歴史雑学2「回天特攻隊」の真実

「回天特攻隊」の真実 -大東亜戦争外伝-
矢吹直彦
序章 「特別攻撃隊」序曲

私の書斎の本棚に「あ々回天特攻隊 かえらざる青春の記録 横田寛」という古い本があります。昭和45年に出版された戦記物で、私は昭和50年に購入しました。私の生まれは昭和34年なので、ちょうど高校1年生のときの物です。値段は、850円となっています。当時の私の小遣いからしてみれば、非常に高価な買い物をしたものだと思いますが、子供の頃、この本を読んで非常な感動を覚えたものでした。「特攻隊」という体当たり攻撃があったことは承知していましたが、それは飛行機だけのことだと思っていた私は、この「人間魚雷」に驚き、作者である横田寛氏の数奇な運命に、目が眩む思いがしたものです。
私は、この本を二度、三度と読み返し、今でも大切に保管しています。あれから、45年の年月が経ちました。私自身も還暦を迎え、作者の横田氏は、平成3年に65歳という年齢で亡くなっていました。平成3年といえば、私も30歳を超えた頃で、もし会いに行こうと思えば、行くことが出来たのに…と今更ながら後悔をしています。横田氏は、海軍甲種飛行予科練習生13期で、下士官として、その多くが特攻隊員として散華しています。横田氏は、土浦の航空隊で「新型兵器乗員募集」に応じて、回天の特攻隊員になりました。大正14年の生まれですから、まだ10代後半の多感な時代を戦争に捧げたことになります。
彼がこの手記を書き残すことができたのは、回天特攻隊員として、三回出撃し、三回とも回天の故障により帰還せざるを得なかったからです。帰還する苦悩は、赤裸々に綴っておられますが、それこそ断腸な思いがしたことでしょう。なぜなら、「一緒に死のう」と誓った仲間が次々と発進し、自分は、機関の故障などで出撃できないのですから…。その苦しみは、この本が原作となった漫画「特攻の島」や映画「出口のない海」にも描かれています。
母艦である潜水艦が、敵の駆逐艦に制圧され、爆雷攻撃を受け続けるのです。いつ、母艦が致命傷を受け、沈没しないとも限らない極限状態の中で、出撃していく仲間を見送る気持ちは、現代に生きる私たちには、想像もつきません。それも、20歳前後の若者が体験したことなのです。
戦後、復員された横田氏は、生活のために損保会社に就職し、仕事の傍ら、全国の遺族の元に足を運んだといいます。そして、遺族に手を付き「生き残ってしまいました。申し訳ありません」と謝ったそうです。そうでもしなければ、自分が許せなかったのでしょう。この戦争の責任を一人で背負うかのように行脚を続け、回天特攻の真実を伝えようと、残りの生涯をかけました。
横田氏が亡くなって、早30年近く経ちましたが、戦争の記憶は薄れ、特攻隊の話も伝えられることはありません。横田氏のように戦場で戦った経験を持つ人の多くは既に鬼籍に入り、一番年少だった横田氏の世代の皆さんも、90歳半ばを超えています。今の人たちに話をしても、どのくらいの人が共感してくれるのでしょうか。先年、「永遠の0」という戦争小説が大ヒットし、映画やテレビドラマ化もされました。本当に珍しいことです。
令和の時代になり、大東亜戦争と呼ばれた戦争も、今や歴史の一ページに過ぎません。それでも、横田氏が、「真実を書き残したい」と願った戦争当事者の気持ちは、次の世代が引き継ぐ義務があるように感じています。
さて、「特別攻撃隊」の誕生について私の知る限りのお話しをします。少し長くなりますが、お付き合いください。

明治維新を迎えた日本は、近代国家としての歩みを始めました。その勢いは、これまでの暮らしを一変させたのです。当時の一般の人々にとって、幕末の動乱も戊辰戦争も、所詮は武士たちの争いに過ぎませんでした。古くはなりますが、徳川家康が関ヶ原や大坂での戦いに勝利したことで、「征夷大将軍」の位を天皇からいただいて、幕府を開き政治を行ってきたことは、だれもが知っている常識でした。日本という国は、「武士が統治する国」だと、だれもが考えていたのです。そのために、明治維新も、そんな戦いの結果であり、庶民は、「あれ、今度は、どこの侍が幕府を開くのかね…?」と噂したことでしょう。ところが、明治政府は、自分たちの誇りでもある「侍を捨てる」と言うではありませんか。これには、国民も驚きました。武士がいて町人がいるのが当たり前だったのに、その武士がいなくなるとは、どういうこのなのか、町名主や庄屋に聞いてもよくわかりません。そのうち、洋服だの、断髪だの、学校だのと、これまでとは全然違うお触れが出てきました。そして、街中にもハイカラな洋装をする人が増え始めたのです。まあ、ここまではよかったのですが、次に来たのが「徴兵令」です。
「20歳以上の若者は、元武士も町人も関係ない。検査を受けて合格した者は、兵隊になるのだ」
というお触れです。なんと、これまでは武士だけが武器を持ち、戦争をするのも武士の役割でした。だから、町人や農民は、武士の戦争に巻き込まれないように逃げ出すしかなかったのです。時には、手伝いを命じられることはありましたが、命のやり取りをすることはありませんでした。それが、今度は、「平民みんなが兵隊になるんだ」と言われたものだから、また、吃驚です。こうして、「国民皆兵制度」は始まりました。
それに、明治10年に起きた西南戦争は、天下の西郷隆盛陸軍大将が率いる薩摩兵と徴兵で集められた平民兵との戦いになりました。さすがにこれは、「薩摩軍の圧勝だ」と、だれもが考えていたのです。
「あの、西郷大将に勝てる兵隊なんぞ、あるわけがないじゃないか」
もし、街中で「どちらが勝つか」賭けをしたら、10対0で西郷軍にみんな賭けてしまい、賭けにはならなかったはずです。ところが、また驚くことに、平民兵の軍隊が勝ってしまったのです。もちろん、町の人は、武器の違いや戦い方の違いまでは知りません。単純に「武士が平民に負けた」と思ったのです。
こうして国民皆兵制度は、日本に定着し、陸海軍として整備されていきました。
軍隊が出来た頃の指揮官は、元武士にしかできません。軍の幹部もみんな元侍です。それも全国から優秀な人材が集められ、陸海軍の幹部になっていきました。そうなると、兵の教育も、昔の武士の教育が基になります。つまり、「武士道」が、明治の軍隊にも自然に導入されていったのです。こうして、明治時代は、武士はいなくなりましたが、武士の道徳である「武士道」は生き残り、軍隊でも学校でも、教育に取り入れられることになったのです。
そうなると、兵隊に求められる資質は、武士道の「仁義礼智忠信孝悌」です。説明をしておくと、「仁」は、思いやりや優しさを指します。兵隊は、強くあらねばなりませんが、一方で、「仁の心を持て」と教育されました。
次に「義」です。つまり正義感のことです。「義を見てせざるは、勇なきなり」という言葉があるように、「兵隊は正義感を持て」と教育されました。
次は、「礼」です。兵隊は、常に礼節を重んじ、立つにしても座るにしても、軍隊式の礼節を教わりました。
その次は、「智」です。兵隊は勉強をして賢くなければなりません。読み書きも出来ないようでは役に立たないのです。「学問は、身を立てる元」という教えで、どんな下級の兵にも初等教育は施されました。
そして一番大切な教えが、「忠」です。徳川家康が、江戸幕府を開くに当たり、武士に「忠義」を求めたことは有名ですが、兵隊にも「国家への忠義」、「天皇への忠義」を求めたのです。戦争中、「天皇陛下万歳」を叫ぶのは、このためです。
「信」は、「信用の信」です。人の上に立つ軍人として、信用がなにより大切だと教えました。幕末の志士の中には、商人たちから金を無心し、評判を落とした侍たちがいたからかも知れません。
「孝」は、「慈しむ心」です。よく「忠孝の教え」と言いますが、「国には忠、親には孝」と学校でも教えられました。
そして、最後が「悌」です。これは「長幼の序」のことです。つまり、「年長者の命令をよく聞け」という教えです。上官や教師、兄、父などの教えは絶対でした。これがなければ、軍隊の秩序は保てないのです。
こうした武士道精神は、明治の軍隊にしっかり引き継がれたのです。
武士道は、佐賀鍋島藩の「葉隠」が有名ですが、この中にある「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という一節があるように、武士には、「死」を「名誉」と捉える傾向がありました。これは、今でも時代劇などでも、よく描かれますが、侍が戦場で瀕死の重傷を負うと、すぐに切腹して果てようとします。戊辰戦争でも、会津藩の少年兵だった「白虎隊士」は、城に昇る噴煙を見て、落城と思い「会津の名誉のために…」と、自害して果てました。こうした死を名誉と考える習慣は、日本人独特の美意識だと思います。それが、明治以降の軍隊にも間違いなく引き継がれていったのです。

