「苦しみの航海」-横田一等飛行兵曹の戦後-
矢吹直彦
序章 生き恥を晒す…
大津島は、今日もうだるような暑さだった。
整備員といっしょに黙々と作業を続ける横田の顔にも首筋にも、汗が流れ落ちた。それどころか、着ている作業衣の背中にも汗染みが、太平洋のように広がっていた。
そんな横田を見かねて、作業班長の佐々木一等兵曹が声をかけた。
「横田兵曹、たまには休まないと、体が保ちませんよ…」
しかし、横田にそんな余裕はなかった。
(きっと、きっと…、今度こそ、完全な回天で出撃するんだ…)
(みんなが、向こうで待っている)
(俺は、今すぐにでも行かねばならんのだ…)
そう、声にならない声で返すと、佐々木兵曹は(仕方がない…)と言うのでもなく、横田の横顔を見詰めると、黙って、自分の作業に戻っていった。
横田は、もう三度も出撃してここ大津島に戻って来ていた。
まだ、二十歳になったばかりだというのに、顔は痩せこけ、眼だけがギラギラと狼のように光らせ、一日中、こうして回天の機体を磨き、整備員と一緒になって調整に余念がない。
本来、誉められるべき行動なのだろうが、横田のそれは、あまりにも悲愴感を漂わせ、多くの者は、改めて人間の「苦悩」というものをまざまざと見せつけられる思いがしていた。
この基地にいる者は、そんな横田の心中を察して何も言わないが、その悔しさと後悔は察して余りあるのだ…。
さすがの第6艦隊の参謀共も、もう何も言わなくなっていた。
すると、そこに、本部庁舎の方から一等水兵が伝令として走ってきた。
伝令が、走って来るということは、何か、非常呼集でもあるのだろう…。
そこで作業をしていた、10人ほどが、顔を上げ、立ち上がった。
「横田兵曹…」
佐々木一曹に声をかけられ、横田は、徐に顔を上げた。そして、強い日差しを遮るように軍手を嵌めた右手で顔の前に翳した。
まだ、午前中だというのに、真夏の太陽が猛烈な光線を横田たちに浴びせかけていたからである。
手を止めると、周囲から聞こえるアブラゼミの鳴き声がうるさく、ジィジィ…と壊れたラジオでもあるまいし、もの凄い音を奏でていることに気がついた。
(蝉か…、蝉にも蝉の人生があるのだろう。しかし、死ぬために鳴いてるんじゃない。生きるために鳴いているんだ…)
(俺は、蝉か?)
(それとも、蝉にもなれないのか…?いや、蝉には、蝉なりの生きるという目的がある。しかし、今の俺には、蝉ほどの目的もない)
(ただ、死にたい…。そして、早く、みんなの待っているところに行きたい…)
横田の今の願いは、それだけだった。
横田は、何気なく伝令が、井上整備分隊士に告げる声を聴いた。
「本日、1200、全員本部号令台前に集合せよ!」
「以上であります!」
本部付の水兵は大声で、そう伝達すると、また、脱兎の如く、次の兵隊たちに連絡するために走って行ってしまった。
みんなが、キョロキョロと周囲の者たちと顔を見合わせ、「なんだ、なんだ…」と首を捻りながら、話をしているのがわかった。
(まあ、どんな話であれ、俺には関係ない…。1200と言っていたな…)
横田は、左手に嵌めてあった航空時計を確認すると、ちょうど、1100を指していた。
海軍では、時刻を表すときは、「1100」、読み方は「ひとひとまるまる」と読む。12時00分は、「ひとふたまるまる」になる。
一般社会から見れば、奇妙な習慣だが、横田も海軍に入ってから教わった時刻の読み方であり、もう、すっかりなれてしまった。
「後、1時間か…」
(もう少し、整備をしてから、本部前に行けばいいか…)
そう思うと、腰に下げた日本手ぬぐいで喉元の汗を拭った。しかし、その手ぬぐいもかなり汚れおり、悪臭がしていただろうが、こんなもんは、潜水艦の中に比べれば大したことではなかった。
この日本手ぬぐいは、隊に来てから、かれこれ20本以上になった。
出撃時にも5、6本は持って行ったが、どれも汗と油で真っ黒になり、洗濯しても、白くなることは二度となかった。
それでも、雑巾として使うのだが、それすらも次第にすり切れ、終いには空中の埃となって消えていった。
まあ、元々、品質もよくないのだが、雑巾から塵になって最後を迎えれば、あの日本手ぬぐいも、本望だ…と言えないこともない。
横田豊は、若干二十歳の一等飛行兵曹だったが、既に、回天による三回の特攻出撃を経験していた。
他の搭乗員の中で、三度の出撃を経験した者はいない。それも、三度とも乗艇するはずだった回天の不具合が原因だった。
一度は、「発進せよ!」の命令を受けて起動桿を押したにも拘わらず、エンジンがかからず発進が中止になった。
他の二回は、回天内のオイル漏れと電話の不通であった。
オイル漏れのときは、有毒ガスが発生し横田は人事不省に陥った。そのまま死んでもおかしくない状況だったが、彼の生命力が勝った。
こうした紙一重の生死の境を三度も経験した横田は、基地内でも希有の存在であり、その体験が、母艦である潜水艦と回天の改良に役立つとは、まさに皮肉な結果となっていた。
回天隊の板倉司令も、もう何も言わなくなっていた。
一度目に生還してきたときには、夜の反省会で、横田たち生き残りの搭乗員は、第6艦隊の参謀たちから大きな声で罵られた。
「回天の故障…?」
「ふざけるな!」
「スクリューが回らなければ、手で回してでも敵艦に突っ込め!」
と、満座の前で罵倒され、恥をかかされたのだ。
生還した多々良隊の3名は、下を向いたまま悔しさで体を震わせていたが、それを救ったのは、母艦の艦長だった菅昌中佐だった。
「参謀。もう、それくらいにしてやったらどうかね…」
「実際に戦場で、発進寸前まで経験した者たちだ」
「あの過酷な戦場は、実際に戦った者でしかわからんのだよ…」
そう言って、嘲笑した参謀を睨み付けた。
心の中では、(この、大馬鹿者が!)と怒鳴りつけていたのだろう。
言葉は穏やかだったが、その眼は、真っ赤に充血し、その右手がワナワナと小刻みに震えているのがわかった。それに気づいた若い少佐参謀は、ウゥン…と咳払いをすると、黙ってしまった。
そんなこともあって、最初のころは回天隊にも勢いがあったが、さすがに今となっては、そんな勇ましい暴論を吐く者もいなくなっていた。それだけに、三度戻ってきた横田の経験は、第6艦隊でも貴重な資料となり、新型回天の開発につながったのだ。しかし、当の横田は、周囲の思惑など関係ない…とでも言うように、黙々と作業をこなすだけだった。
横田は、左手の時計で時刻を確認すると、大きく息を吸い、汚れた手ぬぐいで一汗を拭うと、また、真新しい新型回天の下部ハッチの真下に潜り込み、整備作業に没頭していくのだった。
(今度こそ、この回天で、絶対に敵艦に体当たりをするんだ!)
それは、戦争の勝敗などには関係のない、横田自身の人生そのものになっていた。
とにかく、今度こそは、絶対に成功させて、みんなのところに行かなければ…。そういう思い詰めた心境でいることは、大津島の回天隊の隊員なら、みんな知っていた。
実際、沖縄戦が始まってからは連日のように出撃があり、何隻もの潜水艦を見送ったが、その多くは還らず、還ってきても潜水艦の甲板上には、必ず1本か2本の回天が発進できないまま戻ってくるのだ。
残りの3本ほどの回天の台座には、解かれた太いワイヤーベルトが無惨にも放置されているだけで、だれが見ても回天の発進後の姿だということがわかった。
それだけに、残された回天の無惨な姿は、出撃の順番を待っている隊員たちには心が痛かった。
それに、潜水艦が無事に還ってきても、乗組員は嬉しそうに桟橋を戻ってくるが、最後の最後に俯きながら信玄袋を抱えて下りてくる回天搭乗員は、顔が青ざめ、今にも死んでしまいそうな雰囲気をまとい、だれも声をかけられなかった。
それでも、実際に三度の出撃で生き長らえた人間は僅かで、生き残った者には、生き残った者にしかわからない複雑な感情があったのだ。
そういう意味で、横田豊一等飛行兵曹は、生きていてはいけない英霊なのかも知れなかった。
三度目の出撃から戻ってきたその日から、横田は、もうだれとも口を利こうとはしなかった。
一人で黙々と作業をこなし、起きているときも寝ているときも、常に回天の側にいた。風呂にも入らず、髪も切らず、その姿はまるで幽鬼のようだったが、出撃を控えてる横田を咎める者は、いなかった。
横田の4度目の出撃は、明後日の早朝ということになっていた。
横田は、この大津島に来た最初の特攻隊員の一人だった。
土浦の甲種飛行予科練習生200名の先任として、一年前にここに着任し、回天の訓練に明け暮れた。
本当は、第1回目の出撃に指名されるはずだったが、隊長の仁科関夫中尉が、 「いや、横田には次に行って貰いたい!」
と強く進言したことで、第2陣となった。
仁科中尉にしてみれば、次の搭乗員の訓練のことも考えてのことだったらしい。
それくらい横田の技術は卓越しており、仁科中尉にしてみれば、後を託したかったのかも知れない。それが、横田の運命を狂わせた…と言っても過言ではない。
運命は、自分では如何ともし難いが、歯車のように一旦噛み合わなくなると、何をやっても上手くいかないもので、この横田の運命がまさにそうだった。
横田は、自分が出撃名簿にないことを知ると、仁科中尉に直訴したが、仁科中尉は、
「いいか横田。死ぬのはいつでもできる」
「だが、貴様も知っているように、この回天は未完成の代物だ…」
「貴様なら、その欠陥を修正し、完全なものにすることも可能だろう」
「頼む。貴様には、俺たちの死の後のことを託したいのだ…」
そう言って、横田の願いを聞き届けることはなかった。
確かに、初期の回天は取り敢えず余っていた酸素魚雷に鋼鉄の筒を被せ、簡単な操縦席と特眼鏡を取り付けただけの代物で、戦闘機のような精巧な造りではなかった。
操縦が安定するための「翼」がないために、速度が落ちれば回天自身がローリングする危険性があり、ある一定速度がなければ危険極まりない兵器だった。
仁科中尉たち第1陣で出撃していった者たちは、血の滲むような訓練の末に操縦を会得し、出撃していったのだ。しかし、それだけに殉職者も多く出ていたのが実態だった。
隊の会議でも、
「これでは、戦死者より殉職者の方が多くなってしまう…」
と嘆いたが、まさに、乗るだけで危ない兵器なのだ。
それを横田は、早い段階から操縦を会得し、だれよりも襲撃行動が大胆だった。
横田が、訓練用の回天に搭乗すれば、どんな潮流があっても、どんな難所があっても、当然如く素早く潜り抜け、予定の海面にポコッと浮上してくる。
模擬艦を使用しての襲撃訓練も、一度で艦底すれすれに通過して見せた。この回天は、横田の手であり足であり、敵を噛み砕く牙だった。
だが、他の者が回天に乗り込むと、ほぼ盲目の中で海図と小さな特眼鏡だけが頼りで、これほど操縦の難しい兵器はなかった。
横田たちは、元々飛行兵を志した甲種予科練出の下士官だったから、全員が中学校の数学や物理を勉強し、優秀な成績で海軍に入ってきた者たちだ。だから、頭では、その構造を十分に理解しているのだが、実際に動かしてみると、微妙な誤差が生じ、思うようにはいかないのだ。
それでも、10回、20回と回数をこなすうちに要領が掴めてくる。
この横田などは、既に50回以上は回天に乗って訓練を積み、実戦経験もある。だからこそ、隊のだれからも一目置かれ、横田は、修行僧のような出で立ちで、作業と訓練に明け暮れることができるのだ。しかし、その横田には死ぬ運命は来なかった。
そして、「終わり」は、突然にやってきた。
1時間近く、夢中になって新しい回天の整備を行っていた横田が、左手を自分の顔に向けると、 1150を指すところだった。
回天搭乗員にとって、この時間の感覚を身につけることは必須だった。
それは、潜水艦という海中の密閉空間に長期間いると、まず、狂ってくるのが、時間の感覚だった。
人は、太陽の動きに合わせるように体内時計が動き出す。だから、夜になれば眠くもなるし、時間が来れば腹も減るのだ。
ところが、潜水艦に乗艦し昼間でも海中に潜っていると、常に夜間と同じ状態に置かれるので、その間は、ずっと夜ということになる。
まして、敵地に近くなると、昼間の洋上航行は危険であり、常に海中にいなければならなかった。
それでも、夜間は、安全を十分確認した上で浮上し、新鮮な空気を取り入れる作業が行われるが、結局、隠密を任務とする潜水艦には、基本的に「昼間」は、ないことになる。だからこそ、一定の時間を自分で感覚的に覚えなければならないのだ。
また、回天が起動しても、敵艦を捕捉するのは、回天に取り付けられている「特眼鏡」と呼ばれる潜望鏡だけなのだ。
起動前には、電話で司令塔から、敵艦の位置や艦種などが指示されるが、その電話が切断されて発動すれば、後は、自力で航行し、敵艦にぶつけなければならない。
基本的には、敵の眼前で一旦浮上し、特眼鏡で目標となる艦艇を見つけると、そこに向かって突っ込むのだが、魚雷なので、艦底にぶつけなければならない。
これも、大型艦と小型艦では吃水線が異なり、輸送船になると、荷が満載時と荷を降ろした後では、まったく違うことになる。それを一瞬の判断で敵艦までの距離を測り、射角を計算して魚雷を操作するわけだから、気合いだけでどうなる代物ではなかった。
だから、横田ほどの腕前になるには、相当の訓練を積み、実戦を経験して来ないと身につかないものだったのだ。
それでも、回天の突撃は、成功することが難しく、母艦共々、海の藻屑と化した例は、数知れなかった。
(さて、そろそろ、集合場所に行くとするか…)
周りの兵隊たちも動き出した。
「おい、横田兵曹、時間だぞ…」
整備分隊士に、そう声をかけられて、横田も駆け足で、号令台前に集合した。
間もなく、正午である。
戦争に拘わらず、真夏の8月15日は、暑い。
立ってるだけで、汗が全身から噴き出してきた。しかし、潜水艦乗艦歴が多い横田には、汗が出るうちは、まだ、大丈夫なことは知っていた。
潜水艦が敵艦の爆雷攻撃を受けて、長時間、海の底に潜んでいる時ほど、苦しいものはなかった。
爆雷は、当たり所によっては、鋼鉄の艦の壁を押し潰し、潜水艦を圧壊させてしまうのだ。
そうなれば、乗員は全員戦死である。
そんな恐怖体験を何度も味わってきた横田には、この真夏にかく汗は、大したことではなかった。
周りの者たちが、苦痛に顔を歪めている最中、横田は、呼吸を整え、じっとそのときを待っていた。
すると、本部から幹部たちが現れ、大津島回天隊の矢崎副長が、号令をかけた。
矢崎副長は、全員集合を確認すると、静かに話し始めた。それは、何かを含んでいるような言い方だった。
「よいか、ただ今より、重大放送がある!」
「全員、心して聴くように!」
すると、号令台に置かれたラジオに本部付の少尉がスイッチを入れた。
ガガーッ…という最初に機械が擦れるような音がしたが、間もなく、放送が流れ始めた。
最初は、日本放送協会のアナウンサーからの説明だった。しかし、その中で、
「ただ今より、天皇陛下からお言葉があります…」
という放送があり、集合して並んでいる全員が、
「えっ…」
という驚きの呻きを発した。
まさか、天皇陛下がマイクの前に立ってお言葉を述べられるなど、前代未聞の出来事であり、陛下の玉音を拝聴することになろうとは、ここにいるだれもが、想像もしていなかった。
それは、唐突に始まった。
ラジオ独特の雑音がジージーと入ったが、それでも聞き取れないほどではない。
横田は、他の者たちと同じように、直立不動のまま、視線を自分の足下に落とした。
酷暑だというのに、蟻が数匹、足下の飛行靴の先を這っている。
(こいつらは、こいつらで、必死に働き、生きようとしているのだろう…)
そう思って足下も見詰めていると、頭の汗が顎を伝わり、蟻たちの上に落ちた。
そのとき、陛下の声が耳の鼓膜を揺さぶった。
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク…」
「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ…」
そこから先は、もう、何も覚えてはいない。
(この放送は、戦争が終わった…という言葉なのではないか…?)
