歴史雑学5 「明智光秀」の真実 

「明智光秀」の真実 ー戦国時代外伝ー                          矢吹直彦

現在、NHKの大河ドラマで明智光秀が放映されています。それにしても、主君殺しの逆臣の代表者である明智光秀が、ヒーローとしてドラマの主人公になる日が来ようとは、夢にも思いませんでした。やはり、創られた歴史は、どこかで修正される日が来るのですね。感慨無量です。ドラマでも光秀の出自は、「美濃の明智荘らしい…」くらいしかわかっていないので、かなり創作で表現されているようです。しかし、冷静に考えてみれば、あれほどの教養と武士としての嗜み、頭のよさを考えれば、秀吉のような身分の出身でないことはわかります。戦国時代といっても、信長の時代は、後期に入ります。鉄砲も登場してきますので、だれもが武士に取り立てられる時代でもないでしょう。そこには、やはり、武士としての家柄や技能、知恵や教養といった秀でたものがなければ、高禄で召し抱えることはなかったはずです。そのように考えれば、光秀ほどの武士の出自が不明というのも、何か胡散臭く感じてしまいます。何か、書き残せない事実でもあるのでしょうか。ともかく、光秀は、名のある武将の家の子と考えられるのです。そして、子供の頃から師について学び、教養を身につけていったのでしょう。また、信長に仕えた後も、戦略に秀で、他の武将たちを圧倒する能力を発揮しています。だからこそ、秀吉は、終生のライバルとして光秀を見ていたに違いありません。もし、あのまま織田政権が続けば、光秀は、信長の後継者である信忠に仕え、秀吉以上の権限を持つ大大名になっていたかも知れないのです。そこで、ビジネス的に、光秀の行動を分析してみたいと思います。

(1)なぜ、信長は光秀をいじめ抜いたのか

ドラマでは、光秀と齋藤道三の娘帰蝶の交流を描いていますが、同じ美濃の出であれば、帰蝶が、同郷者として光秀に親しく接していた可能性はあります。帰蝶も政略結婚ですから、知る人もいない尾張、そして織田信長という不思議な夫に仕えるわけですから、心安らかなわけはありません。そんなとき、同郷の光秀が頭角を現せば、邸のどこかで故郷を魚に、会話を楽しんでいても不思議ではないのです。それは、当然、お付きの者がいて、かなり距離を置いた会話でしょうが、帰蝶にとっても、賢い光秀との会話は、ひとときの安らぎを与えたのだと思います。そして、信長は、そんな光秀に嫉妬心を抱いたとしても不思議ではありません。信長の性格は、「うつけ」といわれるように、他人には理解できない特殊な感覚があったようです。それは、おそらく徹底した合理主義者という点でしょう。今でもそうですが、日常生活の中には、不合理なことでも罷り通ることがよくあります。何でこんなことをするのかな?と疑問に思っても、「みんな、やっているから」という理由で慣習的に行われることがよくあります。それを「無駄だ」と言ってしまえば、身を蓋もないのです。そんなことが、昔はたくさんあったことと思います。たとえば、信長には、人々が神仏を拝み、寄付をし、僧の言葉を有り難く拝聴する姿を見て、「滑稽だ」と笑いました。そして、「そんなことに、何の意味がある?」と端から相手にもしなかったのです。宣教師が日本に来て、布教の許しを請うたときにも、信長には、宗教なんかには、まったく興味はありませんでした。しかし、その西洋から持参してきた道具類や話に興味を持ったのです。だからこそ、そんな如何様商売をしている僧たちが、兵を養い、戦国大名と同じように振る舞う比叡山を許すことが出来なかったのだと思います。しかし、普通の日本人には、それがわかりません。光秀も、そういう意味では、普通の常識を持った人間でした。しかし、光秀は、信長から見ても「賢い」男なのです。「使える」男だったのです。それは、ある意味「尊敬」でもあったのでしょう。だからこそ、その常識が疎ましく、腹が立ったのかも知れません。信長本人にしてみれば、光秀を虐めているつもりはありませんでした。秀吉や他の者と同じように命令し、評価もしていたはずです。しかし、光秀だけは、他の者のように「畏れ入る」ことをしません。秀吉などは、大袈裟に頭を床にこすりつけて、許しを請いますが、光秀は、簡単に頭を下げようとはしません。自分の考えを述べ、信長に正論をぶつけてきます。だからこそ、光秀は小憎らしいのです。信長も普通の人間なら、それを正直に口に出し、たまには、光秀の機嫌を伺おうとするものですが、信長にはできませんでした。それが、次第にこの主従に、綻びを生じさせたのだと思います。それでも、信長は、光秀を信頼していました。そして、光秀だけが、自分の構想を実現できる男だと信じてもいたのでしょう。同じ夢を見ることのできる男だと信じていたからこそ、少しでも、自分の気持ちを汲んでもらえないと、信長は光秀相手に癇癪を起こしたのです。甘えといえば甘えです。子供の頃から、母にさえ甘えることのできなかった信長という人間は、どこかに、幼児性を残しながら成長していったのだと思います。人間が、健全に育つためには、肉親の情がどうしても必要です。今、全国で児童虐待で逮捕される親たちがいますが、子供は死ぬ直前まで、親を信じ、親を愛そうと努めるものです。それが、どんな親であろうと、親の匂いを嫌いになる子供はいないのです。なぜなら、親の匂いは自分の匂いでもあるからです。信長は、母に疎まれ、愛されることはありませんでした。土田御前と呼ばれた母にとっても、端から信長が憎かったわけではないでしょう。しかし、信長の粗暴な振る舞いを見て、自分から遠ざけ、我が子の匂いを嗅ぐことを止めてしまったのだと思います。もし、信長を抱きしめ、その匂いを嗅ぐことさえできれば、母の土田御前は、きっと母性を取り戻せたはずなのです。それが適わなかったことは、この親子にとって、とても不幸な出来事でした。そして、信長は、二度と、親の愛情を求めない頑なな人間になってしまったのです。妻の帰蝶という女性にも、母を感じることはできなかったのだと思います。光秀には、そんな信長の心情まで理解することはできませんでした。ただ、主君として仕え、戦国武将として名を挙げることだけが目標だったとすれば、信長には、物足りなさを感じていたのだと思います。本当は、光秀も心を開いて、信長の前で小さな失敗をしてみせる器量があれば、素晴らしい主従関係となり、天下は、この二人のものになったはずです。秀吉には、きっと、そんな可能性を秘めた二人だったからこそ、心底嫉妬し、光秀の失脚を狙っていたのかも知れません。

