「大石内蔵助」の真実 -忠臣蔵外伝-
矢吹直彦
序章 忠臣蔵序曲
忠臣蔵とは、江戸時代前期の元禄15年に起きた「仇討ち事件」をモチーフに、浄瑠璃、歌舞伎等が芝居にした際につけた「タイトル」です。「忠」は武士道の「忠義」、「臣」は殿様に仕える「家臣」、「蔵」はお話という意味もありますが、この場合は、主役を演じた「大石内蔵助」にあやかったものでしょう。しかし、「赤穂仇討ち始末」などとせずに「忠臣蔵」としたところは、なかなか劇作家の皆さんも、素晴らしいセンスの持ち主だということがわかります。そもそも事の発端は、一年半前の元禄13年3月14日にありました。
まず「元禄期」といえば、江戸開闢以来100年が過ぎ、平和という言葉がぴったりと当てはまる時代でもありました。戦乱の世に生きていた人たちも既に鬼籍に入り、戦後生まれの人たちが政を行っていたのです。「元禄太平の世」と呼ばれるように、庶民による元禄文化が花開き、江戸の町も平穏な日々が過ぎていました。難点があるといえば、時の将軍、徳川綱吉公の出された「生類憐れみの令」くらいのもので、「お犬様」を大事にせよ…とのお達しが、街角の高札に掲げられ、「何のことか?」と首を捻るくらいのものでした。
武士も経済官僚が幅をきかし、武辺一辺倒の侍は、戦場働きもできず、鬱々と過ごすしかなかったのです。それでも近年、「高田馬場」おいて仇討ち事件があり、中山安兵衛という浪人者のことが、ちょっと町の話題になっていました。それが、年が明けた3月、とんでもない事件が江戸城内で起きたのです。もちろん、一般庶民の耳に届くまでには時間がかかりましたが、暇を持て余す江戸っ子には刺激的な事件で、芝居でも見るように心を躍らせてことの成り行きを見守っていたのです。
それは、3月14日の昼少し前の出来事でした。場所は、江戸城は、松の大廊下で起こりました。何と、この日は朝廷から天皇の勅使が将軍に謁見する当日でもあったのです。将軍綱吉は、母親の桂昌院に対する愛情が深く、母を喜ばせようと、朝廷に「従一位」の官位を母に下賜されるよう、お願いをしていたのです。将軍家の権威を笠に着た無理な願いとも言えますが、朝廷にしてみても、将軍家に恩を売れば、公家たちの暮らし向きも少しはよくなるという胸算用がありました。綱吉の祖父にあたる徳川家康は、朝廷や公家に対しても厳しい禁令を敷き、実質5万石程度の領地しか与えていませんでした。徳川家は400万石、朝廷は5万石です。建前上、将軍家は、天皇の家臣ということになりますが、実際の政権が徳川幕府にある以上、朝廷も従わざるを得ないのです。昔のように幕府に抵抗しようものなら、間違いなく「島流し」の憂き目を見ることになります。それなら、将軍が欲しいという官位があるのなら、くれてやれば良いのです。しかし、簡単に下賜しては、面白くありません。そこで、色々と難しい課題を幕府に要求し、最後に「そこまで、申すのであれば…」と桂昌院に官位を授けるという筋書きです。幕府もわかってはいるのですが、どうせ時間もありますので、朝廷のやりたいようにやらせながら、不満のガス抜きをしていたのです。それに朝廷の「有職故実」という面倒臭い作法や儀式は、武士には馴染みません。この日は、江戸城内で昔ながらの伝統に基づき、勅使一行を迎える大事な日でもありました。
その日は、朝からどんよりとした曇り空で、いつ雨が降ってくるかもわからない天候でした。春先とはいえ、まだまだ寒く、低気圧のせいか気持ちも落ち込むような、とにかく気持ちが塞ぎがちなのです。
大名たちは、総登城を命じられ、それぞれが早朝から供の者を従えて、控えの間に入るやいなや、慌ただしく武士の正装である烏帽子に直垂、長袴の装束に着替えるのに大騒ぎをしていました。その中で、一人ぶつぶつと何かを呟いている若い大名がいました。それが、忠臣蔵前半の主役、浅野内匠頭長矩です。長矩は、播磨国赤穂浅野家五万三千石の城主でした。赤穂浅野家は、広島浅野家の支藩で、「赤穂の塩」と呼ばれる良質な塩田を持っていました。石高の割に富裕藩として知られ、今度の勅使下向に際して「勅使饗応役」を命じられていたのです。要するに接待役です。これには、もう一人、伊予吉田藩の伊達左京亮も饗応役でしたが、左京亮は若く、初々しい少年藩主でした。それに、長矩は、既に20年ほど前にも饗応役を仰せつけられており、さすがに二度目の饗応役は気が重く、乗り気ではなかったのです。それに長矩には「痞え」という精神系の病を発症しており、あまりストレスに強い体質ではありませんでした。
勅使饗応役ともなると、自腹で用意するものが多く、幕府は「質素にせよ」と命じますが、本当に質素にすれば、老中あたりから「不調法」と叱られるのがおちです。そうなると、費用も嵩み、これも頭痛の種でした。しかし、大名家には、幕府から「お手伝い」と称する公共事業などが命じられることが多く、「金銭で済むのなら、まだ安い物だ」という考え方もありました。お手伝いには、街道の整備や河川の修復、海岸防備など多岐にわたっており、どの大名家でも出費は嵩み、常に不満を抱えていました。
長矩たちを指南するのは、高家筆頭(肝煎り)の吉良上野介義央です。既に60は超える年寄りですが、長年の高家職を務めるだけのことはあって、年中、京と江戸の往復を重ねていました。「高家」とは、朝廷の作法や儀式に通じており、いわゆる「有職故実」を学んだ武士を言いました。この礼儀や作法を知らないと、「不調法者」と辱めを受けることになります。朝廷の公家たちにしてみれば、自分たちよりずっと官位の低い武家が、10万石やら50万石を貰っていることが悔しく、時々、意地悪なことをして鬱憤を晴らすところがあったのです。そのため、公家には「賄賂」が付きもので、公家にご挨拶に伺うときには、それ相当の「金子」を忍ばせておくことが礼儀でした。
有力藩では、京にも藩邸を持ち、朝廷の情報を常に把握するとともに、有力公家と縁戚関係になる大名家もありました。こうしておけば、こっそりと情報が戴けるという寸法です。
その頃、吉良義央は、桂昌院の叙位の為に、大忙しの毎日でした。そのために長矩たち饗応役への指図が滞ったこともあったのです。それでも、吉良以外の高家職もおり、基本的なことは、特に「例年どおり」なのです。
長矩も20年前の記録をめくり、もう一度復習したり、親戚藩の三好浅野家に尋ねたりと勉強には余念がありませんでした。そして、3月14日は、饗応役の最終日なのです。
長矩は、前日の夜から緊張のために寝付けず、妻の阿久里に体をさすって貰ったり、手を握って貰ったりして心を休めていました。しかし、翌日は、絶対に失敗できない儀式があります。ただでさえ、ストレスを溜め込みやすい性格の長矩は、薬を飲んで眠ったのですが、それは、既に明け方近くになっていました。この日に限っては、朝から胃がきりきりと痛みます。朝粥を一口食べただけで、江戸城に向かい、段取りを進めていました。
側には、江戸詰めの家臣たちがてきぱきと仕事を進めています。もう殿様がやることは、ほとんど無くなっていたのです。それでも長矩は、勅使が将軍家との謁見を終え、帰る際の段取りを確認したいと考えていました。普通なら、そんなものは、適当に済ませても、そんなに目立つことではありません。饗応役は、吉良義央に付いて、後ろに控えて見送ればいいのです。そんなことは、平常時なら、何の問題にもならなかったでしょう。しかし、その日の長矩は、一度気になり出すと、心配でなりません。家臣に聞いても「大丈夫でございます」しか言いません。それはそうでしょう。そこまで終われば、何の問題も無いことは、家臣たちですらよくわかっていたのですから…。
勅使一行が白書院での将軍綱吉との謁見も終わり、宿舎に戻る刻限となってきました。江戸城内の松の大廊下の隅で控えていた長矩が、吉良義央が遠くに見えると、急いで歩き出すのが見えました。すると、義央は、その前に一人の旗本と何やら話し出したのです。長矩は、立っているわけにもいかず、側に控えることになりました。しかし、旗本と義央の話は思ったより長く、長矩のいらいらは極限状態になろうとしていました。側に家臣はいません。長矩が素早く動いてしまったために、家臣は側についていなかったのです。顔面は蒼白となり、袴を強く握る手に力が入り、そのうちぶるぶると手が震え出しました。
長矩は、自分の癇癪が爆発するのを堪えに堪えていましたが、もう頭も真っ白になり、思考が停止しました。すると、そのときです。静寂の城内に雄叫びがこだましたのです。「おのれ、吉良!この間の遺恨覚えたか!」そう言うや否や、腰に差してあった儀式用の「小さ刀」を抜くと、目の前の義央に向かって刀を振り下ろしたのです。しかし、長袴を履いていたのでは、足下がおぼつきません。上半身だけが前のめりになって義央の背中に一太刀と、振り返ったときに額に一太刀を浴びせましたが、長矩の爆発は、そこまででした。
こうなると、松の大廊下は大騒ぎです。狂乱した長矩を止めんと、今し方吉良と話をしていた旗本の梶川与惣兵衛が長矩を後ろから羽交い締めにして取り押さえました。
「浅野様、お静まり下されい!。城中にござるぞ!」と、必死に押さえつけると、長矩は、ふっと正気に返りました。正気に戻ると、今、自分のしたことが朧気に思い出すことができました。「しまった!何ということをしてしまったのか…」もう、長矩に抵抗する力は残されていませんでした。
吉良上野介は、わけもわからず浅野に斬り付けられ、気が動転してしまいました。這々の体で控えの間に連れて行かれると、何が起こったのやら、想像もつきません。取り調べが行われましたが、吉良にしてみれば、長矩が「乱心」したとしか思えなかったのです。長矩には、きっと吉良に対する不満があり、「この間の遺恨…」と叫んだのでしょうが、多忙を極めていた義央に、中年に差し掛かった浅野長矩をそこまで面倒を見る理由もなかったのです。
結局は、吉良上野介は「お構いなし」。浅野内匠頭は、即日切腹となりました。これは、勅使饗応という大事な役目を忘れて刃傷沙汰に及んだ不始末に対する処分でした。この処分は、将軍綱吉が直接老中に厳命したと伝えられています。綱吉にしてみれば、桂昌院の叙位が決まる大切な日を血で汚されたわけですから、怒り心頭になっても仕方のないことでした。
しかし、一関城主田村右京太夫の邸で「即日切腹」になったことが、後々問題になったのです。
まず、この処罰は正式な手続きを踏んでいませんでした。江戸時代中期に入ると法整備が進み、日本は完全な「法治国家」になっていたのです。それは、「法こそが秩序」という徳川家康の祖法でもありました。それを将軍自らが侵してしまったのです。本来であれば、大名なので大目付の取り調べを受け、評定所で吟味して処罰が決まります。つまり、「即日切腹」などという乱暴な処分はあり得ないと言うことです。これは、将軍綱吉が側用人柳沢吉保に命じて、有無も言わせず行わせたものでした。
「刃傷!」の知らせを聞いた浅野家の家臣たちも一様に驚き、この裁きに強い不満を持ったのです。もし、これが正当な裁きの上に切腹となれば、後の赤穂事件は起こらず、忠臣蔵の物語もできなかったということになります。
次に、「庭先での切腹」事件です。
田村右京太夫邸では、幕府より即日切腹の知らせが入り、大慌てになりました。そのとき、大目付の庄田下総守は、自分の判断で「庭先での切腹」を命じてしまいました。これに対して、目付の多門伝八郎は、「五万石の城主を庭先での切腹とは、これ如何?」と庄田に問いましたが、大目付の権限でそのまま庭先での切腹となりました。
これも、浅野長矩には、「内匠頭」という官位がありますので、室内に切腹する場を設けて行わせるのが定めでした。しかし、切腹の場は穢れているということで、取り壊されるのが正式なのです。これでは、田村家にかなりの負担をかけることになります。そこで、庄田は、「庭先で良い」という判断をしたのでしょう。そこに噛み付かれたものだから、庄田が意地を張った…というのが正しい読み取りです。そして、その意地ついでに、浅野家家臣の最後の面会も許さず、長矩は、一人空しく腹を切ることになりました。
これに怒ったのが、またもや、庄田の部下の多門伝八郎です。
多門は、「これでは、ご定法とは違う!」と猛烈な抗議をしました。また、庄田に対して、「武士の情けも知らぬのか!」と立腹し、老中にことの次第を訴えたのです。
無理を押して庭先で切腹させた庄田でしたが、後に、この判断の誤りを指摘され、大目付の職を解かれて生涯役職には就けませんでした。小役人が、権力を笠に着て失敗した典型的な例です。
浅野長矩の遺体は、早々に赤穂の家臣に下げ渡され、菩提寺である高輪の泉岳寺に葬られました。雨の中、数人の家臣が棺を抱え、静かに泉岳寺に向かったと言います。朝元気に登城した殿様が、夜には腹を切り、人知れずに埋葬される屈辱を家臣たちは忘れることはありませんでした。
しかし、この「ご定法を侵す」という行為に対して、それが将軍家といえども、批判の対象になったことを考えると、江戸時代の前期には、日本は、しっかりと「法」が優先される社会になっていたということです。今でも法より「人」という国が存在していることを考えれば、法治国家として完全に機能した社会を作った徳川幕府という存在を改めて評価しなければならないと思います。
ビジネス講座 1 浅野内匠頭の失敗
(1)人の話を聞かない傲慢な若殿様
長矩は、生まれながらの若様にありがちな、我が儘で傲慢な性格が災いの素となりました。とにかく、人の忠告に耳を傾けようとはしません。譜代の家臣や年寄りが意見をしても、すぐに癇癪を起こして遠ざけてしまいました。大石内蔵助もその一人です。たとえば、「先代様は、こうされ申した…」と言えば、「先代は先代じゃ!」と教訓めいた話は、「古くさい。昔話ばかりでつまらぬ!」と侮る性分があったのです。そのため、取り巻きは、赤穂でも江戸でも、自分の言うがままに動く家臣たちだけになってしまいました。殿様となった以上、多くの声に耳を傾けなければ、立派な大将にはなれません。そのために、江戸で、自分より位の高い吉良上野介から指導されるのが、たまらなく嫌だったのです。「今日もお小言、明日もお小言…」と思い、素直さの欠片もありません。だから、大事なときに気持ちが萎縮し、癇癪を起こしてしまったのです。
江戸時代の記録を見ても、内匠頭の評価は「中の下」がいいところでした。プライドばかりが高く、譜代家臣たちを怒らせることも度々あったようです。妻の阿久里は、それでも我慢して仕えていたのでしょう。夫に対する悪口は、残されていません。奥を守る正室としての誇りが、彼女の支えでした。
刃傷の一報を受け取ると、すぐに「殿は、如何した?」と側近の者に尋ね、「吉良は討ち取ったのか?」と積極的に行動を取り始めました。まして、改易ともなれば、すぐにでも鉄砲州の邸は、幕府に返上しなければなりません。その指揮も執らざる得ません。表は、江戸家老が仕切るにしても奥は、正室の指示がなければ、何も動けないのです。それに、表では、赤穂への早馬や早籠の手配、親類への報告など公に行うことは山ほどありました。
田村右京太夫邸にいる長矩は、すべてを失って呆然と切腹の時を待っていました。この間に、何を考えていたのでしょうか。長矩の辞世の句が残されています。
「風さそう 春よりもなお 我はまた 春の名残を如何にとかせん」
と言うものです。何となく寂しさを感じる辞世ですが、これでは、意味がわかりません。田村邸での取り調べでも、「吉良に遺恨があった。乱心ではない」と主張したそうですが、今になって思えば、「乱心」では、長矩のプライドが許せなかったのでしょう。「遺恨」は、「ちゃんと教えて貰えなかった恨み」と解釈もできそうです。赤穂で、長矩の刃傷の報を聞いた内蔵助は、特に慌てるふうもなく、難しい顔をして「そうか…」と、呟いたそうです。きっと、内蔵助には、この日が来ることを予見していたのでしょう。
我が儘で、プライドばかりが高く、傲慢な人間は、「いつでもだれかが自分を助けるものだ」と思い込みがちです。子供にも、母親が何でもやってくれる家の子は、意外と「長矩型」になります。先生だけでなく、友達にも頼り、「やってくれない!」と怒り、手を出す、足を出して喧嘩になるのと同じです。きっと、精神的には幼く、8歳程度の精神年齢の持ち主だったと言っては、失礼でしょうか。
人間は、上に立つ者ほど、心の修養が大切なのです。心の修養のないまま、内匠頭のように運命だけで人の上に立つと、下々の気持ちがわからず、自己中心的に行動し、人の忠告を受け付けなくなります。仕事でも、一回は運のみで成功するかも知れませんが、運に二度目はありません。心の修養を心がけている人間は、失敗を繰り返したとしても、他人を恨まず、自分の努力が足りないと弁え、努力し続ける根気強さがあります。そういう人間だけが、成功者として世に出ていくのだろうと思います。
(2)倹約家ではない「けち」侍
長矩は、よく「無駄をするな!」と家臣たちに小言を言っていたそうです。自分は小言を言われるのが大嫌いなのに、家臣には、結構ねちねちと小言を言う性格でした。幕府老中から、「万事、質素でな…」と言われたことを盾にして、勅使饗応の予算まで削ろうとしていたのです。当然、吉良への謝礼も「後で良い」と突っぱねていました。常識で考えれば、挨拶を兼ねて吉良邸に使者を送り、「大判一枚」程度は、贈るべきなのです。この頃の「大判」は、10両程度の価値があり、「大判一枚」は、大名家同士の謝礼としては、特に多いということはありませんでした。それすらも出し惜しんだ挙げ句、上野介の指導に難癖をつける不良大名が浅野長矩という人物だったのです。
伊達家では、早々に江戸家老が吉良邸に挨拶に出向き、相応の謝礼を用意して伺っているのに、浅野家では、「伊達家は早々に訪問された」と聞くと、慌てて、もたもたと挨拶に出かけ、本当に「鰹節」や「木綿の反物」を持って行ったようです。そもそも、高家は、わずか4000石程度の旗本です。官位は高くても、収入は少ないものです。しかし、その立場上、服装にしても交際費にしても、役料だけで賄えるものではありません。そこで、「謝礼」が必要だったことくらい、わかりそうなものですが、意固地な長矩は、そんな忠告すら聞く耳を持たないのです。
長矩は、自分は何もできず、上野介の指図のまま動くしかないのに、「赤穂5万石の城主である」と気取っているので、吉良からも嫌われていたのです。だから、内蔵助が400両を江戸家老に手紙まで添えて送ったものを、これまた愚鈍な二人の家老は、そのことを長矩に伝えてしまいました。内蔵助が苦手な長矩が、そんな話を聞いて「そうか、良きに計らえ」などと言うはずもないのです。そこは、江戸家老の裁量で、「内々に付け届けを送れ」という内蔵助の配慮がわからないほど、危機管理ができていませんでした。
