歴史雑学6 「論語と算盤」の真実

「論語と算盤」の真実 ー明治維新外伝ー                         矢吹直彦

「論語と算盤」という渋沢栄一の言葉をご存知でしょうか。とても有名な言葉なので、多くの人が知っていることと思います。渋沢栄一は、今の埼玉県の深谷の出身です。庄屋クラスの家の出なので、学問もあり、繭玉の売買などで商売にも精通していた人物だったと言われています。学校では、当時の身分を士農工商と習い、身分制度が固定化されていたように言われますが、日本は、どの身分であろうと、実力社会でした。農民でも富裕層は、武士以上に資産を持ち、学問にも武芸にも励みました。栄一は、その辺の武士の子供より賢く、教養のある人間に育っていったのは間違いありません。そうでなければ、一橋家が召し抱えるはずもないのです。当時の日本の富裕層は、農民でも町人でも、学問を尊び、家の繁栄を願わない者はいませんでした。そして、そんな学びの機会は、いくらでもあったのです。寺子屋と言ってばかにする人もいますが、寺子屋の師匠には、元武士であった浪人者や寺の僧、学者などがなっていました。そして、その寺子屋でも評判になれば、「塾」となり、学問を専門的に教える場となっていきました。江戸中期の儒学者に、石田梅岩という学者がいますが、この人は、富裕層の生まれではなく、京都の百姓の次男として生まれたひとです。11歳で丁稚奉公に出され、商人として生きるはずだった人が、小栗了雲という学者と出会い、45歳にして「石門心学」という思想を確立したのです。そして、その門人は武士階級の人たちではありませんでした。今の人たちは、どうしても町人や農民を無学にしたいようですが、その階級の人たちが江戸時代の文化や産業に担い手だったのです。それでは、渋沢栄一のいう、論語と算盤について、分析してみたいと思います。

1 商人にも商人道があった

江戸時代までの日本は、まさに農本主義の国でした。神話の時代から、米を育てることで、生活のすべてを賄ってきたのです。経済も米本位制で、米相場によって物の価値が決まっていたのです。武士の収入が、〇〇石というように、米を殿様から頂戴することによって、それを金銭に替え、生活に必要な物を購入していました。したがって、米を作る農民が日本経済の主役でもあったのです。しかし、農民は、その栽培した米を年貢として納めるだけで仕事は終わります。大名家などに集められた米を金銭に替えるのは、武士ではありませんでした。ここに、商人たちが介在してくるのです。当時の武士の教えは儒教でしたから、金銭を扱う商人たちを蔑んで見ていました。要するに生産をしない人間を評価しない思想が儒教にはありました。それは、武士も同じだったのですが、自分たちには、軍事力があり、領地の経営をして、社会を支えているという自負があったのでしょう。その誇りだけが、武士の拠り所でした。商人は、金儲け主義のようにいいますが、物の売り買いなくして経済は発達していきません。そこには、純粋な競争原理が働いているのです。その証拠に、共産主義国は、この競争主義を極端に嫌いました。その結果、人々の暮らしは貧しく、競争がないために、品質のよい製品が造られることはありませんでした。江戸時代の日本は、町人たちによって健全な競争が行われていたことで、すばらしい文化を育むことができたのです。そして、金銭を「卑しい物」として扱うことで、武士階級から経済感覚を奪ってしまいました。おそらく、これは、幕府が全国の武士を管理するにあたって、金銭を扱わせないようにする策略だったと思います。金銭は上手に運用すれば、増やすことができるからです。もし、大名家が有力な金貸しであったら、一万石が二万石にも十万石にも増やすことができたでしょう。そうすれば、たかだか四百万石程度の徳川家を凌駕する大名家が誕生しないとも限りません。そこで、徳川幕府は、武士には最上位の身分だけを与えて、金銭には手をつけさせなかったのです。逆に、その金銭を扱わせる町人には、最下級の身分しか与えず、その代わりに税を徴収しないという特権を与えたのです。そのために、商人の中には、大名家をも凌ぐ、豪商がたくさん生まれることになりました。そして、豊富な資金力によって、陰で日本を動かしていたのかも知れません。今の日本の歴史では、商人が政治に関与したような記事はありませんが、実際は裏で政治を動かすようなことはあったはずです。そんな商人たちでしたが、彼らは自由経済のお陰で、競争原理が働き日本中を相手に販路を拡大していきました。よく映画の時代劇にも出てきますが、江戸時代には、金銭を他の地方に送ることができたのです。それが為替(手形)です。たとえば、岩手の盛岡から京都に送金したいと考えたとき、盛岡から金銀を直接送らなくても、為替を送れば、京都の支店や取引店などに為替が届くという方法です。そして、それを店に取りに行けば、金銭が受け取れるのです。今から考えれば、当たり前のことですが、江戸時代にこうした為替制度が成り立っているということは、既に経済界のルールが日本全国に行き渡っていたことになります。そして、そこにあるのは「信用」です。だれもが、誤魔化したり、詐欺行為を働かないという信用こそが、商人としての誇りだったのです。時代劇では、よく悪徳商人が登場してきますが、「そんな商人は、信用できない」と仲間から放逐され、役所に訴えられるのが関の山です。どんな貧しい人でもルールに則っていれば、客として丁寧に扱い、ルールを守れない人は、どんなに身分の高い人であっても許さないのが、商人道というものでした。大名家の中には、商人からの借金を踏み倒そうとする悪徳大名家もあったようですが、商人が倒れる前に、不祥事でその大名家が改易となったことでしょう。だから、商人たちは証文を取り、担保を設定していたのです。渋沢栄一という人物は、そんな商人道を十分弁えていた農民であり、町人であり、武士であったのです。

