老人の独り言4 「日本のマスコミ」にもの申す。

「日本のマスコミ」にもの申す。                                   矢吹直彦

インターネットが普及し、SNSが一般化するにしたがい、既存のテレビ、新聞、ラジオ、週刊誌等のマスコミ(大衆コミュニケーションツール)が信用を失ってしまったようです。特に政治関係の記事は、常に批判の対象になっています。これは、アメリカの状況も同じで、会社は「常に公平・公正な報道に努めています」と言いますが、そうでないことは国民のすべてが知っています。どこかの国に忖度したり、どこかの政党に肩入れしたりと、どうしても長年のお付き合いで忖度しなければいけないしがらみができてしまったのでしょうか…。なかなか、企業経営というのも難しいところです。そして、「勇み足」や「誤報」が二度、三度起きると、一度失った信用を取り戻すことは難しく、いずれ衰退の道を辿るのだろうと思います。昔なら、マスコミへの就職は若者の憧れの的であり、年収も他の職種に比べて格段の差がありました。新聞記者やアナウンサーなどは、誰が見ても花形の職業であり、一流大学出のエリートと呼ばれるような人たちが就く職業でした。しかし、一度、固定した大きな組織に入ると、なかなか内部からそれを改革することは難しく、余程の激震が襲わなければ改革できないのが常です。それは、幕末の帝国主義の大波や大東亜戦争の敗戦など、その企業の存続をも脅かす出来事があって初めて改革が進むのだということがわかります。昔の軍隊もそうでした。敗戦の八月十五日を迎えても、組織を守るために必死になって戦おうとした軍人はたくさんいました。冷静に考えれば、天皇陛下の命令が覆ることなどなく、たとえクーデターを起こしても、いずれ鎮圧され、個人として処罰されることが見えていても、戦わざるを得ないのです。それは、もう国民国家のためではなく、自分の意地のために国民を巻き込もうとしている姿です。当時のマスコミもアメリカ占領軍が来るまでは、戦意高揚を煽り、日本人としての誇りを忘れるな…と連呼していました。ところが、具体的に日本が占領下に置かれ、GHQの命令が下ると一気に方向を転換し、日本軍ひとりに戦争責任を負わせ、自分たちのしてきたことなど忘れたかのように口を噤みました。これは、会社や自分たちの生活を守るためにやむを得ず行った彼らの仕事だったのです。だから、「何ものかに忖度する記事を書くこと」は、マスコミには付きものだということです。しかし、それを非難することはできません。強大な権力に逆らえる者などこの世にはいないからです。今でも、彼らは常に「ジャーナリスト」という言葉を遣いますが、本心では、「ジャーナリスト的会社員」だと考えているはずです。ただ、それを責めているわけではありません。それも生活していくためにはやむを得ないのです。綺麗事だけで生きていけるはずもなく、その時代の社会風潮や組織の中に埋没してこそ、豊かな人生が待っているのだとすれば、それはそれで素晴らしい生き方だと思います。ただし、巨大な組織に安住し、「あって当たり前」という姿に胡座をかき、自分の生活のことだけ考えて仕事をしていると、いつの間にか時代の流れに追いつけず、組織自体が衰退するのが常なのです。ネットなどでは、マスコミを「マスゴミ」とまで言う人が現れました。要するに「不要な物」という中傷ですが、ただ、新聞やテレビがなくても困らない時代になったことは事実です。そうなると、今度は「中味・内容」が問われます。国民は、今や「納得」できなければ支持はしてくれません。「本当なの?」という疑問を常に持って生活している国民をマスコミは、納得させられるのでしょうか。そこで、マスコミが衰退していった原因と今後のあり方を考えてみたいと思います。