金の使い途もわからず、ただ「倹約、倹約!」だけを叫ぶリーダーは、無能の典型であり、国や組織を滅ぼす元凶です。徳川幕府も、残念ながら「倹約」しか、財政再建の方法を知りませんでした。後に、田沼意次が老中となり、経済政策を採り入れた財政再建案を提示しますが、「商人などに頼れるか!」と、経済政策案を潰してしまいました。結局、それは徳川の祖法である「米本位制」が招いた失策だったのですが、武士は、その身分がなくなるまで、税のあり方も金を経済を立て直す方法も知らず、崩壊していったのです。「けち侍」は、一面、質素倹約の生活に徹しているため、人の道としては正しいと思われがちですが、その人間の趣向と実際の国の経済は、イコールにはならないということを覚えておくべきなのです。
(3)だれにも慕われない殿様
芝居では、家臣たちが長矩を思慕し、仇討ちに踏み切ったかのような演出がされていますが、そんなことはありません。癇癪持ちで、人の話も碌に聞かず、我が儘でけちな主君を、だれが慕うというのでしょうか。長矩は、家臣たちを困らせ、振り回しただけの主君です。たとえば、赤穂浪士の千馬三郎兵衛は、一言居士で、殿様にも小言を言う真の侍でした。しかし、あまりにも厳しく言い過ぎたために、長矩が癇癪を起こし、100石を30石に落とし、その上、納得できない顔をしていると、「おまえは、くびだ!」と怒鳴って追い出してしまったのです。三郎兵衛は、「是は是、非は非!」という男ですから、「はい、結構でございます!」と、赤穂を立ち去るための荷造りをしていたところに、刃傷の一報が入りました。三郎兵衛は、「殿様は嫌いだが、武士の一分がござるので、同盟いたす!」と、最後の討ち入りまで脇目も振らず、まっすぐに進んだのです。
確かに江戸詰の片岡源五右衛門や磯貝十郎左衛門などは、江戸で可愛がられた小姓上がりでしたから、「殿の御為に!」と同盟しましたが、最後まで、他の浪士たちとは打ち解けることはなかったようです。
赤穂にいた者たちは、そもそも、この刃傷事件の責任は、江戸詰めの家臣たちにあると考えていました。「江戸の連中が、側にいて一体何をしておったのだ?」という不満は、当初から出ており、江戸から赤穂に戻ってきた江戸詰めの侍たちへの態度は冷ややかで、彼らも「我らは、赤穂の者とは別行動したい」と内蔵助に打ち明けるほどでした。しかし、最後に同盟したのは、「元浅野家家臣一党」という体裁を取らなければ、「仇討ち」とは言えないからです。この一挙は、赤穂浅野家の面目の問題でもあったのです。
もし、芝居で言うように、内匠頭がだれにでも慕われる名君であったならば、こんな仲違いをすることはなかったでしょう。江戸では、安井や藤井の両家老も内匠頭にはばかにされており、片岡源五右衛門たち側近政治が罷り通っていたために、江戸家老両名は、赤穂事件にはほとんど顔を出しませんでした。余程、内匠頭を嫌い、仇討ちなどに加わる気持ちがなくなっていたのでしょう。江戸表で一番苦労させた家老職にそっぽを向かれるようでは、情けないとしか言いようがありません。
「人に好かれないリーダー」は、結局は、だれも助けてはくれないという見本のような人物でした。内匠頭は赤穂においても評判のよろしくない主君でしたが、だからと言って、赤穂浅野家の侍たちまで、そうだったわけではありません。それぞれに誇るべき先祖がおり、世が世なら高い地位を得てもおかしくない侍もいたのです。「人は、見かけによらない」という言葉がありますが、リーダーが、人を外見や経済力、態度などで判断することは大変危険だと言うことです。表に出さない能力を見極め、適材適所で使ってこそ、リーダーについて来るものと信じることが大切です。
第一戦略 内蔵助の「昼行灯」戦略
大石内蔵助良雄は、赤穂藩譜代の筆頭家老職の家に生まれました。幼少時の逸話はあまり残されていませんが、赤穂事件の前までの評価は、「昼行灯殿」でした。これは、芝居でそうなったのではなく、本当に普段は、「ぼーっ」としていることが多かったようです。因みに「昼行灯」とは、「灯りが点いているのに、昼間だと明るくて用を為さない」という意味です。他にも「油がもったいない」という意味もあります。つまり、内蔵助という家老は、普段は、「いてもいなくても構わない、役立たず」と周囲から思われていたということです。なんとも、情けないご家老です。もし、赤穂事件が起きなければ、歴史に名を残すこともなく、凡庸な侍として、その生涯を播磨の田舎で終えたことでしょう。平和な時代なら、それが一番幸せな生き方だったのかも知れません。しかし、歴史は、内蔵助を戦場へと引き摺り込んでいきました。
ところが、内蔵助の恐ろしいところは、この「昼行灯」を自然に演じきれる能力があったことです。親族にも妻にも、子供たちにも、内蔵助という人物は、家柄だけの穏やかな男に映っていました。妻のりくも、但馬の京極家の家老の娘です。父親を見ていれば、家付き家老の苦労は理解していました。ところが、赤穂浅野家の国家老の夫は、いたってのんびり屋で、慌てるということがありません。城に出仕してもすぐに帰ってくるし、読書をしていたかと思うと、すぐに横になり、居眠りをしています。夜になれば、衣服を着替えて夜な夜な、若い妾のところか、色里通いです。武家の妻として、旦那様を問い詰めるような野暮はことはできませんが、心の中は嫉妬心で燃えていました。それでも、家に帰れば、褥にりくを呼び、相応に可愛がってくれるわけですから、あまり怒るわけにもいきません。
ただし、妻のりくにもわからない人の出入りが、大石家にはありました。それは、近在の農民のこともあれば、行商人のこともあります。時には、身なりの立派な大坂商人が訪ねて来ることもありました。
浅野家の家中では、勘定方の矢頭長助がよく訪ねてきては、一緒に何やら相談しているのです。こちらは、1500石の国家老、相手は会計担当の軽輩者です。それでも、同年ということもあり、子供の頃より、いつも一緒に遊んでいたようです。その間に、札座奉行の岡島八十右衛門が、顔を出すことがありました。そういえば、財政担当家老の大野九郎兵衛を殿様に推挙したのも、内蔵助の先代だと聞いていました。
大野が大石家を訪ねて来るときは、きまって夜遅くなってからでした。四人が揃うことはありませんでしたが、普段は仲が悪いと思われていた九郎兵衛と内蔵助が、頭を寄せ合ってひそひそ話をする姿に、妻りくは、不思議な気持ちがしていたのです。
しかし、若い頃の内蔵助は、おとなしい男でしたが、けっして凡庸な男ではありませんでした。学問は、抜群というほどではありませんでしたが、算術に長け、歴史書を読み漁るような少年だったのです。人前では見せませんでしたが、算盤の腕前は、あの矢頭にもひけを取らない素早さと正確さを見せていました。今でも、こっそりと子供の頃から使っている算盤を弾いています。
少年時代に、江戸から兵学者山鹿素行が赤穂に流されてきたことがありました。期間は10年にも及びましたが、その間、内蔵助はじめ、後に討ち入りに参加した中の数名は、素行の門弟でした。特に、内蔵助は熱心な弟子で、将来国家老となる立場として、一生懸命学んだといわれています。しかし、40歳になった頃の内蔵助には、そんな片鱗は微塵もありませんでした。
また、武術は「東軍流」を学び、剣術だけでなく柔術や長刀も会得していました。しかし、これも壮年になってからは、道場に足を運ぶこともなく、その実力は未知数でした。
こうした「昼行灯」の内蔵助は、殿様である浅野長矩にも疎まれ、何か申すと、「もうよい内蔵助!」と叱られることが多かったのです。しかし、隣で聞いていた奥方の阿久里姫は、「内蔵助の言い分にも一理ございます」と長矩を窘めることもありましたが、癇癪持ちの長矩は、そののんびりした口調もいらいらする原因だったのでしょう。内蔵助の話し方は、どちらかというと、少し間延びした感じがして、せっかちな関西人には、いらっとさせるようです。長矩には、そんな内蔵助の性格も腹立たしかったようです。要するに、この二人は相性が悪かったのです。
そんな内蔵助でしたが、赤穂浅野家が富裕藩として政治が滞りなく行えたのも、実は、内蔵助の働きにありました。内蔵助は、ぼんやりしているように見えながら、塩田の管理を怠らず、実際に出向いては作業に従事する農民に声をかけ、天候や塩の出来具合い、大坂に出荷した後の相場にまで目配せをしていました。大坂では、だれも内蔵助を「昼行灯」などと呼ぶ商人はいません。
内蔵助は、大坂の商人とも昵懇の間柄で、妻のりくには「出張」と称して、矢頭長助と家来の瀬尾孫左衛門をお供につれて、大坂によく出かけていました。一通り塩問屋を回ると、大坂で主に赤穂の塩を商っている綿屋善右ヱ門の邸に逗留し、綿屋の接待で遊びにも出かけていました。商人にしてみれば、時々チェックに来る内蔵助は、少し煙たい存在ではありましたが、「綿屋殿、今年の塩相場は、どうかな?」と茶飲み話のように聞いてきますが、既に、主な塩問屋を回り、相場値段を確認した上で、聞いてくるので、綿屋としても誤魔化しようがないのです。「はい、一俵○○両○分でございます」と話すと、満足したように「そうですか。それでは、あんじょう、頼みます」と、少し大坂訛りで話して終わりです。
しかし、内蔵助は、既に、その年の天候、塩の質、味、色目、不純物の有無等をすべて調べ上げ、得意の閻魔帳に記録していました。こうすれば、長年のデータで、相場は予測できます。特に赤穂塩は、日本一の折り紙付きの塩ですから、赤穂塩の値段で他の塩の値段が決められます。そうなると、益々赤穂塩は、高値となり、取引先も京都の公家や大名家、高級料亭など、進物にも使える特急品でした。だからこそ、赤穂藩に入る利益は、莫大なものになっていったのです。それに内蔵助は、その代金のすべてを藩に納めてはいませんでした。塩の中でも二級品になった塩は、庶民に安く販売されますが、その利益を別会計とし、「余剰金」として蓄えることを忘れませんでした。赤穂塩の二級品と言っても、吉良上野介の領地のある饗庭塩などは、比べようもないほど高級品でしたから、庶民と言っても、それなりの人間しか買えませんでした。
この余剰金が、後の計画の大切な軍資金となったのです。さらに、その金は、綿屋善右ヱ門が両替商としての資金になり、他の商人や大きな農家の主などに貸すので、その利子が貯まるという寸法でした。
綿屋にしてみれば、赤穂塩の専売ができたことで、大坂でも名の知られた商人になっていったのです。だから、内蔵助たちが、少しばかり飲み食いしたところで、たいした接待費にはなりませんでした。内蔵助が綿屋を訪ねると、必ず離れの奥座敷に通され、何日逗留しようと、内蔵助に金銭を要求するような無粋な真似はしませんでした。それ以上に、小遣い銭まで与え、
「大石様。きちっと大坂という町をお知りになれば、いつか、また、お役に立つこともございますよ」
と、大坂の商人の道まで教えてくれるのでした。その上、たとえ赤穂藩の侍であっても、内蔵助からの添え状を持たない者には、何も教えず、当たり障りのない挨拶で引き取らせました。口の堅いことでは、綿屋善右ヱ門は、絶対に信用できる男だったのです。
また、内蔵助の情報網は、全国津々浦々まで張り巡らされていたことを知る者もいませんでした。
これは、近江出身の大石家の秘密情報網であり、甲賀衆がその手先となっていたのです。大石家は、元々近江の佐々木氏に仕えていた関係で、甲賀衆とも親しく、その情報網を活用して戦国の世を生き抜いたのです。そのことは、代々家老職を継いだ者だけが知る秘密であり、内蔵助の下に行商人や農民がたびたび訪ねて来るのも、甲賀衆の「忍び」の者だったのです。
実は、江戸での内匠頭の刃傷事件も、赤穂に早籠が到着する前に、内蔵助の下に知らせが入っていました。しかし、内蔵助は、それをだれにも告げることなく、策を巡らせていたのです。内蔵助は、その一報を聞いたとき、「まさか?」と思う一方、「やはりな…」と思うところはありました。
そのために、江戸に400両の金子を江戸家老宛に送っておいたものを、安井彦右衛門も藤井又左衛門も、内匠頭の機嫌を損ねないように努めるだけの凡庸な人間だったので、この金の使い途すら考えようともしなかったのです。
内蔵助にしてみれば、こうなれば、赤穂藩の断絶も仕方のないことだったのです。
ビジネス講座 2 大石内蔵助の「昼行灯」作戦
(1)昼行灯は、油断大敵
大石内蔵助の凄さのひとつに、「人物観察眼」があります。少年の頃は、無口ではありましたが、武道にも学問にも励んだまじめな人間で、周囲の評判も高かったようですが、祖父良欽の跡を継いで家老職になったころから、「昼行灯」説が出てきています。内蔵助は、父を早く亡くしているため、祖父の養子になった上、叔父良重について家老見習いをしています。そうしたことが、内蔵助を早く老成させ、人を見る眼を養っていたのだと思います。
この、若い頃、他人の飯を食った人間は、人に甘えず、生きるために「人の心を見抜こう」と努めるものです。要するに「自分の敵か味方か」を峻別できなければ、足下をすくわれるからです。特に国家老職は、今でいう「副社長」ですので、派閥争いの渦中に巻き込まれてしまいます。そういう意味で内蔵助は、無用な派閥は作らなかったのです。そのため、人と会うときは自宅を使い、信用できる者しか腹の内は明かしませんでした。「昼行灯」を装えば、普通の人間は、軽く見下し、自分の前でも用心することなく、本心を明かしてしまいます。それを内蔵助は目敏く見つけ、「評価」に結びつけていたのです。 赤穂藩内での人事は、面白いもので、新参で650石の大野九郎兵衛が財政担当家老に登用されていますが、彼を登用したのは、間違いなく内蔵助の祖父の国家老大石良欽です。良欽の政治に異を挟める人間は、殿様でもあり得ませんでした。それは、将来、赤穂藩や内蔵助の助けになると信じていたからです。
大野九郎兵衛は、忠臣蔵の芝居では、悪役を演じていますが、内蔵助の同志であり、陰で内蔵助を支える人生を送った人物なのです。
リーダーたる者は、普段からその才気を見せず、昼行灯を装いつつ、人物を評価し、「いざ!」という局面が出てきたときに、その同志を自由に使い、正しい方向に組織を導くセンスを磨いておくべきです。「昼行灯」とは、そこにいても無視される存在です。しかし、だからこそ敵は油断が生まれ、弱点を昼行灯の前に晒すのです。そして、昼行灯は、いずれ、その弱点を突き、敵を葬り去ることができるのです。用心深い人間は、たとえ「昼行灯」と呼ばれるような人間がいても、周囲に惑わされることなく、その人物を自分の眼で確かめようとするはずです。リーダーたる者、「努々、ご油断召されるな!」
(2)裏に隠された情報網
大石内蔵助には、表の顔を裏の顔の二面性がありました。表の顔は、ぼんやりした「昼行灯」、裏の顔は、厳しい「策士」の顔です。大石家は、近江の豪族だったこともあり、甲賀衆とも親しく、先祖が豊臣秀次などにも仕えていましたので、その頃から、甲賀者を重宝に使っていたものと推測できます。その関係を内蔵助は切ることなく、大切に扱っていたのでしょう。
内蔵助の邸には、全国各地に放たれた甲賀者が出入りし、情報を内蔵助の下にもたらしてくれました。当然、それ相応の謝礼が必要ですが、大石家の隠し財産からすれば、大した金額ではありませんでした。
播磨国という田舎にいながら、江戸や大坂、東北から九州までの情報を得ていた内蔵助は、内匠頭の刃傷事件も早々に知ることになりました。一報を受けたとき、「やはりな…」という諦めの境地になっていたのかも知れません。
長矩は、内蔵助が心配するような資質の持ち主だったのです。
この甲賀衆や大坂の商人たちがもたらす情報によって、内蔵助は常に冷静な判断の下に情勢を分析し、確率の高い選択をしていきました。その結果が、「吉良上野介を討つ」という選択だったのです。内蔵助は、自分の感情をコントロールする技を習得していました。感情に走れば、ことは仕損じます。感情が昂ぶるのは一時のことです。そして、感情的になった人間は、隙だらけです。山鹿素行先生も、普段は小柄で優しげな好々爺の風情がありました。そうと知らなければ、だれも高名な軍学者だとは思わなかったはずです。しかし、兵法を語るときの先生の眼は厳しく、恐ろしいほどの気迫を漲らせていました。それでも、口調は淡々としており、大声を出すようなことは一度もありませんでした。この沈着冷静な態度が、幕府をも震え上がらせたのでしょう。こうした師の影響が、内蔵助の人格を育てていったのです。
リーダーは、「如何に情報を集め、分析し考察を加えて、高い確率に賭けるか」。これが、企業を発展させることのできる商人(ビジネスマン)の才覚というものなのです。何事も100%はありません。すべてが確率論なのです。「勝てる」と踏んだ勝負に賭けるのが、戦略家であり軍師なのです。それが失敗に終わり、破れれば、素直に「死」を受け入れればいいのです。その覚悟のない者は、どんなに優れた頭脳の持ち主であっても、リーダーになってはいけません。
(3)優れた経済感覚
大石内蔵助は、武士でなく、商人としても成功を収まることのできる人物でした。内蔵助の経済感覚は、並のものではありません。幕府に取り立てられれば、勘定奉行職どころか、幕政改革の中心になり得た能力だと思います。この内蔵助に近い人物が、後に登場してくる田沼意次でした。意次の感覚は、武士ではありませんでした。よく田沼時代の政治を「賄賂政治」と揶揄されますが、もし、田沼に政治を委ね、幕府の改革を進めさせていれば、徳川幕府は、後100年永らえたと言われています。意次は、日本を「国」としての体制に導こうと考えていたのです。つまり、近代国家への転換です。これができれば、日本はいち早く門戸を世界に開き、貿易立国として軍事大国に変貌していたかも知れません。それが、日本にとって幸福かどうかはわかりませんが、そうなれば、明治維新はなく、徳川家中心の政府が誕生したと考えられます。内蔵助も時と場が与えられれば、「忠臣蔵」に名を残す人物ではなく、政治家としての高い評価を得たのではないかと夢想します。
実は、大石家には、先祖代々受け継がれた「隠し金」がありました。石高も1500石と藩内唯一の高禄で、収入も多かったのですが、それだけ立場上の出費もありました。妻りくは倹約家で、子供たちにも贅沢を許さず、他の藩士の子供たちと同様の身なりさせていました。そのために、長男の松之丞(後の主税)は、身分に関係なく友達も多く、特に矢頭右衛門七とは、父長助と内蔵助の関係にように、親しくしていました。矢頭家は譜代とはいえ、わずか25石の勘定方です。それが、1500石の国家老と親しくできるというのも、内蔵助の人柄でした。しかし、この長助は、内蔵助が子供の頃よりその算術の才覚を見抜き、藩の財政と大石家の「隠し金」を管理していた人物なのです。そのため、内蔵助は、長助をよくお供に連れ、各地に出張したり、遊んだりしていたと言われています。因みに、この二人は同い年でした。
