「白虎隊」の真実 -明治維新外伝-
矢吹直彦
序章 「会津藩」序曲
江戸幕府が終末を迎えようとしたとき、幕府や徳川家への恨みを一身に引き受け滅んだ大名家がありました。今の福島県会津若松市に拠点を置いた松平容保家、所謂会津藩でした。本タイトルの「白虎隊」は、その会津藩士の子弟で編成された少年隊の名称です。本来であれば、そんな少年たちを戦場に送らなくてもよかったのですが、西軍(新政府軍)に攻め込まれた会津藩は、兵力の不足を来し、やむなく少年兵を前線に送り、その多くは、飢えと寒さ、そして敵軍兵士との戦いに敗れ、自刃して果てました。そこに、どんな教訓が残されているのかはわかりませんが、悲劇の舞台に何があったのかを紐解き、現代のビジネスに生かすことができるのか、検証してみたいと思います。
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会津は、元より東北の要衝の地です。北は、山形、秋田、青森へと続くルートがあり、南は、日光街道、江戸に続きます。東は、中通りへと進み、奥州街道とぶつかります。西は、そのまま直進すれば新潟、日本海です。要するに、太平洋方面からも日本海方面からも比較的近く、その地形は深い盆地になっており、周囲が山岳地帯という天然の要害でした。冬ともなれば、深い雪に閉ざされ、敵軍の侵入を阻みました。今の暦を使えば、11月から4月までは、籠城戦に耐えうる構造だったのです。その上、会津盆地は広く、米の一大生産地でした。中央には、会津磐梯山が聳え、その活火山は、会津に豊かな実りをもたらしたのです。
今でも、会津と言えば、「温泉」に「米」と「酒」が特産品で、戦国時代には蘆名氏、豊臣時代には上杉氏、蒲生氏、加藤氏、そして江戸時代になって保科・松平氏が治めました。こうした時の有力大名が治めるに相応しい地域でもあったのです。江戸時代になると、三代将軍家光の異母兄弟になる保科正之が入封し、会津松平家が明治維新を迎えるまで治めた関係で、今でも松平家の影響が色濃く残されています。
会津藩初代保科正之は、三代家光、四代家綱に仕え、徳川幕府草創期の礎を築いた人物として歴史上に、その名を刻んでいます。正之は、二代将軍秀忠が人知れず、大奥の女に産ませた子供でした。本来ならば、側室の子としてお披露目され、秀忠の正室の「江」が承知の上に、兄に当たる家光や忠長にも目通りされるべき存在でしたが、それも許されず、信州高遠の小大名であった保科家の子として育てられました。将軍秀忠は、側室を嫌う正室「江」に気兼ねして、我が子として認められなかったと伝えられています。江は、織田信長の妹「市「と信長に滅ぼされた浅井長政の子でした。長姉は、豊臣秀吉の側室の「淀」です。信長と長政の血を想うとき、秀忠は江が恐ろしかったのではないかと思います。その二人の血が、自分の正室である「江」に流れているのです。それは、気の優しい秀忠には、気の重いことでした。
何かの気紛れに抱いてしまった、身分の低い女に子ができたと知って狼狽した秀忠は、密かに子の存在を隠したのです。正之が、正式に大名に取り立てられたのは、家光が将軍として江戸城の主になってからのことでした。
正之は、子供の頃より頭の回転の速い賢い子供でした。隔世遺伝があると言われるように、正之には祖父、徳川家康の血が色濃く出たところがありました。環境がそうさせたのかも知れませんが、家光や忠長に会っても、気安く兄弟だという素振りは見せませんでした。飽くまでも保科家の家の子として振る舞い、兄たちに対して、一歩も二歩も後ろからついて行くような態度だったからこそ、二人に気に入られ、兄弟として認めて貰えたのです。その上、正之には「欲」というものがありませんでした。高遠の保科家は、わずか3万石の小大名です。将軍家の三男に産まれながら、わずか3万石の大名に甘んじることになっても、正之は、文句ひとつ言いませんでした。この我慢強さは、まさに家康の青年時代と同じです。次男の忠長は、駿河大納言として55万石を与えられていたにも拘わらず、父秀忠に100万石を要求したり、大坂城を欲しがったりと、その振る舞いが原因で家光に謀反を疑われ、幽閉の後、切腹して果てました。忠長は、一体だれの血を受け継いだのでしょうか。しかし、これによって、正之に光が当たったのは事実です。将軍家光にしても、「同じ血を分けた兄弟でありながら、この違いはなんであろう…」と首を傾げたはずです。正之は、将軍家から「松平姓」を賜っても、本人は、飽くまでも「保科姓」に拘り、会津23万石に移封されてからも、松平姓を名乗ることはありませんでした。それは、養育して貰った保科家へのせめてもの恩と感じ、幕閣で重きを為しても保科正之は、松平正之には、ならなかったのです。その保科家は、後に新しい藩主を立て、上総飯野藩として、明治まで存続しました。
保科正之は、家光、家綱と江戸幕府の基礎固めに努め、名宰相として、その名を歴史に刻みました。将軍家光は、最期を迎えるそのとき、正之を呼び、
自ら、「肥後(正之)よ宗家を頼みおく。家綱を頼むぞ…」と遺言したそうです。これに感動した正之は、寛文8年に『会津家訓十五箇条』を定めました。
その第一条には、「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、歴代藩主は、これを忠実に守ることが藩祖の遺訓となったのです。
幕末の藩主松平容保は、美濃高須藩から養子に入りましたが、その際、家臣から、この遺訓を特に固く守ることを誓わされたそうです。それが、幕末の悲劇を生もうとは、藩祖保科正之も想像だにしなかったに違いありません。
もし、正之の霊が容保の前に出てきたとしたら、「もうよい、容保、これも時勢じゃ…」と許してくれたような気がします。
ビジネス講座 1 「尚武」の家柄を誇った会津藩
(1)政治に左右されない東北の雄藩
会津は、先ほども述べたように、東北地方の中ほどに位置し、戦国時代から有力な大名家が支配していました。会津若松も、元々は「黒川」という地名で、「会津守護」を称した蘆名家が領有していたのです。戦国時代の蘆名は、伊達との勢力争いをしており、奥州統一を目指す伊達政宗に「摺上原の戦い」で大敗した後は衰退し、滅亡してしまいました。その後、会津は、伊達政宗の支配するところになります。しかし、豊臣秀吉時代になると、伊達政宗は、小田原への参陣が遅れたために、秀吉の怒りを買い、会津は没収されてしまいました。そして、秀吉側近の蒲生氏郷が42万石で入り、後に92万石を領有する大大名となったのです。蒲生氏郷は、「会津若松の祖」とも言われる人物で、「黒川城」を新しく改築し、七層楼の天守を有する立派な城に直しました。そして、この城を氏郷の幼名に因み「鶴ヶ城」としたのです。今でも残るこの城は、会津若松の人々のシンボルであり、会津観光の拠点となっています。
そして、築城と同時に城下町の開発も行い、町の名を「黒川」から「若松」へと改めました。「若松」という名は、氏郷の出身地である近江日野城近くの昔から親しんだ地名がつけられたそうです。やはり、大名になっても遠く離れた地から故郷を思い出していたのでしょう。氏郷の人柄が偲ばれるエピソードです。しかし、その氏郷も40歳の若さで病死すると、跡目争いを契機に内紛が起こり、宇都宮に12万石に減封されて移されてしまいました。80万石も減らされたのですから、ほとんど改易同然の処分でした。蒲生氏の次に会津若松に入ったのが、越後の上杉景勝120万石でした。しかし、この上杉は、徳川家康に敵対し、関ヶ原の合戦には、西軍に味方をしました。そのため、取り潰しだけは免れましたが、90万石を減らされ、米沢に30万石で移されたのです。上杉家は、元禄時代に跡継ぎがいなくなり、改易となるところを、吉良上野介の子である綱憲を末期養子として幕府に届け出、15万石を減らされ、それでも上杉鷹山の藩政改革などで何とか時代の波を乗り切り、幕末まで存続することができました。上杉の後には、再度、蒲生秀行が60万石で戻されています。秀行の正室が家康の娘ということもあり、東軍に与した秀行は、破格の恩賞をいただくこととなりました。その上、会津地方は金の産出が増え、蒲生家も安泰かと思えましたが、秀行は30歳の若さで亡くなると、跡を継いだ忠郷も25歳で急死し、跡目のいない蒲生家は、ここで儚く滅んでしまったのです。氏郷といい、秀行といい、忠郷といい、皆、早死にしてしまうため、「蒲生家は、呪われている」といった噂が立ったほどでした。また、次に会津若松に入った加藤嘉明は、高齢で伊予松山からの移封だったので、40万石と言われましたが、あまり喜ばしい移動ではなかったようです。それでも、街道の整備など、当初は政治はしっかり行っていたようですが、嘉明が亡くなると、御家騒動や農民が逃亡するなどの騒ぎが幕府の耳に入り、将軍家光は、加藤家を改易としました。こうして、会津若松の統治は上手くいかず、困っていたところに、家光は、賢い弟の保科正之に白羽の矢を立てたのです。幕府にとっても、会津若松は、東北の要です。仙台には伊達家がありますが、所詮は外様大名です。やはり、会津には、東北全域に眼を光らせることのできる大名が必要だと考えていました。それが、親藩なら言うことはありません。そこで、松平の姓とともに、保科正之を抜擢したという訳だったのです。正之の家系は、この後も存続し、会津藩として会津地方を治めると共に、東北への睨みを利かす存在として君臨し続けました。
