歴史雑学4 「井上成美」の真実

「井上成美」の真実 -大東亜戦争外伝ー                                   矢吹直彦

井上成美は、最後の海軍大将、海軍次官、海軍兵学校長を歴任した日本海軍のエリート将校でした。海軍省の軍務局長時代には、大臣米内光政、次官山本五十六とともに三国軍事同盟に反対した人物として有名になりました。開戦時には、第四艦隊司令長官として珊瑚海海戦を指揮し、海戦史上初の空母対空母の戦いを引き分けに持ち込みました。しかし、軍政に比べて実戦では、あまり高い評価は得られず、知的な将軍として見られています。確かに、当時の日本海軍では、無骨な野武士的な将官が高い評価を得ていたようです。彼らは、学校での成績は振るいませんでしたが、実戦の指揮は抜群で、「猛将」とか、「闘将」と呼ばれました。海軍でいえば、ミッドウェイ海戦で空母飛龍に座乗し、最後まで戦った山口多聞や、レイテ海戦で空母瑞鶴に座乗し、囮作戦の指揮を執った小沢治三郎などが、軍人として評価の高い人々です。それに比べると、井上は、常に冷静に判断し、熱く語るような軍人ではありませんでした。井上のいう正論に、だれも反論できる人間はいませんが、人はときとして、生死を超えた戦を望むものです。その悲壮感や勇気を讃え、伝説を創り上げていきますが、井上という人間には、そんな「熱い男」の姿は、一切登場してきません。しかし、それでも一本筋のとおった生き様から学ぶことが多い人物でもあります。物事に拘らず、つまらない派閥も作らず、地位も名誉にも忖度しない清廉な人物でした。そんな井上成美を紹介したいと思います。

(1) 軍人 井上成美

正直、軍としての井上をどう評価していいのかわかりません。確かに、軍政においては、海軍軍務局長、海軍航空本部長、海軍次官と、海軍省の役職を歴任したエリート将軍ですから、周囲からの期待も大きく、能力も高かったのだろうと思います。しかし、これも海軍大臣や総理大臣を務めた米内光政の影響下に置かれ、自主的な判断がどのくらいあったかは不明です。三国軍事同盟も、今から見れば、アメリカとの戦争に引き摺り込まれる愚かな同盟といわれていますが、アメリカのルーズベルト大統領やアメリカ政府が、共産主義の片棒を担ぎ、世界中に共産主義革命をリードしたと考えれば、共産主義に反対するドイツとの同盟は、「防共」の意味において、成り立つ考え方だったような気がします。後のヒットラーの恐ろしい大虐殺を知っている今だからこそ、批判の対象になっていますが、親米主義者たちも、世界の共産化に加担していたと言われても仕方がないように思います。もう少し、世界各国の情報公開を待ちたいと思います。大東亜戦争が始まると、第四艦隊司令長官に就任し、珊瑚海海戦を指揮します。これは、世界戦史上、初めて機動部隊同士の決戦で、日米双方に大きな被害が出ました。真珠湾攻撃後の海戦であり、日本にいた連合艦隊司令部では、井上が追撃戦を行わなかったことに対して、「弱腰!」と非難しました。井上は、追撃しても夜間攻撃になるリスク、艦隊の燃料が不足してくることを考え、追撃を諦めました。そして、このことが、アメリカとオーストラリアの交通遮断作戦を諦めるきっかけになったことから、「井上は、弱い!」というレッテルを貼られてしまったのです。現場から遠く離れた司令部の参謀たちは、優秀な軍人ではありましたが、情報を分析する能力に欠けており、連合艦隊司令長官山本五十六も、全体を俯瞰して指揮をする能力に欠けていました。真珠湾攻撃が、成功に終わったために、名将扱いされていますが、山本の成功は、真珠湾攻撃の成功、ただ一回のみです。後の作戦は、参謀任せで、続いて起こるミッドウェイ作戦や、ガダルカナル島争奪戦におけるイ号作戦でも、大失敗を繰り返し、日本海軍の貯金をすべてはたいてしまいました。要するに、山本は、投機的な男で、連合艦隊を任せられるような人物ではなかったのです。それに、今では、真珠湾攻撃すらもアメリカ政府の「謀略」の噂もあり、それが証明されれば、山本五十六の評価もかなり違ったものとなるはずです。井上は、珊瑚海海戦を直接指揮したわけではありません。珊瑚海海戦の実際の指揮官は、第五航空戦隊の原忠一少将でした。当時、第五航空艦隊は、新設された機動部隊で、新鋭艦の翔鶴、瑞鶴を擁していましたが、飛行機の搭乗員は若手が多く、他の航空艦隊から見れば、二軍選手のようなものでした。それでも、アメリカ海軍に引き分けに持ち込んだのは、参加した将兵の勇戦の賜でした。アメリカ海軍が、とんでもない強敵だと知ったのは、その後すぐに起きたミッドウェイ海戦で証明されています。山本五十六が直々に連合艦隊を率いて行われた大作戦が、惨めな大敗北に終わったことを考えれば、井上の指揮を責めることはできません。それを反省できないのが、山本率いる連合艦隊司令部だったのです。今になれば、多くの齟齬は見つかりますが、世界でやったことのない飛行機対航空母艦の戦いを指揮した功績は大きいと思いますが、日本では、評価されていません。今の海上自衛隊では、どうなのでしょうか。

