JACK 蒼空の雷電

JACK  「蒼空の雷電」
矢吹直彦
序章 孫娘

朝だというのに、既に気温は三〇度近くを指している。日本の夏の特徴だとはいえ、八十半ばを過ぎた身には堪える。
儂のいるここ白河は、昔から東北への玄関口として栄えた城下町だ。
気候も比較的穏やかで、雪も降るが、北東北ほどじゃない。
田舎だから山もあれば川もある。
田畑が広がり、秋に見る黄金色の稲穂の波は美しい。
東には奥羽山脈が連なり、西には阿武隈山地、そして街の中には阿武隈川の清流が流れている。
松平定信公が整備した南湖公園もある。
もちろん、東北有数の米どころで清酒造りも盛んだ。
温泉も至る所にあり、儂もよく近くの甲子温泉に親父たちと一緒に出かけたもんだ。
まあ、都会に比べれば、この暑さも大したことではないのだろうが、それにしても、昔からあのアブラゼミは、何とかならんもんか…。いつも人をいらいらさせる。
しかし、そんなふうに一人で憤っておっても仕方がない。
蝉には、蝉の事情ってもんがある。
人間様の都合で鳴くわけにはいかんからな。儂の勝手な思いに蝉がつきあう必要もない。蝉よ、蝉は蝉らしく生きろ。
「蝉しぐれ 生きよと騒ぐ 今宵かな」
まあ、下手な俳句だが、今の儂の心境だ。それにしても「暑い!」。
本当は、「陽光麗らかな日差しが…」などと書き出したいところだが、汗ばんだ手で、陽光麗らか…はあるまい。
真夏のこの日差しは、老いた身には正直言って「きつい」。
まあ、書くとすれば、「灼熱の陽光を浴びて…」くらいかな…。
そんなことを言ってると、「おまえ、どこにいるんだ?白河には、砂漠でもあるのか?」などとばかにされるのが「落ち」だ。
まあ、もそっと柔らかな表現で、書き始めるとしよう。

儂の小さな書斎にも朝早くから、強い陽の光が差し込んでくる。
今まで長く伸びていた影がどんどん短くなって、そのうち点になるんじゃなかろうか…とさえ思う。
長く生きておると、こんな季節を何度も見てきた。正直言って、儂の一番嫌いな季節だ。しかし、一番忘れられない季節でもある。
それにしても、この強い日差しが、耐えられなくなったのも、自分が老いたせいだ。
それはようわかる。
わかるだけに、無念だ…。
まあ、これまでも「老い」を感じなかったわけではなかったが、最近、老いたせいか、自分の一生を振り返ることが多くなった。
「過去を振り返るようになったら、人間お終いだ…」と、よく亡くなった兄に言われたが、まさに今の自分がそうだ。
人の世話にはなるまいと思っていても、自分では、どうしようもないことがある。
腹立たしくもあるが、それが「老い」だと達観もしている。
平成と言われる今上陛下の御代も既に二十年。儂もここまでよう生きた…。
そして、どうやら、その日も間近に迫っているようだ。
儂も、もう満で八十六だ。昔の数えなら八十八か。何と、米寿じゃないか。
いやいやこんなに生きるとは、儂の想定外だ。いかんなあ…。
もう、いつお迎えが来ても構わん。
実は、本気で、そう思って六十年以上生きてきた。それに、祖父さんや親父より十年近くも長生きさせてもらった。我が家の先祖の中でも一番長い。
それに、そろそろ、先に行った女房の範子に迎えに来てもらわにゃ困る。
あいつも、勝手にぽっくりと逝ってしまいやがって…。
何が、「あんたを残して、あたしは死なれん」だ…。
それにしても、あいつはいい嫁だった。
戦後の混乱期にあいつがおらなんだら、どうなっておったことか…。
範子よ許せ…。悪態は昔からだ。
子供の頃よりあれほど鍛え、頑健だった体もため息が出るくらい衰えた。
もうあの「鬼樫」は振れんだろうな…。
範子よ、早く来い。逝くなら、今だろ…。

一人での朝稽古を終え、風呂に入り着替えて自分の書斎に戻る。
そして、いつものように、自分の古びた机の椅子に腰を下ろし、一杯の水を飲む。
これが、何十年と続いた儂の「ルーティン」っていうやつだ。最近テレビで覚えた。
この机や椅子も、復員してきた時、家の蔵にあった年代物を「勿体ない…」とそのまま引っ張り出して使っているものだ。
戦争から還ってきて、その後は、農家の兄の手伝いをしながら一農民として生きてきた。
それは、祖父さんや親父と同じ道だった。
苦労をしなかったわけではないが、戦争中のことを思えば、どうと言うこともない。
戦後は、GHQの命令で農地を安く小作に譲ったが、元々小作のみんなが耕した土地だ。今さら、惜しくもない。
儂たちは、家族さえ養えれば文句はない。元々、そうやって生きてきた。
台風や水害、地震もあった。冷害の年もあったし、干ばつに見舞われた年もあったが、兄貴や家族がいたから、何とか乗り切ることができた。その兄貴も三十年ほど前に、肺を患って死んだ。
その後、儂が農地を引き継いで働いてきた。
しかし、今じゃ長男の直之と次男の佑が近代農業とやらを採り入れて、全国に野菜や果物を出荷するようになった。
特に家のトマトは旨い。このトマトは、儂の兄貴の時代から改良に改良を重ね、出来上がった我が家オリジナルの「坂井ブランド」だ。
直之の代になってからは、東京の百貨店にも卸すようになり、有名なレストランからも注文が来るようになった。
もう、十分だ。儂の出番はない。
これでも、昔取った杵柄とやらで矍鑠としてはおるが、実際は老眼も進み、老眼鏡なしでは文字も拾えん。だから、直之に頼んでパソコンを譲り受けた。
これがなかなか具合がいい。字を書かんでも原稿用紙に文字が打てる。それに消しゴムもいらん。何て便利になったんだ。
これが時代の流れというものなんだろう。
なあ、山田よ…。これがおまえが見たかった五十年後の世界なのか?。
この世界を見るために、儂を生かしとるのか。
おまえが出撃する前に俺に寄越した手紙、まだ持っとるんだぞ。
おまえは俺に「生きろ」と書き残した。
「生きて五十年後の世界を見ろ」と言い残しておまえは逝った。
これでいいのか…。まあいい、もうすぐおまえにも会える。その時に聞くとする。

儂は、徐にパソコンを開き、机上にある書棚から一冊の単行本を取り出した。
今では、老眼鏡を拭きながら、本を読むことと、時間の許す限り、パソコン上の原稿用紙に「文字を綴る」ことが唯一の楽しみになった。
「さて…」と、いつものように、本を脇に置き、パソコンの原稿用紙に向かっていると、
「お祖父ちゃん。いる…?」
庭の方から、聞き慣れた明るい声が聞こえた。
「幸か…」
儂は書きかけの原稿を「スリープ」した。こうしておけば、いつでも起動することができる。これでも結構、村の老人会じゃ「パソコン通」と呼ばれておる。
幸は庭が好きな子だ。
幼い時分から、いつも儂の書斎の前の庭で遊んでおる。
書斎にいると、キャッキャッ…と嬉しそうに声を上げる幸の笑い声が聞こえる。
一人の時もあれば、友だちと一緒の時もある。母親と一緒の時が多いかな。祖母さんが生きておった頃は、祖母さんと一緒に水撒きなどをしておったな…。
特に何もないが、そんな幸のはしゃぐ声は儂の密かな楽しみでもあった。
広い庭で、母親と一緒に草花を種から育て、一生懸命に世話をする心優しい孫娘だ…。
幸の声に誘われるように、外を見ると、夏草が茂り、命あるものに「さあ、元気に生きよ!」と催促しているようだ。
「ああ、おるよ…」
「やっぱり、ここだ…」
「ねえ、ちょっと入ってもいい?」
「ああ、なに遠慮しとる。入ってこんか…」
「ふふっ、私ももう六年生だから、少しは遠慮しなくっちゃ、って思ったから…」
そういうことか…。
まあ、きっと母親の知恵にでも言われたんだろう。
そんな他愛もない会話を交わしながら、幸が庭先から書斎に入ってきた。
六畳ほどの小さい書斎だったが、今はエアコンがあるので、こんな老人にも過ごしやすい快適な居場所になった。
「ああ、涼しい…。でもお祖父ちゃん、冷えすぎはだめって、母さん言ってたよ!」
と母親の真似をして言うところが、小憎らしい。おまえも、いずれ、そういう女になるのか…。
まあ、そんなご注意も孫から受けるが、儂には、もう通用せん。
この歳になれば、恐い物なんかあるもんか…。
この孫は、そもそも、儂に遠慮するということがない。
当たり前と言えばそれまでなんだが、他の者は、儂に遠慮がちに話をしてくる。儂が頼んだわけではないが、どうやら、そんな近寄りがたい雰囲気を儂自身が作ってしまったんじゃろう。
幸は、儂の側に擦り寄ると、興味深そうに儂の机の上の本に手をかけた。
幸の汗の匂いがする。生気に満ちたいい匂いだ。
この子は、甘えるのが昔から上手かった。
小さい時分から、すぐに儂のところにやってきては、甘えてくる。と言うより、ねだる。
欲しい物があると来るので、一度母親から「書斎入室禁止令」が出たことがあった。その上、儂にまでご注意が飛んだ。
「いい、お義父さん。あんまり幸を甘やかさないでください。本当に困りますから…」
母親は、少しむっとした顔をしたが、こいつも嫁に来た頃は、初々しくて笑顔が可愛い娘だったんだが…。子を二人も産むとこうも変わるのか…。
まあいい。この嫁は嫁なりに、我が家の財政を切り盛りする「大蔵大臣」の任を全うしとる。これが我が家の家風だからな。
それにしても、嫁から注意されてしまえば、大っぴらにはできん。
幸と二人になると、
「へへっ、お祖父ちゃん。母さんから怒られちゃったね…」
と舌をぺろっと出す調子のいい娘だ。
そのうち放っておいたら、母親も忘れたらしく、もう禁止令は解かれたようだ。
「ねえ、お祖父ちゃん?」
「ん、なんだ…」
「この本、なあに?」
「ああ、重い…。それに随分、難しそうな本ね…」
「ああ、少し分厚いが、お祖父ちゃんには、懐かしいことがいっぱい書いてある大切な本なんじゃよ…」
「へえ、そうなんだ…」
「もう一度、貸して…」
幸は、儂の机の上にあった単行本を「よっこらしょ…」と自分の膝の上に置くと、小さな手でページをめくり始めた。
「わあ、やっぱり難しい…」
「でも、戦争の本なのね…」
「ああ、儂の若い頃のことが書いてある。儂の青春じゃ」
「そうなんだ。じゃあ、今度、幸に戦争のことをお話ししてよ…」
「ん?、幸は、そんなことに興味があるのか…?」
「うん、実は…この間ね、変な夢を見たの…」
「どんな夢なんだ…」
「なんか、少し恐い夢…」
幸がしかめっ面をする。
「でも、あれ、私はお祖父ちゃんだったって思うんだけど…」
と、首を傾げている。
「ほう、儂が出てくるのか?」
「うん、でも若い人、大きな眼鏡をかけて、小さな飛行機で空を飛んでた」
「その人ね、少し苦しそうだったの…。だから、気になって…」
「でも、内緒。誰にも言わない!」
「だって、話してもなんか変でしょ…」
「でも、お祖父ちゃんにだけは言おうと思って…」
そうか、幸がそんな夢をねえ…。
この子はやはり、儂と同じ血が流れておるんじゃなあ…。
儂も一人で寝ていると、よく昔の夢を見た。
範子が生きていた頃は、
「あなた、随分魘されてましたよ…」
と度々心配してくれたが、範子が逝ってからは、一人なのでよくわからん。
しかし、夢を見るのは、今も変わらんかった。
儂の夢も、きまってあの日のことじゃった。
あの、十一:〇五。忘れられん記憶じゃ。
なぜ、幸がその夢を見たのか、理由はわからんが、その若者とは、きっと儂のことなのだろう…。
儂が、息子の直之や娘の咲にも言わなかった戦争の苦い記憶だ。
その苦い思いが強すぎて、こんな幼い娘に気づかれてしまったのかも知れん。
そうぼんやりと考えていた。
「ねえ、お祖父ちゃん、そうだよね…」
「苦しい顔をして空を飛んでたの絶対お祖父ちゃんだよね…」
そう尋ねられても、何とも言いようがない。
「さあ、どうかな…。そうかも知れんし、違うかも知れんな。だって、おまえの夢のことだからな…」
「ねえ、幸も苦しいの…。それがずっと気になってて…。ねえ、今度、お祖父ちゃんの昔のことをちゃんと聞かせてよ…」
「ああ、そうだな…」
幸には、「それは、儂だ」とは、はっきり答えなかった。
言っていいものか、言わない方がいいものか、今の儂にはわからんかった。
しかし、一方で、これも儂自身の歴史だ。人生だ。それを誰かに伝えなければならんとすれば、儂の血を受け継いだこの孫娘かも知れん。
そう思ったが、まだ躊躇いもある。
儂は、復員後、戦闘機に乗っていたことは、周囲にも話したが、詳しい話をしたことはない。妻の範子も敢えて聞こうとはしなかった。
それを今さら…。
「ああ、わかった、わかった。後でゆっくり話すから、遊んでおいで…」
そう、当座をごまかして、頭を撫でてやると、幸は可愛らしい笑顔を見せ、
「うん、じゃあ今度ねっ…。約束よ。来週でいいから…」
「今日はね、これから隣の美代ちゃんと川に遊びに行くんだ。魚が泳いでいるんだよ。今度、お祖父ちゃんも行こうよ」
「ああ…」
と生返事をしたが、なんだ、もう行ってしまうのか…と、少し寂しかった。
「ところで、幸。今日は何日だったかな?」
「なあんだ、お祖父ちゃん。今日は、八月の十日よ。そうだ、早く夏休みの自由研究もやらなくちゃ…」
幸にそう言われて、壁に掛けてあるカレンダーに眼をやると、幸の言うとおり、今日は八月十日なんだ…と気がついた。
そう言えば、もうすぐお盆だな。今日は夕方でも墓の掃除に行って来るか…。
これだから年寄りは困る。暇にしていると日にちや曜日の感覚もない。
年寄りにとっては、毎日が長い夏休みみたいなもんだ。
その日暮らしが、儂の日常になってしまったらしい…。
「ああ、幸、ありがとう。年を取ると、日にちもすぐに忘れて困るわ」
と笑うと、幸は、
「しようがないわね…」
と、最近ちょっと大人びた言い方をするようになった。
そろそろ幸も年頃かな…。
幸は、儂の本を机の上に戻し、こちらをちらちら見ながら、部屋を出て行こうとするので、
「幸、気をつけろよ。深いところには行くんじゃないぞ」
と注意を与えながら、「ほら、いつもの…」と財布から百円玉を取り出すと、幸は、「待ってました…」とばかりに、周囲をキョロっと見回し、両手を差し出した。
きちんと両手を出すところが幸らしい。
「じゃあ、百円…」
幸も六年生になって、月の小遣いも今までより百円アップして、六百円になった。
でも、友だちとの付き合いもあり、「足りない…」というぼやきを言いに来る。
「ねえ、お祖父ちゃん聞いてよ。母さんはほんとケチ。こないだだって、釣り銭の五円もくれないのよ…。やんなっちゃう」
と、ふくれるが、これは儂へのおねだりの合図だということは、百も承知だった。それで、つい百円…ということになってしまう。
幸の兄貴の勇介は、中学二年生だが、小さい頃から儂の書斎に来たことがない。
まあ、子供の頃から剣術を教えていたせいか、どうも硬くていかん。
幸は、剣術には興味もないらしく、庭の隅にある道場には顔も出したことがない。

少し説明をしておくと、儂は戦後、復員してきてから農業に従事したが、傍ら剣術も教えていた。
これは、我が家に先祖から伝えられた「無限流」を絶やさないための儂に与えられた義務でもあった。
儂が復員すると、兄の信吉も家に戻っており、家族中で二人の無事を喜び合った。
儂の祖父さんや親父も無限流の奥義を会得していたが、この秘伝の技を継承したのは、儂だけだったので、ここで改めて無限流を継承し、道場を開いたというわけだ。
しかし、町の剣道場とは違い、門弟は特に採らない。
今、やっているのは、息子たち二人とその子の勇介と琢己、そして村の子の高志だけだ。この子らは、意外と素質があると見込んでいるので、儂と山ちゃんのような関係になることを期待しとる。
幸たち娘は、どうも剣術は好かんらしい。
女房の範子は、娘時代は薙刀の名手だったのに、どうもそちらの血は遺伝しなかったようだ。まあ、仕方あるまい。
そんなわけで、儂の財布から百円玉が幸の手に渡った。
しかし、これは母親の知恵には内緒。
「うふふっ…。お祖父ちゃん大好き…ありがとう」
と幸は喜んでいるが、嫁も薄々は気づいている。
しかし、年寄りの楽しみを奪うほど野暮な女じゃない。
今のところは、「見て見ぬ振り」というところだ。
幸は、百円玉をぎゅっと握りしめると、さっさと書斎を出て行った。
ああいう現金なところも、儂譲りかも知れん。
「幸、気をつけて行ってこいよ…」
書斎からそう叫ぶと、
「はあい!」
遠くから幸の屈託のない明るい声がこだました。
儂は、もう一度老眼鏡をかけ、幸の置いた本のページを一枚一枚ゆっくりと捲りながら、あの日を思い出していた。
十分もそうしていただろうか。
日課になっている剣の朝稽古の疲れが出てきたのだろう。瞼が少し重くなってきた。
夏の日差しと、エアコンの涼風が、儂の眠気を誘った。
そろそろ、アブラゼミが鳴き始める。
あれだけは、どうにもならん。
その前に、
「さて、それじゃあ、少しだけ横になるか…」
と、独り言を呟き、机の隣に置いてあるソファーに横たわった。
静かな時間だった。
表からは、小鳥の鳴き声と木々の葉擦れの音が、儂のいる書斎にまで入ってくる。
「蝉は、まだ鳴かんなあ…」
儂は、そんなことを思いながら、まどろみ、深い眠りへと誘われていった。
時の止まった儂の古びた机の上には、「厚木航空隊始末記」と書かれた単行本だけが、歴史の時を刻むように置かれていた。
そして、その隣には、愛用のパソコンが開かれたままだった。
もう眠い…。夢の中でもう少し、奴らのことを思い出すことにしよう…。
そう思ったとき、遠くから小さく、ゴロゴロ…という雷鳴が聞こえてきた。
「ん?何の音だ。雷か…?」
「さて、幸は、大丈夫かな…」
遠ざかる意識の奥で、懐かしい雷鳴が近づいて来るのを感じていた。

第一章 海軍飛行専修予備学生

昭和十九年七月二十六日。
「まだ、早朝だというのに、なんて暑さだ!…」
学生たちが生活する大部屋の寝台の上で寝汗をかき、夜も熟睡できなかった。まあ、これだけの若い男が一緒に寝ているのだ、暑苦しくないわけがないだろう。
それに「臭い!」
若さとは、たとえ血反吐を吐くまで鍛えられても、一晩眠れば一気に回復するものだと思っていた。
そして、どこでも横にさえなれば、すぐに爆睡するのが、若者の特権だと思っていた。しかし、こんな夜もあるのか…。
俺としたことが寝不足とは情けない。
そんな苛立ちが平常心を失わせていた。
俺は、フーッと腹の中の濁った空気を外に吐き出すと、「よし!」と気合いを入れた。少しはすっきりとした気分になった。
周りの連中も寝苦しかったらしく、
「おい、坂井。まだ起床ラッパ前だぞ!」
「寝てろ、寝てろ…」
と小声で注意を受けた。
みんな寝不足で苛立ってるな…。
仕方なく一度起こした体を再度寝台に横たえ、上を向いて「ぼうっ…」としていることにした。
耳元には、外からアブラゼミのジィ、ジィ…という、さらに暑さを増幅させる嫌な昆虫の鳴く音が集団で聞こえてくる。
今時、アブラゼミなど珍しくもないが、この真夏にうるさいこの蝉に、アブラなどという暑苦しい名をつけてやらなくても、よかったのではないか。
もっと爽やかな、スズムゼミとか…何かないか。
そんなくだらないことを朝ぼけの頭の中をぐるぐると回っている。
そして、ついでに、
「この戦争、いつまで続くんかな…」
と、軍籍に身を置く海軍飛行予備学生らしくもない泣き言を口にして、はっと我に返った。
「あ、しまった。くわばら、くわばらだ…」
ここは、天下に聞こえた海軍航空隊だ。
そんなことを上官に聞こえたら、また殴られる。
冗談じゃない。
軍隊に入ったその日から、毎日殴られた。
海軍じゃ「鉄拳制裁」と言うようだが、俺は馬や豚じゃない。
と言っても、けっして不満は言葉にはしない。
ここは、まさに地獄の一丁目だ。おしゃべりは、何の得にもならない。
「早く訓練を終えて、少尉に任官してえなあ…」
そうなれば、海軍士官だ。
もう殴られることもない。
そう考えて、もう一度、今度は一人静かに口に手をあてがって欠伸をする。
はーあ…、眠いなあ…。涙も出てきた。
こんな呑気そうな俺だが、自分ではそうでもないと思っている。
意外と神経質だし、気も遣う。ただし、物事は、ポジティブに考えるのが、俺流の哲学だ。

それにしても、昭和という時代は、なんと不幸な誕生をしたのだろうか。
大正十二年九月一日の正午に起きた、関東大震災と名付けられた未曾有の大震災は、これからの時代を暗示するかのような悲劇を日本にもたらした。
明治維新以降、富国強兵をスローガンに近代化を急ぎ、日清、日露の両戦役を乗り越え、日本は国際社会の一員となった。
しかし、平和を謳歌できたのは、大正初期の十年程度だった。
俺たちが生まれた大正末期は、既に不景気風が吹き始め、大正天皇の崩御と今上陛下の即位は、大きな儀式とともに時代の変わり目を国民に知らしめた。
それにしても、祝賀ムードもなく、政府広報やマスコミだけが、一人で騒いでいるようで、国民の多くは、先行き不透明な時代を不安げに見つめていた。
俺たちが小学校に上がる頃には、中国大陸での焦臭い事変が勃発しており、若い農村の男たちは、次々と招集されていった。
俺の祖父さんが、
「なんだか、日露の頃のようじゃな…」
と嘆いたが、これはその後に起こる序章のようなものだった。
歴史を見れば、アメリカで始まった株価の大暴落を契機として、世界は経済パニックに陥った。
こうなると国際社会は、綺麗事ではすまない。
どんなことをしてでも、自国の利益を守れ!とばかりに、植民地獲得競争を激化させ、侵略と収奪を繰り返した。
今やインド、インドネシア、ビルマ、フィリピンなどのアジア諸国は次々と欧米の植民地となった。
そして、大国と思われていた中国までもが植民地主義者共の餌食となったのだ。
日本が戦争に追い込まれた背景には、欧米列強のエゴとの衝突にあった。
日本は、日清・日露の二つの戦争による大陸での権益を守ろうとし、移り住んだ多くの日本人を保護する責任があった。
まして、ロシアの脅威はソ連に変わってからも依然として消えることはなかった。
今の人たちには、植民地がどのようなものか想像もできないだろうが、簡単に言えば「侵略と力による支配」のことだ。
弱い下等民族は、強い支配者に黙って従え…という論理が罷り通った。
奴らは平気で、
「お前たちは劣等民族だ。劣等な民族は自ら自分の国を治められない。そのままにしておいたら、この国はいずれ滅びるだろう。だから、我々は、おまえたちのために統治してやるのだ」
と嘯き、何も与えず合法的にすべてのものを奪い去っていったのだ。
食糧を奪い、資源を奪い、宗教を奪い、言語さえも奪った。
王政を敷いていた各国の王も退けられ、王朝も悉く消え去った。
人々は、侵略者たちの奴隷と化し、反抗する者は容赦なく殺された。
アジアで唯一、日本だけが、そんな植民地支配から生き残るために、明治維新を断行し、必死になって近代化を推進してきたのだ。
そして、白人中心の国際社会で、彼らの作った国際ルールを遵守し、差別と圧力を受けながらも妥協を重ね、外交交渉による解決を模索した。
だが、所詮極東の小国扱いは変わらず、一旦力が弱まると見るや、欧米列強は、エゴを剥き出しにしてきた。
まあ、帝国主義とはそういったものだが、持たざる国の悲哀を感じざるを得なかったのが、当時の日本だった。
日本は、国際社会へのデビューが遅く、国際社会の本音と建前の違いすら、よくわかっていなかった。
「正義、正論が通らねばならん!」
そう言う武士道的な勇ましさは、日本国内では通用しても、白人中心の国際会議の場では、相手にもされない。
「なんだ、英語も満足に喋れない日本人どもが…」
と最初から問題外の扱いを受けていた。
奴らが、陰で「モンキー」と蔑んでいることは、みんな知っていた。
昭和四年に始まった世界大恐慌は、別に日本がどうのこうのと言う話ではなかったが、農業国から工業国へと転換を図った時点で、日本は国際社会から見放されるわけにはいかなくなった。
近代化とは、そういうことだったんだ。
結局、そんな世界恐慌の波をもろに被った日本は、既に一億に迫る人口を抱え、世界から孤立し、乳飲み子を抱えた若い母親のように、オロオロするばかりだった。
立場が弱くなると、手のひらを返すのも国際社会の掟だった。
最近のし上がってきた極東の島国のことなど、利害もないのに、だれが助けようとするものか。
所詮、人間も弱肉強食の動物と違いはない…ということがわかっただけだ。
弱肉強食の自然の摂理に抵抗する術などないのだ。
そんな大恐慌の波は、俺の田舎にも及んでいた。
あんな小さな村でも、自給自足が出来ず、娘の身売りの話は出ている。
唯一の現金収入だった養蚕も価格が暴落し、最近では蚕を飼う家も少なくなった。
小作の中でも小さな田畑しか持たない農家は、収穫した米を地主に納めると、毎日食べる米にも困る有様だった。
その上、若い働き手を兵隊に取られれば、もう二進も三進も行かなくなる。
親父や兄貴は、そんな家の小作たちを必死に守ろうと、年貢を少なくし、借金の肩代わりをして、もう何枚の田畑を売っただろうか。
幸い、今のところ、小作たちの家からは、娘を売った者はいないが、喰うに困って「子供を奉公に出す」という名目で、十四、五の娘を女衒に渡した農家の話は、近隣の村では、珍しいことではない。
これで冷夏にでもなれば、我が家とてどれだけ守り切れるか、不安は尽きない。親父や兄貴の苦労が偲ばれるというものだ。
そんな重苦しい空気の中で、昭和が始まり、国民の目は自然と大陸に注がれていった。
農家にとって耕作ができれば、国内に限ったことではないのだ。
「大陸に渡れば、一攫千金も夢ではない…」
と言った、雲を掴むような話も聞こえ、現状の不満を外に向けようとする機運があった。
もう一つ、話しておかなければならないのが、満蒙開拓団二十七万人の悲劇だ。
「大陸に渡れば…」という空気は、白河地方の農家にも広がっていた。
長野や岐阜などでは、かなり大規模な移住計画が作られているらしい。
親父や兄貴は、
「何を言っとるか…。満州なんぞに行ったところで、米も作れやせん。もう少し、我慢しろ!」
そう言って、小作人たちを励まし続けたが、昭和十年以降、国は国策として満蒙開拓団を奨励し、近隣の村でも村を挙げて参加を表明したところもあった。
「旦那さん。おれたちも満州に渡らねえか…?」
と集団で言ってくる始末だった。それくらい農民の生活は苦しかったのだ。
残念ながら、そんな親父や兄貴の説得にも耳を貸さず、夜逃げ同然に開拓団に参加した小作人もいた。
しかし、満州の荒野を兵隊として過ごした経験を持つ親父は、
「あんなとこ、土地が広いだけで寒さが厳しく、食い物と言ったら、高粱くらいしか育たんのだぞ!」
と、どんな説得にも応じようとはしなかった。
そのために、「国策に協力しない」と言うことで警察からも睨まれ、小作たちとの関係もぎくしゃくしたらしいが、白河の名家の血筋を誇る我が家の名前は意外と大きく、警察や県庁の役人でも、下手な手出しはできなかったそうだ。
昭和二十年八月十五日に敗戦を迎えると、満州に渡った開拓団二十七万人は、突然攻めてきたソ連軍の攻撃を受け、多くの命を大陸に散らすことになった。そこには、年寄り、女子供にまで及ぶ満州邦人の悲劇があった。
俺は、それを戦後知ったが、この戦争を戦った兵隊の一人として、心から申し訳なく思う。
なぜ、もっと頭を働かせて工夫をしようとしなかったのか、いかにも、辛抱が足りない。
怒っても仕方がないが、大陸にだって人はいる。中国人や朝鮮人だっている。
いくら、「金なら払う」とか、「戦争で得た権利がある」と主張されても、今そこに暮らす人々には関係なかろう。だから、あれほどまでに恨まれたんだ。
国内の問題解消のために。そのはけ口を外国に求めても、日本の論理が通用するはずがない。
もっと山間部を切り開くとか、別の産業を興すとか、国内で解決する方法はなかったのか。本当に腹が立つ。
そんな鬱屈 した空気を吹き飛ばしたのが、昭和十六年十二月八日早朝のラジオ放送だった。
それは、勇ましい軍艦マーチの演奏とともに始まった。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
それは突然の出来事だった。
「えっ、アメリカ、イギリスと戦争…?」
「冗談だろう…」
「中国とだって、まだ終わらねえうちに…」
「アメリカには、家に自動車だってあるんだろう…」
そんな不安な言葉が飛び交う一方で、これまでのアメリカの仕打ちに耐えてきた国民の中には、
「よし、やってやるぞ!」
「来い、鬼畜米英!」
と、敵愾心をむき出しに、闇雲に戦争を求める空気もあったのだ。
特に新聞は酷かった。
新聞は、国民の戦争気分を煽り、日中戦争の英雄談を連日掲載し、「正義は我にあり」という論調で、何が何でも戦争に持って行きたい雰囲気があった。
松岡外相の国際連盟の脱退の時だって、三国軍事同盟締結の時だって、新聞は政府や軍部の弱腰を非難し、国際社会から孤立する道を煽り続けたのだ。
それに乗せられた国民も愚かだが、まさか、マスコミが新聞の売り上げだけのために、戦争を欲したとは到底考えられない。
しかし、よく考えてみるとゾルゲ事件があったのが昭和十六年九月だ。
この事件では、近衛文麿内閣嘱託の尾崎秀実、朝日新聞の田中慎次郎、磯野清らが検挙され、尾崎はゾルゲ共々死刑に処せられている。
他にも共産主義者、社会主義者が多数検挙され、日本の一大スパイ事件として、世間を驚かせた。
対米英戦に突入したのは、その三ヶ月後だと考えれば、既に戦争工作は終了していた可能性がある。
この頃、日本の政治やマスコミの中枢には、対米英戦に日本を向かわせる謀略が進んでいたと言ってもいいだろう。
祖父さんや親父世代は、直接苛烈な戦場の経験があるが、暢気な戦争をやってきた次の世代は、弱い中国兵と戦うような気分で、今度の戦争を捉えていた風がある。
当時、日本は日清戦争以降の権益を守り、ソ連共産主義の防波堤を築く目的で満州国を建国していた。
満州事変を画策した陸軍の石原完爾中佐は、本気で満州に五族協和の王道楽土を創りたかったようだが、そんな夢物語で兵を動かすことはできない。
夢を追う人間は一人、それに便乗した連中は、欲の皮の突っ張った人間だと言うことだ。
清国の皇帝だった溥儀を連れて来て満州国の皇位に就けたが、周りが日本人ばかりでは、皇帝も面白いはずがない。
結局、権力争いの陰謀が渦巻き、石原中佐は左遷、王道楽土も単なるスローガンと化した。
日本人は、一人一人はおとなしく穏やかな気質を持っているが、何故か集団になると、付和雷同し、無茶なことをしでかす。
満州国も建国の理想を忘れ、常に日本人が上位にいて他の民族を見下すようでは、列強の植民地主義と変わらないではないか。それでは、人はついてこない。
理想はどんなに立派でも、人とは所詮そういう生き物だということを、石原中佐はわかっていなかったようだ。
そんな不満が内部からも噴き出すようになると、国際社会は勢いづいた。
それで、国際社会は、自分たちのやってきたことなど忘れたかのように、「日本がとんでもない植民地国家を創った!」
と怒って見せたわけだ。
結局、満州は、日本の傀儡国家に成り下がったことが、この国の悲劇を生んだ。
そして、天皇の命令すら無視した謀略による国家建設は、大義名分の上からも正義を主張できなくなってしまったというわけだ。
こうした錯誤が続いてくると、国際社会もいよいよ満州国は承認できなくなった。
国際連盟の場で、満州国不承認の決議が出されると、松岡外務大臣は、大演説をぶちかまし、国際連盟を格好良く脱退して見せた。
これに新聞や日本世論は拍手喝采を贈った。
まあ、松岡にしてみれば、
「何を偉そうに、おまえたちだって、似たようなことをしてるじゃないか!」
と言ったつもりかも知れないが、国際連盟は、白人社会の権益を守る団体だということを忘れてもらっては困る。
建前は国際平和、本音は白人秩序の再構成だったことは、すぐにわかる。
戦争になって儲かるのは、国際資本を牛耳る一部の金持ちだけなのだから。
日本の立場からすれば、確かに、大陸の満州地域は、日清日露の戦争で日本人が夥しい血を流し、獲得した中国における権益だった。
そしてロシアからの防衛線の意味合いも強い。
ロシアそして革命後のソ連による南下施策は、日本の独立維持を危うくするものであり、日本がやむなく明治維新を受け入れたのも、日本の植民地化を防ぎ、皇室と日本国を守らんがための苦肉の策だった。
征韓論や日韓併合問題も、根底には日本の防衛があったことを忘れてはならない。
ロシア革命で皇帝一族が悉く無残な運命を辿り、帝制が倒され、共産国家ソ連が誕生すると、ソ連の指導者は、コミンテルン(共産主義インターナショナル)を使い、世界中にその共産思想と革命運動の種を蒔いていった。
日本が共産主義を受け入れられなかったのは、日本の歴史そのものである皇室を消滅させることにつながる危険性を感じたからだ。
それは、革命によって倒されたフランス革命やロシア革命を見れば明らかだ。
「日本に共産革命が起きれば、皇室が倒されるだけでなく、皇族すべてが殺される。それは、日本の歴史や伝統の破壊だ」
これは、当時の日本人にとって信じ難い恐怖でしかなかったのだ。
しかし、共産主義の理想を信じた革新系学者や政治家、軍人などは、日本に再度の昭和維新を夢見た。
恐らくは、
「天皇親政による王政と共産主義は並列できる」
と本気で考えていたのだろう。
そして、
「明治維新だって、草莽の志士たちが決起したことで成った革命だ。俺たちにできないことはない」
とばかりに、若い軍人たちは、共産革命を起こそうとする勢力に操られ、その言葉巧みな論理に操られた。
彼らが作った「昭和維新の歌」の歌詞を読んでみろ。気持ちだけが先走って、冷静な分析ができていない。その理屈にもならない、子供じみた夢が語られているだけだ。
汨羅の淵に波騒ぎ
巫山の雲は乱れ飛ぶ
溷濁の世に我起たてば
義憤に燃えて血潮湧く
汨羅の淵とは、古代中国で楚の忠臣であった屈原が秦の国に滅ぼされる直前に悔しさに涙を飲んで身を投げた川のことだそうだ。
巫山は楚の国の霊山で、世の乱れを巫山の雲に置き換え、自分たちの理想こそが、国や皇室を護ると思い込んだ。
後は自分たちの言葉に酔い、その熱情に酔っている時だけ、彼らは幸福だったのだ。
確かに、社会の表層を見れば、農民が疲弊し、不況の波は衰えず、天皇親政に一縷の望みを託そうとした気持ちはわからなくもないが、国際情勢はそんなに甘くはない。
明治維新のように、
「今、時代を変革しなければ、帝国主義の列強に飲み込まれる」
といった志士たちの危機感とは、結論において同一ではない。
なぜなら、その危機意識は、当時の幕府にも、いや全国の知識人たち共通の認識だったからだ。
昭和維新を叫んだ連中は、単なる夢想主義者と、あわよくば軍事政権樹立を目論んだ者たちの、陸軍内の派閥争いに過ぎなかったことに、気づこうともしなかった。
天皇親政を夢見た陸軍の皇道派は、昭和十一年二月に二.二六事件を起こしたことで、天皇の激烈な怒りを買い失脚した。
また、後を襲った統制派は、まさに国民を管理統制下に置き、百年戦争を完遂しようと考えた。
そして、遂には共産主義の理想と共に未曾有の敗戦という結果だけを残して消滅したのだ。
もし、この昭和維新が成功し、天皇親政の下、共産革命が成就したら、日本はその思想を同一とするソ連の施策に乗せられ、東ヨーロッパが味わったと同じ苦しみを味わうことになっただろう。
その上、ソ連の命令により皇室が倒され、肥大化した軍部がソ連の先兵として、さらにアジアを侵略し、世界大戦を引き起こしたことは間違いない。
そこには、もう日本という歴史と伝統を重んじた国は存在しない。
「ヤーパン」とか呼ばれるソ連の衛星国が極東に誕生しただけのことだ。
そんな未来を誰が歓迎なんかするものか。
昭和初期は、戦争と革命テロが人々を狂わせ、世情不安を煽り、まさに混沌とした暗黒の時代だった。
ここに来て、明治維新の負の遺産が一気に噴き出したような感がある。
この頃、軍部では、天皇はどのようにでも操ることが出来ると天皇個人を侮る風潮さえ見えたのだ。
天皇を「玉」 と呼び、権威の象徴を権力で操れると考え、明治維新を起こした長州や薩摩の謀略思想が、その血とともに、帝国陸海軍に受け継がれていたのである。
結局のところ、薩長が創った日本を薩長の手でぶっ壊したというのが、明治維新の本質なのかも知れない。

世界に眼をやれば、それは、アメリカも同じだった。
ソ連の誕生は、ヨーロッパ諸国に危機感を与えたが、海を隔てたアメリカには、緊迫した実情は届いてはいなかった。
ヨーロッパは、ロシア時代からドイツとロシアの脅威に怯え、戦争を繰り返していた歴史がある。
そのため、ロシアからソ連に変わっても、安心できる材料など何もなかったのだ。
そして、国際金融を支配する財閥企業家たちは、悪魔の商人と化し、莫大な利益を生む戦争を欲し、密かに世界中にそのエージェントを送り込んでいた。
日本に送りこまれたのが、ドイツ人記者を名乗るリヒャルト・ゾルゲであり、尾崎秀実らであった。
当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトもそのエージェントによって操られた。と言うより、自らそれらを望んで取り込んだと言った方が正しい。
当時、アメリカ国民は、けっして戦争を望んではいなかった。
それより、第一次世界大戦にアメリカが参戦したことに対する抵抗感が根強かった。
日本もアメリカも母親は同じだ。
戦争に勝とうが負けようが、息子が死ぬことは耐えられない痛みなのだ。
だから、アメリカ国民の多くは、
「もう、二度と愛する息子を戦場には送りたくない」
と願っていたのだ。
世界恐慌の中で、アメリカ大統領選に立候補したルーズベルトは、前大統領ハーバート・フーバーに勝利し、アメリカの第三十二代大統領となった。
ルーズベルトは、「アメリカの青年を絶対に戦地には送らない」と不戦主義を掲げ、経済不況の立て直しを約束して大統領選に勝利したが、それは飽くまで選挙に勝つための方便だったことは、今では明らかになっている。
アメリカの母親たちは、ルーズベルトに騙されたのだ。
ルーズベルトは大統領に就任すると、次々と大統領権限で国家主義的な政策を断行した。そして、それらはほとんど失敗し、国民の眼を欺くために戦争を欲したとも言われている。
ルーズベルトは、共産主義国家ソ連をいち早く承認し、日本を敵視し、挙げ句の果てに日本の真珠湾攻撃を謀略によって誘い込み、世界大戦に参戦するといった公約破りすら平気で行った。
戦後、その謀略を知ったフーバーは、烈火の如く怒ったが、その時既にルーズベルトは地獄に落ちていた。
ルーズベルトは、アメリカの歴史上最悪の大統領だった。
日本を徹底的に敵視し、日本壊滅を模索した人種差別主義者だった。
「せっかく邪魔なロシア皇帝を倒したのに、まだ極東の後進国日本には、野蛮な天皇制が存続し、共産主義を阻もうとしている」
そう考えたルーズベルトやその側近たちは、あらゆる手段を使って日本を滅ぼそうと画策し続けた。
日清、日露の戦争に勝利し、朝鮮半島から中国大陸に権益を広げた日本は、ルーズベルトたちの野望に立ちはだかる目の上の大きなたん瘤だった。
中国へ勢力を延ばし、中国を植民地化し利益を搾り取ろうと考えていた金融資本家やルーズベルトは、生粋の国際主義者(グローバリスト)であり、隠れた共産主義者だった。いや、やっていることを見れば、もっとも邪悪な「国際侵略者」だったのではないか。
ルーズベルトを支援する勢力は、世界の金融をも支配し、その力で世界を自分たちで牛耳ろうと企んでいたのだ。
現在も、アメリカは中国に触手を伸ばし、利益を恣にしようと企んだが、逆にアメリカの利益のために野放しにした中国共産党に甘く見られ、「世界を太平洋で分け合おう」などと侮られた様は、滑稽に見える。
結局、アメリカという国は、その程度の目先の利益だけで動く資本主義国だということでしかない。
今でもアメリカに幻想を抱く国民は多いが、歴史も文化も伝統もない国家には、道義も責任もなかった…と言うことだろう。
そして、ロシア革命が成功したのも、その国際金融資本の勢力が裏で革命派を支援をしたからである。
日本が中国大陸で、泥沼の戦いを強いられたのも、構図はロシア革命と同じだった。
「目の上のたん瘤は、早く潰せ!」
今の時代にこんなことは言いたくはないが、白人種にとって日本人は、差別されても仕方のない有色人種なのだ。
人として、底辺にいなければならない「カラー」が、国際社会で対等な物言いをすること自体が人種差別主義者には許せない所行だった。
ルーズベルトとは、そんな偏った差別主義者であり、そんな偏見が社会から非難を浴びるようになるまでには、まだ数十年の時を必要としていた。
彼は、政府部内に共産主義者を多数抱え込み、ソ連に協力するような施策を採り続けた。
ルーズベルトは、いち早くソ連を承認すると、第二次世界大戦中もソ連を同盟国として扱った。ドイツに追い詰められていたソ連に武器弾薬を供給し、それを支えたのもアメリカだった。
ヨーロッパ諸国は、ナチスドイツも脅威だったが、ソ連のスターリンはそれ以上に恐怖の対象として見ていた。
イギリスやフランスもアメリカの支援なくしてヒットラーとは戦えない。
ソ連との同盟は、やむを得ない選択ではあったが、やはドイツを倒した後、ソ連の脅威はヨーロッパ全土を襲ったのである。
ルーズベルトは、お人好しではなかった。
彼にとって大切なことは、アメリカを護ることでも繁栄させることでもない。単に自分の名声と国際主義者の理想が実現できれば、それでよかったのだ。その意味で、ソ連のスターリンは同志だったのだろう。そして、スターリンの思惑にまんまと引っかかった。
こうして日本滅亡計画が着々と進行していったのである。
まず、アメリカは、日本移民を徹底的に排斥する法律を作り、「イエローペリル(黄禍論)」を市民にまき散らして、日本人の排斥運動を盛り上げた。
そして、中国には蒋介石率いる国民党に武器援助を行い続け、世界中に日本の蛮行を宣伝させた。
日本軍が蒋介石と和解し、中国から撤退されて困るのは、アメリカだった。
日本は、中国を侵略し、善良な中国人を虐殺する野蛮な国家として、その悪行を広め、正義の国アメリカが打倒する…と言ったシナリオは既に出来上がっていた。だから、早々に和解などされては困るのだ。
元々、蒋介石はソ連を嫌い、共産主義を嫌っていたが、中国全土を統一する野望のためには、アメリカの支援は必要だったのだ。
蒋介石は、後にソ連にも騙され、毛沢東率いる中国共産党と連合し、日本との全面戦争に入ってしまった。
長い戦いの末、やっと日本に勝利したと思ったら、今度はソ連やアメリカの支援を受けた中国共産党との戦いに敗れ、大陸から追い出された。
それが、今の台湾の悲劇を産んだ。
結局、蒋介石は、アメリカやソ連の操り人形に過ぎなかったのだ。
話は長くなったが、このアメリカの理不尽な政策がわからなければ、日本の戦争もわからない。
どれほど、日本が苦しめられたのか、それは、アメリカだけではない。
イギリスもオランダも、ヨーロッパの国で日本を支援しようとする国などひとつもなかった。
今、それが明かされようとしているが、どの国も口を閉ざし、過去の歴史に向き合おうとはしない。それが、国際社会なのだ。

日本と日本人の悲劇は終わらなかった。
アメリカの日系人が、戦時中理不尽な差別を受け、財産没収の上、砂漠のキャンプ地に強制収容されたことは戦後有名になったが、一人日本人だけが受けた差別的な扱いは、アメリカの醜い国策だった。
昭和六十三年、アメリカの第四十代大統領ロナルド・レーガンは、
「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」
として、強制収容された日系アメリカ人に謝罪した。戦争が終わって四十三年後のことである。
そんな差別的な扱いを受けても、アメリカの日系人の若者の多くは、アメリカに忠誠を誓い、日系人部隊として、ヨーロッパ戦線で活躍したことは世界中に知られることになった。彼らは、こうして日本人としての誇りを守ったのだ。
「日本を潰す」ことがルーズベルト一派の国策となったアメリカは、最後には、貿易立国の日本に対して徹底的な経済封鎖を行った上、中国でのすべての権利を放棄して軍隊と警察を引き上げろと要求してきたのだ。
泥沼の戦争を仕掛けたのもアメリカなら、その中国から出て行け!というのもアメリカだった。
日本は、最後の最後に国際会議で承認を得た、中国大陸での正当な権益さえ認められず、元の日本列島だけの小国に戻れという、悪魔のような要求を飲まされる運命にあったのだ。
これが、国務大臣コーデル・ハルの名で出された「ハル・ノート」である。
この外交文書は、アメリカ議会にも諮られず、大統領とその側近だけで作られ、日本に送りつけられた。
戦後、この事実を知ったアメリカの良心派の政治家たちは、ここで初めて自分たちがルーズベルトの邪悪な陰謀に騙されていたことを知ったのである。
このハル・ノートを突き付けられた日本は、これを「最後通牒」と考え、断腸の思いで米英との戦争に踏み切った。
「最後通牒」であれば、それは宣戦布告文書と同じである。
アメリカは、日本が一方的に外交交渉を打ち切り、騙し討ちの如く、真珠湾に奇襲攻撃をかけた…と宣伝したが、これもルーズベルトの謀略の一つであった。
もし、日本がこの要求を飲んで、中国からすべてを引き上げれば、満州や中国本土にいた日本人数百万人が路頭に迷い、日本は国内的に大混乱に陥ったことは間違いない。
当の中国も、他のアジア諸国のように植民と争奪戦の修羅場と化し、二度と中国が統一されることはなかっただろう。
それでも戦争を回避しなければならなかったのか。
日本政府は、悩みに悩み、迷いに迷った。
天皇は、それでも御前会議で重臣たちを前に、
“四方の海 皆同胞と思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ”
という明治天皇の御製を読まれてまで、「戦争回避を探れ」と命じられた。
しかし、当時の日本で暗黒の未来しか見えない決断をすることは、誰が首相であろうと無理だったと思う。
今なお、開戦時の首相であった東條英機陸軍大将を悪し様に罵る人々が多いが、これは連合国軍による悪質な宣伝によるものである。
東條は、有能ではなかったかも知れないが、天皇に対しては、常に誠実であろうとした人物である。
東條とて、天皇の希望が戦争回避にあるのなら、それを実現したかった。
しかし、それを許さず、開戦に追い込んだ当時のアメリカ政府は、この戦争に、どんな責任を取ったのだろう。
それにしても、日本にどんな理不尽な要求を突き付けても恬として恥を知らぬ国際社会とは、一体なんなのだろうか。
もし、ここで日本が立ち上がらなかったら、世界中から植民地主義もなくならず、人種差別もなくならず、有色人種は、下等民族に甘んじるしかなかったはずだ。
これは、日本一国の問題ではない。世界秩序、世界平和の問題なのだ。
多くの国民は、そんな国際情勢を知る術はなかったが、日本が欧米列強から虐げられ、孤立していく様は、手に取るようにわかっていた。
だからこそ、その憤りも凄まじかった。
そんな歴史を知れば知るほど、俺たちの戦いはなんだったのかと思う。
それでも、俺たちの子孫が平和な時代を享受できている今日、あの戦争を意味のないものだとは思いたくない。

そんな社会情勢の中で、俺たちは、開戦のニュースを聞いた。
そして、その後のニュースを待った。
それが、真珠湾攻撃とマレー半島電撃作戦の朗報だった。
俺たちの中学校でも、
「ほら、見たことか。米英など恐れるに足らずだ!」
こんな時は、みんなやたら威勢がいい。
学校の教師までが、「よし、やった!」
と快哉を叫び、有頂天極まりない。
そんな中で、担任の数学の太田だけが、冷静だった。
「この戦争、先がない。そんなこともわからんのか?」
と呟くのを俺ははっきりと聞いた。
しかし、それ以上の言葉は、この教師の口から出ることはなかった。
そして、それは彼の沈黙とともに、戦後は教職を去り、二度とこの戦争のことを語ろうとはしなかった。
この教師も善良な平和主義者だったのだろうと思う。
アメリカが狂ったように日本を追い詰めていることなど露も知らず、日本が妥協すれば戦争は回避できると思っていた。
開戦を有頂天に喜ぶ国民の愚かだが、客観的に分析してみせた国民も同じくらい愚かだった。
そして、俺も何も知らずに海軍を志願した愚か者だったのだ。
ただ、純粋に家族をそして日本を護りたかった。
それだけは信じて欲しい。

あれから三年。
あのとき、考えもしなかった現実が俺を待っていた。
戦局が厳しいことは、下っ端の兵隊にもよくわかった。
戦争が始まる前は、たとえ生活が厳しいとは言っても、街にはレストランもあったし、喫茶店でコーヒーも飲めた。
小遣いの少ない貧乏学生でも、薄くなったコーヒーを飲んで政治論や芸術論などに華を咲かせる余裕もあった。
しかし、今ではみんな配給、配給で、女たちがスカートなどをはいている姿も見なくなった。
地味なブラウスか着物に、もんぺスタイルが、女性の国民服だそうだが、如何にも田舎くさく都会には野暮ったい。
町中では、割烹着に襷をかけた国防婦人会や町内会の面々が、ねちねちと「贅沢品」を取り締まっている。
すぐに社会の風潮に迎合するのが、日本人の悪い癖だ。
とにかくゆとりというものがない。
だから、俺は、そんな社会風潮に流されるのが嫌で、軍隊に志願したのかも知れない。
「どうせ招集されるのなら、いっそ飛び込んでみるか…」
と言った心境だった。
そうと決まれば昔から行動は早い。
すぐにその場でだれにも相談することなく、大學の学生課に出向いて願書をもらい、さっさと必要事項を記入して志願書を提出した。