話を特攻隊に戻します。
こうした死生観は、日清戦争、日露戦争においても発揮されました。たとえば、当時の教科書にも、「最後まで喇叭を話さなかった木口小平」や「旅順港閉塞作戦で散った広瀬武夫」、「上海事変の爆弾三勇士」など、自分の死をものともせずに、勝利のために勇敢に散った兵隊たちが、国民の賞賛を浴びたのです。
大東亜戦争開戦直後にも、「特別攻撃隊」は編成されました。それは、真珠湾攻撃時の「特殊潜航艇」による海底からの魚雷攻撃作戦です。海軍では、小型潜水艇の研究が行われており、母艦となる大型潜水艦に搭載し、自由に攻撃目標を定めて攻撃をするというアイデアでしたが、昭和16年には、既に時代遅れの兵器になっていました。なぜなら、軍港の防衛体制は厳しく、レーダーやソナーなどが配備されると、たとえ小型であっても、簡単に隠密行動は採れませんでした。真珠湾攻撃時には、5隻の特殊潜航艇(甲標的)が出撃しましたが、潜水艇としての性能もよくなく、操縦が難しかったのです。その結果、戦果を挙げることはできないばかりか、一名の将校が捕虜になってしまいました。捕虜となった酒巻和男少尉は、大東亜戦争の「捕虜一号」として、その後数奇な運命を辿ることになりました。
当時の連合艦隊司令長官山本五十六大将は、当初は、攻撃に使用するつもりはありませんでしたが、潜水艦隊の強い要望があり、「収容方法を確認した上で許可した」と記録にあります。山本長官には、こうなることは、予想できたのです。しかし、日本の大本営は、このとき戦死した9人の軍人を讃え、「軍神」に祭り上げてしまったのです。そのため、「九軍神」の攻撃は、特別攻撃隊として国民に広く周知されてしまいました。本来なら、「失敗だった」と報告しなければならなかったのに、妙な「武士の情け」を発揮して、嘘の発表をしてしまったために、「特別攻撃隊」は生き残り、数年後に再度登場することになったのです。

ビジネス講座 1 「武士道」に頼った軍隊制度の失敗

(1)近代化されなかった軍隊
欧米の軍隊と日本の軍隊の大きな違いは、その「死生観」にありました。欧米では、自殺行為は御法度です。歴史的に戦争を繰り返していた欧米では、たとえ戦争になっても、極力犠牲者を出さないように工夫して戦いました。兵隊は、ひとつの職業として成り立っており、「傭兵」という言葉があるように、戦争をするために専門の「兵隊」を金で傭うのです。実際のその国の軍人は、指揮官ぐらいで、一般の歩兵は、ほとんどが傭兵でした。そうなると兵隊も金を稼ぐために戦場に出てきているわけですから、大けがをしたり、戦死したりしたら元も子もありません。適当に撃ち合っては、さっさと引き揚げるのです。勝つとわかれば、猛然と攻撃に転じますが、負けが見えれば、だれも指揮官の命令など聞きません。さっさと退却し、そのまま逃げ帰る者もいたほどです。この割り切り方が出来なければ傭兵は務まらないのです。
日本でも、戦国時代までは、この傭兵思想はありました。織田信長の軍隊は、まさに専門の傭兵部隊でした。金で兵隊を雇い入れて戦わせるのです。だから、本気なって戦うのは、織田家の家臣だけでした。そのために信長は、長槍を持たせたり、鉄砲を持たせたりしました。なぜなら、傭兵は白兵戦が嫌いだからです。敵の兵隊と刀同士でぶつかり合えば、当然けがをします。そんなことになるなら、隙を見て、とっとと逃げ出すに決まっているのです。だから、信長軍の兵隊は「弱い」と評判でした。兵隊を強くしたければ、もっと報酬を出して、「少しくらいのけがなら、割に合う」と考えるような待遇にしなければ、優秀な兵隊は集まりません。そして、傭兵も長い期間戦場に出ていれば、戦上手になってきます。多少のけがもしますが、戦場での勘も働き、経験の浅い指揮官に助言ができる者もいました。いわゆる「古参」と呼ばれるベテラン組です。信長軍は、当初は弱い軍隊でしたが、大金を積まれ、専門的な軍事訓練も受けて何度も戦場に出て行くようになると、他と比べても段違いに「強い」軍団に成長していったのです。
この考え方は、欧米の兵隊の思考に通じるものがありました。だから、アメリカ兵は、簡単に命を捨てるような真似はしないのです。アメリカ軍にとって、戦争は大きなゲームです。もちろん、戦場に出れば死を覚悟しなければなりませんでしたが、絶対に無理はしませんでした。ただし、勝ち目が見えたときのアメリカ兵は非常に強く、勲章や恩賞めあてに暴れまくったのです。
たとえば、戦争の初期に、南太平洋のガダルカナル島の争奪戦がありました。このとき、最初の頃は日本軍が優勢に推移していました。ガダルカナル島は、オーストラリアの北東にあり、パプア・ニューギニアの東に位置する小さな島です。ソロモン諸島のひとつで、日本軍は、オーストラリアとアメリカの交通を遮断するために、ここに航空基地を設けたいと考えていたのです。
ガダルカナルには、日本の守備隊が置かれ、海軍の設営部隊が飛行場の建設を進めていました。ここに、飛行場が完成すれば、ソロモン海の制空権を確保してオーストラリアを圧迫することができます。これに気づいたアメリカ軍は、ガダルカナル島への上陸を目指して猛攻撃をかけてきたのです。当初は、ラバウルからの日本海軍の攻撃により一進一退を繰り返していましたが、アメリカは、その物量にものを言わせて、何度、日本海軍に叩かれても、退こうとはしませんでした。そのうち、劣勢に立たされた日本軍は、上陸した陸軍部隊が殲滅され、生き残った兵への食糧補給もままならず、「飢島」とまで揶揄されるようになりました。結局、根負けした日本軍は、ガダルカナル島を放棄して撤退したのです。そして、これを日本国内には「転進」という言い方で負け戦を誤魔化しました。
「アメリカ兵は、享楽的で我慢ができない兵隊だ」と思い込んでいましたが、この粘り強さと豊富な物量が勝敗を分けたのです。日本軍にとって、最大の敵が現れたことに、気づかされた戦いでした。
アメリカ人が戦争をゲームのように考えていた証拠に、その戦い方があります。日本軍は、常に「1セット」しかありませんから、予備の兵力となると、格段に力が落ちてしまいます。そのため、全力での兵力の投入ができないのです。ガダルカナルでも、大隊や支隊規模の兵力を小出しにしたために、アメリカ軍に持ち堪えられてしまいました。もし、海軍の戦艦部隊に陸軍の師団規模の兵力を載せて、一気に攻め寄せれば、ガダルカナルは日本のものになったはずです。それを「この程度で十分だろう…」という「けちくさい」机上のプランで戦争を指導したために、ゲームに敗れることになりました。
それに比べてアメリカ軍は、常に「3セット」は用意していますので、ひと月も頑張れば、次のチームと交替できたのです。それは、陸上でも海上でも、空でも同じでした。人員も兵器もすべて「3セット」でアメリカ軍は戦っていたのです。また、日本兵のように、「最後まで戦って玉砕する」といった死生観はありませんので、「無理なら、即、撤退」します。そして、様子を見て武器や人員を補充し、再度、攻撃を仕掛けるのです。玉砕などしてしまったら、次の作戦に支障を来すことは明白で、そんな不合理な戦いはしませんでした。その他にも、アメリカ軍には、「救助専門部隊」が存在していました。救助部隊には、捜索隊も航空機も潜水艦もあります。彼らの任務は、戦場に取り残された兵隊を必ず収容することにあったのです。もちろん、すべてを回収することは出来ませんでしたが、戦いの最中、最前線まで救援機を飛ばし、パイロットを回収していく敵飛行艇の姿を日本兵は見ていました。それに、飛行機には遭難用の機材が装備されていて、救助される数日間の食糧と水、ゴムボート、無線機などが積まれていたそうです。彼らにしてみれば、「必ず、助けが来る」と信じられたからこそ、必死に戦うこともできたのです。やはり、アメリカン・フットボールを生み出した国は違います。
こうした戦争すらもゲームと考えられるアメリカ軍と、後先も考えず、がむしゃらに戦う日本軍では、一回戦、二回戦くらいまではわかりませんが、五回、六回とゲームが進むと、その点差が大きく開いていく野球の試合のようでした。アメリカ兵は、「バント」だろうが、「盗塁」だろうが、「ヒットエンドラン」だろうが、相手の隙を突いて一点をもぎ取る作戦は、お手の物だったのです。いつも「ヒット」か「ホームラン」狙いの強振し過ぎるバッターでは、三振の数も多く、勝利を得るための試合にはならないと言うことです。おそらく日本兵は、アメリカ式の戦い方を見て、「卑怯者!」と叫んだことでしょうが、「攻める、引く」をよく弁えた戦い方を心得ていたということです。 こうした日本人独特の武士道精神が、最終的に「特攻」を生み出す土壌の原点だったのです。

武士道精神は、平和な時代であれば非常に秩序を保ちやすい道徳観です。日本人が、ルールを破ることに対して非常に敏感なのは、こうした「信義」に基づく感性があるからだと思います。これが、一歩間違えると「潔癖性」となり、融通の利かない対応になることがよくあります。そして、臨機応変な柔軟な対応が苦手です。いつも慎重で、「マニュアル通りに行動するので、次に何をするのかが想像しやすい」と、アメリカ軍の情報将校は漏らしていました。 これが、外国人相手のビジネスの場では、マイナスに作用することがよくあります。「日本人は、几帳面でまじめだが、融通が利かない」と言われ、ビジネスチャンスを逃しては何にもならないのです。これからのビジネスは、心には「武士道」精神を持ちながらも、現代のニーズに合わせて臨機応変な対応が求められるのです。