大石家が「隠し金」を積み上がることができたのは、大坂の両替商との深い関係にありました。今でいう「投資」です。昔から「小豆相場」や「米相場」というように、「塩相場」がありました。塩は、赤穂の特産品ですが、大石家では、代々、塩相場で儲けていたのです。今のように「インサイダー取引」というような規制のない時代ですから、相場を操作するのも大坂の商人たちでした。まして赤穂の塩は、「超特級品」です。それを扱う問屋はいくつかありましたが、一番の特級品は、大坂の商人綿屋善右ヱ門が一手に扱っていたのです。そうなると、相場を操るのも「綿屋」ということになります。大石家では、綿屋と結んで、塩の流通量を加減し、相場を釣り上げ、儲けを出すという仕組みで金を作り、藩庫に積み上げていたのです。大石家では、勝手に藩の公金は遣えませんので、自費で投資し、少しずつ儲けを蓄えて来ました。
藩は藩として儲け、表高は5万3千石でも、実質収入は、10万石を超えていたと言われています。
内蔵助は、先代に倣い、こうした金の一部を「憮育金」という奨学金として遣い、若い藩士たちの教育費に回していました。それは、大野九郎兵衛らと謀り、帳簿には載せない「裏金」でもあったのです。江戸時代は、こうした裁量のできない人間は、けっしてリーダーにはなれませんでした。
身分差を超えて同志を作り、将来のために資金を運用する術の知らないリーダーは、部下からの信頼を得ることもできず、淘汰されていくのです。現代でも社長室にふんぞり返り、天下を取ったような気分になっているリーダーがいるようですが、それでは部下はついてきません。そして、社長が次々と指示を出すようなワンマン経営も長続きはしないものです。自分で社内を静かに見て回り、ポイントを抑えながらチェックしていくことが必要です。たとえば、若い女性社員が大切にされているか。掃除の委託のおばさんに声をかける社員がどのくらいいるか。無駄話をしている社員はいないか。部課長に元気はあるか。など、とにかく「人」を見ることです。食堂のおばさんや清掃のおばさんを軽んじる雰囲気の会社は、間違いなく潰れます。なぜなら、人の評判こそが、企業の生きる道だからです。
第三戦略 「赤穂城開城」戦略
内蔵助は、江戸藩邸からの第一報が届くやいなや、赤穂藩士全員に総登城を命じました。それは、「士分の者は、すべて集合せよ!」というものでした。 幹部や上級の藩士たちで処理する問題でないことは、端から承知の上のことでした。幹部クラスの中には、「何も、下士まで呼ばずとも、いいものを…」と不満の声を出す者もいましたが、殿様が切腹していない以上、今の赤穂藩の筆頭は、国家老の大石内蔵助ただ一人です。「昼行灯」と侮っていた幹部たちも、いきなり「総登城」の命令が発せられ、日頃とは違うその迅速な対応に驚いていたのです。一人、ほくそ笑んでいたのは、ライバルと目されていた財政担当家老の大野九郎兵衛でした。しかし、九郎兵衛は最後まで内蔵助のライバルを演じきるつもりでいました。今、赤穂城にいる家老職は、国家老の内蔵助と九郎兵衛だけでした。しかし、大野九郎兵衛は650石の新参者です。家老とは言っても、内蔵助の親戚筋の近藤源八(組頭1000石)、奥野将監(物頭1000石)、進藤源四郎(足軽頭400石)、小山源五左衛門(足軽頭300石)たちがいました。彼らは、内蔵助と同じ浅野家の譜代です。こういうとき、譜代の家臣の発言力はものをいいます。
「先々代の御代から、赤穂浅野家は、武勇の誉れ高きお家でござるぞ!」
などと叫ばれては、面倒なことになります。九郎兵衛のような新参家老では、太刀打ちできません。そこで、九郎兵衛は内蔵助と示し合わせて、悪役を買って出たのです。
「大石様。私は新参者故、譜代の皆様方より勝手なことが申せます」
「大石様の言いにくいことは、私が申しますので、大石様は、知らぬ振りをしていてくだされ」
「こういうときは、だれかが悪役をやらねば、収まらないのが道理」
「こういうときこそ、この大野九郎兵衛の役立つときでございます」
九郎兵衛は、大石良欽に拾って貰ったときから、いつか、大石家や内蔵助のために働こうと、心に誓っていたのです。内蔵助は、そんな九郎兵衛が愛おしく、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
「大野殿、申し訳ござらぬ。その方には、藩の財政をすべて委ね、その上、厳しい小言ばかりを家臣共に言わせて、嫌われ役を買って貰っておった」
「今度は、また、このたびの殿の不始末のために、敢えて、悪役をして貰わねばならぬ。本当に申し訳ない」
そう言って、内蔵助は、深々と頭を下げたのでした。
九郎兵衛の家は、元々は伊予松山の土豪で、豊臣家に仕えた侍でした。しかし、豊臣家が滅んだことで、主を失い、浪人生活を余儀なくされていたのです。徳川の世になってからは、元豊臣方の縁者を頼り、西国の大名家に仕えたこともあったようですが、やはり主家が、些細な不始末でお家断絶の憂き目に遭い、それからは、大坂に居を構えて算術を教えたり、商家の手伝いをしたりして過ごしていたようです。九郎兵衛は、大坂に居を移し、子供の頃より親しんだ和算の技術を生かした仕官先を探していたところ、大坂の綿屋で内蔵助の祖父良欽と知り合うことになりました。もちろん綿屋も先代の善右ヱ門です。
良欽は、国家老として赤穂藩に重きを置いた人物で、内蔵助とは異なり、才気溢れる人物でした。しかし、人を見る眼は確かで、綿屋に出入りする若き日の九郎兵衛を見て、赤穂浅野家に誘ったのです。綿屋にしても、まさか番頭としてずっと使うわけにもいきません。そこで、良欽の力で赤穂藩士となり財政家としての能力を発揮できたことは、我がことのように喜びました。その後も、何かと綿屋に出入りし、店の者とも気心が知れているので、赤穂にいるときの九郎兵衛とは、全く違う表情を見せていました。そして、その広い人脈と情報量を糧に、一代にして家老職にまで上り詰めた人物なのです。
内蔵助とは、10歳以上年齢が異なりますが、少年時代の内蔵助に算術を教えたのは、何を隠そう大野九郎兵衛その人だったのです。それは、良欽の願いでもありました。良欽も算術には明るい人でしたが、
「これからの家老職は、剣術は二の次、算盤のできぬ者は、ものの役に立たぬ」
と広言して憚らない人でした。こんなことが言えるのも、良欽自信が、甲州軍学と東軍流の免許を持った達人でもあったからです。その上、「算術の師匠になれるのではないか」というくらいの算学の達人でもあったのです。
当然、跡取りとなる松之丞(内蔵助の幼名)にも、武芸の他に算術を習わせました。この九郎兵衛は、松之丞の個人教師でもあったのです。九郎兵衛は、藩の勘定方役人として出仕する傍ら、大石邸に若い頃から出入りを許され、内蔵助とは昵懇の間柄でした。しかし、その関係は秘匿されていたため、城中では用事でもない限り、話をすることもありませんでした。
成長すると、方や昼行灯のぼんくら国家老、方や切れ者の財務担当家老では、藩内の目も違ってくるというものでした。こうした関係があればこそ、即座に「大評定」を開くことができたのです。
大広間には、数百人の赤穂藩士が集まっていました。前列には譜代の高禄者が陣取り、家禄や役職等に応じて板の間に腰を下ろし、末席には、台所方の三村次郎左衛門の姿もありました。
ここで口火を切ったのは、大番頭の奥野将監でした。奥野は、組頭1000石の譜代の家臣で、大石家の縁者でした。奥野は、声がでかく態度も横柄なので、藩内では嫌われ者ですが、こういう時は抑えが利くのです。
一通り事件のあらましを伝えると、大広間に大きなため息が漏れました。江戸城中で刃傷事件を起こせば、間違いなく切腹とお家取り潰しは決まったようなものです。そうなると、城を明け渡し、自分たちも早々に赤穂を退去しなくてはなりません。殿様に泣き言もひとつも言ってやりたいところですが、既に死んでいるので、それも叶いません。そうなると、愚痴は、ここにいる内蔵助を初めとした重役にこぼすしかないのです。
一時間も予測できる今後の流れを議論すると、最後に、内蔵助が重々しい口調で述べました。
「このような仕儀になったことは、ひとえに我々重役の不徳の致すところでござる。この後に及んで是非もないが、このたびのお裁きは、あまりにも不公平、理不尽なものでござった。喧嘩両成敗は、武家の倣いでござれば、吉良殿に一片のご沙汰がないことは、赤穂武士の面目が立ち申さぬ。よって、開城にあたっては、収城使様に対して、我々の武士の一分が立つように嘆願する所存でござる。その上で、大手門の前で切腹致すことにしては如何か?」
「ご同意される方は、明朝までに神文(誓約書)に署名、血判をご提出いただきたい!」
まさか、あの昼行灯殿が、「嘆願、切腹」を言い出すとは、大広間は騒然となりました。そして、内蔵助は、そのまま黙って奥へと引っ込んでしまったのです。すると、ここで財政担当家老の大野九郎兵衛が、開城準備と分配金について説明を始めました。
内蔵助が過激な発言をした後に、開城までの手続きと分配金の話までし始めたので、騒然となっていた藩士たちは、気もそぞろに、九郎兵衛の事務手続きの話を聞くことになりました。
事務手続きの説明後に、
「大野様は、大石様のお話に納得されているのでございますか?」
という質問が出ました。すると、九郎兵衛は、
「儂は、反対じゃ。開城後に切腹なんぞしても嘆願が届くはずもない。ここは、ご公儀の沙汰にしたがい、立派に開城してこそ、さすが赤穂武士じゃと後生まで語り継がれるであろう。切腹などして城を血で汚せば、末代までの恥じゃ!」
などと言うものだから、また大広間は騒然となり、九郎兵衛は、過激な者たちにつるし上げられる始末となったのです。
翌日、朝になってみると、神文を提出したのは、100人ほどになっていました。約四分の三は、最初から切腹などとは考えてもいなかったのです。
分配金は、下の者に厚く、上の者には薄い配分だったので、余計に下の者は、金を貰うと、家財道具を荷車に載せ、開城前に赤穂を離れる者も出てきました。内蔵助も九郎兵衛も、こうした動きには何の関心も寄せず、淡々と開城作業を進めていったのです。大石家では、家族総出で城に向かい、雑巾がけや片付けを率先して行うので、大石家一族や内蔵助を慕う者たちが、やはり家族総出で城の掃除に取り組みました。その結果、赤穂城は、見違えるようにきれいになり、無事に城を明け渡すことができたのです。
城明け渡しが済むと、内蔵助は、残った元藩士たちを大広間に集めました。皆は、「いよいよ、切腹の時が参ったか?」と、覚悟を決めて集まりましたが、内蔵助の言葉は意外なものでした。
「皆の者、大義でござった。無事に城明け渡しも済み、明朝には、我々も赤穂を退去せねばならぬ。先般は、開城後に大手門にて切腹と申したが、あれは、皆の者の存念を確かめるべく申した言葉じゃ。済まぬ。貴殿らを試すようなことをしてしもうたことを詫びる」
そう言うと、手を付いて元藩士たちに頭を下げたのでした。
末席には、軽輩の者も多く残っていましたので、まさか、国家老に頭を下げられるとも思わず、感激する者も多くいたのです。その上で、内蔵助は、再度申し渡しました。
「開城後の切腹は、取りやめる。それは、大野殿の申すとおりじゃ。しかし、儂には別に存念がある。今は申せぬが、この神文を儂に預からせては貰えぬか?」
「赤穂を退去後、儂は京の山科におる。近いうちに会合の手筈を整える故、そのときは是非、集まっていただきたい」
そう話すと、また、すっと立って奥に引っ込んでいったのです。
そこで、また、残された100人は、「おい、存念って何だ?」という話になります。そして、神文を提出した奥野将監たち重役衆に説明を求めました。
既に大野九郎兵衛は、開城前に逐電しており、
「九郎兵衛の奴、家老職でありながら、開城も待たずに逐電するとは、犬畜生にも悖る奴じゃ!」
と、多くの元藩士たちが罵るものだから、大野九郎兵衛には「裏切り者」というレッテルが貼られてしまったのです。
九郎兵衛は、既に内蔵助の指示を受け、赤穂藩が金を貸していた商人や農民たちに、大坂の綿屋の手代といっしょに回収に回っていたのでした。
内蔵助は、全額でなくても6割で回収できたらよいと伝えておいたのです。それでも、上手く回収できれば、3000両 ほどにはなるはずでした。貸すときには、当然利子分も上乗せしてあるので、6割でも元金は取り戻すことができるのです。おそらく九郎兵衛と綿屋は、
「今後も赤穂の塩は、この綿屋が商いを続けさせて貰いますので、ご承知おきください」
と言って、証文を持参しながら取り立てに回ったはずです。大坂で綿屋に逆らって商いができる道理はありませんでした。それでも、
「今なら、6割で結構です。新しい殿様になれば、申し訳ありませんが、元通り、全額払って貰いますよ」
と付け加えれば、借りた方は、慌てて他に借金をしてでも返すのは、わかりきっていました。綿屋や九郎兵衛にしても、次の領主のことなんか、わかるはずもないのですから、駆け引き上手とは、こういうことを言うのです。
こうして、内蔵助は、本当に信用できる同志の選別に成功するとともに、赤穂藩が貸した金をきっちりと回収し「軍資金」の目処が立ったのです。
内蔵助は、その知らせを山科の陋屋で、訪ねてきた九郎兵衛から聞かされました。そして、二人は夜遅くまで酒を酌み交わし、また、人知れず別れていったのです。その夜、内蔵助は、九郎兵衛の手を握り、涙ながらに詫びました。九郎兵衛が悪役に徹してくれたお陰で、無事に開城をできたのです。そんな損な役回りを引き受けてくれた大野九郎兵衛という男が愛おしくてたまりませんでした。しかし、それを知る者は、幼なじみの矢頭長助と商人の綿屋善右ヱ門しかいませんでした。
ビジネス講座 3 大石内蔵助の「開城」作戦
(1)信頼できる同志の選別
ことを成し遂げるには、信頼できる仲間(同志)が必要です。金銭や出世などの欲がらみでは、最後の最後に逃げ出す可能性が大いにあります。信頼を得るためには、日頃からの「種まき」が必要なのです。内蔵助は、「憮育金」と称する奨学金を設けていました。若い者が身分の上下に拘わらず、学びたい、修行をしたいという強い意思のある者には、資金を渡し勉強させました。それによって、高い能力を身につけ、藩の役職に就いた者も多かったのです。しかし、憮育金の話は、けっして他人に漏らさないことを条件としていましたので、公になることはありませんでした。しかし、陰では、そういうものがあるらしい…という噂になっていたのは当然です。もし、聞かれても「自分で用立てた」とか、「親戚から工面した」とか申せば、元々が悪い金ではないので、咎められることもありませんでした。
長助たちの勘定方の帳面には載らないお金です。そうした資金を使って、内蔵助は、少しずつ自分のシンパを増やしていったのです。開城に当たって、大広間で誓約書の話をしたのも、「全員に確かめた」という事実が欲しかっただけのことで、残った100人の多くは、内蔵助に恩のある人間ばかりだったのです。
そうでない者は、「切腹」と聞いて震え上がり、威勢のいい声も聞こえなくなり、平穏に開城できたのです。しかし、内蔵助は、その100人もいずれ、さらに同盟から抜ける者が出てくることは承知していました。それは、それで仕方のないことです。人間がそんなに強くないことも、内蔵助は承知していました。その上、この100人の中には、取り敢えず神文だけを出しておいて、様子を窺う者もいたのです。もし、「お家再興」となれば、この誓約書がものをいうと思っていた連中です。内蔵助は、そんな人間が混じっていることも承知していました。また、江戸表にいる江戸詰めの藩士たちがいました。長矩側近の若侍たちや武芸に心得のある堀部安兵衛たちです。この連中は、江戸が長く、赤穂には、来たことがない者までいました。同じ赤穂藩士と言っても、まったく人種が違うような気がしていたのです。江戸者は、上方訛りもなく、常に江戸弁で話します。性格も関東風で、味付けも合いません。こうした連中が、やはり「仲間に入りたい」と言ってくることでしょう。そうなると、また人数だけが増え、結束させるには、まだまだ難題がありました。
同志を集めるには、説得するのではなく、ついて来る者だけを同志とする度胸が必要です。どんなに数がいても、同志にはなれません。そのためには、日頃から見所のある者は、身分に囚われず「支援」する懐の深さがリーダーには必要だということです。人のために金を作り、人のために使う器量は、並大抵ではありません。結局、最後まで志を貫いた侍は50人足らずでした。そのうちの戦力となった若者は、ほとんどが内蔵助の憮育金を貰って学んだ者たちでした。所詮、人間というものは、高い志があったとしても「人の恩」を忘れることはできないのです。内蔵助に「恩を売る」つもりはありませんでしたが、結果を見れば、人間とは、そういうものだということがわかります。リーダーは、無欲で「人のため」を思う優しさが必要だということです。
(2)赤穂藩の評判を高めておく秘策
内蔵助は、赤穂城開城という難問を見事に解いて見せました。急な殿様の失態により、改易に遭った大名家は他にもありました。失態でなくても、相続する男子がいない場合でも、改易は免れません。そうなると、その大名家に仕えていた侍は、すべて浪人となります。まして、赤穂藩のような理不尽な裁定で改易となれば、「一戦交えん!」と武装して待ち構えているケースもありました。そうなれば、収城使の軍勢と戦うことになります。まして、赤穂藩は、武勇を誇る富裕藩です。鉄砲や大砲、弓などの飛び道具も豊富に揃えており、弾薬も準備されていました。籠城する藩士、郎党を含めて1500名程度の籠城軍ですが、赤穂城は、海に張り出した堅固な城で、軍勢は、兵法者の誉れの高い山鹿素行の門弟たちです。無事に開城してくれれば、自分の兵に犠牲者を出さずに済むのです。このときの収城使は、隣藩の龍野藩主脇坂淡路守安照でした。脇坂は、長矩に同情的で、幕府の仕置きに納得してはいませんでした。しかし、幕府から「城を受け取れ」と命じられれば、否も応もありません。開城当日は、大手門周辺に兵4500人あまりを配置し、不測の事態に備えていたのです。また、足守藩主木下肥後守公定も塩屋門周辺に兵1500人を配置しました。
それが、一転。追手門を開城すると、国家老大石内蔵助ら赤穂藩の重臣たちが、裃姿で平伏しているではありませんか。これには、収城使ばかりでなく、幕府目付、荒木十左衛門と榊原采女もほっと安堵のため息を漏らしたのです。その上、九郎兵衛たちが整理した帳簿は完璧。武具類も奥野将監たちが、せっせと手入れし、磨き上げていました。どの部屋も廊下も、大掃除をした後のように清々しく、大いに赤穂藩の面目を施したのです。
また、赤穂藩では、藩札も発行していましたので、やはり「6割」で交換し、藩札を持っていた商人や農民たちも安堵したと伝わっています。それに、元藩士たちも早々に退去していたので、町も落ち着きを取り戻しており、平穏のうちの城明け渡しが済んだことで、町衆の人々も赤穂浅野家の功績を讃えました。それに、整備された塩田は、次に入封した永井家を一代挟み、明治維新まで森家2万石が引き継ぎました。そして、その良質な塩は、令和の現代も続いているのです。
