歴史雑学8 「特別攻撃隊」の真実

「特別攻撃隊」の真実 ー大東亜戦争外伝ー                         矢吹直彦

戦後、神風特別攻撃隊が映画化されたり、小説に描かれるなどして、大変有名になりました。先年、公開された映画「永遠の0」にも描かれ、多くの人々の目に触れたことと思います。特攻隊については、多くの著作や解説書もあり、ここで分析する必要もありませんが、「組織」というものを考えたとき、非常に考えさせられる問題だと思います。神風特別攻撃隊は、日本だけでなく世界でも有名になりましたが、日本人は、こうした自己犠牲的な精神論が好きで、「公」のために「私」を殺すといった思想は、江戸時代の「忠臣蔵」にも見られる考え方です。外国人には、「切腹(harakiri)」を思い出す人もいたのではないでしょうか。そもそも、武士道自体が「滅私奉公」を美徳としているのですから、日本人の感性に刻まれた価値観なのかも知れません。今の日本社会に、滅私奉公的な思想は、あまり見られなくなりましたが、大なり小なり、そういう部分がないと社会が円滑に進まないという点があります。組織は、それを甘受しつつ、そうならないように、温かい視点で管理していく必要がありますが、それに甘えて、強制されるようになると、本質をはき違え、「目的のためには手段を選ばない」という結果を招いてしまうのです。戦争中の出来事だとはいえ、諸外国には、見られない作戦であり思想なので、その原因を探ってみたいと思います。

1 真珠湾攻撃の九軍神

大東亜戦争開戦と同時に、特別攻撃隊が編成され作戦に投入されたのが、「甲標的」と呼ばれた小型潜水艇でした。これは、第一次世界大戦時にヨーロッパで計画されたようですが、大型潜水艦に小型潜水艦を乗せ、敵の軍港内に密かに潜入し、搭載した二本の魚雷で攻撃しようとするものでした。乗員は二名で、艇長は士官、操縦は下士官の組み合わせでした。しかし、戦争が始まった昭和16年頃は、第一次世界大戦の教訓もあり、各国の潜水艦対策は進み、軍港にも防潜網などが張られ、港湾施設には、容易に潜水艦が近づけるものでもありませんでした。しかし、日本海軍は、小型潜水艇による攻撃方法を研究しており、開戦劈頭に、参加させることにしたのです。当初、連合艦隊は、これを「必要なし」と結論づけましたが、潜水艦部隊の嘆願を聞き入れ、「帰還方法」を採ることで、用いることになりました。まさに、日本風の「温情主義」です。しかし、この兵器は、安定性に欠け魚雷を発射すると、艇自体のバランスを崩しました。いわゆる「イルカ運動」という状態になり、操縦が非常に難しい潜水艇だったのです。こんな未完成な兵器に貴重な兵隊を乗せなくてもよさそうなものですが、人命軽視の時代ということもあり、連合艦隊も「そこまで、言うのなら…」と、許可をしてしまいました。結果、五隻投入して戦果ゼロ、乗員のうち九人が戦死、一人が捕虜となってしまったのです。捕虜となった酒巻和男少尉は、海軍兵学校出の正規将校です。彼の乗った艇は、方向を示すジャイロが壊れていて、潜望鏡を使って真珠湾内に侵入しようとしたようです。結局、艇の操縦に困難をきたし、戦果のひとつも挙げられずに座礁、そのまま艇外に二人で飛び出し、操縦員の稲垣兵曹は溺死、自分は、意識不明のままアメリカ軍の捕虜となりました。そして、彼は、戦争中、アメリカ各地の捕虜収容所を転々と移され、終戦を迎えます。日本海軍は、そのことは秘密にしたまま、残りの九名を「軍神」として発表しました。何の戦果を挙げられなかった特殊潜航艇の隊員たちが軍神で、二階級特進です。しかし、航空部隊の隊員は、あれだけ大戦果を挙げたにも拘わらず、戦死しても、一階級特進で軍神にはなれませんでした。こうした、海軍のご都合主義が、兵隊の士気を著しく低下させることに、気づかなかったのです。軍隊という組織は、同族意識が強いためか、賞罰も適当なところがあります。それは、自分たちだけの理屈でつながっており、他者を顧みることがありません。世間が狭いというか、純粋培養されているだけに、一般社会人としては、通用しない人間が多かったようです。実力よりも「階級」という社会には、ありがちな癖ですが、大東亜戦争初期の特別攻撃隊も、こんな不可思議な用兵から始まりました。