海軍飛行専修予備学生第十三期。
約七万人の応募者がいたそうだが、その中で選抜され五千人が同期生となった。
予備学生とは簡単に言えば、海軍士官の予備(スペア)だ。
本来、海軍士官は、海軍兵学校や機関学校、経理学校などで養成された者がなる。
兵学校は広島の江田島。
機関学校は、京都の舞鶴。
経理学校は、東京の築地に学校が置かれた。
中学校四年生以上の学力がある者という条件で志願することができた。
しかし、その競争率は二十倍にもなり、学力、体力、身体検査と篩にかけるように選抜し、平時の合格者は三百名程度だったはずだ。
まだ、社会の仕組みもわからない中学生の少年が合格すれば、いきなり「海軍生徒」の身分を得て、准士官待遇となる。
若さとは、時には暴発することもある。
若さ故に、その精神において純粋過ぎる故に勘違いする者も多いのも当然だろう。
戦時ともなれば、海軍生徒は憧れの的となった。
マスコミにも多く取り上げられ、ニュース映画や雑誌にもその勇姿が掲載された。
特にマスコミに取り上げられたことで、当時の少年たちの憧れとなった。
俺たちの中学校にも陸士や海兵の卒業生が夏休みにやってきては、
「見よ、大海原を。太平洋波高し…」とか、「満蒙の空には暗雲が立ちこめている…」などと、どこかで聞いたような力んだ演説をぶったが、白河には海はない。
それに映画や雑誌に載っているような格好いい生徒ではなく、背も小さく顔もどうか…と思う程度で、なんか違うな…と言うのが、正直な感想だった。
また、悪い仲間が、
「大海原だとよ。ここには南湖くらいしかないぜ…。それにあんなに短足じゃ、泳げないんじゃないの」とか、
「陸軍は、土色の兵隊服で野暮ったいな…。なんか土方の親父みたいな格好だぜ。まあ、あれなら海軍の方がましか…」
などと陰口を言い、俺たちだけの笑いのネタにしたものだ。
まあ、それも中学生らしい反骨精神なのかも知れない。
無論、兵学校出の将校の中にも話のわかる人格者がいたが、兵や下士官、そして俺たちのような予備士官たちからの評判は頗る悪かった。
それは、彼らだけが「将校」と呼ばれることへの反発でもあった。
しかし、戦争ともなると、精鋭主義で予算をケチった海軍は、あまりにも人員が少なく、すぐに下級指揮官不足に陥ったのである。
海軍の指揮官になるには、下士官から昇進する特務士官制度もあったが、たとえ上官の大尉であっても、正規の兵学校出の少尉がいれば、指揮権はその少尉にあった。
これを「軍令承行令」と言ったが、海軍に十年以上も籍を置いたベテラン士官より、兵学校出の実戦経験のないひよっこ少尉に指揮を任せるのだ。
こんな無茶な制度が、戦時になっても変えられなかったのは、日本が戦争をするつもりなどなかった証拠である。
なんと日本は、大東亜戦争という未曾有の大戦争を平時体制で戦ったのである。
俺たち予備士官は、不足した下級指揮官を補うため、苦肉の策として付け焼き刃的に設けられた制度だった。
しかし、「予備」とは、もう少し気の利いた名称がつけられなかったのだろうか。
「予備」では、間違いなくスペアの意味しかない。
そのために、正規将校との軋轢を生んだのは事実だった。
人間は、意外とつまらないことに固執する生き物だということを、官僚たちは学んだ方がいい。
しかし、そんな予備士官たちは、大戦後期には第一線の指揮官として最前線に立ち、正規将校以上の活躍を見せることとなった。
俺たち予備士官は、海軍の経歴は少ないが、皆大學や専門学校を出ており、世間というものをよく知っている。
特に帝国大学出は、頭脳も抜群で、その能力は兵学校出の連中より、よっぽど高く、判断力や洞察力にも優れていた。
予備学生の中には、本来なら、外交官や官僚、学者になる道を捨てて志願してきたの者も多かった。
「愛国精神、愛国精神」と軍人は叫ぶが、愛国心とは、職業軍人の専売特許などではないのだ。
軍隊では、一般社会を「娑婆」と呼び、自分たちだけが特別な「愛国者」だと勘違いしている軍人たちこそ、偏狭なナショナリストと言うべきだろう。
予備学生には、予備学生の愛国精神があり、社会のエリートとしての誇りがあった。
ヨーロッパ貴族たちには、「ノブレス・オブリージュ」の伝統があり、貴族階級の青年たちは、国家の危機に際しては、率先して軍に志願し、最前線に立つという文化があるそうだ。
日頃、特権階級にある者ほど、この精神は高く、結果として多くの戦死者を出している。
日本の予備学生たちの愛国心や誇りも、同じノブレス・オブリージュだった。
そんな誇りを持った飛行専修予備学生五千名の中で、戦闘機専修学生となり、大空で敵と一騎打ちできる資格を得た者は、わずか百十名であった。

昭和十八年九月三十日に、俺たち第十三期飛行専修予備学生は、土浦海軍航空隊に入隊し、約一年間の基礎教育を受け、それぞれの専門課程へと進んでいったのである。
そして、俺たち戦闘機専修組は、その後筑波海軍航空隊で飛行訓練を重ね、やっと予備学生の「学生」が取れる日がやってきたのだ。
兵学校出の飛行学生も一緒に訓練を受けたが、俺たち予備には予備の意地もある。
階級は向こうが上でも、「実力では負けない」といった意地がぶつかり合い、時には、小競り合いになることもあった。
まあ、兵学校出にしてみれば、海軍の飯を長く食った意地や正規将校だというプライドもあったのだろう。
しかし、俺は、学力では負けても、道場で兵学校出のなまくら剣法に負けたことはない。「ざまあみろ」だ。
そして、じりじりと肌を焦がすような暑さの中で、俺たち戦闘機専修学生の修了式が、筑波海軍航空隊基地講堂で行われた。
一応晴れがましい式典の日なのだから、少しくらい風を吹かせるとか、雲を呼んでくるとか、八百万の神々も少しは考えてくれてもよさそうなものだが、高天原の神様たちは、一向に俺たちに味方はしなかった。
今年の夏は、特に暑いように感じるのは、俺だけではあるまい。
戦局の厳しさが、暑ささえも嫌味に見えてくる。
それに、修了式だから、詰め襟の軍服を着なければならなかった。
暑くなければ、純白の上下に白手袋、腰には短剣を下げ、櫻と碇の軍帽に白の覆いをつけて、傍目には格好いいものだろう。
しかし、真夏にこれはない。
既に背中にも汗は流れている。綿の軍服に染みができるのも間もなくだ。
とにかく、海軍士官は身嗜みが一番だそうで、ハンカチを出して汗を拭くこともままならない。
教官からは、
「いいか、海軍士官たる者、人前で汗を拭うなどというみっともない真似はするな!」
というお達しである。
まして、「暑い、暑い」などと言ったり、団扇で扇ごうものなら、気合いの入った鉄拳は覚悟せねばなるまい。
そんなわけで、純白の第二種海軍軍装に身を包み、首筋から背中に渡って流れる汗と暑さに耐えながら、航空隊司令の訓示を聞いた。
まさに今にもぶっ倒れそうである。
しかし、一年間鍛えられた俺たちに落伍者は一人も出なかった。
俺たち予備士官にも意地はある。
それに嬉しいこともあった。それは、俺たちの襟に、金筋一本に櫻の花弁が一枚ついた真新しい階級章がついたからである。
これでれっきとした大日本帝国海軍少尉である。
この櫻をひとつもらうために、どれだけの鉄拳を食らい、死に物狂いの訓練に耐えたことか…。
但し、正式には、「予備」がついているのが玉に瑕だが…。
俺は、戦闘機専修学生百十名の中で三席の成績を得た。
帝大出の多い中で三席は上出来だった。
座学はたかが知れているが、実技がものを言った。
特に俺の得意の剣は、基地内大会で常に一位を取り続けた。
そして、操縦術は、学生の中で一番に単独飛行を成し遂げた。
要するに実技科目では、負け知らずだったが、いかんせん座学となると帝大出には及びもつかない。それでも三席を獲得したことは、快挙だった。
式が進むと、いよいよ恩賜の授与である。
「首席、海軍少尉 山田健太郎!」
「次席、海軍少尉 船越 仁!」
「三席、海軍少尉 坂井 直!」
「はい!」
三席までは、成績優秀者として陛下より下された「恩賜」の懐中時計を賜ることになっていた。
軍楽隊の栄誉曲に合わせて、静かに壇上に進む。
そして、後輩の予備学生、新品の少尉たち、そして教官たちが居並ぶ前で、筑波空の藪田司令から桐箱に入った恩賜の時計を恭しく拝受した。
頭の中では、
「田舎の親父にでも送ってやろう…」
などと考えていたが、無表情で受け取るのが礼儀だそうだ。
ともかく、成績優秀者に選ばれたのは、光栄ではあったが、子供の頃より、こんな経験は皆無であったから、多くの視線を集めていることには、少し気が引けた。
首席、次席の学生は、二人とも東京帝大と大坂帝大の出身者で、首席の山田は野球部、次席の船越はラグビー部だ。
もちろん面識はあるが、私大出の俺と違って頭の出来がまるで違う。
特に首席の山田は、入隊時から最後まで首席を通したスーパーエリートである。
親父は、外交官だと言っていたから、本人も戦争がなければ、父親と同じ道を進んだのだろう。
猛烈な訓練を終えてからの座学も、奴らは難なく熟し、
「この程度の航空理論は、高校生程度だな…」
と嘯く奴らである。
俺なんかは、へとへとに疲れて睡魔が襲うのを必死に堪えているのに、奴らは、平気な顔で教官の小難しい話を聞いていた。
こいつらの頭脳は、半端じゃない。
おそらくは、兵学校出の連中より優秀なはずだ。
兵学校出の教官たちも、奴らには一目置いて、授業も早々に切り上げた。
「しっかり復習するように…」
と言うが早いか、そそくさと教室を出て行った。
まあ、こいつらに質問されるのが嫌なんだろうな。
最初の頃は、
「わからんことは、何でも聞くように!」
と豪語する教官もいたが、一度首席の山田にやり込められてからは、おとなしくなった。まあ、どこの世界にも天才、秀才はいるものだ。
頭がいい上に、スポーツもできるとなれば、飛行機の操縦もそこそこに熟すはずだが、それでも、単独飛行までには苦労をしたらしく、時々顔を合わせる次席の船越などは、
「おい、坂井はん。あんたは、なんでそんなに易々と飛行機が操れるんかいな?」
「今まで、やったことでも、あるんちゃいますの…?」
と変な大阪弁を使って、羨ましそうに、じっと俺の顔を見つめるので、こう言ってやった。
「なんだその変な言葉は。ここは海軍や。標準語でしゃべり…」
あれ、俺までおかしくなってきた。
「まあ、しかし、何とのう感覚がつかめるんやな…」
「自転車だって、うまく乗れる奴と乗れん奴がおるやろ…。あんなもんや」
「まあ、帝大出にはわからんわな。わてらは、頭より先に手が出るさかいな…」
などとふざけて言い返してやると、船越もこれ以上、俺と話をしても仕方ないといった顔つきで、
「ちぇっ、まあええわ。おまえさんは操縦の天才で俺は凡才というわけや…。それじゃあ、しかたありまへんな。ほな、さいなら…」
そう言うと、大坂の手代のような格好をして、自習室に去って行った。
こんなふざけた会話を教官にでも聞かれたら、また「娑婆っ気を出すなあ!」と怒鳴られ、鉄拳の数発は覚悟せねばなるまい。
どちらにしても、頭では絶対適わないわけだから、適性のある操縦や剣術では負けるわけにはいかない。こればかりは、天性の才能だから、いくら頭がよくても追いつくまい。
それでも、言われてみれば、確かに不思議なことだった。
俺は、最初に操縦桿を握った時から、違和感というものがほとんどなかったのも事実である。
これまで飛行機に乗ったこともなく、運転は自転車がせいぜいだったのに、なぜ、飛行機に適性があったのかは、未だにわからない。
一年前、予備学生として土浦航空隊で訓練を受けていた当初、隣で訓練を受けている予科練の少年たちを羨望の眼差しで見ていた。
「へえ、上手いもんだなあ…」
「あいつらは、まだ十六、七だろう」
「体は小さいが、動きは俊敏だし、あいつなんか、平気な顔で単独飛行してやがる」
そんな減らず口を同期の池田と交わしながら、感心して見ていた。すると、俺たちの教官にあたる鈴木中尉がやってきて、
「おい、お前たちばかりじゃないさ。俺も最初は度肝を抜かれたもんだ…」
「奴ら予科練の連中は、小学校や中学校から志願してやってくる。それも、競争率は、半端じゃない。各地方の秀才たちが、鎬を削って飛行兵を目指しているんだ」
「それに、操縦は頭でやるもんじゃない。頭より、天性の勘やセンスみたいなものが備わっている奴が、千人に一人くらいいるんだそうだ。そういう奴らは操縦が抜群に上手くなる」
「お前たちもそうだといいがな…はははっ…」
「因みに、俺は違うがな…。まあ、とにかく予備学生らしく誇りを持ってついて来い!」
鈴木中尉は、俺たちより三年ほど早い予備学生出身だったが、既にフィリピン戦に出て実戦を経験してきた強者だ。
撃墜数も既に単独撃墜三機、共同撃墜二機と同じ教員の下士官が言っていた。
フィリピンで半年以上戦って、最近内地での教官配置に就いた人だった。
「鈴木中尉が言うんだから、そうなんだろう」
まさか、自分にそんな適性があろうとは、夢にも思わなかった。
俺がはじめて飛行機に乗ったのは、土浦に来てひと月もした頃だった。
一通り座学が修了し、いよいよ同乗飛行に入るのだ。既に飛行学生の海軍兵学校出の連中は、同乗飛行に入っている。
海軍では、何事も階級上位者が優先である。
いい機体も飛行機に乗れる順番も、飯を食う順番でさえ、兵学校出は先に行く。
こちらは今だ予備学生、あちらは既に少尉様では、同じくらいの年齢でも格が違う。向こうは海軍のエリートだから、何でも最優先であった。
それにしても、地上から見ていると、笑うくらい下手くそだ。
おそらく上空では、教官たちから相当にヤキを入れられていることだろう。それに、兵学校出の連中には、やはり士官の教官がついた。まあ、階級の下の下士官では、注意もできないから、仕方がないが…。
その点、予備学生は、一応金筋一本に士官服を着せられ、准士官の身分を貰ってはいたが、下士官の教員にとっても、「学生さんか…」という軽い侮りのような、親しみのような感情があった。
予科練のように年齢も階級も下なら、怒鳴っても、殴っても構わないが、予備学生は、一応准士官扱いなので、教員の口調も自然と丁寧になる。
俺についたのは、上等飛行兵曹の山﨑兵曹だった。
山﨑兵曹は、やはり予科練出のベテランで、歳は俺たちといくつも変わらないが、甲種予科練の出身だった。甲種予科練は、下士官の中でも進級が早く、中学校も出ているので、頭もよかった。
山﨑兵曹は、機動部隊で活躍した生粋の飛行機乗りだ。
しかし、珊瑚海海戦で頭を負傷し、そのためか視力が低下して、高高度の飛行が困難だと聞いていた。
噂では、内地に送還後、呉の海軍病院に入院していたそうだが、結局視力は回復せず、除隊を勧められたらしい。
それでも山﨑兵曹は除隊を断り、教官として残って、いずれ最前線を希望しているとのことだった。
そんな海軍の大先輩に、自分のような予備学生如きが、階級を笠に着たような物言いはできるはずもなかった。
やはり、階級は上でも、教えていただく教員なので、自分から敬礼し申告した。
「坂井学生。本日、同乗飛行願います」
すると、山﨑兵曹は、はにかんだような笑みを見せ、
「坂井学生は予備学生なので、兵曹長と同じ准士官です。敬礼はおやめください」
「いえ、山﨑兵曹は、私たちの教員ですので、そうはいきません。このままで願います」
「そうですか、わかりました。でも、空の上では容赦しませんよ」
そう言うと、さっさと九三式中間練習機の方に行ってしまった。
九三式中間練習機は、通称「赤トンボ」と呼ばれ、国民に親しまれた布張り、複葉の機体である。
なぜ、赤トンボと呼ばれたかと言うと、練習機のために特に目立つよう、オレンジ色の塗装が施されていたためとか、そのゆったりとした飛行が、赤トンボに似ているとか、いろいろな噂があった。
実用機と異なり、上空を低速でフラフラと飛行するわけだから、一見優雅に見える。
しかし、当然、まだ若いひよっこが操縦しているわけだから、飛行機の中では伝声管を通してがんがんに怒鳴られ、場合によっては、精神注入棒で、後席からガツンと頭を殴られた。
若い飛行兵に聞くと、精神注入棒を食らうと、一瞬目から火花が散り、気を失う寸前になるらしい。
俺たちは、そんな目に遭わないだけラッキーと言うことか?
機体としては、皇紀二五九三年、昭和九年に正式採用された機体である。
九三式とは、皇紀に由来した年番(二六九三)になる。
海軍の飛行機は、こうした天皇暦による年番がつけられた。
有名な「零戦」は、皇紀二六〇〇年採用だから、「零式戦」になる。だから搭乗員たちも「れいせん」と呼んでいた。
「ぜろせん」と呼ばれるようになったのは、戦後の漫画ブームになって以降のことだと思う。
昭和二十年になると、この赤トンボに二五〇キロ爆弾を搭載し、沖縄海域の敵機動部隊に特攻を敢行した記録があった。
驚くことに、このとき駆逐艦一隻撃沈、二隻に大きな損害を与えたとある。
速力は出ないが、操縦性のよい安定した機体だったことから、長く海軍で使用され、今でも複葉機の代名詞になっている。
俺自身も「この飛行機なら…」と、親しみを覚え、大変世話になった。

早速、分隊長に同乗飛行の許可のための申告を行うと、急いで暖機運転をしている乗機に走った。
乗機に近づくと、耳をつんざくような爆音が響いている。
これでは、余程大声で話さなければ、相手に聞こえるはずもない。
道理で、海軍の兵隊は、声がばかでかいはずだ。
「さあ、出発しますよ。坂井学生。周囲をよく見て乗ってください!」
既に機上の人となっている山﨑兵曹が、上から叫んでいる。
「はあい!」
そう叫ぶと、機体の下から周囲から、三六〇度ぐるりと見回し、「確認、よし!」と申告すると、整備員に支えられて前席に乗り込んだ。
既に駐機している飛行機で操縦装置の配置を徹底的に学んだので、まごつくことはなかったが、実際に飛ぶとなると、経験がないだけに体が緊張してくるのがわかった。
すると、後席で山﨑兵曹が、何やら指を指している。「伝声管だ」。
伝声管の先端を飛行帽の耳につなぐと、声が明瞭に聞こえるようになった。
「坂井学生。落ち着いてきましたか?」
「はあい!」
「それでは、初飛行なので、後席で私が操縦します。途中で替わってもらいますから、準備だけはお願いします」
「では、発進します。危険なので操縦桿には触れないでください」
「りょうかあい!」俺は、慌てて飛行眼鏡(ゴーグル)を眼にあてた。
すると、目の前の操縦桿がくるくると動き出し、機体もスルスルと動き始めた。
「今から、機体を滑走路に持って行き、一気に加速します。その際、操縦桿を前に倒し、スロットルを全開にします」
「尾輪が浮きますので、そうなったら、徐々に操縦桿を引き、機体を浮かせます」
「まあ、よく見て感覚を掴んでください」
すると、ユルユルと滑走路に進入し、一気に機体は加速した。
前からの風が強い。
「うっ!」と声を上げたそのとき、機体は水平になり、爆音の高まりと共に車輪が地面を離れた感覚があった。
すると、ふわっという感じで宙に舞い上がり、少しずつ上昇していった。
後に零戦や局地戦闘機雷電にも乗ったが、それら実用機に比べると、九三式練習機は、のんびりとした上昇であった。
この機体は実用機のような操縦席全部を覆う風防がないので、風圧がもろに体に受ける。
加速するにしたがって顔に受ける風圧も半端ではなかった。
「うわあ、凄い、凄い!」
俺にとって、その速さは、今まで味わったことのない衝撃であった。
しかし、一方で、そのスピードの心地よさに興奮していた。
「素晴らしい、なんて素晴らしい世界なんだ…」
上昇し続ける機体を肌で感じ、風防のない操縦席に吹き付ける風が、さらに心を躍らせた。
周囲を見渡すと、霞ヶ浦から筑波山まで、まるでパノラマ映像のように見える。
海軍に志願していなければ、一生味わえない光景であった。
すると、後席の山﨑兵曹から、
「このまま左旋回し、一気に降下します」
「あれ、そんな計画になっていたっけ…?」
俺が首を傾げていると、すかさず山﨑兵曹が、
「まあ、いいでしょう。何事も臨機応変ですよ…」
と、含みのある声が返ってきた。
山﨑兵曹も、初飛行にたいして動揺していない初心者を前に、驚くとともに、飛行適性があるのか試したくなったようだ。
通常は、高度三〇〇mを巡航速度で遊覧飛行する程度だったが、山﨑兵曹も俺の様子を見て、最初が肝心と、俺の度胸を試すつもりらしい。
左旋回か…。どう動くんだ。
ふと、足下を見ると飛行機の方向舵を操るラダーペダルが動いている。
そうか、座学で習ったように、飛行機は操縦桿とラダーペダル、そして手元のスロットルの調整で動かしているんだな…。
俺は、その構造を頭で反芻しながら、それらの機械の動きを眺めていた。
「坂井学生、降下します」
「いいですか、しっかり機体に掴まっていてくださいよ」
「は、はい!」
おいおい、何が始まるんだよ…?
搭乗したときに縛帯(落下傘ベルト)を座席につないでいるので、外に飛び出すことはなかったが、重力の関係で体が浮くことがある。
この重力加速度(G)がくせ者で、雷電などは、急降下から急上昇に移る際、猛烈な重力を受ける。まさに意識が飛ぶとはこのことである。
しかし、今はまだそんな重力は受けない。
すると、急に降下が始まった。
現代なら、ジェットコースターなどのアトラクション遊具で体験することができるが、当時は、まったく未体験の衝撃だった。しかし、俺はその衝撃すら心地よく感じる感性を持っていた。
後席の山﨑兵曹もさすがに、「これは、変だぞ…」と思ったらしく、ここからは何も言わず、スタント、つまり特殊飛行に入った。
緩横転、背面飛行、錐揉み飛行など、山﨑兵曹が培った様々な操縦技術を駆使し、俺を揺さぶってきた。そんなスタントは、十分近く行われた。
俺の乗った複葉機は、右へ行ったり、左へ行ったり、はたまた、くるりと一回転したりと、眼が回る忙しさだ。
すこしだけ、くらっとしたが、初めての経験じゃないので、「ほーっ」と思ったくらいだった。
しばらくすると、機体は水平に戻った。
「こりゃあ、少しやり過ぎたかな。学生さん眼を回しているころだろう…」
そんなことを思いながら、山﨑兵曹は、飛行機を正常の水平飛行に戻した。 山﨑兵曹にしてみれば、一時の気まぐれから無茶な飛行を披露してみたが、
「下で見ている上官には、戻ったらかなり絞られるな…」
と、反省しきりだった。
それに、前席の予備学生が、泡を吹いて伸びていることは間違いない。
「こりゃあ、一人の搭乗員を最初からぶっ壊してしまったかも知れん…」
と、後悔で青ざめた。
後席から伝声管で、おそるおそる声をかけてみた。
「さ、坂井学生、坂井学生、大丈夫ですかあ…?」
すると、思いがけなく、元気な声が返ってきたではないか。
「はあい。すこぶる快調でえす!」
「教員。もう一回やりませんかあ…」
失神して伸びているどころか、ピンピンしていることに、山﨑兵曹はまた驚いた。
「い、いや、今日はここまでにします…」
返す言葉もしどろもどろだ。
「着陸態勢に入りますので、しっかり機体を掴んでいてください」
「はあい!」
その受け答えは、今、まさに特殊飛行を味わった人間のものとは思えなかった。
「な、なにもんだこいつは…」
それが、山﨑兵曹と俺との出会いだった。

着陸後、予想通り山﨑兵曹は、分隊長からみっちり叱られたが、山﨑の報告を聞いた教官たちは、一様に驚き、同乗訓練を終えた俺を呆然と見送っていた。
俺は、そんな周囲の反応に関心も持たず、暢気に待機所に戻っていった。
このことは、その夜の本部会議の中でも話題になったらしく、次の俺の操縦訓練を楽しみにしているような雰囲気になったらしい。
それでも、教官の中には、
「いや、たまたまじゃないのか?」
「次は、緊張して目を回すと思うよ…」
「しかし、一度平気だったと言うことは、何度やっても平気だと言うことじゃないのか…」
などと、あちらこちらから、そんな話も聞かれたが、結局は、山﨑兵曹の報告通り、俺自身は、楽しい同乗飛行訓練だった。
二回目には、山﨑兵曹の指示通り、無難に同乗訓練を終えた。
最後の方は、山﨑兵曹も操縦桿を離していたらしい。
それでも、さすがに着陸は無理で、特に海軍は三点着陸というのができないといけない。
これは、車輪が接地する瞬間に機首を上げ、前輪と尾輪を一緒に接地させる操縦方法で、一瞬失速状態を作ることになる。
失速すると、操縦不能になるので、本来の操縦法では御法度だが、海軍では、航空母艦に着艦する必要があるので、操縦員全員がこの着陸方法をマスターしなければならなかった。
それでも、俺は三回目にはこれをマスターし、単独飛行一番乗りに名乗りを上げた。
普段は、口うるさい教官たちも、
「うーん。坂井学生は、今まで飛んだことがあるんじゃないのかな?」
と首を捻った。
自分でもよくわからないが、教官たちの言っていることはすぐに理解でき、二度目には、ほとんどの内容をクリアすることができた。
単独飛行は、通常二十時間程度、同乗飛行を繰り返した後実施されるが、俺は、半分の時間で単独飛行に入った。
本来、二人乗りの飛行機に一人で乗るので、後部座席には砂袋を置いた。
人一人分の重さの砂袋を置いて、バランスを保つためである。
俺の単独飛行には、多くの教官や本部の隊員たちが遠くから注視しているのがわかった。
俺は、規則通り分隊長に申告後、機体に向かった。
特に緊張することもなかったが、注目されていることが気恥ずかしかった。
「坂井学生、搭乗します」
と、整備員に申告し、徐に前席に乗り込んだ。
手順通り周囲三六〇度の安全を確認し、縛帯をかけ、起動を操作する。
エンジン下にいる整備員に合図し、エナーシャー(起動器具)を回してもらいエンジンをかける。
すると、木製の二枚プロペラが回り出す。エンジンはすこぶる快調のようだ。
慣れてきたのか、エンジンの爆音もさほど気にならなくなった。
俺は、飛行帽の顎の留め金具をしっかりとかけ、ゴーグルを装着、「よしっ!」と気合いを入れた。
再度、周囲を見回し、腕を思い切り上げると、出発の合図である。
この周囲の確認は、飛行機乗りにとって必須な条件だとうるさく言われていた。
実戦を経験してみると、後方に敵機がいないと確認しても、次の瞬間、敵機が突っ込んで来ることがよくある。
この「見張り」の意識が欠如した搭乗員から先に戦死した。
整備員によって車輪止めが外されると、機体はスルスルと滑走を始めた。
機体をそのまま滑走路に持って行く。
左手はスロットルレバーを調整し、右手で操縦桿を握っている。
両足は、方向舵を操るラダーペダルを踏んで操作する。
頭ではわかっていても、空中では頭の位置が目まぐるしく変化するので、方向や上下の感覚を失いやすい。そのために、自分の飛行機の体勢が一瞬わからなくなり、地上に墜落して亡くなった者も多いのだ。
俺は、単独飛行では、自分の位置を見失わないように、周囲に目を配り、その風景を覚えることに努めた。
しかし、海上ではなかなかそうはいかない。
今は、スタントはないので、上下の感覚はそれほど気にする必要はない。
ただし、着陸の際は、高度を読むことが重要である。
「よし、さあ、いくぞ!」
俺の乗った赤トンボ三一号機は、エンジン音も快調に滑走路を疾走した。
山﨑兵曹に教わったように、加速がついたところで操縦桿を前に倒し、尾輪を上げると、さらにスピードが上がった。
「よし、確か、ここらだな…」
と、操縦桿を引くと、飛行機は、緩やかに上昇していった。
「いいですか、操縦桿は、強く握っていけません。そっと生卵を手でくるむように握ることがこつです…」
山﨑兵曹の言葉を反芻しながら、高度四〇〇mに達すると、予定のコースを左、右と旋回を繰り返して、基地の上空に戻ってきた。
ここまでは、順調だ。自分の気持ちも平常心のままである。遠くの景色もよく見えている。
緊張しすぎると、そんな美しい景色でさえ目に入らず、頭が真っ白になるらしい。それで後ろから教員にポカッと叩かれるというわけだ。
下では、多くの見物人が、上空を見上げているのがわかる。
と、一瞬前方から目を離したそのときだ。
急に目の前が暗くなると、何か大きな物体が前方を掠めるように飛び去るのが見えた。
「あ、危ない!」
思わず、咄嗟に操縦桿を左に倒した。すると、機体はそのまま左へ急降下し、錐揉み状態に入っていった。
「し、しまった…」
錐揉み状態は、一度しか経験をしていない。
それも山﨑兵曹の操縦でだ。
高度がぐんぐん下がっていくのがわかる。
「いかん、いかん。回復させなければ…」
頭が一瞬真っ白になった。
高度計は無情にもぐるぐる回転し続けている。機体は、失速状態だ。
「ああ、だめか…」あきらめかけたそのとき、祖父さんの声が聞こえた。
「直!平常心を保て、お前の剣を思い出せ!」
「そ、そうだ。落ち着くんだ!」
目をつぶって腹の下に力を入れ、呼吸を整えた。すると、山﨑兵曹の声が蘇った。
「坂井学生、錐揉みは操縦桿を前に押し、そのまま我慢して回復を待つんです」
「この九三式練習機は、安定度抜群なので、滅多なことでは失速はしません」
しかし、もう高度がない。
一か八か、操縦桿を前に倒し、目をつぶった。
その時間は、おそらく二、三秒間だと思う。
しかし、俺には、とてつもなく長い時間に感じられた。すると、操縦桿に重みを感じた。
「も、戻った。よし、ここだ!」
一気に操縦桿を引いた。
さすがに、赤トンボは、優秀な飛行機である。すぐに反応を示し、一気に上昇に転じたのだった。
俺は、「ヴオーッ」と、頬を膨らませると、胸の中の空気を一気に吐き出した。この間、ずっと息を詰めて操縦していたらしい。
汗が急に噴き出し、なかなか興奮が冷めなかった。
顔も上気し、心臓の鼓動は飛行服の上からも聞こえてくるようだった。
やっと水平飛行に戻し、落ち着いて高度計を見ると、どうやら高度二〇〇m近くまで降下していたようだ。
後、一瞬でも遅れれば、引き起こしが間に合わず、地上に激突していたに違いない。
「それにしても、目の前を通り過ぎた、あの黒い影は何だったんだ…?」
その後は、もう一度、飛行場に機体を向け、滑走路に滑り込んだ。
本当は、最後に三点着陸をするつもりだったが、そんな余裕はなく、滑り込んだというのが正直なところだった。
地上に降り立つと、整備員たちが慌てて駆け寄ってきた。
「坂井学生、大丈夫ですか。けがはありませんか?」
と、縛帯を外す暇もなく、数人が声をかけてきた。まさに、驚いたのはこちらの方である。
「い、いや。大丈夫です…。す、すみませんでした…」
消え入るような声でそうつぶやくと、
「いいから、早く分隊長に報告してください」
「それにしても、よかった。よかったなあ…」
と、整備員たちが俺の体をバシバシと手荒く叩き、笑顔で迎えてくれた。
いつも恐い整備分隊士までやってきて、
「この野郎、ヒヤヒヤさせやがって…」
と、頭をこづかれた。
分隊長に報告すると、
「貴様、こりゃあ罰金ものだぞ!」
「俺も、単独飛行直後に錐揉み状態を回復させた練習生など、見たこともないわ…」
と笑って、特にお咎めなしで済んだ。
そこに、がやがやと集まってきた同期の仲間たちに揉みくちゃにされながら、待機所に戻って薬缶に入ったぬるい焙じ茶を飲んでいると、向こうから、予科練の少年兵が、教員とおぼしき青年の飛行兵に連れられてやってきた。
随分叱られたらしく、顔は赤く腫れ、涙でグチャグチャになっていた。
「坂井学生、申し訳ありませんでした…」
教員の方から先に頭を下げた。
俺は、椅子から立ち上がり、「はあ、どうも…」と、生返事をしながら、その少年兵に顔を向けた。
少年兵は、また今にも泣き出しそうな顔をしている。
「私が同乗しておきながら、このような不始末を起こしてしまい。どんな罰も受けるつもりです」と、教員が言った。
少年は、顔を真っ赤にして、
「すみません、すみません…」の一点張りである。
落ち着いて話を聞いてみると、こういうことだった。
俺が、着陸態勢に入ろうとしたところ、同空域で同乗飛行していた予科練の赤トンボが、周囲の確認を怠って、私のコースに入ってしまったらしい。
この日は、同乗飛行最終日で、いよいよ単独飛行の入ろうかという日だったので、教員もあまり注意することなく、操縦を任せていたそうだ。
それが最終段階になって、大失敗をしたというわけだ。
たまたま、高度をそんなに下げていないタイミングだったので、回復措置が採れたが、もう少し高度が低ければ、どうなっていたかわからない。
まあ、お互い命拾いをしたというわけだ。
教員は、田渕上飛曹、少年は安本と言った。
安本練習生は、まだあばたの残る純朴そうな少年だった。
不思議なもので、その後、安本とは実施部隊で共に戦う運命にあった。
縁は異なものである。
「いやあ、なに…。こちらもぼんやりしていたのが悪いんです。注意をしなかったのは、お互い様ですので、あまり叱らないでやってください」
とお願いした。
そう言うと、ほっとしたのか、安本練習生は、頻りに頭を下げ、涙をこすりながら、自分の隊へと戻っていった。
こりゃあ、夜はバットで尻を相当に殴られるんだろうなあ…と、同情もしたが、海軍では当然のお仕置きである。
ところで、海軍では、上級者が兵隊を樫の木の棒でなぐる変な風習があった。俺たちは、階級上は准士官なので、バットで殴られることはないが、その代わり、拳でぶん殴られた。
とは言っても、すぐに士官になる俺たちを上官だからといって、簡単に殴れるものではない。
まあ、言ってみれば、そんな鉄拳制裁も儀式みたいなものだった。
後に、この事件は、本部会議でも話題になったようだが、取り敢えず双方にけがも損害もなかったと言うことで、双方への注意のみですんだ。
しかし、お陰で、俺の名は土浦航空隊で勇名になり、「錐揉み男」とか、「予備学生の天才」と呼ぶ者までいたそうだ。
それからの飛行訓練は、順調そのもので、同期の予備学生や兵学校出の飛行学生まで、俺のところに話を聞きに来た。
そんな中で、とても面白いユニークな男がやってきた。
名は、佐藤尚。
同じ予備学生の十三期である。
東京は下町、東向島の出身で、ちゃきちゃきの江戸っ子を自慢していた。
この男、少しお調子者で普段は、元気がいいが、操縦はお世辞にも上手とは言い難い。よく操縦組にいるなあ…と思うほど、操縦が粗い。
本人なりには一生懸命なのだろうが、力みすぎると言うか、慎重過ぎるというか、とにかく操縦が硬いのだ。
あれでは、スタントは絶対に出来ないだろう。
もうそろそろ見切りをつけて、偵察に回った方がいいと思うが、なぜだか最後まで操縦組だった。
大学は、法政大学で、やはり徴兵が始まると聞いて、海軍を志願してきたらしい。
大学では、柔道をやっていたと言うことで、本人は「講道館三段だ」と自慢していたが、俺とやっても、さほど強くはないので、自称三段だろうという噂だった。
座学はそこそこ出来るのだが、要領がよく、過去問などもどこからか手に入れ、兵学校出の学生にも探りを入れて、試験問題を予想していた。
これが意外にもかなりの確率で当たった。
俺も操縦法を教えてやる代わりに、試験予想をして貰った一人なので、奴のことを悪くは言えない。
そんな器用なところのある男だったが、本人曰く、
「俺は、浅草の遊郭の倅だ。昔から世情には慣れているのさ…。兵学校出だろうが、教官だろうが、うちの遊郭の話をして、今度の休みの日などにどうですか…などと誘えば、みんなイチコロさ…」
「上官と言っても、初心な連中だから、そんな色里の話は、格好のネタさ。今度連れて行くという約束で、探りを入れるのと、みんなホイホイと教えてくれるよ…」
と嘯いている。これも処世術と言う奴だろう。
それでも、俺には一目置いているらしく、
「坂井っ…。どうやったら、あんたみたいに上手く飛行機を操れるんかな?」
「教えてくれよ…」
とせがんでくる。
どうやら、実家では「日本一の戦闘機乗りになる」と言いふらし、遊女たちにもてまくっていると吹聴していた。
奴を見ていると、確かに、休日の前の晩から準備をしているらしく、休日になるとアイロンの利いた海軍の一種軍装に身を固めて真っ先に出かけるので、実家に戻って与太話でもしているのだろう。
しかし、世渡りが上手だからと言って、操縦が上手くなるわけではない。
そこまで神様は奴に二物を与えなかった。
そんなわけだから、本当に憎めない男だが、訓練に入ると、ビリは決まって佐藤尚で、なんでこいつが戦闘機志望なのかわからない。
いつも大汗をかきながら飛行訓練から戻ってくると、大声で、
「佐藤学生、ただ今、同乗飛行訓練終わりましたあ!」
と分隊長に申告することになっていたが、「終わり…」という言葉が終わらないうちに、分隊長にぶん殴られ、
「佐藤!、なんだ貴様の操縦は…。下手くそで見ておられん!」
と、これまた大声で怒鳴られていた。
下士官の教員たちからも、
「佐藤学生は、時間かかりますね…」
とからかわれ、頭をかきながら待機所に戻ってきた。
それでも法政の柔道部にいた佐藤は、いつもでかい声で、「ありがとうございましたあ!」と吠えるように応答し、めげるということがない。
おそらくは、そのポジティブな性格が、戦闘機向きと思われたのだろう。
時間はかかったが、俺たちと同じように訓練を修了したのだから、そこそこ適性はあったということのようだ。
こうして、一年間の飛行専修予備学生課程を修了し、無事に海軍少尉に任官した新品予備少尉たちは、筑波海軍航空隊を後にして、それぞれの任地に向かったのである。

その頃、戦局は日増しに悪化し、国民の生活も戦時色に染まっていった。
日本陸軍は、インドの独立を支援し、イギリスをインドから駆逐しようとインパール作戦を強行したが、結局は、作戦計画の甘さと補給路の確保ができず、ついに放棄するに至った。
もし、この作戦が一年前だったら、あるいは成功し、理想に掲げた大東亜共栄圏構想が現実のものになったかも知れない。
日本海軍は、先のマリアナ沖海戦に大敗し、連合艦隊の主力のほとんどを失っていた。
そのため、サイパン島守備隊が玉砕。戦争初期に無敵艦隊と称された第一機動艦隊の南雲忠一中将が、サイパン島で自決した。
ヨーロッパでもノルマンディ上陸作戦が始まり、連合国軍の本格的反攻が明らかになった。
正直、この時点で、日本はこの戦争に敗北していたのである。

さて、簡単な修了式を終え、別れの挨拶もそこそこに、一緒の任地に向かう二人と連れだって、最寄りの友部駅まで向かっていると、後ろから追いかけるように、あの佐藤尚が、いつもの大声で駆け寄ってきた。
「待ってくれよう、なんだ、お前たちずいぶん急いでいるんだな…」
息を弾ませながら走ってくると、俺の肩を叩いた。
「なんだ、佐藤か…」
「貴様は、松山だからゆっくり行けるかも知れんが、俺たちは厚木だ」
「命令は、速やかに着任せよ。だったはずだ」
「遅くても、明日の朝には着かんわけにはいかんからな…」
「まあ、貴様は、電車が遅れましたとでも言って、のんびり行けよ」
すると、佐藤は、
「いいなあ、お前たちは…。神奈川の厚木だろ。東京にすぐじゃないか。替わってもらいたいくらいだよ」
「俺なんか、四国の松山だぜ…」
「どうせ、成績が悪いから島流しさ…」
「だけどな、坂井よ。俺は松山でもう一度鍛え直すよ…。そして、いつか、お前と競えるようなエースになって見せるから、楽しみに待ってろよ」
「じゃあな…。東京のお袋に顔を見せてから松山にいくとするわ…。またどっかで、会ったらよろしく頼むぜ」
佐藤はいつも陽気である。
俺が、
「おい、佐藤、今度会う前に死ぬんじゃないぞ!」
そう言うと、佐藤の奴、珍しく顔を歪ませ、不動の姿勢で海軍式の敬礼をして見せた。
我々三人も反射的に敬礼し、お互いの無事を祈ったのである。
佐藤は、右手を下げると、左手をさっと上げて笑顔で駅に向かっていった。
駅は、同期の仲間たちでごった返しており、その佐藤と再会を果たすのは、終戦も間近に迫った頃だった。

第二章 生い立ち

俺が生まれたのは、福島県は白河のありきたりの農村だ。
と言っても、俺の家は、わりかし富裕農家で、小作を使い年貢を取っていたから、中規模地主ということになる。
兄弟は三人。
五歳上の兄信吉、二歳上の姉妙子、そして俺、直だ。
家には、父勇三、母民、祖父勇吉、祖母留がいて、他にも兄夫婦と娘の翠がいた。
祖父母は、既に亡くなっているが、俺は特にばあさん子だった。
子供の頃は、みんなが農作業に出ていたり、家のことで忙しく働いていたので、俺の子守は専ら留祖母さんの仕事だった。だから俺は祖母さんに懐き、母親の民と一緒になるのは、夜寝るときくらいだった。
しかし、留祖母さんは、俺が尋常小学校六年の夏に亡くなっていた。
兄は、俺より五つ離れていて東北帝大を卒業すると、親父の跡取りとして家を仕切り、農学士でもあるので、作物の栽培指導などに村々を回っていた。
その兄は、家の敷地の離れに家を建て、奥さんの陽子と一人娘の翠と暮らし堅実な旧家の跡取りとして振る舞っていた。
姉妙子は、既に会津の警察官の家に嫁ぎ、二人の母親となっている。
使用人は二人いて、夫婦で昔から家に仕えた人で、男は齋藤吾作、女房は鶴と言った。
吾作一家は元々我が家の小作だったが、吾作が昔、体を壊したことがあって、祖父さんが、農作業より家の仕事が向いとるだろう…と言って、それから夫婦で朝から晩まで、通いでよく働いてくれる。
子供も男二人と娘一人がいたが、みんな百姓にはならず、高等小学校を終えると町に出て行った。
確か、二番目の息子は海軍に志願し、そろそろ下士官になっているはずだ。
坂井家は、代々白河地方を治めた所謂国人衆だったが、戦乱期に没落し、そのまま帰農したと聞いている。
そのためか、昔から多くの田畑を所有しており、白河地方では名家の一つに数えられた。それでも分家が多く、今では本家の我が家もそれほど多くの土地や山林を所有してはいない。
祖父さんの自慢は、
「我が家は、代々白河の国人衆で、伊達政宗公からも誘いがあったが断った。だから、主君に仕えたことはない。江戸時代も坂井の姓を許され、白河の殿様からも一目置かれる存在だったんだ。世が世なら、白河の殿様も会津の松平様も同格ということよ…」
「それに、江戸時代、ここは天領だったからな。我々は幕府直参だったと言うわけだ」
と家柄を誇り、地方武士としての矜恃は死ぬまで持っていた人である。
したがって、俺も子供の頃から剣術を習い、朝から晩まで「鬼樫」と呼ばれた祖父手作りの太くて重い木刀を嫌と言うまで振らされた。
祖父さんは、戊辰戦争にも会津方で出征した少年兵で、飯盛山で死んだ白虎隊にも伊藤某という剣友がいたそうだ。
祖父さんは、若松城の籠城戦の時は、白河に戻り、背後から薩長軍を脅かす遊撃隊として活躍した。
白河は、会津戦の前の白河城の攻防戦で大きな傷を負った。
祖父さんたち少年兵は、義勇兵の一員として白河に参戦し、弾薬や食料を城に運ぶ仕事を担っていた。
まだ、少年だったこともあり、最前線には立てなかったが、敵が白河に侵入してくると、敵と街中で遭遇し、斬り合いになったそうだ。
祖父さんは、幼少の頃から毎日の稽古で磨いた腕で西軍兵と切り結び、将校らしき一人を倒したと言っていた。
後で聞くと、その将校は、佐賀の兵士だということだった。
祖父さんは、そのときの刀を大切に保管しており、もう曲がって鞘に収まらない刃毀れした刀を時折眺め、感慨に耽っている姿をよく見かけた。
そして、
「死ぬときは、一緒に埋めてくれ…」
と遺言しており、俺が海軍に入隊する直前に亡くなった。
親父は、遺言にしたがい、その刀を棺の中に入れた。だから、今でも祖父さんの墓の中で一緒に眠っている。銘は知らん。
今、俺が持っている軍刀は、親父が、海軍に入る前に軍刀に拵えて渡してくれた業物だ。銘は「会津兼定」と彫ってある。
俺の剣は、祖父、親父と代々伝えられた田舎剣法ではあるが、さすが実戦を潜りぬけた剣法だけのことはあって、まさに実戦向きである。
時代劇などで新撰組の天然理心流が出てくることがあるが、それと同じように、俺たち農民の剣は、今風な剣道と違い、とにかく相手を殺傷する剣として農村で受け継がれていた。
格好はよくないが、合理的でまさに必殺剣であった。
こうした剣術は、意外と各地方に残されており、密かに口伝の形で伝承されて来ている。
だから、特に天然理心流などの流派の名はない。
恐らく、天然理心流だって、最初から名前があったわけではなく、江戸に出て道場を開いたので、道場主が自分でそう名乗ったのだろう。
そう言えば、新撰組の沖田総司は、元白河藩士で、子供の頃、家の曾祖父さんのところに修行に来ていたと聞いたことがある。
沖田の三段突きは有名だが、あれも邪道の剣だ。
恐らくは、この時に身につけたに違いない。
江戸時代は、農民の剣は、取り締まりが厳しかったが、他藩と違い、稽古をしていることがわかったとしても、天領ではそれほど厳しいお咎めはなかったようだ。
新撰組の発祥である多摩でも、八王子千人同心の流れを汲むとかで、役人には、「いざというときの備えでござる」なんて言っていたらしいから、ここもそんな言い訳が通用したのだと思う。
そうは言っても、露骨に流派の名前を名乗ったりしていると、余計な詮索をされかねないので、農民たちは、稽古のことをけっして口外することはなかった。しかし、祖父さんは自分で勝手に「無限流」を称していた。
自称無限流は、平安期には既に、ここ白河地方にあったという話だが、やはり文書に残されているわけではなく、この地方の数家に口伝として伝承されてきた剣法だった。
俺の祖父さんもその一人で、やはり曾祖父さんから伝えられたそうだ。
兄も一通りの技は稽古したようだが、才能は俺の方があったようで、その口伝は俺に伝えられた。
しかし、俺が戦死すれば、その伝承も途絶えることになるだろう。
兄は、
「直。俺は、このとおりで剣の才は乏しい。だからこそ、お前に託す。いいか、なんとしても生きろ。生きてこの剣を後生に伝えて欲しい。そのために、俺はこの家を守るから…」
そう言って、俺を送り出してくれたが、その兄も、俺が予備学生の訓練を初めて間もなく、会津歩兵二十九連隊に招集された。
兄は、子供の頃から頭がよく、東北帝国大学農学部を出ている。堅実な男で、村人からの信頼も厚い。
しかし、三十近くになり既に結婚もして、子供もいるのに、招集とは、この戦争の行く末が案じられた。
兄は、陸軍予備少尉として、まだ連隊の留守部隊にいるが、いつ戦地に動員されるかも知れない。
二人とも戦死でもすれば、家は絶える。
今の時代、生きることが本当に難しい時代だと実感する毎日だった。
父勇三も日露戦争に出征しており、やはり会津連隊の兵士として奉天の会戦で戦っている。
そのとき、この無限流のおかげで命拾いをしたと語っていた。
詳しくは話してくれなかったが、戦場の酷さを知るだけに、子供には聞かせたくなかったのだろう。
だからこそ、この祖父さんも親父も稽古をつけるときは、鬼の形相で我が子でも容赦なく鍛えた。
親父は、
「戦場は、そんなもんじゃないぞ!」
と言うのが口癖のようになっていた。だから、俺の体は常に生傷が絶えなかった。
最初は、近隣の子供も習いに来ていたが、その厳しさに恐れをなして、気がついたときには、親友の「山ちゃん」こと山本大輔と私だけになっていた。
その山ちゃんは、しばらくは農業をしていたが、青年学校を出ると、陸軍を志願し、確か今頃は、会津二十九連隊の軍曹になっているはずだ。
大学に入る前に田舎で会ったとき、稽古休みにお袋が作ってくれたおはぎを食べながら、こんな話をした。
「直は、軍隊に入るのか?」
「まあ、いずれ入ることになるだろうな…」
「でも、大学を出れば幹部候補生になれる。そうなれば、出世は早いし、将校になれば世話をする兵隊もつく。そこまでが大変だが、慣れれば軍隊も悪くはない」
「俺なんか、二等兵からだったから、随分上の人から殴られた…。それでも、一緒に習った無限流が役に立ったさ…」
「だって、俺に敵う奴はいくら剣道の有段者でもいなかったからなあ…。将校たちもみんな俺から逃げて回ってたぞ。連隊の対抗戦でも、負けなしだ」
「だから、出世も他の者より早い」
「直も、この剣の腕前があれば、どこに行っても大丈夫だよ」と笑い、
「それから、もうひとつ。いいか、軍隊は要領だぞ。よく、覚えておけ」
と教えてくれた。
これは、軍隊に入ってみてよくわかったことだった。
今度、会ったとき、よく礼を言いたいが、会津連隊の主力は、南方に送られたと聞いているから、山ちゃんが生きているか、死んでしまったかは、未だにわからない。
これは、戦争が終わってからわかったことだが、山ちゃんは、やはり陸軍軍曹として一個分隊を率いて、ガダルカナル島で玉砕したそうだ。
なんとか撤収できた戦友によると、敵の陣地攻撃に出て、匍匐前進で敵の眼前百mにまで迫ると、もの凄い雄叫びを上げて敵の防御陣地に跳び込んだそうだ。
山ちゃんの軍刀は、俺と同じ「兼定」のはずだ。
なぜなら、俺の祖父さんが、やはり俺の時と同じように、軍刀に拵えて山ちゃんに贈ったと言っていたから、間違いない。
会津兼定の軍刀を抜くと、猿のような早業で次々と敵兵をなぎ倒し、最期は応援に来た米兵の機関銃で蜂の巣のように撃たれ、戦死したそうだ。
その最期を見届けた兵隊は、その直後に下された撤退命令で、命を長らえたということだった。
「やはりな…。山ちゃんらしい最期だ」
俺も同じ立場だったら、同じことをしただろう。
剣に生きる者だけがわかる死に様なのかも知れない。
山ちゃんとは、幼なじみであり剣のライバルでもあった。正式に試合をしたわけではないが、稽古では毎日のように技を磨きあった。
彼の俊敏さは俺を凌駕し、油断をすると木刀で喉を突かれるか、脇腹を抉られることになった。
山ちゃんの剣は、その俊敏さから、祖父さんは「猿飛の剣」と名付けた。
山ちゃんは、気合いを入れるとき、猿が吠えるような奇声を発し、相手を圧倒したものだ。
反対に俺の剣は、「夢想の剣」と名付けられた。
俺の性格から、「おまえは、黙って剣を振れ!」と教えられ、意味もなく声を出すことはなかったが、その方が気持ちは入った。
そんな風に、祖父さんからそれぞれの形を認められ、「皆伝」と言われるようになると、自分の流派のようなものができあがるものだった。

そんな剣友の二人だったが、小学生の頃こんなことがあった。俺の家に泥棒が入ったときの話だ。
それは、六年生になった夏の夜のことだ。
ちょうど、村の盆祭りがあって、家族みんなで村の鎮守様の境内で行われる盆踊りに出かけていた。
俺は、同級生の山ちゃんや幼なじみの幸子と一緒だった。
山ちゃんの家と幸子の家は、家の小作で、同級生と言っても、大人が来ると何となく余所余所しくなり、たまに山ちゃんが俺に軽い口調で冗談を言うと、山ちゃんの父ちゃんや母ちゃんは、
「大輔、直坊ちゃんになんて口を聞くんだ!」
と厳しく叱られた。
だから、俺たちは、どうにかして大人のいない時間を作りたかった。
三人で示し合わせて、祭りの境内をそっと抜けだし、家の敷地の奥にある古い蔵に潜り込んだ。
家の蔵は、漆喰で白く塗られ、二階の奥は、布団部屋のようになっていた。古い蔵ではあったが、さすがに江戸中期頃に建てられた物で、火にも強く、その上頑丈で物音も一切漏れなかった。
俺も時々、そこに潜り込んでは、遊んだものだ。
梯子階段が急で、小さい頃は上れなかったが、小学校も四年生頃になれば、猿のような俊敏さで軽々と上っていった。
お袋からは、
「お前が使う分には構わんが、友だちとかは連れてくんな!」そして、
「友だちは、必ず母屋に通すんだぞい!」
と言われていた。
まあ、蔵には、結構大切な物も入っていたから、盗まれでもしたら大変だと考えてのことだろう。
しかし、その頃は、数代前の祖父さんが放蕩したらしく、特に「お宝」と呼べるような貴重な品はなかったようだ。その証拠に、日中でも鍵を掛けないことが多かった。
その晩は、踊り見物を早々に切り上げ、小遣いで買った菓子とラムネを抱えて、三人で二階の布団部屋に上がっていった。
俺たち二人の目的は、幸子にあった。
学校も高学年になると、男組、女組に分けられ、幼なじみと言っても、なかなか一緒になることは少ない。
まして、十一、二歳ともなると、男も女も少しは色気が出てくる。
今日のような夏の夜は、幸子も浴衣姿で現れ、俺たちの心をドキドキさせた。
小学生とはいえ、色気が出てきても不思議ではない年頃で、幸子も最近はめっきり女らしくなっていた。
子供の頃はお転婆で、俺たちと一緒にふざけることも多かったが、そのうち誘っても来なくなり、人前では、あまり話もすることもなくなった。
小学校も高学年になった頃から、幸子は、背も伸び、痩せてはいたが、手足が長くて学校でも注目の美少女になっていた。
学校で話すことはほとんどなかったが、家に帰れば、何かと用事もあり、互いの家に行き来する機会は多かった。
外で家の用事を頼まれて作業をしたりするとき、子供二人になると、幸子は、
「なんだ、直。おめえ、今日先生に叱られてたっぺ…」
などとにやにやしながら軽口を叩く。
「そんなこと、親には言うんでねえぞ!」
と、俺が指で頭を小突くと、
「わがった。じゃあ、今度なんか持ってこ…」
と珍しい菓子などをねだるのだった。
俺の家は来客も多く、珍しい菓子や果物などがよくあった。
時々、吾作や鶴が、開けてしまった菓子などが傷むと困るので、家族で食べるように、小袋に分けてくれるのだ。
それを俺にも二袋ほどくれて、
「直さん。友だちと食べれ…」
と気を利かしてくれるので、幸子にもお裾分けすることが多かった。
幸子の家は、小作なので、贅沢はできない。
学校も小学校を出たら、家の手伝いをしながら、裁縫でも習い、嫁に行く準備をするか、近くの商店にでも奉公に上がることになるだろう。
もう、そんなに先のことではなかった。
俺は、そんな他愛のない幸子との会話が楽しく、幸子が用事で来ないかな…と待ち遠しかった。
ひょっとしたら、このとき、俺は幸子が好きだったのかも知れない。