(2)教育者 井上成美

井上成美のもうひとつの評価に、「教育者」の顔があります。戦争中、第四艦隊司令長官の後、井上は海軍兵学校長に任命されます。平たく言えば「左遷人事」です。要するに、第一線の指揮官としては、不合格という評価を下されたことになります。それは、先に述べた珊瑚海海戦の戦い方にありました。冷静に見れば、第四艦隊と第五航空戦隊の戦い振りは、誉められて然るべきだと思います。戦争は錯誤の連続です。計画通り進む戦争などはありません。その証拠に、次のミッドウェイ海戦は、情報も満足にコントロールできず、空母四隻喪失という大失態を演じましたが、第一航空艦隊の南雲忠一中将は、その後、汚名挽回とばかりに南太平洋海戦を指揮しました。しかし、アメリカ海軍と互角の勝負をすることで精一杯で、アメリカ海軍を叩くことはできませんでした。そのくらい、機動部隊の航空決戦は難しいといえるのです。井上にしてみれば、「弱い!」と非難される理由はありませんでしたが、日頃、井上に嫌味を言われていた連合艦隊の参謀にしてみれば、この左遷人事は、井上に対する嫌がらせのようにも見えます。自分たちがミッドウェイで大失態を犯しながら、山本も参謀たちも責任を取りませんでした。こうした日本海軍の体質は、後々まで多くの問題を引き起こしていくのです。ところが、井上は、左遷された海軍兵学校で教育者としての資質を開花させることになります。井上は、江田島の兵学校に着任してみると、戦争中のこともあり、生徒の眼がつり上がり、ゆとりがあまりにもないことに気がつきました。教官たちも戦場から帰ってきた者が多く、生徒たちを殴りつけて指導するようなこともあったのです。それに、普通学の授業を軽視し、教官の中には、「英語不用論」まで言い出す者もおり、まるで、兵隊を鍛えるかのような訓練が行われていました。井上は、「兵学校は、単なる兵隊を製造する場ではない。海軍将校として恥ずかしくない教養とジェントルマンとしての資質を磨く場である」と説きました。そして、普通学を重視し、英語教育の充実を図ったのです。もちろん、これに反発する教官たちもいましたが、井上は校長としての信念を曲げずに、世界に通じる海軍将校の養成に努めたのです。後に、井上は、「戦争はいつか終わる。そのときに、ものの役に立たない人間を育ててはいけない。彼らが生き残り、新しい日本を再建していかなければならないのだ」と、その心情を語っています。そして、生き残った生徒たちは、敗戦後の日本社会で、大活躍を見せるのです。元生徒たちにしてみても、たくさんの同期生や先輩たちが若くして戦死しました。その分も精一杯生きることが、彼らの使命になっていたのです。井上は、兵学校長から請われて海軍次官に就任し、最後の海軍大将となりました。井上は、「戦争が負けるというときに、大将なんか作って何になる」と昇任を固辞しましたが、米内海軍大臣に推しきられたということです。終戦後、井上は、自宅のある横須賀市の長井に戻りました。そして、そこで近所を子供を集めて英語塾を開きました。特に報酬は求めず、親たちは、家で採れた野菜や魚など、食料品を運び、謝礼としたそうです。井上の英語は、音楽あり、芝居ありの楽しいものでした。自分でギターも弾き、娘の静子と一緒に、子供たちの面倒を看て過ごしました。子供たちは、「ミスター井上」と呼び、毎日、楽しく英語塾に通ったそうです。社会が落ち着くと、井上の元にも様々な役職の話がきましたが、井上はすべて固辞し、最後まで横須賀の自宅から離れることはありませんでした。敗軍の将として、身の処し方を知った振る舞いでした。