2 日本人の犠牲的精神

正式に特攻作戦が計画される前から、日本の兵たちの自発的行動として、命を考えない攻撃が度々行われていました。たとえば、珊瑚海海戦では、航空母艦瑞鶴の偵察機が、敵機動部隊を発見後、帰路、自軍の攻撃隊を発見すると、そのまま反転、燃料もないまま敵機動部隊上空まで誘導したのです。そのときの機長・操縦者は、菅野飛行兵曹長でした。彼らは、この偵察任務が、どれくらい重要かを認識していました。そのため、一刻も早く敵機動部隊を自軍に発見させるため、こうした自己犠牲を自分に強いたのです。菅野機は、上空にいた敵戦闘機に撃ち落とされ、乗員三名は戦死しました。また、マリアナ沖海戦では、航空母艦大鳳から発進したばかりの艦上攻撃機彗星が、急に反転し、敵潜水艦が放った魚雷目がけて海面に突入自爆した例がありました。機長、操縦者は、小松飛行兵曹長でした。彼らは、発進後、上空からこの魚雷の雷跡を発見したのです。そして、咄嗟の判断で、この魚雷目がけて突っ込んだと言われています。もちろん、乗員二人は戦死しました。こうした行為を目にしていた海軍の軍人たちは、「それなら、彼らの勇気と犠牲的精神に応えよう」と発案したのが、「体当たり」を任務とする「特別攻撃隊」の編成だったのです。しかし、上層部が考えているより、実際に敵と戦闘を繰り返す兵隊たちは、もっとナイーブでした。上層部の人間は、指揮官として最前線に立つことは少なく、安全な後方の基地や司令部等での勤務が多く、命令を起案し発する側です。いくら優秀な兵隊たちが、勇猛果敢で犠牲的精神の持ち主であっても、上官を信奉しているわけではありません。組織の編制上、階級があるので、命令には従いますが、自分の命をどうするかは、個人の問題でしかないのです。

特攻隊を強く推進した中島という少佐は、隊員たちから蛇蝎の如く嫌われていたといいます。戦後も、生き残った中島は、昔の部下の前に顔を出すことができなかったという逸話が残されています。要するに、そこに踏み込むのは、統率とはいえ、あってはならないことだ…ということは、軍隊の常識でした。体当たり攻撃は、そこのナイーブな分野に上層部が踏み込んだ作戦なのです。兵隊にとって、自分の命と引きかけに戦うことができるのは、おそらく、天皇陛下と家族、そして、自分が愛する人のためだけだろうと想像します。たとえ、海軍大将や元帥の命令であっても、心の中では、「ふざけるな!」と叫んでいたに違いありません。そして、そんな命令が上層部から出されるとも思ってもいないのです。敷島隊隊長に指名された関行男大尉は、出撃に際して、報道記者たちに「俺は、愛する妻のために死ぬ!」と、広言しました。それほど、腹立たしくて仕方がなかったのです。ここまで来ると、もう、軍隊の限界を超えています。もし、それをしなければならないとしたら、通常の神経であれば、「降伏」しかないでしょう。堂々と白旗を掲げ、世界に「降伏」したことを発信すればいいのです。それが、軍隊というものであり、戦争のルールなのです。さすがに、白旗を揚げられては、アメリカも戦争を継続することはできません。武装解除を行い、早々に日本本土に進駐してくればいいのです。そのとき、日本の陸海軍は、連合艦隊を東京湾に浮かべ、陸軍部隊を各道路沿いに並べて、閲兵でもさせたらいいでしょう。それがいやなら、やはり、無茶な作戦を行うのではなく、正攻法で戦うべきでした。確かに、それでは特攻隊のような戦果は挙がらなかったと思います。戦死者は、正攻法であっても、大きく異なることもないでしょう。しかし、戦争というものの持つ意味は、世界に発信できたと思います。

「日本軍は、最後の一兵まで勇猛果敢に戦った」という誇りが残るのです。特攻という体当たり攻撃を正式な作戦として命令したことで、日本軍は、世界の軍隊から異端視されることになりました。そして、それを計画し、命令を発した日本軍の上層部の軍人たちは、戦後、誇りを持って生きていくことができなくなりました。フィリピンで命令を下した大西瀧治郎中将は、終戦後に軍令部次長官舎で腹を斬って責任を取りました。沖縄で命令を下した宇垣纏中将は、終戦の日に、自ら特攻機に乗り込み、沖縄の海に突っ込みました。しかし、他の上層部の軍人たちは、様々な言い訳を思いつき、自分のために戦後を生きました。しかし、「自分は、よく戦った」という誇りも持てず、遺族に謝罪するか、言い訳を繰り返すかのどちらかになり、寂しく生を全うしたのです。軍人あろうが、他の職業であろうが、自分の仕事に誇りが持てず、人前に出ないように小さくなって送る晩年が、本当に幸福だったのでしょうか。兵隊たちの「日本的犠牲精神」を利用し、傲慢な作戦を立て、敗北していった陸海軍の元軍人たちは、あの世で、英霊たちにどんな申し開きをしたのか、聞いてみたいものです。

