「海軍中尉結城保のマリアナ沖決戦」
矢吹直彦
第一章 過去から来た男
「結城先生、編集者の方がお見えです…」
「はい、通して下さい…」
女性の落ち着いた声が、扉の向こうから聞こえてきた。
声の主は、青木裕子。
明誠大学文学部歴史学科近現代研究室の助教授である。
彼女は、既に四十を過ぎ、研究一筋に生きてきた女性で、長く私の秘書的な役割を果たしてくれていた。
私は、同じ大学の教授である結城保というしがない近現代を研究する歴史学者だ。
私は、既に六十を過ぎ、来年には定年の六十五歳になる。それでも優秀な学者は、その後も嘱託の研究者となり、名誉教授にもなれるが、私のような近現代の研究者は、異端児扱いで、定年になれば、どこかの大学の非常勤講師になるのが精々だろう。
もう、裕子にも迷惑はかけられない。
と言うのも、裕子は私が戦争中に乗艦していた巡洋艦筑摩の軍医長を務めていた青木周蔵軍医少佐の娘であり、終戦と同時に生まれた戦後世代第一号だった。
青木少佐は、東京帝国大学医学部の出身で、軍医として大東亜戦争の開戦以来、戦艦、航空母艦と渡り歩き、その最期を重巡洋艦筑摩で迎えることになった人物である。
私は、筑摩に配属になって以降、この青木少佐と昵懇の間柄になり、どちらかが生き残ったら、最期の様子を家族に知らせる約束を交わしていた。
その青木少佐が筑摩で戦死し、たまたま、私が生き残ったために、戦後、青木家を訪ねて以来交流が続いていた。
年齢は親子ほどの違いがあるが、父親の顔を写真でしか知らない裕子は、私を父親のように慕い、今もこうして大学で研究を続けながら、秘書のようなことをしてくれているのだ。
彼女が結婚しなかったのも、独身を通した私の面倒を看るつもりで、常に側にいてくれたのかも知れない。
裕子は、私が言うのもなんだが、知的な美人で、若いころは縁談も多く舞い込んだが、「今は、研究が忙しい…」と言って、みんな断ってしまった。
私も心配して、二三、声をかけてみたが、「止めて下さい!」の一点張りで、そのままにしてしまったが、青木軍医に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
それでも、私が重宝に使ってきたのだから、責任の大半は私にある。
裕子の母親も戦後すぐに亡くなり、裕子の身内と言えば、アメリカにいる叔父の周一だけだったが、向こうでアメリカの女性と結婚し子供も二人いる。
周一は青木軍医の弟で、アメリカで医師をしており、私たちが会うのも二年に一回くらいだった。
遠い親戚が北海道にいるそうだが、裕子の家との付き合いはなくなっているとのことだった。
裕子には二つ上の兄がいたが、戦争中に流行病で亡くなっていた。つまり、裕子の家は、戦争中に父と兄を亡くしたことになる。
そんなわけで、私とは、親子みたいな関係を今でも続けていた。
私のところには、出版社の編集者が時々顔を出すが、しがない学者のアルバイトとして、雑誌にコラムを持たせて貰っていた。
この日も、編集者が、私を訪ねて来たので、裕子が応対してくれたのだ。
裕子が、ドアを開けると、いつもの高井雅人が立っていた。
「結城先生、そろそろ、今度の原稿をいただかないと締め切りに間に合いません」
「どこまで、できているんですか…?」
そう言って、無遠慮に私の書きかけの原稿をのぞき込もうとするので、すかさず裕子が、
「高井さん。それ以上は、困ります…」
「原稿は、私が責任を持って、今日の夜には貴社の方にお届けしますので…」
そう言うので、高井も、
「先生、困りますよ。こうして、いつも青木先生に手間をかけては、いけませんね…」
と、首を大袈裟に傾げてみせるのだった。
「ああ、すまない。後、数枚程度だから、ちょっと待っていてくれたまえ」
私は、そう言うと、最後の章に文字を打ち込み始めた。
最近は、ワープロなる機械が登場し、早速使ってみるが、これが、手で書くより何倍も速く書けるので助かっている。そんなわけで、高井君の催促にも一応対応しているつもりだった。
高井雅人の会社は、日本でも数少ない戦記物を扱う出版社で月刊誌「光」は、昭和三十年創刊の戦記雑誌だった。
内容は、幕末物から現代の自衛隊まで軍隊や軍事関係は、幅広く取り扱っており、私の経歴を知った高木肇社長が、顧問契約の上、その月刊誌に連載記事を依頼してきたのだった。
私にしてみれば、大学教授と言っても薄給の身の上で、購入する書籍も多いことから、出版社からいただく顧問料と原稿料は有り難かった。
高木社長は、会うと、
「いやあ、兵学校七十一期クラスヘッドの結城大尉が側にいてくれたら、鬼に金棒ですから…、気にせんでください」
そう言ってくれるものだから、有り難くお言葉に甘えて、二十年近く原稿を書かせて貰っていた。そんな関係もあるので、編集者とも気安いのである。
ただし、この高井雅人は、四十間近の男だったが、ここに訪ねて来るのも、私の原稿取りと言うより、裕子に関心があるらしく、私から見ても中年カップルとしては、いい組み合わせかも知れないと思っていた。
それに、裕子をいつまでも自分の秘書のように便利に使うのでは、戦死した青木軍医と亡くなった奥さんに申し訳がなかった。
しかし、それを口にするほど、私も野暮ではない。
二人の様子を見ながら、おいおい話をしていこうと考えていた。
「ところで、高井君。もう少しですむから、そこでお茶でも飲んで待っていてくれたまえ。裕子は、これから用事があるかね…?」
私としては、裕子にもっと敬語で話せばいいのだろうが、何せ、子供のころから見ている人なので、つい、いつものように敬称がなくなってしまうことが多かった。
一応、用事があるのか…と尋ねてみると、裕子は、
「いえ、今日は授業もありませんし、先生の原稿が終われば帰ります」
「そうか、それはすまないねえ」
「じゃあ、お詫びに、原稿ができたら鰻でも奢るよ…」
鰻と聞いて、喜んだのは高井の方だった。
「えっ、鰻ですか。ぼく、いい店知ってますよ…」
それを聞いて裕子が、
「えっ、高井さんも一緒に食べるんですか?」
「先生は、私に声をかけて下さったんですよ…」
そう言って、裕子は、高井を睨んだが、高井は、
「早く原稿ができれば、後は、今晩中に社に持って行けばいいだけですから、ぼくは、大丈夫です…」
あの男は、だいたい、悪びれるということがない。
素直というか、気が利かないと言うか、とにかく憎めないのだ。
「わかった、わかった。じゃあ、その店に行こう。その代わり、高井君、原稿料早めに頼むよ…」
「はいはい、わかりました。なら、そう言うことで…」
こんな風に、いい大人同士が茶々を入れながら、午後のひと時を過ごしていた。
そして、今、高木社長の会社「零書房」の月刊誌「光」に連載している記事は、「厚木航空隊始末記」だった。
そのタイトルにある「厚木航空隊」は、私自身の軍人としての最後に勤務した場所であり、そのときの体験があればこそ、今の自分がある…とさえ思っていた。あのときの小園司令と菅原副長には、終戦後の問題で大変お世話になっていたのである。
だからこそ、高木社長に頼んで、この記事を一年間書かせて貰っているのだ。この記事は、イラストをやはり報道班員として従軍経験のある山中正というイラストレーターが書いてくれており、その時代考証は、私たち元軍人が見ても驚くべき出来映えだった。そのためか、評判は上々で、月刊「光」の売り上げアップに貢献しているとのことだった。
約束通り、午後六時には原稿を仕上げ、高井に手渡した。
そして三人は、九段の鰻の名店「安川」で特上鰻重を肴に少しの酒を飲み、午後八時には店を出た。
高井は、
「それでは、私は、この原稿を社に届けますので、これで…」
高井と別れた私と裕子は、浅草に向かう地下鉄に乗り込んだ。
私は、大正十二年に浅草で生まれ、府立一中から海軍兵学校に入り、戦争中は第一線の指揮官として戦った正真正銘の海軍将校だった。
乗艦していた重巡洋艦筑摩の撃沈という不運に見舞われたが、九死に一生を得て生き残り、生還後は内地勤務となり、軍令部、厚木航空隊で終戦を迎えた。厚木航空隊には、軍令部の一部員として一年間派遣され、連絡将校を務めていたのだ。
戦後は、東京大学文学部に入学し、卒業後は大学で助手として大学で教授の手伝いをしながら、近現代史の研究者として新しい時代を生き始めたのだ。
ただし、海軍士官から学者の道に進んだことから、周囲の人間には疎まれ、研究者としての出世とは無縁の存在だった。
ただ、当時の副学長が目をかけてくれて、その鞄持ちのようなことをしたことで、助教授から教授になれたようなものだった。それに、近現代史などをやっていると、アメリカの退役軍人と話すことも多く、英語に不自由しない私は、元海軍大尉の肩書きと英語で、得をしていたことも事実だった。
しかし、群れることが苦手なために、学者仲間からは孤立し、いわゆる出世コースからは、外れていた。
それでも、私は、自分の好きなことができるので、それで満足だった。
私の研究は、大東亜戦争の真の原因を探ることにあった。
今では、学者でさえ「太平洋戦争」とか、「アジア・太平洋戦争」とかいう言い方をして、論文にも平気でそれを使用しているが、あの戦争は「大東亜戦争」なのだ。
私は、大東亜戦争の詔勅を海軍兵学校の一号生徒として校長閣下より聞いた。当時の校長は、草鹿任一中将だった。草鹿中将は、降伏の際、日本海軍の代表者として降伏文書にサインをした人物である。
厳格な校長としての印象があり、生徒の教育にも熱心で、冬の訓練を自ら外に出て見守っている姿をよく見かけることがあった。
禅にも傾倒していたようで、厳めしい顔つきで、古武士然としたその姿は、私たち生徒の模範でもあった。
その校長が全校生徒を講堂に集め、詔勅を読み上げたのだから間違いない。それに私は、一号生徒のクラスヘッドで、第一分隊の伍長だったこともあり、そんな大事な詔勅を聞き間違えるはずがないのだ。
私としては、この戦争は、アメリカの謀略によって起こされたものだと考えている。それを学問的に証明するために学者になった。それが、生き残った軍人の使命だとも考えていた。
裕子の家は杉並にあったが、戦災に遭い、その後は都内を転々として暮らしていたそうだ。
戦争が激しくなると、母の実家のある福島県の白河に疎開し、そこで裕子が生まれた。兄は、既に流行病で亡くなっており、裕子の誕生は青木夫妻にとって、嬉しい出来事だった。しかし、その夫であり父である青木軍医は、娘に会うことなく戦死してしまったのだ。
母の幸子は元看護婦で、日赤で働いていたが、青木周蔵少佐との結婚を機に家に入ったために、従軍看護婦としての召集を免れていた。
幸いにして生き残った私は、青木軍医から託された東京の住所を頼りに尋ねてみると、もう、その家は空襲によって跡形もなく、近所を尋ね歩いて、白河に疎開していることを知ったのだった。
ところが、青木軍医が以前勤めていた東京の日赤病院を訪ねたところ、そこで、ばったり青木副婦長と会うことになったのだ。
青木軍医からは、家族写真をとおして様々な家族の話を聞いていたこともあり、私は、岐阜に疎開していた実家に戻るより先に青木家を訪ねることにした。終戦直後は、鉄道事情も悪く、岐阜まで辿り着くには、相当の時間が必要だったのだ。
私は、青木家のあった焼け跡から、ここにはいないことをすぐに悟った。それで、青木少佐の勤務先だった日赤病院に向かったのだ。
日赤病院は、中野区の広尾にあった。ここは、焼け残ったようで、建物も昔のまま、そこに建っており、傍から見ても忙しそうに働く医師や看護婦の姿が見られた。
受付で、
「すみません。私、結城保と申しますが、こちらに青木周蔵軍医がお勤めだったと聞いているのですが、知っている方はおりませんか…?」
そう尋ねると、受付の事務員の女性が、すぐに、
「ああ、それなら、奥様が働いておられます」
驚いた私は、
「あのう、確か、青木幸子さんですが…?」
「はい。青木幸子は、内科の副婦長です」
そう言われて、三十分後には、幸子夫人に会うことができたのだ。
青木家の家族と会えるのは、もっと時間がかかると覚悟していたが、すぐに奥様に会えることに戸惑いも感じていた。
私としては、青木少佐の戦死のことも伝えなければならず、自分一人が生き残ったことにも後ろめたさを感じていたのだ。
それでも、事務室の奥の椅子を勧められて、しばらく待っていると、その夫人は現れた。
年は、私が聞いたときに、三十歳の青木軍医より三つ下だと言っていたから、今は、三十歳くらいのはずだった。私が、二十五歳だから五つ上になる。
二人は初対面だったが、会うなり、幸子は涙を浮かべ、
「もしや、結城中ぃ…さんではありませんか…?」
私も、何度も見せられた写真を思い出し、幸子であることを確信していた。
「はい。奥様ですね…」
「もう、亡くなられたとばっかり思っておりました…」
「主人が乗艦していた軍艦筑摩が沈んだと聞かされておりましたので、おそらくは、主人も結城さんもいっしょに亡くなられたとばっかり…」
「はい。私は、運良く救助され、生き残りましたが、青木軍医は、筑摩といっしょに…」
私も、もうそれ以上、言葉が見つからなかった。
昭和二十年の秋も深まったころであり、早退してきた幸子と私は、日赤の寮に住んでいるとのことで、間もなく二歳になる娘の裕子は、自分の母親が寮の部屋で見てくれているとのことだった。
このころは、屋根のある部屋に住めるだけでも有り難い時代で、寮と言っても六畳一間に二人は当たり前だったが、副婦長という肩書きもあり、幸子は、家族三人で住まわせて貰っているとのことだった。
私が、
「その若さで、副婦長というのも大変ですね…」
と尋ねると、幸子は、
「いえいえ、日赤の看護婦は、戦争で多くが従軍看護婦として出征しておりました。そのために、還って来なかった者も多いのです…」
「私は、たまたま結婚して疎開しておりましたので、戦地に行くことはありませんでしたが、私のすぐ上の先輩方のほとんどは、出征しております」
「私は、戦時中も白河の陸軍病院で看護婦として勤務しておりましたので、こちらに来てすぐに、内科の副婦長を命じられたのです」
「本当は、私など、まだそんな立場になる看護婦ではありませんが、仕方がないのです…」
それを聞くと、私も軽率なことを聞いた…と申し訳なくなった。
「そうでしたか…。看護婦の皆さんにとっても大変な戦争でしたね…」
「いやあ、軽率なことを伺いました。申し訳ありません…」
そう言って、頭を下げた。
すると、幸子は、
「とんでもない。結城さんこそ、本当にご苦労様でした。それに、夫の親友の方がこうして来ていただき、本当に感謝しております…」
と礼を言うと、日赤で貰ったという赤い柿をひとつ、私に手渡してくれた。
「何もありませんが、患者さんから少しいただいたもので…」
そんなことから、私は、幸子と親しく付き合うようになっていった。
しかし、それでも恋人という関係ではなく、飽くまで、夫の親友という関係を崩すようなことはなかった。
私も、青木軍医の妻だということもあり、五つ上の姉のような気持ちで接することにしたのだった。
だけど、ちょうど二歳になったばかりの裕子は、可愛かった。
目元が青木軍医によく似ていて、口元は幸子似だった。
裕子は、不思議と私に懐き、幸子がこの後十年後に不治の病で亡くなると、幸子の母も相次いで亡くなり、それから先は、私が裕子の面倒を看るような形になった。
幸子が亡くなるとき、痩せ衰えた手で私の手を握り、
「結城さん。すみません。ゆ、裕子をお願いします…」
そう言って、涙を流したのだった。
幸子は、乳癌を患っていたのだ。
気づいたときには、全身に転移していて、手の施しようがなかった。
自分では、
「日赤の看護婦が…って、笑われそうですね…」
そう言いながら、切なそうな顔を私に見せた。
私も、もし、幸子さえよかったら、裕子と本当の親子になってもいい…と考えていただけに、幸子の死は、私にとっても大きな衝撃だったのだ。
それから裕子は、私の家に住むようになった。
私の家は、戦争中は鎌倉にあったが、戦後、父母は故郷の岐阜に帰っていったので、私は当分の間、そこに住んでいたが、借家なので、今の明誠大学に職を得ると、浅草に出て小さなアパートを借りて住んでいた。
蓄えはなかったが、十二歳になった裕子との二人暮らしは、ままごとのようで楽しかった。
裕子は、小学校でも成績がよく、さすが青木軍医の娘だ…と感心したが、よく本を読む子で、暇があれば本を読んでいた。本当は父親のように理系に進むのかと思ったが、家のことを考えて、文学を選択するようになっていった。
私も男やもめで、裕子がいたために結婚は考えなかった。
私にとって、裕子はかけがえのない娘のように思えたのだ。
それに、裕子は家のことは何でもこなす、やりくり上手な娘として成長し、生涯にわたって、私の大切なパートナーとなった。
私の父、結城穣は元海軍中将で、山本五十六長官とも親しい間柄だった。英国留学の経験もあり、親米英派として通った男だったが、軍政が長く、戦後は、公職追放もあり、故郷で農業をやると言って実家のある岐阜に戻って行ったのである。
私のところも、三人男兄弟だったが、兄と弟は陸軍で戦死し、子供は私だけが生き残った。だけど、私は一緒には行かなかった。
母親は、ついて来て欲しそうだったが、軍人になったときから戦死は覚悟の上だったはずだから、未練がましいことは一切言わず、黙って父と一緒に岐阜に帰っていった。
それでも、私の身を案じてか、よく育てた野菜などが届く。
裕子のことは、引き取るようになってから手紙で知らせた。
それに、私には、東京にいて、どうしても調べなければならないことがあったのだ。それも、もう少しで調べ終わる。
これが終われば、裕子も嫁に出してやれるだろう…。
母の幸子に裕子の将来を託されたのに、自分の都合のいいように使ってしまって申し訳ないと思う。
でも、この調査が終われば、俺の人生も終わりに近づく。
どうしてそう思うのかはわからないが、私にとって死は常に身近なものだったのだ。
裕子は、大学院を出て私と同じ大学に職を得ると、私の住むアパートから引っ越していった。それは、私が勧めたことだった。
他人が父娘のように暮らしていたが、他人は他人なのだ。しかし、裕子は、私の家から徒歩で十分とかからないところのアパートに引っ越し、毎日のように私の世話をしてくれた。
「もう、自分でできるから、いい…」
と言って断るのだが、
「これが、私の生活だから、リズムが崩れるのよ…」
そう言って、朝早くから私の家に来ては、家事を済ませ、食事を摂って大学に出勤していくのだ。
家を出たと言っても、何かと用事を作っては私のアパートに来るので、一緒に過ごす時間は多く、勤め先も私と同じ大学だったから、今までと何も変わらない生活が続いていた。それに、私の研究には欠かせない助手でもあった。
大学内でも、最初のころは怪しまれたが、私が、
「戦死した戦友の娘を私が預かっていたんだ…」
と言うと、当時は、あちこちでそんなことがあったようで、
「ああ、戦友の娘さんですか?」
「私の近所にも、そういった関係の人もいますよ…」
などと言ってくれる仲間もおり、裕子自身が、「いい伯父様よ…」なんて、悪びれないものだから、それ以来、二人でいる時間が長くても、変な噂は立たなかった。
それに、私は若いころから服装に無頓着な学者だったし、裕子は、インテリ風の気の強い娘だったから、あまり、変な関係には見えなかったと思う。
まあ、家にいたときも、あっさりした関係で、お互いのプライバシーは尊重する…といったスタイルは通していた。
一緒にいたとしても、交わす言葉は、研究のことか、裕子からの質問に私が答えるか、返事をするくらいなもので、日常会話も少なかったと思う。
それでも、二歳のころからの付き合いだから、裕子にしてみれば、戦死した父親より、私の方が、より父親として接していたのだろう。
一度、裕子が、
「お母さんが生きていたら、本当の親子になれたのに…」
と言ったことがある。
確かに、それは大いに可能性があったが、かといって死んだ者を責められない。それに、私の家の仏壇には、戦死した二人の兄弟、戦後、岐阜で亡くなった両親、裕子の父である青木少佐、母幸子、祖母美子の位牌がある。
そして、いずれ私が死ねば、相続は、すべて幸子に委ねるように手続は済ませてあった。
そして、その日は遂にやってきた。
季節は、既に冬から春に向かっていた。
私は、今、出来上がったばかりのフロッピーディスクを取り出すと、裕子に声をかけた。
「はあ…、やっと原稿ができたよ…」
「これを高木社長に渡せば、会社の方で出版の手続をしてくれるだろう」
「君にも苦労をかけたね…」
そう言って、壁掛け時計を見ると、夜の八時を少し回ったところだった。
「裕子。お腹も空いたから、帰りに寿司でも食べようか?」
そう言うと、裕子が、
「はい、先生…」
「でも、よかったですね。これで、大東亜戦争の真実が明らかになるのですね…」
裕子も嬉しそうに応えた。
「いやあ、だが、真相がわかったところで、歴史は何も変わらんよ」
「もう、戦後四十年も過ぎて、今更、戦争の原因を知ったところで、そんなものは歴史の亜流なんだよ」
「歴史が修正されれば、困る人も多くいるだろうし、戦後体制を崩されても困るだろう…」
「こんなものは、学者の自己満足さ…」
「でも、私は、それでいいと思っている」
「高木社長が、月刊「光」に連載してくれるだろうし…。その読者が、面白く読んでくれれば、それでいい」
「私は、ただ、自分や青木軍医が参加した戦争の真実を知りたかっただけだ…」
私は、本気でそう思っていた。
今更、闇に葬った真実を暴き出し、世間に知らしめても、だれも得はしないのだ。所詮は、一つの「仮説」として終わるだろう。
それでも、いつか、世界中の国々の公文書が公開され、その事実と同じことが、数十年前に一人の日本人学者の手によって明らかにされていたとすれば、それは、それで楽しいじゃないか。
そのときには、私はもうこの世にはいない。おそらく、裕子もいないだろう。だが、書籍にしておけば、その記録は残る。
高木社長は、きっとそうしてくれるはずだ。
そんなことを考えながら、裕子と連れだって大学の構内を出た。
私は、念を押すように、
「じゃあ、そのフロッピー、明日、高木社長に渡してくれよ…」
すると、裕子は、
「はい。間違いなく私の鞄に入れました。でも、昔と違ってたくさんの原稿用紙を運ばないで済んで助かります…」
そう言うと、自分の白い鞄をポンと叩いた。
「なら、大丈夫だな…」
そう言いながら、暗くなった空を見上げながら、行きつけの寿司屋がある交差点に出た。
信号は赤だったが、車の往来はそうでもない。
原稿を書いているうちは気づかなかったが、確かにお腹は空いていた。
あの寿司幸の握りは旨いのだ。
幸子が元気なころからやっている寿司屋で、「幸」の文字が気に入って入った店だったが、裕子はそれに気づいており、
「ああ、早くお母さんのお寿司食べたいな…」
なんていいながら、いそいそとしていた。
幸子は、よくお祝い事があると、ない材料を工面しながら、ちらし寿司を作ってくれたものだ。それに、お稲荷さんが定番で、裕子にとって母の味は、「ちらし寿司と稲荷寿司」なのだ。
そんなことを考えているうちに、信号が青に変わった。
私たちは、数人の横断する人影の数歩先を早足で渡ろうとしていた。
そのときである。
私たちの目の前が真っ白な光に包まれた。
「いかん。裕子…!」
そう思った瞬間、私は、裕子の手を思いっきり引っ張り、私の後方へと突き飛ばしていた。
「きゃあ…!」
裕子の悲鳴が聞こえた。
その瞬間、私は、黒く大きな物体が覆い被さってくるような錯覚を覚えた。
それは、あの筑摩での体験を思い起こさせるような衝撃だった。
ゴーン!