内蔵助たち赤穂の武士たちは、「立つ鳥後を濁さず」の格言どおり、身辺をきれいに整理して見事に立ち去っていきました。それは、取りも直さず、浅野家の評判につながるものでした。それは、損得ではなく、人としての道徳心の問題でもあります。武士というものは、理屈だけで動く存在ではありませんでした。元々は、戦場を駆け巡り、武功を立てて立身出世を目論む兵(つわもの)です。自分の家を守り、領地を増やし、一族郎党に生き甲斐を与えてこそ、武士としての面目が立つのです。もし、戦に敗れれば、それも「時の運」と諦め、自害して果てるのが武士の定めと心得ているのです。その気風は、普遍的な価値を持っていました。それ故に、「立派に開城した後の切腹」には、武士の誇りを守る決断があったのです。
内蔵助が、「存念がある」というひと言は、皆が「吉良を討ち果たす」と理解しました。だからこそ、静かに身を引いたのです。後に、約束どおり、吉良邸討ち入りを果たしますが、武士としての体面を重んじたからこそ、人々は賞賛し、赤穂浪士たちを歴史上の英雄に仕立てた要因にもなったのです。
第四戦略 「浅野家再興」戦略
内蔵助は、赤穂城開城が済んだ直後、背中に大きな疔(皮膚の急性化膿性炎症)を発症し、ひと月ほど寝込んでしまいました。高い熱が出て相当に苦しんだといわれています。やはり、これまでの精神的な疲れがほっとした途端に、どっと出たのでしょう。それも人間くさい一面でした。そして、ようやく回復すると、京の山科へと移っていったのです。
山科は、辺鄙な田舎ではありますが、都へも近く、便利な場所ではありました。ここは、元々、大石一族が所有していた土地があり、赤穂藩の親族の多くも山科へと移って来ていました。内蔵助が、最初に手をつけたのが「浅野家再興運動」です。同志の中には、最初から「吉良様の首」を挙げることを目標とする過激な者もいましたが、内蔵助には時期尚早だという判断がありました。 山科に隠棲したといっても、大坂の綿屋善右ヱ門や甲賀衆とのつながりが消えたわけではありませんでした。赤穂の邸にいたときと同様に、得体の知れない者たちが、しょっちゅう出入りし、内蔵助と雑談するのは常のことだったのです。その情報網から、「お家再興」は難しいことを内蔵助は掴んでいたのです。しかし、無駄だとわかっていても、取り敢えずは、仇討ちの気配も見せず、「お家再興に頑張っている国家老の姿」を見せることにしました。おそらくは、その資金として500両ほどを使用したはずです。無駄とわかっていながら大金をはたく度胸が内蔵助にはありました。また、大石家が貯めていた金を使って京の橦木町で女遊びに耽ったり、おかるという町娘を妾にしたりと、男としての本能のままに過ごしたのも、この山科での出来事でした。
周囲の者たちは、そんな内蔵助を見て、「なんだ。ご家老は、昔の昼行灯に戻ってしまわれたわ…」と嘆きましたが、ここにも内蔵助の企みがありました。それは、内蔵助の評判を落とす意味でもあったのです。なぜなら、そのころ、内蔵助の見事な赤穂城開城の噂は、全国の大名家に届き、仕官話がいくつも持ち込まれていたからです。それも、赤穂藩のときと同じ「1500石で召し抱えたい」と申し出る大藩もあり、内蔵助には迷惑な話でもありました。しかし、親族縁者は、そうはいきません。大石家筆頭の内蔵助が、大藩に仕官となれば、浅野家再興に道が開けるかも知れません。または、内蔵助の縁者として自分も仕官できるかもしれないという淡い期待を抱かせたのです。しかし、内蔵助の遊興三昧は、それらの仕官先の評判を下げ、次第に仕官の口を言い出す者も来なくなりました。内蔵助の策が当たったのです。
それに、想像していたとおり、江戸詰めの元藩士たちが、山科に内蔵助を訪ねてきて、「江戸では、仇討ちを待ち望んでいる」とか、「我慢の限界がござる」とか、勝手なことを言い募るのです。自分たちのいいように物事を解釈し、力で相手をねじ伏せるやり方は、内蔵助は嫌いでした。
「まったく、奴らには、策というものがない。ただ、長い刀を脇に置いて、脅すしか能のない連中じゃ。情けない… 」
そんな愚痴も、時には内蔵助の口から出る始末でした。そして、その筆頭が有名な堀部安兵衛です。安兵衛は、高田馬場の決闘で有名になり、堀部弥兵衛が口説き落として浅野家に仕官させた侍でした。実戦を経験したことで、周囲から一目も二目も置かれていた安兵衛は、過激な言動を採るしかなかったのです。本当は、学問もよくする教養人でしたが、新参者という立場上、安兵衛なりの苦労もあったのでしょう。その上、長矩の側近だった片岡源五右衛門や磯貝十郎左衛門などが、別派として内蔵助に面会を申し込み、やはり「仇討ち」を訴えるのでした。
それも、やはり脅迫じみた物言いが多く、側近の片岡などは、いつまでもぐちぐちと言い訳じみた話ばかりするものだから、内蔵助も相手をするのも嫌気が差していました。そういうこともあって、奴らが来ない橦木町や妾宅に入り浸ることになったというわけです。
結局、内蔵助なりに手は尽くしましたが、予想どおり、浅野家の再興は叶いませんでした。弟の大学長広が、広島浅野本家に「永のお預け」が決まったからです。
幕府にしてみれば、赤穂浅野家が内匠頭の不始末によって改易になった以上、弟にも何らかの処罰があるのは、当然だと考えていました。この時代は、連座制が適用され、一族がいっしょに罪を負うということが一般的だったからです。内蔵助にしてみれば、それは当然だと考えていましたが、決定するまでは諦めるわけにもいかず、500両もの大金を遣うことになってしまいました。しかし、このことにより、浅野家再興を夢見ていた元藩士たちも諦めがつき、新しい人生を踏み出す踏ん切りがついたとも言えるのです。
ビジネス講座 4 大石内蔵助の「無駄骨」作戦
(1)無駄なことも大切な「無駄」がある
京の山科時代の内蔵助は、昼行灯に戻ったような生活を送っていました。確かに、元国家老としてみれば、立場上、主家の再興を運動しないわけにはいきません。しかし、諜報により、幕府が「浅野家再興を認めない」ことはわかっていたのです。それでも、金を遣い、再興運動を行いました。幕閣に話が通せる旗本がいると聞けば、その旗本に謝礼を贈り、担当老中に声をかけて貰うようなこともしました。桂昌院お気に入りの僧、隆光と親しいという坊主がいれば、江戸の隆光のところにまで進物を贈り、話をして貰いました。開城時の幕府目付荒木、榊原両名にも嘆願し、口を利いて貰うようなこともしました。 本家の広島浅野家にお願いもしました。そのどれにも、黄金(小判)が必要だったのです。そして、一番の「無駄」は、内蔵助自身の「遊び」でしょう。京の橦木町の色里での遊びは、内蔵助にとって最大の「無駄遣い」でしたが、生涯で一番楽しい無駄な時間となりました。そのたびに何人かのお供を連れ、お座敷に繰り出すのです。芝居では、「一力茶屋」の「浮橋」という遊女が登場してきますが、真相はわかりません。それでも馴染みの遊女がいたようで、数人の遊女に囲まれては、時間を忘れて楽しく過ごしたようでした。こんな遊びは、赤穂時代にもあり、内蔵助にとっては、特別なことではありませんでしたが、周囲の者から見れば、相当に不謹慎に見えたのでしょう。それに、男共にしてみれば、嫉妬心もあり羨ましくもありました。内蔵助は、甘い女の香りに包まれ、お大尽遊びに耽ることで、日頃の鬱憤を晴らしました。そして、内蔵助は心身の健康を取り戻していったのです。もし、こうした無駄遣いがなければ、「大石内蔵助」という人物が、後生、光り輝くこともなかったのです。 大切なことは、意図的に「無駄な時間」を作り出すことなのです。人は、直線的な行動を好みます。なるべく近く、なるべく速く、なるべくよい物を、なるべくたくさん…。と、少しでも損することを嫌います。しかし、それで生活が豊かになったでしょうか。目先の欲に囚われ大局を見失うことがよくあります。内蔵助の周囲の人間もそうでした。口では立派な理想論を語っても、いざとなれば、わずかばかりの分配金を受け取り、武士の誇りなど関係ないかのように去って行きました。
「お家再興」も無駄。「遊び」も無駄。そんな無駄遣いをしたからこそ、その後の内蔵助は、生き生きと短い人生を全うできたのです。
リーダーというものは、物事を目先の「損得」で動いてはなりません。大局を見誤らないことが大切です。そして、「無駄」を見せることで、新しい展開が開けることがよくあります。「生真面目さ」は、美徳ですが、併せて「愚か」だということもできます。何でもそうですが、人生にも「遊び」が必要です。どんなにネジをきつく締めても、しっかり固定するとは限りません。人間なら、尚更のことです。どこかに「緩み」を作って置くことで、バランスが保てるのです。人間に「笑い」や「趣味」が必要なのは、今の現実から一瞬だけ逃避し、非現実の世界で遊ぶことで、リフレッシュができるからです。重い「疔」を発症した内蔵助だからこそ、休養が必要だったのです。
(2)信頼できる同志の「篩い分け」作戦
内蔵助の「お家再興運動」や「遊興」に要した時間は、赤穂の侍たちに冷静になる時間を与えました。殿様の刃傷事件以来、平凡な日常に戻る時間がありませんでした。常に「戦場」に身を置いた侍のように、緊張感で心も体も張り詰めていたのです。内蔵助とともに「切腹」を考えた同志は、自分の命を賭ける「大義」を求めていました。それは、「浅野家再興」などではなく、殿様の鬱憤を晴らすための「敵討ち」以外に考えられません。一日も早く、憎い吉良上野介を討ち果たし、武士としての誇りを取り戻したかったのです。しかし、内蔵助は飽くまでも冷静でした。先の見えない同志は、社会の空気に惑わされ、「仇討ち」しか目に入らなくなっていました。意味もなく「吉良の首」を狙うテロリストになろうとしていたのです。
冷静に考えれば、今の状況を生み出したのは、主君である浅野長矩です。我々の主君が起こした不始末の結果なのです。そして、幕府の間違った裁定にあるのです。法に基づく裁きなら、こんなことにはならなかったのです。もし、恨むなら、自分の主君と公儀を恨むべきなのです。それを吉良上野介にすり替えたのは、所詮は「詭弁だ」と内蔵助は理解していました。
吉良は、何も悪くはない。愚かな浅野長矩が犯した不始末の巻き添えを食っただけでした。「運が悪かった」といえばそれまでですが、内蔵助には、どうしても吉良を憎む思考にはなれませんでした。こうした内蔵助の態度は、過激派の同志たちを苛立たせ、同盟から離脱する者が出始めました。それが、最後の「神文(誓約書)返し」で現れます。
内蔵助は、最後の最後に、もう一度同志を篩にかけることにしました。既に赤穂城開城から一年が過ぎていました。
この頃になると、最初の頃の興奮も冷め、「籠城だ、切腹だ!」と息巻いていた連中の多くは、既に脱盟し、だれにも知られぬようにひっそりと暮らしていました。配られた分配金も使い果たし、浪々の身の不遇を託っているのかも知れません。才覚のあった者は、その金を元手に田畑を買って農民になった者もいました。商いに向いていた者の中には、綿屋に頼んで手代として働いている者もいます。一年という月日は、人の暮らしを落ち着かせ、人生を考える時間を与えたのです。それでも、「大石様に、この命お預け申す!」という侍がどのくらい残ったのかは、さすがの内蔵助も予測がつきませんでした。しかし、憮育金で育てた者の結束は固く、少なくて30人、多ければ、40人という数を見込んでいました。そして、内蔵助は、信頼できる貝賀弥左衛門と大高源吾を呼び、両名にこう告げたのです。
「よいか、弥左衛門殿、源吾殿。内蔵助がこう申しておったと伝えていただきたい」
「大石殿には、内匠頭様のご無念を晴らす考えはなくなったようでござる。その上は、開城のときの神文を返すとのことでござる故、ご受納いただきたい」「そして、受け取った者には、一両を渡し、これは、大石様からの詫びでござる、と付け加えよ…」
「もし、大石殿ができぬと申されても、拙者は納得できぬ!と立腹されて、仇討ちの決意を見せるようなことがあれば、本心を明かされよ」
「そして、貴殿の存念、確かめさせていただき申した。大石様からは、近々、仇討ち決行の連絡がござるので、身支度を調え次第、江戸に向かっていただきたい。この三両でお支度をお願い申す」
「江戸には、12月2日。深川は八幡様前の茶屋に、正午までにご到着願いたいとの仰せでござる…とな」
こうして、最後の同志を絞り込み、決行の手筈を整えたのでした。
結果、大石の元に集まった同志は、50名になり、副将格の吉田忠左衛門を嘆かせたのでした。
「たった50人で何ほどの戦ができるのであろう…」
「そう申されるな、忠左殿。儂は、ほどほどの数であると思うておる。数は50であるが、強い意思を持った精鋭でござれば、心配は無用じゃ…」
そう言って、吉田忠左衛門を慰めたのです。
内蔵助は、同盟に残った者共の名を確認していました。
「そうか、三村も来るか?」
「おお、前原伊助や神崎与五郎もおるではないか…」
「なんと、十内殿はお年故、無理じゃと申したに…」
そんなふうに、一人一人の名を確かめながら、語りかけていたのです。
その多くは、憮育金で育てた者たちで、自分が信頼していた多くの年寄りも加わっていたからです。
実は、討ち入りの意思を示しながら、敢えて名簿から外した者もいました。それは、大石一族の者たちでした。
大石家の嫡男として、また、大石一族の頭領として「大石」という名族の存続を図らなければならなかったのです。
内蔵助は罪人になろうと、大石一族が残れば、「家」は存続できます。それに、浅野家もいずれ再興できる日が来ると考えていました。それは、「きっと、将軍が代替わりしたときだろう」という目算がありました。そのとき、赤穂浅野家の重臣たちが協力してことを運ばなくてはなりません。
そのために、兄のように信頼していた進藤源四郎を敢えて脱盟させ、そのときの軍資金を預けたのでした。
源四郎は、難くなに抵抗しましたが、
「兄上、大石家のためにござる…」
と内蔵助の涙の説得に応じたのです。源四郎は、後に近衛家の用人となり、事情を知っていた近衛基熙とともに、浅野家再興に尽力したのでした。
大石内蔵助の家は、妻りくの産んだ大三郎が広島本家に召し抱えられ、存続することができました。そして、大石家はその後も代々受け継がれ、現在もその菩提を弔っています。
信頼できる仲間というものは、有り難いものです。その信じられる仲間をどれだけ持っているかが、リーダーとしての器量なのです。そして、その信頼する仲間にも役割を与え、精鋭として絞り込む冷徹さは、軍師ならではの厳しい決断でした。討ち入りに加わらなかった同志は、討ち入りが成功したために、「裏切り者」のレッテルを貼られ、「赤穂」の名を出すことができなくなりました。中には、親戚や兄弟から責められ、切腹に追いやられた者もいたのです。世間の賞賛を浴びる侍がいる一方、世間に背いて生きなければならない侍もいたのです。どちらも辛い武士道でした。
第五戦略 「討ち入り計画」戦略
こうして集まった50名こそが、年齢は様々なれど、志を同じにした赤穂浪士の精鋭でした。江戸詰だった者たちは、江戸の町に明るいため、手分けして吉良邸付近の様子を探りました。堀部安兵衛は、剣術道場を開き、長江長左衛門として町人や御家人の子弟相手に剣術の稽古をつけながら、情報収集を行っていました。内蔵助は内蔵助で甲賀者を使い、幕府の吉良への対応や上杉の動向などを探らせていたのです。
上杉15万石の現当主綱憲は、上杉に跡を継ぐ者がいないとなって急遽、吉良家から養子に入ることで米沢藩を守ったのです。しかし、幕府への届けが遅れ、30万石から半分の15万石に減らされた経緯がありました。それでも、上杉家は藩士を整理することをしなかったため、上杉家の家計は火の車だったのです。
上杉にとって吉良上野介は、現当主の父親というだけでなく、自分の長子を上杉のために養子としてくれた大恩ある人物なのです。それは、上野介の妻が、上杉から吉良家に嫁いだ富子姫だったからです。しかし、上野介にしてみれば、男の子は、養子に出した綱憲だけで、次男が生まれていたわけではありません。もし、男の子が生まれなければ、次は、吉良家の断絶も考えられるのです。それでも、上杉家と富子に頼まれた上野介は、渋々、我が子を養子に出したという因縁がありました。
それが、刃傷事件以降、世の中は、判官贔屓のたとえがあるように、浅野には同情的でしたが、吉良は、本当に嫌われ者になってしまったのです。
「上野介は、吝嗇で、ずいぶん賄賂を受け取っていたそうじゃないか」
「それで、進物の少なかった浅野をネチネチといたぶったという話だぜ」
「何でも、増上寺の大広間の畳替えを命じたのは、前日の夜だって話じゃないか。ひでえことをしやがるもんだ…」
「内匠頭が、松の大廊下で、何度も声をかけたのに、無視しただけでなく、この田舎侍、鮒侍ってばかにしたから、内匠頭は、怒って刃傷に及んだって噂だぜ…」
「その上、浅野は庭先で即日切腹。吉良は、何のお咎めなしってんだから、ご公儀も吉良びいきってことじゃないか?」
「なんせ、高家肝煎りって言やあ、旗本でも随分、儲けてるって話だ」
「あんな奴、赤穂の連中にさっさと敵討ちされちまえば、いいんだよ」
「ああ、そうだな。何でも近いうちに浅野の旧臣が江戸に集まって、討ち入りをするらしいぜ…」
こんな噂が、街中を飛び交っていました。
確かに、刃傷沙汰直後は、そんな話もありましたが、根も葉もない噂話は、四十九日も過ぎれば、みんな忘れてしまうのが普通です。それが不思議なことに、ここに来て、また火がついたように街中の噂になっているのです。
実は、この「仇討ち」話が消えなかったのは、内蔵助に頼まれた甲賀衆が、江戸で撒いたネタでした。
町人の格好をした男たちが、夜な夜な居酒屋や仕事場で吹聴すれば、聞き耳を立てる人間は大勢いたのです。
元禄時代は、平和で穏やかな時代です。こんな敵討ち話は、芝居の中でもなかなか見られません。そんな芝居見物をするかのような感覚で、江戸の庶民は、赤穂浪士の仇討ちを心密かに楽しみにしていたのです。
それでは、なぜ、内蔵助は、こうした謀略を仕組んだのでしょうか。
それは、江戸の庶民から幕府へ、無言の抗議を期待したからです。江戸の町には、町奉行配下の同心たちが、町人街をぐるぐると巡回しています。そうすると、否が応にも同心から与力、奉行へと噂話は入っていきます。そして、町奉行から若年寄、老中、側用人、将軍へと伝わっていくのです。
特に「公儀の裁きは、おかしい?」という評判は、側用人の柳沢にしても面白くありません。それは、将軍綱吉の怒りを直接大目付に伝えたのは、自分だからです。後から老中会議で、説明しなければならなくなったことは、柳沢吉保の不覚でした。綱吉からもねちねちと嫌味を言われるし、これから権力の中枢に上ろうとする吉保にとっては、何とか挽回する機会を狙っていたのです。