3 神風特別攻撃隊

体当たり攻撃隊を編成するにあたり、フィリピン方面の航空艦隊司令長官だった大西瀧治郎中将は、断腸の思いで、この編成を行ったことを知っておきたいと思います。レイテ島を巡る攻防戦は、日本にとって、最後の天王山と呼ぶような決戦になるはずでした。「捷一号作戦」と呼ばれたこの作戦は、本来なら、日本が戦争を終わらせる作戦でもあったのです。サイパン島をめぐる攻防戦に敗れた日本は、もう、動員できる軍艦や航空機も残り少なくなり、再度のアメリカ軍との決戦は事実上不可能でした。もし、日本政府の冷静な判断があれば、この戦いによってアメリカ政府と交渉し、「講和」に持ち込るのではないかと大西中将は考えていたのです。この捷一号作戦の主力は、航空機ではありません。戦艦大和、武蔵を中心とする連合艦隊でした。正規空母の瑞鶴他の艦艇を囮に使い、ハルゼー中将率いるアメリカの機動部隊をレイテ島から引き離す作戦でした。そして、その隙に、戦艦群をレイテ湾に突入させ、マッカーサー大将率いるアメリカ上陸軍を、その輸送船ごと戦艦の巨砲を以て粉砕する計画だったのです。これが成功すれば、数万のアメリカ海兵隊を全滅させ、マッカーサーを戦死させるか、捕虜にすることも可能になります。そうなれば、フィリピンは、日本軍の占領下に置かれ、アメリカは、また、数ヶ月をかけて準備をしなくてはならないでしょう。

いや、回復には、一年近くかかるかも知れません。そうなれば、戦争に空白期間が生まれます。そこが、日本にとって講和のチャンスでした。そのために、大西中将は、断腸の思いで、特別攻撃隊を編成したといわれています。また、一説には、「体当たり攻撃を行わせることで、天皇の勅命により戦争を終わらせて欲しい…」という願いがあったという意見もあります。確かに、この報せを聞いた昭和天皇は、「こうまでしてやらねばならないのか…?」と言いながらも、「それでも、よくやった」という言葉を軍令部総長に伝えました。日本軍は、この言葉の最後の部分を切り取り、「天皇陛下は、よくやった…と仰せである!」と、まるで体当たり攻撃を喜んでいるかのように国民と兵隊を騙したのです。これでは、大西中将の真意も天皇の真意を伝わりません。天皇は、「こうまでしてやらねばならないのか…?」という言葉で軍令側の作戦を非難しているのです。しかし、実際に体当たり攻撃を敢行した隊員たちに対しては、哀れみの言葉を発したのです。そんな真意を汲み取ることもせず、自分たちに都合のいい解釈に終始するのが、当時の日本軍の常でした。彼らは「天皇陛下万歳」を叫びながら、心の中では「あんな男は、利用すればいいんだ…」とばかにしていたのです。こんな軍隊が勝てるはずがありません。

それでも、大西中将は、この作戦には、一時的でもいいので「制空権の確保」が必要だったのです。それくらい、「レイテ突入」は海軍の総力を挙げた決戦でした。これに敗れれば、日本海軍は終わりです。つまり、「戦争は負けた」のです。そんな確認もしないまま、作戦が発動されたことが驚きであり、その顛末もお粗末でした。当時の大西中将の指揮下の部隊は、アメリカ軍の空襲によって陸上の航空機は破壊され、この作戦に投入できるほどの数が残されていませんでした。もし、航空機が参加するのなら、量より「質」で戦う必要があります。それが、「体当たり攻撃」でした。体当たり特別攻撃隊には「神風」の名が与えられ、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の四隊が編成されました。どの隊も、実戦経験のある予科練出身者で固められ、特に敷島隊は、特攻第一号の栄誉が与えられ、指揮官には、海軍兵学校卒の正規将校である関行男大尉が任命されたのです。選抜にあたっては、一応形式上は「志願」としましたが、ほぼ命令に近い形で行われました。軍隊というところは、その組織内にいる以上、上官の命令は絶対です。要請であろうと、声がかかれば、それは受ける者にとって「命令」となるのです。

