老人の独り言3 「歴史上のリーダー」にもの申す。

「歴史上のリーダー」にもの申す。                                矢吹直彦

日本では、よく「リーダー不在の時代」といわれますが、実は日本人は、基本的にリーダーを欲しない民族なのだと思います。だから、不在なのではなく「不要」と言った方が正確なのです。歴史的に見れば、確かに多くのリーダーの名前は出てきますが、どちらかというと独裁型より調整型のリーダーが多いのが特徴です。独裁型には、織田信長や豊臣秀吉などの武将がいますが、どちらも最期は不幸な終わり方をしています。調整型には、徳川家康や大石内蔵助がいます。彼らは成功したリーダーですが、それでも最終段階では強い「指導力」を発揮していますので、調整型だけでリーダーが務まるとも思えません。近現代になると、ほとんどが調整型で、調整に手間取る間に失敗をするという繰り返しでした。日本人は、一人一人が優秀なので、心の中では、「自分でもできる」と思っているところがあります。現代の新聞記者が政治家に鋭い突っ込みを入れるのも、彼らを自分たちのリーダーだとは考えておらず、「リーダーなら、リーダーらしく答えろよ!」という厳しい評価を下しているからでしょう。今回のコロナ騒動にしても、マスコミの論調は「リーダーとしての決断力が求められる」とか、「リーダーシップが重要」などという論調が盛んに行われていますが、それでも周囲への調整がないまま、強引に決断したり、納得できる説明ができないままことを運べば、すぐに「独裁者」というレッテルが貼られてしまいます。政治家にとって、この「レッテル貼り」は、政治生命を脅かす怖ろしい攻撃でもあるのです。極端になると、ナチスドイツのヒットラーに例えた論調にまで言及され、「死ね」とか「殺す」「人間じゃない…」などの罵詈雑言を受けても当然のような雰囲気を作られるのですから、まじめな人間ほど辛いことでしょう。現代の世界史においてヒットラーは許されざる極悪人です。そのヒットラー呼ばわりされることは、人権上かなり問題があると思いますが、ヒットラー呼ばわりした人間を批判するマスコミはありません。要するに、政治家はリーダーなどではなく、国民の奉仕者(家来)なのです。確かに、国民が主権者ですから、そう考えると、一億三千万人全員が日本のリーダーということになります。だから、政治家も企業家も、「専門家会議」と称する別組織を設けて「専門家の意見を聞いて判断しました」という手法を採るのだと思います。それに、元々日本人は、何事も穏便に済ませたい性質を持っています。何も力でぶつからなくても、話し合いで解決できるのなら、そうしたい…と願っている人がほとんどです。なるべくトラブルは避け、臭い物には蓋をするのが日本人の特徴です。日光東照宮にも「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿の有名な彫刻がありますが、昔から「余計なことはするな・考えるな」という教えは徹底されていました。だから、コロナ騒動であっても、口では「制限を設けよ!」とか、「法律で規制しろ!」などと言いますが、本気でそんなことをすれば、「自由が奪われる!」だの「民主主義ではない!」といった批判の嵐に晒されることは想像できます。つまり、日本人は権力者から偉そうに命じられたり、指示されたるすることを極端に嫌います。だから、権力者が登場すると、一旦は褒めそやしますが、少しでも欠点が見えると、傘にかかって批判したくなるのです。こうして考えると、日本人に真のリーダーを求めるのは難しいようですが、それでは、どんなリーダーなら受け入れられるのか考えてみたいと思います。