その固い鋼鉄のような物体は、私の脆弱な体を跳ね飛ばした。
そして、私は、まだ意識を保ったまま、自分の体が宙に舞うのがわかった。
そして、私の意識は、いつの間にか、数十年前の海の上にいた。
体がスローモーションのようにゆっくりと動くのがわかった。
「頭を守らなければ…」
人間の体は、頭が重い。
空中では、頭が下になり、放っておけば頭から落下するのだ。
「そうだ、受け身をとらなければ…」
私は、無意識のうちに体を回転させ、腕で頭を守るような態勢を採ったように思った。
ドーン!
次の瞬間、頭が大きく揺さぶられた。
グワッ…!
どこかの骨が潰れたような音がした。そして、何度も体がバウンドし、頭が何度もアスファルトに叩きつけられた。そこで、私の意識は途絶えた。
私には、何か、暗闇の中に引き摺り込まれるような感覚があった。
それは、下に向かう大きな渦のようにも見えた。
船の沈没時に一番怖ろしいのは、船の沈む渦に巻き込まれることだった。そこに入り込めば、生きて浮かび上がることはない。
船とと共に、奈落の底まで沈んでいくのだ。そして、永遠にその船の周りを漂い続けるのだ。
私は、こうして闇の中を漂う亡者となった。
第二章 覚醒
真っ暗な深い闇の中で、ふと自分の意識を取り戻した。
そこで初めて、自分が暗い海の中で、溺れる寸前にいることに気がついた。
しかし、私は、兵学校の水泳競技でもトップクラスの泳力があり、遠泳も難なくことなしてきたのだ。もう、間もなく息が続かなくなることも体験済みである。
なぜ、こんな暗い海の中にいるのかはわからなかったが、今は、とにかく浮上することしかない。
兵学校で三年間鍛えられているうちに、自分の死というものを冷静に見ることができるようになっていた。だから、どんな状況に陥ったとしても、素人のようにパニックを起こすことはない。
だから、今、自分の身に起きている状態も瞬時に判断し、「ここが限界点だ…」と見切ってきた。
よし、浮上しよう…。
私は、明るい水面を目指して、一気に両腕を大きく掻いて水を捉えた。
私は、加速するように水面に近づくと、最後まで肺に貯めていた空気を一気に吐いて海面上へと飛び出した。
ブーッ!
空は青く澄み、空気は南国の暖かさを漂わせていた。
すると、視界が開け、すぐ側に本物の溺者がいるではないか。
その男は、素人のように手足をバタバタさせるだけで、体に浮力を持たせる泳ぎ方すら知らないようだった。それに、相当に海水を飲んだらしく、ゴボゴボと藻掻いているが、その動きは既に弱々しく、意識も混濁しているだろうことが見て取れた。
私は、その動きを冷静に観察しながら、救助の方法を考えていた。
男の体は中肉中背だったが、海軍の水兵にしては、あまりにもなまった体つきで、筋肉の締まりも見えなかった。
こちらも相当に疲労は溜まっていたが、思いっきり空気を肺に入れたことで、頭がすっきりしてくるのはわかった。
「おうい、大丈夫か?」
私は、抜き手を切りながら、その男の後方に回り込んだ。
溺者を救助する場合、しがみつかれないように、後方から近づき、顎を手で抱えて古式泳法の「一重伸し」で溺者を引っ張っていくのだ。
私は、慎重に男の後ろに回り込むと男の顎を引き、顔全体を上に向かせた。
こうすれば、気道だけは確保できる。
溺者を後方に引っ張りながら、周囲を見渡すと、近くに大きな軍艦がいることに気がついた。
私は、そんな状況に特に驚きもせず、ただ、淡々と作業をこなした。
軍艦に近づくと、内火艇が出され、待機していた下士官兵が数人で、溺者を抱え艇内に収容した。
なぜ、溺れたかはわからなかったが、すぐに水を吐かせなければならない。
私は、内火艇に上がるのを断り、すぐに医務室に連れて行くように促した。
内火艇は、私の声を聞くと、数名の下士官が敬礼をして軍艦の方に去って行った。
私は、その後を追うようにして、得意のクロールで、軍艦に近づいていった。
その軍艦は、海面から見上げると、とんでもなく巨大な建造物で、黒光りする船体は、如何にも戦に向かう船だった。
私は、ラッタルの手摺りに捕まると、既に待機していた水兵に体を持ち上げて貰った。
「結城候補生、ご苦労さまでした!」
一人の水兵が声をかけてきたので、
「まあ、助かれば、いいがな…」
そう呟きながら、私は、濡れたシャツを脱ぎながら、長いラッタルを上がって行った。
途中で、「あれっ…?」ここは、どこだ…?
と考えたが、すぐに、軍艦長門だということに気がついた。
私は、ラッタルの途中で立ち止まり、そして、自分をしっかりと見つめ直してみた。
全身ずぶ濡れになってはいるが、手も足も体も若い…。頭はきれいに刈り込まれた坊主だし、顔を引っ張っても弛みがない。膝の関節も自由で、筋肉もパンパンに張っているではないか。それに、この黒さは何だ…?
南洋焼けとでもいうような肌の黒さだった。
そうしているうちに、私の中の記憶がどんどんと蘇り、時間を一気に四十年以上も前の青年時代に戻っていった。
すると、ひとつの時代が目の前に現れたのだ。
私は、昨年末に海軍兵学校を卒業して、このトラック島泊地に向けて柱島を出港し、艦隊実習を命じられた「海軍少尉候補生」三百人の先任なのだ。
既に実習も二ヶ月を過ぎ、艦隊勤務も慣れてきていた。
私は、側にいた水兵に尋ねてみた。
「おい、つまらぬことを聞くが、今日は何日だ?」
すると、若い水兵は笑いもせず、
「はい。昭和十八年二月二日であります!」
と答えるではないか…。
やはり、私の体は四十年前に戻ったようだ…。
タイムトラベルという言葉を聞いたことはあるが、何かの拍子に私は時空を超えたらしい…。
頭の中で、私と俺が交錯していたが、四十年前だと分かれば、「俺」が正しい言い方だろう。そんなことを考えていると、甲板上から声がかかった。
「おい、結城候補生、大丈夫か? 一人で上がれるか?」
だれだかわからなかったが、その声に反応して、
「はい。大丈夫です。呼吸を整えておりました!」
と返事を返した。
鏡がないのが残念だったが、これは「俺だ…」。
それも四十年も昔の俺に違いない。
そう確信し、もう一度、少尉候補生になってみることにした。それは、意外と心地よい感覚であり、こんなに体が動くのか…と思うくらい、手足に躍動感が漲っていた。
こんな感覚、もう、とうに忘れていた。
しかし、不思議なものである。体は四十以上年前の自分であるのに、頭だけは、四十年後の自分と交錯している。大学教授の私と、少尉候補生の俺が、同じ体に同居しているのだ。
こんな不思議なことはない。しかし、私は、それを承知で、この体でいられるだけ、いてみようと考えていた。
四十年後の未来を知っている海軍軍人として何が出来るのかはわからないが、そうなってしまったのだから仕方がない。
難しく考えず、ただひたすら、任務のために邁進するのが、兵学校時代からの教えだった。
それにしても、どうして私は、時空を飛び越えたのだろうか?
学者の自分として考えても、時空を超えることは簡単なことではない。もし、どこかに時空の歪みがあったとしても、ここに来てしまった以上、元の時代に戻れる保証は何もないのだ。
それに、何か変な記憶が交錯して浮かんでは消える。
その記憶があるうちに、思い出しておかなければならない。この記憶を失えば、私は、二度とあの時代に戻ることは出来ないだろう。
そう考えると、私は、必死にその記憶を思い出そうとしていた。
外から見ると、そんな私の表情が、苦痛の表情に見えたのかも知れない。
ラッタルを上る足取りが重くなり、さっきの水兵が、
「候補生、大丈夫ですか?」
と心配そうな顔を見せるので、
「ああ、何でもない。心配をかけてすまない…」
そう言うと、まずは、ことの成り行きを報告する義務があることに気がついた。
甲板に上がると、甲板士官の少尉が近づいて来て、
「いやあ、結城候補生。ご苦労だった…」
「海に落ちた水兵も、何とか息を吹き返したようだ…」
「お手柄、お手柄…」
そう言いながら、私を医務室に連れて行くよう、近くの兵に指示を出してくれた。
この甲板士官は、私の一期上の先輩だったから、気を遣ってくれたのだろう。それでも、私は、それを断ろうとしたが、やはり足下が少し覚束なかったので、その言葉に甘えることにした。
私は、タオルをもらい、濡れた体を拭きながら、若い水兵に支えられるようにして、その軍艦内の医務室に入った。
すると、白衣を着た軍医が、
「結城候補生。大変でしたね…」
と言いながら、すぐに着替えを出してくれた。
体も相当に冷えており、いくら南洋の海と言っても、長時間海水に浸かっていれば、体温が奪われても仕方がない。
「まあ、停泊中とはいえ、海に落ちた水兵を飛び込んで助けるなんて芸当は、なかなか出来ませんよ…」
「まあ、今日は天気もいいし、出港前でよかったです」
「出撃のための出港でしたら、軍規違反ですけどね…」
私は、扇風機の回っている医務室のベッドの上で、着替えを済ませ、暖かい毛布にくるまりながら、
「はい。すみません。つい、飛び込んでしまいました…」
そう返すと、軍医は、
「でも、これで、結城候補生の人気は、一番ですね…」
「水兵たちが、みんなで拍手して見ておりましたから…」
そう言うと、
「少し休みなさい。体力が相当に奪われていますから…」
と言って、一本の注射を打ってくれた。
どうやら鎮静剤のようだった。
海に潜って水兵を救助し、引き揚げまでやってのけたのだから、体力が相当に消耗しているだろう…と、サービスしてくれたのだ。
「南洋ですから凍傷はありませんが、体温が急激に下がっている。長時間海中にいて、かなり心臓にも負担をかけたはずだから、まずは、この水を飲んで、ゆっくり寝て下さい」
そう言われて、私は体をベッドに横たえた。
白いシーツが眩しく、陽に干されたマットレスは、太陽の日差しの匂いがして心地よかった。
私がいた未来でも、家では、あまり布団を干す時間もなく、こんな気分を味わうのは久しぶりだった。
すると、薬が効いてきたのか、部屋と毛布の暖かさが重なり、私は、すぐに深い眠りに入った。
私は、熟睡しながら、ひとつの夢を見ていた。
私が親しげに、裕子と呼んでいる女性と一緒に夜の街を歩き、交通量の多い交差点に来ていた。しかし、自分の服装も建物も、見たこともないような風景であり、どこの国か…とさえ思うほど煌びやかだった。
交差点には、点滅信号があり、警察官はいない。
今の東京でも、東京の都心以外は、交差点に警察官は付きものだった。
そうなると、あそこは、東京の中心地らしい…。
信号が緑色になると、周囲の人たちが横断歩道を歩き始めた。
私は、裕子と呼んでいた女性と一緒に横断歩道に入り、私の少し前を裕子が歩いているのが見えた。
裕子は、私の娘だろうか…、それとも恋人…?
とにかく、家族同様の関係の女性らしい。
すると、そこにスピードを落とさずに大型トラックらしき物体が、裕子を目がけて突っ込んできたのだ。
夜の闇のために、その車体は見えなかったが、四つのライトの明かりだけが私の目に入った。
咄嗟に私は、裕子…!と声をかけるなり、その左腕をグッと引っ張って、後ろに突き飛ばした。
裕子の悲鳴が聞こえる。
交差点の真ん中で立ち止まり、左手に顔を向けた。
真っ白で目映い光を全身に浴びると、そのまま大きな力を体全体に受けたのだ。
私の体は、宙に舞い、無重力状態のようになり、自然の法則で落下していった。そして、地面に叩きつけられた。
そんな夢が、何度も何度も私の頭の中で繰り返された。
しかし、私が自ら、軍艦の甲板上から落ちた水兵を助けようと、海に飛び込んだことは、夢の中には出てこなかった。
それに、私が現実に気づいたのは海の中だったし、浮上してから、溺れている水兵を発見し、救助したまでのことだった。
そう考えると、夢の中の私の記憶は、いったい何なんだろう…。
私は、深い眠りに入っていながら、裕子…と呼ぶ女性のことが心配でならなかった。
裕子の顔は思い出せないが、白っぽいコートを着て、髪を長く垂らした姿は、私の大切なもののように感じていたからだ。
その大切なものを何者かに奪われようとしている。そして、私は、その何者かと格闘をしているような興奮状態にあった。
その何者かは、悪意を持って、私をまた暗い闇の中に引き摺り込もうとしてくるのだ。
藻掻いても、藻掻いても、私の両足を抱え込み、もの凄い力で引っ張るのだ。
何をする!
やめろ! やめろ!
そう藻掻いているとき、暗闇の外から声が聞こえた。
「結城候補生…、大丈夫か?」
「おい! 結城!」
その声で、俺は、はっと目を覚ました。
体全体がびっしょりになるくらい、大汗をかいていた。
ふーっ…と深呼吸をすると、軍医の指示だろうか…、衛生兵が水を持ってきてくれた。
「あ、ありがとう…」
そのコップの水をグッと一気に飲み干すと、そこに、一人の士官が立っていた。開襟シャツの襟には、中尉の階級章を付けており、上官であることがわかった。
「おい、結城候補生。目が覚めたようだな…」
私は、慌てて起き上がろうとするのを、その中尉は手で制し、
「今から、艦長室に来られるか?」
「艦長と司令長官がお呼びだ…」
艦長と司令長官…?