いよいよ、保科正之の出番が巡ってきました。会津藩は23万石の親藩大名です。実質は、40万石以上の収入があり、徳川ご三家に次ぐ大名として、江戸時代を通じて、全国有数の富裕藩となりました。藩士も高遠時代から付いてきた者たちが譜代となり、その多くが、保科正之の眼に叶った者たちでした。しかし、江戸時代は、消費社会です。たとえ富裕藩であっても、家の家格が高ければ、それだけ交際費も嵩み、身分相応の暮らしをしようとすれば、いらぬ出費も多く必要でした。まして、親藩としての立場もあり、裕福な会津藩にしても台所事情は、大変でした。
また、正之が残した、「徳川宗家のために、会津松平家がある」という鉄の掟があり、会津藩士たちの軍事演習は、死人が出るほどの激しいものでした。 徳川家康は、演習をするために、よく「鷹狩り」を催しました。広大な野山に猪や鹿、野兎などを放し、侍たちが追い込んで、武具を使って仕留めるのです。これは、武士たちの鍛錬とともに、増えすぎた野生動物を駆除する目的がありました。会津は、山間地が多く、こうした演習を行うには適した場所でもあったのです。けがをしても、近くには良質が温泉場が多くあり、静養と治療を兼ねて過ごすこともできました。農家の百姓たちも、農閑期には、一週間から二週間程度は、温泉場で自炊し、体を休めたといいます。そんな習慣は、最近まで続いていたのです。
こうして、会津藩では、常に「徳川宗家の守護」を意識した鍛錬を怠ることはありませんでした。そして、徳川家親藩の家格は、他の大名家からの介入を許さず、幕府内でも「会津中将」として重きを置いていたのです。その上、保科正之以降、会津松平家は他の譜代大名のように転封がなく、200年以上にわたり、会津地方を治め続けることができました。このことも、松平家の家風を創る上で大変重要でした。東北の冬は殊の外厳しく、特に会津地方は豪雪地帯です。夏は、広大な盆地のため、他地域に比べて暑く、この寒暖の差が上質な米を生んだとも言われています。人も同様で、他地域と交流の少ない会津の侍は、会津の風土の中で「会津士魂」と呼ばれるような「武士道」を創り上げていったのです。
会津藩松平家は、徳川宗家の庇護の下に誕生しました。他の大名家が、「いつ改易になるか…」と幕府の顔色を見ている間も、会津松平家の侍たちは、そんな気兼ねをする必要がありませんでした。今で言えば、大企業本社の庇護の下にある、親族社長の支社のような存在かも知れません。しかし、その大企業が危うくなれば、他の支社のように責任逃れをすることもできません。最後までついて行き、倒産する寸前まで支える義務と責任を負うのです。もし、それが嫌と言うのであれば、親族支社と雖も、独自に新しい商品を開発し、会社全体に貢献しなければ、存在意義がなくなります。幕末であれば、それが「京都守護職」への就任だったということができます。会津藩の京都守護職は、警察行政としては「合格」でしたが、新しい時代への対応は未熟でした。東北の田舎に長く止まっていたために、新しい情報に疎く、時代を見誤りました。支社として本社を支えると言うのであれば、本社の政治にも深く関与し、一流の人材を多く育てておくべきだったのです。
(2)優秀な警察官僚組織
日本の江戸時代の後期は、国際情勢が大きく動いた時期でもありました。
18世紀にイギリスで起こった産業革命は、欧米諸国の近代工業化を促進し、帝国主義の時代をもたらしました。特にイギリスは、いち早く世界進出を目指し、植民地獲得競争の首位を独走していたのです。イギリスから逃れアメリカ大陸に渡った人々は、アメリカ合衆国を建国しましたが、アメリカインディアンとの戦いや、独立戦争、国内での南北戦争と続き、植民地獲得競争には出遅れていました。日本にペリーが来航しますが、帝国主義に遅れをとったアメリカの焦りだったのかも知れません。もし、幕府がアメリカの実情を知り、対策を講じておけば、もっと上手に躱せたのかも知れないのです。それには、イギリスとの関係を強固なものにしておかなければなりませんでした。しかし、当時の幕府には、その知恵はありませんでした。結局、イギリスは、当初、幕府と交渉をしていながら、薩英戦争をきっかけに薩摩藩との協力関係を結んだことで、明治新政府が誕生することになりました。
力で開国を迫るようなアメリカの要求は、日本の「朝廷」を怒らせ、外様大名たちに幕府が隙を見せる結果となってしまいました。これが「開国問題」です。日本の西国を中心に「攘夷」の嵐が吹き荒れ、京の都は、その渦中に巻き込まれてしまいました。なぜなら、当時の孝明天皇自身が、「異国人を日本に入れてはならぬ!」と命じてしまったからです。
幕府は、「開国やむなし」で意思の統一を図っていたときに、朝廷が勝手に「攘夷!」を命じられては、日本の政治の二重構造が露呈し、武士たちは、自分の都合の良い方につく結果となりました。今まで、幕府の権力と権威で抑え付けてきた不満が、ここに来て一気に噴き出してきたのです。それを抑えるのが、会津藩に与えられた「京都守護職」の役目でした。
家老たちは、この幕府の就任要請に必死に抵抗しようとしましたが、藩主、松平容保は、越前の松平春嶽から「家訓第一条」を持ち出され、京都守護職を拝命せざるを得なかったのです。会津藩の筆頭家老西郷頼母は、「火の付いた薪を背負うようなもの」と、必死に容保に食い下がり、「登城差し止め」という厳しい処分を課せられましたが、頑固一徹の頼母は、それでも邸で嘆いたほどだったのです。しかし、会津藩には、藩祖の家訓を持ち出されては、これしか選択の余地がありませんでした。しかし、貧乏くじまで引かされた会津藩でしたが、それを唆した松平春嶽も、宗家である徳川慶喜も、新政府の力が増すと、知らぬ振りを決め込み、会津が必死に戦い滅びていく様を「茶を啜るような」気分で眺めていたのです。どんなに偉い、身分の高い人間かはわかりませんが、その「薄情」な態度は、「武士道」に生きようとする会津武士には、理解できませんでした。今更、恨み言を言うつもりはありませんが、福井や水戸の人たちは、この郷土の先祖をどのように評価されるのか、伺いたいものです。
さて、こうして会津藩は、京都守護職に就きましたが、東北人の生真面目さが幸いしたのか、京都の人たちには、大変感謝されることになりました。また、孝明天皇も殊の外喜ばれ、容保を何度も御所に呼び、陣羽織や御宸翰を贈られたのです。権謀術策が渦巻く朝廷内にいて、生真面目な会津藩や容保が愛おしく、孝明天皇は、初めて信頼できる部下を得た思いだったのです。
当時の京の都の騒乱は、凄まじいものがありました。「志士」を称する田舎侍が、都を跋扈し、気に入らないことがあれば、抜刀し騒ぎを起こしていました。京都の治安は、専ら京都所司代の仕事でしたが、当然、手が回りません。
会津藩が京に入った頃、京都所司代には、弟の桑名藩主松平定敬が就任しました。幕府は、この兄弟に京の治安を委ねたのです。
定敬にしてみても、容保にしてみても、兄弟であれば連携もしやすく、心強かったことと思います。「新選組」が、浪士隊から独立して京都守護職の配下になったのもこの頃のことでした。
こうした体制が整ったことで、京都の警察体制は万全となり、長州や各藩の「志士」たちの横暴を抑えることができたのです。新選組と言えば、「池田屋事件」が有名ですが、過激な長州藩士や脱藩浪人たちは、「京の都を焼き払い、孝明天皇を拉致して長州に連れて行こう」などという恐ろしい計画を練るために、池田屋に集まっていました。明治時代になると、ここで新選組に斬り殺された侍を殊更に評価し、新選組の隊士たちを貶める歴史観が創られましたが、今で言えば、過激なテロを計画した犯罪者集団なのです。それを、正式な警察官である新選組が命懸けで逮捕に向かった事実を歪め、その場で死んだ宮部鼎蔵らが英雄視されることに、納得がいきません。こうした歴史観が覆らない限り、日本の正史が創られることはないでしょう。
この事件を鎮圧したことで、京都の人々は、会津藩と新選組に信頼を寄せることになりました。
現代のリーダーに必要なことは、「真実を見極める眼」です。起業家の中には、作家の司馬遼太郎の小説に書かれたことが、真実であるかのように錯覚し、幕末のテロリストを英雄と崇めている人物がいるようですが、まさに愚かな人たちです。自分が、これからリアルなビジネスの世界で生きたいと願っていながら、嘘で固めた歴史観を信奉するなど、愚の骨頂です。そんなことをすれば、「勝てば良い」「儲かればいい」とばかりに、違法行為すらも許されることになります。幕末の志士たちの行為がどうあれ、「違法行為をしても、成功すれば許される」という社会秩序を壊すような思考では、成功はおぼつきません。薩摩や長州の武士たちは、自分たちの違法な行為を知っていたからこそ、それを覆い隠すために、宣伝の力によって必要以上に江戸時代を貶めたのです。幕末の正義を知りたければ、「会津白虎隊」を学ぶしかありません。
ビジネス講座 2 会津藩の教育の功罪
(1)会津藩校「日新館」
全国の藩校の中でも、この「日新館」は、特に有名な学校のひとつです。会津藩は、武勇を尊ぶ気風があり、子供たちの教育にも熱心に取り組んでいました。やはり、藩祖保科正之の影響は強く、正之の関する逸話は伝説となり、その性格も遺伝するかのように、会津の子供たちに受け継がれていきました。 祖父である「徳川家康」の性格を受け継いだ正之は、「我慢強さ」「勤勉さ」「賢さ」は、他の大名と比べても抜きん出ていました。そのため、兄である将軍家光の絶大な信頼を得ることができたのです。しかし、会津藩も長い年月が経つと、様々な綻びが出てきました。それは、第一に「財政」の問題でした。会津は確かに豊かな土地です。しかし、親藩の家格と他家との交際費など、かかる費用も膨大なものでした。まして、「武勇の藩」としての誇りもあり、軍事費も相応に予算化しておかなけれなばりません。少しずつ溜まっていった借金も気がつけば、江戸中期には、約60万両にも上っていたのです。