蔵の二階で、三人でラムネと菓子を食べながら、学校や友だちのことなど、他愛もない話をして寛いでいたときだった。
「ガタン…!」
と、何か下の方で物音が聞こえた。
俺たちは昔の行灯を使っていたので、明かりは下までは漏れない。
「しっ…」唇に指を当て、二人に注意を促したのは、俺が先立ったが、山ちゃんも何かに感づいたらしい。
幸子が、「えっ、なに?何…?」と声を出したので、首を強く振ってたしなめた。
「山ちゃん、何か聞こえなかったか?」
「ああ、確かに、誰か下にいるぞ…」
「でも、今時家の者がここに来るはずはない」
「うん…、少し、様子を見てこよう」
「幸子は、ここでじっとしてろよ」
そう言うと、俺、山ちゃんの順で、階段をそっと降りていった。
階段を数段降りたところで、二人の男らしい影が月明かりでそのシルエットを浮かび上がらせた。
俺たちは顔を見合わせると、
「山ちゃん、泥棒だ…」
「間違いない」
「どうする?」
「とっ捕まえっか?」
「どうやって?」
もう一度、そっと二階に戻った俺たちは、近くに置いてあった棒きれを握った。
「いいか、幸子は、ここでじっとしてろよ」
「俺らが、いいっつうまで、動くなよ」
俺の声が、いつもとは違うことに気づいたのか、幸子の喉からゴクッとつばを飲み込む小さな音が聞こえた。
幸子は、暗い中でわからなかったが、顔は青ざめて、体は小刻みに震えているらしい。
ギュッと、俺の袖にしがみつくが、それをそっと離し、山ちゃんと物音を立てないように気をつけながら階段を降りていった。
ぎいっ、ぎいっ。
梯子が軋む音がするが、賊二人は何かを漁っているようで、俺たちには気づいていない。
二人で考えた作戦はこうだ。
まずは、二人で泥棒に気づかれないように、下に降りて身を隠す。
奴らは、提灯を持っているが、金目の物を探すのに夢中だ。
幸い、階段は入り口から離れた奥にあり、提灯の明かりは届かない。
それに賊は、手前の品物を物色している。相手も暗がりに入るのは怖いのだ。
下に降りたら、山ちゃんは、その場で待機し、十を数える。
その間に、俺は、そっと少し離れた物陰に移動する。
十を数え終わったら、山ちゃんは大声を出し、賊を引きつける。
その瞬間、反対側から俺が飛び出し、必殺の剣で賊を倒すという寸法だ。
子供とはいえ、剣の腕には自信がある。いつでもかかってこい。
「山ちゃん、それじゃあいくべ…」
「きっかり、十だぞ…」
山ちゃんが頷くのがわかった。山ちゃんの眼は、爛々と光っている。
「よし、数えろ…」
それを合図に俺は、少しでもその場から離れようと身を屈めながら、賊の反対方向に抜き足差し足で向かった。
そして、俺の数が「九つ」を数え終わったとき、山ちゃんの猿 のような奇声が轟いた。
「きえーっい!」
その瞬間、賊は驚いたのか、「うわーっ」と大声を出し、蔵の外に飛び出した。
「よし、今だ!」
賊は、ひっくり返りながら山ちゃんの方ばかりを見ている。
その瞬間、反対方向から飛び出した俺の剣が、振り向いた男の頭上に唸った。
「ん…!」ぼこっ!
と鈍い音が鳴り、俺の腕に重い質感が伝わってきた。
俺は手に持った棒で、賊の一人の肩を強かに撃ち込んだ。
賊は、ギャアーという悲鳴を上げてその場に昏倒した。頭なら、既に息はない。
「よし、仕留めた…」
そう思った瞬間、左の方で、もう一度猿の雄叫びを聞いた。
山ちゃんの突きは、賊の喉に突き刺さり、男は声も出せずに引っ繰り返った。
俺は、剣を振るうとき声を殺す。奥歯を噛みしめて丹田に力を込める。
だから、夢想剣と呼ばれているが、これも無限流の技の一つで、祖父さんが俺に授けた剣だった。
よく、祖父さんから、
「戦場では、声は邪魔になることがある。お前は、この夢想剣を習得せよ」
と教えられた。まあ、人には向き不向きがあるので、山ちゃんには飛猿の剣が向いており、俺には、夢想の剣が向いていたということだろう。
外は月明かりで、目が慣れてくると、よく見えるようになった。
賊は、二人。
二人とも、既に口から泡を吹いて伸びていた。
一人は、小便まで漏らしていやがる。しかし、死んではいない。
俺も山ちゃんもうまく急所は外してあった。
顔を見ても知らないので、どうやら他の村の若者らしい。
どうせ、「庄屋の家には、金蔵がある」なんて噂でも聞いて、盗みに入ったのだろう。バカな奴らだ。
そう思って、後ろを振り向くと、山ちゃんと幸子が見えた。
なんと、山ちゃんの腕には幸子がぶるぶると震えて掴まり、顔を山ちゃんの肩に埋めているではないか。
ぎゅっと握った二人の手と、幸子の肩を抱く山ちゃんを見て、「なんだ、そういうことか?」と理解した。
幸子は、俺に気があるのだとばかり思っていたが、とんだ三枚目だ。山ちゃんは、知らんぷりしてにやにやしてやがる。
まあ、そういうことだ…。そんな山ちゃんの心の声が聞こえてきそうだった。
賊は、その場で藁縄で縛り、庭先に転がしておいた。
家族が帰ってきて騒ぎにはなったが、祖父さんも親父も、にやにやと笑っているだけだった。
後から駐在さんが来たり、隣村の顔役が来たりと、ひと騒動になったが、特に盗られた物はなく、奴らもひどい目にあったので、許してやることにしたらしい。
駐在は、賊二人を小学生が退治したもので、吃驚していたが、祖父さんも親父も、剣の修行のことは一切漏らさなかった。
まあ、後で噂を聞いたとしても、子供の手習い程度の田舎剣法くらいに思ってくれるはずだ。
ところで、先の話だが、数年後、山ちゃんと幸子は、山ちゃんが入営する前に結婚式を挙げた。
仲人は、うちの親父で、家の大広間を使って式を挙げたそうだ。
俺は、予備学生となり、飛行訓練中で出席できなかったが、幸子は幸せそうだったと聞いた。
しかし、僅かな新婚生活で、山ちゃんが南方に出征し、間もなく戦死の公報が入った。
幸子は、人目も憚らずに泣き崩れたそうだが、それほど、二人は愛し合っていたのだ。
そのとき、既に幸子の腹の中には、山ちゃんの子がいた。
戦後、実家に戻った幸子は、山ちゃんの家族も不憫に思い、里に帰らせると、数年後、村役場の書記と再婚した。
子供は、健輔と名付けられ、新しい父親にも懐き、戦後、中学校の教師になった。
幸子は、さらに二人の子を産み、ずっと田舎で畑を耕しながら、八十歳の天寿を全うした。
俺も幸子の葬式には顔を出したが、祭壇に飾られた遺影は、少しふっくらとした笑顔の幸子がいた。
きっと、山ちゃんが迎えに来るのかなあ…と漠然と思っていた。
幸子は、再婚した夫も大切だったろうが、本当に愛していたのは、山ちゃんだったような気がする。
これで、六十年ぶりに、また夫婦に戻れるといいな…と勝手に想像していた。
山ちゃんも幸子が幸せな人生を送れて、本望だろう。
山ちゃんの墓は、今でも村の外れの共同墓地に立派な顕彰碑とともに建っている。山ちゃんは戦死して、「陸軍曹長」になっていた。
山ちゃんの月命日には、必ず立派なお墓に、野花が飾られているのを俺は知っていた。
一度、山ちゃんの墓の前で幸子に会ったが、幸子は驚いたように俺を見たが、すぐに笑顔に戻り、「直さん。ご機嫌よう…」と会釈して去って行った。
山ちゃんのお墓を見ると、野に咲く季節の花が飾られ、供養のための線香の煙が静かにたち上っていた。
「やっぱり、幸子だったんだ…」
俺は、山ちゃんが本気で羨ましいと思った。

第三章 厚木航空隊

海軍第三〇二航空隊。
大東亜戦争末期に、首都防衛にその名を刻んだ海軍航空隊の精鋭部隊である。記録によると、神奈川県の厚木に航空隊が開隊したのは、昭和十八年四月一日である。
しかし、厚木航空隊が大活躍を見せたのは、二代目厚木航空隊と言うべき、小園安名中佐が司令として赴任して以降のことだった。
昭和十六年十二月八日に始まった大東亜戦争は、開戦直後の真珠湾攻撃やマレー半島への電撃作戦が功を奏し、初戦こそ華々しい活躍で、東アジアから南太平洋までを席巻した。
日本軍は破竹の勢いで欧米の植民地解放を成し遂げ、アジア人による大東亜共栄圏構想のスローガンを高々と掲げた。
ここに、産業革命以降、百年以上に渡って続いた帝国主義が、終焉を迎えたのである。
日本の敗戦後、欧米は、再度の植民地化を狙って侵略戦争を仕掛けたが、一度独立の味を知ったアジアの民衆は、易々と国土を白人に明け渡すことはしなかった。
同じアジア人である日本人の戦争は、現地の人々に大いなる勇気を与える結果となった。
しかし、日本軍には戦略思考が欠けていた。
元々が大戦争をやるつもりはなく、追い詰められて「窮鼠猫をかむ」心境で戦争に突入した日本は、世界戦略を立てる時間もなかったのだ。
「当座の戦闘に勝ちたい」一心で戦い続けたが、戦争には必ず負け戦が必要だった。
「戦略的敗北」は、どうしても避けられない。
「いくつかの負け戦も最終的勝利を得るための布石」であったのに、それすらも考えられないまま、一戦一戦の勝ちに拘った結果、じり貧となり、大敗北を喫したのである。
昭和十七年四月に起きたアメリカ陸海軍協同による日本初空襲は、被害こそ少なかったが、日本人に戦争の現実と恐怖を思い知らせる結果となった。
「都市空襲」それは、今まで日本人が経験したことのない一般市民を狙った新しい戦争の形態であった。
このアメリカの奇襲攻撃を見た日本海軍は、二度と空襲ができないように、敵機動部隊の殲滅を企図した大作戦を敢行した。
それは、太平洋からアリューシャン列島までも含む、日本海軍最大規模の大作戦であった。
そして、戦力的には日本が勝利することは目に見えていたにも関わらず、昭和十七年六月に起こったミッドウェイ海戦で、こちらの虎の子の空母四隻を失うという大失態を犯してしまった。
今、分析してみても、あり得ない敗北だと言われている。
また、アメリカの陽動作戦に引っかかり、戦線を拡大した日本は、昭和十八年二月には、南太平洋での戦いに敗れ、争奪戦を演じたガダルカナル島から撤退を余儀なくされたのである。これは、日本の敗北の始まりであると同時に、アメリカの戦時体制が整ったことを意味した。
こうして、本格的なアメリカの反攻作戦が開始されると、戦線を縮小することもできず、それぞれの戦場では、見事な戦いを繰り広げた日本軍ではあったが、戦略を持たない悲しさか、敵の消耗戦に嵌まり、大胆な戦略の転換を図れないでいた。
その間の人的消耗は計り知れず、ただでさえ数少ない優秀な搭乗員を南太平洋の攻防戦で失い、早急な立て直しが求められていたのである。
そもそも、日本軍は、最初から消耗を繰り返すような長期戦を戦うように設計されてはおらず、短期決戦に活路を見い出すしかなかったのだ。
その戦略的失敗が露呈されて以降も指導層の更迭はなく、同じ過ちを繰り返していくのである。
我々の厚木航空隊の開隊も、俺たち飛行予備学生の大量採用も、搭乗員不足を埋めるための緊急措置でしかなかった。
特に厚木基地は、首都東京が空襲された場合の重要防空基地の役割が期待された。
小園司令の指揮する三〇二航空隊は、当初木更津基地を使っていたが、首都防衛の任務に堪える基地を探していた小園司令は、立地のよい厚木基地に目をつけた。
当時、厚木にいた二〇三航空隊が、北海道防衛のために千歳に派遣されたことを機に、木更津から厚木に移動したのである。
小園司令が、首都防衛を任されたのは、彼の実績が抜群だったからである。人格は型破りで、紳士的な海軍の中でも特異な存在として知られていた。
海軍兵学校の卒業成績は中程度で、海軍中央で出世するタイプではない。
しかし、早くから航空機に目をつけ、搭乗員を目指すと、その根性と馬力から、ぐんぐんと頭角を表していった。
兵学校に一期下には、日本航空機黎明時代に源田サーカスとして有名になった真珠湾攻撃の航空参謀、源田実がいたが、源田が日の当たる「陽」の人間だとすれば、小園は、裏街道をひた走る「陰」のような存在だった。
しかし、その陰の男は、陽の源田以上に手持ちの兵を縦横無尽に使いこなし、アメリカ軍の肝を冷やさせたことは間違いない。
特に、ラバウル航空隊の副長、そして司令となってからは、西沢広義、坂井三郎、太田敏夫など操縦練習生出身のベテラン搭乗員を意のままに使いこなした。そして、ラバウル航空隊を名実ともに、南太平洋の王者として連合国空軍パイロットたちを震い上がらせたのだった。
そんな小園だからこそ、厚木航空隊を日本一の防空部隊として育て上げることができたのだ。
しかし、その頃の厚木飛行場は、戦闘部隊の基地としては、お粗末だった。
滑走路はわずかに一本。
建物も粗末で、緊急避難用の飛行場と言われても、仕方がなかった。
小園はそんな状況を十分知りながら、厚木を三〇二航空隊の基地として選定したのである。
直言居士と揶揄されるほど、物言いがストレートで、気に入らないとすぐに噛みつくために、海軍当局には煙たがられていた小園司令は、基地に着くなり、
「おい、副官。すぐに車を出せ!」
「えっ、どちらに?」
「決まっとるだろう。海軍省だ!」
と怒鳴った。
海軍省は、築地にあり、通称「赤煉瓦」と呼ばれた明治を代表する瀟洒な建物であった。
常識で考えれば、一海軍中佐が、単身赤煉瓦の海軍の総本山に乗り込んでも、相手にもされないか、たらい回しにされて埒が開かないところだったが、そこは小園司令である。
小園は、こうと決めたら一歩を引かないことで有名であった。
顔も恐いが、口も悪い。
それに、「航空隊の小園安名」と言えば、天下にその名を轟かせたラバウル航空隊の名将である。
実戦経験もない海軍省の軍人官僚など、その実績においては、足下にも及ばない名物男だった。
司令用の専用車を海軍省の表玄関に横付けすると、
「おい、副官、ちょっとここで待っておれ!」
そう言って海軍省の中にずかずかと入っていった。
そして、ものの一時間もしないうちに、仏頂面して戻ってくるなり、
「おい、副官。予算は取った。今度は、人集めだ。土浦と安藤のところに行ってくれ!」
と、また、怒鳴るように命令した。
まあ、こんな風に言葉や態度は横柄であったが、部下思いの人情家で、兵一人一人にまで声をかけるような優しさがあり、基地では、「おやじ、おやじ」と慕われていた。そのおやじが言う「土浦」とは、海軍飛行予科練習生のメッカである土浦海軍航空隊のことだ。
俺たち飛行専修予備学生も当初は、土浦で訓練を受けた。
そして「安藤」とは、当時関東一円にその勢力を誇ったやくざの大親分である。
「安藤組」と言えば、その辺の警察官や役人では歯が立つまい。
それでも安藤親分は、小園の子分を自称し、
「いつでも、お役に立つことがあれば、やくざな稼業ですが、お国のためにはせ参じます」
と、仁義を切った仲である。
それから数日もすると、厚木基地には、どこからともなく工事用の資材や人夫が集まってきた。
そこには、近在の農家の男たちや、中学生、予科練の少年たち、そして、それらに号令をかけて率先して汗を流したのが、安藤組の若い男たちだった。
本部の玄関からそれを眺めていた小園の隣で安藤が呟いた。
「おやじさん。やくざも日本人です。奴らも近いうちにお国に召されます。それでも、ここで天皇様をお護りする基地を拵えたことは、男一生の誇りなんですよ…」
そう言う安藤に、
「うん。この基地が完成したら、アメリカ相手にもう一度大暴れしてみせるさ…」
その小園の目には、男たちの熱い思いと同じ涙が光っていた。
そして、小園の言ったとおり、この厚木航空隊は、終戦のその日まで、首都東京を防衛し、多くの戦死者を出しながらも戦い続けた。
そして、あのマッカーサーが、
「厚木に勝者の第一歩を記す!」
と宣言し、輸送機で厚木基地に颯爽と降り立った姿は、多くの取材陣の手によって世界中に配信された。
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、終戦まで徹底的にアメリカを苦しめた厚木を制圧してこそ勝利だと考えていたのである。
終戦の年の八月三十日、輸送機で厚木基地に降り立ったマッカーサーは、ダーバンのサングラスにコーンパイプを口にくわえ、傲然の風でタラップを降りてきた。その姿は、まさに勝利者にのみ与えられた栄誉であったであろう。
今も残るその映像は、どんな役者でも演じきれないほどのオーラを放っていた。
しかし、彼の股間が極度の緊張と興奮で濡れていたことは、彼個人と一人のカメラマンだけが知っていた。
しかし、その半月ほど前、厚木基地では、玉音放送を聞くなり、小園は隊員たちに、
「俺は、絶対に降伏はしない。陛下は判断を誤られた。日本が降伏をしたとしても、俺は自分の判断で祖国防衛の戦いを始める!」
と宣言し、徹底抗戦の構えを貫いた。
終戦のショックと混乱の中、小園の錯乱したかのような過激な言動は、航空隊の隊員たちの心を掌握するまでには至らなかった。
その上、小園自身が、度重なる緊張と疲労、そして、ラバウル時代からのマラリア熱が再発し、意識混濁のまま海軍病院に送られていった。
こうして、厚木の一時的な反乱行動は未然に抑えられたが、そうせざるを得なかったおやじの気持ちも理解できた。
俺がその場にいたらどうしたのだろう…。
正直、何が正しかったのか、今考えてもわからない。
戦争は、始めるときも難しいが、終わり方はもっと難しい。
小園司令を初め、徹底抗戦を叫んだ一部の搭乗員たちは、軍法会議にかけられ、海軍軍人としての地位や名誉を失うことになった。
小園安名の名誉が回復されたのは、小園の死後十年以上が過ぎた昭和四十九年であった。この年、やっと小園の遺族に恩給が支給されたのである。
俺たち三名が厚木航空隊に着任したのは、そんな基地整備の真っ盛りの頃だった。
「おい、山内、なんか凄いことになってるな」
山内健也は、早稲田の野球部で四番、三塁手を務めたスラッガーだ。
「ああ、こりゃ、本格的な基地作りだ」
「腕が鳴るなあ…」
すると、隣の島田達夫が呟いた。
「いいなあ、お前たちは、操縦が上手いから…。俺は、やっとこ卒業組だから、実戦部隊で鍛えられるのが恐ろしいよ…」
島田は、東京高等師範卒業の教師の卵だった。
「まあ、とにかく、しっかり頑張ろうぜ!」
俺は、二人を励ますと、帝国海軍第三〇二航空隊と書かれた衛門を潜った。
海軍少尉と言っても、三人はわずか一年の促成教育で士官になった素人士官である。
宿舎としてあてがわれた第二士官室にいても居心地が悪く、かと言って飛行場がそんな状態では、飛行訓練もないので、小園司令に申告して、作業を手伝うことになった。
小園は、
「おっ、予備士官は元気があっていいのう。それに比べて、兵学校出の中尉どもは、作業に出ようともせん。だから、兵隊がついてこんのじゃ!」
とでかい声で聞こえよがしに言うので、少尉、中尉クラスは、すべて作業に出るようになった。
そんな中で作業が上手いのは、操縦が苦手とぼやいていた島田である。
東京高師出身だけあって、子供の扱いが上手い。
地元の中学生や予科練の少年たちに号令をかけ、段取りよく作業を指揮していた。
中学校の引率の教師や、予科練の教員たちもこれには感心しきりで、
「島田先生は、いつでも教壇に立てますなあ…」
と褒めるものだから、得意になって、自分からもっこを担ぎ、積極果敢に土の山と格闘するのだった。
そして、この基地造成の作業が、地域住民との親睦を深めるきっかけになった。
最初のうちはぎこちなかった関係も、毎日一緒に作業をしていくうちに、冗談も飛び交うようになり、士官、下士官、少年兵、村の男にやくざ者、そして賄いや片付けなどを担った村の女たちが、楽しそうに作業をするまでになっていった。
そんな作業はひと月も続いただろうか。
最後の日、小園司令は、倉庫にあった備蓄用の食糧を提供して、芋煮鍋を作り、みんなを労うのであった。
そこには、兵と民間人の垣根もなく、同じ日本人としての連帯感が生まれていた。
俺は、ふと、この戦争は、本当に全国民が同じ気持ちで戦っているのだろうか…。本音は、政府や軍に引きずられるようにして、戦争に協力しているだけではないだろうか…。と疑念が生じていた。
こうした関係は、その後も続き、敗戦後も厚木の人々は、三〇二航空隊の将兵に感謝の気持ちを持ち続けた。
戦争が終わり、復員するときも、基地には多くの地元の人が集まり、別れを惜しんだと言う。そして、そのとき指揮を執っていた菅原副長は、小園の気持ちを察し、基地内の物資を惜しげもなく地元民に放出した。
菅原副長は、共に戦ってくれた友情の印を形で表し、これまでのお礼としたのだった。

第四章 飛行訓練

着任早々、作業に明け暮れた日々ではあったが、滑走路が整うに順って、飛行訓練が始まった。我々三人は、既に練習機課程は修了していたので、いよいよ実用機による訓練である。
零戦は、何度か乗っていたので、飛行要領はわかっていたが、実戦用の攻撃方法をマスターするのがここでの課題だった。
俺たちを指導してくれたのは、天下の暴れん坊、赤松貞明中尉である。
赤松中尉は、その頃既に三十半ばを過ぎ、いい田舎の親父さん風であった。
やはり、二等水兵から叩き上げた操縦練習生出身で、ラバウルの坂井三郎少尉や戦死した西沢広義兵曹長より先輩であった。
敵機撃墜は、なんと自称三五〇機を誇り、どんな飛行機でも乗りこなす操縦の神様と言われていた。
しゃべり方は、いつも酒でも飲んでいるかのように、べらんめえ調だったが、俺たち予備学生出身には、愉快な上官だった。
兵学校出のこちこち中尉たちには、不評だったらしく、彼らは、すぐに苦情を申し立てて、別の教官のところに行ってしまった。
赤松中尉は、上官だろうが誰であろうが、歯に衣を着せぬ性分で、そのために進級も同期生より遅れていた。
官僚組織の軍隊では、なかなかお目にかからない人物だったが、優秀な技能を持っている実力者であったことから、小園司令がよその部隊から引き抜いてきたのだ。
そして、俺たち予備士官三人の教官になったというわけである。
教官と言っても、練習航空隊ではないので、取り敢えず、実用機の説明をしてくれる上官であり、いざ戦闘となれば、一個小隊を率いる小隊長として、敵陣に殴り込む役割を担っていた。
実際の訓練に使用したのは、古くはなったが、零戦の二一型である。
この機体は、真珠湾攻撃時の主力戦闘機で、当時世界で零戦を凌ぐ戦闘機は存在しなかった。
二〇粍機銃二門、七・七粍機銃二丁という重装備で、その航続力、そして空戦能力の高さは抜群であった。
しかし、戦争は兵器を飛躍的に向上させるの例えどおり、アメリカは、瞬く間に新型戦闘機を次々と開発し、一年後には、零戦を凌ぐ戦闘機を戦場に送り出してきた。
特に海軍のグラマンF六Fヘルキャット戦闘機は、二千馬力のエンジンを積み、時速六〇〇㎞で飛行した。
また、その頑丈な機体は零戦の七・七粍機銃では歯が立たなかった。
そして、その防御力は、零戦の比ではなく、たとえ撃墜されてもコックピットを守る方策が十分に採られ、搭乗員もすぐに落下傘で降下するのだった。
日本機の多くは、戦場で機体が損傷すれば、即、死を選び、零戦の機体も防御策は何一つ採られてはいなかった。
そんな旧式の戦闘機ではあったが、実用機に乗れる喜びの方が大きく、俺たちは子供のように目を輝かせた。
実用機の訓練は、地上からの無線と、教官機を見て、同じ操作を行うことから始まった。
しかし、無線を聞いてもよく聞き取れず、まごつくだけなので、俺は、赤松機の操作を真似て操縦することにした。
すると、今まで見たこともない操作の繰り返しで、すぐについて行くことはできなくなった。
地上に降りて、赤松教官に尋ねると、
「おお、坂井少尉。あんた、なかなかセンスあるね…」
「いいとこまで、よくついて来たよ…」
「儂に、最初にあそこまで食らいついて来たのは、あんたが初めてだ…」
「あのなあ、これまで受けてきた教科書通りの操作は早く忘れろ。実戦は、教科書にないことができるから勝てるんだ…」
「いいかね、少尉。負ければ、即、死が待っとるんだよ」
「戦場は、非常に合理的にできとる」
「優れた飛行機に乗っとる奴が強い!」
「長く飛行機に乗っとる奴が強い!」
「心と体が充実しておる奴が強い!」
「勝ちに拘り、用意周到な奴が強い!」
「最後に、臆病な奴が一番強い!」
「そう言うこっちゃ…あははは…」
そう言うと、にこっと笑って敬礼し待機所に戻っていった。
なるほどなあ…と感心していると、山内と島田が近づき、不満そうに呟いた。
「ちぇ、貴様はいいな。いつも褒められて…」
「俺たちなんか、ダメ出しの連発さ」
「この間なんか、まあ、もう一度赤トンボからやった方がいいかな…なんて、首を傾げるんだぜ。たまったもんじゃないよ…」
同期生だけになれば、学生の時と同じようにため口を利き、口を蛸のようにとんがらせて愚痴を言い合う。まさに気のいい仲間だった。
そんな二人だったが、俺から見ていても、上達しているのはよくわかった。あの赤松中尉の指示どおり操縦し、簡単なスタントなら熟せるようになってきた。
まあ、実際の戦闘になれば、簡単ではないだろうが、一応形はできたと思う。
そんな訓練が三ヶ月ほど続き、いよいよ、配置が知らされた。
俺は、新鋭機、雷電戦闘隊。
山内は、零戦戦闘隊。
そして島田は、夜間戦闘機月光の戦闘隊である。
山内は、
「ああ、よかった。零戦は新型の五二型だし、操縦に安定性があって俺向きだ」
と喜んでいたが、島田は、
「何だ、俺なんか夜間戦闘機だぞ。それも元偵察機さ。二人乗りだから、速度も遅いしスタントも出来ない。つまんねえなあ…」
とぼやく始末で、二人で慰めるのに困った。
しかし、米軍の本格的空襲が始まるとこの夜間戦闘機月光が大活躍を見せるのだった。

俺が配属されたのは、雷電隊である。
「雷電」は、零戦を開発した三菱の堀越二郎技師が満を持して設計した迎撃専門の局地戦闘機であった。
局地戦闘機というのは、基地上空での防空戦闘を主務として設計された機体である。
したがって、零戦のような艦上戦闘機とは異なり、何にでも使える万能機ではない。
それだけに、馬力、速度、攻撃力は欠かせない要素であり、敵機が本土上空に飛来した際には、その馬力を発揮して急上昇し、二〇粍機銃二門(後四門)の火砲によって、瞬時に敵機を粉砕することを想定して作られていた。
しかし、日本にとって局地戦闘機の発想そのものがなく、これまで安定感抜群の零戦に乗っていた搭乗員からは、不平不満が多く出された。
総スカンと言ってもいいくらいの悪評だった。
確かに雷電は、一八〇〇馬力という零戦の倍の出力を誇ったが、大型火星エンジンを使用したために、機体はずんぐりと太っていて、スマートでシャープな零戦の機体と比べて鈍重感があった。
また、そのエンジンが視界を遮り、離着陸に難があるというのが、一般的な搭乗員評で、これを乗りこなす者がいなかった。
これには、小園司令も頭を抱えたが、搭乗員の中に一人だけ、興味を持つ者がいた。それが撃墜三五〇機を自称する赤松貞明中尉だった。
赤松は、
「本土空襲となれば、アメリカ軍はラバウルなどで使用したB一七以上の爆撃機を使用してくることが予想される」
「あのB一七でさえ、零戦で落とすのは至難だったのに、それ以上の爆撃機が来たら、余程の戦闘機でなければ迎撃は難しい」
とベテラン搭乗員らしい分析をして見せた。
しかし、実際に機体もなかなか揃わず、届いた機体で飛行実験をしてみると、零戦に慣れた搭乗員は、度々事故を起こした。
雷電自体、新しい機体で整備員も熟練するまでには至っていない。
毎日のように機体を損傷し、修理しては飛ばし、また修理するといった具合で、零戦隊からは、
「おいおい、雷電隊は練習航空隊になっちまうぞ…」
と揶揄される始末だった。
そんな状態で頭を抱えている小園司令に赤松は進言した。
「司令、私に雷電を任せてください。三菱の堀越さんが設計した機体なら、絶対に優秀に決まっています。私が、雷電という暴れ馬を慣らして見せますよ」
そう言うと、誰よりも多く雷電に搭乗し、新しい機体の癖を掴もうと努力を重ねたのだった。
赤松ほどのベテラン搭乗員ですら、ここまでの努力をする姿を見て、厚木の隊員たちは率先して訓練に取り組むようになった。
小園司令は、
「やはり、赤松だ。赤松をもらって本当によかった」
と、胸を撫で下ろした。
赤松中尉は、搭乗員たちを集めると、こう訓話した。
「いいかね。雷電は、これまでの戦闘機ではない。迎撃機だ!」
「俺たちも最初零戦が届いたとき、すんなり受け入れたわけではなかったんだ」
「それまでの九六式艦上戦闘機は、速度は速くなかったが、小型で扱いやすく、中国機など、この戦闘機で十分墜とすことができた」
「零戦を初めて見たときは、なんだこのでかさは…とか、これじゃあ、小回りが利かず巴戦が不利になるぞ…」って、
「古い搭乗員は、口々に新型機の文句を言ったもんさ。しかし、そのときも漢口基地にいた小園少佐は、言ったんだ」
「いいか、零式艦上戦闘機は、次代の飛行機だ。これから飛行機はさらに速度を増し、大型化していく。特に欧米の飛行機は間違いなくそうなる。そんな戦闘機と互角に戦うためには、二〇粍機銃や長大な航続距離、さらなる空戦性能が求められるんだ」
「お前たちは、新しい時代の戦闘機乗りだ。この新型機をものにして、日本の為に働こうと思わんのか…」
と、儂たちを鼓舞したんだ。
「儂らは、それから毎日必死になって零戦に乗って訓練し、実戦を重ねて新型機を自分のものとしたんだ。いいか、雷電も一緒だ。日本初の局地戦闘機の誕生なんだ。しっかりやろうじゃないか!」
そんな赤松中尉の言葉は、俺たち全員の心に響いた。
戦争は待ったなしだ。
敵が超大型爆撃機で襲来すると言うのであれば、雷電はどうしても必要な飛行機だ。
「ようし、俺はやるぞ!」
その声は、周りの誰よりも大きかった。
赤松中尉は、早速寺村分隊長と謀って雷電隊の編成に取りかかった。
最初は、二十名程度の搭乗員を人選し、特に若手でも思考に柔軟性のある搭乗員を選んだ。
二十名程度では、一小隊四機編成で五小隊しかできない。
分隊長には寺村純郎大尉。
分隊士に各小隊長を兼ねた赤松貞明中尉、山岡三平少尉、田中剛飛曹長、真田守飛曹長が任命された。
分隊長の寺村大尉は、兵学校七十一期出のバリバリの飛行将校である。
この人も、雷電に興味を持って赤松中尉に教えを受けた一人であった。
そして、山岡、田中、真田の三人は、少尉、飛曹長の違いはあるが、みんな予科練出身のベテラン搭乗員だった。
そのくらい雷電という戦闘機は操縦が難しく、練度の低い搭乗員では、事故を起こしかねない代物だったのだ。いや、練度の高い者ほど、その操縦には苦労をしていた。
なぜなら、零戦で慣れた感覚とはまったく違った感覚が求められたからである。
最初に、テスト飛行した真田飛曹長も、その視界の悪さと舵の利きの悪さには閉口したらしく、
「いやあ、これはスピードは出るが、操縦は難しい」
とぼやいていた。
しかし、実質のリーダーである赤松中尉は、
「いや、そうじゃない。零戦と同じような操作をするからダメなんだ。これは迎撃機だ。いいか、離陸時から一気に加速し、急上昇に入る。それから高度を取って、一気に急降下してそのスピードを生かして攻撃するんだ。そうすれば、加速がついて二〇粍弾の威力も倍増する」
「また、燃料タンクも翼部分には少ない。零戦は離陸時に翼内のタンクを使うが、雷電はそんなに航続距離は必要としないから、翼にはあまりガソリンは入らん」
「雷電は、防御の上でも胴体内にガソリンタンクを収納している。零戦とは逆だぞ!」
「その上、雷電は翼が小さく翼面荷重も小さい。したがって、零戦のような急旋回やひねりこみなどの小技を使うと、すぐに失速して墜落するぞ!」
「まず、俺が乗ってみせるから、よく見ておけ!」
そう言うと、実験用に黄色に塗装された雷電に搭乗し、一気に上昇していった。
飛行場で見ている俺たちは、上空でどのような操作が行われているかはわからなかったが、二千馬力級の爆音は、雷鳴のようにズシンと体に響いた。
その爆音が近づいてくると、雷電が急降下してくるのがわかった。
「なんだ、まっすぐ突っ込んで来るぞ!」
「赤松中尉、大丈夫か?」
赤松機は、翼を翻しながら急降下し、高度一千m付近でグーンと機首を起こし、さらに急上昇していった。その早業は、まさに「稲妻」だった。
ぼうっとして雷電が去った空を眺めていると、南の方から低空で雷電が近づいてくるのが見えた。
「赤松機だ。赤松中尉だ。でも、どっから来たんだ?」
着陸態勢に入った雷電は、零戦とは桁違いのスピードで滑走路に進入し、機首を上げたかと思うと、そのまま見事な三点着陸を見せて停止した。
隣で見ていた山岡少尉も、
「いやあ、あんなスピードで着陸するなんて、零戦じゃあ考えられない」
と感嘆の声を上げた。
雷電は、低速時の安定がすこぶる悪く、すぐに失速してしまうので、かなりのスピードで着陸しなければならなかった。
赤松中尉からは、
「三点着陸が難しければ、陸軍のように、前輪を接地し、滑走路を長く使って着陸しろ」
と指示があった。
赤松機が着陸すると、すぐに整備員が駆け寄り、中尉は、簡単な整備上の問題を指摘して待機所に戻ってきた。
すると、いきなり、
「いやあ、やっぱり予想以上だ。雷電はいい飛行機だ。儂は、これから雷電一本でやることにした。これを乗りこなして、アメリカに一泡吹かせてやるわ」と叫び、大笑いをするのだった。
俺は、「なるほど…」と感心しながらも、「この飛行機は、俺の性分に合っているかも知れんなあ…」と思っていた。
俺たち新米少尉は、零戦での訓練を一通り終え、次はいよいよ雷電による離着陸訓練が始まった。
雷電の機体もなかなか揃わず、数機を交替交替で使用するので、故障も多く、順番待ちで訓練するしかなかった。
それでも小園司令の根気強い働きかけで、新品や中古の雷電が、十機ほどは揃うようになった。
離着陸は、今でも搭乗員にとって緊張を強いられるものであったが、離着陸時の事故は多く、雷電でも脚を折ったり、燃料タンクの切り替えを忘れて、墜落したりと、既に数名の殉職者を出していた。
説明をすると、飛行機は、離陸時は後尾が下がっているので、前方が見えにくい。そこで、座席をいっぱいに上げて視界を確保する必要があった。
雷電は、形が樽のような形状をしているので、座席はゆったりと確保できるが、前方が丸いエンジン部分でほとんど見えない。
そこで、背の低い者は、座席を上げるだけでなく、立って起動させねばならなかった。
それでも、加速すれば、すぐに尾輪が上がり、前方の視界が開けてくる。
雷電は迎撃機なので、上昇力に優れている。
零戦同様に操縦桿を引くと、その上昇力は桁違いである。
零戦だと、六千mに到達するのに七分から八分かかったが、雷電だと六分もかからなかった。その加速の良さは、時に操縦を誤らせる原因となったのである。
次に問題となったのが、着陸だった。
海軍では、三点着陸と行って、航空母艦の飛行甲板を想定して尾翼下に格納されているフックを出して、甲板上に張られたワイヤーに引っかけて停止する。
そのために、前輪と後輪の三点を同時に接地しなければならなかった。
陸軍は、航空母艦の着艦は想定していないので、通常通り前輪の二点着陸である。
しかし、これでは滑走距離が長くなり、狭い航空母艦の甲板に着陸はできないし、飛行機の急速収納もできない。
そこで、海軍では局地戦闘機であっても、小型機は、三点着陸をするよう指導していたのである。
この着陸方法は、接地時に一瞬機首を上げなければならなかった。
そうすると前方の視界がなくなり、勘を頼りに着陸するのだが、雷電はエンジンが大きい分、出力を絞るのが難しく、なかなか失速状態に持って行けなかった。
また、スピードを零戦程度に落とすと、すぐに失速してしまい、バランスを崩して墜落する危険があった。
こうして、多くの搭乗員が無理な着陸を行って脚を壊したり、前につんのめって機体その物を壊したり、最悪の場合は、自分の頭を計器板にぶつけ、そのまま戦死ということもあった。
俺も最初のころは、この感覚が掴めず、何度もやり直しをしたが、次第にこつが掴めるようになり、感覚的に二点から三点着陸に持って行くことができるようになった。
これを指導した赤松中尉も、
「おう、坂井少尉。上手くなりましたね。さすがですよ…」
と、褒めてくれるまでになっていった。
そして、かなり訓練が進んだある日、
「それじゃあ、坂井少尉、そろそろ雷電での模擬空戦やりますか?」
と誘ってくるではないか。
「えっ…模擬空戦?」
赤松中尉は、これまで何回も雷電は迎撃戦闘機だと言ってきた。
つまり、戦闘機同士の巴戦は想定しない戦闘機だとみんな理解していたのである。
それが、その赤松中尉から、模擬空戦の話が出るとは、驚きであった。
それも熟練の搭乗員ではなく、予備学生出身の俺である。
「は、はい。よろしくお願いします…」
力なく、そうは言ってはみたものの、雷電での空戦は、一歩間違えれば機体を操り損ね、失速して墜落は必定だった。
そんなことは百も承知している分隊士が言うのだから、きっと何かを教えてくれようとしているんだ。
俺はそう思うことにした。
模擬空戦は、翌日の早朝から行うことになった。
雷電初の模擬空戦を、新人の予備学生少尉とやろうというのだから、基地は騒然となっていた。
待機所には小園司令も来ていて、この模擬空戦の内容によっては、雷電という新鋭機の実用化が問われるはずだった。
相手は、百戦錬磨の赤松中尉である。
「ええい、どんとぶつかるだけだ!」
と、腹を決め、雷電に搭乗した。
先に赤松中尉が発進し、高度五千mで待機している。
俺は、急上昇で赤松機を追い、五千mに達すると、隣に赤松機が寄ってきた。
機内無線に赤松中尉の声が入ってきた。
「じゃあ、坂井少尉、いきますか?」
「儂が先行しますから、儂を追いかけて来てください」
そう言うと、さっと翼を翻して左旋回に入っていった。
模擬空戦は、後ろを取って照準器に数秒入れることができたら勝負ありである。
これは、地上で見ていてもわかるし、自分でも「やられた」ことが感覚的にわかるものだ。
相手の機体が動いていて、照準が定まらなければ、撃っても弾は当たらない。一瞬でも正確に相手の機体を捉えることが肝心であった。
俺は、急いでラダーペダルを蹴って左旋回に入った。
赤松機は急降下で俺を引き離そうとする。
俺も加速して赤松機を追った。しかし、赤松中尉も老練である。
射線の軸を機体を滑らしながら外していく。
そう思った矢先、赤松機は一気に急降下した。
遅れてならじと、俺も一気に急降下する。
速度は速度計が、時速五百㎞を超え、六百㎞を指していく。
「な、なんというスピードだ。零戦では、主翼に皺がよって、空中分解する速度だぞ…」
俺は、それを我慢して、なお赤松機を追った。
「よし、追いついたぞ!」
照準器に赤松機が大きく入った。
「しめたっ!」
そう思った瞬間、赤松機が機体を左右に滑らせた。これでは照準ができない。
「くそっ…」
照準器に合わせることに夢中になっていた俺の目の前で、信じられないことが起きた。
なんと、左右に揺れていた赤松機が目の前から消えたのだ。
「ど、どこだ…。赤松機はどこだ?」
そう思って一生懸命首を伸ばし、周囲を見渡したそのとき、耳に当てた無線機のレシーバーから赤松中尉の声が聞こえてきた。
「坂井少尉。儂の勝ちですなあ…」
ぎょっとして後ろを振り向くと、なんと赤松機が俺の真後ろについているではないか。
「ああっ…」
一瞬でも「もらった!」と思った俺が愚かだった。
しかし、あんなに機体を横滑りをさせながら、どんな操作をすれば、後ろに回ることができるんだ…?
それは、俺なんかの操縦技術では到底及びもつかない高等技術に違いない。もし、これが敵機なら俺は間違いなく撃墜されていたはずだ。
こうして俺の初めての模擬空戦は終わった。
こうした模擬空戦は、時々行われたが、目的としては、搭乗員の技量を測ることもあったが、それより、雷電の機体がどこまで空戦に耐えられるのか、これまでの搭乗員の技がどこまで使えるのか、基地では、そんなデータが必要だったのである。
這々の体で機体を水平に戻し、ゆっくり赤松機に続いて降下し、着陸した。
注目を浴びていた模擬空戦だったので、多くの人が俺たちの周りに集まってきた。時間にして三十分程度の模擬空戦ではあったが、全身が汗でびっしょりと濡れ、緊張で目が充血し、息も苦しかった。
雷電から降り、肩で息をしていると、
「おい、坂井、ご苦労さん」
「いやあ、なかなか凄かったよ」
「雷電を乗りこなしているじゃないか…」
と、零戦隊の山内や夜戦隊の島田が声をかけてきた。
こうした仲間の労いも嬉しかったが、そんなことより、赤松機がどんな操作で俺の視界から消えたのか、それが聞きたかった。
人混みをかき分け、周りの士官たちと話している赤松中尉をつかまえると、
「中尉。今日はありがとうございました」
と礼を言った。
赤松中尉は、俺の手をがしっと握ると、
「やはり、坂井少尉はさすがですね。わずか、三百時間程度の飛行時間で、雷電を乗りこなすとは、今度、その秘訣をご教授願いたいもんですなあ…」
と笑い、そして、
「すぐに、敵はやって来ます。頼みますよ」
と言った微笑みの奥の眼は、ぎらりと光っていた。
待機所では、小園司令が満足そうに頷き、
「赤松中尉、坂井少尉。これで、雷電が使えることが証明できたよ。これからもどんどん飛行技術を磨いてくれたまえ。間もなく、アメリカ軍が大挙してこちらにやってくるぞ!」
そんな小園司令の言葉は、昭和十九年の冬から始まったB二九との戦いで証明されていくのだった。
その日の夜になって、簡単な反省会が本部で開かれ、赤松中尉から報告があった。
それによると、赤松機は、まず、急降下を装い、俺の機体の速度が頂点に達した時点で、ブレーキをかけさせ、その上で機体を左右に滑らせ射線を外させる。
俺の飛行機は、急降下で速度が出ているので、そのままでは射撃ができない。
一旦速度を落とさせ、俺の照準器に機体が入ったと見せたのも、赤松機の作戦であった。
赤松中尉は、そこで俺の心理を読み取り、一気にブレーキをかけると、機体を捻ったのである。
これが赤松中尉秘伝の「ひねりこみ」の技だった。
「ひねりこみ」という特殊技術は、それまでも熟練搭乗員たちが、自分なりの技を練り、人には滅多に教えなかった名人芸と言ってもよい技術である。
九六式から零戦に移っても、海軍航空隊の密かな伝統として搭乗員たちに受け継がれていた。その中でも赤松中尉の「ひねりこみ」は絶品で、旋回範囲が極端に小さいことで有名だった。
「さすが、撃墜三五〇機!」
と賞賛される所以である。
しかし、雷電での「ひねりこみ」は、正直、赤松中尉にしかできない技だった。
そもそも雷電に格闘戦は無理な注文だ。
普通の搭乗員が、零戦のような操作を行えば、すぐに失速し墜落してしまう。
もし、今日の模擬空戦で俺に勝ち目があるとすれば、赤松機のすぐ後ろを取るような作戦ではなく、いつものように高度差を広げ、太陽を背にして一気に急降下して離脱するしかなかったのだ。
きっと、赤松中尉は俺や隊員たちに、そのことを教えたかったのだ。
反省会が終わった後、赤松中尉が第二士官室を訪ねてきた。一升瓶を下げて、ふらっとやってきた中尉は、茶碗を二つ机の上に置くと、徐に酒を注ぎながら、
「さあ、坂井少尉、一杯…」
と酒を勧める。
「今日はありがとうございました。なかなか儂と模擬空戦をやってくれる人もおらんで、困っていました。坂井少尉も、これで雷電の特長がわかったでしょう。そうなんですよ、雷電は迎撃機だということです」
赤松中尉が上目遣いに俺を見た。その顔は、気がついたでしょ…と言っている眼だった。
やはり…。
俺はドキッと胸が高鳴った。雷電で通常の格闘戦を演じようとした俺が愚かだということだ。
これは肝に銘じなければ…。
「ところで、坂井少尉の操縦のこつは何ですか?。あれは、初めて飛行機に乗った人間の操縦じゃない。これがわからんと、儂も眠れませんから…」
と冷や酒をまた、俺の茶碗に注ぐと、自分の茶碗にも注ぎ、一気にぐっと飲み干した。

俺は、飛行機の操縦のことはわからない。
ただし、飛行訓練を受けているうちに、なんとなく自分が子供の頃から習い、親しんだ剣術と似通っていることには気づいていた。
せっかくの機会でもあるので、酒の勢いを借りたついでに、田舎剣法の無限流夢想剣について話をすることにした。
この剣法が、戦闘機の操縦にどのくらい役立っているかはわからないが、とにかく、思い当たるのはこれしかなかったからである。
俺が幼い頃から、兄弟弟子の山本大輔と共に、祖父や親父の手ほどきを受けて技を習得したことは、俺自身、唯一誇れるものだった。
その修練は半端ではなく、野山を駆け、木刀で木々をなぎ倒し、川に入って水流に負けないように剣を振り、どんな足場の悪い場所でも、正確に剣を操れるようになるまで、終わることはなかった。
時には、白河の奥にある甲子温泉の湯治場に連れて行かれ、冬場にも関わらず雪山を駆け巡った。
雪山は、さらに足場が悪く滑る。足を雪に取られて転がることも度々だった。それでも剣を離さず、眼に触れる者は斬った。
そんな過酷な修練ではあったが、夕方になれば甲子温泉の湯に浸かり、家族や仲間と一緒に大笑いしながら、うまい猪鍋と飯を食い鋭気を養った。
俺にとっては、それは苦しくもあったが、村以外の世界を見られることは、楽しみでもあり、体力の続く限り木刀を振り、野山を駆け巡ることは、子供の冒険心を満たしてくれた。
それに、人並み以上の腕力をつけねば、剣を自在に操ることができない。
したがって、米俵二俵を軽々と持ち上げる程度の腕力と握力は、小学校六年のときには、既についていた。
祖父さんや親父との稽古では、子供と言えども、面や小手などの防具はつけない。そもそもそんな物は家にはなく、蔵に古い甲冑がしまわれていただけである。
蔵の中には古い刀も多く、祖父さんは、ときどき庭先に出しては、無心で研いでることがあった。おそらく今でも十振程度の日本刀があると思う。
そんな厳しい修練の中で、身につけたのは、「敵の刃を受けたら確実に死ぬ」と言う現実である。
当然ながら、相手の剣先がこちらに触れれば、肌は切り裂かれ鮮血が迸る。剣道のような、心技体の揃った一本は実戦ではあり得ない。
だからこそ、必死に身構え、神経を研ぎ澄まし、声も立てず、相手の隙を窺い剣先を入れる。
子供の頃は、そんな修練の毎日で、体は痣だらけだった。
そのうち、体も頑健になり、多少剣先が触れても、痣はできなくなった。
今では、真剣に立ち会えば、だれであろうと、俺の体に剣先すら触れることはできないだろう。
今は、時折厚木基地の道場で有段者の隊員と稽古をするが、一度も俺の体に竹刀を当てさせたことはない。
そんな毎日が、一年三六五日、稽古を休む日もなく続いた。
正月であっても、素振りを三百本ほど行ってから、挨拶になったものである。
一番苦しいのは、真冬より、炎暑の時季である。
そんな炎暑の中でも、朝稽古は小一時間続く。
それが、俺たち家族の日課だった。
そして、それは、俺が大学に行くまで続いた。
いや、大学に行っても、朝稽古だけは欠かすことはなかった。
もう、朝稽古をしないと気が済まない体になっていた。したがって、三六五日、剣を振らない日はない。
酒の勢いを借りて、赤松中尉に長々と自分の話をしてしまった。
たぶん、こんな話は今まで人に聞かれなかったし、話す機会もなかった。
赤松中尉は、手酌で酒をちびりちびり飲みながら話を聞いていた。
俺の話が終わると、杯の手を止めて、
「そうか、なるほど…。だから少尉の操縦は剣術に似とるんですな…」
と赤い顔をして頻りに頷いていた。
赤松中尉は、そこまで聞くと、
「それじゃあ、少尉。今度、休みの日にでも道場で稽古をつけてください。儂は、これでも剣道、柔道、合気道、銃剣道、合わせて十五段です。そう簡単に負けはせんですよ…」
そう言うと、不敵な笑みを浮かべ、いい好敵手が現れたとでも言いたげな表情をした。
その後は、赤松中尉の武勇伝を聞き、杯を重ねることになってしまった。
翌日は、早朝から飛行訓練があった。
冷水で顔を洗い、二日酔いの頭を叩きながら飛行場に出ると、赤松中尉のでかい声が聞こえてきた。
「いいか、これから雷電隊は実戦に備えた訓練に入る。もし、事故で死亡者が出ようと、その屍を乗り越えて雷電という戦闘機をものにしなければ、おまえたちに未来はない!」
「戦とは、熾烈な戦いを潜り抜けた者だけが勝者になる世界だ。敗者に待っているものは、すべて死である!。おまえたちは、易々と死を選んではいけない!。必死に生きようとする者だけが、勝者となる権利を得るのだ。とにかくついて来い。いいな!」
どうやら、雷電隊の下士官たちに話をしているようだった。
本隊の下士官は、それでもフィリピンや南方で戦ってきたベテラン搭乗員が多い。
もちろん、予科練出の少年兵も混じってはいるが、どれも操縦適性のある優秀な人材ばかりだ。
だからこその叱咤激励だと、俺は聞いていた。
赤松中尉の話は、誰の話よりも搭乗員たちに響いた。
それにしても、夕べあれほど飲んだのに、今朝にはけろっとして飛行作業に出ている。赤松貞明という人は、化け物かと嘆息するしかなかった。
そして、言葉どおり、厳しい訓練がひと月ほど行われた。
幸い訓練中に死亡者は出なかったが、病院送りになった搭乗員が数名出ていた。それでも、赤松中尉が手を緩めることはけっしてなかった。
分隊長の寺本大尉も、そんな赤松中尉の指導に対してものを言うこともなく、
「いいか、消耗するんじゃないぞ…」
と隊員たちを励まし、自分の小遣いで大福餅を買ってきたり、休日に少年兵を自宅に招待して、飯を食わせてくれたりと、分隊長、分隊士の関係はすこぶる良好だった。
寺本分隊長も分隊長なりのやり方で、雷電隊を育てようとしていたのである。
そんなある日、赤松中尉から声がかかった。
「坂井少尉、遅くなりましたが、明日は休日なので、朝稽古をお願いできませんか?」
という申し出である。
いよいよ来たか…と思ったが、赤松中尉になら、俺の剣をわかって貰えるかも知れないと考えた。
「わかりました。こちらこそ願います」
「おや、そうですか、休みの日に申し訳ありません。それでは、朝七時に道場で待っています」
と、上官らしくない挨拶で明日の稽古を約束した。
この頃、アメリカ軍の攻撃は定期的に行われており、日曜日は空襲もなかった。
戦争もビジネスのように割り切ってやるのがアメリカ流なのかも知れない。そうなると、こちらも哨戒機だけを残して、休養日に充てることができた。
翌朝、俺はいつもより早起きして素振りを念入りにおこなった。
秋ともなると早朝五時は寒く、第二士官室もまだ起きてくる者もなかった。起床ラッパは、午前六時と決まっていて、兵隊たちが起きてくることはない。
俺たち士官は、その点融通が利いたが、一人で素振りをするのも慣れたとは言え、若干は心苦しい。
俺は無言で百本振り、肩の調子を整えた。
俺の使っている木刀は、祖父さんが作った「鬼樫」と呼ばれる樫の木の重い代物だった。
これを連続で百本振れるのは、相当に稽古を積んだ者だけだ。
一度兵学校出の有段者が、貸してみろ…と言うので、お手並み拝見とばかりに、振らせてみたが、三十本もいかないうちに音を上げたので、それ以来、だれも貸せと言って来る者もいない。
海軍将校と言ってもそんなもんだった。
起床ラッパを聞く頃には、朝稽古を終え、そのまま道場に向かった。
同期の山内と島田が、起きてきて、
「いっしょに行ってもいいか?」
と声をかけてきたので、了解し、二人もついてくることになった。
道場に入ると、既に赤松中尉が木刀で素振りの稽古をしていた。
「ああ、坂井少尉。早朝から申し訳ありませんね…。儂も既に体を暖めておきましたので、いつでも稽古をお願いします」
俺に向かって丁寧にお辞儀をすると、中央に促すような仕草を見せた。
「坂井少尉は、防具を使わないと言っていたので、儂も防具を着けないことにします」
なるほど、赤松中尉は並々ならぬ自信と、決して負けないという決意が漲っていることをすぐに感じた。
これは、何を言っても無駄だろう…。
結局は、実力で示すしかないな…。
そう思った俺は、
「わかりました。それでは私流でやらせていただきます」
と答え、道着のまま道場の竹刀を借りて、中央に進み出た。
一応稽古なので、木刀は竹刀に代えている。
竹刀ならば、多少のことでけがをすることはない。
失礼だが、今や日本の至宝とも言うべき赤松中尉にけがでもさせれば、雷電隊だけでなく、日本の本土防空戦が危うくなる。そんなことが頭を掠めた。
「坂井少尉、お手柔らかに頼みますよ」
中央に進み出た赤松中尉が声をかけてきた。
俺はそれを無言で返すと、自分の中の炎が少しづつ燃えてくるのがわかった。
いよいよ赤松中尉との剣による一騎打ちである。
未だ実力のほどはわからないが、その全身から迸る気合いは、けっして強くはないが、高段者特有の雰囲気を醸し出していた。
「それでは、お願いします」
と礼をして、竹刀を合わせた。
道場の端では、正座をした山内と島田が固唾を飲んで見守っている。
数秒間は、静かに間合いを取り、赤松中尉も無闇に攻撃をしかけてはこなかった。相手も俺の実力を測っているのだろう。
竹刀の先は、相手の動きを見定め、剣先を封じ込めてくる。
出てくれば、その一瞬に隙が生まれる。
俺の剣は、無限流夢想の剣だ。
自分から攻撃することはない。
相手の動きを予測し、剣を繰り出す。相手に合わせているようで、けっして合わせることのない剣法だ。
さあ、それを赤松中尉は悟ることができるのか。
そう考えた次の瞬間、赤松中尉の面が飛び込んできた。
もの凄い剣風が俺を襲った。
俺は、剣を剣で受けることはしない。
この跳び込み面は、素人では一瞬に脳天を砕かれるだろう。
しかし、俺にはその剣先の軌道が見えていた。
竹刀がブーンと唸りを上げ、まるで革の鞭のように撓って俺の頭上を襲ってきた。
竹刀の先が間合い以上に伸びてくるのがわかる。
赤松中尉得意の「跳び込み面」だ。
俺は他の剣士のように、竹刀を当てて剣筋を外すようなことはしない。
まさに俺の頭を割ろうとしたその瞬間に体を沈めながら首を捻ることで、赤松中尉の剣先を紙一重で躱した。
俺は体を沈めながら、強靱な足腰で回転し赤松中尉の後方に回り込んだ。
一瞬、赤松中尉の眼が俺から切れた。
俺は、躊躇うことなく、後方から無言の一撃をその肩に撃ち込んだ。
と言うより、頭への打撃を避けたと行った方がいい。
そして、剣先を一瞬絞り込み、寸止め気味に当て、次の瞬間には、竹刀を押し込まず頭上に跳ね上げて見せた。
もし、これが真剣なら、俺は間違いなく肩ではなく頭を真後ろから切り裂き、即死させただろうと思う。
竹刀を押し込まなかったのは、打撃を弱めるためだ。
そのまま竹刀を押し込めば、たとえ竹であろうと、肩の骨は砕けたはずだ。
勝負はついた。
俺が型どおりに残心を見せたと同時に、赤松中尉の竹刀は、床に転がり落ちた。
「う、ううむ…」
と、赤松中尉は左肩を右手で押さえ、片膝を着いた。
俺は思わず、
「中尉、大丈夫ですか?」
と声をかけたが、赤松中尉は、いやいやと軽く手を振り、姿勢を正した。
フーッと息を吐くと、
「いや、坂井少尉。お見それしました。儂なんぞのお相手できる人ではありませんでした。いずれ、またご教授願います」
と両膝を揃えると、お互いに正対し、何事もなかったかのように礼をして見せたのだった。
二人は、作法通りの所作を終えると、道場の隅の方から拍手が聞こえた。
なんだ、山内と島田か?と道場の端に目をやると、小園司令が笑顔で拍手しているではないか。
「あ、司令…」
赤松中尉が声をかけると、
「いやいや、噂で今日、二人が稽古をすると聞いていたもんで、やるなら早朝だろうと来てみたんだ…。それにしても、坂井少尉の剣は、儂も見えなんだわ…」
「どういう動きをされたんだ?」
正直、そう尋ねられても、説明のしようもない。経験と勘が自然に体を動かしている。
「はあ、…」と生返事をしていると、小園司令が、
「達人には、達人の極意があるのだろう。確かに、その極意は戦闘機にも使えるな…。いやいや、今日は、いい物を見せて貰った…」
そして、
「とにかく、二人とも雷電戦闘隊を頼んだぞ!」
そう言って、道場からゆっくりした足取りで出て行かれた。