あっ、そうだ。
今日は、連合艦隊の山本五十六長官が巡回に来る日だった。
この軍艦長門は、開戦直後まで連合艦隊の旗艦だった。そのため、連合艦隊司令部用の設備が整っており、長官も度々訪れる軍艦だったのだ。
昭和十七年を迎えると、新鋭艦の戦艦「大和」が竣工したために、旗艦は大和に移されていた。
長門は、その大和と共に、新しい決戦のために、ここトラック島に停泊していたのだ。
日本では、真冬の二月というのに、南半球の南洋は、とにかく暖かい。
澄んだ青空、絶え間なく泳ぐ魚たち、豊かな自然を眺めていると、ここが戦場になることなど、想像も出来なかったが、しかし、現実は間もなくやってくることを私は知っていた。
それに、後数ヶ月もすれば、我々も正式に各部隊に配属されるのだ。
既に候補生全員に希望表が配られ、ほとんどの者が飛行科を希望したようだったが、私は、艦隊勤務に「〇」をつけて提出していた。
私の考えでは、我々が飛行機の操縦に熟達するころには、戦争はどうなっているかわからない。それより、艦隊勤務で、早く第一線に立ちたいと願っていたのだ。
それに、私は効果的な防空体制についての私案を持っていた。それは、戦艦の運用方法だったが、そのことは、既にレポートにまとめていたが、だれにも見せずにしまってあった。それを実現するためにも、海軍部内の要職に就く必要を感じていたのだ。
それを思い出すと、自分がここで何をするべきか…が、思い出され、意識がさらに明瞭になっていった。
俺たち海軍兵学校七十一期五八一名は、昭和十七年十一月十四日に卒業し、海軍少尉候補生に昇任した。そして、各艦船に分けられて初級士官見習を命じられたのだった。
俺は、七十一期のクラスヘッド(首席)として、恩賜の短剣を受領し、この長門に三十人の同期生と一緒に配属になった。
今は、戦時なので、半年もすれば候補生から正式に海軍少尉に任官するのだ。それまでは、軍服も兵学校と同じ短ジャケットに金筋一本の候補生だったから、遠くから見ても、新米士官だということがわかる。
私たちも、
「ああ、早く裾の長い軍服になりたいなあ…」
などとぼやいたが、一号生徒のころとは違い、ここでは士官の中の最下級なので、下の者に威張ることもできなかった。それに、実際の軍艦では、勝手も分からず、結局は下士官や長く海軍の飯を食った水兵に尋ねなければ、何もできないのだ。
たまには、いいところを見せたいが、下士官たちも、
「候補生は、勉強の期間ですので、よく見て学んで下さい」
などと言う始末で、どちらが上官なのか…わからないくらいだった。
それが、今度の人命救助で、私の名は、艦内に知れ渡ることになり、後から私の部下になった砲術科の下士官に、
「さすが、兵学校七十一期のクラスヘッドですね。私も鼻が高いですわ…」
などと言われ、少し照れくさかったことを覚えている。
私は、数時間で目が覚めると、薬が効いたのか、頭もすっきりとして、いつもの状態に戻っていた。それに、助けた水兵も意識を取り戻したようで、これでひと安心だ。
後で聞いたところによると、この水兵は、補充兵で年齢も三十歳を過ぎた中年兵だったようだ。大東亜戦争もわずか一年で、こうした補充兵を入れなければ間に合わなくなって来ているのだ。
そう考えると、自分たちは早く一人前の士官になって、第一線で戦わなければならない…。そんなことを考えながら、私が寝ている間に従兵がプレスをしてくれた純白の軍服に袖を通した。
「軍医長、ありがとうございました。もう、大丈夫です…」
そう礼を言って、早速、水兵に案内されて艦長室に顔を出すことになった。
なにせ、乗艦して二ヶ月は経つが、少尉候補生といえども、ここでは、まだ新兵扱いだったから仕方がないが、いつまでも案内付というわけにはいかない。
それでも、艦内で迷子になっても恥ずかしいし、今回だけは案内を請うことにしたのだ。
艦長室は、艦長や副長などが個室を並べる上甲板にあり、だれでもが気安く入れる区域ではなかったが、艦橋付の水兵の案内で艦長室の前に立った。
案内は、ここまでである。
俺は、呼吸を整えると、扉をノックした。
すると、中から、「入れ!」という野太い声が聞こえた。
どうやら、久宗艦長の声らしい。
久宗艦長は、俺たち七十一期を受け入れてくれたときの厳しい顔を覚えていた。普段は寡黙で武人然とした軍人だったが、兵学校時代は柔道の猛者でならしたらしい。
「失礼します!」
そう挨拶して、中に入ると十畳ほどの部屋に大きな机と小さめのテーブルに椅子が数脚置かれていた。出撃前のこともあり、中は調度品も陸揚げされ殺風景だったが、余計に出撃前の緊張感を漂わせていた。
中には、二人の年配の将校が何事かを話しているようだった。
少し、緊張したが、命令なので仕方がない。
すぐに直立不動の姿勢を取ると、
「少尉候補生、結城保、参りました…」
大きな声でそう申告すると、二人の顔がこちらを向いた。
二人とも南国焼けで浅黒く、余計に将官らしい厳つさを出していた。
久宗艦長が、すっと立ってこちらに来ると、もう一人の将官を紹介してくれた。
別に紹介などしてくれなくても承知している。
我々、海軍士官が知らないはずがない。
連合艦隊司令長官、山本五十六大将だ。
私は、このときが、山本長官と言葉を交わす最初だった。
「結城候補生。紹介しよう。連合艦隊の山本長官だ…」
山本長官に会うのは、これで二度目である。
最初は、艦隊実習の初日に配属された三百名の代表として、挨拶をさせてもらったが、私個人に言葉はなかった。
すると、山本長官が笑顔を見せながら近づくと、
「結城候補生。君とは二度目だな…」
覚えていてくれたのか…と、少し嬉しかったが、それを表情に出すことはしなかった。
「はい。艦隊実習でトラックに来た日に、大和でお会いしました」
山本長官は笑顔を見せ、「まあ、座り給え…」そう言って、テーブル席に案内をしてくれた。
改めて礼を言おうとすると、右手でそれを制し、
「君が、結城さんのところの息子か?」
そう言って、にやりと笑いながら、俺に椅子を勧めた。
隣の個室に従兵が待機しているらしく、艦長が、
「おい、客だ。勤務中だから冷たいサイダーでも持ってきてくれ…」
そう声をかけた。
私は、改めて、
「はい。少尉候補生の結城保であります。父がお世話になっております…」
そう告げると、
「結城さんもいい息子を持って幸せだな。うちなんかは、虚弱で海軍は無理だからな…」
「まあ、いい。ところで、長門の水兵を救助してくれたそうだな…」
「さすがは、七十一期のクラスヘッドだ…と評判だぞ」
「それに、補充兵とはいえ貴重な戦力だからな。まあ、二人とも無事でよかった。私からも礼を言う…」
そう言って、私に頭を下げるのだった。
そのうちに、冷たいサイダーが三本も出て来て、長官自らが艦長と私にその液体をグラスに注いでくれた。
そして、父との思い出話や兵学校時代の話など、小一時間を割いてくれたことに私は感激していた。
久宗艦長も、父の穣が一号生徒時代に同じ分隊の二号生徒だったらしく、普段は見せない温厚な表情を見せてくれた。
そして、最後に長官は、
「君たちの艦隊実習は、おそらく短縮される。君は、結城少将に似て、非常に頭の回転がいいようだ…」
「それに、話をしていると、何か他の士官とは違う不思議な感覚を持っているように見える…」
「私も君の父上もイギリス留学の経験があるから分かるのだが、君には、自由主義の匂いがするな…。まあ、それは海軍士官には必須な感性だからな…」
「それに、砲術の知識も豊富らしいな。それも、そのうち、おいおい聞かせて貰うよ…」
そう言って、別れ際に握手を求められた。
この縁が、後の重大な事件につながることは、お互いに知る由もなかった。
このころ、連合艦隊は、八ヶ月前のミッドウェイ海戦でアメリカ機動部隊に惨敗を喫し、その四ヶ月後に南太平洋海戦で、その復讐を果たしたが、多くのベテラン搭乗員を失い、機動部隊の再編成が求められていたのだった。
俺たち七十一期の少尉候補生が艦隊に配属されたのは、ちょうど、艦隊の再編成が行われようとしていた時期で、間もなく新しい決戦が始まろうとしていたのだ。
それが「い号作戦」と呼ばれる大作戦だった。
連合艦隊司令部は、南太平洋海戦で、取り敢えず敵の航空母艦を太平洋から一掃したことで、日本軍が有利になったと考えていた。そこで、ガダルカナル島を攻略し、アメリカとオーストラリアの交通路を遮断してオーストラリアを孤立させ、アメリカ軍の太平洋における戦略拠点を潰す考えだった。
そうなれば、日本軍は豪州、ソロモン諸島、パラオ諸島などの南洋の国と島々を占領し、実質、太平洋を支配することになるのだ。
日本軍が南太平洋を抑えてしまえば、アメリカ海軍は、ハワイから順次機動部隊を出すしかなく、日本海軍は、アメリカ機動部隊が出て来た傍からこれを叩くといった作戦を考えていたのだ。
そのためには、ガダルカナル島を攻略し、そこに航空基地を建設し、オーストラリアを圧迫して、オーストラリアに白旗を揚げさせる必要があった。
山本長官は、そこに講和の機会がある…と考えていたようだが、ベテラン搭乗員を多数失った日本海軍に、もう、その作戦を実行できるだけの戦力は残されていなかった。特に、ベテラン搭乗員の不足は、大きな問題であり、今ここで、残された戦力を使ってしまえば、たとえガダルカナルを奪っても、豪州作戦は覚束なかったが、連合艦隊司令部は、そこに気づいてはいなかった。
私たち少尉候補生は、その後三ヶ月の艦隊実習を終えると、全員が海軍少尉に任官し、それぞれの任地に旅立って行った。
私は、一人、連合艦隊司令部付となり、荷物をまとめると、トラック島の飛行場から急いでラバウル行きの輸送機に飛び乗り、ラバウル基地に降り立ったのは、昭和十八年の四月の中旬になっていた。
当時のラバウルでは、連日の出撃により、搭乗員は疲労の極地にあり、交替要員の補充がつかないまま、戦い続けていたのだった。
第三章 山本五十六長官の最期
新任少尉としてラバウル飛行場に到着すると、い号作戦も終末に近づいていたが、それでも、零戦隊や中型攻撃機が何機もガダルカナルに向けて飛び立つ姿が見えた。
私が、宿舎に私物を預け、連合艦隊司令部のある建物に入ると、そこには度重なる戦いで疲れた様子の参謀や兵たちの様子が見られた。
下士官に案内されて幕僚室に入ると、渡辺参謀から声をかけられた。
「おい、新米少尉。こっちだ…」
私は、キョロキョロしながら、渡辺参謀にくっついて行くと、参謀から、
「おい、結城少尉。貴様は、俺の補佐だ…」
「俺は、戦務を担当している渡辺だ。まあ、簡単に言えば、長官の秘書官のようなものだな…。まあ、とにかく、俺の手伝いを頼む」
「それから、夜にでも長官室に行くから用意をしておけ。時間は、一九:〇〇。ここで待機だ。いいな!」
私は、何も分からないまま、この渡辺安次という戦務参謀についていけばいいんだな…とだけ理解して、宿舎に戻ると私物の荷を解いた。
渡辺参謀は、兵学校五十一期の大先輩の中佐で、俺たちとは二十期も上の人だから、まるで親と子のような関係で仕事をすることになった。
そこで聞いたのが、山本長官のブイン基地への視察の件だった。
それは、もう三日後のことに決まっていた。
昭和十八年四月十八日と言えば、山本五十六長官が戦死した日である。
私の頭には、このことが強く思い出されていた。
長官に知らせて、中止させなければ…。しかし、どうやって…。
今夜、長官に挨拶に出向く。その場で、長官に何もかも打ち明けて、中止しなければ、大変なことになる。
そう信じた私は、自分が時空を超えてきたことを恨めしく思った。
それでも、長官をここで殺してはならない。
学者のころの自分であれば、「それもやむを得ない…」と考えただろうが、この場にいて、それを知りながら、傍観者でいることは、海軍軍人として許せなかったのだ。
そして、その日の夜が来た。
長官の宿舎は、ニッパ椰子で拭かれた屋根の洒落た洋館にあった。
ラバウルのあるニューギニアのニューブリテン島は、長くオーストラリアの統治下にあり、この建物も、その当時のオーストラリア人の宿舎になっていたものだった。
その一室で山本長官は、い号作戦に参加した搭乗員名簿を見ながら、戦死者に筆で「〇」をつけていたのだ。それは、長官の日課になっているらしく、戦死者名簿が届くと、そうして印をつけ、お経を読むのだそうだ。
その声は、深夜まで続き、だれもが山本長官の熱い気持ちを理解していた。
その晩、私が、渡辺参謀に連れられて長官室に挨拶に行くと、長官は、私を認めると、サッと手を挙げ、
「よう、結城少尉。よく来たね…。待っておったよ」
「渡辺参謀は、もういいよ。よく知った間柄だから…」
渡辺参謀は、「えっ…」という顔をしたが、そうですか…という風情で自分の宿舎に戻って行った。
私も以前より緊張感も緩み、にこやかに、
「結城少尉。ただ今、着任いたしました」
と敬礼をすると、
「さあ、さあ、入り給え…」
と、気軽に応接椅子に私を招いてくれたのだった。
私も、こんなに喜んでくれるとは思ってもいなかったので、少し驚いたが、これで、長官と話ができると思うと、有り難いチャンスでもあった。
渡辺参謀が下がると、
長官が従兵にビールを持ってくるように…と注文し、早速、私の傍に椅子を寄せると、
「実は、君の人事は、私が海軍省に頼んだんだ」
「長門で君に会ったとき、何かしら不思議な感覚があった…と言ったね。それは、今でも変わらんよ…」
そう言いながら、私の秘密を知っているかのような疑いの眼差しを向けると、
「君は…、何か未来のこと…を知っているんじゃないのかね…」
「君の挙動は、今の時代の人のものじゃない」
「いや。もちろん、君自身は今の若者には違いないが、それでも、君には、何かあると感じているんだ…。違うかね?」
さすがは、山本長官である。
ちょっとした挙動で、人の心の内を察する能力があるらしい…。
私もそう言われて、困ってしまった。
すると、長官は、
「いや、何ね。あの後、気になって海軍省に君の人事評価表を確認してもらったんだ。それは、君が間違いなく結城穣中将の次男であることがわかったから、ホッとしたんだが、それにしても、その不思議な雰囲気は只者じゃない…」
「だから、君に、ここに来てもらったんだ」
「だけど、それは悪い意味じゃない。何となくだが、君の話を聞かなければならない…ような気にさせられた…と言うのが正直なところかな?」
私は、どこまで見透かされているんだ…と心臓が高鳴ったが、それほどまでに言うのなら…と、三日後の視察の件を持ち出した。
「では、少し、お話ししてもよろしいですか?」
私は、長官の許しを得て、一気に核心に迫った。
「長官。十八日のバラレ行きは、お止めになった方がよろしいと思います」
山本長官は、ん…?という顔をすると、笑顔を見せ、
「ほらな…。だから言ったんだよ。君は不思議な人だって…」
「だいだい、何の根拠があってそれを言うんだね…?」
そう言いながら、従兵が持ってきたビールを私にも、自分にもグラスに注ぐと、グイッと喉を鳴らして炭酸のアルコールを飲み干した。
「さあ、そこまで言うなら、君の知っていることを話して貰うからね…。少尉」
そこで、私は、
「わかりました。でも、他の人には内密に願います…」
そう言って、グラスの中の液体を喉に流し込み、長官の目を見ながら話し始めた。
私は、自分が四十年後の未来から来た元海軍大尉だったことから話し始めた。
山本長官は、それを否定することなく、真っ直ぐに私の目を見て頷いていた。
敗戦後、私が東京大学に入学し、近現代史を勉強して学者になり、大学で教鞭を執りながら、「大東亜戦争の謎」について調べていたことを話した。
そして、その研究が二十年にも及び、最近になって、その謎が自分なりに解明できたことを話すと、山本長官の目がさらに開いた。
「それで、この戦争はどうなる?」
私は、躊躇わずに、こう答えた。
「負けます…。それも悲惨な状態での敗戦です」
「昭和二十年からの空襲で、大都市のほとんどは焼き尽くされ、原子爆弾も広島と長崎に投下されます。およそ二百万人の日本の一般市民が焼き殺されるのです…」
「陛下は?」
「陛下は、ご無事です…」
「日本の陸海軍は解体され、憲法も新しく日本国憲法がアメリカ占領軍によって作られ、今でもそれが使われています」
私は、次々と重ねて尋ねてくる山本長官の質問にひとつひとつ丁寧に答えた。
戦後の日本が、世界が驚くスピードで復興を成し遂げ、昭和三十九年には、東京オリンピックが開催されたことや、アメリカに次ぐ経済大国になったことなどを話した。一方、日本には軍隊がなく、自衛隊という組織ができたが、米軍に基地を提供し守られていることなどを話すと、長官は、少し悲しげな顔を見せた。
そこまで話すと、長官は、
「よくわかった。やはり、君は未来から来たんだね…」
「でも、こうして君に会えて、私は嬉しいよ…」
そう言って、また、グラスの中もビールを飲み干すのだった。
そして、最後に、私は、山本長官にこう告げた。
「どうか、三日後のブインへの視察はお止め下さい」
自分のことを言われて、長官は、顔を上げて、「なぜかね?」と尋ねた。
私は、
「そこで、敵戦闘機が待ち伏せをしています。暗号がすべて解読されています。長官を始め、多くの司令部の幕僚が戦死します…」
「どうか、出発を取りやめて下さい!」
そこまで言うと、長官は、
「ありがとう。貴重な話が聞けてよかった…。だが、私のことはいいんだ」
「それに、陛下や日本国民には、本当に申し訳ないことをしてしまった…」
「私が、あんな過ちをしなければ、こんなことには…」
それは、山本長官の後悔の言葉だった。
私は、すぐに、
「それは、真珠湾攻撃のことですね…」
そう言うと、
「ああ、私は騙されたんだ。あんな奴らの言うことを鵜呑みにした私が愚かだったんだ…」
「もう、君にはわかっているんだろう…。私の過ちを…」
そう言われて、私は、答えた。
「はい。すべて、アメリカ政府、いやルーズベルト大統領の謀略でした」
「日本を破滅させるためのプロジェクトは、二十年ほど前から始まっていたのです…」
「長官が、アメリカに留学していたころから既に、アメリカでは日本を破滅させるために、様々な手が講じられていました。真珠湾攻撃は、そのひとつだったと思います…」
「だから、長官は死を選ぶのではなく、生きて、この戦争を終わらせることをお考え下さい。まだ、間に合います。どうか、長官…」
しかし、山本の目に精気は戻らなかった。
やはり、歴史の真実を伝えたことが徒となったのかも知れない。
最後に、山本長官は、私にこう告げたのだった。