これは、会津藩だけの問題ではなく、既に幕府の財政政策の失敗でもありました。要するに「税」の考え方が間違っているのです。江戸時代の税は、農民にしかかけられず、それも「米本位」でした。この「米」が、商人に売られ、商人たちによる「相場」で、価格が決まります。武士は、江戸や大坂の米蔵に米を納めるだけで、後は、商人に買い取って貰うしかないのです。それが、すべての「税」であれば、経済が立ち行かなくなるのは、当たり前のことでした。それを、200年以上続けてきたわけですから、たとえ、新田を開発し米の収穫高を上げても、相場は下がるだけのことで、収入が大幅に増えるわけではありません。それどころか、年々、生活が豊かになるに連れて、生活用品も増え、食事のおかずも一品増えそうなものです。米も玄米だけのものが、次第に白米に近づき、だれしも贅沢を覚えるのです。武士は「倹約」を大事にしていましたが、家の格式は捨てられず、中元、歳暮、婚礼、葬儀などのお付き合いは、身分相応に行われなければなりませんでした。「けち」は「吝嗇」と言われ、武士としての体面を傷つける恥ずかしい行為なのです。これでは、各家の借金だけでなく、大名家の借金も減ることはありませんでした。
それなら、農民以外からも「税」を徴収すればいいのですが、儒教的な考えの強かった武士たちは、「経済活動」そのものを「生産もしないで金儲けをする」と蔑み、商人たちを最下層の身分に置いたのです。
貧しい時代であれば、儒教的精神は社会を安定に導きます。しかし、社会が豊かになり、経済活動が活発になると、「耐え忍ぶ」だけでは幸福を味わうことができません。家康が天下を治めた時代とは違うのです。「平和」は、既に勝ち取るものではなく、「当然」そこにあるものなのです。武士は、それに気づかず、家康の祖法である「倹約」一辺倒の政策しか考えられませんでした。
その会津藩の体質にメスを入れ、大改革を成し遂げたのが、会津藩の家老となった「田中玄宰(はるなか)」です。田中家は、会津藩の重臣の家柄で、玄宰は12歳で家督を継ぎ、天明元年に34歳で家老となり、会津藩主三代にわたって家老職を務めました。そこで、会津藩の財政に大打撃を与えた事件が起こりました。「天明の大飢饉」です。
天明の頃は、自然災害が頻発し、天明3年には津軽の岩木山、浅間山が噴火し、火山灰を各地に降らしただけでなく、日照時間が少なくなったために「冷害」が各地を襲いました。被害は全国に及びましたが、特に東北、関東地方では、餓死者が続出する事態となってしまったのです。もちろん、各大名家では備蓄米を放出し、農民などの救済に当たりましたが、被害が大きく、手の施しようもない地域もあったのです。農村が飢饉で疲弊すれば、農民だけでなく年貢の徴収もままならず、社会の経済活動が停滞しました。その上、村から離散する農民も続出し、都市部も大混乱に陥ったのです。ちょうど、そんな時期に、玄宰は、家老職となり、会津藩の立て直しを命じられたのでした。
玄宰は、これまでの古い習慣を改め、会津藩士だけでなく、すべての領民とともに改革を目指す方針を示しました。一部には、若い家老の考えに反対する重臣たちもいましたが、策が他にない以上、玄宰に任せるしかなかったのです。玄宰は、殖産興業の奨励策として、農民や町人に「養蚕」「薬用人参」「紅花」「藍」「棉」等の栽培から「漆器」「酒造り」「絵蝋燭」の製造を推奨実行させました。今日に残る会津地方の伝統産業の基礎が、玄宰に手によって築かれたのです。さらに、「藩校日新館」を創設し教育改革を行うなど、会津藩が幕末に活躍できるまでの財政再建を成し遂げました。
幕府の老中職を務めた白河藩主の松平定信は、家臣に対し、「会津の田中三郎兵衛(玄宰)に笑われることなかれ!」と訓戒し、この会津の藩政改革を見習ったと言われています。
玄宰は、文化5年、ロシアに備えて、多くの会津藩士ともに樺太警備に当たっていた最中、樺太にて亡くなりました。61歳でした。天明の大飢饉という大災害、藩の窮乏、藩政改革と、短い期間にも拘わらず命を削るような大仕事を成し遂げた玄宰でしたが、それから約半世紀後、会津藩は、国を滅ぼすような時代を迎えたのです。玄宰は、会津に戻って死の床につくと、家族にこう告げました。
「我が骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ…」
手塩にかけて育てた会津の地を永遠に護り続けたいと願ってのことでした。
玄宰の遺言により、墓は、鶴ヶ城の側の「小田山」の山頂に設けられました。 藩校日新館では、儒学を武士道を中心に置き、「漢学」「礼法」「書道」「兵学」「武術」「歴史」「神道」「和歌」「音楽」「数学」などを教えました。優秀な者は、江戸の昌平坂学問所に推薦され、さらに国政を担うような人材育成も行われていたのです。
明治維新後、中央で活躍した人物として、熊本第五高等学校教授・秋月悌次郎、大阪市長・池上四郎、明治学院総理・井深梶之助、陸軍大将・柴五郎、海軍大将・出羽重遠、東京帝国大学教授・南摩綱紀、高等師範学校校長・山川浩、東京帝国大学総長・山川健次郎などがいます。戊辰戦争で敗れ、「賊軍」として差別を受けながらも、自分の力で世に出た人々です。
田中玄宰が興した「日新館」で学んだ人々が、苦難を乗り越えて新しい時代に立ち向かっていきました。国は滅びましたが、その精神は力強く残り、今の会津若松の人々の心の支えとなっています。
会津日新館には、今でも「什の教え」という子供の「掟」が存在しています。会津の侍として、子供ながらに「どう生きるのか」ということを定めたものとして近年、全国から注目を集めています。また、侍の子供たちは、朝起きると、まずは「切腹」の稽古をしてから、朝食をいただいていたそうです。
すべてが、現在に通用するわけではありませんが、「人の道」を真剣に問う、大人の姿に、子供なりの理想を見ていたのかも知れません。
什の教え
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
「ならぬことはならぬものです」
現在の企業においても、通じるものはあるはずです。この教えは、単に子供にだけ求めたものではなく、会津藩士のすべてを「縛る」ものでした。武士として、どう振る舞ったら良いのか、藩祖保科正之や家老田中玄宰の願いが、この教えに込められていたのです。
人間というものは、ルールに則って生きていくことは、そんなに難しいことではありません。「価値」が共有化されれば、寧ろ「心地よさ」も生まれてきます。これを不自由だと叫び、「自由」を手に入れても、多くの人間は、先の見通しも持てず、戸惑うばかりです。今の社会の人々は、会津の子供たちに比べて、多くの「自由」を手に入れましたが、彼らより素晴らしい人生を歩んでいるかといえば、それは評価の分かれるところでしょう。
(2)「頑なさ」が、会津の弱点
今でも福島県民は、「会津の人は頑固者が多い」と言います。東北人には、ありがちな性格ですが、寒い冬に耐え、黙々と働く人々にとって、余暇はないに等しい暮らしでした。その上、会津は盆地です。周囲を高い山々に遮られ、中通りや浜通りと違って、人の往来があまりありません。そうなると、どうしても同じ地域で暮らす人々との交流に限定されてしまいます。そうなると、社交的な人は少なく、特に武士階級は、徳川家親藩のプライドが高く、農民や町人と触れ合うこともありませんでした。
この「什の教え」も、いつの間にか「掟」となり、大人になっても、この「什仲間」意識がなくなりませんでした。特に教えの一と二は、大人になってまで言われると、若い者は本当に困りました。「年長者の言ふことに背いてはなりませぬ」は、子供たちに「長幼の序」を教え、子供の安全を守るという趣旨で定められたものですが、大人になり、藩の役職についても、会議の中で年長者の意見に異を唱えると、「にしゃ、年嵩の上のもんに意見すっとか?」などと言われ、口を封じられてしまうのです。若くて役職に抜擢されたような侍は、藩のエリートで、日新館から江戸の昌平坂に留学していた者も多く、国内情勢や国際情勢に敏感な侍たちでした。しかし、役職の高い大人たちは、旧来からの考え方から脱却することができず、新しい手法を嫌う傾向にありました。そして、次の「年長者には、お辞儀をしなければなりませぬ」は、武士としての礼儀正しさを教えるためのものでしたが、これも大人になって言われると、必要以上に謙ることになり、会議においても議論にはなりません。こうした硬直した考え方は、改革を推進した田中玄宰の意図した処ではありませんが、体に身についた気風というものは、どうしようもないのです。
特に「京都守護職」として京の都に派遣されて以降、藩内の意思が統一できなかった原因がこうした因習にありました。
そのために、会津藩が西洋式の軍制に変えたのは、長州軍が都に進軍し、「禁門の変」を起こし、薩摩藩と手を組んで長州軍を京の都から追い払って以降のことです。長州軍の鉄砲隊や大砲隊を目の当たりにした会津藩が、大急ぎで藩の軍制をフランス式に転換を図りましたが、実際に動き出したのは、戊辰戦争が始まってからのことでした。これも実戦経験のない国元の重臣たちが、反対したために遅れたもので、若い武士たちには、こうした頑固な年寄りたちを説得するのが大変なことだったのです。
