人の道」に外れても、犯罪でなければ「許される」のが、今の日本人の感覚なのでしょう。まさに「愚か者の所業」です。

戦前、実は、日本でも同じようなことがありました。それは、終戦時の「大本営」内部で起こったのです。「大本営」とは、戦争を指導するために陸軍と海軍が共同で設けた「本部」の名称です。戦争の計画は、すべてここで決定されました。終戦間際、この「大本営」では、怖ろしいことが起こっていました。それは、「情報の隠滅」です。それも、一部の陸軍参謀によって行われていたのです。既にヨーロッパではドイツが敗れ、日本も敗戦必至の状況でした。そこで、ヨーロッパに派遣されていた軍人から、密かに「ソ連参戦」の情報がもたらされたとき、その情報が政府にも軍のトップにももたらされず、一参謀が握り潰したのです。ヨーロッパのとある国から命がけで情報を取り、だれにも知られないように「暗号文」で送った貴重な情報が、大本営で受け取った「一参謀」によって、ゴミ箱に捨てられた事実は、許し難いものがあります。また、昭和20年に起きた「台湾沖航空戦」のときも、日本軍は大惨敗でしたが、これも最初は「大勝利」として報道されました。

しかし、調べて見ると全くの「事実誤認」で、作戦に参加した飛行機の搭乗員が、味方機が墜落した炎や轟音を「敵艦撃沈…」と、見当違いの報告した結果だったのです。初陣に近い若い搭乗員たちは、夜間攻撃の経験も浅く、緊張のあまり、自分の願望も合わさってそのように報告したものだと言われています。この最初の報告は、天皇にまで達しており、久々の大勝利に国民は喜んだといいます。しかし、これを訝しんだ現地の軍人が、改めて調査をしたところ、敵の戦力は減るどころか、益々増強されており、作戦に参加した搭乗員の供述も曖昧でした。結果、最初の報告のほとんどが、「誤り」だったことがわかったのです。「誤報」の連絡が入った大本営では、やはり担当参謀のところで問題になりました。「陛下にまでお知らせした報告を、今更間違いだったと言えるか…?」「どの面下げて、誤報でしたと言うんだ!」と激怒し、やはり、電報をゴミ箱に廃棄し、口を閉じました。彼らエリート軍人は、自分たちに都合のいいように「捏造」しても平気だったのです。そして、天皇が決断をするまで「本土決戦・一億総特攻」を叫び続け、終戦を阻止しようとさえ考えていました。彼らの多くは、前線に立ったこともない陸海軍の「大学校」を出たエリート軍人でした。そして、その中には、「ソ連」とつながりを持つ軍人がいたと言いますから、「スパイ」は、日本の中枢にまで入り込んでいたのです。これでは、「太平洋の防波堤たらん…」として、命を捨てて戦った若者たちに申し訳が立ちません。このように、アメリカでも日本でも、政治家や指導層は、保身のために国が滅びようが、同胞が死のうが関係ないと嘯く輩がいたということです。そういうことを知りながら、映画「ペリリュー」を見て欲しいと思います。

映画「ペリリュー」では、戦場場面だけでなく、多くの「美しい自然」「生き物」そして、懐かしい「家族」などが描かれていました。子供のころに遊んだ「シャボン玉」を吹くシーンなどは、だれもが経験した楽しい思い出です。そんな「平和なひととき」を戦場で思い出す兵士の顔は、戦場で見せる「鬼の顔」ではなく、何処にでもいる普通の穏やかな「仏の顔」なのです。そして、最後に、主人公である二人の若者が、「終戦の真実」を知るためにアメリカ軍に投降しようとします。そして、世話になった小隊長にそれを阻まれると、一人が「もし、終戦が嘘なら、私は自決します。どうか、私を行かせてください…」と懇願しますが、小隊長は、二人に銃を向け、「投降する者は、撃つ!」と宣言します。投降すると言った若者は、銃の名手でした。崖の上から小銃を構え、こちらも撃つ姿勢を取ります。小隊長は拳銃で、その上、彼は負傷していました。本気で撃てばどうなるかは一目瞭然です。そして、緊張の数秒間が流れると、遂に小隊長の指は引き金を引きました。「ガーン!」。小銃を構えた若者は眼を撃たれ昏倒します。銃の名手だった若者は、世話になった小隊長を撃つことができなかったのです。そして、小隊長も負傷で力尽き、その場に倒れました。生き残ったもう一人の若者は、倒れた若者を背負い投降するのです。そして、「終戦の事実」を知りました。

洞窟に潜み、今尚、終戦が信じられない30数名の兵隊たちは、投降した若者たちが説得しても投降には応じません。そこで、生き残った若者の発案で、日本に残した家族に連絡を取り、手紙を送ってもらうことにしたのです。これは、多少の脚色はありますが、まさに「真実」のエピソードです。家族からの手紙を見た兵隊たちは、「日本の敗戦」と「家族の無事」を知ると、静かに洞窟を降り、アメリカ軍に降りました。これまでの自分たちの戦いを考えると、「投降」は、屈辱以外の何者でもありません。死んで行った仲間たちに申し訳ないという気持ちもあります。まして、日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」という掟がありました。それは、「敗戦」は、まったく想定されていなかったのです。そんな葛藤の中でも、兵隊たちは投降を決意します。それは、やはり「家族の無事」が確かめられたからです。「家族」ほど、自分に生きる力を与えてくれるものはないのです。こうして、「12000分の34」の命は救われました。

現地の人に助けられた「小隊長」は、結局、仲間の元には戻らず、みんなが還る船にも乗らず、一人、それを見送って終わります。彼がいなければ、この34人の命もなかったでしょう。それでも、彼は、生きて還りたかった日本に戻る選択を捨てたのです。上に立つ者として、真実を知らなかったとはいえ、自分の部下を自らの手で殺してしまった「罪」を自ら罰することで、自分の中の戦争を終わらせようとしたのでしょう。黙って還っても、だれも咎めないものを…。そして、死んだ仲間を背負い、一人投降して生き残った若者は、終戦後の日本の土を踏みました。そして、故郷の親たちが営む食堂の前に立つと、ひと言「ただいま…」と言って笑顔を見せるのです。首には、あの戦友の骨の入った「白木の箱」を掛けていました。この「遺骨」を彼が愛した家族の元に返さなければ、彼らの戦争は終わらないのです。死んだと思っていた息子が還ってきたことを、生き残った家族はどう思ったのでしょう。私の伯父が還ってきたとき、厳格だった父親が泣いて伯父を抱きしめたと母が言っていました。それは、やはり理屈ではない感情なのだと思います。きっと、生き残った彼も、その後、しばらくの間は、ペリリューでの出来事を家族にも話すことはなかったでしょう。それが、「戦争」なのかも知れません。この映画を見て、改めて「戦争」というものを考える機会となりました。ありがとうございました…。

 

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