「ありがとう、結城少尉。いや、結城さん。わざわざ、未来からそれを伝えに来てくれて心から感謝する。しかし、今から一通の手紙を君に託す。早速、日本に戻り、これを軍令部にいる高松宮様に渡して欲しい」
「戦争を止められるのは、結局、陛下しかいないのだ…」
そう言うと、私の目の前で手紙を書き始めた。
私は、その場で一時間以上待った。
山本長官は、一心不乱にそれを書き終えると、自分の花押を書き、連合艦隊の封書に入れて完封された。そこにも、山本五十六の文字が毛筆で書かれていた。
宛名は、「海軍大佐 高松宮宣仁親王殿下」とあり、朱で親展の印が押されていた。そして、もう一通は、軍令部次長伊藤整一中将宛だった。それは、私の身柄を託す物だった。
そして、それが私が見た山本五十六連合艦隊司令長官の最期の姿となった。
第四章 秘密の会合
翌朝、私に日本への出張命令が出された。
私は、昨晩の山本長官からの含みもあり、仕方がない…と諦めていたが、渡辺参謀に、
「明後日の山本長官のバラレ訪問は、非常に危険です…。直掩機は相当出さないとまずいですよ…」
と言うと、参謀は、
「ああ、俺もそう思うが、長官があの通り頑固者でな…」
「ところで、夕べは結構長く話していたが、今日の出張はそれと関係があるのか?」
と聞くので、
「いや、特にはないと思いますが、長官から高松宮様への書簡を預かっております。直接手渡すように言い遣っておりますので、ちょうど、私が戦務補助員なので、都合がよかったのではないですか…」
そう言うと、渡辺参謀は、
「うん、わかった。とにかく来たばかりで東京に逆戻りで大変だが、これも仕事だ…。頼むぞ」
「帰りは、あまり気にせんでいい。とにかく、連合艦隊司令部が貴様の所属だ。司令部がどこにいても、そこへ飛んで来い」
そう言って、笑って送り出してくれたのだ。
私は、午前の輸送機でトラック島に飛び、そこから便を乗り継いで、日本に戻ったのは、それから三日後のことだった。
東京の軍令部では、既に山本五十六長官機が撃墜されたことを知っていた。
私は、羽田飛行場に降りるや否や、公用の旨を飛行場の海軍事務部に伝えると、公用車を回して貰い、そのまま軍令部に向かうことになった。
軍令部の入る築地の海軍省に入ったのは、一八:〇〇を過ぎていた。
暖かな南洋から春の日本は、すこぶる寒く、まだコートが欲しいと思うような冷え込みがあった。
私は、到着するなり、事務部で用件を伝えると、すぐに軍令部次長室に伊藤整一中将を訪ねた。
伊藤中将は、ラバウルの山本長官から無電で私が来ることを承知していたらしく、到着するなり、
「おう、君が結城少尉か…。ご苦労」
「ところで、長官の書簡は持っているのか?」
私は、
「はい。ここに…」
と言って、油紙で包んだ封書二通を伊藤中将の机の上に置いた。
伊藤中将は、
「山本長官から直々の無電だったので、こちらも驚いた。それも、長官機が撃墜される前日に届いた無電だから、何かあったな…と心配していたところだ」
「永野総長も、かなり憂慮しておられる」
そう言って、自分宛の書簡を開いて、読み始めた。
それは、二分ほどの時間が経っただろうか。
直立したままの私の顔を見ると、
「ほんと…か?」
と呟いた。そして、
「よく、貴様の話を聞け…とのことだ。これは、国家の重大事だ…と書いてある」
「わかった。この書簡のことは総長には何も言っていない。それに、軍令部は、山本長官戦死のことで大童だ…」
伊藤中将は、「そうだな…」と思案した後、
「貴様は、しばらくここに泊まれ。海軍の聞き取りが終わるまで、外に出てはいかん。いいな…」
「はい。わかりました」
私は、そう返事をすると、軍令部の下士官の案内で、別棟の来客用の建物に案内されたのだった。
十畳ほどの部屋にトイレ、バスが整えられており、従兵も二人付いていた。武装をしているので、私は要注意人物として扱われるらしい。
それでも、部屋の環境は快適で、おそらく、通常は佐官以上の将校が使うものだろう…と思った。
夕飯も従兵が運んできた。
海軍省は、地下に食堂があり、軍艦と同じように士官用と下士官兵用とに別れて作るらしい。従兵から和食か洋食のどちらがいいか聞かれたので、久々に和食をお願いした。
すると、戦時中だというのに、刺身や天ぷらの盛り合わせが出て来たので驚いてしまった。ああ、これも将官用なのだろう。
海軍の将校は、基本的に身の回りのことは何もしないのが原則だった。
イギリス海軍を模倣しているので、貴族と同じ扱いをする。特に兵学校出身者は大事にされ、予備学生出の士官とは、待遇面でも差があったと聞いたことがある。とにかく、私は、ここではVIP待遇だった。
東京に戻ってきたことで、四十年後の自分と今の自分が交互に現れるようで、気持ちが悪かったが、裕子の安否だけが気がかりだった。
それでも、私が裕子を突き飛ばした後、彼女の悲鳴が聞こえたので、命に別状はないだろう…と思った。
だが、裕子に預けたフロッピーディスクが気になっていた。
もちろん、デスクのワープロの中には私の研究原稿が保管されているので、問題はないはずだが、無事に高木社長の下に届けられたかが心配だった。
それにしても、山本長官の死は、やはり動き出した歴史の流れを止めることはできないのか…と暗然たる思いだった。
翌朝、目を覚ますと時計の針が、〇六:〇〇を指していた。
海軍では、起床ラッパが午前六時に吹かれるので、この時刻には必ず目を覚ます習慣がつけられるのだ。
それから一時間後、従兵が扉をノックした。
「結城少尉。伊藤中将がお呼びです。大丈夫ですか?」
そう言われて、扉を開けると、昨日の従兵二名が外で待っていた。
「どうぞ、こちらへ…」
そのままついて行くと、次長室の隣の個室に案内された。
ここなら、しばらく人は来ない…という配慮なのだろう。
待っていると、コーヒーとトースト、サラダ、卵焼きが運ばれて来た。
従兵が、
「次長が、ここで朝食を摂られるように…と」
そう言うので、私は、数分で食事を終え、コーヒーを飲んで待つことにした。コーヒーは、戦時下でありながら、本物の豆を使った本格的なものだった。
ほっと一息をついたころ、伊藤中将が入ってきた。
「やあ、待たせたね…」
「ところで、軍令部からもう一人、いいかな…?」
私は、「はい、大丈夫です…」と答えると、伊藤次長の後ろから眼鏡をかけた少佐が入ってきた。
「こちらは、同じ軍令部第十課の参謀、佐藤尚少佐だ。通信と暗号を担当する諜報のスペシャリストだよ…」
なんと、それは、私の兵学校時代の分隊監事の佐藤少佐だった。
「分隊監事…」
私が、そう声をかけると、佐藤少佐も、
「やあ、結城、元気そうだな…」
「七十一期のクラスヘッドは、連合艦隊司令部か…」
「伊藤次長から昨日の話は、聞かせて貰った。とにかく、一大事だからな、慎重にやらんと事が進まん…」
「高松宮様には、貴様の話を聞いてから、動くとする…。いいな」
そう言われて、私は、これまでの経緯をすべて掻い摘まんで話した。
それは、山本長官に話したことと同じだった。
一時間ほど話すと、二人は大きくため息を吐いた。
「ふう…。いやあ、もし、それが本当なら、アメリカは日本を殲滅する気だ…」
「だから、何度交渉を重ねても、いい加減な回答しか来なかったんだ」
「それに、この謀略にはイギリスも関わっているのか?」
「はい、イギリスのチャーチルやソ連、中国も加担しています。もう、日本は四面楚歌の中にいます」
「じゃあ、どうすればいい?」
「こちらは、敵の手の内を知っています。その裏をかいて戦うべきです」
「そして、敵に徹底的な消耗を強いて、世論にアメリカの謀略を訴えるのです」
「山本長官も、それをお望みでした」
「おそらく、高松宮様への書簡にもそれが書かれているはずです。どうか、私を高松宮様に会わせてください…」
二人は、深く考え込んでいたが、佐藤少佐が、
「次長。この結城という男は、七十一期のクラスヘッドで、下手な嘘を吐くような人間ではありません。頭脳は明晰、行動力、統率力、判断力、どれを取っても抜群の軍人です」
「私は、結城少尉を信じます。どうか、次長も山本長官の遺志を継いでください」
伊藤次長も、山本長官の絶筆を見詰め、ようやく重い口を開いた。
「わかった。結城少尉が時空を超えて来てくれたというのも信じがたい話だが、話の辻褄は合っている。それに、山本長官の戦死もそのとおりになった。だとしたら、原爆投下も真実になるだろう…」
「アメリカが日本を破滅させようとするのなら、それを是が非でも阻止するのが、我々軍人の任務だ」
「よし、わかった。総長は俺が説得する!」
「高松宮様は、幸い軍令部第三課長だ。よし、動いてみよう…」
「結城少尉。後のことは君にかかっている。頼んだぞ…」
そう言って、三人は未来に向かって戦うことを固く誓い合うのだった。
高松宮殿下を密かに伊藤次長が呼んだのは、その日の夜遅くなってのことだった。
佐藤少佐に案内されて海軍省内の皇族専用室に入ると、そこに高松宮殿下がおられた。
私は緊張をしたまま挨拶をすると、真剣な顔をされた殿下は、
「結城少尉ですね。伊藤次長から話は伺っています。ここでは、私は高松大佐で通っていますので、そのまま大佐として話して下さい…」
そう言うと、少しだけ笑みを零されたので、ほっとして私の知るだけの大東亜戦争の歴史を語った。
それは、およそ一時間にも及んだろうか…。
その間、伊藤次長、佐藤少佐も身動ぐことなく、私の話を聞いてくれていた。話し終えると、高松大佐は、
「そうですか…」
「やはり、そうなるのですね。それは、私が一番危惧していたところです」
「亡くなられた山本長官の書簡もありますし、そこまでの機密を知っているということは、結城少尉は、きっと未来を見て来られた方なのでしょう」
「わかりました。私は、皆さんにご協力いたします…。それが、山本長官の意思でもあったのですから…」
そう言うと、私に手を差し伸べられた。
高貴な方なので、柔和な印象があったが、その手は海軍士官らしく大きく、分厚い手だった。
海軍の士官は、腕力が鍛えられる。並の力では、波の力に持って行かれることも屡々なのだ。
先日の補充兵が海に落ちたのも、軍艦の太いロープの反動に自分の力が負けたせいで、海の放り投げられたのだ。
高松大佐の手は、我々士官の手と遜色のない力強さがあった。
この方は、本物の海軍将校だ…。そう思い、私もその手を強く握り返すのだった。
そして、四人は、今後の方針をどうしたらよいか、小さなテーブルを間に、頭をくっつけ合うようにして話し合った。それは、その晩が更けるまで続き、議論は白熱していった。
結果、話が終わったのが明朝の四時過ぎになっていたが、四人の脳は、眠ることを知らず、興奮状態だった。
四人で考えた作戦は、こうである。
高松少佐は、高松宮殿下として天皇陛下に拝謁し、この経緯を申し上げる。陛下には、ことの次第を知っていただき、最終的な決断を仰がなければならない。そして、しばらくは、心に秘めていただき、漏らさぬことを約束していただく。
そして、永野修身総長に真相を伝え、第十課に結城少尉を配属させ、佐藤と結城のコンビで、世界に張り巡らせてある諜報組織から重大な情報がもたらされた…という流れで作戦部に伝え、敵の裏をかく作戦を採る。
そうなれば、実際の戦争のような大敗北にはならない。そして、計画通り、アメリカ軍に大損害を与えて講和に持ち込む。
一方、外務省に働きかけて世界中に向けて、アメリカの汚いやり口を宣伝し、アメリカ世論を混乱させるのだ。あの、ハル・ノート一枚でさえ、相当効果的な宣伝になるはずなのだ。
とにかく、今できることは、最善の方策を講じるしか方法がない。
私は、そう考えた。
今の私は、研究者ではなく、若いが大日本帝国の海軍士官なのだ。
未来から突然現れた人間ではない。
元々、この時代に生きた一人の日本人として、悲劇を防ぎたい気持ちはだれにも負けなかった。
私が東京で山本長官からの命令を遂行している間に、連合艦隊司令部の大幅改造人事が行われていた。当然、私の連合艦隊戦務参謀補助員の役職も解かれ、軍令部付が新たに発令されたのだ。
連合艦隊司令長官には、山本大将の二期下の古賀峰一大将が就任した。
山本長官と同じ親米派の司令長官だったが、伊藤次長と相談して、この秘密事項は伝えないことになった。
それは、私が、
「古賀長官初め連合艦隊司令部は、飛行艇で移動中に台風に遭遇し、遭難します。そして、古賀長官は、行方不明となりますので、実際に指揮を執ることはできません。その上、二番機がフィリピン沖に不時着し、機密暗号の入った鞄がゲリラの手に落ちますから、すぐにでも暗号を改める必要があります」
「福留参謀長は、これを認めませんが、既に暗号は、アメリカ海軍に筒抜けだと思って下さい…」
と言ったからである。
しかし、軍令部の第十課としても、新暗号はほぼ出来ているが、それを各部隊に届けるとなると、半年近くはかかることになる。それでも、伊藤次長の命令を受けた十課長の安西秋雄大佐は、
「山本長官の撃墜も、おそらく暗号の解読が原因でしょう。わかりました。すぐに取りかかります」
そう言って、作業を開始してくれていた。
私は、おそらく、この十課に配属になり、これまでの知識を生かすことになるだろう。しかし、いずれ、この秘密も公になる日が来る。その日までに、何とか手を打たなければ…。
その思いが、私をこの時代に向かわせたのだ。
この安西課長とは、戦後も縁があり、私が近現代史の教授として研究が出来たのも、この安西課長のお陰だった。
予想通り、数日後、私の「軍令部第四部 第十課員を命ず」の辞令が安西課長から手渡された。
安西課長は大佐で、私なんかより二十期近く先輩だったが、京都帝国大学で数学や物理を学んだ暗号のスペシャリストだった。その頭脳は数学者や物理学者を凌駕するほどの能力を持ち、軍人としても情報士官として、駆逐艦や巡洋艦の通信長を務めたキャリアがあった。
この十課には、予備学生出身者も多く、やはり東京帝国大学や京都帝国大学などで物理か数学を学んできた士官が十人ほどが勤務していた。それぞれが、天才肌の集まりである。
私も、兵学校時代は、物理や数学でもほぼトップを維持していたが、彼らは、それに匹敵する頭脳を持っていた。
兵学校出の士官は、私を含めて四人で、それぞれが各班の班長を務めていたが、私は、第三班の「解析班」に席を得た。班長は、高安輝時少佐である。
班員は、五名ですべて予備学生出身の大尉であった。
高安少佐は、私のことを知っていたらしく、
「やあ、君が結城少尉か?」
「君は、雑誌や新聞等にも取り上げられ、兵学校生徒というと、君の写真や動画が使われていたんでな…。みんな知っているよ」
確かに、開戦当時、随分カメラマンや取材陣がやってきて、兵学校生徒の一日を追ったニュース映像や写真を撮っていったが、兵学校でも、先任伍長の分隊に頼むしかなかったのだろう。佐藤監事が、私のところにやってきて、
「結城伍長。君の第一分隊に頼むしかないな…」
と、取材責任者を連れて来られたことを覚えている。
私は、その後のことはよく知らないが、母親からも時々手紙等で、
「おまえの姿をニュース映画で見た」とか、「雑誌に載っていた」などとの報せが来ていたので、顔が知られていたのは間違いない。
そのためか、班員の大尉たちも快く迎えてくれたし、ここには、他にも五人のタイピストの女性がいるのに驚いた。
軍隊の組織に女性がいるとは思わなかったが、すべて身元のしっかりした女子大出の専門職で、英語やドイツ語、中国語などが堪能な人たちばかりだった。
私も英語やドイツ語は大体マスターしていたが、軍令部で働くには、何かしらの卓越した能力が必要だったのだ。しかし、それでも、我々の秘密を明かすことはなかった。ただ、安西課長は、何となく気づいていたようだったが、それを聞くほど野暮な人でないことはわかった。
私は、高安少佐と安西大佐から次長や総長への連絡係を仰せつかったので、何かと次長室や総長室に出入りすることが多くなったが、秘密の会合をするときは、高松大佐から許可を取り、皇族専用室を使わせてもらっていたのだ。
ここは、出入りが非常に厳しく、海軍省内では高松大佐の専用室のようになっていた。
それから、ひと月が経過したころ、高松大佐から呼び出しがあり、永野総長、伊藤次長と共に、連絡将校として私が皇族専用室に入った。
高松大佐は、
「ようやく許可が下りて、昨日、陛下に拝謁し、山本長官からの書簡を内密に読んでいただいた…」
「陛下は驚いていたが、考えてみれば、おかしなことばかりだった…と呟かれ、大変だが、日本のために働いて欲しい…というお言葉を戴いた」
「但し、これは、飽くまで海軍としての動きでしかない。万が一のときは、すまないが皇室に類が及ばぬよう、善処してもらいたい…」
「よろしいな」
私にとっても、それは当然のことである。
それで、自分が死ぬことになろうとも、それは、軍人としての務めを全うしただけのことであり、秘密任務を与えられたことに感動すら覚えていたのだ。
こうして、態勢を整えると、次の計画を見直す作業に取りかからなければならなかった。
そして、私は、いくつかの提案をレポートにまとめて伊藤次長に手渡したのだった。それには、いくつかの事実に基づいた案を書いておいた。
一 戦線の縮小・絶対国防圏の構築
㈠ アメリカ海軍は、太平洋の島伝いに北上し、日本近海に迫ってくる。
㈡ 数百隻にも及ぶ大艦隊で日本軍が守る島を砲撃及び空襲を加えて日本軍陣地を破壊。数千規模 の海兵隊が一斉に上陸。結果、二週間程度で日本軍守備隊は壊滅する。よって、水際作戦は不 可能なり。地下壕を掘り、交通路を確保することが重要である。
㈢ アメリカは、その工業力を使って、数日後には、簡易的な滑走路を完成。艦載機を離着陸さ せ、制空権を確保する。本格的な工事は、制空権を確保後、進められる。よって、奪還は事実 上不可能なり。
㈣ 敵潜水艦部隊による交通遮断作戦が行われ、日本の輸送船は次々に沈められるため、日本の各 島々への輸送は事実上不可能。
㈤ 最小限の絶対国防圏は、敵戦闘機の航続距離外にあるサイパン島以北を守備することにある。 サイパン島を守り切れば、敵機の本土空襲は事実上、不可能なり。
二 絶対国防圏死守のための一大決戦の実施
㈠ サイパン島、グアム島、テニアン島の要塞化を徹底的に進め、水際作戦を放棄し、地下壕によ る持久作戦が必要である。
㈡ サイパン島等の奪還に来襲する敵艦隊を連合艦隊の総力で迎え撃ち、できる限り近距離まで接 近し、相打ち覚悟でこれを相当なまでに撃破することが重要である。