もちろん、指揮官は「断固拒否」する権利はありましたが、そうなれば将来はありません。考課表には「丙」の印が付けられ、最前線に送られるのは必定です。だったら、命令を受け、名誉を求めるのは、海軍将校としてやむを得なかったでしょう。当時の軍隊は、戦死にも等級があり、大活躍し天皇に報告されれば、間違いなく「金鵄勲章」がもらえ、特攻隊は二階級特進の上、軍神の扱いとなります。不名誉な評価の後に最前線に飛ばされるのがいいか、名誉の戦死で軍神として崇められるのがいいか、聞かなくてもわかります。特に、遺族には多額の遺族年金が下りますので、親孝行もできるのです。こうした背景がわからないと、なぜ、志願という命令に応じるのかわからなくなります。隊員たちは、腹の中では、「ばかやろう!」と思っていましたが、それを飲み込み、黙々と準備し、黙って突っ込んでいきました。おそらく、最期の瞬間には、自分の愛する人の顔を思い浮かべていたことでしょう。そして、結果は、護衛空母ではありますが、航空母艦を一隻撃沈、一隻撃破という大戦果を挙げることができたのです。

その頃は、アメリカ海軍も、徹底した防空体制が整っていませんでしたので、日本の搭乗員の技量なら、体当たりすることは、それほど難しいことではありませんでした。大西中将は、このレイテ島の戦いで勝利し、海軍大臣を動かして天皇に和平交渉を願う覚悟でいたようです。その、戦争終結のために、特攻隊員に「死んでくれ…」と命じたのです。もし、戦争が終わるきっかけになれば、彼らの英雄的行為は、さらに賞賛されたことでしょう。しかし、この捷一号作戦は、一部の海軍軍人の裏切り行為によって失敗に終わります。それは、戦艦大和に座乗し、この突入作戦の指揮官であった栗田健男中将とその部下たちでした。彼らは、本作戦の趣旨を理解しないままレイテ島に向かい、レイテ湾突入も目前にして反転、引き揚げてしまったのです。それも、作戦参謀が嘘の電文を作成し、「敵艦隊が北方にいる」と報告して、栗田が反転を命じました。これは、栗田とその部下たちが企図した、国家への反逆行為でした。しかし、そのことは、彼ら全員が口を閉ざし、栗田自身も何も喋らず戦後亡くなりました。最近、戦艦大和の副砲長だった人が、当時の大和艦橋の様子を書き残しました。それによると、栗田司令部の作戦参謀が、嘘の電文を書いて実行に移した様子が克明に書かれています。つまり、栗田健男という男は、最初からレイテなどに突入する気がなかったのです。こういう男を指揮官に任命した軍令部の責任は大きいと言わざるを得ません。

マッカーサー大将を初めとするアメリカ軍は、刻々と日本の戦艦がレイテ湾に向かってくることを知ると、「もう、だめだ…」と天を仰いだはずです。そかし、その瞬間に、日本の戦艦群が回れ右をしたのですから、これこそ「天佑」というものでしょう。99%勝利できた戦いを日本軍は一方的に放棄したのですから、アメリカ軍にしてみれば「奇跡」でしかありません。こうして、アメリカとの決戦に勝利し、和平交渉に持ち込もうとした海軍や政府の意図は無惨にも打ち砕かれ、次々と特攻機が飛び立つようになりました。大西瀧治郎中将は、その後、軍令部次長となり本土決戦を叫びますが、それも空しく、終戦を迎えたのです。彼が、特攻隊の英霊に対し、謝罪するとともに、切腹して詫びた気持ちも理解できます。本当は、一回の作戦で終わらせるつもりが、海軍だけでなく陸軍も追随し、終戦のその日まで特攻作戦が行われたことを考えると、戦後、生きていくことはできなかったのでしょう。本気で戦争に向き合った将官の最期でした。