(「共同宣言ヲ受諾スル…」とは、何のことだ。まさか、降伏なのか…?)
そんな疑問が次々と湧いてきた。
しばらくすると、周囲からざわめきが聞こえ始めた。
ラジオ放送が終わったのだ。
「戦争が、終わった…?」
「嘘だろ…」
「戦争に負けたのか…?」
「これから、本土決戦があるんじゃないのか…?」
周囲の声も最初は小さなものだったが、段々と大きなざわめきになっていった。
(まさか…、敗戦なのか?)
横田は、摂氏30度を超える酷暑の中、呆然として一人練兵場に佇むのだった。
「静粛に!」
「司令からのお話である!」
さっきの副長の声だ。
前を見ると、早々にラジオは片付けられ、回天隊の司令である板倉中佐から、具体的に「ポツダム宣言を受け入れ、終戦となった」ことが告げられた。
あの、特攻作戦を積極的に行ってきた板倉中佐が、無表情で淡々と告げる言葉に横田自身、愕然として言葉も出なかった。
(司令…。まさか、敗戦を受け入れろと…?)
呆然と見詰める眼の先には、草色の三種軍装をきちっと身につけ、身じろぎもしない板倉中佐の能面のような表情が映った。しかし、板倉中佐はそれだけを言うと、サッと壇上を降り、早足で本部に戻ってしまった。
(司令…、板倉中佐…)
横田は、そう呟くと、その場に膝を落とした。もう、何も考えることはできなかった。
周りの者たちは、戦争に負けたことを、ある者は罵り、ある者は泣き叫んだが、その声には、どこか喜びに似た明るさが感じられた。
横田は、そんな周囲の喧噪の中で、一人、頭の中で言葉を反芻していた。
(なんだかんだ言ったって、みんな嬉しいのさ…)
(もう、死ななくていいんだ)
(故郷へ帰れるんだ…)
(そう、みんな喜びに満ち溢れていたって当然なんだ…)
(こんな、戦争、いつまでやったって勝てるわけないじゃないか…)
(何で、勝てない戦争を俺たちは必死にやっていたんだ?)
(みんな、どうしちまったんだ?)
呆然と周囲の兵隊の顔を見ていると、険しかった表情が喜びに変わっていく様を横田は見ていた。
(そうか。みんな、嬉しいんだな…。そうだよな…)
(戦争が終わったんだもんな…)
(もう、すべて終わりだ…)
(柿崎中尉、池渕中尉、久家少尉…、俺は、どうしたらいいんだ…)
横田は、高く昇った太陽を見詰めると、一人、その場の喧噪から離れ、とぼとぼと足を引きずるように回天の元に戻って行った。
太陽は、相変わらずギラギラと輝き、周囲を光りの渦に包んだが、さっきまでの光りと今の光りがまったく違って見えるのは、どうしてなのだろうか…?
横田は、今までの疲れがどっと出てくるような気がして、足下をふらつかせた。
作業場に戻ると、本来乗艇するはずだった新型回天の傍らに座り込み、混乱した頭を整理しようとしていたが、どうしようもなかった。
とにかく、戦争が終わったのだ…。
死にたくても、死ぬ術がない。
回天搭乗員が、回天で死ななくて、何で死ぬ意味があるのだ。
(隊長、横田は、また生き恥を晒してしまいました。もう四度目です。隊長、私はどうしたらいいのですか?)
(これから、俺は、どう生きたらいいのですか…)
横田の目には、あの厳しくも優しい柿崎中尉の面影が浮かんでいた。
そこに、そっと近づく足音があった。
新海一飛曹である。
新海とは、同じイ号36潜水艦で出撃し、艇の故障で戻ってきた同期の戦友だった。
新海は、そっと横田の肩に手を置いた。そして、何も言わずそのままじっとしていた。新海の手の温もりが横田の肩に伝わって来た。
(新海…)
その新海の手は、小刻みに震え、何も言わなくても新海の気持ちは、その手をとおして横田の体の中に染みこんできていた。
(新海…、ありがとう)
横田は、そのまま溢れる涙を拭こうともせず、じっと肩を震わせているのだった。
それは、新海喜久夫一飛曹の気持ちも同じだった。
新海も二度の故障で生還した一人で、横田の気持ちをだれよりもわかる唯一の親友だった。
こうして、横田豊一飛曹たちの戦争が終わりを告げたのだ。
第1章 復員
こうして、戦争は、あっけなく終わった。
8月15日の玉音放送を聴く前までは、「一億特攻だ!」「本土決戦だ!」と叫び、そのために命を懸けて戦ってきたというのに、あの天皇陛下のお言葉一つで、ここにいる隊員のすべてが、何かを悟ったかのように、黙って私物の整理を始めているではないか。
(なんだったんだ。この戦争は、なんだったんだ…?)
横田は、しばらくは回天の側から離れることができなかった。しかし、もうそこには、一緒に整備する整備員の姿はなく、少し前に佐々木一曹が横田の前に立ち、
「横田…。残念だが、戦争は終わった…」
「もう、俺たちが戦う大義がないんだ…」
「すまんが、俺は、田舎に帰る。だから、おまえも帰れ…。そして、これからのことを考えろ」
「じゃあな、元気でやれ…」
そう言うと、横田のくしゃくしゃになった戦闘帽の上から、頭を撫で去って行った。
この佐々木一曹は、志願兵で横田より5つ年上の妻帯者だった。
二つになる子供もおり、それでも戦場に臨めばだれよりも勇敢な兵士だった。
この佐々木一曹にとっても、多くの戦友を失いながらも、生き抜くことができた。それに、妻や子に会える喜びはあるだろう。しかし、それ以上に多くの戦友を失った悲しみや悔しさはあるのだ。
その佐々木一曹が、そんな気持ちを飲み込んで、一人寂しく肩を落として去って行くのだった。
だが、そうした佐々木一曹の言葉は、このときの横田には何も響かなかった。と言うより、佐々木一曹の存在すら、横田は感じていなかったのだ。
だが、横田の目には、一筋の涙が流れた。
(もう、どうしていいのか、わからん…)
そんな横田に寄り添うように、肩にそっと手を置いたのは新海だった。
新海は、
「さあ、横田。もう行こう…」
その顔は、散々泣いたのだろう。眼が腫れ、涙の筋が頬にくっきりとついていた。それでも、横田に声をかけずにはおられなかったのだ。
新海が横田の肩に手を置いたとき、横田には、それが新海だ…ということがすぐにわかった。
一緒に死線を超えた戦友同士の絆が、それを感じさせたのかも知れない。
横田は、新海に抱きかかえられるようにして、兵舎に戻っていくのだった。
その晩、横田は一睡もできなかった。
戦争が終わったといっても、いきなり軍隊がなくなったわけではない。
明日になれば、訓練はないとしても、軍隊としての日常はあるのだ。
寝床で、横田は、これまで一緒に戦った戦友たちを思い出していた。
出撃前に殉職してしまった三好中尉に同期の矢崎二飛曹。そして入江一飛曹。
一番先に逝ってしまった菊水隊の仁科中尉。
だれよりも兄と慕った天武隊の柿崎中尉。
学校の先生になるはずだった同じく天武隊の前田中尉。
いつも励ましてくれた天武隊の古川上曹。
明るく接してくれた天武隊の山口一曹。
新婚の妻を残して逝った轟隊の池渕中尉。
最後まで心配をしてくれた轟隊の久家少尉。
飄々として逝ってしまった轟隊の柳谷一飛曹。
どの顔も横田に笑顔を見せてくれていた。しかし、だれもが無言で横田を笑顔で見詰めるばかりである。
横田は、それぞれの顔を思い浮かべながら泣いた。その嗚咽は、一晩中続いた。
それくらい、横田は苦しかったのだ。
(生きる…ということがこんなにも辛いものなのか…)
それは、戦場で戦っている以上に、横田の胸を締め付け、どうしようもないくらいに苦しかった。これも、横田の戦いなのかも知れない。
そうして一晩中呻吟した横田は、朝の起床ラッパとともに体を起こすと、洗面所で髭を剃った。
そこに出くわした新海を見ると、横田は、ふっ…と笑顔を見せた。
「なあ、新海。今日は特に作業や訓練はないようだ…」
「どうだ、お互いの頭を刈らんか?」
新海は髭を落とした、二十歳の若い横田の顔を見ると、
「なんだ、貴様は意外と童顔だったんだな…」
「これで、頭を刈ると、まるで少年兵だぞ…」
そう冷やかすが、横田は、それを気にするふうもなく、
「ああ、そうだな。だが、もう兵隊の横田豊は終いだ…」
「もう一度、素に戻って出直すさ…」
その笑顔は、昨日までの横田ではなかった。
新海は、土浦航空隊に入隊したばかりのころの横田と自分の姿を思い出していた。
時間が経ったといっても、それから、まだ2年と経ってはいないのだ。
(こんな僅かの時間に、俺たちはとんでもない経験をしたもんだ…)
新海はそう思ったが、それを語り合える戦友は、もう何人も残ってはいなかった。
復員が始まったのは、それから三日後のことだった。
何でも進駐軍の命令とかで、『速やかに軍を解体し、兵隊を帰郷させるように…』との命令が出ているとのことだった。
横田と新海は、隊を離れるにあたって、二人で板倉中佐の元に出向いた。
板倉中佐は、回天隊創設以来の指揮官で、横田たちがここに来たときから、「鬼司令」と呼ばれ、その訓練は容赦のないものだった。
しかし、もう、敗戦となれば、中佐も一等兵曹もない。
近々、海軍は解体され、階級も関係なくなるのだ。そうなれば、板倉中佐は40歳の中年親父であり、横田や新海も二十歳の青年なのだ。
本部建物に入っても、もう、だれも咎める者はいなかった。
数日前までなら、下士官風情が士官専用の階に立ち入ろうものなら、「待て!」の号令がかかり、厳しく咎められたものだが、今では、士官たちも見て見ぬ振りをしている。
それに、坊主頭に髭まで綺麗に剃った二人の青年が、あのベテラン特攻隊員だった男たちだとは、気づく者もいなかった。
司令室と書かれた扉をノックすると、中から、
「ああ、入れ…」
と言う静かな声が聞こえた。声は、間違いなくあの板倉鉄馬中佐だった。
板倉中佐も、私物の整理をしているところだった。
海軍が存続するなら、上官の私物の整理も従兵の仕事だろうが、今や、だれも手伝おうとする者もいなかった。
腰を下ろし、屈んで荷物をまとめている姿からは、あの「鬼司令」の面影はなく、ただの痩せこけた貧相な親父がそこにいるだけだった。
頭は薄くなり、残された髪も真っ白で、40くらいの年齢のはずだったが、60過ぎの老人にしか見えなかった。
入ってきた二人の姿を見ると、板倉中佐は、少し驚いたように顔を上げたが、すぐに気がつくと、
「ああ、横田と新海か…。どうした?」
横田が、
「はい。我々も明日の連絡船で大津島を離れますので、ご挨拶に参りました」
そう告げて、海軍式に敬礼をすると、
「おい、もう、そんな真似はやめろ…」
「もう、海軍はなくなるんだ。俺なんぞに敬礼なんかするんじゃない」
「俺は、君たちを死地に追いやった男だ…。憎んでも憎みきれない鬼だ…」
「君らに殴られても、罵られても仕方のない男だ…」
「戦争が終わるのがわかっていたら、急いで出撃なんかさせなかったものを…」
「本当に、すまない…」
板倉中佐は、二人の前に膝をつき、深々と頭を下げるのだった。
それは、数日前まで威厳を保っていた回天隊司令の面影はなく、それを見る横田や新海も辛かった。
「司令は、この後、どうされるのですか?」
新海の質問に、板倉中佐は、
「まあ、ここの最後を見届けてから、郷里の佐賀に戻ってみるしかあるまい…」
「後は、特攻隊の司令として、進駐軍に呼び出されるだろうがな…」
「君たちは、せっかく拾った命だ。死んだ連中の分まで生きてやれ…」
そう言うと、また、二人に背を向けて荷造りを進めるのだった。
それきり、二人の方に振り向くことはなかった。
横田と新海は、早々に挨拶を済ませると、その場を後にした。
本部建物の中は、残務整理でごった返しており、噂では、
「進駐軍が、回天の秘密を知りたがっているそうだ。特に出撃経験のある特攻隊員は、連行されるらしいから、すぐに復員せよ!」
などと言われ、優先的に復員切符が渡された。
横田は、東京の世田谷だったし、新海は福島の白河だったので、早々に立ち去るように促され、詰めるだけの荷物を軍用リュックに詰め込み、翌日の早朝に復員用の連絡船に飛び乗ったのだった。
その日、特攻出撃していながら、終戦の報せで戻ってきていた橋口中尉が、自分の回天に乗り込み、拳銃自殺を遂げていた。
だれもいない深夜に、こっそりと忍び込み、回天の操縦席に座っての覚悟の自決だったようだ。
しばらくは、そのことにだれも気づかず、回天を処分するために整備員がハッチを開けて始めて、橋口中尉の遺体を発見したのだ。
橋口中尉の遺骨は、同期の戦友が荼毘に付し、郷里へ届けるということだったが、遺族にはなんて説明するのだろう…。どちらにしても、辛い最期だった。
横田と新海は、回天隊の大津島から逃げるように復員切符を手に列車に飛び乗った。東京に向かう汽車は何本もなく、到着した列車は、既にすし詰め状態で、横田は、重いリュックを背負ったまま、ひたすら下を向いてその苦痛に耐えてた。
乗客は、復員兵ばかりでなく買い出しに行くのだろうか…、大人の男も女も乗っていたが、この列車の乗客はだれもがむっつりとした顔で、無口だった。
着ている物も粗末で、一様に厚手の布でできたリュックを背負い、中には手にも袋を下げている者もいたが、この猛暑の中でさえ、苦痛を訴える者もなく、険しい顔をして汚れた手ぬぐいで顔を拭うのがせいぜいだった。
身なりから横田や新海が復員兵だということはわかっただろうが、それを咎める者もいなかった。
国民みんなが、あきらめというか、急な敗戦に呆然としていたのかも知れない。
その乗客が一瞬、驚きの声を上げ窓越しに見入ったのは、広島駅に着くころだった。
横田も新海も広島駅には馴染みがあった。
土浦から大津島に向かうとき、200名の先任として、横田は同期の仲間を引率して広島駅に着いた。
ここは、山陽道の中心で、軍都として栄えた都市である。
日清、日露のころの広島と言えば、大本営が置かれ、ここの宇品港から兵隊が続々と大陸に送られて行ったのだ。
大津島に向かう横田は、10分ほど停車する予定の広島駅のホームに出て、昼食用の弁当を買うのだった。広島駅の牡蠣や穴子の弁当は飛ぶように売れ、田舎者の新海などは、ひとつの弁当をペロリと平らげると、物欲しそうにキョロキョロするのだったが、だれもが、珍しい弁当に舌鼓を打ったことを思い出していた。