(2)光秀の起こした本能寺の変

天正10年(1582)6月2日、中国攻めを信長から命じられた明智光秀は、その13,000にも及ぶ軍勢を信長のいる京の本能寺に向け、「敵は本能寺にあり!」と叫んだといわれています。しかし、事実は事実として、その動機は未だに解明されないまま、歴史のミステリーとして議論されています。大河ドラマでは、どのように描かれるのでしょうか。さて、この光秀の謀反も様々な理由が考えられますが、まずは、光秀の立場や人間性を追ってみたいと思います。光秀の立場から見ると、それなりの家柄の人間でありながら、子供の頃からかなりの苦労をして育ったようです。未だに、その出自を表す古文書が見つかっていないというのも不思議な話です。美濃の明智荘の出ならば、その縁者の手紙や日記等に「十兵衛」という記載があって然るべきです。当然、明智城の当主の家系なら、男子の名がどこかに残りそうなものです。まして、十兵衛は跡継ぎとしては、申し分のない資質の持ち主です。その名が、どんな記録からも「ない」となれば、名を残せない立場の人間なのかも知れません。たとえば、徳川秀忠の三男は、腹違いとはいえ保科正之ですが、父親である秀忠が、正室である「江」に遠慮して、密かに信州高遠の保科家に養子に出したという事実がありますから、光秀も、同様の曰く付きの出生の秘密があるのかも知れません。それにしても、そういう子供が苦労することは目に見えています。それに、美濃の齋藤道三や明智家は、その後、没落していますので、光秀を引き立てる者がいなかったとしても、仕方がないように思えます。なまじ、縁者があったとしても、没落した武家の跡取りを助けられる者もいなかったでしょう。当時は、そこそこの武家であっても、没落して帰農することは、不思議ではありません。大坂の陣で戦った土佐の長宗我部や真田などは、没落大名の代表格で、この二人とも、大坂の陣がなければ、後世に名を残すようなことはなかったはずです。そうなると、光秀も、出世などを考えなければ、京の街に出て兵法塾を開いたり、儒学を教えたりすることも出来たでしょう。それをしなかったのは、光秀には、「明智家の再興」という願いがあったからなのです。そして、その明智家は、織田信長によって名実ともに再興することができました。そうなると、明智家を子々孫々までつなぐことが光秀の義務になっていくはずです。そう考えると、謀反を起こして、主君である信長を討つには、リスクが大きすぎます。なぜなら、羽柴秀吉や柴田勝家など、名だたる織田家の重臣たちを敵に回して、すべてを破ることが必要だからです。いくら、多くの武将を味方につけると言っても、織田軍団の力は強大です。それを勝利に導ける計算は、成り立たないはずです。つまり、光秀には謀反を起こす「大義」がなく、実際にも、羽柴秀吉は、「主君を仇を奉じる」という「大義名分」をもって、全国の諸大名に檄を飛ばし、味方を増やしていったわけですから、最初から光秀は、負ける戦を仕掛けたことになります。計算高い戦国大名が、そんな無茶な戦を仕掛けるはずがないのです。次に考えられるのが、やはり「朝廷の命令」か「仏教界の依頼」なのかと考えてしまいます。そして、その双方かも知れません。朝廷が、信長を忌み嫌っていたことは想像に難くありません。あれほど、朝廷が武家に気を遣った例はないでしょう。なぜなら、平氏も源氏も豊臣も、建前上は天皇の権威を認め、それを犯そうとはしませんでした。しかし、信長は、天皇の権威すらも「無駄なもの」と考えていた節があります。信長以外に朝廷を蔑ろにした人物は、足利義満くらいなものでしょう。その義満も、「太上天皇」の称号を要求しましたが、権力の絶頂期に病に倒れ亡くなりました。これも「暗殺」の疑いがあります。後の世でも、明治天皇の父である孝明天皇は、幕府との公武合体を進めている最中、天然痘の病で急死したといわれていますが、これも「暗殺」の疑いが、今でも燻っています。そう考えると、本能寺の変も、朝廷による「暗殺」だったのではないかと疑われるのです。まして、実行犯が、朝廷や将軍家に近い明智光秀です。もし、何かしらの工作があり、光秀に内命があったとすれば、本当に光秀は朝廷を裏切って、信長に注進に及んだでしょうか。それは、絶対にないと思います。朝廷や将軍家から「信長暗殺」の密命がくだされれば、それは、「密勅」ということになります。日本の歴史や伝統を重んじる光秀だからこそ、日本の歴史のために、敢えて、汚名を着ることを覚悟したとしても、やむを得ないのかも知れません。おそらく、それは、朝廷ばかりでなく、仏教界からも同様な依頼があったと考えるべきです。まして、朝廷と仏教界は、親密な関係にあります。比叡山延暦寺を悉く焼かれ、仏教界を完全に敵に回していた信長が、そのままにしておかれるはずもないのです。どんな手を使ってでも、信長を抹殺しようとするでしょう。それが、本能寺の変の真実のような気がします。日本の歴史は、史料主義ですから、それを証拠立てる史料がなければ、公に真実と認めることはしません。しかし、だからこそ、史料さえ残さなければ、歴史の真実は、闇に葬ることもできるのです。そして、史料をそれなりの立場の人間が作成しておけば、嘘でも、それが真実になります。そこが、公文書や日記の怖さでしょう。

