「日本人の正義感」にもの申す。 矢吹直彦
日本人にとって、「正義」とは、なんなのでしょうか。そもそも、正義は、世界中に存在する万国共通の道徳観です。正義が通らなければ、社会秩序を保つことができません。しかし、その正義も、国や人によって独自の正義があり、それ自体が正論だけに批判ができないのも事実です。特に日本人は、武士の時代が長かったせいか、知らず知らずのうち「武士道」による道徳観が身についてしまいました。それは、江戸時代から昭和前期まで続いた日本人の道徳的な感性となり、日本人の生活に大きな影響を与えました。戦後は、武士道的な道徳観も否定的に扱われることが多くなりましたが、それでも、三百年以上も続いた道徳的感性が、数十年で消えることはありません。たとえば、どんな犯罪者であろうと、心のどこかには、こうした価値観を持っているものです。それが、たまたま、環境なのか、教育なのかはわかりませんが、道を誤り、自分で自己修正できないところまで追い詰められた結果、救いようのない事態に陥ってしまったのだと思います。そして、最近話題になっているSNS上の書き込みの多くからは、社会において「正義がとおらない」ことに対する怒りのようなものが感じられます。日本の国民は、今回のコロナ騒動を見てもわかるように、非常に自律性の高い国民です。マスコミは、やはり商売ですから、なるべく衝撃的な映像を映し出し、過激な論を吐く批評家を招いて議論させていますが、それ自体が、国民の声を代弁しているようには思えません。もちろん、彼らは演者ですから、ある程度、シナリオに基づいてコメントを述べるのでしょうが、現実社会とテレビの中は、かなり遊離しているように見えます。しかし、SNS上に書かれている内容を見ると、人々の苛立ちが垣間見え、どんな著名人の言葉であっても鵜呑みにするようなことはありません。面と向かって人に直言する人はいませんが、それぞれ、異なる考えや思いがあるのでしょう。それは、それで大切なことだと思います。そして、それが専門家と称する人々や政治家など、人の上に立って物事を進める人に対して、非常に厳しいコメントを寄せるケースも見られます。しかし、その内容には、かなり筋の通った意見が多く、納得できるものも多数含まれています。最近では、SNSを規制の対象にしようとする政治的な動きがあるようですが、社会としては、一定のモラルは必要でしょう。しかし、一方、それらの声に耳を傾ける度量も必要になってくるということです。もちろん、「名誉毀損」「事実無根」だと考えられる書き込み等に関しては、相手を特定して、訴えるべきです。書く方も書かれる方も、ある程度の責任と緊張感を持って意見交換がなされるべきです。日本人は、議論が苦手だと言われますが、SNSも立場を鮮明にして議論し合えば、有効な意見交換の手段になると思います。そこで、最近話題になっている事柄を踏まえつつ、日本人の持つ「正義感」について、考えてみたいと思います。
1 正義を貫きたい子供たち
子供は、物心ついたときから教育を受けて育ちます。家庭でも学校でも、教育なしに成長を語ることはできません。特に幼少時には、周囲の大人たちから、「善悪」について学ぶことが多く、幼児期には、「それは、悪いことだね」といって、手やお尻をぴしゃりとされたこともあるはずです。こうした経験をとおして、子供は、人としての善悪を学び、善を尊び、悪を憎む「勧善懲悪」の心を育てていきます。テレビドラマを見ても、悪が勝つ話は、なかなか受け入れられないと思います。学校においても、子供同士の中でも「いじめ」は、許されない行為として学び、過ちを犯せば、謝罪する習慣を身につけ、実社会に出ていく準備をします。ところが、子供も大きくなってくると、世の中には、「本音と建前」があることに気づかされます。家庭でも学校でも、大人の都合で解釈が大きく変わることに気づくのです。幼い頃は、「元気が一番」といっていた母親が、大きくなると、「勉強が一番」と、現実的な話に変わってきます。学校の教師の評価も、「できる、できない」が、評価の分かれ道となり、勉強ができる、スポーツができる生徒は、学校の優等生として評価も上がりますが、どちらもできない生徒は、注目されることはありません。不思議なもので、子供の頃は「道徳的行為」に対して評価を与えますが、大きくなると「実利的行為」に対して評価を与えるのです。こうした、子供と大人の評価のギャップが、素直な人には辛いのです。子供の頃は、あれほど、道徳的理想を語った母親や父親が、いつのまにか、実利的な言動を繰り返すようになると、子供は尊敬の念が強かっただけに、裏切られたような思いに駆られます。そこから、子供は大人不信に走ります。学校の教師も同じです。建前では、道徳的な行為を語りますが、実際の教師は、ときどき大人としての分別を見せ、子供の期待を裏切ります。つまり、「正義を通せない」大人に幻滅していくのです。確かに大人になれば、現実の社会で生きていかなければなりません。正義感だけで生きられないことは、子供でもわかります。しかし、自分たちに教えてきたことを、真っ向から否定されてしまうような現実を見せつけられて、納得できる子供はいません。大人たちは、「現実は、理想では生きられない」と、言うのでしょうが、その言い訳を聞かされても、「小さな人間だな…」とは思いますが、立派な人だと思うことはないのです。「子供は、親の背中を見て育つ」という諺がありますが、本当にその通りです。偽善的な親の背中を見て育った子供は、「ああは、なるまい」と心に誓って大人になっていくのです。