1 空気の読めるリーダー

いつの時代でも、その場の「空気」というものがあります。余所から見ているとおかしな空気でも、その場にいると、つい忖度したくなるような空気感のことです。今でも若者言葉として、「KY(空気が読めない)」という使い方がありますが、これは、長い慣習に基づくものもあり、一概に否定はできません。是々非々で判断しなければならないときに、この忖度が入ってくると、なかなか難しく、「まあ、しかたないじゃないか…」と誰かが窘めることで決着が着きます。歴史を見ても、こんな場面はいくつもありました。あの真珠湾攻撃が中途半端な戦果で終わったのも、この忖度が働いたからです。真珠湾攻撃に向かった第一機動艦隊の指揮官は南雲忠一中将でしたが、彼自身は水雷屋で航空作戦はやったことがありません。海軍人事は海軍省の専決ですが、戦時に拘わらず海軍省では、平時のハンモックナンバーや年功序列の思考で人事が行われていました。中には、航空戦の研究をしていた小沢治三郎中将を推す声もありましたが、「序列は、南雲が上だから…」と、平時のまま大事な指揮官に南雲中将を据えたのです。そして、真珠湾攻撃成功後、第二次攻撃の要請に対し、南雲長官と草鹿参謀長は、理由を付けて一撃で帰還を命じました。何でも、草鹿参謀長は居合道の達人で「サムライは抜き身の一刀で仕留めるものだ」と、剣豪小説でも書くように第二次攻撃を拒否しました。山本五十六がいう「初戦において、太平洋艦隊を撃滅する!」という目的があるのなら、ここで引き返す法はありません。ハワイ在住の航空母艦を探し出して撃沈してこその真珠湾攻撃でしたが、その主目的も果たさずおめおめと帰ってくるのですから、困った指揮官たちです。そして、山本五十六は、「南雲ならやらんだろう…」で終わりです。本気でアメリカと戦う気があったのか疑わしい限りです。その山本を戦死後国葬とし、日本の英雄に仕立て上げたのですからびっくりです。今でも、ときどき、企業経営者が尊敬する人物として山本五十六を挙げ、「やってみせ、やらせてみて、褒めてやらねば人は動かじ」という言葉を社訓に掲げている人もいるようですが、とてもリーダーの資質のあった人物とは思えません。ただし、これも「戦争に勝利する」ことよりも、「人間関係を重視する」リーダーとしてなら、山本五十六は合格でしょう。そもそも、日本人は、「判官贔屓」のところがあります。勝者より敗者に心を寄せます。やはり、強いリーダー、勝てるリーダーより悲劇のリーダーが好きなのだと思います。そういう意味で山本五十六は、空気の読める指揮官でした。一見、強いリーダーに見えますが、人事や評価などに忖度したことで、海軍内での山本の評価は上々です。戦争の勝ち負けより、内部の根回しや忖度こそが、日本型のリーダーにとって最重要課題なのかも知れません。