その広島が、何も残されていない荒涼とした瓦礫の山なのだ。
「おい、横田…。これが、あの広島なのか?」
新海が不安そうな声を上げた。
「ああ、やっぱり…。原爆が広島を消し去ったんだ…」
「なんて、酷いことを…。俺たちは、とんでもない国と戦争をしていたのか…?」
(本当は、自分たちが身を捨てて守らなければならなかった人々を、敵の手によって無惨に焼き尽くされるとは…)
横田も新海も呆然となってその惨状を眼に焼き付けるしかなかった。
それは、蒸し風呂のような列車に乗る多くの人々の脳裏に強く刻みつけられたに違いない。
列車が広島駅に停車すると、それでも多くの人がここで降りていった。また、僅かではあるが、ここから乗り込んで来る人もいた。
二人は、顔を見合わせると、頷き合ってここで降りることにした。
復員切符は、幸いなことに、乗り降り自由になっていた。
それは、遠隔地に帰る者は、何日も列車に乗らなければならない。そうなると、どこかで泊まる必要があったことから、そんな措置がされていたようだった。
二人が広島駅で降りたのには、わけがあった。
彼らには、ひとつだけ気がかりなことがあったのだ。
それは、横田と新海が、天武隊としての出撃前の休暇でこの広島に訪れていたからである。そのとき、誘ってくれたのが天武隊の柿崎穣隊長だった。
与えられた休暇は三日。
東京と福島に実家がある横田と新海には、往復を考えると帰省は無理である。無理をして帰省して、出撃時刻に間に合わなければ、恥となるばかりか、軍人として許されない重罪であった。
そんな二人に声をかけてきたのは柿崎隊長だった。
隊長は、
「そうか、二人とも東京と福島じゃ、帰れんな…」
「俺も、山形の酒田だ…」
「そうだ、俺と一緒に広島の叔母の家に行かないか?」
「江田島の兵学校に入ってからは、休みになるとこの叔母の家に厄介になっていてな…。まあ、こっちのお袋のようなもんだ…」
「弟を二人連れて行く…と電報を打っておくから、おまえたちも一緒に来い!」
こうして、横田と新海は、柿崎隊長に連れられて広島の街中に住む隊長の叔母さんの家に行くことになった。
広島の叔母の家は料理屋を営んでおり、ご主人が板前で、二十歳を過ぎた娘さんと叔母さんが店を切り盛りしていた。
広島は、海産物と酒が豊富なために、戦時中でもこうした料理屋は軍の関係でなんとかやっていけている…とのことだった。
隊長は、叔母さんの前に出ると、
「やあ、叔母ちゃん。今日は、俺の隊の弟を二人連れて来た。今日と明日の二日間だけど、面倒を看てやってください…」
そう言って、主計科から貰って来た缶詰や米、塩や砂糖などを風呂敷ごと叔母さんに手渡した。
それを見た三人は、
「いやあ、今時、凄いものばかりですね。穣ちゃん、ありがとう…」
そう言うと、早速、たくさんの料理と酒でもてなしてくれたのだった。
広島は、これまで空襲もなく、生活は落ち着いているとのことだったが、軍都であるだけに隊長は殊の外気にしていて、
「万が一のときは、すぐに逃げるんだぞ…」
と三人に言い聞かせていた。しかし、8月6日のあの原爆では、どうにもならない…ことは、横田たちにもわかった。
それに、この有様では、叔母さんたちの料理屋もどうなっているのか、気がかりだったのだ。
横田は、
(まず、助かることはないだろう…。この有様では、どうにもならん…)
そう思ったが、訪ねないわけにはいかなかった。
柿崎中尉の叔母の繁子さんは、稲荷大橋のたもとで料理屋「二幸」を営んでいた。小さな料理屋だったが、当時は下士官兵が多く集う下町の料理屋という雰囲気の店だった。
軍の指定料理屋のようになっていて、この日も下士官兵が多く集まって、飯を食っていた。
そこに、海軍中尉の柿崎隊長が入っていくと、その場にいた兵たちが箸を置くなり、ザッと立つので、隊長は慌てて、
「ああ、ここは私の家なんだ。みんな、すまない…」
そう言って、そそくさと奥に入っていった。
横田と新海も、それに続いて奥に入っていったが、叔母さんが早速顔を出し、
「あれ、穣ちゃん。何…早かったわね…」
「じゃあ、先にお風呂に行ってきなさいよ…」
そう言うと、隊長は、勝手知ったる家らしく、
「ああ、そうするかな…。後で、旨いものを頼むよ…」
そんな風に声をかけると、さっさと二階に上がり、丹前に着替えるのだった。
横田たちの分も用意してくれてあり、三人は連れだって近くの「華の湯」で訓練の疲れを癒やしたのだった。
広島駅からは、10分ほど南に真っ直ぐ歩き、稲荷大橋を右手に見た道沿いにあったはずだが…。
道は辛うじてわかったが、周囲は瓦礫の撤去も進んでおらず、未だに燃え滓が燻っているような状態で、「二幸」も「華の湯」も消えてなくなっていた。
原爆投下地点から1㎞も離れていないのでは、助かりようもなかったはずだった。
近くを通る男に訪ねてみたが、首を振るばかりでどうしようもない。
おそらく、叔母さんもご主人も娘さんも、そろそろ朝ご飯でも済まそうとしているときに、襲われたのだろうと思った。
それでも、叔母さんは、柿崎中尉の戦死は新聞にも大きく取り上げられたので知っていたはずだし、今ごろは、向こうの世界で楽しく過ごしていることだろう…と考えることにした。
真夏の広島は暑く、街中に焦げ臭い臭いと死臭が漂っており、その荒涼とした街を汽車だけが走っている姿は、まさに敗戦国の象徴のような光景だった。 駅に戻って、翌日一番の汽車の時刻を確かめると、許可を貰って構内で休むことにした。
食糧は、大津島から持ってきたので心配はなかったが、周囲の目を考えると、食欲が湧くものでもなかった。
新海は、
「なあ、横田よ。俺たちはこの2年間、一体何をしていたのかな?」
「いや、日本中、何をしてたんだ?」
「俺は、もう戦いは懲り懲りだ。田舎に帰ったらもう一度勉強をし直して、学校の教師になるよ…」
「これからは、もう平和な時代だ。新しい教育も始まるだろうし…」
「俺は、鉄砲を持つより鉛筆の方がいいな…」
それは、新海の本音だったと思う。
新海が、予科練を志願して来たのだって、本当のことを言えば、周囲からあれこれ言われるのが嫌だったということもあったようだ。
勉強がよくできた新海は、それだけ地元の希望だったのかも知れない。
「横田は、どうする?」
そう言われて、横田は、何も考えていなかった自分に気がついた。
東京の世田谷の家がどうなったのかもわからない。
話では、何度か空襲があったらしいし、父親は、それこそ私立成条中学校の数学の教師をしていたから、すぐに疎開…ということもできないだろう…と思った。
それに、我が家は、街中ではないから、防空壕に避難していれば、そうそうやられることはないだろう…くらいには考えていた。
はがきは、一応、先月まで届いていたので、家が無事だあることはわかっていたが、家族の消息までは掴めなかった。
それに、検閲のために「元気でいる…」くらいしか書けず、「出撃」のときも一切、それには触れなかった。
返事はときどき貰ったが、墨が塗られていることも多く、やはり検閲が厳しくなっていた。だから、お互いの通信も要領が得ず、家族は、横田がずっと山口の航空隊にいるものだと思っているに違いなかった。
ただ、そのはがきも、今月は出さなかった。
横田は、新海の顔を見ると、
「そうだな…。とにかく、死んだ戦友の遺族を回りたい。そして、できるだけその最期の様子を伝えたいと思う…」
「俺には、何もできんが、せめて、それをすることで、先に死んで行った者たちへの供養になるんじゃないか…と思うんだ」
「それに、最後の様子を知れば、遺族の気持ちも少しは救われるような気がしてな…」
「いや。と言うより、俺の気持ちかな…」
新海は、それに応えるように、
「そうか、おまえは偉いな。横田は、昔から、俺たち13期の先任で、ここに連れてきてくれたのもおまえだからな…」
「横田は、ずっと俺たちの先任なんだな…」
横田にも、この「先任」という言葉が懐かしかった。
回天要員に指名された土浦空の200名の同期生を、東京駅から3日かけて広島の大津島に連れて行ったのが、昨日のように思い出されるのだった。
そして、
「新海は、いつだって俺を助けてくれたじゃないか…」
「おまえがいてくれたから、こうして今も生きていられるんだ…」
「これからも、頼むよ」
そう言って、お互いの手を握る二人だった。
それからの新海は、白河の郷里に帰ると農作業の傍ら、教員の資格を取り、中学校の数学の教師になった。
それでも、年に何回かは東京に出て来て、横田と一緒になって復員局で土浦空回天隊200名の消息を辿り、戦死した者の遺族を探す仕事を手伝ってくれた。そして、学校では生徒や教職員に、戦争の虚しさを語り続けたのだった。
横田にとって、この新海喜久夫という男は、親兄弟以上のかけがえのない戦友だった。
第2章 新しい旅立ち
3日かけて東京駅に辿り着いた横田と新海は、連絡先を交換しあうと、新海は上野駅に向かった。そして、横田は、世田谷の実家に帰ることになった。
新海が、別れに告げた言葉はひと言だった。
「土浦海軍航空隊 甲種飛行予科練習生13期 先任兵曹に申告いたします!」
「海軍一等飛行兵曹、新海喜久夫、ただ今軍務を解かれ、復員いたします!」
「大変、お世話になりました…!」
その声は、構内中に響き渡るような大きな声だった。
周囲もこちらを見てざわついていたが、それを咎めるような様子はなかった。
なぜなら、大声で申告する新海の眼には大粒の涙が光り、泣きながら訴えるように叫んでいたからである。
その声に横田も応えた。
「海軍一等飛行兵曹、新海喜久夫。回天特別攻撃隊隊員の任を解く!」
「以上、解散!」
そう言うと、襟章のない汚れた第三種軍装の襟を正し、海軍式の敬礼を返した。
新海は、涙を湛えた眼で横田を見詰めると、敬礼を返し、口を真一文字に結んで踵を返した。
そして、二度と横田を振り返ることなく、上野に向かうホームへと向かうのだった。そして、横田も敬礼をしながら新海が視界から消えるのを見送ったのだった。
横田は新海を見送ると、世田谷の実家に戻った。
世田谷も軍需工場がいくつもあったために度々空襲に見舞われたが、幸い、横田の家のあったあたりは類焼を免れて、家族は全員無事だった。
横田が実家に辿り着いたのは、8月22日の夜になっていた。
ちょうど、終戦の玉音放送を聴いてから1週間が経っていた。
玄関のガラス戸をガラッ…と開けると、横田は小さな声で、「ただいま…」と告げるのだった。
「はあい…、どなた?」
その声は、懐かしい母の声である。
(あ、お母さんは無事だったんだ…)
そう思うと、横田はちょっぴり嬉しさがこみ上げてきた。
奥からパタパタ…と小走りに出てくる母の姿があった。
横田は戦闘帽を取り、玄関に佇んでいると、母の幸枝は驚いたように、その場に立ち尽くした。
「あ、あなた豊なの…、ねえ、豊なの…?」
「はい。豊です。今、大津島から復員してきました…」
母は、奥に向かって、
「お父さん…、お父さん。豊、豊です…、豊が還ってきました…」
そう叫ぶなり、その場にしゃがみ込み、豊に向かって手を合わせるのだった。
横田が、家族に向かって本当のことを話したのは、それから三日も過ぎてからのことだった。
父の学は、私立の成条中学校の数学の教師をしていた。
極度の近視があり、若いころに肺を患ったこともあって、招集されることはなかったが、食糧不足のためか、元々痩せていたものが、益々細くなっていた。
父は、
「こんなに早くおまえが還ってくるとは思わなかった。まあ、内地の航空隊だと聞いていたので心配はしていたが、時々はがきが届いたんで、家族は、安心しておったんだよ…」
そう言いながらも、
「だが、豊。おまえ、一体軍隊でどんな苦労をしたんだ?」
「その痩せ方といい、窪んだ眼といい、おまえの姿は尋常じゃない…。おまえ、よほどの辛い経験をしてきたんじゃないのか…?」
そう心配げな声をかけたが、それ以上、追及することはなかった。
それから数日は、何をするでもなく、ぼんやりとした日を過ごしていた。
横田にとって、この2年間は、尋常ではない生活を送っていたことに、ここにいて改めて気づかされていた。
訓練に次ぐ訓練。
生死をかけた猛訓練からは、多くの殉職者を出し、回天に乗艇することが、即、死を意味していた。
実戦に出れば、潜水艦内での長い航海が続き、いつ遭遇するかもわからない敵船団をひたすら待ち、「敵船団、発見!」となれば、即座に回天で発進しなければならない。
その間の緊張感たるものは、尋常では考えられなかった。
それでも横田たち回天隊の搭乗員は、みんな、それに耐えた。耐えに耐えた結果が、体当たり攻撃である。
今さらながら、理不尽な戦いだと思うが、あのころの仲間は、だれもが当たり前にやっていたことなのだ。そう考えると、今の自分が異常に見えて仕方がなかった。
父の学は、学校が休日の朝、縁側でぼんやりとしている横田の隣に座ると、声をかけてきた。
「おっ、豊。どうだ、少しは疲れが取れたか…?」
「おまえも、海軍に行ってから随分苦労したんだな…。それに比べれば、俺の苦労なんか、なんでもない」
「子供が親より苦労しているなんて、なんか、申し訳ない気がするよ…」
そう言うと、煙草を一本取り出すと、ゆっくりと紫煙を楽しむのだった。
「あれ、父さん。その煙草は…?」
「何だよ。おまえが土産だ…って母さんに渡した荷物の中にあったんだぞ」
「おまえも吸うのか?」
「いや、俺は吸わない。と、言うより体に合わないみたいなんだ…」
「じゃあ、これは、俺への土産か?」
「あ、ああ、そうだな、きっと…」
そんな生返事をしたが、あのときは、とにかく「早く帰れ!」という命令で、慌てて、その辺にある物をリュックに詰め込んできただけだから、何が入っているのかも確かめもしなかった。
そう言えば、主計科の若い兵隊が、詰めるのを手伝ってくれたんだっけ…。(そうだ、あいつは少年兵の佐藤だ…)
(あいつには、世話になったんだな…)
そんなことを思い出していた。
すると、父は横田に、
「豊…。腹の中に抱えていても辛いぞ。みんな吐き出しちまえ…」