そのとき、聞こえてきたのが「浅野の旧臣共の仇討ち」の噂話でした。もし、これが成功すれば、彼らは江戸の英雄になれるはずです。にっくき吉良上野介を殿様の仇として討ち果たしたとなれば、武士道に則った行為として、賞賛されることでしょう。しかし、江戸の町に騒動を起こしたことは問題です。 そこで吉保は、思案しました。そして、出した結論が、すべての責任を「吉良家」に被せてしまうことです。
今でさえ、なぜか吉良の評判は最低です。あのときは、吉良にはお咎めなしとしましたが、もし、今度、討ち入りがあれば「喧嘩両成敗」で片付けることができるのです。武士と武士の喧嘩は御法度です。双方を厳しく罰し、関係者が皆死んでしまえば、「死人に口なし」、後はどうとでもなる話です。
吉保は、せっかくの噂話に乗ることにしました。
それこそ、噂の種を撒いた内蔵助は、このときを密かに待ち望み、柳沢がこちらに有利になるように動くことを期待していました。
内蔵助の元には、甲賀衆と江戸の同志たちから、続々と吉良や幕府、江戸の町衆の情報がもたらされて来ました。
「上野介が隠居し、孫の左兵衛義周が、家督を相続して高家見習いとして出仕となりました」
「上野介の邸が、本所に移転する模様です」
「上野介が、米沢に隠居するような噂が入ってきました」
「江戸の町衆が、盛んに我々の仇討ちを望んでいます」
「公儀は、特に江戸の同志たちを取り締まる気配がありません」
「安兵衛宅付近には、ときどき、同心が立ち寄って話を聞いておりますが、こちらへの接触はありません」
などという情報は、山科の内蔵助と吉田忠左衛門、小野寺十内などの幹部たちが分析を続けていたのです。
最初の頃は、幕府の警戒が妙に緩く、「罠か?」とも考えてみましたが、これだけの噂が取り締まりの対象にならないということは、「ひょっとしたら…、討ち入りをやらせよう」という腹なのかも知れません。
幕府にとっては、即日切腹問題は、未だに尾を引いているようでした。あの後も目付の多門伝八郎が、あちらこちらに苦情を言って回るので、困った老中は、大目付の庄田下総守を罷免し、小普請組に回したところでした。
多門は、直截な物言いをする旗本で、この一件で目付職を免じられ、他の役職への配置転換が命じられていました。幕府にとっても、ちょっとうるさい男だったのです。
そんな江戸の様子を眺めていた内蔵助は、いよいよ重い腰を上げる時を感じていました。
妻のりくを離別し、豊岡の実家に返したのです。
内蔵助は、長男の松之丞だけを残して家族と別れました。りくとの間には、4人の子供がいましたが、五人目がお腹の中にいたのです。この子は、父と兄が切腹して果てた後に生まれ、大三郎と名付けられました。
実は、内蔵助には、もう一人、妾のかるに子供ができていたのです。こればかりは、内蔵助も驚いてしまいました。堕ろすこともできず、かるは子供を出産しましたが、その子の面倒を見たのは、内蔵助の家来の瀬尾孫左衛門と綿屋の人たちでした。
内蔵助は、京を立つまえに大坂に立ち寄り、綿屋善右ヱ門に討ち入りの存念を告げ、使用する武器等の手配を依頼したのです。綿屋は、この日が来ることを予想し、既に江戸の支店に申しつけてありました。内蔵助は、討ち入り時の装束は「火事装束」と決めており、赤穂城の蔵に収められていた黒の小袖や兜等を綿屋に運び込ませたのです。
これで、討ち入りの体制は整いました。綿屋の日本橋支店では、刀や槍、縄ばしごなど、必要な道具を少しずつ買い集め、目立たぬように奥の蔵の中にしまっておいていたのです。その数は、およそ50人分にもなり、浪士たちにとって大きな力となりました。
内蔵助は、決断した後は、もう迷うことはありませんでした。それに、内蔵助の情報網は非常に高度で、その多くは、甲賀衆の活躍によってもたらされたものでしたが、甲賀衆がそれを世に出すことはありませんでした。世にいう「忍者」は、江戸時代に入ると不要になり、伊賀衆は幕府の御庭番として活躍し、その多くは、全国に隠密として派遣されました。当然、赤穂や山科にも伊賀者は探索に当たっており、内蔵助一党の企みは、既に柳沢の知るところだったのです。内蔵助は、そのことも甲賀衆から知らせを受けており、柳沢の手のうちを知った上で、討ち入りの決断をしたのです。こうした首領どうしの知恵比べは、別の形態の戦でした。
「赤穂浪士討ち入り間近」の報は、隠密を放っていた他の大名家にも届いていましたが、江戸の世論が、赤穂びいきである以上、下手な手出しはできませんでした。特に吉良家や上杉家は、下手に赤穂浪士たちといざこざを起こせば、それを理由にどんな罰を受けないとも限りません。幕府が動かない以上、他藩に大義名分はないのです。こうして、決行までの時間は、着実に少なくなっていったのです。
ビジネス講座 5 「焦らず整える」ことが、成功の鍵
(1)「焦らず」じっくりと待つ
内匠頭の刃傷事件から討ち入り決行まで、1年と9ヶ月かかっています。この期間を長いと見るか、短いと見るかで、その人のリーダーとしての資質がわかります。漫然と過ごした1年9ヶ月ではありません。そこには、緻密に計算し尽くされた計略があったのです。だから、内蔵助には「焦り」がありませんでした。しかし、作戦を練っている人間は、それが自分の頭脳から生まれてくるので、いつまでも「待つ」ことができますが、ついてくる同志は、そういうわけにはいきません。いつも疑心暗鬼の中で、毎日を送っています。つまり「安心」できないでいるのです。内蔵助は、それでも待ちました。チャンスは、一回しかありません。もし、失敗の終われば、幕府は赤穂浪士を厳しく処断し、獄門台に送ろうとするでしょう。そうすれば、二度とこのような騒乱は、起こせないからです。この事件も、もし幕府が内匠頭を即日切腹などさせずに評定所に預け、きちんと吟味の上処断したのであれば、赤穂浪士の企てなど、とっくに暴いた上で、騒乱予備罪などの罪で厳しく処罰したはずです。
しかし、幕府には負い目がありました。それは、将軍綱吉の過ちでしたから、これを上手く糊塗する必要があったのです。つまり、幕府の「面目」の問題でした。
内蔵助は、そこにつけ込んだのです。そのために「武士道」に則った体裁を繕うことが大切だったのです。
幕府に「浅野家再興」を願うのが、その第一歩でした。家臣として、主家のために力を尽くすのは、「忠義」に叶う行為です。咎められる性質のものではありません。その次に、過激な藩士を「神文」という誓約書を書かせてまとめました。これは、藩士たちが、幕府の政策に異を唱え、謀反を起こすことを未然に防ぐための策でした。これにより、開城が滞りなく平穏のうちに済ませたわけですから、これも咎められることはありません。それに、神文には、「すべてを国家老に預ける」というものでしたから、殿様がいなくなった以上、赤穂浅野家は、国家老の差配にあり、当然の文言です。
そして、山科に隠棲した後は、時折、旧臣たちと会合を開いていましたが、これも一般的な親睦の会であり、元国家老が、旧臣たちを心配するのは「孝」として大切なことでした。それに内蔵助は、会合がある度に、江戸や大坂に暮らす藩士たちの窮乏を知り、貯めていた余剰金を惜しげもなく、旧臣たちに分け与えていたのです。
もし、内蔵助の周りに甲賀衆がいることを感づかれたとしても、彼らは、皆正業を持ち、「昔からの商い上の付き合いを大切にしていたまでのことだ」と開き直ることもできます。確かに内蔵助は、甲賀衆から、薬や酒、反物、衣類などを買い求めていましたので、妻のりくや使用人たちも、まさか「忍び」だとは、思いもしなかったはずです。
綿屋善右ヱ門との付き合いは、大名家に出入りする御用商人ですから、当然の関係です。そして、赤穂の塩の商いは、次の大名家に引き継がれても行われていたわけですから、元国家老の助言は大切なことでした。
このように、内蔵助は、どこから指摘を受けても、万事遺漏がないように整えていたのです。そして、浅野家の親戚筋や長矩の奥方である瑤泉院には、「しばらく山科で過ごした後は、西国の大名家に仕官するつもりだ」と見舞いの書状に書き送っています。その上、自分の金とはいえ、橦木町での遊興三昧の自堕落な暮らしを見れば、よもや仇討ちなどと言う企みを持っているなどとは、だれもが想像もしませんでした。
こうした事実をしっかり世間に知らしめるには、それ相応の時間が必要だったのです。「焦らず、じっくりと待つ」ことができるのは、赤穂藩時代、昼行灯と揶揄された人間だから、できる技でもあったのです。
リーダーには、物事を俯瞰して見る能力が求められています。目先の動きに惑わされて、焦りの中で正体を晒せば、敵は「正体見たり!」と、集中砲火を浴びせてきますが、こちらが息を潜めて動かなければ、敵も簡単には動けないものです。そして、水面下で準備を進め、周囲の外堀が埋まった頃に、果敢に攻撃に転じる勇気が必要なのです。敵は「しまった!」と臍を噛んで悔しがりますが、後の祭りなのです。
(2)内蔵助、唯一の失敗
それは、妾として囲った若いおかるに、子ができたことでした。おかるは、京都二条の二文字屋次郎左衛門の娘だと伝えられています。山科に隠棲した内蔵助の遊蕩が激しく、進藤源四郎たちが心配をして内蔵助の側に置いたと言われています。妻りくは身重の体で、内蔵助の相手はできません。赤穂にいたときも、内蔵助には二人の妾がいましたので、りくは、女郎を買うよりは…と、おかるが妾として内蔵助の世話をすることを認めていました。りくは、但馬豊岡京極家の国家老石束毎明の娘です。上級武士が、跡取りをもうけるために妾を置くことは普通のことであり、殿様の側室と同じ感覚でした。
内蔵助は、数えで18歳のおかるを妾にしようとは思ってはいませんでした。たまの生き抜きに、おしゃべりを楽しんだり、肩を揉んで貰ったり、身の回りの世話をして貰えればいい…というつもりでした。それが、りくと離別し里に帰らせると、二人は深い関係になったのです。それは「死」というものが、目前に迫ってきたことによる「怖さ」だったのかも知れません。おかるは、内蔵助を受け入れました。そして、江戸の向かう最後の日に、内蔵助はおかるの腹に子を宿したことを知らされたのです。
ここに、内蔵助が予想だにしない現実が現れました。内蔵助は狼狽え、おかるとお腹の子が憐れでなりませんでした。そこで、信頼していた家来の瀬尾孫左衛門にすべてを託したのです。瀬尾は、最後までお供をするつもりでいましたが、内匠頭の家来ではありません。大石家の用人なのです。
孫左衛門は、主の頼みを聞き、「しかと、承りました」と答えると、内蔵助は、腰に差していた大石家伝来の脇差しを孫左衛門に手渡しました。そして、「必ず、大坂の綿屋善右ヱ門宅に身を寄せるように…」と善右ヱ門宛ての手紙を託すのです。
その後、孫左衛門は、おかるを連れ大坂に下ると、綿屋の番頭として働き、その生涯を商人として閉じました。おかるは、出産後間もなく亡くなったそうです。生まれた子供は男の子でしたが、仕官をしないまま、綿屋の経理の相談に乗ったり、与えられた離れに塾を開き、論語や漢詩、書や絵画を教えたそうです。「書や絵画」は、内蔵助も達者で、現在でも何点から残されていますが、そんな風流人だった父親の性質をこの子も受け継いだのでしょう。そして、名は正確には伝わっていませんが、面差しは、兄主税良金によく似ていたと言われています。
何事にも動じないリーダーにも、人間らしい一面がありました。これがリーダーの資質とどのように関係するのかはわかりませんが、そんな心の弱さも大石内蔵助という男の魅力なのです。18歳の若い女性が、44歳の父親のような男に惹かれ、若くして亡くなったことを考えると、泉下で内蔵助と会えていれば…と願うばかりです。
第六戦略 「吉良邸討ち入り」の戦略
赤穂浪士たちによる仇討ちの話題は、当然、吉良家にもひしひしと伝わって来ていました。家臣や使用人たちも動揺を隠せず、疑心暗鬼な日が続いていたのです。上野介は、いくら考えても「仇呼ばわりされる道理」がわかりませんでした。自分は、高家筆頭として、江戸と京を往復し、桂昌院の官位をいただくために奔走していたのです。老齢に差し掛かった身で、それを行うことの大変さは、やった者しかわからない苦労の連続でした。高家職は、一見、有職故実だけを指南する仕事のように思われがちですが、その朝廷と幕府の調停役として気の遣うストレスの多い仕事だったのです。
それでも、京からの帰路、吉良の庄の領地を訪ね、代官に指示を出したり、領内を馬で回り、領民たちにも親しく声をかけたりする誠実さが、上野介にはありました。吉良の庄では、上野介は「赤馬」と呼ばれる農耕馬に跨がり、巡回して回るので、領民たちからも「赤馬の殿様」と慕われ、地元では「名君」の誉れが高かったのです。特に「黄金堤」は、他家との長い交渉の結果、造られた堤防で、これによって領内での大水は格段に減少していたのでした。また、海岸では、饗庭塩という塩田がありましたが、これは赤穂塩には遠く及ばず、それでも庶民には、欠かすことのできない塩で、全国に出荷されていました。
芝居では、赤穂塩の秘密を知りたくて、上野介が長矩に意地悪をしたような設定で描かれていますが、とんでもありません。海水は同じでも、砂や天候のの状態が全く異なり、秘密など知ったところで、品質が変わるものでもなく、真っ白な赤穂塩と茶褐色の饗庭塩では、値段が倍以上も違うのですから、話にもならないのです。
吉良家は高家とはいえ、4000石の旗本です。元々は、足利源氏の流れを汲む名門ですが、徳川家との縁は薄く、名門故に、やっと4000石で旗本に召し抱えられたのです。4000石で、江戸と吉良の庄の賄いをするのは、大変なことでした。京や江戸にいれば、馬に跨がることもありませんが、農地の多い吉良の庄では、籠で巡回することもできず、やむなく、農家で飼育されていた農耕馬を買い、使用していたというわけなのです。家臣たちは、「殿様。いくら何でも、農耕馬では…」と顔を歪めましたが、上野介は、
「何の、何の。ここは田舎の吉良の庄じゃ。江戸や京のように見栄を張ることもなかろう。それに、儂は、こう見えて、若い頃は武芸にも励んだことがあるのよ…」
と、気にする風もなく、のこのこと一人お供を連れただけで、走っていってしまうのです。その姿は、馬の体が小さいだけに、少しおかしくもありました。 家臣たちにしてみれば、並の大名家よりも官位が高く、源氏の名門の御曹司が、気安く声をかけてくれるのが嬉しくて、「名門吉良家の家臣」という誇りを持って働くことができたのです。
江戸の邸には、この吉良の庄からの侍が多く勤めており、上野介は、特に「清水一学」がお気に入りの様子でした。一学は、頭も切れるが、二刀流を習得しており、漢学の素養もあることから、いずれは、義周の側近として育てたいと考えていたのです。そんな評判の高い上野介が、江戸では「因業爺い」と蔑まれ、日本で一番嫌われている男になってしまいました。それも、まったく理不尽な事件に巻き込まれたためでした。
上野介が幕府に隠居を申し出たのも、桂昌院に「従一位」という官位が下されたこともありましたが、世間が何かと騒がしいために、「隠居してしまえば、世間も収まるだろう」と考えてのことでした。しかし、世間はそんなに甘いものではありません。日を追うごとに、上野介の悪口は尾鰭がつき、外に出歩くこともできなくなっていったのです。
そんな悪評にたまりかねたのは、上野介ではなく、周囲の大名、旗本たちでした。
「周囲が騒々しくてたまらぬ」
「もし、赤穂浪士が討ち入りでもしたら、どうするんだ」
といった苦情が吉良家や幕府に相次ぎ、上野介は、両国の本所に邸替えを命じられたのです。
本所は、武家の邸も少なく、江戸とは言っても川向こうは下総国でした。
「そんな辺鄙な場所に、高家筆頭を務めた儂が、なぜ、行かねばならんのじゃ」
と嘆きましたが、幕府の命令とあればやむを得ません。本所に移ったことで、吉良や上杉の家中も、「いよいよ、赤穂の者共が来るかも知れん」と、警護を厳しくして、上杉からの付け人も増やし、100人ほどの侍で上野介の周辺を護ることにしたのです。しかし、赤穂の浪人共が参上するまでには、それから丸一年以上の月日が流れたのです。「赤穂浪士の襲撃」の噂は、消えそうになってはまた熾り、四十九日経っても、半年経っても、それどころか、一年が過ぎた頃には、「内匠頭の命日にやって来る」という具体的な日まで噂になるほどでした。実は、この裏には内蔵助も命を受けた甲賀衆が、吉良家の緊張感を緩めないように、噂を巻き続けていたのです。これこそ、用意周到な心理戦でもありました。
これで、吉良家や上杉家の侍は、常に緊張を強いられ続けたのです。もし、路上でも襲われて殿様が殺されるようなことがあったら、末代までの恥となります。それに、幕府からどんなお咎めが待っているかわかりません。幕府に因縁でもつけられれば、吉良家のみならず上杉15万石といえども、簡単に潰されてしまうのです。
人間は、そんなに長い時間緊張感を保てるわけはありません。あれほど、仲の良かった吉良家中の侍同志の口論も増え、付け人に来ている上杉侍との間にも喧嘩が絶えませんでした。
呉服橋の邸にいたころは、茶を嗜む上野介の趣味に合わせた立派な日本庭園が造られ、屋敷内も高家肝煎りの体面を傷つけないように、清掃が行き届き、調度品ひとつ取っても、京より取り寄せた雅な物ばかりでした。そのため、周囲からは、「吉良家は、賄賂で裕福になっている…」という噂が絶えませんでしたが、京の調度品にしても、骨董品に目が利く上野介が、京の古道具やなどで安く買い求めた物がほとんどだったのです。
江戸から遠く離れれば、上野介はお供を一人連れただけで街中を歩き、先代からの馴染みの道具屋に気安く声をかけるような人間でした。京の都では、「高家」などと言っても、周りがさらに高位の公家衆ですから、商人たちも官位は関係ありません。天皇のことでさえ、「天皇はん」と呼ぶ土地柄なのです。まして、江戸の将軍家など「東夷(えびす)大将」と呼んでばかにしていました。だからこそ、気兼ねなく過ごすこともできたのです。
しかし、江戸には、都の人間はほとんどいませんでした。全国各地から参勤交代でやって来る武士たちと、昔から江戸で暮らす庶民ばかりです。京の都は、憧れの都市ではありましたが、敷居が高く、雲の上の存在のように見えていたのです。その感覚は、上野介にはありませんでした。しかし、本所に移されると、邸を修復する金もなく、見た目だけは気を遣いましたが、庭は何の風情も感じられず殺風景です。それに、家人の機嫌が悪いのか、清掃もいい加減に済ませて、あちらこちらに綿埃が舞っている始末でした。隠居した上野介は、ため息が出ることばかりでした。体だけでなく、気力もなくなり、ここ一年ですっかり老け込んだ老人が、ぽつんと部屋の片隅で好きな絵草紙をパラパラとめくって、日がな一日を過ごしていたのです。
それでも、「こんな生活はもう終わりにして、来春には、故郷の吉良の庄に戻り、百姓でもして暮らそう…」と準備を進めていたことは、さすがの内蔵助の情報網にも引っかかってはきませんでした。