1 「マスコミが世論を創る」という驕り

民主主義国にとって、民意、世論というものが社会を誘導していきます。それがよい方向に進むのか、そうでないのかはわかりませんが、国民が創り出す空気感を侮ることはできません。政治家にとっても、自分を支持してくれる人を集めなければ選挙に勝つことはできません。ほんの一部の極端な意見を述べる政治家にとっても、その一部の人々の支持がなければ政治家であることもできないのです。よく「マスコミが世論を創る」というようなことが言われますが、確かに、以前はそういうことがありました。戦前は、テレビがなく放送機器は一部に普及したラジオだけです。多くの国民は、「新聞」をとおして政治や社会全体の動きを知りました。日中戦争が泥沼化していくときも新聞は、中国での日本軍の戦いを詳細に報道しましたが、新聞社自体が単純に戦意高揚を目的にしていたかどうかはわかりません。新聞社も営利企業です。せっかくの記事も売れなければ何にもならないのです。だから、見出しには工夫を凝らし、購読者の眼に止まるような言葉を選びました。それが、販売部数を獲得する手段でもあったのです。そうして、新聞各社は、社の方針かどうかはわかりませんが、戦意を高揚するような記事を書くことになり、政治家にも積極的な発言を求めました。新聞社にとっては、何が正しいか、間違っているかは関係ありません。それを判断するのは新聞ではなく、政治だからです。結果として、世論の方向性を誤ったとしても、その責任を新聞社に問うことはできないのです。しかし、現代は、新聞に頼らなくても他の手段で情報を得ることができるようになりました。それが、インターネットの普及です。情報というものは、切り取り方によって方向性が全く違うことがよくあります。記者が肯定的に書くか否定的に書くかによって読者の印象は変わります。しかし、それらが比べられるようになると、人々は自分の頭で考えるようになるのです。今までは、一方的な記事を鵜呑みにし、大新聞社の記事を真実だと思い込むこともありましたが、数社の記事を比べることによって、その違いに気づき、自分なりの判断を下すことができます。そして、その情報がインターネットによって、安価に手に入ることができれば、何も高額な新聞紙を購入する必要もないのです。ネット上には、記事を書いた記者の意見だけでなく、読者の意見も公開されています。ときには、その記事の内容を厳しく批判し、記者の人間性まで問われるような書き込みもあります。自分では「よし!」と思って書いても、読者から批判されれば、記者もめげることでしょう。なぜなら、それが社内での評価につながるからです。いくら社内で立場が上の人間であろうと、読者には通用しません。厳しい多くの国民の目がひとつの記事に注がれているとすれば、何ものかに忖度した記事では、新聞を購読してくれる人も少なくなるのは当然です。既存のマスコミは、以前は「世論を創り出す」と思い込んでいたかも知れませんが、今や、世論は国民一人一人が創り出す時代になったことを知るべきでしょう。

2 「事実だけに基づいた報道」が欲しい

今、国民の多くは大変賢くなりました。政治家の中には、「愚かな国民」と考えている人もいるようですが、日本人はけっして愚かではありません。今回のコロナ騒動にしても、政府が様々な施策を打ち出しますが、その結果というより、国民一人一人の意識の高さによって、日本はここまで感染を防いでいます。もちろん、経済を回さなければならない状況で、やむを得ず感染する人もいるでしょう。しかし、それが耐えきれずに傍若無人に振る舞う人間は少数です。コロナ騒動によって犯罪率も上がってはいません。自殺者も増えてはいません。みんな、ひたすら耐えているのです。こんなに我慢強いのが日本人なのです。東日本大震災のときもそうでしたが、マスコミは、挙って災害の避難所に向かい、被災者にマイクを向けて、その言葉を拾おうとしましたが、東北の人々は皆無口で、社会批判や政府批判をした人は少数でした。せっかく不平不満を記事に書いて、政府の対応を批判しようとしても、なかなかそんな取材に応じてはくれないのです。今のコロナ騒動でも、無理無理、マイクを町行く人に向けますが、みんな迷惑そうに取材に応じています。自分からマイクに向かって話すような人はいません。マスコミは、その事実を淡々と報道してくれればいいのですが、報道の先には、よくわからない専門家やタレントたちが、国民の代表者であるかのようにしたり顔でコメントを発するのが常です。「えっ、この人はお笑い芸人さんでしょう…」「ああ、この人は、俳優さんね」「あれ、スポーツ選手が何か言ってる?」…。朝から晩まで、同じような番組を作り、同じようなコメントを伝えることに、どのくらい意味があるのでしょうか。そして、政治家の発言には、必ずコメントを入れます。「それなら、あなたがやってみればいい…」と思うのですが、タレント出身の議員さんで、立派な仕事をした人を見たことがありません。今の時代、万人を納得させる政治など、できるのでしょうか。これだけ情報過多な時代に、一億三千万人を納得できる政治などありはしないのです。マスコミが、余計なコメントを出せば出すほど、視聴者や読者は胡散臭さを感じ、興味を失っていくではないかと思います。マスコミは、余計なことを考えず「真実だけを伝える」という報道機関になることをお勧めします。そして、余計なコメントを避け、冷静に事態を分析して伝えることができれば、その先は国民一人一人が考えるはずです。