煙草を吸いながらポツリと言う父の言葉が嬉しかった。
その声に励まされるように、横田は、父の学にポツポツと軍隊でのことを話し始めた。
横田にしてみれば、敢えて黙っていたわけではなかったが、聞かれもしないのに言う話でもなかったし、話したところで、他人が理解出来る話でもない…と考えていたからである。
そして、あの土浦空で講堂に集められた時からのことを掻い摘まむようにして話していた。
それは、話すというより独り言のように呟いていたという方が正しいのだろう。
父が聞いていようがいまいが、話し始めた豊は、何かを訴えるように苦しい胸の内を吐露していたのだ。
知らないうちに母の幸枝と妹の綾子が、父の後ろに座って話を聞いていたことに、豊は気づかなかった。
お盆が過ぎ、少しずつ秋の気配が感じられる季節になっていた。
空襲に怯えることもなく、平凡な日常が戻ったかのように見えたが、そのころの日本人には、先の希望もなかった。ただ、「死なずにすんだ…」という安堵感だけが心の中を支配していた。
そして、横田たちのような復員兵は、戦場での過酷な体験を抱えながら、生きていかなければならない…という運命を背負わされていたのだ。
それでも、横田のように心情を吐露できた者は幸せだった。何も聞かれず、何も語らず、そのまま生涯を終えた者は多いのだ。
横田の話は、1時間以上も続いた。
そして三人の家族は、それを黙って聞いていてくれた。
母の幸枝と妹の綾子は、泣きながら横田の話を聞いていた。
最後に、東京駅で戦友の新海と別れたところで、横田は話を終えたのだった。
数秒の沈黙の後に、父は、
「そうか…。おまえは二十歳そこそこの若さで、一生分以上の苦労をしたのだな…」
「本当に、ご苦労様だった…。国民を代表して俺から礼を言う」
「ありがとう。そして、お疲れ様でした…」
父はそう言うと、正座をして横田に深々と頭を下げるのだった。その後ろでは、母と妹も同じように横田に向かって頭を下げていた。
それは、横田にとって思いがけない行為だった。
自分の気持ちを話しただけなのに、家族からこれほど丁寧に礼を言われるとは、思ってもみなかったからである。
それに、今や敗残兵と成り果てた元海軍の兵隊が、誉められるようなことは何もない…と恥じた。
「やめてください、お父さん…」
「僕らが至らなかったばかりに、大勢の人を死なせ、日本を敗戦国にしてしまいました。謝らなければならないのは、僕たちの方です…」
横田は、そこまで話すと、少しずつ自分の気持ちが晴れていくような気がしていた。そして、
(そろそろ、俺も新しい道を探さなければならないな…)
(もう一度、勉強をしながらでも仕事を見つけないとな…)
と考えるのだった。
あの広島の惨状を見たとき、あの街は二度と復興することはないだろう…と思った。だが、それは違う。
いくら人が死に、街がなくなったとしても、生命はそこに宿るのだ。
新しい命が生まれるのだ。
きっと、柿崎中尉も死んでいった戦友たちも、みんな新しい命を得て、生まれ変わるのだ…。
横田は、少しずつ顔を上げて空を見上げた。
今日も真夏の太陽がギラギラと輝き、そのエネルギーを俺たちに与えてくれている。
あの柿崎隊長の分まで、俺は生きよう…。そう思う横田だった。
横田は、父親の伝手を頼って、取り敢えず、小学校の臨時教員になった。
戦争で多くの若い男の教師が出征し戻って来ないのだ。また、女の先生たちも疎開や結婚で仕事を離れた者が多く、学校はどこも人手不足だった。
横田は、一応府立中学校の卒業証書を持っていたので、軍歴を隠して私立成条小学校に勤務できることになった。
(そういえば、あの新海も中学校の教師になるって言ってたな…)
そう思うと、新しい時代に相応しい仕事のように思えるのだった。
この成条小学校は、教育学者の沢柳育太郎博士が、日本に「自由教育」の必要性を説いて大正6年に創立したものであった。
沢柳博士の信条は、「随時随所無不楽」というもので、
「いつどんなときでも、楽しみを見い出すことはできる」
の信念の下、成条小学校を舞台に、新しい教育方法を実験的に導入し、子供たちの自発的思考を促したと言われている。
もちろん、戦時中は、国の統制下にあり自由な校風は失われていたが、それでも成条学園の教師たちには、その思いは消えることはなかった。
父の学が、成条中学校の教師になったのも、大正時代のそんな自由な教育に憧れたからかも知れない。
成条小学校の校長の乾誠は、学の先輩教師だった人で、空襲時でも学校の校長室に陣取り、学校への類焼を防いだといわれる男気に溢れた人物だった。
当然、横田の経歴を承知の上で採用してくれたのだ。
面接のために、成条小学校の校長室を訪ねた横田に、
「横田君。本当に御国のためにご苦労さまでした…」
「こんなご時世で、君たちの苦労に報いてやることができないが、私としては、精一杯応援させてもらうよ…」
「これまでの苦労を、日本復興のために役立ててくれ給え…」
50歳をかなり越えたであろう校長自らが、頭を下げてくれたことで、横田にも、わだかまりが消え、ここで教師として働く決心をしたのだった。
(元特攻隊員の教師か…?)
(新海に報せたら、さぞや驚くだろうな…)
そう思うと、可笑しくもあったが、ここを自分の戦場と覚悟を決めて、あの世で見ていてくれるだろう…柿崎隊長の霊に誓うのだった。
第3章 新米教師
昭和20年10月1日。
横田は、いよいよ教師としての道を歩み始めた。
世の中は、敗戦後の混乱の中にあったが、疎開していた子供たちも順次戻り、少人数ながらも学校が再開されていったのだった。
だが、教室があっても、子供は各学年20人程度しか戻らず、疎開に行ったきり、現地で暮らす子供も多かった。
世田谷周辺は、元々、軍関係や役人、会社勤めの家庭が多く、商店もあったが、根っからの地元民は少なかった。そのために、空襲で借家が焼かれると、戻ってきても住む家もない有様だった。そのためか、東京は、しばらくは寂れた街のようになっていたのだった。
それでも、秋口になると、仕事を求めて東京に戻ってくる人も多くなり、世田谷にも、昔からの人が顔を出すようになっていた。
学校も再開されたが、元々は40人ほどの学級が学年で5つほどあったが、今は、男女混合の学級が各学年1クラスできるのがやっとだった。
成条小学校では、乾校長が終戦直後から「学校再開」を宣言したために、教職員も疎開などから戻り始め、9月1日には、学校は再開されていた。
5年生の学級が再開されたのは、10月1日になっていた。
6年生は、なかなか疎開先から戻れず、再開されるのはもう少し先のようだったが、それでも、1年生から5年生までの100人足らずの学校でも再開されたことは、喜びであった。
横田は、その5年生の学級担任になった。
子供たちは、男10人、女9人の学級だった。
この成条小学校に入学してくる子供は、だれもが良家の子弟だったが、それでも、この戦争によって大なり小なりの苦労をして育っていた。
見た目には、学校に来ればワイワイ、ガヤガヤと子供らしい姿で燥いではいたが、一人一人は、何らかの事情を抱え、戦後の生活や教育に戸惑っているようだった。
既にGHQからは、「民主主義教育」と題した資料が教職員全員に配布され、これまでの教科書もほとんどが使用できないことになった。
それでも、算数や理科はまだよかったが、国史や修身は、ほぼ使用できなかったし、軍や天皇などが登場してくる話は、全面「禁止」となっている。
「当分の間、教科書に墨を塗って使用するように…」とのお達しがあったが、成条小学校では、これを無視し、これまでの教科書を使用することになった。ただし、教科書がなく困っている子供も多く、墨などを塗らなくても、教科書を使って授業ができるようになるまでには、相当の時間がかかると思われた。
乾校長は、
「戦争に負けたのは、日本軍だろう…」
「戦争に負けたからと言って、日本の教育にまで口を出す権利が、アメリカにあるのか!」
と憤慨していたが、墨を塗らないことが、せめてもの抵抗だったのかも知れない。
この成条小学校は、私立の小学校だったために、こんな自由が容認されたのかも知れないが、各公立の小学校は、一律に墨塗教科書で学んだようだった。これに嫌気がさして教師を辞める者も続出したが、乾校長のこうした抵抗が、成条小学校の職員の支えでもあった。
そもそも、学校の教師というものは、上からの命令には逆らえないものらしかった。
横田も海軍の生活をしていたから、命令と規律の重要性はわかっていたが、考えることまで制限が加えられるとなると、回天という特殊機械を操ってきた身としては、さすがに困ってしまった。
そのために、自ずと算数や理科などの教科が中心となり、国語は当たり障りのない文章を書かせたり、漢字を教えたりしていた。
横田は、中学校時代は海軍兵学校を目指していたくらいだから、成績はよかった。それに、海軍では理数科と英語は必須科目だったので、それらは得意教科でもあった。
海軍時代は、常に機械整備に追われ、高等数学を駆使する毎日だったので、自ずと理数科は、かなりの高度な内容をこなす自信があった。
小学校の5年生ともなると、知的好奇心が旺盛になるらしく、何でも「先生、先生…!」と聞いてくる。
最初のころは、煩わしさもあったが、生気に満ちた子供と一緒に過ごしていると、悶々としていた気持ちを薄らいでくるのがわかった。それに、このころの子供たちは、意地悪ではない。
みんな空襲に遭ったり、疎開をしたり、親兄弟を亡くしたりと、人並み以上の悲しさや辛さを共有していた。
だから、貧しい弁当を持ってきても、だれもがそうだから、嫌味を言う者もいなかった。とにかく、食べられるだけで幸せなのだ。
教師である横田の弁当も、戦前に作られた大きなアルマイトの弁当箱だったが、中味と言えば麦飯か玄米が中心で、それに大根や芋の煮付け、牛蒡や南瓜などがおかずだった。
それでも、子供たちは、
「いいな、先生は。そんなにたくさん持ってこられて…」
と人の弁当を見ては、羨ましがるのだった。
横田にしてみれば、海軍時代は、もっとたくさんの飯を食っていたわけだから、知らなかったこととはいえ、改めてこんな子供らに苦労をかけたことを詫びるのだった。
「みんな、すまないな…」
「先生たちがしっかりしなかったから、戦争に負けてしまった…」
「申し訳ない…」
そんな風に謝ると、子供たちは、
「仕方ないよ。けんかもやってみなきゃ、わかんないし…」
「戦争をしたのは、先生じゃなくて、もっと大人の人たちだろう…」
「先生が、悪いんじゃないよ」
そう言ってくれる優しい子供たちだった。
この成条小学校は、戦時中でも自由教育の校風は忘れず、きちんとした道徳教育を行ってきた…とのことだった。
普通の学校では、戦争熱に煽られて、軍事教練のような真似事までしていたそうだが、ここでは、乾校長が、
「戦時中であろうと、本校の校訓は自由にある。沢柳博士の理念を忘れず、平時と同じ教育を施すべし!」
と、軍事教練などは最小限に留め、校風を守ったと聞いた。
そのために、子供たちも決して卑屈な人間にはなってはいなかった。
同じ苦労をするにしても、大人の考え方一つで、立派な教育ができることを学んだ横田だった。
同僚の教師たちも、そんな苦しい生活の中でも「成条の教師」だ…という誇りを失ってはいなかった。しばらくすると、横田の経歴を知る者もいたようだが、それをあからさまに非難するような者はだれもいなかった。
逆に、女の教師らは、それを知ると、
「横田先生もご苦労されたんですね…」
「困ったことは、相談に乗りますよ…」
などと声をかけてくれるようになった。
横田も薄々は、(ああ、知っているんだな…)と感づいたが、世間のように「特攻崩れ!」だとか、「死に損ない!」などと言われるようなことはなかった。
こうして横田の教師生活も数年が過ぎた。
昭和23年ころになると、生活は苦しかったが、次第に社会が落ち着きを取り戻し、終戦直後のような混乱は少なくなっていた。
配給は相変わらず滞りがちだったが、学校でも裏の畑に野菜を植え、給食の真似事のようなことも始めていた。
教職員の中には、実家が地方の農家だ…という者もおり、醤油や味噌を安く分けて貰ったりして、昼に温かい味噌汁を子供たちに「給食」と称して配るまでになっていた。
中味はいただき物も多かったが、野菜だけは多く煮込まれており、冬場は特に有り難い給食だった。
そういう日は、大人も子供も「麦飯に梅干し」弁当にお椀をひとつ持参してきた。いくら麦飯であっても、そこに温かい味噌汁がつけば「ご馳走」になった。
そのころになると、学校生活もかなり落ち着きを取り戻し、成条小学校も学年3クラスが整い、子供の数も700人を超えるまでになっていた。
先生たちの中には、戦死した者や空襲で亡くなった者もいたが、復員して学校に復職する人も出て来た。
そこで、横田は、思い切って乾校長を訪ねた。
「校長先生。実は、本校を辞めさせて戴きたい…」
それは、突然の申し出だった。
乾校長は、
「横田先生、急にどうされたのですか?」
「本校の学校再開時から、先生には本当に尽力していただいたのに、今になってなぜ…?」
それは、乾校長にとっても唐突な申し出だった。
横田は、何も言わずに世話になった成条小学校を去ることはできない…と考え、その理由を乾校長に語った。
横田は、生活が落ち着くと、あの日の言葉を思い出していたのだ。それは、終戦の1週間後、戦友の新海と東京駅で別れたときの言葉である。
横田は、新海にこう告げていた。
「落ち着いたら、俺は死んだ仲間の遺族を訪ね、彼らの最期を伝えようと思う…」
「そうすることが、最後まで生き残った俺の使命だと思うんだ…」
そのことを告げるために、行動しようとしていた。
横田は、乾校長に、改めて戦争中の体験を詳しく語って聞かせた。
横田の話す口調は淡々としており、感情を昂ぶらせることはなかったが、聞く乾にとっても、凄まじい体験談だった。
(だから、彼は、この3年間、本気になって子供にぶつかり、生きることの尊さを話してきたのか…?)