㈢ サイパン島、グアム島、テニアン島の航空基地を充実し、地下滑走路、地下格納庫群を整備 し、保有機数を確保。できる限り制空権を維持する必要あり。
㈣ 潜水艦部隊を遊弋させ、単艦にて自由攻撃を許可し、できる限り敵輸送船を沈めることに専 念。敵の交通路遮断を行うことが重要なり。
三 講和に向けた宣伝戦の開始
㈠ ヨーロッパの中立国に働きかけ、ハル・ノートを初め、日本が被ったアメリカの謀略の数々を 暴く記事を新聞等に掲載させる。
㈡ ハル・ノートの全文を各国の新聞紙上の掲載し、短波放送を通して、総理大臣及び外務大臣が アメリカの非を世界中に訴える。
㈢ アメリカが密かに原子爆弾の製造を始めたことを暴き、非人道的な攻撃を企てていることの非 を責める。
㈣ アメリカ政府内に大統領を初め、多くの共産主義者及びソ連のスパイが暗躍していることを公 表する。
㈤ 大統領ルーズベルトがソ連のスターリンと密約を交わしていることを暴く。
などを書いておいた。
詳細は書けなかったが、聞かれれば、いつでも答える用意はしてあった。
この内容のレポートを伊藤次長に手渡すと、次長は驚きのあまり、しばらく口を開かなかった。
軍令部の次長室に数分間の沈黙が流れた。
しばらくすると、伊藤次長がフーッと大きく深呼吸をするように肺の中の空気を外に吐き出した。そして、
「な、なんと…。結城少尉には、ここまでのことを見通していたのか…」
そう言うなり、佐藤少佐を電話で呼び出すと、三人で細部を確認し合った。
二人は、私に次々と気がついた質問をぶつけてきた。
佐藤少佐は、
「アメリカ軍は、そんなに早く滑走路の整備ができるのか?」
そう尋ねるので、
「はい。米軍は、薄い蜂の巣状の鉄板をクルクルと巻いて輸送船で運んでくるのです。そして、それを陸揚げして、ブルドーザーでならした土の上に載せれば、簡易滑走路が出来上がる仕組みです。ブルドーザーでの整地に一日、鉄板を敷く作業に一日で出来上がります。この程度でも、戦闘機なら問題なく離着陸できますから、制空権の確保は難しくないのです」
伊藤次長は、
「アメリカ機動部隊との決戦だが、小沢治三郎中将は、アウト・レンジ作戦を考えている。これなら、航続距離の長い日本の攻撃機は、有利ではないか?」
「それを、なぜ、敵艦隊にできるだけ接近する必要があるのだ…?」
それは、用兵を考える次長としては当然の疑問だった。
私は、それにこう答えた。
「史実では、アウト・レンジ作戦は、悉く失敗します。なぜなら、敵艦隊には、既に優秀なレーダーが装備され、こちらの攻撃隊が発進した直後から、その動きを捕捉されておりました」
「その上、日本の攻撃隊は、技量未熟な者が多く、長距離飛行は難しかったのです」
「敵機動部隊に接近するや否や、上空に待ち構えていた敵戦闘機に悉く撃墜され、マリアナの七面鳥狩り…とまで揶揄されるほどの大惨敗を喫したのです」
「そのために、サイパン島は失陥し、絶対国防圏は脆くも崩れ去りました」 「それに、今更、日本にアメリカが保有する優秀なレーダーを装備する力はありません。勝てないまでも負けない戦をするには、差し違える覚悟で、ギリギリまで敵に近づき、一気に攻撃をかけることしかありません…」
「もう、真珠湾攻撃のような完勝は、あり得ないのです!」
そう言うと、二人とも黙ってしまった。
私も強く言い過ぎたか…と思ったが、いずれわかることだ…と、自分に言い聞かせるように言葉を放った。
すると、伊藤次長は、
「ようくわかった。小沢中将には、私から話そう…」
今度は、佐藤少佐が、
「それにしても、潜水艦の使い方が勿体なくはないのか…?」
「日本の潜水艦は、艦隊決戦用に建造され、訓練もそのようにされているのだがな…」
と問うので、
「日本海軍の潜水艦の使い方は、間違っていたのです。もう、短期決戦はありませんし、敵のソナーの性能が以前に比べて飛躍的に向上し、発見される確率は、十年前の倍以上に高まっています。その上、日本は、潜水艦を計画通りに運用しようとし過ぎます。暗号を解読したアメリカ海軍は、日本の潜水艦の攻撃予定地点を予測し、待ち伏せしています」
「潜水艦は、あのドイツ海軍のUボートのように、輸送船を主に攻撃するように発想を転換し、敵の物資や兵員を海の藻屑とすることを考えることです」
「アメリカは、人命を重んじる国です。戦う前に兵隊が次々と戦死すれば、アメリカ世論は、戦争終結を叫び出します」
「アメリカだって、物資や人員が無尽蔵にあるわけではないのです」
「幸い、日本の潜水艦の性能や艦長の能力は卓越しています。酸素魚雷も未だに有効な武器となり得ます」
「これは、言いにくいことですが、次長、体当たり攻撃の特攻隊編制を安易に採用してはなりません。これを繰り返せば、将兵の士気は落ち、効果的な作戦が採用されなくなります。結果、日本は間違いなく滅びます」
「史実では、潜水艦に回天という体当たり用人間魚雷を乗せて出撃しましたが、わかっている戦果は、わずか一隻の駆逐艦の撃沈のみです…。そんな余計な兵器を乗せれば、潜水艦の行動に制限を加えます」
「潜水艦には、潜水艦らしい戦い方があるのですよ!」
もう、二人から反論の言葉は何も出てこなかった。それくらい、私の話を、衝撃をもって受け止めるしかなかったのだ。
この話は、どれもが、戦後明らかにされてきた内容ばかりで、もし、これが昭和十九年前半までに実施されれば、アメリカは、日本との講和を考えないわけにはいかないことが私にはわかっていた。
なぜなら、あの「ハル・ノート」が日本政府に正式に提出されたことは、アメリカ国民のみならず、アメリカ連邦議会さえも知らぬ事であり、そのひとつを挙げても、アメリカ政府の謀略を国民や世界に知らしめることになるのだ。
当時の日本には、情報戦という意識がなく、常に武士道という世界でものを考えていたために、アメリカ政府の謀略に易々と引っ掛かった甘さが見られた。
私は、このすべてが可能だとは考えてはいなかったが、海軍には、やはり「原子爆弾により二十万人が一瞬で死ぬ!」という話と「帝都東京が大空襲に見舞われる…」という話は、非常に効果的だった。そして、昭和二十年の半年だけでも約二百万人の国民が死ぬという事実は、陛下を驚かせたに違いない。
私は、その事実を示すことで、本気で歴史を変えようと考えていたのだった。しかし、反面、歴史を歪めようとしている者として、何らかの天罰が自分に下ることも覚悟していた。
それでも、日本の未来を知る唯一の日本人として、為すべきことを為さねばと考えていたことも間違いない。
第五章 マリアナ沖海戦
伊藤次長は、私の提案を受け入れ、各方面への根回しに尽力してくれたが、さすがに「未来から来た人間の言葉だ…」とは言えず、各指揮官への説得は難しかったようだ。しかし、海軍の作戦を考えるのは、軍令部なのだ。
その軍令部の次長と総長の決裁印なしに作戦を実行することはできなかった。
なぜなら、開戦時に連合艦隊司令部が、軍令部の頭越しにハワイ作戦を立案し、力ずくで計画を実行したことでアメリカ世論の怒りを買い、こうした事態を招いたことは、軍令部としても忸怩たる思いがあった。
永野総長なども、しきりに、
「やはり、組織として秩序を重んじなければならん!」
と言うようになり、軍令部が作戦の総指揮を執ることを改めて全軍に通達したところだった。
責任者の二人が、決裁印を押さない作戦を、たとえ作戦課長といえども無理強いは出来ない。そこで、伊藤次長は、「自分のプランだ…」と主張して、私のレポートを基に、「伊藤案」を作成したのだった。
昭和十八年中には、この案が軍令部案として採用され、高松大佐を通して天皇陛下にも内容が伝えられたと聞く。
この瞬間から、日本海軍は、その方針を大きく転換することになった。
密かに「特別攻撃案」を考えていた参謀たちは更迭され、現地指揮官として最前線に立つことになった。
真珠湾攻撃の立案者の黒島参謀や源田参謀などは、サイパン島やグアム守備隊の現地指揮官として寂しく海軍省から去って行った。それでも、彼らは実地にマリアナ沖海戦とサイパン戦を経験したことで、如何に自分たちの作戦が愚かな案であったかを思い知ることになる。
伊藤次長は、民間の科学者も動員して、新式レーダーの開発に重点を置き、軍艦の建造を止めてまで予算を新型レーダーの開発に回した。そのため、実際の歴史より半年は早く、最新式のレーダーが戦艦大和や武蔵に配備されることになった。
この両艦は、建造物としては一番高く、艦内の電信班も充実していたため、それぞれが機動部隊に随伴し、旗艦として活躍することになった。それに、希に見る巨艦のために目標になりやすく、敵は、空母より先にこちらに攻撃の矛先が向くと考えていたのだ。
要するに「囮」として、大和と武蔵を使おう…などという大胆な構想は、伊藤次長らしいものだった。
その代わり、両艦には、最新式の防空システムを装備し、レーダー以外にも対空用の三連装機銃や三式弾などが積み込まれ、防空体制に万全を期すことになった。
潜水艦部隊には、「自由攻撃」が発令され、軍令部から、
「燃料の続く限り、艦長の判断により攻撃目標は自由とする」
との命が下された。
この発令は、潜水艦乗組員全員が歓喜したという。
そして、方面だけを命じられた各艦は、飛躍的に輸送船の撃沈を重ねていったのである。
歴戦の艦長たちは、「ヒット・エンド・ラン作戦」と称して、輸送船を発見次第、酸素魚雷を発射し、撃つなり、退避行動に移ったため、敵の駆逐艦は、日本の潜水艦の捕捉ができなかった。
艦長たちからは、「戦果確認ができない」という苦情が寄せられたが、それは、潜水艦用のレーダーを随時装備したことで解決することができた。
こうした潜水艦部隊の活躍は、アメリカ海軍の輸送を困難なものにしただけでなく、敵は、相当数の駆逐艦を輸送船の護衛に割かなければならず、そうなると、艦隊の護衛部隊が手薄になるという悪循環をもたらす結果となったのだ。
また、暗号も軍令部の十課の安西課長たちの必死の努力で開発した「レッド」が、各部隊に配付されたことで、アメリカの暗号解読班も、これまでの「パープル」とは組み合わせがまったく異なる仕組みに手を焼くことになった。
暗号は、海軍のものよりも陸軍の方が先んじており、伊藤次長が陸軍に頭を下げて、その情報の共有化ができた。
外務省も一緒になって暗号開発に努めたため、アメリカ軍は、終戦まで、完全に暗号を解読することはできなかった。
こうして、南太平洋上において小競り合いが続く中で、準備が着々と進み、決戦の日を迎えようとしていた。
私は、自分の手で未来を変えることになる責任を痛感していた。
「本当に、これでよかったのか?」
「歴史を勝手に変える権利が、私にはあるのか?」
そう思いながらも、何とか、多くの日本の人々の命を救いたかったのも事実だった。
あの広島、長崎の悲劇は起こさせてはならない…。その思いは、研究者だからこそ、切実に思うのかも知れなかった。
私たちは、何度も広島、長崎に足を運び、資料館の秘蔵資料にも目を通した。アメリカの資料館にも飛び、当時の作戦計画を知ることができた。その中で、どれだけ惨たらしい事実が眼に飛び込んできたか…。それは、アメリカ人の研究者でさえ、目を覆いたくなるような現実があった。
あるアメリカ人の女性研究者は、その場に立ち竦み、
「なんてこと…。私の祖国がこんな酷いことをするなんて…」
と絶句し、数日間宿舎に籠もっていたことがあった。
それを私たち日本人チームが、
「でも、現実を知らなければ、また、次の広島、長崎の悲劇が起こるんだよ…」
と励まし、泣きながら資料の整理をしたことがあった。
それを思い出すと、何とか、このマリアナ沖決戦で終戦に持ち込みたかったのだ。
私は、思い切って伊藤次長に転属願いを提出した。
私は、未来を知る者ではあったが、一人の海軍士官だった。戦友たちが戦っているのに、私一人が、ここにいるわけにはいかなかった。
私の同期生には、あの回天の創始者である仁科関男もいるのだ。大和で死んだ臼淵巌もいる。ここで戦争を終わらせれば、彼らは死なずにすむのだ。
そう考えると、私の決心は固かった。
伊藤次長は、最初は、躊躇ったが、
「わかった。結城中尉の立場なら、私もそうしただろう…」
「君も、未来を知る者かも知れないが、ここでは、一人の海軍軍人だ」
「よかろう、改めて発令することにする…」
「世話になった…」
それから、数日後に、私に転属命令が下された。
それは、軍艦「筑摩」への転属だった。
軍艦「筑摩」は、昭和十三年進水の新鋭の重巡洋艦として、真珠湾以来、機動部隊と共に行動してきた護衛艦である。
私は、そこの高射長兼第三分隊長として発令されることになった。元々、砲術を勉強しようとしていたところが、妙なことから連合艦隊司令部や軍令部で勤務してきたが、ここに至って、いても立ってもいられない…といった心境で、筑摩に乗り込んだ。
艦長は、歴戦の則満大佐で、着任するなり声をかけられた。
「やあ、君が、七十一期クラスヘッドの結城中尉か?」
「軍令部では、随分活躍されたそうじゃないか」
「今回の一大決戦を伊藤中将に提案したのは、実は、君じゃないか…という噂がある」
「ここでは、高射長として機銃分隊の指揮を頼むつもりだが、困ったら君の頭脳を借りることにするよ…」
そう言って、艦橋に戻っていった。
何か、品定めをされたようで気分はよくなかったが、これからの一大決戦を控えて、着任早々、慌ただしく動き回ることになった。
昭和十九年六月十五日。
アメリカ海軍の砲撃から、サイパン戦が始められた。
私がレポートに書いたように、アメリカ軍は、まずは、海上から島の形がなくなるくらいまで砲弾を島全体に撃ち込み、艦載機で、残された木々を焼き払った。地上に出ている者は、すべて砲弾の雨に晒され、生き残る者はいなかった。
緑に覆われた島は、焦土と化し、どこにも身を隠す場所がないまでに砲撃と空襲は続けられたのだった。しかし、日本軍守備隊は、地下壕に潜り続け、その砲爆撃に耐えた。
爆撃は、一見攻撃側に有利に見えるが、敵を捕捉できないという問題点があった。もし、この島が無人であったら、大量の爆弾も火薬も無駄になるということである。そして、攻撃側にとって、「これほどの爆撃を加えたのだから、もう、日本軍の抵抗はないだろう…」という希望的な観測が流れることである。
正直、敵前上陸をする予定の海兵隊の将兵には、そうした楽観的な観測情報が広がっていたのだ。
サイパン島攻撃部隊のホーランド・スミス陸軍中将は、「二週間で陥落させてみせる!」と豪語したが、とんでもない。ひと月が経っても日本軍の頑強な抵抗は続いたのだった。
そして、司令官の楽観発言は、将兵にも伝わり、それが、いつの間にか慢心になった。しかし、それは、敵から反撃されたとき、その恐怖心は何倍にも増して自分に襲いかかるのだ。
このサイパン戦でも、それは起きた。
三日にわたる砲爆撃は、轟音と共に、地上の建造物や森林を焼き尽くした。その焦土の上に、上陸用舟艇が数百隻という数で海岸に押し寄せたのだ。
しかし、日本軍の抵抗は、ピストル音ひとつも響くことなく、アメリカ軍の第一陣の上陸部隊一万は、悠々と海岸線に辿り着き、上陸を開始すると共に、手近な場所に橋頭堡を築いていった。
そして、戦車が揚陸され、内陸部へと戦車が進軍し始めたそのときである。
地下通路から這い出た日本兵は、対戦車砲百門に砲弾を装着すると、一斉に敵戦車めがけて攻撃が開始された。
余裕の体で、日本兵に背中を見せたアメリカ戦車部隊は、日本軍の一斉射撃により、一時間ももたないうちに、全車両数百台が、鉄のスクラップと化した。
アメリカ兵は、その攻撃が、嘘か冗談のように思えたのだろう。兵隊は、戦車の後ろで呆然と立ち尽くすだけで、反撃の準備すらできないまま、その頭を日本兵の撃つ小銃弾によって貫通させられ、バタバタと倒れていったのである。
そして、そこに、頭だけ出した日本の戦車部隊の砲弾が雨霰と降り注いだ。
このわずか一時間程度の戦闘で、上陸した一万ものアメリカ兵のほとんどが、死ぬか負傷して横たわるしかなかった。
アメリカ兵にとって、遮蔽物を探そうにも、自分たちの砲爆撃によって、遮蔽物になるような物はすべて吹き飛ばされており、地下のあちらこちらからモグラのように湧き出てくる日本兵に翻弄され、サイパン戦の初戦は、日本軍の完勝であった。
日本軍は、絶対国防圏を中部太平洋と定め、その拠点をサイパン島に置いた。史実では、サイパン島は、水際作戦によって数日間でその主力を失い、わずか三週間足らずで玉砕することになるが、私の提案を受けた伊藤次長案に則った日本軍は、一年をかけて地下壕を掘り進め、島全体が地下通路で連絡ができるまでになっていたのだ。
このサイパン島を巡る戦いは、ひと月が過ぎても島が陥落することはなかった。それ以上に、アメリカ兵の負傷者が増大し、さすがの海兵隊員たちにも焦りと恐怖の色が出始めていた。
なぜなら、投入される兵士の多くが負傷し、焦土にその血塗れの体を横たえ、収容されない遺体を見ることになるからだった。
日本軍は、確かに優勢ではあったが、内部では、南国特有の暑さと湿気で兵士の体は弱っていった。その上、地下壕のために空気は汚れ、汚物もそのまま放置されるまでになっていた。
海軍司令部壕では、真珠湾攻撃を指揮した南雲忠一中将が指揮を執っていたが、南雲中将は、ずっと死に場所を求めていたという。
南雲は、
「あんな攻撃をしなければ、こんなことにはならなかったんだ…」
「俺が、もっと反対しておれば…」
と後悔の言葉を口にしていたそうだ。それでも、南雲が託した小沢治三郎中将率いる機動部隊が必ず来ることを信じていた。それだけが、サイパン島守備隊将兵の願いでもあったのだ。
そして、戦いがひと月半を迎えようとしていたときである。
南雲長官のいる海軍司令部壕に一本の暗号電文が届けられた。
それには、
「新高山登れ、一九〇〇」
とあった。
本当に短い電波が二三回送られてきただけだったが、司令部壕の通信班は、それを確実にキャッチした。新暗号文で送られたので、アメリカ軍が解読するには、少し手間がかかるだろう。
南雲は、これを手渡されてすぐに理解し、命令を発した。
「明朝七時 総攻撃を決行する。全軍に伝えよ!」
すると、電話で斎藤陸軍中将から問い合わせの連絡が来た。
「長官、総攻撃とはどういう意味ですか?」
すると、南雲は、
「斎藤さん。これは、艦隊決戦が行われるので、陸上部隊も呼応して敵を海に追い落とせ…という極秘命令です!」
「新高山は、真珠湾攻撃時に発せられた攻撃命令を指します!」
「そして、一九〇〇は、午後七時。海軍では、暗号でも最後は逆に読むよう指導されております。そうなると、午後七時は午前七時です」