結局は、戊辰戦争は、旧式の装備のまま戦うことになり、白河城の争奪戦に敗れると、もの凄い速さで新政府軍が会津若松城下に殺到しました。「天然の要害」と自負していた「母成峠」を突破されると、心の準備ができないまま、敵兵は、城下に雪崩れ込んできたのです。
さすがの会津藩兵も、ここに来て、如何に強大な敵と戦っているかということに気がつきました。そして、最後の籠城戦へと突き進んでいったのです。
この一ヶ月にも及ぶ籠城戦こそが、会津戦争そのものでした。敵軍の動きが速く、入場の早鐘が鳴っても刻限までに入場できなかった者たちは、自分の邸に戻って自害しました。家老の西郷頼母の家では、頼母と長男の吉十郎だけが
入場し、その他の女子供は、邸で自刃しました。それは、「戦の足手纏いになるな」という武家の名誉を守るための覚悟ではありましたが、若い娘や幼子が血に塗れている姿は、あまりにも憐れで涙を誘いました。武家の婦人でも、武術に心得のある者は、長刀を脇に抱え、敵陣へと向かって行ったのです。
城内では銃を扱える者は、敵兵を一人でも屠らんと弾のある限り撃ち続け、女たちは、生活のすべてを賄いました。中には、飛び込んで来た大砲の弾を水を含ませた布団を被せる作業中に爆死した者もいました。糞尿の始末もままならず、食糧も水もない状態の中で、歯を食いしばり戦い続けたのです。
容保が降伏を決断したとき、まともな白い布がなく、小さな端切れを縫い合わせて白旗を掲げたそうです。白い布は、すべて負傷兵の包帯となっていました。降伏式には、城の奥にしまわれていた緋毛氈が敷かれました。降伏は、しましたが、それは「これ以上の戦は無駄だ…」という容保の決断によるものでした。城内からは、続々と籠城戦に耐え抜いた女や少年たちが現れました。
それを西軍の将兵は嘲り笑い、「臭い、臭い…」と鼻をつまんだそうです。本当に「武士の情け」も知らない男たちでした。
籠城した会津の武士たちは、降伏式後、その緋毛氈を小さく切り分け、「この恥辱を忘れまい!」と誓ったのです。その誓いは、現在でも会津の人々の心に残り、薩摩人や長州人を許すことはないのです。その緋毛氈は「泣血氈(りゅうけつせん)」と呼ばれ、会津の人たちは、「血の涙を流しながら」泣いたのです。
戊辰戦争において、戦死した会津藩士は約3000人、自刃した婦女子は233人にのぼりました。「明日よりは いづくの誰か ながむらん なれし御城に残す月影」。開城前夜、スペンサー銃をとって戦った山本八重は、その歌を鶴ヶ城の壁に残しました。
勝者はいつも無慈悲です。勝者には敗者の痛みを理解することはできません。そして、その勝者もいずれ敗者となり、同じような血の涙を流すのでしょうか。いや、一度誇りを捨て獣になった男たちには、血の涙を流す資格はなかったのです。
人間は巨大な組織に所属していると、あまりに大き過ぎて、自分のいる位置を掴めなくなるときがあります。現代でいえば、「国鉄解体」がいい例でした。当時の国鉄は、戦後の復興の一環として復員兵を雇用し、空襲によって寸断された線路の補修や、機関車や列車の整備等、人海戦術で復旧していきました。そして、全国津々浦々にまで線路が敷設され汽車や列車が走るようになると、それほどの人員は要らなくなったのです。また、戦後のGHQの指令により、共産主義者が解放され、労働組合組織も認められるようになりました。国鉄には、戦後の募集に応じた元復員兵がたくさんいましたので、彼らが労働組合を組織し、会社に様々な要求を突きつけたのです。国民にとっては、鉄道は生活に欠かせないものになりましたが、組合は、それを逆手にとって「労働争議」を起こし、電車の運行を止めるなどの「時限スト」を度々起こしました。
国民の多くは、こうした行動に眉を顰め、次第に組合は国民の支持を受けられなくなっていったのです。それでも、要求は相変わらず続き、それに伴い、国鉄の乗車料金を上がっていきました。国民にしてみれば、「サービスは悪い」「職員の態度は横柄」「ストばかりやっている」といった苦情が重なり、これを契機として、政府は、「民営化」に舵を切ったのです。これにより、多くの国鉄職員がリストラに遭い、退職を余儀なくなれました。
自分たちの置かれている現状がわからず、目先の要求ばかり繰り返した結果の悲劇だったのかも知れません。
会津藩も、「徳川幕府は倒れない」「新しい変革は必要ない」「武士の世の中が永遠に続く」という思い込みが、本当の「会津の危機」が目前に迫っているにも拘わらず、真剣に議論される前に、新政府軍によって墳墓の地が蹂躙されることになってしまったのです。巨大な組織に属していたための悲劇です。 現代に生きる大人たちも、国内、国際情勢に気を配り、対応策を考えておくことが必要だということを、この歴史は教えています。
ビジネス講座 3 白虎隊の悲劇
(1)白虎隊の純粋性
白虎隊が飯盛山で自刃して果てたのが、慶応4年(1868)の8月のことでした。あれから、150年あまりも経ちましたが、未だに飯盛山にある自刃した隊士たちの墓には、線香の香りが立ち籠めています。どうして、日本人は、この少年たちの霊を慰めずにはおれらないのでしょうか。
「白虎隊」が誕生したのは、鳥羽伏見の戦いが始まり、遂に、幕府軍(東軍)と薩長軍(西軍)が激突したからです。これを「戊辰戦争」と呼びました。
薩摩藩と長州藩は、坂本龍馬という浪人を媒介にしたイギリスの仲立ちにより同盟を結びました。これまで開国反対の攘夷運動を引っ張っていたのは、長州藩でした。それも高杉晋作たち下級武士のクーデターによって、長州藩は、完全に幕府に敵対する姿勢を見せ、幕府軍と戦っていたのです。そこに、日和見を決め込んでいた薩摩藩が、長州藩と手を組みました。元々は、水と油のような両者が手を結んだことは、京都守護職を務めていた会津藩にとっても、衝撃的な出来事でした。なぜなら、薩摩藩は会津藩と連携して、長州を京の都から追い出したからです。そんな敵対関係にある両藩が、手を結ぶなどとは常識では考えられません。それを可能にしたのが、「倒幕」です。
攘夷運動と倒幕運動は、連動はしていますが、考え方はまったく異なります。なぜなら、「攘夷」は、天皇が幕府に要求し、実行を促していたからです。幕府自身は、「攘夷より開国」と考えていましたが、天皇直々に命令されると、従わざるを得なかった事情もわかります。これは、まったく想定していない天皇の反応でした。
武士が権力を手中に収めて以来、その大きな武力を背景に、朝廷貴族や天皇の意見を封じ込めてきました。まさか、この事態に孝明天皇自らが発言されるとは、幕府首脳も将軍家も考えていなかったと思います。この「攘夷」という思考だけは、孝明天皇自らのご意思だと考えられるのです。「神聖な日本に、野蛮な異人を入れることは、皇祖皇宗に申し訳が立たない」という理由も日本人なら理解できるはずです。
この天皇の意思を聞いた幕府や将軍は、適切な処置ができないでいました。当時の幕府老中首座・阿部正弘は、この件について、外様大名も含めて全国の大名家の意見を聞くことにしました。これは、一見、民主主義の手法に則った名案のように見えますが、幕府の信頼を揺るがす一大事だったのです。
次に、病に倒れた阿部正弘の後を引き継いだ堀田正睦は、十分根回しをした上で、アメリカとの「通商条約」の勅許を得るために上京しました。有力貴族には、金品を贈り、根回しも済んでいるので、天皇の許可は得られるものと考えていたのです。しかし、回答は「不許可」でした。これも幕府始まって以来の一大事でした。逆に、長州寄りの下級公家たちによって、天皇の意思は「不許可」と決まっていたのです。ここで、幕府は朝廷の貴族が大きく二分されていることに気がつきました。長州藩は、当初より攘夷に名を借りた「倒幕」が目的でした。朝廷の下級貴族らは、貧乏に甘んじる生活を数百年も続けてきたのです。表面上は、知らぬ顔を決め込んでいても、本音は、「倒幕ができたら、面白い」と考えていました。
この二つの事件がきっかけで、幕府はその信頼を一気に失い、攘夷運動が倒幕運動に変化していくのでした。そして、裏では「倒幕の可能性に賭けた」イギリスが動き、薩長同盟の締結、坂本龍馬の暗殺、戊辰戦争への介入と続くのです。
よく「坂本龍馬暗殺の謎」と言われますが、坂本が邪魔になったのは、「倒幕」が決まり、彼の存在理由がなくなったからです。薩摩も長州もイギリスも、坂本を必要としなくなったのです。そして、坂本はこの三者の秘密を知りすぎました。坂本は都合のいい浪人者です。殺したところで、問題にはなりません。坂本龍馬が英雄になったのは、「倒幕」の企みに外国勢力が関わったことがバレないようにするためだったのではないかと疑っています。
もし、薩長同盟ではなく、「英幕同盟」だったら、幕府が考えていたように、イギリスを中心に「開国」交渉が行われ、イギリス優先の条約が結ばれたでしょう。そして、幕府は「新政府」へと衣を換え、新しい明治時代を迎えていたはずです。そのとき、幕府に反抗した長州藩は改易となり、攘夷派の過激派浪士は、安政の大獄以上に厳しい罰が下されたはずです。
結局、日本の明治維新は、イギリスの出方ひとつだったと言えそうです。
さて、その頃会津藩では、新政府軍の狙いは、徳川家と会津松平家であることは、わかってきました。