そう思うと、若い身ながら、自分をも凌駕した境地に達していることに頭が下がる思いだった。
横田の話は、静かな口調で1時間ほど続いたが、それでも、乾は、身動ぐことなく黙って聞いていた。
そして、横田が話し終わると、
「そうか、わかった…。君の考えは尤もだ」
「しかし、条件がある。いいかね…」
顔を上げた乾の目は、横田の眼をじっと見据えていた。
(条件…?)
横田にとっても、まさか校長が条件を言い出すとは、考えもしなかったからだ。もちろん、一時は引き留められるかも知れないが、多くの教職員が揃い、臨時の横田がいつまでもいる場所ではない。
次の仕事が見つかるまで…というつもりで3年間も教師という仕事をさせてもらったが、これもいい経験だったし、戦後の厳しい時代に職を得られたことは、本当に有り難いことだった。
だが、人間には引き際がある。
それが、今だ…と横田は思っていた。
「それは、どのくらいの日数が必要なのかね…?」
「はい、1年間は必要だと思っています…」
「そうか…、1年か?」
乾校長は、そう言って立ち上がると、一冊の本を書棚から取り出した。それは、本校を創立した沢柳育太郎博士の著書である「自由教育」と書かれた一冊だった。
「沢柳博士は、この著書の中でこうも言っている」
「未来は、社会が創るのではない。己自身が創るのだ…と」
「まだ、若い君がこれからの日本を創らないでどうする!」
「君には、教師という職に才がある」
「君は、気づいてはいないのかも知れないが、人に対して熱い情がある男だ。そして、子供にも真から寄り添うことのできる教師だ…」
「だったら、この仕事を君の生涯をかける仕事にし給え!」
そう言い終わると、乾校長は立ち上がり、
「私の権限で、君に一年間の休職を与えよう…」
「1年経ったら、また、ここに戻ってくればいい。次にここに帰ってきたときには、君は正式な成条小学校の教師として採用しよう…」
と言うのだ。そして、
「いいか。戦争は確かに負けた。だが、負けたのは君たちじゃない。我々大人なのだ…」
「君たちのような前途有望な若者を死地に駆り立て、愚かな戦争を続けたのは、私たちなのだ」
「だから、君たちは負けてなんかおらん。君たちの戦いは、これからなのだ…」
「横田君。君の心情はよくわかる。友への慰霊は、君たち残された者の使命だろう。なら、堂々と行き給え!」
「君が去った後、私は、残された職員や子供たちに君の真実を語ろう。いや、語らせてくれ…」
「そして、みんなで君の帰る日を待っているぞ!」
そう言うと、大きな手で横田の手をがっちりと握りしめるのだった。
第4章 教師 横田 豊
横田は、昭和24年の3月末で休職を取り、慰霊の旅に出ることになった。学校では、23年度末の退職者6名とともに、旅立ちを祝ってくれた。そして、一人、横田に寄り添う女性の姿があった。
それは、同僚の花田雅恵だった。雅恵は、横田の一つ年上の24歳で、横田が採用されたときに面倒を看て貰った先輩だった。
彼女は、兄を戦争で亡くしており横田には同情的だった。
学年は3年生の担任をしていたが、両親は長野に疎開しており、一人東京に戻ってきたということだった。
横田と雅恵が親しく口を利くようになったのも、学校が再開されて、混乱の中で助け合う必要があったからなのだが、雅恵は、てきぱきと子供たちに指示を出し、善悪の判断を見極める横田の姿に惹かれたと言ってもいい。
子供というものは残酷なもので、大人を見極める術に長けている。
どんなに賢そうな人物でも、自分たちにとって有益かどうかを瞬時に判断しようとするのだ。
もちろん、それだけ子供は大人の影響をもろに受ける存在だといえよう。
最初の1週間くらいは猫を被り、従順に見せるが、その「お試し期間」が過ぎると本性を発揮し始める。まして、戦争が終わり、社会の価値観が一変した直後である。
どこに行っても大人たちは、自信なげで弱々しく見えた。
戦争中は、大きな声で怒鳴り、「非常時、非常時!」を連呼して、子供にも容赦がなかった。それが、進駐軍が来るや否や、まさに「アメリカ万歳!」とでも言うように、アメリカ兵に尻尾を振っている。
そういう子供らも、アメリカ兵の乗るジープでも見つけようものなら、素っ飛んで行って「ギブミー、チョコレート!」を連呼するのだ。
浅ましいと言えばそれまでだが、子供の場合は、アメリカ兵に阿っているというより、アメリカ兵という菓子をくれる大人と遊んでいる感覚なのだ。
アメリカ兵も、そんな日本の子供と戯れるのも面白いのだろう。こちらが嬉しそうに笑顔を見せれば、いくらでも菓子を投げてくれた。
別に子供がアメリカ兵を信頼しているわけじゃない。子供は、大人がアメリカ兵に何も言えないことを見抜いているのだ。
そういう大人ばかり見ている子供が、強かでないはずがない。
学校に通えるだけ幸せな子供たちではあったが、生活は苦しく、学校から帰れば、家の手伝いに追われ、戦前のような豊かな生活は送れないでいたのだ。
だからこそ、子供は大人を常に値踏みし、大人の言葉に反論するようになっていた。
これまでの価値観が崩れ、怖れを知らなくなった子供たちは、確かに自由ではあったが、成条小学校で掲げる「自由」とは、まったく違うことに教師たちは戸惑いを見せていた。
雅恵もその一人だった。
子供のためと思い、一生懸命指導することも、子供たちにとっては「どちらでもいい…」程度のことなのである。いたずらをして叱っても、以前のように素直に聞く子供は少なくなり、いつも「だって…」と人のせいにしたり、言い訳をしたりする。
素直な「はいっ!」という返事は、とうに聞けなくなり、あちらこちらで、「だって…」と言い訳を繰り返し、終いには、
「なんだよ。大人だって嘘つきじゃないか?」
「戦争に勝った、勝った…って言っておきながら、ボロ負けじゃないか!」
「俺たちには偉そうに言えても、アメリカには何にも言えないじゃないか!」
二言目には、大人の痛いところを突くのだ。
若い雅恵にしても、同僚の多くの教師たちにしても、頭の痛いところだった。
ところが、臨時教師として入ってきた「横田豊」という青年は違っていた。
元海軍の下士官で特攻隊員だった…という話は、すぐに広まり、
「えっ、特攻隊なの?」
「じゃあ、あの特攻崩れって言うヤクザ者?」
「戦犯で捕まるんじゃないの?」
「やだ、私、こわいわ…」
そんな陰口が囁かれていた。しかし、校長の乾が、
「横田先生は、私の同僚だった中学の横田学教頭の息子さんだ…」
「国内におられたので、早々に復員し、人手不足のおり無理を言ってこちらに来て貰うことになった」
「府立四中出身で、海軍下士官として出征しておった人である」
「今は、臨時だがいずれ正式に採用される人なので、よろしく頼みます…」
などと紹介されたので、そのことを口にする者はいなかった。
雅恵は、兄が応召で海軍主計中尉として軍艦で戦死しているので、横田に興味を持った。
背は高く、目元の涼しげな青年ではあったが、なぜか若い人の溌剌とした姿はなく、寡黙で意思の強そうな風貌は、少し近寄り難さを感じていた。
それでも、初めての教師生活では教えてやらなければならないことも多い。
それで、同世代の雅恵が協力することになったのだった。
成条小学校は、戦前であれば児童数1000人を超えた時もあり、学級も各学年5つほどはあった。私立学校のために、学区制はなく、東京近郊から多くの子弟が通ってくる学校だった。
職員数も校長を含めて100人ほどはいたが、戦後間もなくは、30人ほどに減っており、英語や理科、音楽などを教える教師が不足していたのだ。それに、女ばかりでは、教育は成り立たず、そこに現れた横田は、数少ない有望な男手だった。
校風は、自由を標榜する学校だけに、戦時中と雖も、あまり堅苦しい規則に縛られることはなかった。ただし、勉強についてはかなり高度な内容のものを履修させており、名門中学校に進学する児童が多く、成条小も名門小学校と呼ばれていた。
横田の卒業した府立四中は、世間では「ナンバースクール」と呼ばれ、府立一中、二中、三中に次ぐ難関校の一つに数えられていた。
ここからは、陸軍士官学校や海軍兵学校に進む者も多かったが、どちらかというと高等学校を希望する生徒が多く、官僚や政治家、医師などを目指す生徒が多く在籍していた。
それだけに、横田が海軍甲種飛行予科練習生という下士官養成の機関に進むことに抵抗を示す者もいたが、昭和18年の段階では、それを言っている余裕はなかった…というところだろう。
このとき、横田と同じ予科練に進んだ者は5人いたが、生き残ったのは3人で、二人は戦死している。
横田は、この二人とは回天搭乗員として予科練を出てから会うことはなかったが、後で調べたところによると、一人は航空機事故による殉職で、ひとりは4月に鹿児島の鹿屋基地から特攻隊として出撃して還らなかったそうだ。
本当は、ここに自分が加わっていたはずだと思うと、熱い思いが湧いてくるのだった。
横田の子供への指導は、けっして妥協を許さない厳しさがあった。
まだ、6年生が戻らず、5年生が最上級生だったこともあり、横田は、20人の子供たちに「日本人としての誇り」を教え続けた。
時には、自分の過酷な体験も話して聞かせた。
子供たちは、そんな自分に真摯に向き合う横田を慕い、よく動くようになっていた。
横田の指示は、簡潔明瞭の上に、論理的に説明することも怠らなかった。
これまで教師は、どちらかというと「命令」が多く、論理的に説明することを省くきらいがあった。それだと、子供たちは何も考えることなく従順に上官に従う兵隊であり、指揮官にはなれない。
しかし、横田は、自分が潜水艦に乗っていたときの折田艦長や菅昌艦長を思い出していた。
こうした歴戦の艦長たちは、どんなときも沈着冷静で、自分の激しい感情を見せることはなかった。
絶対絶命に陥ったときも、怖れず慌てず、死を運命であるかのように悟り、人の意見に耳を傾けていた。
あの極限状態の中でさえ、冷静に判断しようとする姿勢は、自分にはなかった…と思う横田だった。だからこそ、生き残った自分は、常に冷静に判断し、行動しようと思うのだった。
それには、自分に正直でなければならない。
だから、子供たちに自分の過酷な体験も聞かせたのだ。
「三度出撃して、艇の故障で三度還ってきた…」
「そのたびに、大切な友だちを失い、腸が千切れるような辛い思いをした」
「それでも、今、ここにいる。なぜかはわからない…」
「だが、こうして生きている以上、私は嘘は吐かない。君たちに嘘は言わない…」
「それが、先生の考えだ!」
20人の子供相手に話す内容ではないかも知れない。しかし、これを語らずして教師はできない…と考える自分がいた。
それに、横田の教え方は抜群だった。
戦時中に碌に勉強ができなかった子供たちにしてみれば、横田の教える算数や理科、英語は新鮮で、新しい驚きの連続だった。それに、横田の体育は、海軍で鍛え上げられた技を駆使し、高鉄棒で大車輪までして見せた。
夏の水泳ともなれば、横田のクロールは競泳選手かと見まがうばかりに美しく、細身ながら均整の取れた肉体は、子供たちに憧れを抱かせるのに十分だった。
実戦で鍛えられた横田の動きには無駄がなく、どんな校内の作業にも率先して参加し、その主力となって活躍していた。
小学校は、これまでも女性の多い職場で、男手は常に不足していたが、横田一人が加わったことで、どんな力作業も高所での作業も難なくこなす頼もしい若者だった。
これには、教頭の安西も眼を細めて乾校長に報告するのだった。
「いやあ、横田先生が来てからは、校内の作業がどんどん捗って助かります。また、復員してくる若い人がいたら、どんどん採用したいもんですね…」
安西教頭にしてみれば、これまで自分がやってきたことを替わりにやってくれる横田は、頼もしい息子のようなものだった。
いずれは、成条小学校の主力として働いて貰いたい…と眼を細めて見詰める教頭だった。
それから3年が経過し、息子のように思っていた横田が1年間の休みを取ることは、安西教頭にとっても青天の霹靂であり、寂しいことだった。
安西は、送別会で横田にこんな労いの言葉をかけていた。
「横田先生。この3年の間、君はよく頑張ってくれた。本当にありがとう…」
「私もこの戦争に加担した人間の一人として、進駐軍に頭が上がらず、いつもGHQからの指令にビクビクしていたんだ…」
「戦争に負けた国の人間だから、それは仕方のないことだ…と諦めていたんだが、君は違った」
「君は若い。だが、私は君のような体験はしていない。それが、恥ずかしいんだ…。だけど、君は、敗戦国の元軍人としてではなく、一人の日本人として子供に向き合ってくれた。私は、君に教わったような気がしたんだ…」
「この学園は、自由だ。自由であるからこそ、そこには責任がある…」
「沢柳博士の言葉を、君という若者をとおして学ばせて貰ったよ…。ありがとう」
そう言って、なかなか手に入らない日本酒を横田の杯に注ぐのだった。
雅恵とは、ある事件がきっかけで急速に接近していった。
それは、昭和21年の秋のことだった。
戦争が終わって1年が過ぎたが、社会全体の混乱は収まらず、食糧不足は日増しに厳しくなっていくようだった。
学校が再開されたとはいえ、子供たちも満足に弁当を持ってこられない日が続いていた。
学校では、裏庭を畑にしていたので、ここでできる限りの野菜を栽培し、給食に提供していたのだが、それでも主食となる米や麦は手に入らない。
配給も滞りがちで、戦時中の方がまだ食糧事情はよかったように感じていた。
何処の家でも闇屋街で僅かな日用品を買ったり、農家に食糧を分けて貰いに行くなど困窮の度合いは増していた。
横田の家でも、庭の畑をさらに拡張し、次々と野菜を植えたが、満足に良質な肥やしを与えられないため、収穫されたトマトや茄子は、小さなものばかりだった。
それでも、家族4人が食べるには、何とかなったが、空襲で家を焼かれたような人たちは、やはり疎開先から戻ってくることはできず、子供の数も増えなかった。
雅恵の家も兄を亡くし、下に妹がいることから、家族4人だったが、母親が戦争中から体を壊し、姉妹で家の面倒を看ているような状況だった。
幸い、雅恵の家も空襲被害がなかったために、庭で野菜を栽培することはできた。それに、父親は、元々陸軍工廠の技術者だったが、軍人ではなかったために公職追放には当たらず、何とか、地元の鉄工所に職を得ることができていた。だから、この父と雅恵の給料が、この家庭を支えていたのだ。
事件というのは、子供の小さな遭難事件である。
よく晴れた秋の日。
学校行事として「秋の遠足」が計画された。
学級数が少ないために、3年生と4年生合同で、近くの多摩川を散策するコースが選ばれた。
もちろん徒歩遠足なので、半日かけて多摩川沿いを歩き、昼食を摂って帰ってくるという遠足なのだが、その日は、子供たちが帰る時刻に、急な雷雨に見舞われ、増水する多摩川で立ち往生するといった事態に陥ったのだ。
引率は、教務主任の岩沢政男教諭に3、4年の担任の3人である。子供は、合わせて36人だった。
午後2時には、帰ってくるという計画で、朝8時30分に校門を多摩川方面に向かって歩いて行く集団を横田は見ていた。
一番先頭に教務主任の岩沢がつき、脇に3年生の島田、最後尾に4年生の花田という教師陣だった。
担任の二人は女性で、男性は岩沢だけである。
多摩川沿いは、秋にはコスモスやら彼岸花やらが咲き、なかなか美しい風景を楽しめるということで、戦後間もなくでも、人の出は比較的多い場所だった。
昼の昼食を摂ったころまでは、穏やかな天候だったが、午後1時過ぎになると急に黒い雲が発生し、急いで戻ろう…とした矢先に雷雨に見舞われたようだ。
横田は、多摩川の方角に黒雲を見つけると、子供たちに弁当を取らせている間に雨合羽に着替え、職員室に駆け込んだ。
「教頭先生、これから酷い雷雨になります。多摩川に行っている子供たちを急いで学校に戻さないと危険です…」
「私が、走って連絡に行きますので、学校では、雨に濡れた子供の手当の準備をお願いします…」
(今朝の天気では、おそらく、雨具の用意はない…)
そう考えた横田は、急いで校門から出て、多摩川に向かって走った。
通るルートは既に確認済みである。
横田は中学校時代から走るのは得意で、予科練時代も短距離走では負けたことがない。その自信が横田の気持ちに火をつけた。
空は既に黒雲が覆い、雷が鳴り出すのもそう遠くはない。
多摩川沿いには、木立も多いが、雷が直撃すれば木の下は最も危険なのだ。
まして、雷雨時に立ったまま走れば、雷の直撃を受ける危険性があった。
小学校3、4年生にそんな注意は無理だろう。
とにかく、その場から動かずに、雷が遠ざかるまで待機させるしか方法がない。
横田は、雨雲と競争するかのように、必死になって多摩川に向かって走った。こんな緊張感は、何年振りだろうか…?