戦後、大東亜戦争の責任を陸軍の横暴が原因だとする「陸軍悪玉論」が叫ばれましたが、海軍も、陸軍との対抗意識が強く、責任は重大でした。山本五十六は、海軍が育てた戦力を無駄に使い果たし、長期持久戦へと持ち込まれてしまいました。米内光政は、第二次上海事変が起きたとき、陸軍が反対するにも拘わらず、中国への派兵を主張し、日中戦争が泥沼化する原因を作りました。戦艦大和は、大和ホテルと揶揄され、最後に無茶な沖縄特攻で沈めてしまいました。また、山本の死後、連合艦隊司令部が遭難し、古賀峰一司令長官が死んだとき、参謀長の福留繁中将は、フィリピンのゲリラに捕まり、暗号文の入った鞄を奪われ、機密が漏洩しました。しかし、日本軍に助けられると、何の責任も取らされず、のうのうと出世していったのです。そのために、日本海軍の暗号は解読され、次の作戦に大きな問題を残しました。福留は、それでも死ぬまで、「機密情報は奪われてはいない」と言い張ったのです。これも海軍です。その上、統率の外道といわれた神風特別攻撃隊を編制し、体当たり攻撃を主導したのも海軍です。海軍は、そのすべての艦船を海に沈め、兵力の大半を失ったために、終戦を主張したと言われています。陸軍にしてみれば、大東亜戦争は、海軍に引きずられた戦争でした。おそらく、井上は、そのことがよくわかっていたからこそ、再び世に出ることを拒んだのでしょう。そういう意味で、「恥を知る軍人」だったという評価ができそうです。それにしても、組織とは何なのでしょうか。一度、強固な組織が出来上がると、新しく改編することは難しいものです。その組織の論理が優先し、戦争に敗れ、日本が滅びようとしているにも拘わらず、終戦後も陸軍だ、海軍だのと責任をなすり合っていたのです。自分たちの組織が解体され、身分も地位も名誉も失ってさえ、彼らは自分たちの責任を認めず、反省もできませんでした。結局は、天皇にすがって終戦に持ち込んだだけのことだったのです。この無責任体質は、如何なものでしょうか。終戦後、陸軍大臣だった阿南惟幾は、敗戦の責任を取って腹を斬りました。その際、側にいた部下に、「米内を斬れ!」と命じたそうです。それは、この戦争の真の責任者を名指ししたものだったのです。その米内光政は、その後、戦争犯罪人にもならずに生き延びました。しかし、米内に幸福が待っていたわけではありませんでした。終戦後間もなく病に罹り、苦しみのうちに死んだそうです。井上は、昭和50年まで生きました。盟友だった山本五十六は、戦争中に戦死し、米内光政は、昭和23年に死にました。「海軍善玉論」という話がありますが、どちらがいいか、悪いかは別にして、結局、組織の論理で動いた結果が、日本の敗戦と、自分たちの組織の消滅、そして、己の不幸だけだったとは…。一番長生きした井上成美は、妻にも娘にも先立たれ、一人寂しく横須賀の自宅から横須賀港に出入りするアメリカ海軍や海上自衛隊の艦艇を眺めていたことでしょう。しかし、井上には、自分の教え子たちがいました。兵学校時代の生徒や、英語塾の子供たちが足繁く自宅を訪れ、一人になった井上を慰めたそうです。歴史に名を刻まなくても、個人としては、幸福な晩年だったような気がします。井上が、唯一誠実な仕事をしたのは、兵学校での教育や英語塾での指導だったのかも知れません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です