それから間もなくのことである。
雷電の戦闘訓練中にけがをした山岡少尉に代わりに俺が、小隊長を命じられた。
いよいよ部下を預かる指揮官としての力量が試されるときが来た。
山内と島田は、とにかく呆気にとられ、益々俺から離れなくなった。
自分の隊の訓練が終わり、第二士官室に戻ると、必ず俺に状況を報告し、助言をもらうようになった。
俺もここまで頼られれば、自分としての意見を言わねばなるまい。
まあ、それも小隊長としての任務だろうと考えて、できる限りの助言をすることにした。
そんな濃密な時間を過ごしているうちに、いよいよ雷電の訓練も佳境に入ってきた。
その日は、自分の小隊になる下士官たちとの共同大型機攻撃訓練である。
本隊は、四機でチームを作り、二機と二機でお互いを掩護し合うといった方式を採っていた。
小隊長は俺、坂井少尉。
二番機は、南方帰りのベテラン田中真一上等飛行兵曹。
三番機は、零式水上戦闘機から転科してきた上田正幸一等飛行兵曹。
最後の四番機は、飛行練習生を卒業して初めての実施部隊となった井上肇二等飛行兵曹となった。
田中や上田は、実戦経験のある搭乗員だが、小隊長の俺と四番機の井上は、未だ実戦の経験がない。
特に小隊長の俺に不安を覚えるのではないかと心配したが、田中上飛曹が、
「隊長、心配せんでください。あの赤松中尉に剣で勝つほどのお人が、実戦経験なんてなくても、すぐに慣れます。若い二人も、隊長の下で戦えるのを嬉しく思っています」
そう励ましてくれたので、胸の痞えも下りたようだ。
海軍では、元々三機編隊でチームを組んでいたが、これは小隊長機を他の二機が掩護するといった思想から来ている。
攻撃できる一機を二機が連携して護るという編隊空戦方式だったが、意外と二機の連携が難しく、空戦中にばらばらになってしまい、単機戦になることが多かった。
四機編隊は、二機と二機の組み合わせで、基本は、攻撃の一機をもう一機が護るという戦法だったが、機内無線が機能するようになると、四機のフォーメーションは何通りにもなり、かなり攻撃パターンが増えていった。
小園司令は、既に中国大陸での戦いにおいて、この四機編隊の戦法を採り入れていた。
この戦法は、外国では「ロッテ戦法」と呼ばれ、ドイツで編み出された戦い方とされているが、小園は何かを真似したと言うより、自分で独創したと言ってよい。
この方法だと、経験の浅い兵でも単機になることが少なく、お互いの支援の元に戦えるメリットがあった。
「空戦は一人で行う」といった、少数精鋭主義に基づく思想の強かった日本海軍より、ラグビーやサッカーなどのスポーツが盛んなチームプレイを重視する思想の強い外国の軍隊の方が、理に適った考え方ができるという見本である。
厚木でも最初は、戸惑う搭乗員も多かったが、本土での戦いでもあり、機内無線が機能するようになると、その効果は次第に広まっていった。
また、小園司令の中国大陸やラバウルでの実績は、どんなベテラン搭乗員でも異論を挟む余地はなかった。
あの赤松中尉も、
「この雷電が一番力を発揮できるのは、一撃離脱の高速攻撃だ。四機編隊で双方が掩護しながら戦えば、確実に敵機を撃墜できる。したがって、敵戦闘機との空戦は極力避け、雷電隊は、一撃で退避せよ!」
「対戦闘機戦は、零戦隊に任せる!」
「雷電隊は、一気に加速し、敵爆撃機を捕捉、急降下による高速攻撃を行う。その際、四機が単縦陣になるのではなく、敵機を捕捉したら二機と二機に分かれるんだ。一機が攻撃を加えたら、後ろの一機は、後方を十分確認して攻撃機を掩護する。二番機が攻撃を連続して行うかは、そのときの状況次第だ」
「それを二機同時に行う」
「離脱後は、また四機編隊に戻り、指揮官機と同調して次の指示を待て!」
「いいか、一番恐いのは単機になることだ。敵もそれを待っている。単機では、四方八方を見なければならん。二つの目より、八つの眼で戦うんだ。わかったか!」
しっかりとその理屈を説かれると、否も応もない。
こうして四機編隊の訓練は厳しさを増していった。そして、雷電隊は、赤松中尉の熱意と強い指導力でめきめきとその実力を高めていったのである。
小園司令も、
「雷電が使える見通しが立ってきた。これも分隊長の寺本や赤松のお陰だ…」と手放しで評価していた。しかし、そんな赤松中尉も本来はやはり零戦乗りだった。
後に、敵の艦載機が基地上空に飛来するようになると、いつも雷電に乗れるとは限らなかった。
「敵機来襲!」
の警報が出されると、順番や隊など関係なく、搭乗員は脱兎の如く手近な飛行機に乗って空に舞い上がって行った。
「回せ、まわせ!」
誰もが、大声で整備員に声をかけ、突進していく。
赤松中尉は、三十歳をだいぶ超えていたにも関わらず、
「おうい、俺も行くから零戦を残しておけ!」
と命令し、若い飛行兵をどかして、飛び乗ることも度々だった。
それも、零戦で出るときは、
「悪いが、零戦はわしの相棒だ。好きにやらせてもらうぞ…」
と言って、単機で敵戦闘機群の中に飛び込んで行くのである。
どうやら、飛行機の特性に応じた戦い方を赤松中尉は知っているようだった。
さて、訓練の話に戻そう。
俺たちの小隊四機は、俺を先頭に田中、上田、井上と続いて離陸し、高度
一千mで編隊を組んだ。
「よし、それでは、一気に上昇し、対爆撃機訓練に入る…」
「続けっ!」
雷電は一気に加速し、高度一万mまで上昇した。
一万m上空は、もの凄く寒い上に空気が薄い。
上昇する際には、酸素マスクの着用が必須だった。これを忘れると頭に酸素が回らず、簡単なかけ算すら間違うという高度病になる。
最初は酸素マスクは息苦しいが、上昇を続けるに連れて効果を発揮してきた。
雷電のいいところは、このマスクをしていても、無線が使えることである。機内無線の改良は、米軍機のように、飛行機同士でも基地とでも話ができることであった。
高度計が一万を指した。
しかし、雷電のエンジンでもこの高度を保つのは簡単ではない。
自分では高度を保っているつもりでも、徐々に高度が下がり、零戦では、高度八千mくらいが限度であった。
「ようし、高度を保て!」
「これより、対爆撃機訓練に入る」
「一気に降下するぞ!」
そう言うと、一杯一杯の機体を逆落としの要領で一気に背面になり、そのまま急降下していくのである。
高度一万mからの急降下は恐ろしく加速がつく。
ゴーグルを装着し、マスクをしたまま、一気に急降下すると、雷電の爆音がキーンと金属音を奏でる。
ほぼ直角の角度で突っ込んでいくので、尻が浮くような感じになる。
それをぐっと堪えて操縦桿で押さえ、二〇粍機銃を放つ。
ドッ、ドドドドドッ…。
重く鈍い発射音が機内にも響いてくる。
銃弾もさらに加速がついているので、命中すれば、通常の何倍もの威力と化す。当たり所によっては、一発で機体が吹き飛ぶ威力があった。
高度計を見る。
高度六千m。
一気に急降下してきた。
「よし!」と、渾身の力を込めて操縦桿を引き起こす。
この操作が緩慢になれば、敵に機体の全面を見せることになり、敵の機銃網の餌食になるだろう。体に感じるスピード感は半端ではない。
今の若者なら、最新型のジェットコースターを想定すればいい。
あの恐怖感以上の衝撃を感じながら、機体を引き起こし、敵の機銃網の届かない空域まで離脱しなければならない。
そして、離脱した空域には、敵戦闘機が待ち受けているという寸法だ。
しかし、俺たちの任務は、対戦闘機ではない。
赤松中尉からは、離脱したら加速したまま太平洋に出て、低空飛行で遠回りして基地に戻るよう指示されていた。
申し訳ないが、この一撃離脱戦法の再攻撃はできない。
俺たちの頑健な体であっても、その心身の疲労度は、並大抵ではなかったからである。
急降下後、低空飛行に入った時点で後ろを振り返り、列機の様子を確認した。確かに二番機、三番機は辛うじてついてきたが、四番機の井上は、なかなか合流できず、俺たちが厚木に戻ってから、やっと基地に辿り着く有り様だった。
「こらっ井上、それじゃあ敵にやられちまうぞ!」
そう叱ってはみるが、まあ、仕方がない。
訓練によって四機編隊のロッテ戦法が完成しないことには、必ず四番機が食われる。そんな訓練が連日のように続いたのだった。
そんなある晩、
田中上飛曹が、二人を連れて第二士官室にやってきた。下士官は、間違っても士官室に尋ねて来ることはない。
規則の厳しい海軍では、下士官と士官は、その宿舎、食堂などありとあらゆる点で差をつけ、区別していたのである。
もちろん、士官であってもその兵種や階級、正規か予備かなどによっても大きく異なった。
まあ、こんな硬直した制度だから、意思の疎通が上手くいかず、負ける遠因にもなっていた。
奴らが第二士官室を訪ねてきたのは、実は俺が、三人を労うつもりで呼んだのだ。
三人は、場違いの場所に来た…とばかりに、おずおずと入ってきたが、この第二士官室は、俺たち予備士官と兵学校出の若手士官しかいないので、そんなに気詰まりでもなかった。
小園司令の計らいで、第一士官室には、兵学校出の中尉以上の正規将校を、第一士官次室には、赤松中尉のような特務士官を、そして第二士官室には、俺たちのような若い者を入れてくれたのである。
大尉以上の幹部は第一士官室だが、厚木基地は兵舎も大きいので、大尉以上の分隊長には、それぞれに個室が与えられていた。
それに一人に一人以上の従兵がつき、洗濯から掃除まで、身の回りのことは何でもやってくれる。
イギリス流で言えば、ボーイだ。
何でも英国流がお好きな海軍では、終戦までそんな特別な待遇が維持されていたのである。したがって、第一士官室に入るのは、食事をするときくらいだった。
それに、部屋数もあり談話室や食堂、数人ごとの個室など、若い少尉でも、先輩士官には多少気を遣ったが、下士官兵に比べたら天国であっただろう。
第二士官室は、それに比べればかなり狭いし、雑然としている。
談話室や食堂はあったが、従兵も全部で五人ほどで、みんなが用を言いつけるので、俺は結構気兼ねして、なるべく自分のことは自分でやるようにしていた。
もちろん、零戦隊の山内や夜戦隊の島田も同室である。
俺は、特別に他の士官に頼んで談話室を空けてもらっていた。
若い士官の中で、小隊長配置は俺だけなので、みんなもそれなりに気を遣ってくれているようだ。
赤松中尉もよく第一士官次室に部下を呼んで、話をしていると聞いたので、早速真似をすることにしたわけだ。
大きな食卓には、取り敢えず酒保から貰ってきた鮭缶やパイナップル缶、牛肉の缶詰もあり、日本酒は、以前小園司令からいただいた名酒があった。
最初は、緊張気味だった三人も酒が入るに連れて饒舌になり、俺の操縦方法を聞きたがった。
「それにしても、隊長はまだ四百時間も飛んでおられんのに、よくあの逆落としが恐ろしくないですね…」
とか、
「いやあ、あの引き起こしの鋭さは、ベテラン搭乗員でもできんですよ」
とか、
「あの腕力は、どこで鍛えられましたか?」
などと、どうやら俺は不思議な人間に見えているらしい。
「いいか、俺は難しい操縦はできん。あの方法が唯一の俺の操縦法だ。水平飛行で、単純な巴戦でもやってみろ、俺は井上にだって勝てやしない」
「俺は、赤松中尉に言われたんだ。あなた方予備士官は、本来戦場に出てくる人たちじゃあない。儂は、別な道で日本を支えなければならないあなた方に来て貰って、本当にすまないと思っている。だから、俺たちのようになる必要もない。自分の特性を生かし、それだけでいいから腕を磨いて戦って欲しい…」と。
「そう言って、頭を下げられたんだ。だから俺は、雷電に乗って爆撃機だけを墜とす。そのために、ここにいるんだ」
そんな話をすると、三人はしんみりと聞いていた。すると田中が、
「わかりました。小隊長!」
「私は、農家の三男坊で軍隊しかなくて海軍を志願しました。しかし、私は職業軍人です。小隊長が予備士官でも、そんな覚悟で戦われているのなら、私はけっして小隊長を墜とさせるようなことはいたしません。約束します!」
すると、上田一飛曹や井上二飛曹も、
「俺たちも未熟ですが、職業軍人の端くれです。私たちも腕を磨き、小隊長とともに戦います」
と誓ってくれた。
その日の夜から間もなくして、俺たちにも過酷な戦場が待ち受けていたのである。

第五章 帰郷

昭和二十年、正月。
いよいよ決戦を前にし、五日間の正月休暇が搭乗員全員に出された。
とは言っても、いっぺんに全員がいなくなっても困るので、全隊員を半分に分け、年末の三十日から正月三日までの組と、正月四日から八日までの組に分かれた。
零戦隊は後組で、俺たち雷電隊や偵察隊などは、先に休みに入ることが出来た。零戦隊や月光隊は、後組なので彼らは、不満そうだった。
しかし、零戦隊の山内は、それでも俺たちと同じ最初の組に入っていた。
おそらくは、割り当ての人数の関係だろう…。
「いいなあ、雷電隊は…」
「なんだよ、それに零戦の山内も最初の組かよう…?」
「なんだ、島田。お前たちだってすぐに正月休みがもらえるじゃないか…」
「いや、そうとは限らんぞ。戦局が急に厳しくなって取り止め…とかな」
そんな不安を口にする島田だったが、俺と山内は、浮き浮きと土産を買い、トランクに私物を詰めていた。
そのとき、ふらっと赤松中尉が訪ねてきた。
「おっ、坂井少尉、おりますか?」
「あ、はいっ!」
返事をしてその場に立つと、赤松中尉は何やら手にぶら下げて第二士官室に入ってきた。
俺のトランクを興味深げに覗き込むと、
「おや、坂井少尉も田舎に帰れるとなると、娑婆っ気満々ですなあ…」
と言って笑った。
談話室の俺の脇に座ると、何か入った包み紙をその上に置いた。
「坂井少尉。まあ、いらん物かも知れませんが、田舎に持って行ってくれませんか?」
「はあ…」
と気のない返事を返して、包み紙を解くと、今時珍しい数個の缶詰がくるまれていた。
「こりゃあ、珍しい物ですね」
「今、酒保でいただいてきました」
「鮭缶、牛肉缶、パイナップル、蜜柑…」
「いやあ、こりゃあ家の者が喜びます」
今や缶詰は貴重品である。それも高級な缶詰ばかりだった。
「あ、ありがとうございます」
と頭を下げると、赤松中尉は、神妙な顔をしてこう言うのだった。
「いやあ、これは先日稽古をつけてもらったお礼です。儂も少し天狗になっておりました。もう、この海軍で儂に敵う奴はおらんだろう…と思っとりました。ところが、坂井少尉にこてんぱんにやられて目が覚めました。もう一度、気を引き締めて稽古に励み、精一杯戦うのみです」
「これは、そのときのお礼ですから、気にせず田舎土産にしてください」
俺は恐縮しつつも、そんな赤松中尉の気持ちが嬉しかった。
どんなにベテランになろうとも、その謙虚さがなければ、何事も上達はしないし、部下もついてきてくれない。
それは祖父さんが何回も俺たちに教えてきたことだった。
しかし、俺自身が赤松中尉の言葉を聞いて、
「いや、俺が、天狗になっていたのかも知れん…」
と反省するのだった。
そして、この人について最後まで戦おうと気持ちを新たにしたのである。
「それじゃあ…」
と、略帽を被り直して赤松中尉は、第二士官室を出て行ったが、おそらくは、この後、予科練出身の少年たちのところにも缶詰を持って行くのだろう。
強面の厳しい人だが、本当に心根の優しい人だと思った。
十二月三十日は、どんよりとした曇り空で、この厚木にも雪が降りそうな雲行きだった。
それにしても寒い…。
東北の人間が言う台詞ではないが、来年は、かなり雪が降るかも知れない。そして、戦争もいよいよ大詰めを迎えるだろう。
ここが正念場だと、誰もが腹を括るための帰省だった。
先に出る俺たち雷電隊は、他の兵隊たちと一緒に、荷物を抱えて本部前に集合した。
海軍というところはおかしなところで、常に艦船勤務が基本にあり、こうした休暇も「上陸」と呼ぶ。
艦上で点呼を取るように、陸上基地でも同様に集合させては点呼を取る。
我々は、朝礼台に立つ小園司令の訓示を不動の姿勢で聞き、副長の号令一下、挨拶の敬礼をして「別れ!」の合図を待つ。
小園司令は、いつもの調子で大声で訓示をしていたが、俺たちはみんな気もそぞろで、申し訳ないが、あまり聞いてもおらず、緊張感が足りなかった。
何を言われたのか、ほとんど覚えていない。
それでも、格好だけは不動の姿勢を保っているわけだから、軍隊での習慣というのは恐ろしい。
頭と体がこんなにも違うのは、ここくらいだろう。
それに、司令の話が終わっても、菅原副長が「別れ!」と号令をかけないと、いつまでも不動の姿勢を崩せない。
心の中では、早く家に帰りたくて仕方がないのに…。
うずうずとしていると、副長はくそまじめな顔をして、ゆっくりと視線を全員に送ると、急に姿勢を正して、
「わかれーっ!」
とやたら大声で号令をかけて敬礼をした。
その声に反応するように、俺たちは一斉に敬礼を返し、右手を下ろすと、いよいよ「自由」の身になったのである。
俺たち士官はここまでだが、予科練出の少年兵たちは、なかなか解放してはくれないらしい。
さらに整然と隊伍を組んで二列で衛門を出て行くではないか。
何も実施部隊であそこまでしなくても…と思うが、これも下士官兵の儀式なのだろう。
「さあ、帰るか…」
と荷物を詰め込んだ革のトランクを下げると、マントを羽織った零戦隊の山内が声をかけてきた。
「おい、坂井。なんだか島田が可愛そうな気もするな…」
と、第二士官室の建物を眺めたが、夜戦隊は、今日も訓練だそうだ。
既に飛行場に出て、作業に入っていることだろう。
俺は一瞬、雪雲の覆った空を見上げ、
「じゃあ、行くか?」と、山内に声をかけた。
海軍の外出は、殊の外厳しく、兵舎の中には、踊り場に必ずでかい鏡があった。
最初の頃は、何のためにある鏡かわからなかったが、どうやらそれで自分の姿を映し、服装のチェックをするのだと言うことがわかった。
これができていないと、点呼の時、上官からだめ出しを食らい、最悪の場合は「外出止め」になるらしい。
今は、士官なので俺たちの軍服は従兵がアイロンをかけてくれるが、予備学生の頃は、自分でやらなければならないので、休日前の夜などは、みんな必死でアイロンをかけ、ズボンの皺ひとつ、丁寧に伸ばす習慣がついてしまった。だから、海軍の兵隊はお洒落に見えたわけだ。
そんなアイロンの利いた海軍の一種軍装に海軍マントを羽織って、いよいよ衛門を後にした。おそらくは、これが最後の帰郷になるだろう。
関東地方に空襲が始まれば、俺も山内も島田も、みんな戦って死ぬ運命だ。どうせ死ぬなら、華々しく大空で散りたいと真剣に思った。
そして、少しでも日本を護り、潔く人生を終わりたいと願った。
最寄りの「厚木駅」から東京までは、列車で一時間三十分ほどだった。
山内の家は、愛知の豊橋なので反対方向だった。
山内の家は、ちくわ工場を経営しており、よく「豊橋名物」と書かれた焼きちくわがたくさん送られてきた。
山内はそれを司令を初め、あちこちに配っているので、隊内では頗る評判がいい。
俺の家は農家なので米や野菜くらいしかない。
そんな農家の出身者はたくさんいたので、山内のような喜ばれる土産がなかった。それでも、干し芋や干し柿などは、甘味の少ない時代なので大いに喜ばれた。
小園司令などは、
「おい、坂井少尉。甘い物はないか?」
と、第二士官室を訪ねてくるのには閉口したが、司令の机の中には、いつも甘い物が入っているという噂があった。
「それじゃあ、山内、いい正月を…な」
と分かれると、いよいよ東京駅に向かうホームに出た。
ホームは、大勢の海軍の軍人がいるので、一般客が面食らっているようだった。俺は、少し申し訳ない気がして、口を慎むことにした。
厚木は、首都近郊なので列車の数も多い。
まだ、空襲もないので、人々も平穏な顔をしている。
俺の場合は、東京駅から上野に出て、東北本線に乗り換える。
上野からなら四時間もあれば着くはずだから、今日の三時頃には、白河に着くはずだ。
取り敢えず、電報を打っておいたので、誰かが迎えに来ていると思う。
まあ、迎えと言ってもバイクか馬車だが、のんびりと馬に揺られて帰るのもいいだろう…。
そんなことを考えながら、相模線で厚木駅から東京に出て、また山手線で上野に出る。
俺たち東北人の帰る駅は、上野と決まっている。
不思議なもので上野に着くと、
「ああ、やっと田舎に帰れるなあ…」
という気分になるから、習慣とは恐ろしい。
駅の匂いというか、お国訛りと言うか、そんなものが混じり合った上野は、東京でありながら、東北の玄関口でもあった。
ここで東北本線に乗り換えるのだが、汽車もそんなに本数がないので、待ち時間が結構長い。
そんな上野駅のホームに佇んでいると、周囲の何人かが、こちらを見ているのがわかった。
「ん?何か用かな…?」
そんなふうに眺めていると、一人の老婦人が近づいてきて、
「あのう、海軍さん。ご苦労様です」
そう言って頭を下げるので、一応海軍士官らしく、「はっ!」と敬礼で返した。
すると、「こ、これをどうぞ…」と言って、蜜柑の入ったネットを俺の手に渡すではないか…。
「あ、いや、それは困ります」
「そう、仰らずに、うちの倅も海軍におりますので、どうぞよろしくお願いします」
と頭を下げ、恐縮したように改札の方に戻っていった。
すると、次はやはり高齢の男性だった。
「ああ、海軍さん。ご苦労様です」
「こちらをどうぞ…」
と、ニッカのウィスキーの小瓶を渡される。
そして、「海軍さん、この戦、お願いしますぞ…」と言って、今度は握手を求めてきたのだ。
これは困ったと、礼を言いつつその場を離れると、丁度、仙台行きの急行がホームに入ってきたところだった。
「よかった。助かった…」
俺は、そそくさと列車に乗り込んだ。
海軍士官は、安い三等車に乗ることは禁じられていた。
たとえ、新品少尉でも、海軍士官は二等車以上の指定席と決まっていて、軍服を着用している以上、やせ我慢をしなければならなかった。
ドアを開けて中に入ると、一斉に視線が集まったが、さすが二等車の客は、それ以上の接触は控えてるようだった。
列車の中は、整然と落ち着いた雰囲気で、
「さすが二等車、いい雰囲気だな…」
と軍帽のひさしの下から、眼だけキョロキョロと見渡し、切符を確認して自分の指定席に着いた。急行の二等車は、向かい合いの座席になっている。
「失礼します」
とマントを外して席に着くと、向かいには、身なりのよい和装の母親と小学生らしい子供がおとなしく座っていた。
「発車しまーす!」
車掌のアナウンスの声と同時にベルが鳴り、仙台行きの汽車が動き出した。 子供は、やはり汽車に興味があるらしく、窓に顔を寄せ、発車風景を楽しんでいる。
そんな姿に恐縮したのか、母親がこちらを見て、すみません…と小声で会釈をした。
まあ、和装と言っても、和服にもんぺという国民服スタイルに、雪靴のような洒落たブーツを履いているのが印象的だった。
真冬の仙台に向かうわけだから、防寒は確かに欠かせない。
俺もやせ我慢はしているが、純毛の軍服でも、ずっと外にいると流石に寒い。それでも、手袋は、鹿革の厚手の手袋なので指先がかじかむことはなかった。
トランクを網棚に乗せ、頭を下げ、しばらく車窓から外を見ていると、母親が、おずおずと話しかけてきた。
「あのう…、すみません。少尉さん」
なんだ、少尉の階級章がわかるんだ…。
「はい、何でしょうか?」
徐に顔を母親の方に向けた。色白で小顔のきれいなご婦人だった。
男所帯で、むさ苦しい軍隊などにいると、女性がきれいに見えて困る。
この婦人も慣れてしまえば、そうでもないかも知れない。一瞬、そんなことが頭を過ぎった。
「あ、あの…。実は、私の弟も海軍におりまして、飛行機に乗っているそうなのですが、ご存じありませんか…」
「東京の方に来ていることはわかっているのですが、兵学校を卒業以来、音信がありませんので、母も心配しております」
「ああ、そうなんですか?」
「私も飛行機です…」
「ところで、その弟さんのお名前は、なんとおっしゃいます?」
ご婦人は、年格好からして、まだ三十代前半というところだろう。
この子は、小学校三年生くらいだから、弟の将校は、二十五歳前後と読んだ。
俺も今年で二十二だから、飛行学生か教官の中にいたかも知れない。
そんなことを考えながら、名前を聞くと、
「はい。岡田と申します。岡田秀夫です」
「え、岡田?」
「はい、ご存じですか?」
「あ、い、いえ。ちょっと似た名前に聞き覚えがあったものですから…」
それ以上は応えなかった。それでもすぐにわかる名前だった。
岡田秀夫中尉。
飛行学生として、土浦航空隊で訓練中、急降下の引き起こしが間に合わず地面に激突して死んだ男だ。
俺たちの修了式間際で、飛行学生の中尉たちも間もなく卒業になるはずだった。確か、兵学校は七十二期か三期の人たちだ。
ただ、時局柄、家族には知らせず、いずれ折りを見て航空隊から連絡をするという話だった。
これは想像だが、訓練中の事故では戦死扱いにはならない。
そこで、実施部隊に出たことにして、戦死扱いとなるよう取り計らおうと考えているのだろう。
殉職と戦死では、遺族年金も大きく違う。
兵隊にとって、この遺族に残すお金こそが、軍隊に志願する意味でもあった。
大手柄を立て金鵄勲章でも貰えば、遺族は一生安泰とさえ言われたものだ。
貧しい家の子が、残された親や妻子のためにできる唯一の死に方だったのだ。しかし、その遺族とこんなところで出会うとは…。
「もし、少尉さん。弟とどこかで会う機会がありましたら、連絡をよこすよう伝えてください。お願いします。母も心配しておりますので…」
「我が家は、軍人一家でして、父も陸軍で出征中。兄も陸軍におりまして、既に大陸で戦死しており、この弟が跡取りなんです」
「私は嫁に出たので、今は母が一人で家を守っております」
「そうでしたか。ところで今日は…?」
「はい。実家が仙台なものですから、この子と一緒に帰省いたします」
「主人は、勤めがあるので東京に残っておりますが…」
それからは、生活が厳しくなってきたとか、子供の将来が心配だとか、これからどうなるんだろうか…などと小声で他愛もない会話していた。
こんな世間話でも久しぶりに美しい女性と話ができるだけで、心がときめいた。
こんな汽車の旅は、ひとりでぽつんとしていてもつまらないものだ。
しかし、先行きを考えると不安がないわけではない。
自分は既に「死」を客観視しているが、国民の多くはそうではないだろう。これから、この親子はどう生きていくのだろうか…。
東京にしても、仙台にしても大都市はこれから大きな空襲に見舞われることになる。
そのために、俺たちは厳しい訓練を受けてきたんだ。
しかし、それはここで話すようなことではない。軍事機密だ。
軍人は、軍隊で知り得た情報を徒に他人に教えてはならないという鉄の掟があった。
「…ところで、ご主人は、何をされているのですか…」
「はい。主人は、東京府の警部を拝命しております」
彼女がそう応えたとき、男の子が自慢げに顔を上げた。
「そうですか、警察の方ですか…。」
警察官ならなおのこと、東京を離れることは難しいだろう。
せめて、疎開を勧めたかったが、なんと言ってあげればいいのかもわからなかった。
「そ、それじゃあ、正月が終わったら、また、東京にお帰りですか?」
恐る恐る尋ねてみると、
「ええ、主人が一人で東京の自宅におりますので、私だけでもと…」
「それじゃあ、息子さんは?」
「ええ、東京もいつ空襲があるかわからないという噂もありますので、この機会に仙台の実家に預けようと思っております」
「家は、仙台と言いましても田舎の方なので、長閑でのんびりとした村です」
「父は、村の郵便局長をしておりますので、この子一人くらいは何でもない…と申しますので、甘えることにいたしました」
そうか、この子の疎開を兼ねて仙台に連れてきたのか…と少しほっとする気分だった。
その後も、この女性とは、自分のことや、海軍のことなど、当たり障りのない範囲で話をしていて、時間を忘れるほどの楽しい時間となった。

そして、そのアナウンスは突然だった。
「白河、白河…。白河に間もなく到着いたしまあす」
おや、もう白河か…?
久しぶりの女性との会話で、時間を忘れてしまったらしい。
列車は予定通り三時過ぎには、白河に着いた。
息子の拓也君は寝ていたので、網棚からそっとトランクを下ろし、
「後で拓也君に…」
と言って、パイナップルの缶詰を彼女に手渡した。
彼女は、えっ…と驚いて手を引っ込めたが、俺は自分の手をそっと添えて、缶詰を渡した。俺の手が彼女の手に触れた。
小さな白い柔らかい手の感触が、心地よかった。
「あ、ありがとうございます…。軍務でお忙しい少尉さんに気を遣わせてしまいました。本当にありがとうございました。拓也も起きたら大喜びです…」
彼女はもう俺に打ち解けた様子で、自然な笑顔を見せてくれた。
「それじゃあ、私は、ここで下りますので、ご旅行の無事をお祈りします」
と言って二等車を降りた。
男の子の名は彼女が時々、拓也、拓也…と呼んでいたので、すぐにわかったが、俺から彼女の名を聞くことはなかった。
そして、彼女も「少尉さん」としか言わず、俺も名を告げなかった。
それでも、時々見せるはにかんだような表情の裏には、別の感情もあるのだろうと勝手に推測してみた。
ホームに降りた俺は、徐に振り返り、出発する汽車を見送ることにした。
眼を覚ました拓也君が窓の奥で手を振っている。
その奥で、ご婦人が、笑顔で会釈する姿が見えた。
出発の汽笛がなった。
すると、ホームで出発を見送る俺に、彼女が急に窓を空けると、言うのを忘れていたかのように、
「少尉さんのご武運をお祈りしております!。お元気で…」
と今までにない大きな声で叫ぶと、俺に向かって手を合わせた。
俺は、胸が熱くなったが、その思いを海軍式の敬礼で返すと、この親子の無事を祈らずにはいられなかった。

仙台行きの列車は、白河を五分遅れで出発していった。
汽車を見送り、踵を返した俺の心に甘酸っぱい感情が広がっていった。
しかし、そんな感傷に浸っている暇はない。
顔を引き締めて、改めて空を見ると、雪雲が空全体を覆い、今にも降り出しそうな気配がした。
「寒い…」
口に出してみたが、周囲には既に人影はなかった。

駅の改札には、手伝いの吾作が手を振って待っていてくれた。
「ああ、直様、お疲れ様です。荷物をお持ちしましょう。しかし、それにしても随分と精悍になられましたな…」
「海軍と言うところは、厳しいとは聞いておりましたが、直様がここまで変わられるとは…」
と、変な感心をして、俺の体をポンポンと叩くのだった。
「おい、吾作さん。それより今日は何で来たんだ?」
「そりゃあ、もちろん馬車ですよ。愛馬のウメコも喜んでますよ…」
そう言うと、俺のトランクを持ち、先に歩き出した。
白河の駅舎は、大正時代に建てられたとかで、意外とモダンな感じがして、俺は好きだった。
何か、今の時代には似合わないかも知れないが、このくらい優しい駅舎があってもいい。
そんなことを考えながら駅舎を出ると、ウメコの嘶きが聞こえてきた。ウメコは、駅前につないであった。
馬車と言っても、田舎馬車なので後ろに小さな幌つきの人力車風のリヤカーを引く簡易な物である。
リヤカーに椅子を取り付け、家の客の送迎などに使っていた。
ウメコは、家の馬の中でも性質がおとなしいので、農耕よりどちらかというと、交通手段として使われていた。
俺は、幌を開け後ろの座席に座ると、御者席に座って鞭を振るう吾作に家族や村の近況を聞きながら、のんびりと田舎道を辿っていった。
外の風景は、まるで水墨画の世界だ。
木々の葉も落ち、田畑にはうっすらと雪が積もっている。
ヒューヒューと鳴る風の音は、如何にも寂しげで、東北の冬を耐える人々は、皆、無口だ。
厚木から白河なので相当寒いと覚悟していたが、吾作によれば、今日は年末にしては意外と暖かいらしい。
そう聞くと、俺も寒い寒い…とばかり言っているわけにもいかなくなった。
家や村の様子を尋ねると、やはり予想通り、俺の後からも出征が続き、多くの仲間や先輩たちが軍隊に行ったらしい。
これで、村の家は、女子供と老人ばかりだ…と吾作は零していた。
「ところで、直坊ちゃん。中学校の太田先生が、一度学校にも顔を出すようにと、おっしゃっていました…」
「なんだ、先生にも知らせたのか?」
「はい。直坊ちゃんの電報が来ると、旦那様があちこちに電話されておりましたので、そのとき、先生にもお話しされたんでしょ」
「何でも、正月は元旦に生徒さんが集まるので、ちょうどいいとのことでした」
「ふうん…」
まあ、それも海軍少尉としては仕方がないことだと思っていたが、それより、先生の話を聞いた途端、娘の範子さんの顔が頭に突然浮かんだのには驚いた。
ああ、範子さんか…?
さっき、美しい女性と会ったから、そんな娑婆っ気が出てきたのかも知れない。
軍人になったと言っても、まだまだ青臭い男だと、自分で自分が恥ずかしくなった。
今日は、珍しく飛行訓練もなく、朝稽古をしたきりで、緊張の糸が切れたのかも知れない。
こりゃあ、気を引き締めておかんと、事故でも起こすな…と雷電の操縦の難しさを思い出していた。
そんなことをとりとめもなく考えていると、間もなく我が家に着いたらしい。
それにしても、ウメコはおとなしい馬だ。
大して鳴きもせず、黙って俺を運んでくれた。
後でウメコにたんと餌をやろう…。
もうおばあちゃん馬だが、可愛い奴だ。ウメコは、吾作にグンと手綱が引かれると、家の門の前にピタリと馬車を止めた。
御者台から吾作が、俺に声をかけた。
「はい、直坊ちゃん、着きましたよ」
「ああ、吾作さん、ご苦労さんだったね。それはそうと、吾作さん。その坊ちゃんは、そろそろ止めようよ。俺ももう大人だしね…」
と言うと、
「えっ、そうですか…。じゃあ、何て言えばいいか…」
「それなら、直でいいよ」
俺は、海軍少尉に任官したし、周りの眼をあるから、さすがに「坊ちゃん」は、困った。
俺がそう言うと、吾作はぺこりと頭を下げ、周囲にわかるように大きな声で、
「直様がお帰りでごぜえます!」
と言うものだから、家の中から、わらわらと家の者たちが転がるように出てきた。
「あっらまあ、すてきな海軍さんでねが…」
「直さん、見違えたっぺ…」
「どんぞ、どんぞ…」
と、まるで賓客を迎えるように、家の者や小作の衆などが、俺を座敷に引っ張っていこうとする。
「まあ、まあ、みんな元気で何よりだ…」
みんながこんなに喜んでくれるとは思わなかったが、少し気恥ずかしかった。
しかし、何か変だ…?。よくよく見ると、みんなが、なぜか正装をしている。
まあ、俺も海軍の一種軍装に革手袋、そして海軍マントを羽織っているので、間違いなく正装だが、正月前の慌ただしい日に、これは何だ?
すると、奥から出てきた親父が、
「おう、直、よう帰った!」
「電報で知らせたとおり、これからお前の祝言だ。早くしろ。嫁さんが待っとるでな…」
「え、えっ、俺の祝言?」
「父さん、そんなこと、俺、聞いてないよ」
「何を言っとるか。電報打ったじゃろう!」
親父は怪訝な顔をするが、俺も知らんものは知らんとしか言いようがない。
「い、いや、俺は見とらんぞ…」
「ん、なんじゃ、見とらんのか?。こりゃ、困ったな?」
親父には何か心当たりがありそうな口ぶりだった。
それから、ふーんという納得顔を見せ、頭をかきながら呟くように言った。
「まあ、急な話でまとまったからな…。嫁さんは、中学の太田先生のとこの範子さんじゃ。縁談を持って行ったのは儂じゃが、最初は先生も渋っとったんだが、そんでも、本人に聞いてみると言って、数日待っとったんだが…」
「こちらは、兵隊に行っとる倅だし、まあ、無理かなと思っとったら、なんと返事をくれたんだわ…。それも本人が家に出向いて来て、よろしくお願いします…ってな」
「まあ、そんなわけで急いで電報を打ったんだが、ちょっと間に合わんかったかな…」
親父は、一人で勝手にそんな話をしているが、肝心の俺の気持ちはどうなるんだ?
「なあ、父さん。ところで、相手はいいとして、俺は、俺の気持ちは聞かんでもいいのか…」
俺にしてみれば、当たり前の疑問なのだが、それを親父は軽くあしらった。
その時は、自分のしくじりなどなかったかのように、威張って言い切った。
「なんだ、男のくせに。それに範子さんは、おまえも知らん仲でもあるまい。それにおまえは兵隊じゃろ。おまえの気持ちより、家の問題だわ。嫁さんが、いいって言ってくれてるんだから、文句を言っては、ご先祖様に申し訳ないわ」
と、こうである。
そう聞くと、そんなもんかとも思ったが、田舎の駅に着くなり範子さんの顔を思い出したのも、何かの虫の報せかとも考えた。
まあ、あの頃は、厚木航空隊も年末で兵隊たちが電報を打ったり、届いたりしてたので、混乱していたことは間違いない。
「ところで、父さん、何て打ったんだ?」
親父は少し思案げな顔をして、思い出しているようだったが、こんな大事な話をその程度の記憶しかないとは、もうこれ以上聞いても無駄だと悟った。
「まあ、簡単にな、確か…」
「カエツタラ シユウゲン アゲル ハナヨメハ オオタノリコ チチ」
「そんなところだ」
「で、祝言はいいな、直!。今からするから、早う来い」
これから戦場に出る身としては、いつ死んでも仕方がない。
しかも、ここまで準備されて、花嫁も待っているとなれば、今さら断ることもできん。まして、花嫁に恥をかかすこともできんだろう…。
俺は、これも縁と考えて祝言を挙げることにした。
まさに帰宅早々の祝言である。
マントを取ると、すぐに座敷に上がり、花嫁の父である恩師の太田先生に挨拶をし、花嫁の顔を見て頷いた。
太田は、
「いやあ、直君。こちらこそ、急な話で申し訳ない。君が出征しておるんで、迷惑じゃないかと考えて遠慮しようと思ったんだが、いやはや、範子があんな行動を取るとは、私もわからなんだ…。とにかく、男手で育てた娘なんで、碌なことも教えとらんが、よろしく頼みますわ…」
恩師にそこまで言わせれば、もう否も応もなかった。
そんな挨拶を済ませ、奥を見ると、既に花嫁は屏風の前に座っており、
「さあさあ、直さんも。早う早う…」
と、近所のおばさんに促されて、花嫁の隣に座ることになった。
白の綿帽子が影になり、白粉で白くなった花嫁の顔はよく見えなかったが、海軍に入る前より範子さんは美しくなっていたように思った。
範子は、こちらを少しだけ見て、綿帽子の下からクスッと笑っていた。
仲人には、親戚でもある村の助役夫婦が買って出てくれて、簡単な祝言の式が終わり、宴会となった。
始まってしまえば、こちらはそっちのけで、男たちは酒を飲み、女たちは料理の準備と接待で大童になっていた。
だから、親父とは少し話ができたが、お袋さんとは、顔を合わせただけだった。
一応、地主の家の祝言とあって、大勢の村の衆が集まり、正月前に盛大な宴会となった。
村の衆にしても、統制統制で、厳しい生活を強いられていたわけだから、宴会は夜が更けるまで続き、親父も酩酊するまで飲まされていた。
俺は碌に飯も食わず、酒ばかり飲まされたのでかなり参ったが、それでも酒は強い方で、隙を見ては並んだ御馳走を腹に詰めていた。
時々、
「おい、範子さん。あんたも食べた方がいいよ」
と声をかけたが、頷くばかりで花嫁は箸を取ろうともしなかった。
白無垢、綿帽子の花嫁の心境を考えると、なんだか愛おしいような、可愛そうな、複雑な気がしてきた。
よし、せっかく、祝言まで挙げて嫁さんを貰ったんだから、簡単には死なれんぞ!
そう、心に誓い、宴会の様子を眺めていた。
そんな俺たちを不憫に思ったのか、母親の民が、
「そろそろ、花嫁さんも婿さんも、お疲れじゃろうから、下がりますね…」
と声をかけ、宴席から解放してくれた。
さすがは、坂井家の女主である。
家の親父は、頼り甲斐のある男だったが、家のことを考えるような人ではなかった。
「中のことは、民に聞け!」
が口癖で、どうせこの結婚を決めても、中の段取りはみんなお袋にやらせたに決まってる。
もちろん、そうした方がいい。
だから、親父がお袋の意見に反対したところを見たことはない。
まあ、家の金を握っているのもお袋だから、仕方ないが、これが坂井家の家訓でもあった。
当然、死んだ祖母さんもそうしていたし、祖母さんの死んだその日から、坂井家のやり繰りはすべてお袋がやっていた。
それでも、何とか小作の衆をまとめて、相談に乗ってやったり、金を工面してやったりと、小作の家でお袋を頼らない人はいなかった。
お袋は、普段は無口だが、侍の娘らしく、常に泰然自若、慌てるという風はない。
因みに言っておくと、お袋の里は、棚倉藩十万石の勘定奉行の家柄である。当然、家格はお袋の家の方が高い。
それでも、戊辰戦争で没落し、商家で働いているところを祖母さんが見初めたという話だった。
さすがは留祖母さん。お目が高い。
その日の夜になると、夕方から続いた祝言も終わり、それぞれが千鳥足で家に帰っていった。
みんなが帰り静寂が訪れると、母親の民が、そっと耳元で囁いた。
「直、範子さんはね。お前の嫁にならなりたいと、わざわざ家に来て承諾の返事をしてくれたんだよ…。私は、悪いが、こんなご時世だから、おまえが戦死しても仕方がないと思っとる。でも、範子さんは、それではあんまり気の毒でねえか。いいかい直、戦死することは確かに名誉なことだ。しかし、易々と死んではなんね。おまえが習った剣のように、しぶとく生きて範子さんの元に帰って来ておくれ…」
お袋さんは、そう言うと俺の背中をポンポン叩き、徐に「行ってやれ」とばかりにそっと押すのだった。
俺は、小さく頷いて家の離れに向かった。
離れには、既に範子が身支度を調えて待っていた。
お湯を使ったのか、髪も濡れ、浴衣から見える細い腕は、いかにも健気であった。

範子は、太田英世先生の一人娘として育った。
太田家も代々白河藩士の家系で、元は知行百五十石を領した中級武士であった。
砲術を専門とし、幕末には、幕臣として江戸に詰め、旗本として明治維新を迎えている。
先祖は、戊辰戦争後、白河に戻り代々教職に就いたとのことだった。
範子は、先生の一人娘だから、本来であれば婿養子を迎える立場だったが、こんなご時世で若い男は、みんな兵隊に行ってしまっていた。
範子の母は、範子を生んで間もなく亡くなったと聞いているので、俺は顔も知らない。だから、先生にとって範子はかけがえのない愛娘に違いなかった。
それを承知の上で、親父はこの縁談を申し込んだらしい。
親父にしてみれば、我が子かわいさで、死ぬ前に嫁を…と考えたのだろう。
そんな経緯はあったが、先生も教え子の俺ならと、大切な一人娘を手放す決心をしたのだ。
もし、戦争が終わり、みんなが無事に復員してきたら、そのときは俺を太田家の養子に迎えたいという腹づもりも少しはあるらしい。
範子は、俺と同い年の二十二歳であった。
当時としては、早い結婚ではないが、一人娘と言うこともあり、なかなか先生としても手放せなかったのだろう。
白河高等女学校を優等で卒業し、地元の国民学校でやはり教員をしていた。
武士の娘らしく、子供の頃より、薙刀、合気道の遣い手として近隣には名を轟かせていた。
俺も、中学生の頃から学校の道場で顔を合わせ、稽古を一緒にしたこともあったが、当時のことなので、会話らしい会話をしたことはなかった。
しかし、なかなか一本を取らせない優雅な足裁きが記憶に残っている。
もちろん、太田先生のご自宅で茶菓の接待を受けたこともあったが、先生が娘のことを話題にすることはなかった。
しかし、同じ剣を志した者として、相通じる世界観はあるはずだ。
俺も、促されるまま風呂に入り、浴衣に着替えると、離れの奥の部屋に向かった。
障子を開けて中に入ると、そこには、まんじりともしないで範子が俺を待っていた。
俺自身どうしてよいかわからず、奥の布団の上に胡座をかくと、
「あ、範子さんお久しぶりです」
「まあ、今日はこんなことになって、すみません」
そんなぎこちない挨拶で、夫婦の会話が始まった。
範子は正座をしたまま、身を正して挨拶の口上を述べた。
「直さん、範子でございます。不束な嫁ではございますが、末永くよろしくお願いいたします」
そう言うと、深々と頭を下げるのだった。
俺は慌てて佇まいを直し、
「あ、いやいや、こちらこそ。無理な縁談で申し訳ありません。しかし、これも縁と言うものです。私は、今海軍で飛行機に乗っています。いつ、戦場に出るかわかりません。戦場に出ることは、即ち死を覚悟することです。それでも私は、貴女のために生きようと思います。そして、生きるために戦います。それでも、万が一の時は、どうかお許しください」
俺は自分の本心を打ち明けた。きちんと話しておかなければならないと思った。場合によっては、すぐに後家になるかも知れないのだ。ここでいい加減なことは言えない。
範子は、涙を必死に堪えながら、小さく頷いてくれた。その体は小刻みに震え、一生懸命に感情を抑えようとしていることがわかった。
俺は、それで満足だった。
「俺は、この人のために生きよう。そして戦おう…」
このときが、これまでの自分の迷いが吹っ切れた瞬間だったかも知れない。
そんな慌ただしい結婚だったが、二人きりになると、子供の頃の思い出話に花が咲き、範子が昔から俺を慕っていたという話を聞いた。
範子が武道に熱中したのも、俺との立ち会いで完膚なきまでに打ちのめされたことが原因だったそうだ。
「坂井君に勝ちたい!」
そういう思いが、いつか思慕の感情に変わったとしても仕方のないことである。
俺が軍隊に行ってしまい、目標を失っていたところに今回の縁談があり、先生を説得して家に挨拶に来たそうだ。
そのあたりも、流石女剣士の面目躍如というところだろう。
お袋が気に入ったのも、そんな腹の据わった潔さであり、坂井家の台所を仕切れる女と見込んでのことだった。