(2)「和」を尊びすぎた弊害
日本人の心の根底には、「和」を尊ぶ精神があります。これは、小さな島国で暮らす知恵でもありますが、和の精神が、とんでもない方向に向かうこともあるのです。話し合いにしても、議論にしても、だれもが傷つかない方策を探ろうとして、とんでもない結論を導き出すことがあります。それは、この「特別攻撃隊」にも当てはまりました。激しい戦闘の結果、自分の身を投げ出して自爆攻撃をすることは、これまでも、いくつもありました。珊瑚海海戦では、敵艦隊を発見した偵察機が、味方の攻撃隊と遭遇するやいなや機首を反転させ、敵機動部隊の誘導に当たったのです。もちろん、こんなことは、命令にはありません。しかし、敵を発見できなければ、千載一遇の機会を失うことになります。それを考えた偵察機の菅野兼蔵機長は、帰りの燃料がなくなることを承知で、味方攻撃隊を敵機動部隊上空まで誘導して散華しました。これなどは、まさに「自分たちの命を犠牲にして勝利に貢献しよう」という、彼らの自発的な行為でした。しかし、これを「美談」にしてしまったために、指揮官たちが、だれともなく、美談を求めるようにしまったのです。もし、これがアメリカ軍なら、「命令違反」を指摘し、厳しく咎めることをしたでしょう。そして、その後に、感謝の気持ちを表したと思います。この「違反」をしっかり評価しないと、「たとえ、命令に違反しても、美談になる行為なら許されるのだ」という雰囲気が醸成されてしまうのです。
日本人は、非常に情緒的な民族です。法より情緒が優先されてしまえば、戦争も情緒的な作戦が好まれることになります。もし、参謀が兵力の数を誤って全滅しても、「美談」にすり替えてしまえば、失策を犯した参謀は、処罰されることなく、また、次の失敗を繰り返すのです。日本人は、「美談は、結果としてついて来るもので、作るものではない」ことを強く認識しなければいけなかったのです。
結局、「特別攻撃隊」は、「作られた美談」になってしまいました。特攻を計画した者も、特攻を命じた者も、この美談によって救われ、戦後も生き残り、特攻隊員たちの美談を語り続けたのです。

組織を運営するに当たっては、人の「和」を大切にすることは大切です。しかし、「和」だけを強調しても、その組織は発展しません。なぜなら、だれも傷つけまいとして、本来選択しなければならない決断ができないからです。
特別攻撃隊も本来であれば、真珠湾攻撃で止めるべきでした。フィリピンのレイテ決戦において、大西瀧治郎中将が、自分の一存で「特攻攻撃」を命令したのも、この決戦で戦争を終わりにする覚悟があったからです。しかし、レイテ決戦は、戦艦部隊を指揮した栗田健男中将の誤った判断で、大失敗に終わりました。それでも「神風特別攻撃隊」による戦果は大きく、これ以降、特攻作戦は、止まることを知らず、終戦の日まで続くことになったのです。
大西中将が「統率の外道」とまで言った作戦が成功を収め、「美談」として語られたことで、だれもが「おかしい…?」と思いながらも、口にすることが出来ず、続々と若者たちに出撃命令を下したのです。そして、その出撃命令を出した指揮官たちは、大西中将ほどの心の痛みは感じていませんでした。
日本人はとかく「和」を重んじますが、それに流されることは大変危険な行為です。「否定する勇気」もリーダーには必要だという教訓を「特攻隊」は残してくれています。

(3)軍隊に必要な「合理性」
先ほども述べたように、アメリカ人は、戦争すらもゲームと見做していました。この感覚がなければ、新大陸に乗り込み、原住民であるインディアンとの死闘に耐えられるはずはなかったのです。それに、独立戦争、南北戦争と、彼らは自分たちの「権利の主張」を力で奪い取った歴史がありました。「強い者が富を得るのだ」というわかりやすい論理は、日本人にはないものです。
アメリカは今でも極端な格差社会ですが、それが容認されるのは、「フロンティア・スピリッツ」という開拓精神があるからです。強い者が勝利者となり、多くの土地を得る。奴隷を使うのも、勝利者としての当然の権利なのです。それに不満な者は、自分が勝利者となって富を奪えばいいだけのことです。こうしたわかりやすい思考が、国を発展させていきました。
日本との戦争も、アメリカに敵対する勢力として、日本が国際社会に出てきたことが原因でした。挑戦するつもりなら、アメリカは絶対に引くことはないのです。日本は、そのアメリカの真意を理解していませんでした。日本人の知っているアメリカ人は、いつも陽気で気楽に声をかけてくれました。日本人が渡米しても親切にもてなし、日曜日には教会に通い、キリスト教を信じる姿からは、戦いを好むような人たちには見えなかったのです。
その評価は、けっして間違ってはいません。表面的には、そのとおりです。しかし、一旦敵対すると、アメリカ人は絶対に許さないのです。そこには、日本人には計り知れない、アメリカ人の魂が宿っているからです。
こうした精神で、多くの戦いに勝利したアメリカは、戦い方もよく心得ていました。アメリカ軍が人命を重んじるのは、その方が効率がいいからです。一人前の兵隊を造るのには、相当の時間と費用が必要になります。たとえば、航空機の操縦技術をマスターするのに、今でも数百万円の費用がかかるはずです。まして、特殊飛行や航空母艦への着艦が可能になるパイロットになるには、少なくても、毎日訓練に励んで、5年程度の時間が必要です。おそらく、飛行時間は、500時間は必要でしょう。そんな莫大な費用と時間をかけて育成したパイロットを、たった一会戦で失ったら、とてつもない損害を被ることになります。それなら、パイロットを守る防御装置を開発して、機体も頑丈にすることを考えます。万が一、撃ち落とされても落下傘で降下し、すぐに無電で救助隊を派遣するシステムが整っていました。もし、日本軍が、こうした思想で軍隊を整えていたら、戦死者の半分は助かっていたはずです。
「人間の命を軽視する」ということは、計算上も非常に不合理で、効率の悪い方法だったのです。まして、一度の出撃で死ぬような「体当たり攻撃」など、愚の骨頂というほど、愚劣な作戦に見えたことでしょう。それだけに、日本人の思考がわからず、「悪魔」のように恐ろしく見えたのです。
日本の精神主義は、「貧乏故の問題」だと言われますが、兵隊を消耗品としか考えられないことが、そもそも大きな問題でした。「貴様の替わりはいくらでもいる」と嘯く上官がいたそうですが、そんな替わりはどこにもいなかったのです。人の頭数だけ揃えても、軍隊として組織的な運用ができません。アメリカ兵は、一人一人に考えさせ、上官であろうと意見を言う権利を持たせました。二等兵が少佐にだって文句が言えるのです。何でもかんでも、イエス!などと言う兵隊はいませんでした。だから、アメリカ兵は、たとえ一人になっても戦闘が可能だったといわれています。逆に、ものを考えたり、言ったりすることを禁じられた日本兵は、集団では強い力を発揮しましたが、一人になると、どうしていいかわからず、敵にさっさと降伏したと言われています。たとえ、士官学校や兵学校を出た正規将校であろうと、一旦捕虜になってしまえば、通訳官の誘導に乗せられて、聞かれてもいない情報を漏らしたそうです。日本軍には、捕虜になった際の規定事項すら定められていなかったのです。
日本軍も、その創設時に、「近代の軍隊の思想や運用」をきちんと学んでおくべきでした。
日本海軍で一番不合理な扱いを受けたのが、「戦艦大和」でしょう。国民の血税を使い、世界一の巨艦を建造しながら、使ったのは終末期のレイテ決戦と沖縄特攻作戦だけです。それも性能を十分に発揮させないまま、海の藻屑と消えていきました。
こんな立派な軍艦なら、もっとフル稼働させ、機動部隊の護衛艦にでも使えば良かったのです。アメリカは、日本の機動部隊の運用を見て、戦艦を早々に護衛艦扱いにしました。もちろん、戦艦部隊の艦長たちからは不満も出ましたが、「航空機優先」となった戦争に、でかいだけで制海権も奪えない戦艦など無用の長物です。しかし、最新のレーダーを装備し、効果的な防空システムを構築すれば、敵機の攻撃から航空母艦を守ることができるのです。もし、ミッドウェイ海戦に戦艦大和が護衛に就いていたら、その最新レーダー装置で敵の攻撃が早々に予測できたはずです。それに、敵機の多くは大和に目が向き、航空母艦4隻が一気に沈められることもなかったでしょう。後方からのこのことついてきて、何の働きもしないことこそ、不合理だというのです。
おそらくは、日本人特有の「貧乏性」が出て、「今、使うのは勿体ない…」とでも考えていたのかも知れません。それに、そんな巨大軍艦を連合艦隊の旗艦とする発想そのものが、不合理なのです。これも「日本海軍の象徴」とでも言いたかったのでしょうが、象徴なら「旗」一枚で十分です。どうせなら最新鋭の軽巡洋艦を旗艦として、高速を生かしてあちらこちらを走り回れるようにすれば、指揮を出しやすかったはずです。若しくは、アメリカ海軍のように、基地を陸上に移し、横須賀軍港からでも指揮を総合的に行った方が、効果的だったはずなのです。この点から考えても、有名な「山本五十六」という指揮官が、有能だったようには見えません。

現代でも、企業のトップが立派な社長室に居座り、仕事を部下に任せているようでは、企業の発展はありません。社長室が立派なら、それを上手に運用するシステムを構築しておくべきなのです。単に豪華に飾った応接室では、指揮命令がタイムリーに行うことはできません。常に「世界の情報」が一元化されて入手できるように工夫し、それを分析、考察する場とするべきです。そして、必要な部署にチェックを入れて、常に「合理的思考」で仕事が進められているか評価するのがリーダーの役割です。そして、社長室は、作戦会議が開ける場として開放し、正確な情報を基にして闊達な議論が為されるよう促し、たとえ、新入社員でも、上司に意見を述べる「権利」を保証するべきです。
アメリカ海軍の副長職は、上司である艦長や司令官の意見に対して、「必ず、反論せよ!」という規定があるそうです。つまり、上司は、部下からの反論を受けて、きちんと自分の意見を論理的に説明しなければなりません。この一文があることで、副長は、経営に参画できているのです。
日本もそうすれば、パワハラやセクハラは、その企業から一掃され、未来に活躍できる人材も育成されるに違いありません。物も人も効果的に活用してこそ、リーダーというものです。