その頃、内蔵助は長子主税(松之丞)とともに江戸に入り、討ち入りの日時の決定に頭を悩ませていました。なぜなら、上野介の外出が極端に減っており、その居所すらも確認できないでいたからです。万が一、上野介がいない邸に討ち入ったとなれば、これまでの一年半の苦労は無駄になります。ここは、慎重にも慎重を期さなければなりません。本当なら、邸内に間者として入り込み、内側から確認できればよかったのですが、吉良方も奉公人には、吉良の庄の人間、若しくは、米沢から連れてきた人間しか採用していませんでした。
ところが、朗報は大高源吾からもたらされました。
それは、大高の専門である「茶の湯」仲間である宝井其角からの情報でした。大高は赤穂藩では知られた茶人でした。江戸の茶人仲間とのつながりもあり、「子葉」を号し、本名の大高源吾よりも「子葉」の方が知られていたくらいです。それに、茶人の中にも源吾が、赤穂浪人だとは知らない者も多かったのです。
其角は上野介とも親しく、本所の邸で上野介と茶の湯を楽しむこともしばしばでした。その其角が、「年末に吉良邸で茶会が開かれる」ことを源吾に伝えたのです。源吾と其角は、茶人仲間であり、俳句仲間でもありました。それに源吾には、大坂訛りがあり、普段から商人くさい物腰で、あまり侍には見えないような柔和さがあったのです。
この情報を確かめるべく、内蔵助は甲賀衆に命じ、他の茶人からも同様の裏を取ることに成功しました。これで、討ち入りは「12月14日」と決まったのです。
本所の吉良邸の絵図面は、芝居と違い、意外と簡単に入手することができました。それは、ここが、元は旗本松平登之助の邸で、約2550坪あることがわかっていたからです。それに、本所で旗本邸などの修繕に出入りできる大工の棟梁は限られていたからです。吉良が本所に移ると聞いたときから、大工仕事に堪能な甲賀者が棟梁の組に入り、一年以上勤めていました。名は残されていませんが、腕の立つ職人で、吉良家が邸の修繕を頼みに来たことをきっかけに、吉良邸に入り込み、詳細な絵図面を作り上げていたのです。
さすがの吉良方も、大工までは吉良の庄や米沢から連れてくる資金はなかったのです。
内蔵助は、早速、山鹿流兵法に基づき、軍師菅谷半之丞の手配で編成と戦術を決定しました。半之丞は、内蔵助とひとつ違いの44歳。若い頃より山鹿素行の教えを受け、山鹿流の免許皆伝の軍師でした。子供の頃より、その強そうな容貌に加え、武芸に熟達した人柄は、年上の内蔵助も一目置く存在だったのです。半之丞の志は終生変わることなく、開城後の生活もまさに「時を待つ」侍そのものでした。内蔵助は、そういう半之丞を信頼し、「討ち入り計画」を内々に依頼していたのです。それは山鹿流の「一向二裏」の三人ひと組での小隊を編成し、表門と裏門から同時攻撃をかけるというものでした。時間設定は「2時間」。真冬の江戸市中で戦をするとなれば、それが限界でした。攻撃は「寅の一点」つまり、午前4時ちょうどに攻撃をしかけ、6時には終了するという手筈でした。それを過ぎれば、江戸市中の人々が起き出し、町奉行所も出動せざるを得なくなるからです。また、寅の刻前では、前日の茶会の後片付けや余韻で、熟睡していない者も多く、気づかれる恐れがありました。できれば、寒い冬のこと故、布団にくるまり、熟睡した頃が一番望ましいと考えていたのです。頭が朦朧としているうちなら、こちらの攻撃に対処することも難しく、闇雲に飛び出して来たところを、攻撃すれば、討ち果たすこともたやすいと考えていました。それも、浪士には年寄りが多かったからでもありました。
もちろん、上野介は寝所で熟睡しているはずです。そうなれば、早々に脱出することは叶いません。内蔵助は、この状況を「千載一遇」のチャンスと捉えました。
本所の吉良邸前には、前原伊助と神崎与五郎の「米屋」が店を開いていました。この店を買ったのは、綿屋の日本橋支店です。「綿屋」の暖簾こそ店先に出すことはできませんでしたが、吉良邸が本所に移転するという噂が出た直後に購入されたので、吉良や上杉が気づくことはありませんでした。それに裏手は、運河です。綿屋では、少しずつ買い揃えておいた武器をこの米屋「美作屋」に運び入れていたのです。ここから浪士たちは、こっそりと武器や武具を運び、準備を整えていました。それが、遂にこの日を迎えることになったのです。
しかし、残念なことがひとつありました。内蔵助の竹馬の友であり、軍資金の管理を任せていた矢頭長助が、この場にいないことでした。長助は、赤穂城開城後、大坂と山科を往復しながら、軍資金の帳簿を作成し、必要な支出計算をしていたのです。長助の頭脳は、今のコンピュータ並の記憶力と計算力で、藩の会計を整理した後の余剰金を一銭の単位まで把握していたのです。しかし、夏場が過ぎた頃から咳をし始め、翌年の春には床から起き上がることもできなくなっていました。その仕事は、札座奉行の岡島八十右衛門が息子の右衛門七とともに引き継ぎましたが、長助ほどにはいきませんでした。それでも、長助の残した帳簿の数々は、一銭の狂いもなく正確で、その後の支出見通しまで作成されていたのです。そして、程なく、長助は亡くなりました。目立ったことのできない内蔵助は、山科でその報を聞き、人目も憚らず慟哭したと伝えられています。
いよいよ出陣です。赤穂浪士47人は、寅の一点の時刻に、米屋「美作屋」に集合しました。ある者は、小舟で密かに運河を渡りました。ある者は、家族を寝かしつけると、だれにも告げずに木戸を潜りました。そして、ある者は、縁者に「西国に行く」と別れを告げて集まってきたのです。47人には、47人の人生がありました。
美作屋の二階で身支度を調えると、いよいよ戦いが始まります。綿屋の番頭を指揮官とする支援部隊も美作屋に陣取り、万が一けがをした場合の薬や応急処置の医療道具を取り揃えていました。また、戦闘中に飲む白湯の用意や握り飯など、5人ほどの口の堅い店の者が、白い襷とはちまきで、その瞬間を待っていました。
外は、前日からの雪で、江戸には珍しいくらいキンキンに冷えた夜となっていました。寅の時刻には雪もやみ、空には月が黄金の光を発し、それは幻想的な風景に見えました。完全武装した赤穂浪士たちは、腹の中にはカイロを詰め、厚い小袖と鎖帷子、鉄甲に鉄脚絆、帯にも鎖を仕込み、全重量は20㎏の重武装だったのです。これだけの着込みを装備しての討ち入りですから、余程でなければ即死はあり得ません。多少刀で斬られても、この武装が身を守ってくれるはずです。気温が零下にまで下がっており、この寒さが浪士たちには幸いでした。もし、気温が高ければ、これほどの武装では、暑くて体が保ちませんでした。菅谷半之丞は、そこまで計算して真冬の討ち入りを内蔵助に進言していたのでした。
それに、ほとんどの浪士は実戦経験がなく、高齢の者も多い状況を考えると、この重装備は、「死なない」という安心感を与え、敵方よりも死に物狂いで戦うことができると考えていたのです。
それにしても、綿屋善右ヱ門の働きは、有り難く、名を後生に残せないことに、内蔵助の残念な思いはありましたが、善右ヱ門は、
「そんなことは、どうでも宜しいのです。私は、この一挙に陰ながらご助力できたことを生涯の誉れと致します。また、我が店の者たちも、大恩ある大石様や大野様のご恩に報いることができるのを楽しみにしているのです」
「どうか、私らのことは気にされず、ご本懐を遂げられますよう、お祈り致します」
そう言って、深々と頭を下げるのでした。
この頃、大野九郎兵衛は、息子の軍右衛門とともに、故郷の伊予の国に戻っていました。開城前に逃亡したように見せたのは、内蔵助と謀って、密かに赤穂藩が貸し付けた金を回収して回っていたからでした。その帳簿は、内蔵助と九郎兵衛だけが知る「貸付金」で、藩の余剰金が出ると、九郎兵衛は内蔵助に報告し、その金を塩以外の投資や貸し付けに回し、運用していたのです。この二人は、とにかく無駄に金蔵に金を置いておくことを嫌いました。「金があれば、運用して増やす」ことをモットーとしており、現代の投資家以上の才覚で藩の財政を豊かにしていたのです。
それが、今回の騒動で取りはぐっては大変です。早急に手を打たなければなりませんでした。それができるのは、九郎兵衛以外にはありません。そこで、「逃亡」という体裁を取り繕って、金の回収に息子共々回っていたというのが真相でした。その際、妻や娘を置き去りにしたと言われていますが、この家族を金を持たせて里に帰らせたのは、内蔵助の裁量でもあったのです。
金の回収もすべて終わり、綿屋をとおして内蔵助の元に送ると、九郎兵衛の役割も終えました。故郷、伊予の里では、名を変えた九郎兵衛親子のことなど知る人もいませんでした。浪人姿から農民となり、少しの田畑を買った九郎兵衛は、後に庄屋の相談役となり、その村は、米作りだけでなく、塩や蜜柑、蜜柑飴に製薬と、大野親子二人の豊富な知識と経験を生かして発展していきました。長い年月が過ぎた頃、九郎兵衛は亡くなり、年老いた軍右衛門一人となりましたが、いつの間にか、赤穂に置いてきたはずの妻と一緒に、畑に出る姿を見た者がいたそうです。大野九郎兵衛は、歴史や芝居には悪役に描かれましたが、内蔵助の48人目の同志として、今でも伊予の山中に眠っています。
さて、用意万端に準備を整えた赤穂軍団は、表門と裏門に別れて攻撃を開始しました。裏門隊の大将は、元服した大石主税です。総勢47人の小部隊でしたが、強い意思を持った精鋭として仕上げてきていました。彼らが握る刀は、綿屋が一生懸命に苦労して探し出してきた業物ばかりでした。この刀なら刃こぼれもせずに、敵を十分に斬り裂くことができるはずです。
縄ばしごを使って塀を乗り越えた浪士二人が、表門の閂を外すと、一斉に表門隊が邸内に乱入しました。それと同時に、裏門隊は、掛矢を使って裏門そのものを壊して、乱入したのです。
表門には、本部が置かれ、内蔵助が腹心の貝賀弥左衛門を従えて全体の指揮所としました。そこには、「浅野匠家来口上」と書かれた趣意書が竹に挟んで立てられていました。
この口上書は、江戸詰めの堀部弥兵衛が儒学者の同志、細井広沢に校正を頼んで出来上がったものでした。堀部弥兵衛は、無骨な侍でしたが、漢学の素養があり、国元の内蔵助のよい相談役でもあったのです。娘婿とした堀部安兵衛は、赤穂藩随一の剣豪で、その名を聞けば、敵は震え上がったと言われています。この討ち入りの戦闘部隊のリーダーであり、その活躍は、だれもが認めるものでした。特に、吉良家随一の遣い手であった鳥居理右衛門との壮絶な一騎打ちは、もし、安兵衛が鎖帷子の着込みを着用していなかったら、勝負の行方はわからないほど、壮絶なものでした。理右衛門は、壮絶な戦いの後、自分の腹に刀を突き立てて死んだと言われています。
赤穂浪士たちは、乱入すると、真っ直ぐに付け人たちが住まう長屋に向かいました。そして、雨戸に「鎹」を打っていったのです。これも半之丞の策のひとつで、すぐに付け人が飛び出して来ないようにするための方法でしたが、一番の効果は、心理面でした。熟睡していたところに、大きな物音と大人数の雄叫びが聞こえてきます。深夜のため、人数の把握はできません。「しまった。赤穂の連中だ!」と気がついたときには、既に戦闘が始まり、外から雄叫びと悲鳴、刀がぶつかり合う金属音がしています。布団から飛び起きても、寝間着の着物一枚で、一瞬にして体が硬直します。それでも、勇気を奮い立たせて、刀を抜き、飛び出そうとしますが、ここで雨戸が開けられないのです。すぐに蹴破れない状態を見て、「なんだこれは…?」と躊躇する心が芽生えます。すると、一気に興奮状態が覚め、「怖さ」が心の中に顔を出してくるのです。これで、何人かの付け人が赤穂浪士と一戦も交えずに、長屋に籠もっていたことが、後から判明しました。中には、赤穂浪士が引き揚げた後に、死体の血を自分の着物や顔に塗りつけ、戦闘に加わったように装った不埒な侍もいたそうですから、半之丞の策は見事に当たったのです。そして、浪士たちも長屋などは探索しませんでした。この夜、上野介は間違いなく自分の寝所で休んでいることを確信していたからです。
次に浪士たちは、吉良邸の納戸を開け、蝋燭を取り出すと、廊下の鴨居伝いに蝋燭を懸けていきました。自分たちも小隊ごとに龕灯(がんどう)を持参していましたが、灯りが多いに越したことはありません。
そして、吉良方の付け人が準備できない間に、すべての配置を完了したのです。吉良方は、夜更けの奇襲攻撃だったこともあり、統一した指揮が執れませんでした。本当は、家老の小林平八郎が命令する手筈になっていましたが、真っ暗闇の中で銘々が、刀や槍を引っ提げて浪士たちに向かっていくしか、当座の方法はなかったのです。ここで、「一向二裏」の策が当たりました。たとえ吉良家の侍が手練れでも、三人に囲まれて勝てる者はいません。それにいくら浪士を斬り付けても、鎖帷子や鉄甲、鉄兜が邪魔をして肌を切り裂くことができませんでした。それに比べ、赤穂の浪士たちは、切れ味鋭い業物が支給されており、武装のない吉良方の侍は、刀の刃が当たるたびに出血を強いられ、次第に体力を奪われていったのです。
このとき、双方ともに実戦経験が乏しく、真剣で斬り結んだことがありませんでした。そのため、お互いに腰が引けたまま、遠間から刀を振るので、切っ先しか相手に触れないのです。安兵衛や不破数右衛門のような実戦経験者は、「鍔元で斬れ!」という教えを体得しており、自分の体ごと敵にぶつけ、思い切り切り裂くのでした。特に、人間の首筋には動脈が走っており、安兵衛は、躊躇わずに、相手の首筋に刀をぶつけ、動脈を断つ攻撃を繰り返しました。
数右衛門は、遊撃隊として、縦横無尽に邸内を走り回り、味方が苦戦しているとみるや間に割って入り、怯む敵の首筋に刀を打ち込みました。そのため、後に数右衛門の刀を幕府の役人が改めると、さすがの名刀も歪み、刃はささらのようになっていたと記録に残しています。
こうした戦闘が一時間も続いた頃、いよいよ終息が近づいてきました。既に吉良方の手練れは悉く倒され、上野介が頼みとしていた家老の小林平八郎も討ち死に。二刀流の清水一学も腹を断ち切られ絶命していました。その中で、唯一生き残った上杉侍がいました。上杉の山吉新八郎です。山吉は、体に数カ所の刀傷を負い、顔も斜めに切り裂かれて昏倒しましたが、後に蘇生し、討ち入りの状況を語りました。山吉の着ていた着物は、ボロボロになっており、その刀には、血の跡の他に、数人の浪士と斬り結んだ跡が見られたということです。こうして、吉良方の侍も不利な情勢の中で必死に戦い、忠義を尽くしたことは、記録されるべきなのです。
その頃、邸の外には多くの江戸の町人が、心配そうに集まってきていました。赤穂浪士の縁者や同志に同情する侍たちは、自ら警護を買って出て、寒空の中、槍や刀を構えて、「何人も中には通さじ!」と頑張っていました。
知らせを受けた奉行所の役人も出張って来ましたが、様子を見るだけで、咎め立てするようなことはなかったのです。
また、米屋「美作屋」からは、時折、邸内に白湯や飯、新しい刀などが運び込まれて行きました。しかし、皆、顔を隠し、武装した侍たちが護衛していたので、それを聞き出そうとする役人もいませんでした。ただ、寒い中、数十人の見物人が、ひたすら、固唾を飲んで成り行きを見守っていたのです。
おそらくは、このとき既に幕閣まで知らせが届いていたはずです。しかし、柳沢も老中も動こうとはしませんでした。ここでも、やはり成り行きを見ていたのです。そのうち、卯の刻(今の午前6時頃)近くになって勝ち鬨の声が邸内から響いてきました。吉良上野介の首が討ち取られた瞬間でした。
このときは、外にいた見物人からも拍手と大きな歓声が上がったと言われています。
上野介は、赤穂浪人の討ち入りが始まると眼を覚まし、家老の左右田孫兵衛によって邸の奥の物置小屋に身を潜めていました。ここには、三人の護衛の吉良侍がついていました。しかし、寝間着一枚で逃げてきたので、寒さで凍えて仕方がありません。次第に体を動かしたり、口を動かしたりしているうちに、浪士たちに気づかれ、呼子笛を吹かれてしまったのです。
上野介は、遠からずこの日が来ることを覚悟していました。内匠頭はいざ知らず、大石内蔵助を調べてみると、只者ではないことがわかってきたからです。「昼行灯」「凡庸」といった声もありましたが、赤穂城開城の手並みを聞くと、「これは、只者ではない」と家老の小林平八郎に語っていました。だからこそ、暖かくなれば、吉良の庄に引き籠もるつもりでいたのです。妻の富子は、「米沢に参りましょう」と誘いましたが、これ以上、上杉の世話になるつもりはありませんでした。それより、自分の故郷に帰り、また、あの「赤馬」で領内を見て回りたかったのです。そして、側にはお気に入りの清水一学を置いて、義周の助けとなるよう「有職故実」をしっかり教えようと考えていました。それは、きっと楽しい日々になるはずだったのです。
しかし、物置小屋から引きずり出され、声に促されるように顔を上げると、そこには、大石内蔵助の顔がありました。上野介は、ひと言、「大石か?」と尋ねました。
「はっ、播州赤穂浅野内匠頭が旧臣、大石内蔵助とその一統でござる…」
その内蔵助の挨拶の言葉には、刺々しさもなく、高家に対する礼儀がありました。
「そうか、大石か?会えて嬉しいぞ…」と上野介は、微笑みで返したのです。内蔵助は、驚きました。
「この方は、世間が言うような人間ではない。志は気高く、高潔な人物に違いないのだ」
「我々は、なんと愚かなことを企てたのだろう…」
という思いが頭をよぎりましたが、それでも、静かに、こう告げたのです。
「上野介殿。武門のならいなれば、ご免!」
そう言うなり、内匠頭の小さ刀の切っ先を深々と上野介の心臓に突き立てました。上野介は、呻き声を上げる間もなく、雪の上で絶命したのです。
こうして一年半にわたる赤穂浪士たちの苦難の道が終わったのでした。
ビジネス講座 6 戦術を誤るな
(1) 軍師を活用した戦術で臨む
内蔵助という武将は、戦術家というよりは、戦略家なのだと思います。彼は物事を俯瞰して見ることができます。赤穂の時代でも、国家老として冷静に浅野家の状況を分析していました。内匠頭という殿様への評価も辛辣です。生まれながらのお殿様ではありますが、厳しく鍛えられたこともなく、自分の性格にのみ頼って生真面目に生きた人ですが、目の前にある問題にしか目が向きません。そのために自分に逆らわない従順な部下だけを可愛がり、批判的な者を遠ざけました。そして、一方、人の話を聞かない独裁型の大名でした。
それに対して、吉良上野介は、苦労人です。生まれながら…という点では同じですが、上野介には、「高家職」という専門職としての仕事が待っていました。京都の朝廷との交渉ごとは、一朝一夕にはいきません。父親の義冬も同じ高家職であり、足利源氏の流れを汲む一族としての誇りは高く、義央にも厳しい指導が加えられていたのです。現代であれば、本人の資質や、やる気などを考慮して、家業を継ぐかどうかの判断もできますが、この時代、長男である義央が、高家職にならない選択はありません。幸い、義央は能力も高く、その姿も公家の若者のように雅な雰囲気を纏っていたと、妻になる富子が記憶していました。