4 次々と誕生した特攻隊

レイテ決戦に敗れると、もう、そこから先は何の見通しもない「抵抗戦」となりました。日本海軍の連合艦隊はほぼ壊滅し、燃料も底をついていました。わずかに、航空機に回す燃料が残されているくらいで、軍艦を動かすほどの燃料はなくなっていたのです。それでも、東南アジアの油田地帯から精製された石油をタンカーで本土に送る努力は続けられましたが、これも、次々とアメリカ海軍の潜水艦に攻撃され、日本本土に無事に到着する船は少なく、輸送船自体がなくなっていったのです。これも海軍の戦略の失敗のひとつです。日本海軍は、日本近海での艦隊決戦を考えていましたので、「石油の輸送」についての考えがありませんでした。南方資源を確保したことで、輸送の重要性が増しましたが、そもそも日本海軍に輸送艦隊がないのです。取り敢えず、船会社の船と船員を徴用し、輸送船団を編成しましたが、その護衛に軍艦を出すことを海軍当局が渋ったのです。連合艦隊司令部も「軍艦は、艦隊決戦用の大切な兵器だ」と声高に叫び、燃料輸送の護衛に回す駆逐艦や駆潜艇は、わずかなものだったのです。「石油がなくなる」という理由で戦争が始まったのに、その肝腎な「石油」を守る艦隊がない…というのですから驚きです。日本海軍の首脳部には、最初から戦争に対する戦略がなく、だらだらと引きずられるままに戦争が続けられたというのが、真相でした。それなら、陸軍に戦争を任せた方が、ずっとましだったのです。もし、戦争を対ソ戦に絞って北進していれば、満州、シベリア、樺太には大油田地帯があり、その気になれば、発見できるものでした。しかし、石油の消費が少ない陸軍は、本気になって油田調査をしなかったために、発見できなかったのです。こうした陸海軍のちぐはぐした関係が、国としての戦略を誤らせたことは、間違いありません。そして、艦隊を失った海軍は、航空機のみの作戦しか採れなくなっていたのです。それが、体当たり攻撃が続いた大きな要因でした。沖縄にアメリカ軍が上陸すると、体当たり攻撃は常態化してしまいます。既にベテラン搭乗員は枯渇し、若年搭乗員しか残されていませんでした。しかし、これは、海軍のことで、陸軍は違います。確かに、陸軍は海軍に付き合って陸軍特別攻撃隊を編成しましたが、機材も旧式の物が多く、搭乗員も学生出身だったり、少年航空兵出身の若い者が多く、ベテラン搭乗員はかなり温存していました。陸軍機は、主に大陸での戦いを想定した訓練を受けており、洋上で飛行することができません。そのために、海軍との協同での戦闘は、得意ではないのです。それに、本土決戦となれば、陸軍の本領発揮ですので、約一万機の新鋭機を温存していたといわれています。また、そのために、内地の部隊は精鋭が揃っており、陸軍は、密かに本土決戦用の部隊編成をしていたといわれています。だから、ポツダム宣言を受けるかどうかの議論の中で、陸軍のみは、「徹底抗戦」を叫んだのです。それなら、沖縄戦に戦力を投入すればいいものを、島での戦いを陸軍首脳部は、したくなかったのでしょう。そうしている間に、特攻作戦は、慢性的に続きました。航空機だけでなく、潜水艦部隊も「回天」という人間が乗る魚雷攻撃を考案し、昭和20年以降、出撃させました。他にも「震洋」(特攻艇)、「伏龍」(人間機雷)、「桜花」(ロケット推進滑空機)など、だれのアイディアかもよくわからない兵器が次々と生産され、若い兵隊が、特攻要員となったのです。こうなると、もう、戦略も何もなく、ただ、兵隊を消耗することに目的があったかのようでした。通常の戦争であれば、こうなる前に、敵方からも和平交渉の話が出てきそうなものですが、アメリカは、殺戮を楽しむかのように、日本には一切、妥協する余地もなく、都市空襲をおこない、最後には、原子爆弾まで投下して、日本殲滅作戦を行ったのです。その間にも、アメリカ兵は大勢死傷し、欧州とアジアで、たくさんの血が流れました。第一次世界大戦で、あれほどの犠牲者を出し、「戦争は、もう嫌だ」と言っていた人々が、半世紀も経たないうちに、また、もっと酷い戦争を行ったわけですから、まさに、世界は、狂っていたとしかいいようがありません。大東亜戦争の日本人の犠牲者は、軍民合わせて300万人と言われていますが、200万人は、昭和20年以降の半年での犠牲者です。なんか、人を殺すためだけの戦争になってしまったような気がします。