昭和二十年の正月は、厚木にいれば、常に臨戦態勢でお屠蘇を味わう暇もないが、ここでは、まだのんびりとした空気が漂っていた。
休日明けの前日、俺は先生との約束を守り、母校の県立白河中学校に出向いた。
正月にも関わらず、校長、教頭、配属将校他数名の先生方と同じ剣道部の後輩たちがが集まってくれた。
前日に、「剣道部を指導してくれないか」という申し出があったので、道着を持って出かけることになった。
懐かしい道場では、配属将校の髙安中尉や顧問の増田先生、そして部員たちが防具も着けて待っていた。
俺が道場に入るや否や、
「よろしくお願いします!」
という、主将のばかでかい声に圧倒され、小さく「願います」と頭を下げた。もうこの後輩たちは、俺のことは知らないだろう。
既に卒業して四年以上が経っていた。
しかし、俺の中学校時代全勝無敗の記録は、伝説として語り継がれ、後輩たちも俺たちの時代を目標に稽古に励んできたそうだ。
当時の白河中学校剣道部は、県大会、東北大会を制し、全国大会で三位という輝かしい実績を挙げていた。
剣道は、戦時中ということもあって、全国でも熱心に取り組まれており、少年たちのほとんどは、柔道か剣道をするという時代だった。
その中で、全国三位は、福島県にとっても名誉なことであり、新聞にも大きく取り上がられた。しかし、俺は個人戦には出なかった。
俺の剣術は、そもそも剣道界では邪道な剣であり、俺自身もけっして剣道に馴染むことはなかった。
入学直後、俺の素性を知っている担任の太田がしつこく頼むので、仕方なしに参加したようなものだった。
そして、参加する条件は、稽古は自由参加、俺の稽古に口は出さない、基本は生徒に助言はするが、試合には出ないことだった。
しかし、いくら教師とそんな約束をしても、先輩方が黙っているはずもない。
俺は仕方なしに、先輩方全員と立ち会い、実力差を示すしかなかったのである。
確かに俺に勝てるような生徒はいなかったが、先輩とのしこりは残り、最上級生になるまで道場に顔を出すことはなかった。
それでも、先生や同級生たちは、俺の剣を知っており、五年生になると、主将の矢神がやってきて、
「頼む、坂井。俺たちと一緒に試合に出てくれ。俺たちも一生懸命稽古をしてきた。一年生のときのおまえに対する先輩たちの仕打ちは、今も許せない。しかし、俺たちにはおまえが必要なんだ。頼む、俺たちをもっと強くしてくれ!」
と必死に頼むので、本当は稽古をつけるだけのつもりだったが、俺もやっていくうちに熱くなり、最後の試合だけという条件で団体戦の大将に登録したというわけだ。
主将の矢神は、大将の座を俺に譲り、中堅に回った。
「おい、矢神、いいのか主将のおまえが大将だろうが…」
そう言うと、矢神は、
「何を言うか、俺はおまえのために大将の座を守って来たんだ。座るべきは、坂井、おまえだ!」
そう言って一歩も譲らないので、俺が大将を務めることになった。
試合では、矢神と俺が勝ちを奪い、後の一本は三人で一つ取るという戦法で戦うことになっていた。
俺が奴らに教えたのは、ひとつ、無限流の極意のひとつ「手首落とし」である。
まあ、簡単に言えば、「出小手技」だ。
そのために、試合までの三ヶ月、それだけを徹底的に教え込み、奴らは自転車のゴムチューブを使い、手首の強化を徹底して行った。
そして強くて太いロープを鞭のように撓らせ、手首だけで回す特訓を課した。
これは、俺が修行中、川の中に入り、木の太い蔓を振り回すという特訓にヒントを得てやらせた手首強化法である。
最初の頃は、腰がふらついたり、手首が痛くなってあきらめたりと情けない状態が続いたが、矢神の叱咤で団体メンバーの足腰と手首は、格段に強化されていった。
試合の一週間ほど前に、俺が一度、一人一人と立ち会うことになった。
すると、どいつも腰が据わり、眼だけが異様に光り、そして無口になっていた。
そして、剣道特有の叫び声が少ない。
「いやあ…!」
と気合いを入れると、俺の手元が上がった瞬間に巻き付くような小手を入れて来るではないか。
その素早さは、素人では跳ね返すことはできない。
俺の手首は、瞬く間に切って落とされた。
「ほう、みんな上手くなったな…」
正直、俺も驚いた。
俺の感覚では、もう少し遅く入ってくると読んでいたが、思いの外速く、俺自身が面を食らった気分だった。
こうして「手首落とし」の技を習得した四人は、戦いの場に臨んで行ったのである。
その後の快進撃は、先ほどのとおりであるが、さすが全国大会の準決勝戦は、一つの技だけではどうにもならなかった。
頼みの矢神が倒れると、勝負は決まった。
俺は、相手の大将を数秒で片付け、すべての試合を終えた。
大会中、俺の剣に注目が集まったようだが、個人戦に出ていないので、そんなに話題にならずに忘れてくれたようだった。
ただ一人、滋賀の根来某という選手は、俺と同じような剣を使うので、気にはなった。
恐らくは、俺と同じ、口伝で伝えられた兵法を受け継いでいるんだろう。
しかし、その後の消息は知らない。
俺を誘った矢神は、やはり学徒出陣で陸軍に入り、沖縄で死んだということだった。本当に熱い男で、気のいい奴だった。
しばらくぶりに入った道場で、そんな思い出が脳裏に浮かび、なんか、みんなに校長が俺を紹介してくれたらしいが、気もそぞろで聞いてもいなかった。
配属将校の髙安中尉にしてみれば、若い予備士官が偉そうに…くらいの気持ちがあったのだろう。
「だれか、稽古をつけて貰いたい者はいるか…」
と校長が声をかけると、真っ先に手を上げたのは、生徒ではなく、教員の髙安中尉だった。
髙安中尉は、真っ先に手を挙げると、俺を射るような目つきで言い放った。
「いいか、生徒諸君。私がまず見本を見せる。私は、これでも剣道は三段だ。陸戦で鍛えた実戦の剣だ。白兵戦がどのようなものか、じっくり見せてやる。さあ、坂井少尉やりましょう。お願いします…」
と防具を着けて、自信満々で出てきたので、こちらも儀礼上防具を着けて、中央に進み出た。
髙安中尉は、三十代後半で、叩き上げで陸軍中尉まで上り詰めた予備役中尉である。
生徒の教練は厳しく、積極的に軍に志願することを勧めていた。
こういう手合いには、校長も口出しができない。
今日も俺が来るという話を聞いて、「予備士官の若造が…」と手ぐすね引いて待っていたのだろう。なるほど、この道場の舞台を拵えたのもこの男か…。
しかし、中央で竹刀を構えてみると、殺気は凄いが、人を威圧するオーラがない。
剣の立ち会いは、剣を交わした一瞬で決まることが多い。
その実力差は、少しでも剣を習った者ならわかるはずだ。
髙安中尉は、既に俺の無言の気合いに飲まれているのがわかった。
傍ではわからないが、もう、本当は恐ろしくて体を震わせているはずだ。
髙安中尉は、いきなり上段に構えると、
「きえーっい!」
と、空を飛ぶ鳥さえも落としかねないような奇声を発した。
しかし、声はでかいが、まったく隙だらけだ。
髙安中尉が撃ち込む剣は、まるでスローモーションのように見えた。
そんななまくら剣をひらりと躱すと、体を前に突っ込んだ髙安中尉の体を竹刀の先で少しこづいてみた。
髙安中尉は、さらに顔を真っ赤にして撃ち込んでくるので、益々隙ができる。
さあ、どっからでも斬ってください…と言わんばかりの硬さである。
面倒くさいので、さっき思い出した「手首落とし」の技を切ることにした。その動きは、一瞬の早業で、頭に血が上り、興奮した髙安中尉には見えないだろう。
カラーン…。道場中に乾いた音が響き渡った。そして、ものの見事に髙安中尉の竹刀は宙を舞ってから床に転がった。
髙安中尉は、ぽかんとして何が起きたのか、理解できない風であったが、まあ、勝負はあっけなくついた。
恐らく髙安中尉の手首には、赤い一本の筋がしっかりとついていることだろう。
周りで見ている教師や生徒も、唖然として声も出ない。
俺は見ている太田に、「まあ、先生こんなもんで…」と言って、道場を後にした。
なんてこった。
こんなんで日本が勝てるわけないじゃないか。
敵を侮った瞬間に、負けは決まるんだ。
弱い者ほど、敵を侮り、敵を知ろうともしない。まさに、今の日本の軍部のようだと俺は思った。
もうこんな場で、戦局や軍隊の話などしたくもない。
戦争は、後方で考えるほど簡単じゃないことを、あの威張った配属将校に身をもって教えられただけで十分だった。
「あ、坂井君…」
義父となった太田の声が聞こえたが、その声に振り向くことはもうなかった。所詮、あんたも口を閉ざすだけの人間だろう…。
そう言いたかったが、範子の手前、その言葉は飲み込んだ。

数日間の慌ただしい結婚生活も終わり、厚木に戻る日がやってきた。
この間、範子は、せっせとお袋について正月の準備をし、俺の世話を焼き、正月になるとお節の準備やら、来客の接待やらで大忙しだった。
「これじゃあ、何のために嫁に来たんだかわからんなあ…」
と範子が気の毒に思えたが、範子は意外にもそれを楽しんでいるかのように、テキパキとよく働いた。
それでも夜になると、二人で将来を語り合い、子供のこととか、二人が年寄りになった時のこととか、他愛もない話を遅くまでして、「夫婦水入らず」という体験を味わった。
そんな幸せな数日は、あっという間に過ぎ、帰隊する朝がやってきた。
白河の空は、今日も薄ぼんやりと、雪雲が空全体を覆っている。
身支度を済ませると、範子の耳元でそっと呟いた。
「範子、俺は必ず生きて帰ってくる…。待っていてくれ…」
それだけ言うと、マントを翻し、吾作の待つ馬車に乗り込んだ。
今日の出発は、家族の者にしか伝えていない。
親父とお袋さんが無言で見送ってくれている。
妻ももう坂井家の一員だ。この両親なら、きっと優しくしてくれるに違いない。
俺は、家族にさっと別れの敬礼をすると、もう後ろを振り向くことはなかった。
おそらくは、今、この時、日本全国でそんな別れがあるのだろうと考えていた。
戦場で戦っている者たちにふるさとへの帰還は、英霊になってからだろう。生きて帰郷し、嫁を貰えたことを本当に幸せだと思う。
吾作とは、駅で別れたが、そっと吾作の手に一円紙幣を数枚握らせた。
「え、直様、いけません。旦那様に叱られます…」
そう言う吾作にそっと、
「吾作さん、すまない。範子のこと、よろしく頼みます」
と頭を下げた。
「た、ただしさま…」
吾作は、もうそれ以上何も言わなかった。
吾作夫婦にとっても、俺は自分の子供のようなものだったろう。小さい時分より、我が子より気を遣って一生懸命面倒を見てくれた夫婦である。
俺の願いを聞き入れてくれた吾作に、後を託すことにした。
範子のお腹に子供ができたという報せが届いたのは、それから数ヶ月後のことだった。
戦後になって生まれた子は、女の子で俺は、会津の女傑、山川捨松にあやかって幼名の「咲」と名付けた。
この子もきっと捨松のように美しく、誇り高く己の道を生きてくれるだろうと思い、父親として、娘の末永い幸せを願った。

第六章 撃墜

既に情報として、九州がアメリカ軍爆撃機B二九の攻撃に晒されており、陸軍の双発戦闘機「屠龍」が活躍しているという話は聞いていた。
屠龍は、海軍の月光と同じ偵察機の改良型で、小園司令の開発した斜め銃をいち早く採用し、「上向き砲」として、機体の背中三〇度で二門装備している。
これにより、月光や屠龍は夜間訪れるB二九の編隊の真下に潜り込み、二〇粍弾を巨体の腹にぶち込むわけである。
当初、B二九は、その長大な航続性能を生かして中国四川省の成都から遠距離爆撃を敢行した。
しかし、航続距離の短いアメリカの戦闘機では護衛がつけられず、夜間爆撃を行うしかなかった。
夜間爆撃なら、高高度を飛行する必要はなく、その分、燃料を節約することができる。
それに数十機単位で編隊を組めば、その機銃網で敵機を寄せ付けないという計算があった。
したがって、月光や屠龍のような偵察機仕様の双発機でも、迎撃が可能だったわけである。
それも通常ならB二九より高度を取り、攻撃をしなければ効果はなかったが、斜め銃を取り付けることにより、B二九より低い高度で攻撃ができたところに利点があった。
これなら、格闘戦では戦えない双発機でも、十分の戦力になるという計算だった。
特に、爆撃機の下部は爆弾槽があり防御が弱い。そこに二〇粍弾が何発も炸裂すれば、たとえB二九であろうと撃墜することは十分可能なのだ。
日本の二〇粍機銃弾は、徹甲弾、曳光弾、炸裂弾の三種類が交互に発射されるようになっており、特に炸裂弾が機体に当たると弾自体が炸裂し、機体に大きな被害を与えることができた。
ラバウルで試験的に使用した斜め銃により、敵B一七爆撃機を撃墜したこともあって、小園司令は、すべての機体に搭載するよう指示をしたが、単座戦闘機にとっては、重量が嵩み軽量を特長とする零戦隊は大反対で装備が進まなかった。
雷電隊としても、一撃離脱の戦法を採用することにしていたので、特に斜め銃を必要としてはいなかった。
やはり、月光や屠龍などの双発機に装備するのが適切だったのだろう。
それにしても、大型機への攻撃は、凄まじいものがあった。
いくら大型エンジンを備えた雷電と言えども、操縦するのは生身の人間である。急上昇、急降下の繰り返しは、体にかかる負担も半端ではなく、特に急降下からの引き起こしは、一瞬血が逆流し、貧血状態になる。瞬間的に気がつくが、体は常に重く、精神を正常に保つには、相当の鍛錬が必要だった。
また、急降下の角度がつき過ぎると、操縦桿が動かなくなり、相当の腕力がなければ引き起こしは難しい。
しかし、それほど深く突っ込まなければ、機体を敵に晒す面が増え、危険極まりない。
俺は、早朝から樫の木で出来た重い木刀「鬼樫」を振り、鉄棒にもぶら下がって腕力を鍛えた。
学校によくある高鉄棒での懸垂なら、何回やっても大丈夫だろう。
そのくらいの自信はあった。
それが、俺たちの戦いであり、生きることでもあった。

昭和二十年に入ると、戦局は益々厳しさを増していった。
厚木飛行場も小園司令の頑張りで機材も人員も充実し、雷電、零戦、月光、銀河、彗星、彩雲と百機以上を保有するまでになっていた。
雷電隊も拡充され、さらに兵学校や十三期の予備学生出身者が異動により多く戦列に加わるようになった。
ここに来て、海軍中央も三〇二航空隊を首都防衛の重要拠点と認識し、多くの予算を回してくれるようになっていた。
小園司令は、本部建物の地下にも通信室や整備工場、弾薬庫などを造り、空襲で地上の建物などが破壊されても、基地機能が麻痺しないよう工夫を凝らしていた。
飛行機も大きなコンクリート造りの掩体壕の中に格納するので、外に出てさえいなければ、五〇〇㎏爆弾程度の直撃では、壊れたりはしなかった。
また、偵察隊、通信隊の基地情報システムも独自のスタイルで整備し、偵察隊には、高速機の彗星や彩雲を使用した。
さらに通信隊は、最新のレーダーシステムを持つ陸軍のレーダー部隊に話をつけ、常に最新情報が入るように、陸軍との協同作戦が採られていた。
これが整うと、通信長は小躍りして喜び、隊員たちに、
「いいか、この日本一の通信システムを駆使して、だれよりも速く、敵を察知するんだ!」
と檄を飛ばした。
各機体に搭載される通信機も、民間会社が開発した最新型に取り替え、地上からの無線誘導が可能となり、飛行機同士の交信もスムーズになった。
日本人は、どうも大企業などに頼りがちな面があり、小さな企業の発明を軽視する傾向にある。
話は逸れるが、今をときめく、局地戦闘機紫電改は、兵庫の川西航空機という水上機専門の会社が作った戦闘機だったし、中島飛行機も、中島知久平という元海軍大尉が設立した会社であった。
また、日本軍が開発に出遅れたレーダー装置だって、電気工学の泰斗、八木秀次博士が既に大正末期には、特許を取った大発明だったにも関わらず、当時の軍首脳たちは、これに気づかず、外国が先にこれを実用化してしまっていた。
いつまでも日露戦争当時の白兵戦が忘れられず、精神主義で凝り固まった指導者たちによって、日本は、滅亡の淵に立たされたかと思うと、腹が立って仕方がない。

話を戻そう。
しかし、厚木航空隊では、遅ればせながら、最新の通信システムも整い、これで四機編隊ロッテ戦法も有効に機能することだろう。
それに、燃料の確保も重要だった。
もう、国内の燃料は枯渇し艦船に回す油はない。
それでも、戦争初期に占領した東南アジアの油田地帯から民間のタンカーが、撃沈覚悟で日本に貴重な油を輸送し、戦争に大きく貢献をしていた。
これも後で知ったことだが、海軍は、こうした輸送船に対する護衛を軽視し、船団護衛に回す駆逐艦も少数で、いくら輸送会社が頼んでも「敵艦隊撃滅が優先だ!」と相手にもされなかったそうだ。
肝腎な油がなくて、どうやって戦争をする気なんだ。
そもそも、この戦争だって、「日本の生命線は油だ」ということで始まったんじゃなかったのか。
やはり、戦略を持たない弊害が、こんな分野にも及んでいたのである。
今や、航空燃料は貴重な物になっていたが、小園司令は、日頃からオクタン価の高い燃料を地下燃料庫に少しずつ備蓄し、雷電隊に優先的に回してくれた。
雷電は、急速発進、急上昇、急降下といった通常では考えられない過度な操縦を要求された局地戦闘機である。
昼間の敵は常に一万mを超える高高度を保って飛来してくる。
早期に敵を発見したとして、一万mに達するには十分以上かかった。
まして、当時の日本には高高度で本土に侵入してくる敵が存在する…ことへの備えもないので、実際、高射砲も届く距離ではない。
その上、高高度で戦える戦闘機は少なかった。
雷電は迎撃機なので、できる限り高角度で上昇したいが、それでは機体が保たない。
しかし、アメリカの飛行機は、百オクタン以上の航空燃料を使い、時速六百㎞を優に超えるスピードで突っ込んで来る。
これに対抗できる日本の高速機は、雷電と紫電改、陸軍の疾風くらいだと言われていた。
その紫電改は、川西航空機製作の傑作機ではあったが、その機数も少なく、小園司令のライバルと目されている三四三航空隊の源田司令が、根こそぎ基地のある松山に持って行ってしまったので、関東で見る機会は少なかった。
紫電改の話は、後ですることにして、今は雷電に話を戻す。
こうして小園司令は、できる限りの対策を講じた上で、敵の来襲に備えたのだった。
俺が、敵B二九と初めて遭遇したのが、正月の二十七日だった。
B二九の大編隊が早朝に中島飛行機製作所の群馬工場から東京中心部を襲ったのである。
防空指揮所から通報を受けた、我々戦闘隊は、零戦も雷電も稼働機全機をもって、発進した。
とは言っても、おそらくは五十機程度の邀撃部隊だったと思う。
俺たち第三小隊は、四機編隊で急上昇し、ゆっくり上昇してくる零戦隊を尻目に、ぐんぐんと加速して、早々に一万m上空に到着した。
高度一万mは、酸素濃度も薄くなり、酸素マスクが必要となった。
また、寒さ防止のため毛皮のついた飛行服や手袋で防寒していたが、寒さは半端ではない。
それでも操縦席は、エンジンのすぐ後ろなので、暖かい空気が入ってきたが、それでも寒い。
通常の飛行服では、一時間もいたら凍死してしまうのではないかと思うくらいだった。
この高度を維持するためには、機体のエンジン部を少し上げておかなければならない。
一千八百馬力の雷電でさえ、この態勢を維持することは苦しかった。
おそらく一千馬力程度の零戦では、高度八千mくらいが限度だったはずだ。
そのままの態勢で十分ほど過ぎた頃、やや左下方にキラリと光るものが見え始めた。その銀色に輝く機体は、間違いなくB二九である。
俺は、それを視認すると、「ゴクッ」と生唾を飲み込んだ。
隣を見ると、やや高度を下げて僚機が見える。
エンジンの排気管から見える青白い炎が美しいとさえ思った。
しかし、感傷に浸っている暇はない。
すぐにレシーバーを耳に当て、列機に連絡を取る。
「よし、これより稲妻一番、攻撃に入る!」
「了解…」
機内無線の調子もいいようだ。
列機の反応も早い。
「ようし、第三小隊続け!」
下方を見ると、B二九がひしめき合うように密集隊形を採っている。
五十機近くもいるのだろうか。
こんなに新鋭の爆撃機を揃えられるなど、日本海軍全盛期でも無理だと思った。
「俺たちは、とんでもない国を相手しているんじゃないのか?」
そんな思いが頭を過ぎった。
しかし、B二九編隊の周囲を見ても、護衛戦闘機はない。
アメリカ軍戦闘機は、日本軍機のような航続距離はない。
日本は、航続力の高さを誇っていたが、人命を優先する欧米では、そんな長距離を操縦させるような作戦は採らなかった。
人間が飛行機を操縦する以上、人が集中して飛行できるのは、せいぜい三時間程度のことである。
その上、空中戦を行うとなると、それ以上は人間の限界を超えることになる。
空中戦は、双方が高速で撃ち合うわけだから、長くても十分程度で終わる。しかし、それは必死の命のやり取りなのだ。
その疲労度は並大抵のものではなく、精神がずたずたに切り裂かれるような緊張感が強いられている。
したがって、一空戦をした後に、もう一度戦うのは本当に苦しい。
日本の指揮官は、人間が操縦し戦っているという根本が理解できていないのだ。
机上の理屈で、無茶な反復攻撃を命じることが、大和魂だと勘違いをしている。そのために集中力を切らし、為す術もなく敵の餌食になった搭乗員も多かった。
零戦は、優秀な戦闘機ではあったが、ガダルカナル島の攻撃時には、往復六時間、三千㎞を飛行して、その間に空中戦も行えという過酷な命令が連日発せられたのである。
当時としては、やむを得なかったとする意見も多いが、そもそも、戦線を縮小して絶対防衛圏の中で合理的に戦うしかなかったのだ。
特にベテラン搭乗員は酷使され、本土防空戦を戦えたベテラン搭乗員は、開戦当初の一割程度ではなかったかと思う。
アメリカでは、連日の出撃はなく、休養を取れるよう、ひと月も戦えば、後方に下がって休暇が与えられるそうだ。
余裕とは、そう言ったものだろう。
こちらは、いつもワンセットしかない。
このワンセットが尽きたときが、日本の敗北の時である。
しかし、本土防空戦は違う。
こちらのホームグランドに敵を迎え撃っている。ラバウル航空戦のようなわけにはいかない。
俺は、今、自分の体に攻撃のスイッチが入るのがわかった。
「稲妻一番、攻撃を始める…」
冷静に無線でそう伝えた。
無線機がONになっている限り、通信の内容は、地上の通信室にも逐一入っていく。
冷静に話をするのも、戦闘記録上、大切な任務であった。
俺は、夢想剣の極意を頭に描いていた。
無限流の剣は、どんな態勢でも切っ先を相手に向け、切り裂く。たとえそれが致命傷にならなくても、相手は傷つき、疲労し、やがては朽ちる。
航空戦も同じだ。
相手より先を制し、どんな形であれ相手に傷を負わせる。
仕留めるのは、その後だ。
俺の操縦桿は、自然に剣の握りとなった。
一気に足下のラダーペダルを蹴り、左旋回から急降下の態勢に入った。
ちらっと後方を見ると、訓練どおり列機も続いている。
四機編隊が、急降下と同時に散開し、二機と二機に別れ、攻撃を開始する手筈になっていた。
対大型機の急降下は、一瞬、背面飛行の態勢を取り、真っ逆さまに角度をつけなければならない。この操作は、恐怖との戦いだった。
頭に血が上り、猛烈な重力を感じながらの攻撃である。
俺は、眼をつけた小編隊の先頭のB二九を狙った。
B二九も五十機すべてが密集しているわけではない。
やはり五機が三角形を描くように、ひとかたまりになって飛行している。
俺は、その先頭を叩くことで、小集団を攪乱させようと考えた。
敵機は、そろそろ俺たちを視認しているはずだ。
猛烈な加速がついてきた。
高度計は、ぐるぐると回っている。
敵機の上部にある銃座から機銃弾を放つ閃光が光の筋になって俺の眼に入ってきた。
もの凄い数の光の束が自分に向かってくるように感じる。
そして、「当たる」と思った瞬間に逸れていくのだ。
ここで眼を瞑り、操作を誤ると被弾し、そのまま撃墜されてしまう。本当の我慢のしどころだった。
無理な操作は、体にかかる重圧も大きかった。
肋骨が折れるのではないかと思うくらいの重圧がかかってくる。
それでも耐えて急降下を続けると、グーンとB二九のコックピットが大きく見えてくる。
俺は、B二九の頭を横切るように逆落としの操作のまま、二〇粍機銃のノブを押した。
ドドドドドドド…。
雷電の両翼より、重い感触を残して二〇粍機銃弾がB二九の巨体に吸い込まれていく。
すぐ後方から続いているはずの列機も同じ攻撃をしているはずだ。
敵も必死に射撃を行っているが、雷電の鋭角攻撃は、射撃の的を絞らせない。この速さについて来れる人間はいない。
瞬間、敵機のコックピットの中が見えた。
数人のアメリカ兵が、こちらを凝視しているのがわかった。
「なんだ、まだ、若いな…」
急降下し、後ろを振り向くと、轟音と共にB二九が四散する炎が見えた。
「一機撃墜…」
レシーバーにそう伝えると、地上から歓声が聞こえてきた。基地では、俺の初撃墜を喜んでいるらしい。
俺は降下した機体を水平に戻す操作をすると同時に機体を滑らせ、ジグザク飛行で、安全空域まで飛んだ。
ふと、列機を探すと、三機とも無事についてきている。
「よし、今度は下から突き上げるぞ…」
もう一度、再攻撃をかけようと考えた。
機体は損傷を受けていない。今なら、もう一撃…。そう考えて態勢を整えたとき、レシーバから声が聞こえた。
「第三小隊稲妻一番。直ちに基地に戻れ!」
「稲妻一番。直ちに基地に戻れ!」
俺は、急に冷静さを取り戻した。
「いかん、いかん。深追いはけがの元だ…」
そのまま態勢を解き、海面すれすれに退避行動に移った。
戦機は去った。
剣も同じだ。
戦いには、戦機というものがある。
気合いを込めた必殺の剣は、相手を倒した後に態勢を立て直すのが至難である。
よく時代劇では、敵を何人も切り倒すシーンが登場するが、実際は、とてもできるものではない。
相手に傷を負わせるだけの戦い方なら、別の方法がある。
敵機の前面を逆落としに急降下するには、剣でいう裂帛の気合いが必要だった。そんな生死をかけた戦いが、すぐに反復出来るはずもなかった。
B二九の編隊は、何機かは白い煙を吐きながらバラバラに遠ざかっていった。
早い段階で警報が発令されたので、各隊の攻撃が功を奏したのであろう。
しかし、これくらいの攻撃で、空襲が避けられたとは思えない。
東京を初めとした都市部では、多くの犠牲者が出たことだろう。
敵は、通常の爆弾だけでなく焼夷弾も使い始めているらしい。
俺は、列車の中で会った親子連れを思い出していた。
あの美しい女性は、東京に戻ったのだろうか…。
名も知らぬ女性であったが、生きていて欲しかった。
あの母親が死んだら、息子の拓也はきっと悲しむだろうな…と思いながら基地に向かっていった。

厚木基地に着くと、赤松中尉や分隊長が先に戻っていて、手荒い祝福を受けた。
「なんだこいつ、可愛い女房だけでなく、敵機まで墜としやがって…。初撃墜だな」
そんな嫌みも今の俺には嬉しかった。
「B二九、一機撃墜!」
これで正式に雷電乗りの海軍航空隊搭乗員になれたような気がした。
俺たちの第三小隊は、撃墜一機と一機撃破という戦果となり、小園司令より褒美の名酒をいただいた。
正直に言って、だれの機銃弾が致命傷を与えたかはわからない。
しかし、俺の小隊での戦果であることは間違いなかった。
そのとき、機付の整備兵曹が、
「いや、それにしても坂井少尉は、運がいいですね…」
と感心している。
「ん、どうした?」そう尋ねると、
「いやね、敵の十三粍の不発弾が一発燃料タンクの中にあったんですよ。これが炸裂していれば、翼が吹っ飛んでいたはずです…」
俺は、背中に氷水を入れられたようにドキリとした。
戦いとは、こんな運、不運も左右するのだ。
夜、士官室で雑談をしていると、赤松中尉が一升瓶を抱えてやってきた。
中尉がここに来ると、戦術談義になることが多いので、若手士官はぞろぞろと集まってきた。
「坂井少尉。撃墜おめでとう。さすが、剣の達人は見事なもんです。ところで、よくあの戦法を使いましたね」
「確かに敵機の操縦席の眼前を、逆落としに降下できりゃあ文句なしです。しかし、危険度が高い。一歩間違えれば、自爆することになるし、やわな操縦で急降下の角度が浅くなれば敵に機体を晒すことになる…」
「それにしても、いやあ、とにかく見事でした」
こんな風に操縦の神様、赤松中尉にまで褒められたので、嬉しくもあったが、恥ずかしくもあった。
因みに赤松中尉の第二小隊は、やはり一機撃墜、二機撃破という戦果だった。これで雷電隊全体の戦果は、B二九、四機撃墜、四機撃破となった。
これで雷電の性能が証明されたと言うものだ。
小園司令や赤松中尉の苦労も少しは報われたような気がした。
それでも雷電隊にも二名の戦死者を出していた。
そのうちの一名は、上田一飛曹の同期生だった。
俺たちは、すっかり落胆した上田を呼んで声をかけた。
「上田一飛曹、残念でしたね。でも、生死は紙一重です。私たちも同じ運命です。それでも、家族を護るために戦うしかない。それがせめてもの同期生への供養でしょう…」
そう言うと、
「はい、ありがとうございます。小隊長。奴とは、霞ヶ浦からの同期生で、郷里も同じ長野だったんです。この正月も一緒に田舎に帰って、親父さんにも頼まれていたのに…」
と涙を零した。
これが空で戦う者の現実だった。
零戦隊は、邀撃には出たが、B二九の機銃網にかかり、思うような戦果は挙げられず、二機が還らなかった。
零戦の出力では、俺たちのような急降下攻撃ができない。そのために、戦死者も多かった。
山内も初の実戦で、相当に消耗したらしい。
戻って来るなり口も聞かずに寝てしまった。
訓練と実戦とでは、こうも違うのかと、改めて戦うことの恐ろしさを感じていた。
夜になると、また警戒警報が鳴り、館内放送で、
「B二九の機影を認む」
「夜戦隊出撃用意!」
夜も九時頃、夜戦の月光隊が出撃していった。
島田も準備していたと見えて、飛行服姿で俺たちの前に現れ、
「よし、坂井も山内も実戦を経験した。今度は、俺の番だ!。坂井、行ってくる!」
俺は、そんな島田の気負いを和らげようと、
「いいか、島田。熱くなるな。冷静に対処するんだ。無理をした方が、必ず負けるぞ」
「気をつけて行ってこい!」
そう言うと、島田は、無言で頷き夜の滑走路へと走って行った。
今度は昼間と違い、少数機での襲来らしい。
偵察を兼ねた状況確認なのかも知れない。
この日は、残念ながら敵機を捕捉することができず、月光隊は還ってきた。
月光隊が大活躍するのは、それから間もなくのことだった。

夜間戦闘機「月光」は、陸上偵察機として開発された機体である。
それまで海軍は、正式な偵察機を持たず、複座の攻撃機や陸軍の偵察機を借用しながら偵察任務を行っていたが、戦場が拡大されるに連れ、無線や航続距離、速度など幅広い万能機が求められるようになり、開発が急がれたのである。
当初、「月光」となる二式陸上偵察機は、海軍初の偵察用双発機として、現地に大いに期待されたが、期待通りの性能を発揮できず持て余していた機体であった。
この頃になると、既に航空機の高速化が進み、時速五百㎞程度の偵察機では、時速六百㎞を超えるアメリカ空軍の戦闘機に捕捉される率が高く、偵察機としての役目を果たすことが困難になっていた。
この使い物にならない機体に目を付けたのが小園司令である。
小園は、ラバウルで航空戦の指揮していく中で、当時開発されていた「三号爆弾」に目をつけた。
三号爆弾とは、戦闘機や攻撃機が敵爆撃機編隊などの頭上で投下して、敵機を墜とそうという空中爆弾である。
爆弾と言っても、時限信管がついていて、投下後数秒で爆発する仕組みになっていた。
爆撃機は比較的低速なので、捕捉はそんなに難しくはない。
それも必ず編隊でやって来るので、目標としては大きい。
事前に予測されていれば、高度を取り、待ち伏せするわけである。
投下のタイミングは、搭乗員の勘に頼ることになるが、上手くいけば敵編隊上空で爆発し、中に入っている小さな黄燐爆弾が四方八方に拡散して敵機をまとめて墜とすことも可能な日本軍独特の兵器だった。
まあ、多少のんびりした攻撃法だったが、使ってみると意外と効果があることがわかった。
しかし、ベテラン搭乗員には好まれず、若い搭乗員は、タイミングが上手く掴めず、あきらめる者が多かった。
戦闘機乗りたちは、
「俺たちは、正々堂々と戦って雌雄を決するのが仕事だ。こんなわけのわからない空中爆弾なんぞ、戦闘機乗りの恥だ!」
と言わんばかりに、不評だった。
そんなわけで、ラバウル航空隊の倉庫にもこの三号爆弾が多数眠っていて、小園司令がこれに目をつけたというわけである。
ラバウルでは、これを二式偵察機に装備し、実戦で使用したところ、やり方次第では効果があることがわかった。
確かにベテラン搭乗員でなければ扱いが難しかったかも知れないが、なかなか新しい物に馴染まない日本人特有の保守的な性格が災いしているとも考えられる。
たとえば、自分を「零戦虎徹」と称した撃墜王、岩本徹三兵曹長などは、最後まで三号爆弾を使い、相当の戦果を挙げていた。
小園は、この三号爆弾の成果を見て、二式偵察機の使用を思いついた。
それが、下三〇度に斜め式の二〇粍機銃を装備させることだった。
「三号爆弾は、下方に爆弾を落とす兵器なら、いっそ、下向きに機銃を備えれば、爆弾よりもっと狙えるじゃないか…」
これなら、向かってくる敵に優位な高度から下方に撃ち続けるわけだから、対爆撃機には有効であると考えた。
それと同時に、それじゃあ、上向きにも装備すれば、今度は敵の腹に潜り込んで上方に打ち続けることが出来る。
これなら、これまでの戦闘機のように、難しい操縦技術は必要ない。
まして偵察機を有効に活用することが出来るし、複座の搭乗員や双発機の搭乗員も戦闘機要員として活用することもできる。
小園司令の着眼点は、常識人の素人には決して気づかない、まさに慧眼であった。
俺の雷電にしても、「一撃離脱法」という戦法がなければ、飛行時間四百時間足らずの搭乗員にまともな空中戦などできるはずもなかったのである。
「斜め銃」は、そんな戦場での工夫から生まれた秘密兵器だった。
当初は、海軍中央でも「戦闘の外道」とばかにしていたが、ラバウルで戦果を挙げていくと、無視することも出来ず、小園の三〇二航空隊に特別許可を出したのである。
小園司令は、ラバウルでの実績を元に、全機種に「斜め銃」装備を求めたが、軽量戦闘機の零戦などでは重量が嵩み、零戦隊からは受け入れられなかった。
しかし、雷電隊では、一八〇〇馬力の大型エンジンを搭載していることもあって、上方や下方に一門の斜め銃を取り付けた機体も誕生した。
小園司令の考えもわからなくもなかったが、俺や赤松中尉は、やはり局地戦闘機らしい戦い方を望んだし、特に俺は、そんな器用な戦闘は端からできなかった。
それにしても、持て余していた二式陸上偵察機を「月光」という優秀な夜間戦闘機として蘇らせた小園司令の手腕は、見事だった。

その日を境に、連日のように出撃は続いた。
厚木航空隊の活躍に伴い、人員も大幅に増え、赤松中尉と一緒になる機会も少なくなっていた。
三月には、中尉に進級した俺は、小隊長配置は引き続きであったが、土浦で訓練中に俺の赤トンボと接触事故を起こしそうになった安本徹二飛曹が、本隊に着任し俺の部下になった。
ちょうど、二番機の田中上飛曹が、兵曹長に進級したため、その腕を買われ、隣の横須賀海軍航空隊の実験部に異動になっていた。
田中兵曹長は、
「残念です。もっと雷電で戦いたかったです」
と如何にも無念という表情をしたが、
「いや、田中兵曹長、あなたは新しい飛行機の実験という大事な任務を担うわけですから、その職責の大きさを考えると、今以上に大変重要な仕事です。あなたの手で、ぜひ雷電以上の新型戦闘機を誕生させてください」
そう声をかけると、笑顔を見せ、「総員帽振れ」の別れで、生死を共にした厚木航空隊を去って行った。
田中上飛曹は、進級後、横須賀航空隊の分隊士を務め、新型機「烈風」の実験に従事する傍ら、本土防空戦にも雷電を駆って戦っていた。
終戦後は、実家の南房総に戻り家業の漁業を継いだという話をきいた。
厚木空の集まりにも一、二度顔を見せてお互いの無事を確認しあったが、その後はなかなか会う機会もなかった。
田中にしてみれば、厚木航空隊の最後を知るだけに、なかなかわだかまりもあったようだ。
田中の抜けた穴に入ってきたのが、安本二等飛行兵曹だった。
安本も、腕を上げてきたようで、零戦は相当に乗りこなしてきたらしい。
俺に会うなり、
「小隊長、安本二飛曹です。ご無沙汰をしておりました。その節は、申し訳ありませんでした」
そう言うと、深々と頭を下げるのだった。
列機の上田や井上は、
「なんだ、昔からの知り合いか…?」
と言った不服そうな顔をしていたが、俺が事情を話すと、
「おい、安本。お前とんでもねえなあ…」
と突っ込みを入れるので、すぐに打ち解けることができたようだった。
これで、俺の小隊は、二番機に上田一等飛行兵曹、三番機に井上二等飛行兵曹、四番機に安本二等飛行兵曹となった。
ペアは、俺と安本、上田と井上に変更した。
上田一飛曹は、不満そうだったが、
「上田一飛曹、もう俺もなんとかなる。今度は、井上と一緒に一撃離脱の腕を磨いてくれ…」
と言うと、まあ仕方がないか…という顔つきで納得し、新ペアができた。
井上は、やっと後輩ができたので、厚木基地をあちらこちら連れ回し、
「俺は、既に実戦を踏んでいる。一機撃破だ」
と自慢していた。実は後でわかったことだが、安本も練習航空隊卒業後、北海道の千歳空に配属になっていたが、組織の再編で本土防空部隊を希望したらしい。
それに、既に空戦の経験があり、一機撃墜のスコアも持っていた。
それでも人のいい安本は、年上の井上を立て、
「はい。よろしく願いまあす…」
と、どこにでもついて回っていた。
そんな中で、連日の出撃は体に堪えたが、外地と異なり、内地での防空戦は、国民の応援の声や慰問袋、そして何より食べ物に不自由がないことが何よりだった。
そして俺も「一撃離脱戦法」一本槍で、撃墜数も大型爆撃機五機、小型爆撃機三機と個人、協同で撃墜し、厚木航空隊の中でもエースと呼ばれるようになっていた。

第七章 戦友の死

一緒に海軍第十三期飛行予備学生として入隊し、一緒に戦闘機専修学生として飛行訓練に励み、そしてまた、一緒に厚木三〇二航空隊に入隊した零戦隊の山内健也が戦死した。
一緒に中尉に進級したばかりの三月六日の邀撃戦だった。
零戦隊は、俺たち雷電隊と異なり、昼も夜も邀撃に駆り出された。
この頃になると、零戦も改良が進み、五二型が主力戦闘機になっていた。
五二型は、馬力も一千百馬力に増え、速度や上昇力が向上した機体だ。
山内は、俺と同じ小隊長として何度もB二九や敵艦載機の邀撃に出撃したが、なかなかB二九の撃墜にまでは至らなかった。
俺や島田は、雷電、月光という特殊な飛行機に搭乗していたため、その特徴を生かした戦い方によって撃墜数を増やしていったが、山内は、対B二九には不向きな零戦で果敢に攻撃を繰り返していた。
それでも、敵艦載機の小型爆撃機三機の撃墜スコアを持っていた。
その日の朝、山内は、深刻な顔をして俺に声をかけてきた。
「なあ、坂井。俺、今日という今日は、是が非でもB二九を墜とす。そうでないと零戦隊の面子が立たん」
山内の顔は何か思い詰めているようで、俺は嫌な予感がした。
山内の焦燥感は、わからなくもなかったが、戦闘は、そんな感情で勝てるほど甘くはない。
「おい、山内、何を言っているんだ」
「いいか、空戦に焦りは禁物だと、赤松中尉も常々言ってたじゃないか…。今は、B二九もマリアナ諸島から飛来するから護衛戦闘機が、あまりつけられないが、いずれ多くの護衛戦闘機がついて来る。そのときこそ、零戦隊の真価が発揮できる時じゃないか。それにおまえたち零戦隊が、いなければ艦載機からの攻撃だって太刀打ちできないんだぞ!」
「それに、大型機の攻撃は、俺たちに任せろ。正直、零戦では高度一万mでの戦いは無理だ。それに下方からの攻撃では、リスクが高い。いいか、今は我慢だ。山内…」
俺はそんなふうに説得してみたが、山内は本気で体当たりしてでもB二九を墜とすつもりらしい。
そんなとき、また、警戒警報が鳴った。
「警戒警報発令!」
「B二九編隊発見。約四十機」
「銚子沖から関東地方に進入する見込み」
「零戦隊、雷電隊、月光隊は、直ちに発進せよ!」
緊急放送が入った。
「よし、来た。じゃあな、坂井。先に行くぞ!」
そう言う間もなく、山内健也は第二士官室を飛び出し、起動中の愛機に向かって一目散に走って行った。そして、俺が山内を見たのは、それが最後だった。
山内の戦死の状況は、二番機の菅一飛曹が見ていた。菅一飛曹の話はこうである。
『小隊長は、愛機に飛び乗ると我々列機を待たずに上がっていかれました。小隊長に遅れてはならじと、私たちも急いで小隊長機を追いました。それでも零戦は、高度五千mを超えると、エンジンが息をつき始めます。我々は、エンジンをだましだまし高度を維持しながら上昇を続け、高度六千mで小隊長機と合流し、敵の編隊を待つことになりました。小隊長は無線で、
「いいか、今日は雷電隊の攻撃を受けて高度を下げたB二九を狙う。高度四千mなら勝機がある。俺と二番機は、直上から突っ込む。三番機と四番機は、俺たちが攻撃すると同時に下から攻撃してくれ。いいか!」
「了解!」
この作戦は、前々から山内小隊長が考えていた戦法でした。
私たちも、これならやれるんじゃないか…と思っていましたので、すぐに了解しました。敵の編隊が来たのは、その五分後です。
やはり小隊長が言っていたように、雷電隊がB二九の編隊に躍りかかるのが見えました。するとそのうちの何機かが煙を噴き始めましたので、それに狙いをつけることにしました。
小隊長機から、無線で、
「今、高度を下げたコンドルのマークのB二九を狙う!」
と命令があり、小隊長と私の二機は、高度をさらにあげ、急降下の態勢を整えました。それと同時に三番機の辻一飛曹と四番機の須藤二飛曹はB二九の下方に潜り込むように高度を下げていきました。
小隊長機が急降下したら、当然下方から突き上げるためです。
「よし、いくぞ!」
小隊長機から無線が入り、私は小隊長機のすぐ後方について、突っ込んでいきました。恐らく、小隊長の声で、下方から一気に急上昇し、煙を引いて飛行しているコンドルマークのB二九を攻撃したと思います。
それでも、上方の回転銃座は死んでおらず、猛烈な射撃を受けました。単機とはいえ、それは必死な反撃に見えました。それでも、小隊長はそのまま機銃を撃ちながら突っ込んで行きました。こちらからも何発かが命中するのが確認できました。
そのうちエンジンが撃ち抜かれたのか、敵機は右エンジン部分から急に火炎を噴き出し、黒い煙を吐きながら、海の方へ墜ちて行きました。
私は嬉しくなって、無線で、
「小隊長、やりましたあ!」と叫んだのを覚えています。そこに、
「敵B二九、一機撃墜!」という無線が入りました。地上の基地に報告するためです。
でも、その無線の声は隊長ではなく、三番機の辻一飛曹のものでした。
「あれっ…」と違和感を覚えましたが、まさか小隊長機がいないとは思ってもみませんでした。
私は、小隊長に続いて急降下で突っ込んで行ったのですが、あまりの速さと猛烈な射撃で、一瞬小隊長を見失っていたのです。しかし、それはよくあることで、一旦攻撃後は、安全な空域まで退避し、そこで集合することになっていたからです。それに報告の無線も、だれがやっても構わないことになっていましたので、下方から上空に退避した辻が一番よく見えていたのでしょう。
後で聞くと、小隊長の無線の声が入らないので、念のために確認できた自分が無線を入れたとのことでした。
ここで、いつもなら、
「こちら大鷹一番、集合せよ!」という小隊長の命令が入るのですが、なかなか入らないので、私が、「大鷹二番、集合せよ」と命令し、辻機と須藤機を呼び、厚木基地に戻りました。地上に降りても、やはり小隊長機は戻ってはいませんでした。列機の二人に聞いてもわかりません。
私が一番近くで小隊長機を見ていたわけですから、分隊長には、
「小隊長が攻撃をかけ、急降下で敵機のエンジン部分に二〇粍機銃弾を撃つのがわかりました。私も続いて銃撃し、衝突寸前のところで、左旋回をして衝突を避けましたが、そのとき、小隊長機は見えませんでした…」
本当に一瞬の出来事だったのです。
私自身も、厚木基地に戻って機体を見ますと、敵の十三粍機銃弾が、五発ほど機体の胴体と左翼に穴を空けていましたので、相当やられたのだと思いました。
B二九は、上部の方が銃座も多く、それだけ危険でしたので、小隊長は敢えてご自分が上方からの攻撃を選び、若い者には、上からの攻撃は指示されませんでした』
そう話す、菅一飛曹の眼は、涙で濡れていた。
俺は、「菅一飛曹、ありがとう…」そう言って、彼の肩を叩き、自分なりの労いをかけた。
菅の肩は、それでもいつまでも小刻みに震えていたことを、俺は忘れないだろう。
こうして山内健也は、人知れずこの世から去って行ったのである。
恐らくは、攻撃時に敵機の機銃弾を受け、煙を吐く時間もなく、空中爆発したものと結論づけられた。
「B29、一機撃墜!」
それは、山内にとって命を懸ける戦いだった。
いや、俺たち飛行兵は、それが任務なのだ。
その一機から落とされる爆弾によって数百人の命を護ることができたとすれば、山内の死はけっして無駄ではない。
そして、その日は、俺にも必ず訪れるんだ。
そう考えると、華々しく大空に散った山内が羨ましくもあった。

ここで少し山内健也のことを話そう。
山内は愛知県の豊橋出身である。
豊橋中から早稲田大学まで野球一筋に生きた男だった。
豊中時代は、甲子園にも出場した名三塁手である。
この戦争が始まると、文部省は野球を「敵性スポーツだ」と圧力をかけ、東京六大学野球連盟を解散させた。
山内は、
「もう、野球ができないのなら、招集されるより志願する…」
そう言って予備学生の試験を受けた。
その早稲田野球部も、十八年の秋に「出陣学徒壮行試合」ということで、最後の早慶戦をやったことは、新聞でも大きく取り上げられていた。
俺たち予備学生は訓練中だったが、そのとき、山内が悔しそうにその新聞を床に叩きつけたのをみんなが覚えている。
それにしても、日本人は、なんて心が狭いんだろう。
いくら敵国から入ってきたスポーツだからといって日本人の生活に馴染んでいるものを無理矢理取り上げ、「鬼畜米英」と叫ばせたところで、近代戦は兵器の優劣と量で決まる。
そんな根拠のない精神主義だけが蔓延り、冷静さを失ったら、戦いには勝てない。
山内も頭のいい男だった。だからこそ、そんな戦が憎かったのかも知れない。
確か、山内には弟と妹がいたはずだ。
妹は、可愛い女学生で、あいつはいつも家族で撮った写真を大事に懐に入れていた。
きっと今もその写真を抱いて、深い眠りについていることだろう。
しかし、本土上空だって言うのに、遺体も見つからないなんて、かわいそうな奴だ。
でもあいつは、この戦争に絶望していたのだろうか。
だから、無理を承知で突っ込んでいったのだろうか。
いや、そうじゃない。
あいつは、あいつなりに考え、計算し、勝つ確率に懸けたんだ。そして、勝った。
自分の命を懸けた戦いではあったが、奴は間違いなく勝ったんだ。
きっと、愛する弟妹や家族を護りたかったんだろう。
山内よ、安らかに眠れ…。
俺たちも同じ運命にある。
だけど、俺も島田も、そう簡単には死なん。生きて生きて、生き抜いて、お前の家族や俺の家族、そして国民を護りたい。それができるのは、敵と戦える武器を持つ俺たちだけなんだ。
山内よ。大空の彼方から、これからの俺たちの戦いをよく見ていてくれ…。

俺は、戦後十年ほど過ぎた頃、山内の故郷である豊橋を訪ねたことがあった。
山内の家は、豊橋の中心部の街中にあった。
昔から、ここで「ちくわ」の製造販売をして生業としていた。
一度、山内から「焼きちくわ」を土産に貰ったとき、
「戦争が終わって、暇ができたら、豊橋の俺の家を尋ねてこいよ。きっと俺が跡を継いでいるはずだから、特製の焼きちくわを腹一杯食わせてやるよ。できたての熱々は、そりゃあ旨いぞ…」
そう言って、よくみんなを笑わせていた。
豊橋も空襲に見舞われ、中心部は焼け野原になったようだが、今では、もうすっかり復興し、愛知県の中核都市になっている。
豊橋駅に降りると、でっかく「山内ちくわ店」と書かれた看板があちこちに立てられており、道を聞くまでもなかった。
駅前から市電に乗り、十分もすると最寄り駅である。歩いて、さらに大きな看板の店に入ると、大きなガラスケースが並び、様々なちくわの土産物が陳列されていた。
俺たちがよく貰ったのは、緑の包装で、笹の絵と鯛が描かれた焼きちくわだ。
「ああっ、これこれ、これだ…」
ガラスケースをじっと見ながら、何かを叫んでいる変なおやじでは、店の者も不審に思うだろうが、つい懐かしさが先に出て、大声を上げてしまった。
もう気持ちは、十年前に戻っていた。
「おい坂井、店の前でなにやってんだよ…」
そんな山内の声が奥から聞こえて来そうだった。
「あのう、お客さんですか?」
声をかけてきたのは、丸顔のふっくらとした女性店員だった。
俺が、「あ、すみません」と謝ると、
「いえいえ、あら、お客さん…。すみません。何か、お探しですか…」
俺が改めて、山内の戦友だと名乗ると、驚いたような声をあげ、
「いやあ、健也兄さんの戦友さん。あら、どうしましょ…」
と顔を赤らめて、話し始めた。
「すみませんね、今、ちょうど、焼きちくわができたところだったんで、店の者がみんなで工場に行ってしまったんですよ。店番が私一人になってしまったんで…」
と愛想よく言うではないか。
その笑顔は、まさに山内健也と瓜二つだった。あっ、この人が妹だ…。
俺は、咄嗟に山内が持っていた家族写真を思い出した。
十年前なので、写真は女学生だったが、おそらく今は、三十歳手前くらいだろう。
そんな値踏みを勝手にしていると、
「私、絹江と申します。生前は兄が大変お世話になりました。今、家族を呼んできますので、店先じゃあれなんで、どうぞ。どうぞ…」
と店の奥に案内をしてくれた。
山内のちくわ店は、老舗らしく店構えも大きく、奥が自宅になっているらしかった。
土間を通って、仏壇のある和室に案内されると、「ちょっと待ってて…」と言うなり、絹江さんは表に飛び出して行った。
こういうところも、山内そっくりである。
戻って来るまでの数分間、することもないので、仏壇を眺めると、山内本人のであろう戒名のついた位牌が、他の位牌と一緒に並んでいるのがわかった。
ふと、仏壇の上を見ると、何人かの古い写真の最後に、山内の写真が飾ってあった。
俺の田舎にも同じように先祖の写真が飾ってある。
白い軍服を着て、山内にしては珍しく、強ばった表情で写っていた。
あれは、戦闘機専修の修了式後、海軍少尉に任官したときに撮ったものだろう。
しかし、山内には笑顔が似合う。口を真一文字に結んだ、凜々しい海軍少尉の姿は、格好はいいが、山内らしくはない。
そんな感想を持ちながら、山内の写真を見つめていた。
そのうち、また、バタバタ…と大きな足音がした。今度は複数で、声も聞こえてきた。
「あれっ、戦友の方、お待たせしました」
「いやあ、遠いところをわざわざね…」
と、そこには、四人の白衣姿があった。
先ほどの妹の絹江さんが、
「えっと、まずはこれが父親の正也。それに母親の登美子、弟の健太です」
「あ、私は妹の絹江と申します。はいっ…」
「あれ、私はもう言いましたっけ…」
みんな白いシャツに前掛け、白い帽子を被り、夏場でもないのに汗をかいていたので、やはり工場でちくわを焼いていたのだろう。
そこに、従業員らしい女の人が、湯気の立ったちくわを三本ほど皿に乗せ、お茶と一緒に運んできた。
あっ、これか、山内が言ってた焼きちくわの出来立ては…。
湯気の中からも、白身魚のすり身を焼いた香ばしい匂いが辺りに立ちこめていた。
包装紙に鯛の絵が描かれていたので、鯛のすり身も入っているのが、このちくわの特徴なんだろうと思った。
俺は、家族を前に、自分が予備学生時代の同期生であること、同じ厚木航空隊で戦った戦友であることを告げ、なかなか来豊できず、戦友に線香を手向けることもできなかったことを素直に詫びた。
すると、父親が、戦後間もなく菅という部下だった人が尋ねて来て、山内の最後を語ってくれたと話してくれた。
そうか、菅一飛曹がちゃんと小隊長の山内の最期を家族に話してくれていたのか…。
あいつのあの涙も山内には、いい供養になったんだと俺も嬉しくなった。
山内の位牌に手を合わせると、父親に促されるように、出来立てのちくわを一本口に放り込んだ。
ほくほくと温かく、その弾力のある歯ごたえは、厚木で貰った当時の味だった。
父親は、
「この製法は、我が家の秘伝なんですよ。本当は、健也が跡を継いで、この味を守って貰うつもりでしたが、死んでしまったんで、今は、この二人の弟と妹が頑張っております」
と言うことだった。
そこでしばらく、山内の昔話をしていた。
母親の登美子さんは、そう、そう…と頷いては、前掛けで涙を拭っていた。気丈にしていても、戦死した息子のことを思い出すと不憫でならないのだろう。
一時間も話をしていただろうか。
俺は、この父親の正也さんと、絹江さんに案内されて、近くの山内家の墓地を訪ねた。
そこは山内家の菩提寺で、たくさんの墓が並んでいたが、山内は、特別な墓石もなく、先祖と一緒の墓に埋葬されていた。
父親が、
「いやあ、町長からは立派な墓を建てるように言われたんだが、それはあいつも嫌だろうと思って、みんなと一緒にしたんだ。ここには、山内家一族が埋葬されているんだ。あのおしゃべりな健也が独りぼっちでは、気の毒だでなあ…」
そう言って、墓に手を合わせるのだった。
俺も、持ってきた生花と線香を上げ、改めて山内健也の冥福を祈った。
しかし、絹江さんは山内によく似ている。
歩きながら、父親にそれを言うと、
「いやあ、本当にそうなんですよ。絹江は、少し太ったから、あれですが、昔は、もっと似とったです。なあ、絹江…」
後ろでそれを聞いていた絹江さんは、
「そうね、でも、私健也兄さんが好きだったから、似てるって言われると嬉しかったな…」
と、本当に山内そっくりの笑顔で笑うのだった。
この瓜二つの妹と、人の良さそうな弟が二人で力を合わせれば、きっと豊橋名物「山内のちくわ」は、廃れることはないだろう。
もうこの家の人たちは、山内の死をしっかりと受け入れ、兄の意志を受け継ぐ決意をしていた。
俺が辞去した後も、山内の家とは音信が途絶えることがなく、年に二、三回は新製品のちくわが白河の我が家に届いた。
我が家でも妻の範子が、野菜や桃、りんごなどが出来ると弟の健太と姉の絹江宛に送っている。
山内健也は死んでしまったが、
「山内…。おまえは、本当に家族を幸せにしたんだぞ。おまえが護りたかった家族と日本をしっかり護ったんだぞ」
と農作業の合間に、遠い白河の地から山内が死んだ駿河湾の方に向かって、時々呼びかけ、山内や厚木の頃を思い出すことがあった。
そのとき、俺の眼には、いつも若き日の山内健也の顔が映っていた。
その顔は、満面の笑みを浮かべ、
「おい、坂井。焼きちくわが出来たぞ。熱いうちに食ってくれ!」
と飛行服を着たまま叫ぶのだった。
俺はまったく気がつかなかったが、女房の範子は、そんな俺の姿を微笑みを浮かべながら、温かく見つめるのだった。