ビジネス講座 2 なぜ、「回天」だったのか

(1)潜水艦運用の勘違い
大東亜戦争における日本海軍の潜水艦の運用は、大失敗でした。それは、潜水艦を建造した時点での根本思想が、「艦隊決戦」にあったからです。日本海軍は、その草創期から、「世界進出」を意図した海軍ではありませんでした。イギリス海軍を真似てはいますが、思想が根本から違うのです。
イギリスは、帝国主義の盟主です。世界中に「民主主義思想を広め、遅れている国を発展させる」という名目で、植民地支配を進めていました。実態は、現地国の人々から搾取し、大英帝国を繁栄させるだけのことだったのです。「イギリスは、陽が沈まぬ国」と呼ばれたように、アフリカ大陸、アメリカ大陸、オーストラリア大陸、アジア大陸にまで勢力を伸ばし、日本に触手を伸ばしていたことは、歴史の常識です。そうなると、世界中の海を支配する海軍が必要となりました。反面、日本は違います。
近代に遅れて参加した日本は、そんな帝国主義の国から、日本を防衛しようと海軍を創設したのです。陸軍も他国を侵略しようとして創設した軍隊ではなく、西南戦争のような内乱を防ぐために創設されたのです。こうした「内向き」の軍隊は、長期戦を想定してはいません。日本を侵略するために向かって来る「元寇」のような敵ですから、常に短期間で勝負をつける「決戦思想」が主流となりました。
実際、日露戦争のときの日本海海戦や奉天大会戦を見ればわかるように、敵の主力軍と一大決戦を行い、講和に持ち込むというのが、日本の国家戦略だったのです。ところが、大東亜戦争が始まると、アメリカに主導権を握られ、長期消耗戦に引き摺り込まれたことは、ご承知のとおりです。それでも、日本軍は、常に「短期決戦」を模索していました。
潜水艦は、戦艦同士の艦隊決戦が行われるときに、決戦海面に潜み、敵の軍艦に魚雷攻撃をかけて敵の艦隊を混乱させることが目的でした。これは、日露戦争時の「魚雷艇」の活躍にヒントを得たものです。魚雷艇は、非常に小型のボートであり、その高速を生かして魚雷を敵艦に撃ち込むという戦法を採っていました。補足され、撃沈される可能性は高い必殺兵器ですが、海戦時には、かなり有効な兵器だと考えられていました。それに眼をつけた海軍では、さらに隠密性の高い潜水艦を建造し、魚雷艇のような攻撃をさせようと考えていたのです。しかし、現実には、アメリカの技術力が、その潜水艦の能力を削ぐ結果となりました。
既にドイツ海軍は、第一次世界大戦で小型の潜水艦である「Uボート」を使い、交通路の遮断作戦を行い大戦果を挙げていました。Uボートは、単艦で自由に動き回り、敵の貨物船が物資を運んで航行するところを狙って魚雷攻撃を仕掛けたのです。この頃の輸送船は、第二次世界大戦のように、多くの護衛艦隊に守られてはいませんでしたので、攻撃も容易で、レーダーやソナーが開発されていない頃でもありましたので、潜水艦攻撃は大変有効だったのです。
第一次世界大戦を観戦した軍人たちは、ドイツ軍の戦い方を見て、勉強したはずです。「これからの潜水艦は、単艦で自由に行動させるべきだ」と唱える参謀もいましたが、日本海軍首脳部は、これを受け入れませんでした。なぜなら、日本海軍の戦略が、「短期艦隊決戦」だからです。
それに、日本海軍は、そのための予算を確保し、戦艦部隊の充実に努めていました。大正時代から昭和初年での軍縮会議で、日本が一番固執したのが「戦艦の比率」だったのです。会議ではアメリカやイギリスとの比率を約「6割~7割」とされましたが、艦隊決戦思想の強い日本海軍の「艦隊派」と呼ばれた軍人からは、猛反対を喰らったのです。そのくらい、戦艦中心の艦隊決戦への執着心は、異常なほどでした。
しかし、そうまでして獲得した予算で製造した戦艦群を無用の長物にしたのは、山本五十六が考案した「機動部隊」でした。山本は、日本の国家戦略を百も承知していながら、一夜にして覆してしまったのです。それにより、潜水艦の用法も自ずと変わって来なければならなかったのですが、山本は、その説明も説得も怠り、むざむざと優秀な潜水艦部隊を無駄に消耗してしまったのです。
結局、「艦隊決戦」が起こらない以上、潜水艦の敵戦艦撃沈の可能性は著しく低下していきました。
昭和18年頃になると、アメリカの護衛体制も万全になり、輸送船団は多くの駆逐艦の護衛を連れて航海するようになっていました。駆逐艦には、海底の物体を探知するソナーと、航空機を発見できるレーダーが装備されていました。また、潜水艦攻撃用の爆雷も多く積んでおり、数隻の駆逐艦に制圧されれば、潜水艦はどうにも攻撃できませんでした。そのため、日本の潜水艦は、輸送船団に近づくことも出来ずに、海の底に沈んでいったのです。
それでも、自由に行動することが許されれば、隙を突いた攻撃も可能でしたが、連合艦隊司令部は、「○月○日までに、○○海域に到着し、攻撃をかける」的な予定を立てて命令を下していたので、各潜水艦の艦長は、その海域の状況の如何に問わず、命令を厳守しなければなりませんでした。この無電を傍受したアメリカ軍は、そこに駆逐艦の部隊を派遣し、時間どおりに到着した日本の潜水艦を次々と沈めていったのです。
第一次世界大戦の教訓でもわかっていたように、潜水艦は、単艦で自由に動き回り、敵の隙を突いて攻撃する隠密性が求められていたにも拘わらず、それに気づくのは、昭和20年になってからのことだったのです。
この用兵の間違いは、艦隊決戦をやめてしまったことにありましたが、海軍の首脳部は、いつまでも、この思想に囚われ、抜本的な改革が出来ずに、終戦を迎えたのです。

日本海軍は、「日本海海戦」の成功が忘れられず、同じような艦隊決戦が50年後にも起きると信じていたのです。50年も経てば、科学技術も進歩し、戦い方も変わるのは常識ですが、成功体験というものは、そんな常識を忘れさせてしまうものらしいのです。
日本の企業でも、どんなに成功体験をしたとしても、50年後に生き残るのは大変なことです。戦後、日本の産業界は、第一に「石炭産業」、第二に「造船業」、第三に「繊維産業」でしたが、50年後の今、日本の産業界は、第一に「自動車産業」、第二に「IT・AI産業」、第三は、見つかりません。その間に繁栄した「家電産業」「金融業」「半導体産業」は停滞し、昔の栄光はありません。第一の自動車産業も、一部の大企業に多くの同種企業が併合され、競争にならない状況が続いています。
企業経営でさえ、50年後の未来はわからないのに、最新の兵器を操る軍隊が、旧態依然のままであるはずがないのです。要するに、明治、大正時代に政治を担った人たちは、未だに江戸時代の感覚で時代を見ていたことになります。それが、大きな失敗でした。

(2)余っていた「酸素魚雷」
日本の潜水艦の大きな武器として装備されていたのが、「酸素魚雷」でした。酸素魚雷は、燃料を燃焼される際の酸化剤として酸素混合気体、もしくは純酸素を用いました。アメリカ海軍などでは、通常の空気を使っていましたが、純酸素を使用すると、燃焼効率が高まり、気泡が海面に出にくい効果と、アメリカの魚雷と比べても、5倍近い走行距離を誇りました。この魚雷は、確かに画期的な発明品ではありましたが、実際には、あまり効果はなかったのです。それは、そんなに長い距離を走らせても、目標が小さく、当たる確率が減少するからです。それに、隠密行動なら、密かに敵艦が気づかないうちに攻撃も可能ですが、自由行動が制限されていた潜水艦は、せっかくの優秀な魚雷が宝の持ち腐れとなってしまったのです。その上、純酸素を使うので、扱いが難しく、デリケートな魚雷だと言われていたのです。
アメリカ海軍は、日本の魚雷に比べれば数段性能は落ちますが、近距離に接近してから撃つように指示をされていますので、性能の違いは、致命傷にはなりませんでした。
そのうち、潜水艦が消耗し、駆逐艦も魚雷攻撃をする海戦の機会が少なくなったために、多くの酸素魚雷が、倉庫に山積みとなっていたのです。それに目をつけたのが、黒木博大尉と仁科関夫中尉という二人の若い海軍将校でした。 二人は、真珠湾で出撃した特殊潜航艇の訓練を受けていましたが、なかなか出撃の機会はありませんでした。そこで、二人は、この酸素魚雷に兵隊が乗り込み、自分で操縦することで、「眼のある魚雷」にしようと考えました。
今では、スクリュー音等に反応して、追尾できる魚雷がありますが、当時は、そこまでの技術はありません。そこで、酸素魚雷を「小型潜水艇」に改造して、搭乗員諸共、敵艦にぶつける特攻兵器の開発を司令部に陳情したのです。
司令部としては、特攻攻撃に諸手を挙げて賛成は出来ませんでしたが、二人に開発の許可を出して実験をすることになりました。工場でやっと改造した酸素魚雷は、一回りほど大きくなりましたが、一人が乗れる座席と、潜望鏡を装備して、訓練を始めたのです。
ところが、実際に走らせてみると、これが難題でした。補助翼のような安定器もなく、魚雷と同じ構造ですから、意外と操縦が難しいのです。搭乗員は、手や眼を使い、あちらこちらの弁開いたり閉じたりと、休む間もなく操作する必要があったのです。アメリカ海軍なら、きっと三動作程度で操縦できる装置が開発できるまで、訓練には入らなかったでしょう。日本海軍は、造るとなれば、それを操る人間のことまで考えないのです。まして、飛行機のように、操縦桿で操作するのとは違い、上下、右左と、これをマスターするだけでも相当の能力が求められたのです。それに、潜望鏡がなければ周囲の状況もわかりません。黒木大尉や仁科中尉にしても、頭で想像していたものとは、かなり違う兵器になっていたことに、驚いたと思います。
それでも二人は、必死に改良を加え、実験を繰り返し、やっと実戦に使える目処がついた時、発案者の黒木博大尉が殉職してしまいました。これは、波の高いときに操縦を誤り、海底に突っ込んでしまったためでした。回天の事故は、脱出装置もありませんので、海底に刺さったまま身動きが取れなくなり、窒息死してしまいます。しかし、やっと苦労の末、「実戦に使える目処が立った」ということで、正式に「回天」の名が与えらました。