(とにかく、子供らの安全を確保するのが先だ!)
そう思って走っていると、向こうからこちらに走って来る一団が見えた。
間違いない、本校の子供たちである。
おそらく、引率の岩沢が機転を利かせて誘導したのだろう。
横田が、ホッと一呼吸置いたそのときである。
ザーッ! という音とともに大粒の雨が体に叩きつけるように降ってきた。
それでも、子供たちは一目散にこちらに向かって走って来る。
すると、次の瞬間、ゴーッ!という風が吹いたかと思うと、稲光がフラッシュを焚いたかのように、ピカッ!と光り、周囲を真っ白な光線が包み込んだ。
「危ない!」
「全員、伏せろ!」
その声は、雷鳴をかき消すほどの大声だった。
子供たちは、叫び声を上げる間もなく、その場に伏せた。
さすがに、空襲を経験してきた子供たちである。
雨に当たろうが、そんなのにはお構いなしに、地ベタに伏せ、耳と目を覆うのだった。
これは、空襲時の避難方法で、戦時中は毎日のように、この退避行動を取る訓練が行われていた。
子供たちは、それを体で覚えていたのだ。
横田は、それを見ると、腰を屈めながら側に近づき、引率の岩沢に大声で指示を出していた。
「岩沢先生。このブロック塀の脇に子供を集めてください!」
「そして、後10分、ここで待機!」
「雷鳴が遠くなったら、直ちに子供たちを学校まで走らせてください!」
「学校では、既に子供たちの保護の準備を整えています!」
横田は、呆然とこちらを向いている岩沢の肩を叩くと、急いで最後尾まで走って行った。
最後尾には、雅恵がいた。
雅恵は、横田を見るなり、
「こ、子供が一人いません…」
「佐々木さんです。佐々木祥子…4年生です」
そう言うや否や、探しに向かおうとする雅恵を横田は押し止め、
「大丈夫。私が連れて来ます!」
そう言うと、大粒の雨が降りしきる中、横田は、脱兎の如く多摩川の方に向かって腰を屈めながら走って行った。まだ、上空では雷鳴が轟き、遠くに稲光が鋸のような鋭い刃を光らせていた。
岩沢は、腕時計を見ながらきっかり10分計っていた。
当時の男たちは、全員が軍事教練を受けていたために、指示や命令に従う習慣ができていた。そのためか、後輩の若い教師に指示されていても、その声と的確な指示に、反射的に反応するのだった。
「よし、10分!」
そう思い空を見ると、雷鳴は去り、雨脚が静かになってくるのがわかった。
(ほう、正確だな…)
岩沢は、改めて横田の指示の的確さに驚いていた。
「さあ、もう大丈夫だ…。みんな整列!」
子供たちは、特に泣く者もなく、整然と隊列を整えるのだった。
こうした訓練は、疎開先でも行われており、子供たちは当たり前のように銘々が列を整え、「前へ倣え…」と号令をかけながら数秒間で整列を終えていた。
そこに雅恵が岩沢の元に走り状況を説明すると、岩沢は、
「そうか…。だが、子供の安全確保が最優先だ。その子は、横田先生に任せよう…」
「先生も、最後尾を頼みます…」
こうして、遠足の子供たちは、泥まみれになりながらも無事に学校に到着することができたのだった。
学校では、既にストーブやタオル、そして着替えなどが用意され、それを聞いた乾校長はお湯を沸かし、特製の粥を作って待機していてくれたのだった。
横田が、4年生の女児を背負って学校に戻ってきたのは、それから10分ほど過ぎたころだった。
この女児は、急いで学校に戻ろうと最後尾を走っていたが、雷鳴に驚き、転んだときに、みんなとはぐれたものだった。
ただ、転んだ衝撃で膝を打ったために、その場で休んでいたところ、横田に発見されたということだった。
横田が、背負おうとすると、
「大丈夫です、先生…」
「空襲の時は、私は弟の手を引いて逃げましたから…。逃げるのは得意なんです」
そんな元気な声で返事をしていたが、膝からの出血があり、横田に止血をして貰うと、甘えるように横田の背に乗った。
雷雨が去り、青空と太陽が顔を出してきたので、横田はその子を背負い、ゆっくりと歩いて学校への道を戻って行った。
校門近くでは、雅恵が気が気ではない様子で、こちらを覗いてるのが見えた。
祥子は、横田の背中から、「おうい、花田先生!」と腕を精一杯伸ばして、雅恵に無事を告げるのだった。
雅恵は、気づくと横田の前まで小走りで近寄り、祥子のけがの様子を確認すると、横田の顔を見て、何度も何度も頭を下げた。
「横田先生、ありがとうございました。助かりました…」
そう言う脇で、横田は、
「このくらい平気です…。昔は、毎日、これ以上でしたから…」
そう言って、祥子を雅恵に預けると、さっさと着替えに向かうのだった。
この事件は、改めて横田豊という人間を周囲が認めるきっかけになった。
確かに、あの瞬間に横田が行動しなければ、岩沢も判断を誤る可能性があった。また、一人取り残された女児をすぐに助けられたのも横田が走ってくれたお陰だった。
この話を聞いた保護者の多くは、乾校長に感謝の言葉を述べた。そして、優秀な先生方への信頼を増したのである。
その夜、学校に一人の母親が横田を訪ねて来た。
その母親は、4年生の佐々木を名乗った。
(今日のあの娘の母親か…?)
学校応接室に入ると、30半ばの婦人が立って横田を待っていた。
横田が応接室に入ると、母親はすぐに頭を下げ、
「先生、今日は、本当にありがとうございました。幸い、娘も無事で、けがも大したことはありませんでした。本当によくして戴いて、娘も感謝しております…」
そう言って、一本のネクタイを横田に差し出すのだった。
「これは…?」
そう尋ねる横田に、その母親は、
「はい。お礼と言っても何もございません。これは、亡くなった主人が戦前に大切にしていたネクタイです…」
「今日のお礼にとお持ちしました。ぜひ、お使い下さい…」
この佐々木を名乗った保護者の夫は、元海軍の軍医で、潜水艦に乗っていてそのまま還らなかったそうだ。
「あの…実は、娘から先生が戦争中に潜水艦に乗っていた…と聞かされ、ひょっとしたら主人の乗艦していた艦に乗っていたかも…と思い、伺った次第です」
「主人は、佐々木直文と申します。軍医中尉でした」
「元々は、大学病院に勤務していた内科医で、昭和19年の末に応召で海軍に入った者です」
「横田先生、聞き覚えはありませんか?」
「だれも、主人の最期を知る人もいなくて、それだけが心残りなんです」
(佐々木軍医…?)
横田は、しばらく記憶を辿ってみたが、その名前に聞き覚えはなかった。
「残念ですが、私は、佐々木軍医中尉とは面識がございません。申し訳ありません…」
「ですが、亡くなったのは、昭和20年の5月頃だといえば、私の同期が乗艦していた艦だったかも知れません」
「私は、回天という特攻兵器に乗っていました。潜水艦に運んでもらい、敵艦に体当たりする任務です」
「だから、どの艦の乗組員もみんな親切で、優しい人ばかりでしたから、私の死んだ同期生も、佐々木軍医には、大変お世話になったはずです」
「そうですか、5月ですか…?」
「5月なら、轟隊かも知れません…。そのとき還って来なかった潜水艦は、確か…、イ号361潜かも知れませんね」
「私も轟隊の一員で出撃しました。佐々木軍医の艦ではありませんでしたが、ちょうど、沖縄戦たけなわのころで、沖縄海域に向かったまま消息を絶った潜水艦がありました」
「記憶では、その艦には、私の同期生4名が乗艦していたはずです…」
「詳しいことがわかりましたら、お知らせいたします…」
そう言うと、その母親は、
「急に、先生に不躾なことをお聞きして申し訳ありませんでした。戦争中のことを知りたくても、元軍人だというだけで肩身が狭いご時世ですから…」
「どうか、お忘れ下さい」
そして、最後に、
「娘が、先生の背中は大きくて暖かかった…と申しておりました」
「あまり父親とは接することの少ない娘でしたから、それだけが不憫で…」
「ありがとう、ございます。失礼いたします…」
そう言って、腰を低くしたまま帰って行った。
応接室の外で、雅恵がそのやり取りを聞いていた。そして、そっと涙をハンカチで拭うのだった。
これがきっかけで、横田は雅恵と親しくなり、雅恵も横田に心を開くようになっていた。
横田にしてみても、雅恵と過ごす時間は、今まで味わったことのない充実した時間だった。
教師としての経験は雅恵の方が豊富で、子供の扱いをよく心得ていた。
学校内でも二人は、よく話すようになり、そのうち、お互いの家にも遊びに行くようになった。
そんな関係が続けば、親同士も公認の仲となるのに、それほどの時間はかからなかった。そして、雅恵との婚約を交わし、横田は念願の慰霊の旅へと出かけるのだった。
第5章 慰霊の旅
乾校長と交わした約束の期間は1年である。
時間があるようで、それほどでもない。
横田は、白河にいる新海に連絡を取ると、早速、新海を訪ねて白河に向かった。新海は、言っていたとおり、地元の中学校で数学の教師になっていた。
上野から急行で約3時間で白河駅に着いた。白河駅は、赤い三角屋根のかわいらしい駅舎である。自然の中に佇む田舎の駅の風情があり、平和のシンボルのような駅舎だった。それにしても、春とはいえ、東京に比べると東北の春は寒い。
遠くには阿武隈山系が雪を被って見えるが、その雄大さはさすがに東北である。
桜はまだ蕾だったが、風は冷たい中にも、ほんのりと暖かさを運んできていた。
横田や新海が訓練した大津島は、風光明媚な山口県にある。
瀬戸内海にある小島だから、普段ならのんびりとした所なのだろう。
あの頃の横田たちは、そんなことを考える余裕すらなかった。
あの日、東京駅で新海と別れてから3年半が過ぎていた。
その間、新海はできる限りの伝手を頼りに戦友たちの消息を訪ねていた。
新海たちが入隊した土浦航空隊は、関東以北の者が入隊していたので、北海道、東北、関東に生き残った戦友たちがいた。
西日本の連中は、三重航空隊か奈良分遣隊に入隊しており、土浦組と三重組は、同期とはいえあまり馴染みは深くなかったのだ。
横田も学校が休みの日には、東京の復員局を訪ねた。
当初は、第一、第二復員省などと呼ばれていたが、主に陸海軍の復員業務を担当しており、なかなか時間を取って貰えなかったが、 復員局が厚生省に置かれるようになると、少しずつ調査が進むようになったのである。
二人は時間をかけながらも、コツコツと土浦航空隊出身者の名簿を整理していった。
特に土浦航空隊から大津島に行った最初の特攻要員200名については、どうしてもその消息を掴みたかったのだ。
もちろん、横田や新海にも多くの記憶があったが、東京に戻ってみると、二人が調査をしていることを知った仲間が、手紙で情報を寄せてくれるようになっていた。
こうして、戦友たちの名簿が少しずつ形になっていったのだった。
福島に3日ほどいた横田だったが、いつまでも新海の厄介になるわけにも行かず、まずは、山形県の酒田を訪ねることにした。
ここには、天武隊隊長の柿崎穣中尉いや少佐の遺族がいることを掴んでいたからである。
横田は白河から東北本線に乗り、福島駅から奥羽本線で酒田に向かうことにした。同じ東北でも、白河と酒田では方角がまるで違うために、一日がかりの旅となった。
昭和も24年に入ると、少しずつ街が復興していることが実感できるようになっていた。上野駅も終戦直後の混乱も収まり、道も建物も整備されていたが、浮浪児は相変わらずガード下などをねぐらとして、上野の名物になっていた。しかし、それも一斉摘発で全員が保護されるという話だった。
彼らにとって、それが本当に幸せなことなのかどうかはわからないが、街が人並みになっていくことは、明るいニュースではあった。
福島から奥羽本線に乗ると、また、風景は一変した。
山が少しずつ険しくなり、白河で見た田園風景から畑地と山が交互に現れ、福島の広さを感じたものだった。
白河を朝のうちに出たが、酒田に着いたのはかなり夜更けになっていた。
横田は、駅舎内のベンチを借りて、そこで朝まで過ごさせて貰うことができた。
酒田の春は、まだまだ寒く、これでは野宿はまだ厳しい季節だった。
このころになると、復員兵の多くは外地からの引き揚げで、日本海軍の駆逐艦や軽空母、輸送船などが使用され、南や北から続々と還って来るようになっていた。
他にもアメリカやオーストラリアなどの捕虜収容所から返された復員兵も多く日本の土を踏んだが、ソ連に抑留された兵隊たちの消息は、なかなかわからず、日本政府もアメリカを通して粘り強くソ連と交渉を続けていたのだ。
だから、横田のような人間が駅に現れても、あまり不審に思われず、駅員は、皆親切だった。
翌朝、駅員に、
「すみません。このあたりに元海軍少佐の柿崎穣さんの実家を知りませんか?」
と尋ねると、駅員が、
「ああ、軍神の家ね…」
「あのころは、酒田から軍神が出た…って言うんで大騒ぎになったもんだよ…。柿崎さんの家なら、この大通りを真っ直ぐ行って、大きな楠のある家だから、すぐにわかる…」
とスラスラと答えるので、当時の騒ぎがわかるというものだった。
だが、戦争に負けた今では、肩身の狭い思いをしているのではないか…と案じられたが、横田は言われるままに楠のある家を探した。
そして、それはすぐに見つかった。
なぜなら、駅を出て大通りを左手に向かえば、そこには10mを越えるだろう大きな楠が聳え立っていたからである。
「あ、あれが柿崎隊長の家か?」
そう思うだけで、横田の足は早足になり、一日がかりでここに着いた疲れなど吹っ飛ぶのだった。
走って、その楠のある家に辿り着くと、玄関で初老の婦人が庭を掃いているところだった。
横田は、呼吸を整えてから婦人に声をかけた。
「あ、あのう…、こちら柿崎元少佐のご実家でよろしいでしょうか?」
そう声をかけると、初老の婦人は、
「あ、はい。家は柿崎ですが…?」
そう言いながら、門の外まで出て来てくれた。
横田が来意を伝えると、驚いたような顔を見せて、
「まあ、わざわざ東京から…、どうぞ、どうぞ…」
と、家の中に案内をしてくれた。
奥座敷に通された横田が見たものは、立派な仏壇と多くの位牌だった。
そして、そこに比較的新しい位牌を見つけた。それが、柿崎隊長の位牌だった。
横田は、案内を乞う前に、仏壇の前で思わず手を合わせていた。
(隊長…、隊長。横田です。あの甘えん坊の横田兵曹が参りました…。遅くなって申し訳ありません)
そう言いながら、必死になって手を合わせ続けた。
横田の脳裏には、あの「回天戦用意!」の艦長からの命令が耳に蘇ってきた。
ガバッと起き上がった横田は、側にあった用具一式を掴むと「七生報国」と書かれた鉢巻きを締め、司令塔に向かった。
そこには既に柿崎隊長、前田少尉、古川上曹、山口一曹、新海二飛曹が待っていた。
全員が揃うのを確かめると、隊長は、
「ようし、全員覚悟はできたな…」
「横田、新海、落ち着いてやれ!」
「前田、古川、山口、世話になった。さらばだ!」
「かかれ!」
隊長の号令で、全員が折田艦長に敬礼をすると、一目散に自分の艇のある交通筒目指して走った。
横田の艇は、一番前方の魚雷室の中にあった。
後方では、隊長や前田少尉が、「お世話になりました!」と乗組員にかける声が聞こえてきた。
ベテランの古川、山口の両兵曹は、淡々としたものだったらしい。
(よし、俺も、立派にやってみせるぞ!)