2 偽善的正義感
人は、「蚊帳の外」に置かれれば、だれでも、空理空論を述べることができます。酒の席で、大きなことを口にする大人は、たくさんいるはずです。今のテレビ番組でもそうですが、タレントや専門家の皆さんが、今の政治に対して自分の意見を大きな声で述べていますが、実際、口で言うような立派なことができるのでしょうか。よく、毒舌のタレントや司会者が政治家になったりしますが、立派な政治家になったという話を聞いたことがありません。結局、「長い物に巻かれた」だけなのでしょう。まあ、余所で立派な意見を述べることは、意見としては重要だとは思いますが、マスコミが発表するものは、本当に真実が書かれているのか疑問です。そういう疑念が、国民の間にも、年々高まってきているようです。もちろん、マスコミも商売ですから、スポンサーや会社の方針に忖度して書いたり、発言したりしているのでしょうから、ある程度「?」は仕方のないことです。しかし、それも過ぎると国民の思考の方向性を誘導しかねません。そして、残念ながら、マスコミは責任を取ることができません。戦後も、GHQの方針が出されると、各新聞社は、数日前と真逆の記事を載せました。ラジオでも、CHQの指示の下に新しい「太平洋戦史」が、語られました。その内容は、いつも「正義論」です。記事は、常に「正義は我にあり」という論調になりますが、数日前の報道を知る者にとっては、偽善以外の何ものでもありませんでした。これは、マスコミに限った話ではないのです。今の時代も同様です。発信する側は、常に自分を正義の側において記事を書きますが、それに反論する側も、正義なのです。どちらが、本当の正義かはわかりませんが、それを受け取る国民が混乱するのは当然だということです。犯罪行為は別にして、人には、それぞれの正義を掲げる自由があります。それを主張する自由があります。国民は、その発言を自分の価値観と照らし合わせて判断するしかないのです。自由は、有り難い思想ですが、そこには、大きな自己責任がついてくることを忘れてはなりません。社会の風潮に惑わされて、それに便乗するだけの正義感は身を滅ぼす元なのです。そう考えると、子供の頃からの教育は、本当に大切だということがわかります。大人になると、その言葉も自由ではなく、「生きるため」という方便がついてきます。そのために、正義が歪められることは日常的に、よくある話です。その真贋の見極めが大切なのだと思います。
3 正義は、真実を知る心
日本人の多くは、嘘を嫌います。それは、子供の頃から「嘘をつくな」とか、「嘘つきは泥棒の始まり」などという言葉で、嘘を吐くことを周囲の大人たちから戒められてきたからです。しかし、「子供は正直であれ」と言っておきながら、大人になると、「嘘も方便」になるところが、日本人の狡さなのかも知れません。だから、政治家の些細な嘘でも、方便と知りながらも、子供のように許せなくなるのでしょう。この潔癖性は、日本人古来のものだと思います。しかし、一度、真実だと思い込むと、なかなか否定できないのも日本人なのです。たとえば、先の大戦の史実などは、戦後の占領政策の中で、GHQにより連合国軍に都合よく改竄されましたが、その真実を暴こうとする勢力は少なく、未だに占領政策史観で現代史が作られています。国民も薄々、嘘だということに気づいているのですが、特に証拠もありませんから、まあ、いいか…と諦めているのかも知れません。この淡泊な性格も、日本人の特徴なのだと思います。また、マスコミは、恰も「正義は我にあり!」といった論調で記事を書きます。国会の野党の政治家も同じです。政策よりも個人の資質や言動、プライバシーの問題を取り上げて、相手を責め立てます。そこには、「自分」は、ありません。まずは、自分のことは差し置いて、「それはそれ、これはこれ」と、簡単に割り切って行動する変わり身の早さも持っています。そして、「上に立つ者は、すべて清廉潔白である」という儒教的な教えに基づいた絶対的価値観で相手を評価するのです。よく考えてみると、これほど辛いことはありません。少しでも有名になると、私生活を暴かれ、「人の道」という正義論から外れた行為に対しては、容赦がありません。芸能人が盗撮された写真を毎日、テレビ番組で流されたり、「酷い人間だ」と多くのコメンテーターに罵られたり、SNSで「死ね」とまで言われるのですから、人間としては耐えられないでしょう。日本には、「思いやり」という言葉がありますが、最近は、これも死語のようです。そこまで虐めたり、追い詰めたりしなければならない理由はないと思いますが、他人だからこそ、言いやすいのかも知れません。本当は、報道する側の問題も追及すべきだと思いますが、日本では、何でも「表現の自由」なのだそうです。もし、「人の道」を説くのであれば、自分自身から率先して「人の道」を体現してほしいと思います。「正義」は、正しく、否定する物ではありませんが、真実を見ずして、正義の味方を気取るのは、人の道として如何なものでしょうか。やはり、人間は、常に謙虚でありたいものです。
コメントを残す