こうした工夫をするのも、日本人の特長なのかも知れません。しかし、元々、人間が乗り込むような構造になっていたわけではありませんから、無理だといえば無理なのです。それを精神論で可能にしてしまうところが、日本人にはあります。特殊潜航艇の乗員にとって、これから自分たちが活躍できる場はありませんでした。そこで優秀な酸素魚雷に眼をつけたところは、発想としては素晴らしいと思います。しかし、現実的ではありません。本来なら、最初から設計をし直して、完成させるべきでした。
戦後、日本の航空機メーカーの技術者たちは、GHQから「航空機の製造の禁止」が出されると、職を失いました。しかし、その技術が新しい自動車産業や鉄道車両の技術に応用されたことで、日本の戦後復興を後押ししたのです。 これからの社会にも、こうした技術の応用ができる分野があるはずです。「古くさい」「使い物にならない」と決めつけるのではなく、何とか再生できないかと考え、新しい技術と融合することで、さらに画期的な製品になるよう、日本人の智恵と工夫が試されているのだと思います。

ビジネス講座 3 「回天」特別攻撃隊隊員、横田寛一等飛行兵曹の苦悩

(1)横田寛の過酷な軍歴
横田氏の著作「あ々 回天特攻隊」から、彼の軍歴を見ておきたいと思います。横田(氏は略す)は、昭和18年の秋、中学校(旧制)から海軍甲種飛行予科練習生に志願し、土浦海軍航空隊に入隊しました。元々は海軍兵学校を志願していましたが、「合格できなかったことから、予科練に志望を変更した」と、その手記に書いています。
予科練とは、海軍の少年飛行兵を養成する制度で、当時の青少年の憧れの的でした。陸軍にも同じような少年飛行兵制度がありましたが、海軍では、「飛行予科練習生」と呼んでいたのです。その中で、「甲種」は、中学校三年生以上の学力を必要とし、他の兵隊よりも昇任が早く、初級幹部養成の意味もありました。当時の予科練の制服は、海軍兵学校に準じ、単ジャケットに「桜に錨」の七つ釦が特徴でした。制帽も「錨」のマークがついて、襟には「鳥の羽」があしらわれ、見た目にも格好のよい制服でした。夏は純白、冬は濃紺の制服は、学校にもポスターが貼られ、競争率も相当に高まったと言われています。
横田の入隊した土浦航空隊は、海軍の練習航空隊で、多くの飛行兵が、ここで鍛えられ、飛行機の操縦を身につけて第一戦に出て行きました。しかし、戦局が厳しくなった昭和19年8月、突然、土浦空の司令から「敵撃滅の新兵器が考案された」と告げられ、「志願する者は二重丸を書いて提出しろ」という呼びかけがあったのです。
横田は、「飛行機に乗れないのなら、思い切って志願しよう…」と決心して「二重丸」を書いて志願書を分隊長に提出しました。実は、呼びかけに応じて二重丸を記入した者は、練習生の94%にも上り、当時の少年たちの熱い思いがわかります。
ここから、横田の特攻隊員としての訓練が始まるのです。
このときは、まだ、神風特別攻撃隊は、出撃していませんでした。しかし、サイパン島が陥落し、いよいよ本土への空襲も懸念される時期でもあり、少年兵たちにとっても、戦場は間近に迫っていたのです。
土浦航空隊を卒業した横田たちが、赴任したのは、大津島でした。
大津島は、山口県周南市、徳山下松港の沖合い10数kmのところに浮かぶ離島です。実は、ここに「回天」の基地がありました。茨城県の土浦から、広島県の呉市につき、また内火艇(海軍の小型ボート)で瀬戸内海を走り、大津島の回天基地に到着したのです。ここは、練習航空隊ではなく、実戦に出るための訓練基地であり、ここから、回天隊は出撃していきました。
横田たち少年兵は、ここで実物の回天を見せられたのです。このとき、指揮官の板倉少佐は、横田たちに回天を前にして、こう訓示しました。
「貴様たちには、この兵器に乗ってもらおう。名は『回天』…、言うまでもなく人間魚雷だ。連合艦隊司令長官をはじめ、海軍首脳部の回天に寄せる絶大な期待は、この大津島ひとつに集まっているといっても過言ではない。いいか、肝に銘じておけ。現在の日本の苦境は、我々が身を以て打開するのだ!」
横田たちが着任した頃、創始者の黒木大尉が殉職しており、まさに回天の誕生に合わせて集められた搭乗員だったのです。
横田は、約半年にわたる猛訓練を受け、技量も出撃できる程度に達したことで、「多々良隊」に選ばれました。これが初出撃です。
出撃は光基地(山口県光市)からでした。横田は、伊号47潜水艦で6人の隊員たちと共に沖縄方面海域に出撃しました。横田と同期は、同じ13期の新海菊雄でした。艦長は、折田善次少佐です。
記録によると、
「昭和20年3月28日、光基地を出撃。日向灘を航行中に米艦載機を発見、急速潜航。日没後に浮上。米艦載機2機から爆雷攻撃を受け、損傷をうける。離脱成功。3月29日午前2時30分、種子島東方20浬地点付近で浮上。艦内電池に充電。米哨戒艇2隻を発見、急速潜航。燃料漏れにより浮上。米哨戒機2機発見。20発以上の爆雷攻撃を受け、損傷。3月31日に鹿児島県内之浦に移動。損傷が著しく作戦中止。4月1日、光基地に到着。回天及び搭乗員退艦」
とあります。この出撃では、回天6基は、すべて爆雷攻撃により損傷しており、回天隊員全員が基地に戻りました。これが、横田の最初の出撃です。
二度目は、同じメンバーで、やはり伊47潜水艦で4月20日に出撃しました。今度は「天武隊」です。修理を終えた潜水艦は、今度は平生基地からの出撃でした。今度も、目標は前回と同じ沖縄海域です。
これも記録を追うと、
「4月26日、沖縄南東200浬地点付近で右舷ディーゼル機関故障。5月1日深夜、大東島南南西100浬地点付近に輸送船団発見。魚雷4本を発射。3つの爆発音聴取。5月2日午前9時00分、大東島南南西160浬地点付近で大型タンカーと護衛の2隻の駆逐艦発見、回天に出撃命令。午前11時00分、1番艇の柿崎実中尉(海兵72期)艇発進。5分後に4号艇の山口重雄一兵曹艇発進。15分後に爆発音。
また、さらに5分後に爆発音聴取。午前11時20分、駆逐艦2隻発見。2番艇の古川七郎上等兵曹艇発進。28分後、爆発音。爆発音の聴取後、海域離脱。4月7日、イギリス軽巡洋艦発見。回天に出撃命令。6番艇の新海菊雄二飛曹艇と3番艇の横田寛二飛曹艇、電話機不調。5番艇の前田肇中尉艇発進。24分後、爆発音聴取。4月12日、光基地に帰還。回天と搭乗員、整備員退艦」
となっています。
このとき、横田は出撃準備を回天内で整えながら、電話機の故障により艦橋との連絡ができず、発進はできませんでした。このときの心境をこう綴っています。
「回天戦の号令がかかった。電話は大丈夫か?ということがとっさに頭にきたが急いで用意を備え、ラッタルを走った。経験があるだけに落ち着いたものである。ラッタルを昇りきって、皆さん、ありがとう、とだけ怒鳴り、急いで交通筒内に入った。艇内に入ると、早速電話に飛びついた。下部ハッチは既に閉められている。司令塔、三号艇乗艇!思いっきり大きな声で怒鳴ってみた。次の瞬間、電話にまるで応答がないのに気づいた。ジーと変な音が断続するだけで、声らしいものは、まったく聞こえない…」
「発令所まで降りた途端、ドカーンと爆発音が聞こえた。前田中尉の命中音だ。発進後、24分10秒…。ああ、彼も行ってしまったか…。眼をつぶると、いつも口元に微笑を浮かべていた無口な前田中尉の顔が思い浮かぶ、涙だけがほおを伝っていく。悲しいのではない。切ないのでもない。魚のいない海の中に、ひとりいるような、虚しさである。私は、黙って兵員室へ戻った。新海もひと言も喋らない。ベッドに横になり、頭から毛布を引っ被った…」
そして、いよいよ横田の最後の出撃です。また、記録を確認してみます。
隊は、「轟隊」です。今度はサイパン方面への出撃でした。潜水艦は、伊号36潜水艦で、艦長は菅昌徹昭少佐でした。