それだけに、武士としての心得だけでなく、貴族としての嗜みにも精通し、さらに朝廷の作法である「有職故実」も体験的に学んでいく必要があったのです。それが、江戸の武家社会では異質に映り、武士なのか、貴族なのか、区別がつかない不思議な存在として、江戸城中に知られていたのでしょう。
そのため、浅野内匠頭のような単純な男には、「武士のくせに…」と、侮る態度を見せる者もいたのです。
内蔵助は、どちらかというと、上野介に近い武士の代表でした。
彼も生まれながらに…の出自ですが、武士としての心得は人並み以上に努力もし、学問にも励みました。それは、周囲の期待の目があったからです。
実際に国を動かすのは、殿様ではなく、国家老という譜代の家臣です。
内蔵助は、赤穂という場所が、京や大坂にも近い距離にあるため、町衆のことや公家衆の実態も承知していました。逆に江戸の人間の方が理解ができなかったはずです。それを補ったのが、江戸詰めの赤穂藩士たちだったのかも知れません。特に堀部安兵衛のような単純で熱い男が同志に加わりますが、二人が理解しあえたとは到底思えません。安兵衛にしてみれば、内蔵助は、押しても引いても、どうにもならない男に見えたし、内蔵助にしてみても、思考が単純すぎて、話がかみ合わないのです。やはり、安兵衛が雪国新潟の東北人で、内蔵助が近江商人型の関西人だと思えば、理解できると思います。
討ち入りに際して、その東西を結びつけたのが、山鹿素行でした。山鹿流兵学は、甲州軍学を基にしており、武田信玄の思想を強く受け継いでいました。武田軍は、織田信長や徳川家康が恐れたように、戦で敵うものはいませんでした。唯一、越後の上杉謙信だけが、終生のライバルとして登場してきます。
山鹿素行は、この甲州軍学に中国の思想家、王陽明の著した「陽明学」を採り入れた「実戦型」の兵法を赤穂に持ち込んだのです。陽明学には、「躊躇」という言葉はありません。「知行合一」という言葉が表しているように、何者にも忖度しない直情型の攻撃精神が特徴です。そのために、幕府であろうが将軍家であろうが、常に「是か非か」を問いました。幕府は、「平和な時代に権力者に阿らない過激な思想は、危険思想だ!」と断じて、山鹿素行を赤穂に流罪とします。しかし、浅野家は、その高名な兵学者である山鹿素行を客として遇し、藩士たちに教授を依頼したという経緯がありました。
討ち入りの軍師を務めた菅谷半之丞を初め、赤穂には、多くの弟子が存在していたのです。
半之丞は、その中でも免許皆伝を受けた軍学者で、内蔵助の依頼を受けると、即座に研究に取りかかりました。武田信玄が、「風林火山」という孫子の旗印を掲げて戦ったように、半之丞も自由な発想で計画を練ったのです。そのためには多くの軍資金が必要でしたが、それを生み出したのが内蔵助や九郎兵衛だったということです。特に「一向二裏」は、たとえ少数の場合でも、敵には多く見せることができました。なぜなら、深夜の闇の中で、一時に三人にかかられれば、絶体絶命です。前から来たと思えば、脇や後ろからの攻撃されるわけですから、俯瞰して見られない以上、とてつもない軍団だと勘違いをしてしまいます。その上、浪士たちは、「10人組、後ろに回れ!」とか、「20人で押しつぶせ!」などと勝手な号令をかけ合うことを約束していました。これも暗闇の心理戦としては、相手を怯ませるための作戦でした。そして、自分たちには、「山」「川」の符号を決めて声を掛け合っていたのです。
それに、真っ黒な小袖は、闇に溶け込みますが、袖には白い布を縫い付け、自分の姓名を書いておきました。これは今でいう「認識章」になります。死んでも姓名がわかれば、無駄死ににはなりません。武士は、「名誉」のために死ぬのです。「犬死に」だけはけっして、してはならない掟がありました。
よく、討ち入りが終わった後、隊列を組んで行進する赤穂浪士の姿が描かれますが、あれも、甲州流の兵法のひとつでした。要するに勝利した兵たちの功績を領民に知らせるために、堂々と隊列を組んで行進して見せるのです。現代でも自衛隊や軍隊は、隊列を組んだ行進を披露しますが、武士にとって「憧れ」の瞬間なのです。戦国時代が過ぎ去った今、こうした武士らしい行進を披露する場はありません。江戸にいた武士たちが、如何に赤穂浪士に憧れ、賞賛の声を贈ったかがわかります。これは、幕府の老中も将軍綱吉も同じ感覚を持ちました。内蔵助と安兵衛は、まったく異なる感性の持ち主でしたが、「武士」という一点において、間違いなく同志であったのです。
軍師は今でいう「参謀」です。優秀な参謀は、古今東西の戦術を研究し、今、最も相応しい策を講じることができます。そのためには、自分の感情を殺し、冷静な情報分析と戦略眼が求められます。菅谷半之丞には、戦術眼はありますが、戦略思想はありません。それを補ったのは、間違いなく大石内蔵助というリーダーだったのです。こうした大きな存在がいたからこそ、半之丞は、自分の持てる力を発揮した策を練ることができたのです。
(2) 常に「武士道」に則った作法で臨む
内蔵助の一連の行動は、すべて「武士道」という倫理観に則ったものでした。江戸時代は、紛れもない法治国家です。そして、将軍家も幕府も庶民に至るまで、「法が優先する社会」を望んでいました。「過ちを犯せば、正当な裁きを受け、罰せられる」ことに優劣はなく、武士であろうと百姓であろうと、この論理は通されなければなりません。よって、武士による「斬り捨て御免」などという法はないのです。だからこそ、浅野内匠頭が切腹という処罰を受け、領地が没収されても文句は言えないのです。それが「公」だからです。しかし、天下の将軍家がそれを犯してしまいました。それは処罰方法ではなく、「手続き」に問題があったからです。今から400年以上も前の日本で、最高権力者が、「手続き」の過ちによって非難されるわけですから、如何に日本が「公平」な社会を築こうとしていたかがわかります。天下の悪法と言われた「生類憐れみの令」ですら、その「生命尊重」の趣旨は納得できるものであり、「犬」という存在が、社会に迷惑を及ぼしていた事実を考えると、単に犬を捕まえて殺処分するのではなく、一旦保護をして矯正するなどの処置を施すことは、近代的ですらあります。そんな社会の中で、法で裁かれたことを恨み、「政府の重役を集団で襲おう」というのですから、穏やかではありません。これこそ「無法」と言うものです。しかし、一方、「武士道」という武士の倫理観に照らし合わせてみると、矛盾が出てきます。赤穂浪士が討ち入りに際して書いた「口上書」にそれがあります。つまり、「君父の仇を奉じる」という視点です。
徳川家康は、幕府を開設するに当たり、儒教の教えを武士に説きました。
「武士とは、国民すべての道徳を体現する者である」という倫理観です。儒教では、「仁義礼智忠信孝悌」を武士道の価値と定めました。その中で、「主君や父親に忠や孝を尽くすのは、武士として正しい道理だ」と諭したのです。 そして、「この仇討ちは、幕府の法に逆らうものではなく、君父の恨みを晴らすためのものであり、吉良上野介は、主君内匠頭の仇なのだ」と訴えたのです。
こうなると、幕府は武士の政府である以上、家康公の祖法には逆らえません。この武士道という倫理観が否定されれば、幕藩体制を維持できなくなる可能性があるからです。それまでの武士は、「ご恩と奉公」と言われるように、損得で動く存在でした。どの主君に仕えるかも自由、離れるのも自由、味方につくか敵に回るかも、そのときの損得次第です。そのために、鎌倉幕府は滅びました。徳川家康は、平和な社会を築き上げるために、「忠義」という思想を持ち込んだのです。そのために朱子学を奨励し、幕府の公の学問を儒学としたのです。それは、将軍綱吉であっても否定することは許されません。
内蔵助は、徹底してこの「武士道」に則った仇討ちを完成させました。
上野介を討ち取り、勝ち鬨の声を挙げた後、吉良邸の後片付けを行ったのも浪士やその同志の面々でした。警備を担当した内蔵助の親戚筋に当たる大石無人、三平親子、細井広沢、堀内道場の主、堀内源太左衛門他の門弟たち、綿屋日本橋支店の店員たちが黙々と吉良邸の清掃とけが人の手当、死体の後片付けなど、戦場の掃除に当たりました。周囲への迷惑をかけた挨拶も欠かさず、隣の土屋主税邸、本多孫太郎邸、牧野一学邸にも報告と礼を申し述べています。
これで彼らが喜ばないはずがないのです。彼らの武士の面目も立ちました。後生、この三家は、赤穂浪士の討ち入り場面を熱く語り継いだことでしょう。「武士とは、こうあるべき」という見本を内蔵助は示して見せたのです。
その後、上杉勢が来ないことを知ると、すぐさま徒歩で、泉岳寺に向かいました。赤穂浅野家の江戸での菩提寺です。ゆっくり行進している間にも日は昇り、冬晴れの空は、明るく赤穂浪士たちを包んでくれました。道々、江戸の人々の賞賛の声や拍手、酒や蜜柑、饅頭の差し入れなど、人々はその喜びを表現しないわけにはいかなかったのです。
幕府は、こうした光景を見ていました。そして、大目付仙石伯耆守は報告に訪れた副将の吉田忠左衛門と富森助右衛門の両名を労いました。それこそが、「天晴れ」の態度だったのです。
内蔵助は、回向院から泉岳寺に進む前に、吉田忠左衛門配下の足軽寺坂吉右衛門を召し出し「使い」を命じました。忠左衛門は、吉右衛門の側に歩み寄ると、これまでの忠節を誉め金子を渡しました。そして、最後に「務めを負えた後は、達者で暮らせ…」と涙ながらに諭したと伝えられています。主従の永遠の別れとなりました。
寺坂吉右衛門は、その足で南部坂の三好浅野家の下屋敷にいる瑤泉院を訪ね「仇討ち成功」の報をもたらしました。そして弟大学長広の邸に立ち寄ると、遠くは広島浅野家本家、但馬豊岡、そして大坂にいる浪士の家族を訪ねて歩いたそうです。大坂では綿屋善右ヱ門宅に身を寄せ、内蔵助が託した余剰金を困窮している家族に配って歩いたのです。
吉右衛門が江戸の仙石邸に自訴してきたのは、それから一年後のことでした。仙石伯耆守は、その行為を愛で、「既にすべての裁きも終わっておるから、このまま立ち去るがよい…」と、吉右衛門を捕らえることはしませんでした。その後、吉右衛門は、泉岳寺の同志を弔うことに努め、84歳の生涯を閉じました。
この時代、武士道こそが武士の存在理由であり、存在価値でもあったのです。こうした倫理観は、どの時代においても普遍的な価値を持ちます。ビジネスの世界においても、倫理観のない仕事は、一見、成功したかのように見えても、人の信用を失い、いずれ足下を掬われる原因ともなります。
内蔵助たちの物語が永遠に語り継がれる理由は、この武士としての倫理観を満足させるものだからなのです。内蔵助は、脱盟していった元同志たちを非難することはありませんでした。だれかが非難めいたことを口にすると、
「あの者にも、生きる縁(よすが)ができたのであろう。我々は、これしかできぬ者共なのじゃ…」
と、呟いたそうです。それを聞いていた同志たちは、皆、頭を振り、非難めいた口を慎んだと言われています。これこそが、真のリーダーの取るべき態度なのだと思います。
第七戦略 「切腹」こそが武士道の華
さて、いよいよ内蔵助の企ても最終段階に入ってきました。ここまで内蔵助は、武士道に則った作法通りにことを進め、悲願であった内匠頭の仇を奉じ、泉岳寺の墓前に吉良の首を供えました。内蔵助は、内匠頭の小さ刀で、その頭部を打ち据えたと言われています。「これで、殿のご無念を晴れたことでございましょう…」そう言うと、上野介の首は、丁寧に洗われ、泉岳寺の僧の手によって吉良家に戻されました。
幕府は、泉岳寺に目付を派遣し、簡単な取り調べを行った後、細川越中守(肥後熊本52万石)、松平隠岐守(伊予松山15万石)、毛利甲斐守(長門長府6万石)、水野監物(三河岡崎5万石)の各大名家に預けることとしました。その夜は、今度は雨になり、夜半過ぎに、網が打たれた籠に乗せられ、各大名家へと別れていきました。その際、寺坂吉右衛門がいないことを尋ねられた内蔵助と吉田忠左衛門は、「身分の軽き者故、お構いくださるな!」と不機嫌に申し述べるだけだったと伝えられています。幕府も、浅野家の直臣ではなく、忠左衛門の家来だと知ると、それ以上に詮索をすることはありませんでした。この二人の会話や態度から、「寺坂逃亡説」が生まれましたが、寺坂が確かに関係者への報告に出向いたり、一年後の大目付に自訴した事実からも、逃亡説はあり得ません。内蔵助にしてみても、そうするしか寺坂を助ける方法はなかったのです。
細川越中守邸には、大石内蔵助(1500石)、吉田忠左衛門(200石)、原惣右衛門(300石)、片岡源五右衛門(350石)、間瀬久太夫(200石)、小野寺十内(150石)、間喜兵衛(100石)、堀部弥兵衛(300石)、磯貝十郎左衛門(150石)、近松勘六(250石)、富森助右衛門(200石)、潮田又之丞(200石)、早水藤左衛門(150石)、奥田孫太夫(150石)、矢田五郎右衛門(150石)、大石瀬左衛門(150石)、赤埴源蔵(200石)の17人が預けられました。ここには、いわゆる上士身分の者たちが集められたようです。
次いで、松平隠岐守邸には、大石主税(内蔵助嫡男)、堀部安兵衛(200石)、菅谷半之丞(100石)、千馬三郎兵衛(30石)、中村勘助(100石)、木村岡右衛門(150石)、不破数右衛門(浪人)、岡野金右衛門(部屋住み)、貝賀弥左衛門(2石10両)、大高源吾(20石)の10人が預けられました。ここには、上士の縁者や中級の武士が集められました。
次いで、毛利甲斐守邸には、吉田沢右衛門(13両)、小野寺幸右衛門(部屋住み)、間新六(部屋住み)、岡島八十右衛門(20石)、武林唯七(15両)、倉橋伝助(20石)、村松喜兵衛(20石)、杉野十平次(8両)、前原伊助(10石)、勝田新左衛門(15石)の10人が預けられました。ここには、下士の身分の者が集められていたようです。
最後に、水野監物邸には、間瀬孫九郎(部屋住み)、間十次郎(部屋住み)、奥田貞右衛門(9石)、村松三太夫(部屋住み)、矢頭右衛門七(部屋住み)、神崎与五郎(5両)、茅野和助(5両)、横川勘平(5両)、三村次郎左衛門(7石)の9人が預けられました。ここは、部屋住みか、身分の低い者たちで、比較的若い浪士たちが集められたのです。
当初、各大名家では、赤穂浪士たちをどのように扱ってよいのか、相当に苦慮したことが記録に残されています。要するに、世間が騒いでいるように「武士の鑑」として処遇すればよいのか、それとも「罪人」として扱えばよいのかわからなかったのです。特に松平家と水野家は、小藩故にあまり勝手なこともできません。そこで座敷牢のようなものを造り、浪士たちを押し込めた例もありました。これは流罪になった者に対する処遇であり、自殺をしないようにカミソリやはさみなどの刃物類は一切使用させなかったということです。しかし、数日が過ぎると、どうも雲行きが怪しくなってきました。
世間での賞賛の声が益々高まり、この四家の周辺には、江戸の町衆が見物に来るようになりました。その騒ぎは、邸内にも聞こえ、「さすがに罪人扱いは、まずかろう…」ということになり、幕府に問い合わせてみても埒があきません。幕府自身が、その処遇に悩んでいたのです。
仕方なく、各大名家で情報交換をしてみると、どうも大藩である細川家が、待遇を改善し、越中守自身が浪士共に謁見して、大層誉めたという話まで伝わってきたのです。そうなると、各家も、せめて、細川家と同等の扱いをしなければならなくなりました。こうした「右ならへ」にしておけば、幕府から問われても「細川家に準じてござる」と返答ができるわけです。それに、世間の評判がこれだけ高い赤穂浪士に、酷い扱いをすれば、忽ち、世間の風当たりが強くなるということが懸念されました。「上野介殿を見よ。世間を敵に回した故、あれほどの目にあったのじゃ…」と大名家も戦々恐々でした。当時の社会は、こうした評判こそが、生き残るためには、一番大切だったのです。
浪士たちは、「こんな騒ぎは一時じゃ。年内にはお裁きがあるだろう。それまでの辛抱じゃ…」と、周囲の騒ぎを余所に切腹を覚悟をしていましたが、なかなか裁定が下されません。そのうち、年が明け元禄も16年の世を迎えてしまったのです。
正月を迎えると、祝いの酒も供され、さらに待遇改善が図られていきました。各大名家では、「幕府の裁きが下されないのは、ご赦免があるからではないのか…?」という噂さえ囁かれるようになっていたのです。
しかし、内蔵助は、「あり得ぬ!」と考えていました。ここまで武士道に則って行動したのには、理由があったからでした。それは、公儀に対する「物言い」だからです。つまり、刃傷事件における幕府の裁定に不服を申し立てたのです。それは、いずれ幕閣でも気づくことでしょう。そうなったときに、ご赦免はあり得ません。幕府は、法の裁きに対する抗議は、即ち「叛乱」と考えていたからです。これまで、多くの大名家が、取り潰されてきました。その多くは、藩内の相続争いであったり、農民の一揆であったり、相続人がいなくなったりした場合でした。特に厳罰に処されたのが、武器を隠し持っていたり、謀反を企てたりした場合です。江戸時代初期には、「島原の乱」があり、宗教が如何に抵抗力を高め、その思想が蔓延すれば国内は大混乱に陥ることを身を以て知ることになったのです。そのためにキリスト教を禁教として、厳しく取り締まりました。赤穂浪士の討ち入り事件がご赦免となれば、「幕府は法より武士道に則りさえすれば、罰ではなく賞賛を贈るのだ…」ということが広まります。それは、法を優先させる社会を築き上げてきた幕府に対する「静かな叛乱」に違いありません。今の幕藩体制の中で、それはあり得ません。キリスト教を弾圧したように、どんなに素晴らしい思想であっても、幕府の政治体制を揺るがすような考えを認めては、国を保つことはできないのです。そう考えた内蔵助は、じっと幕府の沙汰が下るのを待ちました。
その知らせが浪士たちに届いたのは、年も明けた2月4日の早朝でした。その日は、どこの預け先でも床の間に切り花が生けられていたそうです。それは、「切腹」を意味していました。朝食を済ませると、正式に幕府の目付から、切腹の沙汰が下されたのです。
切腹は、午後4時頃から約一時間程度で済まされました。実際に短刀で腹を切り裂くのではなく、短刀の先が腹に当たった直後に首が打たれたのです。それでも庭先とは言え、正式な装束で切腹させたのは、幕府の世間に対する言い訳でもありました。
幕府からの沙汰書には、「赤穂浪士が主人の仇を報じ候と申し立て、徒党を組んで吉良邸に押し込み…」とありますから、浪士たちの行動を「正式な仇討ちとは認めない」と言うことと、「徒党を組んで押し込みを働いた」ということによって処罰するというものでした。