「微弱電波のため、数回の通信ではありますが、間違いなく軍令部から発信されたものです」
「斎藤さん。これは、千載一遇の好機です。もし、この決戦に勝利すれば、上陸部隊は、一気に日本の空と海からの攻撃に晒されます。そこに陸が加われば、サイパン島は守り切れるのですぞ!」
南雲は怒鳴るように、斎藤司令官に伝えると、斎藤中将は、
「南雲さん。よくわかりました。今、こちらでもその電波は確認できました。陸軍部隊も午前七時をもって総攻撃に入ります!」
こうして、サイパン島での日本軍の総攻撃は、日本機動部隊のアメリカ艦隊との決戦時刻に合わせることになった。
こうなると、機動部隊が是が非でも勝たなければ、サイパン島は陥落し、ここに日本の敗戦が決定づけられることになる。
昭和十九年八月一日、午前七時。
アメリカ軍のサイパン島攻撃艦艇が一斉に慌ただしい動きを見せ始めた。
日本軍の総攻撃開始の報せが入ってきたと同時に、日本海軍の大規模な艦隊がマリアナ沖に出現したことが報告されたからである。
アメリカ海軍は、その情報網を駆使して日本海軍の動向を探っており、サイパン島に日本海軍が出てくることは予測していたが、暗号解読に手間取り、日時の指定が出来ずにいたのだった。
そこに、航空母艦九隻、戦艦六隻、重巡洋艦十二隻、軽巡洋艦三隻、駆逐艦三十隻、そして、伊号型潜水艦十五隻が加わっていた。
潜水艦部隊は、もちろん、自由攻撃のため、どこの潜んでいるかは、日本海軍も把握していなかった。彼らの自由行動は、ここまでに百隻以上の輸送船や駆逐艦などを撃沈しており、ドイツのUボートと並んでアメリカ海軍の脅威となっていた。
日本の機動部隊は、新型空母大鳳、瑞鶴、翔鶴を中心とした輪形陣を組み、すぐに攻撃されない程度の距離を保っていたため、アメリカ海軍は、すべての機動部隊を把握するには、相当の時間が必要だった。
各機動部隊には、補助空母二隻を随伴させており、一隻は、直掩用の戦闘機が配備され、上空からの攻撃に対応できるようにされていた。
戦艦大和、武蔵、長門は、それぞれの機動部隊の前衛に位置し、その火力と改造された新型の三式弾(空中散弾)が戦艦用の徹甲弾の倍以上が積まれていた。つまり、戦艦部隊は、すべて空母の護衛艦としての役割を与えられたのだった。
日本の機動部隊発見の報が入ると、アメリカの機動部隊は、航空母艦十五隻を大きな輪形陣の中に囲い、マリアナ沖の決戦場を目指していた。
こうなると、サイパン島沖の戦艦群もそちらの掩護に回るしかない。こんなところで、停泊していれば、日本軍機の餌食になるのは必定だったからである。
そうなると、サイパン島守備隊は、空襲の怖れがなく、上陸部隊だけを目標に突撃することが出来ることになった。
〇七〇〇。
日本の陸軍部隊も海軍部隊も、その日のために残してあった弾薬を持ち、次々と地下から地上へと踊り出し、アメリカ兵に銃弾と砲弾の雨を降らせた。
後方の支援を失ったアメリカ兵たちは、次々と日本兵に撃たれ、その場に倒れていった。まさか、日本軍に敗れるとは、だれもが考えていなかった一瞬だった。
一回、怖れを抱くと人間は脆い。
どんな場数を踏んだ歴戦の勇者であっても、恐怖に勝てる術はない。
大きなアメリカ兵たちは、泣き叫びながら銃を放棄し、海へと逃げていった。しかし、そこに、日本軍戦車の砲弾が落ちるのである。
ずっと地下に潜っていた日本の中戦車部隊が地上に顔を出し、思い切り、持てるだけの砲弾を海岸線に撃ち込んだ。
それは、日本軍による一方的な殺戮となった。
数時間の戦いの後、数十名の捕虜を残し、数千にはいたはずのアメリカ兵は、悉く倒され、または、海の中で溺死した。
海岸線はアメリカ兵の流した血で真っ赤に染まった。それは、世界最強と謳われたアメリカ海兵隊の完敗した瞬間だった。
そして、数隻残ったアメリカの艦艇は、今度は、逃げる間もなく日本海軍の標的として、駆逐艦隊による魚雷攻撃を受け、サイパン沖にその残骸を残した。
機動部隊を率いる小沢治三郎中将は、伊藤次長の案を受け入れ、持論であったアウト・レンジ戦法を棄て、我武者羅に敵機動部隊と差し違える作戦を採用したのだ。
大和と武蔵に高性能レーダーを装備したことにより、敵機動部隊の発見は、アメリカ軍よりも早かったが、小沢は攻撃命令を出すタイミングを見計らっていた。それは、じっと耐える時間だった。そして、思い切り距離を縮めると、「全軍、アメリカ機動部隊に突っ込め!」
と命じた。
その声に反応して、航空参謀が、伝声管に向かって大声を出した。
「全機、発艦せよ!」
その命令と同時に、各空母から待機していた攻撃隊が次々と発艦していった。そして、その多くは二度と母艦に戻ることはなかった。
これに勇気を得た各艦は、
「ようし、敵艦と差し違えてやる!」
とばかりに、闘志を掻き立ててボイラーを焚きまくった。
そのためか、特に駆逐艦隊は、その高速を生かして前衛に飛び出し、敵駆逐艦隊を発見したのだった。
そのころになると、当然、アメリカ軍も日本の三つの機動部隊を発見し、次々と攻撃隊を発進させていた。
航空母艦十五隻から発進する攻撃機は、数百機に及び、空は、真っ黒な編隊で覆われていった。
戦いは、長くは続かなかった。
我が攻撃隊が発艦して三十分もすると、敵の大編隊が現れ、まずは、戦艦群の三式弾が火を噴いた。
そして、前衛にいる大和や武蔵などの戦艦群に突っ込む敵機の姿が見えた。
小沢は、
「よし、敵機の前衛は、戦艦に気を取られた。次は、直掩隊だ。頼むぞ!」
敵機発見の報せと同時に待機していた数十機の直掩の零戦隊が満を持して舞い上がっていった。
敵は手当たり次第である。
それぞれが、与えられた自分の任務を全うして戦うのみであった。
もう、機動部隊の上空は、敵味方の飛行機が入り乱れ、次々と火を噴いた。
墜ちていくのが友軍機なのか、敵機なのか見分けがつかなかった。
その間隙を縫って、敵の雷撃機や急降下爆撃機が降ってくるのである。
機動部隊もその輪形陣を崩しながら、敵機の魚雷や爆弾を回避していく。
その中で、戦艦群の戦いは壮烈を極めた。
特に大和と武蔵は、敵の目標となり、次々と爆弾と魚雷を受けた。
機銃群も必死の攻撃を続けたが、両艦には、十発以上の爆弾や魚雷が命中し、満身創痍の中で抵抗を続けていたが、その戦いはけっして無駄ではなかった。
そのころ、日本の攻撃隊も敵の機動部隊に辿り着き、猛烈な攻撃を開始していたのだ。そして、その多くは、投弾する間もなく敵艦に体当たりをしていった。
おそらく、予科練出の若く未熟な搭乗員が、自分の技量では爆弾を当てられないことを悟り、そのまま突っ込んで行ったのだろう。
それは、彼らが祖国を守りたい一心で決めた行動であり、特攻などという命令で行った攻撃ではなかった。
アメリカの防衛体制は堅固で、レーダー射撃も行い、次々と日本軍機に火を噴かせたが、その多くは、回避行動をとらずに火の玉となって突っ込んでくるため、アメリカ兵たちを恐怖のどん底に陥れていた。
いくら機銃弾を撃ち込んで、火を噴かせても、どんどん、こちらに向かって来るのである。
ある攻撃機は、片翼を吹き飛ばされても海に落ちまいと必死の操作を行い、若い兵の目前まで辿り着き、体当たり寸前で海中に没したが、若いアメリカ兵は、はっきりと操縦桿を握る日本のパイロットの姿を見た。
白い鉢巻きを締め、瞬きもせずに突っ込んで来る日本兵と一瞬、目が合った。それは、怖ろしいというよりも神々しい姿に映ったという。
「俺たちは、どんな敵と戦っているんだ…?」
そんな感情が、アメリカ兵たちに湧き上がってきた。それは、指揮官である将校たちも同じであった。
そんな怖ろしい戦いが一時間ばかり続いたが、その後にも恐怖の時間が続くことになった。
日本軍機は、そのほとんどが海中に没し、帰還できた攻撃機は数えるほどだった。中には、投弾成功後も還ろうとはせず、そのまま反転して敵艦の艦橋目がけて突っ込んでいった飛行機もあった。
日本軍全員が、「この戦いが、最期の戦いになる」と信じた結果だった。
潜水艦部隊も、敵の輪形陣の中に入り込み、次々と魚雷を発射し、海底から攻撃に加わっていた。
アメリカ軍の駆逐艦は、高性能ソナーを駆使して爆雷攻撃を浴びせ、数隻の潜水艦を撃沈したが、退避できないと悟った伊号潜水艦の艦長たちは、浮上したまま、駆逐艦や巡洋艦に体当たりする艦もあった。
そのとき、わずか一門の砲が火を噴いていたという記録がある。おそらく、砲術科の兵隊が、自分の持ち場で死にたいと艦長に申し出て、浮上と同時に甲板に出たに違いない。これも、彼らが少しでも祖国を守りたいと願う行動であったのだろう。
こうして、夜になるまで、日本の潜水艦に翻弄されたアメリカ機動部隊は、そのほとんどの艦艇が損害を与えられ、オーストラリア方面に退避するしかなかったのである。
そして、私の運命もここに定まることになった。
第六章 軍艦筑摩
「対空戦闘、用意!」
伝声管を通して、対空射撃準備命令が出された。
既に瑞鶴の護衛に当たっていた戦艦武蔵の影はなく、この重巡洋艦「筑摩」にも最期の時が迫っていた。
私が配属された重巡洋艦筑摩は、空母瑞鶴を護衛する重巡洋艦として、武蔵野後方に位置していたのだ。
瑞鶴は、搭載していた航空機のすべてを発艦させ、既に空船になっていた。そこに、アメリカ軍機が殺到したが、輪形陣部隊の活躍により外側前方に位置していた武蔵に攻撃が集中したのだ。しかし、その武蔵が傷つくと、瑞鶴に攻撃が移った。
瑞鶴艦長、貝塚勲大佐は、乗艦していた小沢治三郎中将を退避させると、覚悟を決めたように、そのまま瑞鶴に残った。最後の兵が救助艇に移ると、傾いた甲板上で、退避した部下たちに一人敬礼すると、そのまま沈み行く艦内に戻っていった。
連合艦隊最後の決戦場になったマリアナ沖は、日本が絶対国防圏と定めたサイパン島やグアム島のある海域で、パラオ諸島やオーストラリアにも近かった。
そして、連合艦隊司令長官に就任した豊田副武大将が軍令部の作戦計画に則って「あ号作戦」を発令したのだった。
私が指摘したように、山本長官の戦死後、その職を継いだ古賀峰一大将は、
パラオからフィリピンの移動中、暴風雨に巻き込まれ行方不明となっていた。
その報せを受けた軍令部は、伊藤次長が私を呼び出し、
「結城中尉。君が、言っていたとおりになったよ…」
「私も、古賀長官には、注意をしておいたのだが、まさか…、そのとおりになるとは…」
そう言って、まじまじと私の顔を見るのだった。
私は、
「いや、これは予言ではありません。歴史の事実なのです。私は、未来の記憶があるのですから、そうなるのは当然です…」
そう言いながら、こうも付け加えた。
「しかし、伊藤次長の案にしたがって作戦が実行されれば、歴史は変わります。つまり、未来はどうなるか、わからないということです…」
「所詮、私に出来ることは、そこまでです」
そう言うと、伊藤次長は、口を結んで、
「そうか、これからは、私の責任で戦争を終わらせるしかないのだな…」
と私の眼を見た。私は、
「そうです。これからの日本は、伊藤整一中将の双肩にかかっていますので、よろしくお願い致します…」
そう言って、退出した。
実際、歴史が変えられた以上、次の展開が私に読める筈はなかったのだ。
そして、この「あ号作戦」も名称は以前の歴史と同じだが、作戦内容はまったく違ったものになっていたのだ。
もし、このマリアナ沖決戦で日本軍、いや連合艦隊が敗れるようなことがあれば、中部太平洋の制空権、制海権を失い、日本の絶対国防圏が破られることになる。そして、いよいよ本土に敵が押し寄せることになるのだ。そうなれば、東京を初めとした都市が空襲に見舞われ、あの悪夢のような原爆投下が現実のものとなる。それだけは、何としても避けなくてはならない。それは、伊藤次長も高松大佐も、いや、陛下ご自身がそう思っていた。
未来が分かっているからこそ、それを回避するのは、日本人としての責務なのだ。
もし、歴史のまま推移すれば、それは、同時に、日本の「敗北」と「滅亡」を意味する。
日本政府と陸海軍部は、このマリアナ決戦で勝利をもぎ取り、それを以てアメリカとの和平交渉に臨まなければならない。
陛下ご自身も、「一度、大きな勝利を得た上で、講和を働きかけたい…」という発言を為されており、この「あ号作戦」の勝利こそが、日本の命運を懸けた一大作戦だった。それが、やっとここまで辿り着いたのだ。
ミッドウェイ海戦以降、反攻態勢を整えたアメリカ軍は、南太平洋から順に飛び石伝いに日本本土へと、その侵攻を早めていた。この中部太平洋のサイパン島がアメリカ軍に奪われれば、次は、フィリピン、台湾、沖縄へと続く道が見えてくる。
既に、サイパン島はひと月半にわたる攻防戦が繰り広げられ、玉砕寸前の状態にあった。それでも、持ち堪えているのは、連合艦隊がアメリカ機動部隊と決戦し、勝利すると確信しているからなのだ。
サイパン島の将兵にとって、それだけが一縷の望みだった。
そのために、約一年間にわたって地下壕を掘り、決戦に備えていたのだ。
それも、もう残された時間は、少ししかなかった。
幸いなのは、私の提案を軍令部の伊藤次長、永野総長、高松少佐が受け入れ、陛下にまで伝えてくれたことだった。それは、亡くなった山本五十六長官の意思でもあった。
山本長官は、自分がアメリカの謀略の罠に嵌められたことを自覚して、私に心の内を打ち明かしてくれた。それが、なければ、たとえ未来を知っていた人間がいたとしても、国が動くはずがない。
私は、自分の無力さを実感するとともに、山本長官の身を捨てた行動に感謝せずにはいられなかった。
だからこそ、連合艦隊は総力を挙げて、ここ、マリアナ沖に戦艦大和、武蔵他の主力艦隊を投入したのだ。そして、作戦は成功しつつあった。
日本軍の捨て身の攻撃は、数を頼みとするアメリカ機動部隊を翻弄し、互角の勝負に持ち込むことができた。
こちらへの攻撃も凄まじいが、日本の攻撃もそれ以上に違いない。
見ると、前衛艦を努めた戦艦武蔵は相当に傷つき、右舷に大きく傾きながらも敵機への攻撃を続けている。
駆逐艦隊も、敵駆逐艦隊と差し違える覚悟で突進し、魚雷攻撃をかけたはずだ。酸素魚雷の近接攻撃は、相当の戦果を挙げたことだろう。しかし、そこまで近づけば、自らの生還は期した難い。
航空部隊は、戻ってくる姿を見ていない。おそらくは、そのまま敵艦に突っ込んで行ったに違いないのだ。
間もなく、この戦いも終わる。
この後のことは、私に出番はない。
後のことは、既に伊藤次長に託してきたのだ。
そう思うと、後部防空指揮所で機銃分隊を指揮する私にも、一筋の光明を見る思いがしていた。
軍艦筑摩も、朝から数度にわたる空襲で、かなりの損害が出ていた。
戦死した者は、そのまま海に流した。水葬の儀式をやっている余裕もない。少しでも戦力にならない者は、そのまま海に帰すしかないのだ。
それは、自分も同じだった。戦えるうちは戦力だが、負傷したり戦死して戦えなければ、不要物と化すのだ。それが、戦場の現実だった。
数波の攻撃を受けて、筑摩も満身創痍だったが、これまでの攻撃は戦艦武蔵と空母瑞鶴に集中していたために、大規模な攻撃は受けなかったが、これからは違う。その武蔵が後方に置き去りにされ、瑞鶴がいないとなれば、間もなく、この筑摩が攻撃の主目標になるだろう。
それでいいのだ。
このアメリカ軍機とて、還る母艦は既にないのだ。
彼らも、やっとの思いで戦場を脱しても、母艦は傷つき、あるいは既に沈んでいるかも知れない。それは、日本の飛行兵と同じ状況にあった。そう考えれば、私も同じだ。
生死は、飽くまで戦った後の結果でしかない。
それに、この決戦の成功を信じている将兵に悲壮感はない。ただ、軍人としての責務があるだけなのだ。
せっかくなら、ありったけの銃弾を襲ってくる敵機に浴びせ、少しでも、この戦いの勝利に貢献したい…。乗員のほとんどが、そう考えていた。
私たちは、空襲の合間を縫って、握り飯を囓り、水を飲んで呼吸を整えた。
既に、敵機の攻撃により、艦上に身をさらしていた乗員に多くの戦死者を出していた。
私の分隊でも、既に三名の部下が戦死し、二人が大けがで救護所に運ばれていった。それでも、兵隊たちの戦意は衰えず、「是が非でも敵を殲滅しよう!」という言葉を胸に、次の準備を黙々と整えていた。
「もう一度、敵の艦載機がやってくるだろう…」
「取り敢えず、第二波までは防いだが、第三波、第四波と来れば、持ち堪えることは不可能に近い…」
「しかし、敵の数も減ってきている。それだけ、日本の攻撃が凄まじいのだ」
「おそらく、敵の来襲は、次で終わるはずだ…」
私は、独り言のように呟いた。そして、どんよりと曇った上空を見上げていた。もうすぐ、あの空の奥に無数の点が見えてくるはずだった。そして、そこには、決死の覚悟で突っ込んでくる敵機が、再び、この筑摩に襲いかかってくる。
すると、
「おうい、元気を出せ!」
「いいか、敵が来たら怯むな!とにかく撃て、撃ち尽くせ!」
そう叫びながら、各射撃分隊を回っているのが、副砲分隊長の右近謙二大尉だった。
私は、この分隊長をよく知っている。
兵学校は三期上の一号生徒で、私たち七十一期生徒が入校してきて以来、猛烈に殴られた先輩生徒だったからだ。
私を見かけた右近大尉は、
「おう、ヘッドの結城か?」
「戦は、勢いだ。貴様のように優秀な男は、考えすぎる…」
「いいか、余計なことは考えず、撃ちまくれ!」
「今の俺たちにできることは、それだけよ…」
「じゃあな、靖国で会おうぜ!」
そう言うと、軽く敬礼をして、去って行った。
生徒時代、私は、そんな右近が苦手だった。
勢いはあるが、考えがない。いつも、口より先に手が出る先輩だった。
しかし、今は、そんな奴の方が、戦えるのかも知れん…。
それでも、たとえ靖国神社に行っても、死んでまであの男の声は聞きたくない。
私は、形式的ながらも上官の右近大尉に軽く敬礼をして、防空用に被った鉄兜の下から、右近の後ろ姿を見送った。
そのときである。
「右上方、敵機!」
艦橋にいる見張員の絶叫が聞こえた。
それと同時に、艦内から「防空体制とれ…」と、緊迫した雰囲気とは似つかわしくない、まったりとした命令が伝声管から聞こえてきた。
「よし、いよいよ、第三波がお出でなすったか…」
私は、そう周囲の兵隊を和ませようと、やくざ言葉で励ますと、みんなが一斉に私を見た。その顔は、緊張感が走っていたが、何かを覚ったかのような穏やかな表情に見えた。
兵学校トップの私が、この緊迫の中で冗談のように「なすったか…?」に、水兵たちも驚き、「はい!」と大声で返事を返し、唇の端を少しだけ歪めて見せた。
よし、やろう…!