2 信念のリーダー

日本史上、「信念」で動いたリーダーは織田信長です。彼は「天下布武」の旗印の下に武力によって日本の敵対勢力を駆逐し、天下統一を果たし、平和な世をもたらしました。最期は、部下の明智光秀によって暗殺されましたが、それでも、その志に一点の曇りもありません。暗殺されなければ、残りの人生をどんなふうに生きたのか、見たかったような気がしますが、ここまでが信長の役割だったような気がします。今の時代、こんな強いリーダーは、たぶん疎んじられると思います。やはり敵も多く、つまらないことで足を引っ張られ、権力の座から引きずり下ろされるでしょう。日本人にとって織田信長という武将は、好き嫌いがはっきり分かれる人物だと思います。しかし、信長がいなければ天下は治まらず、徳川家康に出番が来なかったであろうことを考えると、日本にとって重要な人物だったことがわかります。本当の危機が襲ったとき、この「強さ」や「決断力」が大きな意味を持ちます。東日本大震災時に福島第一原発の吉田昌郎所長は、死を覚悟して海水を原子炉に注入し続け、原子炉の崩壊を防いだといわれていますが、政府や本社の命令に背いてまで、現場で指揮を執る難しさは想像に難くありません。おそらく、吉田所長は、ここに残る部下とともに死ぬ覚悟をしていたものと思われます。現場には、現場にしかわからない現実があります。安全地帯にいて命令だけを下す人間は、それはそれで必死に考えているのでしょうが、現場の空気感は伝わりません。そして、安全地帯にいる人間は、周囲の声を気にしつつ、知らず知らずのうちに自分の将来を考えているものです。吉田所長以下の現場の人間は、そんな悠長なことを考えている暇はないのです。避難しないということは、最期まで現場で戦うことを意味しています。そして、最期には大量の放射線を浴び、間違いなく死が待っているのです。それでも、戦おうとする勇気のある社員が、福島第一原発にはたくさんいたということです。後に、マスコミは「所長の命令で、社員は逃げた!」という誤報を出し、訂正に追い込まれましたが、命を懸けない人間の容赦のない非難は、この社員たちには関係のないことでした。この事実は小説や映画化され、多くの国民の知るところとなりましたが、このとき、吉田所長が本社や政府の指示を受けて忖度していたら、日本の東北地方は廃墟となっていたでしょう。こうした危機にこそ、自分の将来など顧みない強さを持つ真のリーダーが必要なのです。しかし、日本人は強いリーダーが嫌いです。「偉そう」「威張っている」「傲慢」「独裁者」…、リーダーを非難する声をたくさん持っている日本人は、自分の信念を出そうとすると必ず非難の声を浴びせます。だから、政治家は、そんな声に忖度し、綺麗事で選挙に勝とうとします。厳しい声を控え、優しい声色で、皆様のために…を連呼します。しかし、そんな政治家が、本当に有事の際に行動できるのでしょうか。人間的には素晴らしい人でもリーダーとなると「?」の人はたくさんいるでしょう。家族でも同じです。優しい父親、友だちのような母親のいる家族は幸せですが、いざとなれば、眦を決して子供を守ろうとする父母がいてこそ、子供は安心してその懐に抱かれるのだと思います。

3 言葉だけのリーダー

平和な時代が長く続くと、人間は有事を忘れ今の平和が永遠に続くような勘違いを起こします。もちろん、人間が正常な神経を保ちつつ生きていくためには、そんなポジティブ思考が大切です。それでも戦争こそは起こりませんが、毎年不慮の事故で亡くなる人、不治の病で亡くなる人、自然災害で亡くなる人、自殺者など、人生を全うできなかった人は何万人といるのです。日本社会は平和であっても、その個人や家族にしてみれば、「家族の不慮の死」は間違いなく有事です。それでも、四十九日も済ませれば、残された家族は前を向いて一生懸命生きていくのです。そして数年も経てば悲しみや心の痛みも薄れ、やはり「そのときのこと」を忘れてしまうものなのでしょうか…。たぶん、それはないと思います。みんな口には出しませんが、その有事の瞬間は脳裏から離れるはずはありません。声高に「大変だったんだ…」とは言いませんが、それを飲み込むのも日本人の奥ゆかしさだと思います。日本には、昔から「言霊」という言葉がありますが、発するその言葉には、霊が宿る…という意味で遣われ、忌み言葉なるものさえ存在します。私もよく「縁起が悪い…」と言って、よくないことを予測することを窘められた経験があります。たとえば、明日大切な催しがある前日などに、「明日は雨かなあ…」などと口走ろう者なら、周囲から非難を浴びることになります。別に他意はありませんが、夕方の空を見て感じたままを口に出しただけなのですが、そんな非難を受けると、もう二度と口に出せなくなります。もし、これが戦争中ならどうでしょう。「明日、空襲があるかも知れない…」と呟いた人間に、「そんな縁起の悪いことを言うな!」と窘められたら、避難準備も何もできません。それが起きたとき、大慌てで逃げ出すしかないのです。そう考えると、「忌み言葉」を遣うような人間は、日本ではリーダーにはなれないことになります。こうした言葉に敏感な国民は、言葉によって人を判断しようとします。マスコミも有名人の発言を上手に切り取り、それに合うその人物の写真と併せて報道するので、見ている人は、その言葉と表情に反応してしまいます。流れで聞けば、聞き流せる言葉であっても、録音され映像に残され、切り取られれば、後は報道の自由です。ここが、言葉の扱い方の難しいところです。