鳥羽伏見の戦いでも、会津藩兵が主力として戦いました。しかし、ここでまた、前代未聞の珍事が起こります。将軍慶喜が、松平容保や松平定敬らの重臣たちを連れて江戸に逃げ帰ってしまったのです。幕府方の総大将が、よりによって従う兵に何も告げず、敵前逃亡するとは、武士の風上にも置けない不埒者の所業でした。もし、これが会津藩の侍なら、即刻打ち首です。そのくらいの大罪を犯しても、慶喜には、逃げなければならない理由があったのです。それは、慶喜流の「日本を守る」ためだったのだと推測しています。
慶喜には、薩摩、長州、公家の後ろにイギリスがいることを理解していました。その頃、会津藩に信頼を寄せていた孝明天皇が、表向きは「天然痘」の病による急死とされていますが、間違いなく「毒殺」されています。黒幕は、イギリスに魂を売った岩倉具視でしょう。岩倉は、恐れていたのです。もし、自分たちの企みが露見し、幕府が勝利するようなことがあれば、岩倉は間違いなく打ち首だからです。そこで、裏から手を回し、会津の味方になる恐れのある天皇を始末したのです。孝明天皇は、「攘夷」は願っていましたが、それは「幕府と協力して行いたい」という希望であり、長州藩と協力して行うほど、愚かではありませんでした。御所に弓を引く長州など、信用するに値しないのです。
こうなると、反幕府方の公家や薩摩藩、長州藩は死に物狂いで攻撃にかかってきました。武器は、イギリスが整えてくれた最新式の武器ばかりです。
江戸に逃げ帰った慶喜は、
「このまま戦が続けば、イギリス軍本隊が現れ、内戦で弱ったところを突くつもりに違いない。アヘン戦争の二の舞はご免だ!」
徳川家康の再来と言われた慶喜の頭は冷静でした。
おそらくイギリスは、軍艦50隻、兵員5000人も動員すれば、占領は可能だと考えているに違いありません。そこで、新政府軍の参謀西郷隆盛に海軍奉行の勝海舟をぶつけることにしたのです。
勝は、慶喜の腹心です。この逃げ帰る策も、実は、海舟の計画によるものでした。そうでなければ、海軍の軍艦が手筈どおりに大阪湾に停泊しているわけはないのです。それもこれも、「日本を守る」という一点での行動だったのです。しかし、そうなると、江戸での戦は避けられるかも知れませんが、会津藩は、徳川宗家に代わって滅ぼされるかも知れません。そのことを考えると、慶喜にも迷うところはありました。しかし、ここで戦えば全面戦争になります。
幕府軍には、優秀な参謀もいます。兵隊もけっして弱兵ではありません。軍艦の数なら、西軍を圧倒しているのです。しかし、全面戦争は回避しなくてはならない。となると、将軍である自分がいてはならないのです。そのために、一番最悪の方法を選択したのでした。
慶喜の予想どおり、西郷と海舟の会談は、江戸城の「無血開城」で決まりました。イギリスの使者は、西郷らに「金や武器ならいくらでも用意する」と囁きましたが、西郷は、「この戦は、日本の戦でござる」と、その申し出を拒否したのです。しかし、西郷も、これで戦を終わらせることはできませんでした。
「朝廷に政治を戻すということは、自分たちで新政府を創ることに他ならない。公家は所詮は飾り物、実際に政治を司るのは武士なのだ。そのためには、幕府を徹底的に潰すことが必要なのだ」そして、西郷が出した答えが、
「気の毒だが、会津には泣いて貰う他はない…」と決断したのです。
西郷は、世界の革命を学んでいました。その成功は、前政権を徹底的に潰すことにありました。国に王は一人でよいのです。このたびの倒幕の戦も、本来あり得ない発言を、天皇が公にしたことに原因があったのです。もし、あのとき、孝明天皇が「攘夷」を言い出さなければ、自分が毒殺されることもなかったのです。
西郷は、「都には、怨念が渦巻いている」と考えていました。
「この都にいたのでは、過去の怨念に絡め取られ、いつか滅びるだけだ」
西郷は、そのように京の都と朝廷を見ていたのです。
そんなことが、京や江戸に起こっているとも知らず、会津藩は、混乱の渦の中にいました。江戸城無血開城の話は、すぐに会津若松にももたらされました。将軍家とともに江戸に逃げ帰った容保は、家臣たちに自分の不明を詫び、謝罪しましたが、だれかが責任を負わなければなりません。それが、武士道なのです。そして、容保側近の神保修理が、一人、責任をとって自害して果てたのです。修理には、雪という妻がいましたが、「これも武門のならい」と、新婚の妻を一人残して、死んでいったのです。そして、その妻の雪も会津戦争の
最中、長刀で敵と戦いましたが、奮戦空しく敵の捕虜となってしまいました。しかし、彼女は命乞いをすることなく、敵将の短刀を借り、見事に自決しました。彼女にも「神保修理の妻」としての武士道があったのです。
そうした中で、会津にも危機が迫っていることが、会津の田舎にいてもわかるようになってきました。容保が会津若松に戻り、重臣たちが東北諸藩と連合して「奥羽越列藩同盟」を結んだ噂も入りました。しかし、これで、新政府軍と戦争になることは明らかです。会津若松では、フランス式に軍制を改革しましたが、編制を終えても、西洋式の小銃は高価で、なかなか思うようには揃わなかったのです。それでも、旧式で先込めの「ゲベール銃」が、白虎隊にも装備されました。会津藩では、16~17歳の者を以て「白虎隊」、18~35歳までの者を以て「朱雀隊」、36~49歳までの者を以て「青龍隊」、50歳以上の者を以て「玄武隊」としました。当然、主力は朱雀隊と青龍隊です。それに砲兵隊、築城兵・遊撃隊など、約3000人の正規軍でした。他にも、農兵3000人、猟師隊、修験隊、力士隊などがあり、会津軍の総兵力は7000人を上回ったのです。
しかし、武道の心得のない農民兵などが、戦場でどのくらいの働きをするかは、まったくの未知数でした。白虎隊は、16~17歳の少年兵で、それ以下の子供は「幼年組」とされており、戦場には出しませんでした。飯盛山で自刃したのは、その中の「士中二番隊」の20人でした。
士中二番隊には、敵軍が母成峠を突破し、若松城下に侵入しようとしていた際に出動命令が下されました。敵軍が若松に入ったとなると、藩主容保にしても、いつまでも城内に潜んでいるわけにはいきません。滝沢村の本陣まで出張り、味方を励ますつもりで出陣したのです。そして、その護衛を命じられたのが、白虎隊士中二番隊でした。滝沢本陣まで来てみると、「間近に敵兵が見える」との知らせが入り、容保が数人の護衛に守られて城に戻ると、残された士中二番隊には、いよいよ「前線に出よ!」との命令が下されたのです。
若松への入り口の強清水には、会津兵が守備についていましたが、兵力も少なく、予備の兵の出動要請がかかっていたからです。
白虎隊士は、特に戦闘に参加する予定がありませんでしたので、弁当の用意もありません。そこで、近くの農民兵から握り飯を譲って貰うような始末でした。それでも、少年たちは、初めての戦闘に胸を躍らせていました。彼らには、これから訪れる悲劇より、武士として戦えることが嬉しかったのです。
少年たちの隊長や副隊長は大人の侍でした。そのうち、「戸の口原に敵軍が迫っている!」との報に、白虎隊も出撃しました。最前線に出る頃には、雨になり、敵軍の様子もよくわかりません。そのうち夜になり、緊張感と空腹で、隊員たちの体力が奪われていきました。初秋とはいえ、夜は寒く、雨で濡れた体は冷え、寒さを訴える者も多く出始めていました。すると、隊長日向内記と副隊長は、「食糧を調達してくる」と、隊を離れたのです。
次第に夜が明け始めると、周囲の様子が見えるようになってきました。すると、敵軍の喚声が聞こえました。これは敵の攻撃の合図です。白虎隊員たちは、隊長不在のまま、篠田儀三郎の指揮で、戦闘に突入していきました。背中に背負ったゲベール銃は、先込めの上、命中率も悪く、雨で使えない銃も出てきたために、儀三郎は、刀を抜いて突撃命令を出したのです。
白虎隊士にとって、初めての白兵戦です。これには、他の会津藩士や農兵も加わっていました。戸の口原は、湿地帯の草原で、特に身を隠す場所もなかったのです。
敵兵と刃を交わし、敵を斬った者もいましたが、戦果はわかりません。味方の「引け!」の合図で、白虎隊士も銘々に引いて行きました。敵軍も深追いをしなかったために、少年たちは若松方面に退いたのです。
しかし、少年たちは次第に集まり始め、20数名がひとかたまりになって鶴ヶ城を目指すことになりました。やはりお城は、心の拠り所でもあったのです。通常なら、一時間も歩けば、城郭には到達するはずですが、既に間道にも敵兵の姿があり、少年たちは、脇道から飯盛山に入りました。飯盛山は、清水も豊富で、子供たちの昔からの遊び場でもありました。この山のことなら、よく知っていたのです。
飯盛山には、隧道が掘られており、豊富な清水を街中に送る水道の役割もしていました。少年たちは、この隧道を通って、山の上に出ようとしたのです。流れる水に足を掬われ、転びながらやっとの思いで、「さざえ堂」の脇に出てきました。山頂はもうすぐです。そこからなら、遠く鶴ヶ城が見えるはずです。周囲に敵兵はいません。しかし、昼に一度、握り飯を食べただけで、戦闘を行い、体に傷を負っている者、空腹と疲労で体力を奪われている者など、彼らにも限界が近づいていました。そのうち、20数人いた者が、少しずつはぐれ、山頂付近の辿り着いたときには、10数名になっていました。
草の上に腰を下ろすと、もう立つ気力も湧きません。「もう、これ以上は無理だ…」と泣き言を言う者もいます。傷を負った少年は、「傷が酷く痛む…」と顔を歪ませますが、治療をしたくても何もないのです。すると、最前列にいた少年が、すくっと立ち上がると、松の木にもたれたまま、「ああ…っ」という声を出したのです。それは、なんと鶴ヶ城が燃えている光景でした。