要するに、法は法、情は情として峻別して、武士らしい「切腹」の場という褒美を与えたということなのです。
内蔵助は、細川邸で一番先に切腹の座につきました。事件勃発から二年近い月日が流れていました。切腹の座についた内蔵助に思い残すことはありませんでした。介錯を賜った細川家の御歩頭安場一平は、内蔵助を介錯した刀を我が家の家宝とし、子々孫々にまで伝えたと言うことです。
ビジネス講座 7 「切腹」こそが、成功の証
(1) 仕事の成否は、最後で決まる
内蔵助は世間的には、武士道を全うした男として賞賛されていますが、一方、これほど強烈に幕府にものを申した侍もいませんでした。幕府も討ち入り後は、浪士の行動を容認する雰囲気が満ち、幕府内でも大きな議論となりました。武士の罪を裁く評定所でさえ、「武士道に則った侍の罪は問えない」という判断を下したのです。しかし、本来であれば浪人共の裁きですので、江戸町奉行の管轄になります。それが、大名家にお預けという仮処分を下した時点から、おかしな話になってきました。これも本来なら町人と同じ町奉行所の牢屋に入るのが定めなのです。つまり、このとき既に幕府内でも重役たちが判断に迷い、浪士たちを丁重に扱うしか方法が見つからなかったということであり、最初から「仇討ち容認論」が主流だったことがわかります。
この事件は、浅野内匠頭の刃傷事件の最終章のような形になりましたが、今度ばかりは、即日処罰とはなりませんでした。将軍綱吉自身が内蔵助一党の行動に心を打たれたからです。つまり、学問好きの将軍と雖も、武士だったということです。「武士は、主君のために忠義を尽くす」という武士道の教えは、徳川家康公の祖法です。その教えが、「幕府開闢以来100年で達成することができた」と綱吉は感動していたのです。そして、「これで、徳川幕府も安泰だ」とも思ったことでしょう。戦乱の世から平和の世へと、家康は厳しい法を定め、法治国家として国を創り上げようとしました。それを知るだけに綱吉の思いは、他の武士以上に感慨深いものがあったのです。
さて、こうなると裁きが問題になります。側用人の柳沢吉保にしてみれば、武士道は武士道として認めるに憚りはありませんが、法として如何なものかと考えていました。しかし、将軍も幕閣も完全に、助命による容認論に傾いています。これを覆すことは容易ではなく、下手をすれば、柳沢自身の評判に傷がつき、出世の道を閉ざす可能性すらあったのです。
そこで、吉保は儒学者の荻生徂徠に尋ねることにしました。幕府公認の儒学者、大学頭林鳳岡は完全に容認派です。荻生徂徠は、学者としては高名でしたが、吉保の客人として邸に招き、講義を受けるような関係でもありました。そこで、自邸に徂徠を招くと、率直に尋ねました。すると、徂徠は、内蔵助の意図を読んだのです。
「吉保様、これは大石内蔵助という男の企みにございます」
「なんと…。如何様なものか教えてくだされ…」
「はい。彼の者は、相当な兵法家でござりますなあ…」
「うん。あれは赤穂で山鹿素行先生の門弟の一人であったそうな…」
「やはり。このたびの戦、一向二裏の策が見られたと伺っております」
「ああ、吉良の生き残った者が、そう証言しておる」
「あれこそは、甲州軍学の流れを汲む、山鹿流でござります」
「うん。山鹿流か…。それで、大石の企みとは何じゃ?」
「なに、これでござるよ…」
「これとは、…?」
「今、大騒ぎになっている理由はなんでござろう?」
「それは、赤穂の者共の仕儀が、武士道に則ったものであるから、仇討ちを容認せよというものだが…」
「さて、柳沢様は、何を悩んでおられるのですか?」
「無論、法に則らない仇討ちなど、認められないと思うからじゃ…」
そこで、はたと、吉保は内蔵助の意図に気がついたのです。
「そうか、そういうことか。大石め、公儀を愚弄しおって!」
そう言うと、ぎゅっと唇を噛み締めました。
「お気づきになられましたか。大石という男、相当な悪党にござりますな…」
「いや、大石というより、山鹿素行先生の企みではなかったのか?」
「はい。山鹿素行という軍師。死んでも尚、幕府を苦しめますな…」
きっと、二人の間には、こんな会話がなされたと想像がつきます。
つまり、内蔵助は、幕府の法と倫理の矛盾を突いて見せたのです。
「法で裁けるのか、倫理で容認するのか。この矛盾を解決しない限り、幕藩体制は揺らぐぞ!」という脅しでもあったのです。
荻生徂徠は、この矛盾をいとも簡単に解決して見せました。それは、荻生徂徠自身が山鹿素行を信奉した兵法者でもあったからです。
「柳沢様なら、こう事件、どう裁かれますか?」
「そうよのう…。儂なら、こう裁きをつけようぞ」
「幕府の法は法。絶対的な価値を持たせねばならぬ。そうなれば、当然、赤穂の者共には、死罪を申しつけるしかない。しかし、押し込み強盗の如く扱えば、武士のみならず、町人までもが不満を漏らし、武士道を知らぬ者として、裁定を下した幕府、いや将軍家すら批判の対象となることは必定。そうなれば、益々大石や山鹿先生の思う壺じゃ。そこで、法は法として裁き、奴らの行動を武士道の昇華として讃え、正式な形で切腹の座を与えてやるのだ。こうすれば、幕府は武士道を知る者として、天下に号令をかける資格を得ることができる」
「如何かな、徂徠先生…?」
「はい。お見事にござりまする」
「天下とは、権力を持つのみで得られるものではありません。彼の信長公は、強大な権力を手中に収めましたが、情が薄いために明智光秀の謀反を招いてしまいました。秀吉公は、権力を恣に運用したため、同志であったはずの家康公の支持を得られませんでした」
「このように考えますと、天下を治める力とは、法と情の合わせた力であることがわかります。信長公や秀吉公に、いや、側近の者共に、この智恵があれば、徳川家に天下は回って来なかったやも知れませぬな…」
「さても、大石という男、将軍家や柳沢様を、ここまで苦しめれば、死んで本望ではござらぬか…」
「おそらく、100年、いや300年後の後の世まで、この大石内蔵助の名は、日本人の心に刻まれることでありましょう。なんとも果報な男でござりますな…」 吉保は、それには答えませんでしたが、「歴史とは、そういうものだろうな…」と一人納得して冷めた茶を一口啜ったのでした。
内蔵助の意図を瞬時に覚った荻生徂徠という人物は、さすがに江戸随一の学者という評判どおりの男でした。そして、それを理解する柳沢吉保という側用人も只者ではありません。こうした智恵者が揃っていたことが、幕藩体制を強固なものにしていったのです。内蔵助にしてみれば、「その謎が解けるか?」という難題を突きつけたことで、最後の戦いを終えました。
切腹に際して内蔵助が残したと伝わる辞世の句があります。
「あら楽し、心は晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし」
この辞世は、後生の偽物だという人もいますが、まさに内蔵助らしい辞世だと思います。
仕事というものは、常に物事の真理を理解し、先の先まで読んで成功に導かねばなりません。そして、その成功が後を継ぐ人たちの教訓として生きてこそ、「完成した」と言えるのです。荻生徂徠が指摘したとおり、山鹿素行の教えは、思想的には「陽明学」でした。家康は、同じ儒教であっても「忠義の心」を強く説く「朱子学」を官学としましたが、江戸後期から幕末になると、社会の矛盾が多く吹き出すようになりました。そのとき、行動を起こしたのは、陽明学を学んだ侍たちでした。大塩平八郎、河合継之助、西郷隆盛たち陽明学徒たちは、皆、体制に逆らって滅んでいきましたが、日本人の心に強く刻まれる光を放ったのです。リーダーたる者は、堅固な思想を持ち、目先の成功ではなく、未来を見据えた成功を目指したいものです。
(2) 赤穂事件が後生に残したもの
こうして大石内蔵助を中心とした「赤穂事件」は幕を閉じました。
幕府は、この荻生徂徠の意見を入れ、「法の裁き」を優先させる社会を築き上げていったのです。そして、法に則り、赤穂浪士の遺児たちにも厳しい罰を下しました。その多くは、成人した後に「遠島」に処するというものでしたが、内匠頭の正室だった瑤泉院は、赤穂藩から返された化粧料を惜しげもなく遺児たち救済のために差し出しました。そして、内匠頭と四十七士の菩提を弔いながら41歳の若さで世を去りました。内匠頭の切腹後、13年の命でした。
この赤穂事件の最後には、もうひとつの悲劇が待っていました。それは、吉良家の改易です。幕府は、内匠頭の事件の帳尻をここで合わせたともいえるのです。改易の理由は、「一連の騒動に関する吉良家の対応の不行届」ということでした。これも幕府の難癖です。
吉良家は最初から最後まで被害者側であり、同情の余地は大いにありました。討ち入りの際も吉良家や上杉家の侍たちは、厳寒の深夜にも拘わらず必死に抵抗し、何人もの死者を出しているのです。当主の吉良義周も若いながら長刀を手にして、必死に防戦に努めました。しかし、奮戦空しく「吉良上野介義央」の首を奪われるという事態を招いてしまったのです。もし、これを「不行届」と言うのなら、江戸の治安を預かる幕府の責任も問わなければなりません。しかし、世間は、そうは見ませんでした。「これで、喧嘩両成敗が成った」と溜飲を下げたのです。
結局、吉良は最後まで嫌われ者、悪役として演じざるを得なかったのです。せめて、上杉家に類が及ばなかったことをよしとするしかありませんでした。 実は上杉家では、吉良家近くの豆腐屋(実は上杉の間者)から一報がもたらされると、当主綱憲は、「父が危ない!」と江戸藩邸の侍に出兵を命じました。しかし、それを押し止めたのが、上杉家の江戸家老、色部又四郎でした。「ここで上杉家が出兵し、赤穂の浪人共と騒動を起こせば、幕府より厳しい沙汰があるのは必定。御家の為に、辛抱くだされ!」と、綱憲を説得したのでした。
「あわよくば、吉良諸共上杉を潰してくれる」と考えていた内蔵助でしたが、上杉は動きませんでした。その後、綱憲は、失意の中で病を得、その父上野介が殺された翌年、静かに息を引き取りました。そして、そのわずか二ヶ月後に母富子も亡くなり、吉良家には不幸が次々と襲ったのです。そして、諏訪の高遠に流された義周も、その一年後に21歳の若さで失意のうちに亡くなりました。ここに、名門吉良家は断絶したのです。
この赤穂事件は、荻生徂徠が予言したように、300年後の未来にも「忠臣蔵」の物語として残されました。それは、人形芝居から始まり歌舞伎の世界で舞台化され、次いで多くの研究者が現れ、書籍化もされました。現代になると映画化されテレビの時代劇でも定番となっています。赤穂浪士は、「義士」と呼ばれるようになり、明治維新の原動力になったとも言われています。
現在でも高輪泉岳寺の内匠頭や瑤泉院、大石内蔵助たち四十七士の墓には、手向けられた花や線香が絶えることはありません。
歴史は、大石内蔵助の名を日本の英雄として残しましたが、将軍綱吉や柳沢吉保には、それほどの名声は残されてはいません。
この赤穂事件は、その後も様々な人たちが研究し、分析して来ましたが、定説がないのが特徴です。大石内蔵助は、そんな多くの謎を残して世を去りました。その謎が解き明かされたとき、内蔵助の戦略は完成を見るのかも知れません。
日本の歴史上のリーダーは、後生に多くの財産を残していきました。大石内蔵助という人物も、その一人です。その中に「法と倫理」の矛盾が指摘されています。人間は、法だけで生きることはできません。法に触れなければ、社会的な制裁(罰)を受けることはないのです。しかし、人間として見たとき、法に触れなくても、「人としての道」を外れた行為を人は非難します。武士道や道徳が、まさにその「人の道」なのです。つまり、社会は、この二つの価値が共存する形でしか営むことができないのです。今から300年以上前の元禄の時代に、そんな究極の矛盾を突いた人物が他にいたでしょうか。おそらく、日本史上、大石内蔵助、唯一人だったような気がします。しかし、法と倫理は、相反する価値ではなく共存しなければならない価値であることを、この事件は教えています。この後、日本は長い幕藩体制の後、近代国家として大きな変貌を遂げましたが、その中にある「法と倫理」という共存した価値は受け継がれ、現代の日本人の性質を創り上げて来たのです。
これからのリーダーに求められる資質として、この「法と倫理」が重要になってくるように思います。明治時代に日本の産業界を立ち上げた渋沢栄一は、商売を「経済」と訳し、経済人に必要なことは、「論語と算盤」と明言しました。つまり、「武士道に則る道徳的価値を重んじつつ、数字に裏付けられた合理性、客観性が必要だ」と説いたのです。それは、まさに内蔵助の生き方そのものでした。内蔵助は、そうした多くの経済人にも愛される日本の英雄なのです。
最終戦略 リーダーこそ、「忠臣蔵」に学べ!
人々が社会生活を営む以上、リーダーは必要です。よく「話し合い」と言われますが、話し合いによる最終決断は、だれが行うのでしょうか。確かに聖徳太子は、日本社会を築くために「和を以て貴しと為す」と、十七条の憲法に記載し「和」の大切さを説きました。それが日本という国が「大和の国」と呼ばれる所以です。しかし、話し合いだけでは物事は進みません。
「和」とは、話し合いの結果を決断する責任者、つまり「統率者」を必要としているのです。
聖徳太子は、推古天皇の摂政として国の行く末を案じ、中国(隋)の皇帝煬帝に書を送り、対等な関係を求めました。また、日本の統率者を「天皇」とし、けっして「王」や「皇帝」を名乗らせなかったのです。それは、天皇は力によって日本を統一した者ではないからです。王や皇帝は、権力の象徴でしたが、それは目に見える力の誇示でもありました。しかし、天皇は、権威の象徴です。そして、その権威は、高天原の神々の神意なのです。
そう考えることによって、日本は「万世一系の天皇」が治める国となったのです。こうした考えは、他の国にはありません。それは、日本人の智恵の結晶なのだと思います。こうした柔軟な考えは、日本人の心の形成に大きな影響を与えました。それが「道徳」です。日本人の道徳観は、江戸時代になって完成されていきますが、そこには「武士道」が大きく拘わっていることを感じている人は多いはずです。武士道には、「仁義礼智忠信孝悌」と言われるように、孔子の教え(儒教)が詰まっていました。武士は、農民のような生産者ではありません。町人のような経済人でもありません。人の上に立ってはいますが、単なる消費者でしかないのです。それも、生産者が納めた税によって生活を送っている存在です。戦国の世なら、武人として「人々の暮らしを護る」という重要な任務が与えられていましたが、平和な江戸時代では、政治を司る以外に役割がないのです。そこで新たに与えられた任務が、「道徳」の体現者としての役割でした。つまり、武士は、人の上に立つ以上、その武芸と人格を磨き、「人の道」を説く存在でなければならない…という厳しい戒律を求められました。そのため、農民や町人なら軽い罰であっても、武士は「腹を斬ることによって、償いとする」という重い業を背負わされたのです。そして、それを「当然」と考える覚悟が必要でした。この「高邁な精神と潔さ」が、「サムライ」という、新たな日本人像を造り上げていったのです。
忠臣蔵は、そんな武士の人間臭さが余すところなく描かれています。今でもこの芝居は、歌舞伎の十八番ですが、庶民にとって仰ぎ見る存在であった武士が、自分たちと同じ人間であり、様々な苦悩を抱えながら生きている人間だということがわかったのです。愛する女性や妻や子との別れ、本望を遂げるまでの苦悩、人間の弱さや脆さ、そして、苦難の末に勝ち取った栄光と死…。その一つ一つが、だれもが、自分の人生と重ね合わせることのできるドラマだったのです。
この芝居によって、武士とその他の身分の人々が、やっと、ひとつになれたのかも知れません。だれもが涙し喜び合った共感的親和性は、この芝居を永遠のものにしたのです。
今の時代、身分制度もなくなり親和性は300年前に比べれば、格段に高まっていてもおかしくはないのですが、実際の社会を見てみると、日本人全体が孤立し、だれにも親和性を求めない日本人が増えているように思います。つまらないことでトラブルを起こし、「わかってくれない」と一人で嘆き、若者は一人でご飯を食べ、仲間を作ろうともしません。身分はないのに、自分勝手に壁を造るのは、どうしたことでしょうか。
人間は、どんな集団を作ろうとも、そこには「和」と同時に強いリーダーが必要なのです。そしてリーダーは、高い志と強い決断力が求められます。今の社会は、本音で語れなくなった分、建前でしか話ができなくなってしまいました。親和性の少ない社会では、本音を出すことが憚られます。子供も大人も、父親も母親も教師も政治家も、芸能人ですら、皆、立派な人間でなければ価値がないと見做されています。本音で語れば「イメージが損なわれた」と信用を失い、建前で語れば、「本音が見えない」と怪しまれ、仕方がないので口を閉ざせば、「何を考えているのか、わからない」と責められます。
内蔵助のように、ときには橦木町の色里に通い、酒と女に現を抜かしてみたいものだと思います。こうした緊張社会は、いずれ糸の切れた凧のように、風に流され浮遊していくことでしょう。それは、国民に「志」がないからなのです。いや、ないのではありません。志を出せば、叩かれるから出せないで足掻くのです。
本来の日本人は、寛容で思いやりのある人間がほとんどでした。確かに小さな社会なので、嫉妬心も強く、小さないじめは日常茶飯事です。しかし、心根は道徳心に厚く、親切な心の持ち主ばかりなのです。そんな本来、日本人が持っている美しい姿を、生きている間に見てみたいと思います。
これからのリーダーは、大石内蔵助の戦略を学び、己の志を遂げるために、人生を賭けるような生き方をしてほしいと願っています。忠臣蔵と大石内蔵助を知る者は、真のリーダーになれるはずです。そして、リーダーはけっして万能である必要もありません。大石内蔵助という侍は、昼行灯であり、怠け者であり、女好きでもありました。だからこそ人間くさく魅力的なのです。しかし、山鹿素行の薫陶を受けたように、陽明学徒でもありました。陽明学の「知行合一」という思想は、「学問をして知っているだけでは、知らぬのと同じことだ。それを知ったのであれば、なぜ、行動しない。行動せぬ者は、卑怯者だ」というような、過激な思想でした。だから、内蔵助は「仇討ち」という武士として当然の行動を起こしたのです。内蔵助にとっては、「法」より「武士道」に生きる道を選択したということです。行動の先には、たとえ「死」が待っていようと、侍としての生き方しかできなかった不器用な人間という評価もあるでしょう。それでも、その不器用な生き方が「格好いい」のです。
完
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