(3)明智光秀のその後

明智光秀は、京の小栗栖という田舎道で、農民に殺されたことになっています。ここで、明智家は滅亡しますが、もし、朝廷や将軍家、または、仏教界からの命令や依頼で、織田信長を暗殺したとすれば、光秀が殺され、一族が滅亡するとは考えにくいのです。形式上は滅びたとしても、光秀には、何かしらの恩賞が与えられなければなりません。もし、あり得るとすれば、朝廷や仏教界の庇護の下に、それなりの処遇が与えられたということです。今でも、光秀には、天海僧正説が残されています。もちろん、多くの歴史学者は、真っ向から、この説を否定していますが、考えてみればあり得ない話ではありません。一族も、坂本城で自害したことになっていますが、どれも、影武者ということだってあり得る話です。わかっていることは、坂本城からは、一族の武将以外は逃がしたという事実があることです。それでは、光秀の家族を逃がす時間的余裕があったことになります。もちろん、史実では、武将の最期として、敵軍を城に迎え撃ち、自分の城諸共に燃え落ちることが、さも武士道に適っているかのように考えますが、せっかく逃げる時間があるのに、死に急ぐ者でしょうか。これが、もし狂言なら、光秀は生きて比叡山に逃げ込んでいるのかも知れません。ならば、他の者も、比叡山に逃げるのではないでしょうか。しかし、全員が逃げ出しては、秘密がばれてしまいます。そこで、家臣たちの中で、有名な武将が残り、主君光秀のために命を捨てたとしても、おかしくはありません。もし、徳川家康が、天下取りのために、その密約に名を連ねていれば、家康が匿ったのでしょう。比叡山延暦寺と徳川家康の庇護があれば、光秀が僧として生きる道はあります。そして、徳川家康に仕えた光秀が、天海僧正となって、徳川家の行く末を考えたとすれば、徳川家盤石の政策の意味がわかります。要するに、徳川家300年の基礎を築いたのは、明智光秀だということになります。天海僧正は、どこから出てきた僧かはわかりませんが、徳川家康に仕え、僧の位としては最高の地位に上り詰めました。僧として仏に仕えることこそが、比叡山を焼き討ちして、多くの信者を殺した光秀の罪滅ぼしだったのかも知れません。あの比叡山焼き討ちのときから、光秀は、いずれ僧になることを考えていたのでしょう。結局は、織田信長とは、相容れない武将だったということです。

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