そう思いながら、交通筒の下で思いっきり、
「みなさん、お世話になりました。行きます!」
そう怒鳴ると、敬礼をして交通筒を昇っていった。
上から降りてくる整備員は、
「艇内、異常ありません…」
そう呟くのが聞こえた。
(よし、行ける…。今度こそ、やってやる!)
そう思いながら、艇内の点検を行い、電話に取り付いた。
「こちら、五号艇、準備よし!」
そう伝えたが司令塔からは、
「待て、一号艇から出す!」
(くそう、でも隊長艇では仕方がない…)
(だが、次は俺だ!)
すると、後方でガタン!という音が聞こえてきた。
あれは、間違いなく回天のワイヤーベルトが外れる音だった。
横田は、慌てて特眼鏡に取り付いた。
特眼鏡をクルリと反転させると、ちょうど一号艇が置かれていたあたりから無数の気泡が見えた。
(あ、隊長が出て行った。隊長…)
(よし、次は俺だ!俺の番だ!)
しかし、司令塔から方位を確認しないと発進はできない。
そこに、電話から次の命令が入った。
「二号艇、発進!」
その命令が終わらないうちに、前田艇は、即座に起動桿を押し、スクリュー音も高らかに爆走して行ってしまった。本当に躊躇いのない発進だった。
(よし、次は俺だ。俺の番だ…)
横田は受話器を握ると、怒鳴るように司令塔に向かって、「五号艇を出してくれ!」と叫んでいた。
その声に反応するように、司令塔から、「五号艇発進!」の命令が入った。
(ようし、行くぞ!)
そう思い、急いで起動桿を後ろに押した。
だが、何度押してもスクリューがカラカラと空転するのみで、エンジンがかからなかった。
(畜生、なんでエンジンが動かないんだ?)
そう怒鳴っても、もう、どうしようもなかった。
その間に、三号艇の古川上曹、四号艇の山口一曹が次々と発進して行った。
発進できなかったのは、後甲板にあった五号艇の横田と六号艇の新海の回天だけだった。
そんなことが、走馬灯のように頭の中に蘇った。
このとき、敵は大型輸送船5隻を含む船団で、故障さえなければ全員が突撃できたのだ。
後で、回天を点検してみると、送電用のワイヤーが切れており、これでは、起動できないはずだった。新海の艇も同じように波によって相応の被害を被っていた。
整備員の話では、この後甲板に打ち付けた波が、二基の回天のワイヤーを傷つけたのだろう…とのことだった。まったく運が悪いとしか言いようがない。
横田と新海は、司令塔に戻ると、10分後に最初の爆発音を聴き、その後、断続的に3回の大爆発音を聴いたのだった。
この瞬間に4人の先輩たちは、天に召されたのだ。
そんなことを一心不乱に考えながら手を合わせていると、いつの間にか、婦人が横田の後ろに座っていた。
横田が気がついて、慌てて挨拶をしようとすると、その婦人は、
「ありがとうございます。これで穣も成仏できるでしょう…」
「私は、穣の母親です」
「本日は、わざわざありがとうございました」
そう言うと、お茶と茶菓子を横田の前に出してくれたのだった。
横田は、そこで、今までのことを掻い摘まんで話すと、
「ええ、横田さんのことは、あの子の手紙の中にも書かれていました」
「あの子は、筆まめな子でね。ひと月に1回は手紙をくれたんです…。これです」
そう言って、漆の箱の中を開けると、数十通の手紙の束が目に留まった。
それは、柿崎隊長が母親に出した手紙の束だった。
横田が、広島の話をすると、
「そうですか、広島まで行ってくれたんですか?」
「繁子さんは、私の夫の妹で、若いうちに広島に嫁ぎましてね。あの子にとっては、向こうの母親のような気持ちでいたんでしょう…」
「でも、骨も残らないんじゃ、戦死と同じですよ…」
そう言って、涙を拭うのだった。
横田が思わず、
「すみません。隊長が死んでしまったのに、私なんかが生き残ってしまって…」
と畳に両手をつくと、隊長のお母さんは、それまでの温和な顔を変えて、
「何を言います、横田さん!」
「穣は、あなたが死ぬことなんか望んじゃいませんよ!」
「あの子は、優しい子です。あなたが生き残ったことをどれほど喜んでいるか…」
「ばかなことを言ってはいけません!」
それは、本当に厳しい母親としての叱責の言葉だった。
「でも…」
そう言う横田に、隊長のお母さんは、
「いい、横田さん。あなたは、穣の分まで精一杯生きていいのよ…」
「戦争は、もう終わったの…」
嗚咽する横田の肩に置いた隊長のお母さんの手に温もりが伝わって来て、横田は座布団を涙で濡らすのだった。
柿崎隊長の家は、地元の地主だったそうで、大きな邸の他にかなりの田畑と山林を持っていたそうだが、この農地改革で、ほとんどを国に持って行かれた…と言うことだった。
この家には隊長のご両親だけで住んでおり、隊長の墓が近くの宝蔵寺にあるとのことだった。
そこで、帰ってきた隊長のお父さんに案内されて、墓参りを済ませることができた。そのお墓は、立派な物で、「軍神・柿崎穣少佐の墓」と刻まれていた。
父親によると、
「我が家では反対したんだが、市長を初めとする市の顔役とここの住職が、軍神の墓だから、大きく立派な物にしなければならん…と強硬に言うので、こんなでかい墓になってしまった」
と嘆いていたが、確かに戦争が終わると、墓参りに来る者もなく、住職がせっせと墓掃除をしているとのことだった。
骨は沖縄の海に沈んでしまったので、中には、大津島から送られてきた遺品の中にあった「遺髪」と「爪」が入っているとのことだった。
家に戻ると、実家に送り返された遺品を見せてもらった。
そこには、天武隊全員で撮った写真も数枚残されており、横田自身の姿も見ることができた。
この柿崎の家は、隊長が死んだことで、今は北海道にいる次男の博が跡を継ぐだろう…とのことだった。
こうして、横田は、最初の慰霊の旅を終えたのだった。
その後、横田は青森の同期生、工藤、三上の遺族を訪ねた。
工藤は、青森中学から土浦に来た男だった。
元々剣道の選手で、土浦空13期の中では、5本の指に入る剣豪で跳び込み面が上手かった。回天隊に入ると、昭和20年1月にウルシー岩礁の敵艦隊泊地攻撃に出撃し、潜水艦とともに還っては来なかった。
三上は、八戸中学から土浦に来た。
三上は、寡黙な男で、体操を得意としていた。学業も優秀で、常に同期生の上位にいた男だった。寡黙の分、心の熱い男で、回天の募集にも真っ先に「熱望◎」と書いて分隊長に出しに行った男だった。
そんな三上だったが、訓練中に海底に突っ込み、同期の中では早く戦死してしまった。
横田は、青森からは連絡船に乗り、北海道に渡った。
北海道では、名寄の金子、旭川の末松の遺族を訪ねた。
金子の家は、父親は銀行員で、戦後も地元の銀行員として暮らしていた。
二人の妹のいる長男で、旭川中から土浦に来た。
数学に長けた男で、教官からも「貴様は、主計科に転科しないか?」と誘われるくらい計算に明るく、暗算を得意としていた。
それでも、回天の募集があると率先して志願し、最初の200名の一員となった。
回天隊は、20年の2月に出撃した千早隊で、硫黄島付近で発進したようだ。この艦も母艦自体が還っては来なかった。
末松も、金子と同じ旭川中の出身で、年齢は金子の一つ下の学年で予科練に合格していた。その上早生まれなので、同期生の中でも一番若い年齢だったかも知れない。末松は、物理が得意な男で、優秀な新海などもときどき、航空力学などを末松に聞いていたくらいだった。もし、戦後も生きていれば、物理の学者にでもなれる逸材だった。
末松は、二度目の出撃の前の訓練で殉職している。
横田は、こうして半年あまりをかけて東北、北海道の戦死した同期生20人ほどを回った。
遺族たちは、それまで聞くことがなかった息子や兄の姿を横田の言葉を通して知ることになった。
横田は、知る限りの話を遺族に語って聞かせた。
予科練時代、志願した時の心境、大津島に向かう道中での出来事、回天隊での訓練、出撃時の様子など、横田の持って歩いた大学ノートは数冊にも及び、彼ら同期生のことを思い出しては、車中で書き留め、遺族に話して聞かせたのだった。そして、必ず自分のことを話すのだったが、その心境を聞かされた遺族は、自分の息子や兄のことを思い出し、涙を流した。
そして、半年後、東京に戻ってきた横田は、雅恵と会う時間を惜しむように、どうしても行かなければならない二人の元へと旅立ったのだった。
それは、横田の三度目の出撃時に戦死した久家実少尉と轟隊隊長の池渕信男中尉、柳谷謙一一飛曹のことだった。
久家少尉は大阪市、池渕隊長は兵庫県の神戸市、柳谷は、北海道の小樽市に遺族がいた。
柳谷の家には、北海道に渡った際に小樽にまで足を伸ばし、柳谷のお姉さんに会うことができた。母親が健在だったが、入院中とのことで、実家では嫁いだ姉の幸子さんが応対してくれた。
柳谷は小樽水産学校から甲種予科練を志願した男で、本当は遠洋漁業の船員になりたかったようだが、戦時中ということもあって船員をあきらめ飛行機乗りを目指したそうだ。
それが、いつの間にか潜水艦に乗っていると知らされ、驚いたそうだが、戦死すると地元の新聞にも大きく取り上げられたので、やっと消息がわかった…と話してくれた。
柳谷は、成績はけっして上位ではなかったが、朴訥とした人間で、カッターを漕ぐのが一番上手かった。それは、水産学校で散々漕いで来たからだそうだが、短艇競争のときなどは、班の指揮として活躍していたことを覚えている。横田と新海は、轟隊池渕隊の補充として後から仲間に加わったのだが、柳谷は、同期の入江が殉職してしまい、寂しい思いをしていたところに横田たちが加わったので、嬉しそうだった。
奴は、横田のことを、いつも「先任」と呼んでは、面倒を看てくれていた。艇の故障さえなければ、一緒に行けたのに…と残念でならなかった。
昭和20年6月4日。
轟隊の一員としてイ号36潜水艦には、回天搭乗員として6人の特攻隊員が乗り込んだ。
攻撃目標は、ハワイからマリアナ諸島に向かう輸送船団だった。
もうこのころになると、泊地攻撃はその防御体制が整い、潜水艦が入り込む余地はなかった。常に数隻の駆逐艦や駆潜艇が海上を24時間体制で見張り、潜望鏡が発見され次第、猛烈な爆雷攻撃が絶え間なく繰り返され、既に数隻のイ号潜水艦が撃沈されていた。
こうなると、残された方法は、敵の輸送船団が通るであろうルートを予測して、敵と遭遇次第攻撃をかけるという洋上作戦に切り替わっていた。
しかし、洋上で捕捉することは難しく、まして、回天を搭載している潜水艦にしてみれば、単なる魚雷攻撃とは異なる特攻攻撃となり、何とか戦果を挙げさせたいという焦りを生じる原因にもなっていた。
この6人は、みんな二度や三度目の出撃の者たちであった。
隊長に予備学生出身で日本大学の池渕信男中尉。同じく東京大学の園田市郎少尉。同じく大阪商科大学の久家実少尉。そして、柳谷、横田、新海の一飛曹である。下士官の3人は、土浦空出身の甲飛13期生である。
この中で、池渕、久家、柳谷の3人が突撃して戦死したのだ。
この戦いは、横田や新海には、忘れられない戦いとなった。
出港してから3週間ほど経ったころ、イ号36潜は、マリアナ沖に到達していた。艦長の菅昌中佐からは、
「敵の交通路に入った。いつ、敵と遭遇するかわからない。総員、戦闘態勢で待機せよ!」
という命令が下り、6人は、いつでも発進できるよう準備を整えていたのだ。そして、待つこと二日。
いよいよ、敵の輸送船団が現れた。
イ号36潜の艦長菅昌中佐は、すかさず、
「回天戦、用意!」
の命令を発した。
6人は、すかさず司令塔に集合し、副長から敵船団の状況を伝えられると、池渕隊長が潜望鏡で、敵船団を確認したのだ。
「よし、直ちに発進する。かかれ!」
の命令で、6人は一斉に交通筒に向かった。
横田の交通筒は、今度は兵員室の奥に設置されていた。その奥では、新海、そして柳谷が走った。
反対方向には、一番前方の魚雷発射室から池渕隊長、そして、園田少尉、久家少尉と交通筒を昇って艇内に入った。
横田は、今回はあまり気負わず、整備員と交替すると、改めて兵員室に向き直り、
「お世話になりました。イ号36潜の奮闘を祈ります!」
と敬礼して、交通筒のラッタルを駆け上がった。
(今度こそ、必ず敵輸送船をやってやる!)