もう二回の攻撃で、敵の攻撃手順はわかっている。こちらの十三粍機銃も準備万端だ。
空を見上げると、第一波、二波より多い数十機の艦載機が見えた。
「なんだ、敵は、飛行機を何機持っているんだ?」
そして、近くまで来ると、各艦目がけて攻撃態勢を入るのがわかった。
その時間は、数分間という短いものだったが、待つ身としては意外と長く感じるものである。
まだか、まだか…?
軍隊である以上、勝手な射撃はできない。艦橋からの対空射撃命令が出なければ、攻撃はできないのだ。
じりじりと数秒間の時間が流れた。
すると、また、私の手元にある伝声管から命令が伝わった。
「適宜、攻撃はじめ!」
それと同時に、近くの兵隊が大声を上げた。
「敵機、急降下ああぁ…!」
私は、その絶叫に反応するかのように首を捻り右四十五度の空を見上げた。
すると、そこには、数機の急降下爆撃機が翼を翻し、こちらに全速力で向かって来る姿が見えた。
「よし、射撃はじめ!」
私が、後部機銃指揮官として命令を下したとき、艦上の対空砲火が一斉に火を吹いた。
敵機は、雷爆同時攻撃である。
それも左右両方から攻撃をかけてくる。
海面近くには、敵の雷撃機がドンドン近づいてくる。こちらからの対空機銃も激しく撃ち続けているが、それに怯む様子もない。
数機が被弾して、黒煙を吐くのが見えたが、それでもこちらに向かってくる。
敵も必死なのだ。
たとえ魚雷を投下しても、その飛行機を操ることは、もう不可能だろう。
数秒後には、死が待っているのに、敵のパイロットも怯むということを知らない。
昔、「アメリカ兵は、命を惜しむから、いざとなると逃げるさ…」と言っていた話は、まったくのデタラメだった。
アメリカ兵ほど、勇猛果敢な兵隊を見たことはなかった。
日本兵には大和魂がある…と言われてその気になっていたが、とんでもない。アメリカ兵のヤンキー魂は、日本人の大和魂どころじゃないかも知れない。
私は、墜としても墜としても突っ込んでくる敵機に驚嘆すると同時に、とんでもない敵を相手に戦争をしてしまったことに、後悔さえ覚えていた。
上空からは、数機の急降下爆撃機が、二五〇㎏爆弾を投下しようと突っ込んでくる。
既に直掩の日の丸を付けた戦闘機の姿はなく、空にあるのは、敵機の姿ばかりになっていた。制空権のない軍艦にできることは限られている。
この雷爆同時攻撃法も、日本海軍が開戦当初に真珠湾やマレー半島沖で初めて採り入れた方法だった。
それが、今では敵にそのまんまやられている。
艦は、おそらく右に転舵するはずだが、艦が大きいだけに舵の効きも遅い。
だめだ…、遅い…。
私は、指揮棒を握りしめながら、上空を凝視した。
空気を斬り裂くような敵機のエンジン音が、耳の鼓膜を揺さぶった。
もう、次の瞬間、敵機から二五〇㎏爆弾が放たれるだろう。
そして、自分の目の前に爆弾が落ちてくる。
それは、自分の死の瞬間が目の前に迫っていることを意味していた。しかし、それでも私は、それを冷静に見詰めていた。
そして、敵機から放たれた爆弾は、スローモーションのように、目の前に迫ってきた。
周囲の兵隊たちが身を屈めるのがわかった。
中尉!中尉っ…!
そんな声が遠くから聞こえてきた。
それでも私は、立ったまま、自分を殺そうとする敵の飛行機を見詰めていた…。
そのときである。
「結城中尉!」
そう言うなり、私の体に体当たりするように飛び込んで来た兵隊がいた。
と、同時に二五〇㎏爆弾が、保の機銃分隊近くに着弾した。
ドゴーン…!
その爆風は、一気のそのあたりの兵隊をなぎ倒し、鋼鉄をねじ曲げ、もの凄い熱量をもって、その周囲の人間の生命をいとも簡単に奪っていった。
爆弾が破裂したときの爆発音と猛烈な爆煙が去ったとき、右舷後部は大きく抉られ、私が指揮を執っていた後部機銃分隊の十三粍機銃座数台が、台座だけを残して、跡形もなく消え去っていた。
当然、そこいたであろう私も、分隊員二〇名程度の兵隊も、まるで神隠しに遭ったかのように煙の彼方へと消え去っていたのだ。そして、その跡に無数の肉片と血の跡だけが残されていた。
中央上部の副砲座で指揮を執っていた右近大尉が、「無事かぁ…!」と駆け寄ってきたときには、そこにいるはずの兵隊が、一瞬にして消し飛んでいたのだ。
「結城…」
呆然と見詰める右近は、血が出るまで唇を嚙んで、その悔しさに耐えた。
右近の鬼の目にも、うっすらと涙が滲んだが、それを拳でぐっと拭うと、右近は、いつもの大声で、こう叫んだ。
「後部、右舷機銃分隊、全滅!」
そして、再度、黒煙の中を走り去った。
その右近にも、私と同じような運命が間近に迫っていたのだ。
第七章 未来への帰還
敵機の急降下爆撃によって、巡洋艦筑摩の右舷後部機銃座は直撃弾を受け、兵員諸共、機銃座が跡形もなく吹き飛ばされていた。そこにさっきまでいた二十数名の兵隊の姿はなく、周辺には血や肉片が飛び散り、凄惨な状況を演出していた。
だれもが、指揮官だった私が部下と共に戦死した…と考えたとしても仕方がない状況がそこにあった。
副砲分隊の分隊長だった右近大尉も、この凄惨な状況を見ると、無念そうに唇を嚙み、さらなる戦闘に向けて残った兵隊を鼓舞して歩いていた。
その右近大尉も、その数分後の爆撃により、身に敵機の銃弾を浴びて壮烈な戦死を遂げた。
制空権を持たない艦隊が、航空機の攻撃を受ければ、どんな頑丈な装甲を施すとも結果は見えていた。
なぜなら、そこで戦うのは所詮、生身の人間だからだ。
爆弾や銃弾が飛び交う甲板上で、人間など脆いものだった。直接銃弾や爆弾が命中せずとも、その小さな破片一つで人間の体を切り刻み、致命傷を与えることになった。
そして、その爆風は、鼓膜を破り、胸を圧迫し、体を数メートル先まで吹き飛ばした。そして、破裂した爆弾の破片は四方八方に飛び散り、兵隊の戦闘能力を急激に落としていくのだ。
兵器を操作するのが人間である以上、制空権のない海上での戦いは、ほとんど殺戮の現場となった。
ところが…である。
敵の急降下爆撃機が、私の直上から逆落としにダイブして来るのが見えた。その凄まじいエンジン音は、悪魔の叫びにさえ聞こえた。
私は、上空を凝視し、敵機が二五〇㎏爆弾を投下するのを見た。
それは、一瞬のことであったろう。
指揮棒を手に、上空を睨み付けていた私の体が、大きな力によって海側へと弾き飛ばされたのだ。
「結城中尉!」
そう叫んで、私を突き飛ばした兵隊がいた。
後から考えれば、それは、先任下士官の井上上曹だったに違いない。
井上上曹は、私の親父の艦に乗っていたことがあったらしく、私が筑摩に着任早々、親しげに声をかけてくれた。
そして、
「いやあ、分隊長の父上、いや、結城艦長には、何度も声をかけていただきました…」
と、懐かしそうに話すのだった。
彼は戦艦日向の相撲部員で、力が強く、艦内の相撲大会で優勝をしたとき、
親父から表彰状と金一封をもらい、副賞として銘酒をいただいた…と嬉しそうに語ってくれたのだ。
それ以来、何かと私の世話を焼き、下士官兵に、
「分隊長の言われることは絶対である。いいな!」
と部下に檄を飛ばすので、私も少し恥ずかしかった。
彼は、戦闘時にも私の側にいて、常に助言をしてくれていた。
だから、あのとき、私を助けようと海に突き落としたのは、井上上曹しかいない…。
しかし、その井上上曹は、甲板上で壮烈な戦死を遂げたことだろう。
私は、あっ…と思う間もなく、舷側から海面へと落ちていった。
その瞬間である。頭上で、轟音が轟いた。
私は、間違いなく大きな爆発音を聞いた。そして、兵隊たちの断末魔の叫び声を聞いた。そして、その声を耳にした後のことは、私の記憶にはない。
私が眼を覚ましたのは、真っ白なベッドの上だった。
いくつものチューブが体につながれ、様々な機械がぼんやりとした意識の中に映った。口にも透明なマスクが装着されている。
すると、次の瞬間、鈍い痛みが全身を襲った。
「痛い!」
私は、そう叫ぶと、体を動かそうとしたが、なぜか、起き上がることができなかった。
すると、周囲がざわつく気配を感じた。
「先生、先生…!」
と、連呼する声が聞こえる。
「先生…?」
なんとも懐かしい響きだったが、この筑摩に先生を称する人間はいない…。
しかし、敵機の空襲を受けている最中に、自分だけベッドで休んでいる暇などないはずだ。
じゃあ、ここはどこなんだ…?
そう思い、再度、体を起こそうとしたが、全身に力が入らない。
やはり、大けがを負っているらしい…。
そんなことを考えて、じっとしていると、ガチャ…という音を立てて扉が開けられ、白衣を着た人が現れた。
ああ、軍医が来てくれたか?
そう思ったが、様子がおかしい。
白衣は、その人だけではない。他にも数名の女性がいるのだ。
看護婦?
いやいや、筑摩に看護婦が乗艦しているはずがない…。じゃあ、いったい、ここは…?
益々、頭が混乱してきた。
すると、外から、また、「先生!」と絶叫するような女の悲鳴が聞こえた。
また、女か…?
すると、ふと、妙な光景を思い出していた。
手元や首元では、何やらガチャガチャと器具を触る音や人の声が聞こえるが、何を言っているのかわからない。
そのうち、注射を打たれたらしく…、また、意識が遠のいていくのがわかった。
私は、また、あの夢を見ていた。
その光景は、あの夜の街の交差点である。
女性と二人で歩きながら、私は、交差点の横断歩道の信号が変わるのを待っていた。
この女性は、確か、裕子…?
そんなことを考えながら、交差点に入ると、左手側から真っ白なライトが私を照らした。そして、それと同時に猛烈な音が聞こえた。それは、おそらくは、車のブレーキ音だった…と思う。
その音を聞いた瞬間、私は、裕子を後方に突き飛ばし、正面に向き直った瞬間だった。
私の体は一瞬にして宙を舞い、静かに落下していった。
それが、アスファルト上なのか、海面なのかの判断はつかなかった。
そして、そのまま、私は暗い闇の中に引き摺り込まれて行ったのだった。
しばらく経つと、闇の中を漂う私の意識に届くように、声が聞こえてきた。
「結城さん。結城保さん…。分かりますか?」
その声は、段々と大きくなり、大人の男性が耳元で声をかけていることに気がついた。
「は、はい…」
目が開き、少しずつ焦点が定まって来ているのがわかった。
私が意識を取り戻すと、周囲には、男性や女性が数名、立って私を見下ろしていた。
すると、白衣を着た男性が、だれかに声をかけたようだ。
「結城さんの意識が戻りました」
そう言うと、私に向かって、
「結城さん。よかったですね。意識は戻ったようですね…」
「二週間、眠り続けていたんですよ…」
えっ…二週間も?
それに、ここは筑摩ではない。じゃあ、私は今、どこにいるんだ?
すると、また、白衣の男が、
「じゃあ、明日にでも一般病棟に戻しますね…」
そう言って、瞳孔と脈を確認して、その部屋から出て行かれた。
やはり、今の男は医師だ。
それと同時に、見知った女性が飛び込んで来た。
あっ…、裕子…。
その顔は、たくさんの涙を流したらしく、化粧が落ちていたが、それは、間違いなく裕子だった。
「あっ、裕子か…。何か、すまなかったね…」
そう言うと、裕子は、ベッドの私に抱きつくように飛び込んで来た。そして、私の手をしっかりと握り、ひたすら涙を流すのだった。
それは、私にとって痛みを伴うものだったが、何やら、嬉しさが先に立った。
私は、どうやら、自分のいた時代に戻ってきたようなのだ。
翌日、前日の医師の診察を受けた私は、
「もう、峠は超えました。後は、回復するばかりです…」
医師は、そう笑顔を見せると、裕子に二言三言話をして去って行った。
私は、数人の看護婦の手で一般病棟の個室に移された。
傍には、朝から裕子が来て、私の看病をしてくれていたのだ。
個室は、すべて木調の六畳ほどのスペースだったが、最新式の設備を誇る病院らしく、使い易い作りになっていた。
裕子に、
「ここは、何ていう病院なんだね…」
そう尋ねると、
「ここは、明誠大学病院です。ほら、私や先生の大学の付属病院ですよ…」
「だから、こうして個室を提供してもらったんです」
そう言うものだから、
「すると、私は、大学の教師なのかね…?」
そんなことを聞くものだから、裕子は、
「頭も打っていたようですから、仕方ないですね…。いいですか。先生は、今でも明誠大学文学部の教授です…」
「ただ、もう少しで退官ですけどね…」
そう言いながら、嬉しそうに、
「ほら、たくさんのお花や果物、お見舞いが届いていますよ…」
「理事長の安西先生からも、たくさんお見舞いをいただきました」
私が、安西…?と尋ねると、
「何、言ってるんですか。海軍で一緒だった安西秋雄理事長ですよ…」
その言葉で、私の記憶が蘇った。
「ああ、軍令部にいた安西課長か…」
「その、安西先生です。先生も高齢なのに、心配なされて、何度か様子を窺いに来てくれたんですよ…」
「先生は、眠っていたからわかりませんけどね…」
そう言いながら、リンゴの皮を剝き私に差し出すと、いそいそと片付け物などをしてくれていた。
「そうか、そうだった。私を大学に呼んでくれたのも、軍令部にいたよしみで、安西課長が声をかけてくれたんだった…」
こうして、私の記憶は蘇ったが、そうなると、私が経験したかのような出来事は、すべては交通事故による昏睡状態の中で見た夢ということになる。
なんだ、そうだったのか…。
そう思うと、歴史を変えるなどという大それたことをしなくてすんで、ほっとした気持ちがしていた。
私のケガは、肋骨数本と足の複雑骨折はあったが、不幸中の幸いなことに、内臓に損傷はなく、意識を取り戻さないことだけが心配だったようだ。
事故直後は、心臓の鼓動も弱く、いつ停止してもおかしくない状態にまで陥り、ほとんど仮死状態が続いていたそうだ。
それが、私が意識を取り戻したあの日、急に心臓が活発に動き出し、危機を脱出したということだった。
もう、数日、同じ状態が続けば、生きていても植物人間状態になり、別病棟に移す予定だったと聞いた。
そうなると、その仮死状態のときに、私は、そんな夢を見ていたのだろう。
近現代史を研究しているから、自分の夢が現実になればいい…などと、どこかで願望を持っていたのかも知れない。
しかし、そのことは、恥ずかしさもあって、だれにも言わなかった。それに、そんなことをここで口走れば、今度は、精神科に回されるかも知れないのだ。
そして、それから一週間入院し、無事に退院することができた。
裕子は、その後も、自宅で私の面倒を看てくれていた。
大学への復帰は、後、一週間ほどで行ける見通しが立ち、大学からも送り迎えに車を用意する…という温かい言葉を戴いていた。これも、安西理事長のご配慮だった。
大学に復帰すると、そこに「零書房」の高木社長が、月刊誌「光」を持って現れた。
高木社長は、
「いやあ、先生。助かってよかったですね。一時は、もう駄目かな…と思いましたよ」
「ところで、最新号のゲラができましたので、読んでみて下さい」
「先生の仮想・大東亜戦争は、読者の反響も大きく、みんな楽しみにしています」
そう言って、完成前の「光」を机の上に置いた。
私は、
「そうですか。じゃあ、あのときの原稿は、そちらに渡っていたんですね…」
と確認すると、高木が、
「ええ、先生の事故の直後、裕子先生からいただきました…」
「そうですか。いやあ、間に合ってよかった」
そう言いながら、原稿を読んでみると、確かに、私の書いたものに間違いはなかったが、何となく、タイトルが気になった。
「ところで、社長。この最初の(仮想)というのは、何ですか?」
すると、高木は、
「先生、何言っているんですか?」
「先生の書かれている原稿は、もし、マリアナ沖海戦で日本が敗れたら、こうなっていた…という仮定で書かれているじゃないですか?」
「いやあ、原爆投下後の惨状は、本当にリアルで、怖ろしいほどの臨場感がありましたよ…」
私は、そこで、また頭が混乱してしまった。
「ち、ちょっと、高木さん。それは、どういうことですか?」
と尋ねると同時に、自分の見ていた夢のことを語って聞かせた。
今考えても、私が見ていた夢は、本当にリアルで、今でも鮮明に思い出すことが出来た。あれが、夢…だと言われても、信じられない気分だったが、夢はやはり夢なのだ。
そんな気持ちで、高木社長に夢の話をしたのだった。
それは、優に二時間は超えた話になったが、途中から裕子も加わって聞いていた。
それは、私自身が、自分の記憶を少しずつ引き出しながら、語ったものであるので、正確とは言えなかったが、二人の反応を見ていると、自分の知っている大東亜戦争以後の歴史と今の歴史が大きく違っていることに気がつき始めていた。
話し終えると、裕子がコーヒーを入れながら、
「でも、そうなることが、先生の願いだったんじゃないですか?」
と尋ねるので、
「ああ、そういえば、そうかも知れんなあ…」
「結局、私も軍人だったことをいつまでも引き摺っているのかも知れんなあ…」
そう呟くように言葉を返した。
すると、高木社長は、
「でも、それでいいと思いますよ。戦後四十年。戦争も今や風化してしまいました。あのときの海軍の決断がなければ、先生の書いた仮想戦記も現実になっていたんでしょうからね…」
それから、三人は、この連載が成功したら、単行本で出版する…といった話で盛り上がったのだった。
第八章 解き明かされた真実
私の話に、最初、二人は怪訝な顔をしていたが、話を聞くうちに、私自身が時空の歪みの中に放り込まれ、大東亜戦争の歴史を変えてしまったストーリーに引き込まれたようだった。
裕子は、
「えっ、それって先生の作った話じゃないんですか?」
と尋ねるので、
「私にもわからないんだよ…」
私が困惑した顔を見せると、高木社長が、
「でも、そういうことってあるかも知れませんよ。昔から時空を超えるようなSF小説はありますからね…」
「それにしても、その話は面白い。ぜひ、本社で扱わせてもらいます」
そこからは、私の描いたストーリーではなく、私の体験として聞いてもらうことになった。
「つまり、先生は、未来の歴史を当時の彼らに伝え、史実と異なる新しい作戦を授けて、日本の未来を変えたということになりますね…」
裕子がそう呟くと、高木も、
「ああ、そうなるな…」
「あのマリアナ沖海戦で日本が捨て身の戦いに勝利したことで、日本の絶対国防圏が守られ、講和に持ち込めたんだからな…」
そう言うと、自分の鞄から歴史年表を取り出し、私に見せてくれた。
それには、太平洋戦争の名称はなく、「大東亜戦争」の名称が、そのまま使われていた。
そして、大東亜戦争のページをめくると、そこには、
「昭和十九年八月に起きたマリアナ沖海戦及びサイパン島の戦いにおいて、日本軍は大勝し、それをきっかけに連合国軍と講和の交渉に入った」
と書かれているのだ。
すると、高木社長が、
「結城先生。先生の原稿では、マリアナ沖海戦では、日本のアウト・レンジ作戦が失敗し、アメリカ軍からマリアナの七面鳥狩りと揶揄されるまでの大敗北を喫した。そして、サイパン島も最初の数週間で陥落した…となっていますね…」
「では、こちらが、真実なのですか?」
私は、「わからんな…」としか、言いようがなかった。
今、こうして生きている自分を考えれば、この原稿が正しいとは思えないが、自分がしてしまったことで、歴史が歪められ、別の歴史を作り上げたとも考えられるのだ。
しかし、確かなことは、あの交通事故の前と今では、間違いなく歴史が変わっているということだった。
つまり、私は、あのときとは違う世界に生きているのかも知れなかったのだ。だから、歴史が違うのも当然なのかも知れない…。
納得はいかなかったが、現実として考えれば、そう思うほか考えようがなかった。
二人が帰った後、私は、一人で同じ時刻に、あの交差点まで行ってみることにした。なぜなら、ここからすべてが始まったからである。
夜の交差点とはいえ、人通りも多く、多くの通行人が横断歩道を歩いて過ぎ去った。しかし、どんなにそこに立っていても、時間は、何も私に囁いてはくれなかった。
自宅に戻ると、私は、あることに気がついた。
それは、アルバムだった。
私は、岐阜の両親が亡くなり、実家を整理するときに、私の海軍時代のアルバムをこちらに持ってきていたことを思い出した。
確か、本棚の奥にしまったはずだが…。
探してみると、それは、すぐに見つかった。
かなり古びたアルバムだったが、私が兵学校に入校してからも、母がそれを整理し、片付けて置いてくれたものだった。
私は、そっと昔のアルバムを開いてみた。
ペリペリと何かが剥がれる音がしたが、そこには、セピア色に変色した写真が丁寧に貼り付けられていた。
私の家は、海軍将校の家だったせいか、親父が洋風の生活を好み、戦前までにいた鎌倉の家は、洋館造りの洒落た家だった。
カメラも親父がイギリスで買ってきた物だったらしく、よく、私の兄弟の写真を撮っていた。
開いて見ると、懐かしさでいっぱいになったが、それらから自分の歴史の証拠を見つけ出すことは困難だった。
そして、そろそろ、アルバムを閉じようとしたときだった。
ある一枚の古びた写真を見つけたのだ。
それは、あの軍令部での一枚である。
「あっ、やっぱり、夢じゃなかったんだ…。私は、あそこにいたんだ…」
そう思うと、涙が溢れてくるのを抑えられなかった。
写真には、若き日の私が写っており、隣には伊藤整一中将、そして、その隣が軍服姿の高松宮様、その人であった。
そして、ここは、あの皇族専用室の応接室である。
そうなると、写真を撮ったのは、佐藤少佐ということになる。
やはり、私は、軍令部でこの三人と秘密の会合を持ち、新しい作戦計画を立てていたのだ。
そうだ、それを伊藤次長案として正式な軍令部作戦書になったのだ。
では、私はどうなったんだ?