実は、このとき城下では町家が敵兵発見の邪魔になると考え、火を放っていたのです。その炎が、飯盛山から見えたのです。それを見ていた少年が、思わず「城が、城が燃えている…」と叫びました。
他の少年たちも一斉に立ち上がり、やはり、口々に「城が燃えている…」と叫んだのです。しかし、伊東悌次郎は、すぐに違うことに気がつきました。
「おい、違う、違う。あれは、城ではない。町家が燃えているんだ!」
そう叫びましたが、体力を奪われ、疲れ切った頭には、伊東の声は届きませんでした。伊東は、「違う、違うんだ!」と諭して回りましたが、一度、思い込んだ頭には、その真実の声は届かなかったのです。
少年たちが、呆然としていると、「すまぬ。傷が酷く痛むので、ここで腹を斬る!」そう言って、石田和助が、真っ先に腹に短刀を突き立てました。
もう、それをだれも止められません。死の連鎖が始まってしまったのです。
少年たちは、次々と腹や首に刀を突き立てて行きました。もう、悌次郎にもどうすることもできませんでした。
それを見ていた篠田儀三郎は、「みんな、会津のために死のう。遅れるなよ…」と呟いたのです。これを聞いた残りの少年たちも、ここが最期と覚悟を決めて刃を自分の向けたのでした。
少年たちは、自分にあった方法で自害したようです。ある者は、腹を真一文字に裂き、ある者は、長い刀を心臓に突き刺しました。ある者は、出血で力が入らず、友人に介錯して貰う者もいました。
そして、最後に伊東悌次郎も諦めたように脇差しを抜き、自分の頸動脈を断ち切ったのでした。
それから半時も過ぎた頃、はぐれていた六人ほどの少年たちが、先に逝った仲間たちを見つけ、「遅れてはならじ」と同じように自害し、その屍を草むらに横たえたのです。
しかし、この20名の中に、ただ一人、死にきれないで呻く少年がいました。飯沼貞吉です。貞吉は、ひとつ年齢を誤魔化して入隊した15歳の少年でした。貞吉は、力がないので腹は切れないと思い、脇差しで喉を突き刺すことにしました。躊躇うことなく短刀を喉に突き刺すと、そのまま倒れ込みました。しかし、まだ意識があります。そこで、木の株を両手で持ち直し、体重を短刀にあずけました。すると、首の後ろに切っ先が出るのがわかり、そのまま闇の中に引き摺り込まれていったのです。
それから一時間も経ったでしょうか。たまたま、はぐれた子供を探しに来ていた農婦に貞吉は発見され、介抱の後、蘇生したのでした。通常であれば、それほどの傷を負い、出血をした少年が助かる道は、万が一もありません。しかし、運命とは恐ろしいものです。外科手術を施したわけでもないのに、貞吉の傷は塞がり、成人してからも後遺症に悩むこともなかったそうです。
勝手な解釈にはなりますが、19人の少年たちが、弟のような貞吉が死ぬことを惜しみ、「おまえは生きて、俺たちの最期を後生に伝えてくれ」と頼んだような気がします。この貞吉の蘇生がなければ、白虎隊士中二番隊の死は、永遠に語られることなく、歴史の闇に消えていったことでしょう。それを考えると、人には与えられた「使命」があるように感じてしまいます。
飯沼貞吉は、明治時代になると電気技師となり、飯盛山で死ねなかったことを後悔し続けたと言います。そして、死ぬ間際、家族に「死んだら、骨を飯盛山の友の側に埋めて欲しい」と言い残しました。
今では、自刃した白虎隊士の墓の少し先に飯沼貞吉の墓が立てられ、全員が鶴ヶ城の方を向いて建っています。この少年たちは、けっして英雄ではありませんが、戦前、戦後を通じて日本の人々の心に何かを訴え続けているようです。
武士の子とはいえ、その最期には涙が出ます。ここまでの覚悟をさせられる教育とはなんでしょうか。「日新館」の教育は、素晴らしいと思います。しかし、武士としては「死ぬべき場所」を得られて本望なのかも知れませんが、大人として見たとき、彼らに違う選択をさせられなかったかという後悔の念のような感情に囚われます。しかし、人間が極限状態に晒されたとき、日頃の教育の成果が現れるのかも知れません。一人、伊東悌次郎だけは、冷静に状況を把握していました。しかし、仲間を抑えることはできませんでした。少年たちは生きることより、「名誉ある死」を望んだのです。
この白虎隊伝説が、生き残った背景には、やはり日本人のDNAに刻み込まれた「武士道」があるように思います。戦時中、特攻隊で死んでいく若者と、この白虎隊士を重ね合わせていました。「悲壮」であればあるほど、武士道は昇華されていくのです。「滅びの美学」のような心理が、日本を最後まで「特攻」に駆り立てたとすれば、武士道の持つ「純粋性」こそが、最大の過ちであり「誇り」なのかも知れません。
(2)「白虎隊精神」を受け継いだ人たち
会津藩は、白虎隊の少年たちの死後も籠城戦を戦いました。士中二番隊の生き残りや一番隊の少年たちは、鶴ヶ城に籠もり、押し寄せてくる敵兵に銃弾を浴びせ続けたのです。少年たちを指揮したのは、会津の女傑、山本八重でした。兄は、佐久間象山塾で砲術を学んだ山本覚馬です。八重は、新式のスペンサー銃を駆使し、次々と敵を倒したと言われています。NHKの大河ドラマにもなった女性です。また、籠城戦を戦った山川健次郎は、敗戦後伝手を頼ってアメリカに留学し、エール大学を卒業しました。そして、物理学者となり、東京帝国大学や京都帝国大学の総長を務めた、日本屈指の科学者になりました。
山川家は、会津藩の家老職で、戊辰戦争時は兄の浩が日光口から鶴ヶ城に奇策を以て入場した話は有名です。戦後は、東京に出ると旧会津藩士たちの世話をして暮らしていました。しかし、名将山川大蔵(浩)を放っておけるほど、明治政府には人材はいませんでした。実際の政治を行ってみると、力だけでどうなるものでもなかったのです。西郷たちは、薩摩藩や長州藩など、新政府に与した者だけで政治ができると考えていましたが、実際に使ってみると、独りよがりであったり、汚職に手を染めたり、無能であったりと、政府や軍の仕事を任せられるような人材はいませんでした。国際社会で、それなりの地位を得ようとするなら、日本人の優秀さを西洋人に見せなければなりませんでした。
政府内部でも各藩の派閥争いが続き、方針が定まりません。結局、明治政府は、西郷隆盛一人が切り盛りしているような状態が続いたのです。岩倉具視や大久保利通らが不平等条約を改正するために渡欧しましたが、何の成果も上げられず、物見遊山で帰国してきました。こうした姿からもわかるように、実際の政治は、革命家にできるはずはないのです。革命家が「動」であるとすれば、実際の政治は「静」です。革命後に必要なのは、安定した政治であり、平和なのです。平和とは、落ち着いた平穏な暮らしであり、喧嘩ではありません。しかし、革命でしか生きてこなかった明治維新の功労者たちには、それが十分理解できてはいなかったのです。
そして、西郷隆盛は、平和な時代に不要になった革命分子を引き連れて、死んでいきました。その死は、「自分の役割は終わった」と自覚しての死でした。そして、日本も、やっと「挙国一致体制」が採れるようになったのです。 明治政府は、革命家たちがいなくなったことで、幕臣や幕府方だった人材を登用できるようになりました。それでも、陸海軍には、その革命分子の残滓が残り、国を滅ぼす勢力になりました。しかし、そんな中で会津戦争で籠城戦を戦い抜いた若者たちは、歯を食いしばりながらも世に出て行きました。
会津の女性に山川捨松がいます。陸軍卿大山巌夫人として有名になりました。彼女は、日本初の女子留学生として欧米使節団に加わり渡米した5人うちの一人で、最年少の津田梅子も幕臣の娘でした。彼女は家老山川浩の妹です。会津の籠城戦のときは7歳、アメリカに渡ったときには12歳になっていました。
捨松は、11年もの長い間アメリカで学び大学まで卒業した才女でした。しかし、帰国後の日本に彼女の居場所はありませんでした。明治政府は「富国強兵」の名の下に、日本の西洋化には努めましたが、日本女性の地位や文化の発展には関心を示さず、とにかく西洋人の目に触れるところだけを熱心に西洋化していたのです。まして、女性の地位や権利など、そもそも眼中にありません。捨松たちが留学したのも、薩摩の黒田清隆の思いつきに過ぎませんでした。「日本女性のために…」と意気込んでアメリカに渡り、一生懸命勉強したことが、日本ではまったく生かされないのです。それは、同じ留学生だった津田梅子も同様でした。仕事と言えば、「鹿鳴館」でダンスを踊り、英会話で西洋の紳士をもてなすことくらいしかありません。
「こんなことをするために、アメリカの大学まで通って勉強したのではない」
捨松は絶望感に苛まれていました。会津の籠城戦といい、今度の留学といい、捨松は苦労の連続でした。
その捨松に一筋の光明を照らしたのが、薩摩の大山巌です。その頃、大山は病で前妻を亡くし、後添えを探していました。巌はフランス留学の経験があり、薩摩人らしからぬ国際感覚を身につけていました。その大山が、鹿鳴館の華と謳われた捨松に声をかけたのです。もちろん、山川家の家族は大反対をしました。この大山も会津戦争に参加した仇敵なのです。それでも、捨松は、大山の妻になることを決心しました。なぜなら、「この夫の力を借りて、女性の地位向上に努めるんだ!」という意思を固めていたからです。それに、捨松では、日本の男性に嫁ぐことは無理でした。日本の「良妻賢母」教育では、日本女性の地位が向上しないことが、わかっていたからです。その点、大山は家庭でも紳士でした。大山は、捨松に向かって、