「6月4日、午前9時00分、回天特別攻撃隊(轟隊)の1隻として出撃。6月11日未明、大隅海峡西方沖で浮上充電中、米潜水艦に発見される。敵潜水艦、魚雷2本発射。命中せず。サイパン近海で浮上。直後、単独航行中の大型輸送船1隻発見。午後6時22分、浮上して後方から追跡。6月21日午前3時40分、単独航行中の大型タンカー発見。前甲板の回天2基に発進用意命令。5号艇久家稔少尉(兵科4期)艇、6号艇の野村栄造一等飛行兵曹(甲飛13期)艇の機関故障。回天による攻撃中止。午前4時40分、魚雷6本発射。魚雷1本が敵艦艦首に命中。1本が同艦を撃破。浮上して回天を点検。全艇が故障。6月24日に修理。3艇が使用可能。6月28日午前11時00分、単独航行中の大型輸送船発見。午後12時00分、1号艇の池淵信夫中尉(兵科3期)艇発進。敵輸送船から砲撃と銃撃を受ける。午後1時34分、潜望鏡後方に駆逐艦発見。至近距離に迫る。潜望鏡を下ろし、水深
40mへ急速潜航。体当たり攻撃を回避。駆逐艦による爆雷攻撃を受ける。爆雷攻撃が始まった頃、久家稔少尉が回天発進を進言。菅昌艦長は即座に拒否。蓄電池の破損。潜水艦後部に被害。多量に浸水。頭上から二隻の駆逐艦による爆雷攻撃を受ける。久家少尉の二度目の進言。使用可能な5号艇と2号艇の柳谷秀正一等飛行兵曹艇の発進用意を命令。両艇ともに電話不調。5号艇の縦舵操舵機故障、使用不能。発進中止。6回目の爆雷攻撃で後部の浸水が急増。潜水艦沈下。水深70m、艦尾15度傾斜。メインタンク内の海水排出。久家少尉の3回目の回天発進要請。発進を許可。電話が不通。ハンマーで合図。水深70m、艦尾側に15度傾斜した潜水艦から柳谷一飛曹艇、久家少尉艇発進。海面上に浮上してから機関始動。発進後十数分で、回天命中の大爆発音聴取。一隻の駆逐艦の音源停止。一基の回天の音源は遠ざかる。駆逐艦退避。午後3時56分、駆逐艦の主砲の水平射撃開始。回天と思われる大爆発音聴取。伊36潜水艦退避。午後9時30分浮上。第六艦隊司令部に状況報告。6月29日午前10時00分、グアム東方沖で、遠方で爆雷炸裂音聴取。7月6日から7日にかけて、米軍機発見。7月9日午前10時20分、沖の島南方11浬地点付近で、米潜水艦に発見される。敵潜水艦、魚雷4本発射。命中せず。同日、伊36潜水艦、光基地に帰還。残された回天と回天搭乗員及び整備員退艦」
とあります。この三回目の出撃は、潜水艦が撃沈寸前で、回天によって最大の危機が救われました。横田は、このときも自分の回天の機関が故障し、またしても発進ができなかったのです。これも横田の手記を読んでみます。
「久家少尉、柳谷一飛曹の二人は、眦をけっして立ち上がった。思わず手を差し伸べて握手をする。いいか、横田、待ってろ。俺が奴らを叩き沈めてやるからな。純情朴訥な、礼文島出身の柳谷一飛曹は、防暑服から抜き出た丸太のように手で、私の手を強く握り返すと、一目散に後部機関室に走り去って行った。既に電動縦舵機は故障し、電話連絡すらつかない。二人は司令塔で打ち合わせを済ませると、その壊れた回天に乗り移って行ったのだ」
「バンドが外され、艦内交通筒の真下から、発進合図のハンマーが叩かれた。一秒、二秒…。甲板上から二号艇のスクリュー音が、轟然と聞こえてきた。海底70m、文字どおりの仰角で、仰け反るように海面に向かって突進していったのであろう」
「続いて、前部甲板の久家少尉に、合図が送られた。回天の固縛バンドが解かれた。だが、機械はかからない。スクリュー音はおろか、何も聞こえてこない。冷走でもなさそうである。どうしたのだろう…。浮力を持つ回天は、当然、海面に向かって浮かび上がるだろう。みんなの目は、一斉に浮かびつつある海面に向けられている。もう海面近くまで達しているはずだ。もしも、ポッカリ浮いたきりでいるところに、機銃掃射でも喰らって爆発でもしたら、それこそ爆雷どころではない。母潜が吹き飛ばされてしまう。しかし、考えてみれば、敵の爆雷なんかで死ぬよりはましだ…と思っていると、突如、ヴーヴヴヴヴ…ッ!聞き慣れた回天の熱走音が、頭上遥かの海面から伝わって来た。発動したぞ!私は思わず叫んでしまった。思うに、彼は、母潜上では発動桿を倒さず、浮き上がって周囲を見回し、まず敵影を捉えてから、自分との態勢を計算した上で発動したのである。冷走の危惧もないではなかったが、今更、冷走もくそもあるもんか。という闘魂が、この落ち着いた、冷静な処置をとらせたのだろう」
「おそろしく静かな数分間が過ぎた。おそらく二人は、必死になって恨み重なる敵駆逐艦を追い回しているのであろう。二人の歯を食いしばった顔が眼に浮かんでくる」
「さらに、10分近い時間が過ぎた。遠くの方で、ドドドドーン!という、凄まじい大轟音が伝わって来た。まさしく回天の命中である。1.5トンの炸薬を持った回天は、爆雷攻撃に耐えるだけ耐えた恨みと闘魂を乗せて、見事に一隻を木っ葉微塵にしたのだ。ありがとう、久家少尉。柳谷。と思ったとき、峰がいっぱいになって涙がどっとこみ上げてきた」
この二人の捨て身の戦法により、横田は救われました。この手記には、嘘偽りはありません。まさに、これが回天特攻隊の生の姿だったのです。
そして、最後に、特攻戦死した久家稔少尉が、書き残したノートの絶筆を紹介します。
「6月27日 久家 稔
基地隊の皆様へお願い…
艇の故障で、また三人が帰ります。一緒にと思い、仲良くしてきた六人のうち、私たち三人だけが先にゆくことは、私たちとしても淋しいかぎりです。
みなさん、お願いします。園田、横田、野村、皆初めてではないのです。二度目、三度目の帰還です。生きて戻ったからといって、冷たい眼で見ないでください。園田は、故障で出られないとわかったとき、士官室で泣いておりました。園田の気持ちは、私にはわかりすぎるくらいわかるのです。
この三人だけは、すぐまた出撃させてください。最後には、ちゃんとした魚雷に乗って、ぶつかるために、涙を飲んで帰るのですから、どうか、温かく迎えてください。お願いします。
先にゆく私に、このことだけが、ただひとつの心配事なのです」
横田は、このノートを読み終えて、泣いたそうです。
その心境をこう綴っています。
「久家少尉!と、怒鳴るだけ怒鳴って、大声を上げて泣きたかった。だが、周囲には人がいる。私は、ベッドに仰向けになって、目をつぶった。嗚咽をかみ殺す必要はない。声は出ないのである。ただ涙だけが、止めどもなく出てくるのだ。汗でぐっしょりになり、真っ黒になった手ぬぐいで涙を拭いた。帰ろう…。黙って帰ろう。どんな目で見られたって、いいじゃないか。陰でだれがなんと言ったって、いいじゃないか。わかってくれなんて言わん。卑怯者とでも、何とでも言え。池渕中尉、久家少尉、柳谷一飛曹、この三人の霊が知ってくれているんだ。それだけでたくさんだ…」
しかし、横田はこれを最後に、出撃の機会は訪れませんでした。間もなく終戦を迎えたからです。
この手記を私たちは、どのように読んだらいいのでしょうか。まだ、20歳にも満たない若者が、こんな苛烈な戦場を経験し、多くの信頼していた仲間を失い、そして、後に続くことも許されなくなったのです。
戦争を客観的に見ることは、正しい見方だと思います。しかし、現代のだれもが、この横田のような壮絶な人生を送ったことはありません。「生きる」ということが、如何に尊く、難しいことなのかを私たちに伝えてくれているように思います。
久家少尉の自己犠牲的精神は、本当に尊いものだと思います。同じ局面に遭遇したとき、久家少尉と同じような行動が採れるかと言われれば、頭を抱えざるを得ません。彼は、大阪商科大学(旧制)在学中に学徒出陣で、兵科予備学生4期で海軍に入隊しました。その後、水雷学校で研修中に回天搭乗員を志願したのです。
こうした予備学生出身者は、職業軍人ではありません。平和な時代であれば、どこかの企業に就職し、温かい家庭を築いて生涯を全うした人たちなのです。それが、「戦争」という過酷な時代に生まれたがために、志願ではなく学徒出陣で軍隊に入った人たちです。その青年が、特攻隊を志願して出撃し、自分の身を顧みず、多くの仲間のために戦って死んでいったのです。久家少尉が残した最後の言葉を読むとき、本当に胸が痛みました。こうして多くの若者たちに犠牲の上に、今の平和があるのだとしたら、私たちは、戦争の記憶を忘れていいものなのでしょうか。人として、日本人として、考えさせられます。