2 明治に残された商人道

江戸時代に培われた商人道は、明治維新を迎えても変わることはありませんでした。明治の経済界といえば、岩崎弥太郎や五代友厚などの名前が挙がりますが、旧財閥系の企業は、昔からの商人たちが設立した企業でした。これらの商人たちが、日本の経済界を支えていたのです。日本の商人たちは、外国人との商売にしても、最初の頃は足下を見られて損もしましたが、次第に要領がわかってくると、彼らとも対等以上に商売ができるようになってきました。それは、日本の商人たちにとってビジネスチャンスが生まれたことでもありました。江戸時代は、規制が厳しく、大型船を持つこともできませんでした。それに、厳しい鎖国政策があり、自由に海外との貿易もできませんでしたが、それらの規制が撤廃されると、どんどんと積極的に日本の製品を海外に輸出するようになったのです。当然、最初の頃は、日本茶、生糸、磁器や陶器だったものが、次第に工業系の製品まで輸出できるようになりました。最初は、極東の小さな島国の製品ということで、差別的に扱われていいたものが、その品質のよさと商人たちの知的さが信頼を生み、世界にジャポニズム文化を広めたといわれています。特に町人文化のレベルは高く、浮世絵などの絵画や織物、焼き物などは、その独特の風合いがヨーロッパで人気を博したといわれています。特に明治維新を行った政治家たちが創り上げた文化ではありませんでした。渋沢栄一が、日本の経済界の重鎮になると、「論語と算盤」という言葉を残しましたが、それは、明治時代に始まった思想ではなく、日本の商人たちが元々行っていた「信用商い」を指した言葉でもあったのです。論語は、商人としての道徳を説き、算盤は、正確な数字で評価することの大切さを教えました。しかし、それも長く商いを行ってきた日本の商人たちには、当たり前のことだったはずです。そして、その伝統は昭和、平成へと受け継がれていきました。