4 日本最大のリーダーは、徳川家康

日本の歴史上の人物で、最大の功績のあったリーダーは徳川家康だと思います。強い改革のリーダーはもちろん織田信長ですが、日本人好みの調整型のリーダーとして突出しているのが家康でしょう。明治の西郷隆盛なども、どちらかというと調整型のリーダーですが、家康の深謀遠慮には遠く及びません。他の明治時代の元勲と称する人に、家康や信長に匹敵するような人物は見当たりません。明治維新などはその程度の革命であり、あの改革が成功したように見えるのは、当時の日本人の優秀さがそれを実現させただけのことです。そして、その優秀な日本人を育て上げたのが徳川政権だということができます。徳川幕府は約三百年近く続きましたが、世界情勢もありますが、日本が長い平和な時代を享受できたことは事実です。もし、徳川家康が政権を担わず、他の大名が政権を担ったとして、本当に戦乱を鎮めることができたでしょうか。豊臣秀吉没後、日本には、多くのリーダーが名乗りを上げていました。石田三成、毛利輝元、徳川家康、前田利家、黒田官兵衛、加藤清正、福島正則など、それなりの大名はいましたが、信長、秀吉に継ぐ実績といえば、間違いなく徳川家康しかいませんでした。その貫禄は、他のどの大名をも圧する雰囲気を持っており、それは関白秀吉も認めるところだったでしょう。しかし、家康は秀吉存命中は律儀に徳川政権を支え、秀吉没後に、忖度なく自分の政権を打ち立てたのです。これは、当時の戦国大名としては当然の論理であり、秀吉が子の秀頼の将来を託したとしても、それは、秀頼自身の問題でもあったのです。そう考えれば、理は家康にあり、多くの大名が関ヶ原で家康方につくのは当然だと思います。私たちは、武士と言えば「忠義」と思い込んでいるので、豊臣氏に忠義を尽くすことが武士の道であるかのような錯覚をしますが、忠義を武士の表看板にしたのは家康であり、幕藩体制の中で創られてきた武士の道徳観なのです。大坂の陣までは、まさに戦国時代であり、勝者が政権を奪うのは当然の権利でした。有名な真田幸村が家康の首を狙ったのは、当然、天下に名を為すためのものであり、戦国武将として、これほどの誉れはありません。地位と名誉、そして財力を手に入れることこそが武士道なのです。そして一族郎党を養い家を繁栄させることに絶対的な価値を置いていました。それを徳川幕府は、徹底的に変革し、武士を戦闘員から行政マン権教育者に変えてしまったのです。江戸時代の武士の戒律は厳しく、幕末に新選組が「局中法度」なり規律を設けて有名になりますが、本物の武士とは「腹を斬る」ことを厭わない誇り高き人間だという価値観は普遍的です。その規範が緩くなった幕末に、狼藉を働く浪士が多く登場してきますが、あれは本物の武士ではありません。武士とは、幕藩体制に組み込まれた所属の明らかな者をいい、月代も髭も剃らないような者を武士とは言わないのです。そして、武士の失敗は切腹で購わなくてはなりません。その罪は一族にまで及び、武士とその家族は、そんな厳しい戒律の中で生きていたのです。本来は戦う軍人であり、戦闘員だった名残は腰に差した二本の大小の刀が象徴しています。その軍人が、経済官僚として、政治家として、教師として人の上に立ち教え導くのです。武士をそんな形に変えたのが紛れもない徳川家康の思想なのです。今の歴史観は、明治維新の歴史観によって創られました。江戸時代をきちんと総括して評価していないので、かなり誤解が生じていますが、江戸時代がなければ、明治維新以降の改革もなく、現在もないということに気がつくべきでしょう。それを創り上げた徳川家康こそ、日本の真のリーダーだったことを知るべきなのです。

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