現代において、自己犠牲を求めることはできませんが、その精神を笑うことはできません。だれしもが、心の中では「尊い行為」だと思っているからです。もし、柳谷飛行兵曹や久家少尉の献身的な攻撃がなければ、伊36潜水艦は、乗員諸共海底に沈んだことでしょう。こうした潜水艦の最後は、ほとんど語られることはありません。
現代におけるリーダーは、こうした危機に際して、どのような覚悟を見せるのでしょうか。指揮官が、率先して逃げるような組織は、既に崩壊しています。最後の最後まで、死力を尽くして戦う姿勢こそが、部下を統率できる唯一の方法のように思います。

(2)横田寛氏の苦悩
終戦を迎え、死に後れた後悔と、先に戦死した戦友たちへの申し訳なさで、横田は、心を失ったまま東京の実家へと復員していきました。そして、どんな生活を送っていたのかはわかりませんが、数年して、彼は、群馬県の桐生市に居を構えました。結婚もして、損保会社の営業マンとして働いていたようです。
この手記の中で、わずかに戦後の一端がわかる箇所があります。撃墜王として有名になった坂井三郎氏との出会いです。この手記の巻頭に坂井氏が寄稿しています。その中で坂井氏は、
「私も横田君も、日本のあの苛烈な時代に生まれ、あの時代の教育を受けて海軍の一兵士となり祖国のために全力を出し尽くした。戦争というものの是非善悪の論は別として、私たちは一所懸命だったのだ。そして、それはそれで、立派な価値のあることだと、今も信じている」
と書いています。
こうした極限の体験をした者だけが、わかり合える出会いだったのかも知れません。横田は、こうした知己を得て、少しずつ前を向くことができたのでしょう。休日になると、戦友たちを悼み、写経を欠かさなかったといいます。また、時間を見つけては、戦死した戦友の遺族を訪ね、戦死した状況や、横田が知り得る限りの生前の姿を語ったと伝えられています。その横田も、平成3年、病を得て65歳の生涯を閉じました。
65歳という年齢は、当時としても早い年齢です。しかし、横田の体は、戦争中の過酷な体験で、ボロボロになっていたのかも知れません。そして、その孤独感は、だれも癒やせるものではなかったでしょう。彼は、時々、同じように生き残った戦友と酒を酌み交わし、酔うと、「俺の気持ちは、俺にしかわからない…」と言って泣いたそうです。ふっと気を緩めたとき、彼の脳裏には、久家少尉を初めとした戦友たちの笑顔が浮かんでいたのだと思います。そして、最後まで自分が死ねなかったことを後悔していたのでしょう。
周囲の人に話せば、みんな慰める言葉を持っています。しかし、彼には、そんなものではないのです。その苦しみ、痛み、辛さを抱えながら横田は生きるしかなかったのです。
そして、横田は、戦後の復興と人々の心の変容をどのように見詰めていたのでしょうか。この手記を書き始めたのは、おそらく昭和40年頃だったと思います。横田には、どうしても書かざる得ない気持ちが、その動機にあったはずです。戦後の復興の中で、特攻隊を正当に評価する雰囲気は皆無でした。「特攻崩れ」と揶揄され、GHQも殊更、特攻隊による戦果を矮小化し、効果がなかったかのように宣伝をしました。それは、事実とは異なり、航空特攻にしても、水中特攻にしても被害は甚大で、その恐怖感たるや精神疾患を引き起こすほどのダメージを連合国の兵士に与え続けたのです。もし、こうした事実が国民に知らされれば、彼らの死も少しは報われたかも知れません。しかし、GHQは、とにかく、日本が二度と立ち上がれないように、「精神的崩壊」を企図した占領政策を採り続けたのです。
しかし、横田の手記は、翻訳されると、外国で評判になりました。やはり、どこの国でも勇敢に戦った戦士は尊ばれるのです。残念ながら、戦争で戦った勇士を蔑むような雰囲気があるのは、おそらく日本だけだと思います。しかし、そのGHQの洗脳から解き放たれた世代に時代が移ると、「真実を知りたい」という声が、全国の若者から上がるようになってきました。横田の死後、この手記は、小説そして映画化された「出口のない海」や漫画「特攻の島」に引用されています。こうして、現代の若者たち世代の手により、広く知られるようになったことは、横田を初め、回天特攻隊で亡くなった多くの人々への餞になれば幸いだと思います。

歴史の真実を見極めようと努力しない人間には、リーダーの素養はありません。社会やマスコミ、教育等で洗脳された事実を掴んでも、社会の風潮に流されるようでは、新しい発想も、発明も生まれることはないでしょう。なぜなら、「右に倣う」ことは、生き方としては楽でも、そこからの発展はないからです。今の日本では、過去の過ちに気づいても、訂正できない人がたくさん存在します。それは、その人たちに既得権が生まれているからです。それを手放せば、自分の地位も名声もすべてを失う恐怖を知っているからです。だから、真実から目を背け、権力を利用して真実を叩き潰そうと足掻くのです。特攻隊の真実から目を逸らす人たちも多く存在しています。その中で、過酷な体験をした横田たち生き残りの特攻隊員たちは、苦悩し、憤りを感じながら生涯を閉じました。間もなく、戦争を知る世代が皆いなくなります。そのときこそ、すべての真実を白日の下に晒し、日本人としての生き方を取り戻したいものです。

ビジネス講座 4 「回天」を活用した戦略の失敗

(1)潜水艦には不要の兵器
回天を活用した攻撃方法と、通常魚雷だけで戦う攻撃方法を検討した場合、潜水艦には、どちらに、より大きなメリットがあるのでしょうか。航空特攻は、確かに、通常爆弾を投下する攻撃より、機体そのものを敵艦に突っ込ませた方が、確率的には後者の方が高いことは明らかです。高度1000mから見た航空母艦などは、小さな草鞋のように見えたと言います。いくら狙いを定めて急降下しても、ベテランパイロットで高度500mくらいが限度です。そこから思い切り引き起こすには、相当の腕力が必要になります。これが、飛行時間300時間程度の若年パイロットでは、まず、命中は不可能です。それなら、どんな角度でもいいから、敵艦に接近し、体当たりした方が、爆弾を当てる確率は飛躍的に上がるはずなのです。しかし、一方、潜水艦の場合、回天を6基上甲板に載せると、潜水深度が異なりますので、本来の深度まで潜れなくなる可能性が指摘されています。そして、回天の場合は、魚雷に比べて大型のため、遠くから発進させれば、発見される可能性が高く、潜水艦自体をかなり敵艦に接近させる必要があるのです。確かに、回天搭乗員が出撃する場面は、感動的ですらあります。出て行けば、100%生きては戻れない攻撃なので、それは勇壮で潜水艦の乗員の涙を誘いました。しかし、それが本当に潜水艦の攻撃として有効なのか、どうかは、別の議論が必要です。
もし、回天を搭載していなくても、潜水艦に「自由行動」の許可を出しさえすれば、何ヶ月も作戦行動ができる艦ですから、敵の輸送船を密かに狙い、撃沈させることは、夢ではありません。その証拠に、原爆搭載艦インディアナポリスを撃沈した橋本以行少佐の伊58潜水艦は、夜間のため回天を出さずに、通常魚雷攻撃で撃沈しています。回天搭乗員は、非常に不満に思っていたようですが、魚雷攻撃で仕留められる敵を、何もわざわざ数名の戦死者が出ることがわかっている回天での攻撃を選択する必要がないのです。まして、潜水艦の魚雷攻撃は、熟練した乗組員の手によって行われるもので、彼らにとっても、回天は不要の兵器なのです。
もちろん、久家少尉のように、身を捨てて潜水艦を救った逸話もありますが、それは希な攻撃で、艦長自身は、発進させるつもりはなかったのです。まして、回天の電話が不通、舵も故障している状態で発進させたとなれば、帰還後、どのような処罰が下るかわかりません。回天は、「すべてが万全でなければ使用できない兵器」だったのです。
「回天」が誕生する前は、「何百という回天が、敵艦隊に殺到して、一基で一艦撃沈すれば、戦局は挽回できる」という淡い夢を抱く軍人もいました。しかし、そんなことは現実的はあり得ないのです。日本人は、軍人教育を受けても尚、空想と現実の違いがわからない不合理的な思考に陥る傾向があります。負け戦になると、意外とこうした、取り留めのない夢物語を信じたくなる気持ちはわかりますが、信じることと、現実は自ずと違うことの認識が甘いのです。
たとえば、100隻の潜水艦を沖縄に展開している連合国軍の艦隊を攻撃するために、出撃させたとします。当然、敵のレーダーや哨戒機は、沖縄に到達する前に把握することでしょう。そこに回天が何基搭載していようが同じです。制空権のない艦隊が、近づいても、航空母艦の艦載機が100機飛び立てば、一瞬にして潜水艦隊は、空からの攻撃で全滅してしまうでしょう。潜水艦は、自由行動だから効果があるのであって、まとまってしまえば、攻撃は容易いのです。
結局、100基の回天が敵艦隊に殺到することなど、あり得ません。その時点で作戦を間違えているのです。

現代の企業にも、こうした希望的観測に基づいて経営をしているだめな会社があるように思います。「これが売れれば…」と淡い期待を抱きますが、余程、画期的な発明品でなければ、爆発的に売れることはありません。たとえば、普通自動車でも、今、売れるのは、「燃費効率」「安全性」「環境問題への対応」「居住性」「デザイン」「価格」などが突出して優れていることが条件です。普通の製品に少しくらい工夫を加えても、魅力はないのです。
「回天」は、なるほど、悲壮で勇壮な日本人好みの兵器ですが、弱点が多すぎる兵器でもありました。これでは、「救国の兵器」とはなり得ないことを知るべきでした。それに期待をしなければいけないほど、戦局は逼迫していたのです。

(2)回天は、操縦が難しい兵器
「回天」は、戦闘機の「零式艦上戦闘機」以上に操作が難しい兵器でした。横田たち予科練の兵隊は、皆、飛行機の操縦がやりたくて志願した少年たちです。飛行機に乗るには、飛行適正検査を受けた後、「赤トンボ」と呼ばれた複葉の練習機で飛行訓練を行い、段階を追って実戦機へと進んでいく体制ができていました。ところが、この「回天」は、その練習段階がありません。座学が終われば、いきなり本物の「回天」に搭乗し、訓練に入るわけですが、元が通常の魚雷なので、直線に動くことしか想定がされていませんでした。もちろん、人間が操縦していると言っても、そんなに急激な反転はできません。できれば、直線的に攻撃できれば文句はないのですが、敵艦も回天を発見すれば、退避行動に移るのは必然です。それに潜水艦は海中にいますので、その深度によって射角が変わります。それを搭乗員が合わせて、適切な角度で侵入しなければ、方向は正しくても、体当たりすることはできません。よく、実戦においても、輸送船の吃水線がわからず、艦底を通過してしまい、何度もやり直しをしている間に、敵艦から砲撃され爆沈した回天も多くありました。潜水艦では、回天が発進すると、眼で捕捉することは困難なため、時間と爆発音で「命中」かどうか判断していました。しかし、これでは、敵艦の砲撃によって爆発したのか、敵艦が捕捉できず自爆したのか、それとも成功したのか、よくわからないのです。潜水艦の乗組員にしてみれば、一発必中の特攻兵器ですので、発進した以上「命中」と考えたいのが人情でしたが、記録上、確認できたのは、一基の回天のみでした。もちろん、それ以外にも成功した例はあるはずですが、アメリカも正確な情報は出さずにいましたので、本当の戦果は不明です。また、回天は起動が難しい兵器で、燃料が燃焼室に供給できないままスクリューが空転してしまう「冷走」となる危険性がありました。この機関の故障は、水圧の関係もあり、整備員泣かせの兵器でもあったのです。