5 特攻隊の功績

戦後、特別攻撃隊を悪し様に評価し、何の戦果も挙げられなかったとか、テロリストと同じだったとかいう言論を耳にします。これも、愚かというか、GHQの洗脳にやられてしまったというか、現代病に冒されています。最近、公開されている資料では、アメリカ海軍の兵隊たちは、この「体当たり攻撃」に対して、非常に恐怖感を抱いていたことがわかっています。沖縄戦の場合、連日のように特攻攻撃は行われていました。いくら防衛網を敷いていたといっても、すべてを事前に撃墜できたわけではありません。やはり、戦闘機で撃墜できるのは、せいぜい五割程度でしょう。日本軍も五機の特攻機に、五機程度の直掩機を付けましたので、全然守れないわけではありません。いくらアメリカの航空母艦から戦闘機を発進させても、直上の空域を守る戦闘機は必要ですから、多方面から来襲し、時刻も様々であれば、アメリカ艦隊の全方面360度をカバーすることなど、不可能なのです。日本の飛行機は鈍足で、その上、爆弾を下げていたので、すぐにアメリカ戦闘機に撃ち落とされたかのように、いわれますが、アメリカの艦隊も、何十隻もの航空母艦を沖縄に派遣することは不可能です。航空母艦一隻に、護衛の戦艦や駆逐艦など最低十隻程度は、付いているはずですから、十隻の航空母艦を派遣すれば、その海域には、百隻のアメリカ艦隊がいたということになります。十隻の航空母艦に搭載できる戦闘機は、一隻四十機として合計四百機です。それを四交替で発進させたとして、一回に百機。そのうちの半数は艦隊上空の掩護に回すと、特攻機の航路に合わせて待ち伏せできるのは、せいぜい五十機です。それらが、高度差をつけて三方向の防衛に回すと、一方向が十五機程度になります。その十五機が、高度差をつけて防衛ラインを敷くと、一編隊が七機になります。一特攻隊は、特攻機と掩護機合わせて十機。七機で十機の戦闘機と戦い、全機を撃墜することなど不可能です。そうなると、五割以上の特攻機は、アメリカ艦隊上空に姿を現すことになります。日本側が、その日、早朝二回、薄暮時一回の特攻機を発進させたとして、一日で三十機から四十機の特攻攻撃を受けることになります。そのたびに、アメリカの各艦艇には、サイレンが鳴り響き、猛烈な対空射撃が始まります。遠くでは、戦闘機同士の空戦が始まり、特攻機が墜落していきますが、アメリカ艦艇の乗員には、煙を吐きながらも、こちらに鬼気迫る勢いで向かって来る特攻機が見えるはずです。無傷で来襲した特攻機も、猛烈な対空射撃で撃ち落とそうと必死に対空機銃で応戦しますが、特攻機は、火を噴きながらも手近な艦艇目がけて猛烈な勢いで突っ込んできます。それに、特攻機もすべての機銃を全開にして撃ち続けてきますので、アメリカの兵隊も必死の防戦となります。もし、特攻機がぶつかれば、二五〇㎏爆弾が作動し、駆逐艦なら撃沈は必至です。戦艦であっても、数百人の犠牲者が出るでしょう。軍艦が沈まなかったとしても、そこにいる兵隊を殺せば、特攻機の任務は成功するのです。一機一人で、数百人を殺傷することは、大戦果なのです。おそらく、特攻隊が来襲するたびに、数隻の艦艇が被害を受け、毎回、数百人が死傷していくのです。それが、日に三回。それが、どれだけの精神的苦痛を与えるか、想像してみて下さい。そんな繰り返しが、三ヶ月続きました。アメリカの各艦では、精神を病み、戦線から離脱する兵隊が続出したそうです。それに、撃沈を免れても、損傷が酷く、駆逐艦に曳航されながら、ハワイに戻った艦艇も多数出ました。特攻機は、爆弾を落とすのとは違い、回避行動が取れないのです。爆弾や魚雷は、直線運動で向かってきますが、特攻機は人間が操縦していますから、少しの操作で方向を変えることができます。その予測不可能な運動も、恐怖を煽りました。戦後は、体当たり攻撃も、艦艇の撃沈・撃破数でカウントしたので、リアル感がなくなりました。とんでもありません。そこには、数百人というアメリカ青年が乗艦し、その恐怖と戦っていたことを忘れてはならないのです。アメリカは、日本本土上陸作戦を計画していましたが、そうなれば、一億国民全員が特攻攻撃をかけることになっていました。それを想像したからこそ、アメリカは、原子爆弾の投下を決め、ポツダム宣言という終戦案を出してきたのでしょう。特攻隊の英霊は、約四千名といわれていますが、彼らの死は、けっして無駄死になどではなかったのです。