翌日、私は厚生省の援護局を訪ねた。
ここは、旧海軍省と陸軍省の事務を引き継いでおり、私も研究の関係上、ここには何度も足を運んだことがあった。それに、顔見知りの事務官も多く、顔を出せば、何かと便宜を図ってくれるのだ。
私は、早速、窓口で協力してくれている榎本事務官を呼び出した。
顔を見せると、
「先生、もう大丈夫ですか?」
「こちらも心配していたんですよ…」
「先日、青木先生からお電話を頂戴し、先生の意識が戻られたと伺ってホッとしていたところです」
「それにしても、さすが元海軍の方は、鍛え方が違いますね。もう、元の先生ですよ…」
そう言うので、私は、早速、用件を切り出した。
「実は、榎本さん。私の海軍時代の履歴を調べて欲しいんだ?」
「こう元気そうに見えても、ところどころ記憶がなくなっていてね…」
「私の若いころの記憶が、あまりはっきりしていないんだよ…」
「そこで、私の軍歴を調べたいんだが、頼んでいいかな? そうそれば、私も当時のことをいろいろと思い出すと思うんだがね…」
榎本係長は、「お安い御用ですよ…」と、すぐに応諾してくれた。
「はい。じゃあ、今から検索をかけますので、三十分ほどお待ちください…」「ありがとうございます。いや、助かりました…」
そう言って、後方のベンチに腰をかけて待たせてもらうことにした。
鞄の中には、あの一枚の写真を忍ばせていた。
あの時期の履歴と一致すれば、間違いなく、私は異なる歴史の中にいることが証明できるのだ。
それが、いいことなのか、どうなのか…、今でもわからない。
ただ、自分のやったことを自分の手で確かめたいと思った。それに、変えてしまった歴史が元に戻るわけではない。そして、もし、それが罪だと言うのなら、自分は、天の裁きを受けることになるだろう。その覚悟は、既にできていた。
三十分後、榎本係長が、私の側にやってきて、資料のコピーを手渡してくれた。
「榎本さん。ありがとう。一人でじっくり読ませてもらうよ…」
そう言って、私は、電車に乗り大学の研究室の戻ると、裕子を呼んだ。
「裕子。君にも知っておいてもらいたい事実だ。こちらに来て、見てくれないか?」
そう誘うと、裕子は、私の執務室に入ってきて、二人で厚生省にあった私の軍歴のコピーを手に取った。
確かに、私は海軍兵学校第七十一期を首席で卒業している。
そして、そのまま、少尉候補生として、艦隊実習のために軍艦長門に配属されていた。
次は、連合艦隊司令部付になり、時を開けずに軍令部勤務が命じられている。その後、軍艦筑摩へ転属となり、その間に、少尉候補生から中尉にまで昇任しているのは、他の同期生も同じだった。
やはり、それは、私の軍歴そのもので、私が覚えているものだった。
ところが、軍歴の最後に「中部太平洋サイパン島沖の海戦で戦死」と書かれているのだ。
なんと、私は、あの戦いにおいて戦死している。
ここに自分が生きて存在しているのに、どうして、海軍中尉のまま戦死となっているのだ?
しかし、よく見ると、行の空白があって、次には、「戦死認定取り消し」となっていたのだ。
「一度、戦死認定されたものが、なぜ、取り消されたのだ?」
それは、私の記憶の中にあった。
私は、軍艦筑摩が爆撃された直後、何者かに押されるようにして海に放り出された。おそらくは、井上上曹だと思うが…。
その直後に、私のいた後部射撃指揮所は、直撃弾のために、分隊全員が吹き飛ばされたのだ。
私は、その直前に海に放り出されたために、九死に一生を得て、しばらく漂流することになった。
私は、およそ一日、太平洋を漂流した後、伊号三四潜水艦に救助され、日本に帰還できたが、軍艦筑摩は、ついに敵の魚雷攻撃のために撃沈され、その後、生き残った乗員が駆逐艦野分に救助されたが、その野分もアメリカの潜水艦によって撃沈されており、生き残りはいなかった模様だった。
私は、その後、ひと月後に呉の海軍病院に収容されたが、マリアナ沖海戦は、勝利したといっても損害は甚大で、どこの病院もごった返しており、私ひとりの存在など記録にも留められなかったのだろう。
生き残った乗員がいなかったことを考えれば、記録者も戦死し、私の存在が戦死として扱われたのも無理はなかった。
私は、また、ひと月、海軍病院で過ごし、病院事務が落ち着いたころに、自分の所属と官姓名を申告し、海軍病院で確認してもらった記憶があった。
それで、戦死認定が取り消され、退院時に「軍令部出仕」の辞令を受け取ると、そのまま、汽車を乗り継ぎ東京に戻ったのだ。
そこまで記憶を辿るうちに、あの写真のことを思い出した。
「そうだ。あれは、呉から東京に出て、軍令部に顔を出したその日に撮ったものだ…」
私が軍令部に着任の挨拶に出向くと、昇任した佐藤中佐が出迎えてくれた。そして、すぐに、伊藤次長の部屋に案内をしてくれたのだった。
伊藤中将は、
「結城中尉。生きておったか!」
「マリアナ沖海戦で、筑摩が沈没したと聞かされ心配していたが、ただ一人生き残るとは、やはり、君は、生かされるべき人だったんだよ…」
「そして、君の陰の功労に対して、心から礼を言う」
「高松大佐も、本当に喜ばれ、先日も、君の安否を気に懸けていたところだ」
すると、伊藤中将は、佐藤中佐に声をかけ、
「佐藤中佐。すまないが、高松大佐に至急、こちらにお出で願おう…」
「ああ、皇族専用室までお願いしてくれ!」
そう言われて、佐藤中佐は、
「はい。直ちに、呼んでまいります!」
そう言うや否や、小走りに、大佐を迎えに行ったのだった。
「そうだ。あのとき、佐藤中佐が、写真を撮りましょう…。そう言って、皇族専用室の応接室で撮ったんだ…」
これで、自分の歴史はつながった。
しかし、そうなると、私が以前いた世界の歴史は、どうなったんだ?
やはり、変わってしまったのだろうか?
それとも、自分だけが別の世界に飛ばされただけなのかも知れない…。
それは、いくら考えても分かるはずもなく、仕方のないことだった。
裕子にそんな話をした後、大学の研究室でひとり、この世界の大東亜戦争史の資料を開いて見た。この時代では、小学生でも知っている事実なのだろう。 あのマリアナ沖海戦が、戦後にどんな影響を及ぼしたのか…を私は知りたかった。そして、伊藤次長や佐藤少佐の消息も気になっていたのだ。
調べて見ると、あのマリアナ沖海戦は、我々が予想したように、日米の機動部隊ががっぷり四つに組んだ大海戦となっていた。
やはり、日本軍の捨て身の接近戦が功を奏し、アメリカ機動部隊がレーダーで先回りをするはずが、逆に日本に先手を取られた形になった。
最初に突っ込んだ駆逐艦隊は、敵の前衛の駆逐艦部隊を発見すると、遮二無二突っ込み、近い距離から、高速の酸素魚雷を次々と撃ち出した。
当然、敵艦隊も猛烈なレーダー射撃を加え、日本の駆逐艦隊は、次々と燃え出し、沈んでいったが、その直後に到達した酸素魚雷によって、敵艦隊は駆逐艦のみならず戦艦にも到達して、大爆発を起こした。
それに呼応するように海底に潜んでいた潜水艦部隊が、それぞれの目標に合わせて攻撃を開始したので、魚雷がどこから発射されたのかも分からず、アメリカ艦隊は、その回避操作に必死になり、数隻が衝突、沈没していた。
それと同時に、両軍の航空部隊が空母から発艦し、ほぼ同時に攻撃が開始された。
幸い、日本の機動部隊は、三グループに別れて輪形陣を作っていたので、最初は、前衛の大和、大鳳の第一グループに攻撃が集中したようだった。そのため、武蔵、瑞鶴の第二グループと長門、翔鶴の第三グループへの集中攻撃は回避することが出来たのだ。
そして、日本軍機は、未熟な搭乗員も多かったが、ベテラン搭乗員の攻撃を見た後、次々と体当たり攻撃をしかけ、航空母艦や戦艦に命中していった。
アメリカ軍機の攻撃も凄まじく、日本の倍の航空母艦から放たれた数百機の攻撃機は、時間をおいて日本の第二、第三グループの機動部隊に殺到し、そのほとんどに損害を与えることになった。
それでも、小沢中将は怯まず、戦艦群を敵が見える距離まで走らせ、砲弾を撃ち込み続けたという。
当然、アメリカの機動部隊もそれに応戦し、戦艦部隊同士が砲戦を繰り広げている間に、残存の攻撃機を発進させ、日本の戦艦や航空母艦、巡洋艦部隊に損傷を与え続け、新鋭航空母艦大鳳、翔鶴、戦艦武蔵が沈没。そして、筑摩も海の藻屑と消えたのだった。
お互いに死力を出し尽くした海戦として、既に大きく歴史の教科書に掲載され、「マリアナ沖海戦」は、世界の海戦史上稀に見る大海戦として、人々の知るところとなった。
これにより、サイパン島守備隊は、アメリカ軍の上陸部隊を駆逐し、日本の絶対国防圏を守り抜いたのだった。
軍令部では、この海戦の勝利を確信すると、私が提案したように、全世界に向けてアメリカ政府の非を鳴らし、マリアナ沖海戦の実相を詳細に伝える記事を掲載した。
それは、各国に放った諜報員が、各国のマスコミにリークした内容がほとんどであり、それを見聞きしたアメリカ国民は、その夥しいアメリカ兵の死傷者とスクラップ化した艦船の写真を見て、驚愕の色を隠せなかった。
その上、アメリカ政府が日本に通告した「ハル・ノート」の全文が解説入りで新聞紙上に掲載されると、アメリカ国民の怒りは、自国の政府と大統領に向けられた。
これを好機と判断した陛下は、東條英機首相に、
「直ちに、和平交渉に入れ!」
と厳命し、自らは、バチカン市国のローマ法王ピウス十二世に仲介を依頼した。
アメリカ政府は、ヨーロッパ戦線でドイツ軍と熾烈な戦いを繰り広げている最中であり、これ以上、日本との戦いを長引かせることはできないと判断したらしく、渋々、ハワイで日米交渉を行い、昭和二十年一月一日をもって停戦し、終戦となったのである。
この間の、日本兵の戦死者は百二十万人を数えたが、日本への空襲は行われず、原爆投下もなかったことを考えれば、私がやったお節介も少しは役に立ったのかとホッと胸をなで下ろすのだった。
その後、日本陸海軍は国防軍となり、伊藤整一中将は、後に元帥にまで上り詰めたが、病のために戦後間もなく亡くなっていた。実際には海軍の作戦を一人で推し進め、その頭脳から出た作戦が、日本を救ったのである。
歴史上では、日露戦争の児玉源太郎と並び称される軍略家として、国防軍海軍の偉大な提督として、多くの将兵の尊敬を集めている。
佐藤中佐は、戦後は海軍には残らず、仏門に入り、多くの戦死者の御霊を供養する旅に出たそうだ。消息は不明だったが、おそらくは、どこかの山寺の住職として生涯を過ごしていると思う。それが、生真面目だった佐藤中佐らしい生き方のように思えた。
高松大佐は、戦後も陛下を支える直宮として活躍され、生涯を海軍育成のために捧げておられる。時折、テレビ等で拝見する機会があるが、その鋭い眼光は、衰えてはいないようだった。
私は、相変わらず近現代史の研究家として、高木社長のところの月刊「光」に記事を書いたりしているが、今は、最後に勤務した「厚木航空隊始末記」の連載を控えていた。
厚木航空隊は、本土防空専門航空隊として開隊されたが、司令の小園安名大佐は、い号作戦以前からラバウル航空隊の副長として、第一線で活躍した猛将であったために、昭和十九年の正月に開隊して以来、搭乗員を徹底的に鍛え上げ、その多くをマリアナ決戦要員として各航空母艦に乗り組ませていた。
彼らの技量は、ベテラン搭乗員の域に達しており、彼らの活躍なしに、あの勝利はなかったと言われている。
私は、軍令部に復帰すると海軍大尉に昇任し、本土の航空部隊の育成のために活躍した厚木三〇二航空隊との連絡にあたる情報将校となった。
小園大佐は、マリアナ沖海戦後も搭乗員育成には定評があり、「常在戦場」という山本長官から揮毫してもらった旗印を掲げ、その手腕を発揮し続けたのだった。
ただ、終戦に際して、
「こんな終わり方では、納得できん!」
と、反旗を翻したため、抗命罪に問われて十年の禁固刑に服した。
確かに、あれだけ多くの部下を戦死させた悔しさは、マリアナ沖だけで晴らせるものでないことはわかるが、あれ以上戦い続ければ、日本が亡国になることを予測できた私は、副長の菅原中佐と共に、小園司令に徹底して抵抗した。
一時は、シンパの搭乗員たちからねらわれるような身の危険を感じたことがあったが、私を知る兵学校の下級生だった連中が、
「七十一期の結城大尉だけは、信用できる男だ!」
と、他の連中を抑えてくれたお陰で、命拾いしたこともあった。
それでも、無事に終戦に持ち込めたことは、日本にとって本当によかったと思う。
戦後は、日米同盟が強固になり、世界各国に国防軍が監視軍として派遣されているが、日本軍の旗印が翻ると、どんな地域でもスムーズな交渉が行われるようだった。
それだけ、あの戦争とマリアナ沖海戦は、世界中の人々に強烈な印象を与えたものだと思う。
私は、間もなく大学を退官だが、私の後は、あの青木裕子が継いでくれることになっている。
この歳になって恥ずかしい限りだが、裕子が嫌でなかったら正式に結婚を申し込み、生涯の伴侶として生きていきたいと願っている。
それが、青木軍医や幸子さんへの供養だと考えるようになった。そして、自分なりに研究を進めたいと考えると、今のこの時代も満更ではなかった。
完
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