「好きなようにすればいい。これからの日本は、女性も活躍せねばならぬ」
と言い、フランス時代に付き合った女性のことまで話すような人物だったのです。
その後、捨松はアメリカで取得していた看護婦の資格を生かし、日本初の看護婦学校「有志共立病院看護婦教育所」の設立に尽力しました。他にもアメリカ流のボランティアやチャリティー活動にも取り組み、アメリカとの民間交流の基礎も築いたのです。その他にも津田梅子を支え、津田梅子の英語塾を資金面でも援助し続けたのです。
こうした功績は、政治や軍事が優先の日本社会では、あまり評価されては来ませんでしたが、「会津の女」らしい純粋な「白虎隊精神」の発露だったと思います。
白虎隊を悲劇のヒーローに仕立てる小説やドラマが多いと思いますが、彼らも純粋な日本の少年たちでした。幼い頃から「会津」という小さな地域で生まれ育ち、「国」といえば、それは会津のことでした。そんな子供たちが、藩校日新館で教育を受け、成長していく過程の中で、戊辰戦争という災難に巻き込まれてしまったのです。それでも、彼らは毅然として災難に立ち向かう「武士」でした。この覚悟が、特権階級に属する者たちの責任であり、使命(ノブレス・オブリージュ)でもあったのです。そして、その白虎隊の少年たちが受けてきた教育は、純粋なものでした。特権階級というと、すぐに封建社会の王侯貴族を思いがちですが、日本の「武士」は、特権は持っていましたが、その多くの人々の暮らしは、町人や農民と同水準だったのです。それでも、武士には、常に「民を守る」という使命感と「死」を受け入れる覚悟を持っていました。現代の日本の特権階級は、やはり企業や政治のトップたちだと思います。しかし、彼らに特権階級の使命感(ノブレス・オブリージュ)は、あるのでしょうか。この使命感があると思えばこそ、国民は「特別な権利」を認め、贅沢な暮らしをしていても、咎めることはしないのです。その自覚こそが、上に立つ者の生き様だと思います。ぜひ、彼らにも、高邁な理想と使命感、覚悟をもって日本の発展に尽くして欲しいと願って已みません。
ビジネス講座 4 会津藩のリベンジ
(1)奢れる者、久しからず
明治維新だけを見ていると、勝者は薩摩藩や長州藩でしたが、彼らの創った「大日本帝国」は、昭和20年8月に崩壊しました。わずか80年の命だったのです。それでは、なぜ、多くの犠牲者を出しながら、崩壊してしまったのでしょうか。それは、もちろん、帝国主義という人種差別思想と合法的侵略が容認された時代に、明治政府は、必死に抵抗し、国を守ろうとしたことは否定できません。しかし、日本に「革命」は必要なかったのです。西郷隆盛が「ナポレオン自伝」を愛読書にしていたと言いますが、フランスの惨状とナポレオンの末路見れば、それほど素晴らしい人物には思えません。無論、軍人としてのナポレオンは英雄です。つまり、西郷自身は、軍人としてのナポレオンに憧れただけで、その後の君主、政治家としてのナポレオンには、興味がなかったことになります。軍人は「破壊」することを職業としていますが、政治家は「創造」することを仕事とします。この相反する思想を持つことのできる者が、真の「武将」と言うことができるのでしょう。
その典型が徳川家康でした。彼は、類い希なる戦略家であり野戦を得意とする侍でした。一方、平和国家樹立のために、関東平野を整備し「江戸」という大都市を建設しました。江戸の町は、「整えられた」のではありません。「建設」された人工の町なのです。そして、幕藩体制を整え、「地方自治制度」を徹底し、江戸の町も地方の町も「法令」で国を治める「法治国家」を創り上げました。この「法令優先」の思想は、既に五代綱吉の時代に完成されていたと見るべきです。なぜなら、有名な「赤穂事件」は、この法の裁きによって決着しているからです。この「法令主義」は、非常に運用が難しい制度です。日本でもよく「三権分立」と言われますが、これは、「司法」「行政」「立法」が厳密に独立していることを指します。しかし、人間が運用する以上、権力を握った者が、この三権を支配することだって可能になるのです。なぜ、元禄時代の「赤穂事件」が、「法令優先」の例かと言えば、事件が勃発したとき、将軍綱吉は激怒し、当事者の浅野内匠頭の即日切腹を申し渡しました。これは、被告に正当な裁きを受けさせなかったことになります。しかし、吉良邸に討ち入った赤穂浪士たちを世間の助命の声に屈することなく、幕府(日本政府)は、切腹という「処罰」を命じました。つまり、最初の将軍の命令は「人治主義」思想そのものです。形式的には、法治主義をとっていても、最高権力者が決断すれば、法を上回る権力となるからです。これでは、三権分立は成り立ちません。しかし、赤穂事件では、赤穂浪士たちの処分に困ります。将軍綱吉も最初の裁定を誤りと考え、寛永寺の公弁法親王に伺いを立てたほどでした。
つまり、「将軍という最高権力者であろうと、法を超えた裁定はしてはならない」という基本に立ち返ったことになります。それは、徳川家康の「祖法」でもありました。そこに気づいたからこそ、赤穂浪士の裁定を自分で下すのではなく、幕府(日本政府)の裁定に委ねることができたのです。
そう考えると、日本は1700年代には、既に法治国家として近代国家になっていたことになります。未だに民主主義を装いながら、「人治主義思想」から脱却できない国が多い中で、既に300年も前から法治主義を掲げた日本は素晴らしい国だと誇りに思います。それが、幕末の「テロ行為」を容認し、犯罪グループが政権を奪うと、彼らこそが英雄となり、国のリーダーになっていったわけですから、まさに「人治主義」に逆戻りしてしまいました。そのため、成功さえすれば、テロや革命が許される雰囲気が醸成されていったのです。
結局、どんなに徳川幕府を貶めたところで、所詮、明治政府は革命政権であり、人治政治を行った結果、80年で崩壊したということなのです。「奢れる者は久しからず」と言いますが、クーデターで政権を奪取しても、その後の国造りを間違えれば、また、次の大きな権力に飲み込まれるという構図なのです。
よく、「それなら、徳川家康だって政権を奪ったじゃないか?」と言われますが、家康は外国勢力の力は借りてはいません。それに、当時の豊臣政権は、法治主義ではないのです。単に世襲の豊臣秀頼という権力者の下に合議制の政府があり、「力のある者が、天下を取る」という正義が成立していた時代です。そして、人々は、戦乱に飽きていました。
しかし、それから260年後の日本は、徳川家康の戦略によって「法治国家」となっていました。「法の支配」とは、今の総理大臣もよく遣う言葉ですが、それを壊したのが、薩長同盟です。もし、正当な手続きで政権を委譲させたいのであれば、明治維新などという「革命」ではなく、幕藩体制を止めて「日本政府」を創ればよかったのです。
そのチャンスは、将軍慶喜が「大政奉還」をしたときにあったのです。慶喜も当然、そのつもりでした。しかし、それをさせまいと、西郷や大久保利通らが、「徳川家に領地の返納と官位の剥奪」を画策したからです。
やはり幕府の実力を知っていた西郷や大久保は、政治能力において、薩摩や長州などが、束になってかかっても、勝ち目はないと悟っていました。幕府は、これまでも外国との交渉を一手に引き受け、通訳官も揃っていました。外国の要人との人脈もあり、譜代の大名や旗本にも、国際情勢に詳しい人材がいました。新政府が創られ、徳川家の人間が、政府や省庁に加われば、彼らがリーダーとして政治を進めていくことは明らかなのです。
結局、能力のない者たちが、「政権を奪いたい」だけで革命を起こし、能力の高い者たちを恐れて登用したくなかったことで、おかしな明治政府が誕生したのです。
きっと西郷隆盛は後悔していたはずです。それでも西郷にできることはありました。それは「革命家」としての能力です。簡単に言えば、「壊す力」です。だから、明治初年は、「江戸時代を壊す」時代になりました。廃藩置県、版籍奉還、廃刀令、四民平等、すべて「破壊」です。そして、最後に「自分」を壊しました。見事な革命家の最期だったと思います。
これで困ったのが大久保利通です。利通は、西郷と違い「建設」しなければならないのです。ここから、元幕臣たちの登用が始まりました。結局、建設の作業は、緻密な能力が求められます。計算力、創造力、構想力、思想など、革命だけを望んだ武士には、けっしてできない作業だったのです。
現代のリーダーには、「破壊」はあまり望まれてはいません。自分の力を過信して古い体制を壊し、自滅した例はありますが、必要なのは「建設」能力です。これからにリーダーは、破壊ではなく「精選」です。時代に合わせて「無駄を省き、無理をせず、無茶を諫める」ことこそが、現代の「破壊」です。そして、その上に「新しい創造」を積み上げていくのです。新しい創造とは、けっして新しくはありません。「歴史から学べ」ばいいのです。古事記、日本書紀、平家物語、太閤記、戦国武将の経営学、徳川幕府、忠臣蔵…、学ぶべきリーダーのあり方が、すべて歴史に残されています。それを踏まえた上で、「さすが、日本!」といわれるようなイノベーションが生まれてくると思います。
(2)見直される「会津」の武士道