6 アメリカ兵のスピリッツ

日本の特攻隊は、志願という命令で行われた作戦です。これは、日本人の人命軽視の思想が大きく関わっていました。倒幕運動に関わった武士や戊辰戦争、西南戦争と内戦で戦った武士たちは、「命より名を惜しむ」といった戦国時代の思想を持ち込み、名誉のためなら死を厭わない姿を歴史に残しました。そのため、その武士たちの後継者たらんとした明治時代の軍隊は、常に白兵戦を主とした勇敢な戦い方を奨励したのです。学校の教科書にも、勇壮な武士や軍人の最期を紹介し、「勇敢な死」こそが名誉であるという感覚を、国民に教え込みました。その結果、軍隊では、攻撃部隊がエリートとして認知され、輸送部隊や救援部隊、衛生部隊などは、軍人としても肩身が狭かったといわれています。海軍でも、兵科将校が一番で、機関科や主計科などは、身分上でも差別を受けていました。これでは、組織としては不完全です。戦争が長くなると、こうした弊害は日本軍に露骨に現れるようになり、組織が崩壊していったのです。その点、アメリカ軍は違いました。やはり戦争に慣れている国は、組織も完璧です。そして、たとえ軍隊であっても、「人命優先」は、一つの哲学になっていました。そこに、「命を惜しむ軍隊」と「命も惜しまぬ軍隊」の差が出た戦争でした。欧米の軍隊にとって、戦った後の戦死は名誉であり、やむを得ないことだという認識がありました。捕虜も同様です。職務に忠実に任務を遂行中、やむを得ず、敵の捕虜となっても、それは名誉なことであり、恥じることは何もありませんでした。ただし、捕虜になった後も、国の名誉を守り、様々なルールが決められ、それを軍隊で十分学んでいました。その点、日本軍は、捕虜は日本の恥であり、即刻、自害するのがルールであり、多くの国民もそれを望みました。したがって、国際法が定める捕虜規定も学ばず、実際、捕虜になってみると、どうしていいかもわからなかったのです。こうした人命軽視の軍隊では、兵隊は、決められたことしかできず、臨機応変な対応はできないといわれています。しかし、人命優先の国では、祖国を信用することができるので、後顧の憂いなく、戦闘モードに入れば、だれよりも勇敢で、死をも怖れずに戦うことができました。しかし、日本兵のように安易に死を受け入れたわけではありません。その作戦については、一兵卒でさえ、考え、上官に意見具申する権限が与えられていました。アメリカの戦争映画でも、兵隊が上官に向かって、文句を言い、反抗的な態度を取るシーンが多く出てきますが、それが、民主主義社会では当たり前の行為なのです。自分が命を懸けて戦うわけですから、だれもが、納得できない死に方はしたくありません。こんな例がありました。ミッドウェイ海戦において、日本海軍は、大敗北を喫しますが、あのとき、アメリカの飛行兵は、日本兵以上に勇敢でした。いや、それ以上のアメリカンスピリッツを見せた戦いでもありました。あのとき、日本軍は、既に敵機動部隊を発見していたにも拘わらず、攻撃隊を発進させずに、爆弾装備から魚雷装備に転換し、護衛戦闘機の準備が整うまで待つ…という正攻法に徹しました。なぜなら、敵を侮り、「見敵必殺の教え」を守らなかったためです。それに比べて、アメリカの機動部隊は、不利な情勢は変わらなかったため、雷撃機や爆撃機を準備でき次第、発進させました。護衛の戦闘機も付けずに攻撃させるのは、まさに、死にに行くようなものです。それも、編隊を組む余裕すらなく、単機で次々と発進していったそうです。命を大切にするアメリカ人が、なぜ、こんな死をも怖れぬ敢闘精神を見せることができたのでしょう。これこそが、彼らが持つ、使命感であり、危機管理能力です。おそらくは、アメリカの航空母艦内では、だれもが、日本の機動部隊発見の報に接した時点で、「ゴー、ゴー!」と叫んでいたと思います。敵を見つけたら、すぐに殴りかかるのが、アメリカ人の喧嘩の仕方です。日本人のように、悠長なことはしておられません。そのころ、日本の機動部隊内では、「どうしようか?」という議論が起きていました。この差が、勝敗を決したのです。低空を飛来するアメリカの雷撃機は、日本の戦闘機に次々に撃墜されていきました。一機に2名の乗員が乗っています。魚雷攻撃をする余裕もなく、撃墜される姿を見た日本兵は、その攻撃精神に驚いたといわれています。そのうち、艦隊護衛の零戦隊が低空に下がり、上空が空いてしまいました。そこに、急降下爆撃隊が到着し、次々と爆弾を投下していったのです。「敵機、直上、急降下!」の叫びは、日本の敗北の信号でもありました。そして、戦闘が終われば、今度は、アメリカ軍の救助部隊が活躍します。飛行艇が何回も戦場周辺に降り、救助を待っている飛行兵を収容していきます。それは、死体でも同様でした。そこに敵がいようと、いまいと救助部隊は、必ず助けにやってきたのです。他にも、救助部隊には、潜水艦があり、様々な方法で救える命を救おうと努力していたのです。日本軍のように、置き去りにしたり、自爆を強要したりすることはありませんでした。多くの兵隊を持つアメリカ軍が、そこまで人命を尊重したのに、少ない兵隊で戦っている日本軍が、命を軽く扱っていることを考えれば、勝敗は明らかです。要するに、日本は、戦ってはいけない国を敵に回してしまったのです。それにしても、こんな勇敢で強い信念や使命感を持つ国と戦争をしたのが、大きな間違いでした。それも、あの「リーメンバー・パールハーバー」があったようです。アメリカ人にとって、日本軍は「卑怯でずるい連中」なのです。それは、許してはならない正義感が、アメリカ兵にはありました。その心に火をつけてしまった責任は、大きかったといえます。