3 未来のマスコミ像

今の日本は、テレビのチャンネル数が少なすぎると思います。テレビ局も新聞社系の放送局がほとんどで、新聞の記事を基にして番組が製作されています。そのためか、テレビ受像機の売り上げも芳しくないようです。テレビ受像機を買えば、せめて10チャンネルくらいの放送局が凌ぎを削るようにして放送し、様々な主張があっていいように思います。そうなれば、視聴者も自分の好みに合わせてチャンネルを選択できます。そして、テレビ受像機+パソコン機能がつき、高齢者向けにインターネットが標準装備されていると有り難いのではないですか。政治にしても、主要政党はチャンネルを持ち一日中、自分の政党に関わるような番組を作ればいいのです。そうすれば、既存の放送局や新聞社に頼らず、ノーカットで政党の主義主張が流せるでしょう。今でも「放送法」が、障害になっているようですが、少し時代遅れのような気がします。そして、新聞はそろそろ役割を終え、すべてネット配信でいいのではないですか。古紙回収も楽ではないし、輪転機を回して印刷するという手法も未来的ではありません。もちろん、活字印刷は必要な文化ですが、今のように出版業界も低迷しているようでは、やはり、いずれ印刷製本という手法も廃れていくことでしょう。そして、マスコミは、常に「真実」を伝えることです。事実を書いてくれれば、その解釈は国民がします。別に特別なコメンテーターと称する人間が、自分の意見を述べていただかなくても結構です。事実を正確に伝え、専門用語の解説だけをしてくれればいいのです。そして、報道は報道、お笑いはお笑い、ドラマはドラマとはっきりした番組を製作して欲しいものです。おそらく、日本のマスコミ業界の人たちも、「今のままでいい」と思っている人は少数でしょう。しかし、どう変えていいかがわからない。未来が見えない袋小路にいるような気がします。それでも、本当に面白いテレビ番組があったり、面白い新聞記事はあります。それは、まさに「知を開く」思いのする記事や放送です。なぜなら、そのために記者の方々が必死の思いで現地に赴き、命懸けで取材してきたものだからです。最近は、災害が非常に多く、現地に向かう取材班もたくさんいます。しかし、それらの人々が、ボランティアと一緒に汗を流し、それを記事にすることはあるのでしょうか。みんなが汗と泥にまみれながら復旧作業に必死になっている中、汚れてもいないウィンドブレーカーやヘルメット、タオル身につけた取材記者を見ても視聴者は感動しません。なぜなら、そこには「生の人間」がいないからです。もし、被災者の本音を聞き出したいなら、一緒に泥を被り、飯を食い、一日中そこで過ごし、泥まみれになった手帳を取り出して鉛筆を走らせるしかないのではないかと思います。化粧したアナウンサーや場違いな服装で行く記者に用はないのです。そんな泥臭い記事こそが、人の心を掴むのです。

4 「日本」のマスコミであって欲しい

戦後七十五年が過ぎても、日本は未だに真の独立は勝ち取っていません。日本国憲法も様々な議論はありますが、当時のGHQの指令に基づいて制定されたものであり、本来なら国会で再審議するべきものをそのまま放置し、文言のひとつも訂正できないまま現在にまで持ち越したのは、当時の政治家たちの怠慢以外の何ものでもありません。戦前、戦中から蔓延した共産主義は、戦後もGHQの指令によって日本国内に拡散し、その思想は今でも国内に強く残されています。そのためか、中華人民共和国(中国)や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)などの共産主義国に配慮し、多くの国益を損なってきました。拉致問題が解決できないのも、その思想に問題があったからです。戦後、日本のマスコミも左翼思想に牛耳られ、その多くは現在も変わりません。70年以上もの間、同じ方針で会社が運営されていれば、それを大きく変えることは困難でしょう。今でも、日本の領土である尖閣諸島海域に中国共産党の艦艇が毎日のように侵入してきますが、それを「国難」として、大きく取り上げるマスコミはなく、テレビも新聞も、コロナ対策問題に終始しています。それに、中国に対しては、イギリスもアメリカもオーストラリアも対決姿勢を鮮明にしていますが、日本の政治家は、未だにその主席を国賓として招こうとしています。今や、日本を取り巻く状況は、非常に危機を伴っているように見えますが、それに関しての報道は小さく、敢えて無視するかのような態度に見えます。そのうち、「そんな小さな島は、やってしまえ…」という記事でも書くのでしょうか。「領土なんかより、国民の命の方が大切だ…」などと、専門家と称する学者や政治家が言い出すような気がします。最近、昭和十二年に起きた通州事件として中国兵による日本居留民虐殺事件の本を読みましたが、ここまで酷い殺し方をするのか…と、その詳細を知るにつれ、当時の中国兵の恐ろしさを実感したところです。元寇のときも日本人は、惨たらしく殺されましたが、有事となれば、「無抵抗主義」は、何の意味もありません。その記事の中に、娘を守ろうと木刀で戦う父親の姿が描かれていましたが、奮戦空しく、二人とも残虐な方法で殺されてしまいました。いくら文化の違いとは言え、獣以上の残虐な行為に走る異民族というものは、恐怖の対象でしかありません。そういった真実をマスコミは、日本の多くの人々に歴史の事実として伝えて欲しいと思います。それでも、当時の記者たちは政治家や政府の忖度を離れ、独自取材で詳細な記事を書いたそうです。それは、日本人の問題だからです。戦後、そういった当時の人々の無念さや悔しさ、悲しさを忘れたかのように平和な時代を享受しましたが、本当は、忘れてはならない時代があったような気がします。今でも、夏になると大東亜戦争時代の話が記事になりますが、有事となれば、平和など一瞬にして消えてしまうことを伝えて欲しいと思います。そして、「国を守る」ことの大切さを国民に説いて欲しいと思います。これからのマスコミは、だれかに忖度するような報道機関ではなく、どんな圧力にも屈しない真実だけを追い求める報道機関であって欲しいと願うばかりです。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です