海軍の零式艦上戦闘機が戦争初頭において大活躍できたのは、類い希なる運動性もありましたが、整備のしやすさも大きな要因でした。本来は、航空母艦の艦載機でしたが、万能機のため、埃っぽい南洋のラバウルでも順調に稼働していたのです。特に搭載されていた980馬力の「栄エンジン」は、故障知らずで、どんな過酷な環境でも稼働したそうです。しかし、その後開発された2000馬力の「誉エンジン」は、小型の割に高出力で、海軍の紫電改や陸軍の四式戦疾風などに搭載されましたが、構造が複雑なため故障も多く、外地で使用することは難しかったと言われています。
どんな高性能の機械であっても、「故障知らず」に勝るものはないということです。人間も同じなのかも知れません。

ビジネス講座 5 「精神論」に逃げた日本軍

(1)「根性論」の弊害
最近では、スポーツの世界でも、あまり「根性論」は叫ばれなくなりましたが、一昔前までは、プロの世界でも普通に「根性論」が強調されていたものです。野球の「千本ノック」や「ウサギ跳び」「水不要論」など、選手や兵隊に精神的な苦痛を与え、それを克服することで「強靱な精神」を造ることができると、大人たちは皆、考えていました。昔の日本海軍では、「月月火水木金金」と艦隊勤務の猛訓練を、得意げに吹聴していましたが、「訓練に制限なし」を説いたのは、日本海海戦時の連合艦隊司令長官、東郷平八郎元帥でした。この「軍人の神様」とまで称された元帥の言葉が、一人歩きを始め、遂には、兵器の開発ではなく、それを扱う兵隊の根性論になっていったのです。
それでも海軍は、軍艦や飛行機を操る技術集団だったので、多少は合理的な思考が必要でしたが、陸軍は、「兵隊は欲しいが金はない」という問題があり、小銃も日露戦争時の「三八式歩兵銃」のまま、大東亜戦争も戦うことになったのです。諸外国では、既に「自動小銃」が歩兵の装備品になっていたにも拘わらず、「自動」で発射できない単発式の小銃で戦いました。これでは、猟師の猟銃と同じです。獲物に狙いを定めて、一撃必殺の狙撃兵なら、こうした小銃は有効です。しかし、いつ敵と遭遇するかわからない密林での戦いなどでは、発射速度が速く、多くの弾丸を掃射できる銃を持っている方が勝つに決まっています。陸軍は、わかっていながら、予算の関係で兵隊全員に自動小銃を装備することはできませんでした。それに、日露戦争の時の「白兵戦」の残像が、国民全体に残っていたことも問題でした。いざ、戦闘となれば、「日本軍の白兵戦は世界一強い!」という神話です。要するに、銃剣突撃で、日本兵全員が突撃喇叭を合図に、一斉に敵陣地を目がけて攻撃をかけるのです。
野生動物のような雄叫びを上げて突進する姿は、確かに恐怖です。それも死をも恐れず、何百人も向かって来るわけですから、一度怯んだら逃げ出すしか方法はありません。日本軍は、これで中国兵もロシア兵も倒してきたのです。日本軍から言わせれば、戦国時代からの伝統的な攻撃方法なのです。しかし、大切なことを忘れています。この方法のために、膨大な数の戦死者が出ることです。日本軍の上層部は、戦死者の数をリスクと感じてはいませんでした。人間は無尽蔵にいると思っているのです。確かに「赤紙」と呼ばれた通知ひとつで、だれでも強制的に集められる「徴兵」は、国民の義務ですが、施政者にしてみれば、武器を買うより安い買い物なのです。それに、人間を兵隊に仕上げるコストなど、たかが知れていると考えていました。こうした「人命・人権意識」の低さが、「兵隊軽視」の作戦から脱却できない原因だったのです。
しかし、欧米の軍隊は、そういうわけにはいきません。たとえ、最下級の兵隊であっても理不尽な作戦で殺されたら、大問題になります。当然、軍法会議が開かれ、マスコミもその指揮官を追及するでしょう。実際、原爆搭載艦インディアナポリスが日本の潜水艦によって撃沈された事件は、アメリカの社会問題になり、艦長は厳しく追及されています。その作戦の指揮がルール違反であれば、指揮官は厳しく罰せられ、階級を剥奪されることもあったのです。こうした評価制度は、指揮官を鍛えることにもなりました。しかし、日本軍の場合、そのすべてを「天皇の命令」とすり替えられ、最高指揮官である「天皇」に全責任を押し付ける無責任体質が、組織自体を蝕んでいったのです。
もし、アメリカなら、「回天」のような特攻作戦は、けっして許されないでしょう。兵器そのものにも欠陥が多く、人命軽視も甚だしいからです。合理性もなく、ただ闇雲に「死」を美化しているに過ぎません。「航空部隊がやっているのだから、潜水艦部隊をやろう」という発想では、幼稚な子供の縄張り争いのように見えます。
要するに、日本人の「人命軽視」の思想が、すべての問題の根幹にあったということなのです。

もし、今でも根性論や精神論を説くリーダーがいたとしたら、即、そんな組織からは離れた方がいいと思います。スポーツの世界でも、未だに暴力や威圧的な態度で選手に接し、「俺が強くした!」と嘯く指導者がいるようですが、それは「目先」の結果であって、長期的に見ると弊害が多い指導法なのです。 指導者や指揮官の態度は、それに従う部下や選手に大きな影響を与えます。こういう指導を長く受けていると、「不合理や非効率でも構わない」という偏った思想が形成されていきます。それよりも「指導者は絶対!」という洗脳から逃れられず、人命を軽視した指導者になるのです。反論は許さず、傲慢な態度を採っても許され、他者からの評価は「結果のみ」となれば、目先の勝利に拘泥し、戦略を忘れるものです。
日本軍は、目先の勝利に拘り続けたために、結果としてすべての組織が崩壊するといった「大敗北」を招きました。もし、今でもこうした指導者やリーダーが率いる組織に属していれば、近いうちに間違いなく、その組織は崩壊するでしょう。伸びる集団や組織は、必ず「合理性や効率性」を重んじているはずです。アメリカ軍がベトナム戦争で敗北した理由も、実はここにあったのです。

(2)「感動」が大好きな日本人
日本人は、日本語で思考し行動します。当たり前のことですが、視点を変えれば、ここにも問題が潜んでいることに気づかされます。日本語は、語彙が豊富で、英語のように直接的な表現を避け、「美文」調に表現することで、本質をすり替えることができます。戦争中の言葉で言えば、「全滅」が「玉砕」に、「退却」が「転進」になるようなことです。軍隊の全滅とは、その集団の半分の戦力が削がれれば、それは「全滅」と認識しなければなりません。なぜなら、残りの半数が残されても、暫時撃滅され、頑張れば頑張るほど犠牲者は増え、最後には一兵も残らないまでに殲滅されるからです。しかし、日本の全滅は、「玉砕」でした。宝石のことを「玉(ぎょく)」と言いますが、玉は、その形を留めているから価値があるのであって「砕けて」しまえば、その価値は失われます。つまり、玉の原型を留めているうちに退き、もう一度研磨する必要があるのです。そうすれば、玉は一回りは小さくなりますが、原型は止まり、再度価値を生み出すことができるでしょう。しかし、砕け散ってしまえば、再生は絶対に不可能なのです。日本人は、こうした思想ができず、「美しさ」だけを求めました。
確かに、「全滅して戦死した」と言うよりも「玉砕して華々しく散った」と言い換える方が美しく、生々しさがなくなります。よく戦死したことを「散華した」と言いますが、「華と散る」桜をイメージしているのです。
そうなると、「死ぬ」という恐怖心が和らぎ、何人死のうとすべて美しい表現で誤魔化されてしまいます。戦争中は、この美文調の見出しが新聞紙上を賑わせました。新聞記者は、挙って戦死者を讃え、戦果を勝手に創り出していったのです。事実は、特攻機による駆逐艦の損傷程度であっても、「敵艦に大打撃を与える」と書かれれば、読者のイメージは現実よりも数倍広がります。
特攻隊員の出撃も「壮挙」と書かれれば、だれも苦し紛れの作戦とは思いません。こうして、日本は、美文で戦争を始め、美文で滅んだのです。その間、日本人は真実を見極める合理性を失い、「感動」に浸ることで、自分の本心を誤魔化してきました。それは、指導者層も同じだったのです。
確かに日本語は美しい言語です。しかし、それが日本人の情緒を高め、感動しやすい体質に変えていったのかも知れません。だからこそ、戦争をゲームと考えるような人たちとは、争ってはいけなかったのです。現実の悲惨な状況を美文で飾り立てているうちに、現実と妄想との区別がつかなくなり、「特攻」という「特別な攻撃隊」な誕生しました。「特別」とつくだけで、それに参加する兵隊も「特別な兵隊」と認識されます。そして、「特別優秀な人たち」、「特別に考えられた作戦」というように、恰も高級な衣服を纏ったかのようなイメージを創り上げたことで、彼らを「神」と祭り上げ、現実逃避を繰り返した結果が、悲惨な敗戦を招いてしまったのです。

これは、現代でも通じる思考です。もし、会社の社長が「美文調」で会社の業績を語り出したら要注意です。おそらくは、自分の失敗を糊塗するために、美文調な作文で誤魔化そうとしているに違いないからです。よく大本営報道部が、「赫赫たる戦果」という言い方をしましたが、「赫赫たる」とは、「強く光り輝くさま。または、名声や功績、栄華などが華々しい様子を表す表現」という意味だそうです。戦果は「数字」です。こうした結果にまで彩りを添えるようになると、危険信号は「赤」です。意味不明な美文に踊らされることなく、冷静に分析して、早く転職した方がよさそうです。
ビジネスに美文は不要です。確固たる数字を示し、分析し評価する態度なくして業績が向上することはありません。美文は、一時凌ぎにはなりますが、それはリーダーが逃亡するための時間稼ぎでしかないのです。そんな美文調で誤魔化す暇があるのなら、「もっと命懸けで現実に向き合え!」と叱咤したいくらいです。

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