第八章 東京大空襲

山内が死んで、数日が経った。
夜戦の島田は、いつもと同じように振る舞っていたが、いつも第二士官室でふざけあっていた戦友がいなくなったことで、気持ちは晴れないようだった。 それに島田も俺も連日の出撃で、疲れもかなり溜まっていた。
「おい、島田…。たまには、ゆっくりしたいもんだなあ…」
と声をかけると、
「ああ、しかし、空襲、空襲で町の人たちも殺気立ってる。数ヶ月前までは、ゆとりもあったのに、まあ、この有り様じゃあ仕方がないな…」
と達観したように話すので、
「なんだ?おまえ少し坊さん臭くなったぞ…」
とからかうと、
「おまえみたいに、可愛い女房がいるのとは、俺は違うんだ。俺にだって好きな娘くらいはいたんだ…」
と、急に告白するではないか。
「ほう、聞いてないな…」
「その娘はどうした?」
「わからん。中学のとき、いつも自転車ですれ違う女学生だったから…」
「名前は?」
「うん、美子…」
「上の苗字は?」
「知らん。家もわからん。それでも好きだったんだ」
「だから、俺は、絶対に死なん。復員したら、絶対彼女に結婚を申し込むんだ!」
「でも、もう結婚しとったら、どうするんだ?」
「ええい、うるさい。そんときはそんときだ」
「そして、戦争が終わったら政治家になって、この国を変えてやるんだ」
「へえ、凄い夢だな…」
俺が茶化すと、
「ああ、だから今は、敵機をたたき墜とす!」
「敵と勝負することで、俺は俺自身を命を懸けて鍛えているんだ…」
「操縦が下手くそだった俺が、こうしていっぱしの小隊長になれたんだって、月光のお陰さ…」
「小園司令が考案したこの斜め銃で暴れまくってやるさ。それが、零戦で散った山内への供養ってもんだろう」
どんなもんだい…と言わんばかりに大きな声で叫ぶと、
「さあ、めし、めし…。腹が減っては戦ができん」
と明るさを取り戻したかのように振る舞い、食堂に行ってしまった。
予備学生の頃には、操縦が苦手でスタントも上手くできず、悩んでいた島田が、今では夜戦月光隊のエースになっていた。
島田は、配置が決まった最初の頃は、
「夜戦かあ…。俺も雷電や零戦がいいなあ」
と愚痴を零していたが、実際に月光に搭乗し訓練を受けているうちに自分との相性がいいのに気がついたようだ。
後席には、予科練出の西尾一飛曹が乗っているので、通信も航法も心配はなかった。それに若いが優秀な西尾兵曹は、少しのんびりしている島田には丁度いいペアだった。
訓練が終わると、
「おい、坂井。いやあ、月光はいいぞう。空中での安定感も抜群だし、無理な操縦法はない。まあ、タイミングと勘が合えば、B二九も撃墜間違いなしだな…。特に、上方の二〇粍機銃は、最高だ。腕が鳴るなあ…」
なんて暢気なことを言っている。
それにしても、島田の操縦は月光にあっているらしい。
上の人もよく適性を見て、配置を決めたものだと感心した。
そんな島田も、今や小園司令直々に賞賛される厚木空の撃墜王だ。
B二九撃墜数は単独、協同を合わせて三機、撃破も三機程度はあったようだ。
島田の戦法は、B二九にかなり肉薄してからの斜め銃での攻撃だった。
その慎重で大胆な攻撃は、隊内でも賞賛されるまでになっており、それでも島田は「絶対に無理はしない!」ことを信条としていた。
しかし、余程の度胸がなければ、敵の銃座から撃ちまくられる機銃弾の雨の中をかいくぐって、敵の腹の下に潜り込むには、相当の度胸がいる。
「無理はしない!」と言いながらも、島田の月光はいつも傷だらけで帰ってきていた。
機付の整備員も、その修理に困惑し、
「島田中尉は、どんな戦い方をしているんですかね…。機体の全部に相当の被弾があります」
と、感嘆の声を上げるが、島田は涼しい顔で、
「まあ、敵機の下に潜れば、こんなもんだろう…」
と笑っているが、これまでにも後席の偵察員が二人、機上戦死をとげていた。
島田だって、満身創痍で体は傷だらけなはずだ。死なないのが不思議なくらいだった。
俺が、「貴様は不死身か?」と言うと、
「なあにおまえほどでもないさ…」と返してくる。
そうは言うが、悪いが俺には、島田のような糞度胸はない。
それでも口癖のように、「俺は、無茶はせん!」と言い続けるのは、おまじないのつもりなのだろうか。
とにかく、たとえ撃墜できなくても、敵機に潜り込む隙がなければ、無理な操縦はしないとのことだった。
最初の頃は、戦果が上がらず「攻撃精神が足らん!」などと、兵学校出の連中にどやされていたが、何回も出撃を繰り返すうちに、島田の方が着実に戦果を上げ始めた。
そうなると、もう誰も文句を言う人間もいなくなり、夜戦の神様と呼ばれた遠藤幸男大尉の死後、夜戦隊のエースと期待されるまでになっていた。
小園司令も、
「いいか、夜戦の島田中尉のように、慎重且つ大胆に攻めるのが、真の戦い方だ!」
と会議の中でも褒めるので、島田株は隊内で急上昇になった。
中には、
「これで、予備学生の天才が二人になったな…」
などと言う輩がいるものだから、兵学校出の士官とは、益々疎遠になり、口も聞かなくなってしまった。
お互いのライバル心は立場や階級差もあったが、同世代の若者としての純粋な競争心だったのかも知れない。
戦争とはいえ、俺たちはどこかスポーツでもやっているかのような、奇妙な感覚に陥っていたのだろう。
それは敵の飛行兵たちも同じだったはずだ。
最初の頃は、敵機を墜とすことは、人の命を奪うことだ…と理解し、自分の手が震えることもあった。
それでも、敵から自分の仲間や家族を護りたい一心で戦ってきたが、ふと我に返ると、そんな感情も薄れ、命を懸けたゲームでもやっているかのように、撃墜のスコアを気にするようになっていた。
それは、今は賞賛されることなのかも知れないが、いずれ戦争は終わる。
そのとき、俺はまともな人間に戻れるのだろうか。
そんなことを、つい考える日もあった。
それでも、敵は恐ろしい企みを持って、日本に迫ってきていた。
そして、ついにその惨劇の日はやってきたのである。

昭和二十年三月九日。
桃の節句も終わり、平和な時なら、いよいよ学校の卒業式も間近に控え、浮き浮きとした気持ちになる季節だった。
東京では、昨年の夏頃から学童疎開が始まり、多くの子供たちが親元から離れ、学校ごとに東北の村などに集団で疎開していた。
俺の田舎にも来ているらしく、村の報恩寺には、五十人くらいが泊まっているとのことだった。
時々来る範子からの手紙には、
「お母さんが、時々、吾作さんや鶴さんと一緒に米やら味噌やら、野菜やらを寺に運び、いろいろと、子供たちのお世話をしている」
と書かれていた。
あの母のことだから、
「わたしらの村に縁あって来たんだから、田舎の母ちゃんになったつもりで、童っ子たちの面倒を見てやんねばなんねよ…」
と小作の衆たちに話したのだと思う。
こういうとき、家のお袋さんは、頼りになる。
それにしても、六年生は卒業だから、どうするのかなあ…などと考えていた。
実は、この日、俺が想像していたとおり、卒業式を間近に控えた六年生は、続々と東京の実家に戻って来ていたのだ。
この日は、春とはいえまだまだ寒く、昼間は快晴で空も澄んでいた。
「最近、天気がいいな…」
「こんな日は、昼間より夜の方が危険なんだがな…」
と、夜戦隊の島田が空を見上げながら呟いた。
九日の夕方頃から急に風が出てきた。
天気はよいが風があると、夜間戦闘機隊も離陸が難しくなる。
また、高度があると機体が風に流されるので、機位を保つために後席の航法は欠かせなくなるのだ。
敵機襲来の情報が入ったのは、当夜の九時過ぎであった。すぐに攻撃命令が出るかと思ったが、隊内放送では、
「敵数機が関東地方上空に侵入せり」
「直ちに陸軍航空隊が迎撃に向かった」
「零戦隊、雷電隊は待機」
「月光隊は、第一小隊のみ出撃。以上」
であった。
本来ならば本土防空は陸軍の担当であったので、こういう対応が珍しいことでなはい。
海軍は、主要基地、工廠などの海軍の重要拠点のみを担当することになっていたが、陸軍もなかなか高高度に上がれる戦闘機がなく、苦労をしていた。
しかし、敵機が数機であれば、陸軍だけでも大丈夫だろうと考えていた。
既に陸軍は、斜め銃を「上向き砲」と称して使用しており、月光に似た双発の屠龍を駆使して主に九州で戦果を上げていた。
今では、三式戦飛燕を軽量化し、「震天制空隊」を編成して、体当たりによる空中特攻も実施していた。
この特別攻撃隊は、艦船特攻と異なり、飛行機の翼などを敵機にぶつけて墜とすという戦法で、搭乗員は、すかさず落下傘降下をして退避するというやり方だった。
人命を軽視した作戦ではあったが、そのをせざるを得ない事情もわかり、陸軍航空隊の決意と苦労も偲ばれる。
他にも、その三式戦飛燕の液冷エンジンを一千二百馬力の金星エンジンに取り替え、零戦以上の戦闘機に蘇らせた。
「五式戦」と称したその優秀機は、短い期間ではあったが、やはり防空戦に活躍している。そういう意味で、陸軍航空隊は、海軍より頭が柔軟なのかも知れない。
本当は、陸海軍で別々の航空作戦を行うのではなく、アメリカのように「空軍」として一括した指揮が執れればいいのだが、平時の頭で戦争に突入した日本軍や日本政府に、そんな柔軟さはなかった。
だから、今日も陸軍だけで大丈夫だろう…と甘い判断をしたのが、間違いだった。
そこへ、急に赤松中尉が走ってきて、
「おい、坂井中尉。うちと中尉のところの雷電を出してくれんか…」
「はい、構いませんが、今日は陸軍が出ると聞いたので…」
「ああ、確かにそうなんだが、この風だろう…。何か胸騒ぎがするんだ…頼むよ。司令には言ってある」
そう言うと、踵を返し、出撃準備に入っていった。
「なんだ、出撃か?…」
やはり待機中の島田が聞いてきた。
「まあ、赤松中尉が言うんだから、何かあるのかも知れんからな…。よし、非常呼集をかけよう」
すぐに飛行服を着て、従兵に俺の小隊に呼集をかけるよう命令した。
「おっと、それなら俺の隊も行くよ」
「今から、分隊長に掛け合う。先に行ってくれ!」
そう言うと、島田も走って分隊長室に向かっていった。
待機所に向かうと、既に列機の三名が準備を整えて待っていた。
「なんだ早いな…」
「はい。赤松中尉から待機するよう指示があったので…準備万端です」
赤松中尉は、俺より先に下士官たちに話していたんだ…。
やはり、何か起きるな…。ひょっとしたら、大変な戦いになるかも知れない。
俺の勘は、そう言っていた。

「よし、行こう!」
「取り敢えず、高度は六千m。夜の高高度爆撃はない。敵が侵入するなら、銚子沖からだ。赤松中尉たちは既に上がった。俺たちも後を追う」
「俺たちは、東京上空を抜けずに、直接銚子沖に直線コースで向かう」
「いいか、夜間戦闘だから、四機編隊は決して崩すな!」
「とにかく、敵を発見したらすぐに報せろ。攻撃目標は俺が指示する。いいな!」
「はい!」
若い搭乗員は、相変わらず元気がいい。
それにしても今日は寒い。
こんな風の強い寒い日に襲われたら、ひとたまりもないな…。
それに今奴らは、爆弾より焼夷弾を使うことが多くなっている。
焼夷弾は、油の塊だ。
空から油をぶち蒔かれたら、日本の家はひとたまりもない。
それにこの風だ。火事でも起きれば、類焼は免れまい。
俺も、だんだん嫌な気がしてきた。
そんなことを考えながら、夜の厚木基地を出撃した。
しばらくは、東京から直接、房総半島を目指し、佐倉町上空で待機することにした。
昼間なら真下に大きな印旛沼が広がっているはずであったが、夜では何も見えない。
警戒警報が出ているので、町も漆黒の闇に閉ざされている。
上空から見ていると、沼がときどき波立っているのか、月の光を反射して、キラキラと光るときがある。
すると、突然レシーバが鳴った。
「緊急、緊急!」
「敵B二九の大編隊が、銚子沖に確認。東京に向かう模様。東京に向かう模様!」
「全機、出撃用意!」
「準備でき次第、発進せよ!」
やっぱり…。赤松中尉の勘は当たった。
敵の本格的爆撃だ。狙いは間違いなく首都東京だ。それも下町…。
俺は、隊内無線で列機に指示を出した。
「いいか、よく聞け!」
「今夜の敵は、B二九数百機の大編隊と思われる。直ちに攻撃に向かうが、冷静さを失うな!」
「攻撃法は一撃離脱だ!」
「一旦攻撃が終了したら、低空から敵の攻撃範囲から離脱する」
「改めて、態勢を整えて最後尾の敵機を襲う」
「今回は、二回の反復攻撃を行う」
「被弾したり、無理だと判断したら、その場から離脱せよ。いいな!」
二回の反復攻撃など初めてのことだった。
直上からの一撃離脱でさえ、著しく体力を消耗するのに、二回は無茶だと思った。しかし、数百機の大編隊に向かう以上、こちらの体力が続く限り戦わねばならない。
とにかく、今日死んでも構わないつもりで戦うしか、方法がない。
とにかく、やるのみだ。
そう決心すると、頭は一時の興奮状態が冷め、冷静に状況を分析した。
列機のエンジンも順調のようだ。
これも毎日、整備兵と一緒にチェックを怠らなかった賜物だと感謝した。
「よし、みんなついてきているな?」
「はい、大丈夫です」
各機からレシーバーに元気な声が届いた。
「これより、高度を五千mに下げる」
「はい!」
「今日の敵は、大編隊だ。爆弾か焼夷弾を大量に積んでいるはずだ。機体は重い。その分燃料は消費する。帰りは、テニアン島だ。帰りの燃料を考えると、高高度は無理だ!」
「敵は、三千m以下で必ず飛んでくる。そこを一撃する!」
「いいか、今日は、夜間戦闘だ。月の光の反対側から攻撃する!」
作戦を指示すると、また、レシーバーが鳴った。
「敵機は、間もなく印旛沼上空にかかる模様」
「陸軍機が攻撃中!」
なんと、陸軍の方が早かったか、恐らくは、東金か八街あたりの戦闘機だろう。
よし、それなら編隊は多少崩れているはずだ。その態勢が整う前に攻撃しよう…。
俺はそう考え、基地に無線で問い合わせた。
「こちら、稲妻一番。敵の高度を報せ!」
すぐに基地から応答があった。
「稲妻一番、稲妻一番。敵編隊高度二千」
やはり、攻撃を受けて高度が下がっている。そろそろ、陸軍機の攻撃も終わった頃だろう。
しばらく飛ぶと、探照灯の光芒が見えてきた。
「よし、敵編隊発見!」
「行くぞ!」
そう言うと、列機を従えて高度三千mを維持しつつ、敵編隊の真上に到達した。
それにしても夥しい爆撃機の数だ。
風防を閉めていても、ゴーッ、ゴーッという不気味な爆音は、地獄の閻魔の唸り声のようだった。
俺は、背中に冷たいものが流れるのがわかった。いくら日本海軍の全盛期でも、せいぜい五十機を揃えたら、大変なことなのに、それも新型の超大型爆撃機をこれほど出撃させられるアメリカの底力は、まるで底なし沼に足を絡め取られているような気がして、身震いを覚えた。
「よし、直ちに攻撃に入る!」
「今回は、間を置かず、散開して各々の目標で攻撃せよ!」
「護衛戦闘機はいない!」
そう言うと、月の反対方向から、一気に先頭のB二九をめがけて急降下した。
敵はまだ気づいていない。
その証拠に、上部の回転機銃が作動していない。
第一波の陸軍機の攻撃が終わり、一旦態勢を整えるために編隊を組み直しているのだろう。
「よし、捕捉した!」
その瞬間に回転銃座が回り出し、機銃が上を向き始めた。
しかし、その動作は、俺には随分緩慢に見えた。
俺は、得意の逆落とし攻撃で、雷電必殺の二〇粍機銃弾を、その大きな背中に撃ち込んだ。
ダダッ、ダダダッ、ダダダッ…。
雷電の二門の二〇粍機銃が唸る。その振動が、操縦桿にまで伝わってきた。
俺は垂直に急降下しながら、機銃のノブを押し続けた。
そのときだ。ゴーンという衝撃音が機体全体を持ち上げた。
そして、降下する俺の眼に、目映い閃光が爆発音と共に見えた。
爆発光だ。「一機撃墜!」
すると、遠くでも激しい射撃音と爆発音が轟いた。
よし、列機も始めたな…。
見ると、垂直に吸い込まれた機銃弾は、B二九の左翼に炸裂し、その瞬間、轟音とともに大きな炎を上げて漆黒の中に消えていった。
「よし、これで二機撃墜!」
レシーバーに向かって怒鳴る。すると、次々と戦果が耳に入ってくる。
安本も頑張っているようだ。
急降下して水平飛行に戻り、遠くの上空を見ると、闇の中に手傷を負ったB二九が炎の中でシルエットを浮かび上がらせた。
「よし、稲妻小隊は集合せよ!」
「もう一度反復攻撃をかける!」
そう命令すると、編隊が整うのを待った。
全機相当の被弾をしていると思うが、故障機はないようだ。
「今度は、こちらの高度が低い。下から上に突き上げる!」
「高度が取れたら、再度急降下で攻撃をかけ、帰還する」
しかし、既に地上からの探照灯はない。
探照灯の届かない空域に入ったらしい。
一瞬攻撃を躊躇ったが、ここで躊躇するわけにはいかなかった。
先ほどの攻撃によって被弾したB二九の吐く白い煙と月明かりだけが頼りだった。
それでも下から見ると、黒い大きなシルエットが見え、再攻撃が可能だと判断した。
敵は、既に武装を整え、待ち構えているに違いない。さっきよりは、攻撃は難しくなる。
それでも、この編隊を崩し爆弾が落とされる前に、作戦を中止させなければ…。
それは数機の雷電でできることではなかった。
しかし、ここでさらに一機でも撃墜して編隊を崩させれば、後続の夜戦部隊が追い払ってくれるかも知れない。
そんな一縷の望みを託し、再攻撃を命令した。
「みんな、いいか、いくぞ!」
その会話音声は、厚木基地に届いているはずだ。
今頃は、小園司令の命令で、稼働機の総力を挙げて東京の空に出撃している。ここで倒れても、もう思い残すことはない。
そう覚悟を決めた。
「上田、井上、安本、頼むぞ!」
「はい!」
暗闇で列機の姿もよく見えなかったが、レシーバーの奥から聞こえる声は、どれも明るく、恐怖などないかのようだった。
俺は、雷電の加速を生かして、出力を最大限にできるだけ急上昇でB二九の編隊に向かっていった。
緩い上昇では、敵の銃座がすべて我々に向いてしまう。
そうなれば蜂の巣になって墜とされるのは必定だった。
我々が見るのは、月明かりに照らされた敵機のシルエットだけだ。
「よし、捕捉した!」
俺が機銃のノブを押すのと、敵の銃座が十三粍機銃を撃つのが同時だった。
ガンガンガンと機体に機銃が命中する音が響いたが、俺は構わず二〇粍弾を撃ち続けた。
そして気がついたときには、そのまま機体は煙を吐き、降下していった。
頭がズキズキ痛む。
風が顔に強く当たるのがわかった。
「やられたか…?」
手袋を外し、顔を撫でると闇夜の中でも手触りでぬるりとした感触があった。出血している…。しかし、
「大丈夫だ。たいした出血じゃない…」
そのことをレシーバーで伝えようとしたが、無線もまったく聞こえない。
俺は、眼を瞑り無心で機体の回復操作を行った。
風防が破壊されたのか、バタバタという音が強く響く。
「寒い…。とにかく寒い」
しかし、エンジンは今のところ正常に回り、機体は水平を取り戻した。しかし、いつまでもガタガタと機体が揺さぶられる。
どこかに大きな被弾があるらしい。
操縦が難しくなってきた。
俺は、風防をこじ開けると、高度計も見ないまま漆黒の闇の中に飛び出した。
ひょっとしたら、だれも気づいてくれないかも知れない。そうなれば戦死は確実だ。
とにかく、落下傘が開くことだけを祈った。
耳元でヒューヒューという風を切る音が聞こえる。
その瞬間、バーッっとメインの落下傘が開いた。
下を見ると、やはり何も見えないが、どうやら海や沼ではなさそうだ。
しばらく落下傘が風に流されて落ちていくのに身を任せていた。
すると、ザザザザーっと木々の中に飛び込んだ。地上に降りたんだ。
落下傘は林の木に引っかかったが、何とか縛帯を外し、木の根元に下りると、首に巻いたマフラーを頭の中に突っ込み、飛行帽の顎バンドをしっかりと締めた。
記憶があるのは、そこまでだった。

俺は、そのまま気を失い、闇夜の中を彷徨った。
範子の顔が浮かぶ。あれは拓也君か…。あの美しい女性が何か声をかけてくる…。防空頭巾を被っているのか、それにしても何て言っているんだ…。
おうい…おうーい。

どのくらい経ったのだろうか…。
俺が気がついたのは、布団の上だった。
「あっ、気がつかれたようです…」
女の声が聞こえた。
うっすらと眼を開けると、春の眩しい光が俺を照らしていた。しかし、声が出ない。
周囲を見渡しても、見覚えもない農家らしい家の座敷に寝かされている。
すると、中年の女が湯飲みに入れた水を口に運んでくれた。
「よかったねえ、兵隊さん…」
その声は、田舎の母の声にも似ていた。
くぐもった声で、「ありがとう…」と礼を言い頭を下げると、自分の姿が見えた。
着ていた飛行服も着替えさせられ、寝間着姿になっていた。
頭と手には白い包帯が巻かれている。
周囲を見ると、脱がされた飛行服や軍服、飛行帽は、鴨居に掛けられていた。
そのまま一時間ほども経っただろうか、意識がしっかり戻ってきたので、話を聞くことができた。
その家の主人の話によると、夕べ遅く、近くの印旛沼上空で空中戦があり、下からでも大きな爆音と攻撃音、そしてバチッ、バチッという火花がいくつも見えたそうだ。
その後も、もの凄い爆音と機銃音、そして爆発音が続き、村の人は、防空壕で身を縮めていたと言っていた。
それは、きっと俺たちの小隊や前の陸軍機がB二九の編隊に攻撃をかけていたときのことだろう。
すると、大きな飛行機が炎を上げて印旛沼に墜落し、それと同じくらいに、もう一つの火の玉が、沼の向こうの山に墜ちた。
しばらくすると、上空の音も止み、静かになったが、その後も、小さな爆音がしばらく聞こえていたそうだ。
やがてそれもなくなり、明け方を待って山に墜ちた火の玉と、沼に墜ちた飛行機を見に行ったそうだ。
どうも駐在さんやら、村の助役さんやらで結構大騒ぎになったらしい。
その山の方に行った連中が、木の上に白い落下傘を見つけ、その根元に俺が倒れていたということだった。
俺の頭の傷は、飛行帽の上を弾丸が擦った焼け痕があり、その弾丸が俺の頭を傷つけたようだ。
村の医者によると、傷は浅いので、止血するだけで済んだと言っていた。
この村は、佐倉町の田町付近で、近くの城跡には佐倉五十七連隊の駐屯地があるということだった。
俺は、大方の話を聞いて、部下たちが無事だったようだと考えた。
きっと俺を探してこの上空を回っていたのだろう。
早く、無事を伝えてやらなければならない。
そこで、家の主人に頼むことにした。
「私は、海軍中尉、坂井直です」
「厚木航空隊に無事を連絡していただけませんか?」
と依頼すると、
「はいっ。神奈川の厚木ですね」
「そうだ。厚木空だ!」
そう告げると、来ていた駐在が、すぐに自転車で駐在所に飛んで帰り、連絡をしてくれた。
頭は少し痛むが、それほどでもなかった。
村の医師がすぐに診てくれたので、傷の手当てが早かった。
それにしても、沼に落ちなくてよかった。夜の沼に落ちたのでは助かりようもない。
俺にはまだ運がある。
家の者は、俺がもう大丈夫だ…と言うのにも関わらず、親身になって世話をしてくれた。
俺は、感謝しつつ、昨晩のことが気になって仕方がなかった。
ここから見ても、東京の空は真っ赤に燃えていたそうだ。
ゴーン、ゴーンと不気味な音を立てて、B二九の大編隊が飛んでいく様は、どう見えたのだろう。
そのB二九が落としたであろう焼夷弾で、東京はどうなったのか。
駐在や村の者に聞いても、わかる者はいなかった。
ただ、今は汽車も止まり、東京には入れないという情報だけがあった。

翌日の朝早く、陸軍の下志津飛行場の自動車が家の前に止まった。
俺は既に起きていたが、外ががやがやと騒がしい。
「どうしました…?」
と声をかけると、家の主人が、
「いや、今、陸軍の方が坂井中尉さんをお迎えにきたそうです」
と言うので、
「ん?陸軍の自動車がどうして…」
どうやら小園司令が回してくれたらしいのだが、不思議な気持ちで出てくる兵隊を見てみると、運転手は陸軍伍長だったが、そこから降りてきたのは、安本二飛曹だった。
「小隊長、いやあ、無事でよかったです…」
「なんだ、安本か?」
「迎えに来てくれたのか?」
「それに、なんで陸軍なんだ?」
つまり、小園司令は、俺からの連絡が入るとすぐに陸軍と掛け合って許可を取ってくれたのだ。
「それでは、早速、自動車を差し向けます」
と言う菅原副長に、
「何を悠長なことを言っとるんだ。こういうときは飛行機だ。飛行機で千葉に飛んで、そこから自動車を向けりゃあいいじゃないか。あそこには、陸軍の飛行場があったはずだな…。早く手配しろ。陸軍には俺が話す」
そう言って、安本に迎えに行くように命令されたそうだ。
副長は、
「まあ、そういうわけだから、安本二飛曹、悪いが彗星で迎えに行ってやってくれ」
と言うことで、安本がここに来たというわけだ。
安本たちは心配していただけに、俺の無事が伝わると、上田や井上と喜び合い、すぐさま飛んできたということだった。
下志津飛行場では、厚木の小園司令から直接連絡があったとのことで、彗星が着陸するなり自動車が待機していた。
安本が飛行帽を脱いで「願います」と言うと、運転手の伍長から「早く乗ってください」と促され、佐倉街道をぶっ飛ばして来たと話していた。
四街道町にある下志津飛行場から、佐倉町の田町までなら、車で三十分ほどだった。
さすが、小園司令。陸軍にも顔が利く。
「ところで、安本、こんな大事な時期に、いいのか、待機命令が出てるだろう」
そう言うと、
「だって、小隊長。小隊長が生死不明になって、私らだけじゃあ出撃もできやしませんよ。あの晩、やっとの思いで戻ってみても、小隊長はおらんし、上田一飛曹や井上二飛曹も途中の基地に不時着したとかで、独りぼっちだったんですから…」
とむくれるもんだから、
「あっ、そうか、済まん、済まん…」
と俺も謝るしかなかった。
「でも、あの晩、小隊長機が一機、その後の反復攻撃で、また一機墜としましたので、第三小隊は、都合二機撃墜です」
と、にこにこと笑顔で報告するのだった。
俺を看病してくれたのは、村の農家で、佐々木さんと言った。
俺たちは、佐々木家にお礼にと、安本が持ってきた缶詰数個と隊にあったという小豆や砂糖を一袋ずつ置いていった。
さすが安本、気が利く男だ。
今は、こんな物でも、なかなか手に入らず、家族には喜んで貰えたので、ひと安心だった。
車で出発する際には、近所の人やら駐在やら、今度は村長まで来て、なんだか気恥ずかしい思いもしたが、これが戦っている兵隊への感謝の気持ちなのだろう。
期待に応えなければ…。そう思い、俺は車に乗り込むと、ほっとしたのか、また、深い眠りに落ちていった。

「小隊長、着きましたよ。下志津飛行場です」
俺は、どうやら安本に寄りかかって、また居眠りをしていたらしい。
どうも、今日は安本が保護者みたいだった。
飛行場に着くと、ここの指揮官の石川少佐が出迎えてくれた。
「いやあ、よかったですね、坂井中尉殿。昨日は、小園大佐殿から直接お電話を頂戴し、本当に恐縮です。我々、陸軍も上向き砲で頑張っております。ところで、坂井中尉殿は、新型機雷電の撃墜王だと言うではありませんか。いやはや、お若いのに、さすが海軍さんは違いますね…」
と愛想を言うと、小園大佐の役に立てて光栄だと付け加えた。
「こちらは、練習基地ですが、若い少年兵を坂井中尉殿を見習って、鍛えたいと思います。それでは、くれぐれも小園大佐殿に、よろしくお伝えください」
石川少佐は、ブーツの踵を音を立てて合わせると、陸軍式の肘を張った敬礼をした。
俺たちもそれに合わせるように、こちらは海軍式の肘をたたんだ敬礼を返して、挨拶としたのである。
「では、失礼します。ありがとうございました」
と、俺に代わって安本が大声で叫ぶと、外で作業をしていた兵隊たちが、一斉にこちらに向かって敬礼をしたのには、驚いた。
既に、安本が乗ってきた彗星は、陸軍の整備員たちが物珍しそうに見ながら、丁寧に座席を用意してくれていた。
彗星の後部座席に乗り込むと、何か包み紙が入っていた。座席からその包み紙を上に上げて礼を言った。
大声を上げようにも、既に彗星の空冷エンジンは起動されており、その爆音で声は届かなかった。
しかし、俺のその仕草で、整備長らしい将校が、笑顔で手を振ってくれた。
「そうか、整備員たちの心づくしか…」
と、陸海軍の壁を越えた友情を感じた瞬間だった。
空中に上がってから、中を見ると、手作りの巻き寿司が三本入っていた。
こうして、陸軍の兵隊たちに見送られて、彗星は発進したのである。
直線コースを飛べば、厚木基地まではひとっ飛びだったが、安本に頼んで、東京上空を飛んで貰うことにした。
やはり、俺もあの日の東京が気になって仕方がなかった。
安本は、
「わかりました。わかりましたが、小隊長、東京はひどいもんです」
そう言うと、機首を少しだけ北に向けた。
千葉から東京上空に入った途端、それは今まで見たこともない光景が広がっていた。
眼を凝らして地上を見ると、もの凄い爆撃だったことがわかった。
その焼け跡は、延々と広がり、立っている建物もほとんどが崩れ、あちらこちらに白煙が燻っている。
こ、これは…。
一瞬目を疑ったが、あの夜のB二九の大編隊を見た俺は、すぐに悟った。
俺たちが戦ったとは言え、たった二機撃墜で喜んでいる場合じゃなかった…。
それにしてもいったい何人が死んだんだ。一万か、いや三万か、それとも…。もう、声も出なかった。
安本が前席から、
「もう少し、回ってみますか?」
と聞いてきたので、
「ああ、頼む」
と答え、浅草から上野、東京駅周辺と低空で飛行を続けた。
地上には、歩く人やリヤカーを引く人など、人が生きていることはわかったが、隅田川沿いを見ると、山のようなものを何人もの男たちが、トラックに積み込んでいる。
安本に聞いてみると、
「はあ、詳しくはわかりませんが、恐らく、川に落ちて死んだ人の死体を片付けているんだと思います」
と答えた。
俺は、もう「そうか…」としか言えなかった。これでは、あの列車に乗り合わせた美しい女性は、もう生きてはいまい。
仙台に居る拓也もこれで独りぼっちだ…。
そんな数ヶ月前の帰省の日のことを思い出していた。
「もういいよ、安本、帰ろう。行ってくれ…」
安本も小さな声で「はい」と頷き、西に向かった。
結局、後でわかったことだが、この日の空襲は、B二九爆撃機二七九機が東京を襲い、ひと晩で死者八万四千人、重軽傷者十一万人を出したとのことだった。
飛行機で空から焼夷弾という「油脂爆弾」をばら蒔いて、男も女も老人も子供も関係なく焼き殺す。
同じ人間でありながら、よくもこんな残虐なことが出来るものだ…。
アメリカという国は、文明が発達した民主主義国家だと思っていたが、とんでもない残虐な国だと改めて認識せざるを得なかった。
こんな恐ろしい国と何年も戦っているのか…と思うと、暗澹たる気持ちになった。

俺が帰隊すると、隊内は一昨日の空襲の話で持ちきりだった。
小園司令に帰隊の報告と、飛行機を個人のために回して貰った礼を言いに本部に向かった。
会う隊員が包帯姿の俺を見ると、
「いやあ、坂井中尉よかったですね…」とか、
「不死身の坂井も、今回はダメかと心配しましたよ」
などと、声をかけてくれた。
中には、体を軽く叩く隊員もいて、これは少し痛みが走るので困ったが…、まあ、心配をかけた罪滅ぼしだと考えることにした。
司令室に入ると、小園司令は、
「おう、坂井。無事で何より…」
と労いをかけてくれたが、その表情はあまりに冴えない様子で気になった。
「ところで司令、先日の空襲、見てきましたよ」
「うん…。そうか」
それきり、司令は窓の方を向いて何か思案しているようだった。
「坂井中尉。俺は、もうわからん。あの焼け跡の惨状を見たろう。実は、俺も昨日、零戦を飛ばして見てきた。無残だ。あまりにも惨い。この戦争、我々日本人がみんな死んでも終わらんかも知れん。奴らは、日本そのものをこの地球上から消し去ろうとしているのかも知れんなあ…」
そう言うと、さらに険しい顔つきになった。
司令は司令なりに、この戦争の行く末を憂い、己の無力さを痛感しているのだろう。それは、一飛行兵の俺も同じだった。
どうすればいい…と自分に問いかけても、答えは返ってこなかった。
しかし、自分のできることは、やるしかない。
そう心に誓って司令室を出ようとしたとき、小園司令が改めて振り返り、
「そうだ、坂井中尉。赤松中尉が君の帰還を首を長くして待っていたぞ…。すぐ行ってやれ!」
「とにかくご苦労さん。それから、軍医長から報告があったが、貴様のけがは軽いそうだ。しかし、けがが治るまでは、高高度飛行は禁止だ。いいな。まあ、低空での慣熟飛行訓練程度で留めるようにしなさい」
「とにかく無事でよかった…」
そう言うと、俺の右手をぐっと握りしめた。両目には、涙がうっすらと浮かんでいた。
小園司令にしてみても、軍人として、首都を護りきれなかった悔しさは、計り知れない。
その涙が意味するものは、軍人としての無念さだったのだろう。
司令室を出ると、俺は、その足で士官次室を尋ね、赤松中尉に礼を言った。
赤松中尉は、俺に抱きつくように喜びを表し、何度も「よかった…よかった」を繰り返し、俺を離そうとしなかった。
赤松中尉に、そのまま席を勧められ、空襲の夜の戦闘の状況を聞くことになった。
椅子に腰をかけたと同時に、夜戦の島田が飛び込んできた。
島田は、訓練飛行から戻り、俺の帰隊を聞くと、そのまま真っ直ぐここに来たらしく、飛行服も着替えていなかった。
俺は、両中尉から東京の話を聞いた。
すると、それはとんでもない事実だった。
赤松中尉が口火を切った。
「ありゃあ、とんでもない空襲だ!」
あの晩、赤松中尉は、長年の勘で「こりゃあ、やられる!」と感じたらしい。そこで、俺に声をかけ出撃したのだ。
赤松中尉が敵編隊と遭遇したのは、皇居を護ろうと、東京駅上空で待機していた時だった。
時間は、九日から十日になろうとした深夜零時を過ぎていた。
敵編隊は、次第に高度を下げて、五百mくらいの低空になった。
この日も灯火管制が敷かれていて、東京の中心部から下町一帯は、真っ暗だった。
上空二千mで待機していた赤松中尉たち雷電隊にとって、高度五百mでは、急降下による攻撃ができない。
それに、空襲警報が鳴ると陸軍の高射砲陣地から即座に砲撃が始まり、探照灯も上空を照らし出す。
こうなると、高射砲弾と探照灯の光を避けるために、攻撃ができないのだ。
しかも九日の夕方から吹き始めた風は、夜半には春の嵐となり、強い風が吹き始めていた。
雷電は、速度が出てこその戦闘機である。
低速では、機体を操作すること自体が難しくなる。この条件では攻撃ができない。
赤松中尉は、
「しまった。房総沖で攻撃をすべきだった」
と、悔やんだが、今は、上空に退避するしか術がなかったのである。
二百機を超す敵の大編隊は、日本軍機の抵抗が少ないとみるや、編隊を組んだまま爆弾槽を開いた。
落とされたのは数種類の焼夷弾で、三十万発以上の焼夷弾が東京の下町一帯に投下された。
それは、まるで雨のようだったと、体験者は後に語っている。
当時、東京では、防空演習が盛んに行われていた。
類焼を防ぐための建物疎開も実施され、国民はできる限りの対策は採っていたのだ。
しかし、その日の空襲は、日本が想定していた空襲とは、その攻撃の規模も落とされた焼夷弾の数も桁違いで、防空訓練などまったく意味をなさなかった。
焼夷弾は、落下する途中でさらに数十個の細い筒に分かれ、火を噴きながら地上に落下した。その筒の中には、粘着型の油脂が詰められており、一度火がつくと水などでは到底消化することはできなかった。
防空演習では、町内ごとにバケツリレーで火元に水をかけ、布団で火を消すような訓練をしてきたが、それを忠実に行おうとした人は、火を消すことができず、逃げ遅れて焼死した。
焼夷弾の雨は、東京各地に火災を起こした。
その炎は、強い風に煽られて火炎竜巻となり、人も物もお構いなしに空へと巻き上げ、火の粉をさらに撒き散らした。
赤松中尉たち雷電隊は、火災の熱風で上昇気流が渦のように巻き起こったため、高度をさらに上げて、飛行機を安定させることで精一杯だった。
とにかく小型戦闘機では、あの猛烈な火炎竜巻を乗り切る馬力はなく、仕方なく、地上を見ると、灯火管制を敷いていたはずの東京下町は、火炎によって真昼のように明るくなり、家屋や人も真っ赤に燃え、もう手の施しようもなかった。
そんな状況で、赤松小隊は厚木基地からの帰還命令を断り、上空を旋回しながら、この惨状を記憶に留めようと一時間近く頑張っていた。
地上では、市民が悶え苦しみ、阿鼻叫喚の地獄絵が描かれていたが、本来それを護らなければならない戦闘機が、為す術もなくひたすら上空を旋回することしかできない。
赤松中尉は、雷電の操縦席の中で泣いていた。
すまない、すまない…と業火の中で焼き殺される人々に、手を合わせていた。
夜戦月光で出撃した島田たちも同じだった。
月光隊は、それでも機体を操りながら、下方の斜め銃と積んでいった三式弾で攻撃を加え、未確認だが数機に打撃を与えたようだと話した。
後は、赤松中尉と同じで、操縦が厳しくなり、高度を上げて退避し、為す術もなく厚木に戻ってきた。
その頃、厚木基地は大混乱を来しており、次々と東京から戻ってくる飛行機を収容するのに大童になっていた。
小園司令たち首脳部も、東京の状況がまったく掴めず、「陛下は無事か!」と各方面に連絡をするも、電話も混線し手の施しようもなかった。
それからしばらくして、安本機が滑走路に滑り込んできた。
事情を聞くと、俺が敵機を攻撃中、行方不明になったということで、寺村分隊長も相当に慌てたようだった。
俺の小隊は、安本以外は基地に戻らず、最悪を心配したが、二人は燃料が尽き、陸軍の東金基地と海軍の香取基地に滑り込んで無事だった。
それはすぐに両基地から連絡があったので、無事が確認できたが、俺は、その時間には、意識不明となり、印旛沼近くの山林に墜落していた。
これは後でわかったことだが、アメリカ軍は、最初から東京の下町に狙いを定め、無差別爆撃を計画していたのだ。
油の入った焼夷弾をばらまき、発火させることで、紙と木でできている家屋を焼き払い、日本人を無差別に焼き殺す計画だった。
それまでは、軍需工場をピンポイントで狙った爆撃だったので、市民に多くの被害は出なかったが、無差別爆撃に切り替わった途端、何十万という日本人が、残虐な方法で殺されたのである。
そこまで話を聞いたとき、赤松中尉が目頭を押さえた。
「儂は、見ちまったんだ…。東京が焼かれる姿を…。囂々と燃える町の姿を…。あそこには、子供もいたんだ…。赤ん坊だっていたんだ…。それを…。戦争なんて関係ない人間を無残に殺しやがって…」
「儂は、絶対に許さん。こんなの戦争じゃない。単なる殺戮だ!」
「奴らは、人間じゃねえ。畜生!」
話すほどに、当夜の情景を思い浮かべるのか、赤松中尉の興奮は収まることがなかった。
それでも、酒の入った茶碗をグイッと飲み干すと、少し冷静さを取り戻したようだった。
「坂井中尉、話はここまでだ…」
「でも、あんたが帰ってきてくれて本当によかった…」
そう言うと、ため息を吐き、自分の愛機の具合を見てくる…と、格納庫に去って行った。
俺と島田は、その後しばらく無言だった。
その生々しい姿を見た赤松中尉や島田たちにとって、死ぬまで忘れることのできない光景だったろう。
炎が消えた後の惨状を見た俺でさえ、そのショックは計り知れなかった。
上田と井上に会ったのは、俺が、医務室から戻った時だった。
二人とも、元気そうだったが、やはり空襲の跡の東京を見て相当ショックを受けたらしい。機体は、四人とも相当にやられたらしく、整備分隊士は、「これじゃあね…」と諦め顔だったので、
「それじゃあ、交渉して新型の雷電に換えてください」
とお願いしたが、また、小園司令に頼るしかあるまい。
しかし、この戦争、本当に勝てるのか。いや、本当に終わるのか、もう俺には何もわからなくなった。

第九章 特攻隊基地

俺の傷も一週間ほどで癒え、飛行訓練も高高度に耐えることができるようになった。猛烈な重力を受ける急降下、急上昇は、よほど頑健な体でなければ勤まらない。
三月十日の空襲以降、B二九による無差別爆撃は、激しさを増していった。
俺たち雷電隊も、その数を増やし首都防衛の主力とさえなっていた。
三〇二航空隊の活躍は日本全国に轟き、時には各地区からの要請にも応えなければならなくなっていた。
三月中旬以降、例年通り桜が九州地方から開花が始まり、三月下旬には、関東地方にも桜のたよりが届くようになっていた。
しかし、今年の桜は日本の青年たちの運命をより強く感じさせるものになっていた。
俺たちの厚木基地でも桜は咲いたが、それを鑑賞するような気持ちにもなれず、連日のように、出撃が続いていた。
四月に入り、いよいよ沖縄にアメリカ軍が上陸し、戦争はこの南の島の争奪戦に注目が集まっていた。
日本軍も陸軍の主力を沖縄に派遣し、敵上陸軍を内陸地に引き込み、一網打尽に殲滅する作戦を採ったが、度重なる艦砲射撃と空襲により、その作戦の成功は厳しいものになっていた。
陸軍は、県民の北部への疎開と同時に中学生以上の男子に招集をかけ、男のほとんどを兵士としてかき集めた。
男子中学生たちは、「鉄血勤皇隊」を名乗り中学校の制服姿のまま、勇猛果敢に敵陣に飛び込んだが、その多くは敵の構える機関銃の前に為す術もなく、大地にその身を横たえる結果となった。
女子学生たちも、従軍看護婦として招集され、「ひめゆり」や「白梅」部隊として活躍したが、日本軍が敗れると、負傷兵とともに戦場に取り残され、最後は手榴弾を手に仲間と共に自害して果てた。
海軍の誇る戦艦「大和」も、最後は嘉手納湾に突入し、浮き砲台としての任務を与えられ、海上特攻の魁となったが、四月七日、沖縄に到達することはかなわず、鹿児島県沖で三千名の兵士と共に海の底に沈んだ。
日本軍の必死の抵抗も悉く粉砕され、もう組織的な作戦が採れない状況になっていた。
そんなとき、俺たちの小隊に命令が下された。
それは、「坂井小隊は、鹿児島の鹿屋に飛び、特攻隊の掩護にあたれ」というものだった。
この頃になると、沖縄戦での様子が連日報道され、日米兵士が、日本列島最南端の小さな島で、一般人を巻き込んで死闘が繰り返されていることが伝えられていた。
「沖縄を死守せよ!」
という見出しが新聞紙面に踊り、それに呼応するかのように、陸海軍は、特攻攻撃を始めていた。
「特攻」という言葉で、戦後語られることが多くなったが、最初に行われたのが、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃時の特殊潜航艇によるものだった。
しかし、後の特攻とは異なり、彼らには帰還命令が出されていた。
つまり、片道攻撃ではなく、攻撃後は母艦に戻り収容される手筈が整えられていたのである。
これは、連合艦隊司令長官山本五十六大将が、許可を与える条件として、「収容すること」を命じたと伝えられている。
それにしても「特攻」で始まり「特攻」で終わるとは…。
何とも皮肉な結果になってしまったものだ。
出撃した岩佐大尉以下九名が攻撃後戦死が認定され、「九軍神」として、その精神を讃えられた。
しかし、真珠湾という厳重に警戒された港湾施設に、小さな潜水艇を潜らせたところで、どれほどの戦果が期待できたというのだろうか。
港の海底には防潜網が降ろされ、四六時中パトロール艇が走り回っているのは事前にわかっていたことだろう。
「勇猛果敢」などと言う美辞麗句に惑わされて、本気で戦争ができると思っていたのだろうか。
結局は、だらだらと続いた日中戦争の延長上でしか、日米戦争を捉えられなかったということだろう。
真珠湾特攻も、潜水艇の故障で、ただ一人生き残った酒巻和男少尉は、その後長くアメリカの捕虜第一号として苦難の道を歩いた。
しかし、航空特攻は、敵の艦船を体当たりで沈めようとする作戦である。
後戻りはできない片道攻撃だった。
戦闘機の腹に二五〇㎏爆弾を取り付け、飛行機ごと敵艦船にぶつけるのだ。当然、操縦するのは人間だ。それも若い十代、二十代の俺たちの仲間が特攻作戦に参加し、その若い命を散らしていったのだった。
新聞には、連日、特攻による戦死者が掲載されており、俺も島田も同期生がいないか、探すのが日課になっていた。
そのうち、同期生の知っている名前を探すのは苦しくなった。
それは、沖縄特攻の指揮官の多くに、俺たち予備学生十三期が指名されていたからである。
その沖縄特攻の本拠地である鹿児島の鹿屋基地に行くということは、特攻作戦に従事することである。それは、俺にとっても苦しい任務となった。
寺村分隊長は、命令を下すとき、
「すまんな坂井。辛い任務を命じることになって…。しかし、おまえたちが行くのは、特攻でも直掩でもない。基地の防空戦のためだ」
「沖縄特攻は、日増しに激しくなっているが、それなりの戦果も挙げてきた。敵も海軍の鹿屋、陸軍の知覧と、特攻基地に空襲をかけている。しかし、機材の多くを特攻に回しているので、邀撃が手薄になっているのだ」
「そこで、防空戦に長けているうちや、松山の三四三空あたりに応援要請をしてきた」
「それに、雷電は迎撃機だ。通常の空戦は無理がある。したがって、直掩はできないことは、鹿屋の五航艦の参謀にもよく言ってある」
「貴様たちも相当に辛いものを目にするだろうが、すまないが、頑張ってほしい…」
「実は、俺たち兵学校七十一期の同期も、貴様の同期と同じように、指揮官として突っ込んでいるんだ…」
「申し訳ない。本当にすまないが、頼む…」
そう言って頭を下げるのだった。
小園司令にしてみても、首都防空戦は連日のように続いており、機材の余裕などないことはわかっている。特に雷電隊はその主力だった。
しかし、沖縄を守りたいという気持ちも人一倍強い人だ。
零戦隊も考えたようだが、零戦を持って行くと特攻に回される恐れもある。それで「雷電」ならと、俺たちの小隊にお鉢が回ってきたというわけだ。
俺は、寺村分隊長の気持ちもよくわかった。本当は、寺村自身が行きたかったんだろう。
そう考えると、命令以上に引き受けないわけにはいかなかった。
それに三四三空の隊員も来るという。
それなら、三四三に赴任した、あの佐藤尚の消息も聞けるかも知れん。
そう考えて、すぐに出発することにした。
寺村分隊長の部屋を出ると、その足で赤松中尉や小園司令を訪ねて、命令を受領した旨を報告した。
二人とも、「そうか…」と一拍おき、「辛い任務だが、頼む…」と、俺たちに餞別をくれた。
その餞別とは、新型の雷電である。
これまでの二十粍機銃二門から四門と増え、それだけ携行できる弾数も増えた。速度も時速六百㎞を優に超え、視界の確保もかなり改善された機体である。
これまでの機体は、かなり傷み、修理を繰り返しながら使っていたが、小園司令の働きかけのお陰で、雷電隊全体の機材の交換が行われたのだった。
海軍省も、それだけ三〇二航空隊に期待を寄せており、生産される雷電の多くは、こうして厚木に回されるようになってきた。
俺たち四人は、新品の機体を見ると、小躍りするように喜んだ。
特に若い井上や安本などは、子供のようにはしゃぐので、整備分隊士から、
「おいおい、おまえたち、オモチャじゃないんだ。いい加減にしろ!」
と注意される始末で、小隊長の俺や上田は、頭を下げっぱなしだった。
それにしても新品はいい。
機体の具合を確認していると、整備員の高田兵曹が、
「小隊長。せっかくの機材なので、坂井小隊長機とわかるように、胴体に稲妻を描いておきますよ」
と言うので、俺はニヤニヤしながら、了承した。
これも最近、愛機がすぐにわかるようにペイントすることが奨励されており、赤松中尉や寺村大尉なども機体にペイントを施した機体を使用していた。

さて、いよいよ鹿屋に飛ぶ日である。
出発の挨拶に寺村分隊長と赤松中尉のところに行くと、
「いいか、無理はするなよ…」
「雷電は、局地戦闘機だからな!」
という念を押すことを二人とも忘れなかった。
厚木から鹿屋まで約九百㎞。
雷電の航続距離が、増槽タンクをつけて二千五百㎞だが、これは飽くまでも公称であって、実際は高速で飛んだら、その半分がいいところかも知れなかった。
空戦を行うとさらに燃料の消費は激しく、実感として三十分も飛行すれば、燃料補給が必要だった。
巡航速度の時速三百㎞で飛行したとしても、いいところ二時間だろう。
特に雷電は燃料タンクを空にすることはできない。燃料がエンジンに供給されなければ、すぐにエンストを起こし、失速そして墜落である。
そのため、燃料は常に半分以上は入れておく必要があった。
因みに、零戦は非常に安定感のある飛行機で、燃料計が「零」を指しても、しばらくは飛行ができたそうだ。まあ、雷電はそんな戦闘機ではない。
そこで、四国の松山基地で燃料補給をさせてもらえることになった。
事前に菅原副長から連絡を入れてもらったが、すぐに了解をいただいた。
その上、その日は、ゆっくり基地を見ていってくれ…ということなので、言葉に甘えることにした。