3 グローバル化が商人道を覆した

しかし、残念なことに、世界がグローバル化を目指すようになると、日本の経済界は、渋沢栄一の「論語と算盤」の精神を忘れ、商人道は廃れていきました。これは、アメリカの経済理論が日本に導入されてきたことで、日本企業もその波に乗ろうと足掻いた結果です。それでも、平成が始まった頃までは、どこの企業にも商人道の理念を受け継いだリーダーがおり、日本型経営を守ろうとしていました。作家の百田尚樹氏が「海賊と呼ばれた男」を書き、出光興産の出光佐三氏をモデルにした企業家の姿を描きましたが、あれこそが、日本型経営の見本です。戦後、日本は復興という戦いに向かって国民が力を合わせました。それぞれの企業は、家族主義的な経営を行い、家庭や学校だけでなく、それぞれの企業が社員を育てていました。戦争から復員してきた男たちもいます。新制中学校を出たばかりの16歳の少年少女もいます。高校卒や大学卒の人たちもいます。そうした雑多な人たちを教育し、仕事だけでなく生活全般の面倒も看たのです。そういう教育を受けた人々は、愛社精神が旺盛で、社員間の関係も濃密でした。その上、高度経済成長期は、日々、生活レベルが上がり、給与もボーナスも右肩上がりに増えていきました。こうして、日本の経済は、ぐんぐんと伸びていったのです。しかし、平成に入り、バブル経済が弾けると、日本経済は、停滞期から下降期へと入っていきました。各企業は、それまでの社員を抱えきれず、倒産が相次ぐ事態となりました。ここに来て、日本の家族主義的経営は破綻したのです。それと同時に、アメリカ型経営が導入され、リストラと呼ばれる「解雇」が始まりました。その上、たとえ利益が上がっても各企業は、「内部留保」という形で、社員へのベースアップをしなくなりました。銀行も競争力を失い、ただの金庫業のようになってしまいました。そのため、いくら銀行に預けても、利子が貰えず、逆に手数料を取られて、高齢者の多くは、いわゆる「箪笥預金」と称して、蓄えた金を外に出さなくなっていったのです。企業の多くは、利益を社員に分配する方式を止め、すべて株主優先に切り替えたことで、日本に中流がいなくなり、貧富の差が拡大する「格差社会」になりました。これには、政府の規制緩和政策や雇用の機会均等政策が、大きく関与しています。要するに、だれもが、その業界に参入できるようになると、小さな業界の利益は少なくなります。需要が多くないのに、参入する企業が増えれば、利益が少なくなり、その分、長時間労働を強いられるのも無理はありません。そして、正社員が激減し、その分、契約や派遣といった雇用関係が生まれ、長年培ってきた「家族主義型経営」は、消滅したのです。こうして、江戸時代から続いてきた日本型経営方式がなくなったことで、結果、日本の企業の弱体化を招きました。それは、当然のことです。社員を大切にしない企業は、少しでも経営が悪化すれば、有能な社員は挙って転職していくからです。名前だけは、老舗の看板を背負っていても、中味がグローバル企業では、傾いた会社を支える社員などありはしないのです。リストラで生き残った会社が、近い将来、経営陣がリストラされるという皮肉な現象があちらこちらで起きています。今では、昔ながらの企業は廃れ、ベンチャーと呼ばれる新興企業が台頭してきました。しかし、そのベンチャー企業には、日本型の経営はありません。まさに能力主義の時代が到来したのです。こうして、日本は、またひとつ家庭と教育の場を失ったのです。令和の時代に入ると、そのグローバル化が影を落とし、欧米流の企業経営もうまくいかなくなってきました。今回の新型ウィルスのよって、世界はグローバル化が如何に危険な思想だったかに気づくはずです。その証拠に、日本人がこれほど必要としてるマスクすら、どんなに政府が手を打とうと、十分に確保することもできないのです。なぜなら、日本の工場で生産していないからです。おそらく、今後、マスクだけでなく、薬も生活雑貨も十分に確保できなくなる可能性があります。このグローバル化に踊らされた末路が、令和の時代だということにならないように願うばかりです。新しい紙幣に「論語と算盤」を唱えた渋沢栄一翁が、肖像画になるそうですが、なんの皮肉でしょうか。国の歴史や伝統を踏みにじり、目先の利益優先に走った結果がもたらした悲劇だとすれば、これからの日本人は、これを教訓に社会を立て直して貰いたいものです。

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