明治初年、会津は間違いなく「賊軍」でした。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉があるように、新政府軍の恨みを一身に背負った会津藩は、藩主諸共賊軍として理不尽な仕打ちを受け続けたのです。飯盛山でその亡骸を晒した白虎隊20人の少年たちも、新政府軍の命令によって埋葬もできず、放置されるままになりました。それでも、村人たちは、それを哀れみ、西軍の指揮官に何度も足を運んで嘆願をしたそうです。西軍の兵士らは、それをせせ笑い、「埋葬などは、許さん。奴らは賊軍ぞ!」と高飛車な態度で村人たちを追い払ったのです。このとき、新政府軍の侍は、「武士道」を捨てたのです。戦争によって鬼畜となった西軍兵士たちは、自分の故郷を遠く離れた地で「獣」になったのです。遠いふるさとでは、彼ら出征兵士の無事を願い、お百度を踏んでいる母や妻がいる中で、会津の地で「獣」の姿で、人々を蹂躙したのです。そして、奪い去った後は、知らぬ顔をしてふるさとに凱旋していきました。この事実を母や妻、子供らが知ったらどう思うのでしょうか。それでも、「主人は、父親は立派な武士でした」と世間に顔向けができるのでしょうか。せっかく、先祖代々、禄を食んだ人間とも思えない所業を西軍兵士は、会津の地で行ったのです。
この驕り高ぶった獣たちは、次に世間での「立身出世」を夢見たのです。
「これで、俺たちの天下となった!」
「これで、貧乏から抜け出せるぞ!」
そう信じた獣たちでしたが、思うようにはなりませんでした。学力もなく、志もなく、革命運動の興奮に酔っただけの人間の皮を被った獣に、何が残ったというのでしょうか。何もありません。単なる「獣の血」が蘇っただけのことなのです。きっと、その家族は帰国後に気づいていたはずです。「あれは、戦争でおかしくなった…」と陰口を叩き、二度と武士として尊敬されることはありませんでした。
西郷や大久保などの幹部は、そんな獣になった元武士たちに辟易していたのでしょう。さっさと、東京に去り、多くの幹部は二度とふるさとに戻ってくることはありませんでした。
会津藩士たちは、敗れたとはいえ、けっして獣にはなりませんでした。最後の一ヶ月にわたる籠城戦は過酷を極めましたが、だれも、主君である松平容保を悪く言う者はいませんでした。そして、西軍に対しては、深い恨みが残りましたが、それを腹の奥に押し込める術を心得ていたのです。
会津戦争が終わると、新政府は、青森の下北半島に移るよう命じました。これが「斗南藩」です。しかし、同じ東北地方とはいえ、下北半島は、あまりにも過酷な不毛の地でした。それに藩といっても、3万石程度の小藩です。会津は、実質50万石近い収入があったのです。そして、この戦争で、金蔵も底をつき、すべてを売り払っても、借金が残りました。
会津の武士とその家族は、散り散りになって、ある者は、会津の地で百姓になりました。ある者は蝦夷地に渡り、ある者は東京に出て行きました。それでも、彼らが「会津」を忘れたことはなかったのです。
西軍の元武士と比べて、どちらが人として武士として正義なのでしょうか。所詮、西軍の各藩が行ってきた教育などというものは、この程度のものでしかないのです。そして、明治10年、西南戦争が起こりました。その前にも、萩の乱、秋月の乱、神風連の乱、佐賀の乱と獣と化した元武士たちの反乱が続きました。そして、最後に、西郷隆盛が率いる薩摩兵士たちの反乱が起きたのです。この元武士たちは、革命軍兵士として、東北に遠征し、長岡でも庄内でも、仙台でも狼藉を働き、東北地方に汚点だけを残して去って行きました。しかし、ふるさとに帰っても朗報は届きません。そして、彼らも気づいたのです。
「俺たちは、捨て駒にされた…」
気づいたときには、優秀な一部の者だけが出世し、東京へと出て行きました。その他90%以上の元武士が、西郷を呪い、大久保を呪ったのです。
残念ながら、自分で武士道を捨て、畜生道に嵌まり込んだことすら気づかなかったのです。眼の色は暗く、肌も黒く、そのやつれ果てた姿に、立派な頃の武士の姿を見る者はいませんでした。帰国後は、益々乱暴になり、酒を飲み、飯を食らい、横暴で高飛車な態度が改まることはありませんでした。それでも、金は必要です。金持ちの商家に出向いては、金をせびる毎日でした。これが、凱旋してきた西軍兵士の実態だったのです。これで、官吏に登用などされるはずもありません。奴らは、徒に刀を振り回すだけしか能のない、人間に成り果てていたのです。
新政府は、明治6年に「徴兵令」を発布し、国民皆兵制度を整えました。獣たちは、「せめて、軍人か警察官にはなれるだろう…」と高を括っていましたが、こんな教養もない野獣を人の上に立つ職に就かせるはずがないのです。
元武士たちは、それが不満でなりませんでした。戦国時代の雑兵のように「ご恩と奉公」の損得勘定だけができる獣として、その不満を酒と議論に尽くしました。この時代に始まった「自由民権運動」は、そうした教養のない元武士たちの捌け口だったのです。
士族の反乱は、各地で新政府軍に殲滅され、その首謀者たちは斬首されました。この事実だけを見ても、彼らが武士としての扱いをされなかったかが、わかります。要するに彼らには「大義」や「正義」がないのです。単に個人的な恨みや不満が、反乱になっただけのことで、思想も大義もない戦に協力する人もいませんでした。
この戦が始まると、元会津の武士たちは、挙って警察官に志願していきました。彼らは、攻撃が始まると、「戊辰の復讐!」と叫んで、薩摩の獣たちに渾身の力で、刃を打ち込んでいったのです。特に、会津藩最後の家老職を務めた佐川官兵衛の警察抜刀隊は、その多くを元会津藩士で固め、その壮絶な彼の死に様は、会津人の恨みを晴らす一助をなりました。彼は、自分の下着に、戦死した会津藩士の名を刻み、一緒になって薩摩軍の兵士に向かっていったのです。こうした武士たちの壮絶な恨みのぶつかり合いが、戦を激しいものにしました。会津の元侍たちは、薩摩兵を倒すと、その体に何度も何度も泣きながら刀を振り下ろしました。その恨みは、家族みんなを失った者にしかわからない憤りでもあったのです。
そんな戦も、遂に西郷隆盛とその一党の死によって終わりました。ここに、獣と化した元武士の時代は終わりを告げたのです。
明治の中頃になると、会津の人々の中にも官職に就く者が出てきました。やはり、挙国一致体制でなければ、帝国主義の外国の侵略から日本を守ることができないのです。この頃には、徳川慶喜の名誉も回復し「公爵」の位が与えられました。松平容保も日光東照宮の神官となり、彼は死ぬまで孝明天皇から贈られた「宸翰」を肌身離さず身につけ、「会津藩の誠」を貫いたのでした。
それでも、会津を初め、東北の人々は差別的な扱いを受け続けました。国が作る教科書や歴史書では、常に薩摩や長州が正義で、東北諸藩は悪者扱いでした。仕事をしていても、東北人は一段低く見られていると感じたものです。
東北訛りをばかにされ、話したくないために、心まで萎縮したり、田舎者と言われて、就職先でも嫌な目に合うこともあったようです。
私も、福島は白河の田舎から上京するとき、病で伏せっていた祖母が、
「いいか、西の人間を信用するんじゃねえぞ。いいか、それだけは、よく覚えて行け…」と励まされました。昭和50年代に入っていても、この「戊辰の恨み」は、東北人の恨みとして、受け継がれていたのです。
会津若松市では、時々、山口県萩市から「和睦」の話が出るそうですが、未だに友好関係を築くことはありません。薩摩は、向こうから言ってくることもありません。政治の世界はわかりませんが、県民、市民感情が許さないのです。
こうした歴史的な事実が、平成、令和の時代を迎えると、だんだん、世に知られるようになってきました。小説家などが戊辰戦争を舞台にして歴史を書いてくれようにもなりました。そのためか、最近では、会津藩の教育が見直されています。
「ならぬものは、ならぬものです」
価値観が多様化し過ぎた現在、大人も自信を持って子供に教育ができなくなりました。それは、裏を返せば自分に自信が持てないのです。なぜ、会津だけが、「ならぬものは、ならぬ」と言えるのでしょうか。それは、会津の先祖が正義を全うして滅びたからです。白虎隊の少年隊が、正義のために戦い、祖国のために若い命を散らせたからです。その「誇り」が、会津人と支えているのです。
明治を懐かしむ風潮がありますが、一方で戊辰戦争を問う声も聞こえてきます。そして、大東亜戦争が大敗北に終わった事実を調べる人も増えてきました。その当時を生きている人たちは、真実がわかっても、公表してしまえば、自分の地位や名誉、家族の名誉も傷つけることになりかねません。それは、人情としてとても切ないことです。しかし、個人の感情と歴史は別です。どんなに英雄であろうと、真実を知ったとき、それを公にしなければ、歴史は歪んだまま後生に伝えられることになります。それが「民主主義」を標榜する国のあり方として正しいのなら、やればいいのです。そして、「法治国家」というものは、犯罪であろうとなかろうと、真実を見極めなければ、その「人権」を軽んじることになります。そうでなければ、「民主主義」は名乗れません。
この国や企業のリーダーと呼ばれる人たちは、常に「正義」の戦いをしていただきたいものです。誤魔化しや嘘は、いずれ露見し、亡くなった後からも非難されることを覚悟しなければならないのです。
リーダーとは、その真実を見極め、行動できる人間でなければなりません。嘘や誤魔化しで人はついては来ないのです。
完
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