さて、いよいよ出発である。
滑走路には、俺たち第三小隊の新型雷電四機が整然と並んでいる。
朝焼けに光って、今日の雷電は格別に美しい。整備も万端だ。
寺村分隊長に出発の申告をして俺たち四人は、それぞれの愛機に向かった。
さすが新品の機材は違う。
操縦席の中は同じでも、まず匂いが違う。
エンジン音も静かだし、操縦桿の利きもいい。風防の曇りも一切ない。
俺は、改めて「よし!」と気合いを入れて、出発の合図を列機に送った。
松山までは、給油なしで行けるはずだから、天候さえ悪くなければ、ギリギリだろう。
まあ、途中には飛行場はたくさんあるから、降りるところはある。
なるべく高度を保って飛行することにした。
新しいエンジンの爆音のリズムも一定で、最近にしては、出来のいいエンジンのようだ。
そう言うのも、軍需工場も人手不足で、男の若い工員たちが出征してしまうので、中学生や女学生までもが、勤労動員で戦闘機を作っているという噂があった。
さすがに雷電のような特殊な飛行機は、専門の工員が作業しているが、零戦などはエンジン部分も工業学校の生徒が工作していると聞いたことがある。
そのため、いくら新品でも、不具合が結構生じるらしい。
しかし、俺の愛機の「雷電三三型」は、三菱本社のお墨付きだ。
荷物を座席の後ろに積むと、整備の篠塚兵曹が寂しそうに声をかけてきた。
「坂井小隊長。お帰りはいつですか?」
そう聞くので、
「そうだな、ひと月の約束なので、六月頭には帰れるだろう」
「ひとつ、後は頼んだよ…」
「そうだ、おまえは甘いものが好きだったな」
「鹿児島のかるかんでも買ってくるよ」
そう行って別れたが、結局、篠塚兵曹とは、それっきりになってしまった。
「じゃあ、出るよ…」
そう声をかけて、篠塚たち数名の整備兵に見送られて雷電を起動させた。
今日は、出撃ではないので、何となくピクニックに行くような気持ちで、高度二千mを維持しながら飛行した。
とにかく雷電は燃料の消費量が激しい。
零戦ならば、いつまでも飛んでいるが、雷電は燃料計をしっかり見て飛ばないと、急に燃料不足に陥る危険性があった。
俺は、無線で列機に、
「いいか、燃料の消費に気をつけろ!」
「この速度を一定に保って直線距離で松山に向かう」
「到着予定時刻は、九時ちょうどだ」
「はあい」
返ってくる返事も間延びしている。
こいつら、本当に緊張感というものがない。
そう思ったが、それは俺も同じだった。
既に上田上飛曹、井上一飛曹、安本二飛曹の腕も上がり、実戦をとおしてチームの絆も強固なものになっていった。
この間に、上田も井上も昇級していた。
俺も飛行時間が六百時間を超え、それも訓練より実戦での飛行なので、時間の質がまったく違う。
さすがに雷電での格闘戦は難しいが、一撃離脱の攻撃なら、あの赤松中尉にも負けない自信があった。
ただ、鹿屋に行けば敵の爆撃機も護衛戦闘機を連れてきているだろうから、格闘戦も覚悟しなければならない。残念ながら、俺にはまだ敵戦闘機との空中戦の経験はない。
この小隊でないのは俺だけだったが、三人とも零戦での経験なので、これも未知数だった。
赤松中尉からは、
「たとえ、戦闘機であっても理屈は同じです」
「そもそも、奴らの戦法が一撃離脱ですから、坂井中尉と同じだと考えてください」
「とにかく、高度を取ること、太陽を背にすること、見張りを厳重にして早く敵機を見つけること、そして最後に、主目標は爆撃機です。そして、一撃離脱で四人が息を合わせて攻撃してください」
「そうすれば、絶対に勝てます」
という話を聞いていた。
まあ、とにかく慌てないことだ。
すると、レシーバが鳴った。
「隊長、聞こえますか?」
「ああ、安本かどうした?」
「隊長、そろそろ伊勢湾が見えます」
「ああ、そうだな…」
「私の実家は、伊勢の桑名なんです」
「ああ、懐かしいなあ…」
安本も久しぶりに故郷の風景を楽しんでいるようだった。
すると、もう一つの声が入ってきた。上田上飛曹だ。
「安本!見張りはどうした?」
「いくら朝とは言っても、いつ敵が襲ってくるかわからんのだぞ。ぼやぼやするな!」
その声は、俺のレシーバーにもビンビン響いてくる。
しまった。それは、俺が言う台詞だった。
何かのんびりしていて、搭乗員としての心構えを忘れるところだった。
着いたら、上田に謝らなけりゃならんな…と思いながら、上空や下方、後ろを確認し、飛行を続けるのだった。
そう言えば、赤松中尉も、
「飛行機乗りは、一に見張り、二に見張り、何もなくてもとにかく見張ることです」
と教えてくれたっけ。
そんなことを考えながら、いよいよ松山上空に入った。
少し雲が多い。
今頃九州は雨なのだろう。
松山にしておいてよかった。
鹿屋まで無理をしたら、雨中で危なかったかも知れない。
雷電は着陸が難しいから、雨は雷電隊員に嫌われていた。
松山基地に無線を入れると、すぐに応答があった。
「こちら松山基地、四機編隊を確認。そちらの所属、官姓名を名乗られたし」
「こちらは、三〇二空、坂井直中尉です」
「了解、着陸を許可します」

こうして俺たちは、無事に松山基地に到着した。
待っていたのは、あの佐藤尚である。
機体を整備員に預けて、降りると、すぐそこに佐藤が笑顔で立っていた。
「よう、坂井。よく来たな…」
「おう、佐藤。久しぶりだな。世話になるよ」
「だけど、明日には鹿屋だ…」
二人は、顔を見合わせて握手を交わすと、
「おい、こっちだ」
「部下の三人は、うちの若いもんが宿舎に案内することになっている」
そうか…と思う間もなく、佐藤が大きい顔をしてどんどんと歩いて行く。
「佐藤、ところで松山はどうだ?」
歩きながらの会話である。
「ああ、ここも広島の呉があるんで、連日出撃が続いている。しかし、日曜日はそれもない。奴らは、サラリーマンのような戦い方をしやがる」
「俺は今、新撰組の菅野直大尉の部下だ」
「新撰組?」
「ああ、ここでは源田司令が各隊に別名をつけているんだ」
戦闘三〇一は新撰組、戦闘七〇一は維新隊、戦闘四〇七は天誅組となっていた。
三四三航空隊では、最新鋭機の紫電改が使用されており、全国から選りすぐれの搭乗員を集めているとの噂があった。
「俺も、新撰組の隊員だ」
「隊長は、さっき言った菅野直大尉」
「菅野大尉は、海兵の七十期。フィリピンで名を馳せた撃墜王だ。紫電改を駆って急上昇し、直上からの逆落とし攻撃を得意としている」
「最初は、ぶったまげたが、今では、俺たちもできるようになった。俺も既に敵機を二機撃墜した。隊長は、もう十五機くらいは墜としているはずだ」
「それにしても、紫電改はいい飛行機だぞ」
「エンジンは、中島製の誉エンジン、二千馬力。どんな飛行機より速い。それに、空戦能力も高く、自動でフラップが出るから、零戦のようなひねりこみだってできるんだ」
「武装も二〇粍機銃四門。破壊力は抜群だ」
「この紫電改があと一千機あったらと、菅野大尉は、言っているよ」
佐藤は、ひとしきり菅野大尉や紫電改の自慢をして、得意そうだった。
赴任するときの不満顔とは、えらい違いだ。
それでも、そんな最新鋭機に乗れる佐藤が羨ましくもあった。
「そ、そうか…紫電改かあ。いつか俺も乗ってみたいよ」
「何を言うか、貴様だって最新鋭機の雷電に乗っているじゃないか。今度、俺も乗せろよ」
と軽く言うので、
「おいおい、それは無茶だ。零戦や紫電改に乗れても、雷電はそうはいかん。あれで、結構難しい戦闘機なんだ…」
「へえ、そういうもんかな…」
同期生の会話は気安い。
部下の前ではけっしてこんな調子にはなれないが、気心が知れている仲間は、嬉しいものだった。
そうこうしているうちに三四三航空隊の本部建物に着いた。
厚木に負けず劣らず、立派な建物で吃驚した。
厚木も広いが、この松山基地も広いし、それに整備も行き届いている。
さすが、軍令部の切れ者参謀といわれた源田実大佐である。
「じゃあ、本来は、うちの隊長への挨拶だけでいいんだが、源田司令がおまえをお呼びなんだ。一緒に司令室に行ってくれ」
俺も小園司令から挨拶をするように言われていたので、ちょうどよかった。
玄関から長い廊下を進み、突き当たりに司令室があった。
佐藤が部屋のドアを二、三回ノックすると、
「ああ、どうぞ…」
と声がしたので、佐藤がノブを回してドアを開けた。
そこには、机に源田司令が座り、脇に飛行長の志賀少佐、その隣に菅野大尉が立って待っていた。
一瞬、ぎくっとしたが、こちらも三〇二航空隊の代表だ。侮られるわけにはいかん…と腹に力をいれて入室した。
「第三〇二航空隊から参りました、海軍中尉坂井直です。本日、お世話になります」
と挨拶をすると、源田司令がにやっと笑い、
「まあまあ、坂井君、そんなに硬く挨拶をせんでもいいよ」
そう言って、二人を紹介してくれた。
志賀少佐は、真珠湾攻撃時の零戦隊長として有名だったし、菅野大尉は、さっき佐藤が言ったとおり、「ブルドック菅野」という愛称で、攻撃精神抜群の名隊長として名が知れ渡っていた。
二人は、自分の官姓名を型どおりに名乗ると、すぐにくだけた調子で志賀少佐が、
「おう、佐藤中尉、ご苦労さん。後で同期会でもやってあげるといい。松山の料亭でも、一席設けてあげなさい」
と言うではないか。
「はいっ!」
そう言うと、佐藤は笑顔で退室していった。
佐藤が出て行くと、源田司令が向き直り、
「いやあ、実はね。君に無理を言ったのは、東京の様子などを聞きたかったんだよ。三月十日の大空襲以降、私もなかなか上京できずに困っていたんだ…」
「それに、君は、予備学生出身者の中で、操縦の天才と呼ばれていたそうじゃないか。どうかね、本隊に転勤してこないか?」
本気か冗談か、よくわからないまま、はあ…と戸惑っていると、すかさず菅野大尉が、
「坂井中尉。気をつけた方がいいよ。司令は、こう言ってすぐに海軍省と交渉してしまうからね」
と水を差すと、源田司令が、
「まあ、小園さんが手放すとも思えないがね…ははは」
そんな前振りが済んで、こちらに話すよう促された。
「まあ、立ち話もなんだから、そこに座ってくれたまえ」
と応接用のソファーに腰を下ろすと、正直に東京の空襲後の実態から防空戦の状況まで話をした。
特に夜間爆撃には、月光隊の斜め銃が非常に有効であることを力説した。
そして、雷電は、さっき聞いた紫電改の攻撃と同様に、敵の直上から逆落としで突っ込む戦法を採っていることを話すと、菅野大尉が食いついてきた。
「ほら、やっぱりそうだろう」
「緩降下での射撃は、面として攻撃できるが、こちらの機体の下部をさらけ出すことになり、あのB二九の機銃群には、敵わない」
「そうだろ、そうか、同じ戦法か?」
菅野大尉は、したり顔で俺の顔を覗き込むようにするので、ちょっと困った。そして、待っていたかのように、
「今、ちょうど待機中だから、これからでも、一度雷電の攻撃方法を見せてくれないか…。本当は雷電に乗せて貰いたかったんだが、壊しでもしたら大変だから、今回は諦めるが、すまないが、つきあってくないか…」
と頭を下げるので、俺も驚いてしまった。
こちらは、ゆっくり温泉気分で松山に来たので、まだ、心の準備ができていない。
それに、そんな提案が出されるとは、夢にも思わなかった。
話はとんとん拍子に進み、警報が発令されれば諦めるとして、昼食後に紫電改二機と雷電二機で模擬空戦を行うことになった。
俺は早速あてがわれた宿舎に向かうと、急いで三人を呼んで事情を話した。
三人とも驚いていたが、すぐにやる気を見せ、俺が上田上飛曹を指名した。
井上と安本は残念がっていたが、まあ、当然のペアだろう。
すかさず井上が、
「上田上飛曹頼みますよ。これは厚木対松山の戦いですから、絶対負けは許されませんからね…」
と口を尖らせて言うので、上田も、
「うるさい。坂井小隊長と俺のペアだ。それに雷電のお披露目をするいい機会じゃないか」
と余裕を見せるので、四人で大笑いになった。
本当にこいつらは、緊張感というものがない。
物怖じしない性格は、それだけ雷電を乗りこなしてきたという自負の表れだろうと、俺は考えていた。
松山での昼食は、部下と別れてしまったが、士官室で司令たち幹部と一緒に瀬戸内の魚貝類や愛媛名産の「河内晩柑」という大きな蜜柑のような果物をいただいた。
いやあ、東京では食糧不足に困っていたが、やはり「あるところにはあるんだ…」という印象を持った。
もちろん、これも源田司令一流の人身掌握術である。
俺は少しだけ、「小園司令と似ているな…」と思っていた。
部下たち三人も、下士官室でもてなしを受けたと言っていた。
それでも、三十分前には、自分の眼で愛機の状態を確認し、これも整備長に褒められることになった。
「いやあ、厚木の人は、みんな自分の飛行機をご自分で点検されるのですか?」
と聞かれたので、
「はい、雷電は整備が難しい飛行機なので、寺本分隊長が率先して行っております」
と返事を返した。
よし、機体は今のところ大丈夫そうだな…。後は機銃か…。いつものように、ぶつぶつと呟きながら点検をしていると、松山の隊員たちも珍しそうに、その太った雷電の機体を遠巻きに観察する姿が見えた。

午後一時。
二機の雷電と二機の紫電改は、松山基地の隊員たちが注目する中、模擬空戦のために二本の滑走路に分かれて、次々と離陸していった。
模擬空戦と言っても、双方が巴戦を行うわけではない。
雷電、紫電改、雷電、紫電改の順にいわゆる「一撃離脱法」を見せ合うと言ったデモンストレーションだった。
それまで双方は、それぞれの方法で一撃離脱法に取り組んできたが、性能の異なる戦闘機が、どのように大型爆撃機を攻撃しているのか、確認しようとする実験である。
こんなことを思いつくのは、やはり源田大佐だった。
菅野大尉の発案のように見せているが、俺たちの依頼を二つ返事で引き受けた真の目的は、二つの新型戦闘機の性能と特徴を見極めようとする実戦型の指揮官の深謀遠慮だったというわけだ。
源田大佐は、三〇二航空隊の活躍を聞き、そして雷電の分かれる評価も聞き、実際にその性能を確かめたかったのだろう。
確かに紫電改は優秀な戦闘機ではあったが、中島飛行機製の二千馬力「誉」エンジンは、調整が難しく、恐らく外地では使用できない。
零戦が活躍できたのは、栄エンジンの安定性と整備のしやすさにあった。
たとえエンジントラブルがあっても、廃棄になった零戦の残骸から、使える部品を取り出し、付け替えるだけで再生ができた優れものである。
それに比べて誉エンジンは、構造が複雑でベテラン整備員でも苦労が絶えなかった。
また、非常にデリケートで部品の交換が難しく、今の体制での量産は不可能と言われていた。
そのため稼働率が悪く、よほど上手く整備しないとカタログ通りの性能は発揮できなかった。
そして、万能機としての性能を求められたため、その高出力の性能をうまく引き出せない搭乗員も多かったのである。
もちろん雷電も癖のある戦闘機で、零戦乗りからは酷評を受け、一時は廃棄とまで言われたが、赤松貞明中尉のようなベテラン搭乗員が、その性能を最大限に発揮させる攻撃法を見つけてくれたお陰で、迎撃機としての今があった。
雷電隊は、俺と上田上飛曹、紫電改隊は、菅野大尉と佐藤中尉だった。
ほう、佐藤の腕がどれほどのものか、見てやろう…。
きっと佐藤もそう思っているに違いない。いい機会だった。
離陸した四機は、無線で状況を確認しあい、準備が整い次第始めることになっていた。
今回は、地上からも見えるように、高度五千mからの急降下で、高度二千mで引き起こすこととした。
上空には、四機が待機する態勢が整った。
エンジンは、先ほど、十分に点検してあるので問題はない。
事前の打ち合わせでは、雷電の俺から始めることとになっていたので、無線で、
「雷電隊稲妻一番。急降下に入ります」
そう告げると、俺はいつもどおり、腹の下に力を込めてから、一気に急降下に入った。
気持ち的には操縦桿を目一杯前に倒し、垂直降下の態勢に入ってから、機体を一瞬、背面飛行の状態に持っていくと、ほぼ垂直状態を作り出すことができた。
そこから一気に突っ込んで銃撃に入る。
口で言うのは簡単だが、初めの頃は、さすがの俺でさえ、目が回り意識を失いそうになったが、日頃からの剣の鍛錬がものを言った。
血が逆流し、頭がズキズキと痛くなる。
顔面は紅潮し、訓練をしていないとすぐに失神してしまう。
それに耐え、敵機の状況を把握しなければならない。
もうこの時は、敵の銃弾など意識の中にはなかった。
いつものように逆落としから急降下に入ると、高度計がぐるぐると回転を始めた。
高度三千mで最高時速六百五十㎞を超え、二〇粍機銃を五秒間撃ち続けた。その凄まじい発射音は、急降下のキーンという空気を切り裂く音とともに、地上の隊員たちに衝撃を与えた。
高度二千mで一気に引き起こすと、雷電は急速に機首を上げ、轟音とともに、反横転から水平飛行に戻し、左右に機体を滑らせながら退避行動に移った。
地上では、感嘆の声とともに、大きな拍手が起こっていたようである。
次は、菅野大尉の番である。
菅野機もやはり俺と同じように、一気の急降下から背面飛行に入り、二〇粍機銃四門を開いた。
新型雷電と同じ四門である。
その機銃音は、さらに晴天の空に響き、地上でそれを見る者の度肝を抜いた。そして高度二千mで引き起こし、離脱していった。
それは、次の二人も同様であった。
しかし、後で聞くと、
「やはり、隊長機はキレが違う」
と、志賀少佐や源田大佐は見ていたようだ。さすがベテラン搭乗員出身である。
俺は、少し離れた空域からその様子を眺めていた。
結果としては、どちらも優秀な局地戦闘機であることはわかるが、この一撃離脱だけの戦法を見ると、それに特化した雷電に分があるように見えた。
模擬空戦を終え、滑走路に三点着陸の要領で着地すると、大勢の隊員たちが集まってきた。
「これが、雷電ですか。すごい戦闘機ですね」
「はあ、やはり三菱製ですか…」
「この戦闘機も凄いが、厚木の搭乗員の技術もすごい」
そんな騒ぎで、俺たちは一躍、松山基地で有名になってしまった。

夜七時、やはり警戒警報が鳴った。
佐藤は、同期会を計画していてくれたが、これでは仕方がない。
「大丈夫だ。ここに来るのは艦載機だ。恐らく夜間偵察だろう」
「うちの隊には、お呼びはかからないが、鴛淵大尉の維新隊が出動した。それに、間もなく、警報が収まるはずだ…」
佐藤が言うように、マリアナ諸島からここまでは、いくら長大な航続距離を誇るB二九でも往復は難しい。中国大陸からでも、九州までしか届かなかった。
まあ、艦載機なら燃料の関係もあるし、すぐに引き上げるはずだ。
それに、敵の空母が近くまで来ているとすれば、彗星や銀河などの夜間戦闘機が攻撃に向かうはずだった。
しかし、こんな状態であれば、楽しみにしていた道後温泉は、この次だな…。
そんなことを考えていると、佐藤の言うとおり警報が間もなく解除された。すると、佐藤が声をかけに来た。
「おい、坂井。司令が道後温泉に部屋を取ってくれた。すぐ行くぞ。おまえの部下たちも呼んでこい」
「おう、今行く…」
警報で、残念だったと思っていたが、なんと有り難いことか。俺は早速、下の階にいる三人に声をかけた。既に奴らは奴らで、ここにいる下士官の馴染みと一杯やろうと準備を始めているところだった。
「あ、小隊長。残念です。もう、私らはここでやります。同期や昔馴染みが結構おるんですよ…」
「士官は、士官同士でやってください」
三人が笑顔でぺこりと頭を下げるので、
「まあ、しょうがないな。司令のお心遣いなのになあ…」
と言って見せたが、どんな料理が出されても、士官の中では窮屈なのは間違いない。
せっかくの同期生もいるようだから、別れてやることにした。
俺は、源田司令が回してくれた自動車で、有名な道後温泉に向かった。
松山市街は、特に大きな空襲に見舞われてはおらず、専ら呉の軍港や港湾施設が狙われているようだった。
軍都広島も今のところ目立った空襲はないそうだが、少し腑に落ちなかった。
「他の都市は軒並みやられているのに、なぜ広島が無事なのかな…」
東京、名古屋、大阪、北九州と日本の大都市は相当やられているのに、広島だけが被害がないというのも、やっぱり不思議な気がした。
しかし、そんな考えも一瞬で忘れてしまい、俺は、四国松山で思いがけなく、戦塵の垢を落とすことになった。
道後温泉は、夏目漱石の「坊ちゃん」で有名になった松山の名所である。
温泉に着くと、同期の櫻井、川内、村上、若林が来ていた。
櫻井は天誅組、川内は偵察隊、村上と若林は整備の同期生だった。
それに飛び入りで菅野大尉が同席してくれた。
「おい、予備学生の天才が松山にやってきたぞ!」
と、みんな笑顔で大歓迎を受けた。
それからは、まず坊ちゃんの湯に入り、「泳ぐべからず」の札を見て、垢を落とし、浴衣に着替えて二階で宴会になった。
飲むにつれて宮城出身の菅野大尉もご機嫌になり、
「ようし、今度は俺が厚木に殴り込みだあ…」
と、言い出す始末で、十一時頃に隊のトラックが迎えに来るまで、久しぶりにどんちゃん騒ぎになった。
しかし、宴会も終わりに近づいた頃、俺たち同期の死をいくつも聞かされることになった。
厚木でも山内健也を亡くしている。
戦闘機だけでなく、偵察でも爆撃機でも、既に多くの仲間が死んでいた。
他にも特攻で死んだ者も出ているそうだ。
まだ戦争は続く、今日の再会が、きっと最後の機会になることだろう。
「まったくなあ…」
佐藤がぼそりと呟いた。
佐藤は、松山に赴任して、零戦からもう一度訓練に励んだそうだ。
ちょうど部下に杉田庄一飛曹長がいたことで、徹底的に鍛えられた。部下が上官を鍛えるのもおかしな話だが、佐藤は、頭を下げて杉田飛曹長を口説いたそうだ。
菅野隊長もその熱意を認め、杉田教官の指導が始まった。
それは実戦さながらの訓練で、鉄拳こそなかったが、ラバウルでならした杉田の訓練は、鬼気迫るものがあった。
杉田は、知る人ぞ知る、連合艦隊司令長官山本五十六大将の六機の護衛戦闘機の一機だった。
山本長官戦死後、懲罰のように出撃させられたが、それでもしぶとく生き残り、三四三航空隊開設に合わせて、源田司令が引き抜いてきた名パイロットである。
「そうか、俺に赤松中尉がいたように、おまえには杉田飛曹長がいたんだ…」
そう思うと、己の運の強さを感じざるを得なかった。
翌日は、士官食堂で朝飯を済ませると、春曇りの中を鹿屋に向かって出発した。
源田司令の計らいで、機体もピカピカに磨かれ、オクタン価の高い最高の燃料を詰めてくれた。
どおりで、今日はエンジンの音がやけに静かなわけだ。
松山基地の盛大な「帽振れ」の見送りを受け、一路鹿屋を目指した。

鹿屋には、ものの一時間程度で到着した。
しかし、そこは、松山とは異なり、殺伐とした戦場の匂いが漂っていた。
俺たちの厚木基地も最前線ではあったが、それでも生き残って還ってくる基地があった。
そこは、巣立った小鳥が戻る母鳥のいる鳥の巣のような存在だった。
しかし、ここ鹿屋は特攻基地だ。戻ってくる巣はない。
全国から特攻隊員たちが集められ、数日間過ごした後、沖縄に向かって還らぬ出撃をする場所だった。
航空隊と言っても、みんなが余所余所しく、俺たちが到着しても、手続きさえ済めば終わり、といった風情で、四人で、ポツンと立ち尽くすしかなかった。
そんなとき、俺たちに声をかけてきた中尉がいた。
「おい、坂井じゃないか?」
「おう、やっぱり坂井だ…」
「貴様、何でこんなところにいるんだ?」
それは、精悍な顔つきに変わっていたが、筑波で戦闘機専修学生の首席だった山田健太郎だった。
「なに、貴様、山田か?」
「おまえこそ、何でここにいるんだ?」
首席の山田が、特攻基地にいるわけはない。俺はそう思い込んでいた。
「何って、俺は特攻隊員だ。先週、名古屋からここに来た。神風特別攻撃隊草薙隊の隊長だ」
「えっ、貴様が特攻をかけるのか?」
「だ、だって、貴様は、俺たちの首席じゃないか…?」
俺は、頭が混乱し動揺していた。
戦闘となれば生死をかけた戦いだ。
俺もそんな修羅場をいくつも潜ってきた。
しかし、特攻は違う。
たった一つの命を確率三〇%の成功率にかけ、百%死のうと言うのだ。
俺はもう、山田にかける言葉が見つからなかった。
「それで、出撃はいつだ?」
「そうだな、早ければ明日、遅くても明後日には出撃だ。でもここで貴様に会えるなんて、俺はついてるよ。いいじゃないか、貴様に見送って貰えるのなら、寂しくない」
「山田…」
俺の声には、少し怒気が含まれていた。
あの山田がなんで…特攻に出なくちゃいけないんだ。
東京帝大出で俺たち予備学生十三期の首席だった男だぞ。
使い方が違うだろう。海軍は何を考えてるんだ。
俺は、初めて海軍の硬直した考え方を憎んだ。
適材適所という言葉があるが、俺は戦闘機搭乗員として、雷電という新鋭機を与えられ持ち場を得た。
俺には、それが一番合っていたと思う。
しかし、山田は違う。特攻隊員なんかで死なせていけない男なんだ。
「山田、厚木に来い。俺が小園司令に掛け合ってやる!」
そう興奮して叫んだが、山田はそんな俺を窘め、諭すようにこう言うのだ。
「ありがとう坂井。おまえの友情には感謝するよ。しかしな、俺も既に覚悟は決めたんだ。連れてきた四人の部下もいる。おまえは、俺を死なせたくないと言うが、俺の部下には、十七歳の少年だっているんだぞ。俺は、そいつこそ、生かしてやりたいさ…。でも、そいつも覚悟はできている。今さら、戻れるものか。なあ、坂井よ。わかってくれ、そして俺たちを静かに見送ってくれないか…」
山田は、落ち着いた声でそう言うと、俺の肩に手を置いた。
その手は、小刻みに震え、自分の感情を押し殺しているのが伝わってきた。
「すまなかった山田。ここでは、みんな感情を押し殺して、その日を待っているんだな…」
俺たちは、少しだけ同期生の消息を伝え合うと、山田の案内で直掩隊の分隊長に、到着の挨拶をした。
直掩隊の分隊長は、ここの飛行隊長を兼務する田村昌彦大尉だった。
田村大尉は、
「そうか、厚木の雷電隊か…」
と、あまり興味を示す風もなく、淡々と事務手続きを伝え、宿舎が特攻隊の士官たちと同じ小学校の教室だということを伝えると、次の仕事に向かっていった。
そこは、山田と同じ宿舎で、山田の案内でその小学校に荷を解いた。
学校の玄関と思しきところから、校舎内に入ると、懐かしい古い木の匂いが漂い、十数年前の自分に戻ったような気がした。
最初に案内された教室には、黒板に出撃割が白墨で書かれており、山田たちの草薙隊は、予想通り、明後日の早朝六時になっていた。
ふと、隣の教室に目をやると、そこには白木の位牌がいくつも並んでいるではないか。
「おい、山田、あの位牌はなんだ?」
そう聞く俺に山田は、
「ああ、あれか。ここにいて特攻で死んだ連中の位牌だ。いつだか知らんが、ここの兵隊たちが作っている。まあ、俺のも間もなく置かれることになるだろうな…」
「それに、時折近くの寺から坊主が来て、お経を供えてくれるんだ。なあ、有り難いだろう」
なんか、そんなことを聞くと気が滅入る。
俺たちは、生きるために戦っていたのに、ここでは死ぬために戦っている。こんな理不尽な作戦を立てた奴の顔が見たいと思った。
その晩は、遅くまで山田や他の十三期の中尉たちが集まって臨時クラス会が開かれた。
しかし、ここは松山と違い、誰の顔にも疲労の影が浮かんでいた。
無理をして快活に笑っているが、特攻に出る者、送る者、掩護する者、立場がそれぞれに違い、運命の糸に導かれるように、それぞれの死が待っていると、誰もが感じていた。
生死を懸けた同期生と会うのは嬉しくもあったが、それがそのまま死と直結していると思うと、やりきれない気持ちは最後まで拭いきれなかった。

その翌日から、俺たち四機は、哨戒飛行に出ることになった。
雷電は、航続距離は短いが高速であること、上昇速度が速いので、かなり高いところから見張ることができること、敵機を発見したとき、即座に攻撃に移ることができること、また、機内無線が最新型で感度がよいこと、など雷電ならではの特長を生かした任務だった。
田村大尉という分隊長は愛想はないが、冷静に見ているな…と感心した。
哨戒飛行は、一時間ずつである。
俺たちの小隊が終われば、次は彗星隊が出ることになっていた。
彗星は、元々は、艦上爆撃機であったが、今では乗る母艦もなく、こうした偵察任務が多くなっていた。
厚木の小園司令なら、すぐに斜め銃を取り付けて夜間攻撃にでも出したことだろう。
ちょうど、昼に差し掛かる頃、左翼付近でキラリと光るものを発見した。
「敵機だ…」
俺はすぐに基地に無線で連絡し、基地内の飛行機を掩体壕に隠すよう手配した。
基地では、すぐに警報が鳴り、邀撃の零戦隊が上がってくるだろう。
よし、それじゃあその前にいただくとするか…。
列機も以心伝心である。
「こちら、稲妻一番。戦闘の隊長機を狙う」
「了解!」
高度はこちらが断然有利である。
それに奴らは、まだ雷電を知らない。
敵機は、高度三千m付近を悠々と編隊を組んで進んでいる。
こちらには気づいていない。
「よし、行くぞ!」
レシーバーに叫ぶと、一気に機体を敵の直上にまで持って行った。
太陽を背にすると、操縦桿を左に捻り、背面気味に急降下に入った。
見ると、敵機が気がついたのが、散開しようとしている動きがわかった。
「遅い…」
俺の照準器は、先頭を進む隊長機が大きく映り出されている。
俺は躊躇わずに、二〇粍機銃のノブを押した。
ドド、ドドドド…。
という重い発射音を残して敵機の左翼付近に銃弾が吸い込まれていった。
敵機は、ボン…という爆発音を残し、錐揉み状態で墜ちて行った。
すぐ隣の敵機も同様に、火を噴いて墜ちて行くではないか。
さすが、上田上飛曹だ。
井上も安本も、次々と攻撃を加え、一瞬で二機撃墜、二機撃破という戦果を上げた。
急降下して低空を退避するのは、我々の常套手段である。
後方を見ると、敵の艦載機が追いかけてくるが、こちらの加速にはついてこれない。
雷電が急降下して加速すると、時速六百五十㎞は優に超える。
水平飛行で飛んでいる飛行機の加速など、たかが知れている。
この方法だと、どんな高速機でも追いつくことはできない。
俺たちは、そのまま退避し、空襲が終わった頃に鹿屋基地に戻った。
田村分隊長に報告すると、唖然とした顔をしていた。
「いやあ、噂には聞いていたが、凄いな雷電は…」
「はあ、使い方さえ間違えなければ、迎撃機としては最高だと思います」
と率直に答えた。
通報が早かったので、零戦隊も敵戦闘機と交戦し、三機を撃破して奴らを退散させたとのことだった。
その晩、第五航空艦隊司令部から呼び出しがかかり、宇垣纏中将から、お褒めの言葉をいただいた。
「やあ、君たちが厚木空の雷電隊か…」
「さすがに帝都防衛に当たっている精鋭はすごいなあ…」
「坂井中尉は、予備学生出身だと聞いたが、何期かね…」
「はい、十三期であります」
「ほう?十三期。それでは飛行時間もそんなにないだろう…」
「はい、現在六百時間ほどです」
「それで、あの早業を習得したとは、驚きだね…」
「いや、雷電に巡り会えたことと、赤松貞明中尉のお陰です」
「なるほど、三五〇機の赤松さんか…」
「長官は、ご存じですか?」
「いやあ、海軍に長くいれば、そんな豪傑を知らん者はおらんよ…。そうですか…あの赤松が…」
どこかで一緒に戦った経験でもあるのだろう。
宇垣中将の含み笑いは、それを物語っていたが、敢えて詮索は避けた。
「それにしても、こちらに来て早々、二機撃墜、二機撃破、ありがたい。礼を言います」
「そして、短い期間だが、よろしく頼みます」
そう言うと、俺たちに直接「薩摩無双」という名酒を下された。
無双か…。
俺も夢想剣…。妙な因縁を感じるな…。
と思いながら、四人して感動を味わい、夜は芋焼酎の名酒を味わった。
下士官兵にとって、司令長官クラスの将官は、まさに雲の上の人だ。
その長官から直接労いの言葉をかけて貰ったのだから、彼らが有頂天になるのも無理はなかった。
俺も、将官と口を聞くこともなかったが、まあ、「いい祖父さんだな…」くらいにしか思わなかった。
それも、予備学生という本職の軍人ではないという意識があるからだろう。
そのいい祖父さんの宇垣長官は、八月十五日の玉音放送を聞くと、彗星艦爆十一機を率い、沖縄の海に突っ込んだ。
これを「宇垣らしい責任の取り方だった」と擁護する意見もあるが、死ななくてもよかった青年たちを道づれにして自殺した行為を非難する意見も多い。しかし、俺たちには、それを正当に評価する方法を持たない。

宿舎に帰り、長官からいただいた芋焼酎をみんなで一緒に飲み、騒いだ山田も、いよいよ出撃の時が来た。
翌朝は快晴だった。
朝五時に目を覚ますと、既に山田は起きて、何か書き物をしてる。
俺が、「遺書か…」と聞くと、
「ああ、書かずに行こうかとも思ったんだが、母にすまないと思ったもので、一応、書いておけば、俺の死を受け入れられると思うんだ。俺が死んだら、悪いが坂井、これを投函しておいてくれないか?」
「検閲には、出したくない…」
俺は、了解して、
「じゃあ、食堂で待っているよ、一緒に朝飯を食おう」
と誘って、山田を一人にしてやることにした。
俺には、何もしてやることもできない。
山田は、俺と違って頭もいい、東京帝大出のエリートだ。
そして、俺たち戦闘機専修学生のトップだ。それが、特攻で散る。
戦場に出ることは同じでも、他に方法がないのか、なぜ宇垣長官は、この作戦を続けるのか、それは聞く方も聞かれる方も答えの出ない問題だと思った。
そんなことを考えながら、食堂で待っていると、飛行服に着替え、真っ白なマフラーを巻いた山田が下りてきた。
俺が、「おっ、いいマフラーだな」と声をかけると、
「ああ、母親が送ってくれたんだ。ここに櫻の刺繍がしてあるだろ。なんか、今日の門出に相応しいと思ってな…」
そう言うと、その刺繍の部分を愛おしそうに触る山田の顔は、本当に優しげだった。
「おい、待たせたな…。飯を食おう」
そう言うと、近くの若い兵隊に朝食の用意を頼んだ。
その兵隊が戻ってくると、山田は席を立って、その若い兵隊の側に歩み寄った。そっと、何かを渡しているようだった。
その兵隊は、何か躊躇っているようだったが、しばらく問答を繰り返して、何かを受け取り涙を拭く仕草が見えた。
山田が席に戻ると、そのやり取りを聞いてみた。
「ああ、たいしたことじゃない…」
「実は、俺の財布を、あいつに渡していたんだ。あの男は、年少兵出身の少年兵さ…。十四歳で志願して、海軍兵になった男で、兄弟のいない俺には、弟のように思えたんだ。たった、数日間なのにな…」
「あんな、子供には死んで欲しくない。その代わりと思えば、思い切って突っ込めるさ…」
そう言うと、飯に朝採れの生卵をかき込んだ。
食堂には、十人ほどの航空兵がいたが、誰もが無口で、緊張で震えている少年兵もいた。まだ、予科練を出て間もないのだろう。
そこに、宿舎の責任者である少尉が、俺たちに声をかけた。
時計を見ると六時〇〇分を少し回っていた。
「間もなくトラックが到着しますので、ご準備願います」
その声は、静かで淡々と聞こえた。
ここには、多くの人間がいるにはいるが、既にこの世の存在ではないのかも知れない。人としては生きているが、まるで葬儀を待つ斎場のような空気に包まれていた。
まだ、この人たちより少しは長生きするであろう自分と、この特攻兵たちの間には、限りなく遠い隔たりがあることに気がついた。
基地から差し回されたトラックで飛行場に着くと、今日の出撃予定が書かれている黒板にみんなが群がっていた。
そこに、俺たち雷電隊が、「直掩」と書かれているではないか?
俺の側に村上や井上たちが集まってきた。
「小隊長、俺たちは哨戒任務じゃないんですか?。直掩と言っても、雷電の航続距離では沖縄までは行けません」
すると、直掩隊の田村分隊長がやってきて、
「いやあ、坂井中尉、すまないが直掩機が足らんのだ。もちろん途中まででいい、君たちには、高度を取り、上空から特攻隊を掩護してほしいんだ。その後は、零戦隊がついていく」
「今は、結構本土の近くまで艦載機が出張ってきていて、早い段階で空戦になることが多いんだ。そうなると、特攻隊は丸裸で突っ込むことになる。なんとか、その前に敵の攻撃を回避し、敵機動部隊のいる周辺まで辿り着かせてやりたいと言うのが、宇垣長官の頼みだ」
「無理はしなくていい。これは、命令ではないと長官も仰っていた」
そう言って、被っていた戦闘帽を脱いだ。
「わかりました。こちらも全力を尽くします」
そう返事をすると、分隊長はほっとした顔を見せて、指揮所の方に戻っていった。
そうか…、やはり戦局はここまで来ているんだ。それに山田の掩護が少しでもできるのなら、本望だ。
そこで、早速四人で打ち合わせをして、絶対に無理はしないこと、俺の命令で必ず引き返すことを約束して、それぞれの愛機に向かった。
愛機の点検を整備員と一緒に行っていると、
「雷電隊のみなさん、草薙隊の壮行式がありますので、お集まりください」
と伝令があった。
特別攻撃隊には、出発する前に壮行式が行われ、司令や長官などの訓示があるのだ。
式場には、白い布で覆われたテーブルの上に湯飲みと清酒が置かれ、既に山田たち特攻隊員が整列を終えていた。
俺たち四人は、直掩隊とは別に並び、それを見守る形を取った。
「これより、神風特別攻撃隊草薙隊の壮行式を行う!」
という参謀肩章を下げた少佐が叫んだ。
続いて、特攻隊員たちの名前が呼ばれる。
後方には、報道班員たちがカメラを構えている。
草薙隊隊長山田健太郎中尉、佐々木裕行少尉、滝 正幸少尉、加納康志一等飛行兵曹、鈴木栄一二等飛行兵曹の五人の名前が呼ばれるたびにフラッシュが焚かれ、明日の紙面を勇壮に飾るはずだ。
続いて、五航艦司令長官の宇垣纏中将が壇上に登った。
「よいか、諸君。今、沖縄は全県民が一丸となって敵上陸軍と熾烈な戦いをしている真っ最中である。十万の陸軍部隊も昼夜を問わず奮戦し、個々に敵を撃破している。我が帝国海軍もその総力を挙げて、これを支援し、一刻も早く敵を沖縄から駆逐せねばならない」
「君たちは、その魁となってもらいたい」
「いずれ、私も君たちに続く。必ず続く。先に行って、待っていてくれ。靖国で会おう!以上!」
そう大声で訓示をすると、挙手の礼をして壇上を下りた。
と同時に、「かかれ!」の合図で各々の乗機に分かれていった。
俺は、山田に急いで駆け寄った。
「山田、頼んだぞ!」
「ああ、貴様が直掩なら、心強い!」
「先に行っているから、おまえはゆっくりやって来い…」
そう言うと、軽く猫の手招きのような敬礼をして乗機の零戦に向かっていった。
奴が乗るのは、零戦の三二型で、翼端の切れている飛行機だった。
既に旧式機となっていたが、特攻任務には支障はなかろう。
それより、胴体の下につり下げられた二五〇㎏爆弾が、黒光りをさせ不気味な印象をもたらした。
俺たち四人も、一度集まって飛行航路と攻撃手順を再確認し、小隊長としての指示を与えた。
「どうやら敵は、中高度と低空に網を張っているらしい。低空は、零戦隊が主に対処する」
「俺たちは、中高度にいると思われる敵編隊を攻撃するのが任務だ。時間も少ない、必ず俺についてきてくれ」
そう言うと、三人がしっかりと頷いた。
本部前には、多くの隊員たちや地元の勤労動員の女学生、婦人会等の面々が見送りに駆けつけていた。
俺は、山田には申し訳なかったが、山田から依頼を受けた封書をそっと取り出してみた。そこには、まだのり付けがされていない手紙が入っていた。
「なんだ、山田らしくもない。うっかりだぞ…」
と思ったが、遺書は二通あった。
出発時刻まで五分ほどあったので、雷電の操縦席で開いてみた。
山田らしい几帳面な文字で、それは綴られていた。

遺書
父上様、母上様、健太郎ハコレカラ出撃イタシマス。
我儘ナ私ヲココマデ養育シテイタダキ、有難ウゴザイマシタ。
帝国海軍航空隊ノ一員トナリ、今回栄アル神風特別攻撃隊草薙隊隊長トシテ出撃デキルコトハ、誠ニ光栄ノ極ミデス。
必ズヤ御期待ニソムカズ、敵艦ヲ轟沈シ、日本ト皆様ヲ御護リイタシマス。
来春、私ノ好キナ忍山ニ咲ク櫻花ハ、健太郎ノ生マレ変ワッタ姿ダト思ッテクダサイ。今トナッテハ、何モ思ヒ残スコトハアリマセンガ、平和ナ時代デアレバ、モット勉強ヲシタカッタ。
シカシ今ハ日本ノ必勝ヲ願フノミデス。
機会ガアリマシタラ、靖国神社ヲ訪ネテクダサイ。待ッテイマス。
沖縄ガ私ノ最後ノ地トナリマシタ。
昨晩、久シブリニ家族ノ夢ヲミマシタ。
懐カシカッタデス。
妹ヨ美シイ人ニナレ 弟ヨ後ヲタノム
デハ、皆々様ノ御健康ヲオ祈リシ、出撃イタシマス。
昭和二十年四月二十八日。
海軍中尉 山田健太郎
父上様 母上様
御膝下

そして、もう一通は、俺宛の物だった。
だから、山田は敢えて封をしない手紙を俺に託したのだ。
それには、こう書かれていた。

坂井直中尉殿
貴君トハ、予備学生ノ戦闘機専修学生トシテ一緒ニ訓練ニ励ンダ仲ダ
コウシテ、最後ノ時ヲ同期ノ貴君トトモニイラレルコトハ、ナント幸福ナコトカ。
俺ハ死ヲ恐レルモノデハナイ。シカシ、無駄死ニダケハシタクナイ。
俺ノ志ヲ貴君ニ託ス。
生キテクレ。俺ノ分マデ生キテクレ。
生キテ、五十年後ノ日本ヲ見テホシイ。
俺タチノ死ガ無駄ダッタカドウカ、証明サレテイルハズダ。
最後ノ名酒、ウマカッタ。
アリガトウ。サラバ。
海軍飛行予備学生十三期
山田健太郎

「山田…」
もう言葉にはならなかった。
翌日の新聞に小さく草薙隊の記事が掲載された。
それには、こう書かれていた。

草薙隊の五人は、真新しい飛行帽、飛行服に身を包み、隊長は、ご母堂様から贈られた正絹の純白なマフラーを巻いて、まさに神々しいまでに若武者ぶりを際立たせ、征途の旅路についた。一人一人は、出撃のその時まで、美しい笑顔を見せてくれた。頼んだぞ草薙隊。天叢雲剣で邪悪な敵を薙ぎ払ってくれ。

四月二十八日、早朝〇七〇〇 晴れ
神風特別攻撃隊草薙隊
隊長 海軍少佐 山田健太郎 二十三歳
海軍飛行予備学生第十三期(東京帝大卒)
南西諸島方面にて特攻戦死
アメリカ駆逐艦一隻轟沈
巡洋艦一隻大破

これが、山田の残した最後の記録である。
山田は、二つの遺書を俺に託して死んだ。
俺は、新聞などには載らない山田の苦悩を知った。
それでも、俺たちは戦わなければならない。
たとえ、理不尽な戦争であろうと、家族を護るために、愛する者を護るために戦わなければならないのだ。
最後に、俺の知る山田の最期を語ろう。
山田が率いた名古屋空の草薙隊は、早朝攻撃をかけるべく、特攻機五機、篠田飛曹長率いる直掩隊五機、そして俺たち雷電隊四機で鹿屋基地を出撃した。
しかし、特攻機一機と直掩機一機が故障のため、開聞岳が見えた直後に基地に引き返したので、総勢十二機となった。
俺たち雷電小隊は、一気に五千m上空に達し、直掩隊は特攻隊を掩護して三千mを飛行していた。
敵機は、おそらく三千mと一千m付近で網を張っており、雷電小隊は、この三千mで網を張る敵機群を攪乱する任務を帯びていた。
高速で先行した俺たちは、トカラ列島付近で予想通り、敵艦載機十機を発見した。
「見ろ!、F六Fだ!」
レシーバーに声をかけた。
グラマン社の主力戦闘機だ。
零戦に対抗するため、徹底的に零戦を調べ上げて造られた傑作機だ。
速度自体は、雷電の方が上回っているが、艦上戦闘機としての機能を持ち、頑丈な機体と十二・七粍機銃六門の威力は並大抵ではない。
二五〇㎏爆弾を吊った零戦など、正面からぶつかればひとたまりもないだろう。
特攻隊は、まだ後方にいる。
俺たち雷電小隊四機は、いつものように、太陽を背にすると一気に急降下し、一撃で敵機三機に火を噴かせた。
奇襲成功である。
敵機は、おそらく隊長機を墜とされたために、混乱し、慌てて沖縄方面に遁走した。
しかし、俺たちにできたことはそこまだった。
いかんせん、雷電の高速攻撃は燃料を多く使う。
俺は、無線で列機呼んで集合させると、翼を翻し、鹿屋に戻ることにした。
俺は、ひと目でも山田機を目に納めたくて、高度を三千mに取り、特攻隊に遭遇できないかと考え、特攻隊の進路と逆方向で鹿屋に戻ることにした。
しかし、大空で予定通り遭遇することは極めて難しい。
運があれば会えるだろう…。そんな心境だった。
この日のトカラ列島周辺は雲が多く、十機程度の編隊を探すのは困難に思えた。しかし、列機の隊員たちも一生懸命に眼を凝らし、安本二飛曹が発見してくれた。
「小隊長、草薙隊です。いました…」
レシーバーから安本の喜んだ声が入ってきた。
すると、間もなく双方が視認できる距離まで近づいて来た。
ついに特攻隊に遭遇できたのだ。
俺は、もう一度、機首を沖縄に向けると、山田機の側に寄っていった。
山田機は、俺に気づいたのか、軽くバンクを振り、風防を開けて何かを叫んでいた。
俺も風防を開けて左手を大きく振って合図を送った。
俺たちの無線と特攻機の無線は周波数が異なり、使用できなかったのだ。
また、零戦の無線は旧式で、正直言って、使い物にならなかった。
しかし、その山田の口の動きから、
「ありがとう」という言葉を受け取った。
俺は、本当はこのまま沖縄までついていきたかった。
山田を最後まで護ってやりたかった。
しかし、それでは命令違反となる。
その上、雷電の航続能力では無理だ。部下たちも死なせてしまうことになる。
俺も風防を開けると、大声で叫んだ。
「山田ああ、頑張れえっ…!」
そう叫ぶ俺の目からは涙が溢れ、マフラーで拭いても拭いても、どこから出てくるんだというくらい涙が溢れ、止まらなかった。
「やまだ…」
俺は嗚咽しながら、再度機首を反転させ、帰途についた。
もうそのときは、燃料がぎりぎりの状態になっていた。
列機も、そんな俺を心配したのか、いつもの態勢ではなく、俺を護るように上下に入り、俺を静かに鹿屋に誘導するのだった。

基地に戻ると、俺はすぐに地下壕に造られた通信室に駆け込んだ。
他の三人も続いて走り込んできた。
みんな草薙隊がどうなったか、気になって仕方がなかったのだ。
「おい、通信兵、草薙隊はどうなった?」
怒鳴るように叫ぶと、後方にいた下士官が応対してくれた。
上官である俺に敬礼をすると、
「はい、先ほどモールス信号を受信しました」
特攻機は空中無線が届かないので、機内にある電鍵で知らせることになっていた。
「信号は四つ」
「二つは、すぐに切れましたので艦船からの射撃で墜とされたものと思います」
「残り二つは、信号が長く、敵艦に突っ込んだ模様です」
「一つは、早めに切れましたが、最後の一つは長く、敵艦に命中したと思われます…」
最後の言葉は、涙声で途切れ途切れだったが、感情を押し殺そうとする気持ちがよく伝わってきた。
やっと言い終えると、その下士官は絶句し、目頭を押さえるのだった。
周りの通信兵も、分隊長も必死に涙を堪えようとしているのがわかった。
俺たち四人は、
「ありがとうございました!」
と叫ぶように礼を言うと、地下防空壕を出た。
空には白い雲がいくつも流れ、初夏を思わせるような南国の風が吹いていた。
四人は、とぼとぼと歩き、雷電のある掩体壕の側の草地に腰を降ろした。
みんな無口で、それぞれが今日のことを考えていた。
日頃から淡々と作業をしているように見える兵たちにも、熱い心はある。
その感情を必死に抑えて任務を全うしていたのだ。
毎日、毎日、特攻隊は出撃していく。
少しでも親しくなると情も湧く。
お互いに声を掛け合うような人間関係を作っても、出撃は近い。
そして、それは永遠の別れとなるんだ。
こんな辛い航空基地が、いったいどこにあると言うんだ。
鹿屋基地の連中は、冷たいのではなく、みんなが悲しく辛い気持ちを抑え、ひたすら戦果を祈り、特攻で散った兵たちを心の中で慰霊している。
俺は、そんなことにも気づかなかったのかと、自分が本当に情けなかった。そして、一時でも基地の人たちを蔑んだ自分を愚かだと思った。
ふと、遠くを見ると、直掩隊分隊長の田村大尉が、だれかを叱っているような仕草が見えた。
他の三人も気づいたようで、その周辺の兵たちも作業を止めて田村分隊長を見ている。
それはすぐに終わったが、田村大尉がこちらに近づいて来たので、
「あっ、分隊長、どうかされましたか?」
と尋ねると、困ったな…という苦笑いの表情を浮かべ、
「いや、たいしたことじゃない」
「今、ちょっと腹が立ったので報道班員を怒ったんだ。こいつ、戦果の水増しを提案して来やがって…」
田村大尉の話は、こんなことだった。
「ここんところ、十分な戦果が出ていないようですが、どうしてですか…とか、特攻隊の質が下がっているんじゃないんですか…とかぬかしやがって。その上、なんなら記事に書くとき一割増しで戦果を書きましょうか?などと言いやがるから、ふざけんな!って怒鳴ってやったんだ」
「あの野郎、特攻隊をなんだと思ってやがるんだ!」
田村分隊長は、また思い出して怒りが込み上げたのか口調がいつもと別人のようになっていた。
あの冷静で、顔色ひとつ変えない分隊長が…。
「お、すいません。雷電隊の皆さんに…。本当は、私から今日の直掩のお礼を言わなきゃならんのに…。本当に申し訳なかった」
そう言って、頭を下げるのだった。
「あ、いやいや、とんでもない」
「私らでお役に立つことがあれば、いつでもお命じください」
そう言葉をかけると、
「そうですか、また、お願いするかも知れまんが、皆さんは大切なお客人なので、とにかく無理はしないでください…」
そう言って、格納庫の方に向かって歩き出すと、いつもの物静かな分隊長に戻っていた。
俺たち四人は、なんとなく特攻基地の人々の熱い思いが感じられて、少しだけ心が温かくなるのを覚えた。