7 特攻隊が、後世に残したもの

大西瀧治郎中将が言うように、最初の神風特別攻撃隊の四隊を以て特攻作戦を終了させ、レイテ湾に戦艦部隊が突入していれば、本当に戦争は終結できたかも知れないと思います。おそらく、アメリカ上陸軍十万人は死傷し、輸送船団はほぼ壊滅したはずです。その数は、数百隻に及ぶことでしょう。その上、多くの食糧、弾薬、各種兵器と、その損害は計り知れません。その輸送船団壊滅後に、戦艦部隊とアメリカ機動部隊が激突し、連合艦隊が壊滅したとしても、捷一号作戦自体は大成功となりました。そして、日本軍は、それら多くの捕虜を人質に、和平交渉に臨むことも不可能ではないはずです。アメリカにとって、人命を失うほど怖ろしいことはありません。十万人のアメリカ青年が死傷し、数万人のアメリカ兵が日本軍の捕虜となれば、アメリカ史上、最悪の敗戦となります。しかし、それは、もう一歩で可能になったはずの幻でした。しかし、栗田健男中将の謎の反転命令によって、千載一遇のチャンスを逃し、その後、続々と特攻機は飛び立っていきました。それでも、アメリカ軍兵士に日本軍の恐ろしさを味わわせるには、十分な戦いでもありました。アメリカにとっても、薄氷を踏む思いでつかみ取った勝利だと思います。それだけに、「カミカゼ」は、アメリカ兵に強烈な印象を残しました。この恐怖感が、戦後の日本占領の原点になりました。連合国軍の最高司令官は、ダグラス・マッカーサー大将でしたが、こんな強い日本軍を創り、神の如く崇められている「天皇」とは、どういう人物かを見極めようと考えていました。そして、その対面の日、マッカーサーは、敢えて、普段を装い、占領軍としての威厳を天皇に見せようとしました。写真も、わざとポケットに手を入れ、「俺の方が偉いんだ」というポーズをして見せましたが、天皇と会った瞬間に、自分が如何に小さな人間であるか…を覚ったようです。アメリカの歴代大統領も、就任すると、日本を訪問し、天皇陛下に拝謁されますが、だれが来ても、恭しく挨拶され、身を縮めるといいます。昭和天皇は、マッカーサーに会うと、何の弁解もなさらず、「すべての責任は私にある」とだけ告げました。それは、軍事裁判も受けるという宣言でもありました。国家元首としてすべての責任を負い、処刑される覚悟もされていたのです。マッカーサーは、後に、このことを「感動で心が揺さぶられた」と書き残していますが、実際は、今まで経験したことのないような神格化された人間に初めて会った感動だったと思います。それは、アメリカでは、絶対に経験できない感動だったと思います。そして、この天皇を処刑でもしたら、あの特攻隊以上の恐怖をアメリカは味わうことになることを怖れました。戦争に勝利したとはいえ、アメリカにとっても、対日戦争は厳しい戦いでもあったのです。戦後、GHQは、特攻隊の戦果を過小報告し、日本人には、「効果の薄い作戦だった」と宣伝しましたが、その恐怖心は、今のアメリカにも引き継がれ、「日本を侮ると、とんでもないことになる」という畏れが、日米同盟関係の基礎となっているのです。

 

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