その日の夕方、草薙隊の直掩隊長の篠田飛曹長が、わざわざ俺たちの宿舎に報告に来てくれた。
「坂井中尉、本日は直掩有難うございました。雷電隊のお陰で、敵機の編隊は、三千m付近に網を張った十機ほどだけでしたので、特攻隊を低空に逃がし、我々直掩隊五機は、敵機に向かっていきました。敵機は、いつものような集団での攻撃がなく、戦意を感じませんでした。何か、動揺しているように感じました。恐らくは、雷電隊がF六F三機を瞬時に撃墜したので、上空が気になっていたのだと思います」
「草薙隊は、そのまま低空を直進し、敵艦隊の輪形陣に到達しましたので、我々は、上空に退避し、攻撃を確認しました」
「山田中尉以下四名は、低空から高度を上げてから、次々に敵駆逐艦、戦艦へと突っ込んでいくのが見えました。敵の砲撃も盛んになり、二番機、三番機に相次いで敵機銃弾が命中、火を噴きながらそのまま海へと墜ちていきました。残った一番機と四番機は、高度を上げると前衛の巡洋艦に狙いを定めたようでした。四番機は、突っ込む途中で被弾し、巡洋艦の先にいた駆逐艦の前部に体当たりしました。駆逐艦はもの凄い黒煙を上げ停止しましたので、そのまま沈没したものと思われます。四番機は、一番年少の小栗二飛曹です。十七歳でした。」
「一番機の山田中尉は、高度を上げ、敵巡洋艦の真上に位置すると、何を思ったのか急に背面飛行に移り、そのままほぼ直角に巡洋艦の後部甲板付近に体当たりしました。私も爆装の零戦にあんなことができるとは、思ってもいませんでした。しかし、残念ながら後部甲板なので撃沈は難しいと思います」
「それでも、猛烈な噴煙が上がり、あの巡洋艦も二度と戦列には復帰できないでしょう」
「それにしても、なぜあんな技ができたのか、訓練ではやっていないはずです…」
「これが、私の見た状況であります」
そうか、山田はやったのか…。
「で、直掩隊は、どうでしたか…」
「はい。私の隊も、四番機が一機、敵艦の砲撃によって撃墜されました。まだ、若い兵で、かわいそうなことをしました…」
そう言うと、姿勢を正した兵曹長は、敬礼をして自分の待機所に戻っていった。
そうか、山田は最後の最後に、俺の話した高空からの一撃離脱戦法をやってみたんだ…。もちろん「離脱」はないが、これなら、あるいは…と考えたのかも知れない。
酒を飲んでいい気になって話した俺の自慢話を、奴は真剣に聞いていたんだな…。そう思うと、また泣かずにはいられなかった。
俺が、家族に宛てた山田の遺書に今聞いた最後の様子を認め、投函したのは、その日の夜遅くなってのことだった。

第十章 最後の戦闘

俺たち雷電小隊が、特攻機の掩護をしたのは、そのときだけだった。
掩護するにも航続距離が足らず、激しい操作で機体にも相当に負担がかかるため、次の命令が出ることはなく、翌日から通常の哨戒任務に就いた。
それでも、敵機の来襲とともに、機体だけでなく、こちらの肉体にも大きな負担を強いることになった。
そんな中、我が雷電小隊にも被害が出た。
まずは、井上一飛曹が空戦後の着陸時に機体を損傷し、本人も足の骨を折る大けがをしてしまったのである。
その日、井上は俺たちの三番機として離陸し、いつものように高度を取り、敵機発見後、即座に急降下攻撃に入ったが、エンジンの調子が悪く、退避行動後にエンジンから油漏れが生じてしまった。
急いで基地に戻ろうとしたが、オイルが風防にもかかるようになり、このままだと引火する恐れがあった。
幸い、上空でエンジンを切り、滑空で滑走路に滑り込んだので、発火はしなかったが、プロペラが空転しており、推進力がなくなっているので、着陸時の難しい雷電のバランスを保つことができなかったのだ。
ただでさえ、雷電は着陸が難しい飛行機だ。
前方の視界が利かず、無理な着陸体勢とったことが、事故の原因だったが、雷電のエンジンを上空で切るなどという操作は、井上一飛曹だからできた冷静な判断だった。
もし、そのまま滑走路に滑り込んでいれば、まだ燃料が胴体内にも多く残っていたので、発火、爆発する可能性は高い。
それを回避しただけでも、さすが雷電乗りだと褒めてやりたかった。
井上は、「すみません…すみません」と何度も謝っていたが、奴が無事であることが何よりだった。
井上は、着陸後すぐに鹿屋の海軍病院に入院したが、厚木基地に連絡を入れると、「手術後、十分な治療もできない」という小園司令の判断で、厚木に戻すことになった。
五航艦でも、これまでの雷電小隊の活躍と、支援部隊への感謝もあって、特別な配慮をしてくれたものと思う。
ちょうど、連絡将校を乗せて羽田に向かう輸送機に便乗させてもらい、東京に戻ると、横須賀海軍病院への入院となった。
別れる際、
「井上…。早く治してまた、一緒に戦おうな…」
「はいっ、すみません小隊長…」
と涙を流しながら、小隊全員と握手をして機上の人となったが、結局、井上一飛曹が戦列に復帰することはなかった。
三人になった雷電小隊は、これまでのロッテ戦法ができなくなり、通常の三機編隊で戦うことになった。しかし、それにも限界があった。

約束通り、五月に入ると厚木から「戻るように…」との命令があり、俺たちに代わるように、松山基地の菅野大尉率いる新撰組が、直掩隊に加わるようになった。
荷物を詰め、明日の朝出発するという晩、紫電改隊の佐藤尚が俺たちの宿舎に顔を出した。
「おい、坂井。お疲れさん。随分頑張ったんだってな…。聞いたよ」
「ああ、しかし、敵はいくら墜としても勢力を増すばかりだ…。とにかく無理はするな…」
「ああ…よくわかった。肝に銘じておくよ」
と、佐藤はあきらめ顔で答えたが、
「山田が死んだんだって…」
と特攻隊について聞いてきた。
「うん、山田だけじゃない。同期の連中が次々と突っ込んでいる」
「みんな、笑顔で飛び立って行くが、正直、それも見るのも辛い…」
「直掩は、山田の時一回だったが、それでも相当に堪えた」
「おまえも、苦労するだろうが、無理な戦闘だけはするなよ…」
そう言うと、久しぶりに食堂で酒を酌み交わし、お互いの武運を祈った。
その佐藤は、その後もしぶとく戦い続け、菅野隊長戦死後も新撰組に残り、敗戦を迎えた一人である。
俺たち雷電小隊の三人は、約束の任期を終え、鹿屋基地を後にすることになった。
特攻作戦も佳境に入り、全国から続々と特攻隊員たちが集められ、次々と出撃していった。そこには、俺たちのような予備学生、予科練出身の若者も多く、みんなひたすら黙々と遺書を書き、笑い、酒を飲み、淡々とした表情で出撃していった。
最初こそは、賑やかだった壮行式も次第に簡素となり、訓示も参謀や飛行長などが行うようになった。
山田が出て行くときのような艦隊司令長官が出てくることなどは、滅多になかった。
「特攻も、特別じゃなくなったのか…」
そんな感慨を持ちながら、誰に見送られることもなく、朝早く厚木基地へと飛び立つことになった。
いや、離陸後、上空から下を見ると、俺たち雷電を担当してくれた整備兵たちや直掩隊の田村分隊長が、「帽振れ」の海軍式見送り礼で見送ってくれているではないか。
時局柄、そう言った儀式も自粛ムードになっており、きっと内緒で声をかけてくれたんだろう。
「みんな、ありがとう…」
俺たちは、鹿屋上空でバンクを振って別れの挨拶に代えた。
そして、操縦席の中から敬礼をしてそれに応えた。
いつまでも別れを惜しんでいる場合でもない。
そのまま鹿屋上空を一周すると、東の空に向かって加速していった。
俺たち雷電小隊は、名古屋空で燃料補給を済ませると、休憩も取らずに、そのまま一気に厚木に向かって飛行した。
しかし、その厚木で本当の試練がやって来ることになろうとは、誰も考えていなかった。
今の感覚で言えば、たったひと月で何が変わるのか…と思えるが、この時代のひと月は、一年にも匹敵する変わりようだった。

厚木基地は、さらに整備が進み、零戦、雷電、月光だけでなく、彗星や銀河、そして名も知らない新型戦闘機まで集められ、隊員たちも新顔が多く、あちらこちらで見知らぬ顔に挨拶をしなければならなかった。
俺たちのことは、ちょっと基地でも有名になっていたようで、会う人会う人に、「お、稲妻小隊の坂井中尉ですか?」などと声をかけられ、若い兵には羨望の眼差しを向けられることもあった。
俺たちは現地にいてあまり新聞も読まなかったが、特攻記事の中で、俺たち雷電小隊の活躍が写真付きで紹介されており、俺や上田など、搭乗員の個々のプロフィールなども掲載されていたらしい。
特に小隊長の俺は、「稲妻小隊長」「予備学生出身の天才」という見出しで大きく掲載され、撃墜数十機を誇る若きエースとして注目されていた。
新聞も特攻隊の悲壮な話ばかりでは、読者のニーズに応えられないと思ったのだろう。
つい昨年も月光の遠藤幸雄大尉が「B二九撃墜王」として持て囃され、無理な攻撃の末戦死したことは、厚木の隊員ならみんな知っていた。
だから、俺たちは、そんな記事も読まなかったし、報道班員の取材も受けなかった。
まあ、騒がしくはあったが、誰かに聞いて憶測で書いたんだろう…と思って、特に気にもしなかった。
「戦に余計な感情を持ち込むべからず」
と言うのが、無限流の掟でもあったから、他の三人にも取材は受けるな!と言い聞かせておいた。
その後も、六月、七月と連日のように出撃が続き、そのたびごとに一人、二人と隊内から戦死者が出た。
夜間爆撃に行った彗星隊や銀河隊は、特に被害が大きく、なかなか敵艦上空に到達することができず、苦戦を強いられていた。
敵艦がレーダーを装備し、待ち構えていることはわかってはいたが、夜間、低空で忍び込み、攻撃するとなるとかなりの技量も必要だった。
俺たち雷電隊は、寺村分隊長、赤松中尉を柱に戦闘を続けていたが、当初からの隊員は異動したり、負傷したり、或いは戦死したりと櫛の歯が欠けるように、数を減らしていった。
俺たちの小隊も井上二飛曹の補充はきかず、三人でカバーし合っていた。
それでも、上田も安本も疲労の影は濃く、機体も人間も休みが必要な状態だった。
七月に入ると、暑さが湿度の上昇とともに厳しくなり、夜眠れない日が続くようになった。
就寝ラッパが鳴り、眠れない者たちが、ぞろぞろと外に涼みにやって来る。 俺も月光隊の島田を誘って外に出て見ると、星が夜空を覆っているではないか。
島田が空を見上げながら、
「こんな夜が続けばいいのにな…」と呟く。
「なんだ、島田。おまえたちは夜が専門じゃないか。こんな星は見飽きてるだろう…」
俺がそう言うと、
「なに、ばかなことを言ってんだ…」
「俺たちの夜は戦場だ。星なんか見ちゃいないさ…。星なんてもんは所詮、方向を示す道標であって、鑑賞するものじゃない…」
「ふーん。そうか…」
そうだよなあ…と改めて思った。
星も満足に見られず、仲間の死にも、たいして感慨も持たず、淡々と出撃して戻って来る。恐らくは、自分の死もそんなふうに客観的に見るんだろう…と思うと、特攻で死んだ山田の遺書が羨ましくもあった。
俺は、もう遺書など書く気にもならない。
このまま戦争が続けば、本土決戦となり、一億総玉砕となるだけだ。
この雷電にも爆弾を括り付け、敵艦に突っ込むのだろう。
いったい、俺の戦いはどこに意味があるんだ…。
島田もきっとそんなことを考えているんだろうと、煙草を出して燻らす島田の横顔には、そんな一抹の寂しさが漂っていた。

八月に入ると、既にあらゆる物資が軍事優先となり、国民の生活が一段と厳しくなった。
小園司令も基地だけでなく、近隣の人々の暮らしも考えるようになっており、基地内にある道具ならなんでも使えと、トラクターでもトラックでも貸し出してやっていた。
これも本来なら規則違反だが、時々、噂を聞いて憲兵隊の将校がやって来るが、
「ばかやろう。俺たちが戦えるのは、国民の支えがあるからじゃないか。国民が困窮しているときに軍が支援するのは当たり前だ。帰れ!」
と凄い剣幕で追い返すので、近隣の人々は大喝采である。
「やーい、ざまあみろ…」
なんて言う小さな声もどこからともなく聞こえてくる。
憲兵たちはむっとした顔をして周囲をキョロキョロするが、菅原副長に、
「ああ、正門はあっちですよ」
と促され、憲兵隊長が「お邪魔しました!」とこちこちの敬礼をするので、菅原副長も口をへの字にして、「ご苦労様でした!」とさらにこちこちの陸式の敬礼を返すので、みんな笑いを堪えるのが大変だった。
それにしても、既に関東地方は東京だけでなく、都市という都市は、ほとんど空襲によって焼き尽くされていた。
もう、街に出ることもないが、上空から眺めるだけでも、人々の苦しさや辛さがわかるくらい、生活は末期状態に陥っていた。
もう以前のように、軍人がその存在だけで尊敬を受けることもなく、無闇に威張ったり、権力を振りかざしたりと、軍人自身の質も低下し軍規も乱れてきていた。
そうなると、軍人に対する怨嗟の声も聞こえるようになり、国民の多くは、長く続く戦争に飽きていたが、政府や軍は、それでも戦争継続と「一億玉砕」を叫ぶのを止めなかった。
しかし、厚木基地では、小園司令の下、空襲時には避難民を受け入れたり、外で煮炊きをして困っている人たちに食事を提供したりしていた。
それも、もちろん軍規違反であったかも知れないが、先ほどの憲兵隊同様、地元の警察や陸軍も、首都防衛を預かる小園司令を咎める勇気を持った役人や軍人はいなかった。
そして、ついに八月六日に新型爆弾が広島に投下されたという話が厚木基地にももたらされた。
小園司令もその報せを聞くと、肩を落とし、
「ついに、そこまでやるか…」
「アメリカは、いよいよ日本を壊滅させる気だ」
と憎悪で身を震わせたが、敵がそこまでやる以上、こちらも徹底抗戦あるのみだった。
八月九日には、長崎に同じ新型爆弾が投下され、それが原子爆弾であることがわかってきた。
やはり広島は、このために残されたんだ…と松山にいたときに疑問に思っていた謎が解けた。
戦後、アメリカの情報公開資料によると、広島は当初から原爆投下の目的地とされていたようだ。
俺も戦後広島を訪れたことがあったが、広島の地形は小さな盆地を形成していた。
宇品港から扇状地で扇のように街が広がっており、その端からすぐに中国山地になる。
街の少し外れに比治山と呼ばれる小高い丘があるだけで、街は、地形的に海と平地、そして山地に囲まれた狭い地域に広がっており、人口密度はたかい。
原爆を積んだB二九は、テニアン島基地を観測機二機を従えて離陸。高度一千五百m~二千mで飛行。
日本には、瀬戸内海を横断して広島へ向かった。
広島湾上空から市街地に侵入すると、元安川沿いに進み相生橋を目標に原爆を投下した。
ここは、まさに投下実験としては最適な場所だったのだ。
原爆は相生橋上空五百m付近で爆発し、広島市全体が人をも溶かす灼熱のドームに包まれた。
遠くで被爆した人の中には、上空に「真っ赤な火球を見た」という証言もあり、その爆風は、これまで人類が味わったことのない未曾有の衝撃だった。
投下後に起こった原爆雲は、大量の放射能物質を含み、「黒い雨」となって生き残った人々の上に降り注いだ。
この時、松山の佐藤は、原爆を積んだB二九に遭遇していたのである。
松山基地に警戒警報が発令されると、佐藤の小隊に出撃命令が出た。
佐藤小隊四名は、直ちに発進し、敵を求めて瀬戸内上空を哨戒したが発見できなかった。
この時B二九「エノラ・ゲイ号」は、高度を取って三機で進入し、偵察任務を装ったために、日本軍も大規模な邀撃体勢を採らなかった。
佐藤機は、敵の姿を求めて広島上空に出たとき、遠くに敵機を発見したが、間もなく見失い松山基地に戻ってきた。
そのとき、原爆投下のニュースを聞いたのだった。
「あれが、原爆搭載機だったのか…」
佐藤は地団駄を踏んで悔しがったそうだ。

同じ頃、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、満州、樺太になだれ込んできた。
満州、中国での守備にあたっていた関東軍は、既にその兵力を対米戦に割いてしまっていたため、組織的な反撃ができずに撤退。
残された残留邦人たちは、ソ連に蹂躙されるままの逃避行が始まった。
もちろん、一部の部隊は死に物狂いでソ連軍に立ち向かったが、アメリカの支援を受けたソ連軍の兵器は強力で、各地で日本軍を撃破した。
死闘むなしく、ソ連軍の捕虜となった兵たちや敗戦後武装解除が行われた部隊は、強制的にシベリアの奥地に送りこまれ、飢えと寒さ、過酷な労働の中で死んでいった。
八月九日には、長崎にも二度目の原子爆弾が投下された。
こうして陸軍の拠点であった広島市、海軍の拠点であった長崎市と、二つの軍事拠点を壊滅させたが、そのために二十万人以上の無辜の民を殺す理由があるのだろうか。
ルーズベルトといいトルーマンといい、アメリカ大統領になるような人間は、よほどの精神力の持ち主か、悪魔に魂を売り渡した化け物なのか、俺たち普通の人間には、理解できない。
もし、アメリカが戦争に負けていれば、この二人は、ナチスドイツのヒットラー以上の極悪人として歴史にその名を刻んだことだろう。
そんな情勢の中で、何となく「終わりが近い」ことだけは予想ができた。
そして、ついに運命の八月十五日を迎えた。

お盆のその日は、やはり真夏らしくギラギラとした太陽が朝から照りつけており、俺たちの小隊も、今日の迎撃に備えて待機していた。
何が苦しいかと言って、この待機の時間ほど苦しいものはない。
真夏だというのに、冬の軍服を着て、毛皮のついた冬用の飛行服を着なければならない。
飛行帽もきつねの毛のついた冬用だ。
これは、俺が少尉に任官した頃、横浜の洋服屋で特注で作った物だった。
何度もの出撃で傷んでいるが、俺が墜落したときも、しっかり被っていたお陰で、けがも最低限で済んだ縁起物の飛行帽だった。
さすがにゴーグルは何回か交換したが、時々、油やきれいな布で手入れをしており、その鹿の革は柔らかく、今では到底手に入らない代物だった。
まあ、そんな状態で待機しているのは、俺たちの戦闘空域が高高度ということが原因だった。
高度一万mともなると、外気温はマイナス五〇度ほどにもなる。とにかく長時間そこにいることはできない。
地上が三〇度でも、そこから気温差八〇度にもなる過酷な戦場である。
それを俺たちは耐え、敵機を待つのだ。
足は冷え、指先も感覚がなくなる。
操縦席は、エンジンの真後ろなので、比較的暖かいが、とにかく、真夏から真冬に飛び込むわけだから、地上での冬支度も想像できるというものだろう。
その日も、朝からそんな風体で発進命令を待っていた。
「敵B二九数機、関東地方に向かってくる」
「雷電隊、零戦隊は、直ちに出動。敵を捕捉、これを撃墜せよ!」
アメリカ軍は既に硫黄島も攻略しており、敵機はB二九だけでなく、アメリカの陸軍機がその護衛につくようになっていた。
零戦では、グラマンF四Fくらいまでは、その性能や搭乗員の技術で圧倒することができたが、F六Fが登場すると、かなり苦戦を強いられるようになった。
その後も、コルセア、サンダーボルト、マスタングなど欧州戦線で活躍した二千馬力級の大型戦闘機が俺たちの前に立ちはだかった。
そして、B二九どころか、その護衛戦闘機群によって、多くの仲間が散っていったのである。

松山の菅野直大尉が、戦死したのも対戦闘機戦だった。
八月一日、九州を襲った敵爆撃機の迎撃に大村空を紫電改で飛び立ち、空戦後部下たちを集める無線を発信した後、消息を絶ったそうだ。
恐らくは、俺たち同様、敵機の高高度からの一撃離脱戦法で、一瞬のうちに被弾、撃墜されたものと思う。
既に空中戦は、一対一の格闘戦ではなく、高速を利用した一撃離脱戦法へと変化していたのである。
そういう俺も、最後の戦闘は菅野大尉と同じ運命にあった。
八月十五日の朝に出撃命令を受けた俺たち雷電小隊は、いつも通り一気に高度を上げると、敵機が来襲するであろう小笠原諸島方面に機首を向けた。
敵機が数機ということもあり、我々は敵の偵察任務と考えていた。
しかし、偵察とは言っても、敵は数機の護衛戦闘機はつけている。
恐らくは、偵察型のB二九一機に、護衛戦闘機四機というのが相場であろう。
すると、伊豆半島沖上空五千mに敵編隊を発見した。
俺は無線で、
「よし、敵機発見!」
「零戦隊が向かった」
「俺たちは、高度を取り、B二九を叩く」
「いくぞ!」
その声に、上田上飛曹と安本二飛曹が素早く反応した。
井上一飛曹は入院中でいなかったが、長いチームの連携は十分にできていた。しかし、今回は、いつもとは違っていた。
高度を八千mに上げたとき、そこには既に敵戦闘機が待ち構えていたのだ。
この高度では、零戦隊は戦えない。
「敵機、左四〇度、向かってくる!」
「散開して応戦せよ!」
もう編隊空戦はできない。
それぞれがそれぞれの技量でここを逃れるしか方法がない。
俺は、こちらに向かってくるマスタングと戦うことになった。
しかし、マスタングは、俺をあざ笑うかのように、俺の後方につくと、振り切ってみろとばかりに攻撃もせずに、ついて来るではないか。
俺が急降下しようとも、左右に揺さぶろうとも、余裕でついてくる。
もうこれは、無駄な戦いだった。
雷電は、迎撃機としては優秀だが、格闘戦はできない。
「もう、だめだ…」
諦めたそのとき、敵機は俺に照準をつけ、その十二・七粍機銃四丁が一気に火を噴いた。
俺の機体にガンガンガン…と衝撃が走る。
もう間もなく俺の機体が火を噴くだろう。
風防にも亀裂が入ったが、まだ、俺自身に弾は当たっていない。
そう思ったとき機体は自然に機首を下げ、降下に入った。
すると、目の前に大きな雲が見え、俺と愛機の雷電は、煙を吐きながら雲の中へと吸い込まれていった…。
「もうダメだ…」
と、はめていた腕時計をちらっと見ると、十一:〇五を指していた。

その日の正午、国民はラジオ放送で天皇陛下のお言葉を聞いた。
戦争が終わったのだ。
俺と行動を共にした上田と安本は、命からがら、高速を生かして逃げのび、厚木基地に辿り着いた。
しかし、上田は無傷だったが、安本は指を吹き飛ばされており、重傷を負っていた。
それでも、安本は「小隊長、小隊長…」と譫言のように俺の安否を気遣ってくれていたと後で聞いた。
厚木には、すぐに終戦は訪れなかった。
小園司令が徹底抗戦を叫んだからである。
小園司令は、連合艦隊司令部と全艦隊に、
「第三〇二航空隊は降伏せず、以後指揮下より離脱する」
と無電で通知したのである。
そして全隊員を集めると、
「日本は神国である。絶対に降伏はない。国体に反するごとき命令には、絶対服さない!」
と訓示を行った。
しかし、小園司令が頼みとする赤松中尉は冷静だった。
「いや、戦争は終わった。陛下のご命令が下された以上、俺はもう戦闘機には乗らない!」
と断固意地を通した。
彼の言動は、雷電隊の隊員たちの動揺を沈め、寺村分隊長とともに、どんな誘いにも乗らず宿舎に籠もった。
それを聞いた小園司令は、烈火の如く怒ったそうだが、落ち着くと、
「赤松ならそうするだろう…」
と、雷電隊に手を出すことはしなかった。
小園司令に同調して動いたのは、零戦隊だった。
零戦隊は、檄文を作成すると、可能な限りの飛行機を使って上空からビラを蒔いた。
若い少尉や中尉クラスは、このままでは終われない…と徹底抗戦を呼びかけたが、それを支持する国民や兵隊はいなかった。
雷電隊の搭乗員が動かないので、雷電の整備兵も搭乗員とともに同じ宿舎に立て籠もり、けっして賛同はしなかった。
厚木航空隊の事件が鎮圧されたのは、終戦後六日後のことだ。
前の晩、小園司令は高熱を発し、人事不省の状態に陥ったからである。
これをチャンスとみた菅原副長は、すぐに、
「司令が倒れた。ただ今より副長が指揮を継承する」
と宣言したことで、隊内に動揺が広がり、事件は沈静化を見せたのだった。
その頃、俺は上田や安本の報告もあり、「戦死」として認定されていた。
厚木の混乱は、俺の機体を捜索できるような状態でもなく、誰もがマスタングに追われて被弾し、煙を吐きながら降下していった…と聞けば、戦死と思うのは当然だった。
しかし、俺の運命はここで死を迎えさせてはくれなかったのだ。
厚木の反乱事件が収束すると、復員が始まった。
赤松中尉は、あっさりと、
「じゃあな、俺はこれで高知に帰るわ…」
そう言って、リュックに荷物を詰めて隊を離れた。
たった一言、上田上飛曹に、
「坂井中尉とお別れができずに残念だった。もう一度、あの剣を教わりたかったのにな…。惜しい男を亡くしたよ…」
そう言って、出て行ったそうだ。
上田は、俺と安本の荷物を整理し、それぞれの郷里に送ってくれていた。
今のうちなら、軍用も使えるだろう…という上田らしい機転だった。
しかし、俺の戦死を家族にどう伝えたもんかと考え、復員前に安本の病院を訪ねると、安本が、
「上田上飛曹、有難うございます。最後まで面倒を見ていただき、感謝いたします」
と頭を下げると、
「もう手のほうも大丈夫ですから、ここで後半月ほど療養し、私も伊勢の郷里に帰ります」
「それで…、実はその前に白河に行ってきます」
上田が、
「ああ、小隊長のところか…?」
と尋ねると、
「はい、小隊長の最後を見たのは、私だけですから、私からご遺族に最後の様子を話したいと思います」
「上田さんには、実家の方に手紙でお知らせします。これが、私の最後の任務だと思ってください」
上田は、
「じゃあ、俺は松本の井上に会ってくるよ。俺の田舎に近いし、もう帰ってそのままだろう。小隊長の戦死の様子も話さんといかんだろうし…。悪いが、安本、小隊長の方は頼んだぞ。それに、その左手、大変だががんばれよ」
そう言うと安本に軽く敬礼をし、郷里に向かったそうだ。
その上田と井上、安本そして小隊長の俺と、別名「稲妻小隊」が再会するのは、その後二十年も過ぎた頃だった。

安本は、約束通り十月初め頃に退院すると、一度、厚木基地に戻り残務整理をした後、俺の郷里に向かった。
その頃は、まだ厚木基地も菅原副長をはじめ主計科の職員が残り、厚木基地が米軍に接収されているので、その引き継ぎやら、隊員の名簿の作成やらで、忙しくしていたようだ。
戻ると、菅原副長が喜んで迎えてくれたので、米軍の医師にももう一度手術した手を診て貰い、後片付けの手伝いをしていたようだ。
安本は、左指は中指二本吹き飛んでなかったが、どうやら親指と人指し指、小指が残ったので、なんとか物を握ることはできるらしい。
安本が、菅原副長に礼を言って白河に向かったのは、十一月に入ってからのことだった。
その頃は、東京もまだ大混乱で、上野に行っても復員兵と買い出しの住民でごった返していた。
手の不自由な安本は、それでも二日目には鈍行列車に飛び乗り、白河に向かってくれた。
家の者の話によると、安本は、木枯らしの吹く昼過ぎ、少々くたびれたカーキ色の上下に軍用リュックを背負い、マークの取れた戦闘帽を被って、家の門前に立っていたということだった。
髭は伸び、左手にはうす汚れた包帯を巻いた手が見えたので、傷痍軍人だと思ったそうだ。
最初は、母親の民が出たが、最近は傷痍軍人が物乞いなどに来るので、その類いと思って、米を三合ほど持たせようとしたが、断るので、よくよく聞いてみると、俺の戦友だったと聞いて、驚いたとのことだった。
早速、安本を労い、親父と復員していた兄を吾作が呼びに行き、畑から戻るのを待って話を聞いたそうだ。
親父は、
「八月十五日の朝ですか…」
と絶句したが、涙も浮かべず、
「それは、それは、有難うございました」
と安本に礼を言い、一晩休んで行くように促すと、安本は、
「それでは、お言葉に甘えて…」
と恐縮しながらも、その晩、みんなの前で俺の話をしたそうだ。
そこには、家族の知らない坂井直の話があり、静かに聞いていた嫁の範子は、生まれたばかりの赤ん坊の咲を抱いて泣き崩れた。
後日、安本からその話を聞いたとき、本当に気の毒なことをした…と今でも思っている。
安本は、翌日の朝早く、「伊勢の田舎に帰る」と告げ、また吾作の馬車に揺られて戻っていった。
家の者たちは、自分の復員より先に、来てくれたことにまた驚き、親父たちは、安本に背負えるだけの米と味噌を持たせると、
「何かあったら、親と思って頼ってくれ」
と、右手を握り見送ったそうだが、安本家とは、その後も長い付き合いをしている。

そろそろ、俺の話をしよう。
あのとき、俺の雷電は、目の前の雲に飛び込んだが、それは意識して操作したわけではなかった。
機体はガタガタと振動し、もう失速寸前だった。
雲から勢いよく飛び出すと、敵機はおらず、機体は背面になっていたので、急いで水平に戻す操作を行った。
体を点検すると、特に痛みは感じなかったが、左足から出血しているのがわかった。床には少し血だまりができている。
傷は、左足首の少し上辺りらしかった。
俺は首に巻いたマフラーを解くと、足の動脈を押さえるようマフラーで足首の上部をきつく縛り、止血を試みた。
機体は、急速に下降し海面が見えたので、一か八か着水しようと考え、機首を少し上げ、風防を開放すると、着水の態勢を整えた。
しかし、雷電は制御が難しい。
速度がついたまま、ザザーッと海にぶつかる波音が聞こえ、数回機体はバウンドを繰り返した。
それを必死に押さえようとしたが、最後のバウンドの際に照準器に額を打ち付け、そのまま意識を失ってしまった。
次に気づいたときは、海の上だった。
既に雷電は沈みかけており、慌ててバンドを外し、機体の外に出た。
すると雷電は、それを待っていたかのように稲妻のペイントを見せて、静かに沈んでいった。
「こいつ、最後まで俺を護ろうとしてくれていたのか…。長い間、ご苦労さん。ありがとな…」
それは自然に口から出た言葉だった。
そして、救命胴衣の浮力を頼りに、一人波の上に漂っていた。
場所は、恐らく伊豆の大島付近だと思われたが、出血もあり、もう長くは持たないだろう…と考えていた。
今は救命胴衣だけで浮いてるが、血の匂いをかぎつけて鱶が寄ってくるのは間違いない。
自決も考えたが、拳銃は使えるかどうかもわからないし、そもそも、出血で体に力が入らない。
諦めて、ぼんやりと空を眺めていたとき、ポンポン…と焼き玉エンジンの音が聞こえてきた。それは、伊豆大島付近で操業している一隻の小さな漁船だった。
男二人がかりで船上に引き上げられ、俺は、自分の官姓名を名乗ったと思ったのだが、そこで気を失ってしまったらしい。
それから次に意識を回復するのが、三日後のことだった。
その頃厚木基地では、あの騒乱が始まっており、俺の戦死認定もされ、その後の混乱では、どうしようもなかったに違いない。
三日三晩眠り続けた俺が、意識を回復したとき、戦争は既に終わっていた。
基地に連絡を取ろうにも、近くに無線や電話もなく、海も時化ており、
「今はどうもならん!」
と、助けてくれた家の若い男に言われ、足の治療と体の休養に当てることになった。
そこは、大島から少し離れた小島で、俺を助けたのが、その家の年取った父親と、眼のやや不自由な息子だった。
息子は、上等兵として中国戦線で戦っていたが、三年前の匪賊の討伐で手榴弾を投げつけられ、その硝煙で眼をやられて除隊したとのことだった。
この小島は、元々この家の持ち物で、代々作兵衛を名乗り、世間とは隔離された生活を送っていた。
俺を治療してくれたのは、この家の嫁と祖母さんだった。
薬などない離れ小島だったが、島の草を煎じて患部に塗ったり、薬草を煎じて俺に飲ませてくれたりと、甲斐甲斐しく面倒を見てくれたお陰で、傷も化膿することもなく、めきめきと回復していくのがわかった。
それに、伊豆沖で採れた新鮮な魚が大きな栄養源になった。
それでもひと月ほどは音信が不通で、なかなか連絡ができずにいた。
すると、息子の方が、
「俺が、明日大島に行くんで、駐在に話してくるわ…」
と、船で出かけたが、戦争が終わって島も混乱している様子で、いくら説明しても、
「今、忙しいから待っててくれ…」
と、あしらわれる始末で、戻って来るなり、
「わかったかどうか怪しい…」
と首を捻るばかりだった。
それで、俺も自分が回復するまでは無理だろうと、治療とリハビリを重ねるために外に出て歩いたり、網や船の修理など、できることは手伝って日を過ごしていた。
やっと傷も回復し、その島を出たのが、既に十一月半ば頃になっていた。
恐らく、安本が俺の家を尋ねて行ったのは、その半月くらい前だったと思う。
完全に体が戻ると、丁寧に礼を言い、俺の寝ていた部屋の鴨居に懸けてあった飛行服の胸ポケットをまさぐってみた。
「あった…」
よかった。俺たちがお守り代わりにしていた革の財布がポケットに入っていた。
財布を取り出してみると、乾いたしわくちゃの一円札が俺が入れておいたまま出てきた。
恐らく、数十円はあったはずだ。
そこから数枚を取り出して嫁に渡した。
財布を飛行服の胸ポケットに入れておくのは、自分の心臓を護る役目をすると考えていたからである。
これは、俺の発案ではなく、航空隊では迷信みたいに伝わっていた。
そして、やっぱりこの財布があったのが幸いだった。
これを教えてくれたのは、赤松中尉である。
これは、赤松中尉が話してくれた逸話である。
赤松中尉が、まだ三等空曹だったとき、大陸で中国軍機と空中戦になった。日本の戦闘機は、零戦の前の九六式艦戦で風防がない。
敵機と正面から撃ち合いとなり、敵の銃弾が赤松空曹を掠めた。
バリバリ…っと機体にも銃弾が当たり、しまったと思ったそうだが、こちらの七・七粍弾が敵の搭乗員に直接命中し敵機は錐揉みで墜ちていったそうだ。
ほっとして機体を見ると、風防に穴が空いている。
そこで自分の体を点検してみると、異常がない。
ふと手元が胸を触った。
すると、左の救命胴衣が裂けているのがわかった。
何か変だぞ…と奥に手を入れると、厚い財布に気がついた。
赤松空曹は、「ああ、財布か…」と思いながら、取り出すと、革の財布がボロボロに裂けているではないか。
しかし、銃弾が当たったのであれば、自分が生きているはずがない。
よく財布を見ると、銃弾の破片が財布の中に残り、熱を持っていたのだった。
そこで赤松空曹は気がついた。
「そうか、敵の銃弾が前面の風防を貫いて、俺の胸に当たったんだ。しかし、財布があったために、そこで止まり、俺は助かったというわけだ…」
それから、赤松空曹は、片時も財布を離さないという撃墜王伝説を聞かされた。
まあ、今時の搭乗員にそんな迷信を信じる者もいないだろうが、操縦の神様が言うのだからと、雷電隊は全員がそうしていたと思う。
寺村分隊長もやっていたから、仕方がないところもあったが、お陰で財布には紙幣を入れておかねばならず、金遣いが荒い兵隊は減ったと聞いたことがある。
その話を聞かせてくれたとき、
「まあ、昔の七粍機銃弾だから、そんな暢気な話もできるが、今のような二〇粍じゃあ、体ごと吹っ飛ばされて、財布なんか関係ねえがな…」
という落ちがついた。
そう言えば、紫電改の菅野大尉も同じ縁起をかついで、革の財布を飛行服の胸ポケットにしまっていたそうだ。
戦死後、菅野大尉の財布は、遺族によって靖国神社に奉納されたはずだ。
俺も、師匠である赤松中尉の言うことを聞いて、率先して実行していた。
そのためには、それ相応の紙幣を入れておく必要があったので、給与が支給されると、なるべく額の大きな紙幣を入れることにした。
その財布は普段は使わず、飛行服に入れっぱなしだった。
それが、こんな時に役立つとは…。
それに、いつどうなるかわからない俺たち搭乗員は、非常用にかなりの金額を所持している者が多かった。
死んでしまったらどうしようもないが、金さえ懐にあれば、気づいた人が、その金で弔いをしてくれるであろう…という期待もあって持っていた金である。
それが今回は功を奏したということだ。
嫁は、あまり見たこともない一円紙幣に驚いた様子だったが、現金収入の少ない漁業の暮らしでは、きっと役に立つことだろう。
嫁は、俺に何度も頭を下げた。
当時の一円は、今の価値で言えば一万円以上の価値はあった。
そういうわけで、大島に出てから厚木航空隊に駐在所から電話を入れて貰ったが、既に復員が済んでおり、留守番の菅原副長が出た。
自分から電話で話をすると、大いに驚き、
「な、なんだ坂井っ、生きておったかあ…」
「しかし、おまえ、戦死になっとるぞ!」
「生きとるなら、早く戻ってこい。戦死の取り消しは、こっちでやっとくから…」
「それに、みんな復員してしまったが、まだ残務整理で何人かの隊員が残っとる。そう言えば、安本が退院してしばらくここにいたんだが、この間復員していったわ…」
「いやあ、それにしても驚いたな…。何とか頼んで、早く戻ってこい!」
そうか、安本はあのときの空戦でけがを負ったのか。しかし、無事でよかった。
上田の話が出ないということは、奴は無事だったんだな…。
そう思うことにした。
そんなことで、駐在にわけを話し、翌朝には、また助けてくれた息子が船を出してくれた。
「いやあ、嫁にたくさん貰って、こっちこそ申し訳ねえな…。しかし、あんたもこれからが大変だ。何かあてはあるのかい?」
と聞かれたが、どう話してよいやら、思案していると少し沈黙が流れた。
「しかしよう、戦争は終わったんだ。命が助かったんだから、がんばんねえとな…」
そう言って、息子は機嫌良く俺を下田の港まで送ってくれたのだった。

厚木のごたごたを聞いたのは、厚木基地に戻り、菅原副長に帰着の報告をした時だった。
「まあまあ、とにかく無事でよかった…」
と笑顔で俺を迎え、元の司令室で茶を勧められたときだった。
菅原副長も、軍人の肩書きも取れて、
「まあ、こういう体制を維持しているのも、時々占領軍の士官が来て、厚木の戦略を聞かせろとうるさいんからなんだ…」
「本当は、小園司令の仕事なんだが、司令は終戦の時の騒動の責任者で、今は、収監されている。どうも、軍法会議にかけられるらしい」
「俺は、その後の鎮圧の指揮を執ったが、あれは司令が間違っている。零戦隊の連中は騒いだが、おまえの雷電隊は一糸乱れず、静謐を保っていた。さすが、赤松と寺村だ」
「おまえが、そこにいても同じ行動を取ったと思うよ」
そう言って自嘲気味に笑った。
その後は、これからのことを聞いたり、復員の手続きをしたりと、慌ただしかったが、白河の家に手紙を書いたのは、その日の夜になっていた。
俺のいた第二士官室は、荷物倉庫になっていたので、本部の部屋を使わせて貰い、復員するための荷物を兵隊用のリュックに詰めていると、副長が入ってきた。
「おい、坂井君。こんなものでも持って行き給え。ここの物資もあらかた復員する兵と、世話になった住民に配ったから、何にもないだろう。しかし、君の荷物は、上田君が一人で荷造りしていたから、きっと今頃田舎に着いてるはずだよ…」
そう言って、大きな紙袋を渡してくれた。
中には、アメリカ製のハムやら缶詰やら、煙草などが入っていた。
「え、いいんですか?副長の分は?」
「ふん、別にいいのさ…。アメリカ兵たちが勝手に置いていくんだ。さっきも言ったろ。奴らは、厚木との戦いが恐くて仕方がなかったんだ。それで、教えろ、教えろってしつこく言うから、礼を持ってこいって言ったら、余るほど持ってくるんだ」
「どうせ、アメリカからの戦利品だ。気にせず、持ってってくれ。だけどな、面白いことをひとつ気がついた。それはな、あんなに酷い戦争をやったくせに、俺には敬語を遣うんだ。最初は嫌味か…と思ったが、そうでもない」
「奴ら航空兵は、俺たちとおんなじなんだ。厚木航空隊は、凄い。凄く恐ろしかった。凄く強かった。仲間も多く死んだ。でも、正々堂々と戦えたことは誇りだ。サンキューって握手やサインまで求めるんだ」
「変な奴らだぜ…」
そう言うと、副長はひとつため息を吐いた。
「しかし、それも今となっては、強者どもが夢の跡…だな」
と、自嘲気味に笑った。
この後、菅原副長は、半年ほどかけて残務整理を終え、アメリカ軍に撤収された厚木基地を、最後に一人で去って行った。
最後まで、副長としての任務を全うした立派な軍人であった。
翌朝、俺は、菅原副長や残務整理をしていた隊員たちに礼を述べて、厚木駅に向かって歩いた。
大きなリュックを背負い、あの日来ていた階級章のない飛行服のままの復員である。
飛行服を置いていこうとしたら、残務整理の下士官が、
「今、日本は極端な物不足です。着れる物は何でも持って行ったらいいですよ…。これから寒くなります。冬用の飛行服こそ、大事ですよ」
そう言うのでそこらにあった服もリュックに詰め込んで来たが、田舎に帰ってみたら、本当にその通りだと実感した。
厚木駅への道は、何度も通い慣れた道ではあったが、昭和十八年の入隊以来、濃密な時間を過ごした二年間だった。
それにしても、山田や仲間たちの死は何だったんだろうか。
多くの仲間だけじゃない。
日本人が欲した戦争でもないのに、なぜ、あれほど多くの日本人が死なねばならなかったのか、考えても何もわからなかった。
そして、この戦争で、世界中ではどのくらいの人が死んだんだろう。
ほんの一部の人間の利害だけで戦争が起き、関係のない人々が理不尽に殺されていく。
正義だ正義だと騒ぐが、今朝、新聞を見たら、数ヶ月までとは真逆な記事を載せている。
鹿屋で聞いた田村分隊長の怒りの理由がわかるというものだ。
そんなことも道々考えたが、それより生きている幸せを考えようと頭を切り換えた。
もう兵隊ごっこも終わりだ。
「田舎に帰ったら、土を耕して暮らそうかな…。範子や赤ん坊も待ってるだろうなあ…」
俺は生まれたばかりの子供の顔も知らなかったが、女の子のような気がしていた。
どちらにしても、以前手紙で名前については書き送っていたので、女の子だったら「咲」だろう。
残念ながら、男の子の名前は思い出せない。
でも、もう命のやり取りをしないでいいのか…と思うだけで気持ちが楽になった。
空を見上げると二人の顔が、秋空にぽっかりと浮かんでは消えた。
十一月の空は、高くそしてどこまでも青かった。
そして、俺が飛行機の操縦桿を握る日は、二度と訪れることはなかった。

最終章

「すみません、安本さん。父が危篤なんです」
安本が坂井の娘の咲からの電話を受け取ったのは、お盆前の暑い昼下がりだった。
長年勤めた農協の仕事を終えた安本は、自分の家の畑を耕しては、道の駅に新鮮な野菜を卸していた。
「えっ、小隊長が…?」
「はい、そうですか、わかりました。私もすぐにそちらに向かいます」
そう言って、安本は伊勢の家から自分の車で白河に向かって走り出した。
その頃俺は、深い眠りの意識の奥で、安本のことを考えていた。
「あいつは、操縦が下手だったからなあ…」
「あいつは、俺の飛行機に突っ込んで来たんだっけ…」
「あいつ、どうしてるかな…」
それはとりとめもない、安本との思い出だった。
そう言えば、安本は、いつまでも俺のことを小隊長と呼ぶので、俺もちょっと困って、
「ねえ、安本君。もう、その小隊長はやめにしませんか…」
とお願いするのだが、安本は、
「いや、それはダメです。私が死ぬまで、そう呼ばしてください」
と懇願するので、渋々承知したものの、そう言われるたびに、周りの人間は、クスクスと笑うか、
「あら、元自衛隊ですか?」
なんて聞かれるもんだから、恥ずかしいやら、困ったやらで、まあ、仕方がない…と言う諦めの心境にもなっていた。
信州に帰っていた上田は、先年、肺を患い俺より先に他界していた。
年は、二つほど上の搭乗員だったので、これも仕方がないが、上田は、戦後航空自衛隊に入り、三等陸佐で退官した。
しばらくは、民間飛行機会社で測量調査に関わっていたが、それも十年ほどで辞め、今は孫たちに囲まれ悠々自適な生活を送っていた。
それでも、飛行機から離れられないらしく、時々は、会社所有のセスナ機を操縦し、昔を懐かしんでいたらしい。
前に電話で話をしたとき、飛行時間も五千時間は超えたと自慢げに話していた。
奴も赤松中尉に憧れた搭乗員だったので、その赤松さんが目標だったのだろう。
終戦前に足に大けがを負って除隊した井上は、松本の実家に帰り、今では鯉の養殖で成功したと聞いていた。
松本の家は、代々農家だったが、先代の頃から食用鯉の養殖を手がけ、戦後は栄養不足もあって、食用の鯉は飛ぶように売れたそうだ。
足が不自由になった井上だったが、戦後も鯉の養殖で家族を養っていた。
厚木の戦友会にも時折顔を出し、
「小隊長、家で作った鯉の甘露煮です。土産に持ってきました」
と言って、新発売の商品を土産にくれたりしたものだ。
しかし、その井上も五十半ばで癌で死んだ。
井上の部屋の壁には、恐らく自分で描いたであろう「蒼空の雷電」とタイトルをつけた四機編隊の油絵が懸けられてあった。
井上の通夜の日、集まった三人でその部屋に泊めてもらい、
「おい、井上って、あんなに絵が上手かったっけ…」
と俺が聞くと、上田が、
「はい、あいつは元々絵を描くのが趣味で、厚木に来てからも、暇があれば、よく風景画を描いていましたよ」
「私が、よっ、井上画伯…って茶化すと、止めてくださいよ…、と言いながらも嬉しそうでした。でも、井上の絵に戦闘機はなかったですね。いつも花や樹木、風景などで、戦争を感じさせるような絵は見たことなかったです…」
と、不思議そうにその四機編隊の絵を眺めていた。
この絵は、きっと戦後描いたものだろう。
鯉の養殖も軌道に乗り、ほっとした頃、懐かしくなって描いたのではないだろうか。
しかし、俺たちと会っても、けっしてこの絵のことは言わなかった。
それが途中で抜けることになってしまった井上の負い目だったのかも知れない。
俺は、
「井上、心配するな。おまえは、稲妻小隊のれっきとした稲妻三番じゃないか…。また、いつか編隊を組もうな…」
そう言ってやりたかった。
ところで、赤松さんと言えば、地元の高知に戻り、仲間とともに軽飛行機を購入し、漁業組合の仕事をしていたそうだ。
やはり酒を飲み、体を鍛え、「酔っていても操縦は間違いがない」という評判だったが、酒が災いしたのか、戦後三十年ほどして亡くなっている。
しかし、「撃墜三五〇機」は、誰がなんと言おうと譲らず、彼の書いた「日本撃墜王」は、戦記ブームの魁となった。
本当に最後まで豪快に生きた人だった。
俺と連絡を取り合うことはなかったが、戦後何年かして厚木航空隊の戦友会が横浜で開かれた時にお会いした。
そのとき、
「坂井中尉、生きてたんですか!」
と驚かれ、俺に急に抱きついて来られたのには、まいった。
それでも、「よかった、よかった…」と流してくれた涙は、本当に嬉しかった。
小園司令とは、その後会うことはなかった。
久しぶりに厚木の戦友会で会った菅原副長によると、やっと軍人恩給が遺族におりるようになった…と名誉回復を喜んでいた。
あの夜戦隊の島田は、俺たちに豪語していたとおり、市議会議員や県議会議員を何期も務め、町の名士になっていた。
あの初恋の女学生は、残念なことに島田が復員したとき、既に亡くなっていた。
勤労動員で派遣されていた軍需工場が爆撃を受け、死んだそうだ。
島田は、その後見合いで今の奥さんと結婚し、教師にはならずに、家業の製鉄所を切り盛りしながら、政治活動を行っていた。
最後に会ったのは、五年ほど前の厚木空の戦友会だった。
寄る年波には勝てないと見え、
「おい、坂井。俺もそろそろだめだよ…」
とぼやくので、
「何言ってやがる…」
と、励ましたが、その翌年、癌が再発して亡くなった。
同期の死亡を聞くと、そろそろ俺も幕を降ろす時が来たかな…と思う。
おっと、慌て者の佐藤は、最後まで生き残り源田司令に戦後もくっついていたそうだが、司令から「解散命令」が出ると、東京に戻ってきた。
しかし、下町にあった佐藤の実家は、三月十日の空襲で焼かれ、家族全員を亡くしていた。
その後、伝手を頼り、地元の建築会社に勤めると、あの図々しさと馬力で会社を大きくして、そこの社長にまで上り詰めた。
俺が生きていたことを知ると、白河まで訪ねてきて近くの甲子温泉で祝杯をあげた。
その後、新しい家族を作り頑張っていたが、六十を前に、工事現場で事故に遭い亡くなった。
これも佐藤らしいのかも知れない。
葬式にも出たが、息子がしっかり跡を継いでおり、祭壇には、紫電改をバックにした佐藤の写真が遺影として飾られていた。
それが生前からの遺言だったそうだ。
あの瞬間を生きたことが、奴の誇りだったのだろう。
それがあったればこそ、家族全員を亡くした悲しみにも負けず、生きる決意をしたのだろうと思うと、「佐藤、よく頑張ったな…」と手を合わせながら言ってやった。

ところで、孫の幸に戦争の話をする約束だったが、どうも時間がなさそうだ。この原稿を読んでくれれば、俺の戦争はわかると思う。
それに、もう思い残すことも何もない。
しかし、今でもあの日の仙台に向かう汽車の中で出会った美しい女性のことが気になって仕方がなかった。
もう調べようもないが、きっと三月十日の空襲で亡くなったんだろう。
せめて、名前だけでも聞いておくんだったな…と後悔した。
まあ、そんな未練もあと少しだ。
俺の棺には、きっとあのとき持ち帰った俺の飛行帽を入れてくれると思う。
親父が出征の時に、軍刀に拵えた会津兼定は、もう一度あの蔵の奥に仕舞っておいた。
それじゃあ、みんなありがとう。
さよならだ…。

 安本が家に着いたときには、坂井直は、既に息を引き取っていた。
枕元には、「厚木航空隊始末記」と書かれた書籍と、「蒼空の雷電」と書かれた数百枚の原稿用紙が置かれていた。
原稿用紙は、直が死んだ直後、孫の幸が、パソコンに触れた瞬間、再起動して画面に書きかけの原稿を見つけたと言っていた。
きっと、直が幸に残していったんだろう…と家族で話し合ったそうだ。
孫の幸が安本に近づき、耳元でそっと囁いた。
「ねえ、安本のお祖父さん。家のお祖父ちゃんは、どんな人だったの…?。私、この夏休みに戦争の話を聞くはずだったのに…」
すると安本は、その一冊の本と書きかけの原稿用紙を取り上げ、
「幸ちゃん。もう少し大きくなれば、この本を読むときが来るよ。そうすれば、小隊長…、いや直お祖父ちゃんの戦争のことや、その時の気持ちがわかるはずだよ」
と頭を撫でた。
幸は、「うん…」と言葉を詰まらせて頷くと、下を向いてしまった。幸の眼には涙が浮かび、小さな声で呟いた。
「お祖父ちゃんのばか…。もっとお祖父ちゃんと話がしたかったのに…」
そっとハンカチで眼を拭う幸の仕草が、改めて安本の涙を誘うのだった。
通夜、葬儀が滞りなく終わり、火葬も無事に済んだ。
骨を拾う安本は、その太くて大きい骨に驚くと共に、木刀を振っていた若い小隊長を思い出していた。
「小隊長…、上田さん、井上さん、本当に有難うございました。私ももうすぐそちらに参ります。また、一緒に編隊を組んでくださいね…」
青く澄んだ夏空には、ジージーと鳴くアブラゼミの鳴き声が響き、安本はハンカチで汗を拭った。
すると、遠くでゴロゴロ…という雷鳴が聞こえ始めた。
そして、一筋の稲妻がピシャッと光った。
「こりゃあ、ひと雨来るかな?」
と、空を見上げたとき、
側にいた幸が、遠くを指さした。
「あ、あれ、お祖父ちゃんよ…ほら、あれ!」
ふと、空を見上げると、安本の耳に、懐かしい飛行機の爆音が遠くから聞こえてきた。
「あ、雷電だ。雷電だ…!」
安本は、独り言のように呟いた。
そう、高く聳えた火葬場の煙突の遙か彼方に、稲妻小隊の三機が爆音を残して急上昇していくのが確かに見えたのだ。
それは、幸以外の大人には、ただの雷だったのだろう。
しかし、安本には、雷電が敵を求めて急上昇していく、あの日の稲妻小隊の爆音だった。
「小隊長…。みんな…」
安本の目尻から一気に涙が溢れ出した。
その時、安本が何気なく腕時計を見ると、それはちょうど十一時〇五分を指していた。
六十三年前の八月十五日、十一時〇五分に気づく者は、雷電とともに空の彼方に消えていった坂井直本人を除いては、だれもいなかった。

 

 

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