そう誓うのだが、前回のときのような興奮はなかった。
前回は、本当に仲間になっていた柿崎中尉たちと一緒に行くことばかりを考えていたが、今回は、補充で出撃直前に隊に加わったせいか、それほどの思いがなかったからかも知れない。それより、
(これが成功すれば、靖国神社に柿崎隊長が迎えに来てくれるかも知れない…)
という淡い期待を抱いていた。
横田は発進準備を整えると、電話機を取り、
「四号艇、発進準備よし!」
と伝えると、司令塔から副長が明瞭な声で、
「よし、まず1号艇を出す!」
そう言うや否や、
「1号艇発進!」
の命令が受話器を通して入ってきた。
慌てて、特眼鏡で1号艇の方角に合わせると、付近から気泡が多数出たかと思うと、ガタン!とワイヤーバンドが外れる音が響いた。
(池渕中尉、うまくやってください…)
しばらくすると、遠くから爆発音らしき音が聞こえてきた。
「1号艇、命中!」
受話器から、副長の声が聞こえたが、次の命令が出ない…。
横田は、電話で、
「次の目標は、まだか?」
そう尋ねるも、
「まだだ、待て!」
という命令である。
すると、どういうわけか、いきなり、
「急速潜行! 急げ!」
回天に搭乗員を乗せたまま、イ号36潜は、艦内に溜めていた空気を一気に放出して深海へと進んで行くではないか。
(な、なんだ。どうした…?)
そう思う間もなく、電話機から、
「搭乗員収容。艦内に戻れ!」
の命令である。
こんな急角度で沈降していく潜水艦の甲板から、交通筒を通って艦内に戻るのは至難の技である。
とにかく、あっちこっちと体をぶつけながら、やっとの思いで用具を納め、垂直の交通筒を降りていった。
すると、整備員が、
「横田兵曹、敵です。敵駆逐艦です!」
そう言うや否や、爆雷音が鳴り響いた。
ドガーン! ドガーン!
横田は、頭を抱えると、そのまま床に転がった。
立ち上がろうにも、連続の爆雷攻撃で艦は大きく揺さぶられ、すべての物が宙を飛ぶ有様だった。
爆雷が近くで爆発するたびに、艦は大きく揺さぶられ、乗組員は右や左に振られ、負傷を負った箇所から鮮血が飛び散った。
軍医は、
「立つな!」
「体を縮めていろ!」
と大声で命じながら、負傷者の手当で大童だった。
この攻撃は、この後も断続的に続いた。
横田たちは、這うようにして司令塔に向かうと、艦長が血相を変えて、次々と命令を発しているところだった。
後で聞くところによる、艦長は、1号艇の戦果を確認しようと潜望鏡を上げて、その行方を追っていた。それが、どうしたわけか、真後ろから駆逐艦が本艦に乗り上げるように迫ってきたとのことだった。
長年の勘が働いたのか、嫌な予感がした菅昌艦長は、何気なく後方に潜望鏡を回したところ、間近に潜水艦を発見し、急速潜行を命じたのだった。
もし、後、数秒指示が遅れていれば、イ号36潜は、敵の駆逐艦に馬乗りにされ、浸水してそのまま沈没するところだった…。
奇襲攻撃が上手くいった…と、1号艇に集中するあまり、背後の敵に気づかなかったのは、菅昌艦長としては痛恨の極みだった。しかし、取り敢えず最悪の事態だけは回避したが、敵の駆逐艦はさらに増え、爆雷は、まさにイ号36潜の周囲で大爆発を起こしていた。
さすがの菅昌艦長も、観念するときが来たか…と覚悟を決めたが、この攻撃が続けば、もう10分と艦はもたないだろう…。
それは、乗組員全員がわかっていることだった。
「もう、このままでは、回天も艦と運命を共にするしかなくなる」
「だが、こんな状態で回天が動くのか?」 「動くも何も、乗艇することだってできないじゃないか…」 「無理でも何でも、この窮地を脱するには、回天しかない!」
「よし、俺が艦長に話す!」
「どうせ、一度は捨てた命だ。一か八か、勝負するしかない!」
そう言って、真っ先に立ち上がったのは久家少尉だった。
兵員室で待機を命じられた5人の回天特攻隊員たちは、談合して、艦長に直訴することに決した。
久家少尉は艦長に、
「回天を出して下さい。このまま艦が沈むのを手をこまねいて見ていることはできません!」
だが、菅昌艦長は、
「こんな状況では、回天は出せない!」
「それに、この爆雷攻撃で回天は使い物にならん…無理だ!」
そこに、回天付の整備員が走ってきた。
「点検しましたが、全基故障!」
「使用できません!」
と報告するのだった。
だが、久家少尉はそれでも食い下がり、
「整備員、もっと詳しく説明せよ!」
と命じられ、整備員は、各艇の状況を説明した。
すると、久家少尉と柳谷一飛曹の艇は、電話の故障とジャイロが使えなくなっているとのことだった。
他の三艇は、艇内にオイルが漏れていて、中に入ることもできない…とのことだった。
すると、久家少尉は、
「ならば、私の艇を出して下さい!」
「電話は不要です。発進合図は、交通筒の外からハンマーで叩いて貰えば結構です!」
「ジャイロも要りません。特眼鏡を出して、敵艦にぶつかります!」
すると、柳谷も、
「私も、願います。この窮地を救えるとすれば、今や回天のみです!」
横田たち3人も、口々に発進を進言するのだった。そして、横田は柳谷に、 「柳谷、俺も一緒に乗せてくれ!」 「狭いが、二人でも入れんことはない!」 そんなことを口走ったが、久家少尉が毅然とそれを制した。 「横田!俺たちは死にに行くんじゃない。戦いに行くんだ!」 そう言う久家少尉の顔は、(それ以上は言うな!)という厳しい怒りを含んでいた。 もう、何も言うべきではなかった。後は、決断あるのみだった。 この間にも爆雷攻撃は続き、いよいよ、艦内の照明も消え、予備電源に切り替えられた。
浸水もあちこちで始まり、もう、もって10分はないだろう…とだれもが思ったとき、久家少尉が叫んだ。
「艦長!」
「お願いします。我々が、駆逐艦をやります!」
その声に押されるように、菅昌艦長は、じっと久家少尉と柳谷一飛曹の眼を見詰め、決然と命令を発したのだった。
「回天戦、用意!」
「三号艇、五号艇、発進用意!」
すると二人は、横田たち3人の手を握りしめ、
「行くぞ!」
「後を頼む!」
そう言うや否や、脱兎の如く走り出し、交通筒を昇ったのだった。
このとき、艦は左斜めに傾いており、やっとの思いで二人は艇内に入り込んだ。
もう電話は使えない。
発進準備の確認もできない。
それでも、彼らを信じ、下の交通筒から整備員がハッチをハンマーでコンコン…と叩いた。それが別れの合図となった。
艦長は、歯を食いしばって何かを耐えているように見えたが、それでも大声で、
「三号艇、五号艇、発進!」
と怒鳴るように命じた。
菅昌艦長の顔は涙で濡れ、その声は、慟哭のように聞こえた。そして、艦内からワイヤーバンドを切り離す操作が行われた。
すると五号艇からは熱走音が聞こえたが、三号艇からは何も聞こえないのだ。
(よし、柳谷が行った。頼むぞ、柳谷…)
しかし、しばらく待っても久家艇の熱走音が聞こえない。
(冷走か…?)
だれもがそう思った。次の瞬間だった。
遥か頭上で、回天のスクリュー音が聞こえたのだ。
なんと、久家少尉は、熱走するかどうかもわからない回天をそのまま浮上させ、海面付近でエンジンをかけたのだ。
もし、冷走すれば、そのまま浮上し、敵艦の攻撃を受けて回天は大爆発してしまうだろう。だが、久家少尉は、土壇場で勝負を賭けた。
今から思えば、たとえ冷走でも、海面に浮上して敵艦が向かってきたら、久家少尉は、そこで自爆装置を押すつもりだったのだろう…と思う。そうでなければ、こんな無謀な策は採れない。
駆逐艦は、急に柳谷艇が向かってきたので、慌てたことだろう。その上、背後から新たなスクリュー音が聞こえ、ソナーを担当するアメリカ兵は、慌てて叫んだのだと思う。
「スクリュー音、感度2!」
「こちらに向かってきます!」
潜水艦を制圧し、間もなく勝利が手に入る瞬間に、敵の攻撃に晒されたのだから、駆逐艦の艦長も驚かないはずがない。
頭上の駆逐艦2隻は、見えない敵に怯え、慌てて遁走したのだった。
アメリカ駆逐艦の装甲では、回天が命中すれば、轟沈は間違いない。それを怖れた敵駆逐艦の艦長は、イ号36潜の撃沈をあきらめ、回天から逃れるように頭上から去って行った。
まさに、久家少尉と柳谷一飛曹の決死の突撃が功を奏したのだった。
イ号36潜は、そのまま敵船団から離れると、できる限り海底に潜み、浮上する機会を窺い、虎口を脱出することに成功した。
二人の渾身の突撃に救われたイ号36潜の乗組員は、浮上すると、必死の作業で浸水を食い止め、帰路に着くのだった。
その後、この二人の回天は、敵艦に体当たりをすることは叶わず、自爆装置のボタンを押したものと推察できた。
だが、菅昌艦長は、
「いや、久家少尉と柳谷一飛曹の艇は、間違いなく敵駆逐艦に体当たりを成功させた!」
「私は、この耳で爆発音を聴いた!」
「そうだな、副長!」
そう言って、一人、艦長室に入った。菅昌艦長の思いは、いかばかりか…と、そのことに対してだれも文句を言う者はなかった。
残された3人が回天戦命令を解かれ、兵員室に戻ると、テーブルの上に一冊のノートが置かれていた。それは、久家少尉のノートだった。彼の日記と言ってもいい物だった。
横田は、何気なくそれを手に取り、ペラペラと中を捲った。
最後のページをめくると、何かしら手紙のような文章が眼に入った。
それには、「基地の皆様へ」という書き出しで書かれていた。
読み進むうちに、横田の目から涙が溢れ出し、ノートのページを濡らした。
それに気づいた新海と園田少尉がノートを手に取ると、そこには、こう書かれていたのだ。
「彼らは、図らずも基地に戻ります。彼ら3人は、これが初めてではありません。どうか、基地に戻っても、彼らを責めないでやってください…」
それは、久家少尉が回天に乗艇するほんの僅かの時間に書き留めたものだった。
あの苛烈な戦いの最中、久家少尉は、生き残って基地に戻る3人を心配し、このノートを認めたのだ。
その夜、横田は自分のベッドに潜り込むと声を殺して泣いた。涙は出なかったが、腹の中が捩れるように苦しかった。胸が押し潰されそうだった。
(久家少尉。ありがとうございます…。横田は、もう泣きません。何を言われてももう何も言いません。もう一度、回天を整備して必ず敵艦に体当たりをします…)
そう誓うのだった。
この轟隊での経験と久家少尉の手紙が、横田の戦後を支えたといっても過言ではない。
横田は、一度東京に戻ると、すぐに東海道線に飛び乗り、大阪に向かった。もちろん、大阪市は久家少尉の故郷である。
大阪は、度重なる空襲によって街は焼土と化して戦前の姿を止める物は何もなくなっていた。これは、大都市なら同じようなもので、東京も皇居や東京駅、国会議事堂などが残ったために、その面影を今でも残しているが、大阪もあの大坂城がなければ、新しい街へと変わってしまっていただろう。
だから、横田は初めての街ではあったが、久家少尉の知る大阪でないことだけはわかったような気がした。
新海が調べてくれた住所を頼りに大坂城周辺を歩いてみたが、それらしい跡を見つけることはできなかった。
大阪商科大学でも卒業生の消息は把握しておらず、横田は、大阪毎日新聞社を訪ねた。
おそらく、轟隊の活躍は当時の新聞紙面を飾ったはずだし、その記事に何か手がかりがないかと考えたが、終戦までに10回近く襲われた大阪の街は、ほとんどが焼けてしまい、久家少尉の遺族の消息を掴むことはできなかった。
ところが、新聞社内で初老の社員が、記憶を辿るようにして横田にこんな話を聞かせてくれた。
「ちょっと待って…」
「あの久家少尉な…。あの記事を書いたのは私だ…。あ、そうそう、実家はわからんが、墓地は確か、堺の…何て言うたかな」
そう言って少し考え込むようにしていたが、やっと思い出したらしく、
「は、鉢ヶ峯寺…。そう、堺の鉢ヶ峯寺だ…」
「海軍大尉、久家実…。間違いない」
堺は、早速、堺の鉢ヶ峯寺を訪ねた。
その寺は、大阪でも由緒ある「法道寺」という寺号で670年創建とあった。その墓地の一角に久家少尉の墓はあった。
軍神の墓としては、他の墓と同じ位で、あまり目立つ墓石ではなかったが、間違いなく「海軍大尉 久家実之墓」と刻まれていた。
横田は、久家少尉の墓に花を手向け、日本酒の小瓶を供えると一心不乱にお経を唱え、合掌するのだった。
既に季節は秋が深まり、紅葉もそろそろ終わりの季節になっていた。
住職に久家少尉の遺族について尋ねると、
「大阪の空襲で、久家さんところも皆亡くなったらしい…」
「それでも、妹さんは助かったと聞いたな…」
「ただ、その妹さんもその後疎開されて、さて、何処におられるか…は、申し訳ないが、今はわからんのう…」
久家少尉の墓は、遺族というより、町の人々の寄付で建てられたそうだ。
当時は「軍神の墓」として、多くの人が参られたとのことだった。
横田は、その墓に額ずくと、改めて感謝の言葉を告げるのだった。
大阪を出ると次は高砂市の池渕隊長の奥さんを訪ねることにした。
池渕隊長は、兵学校の出身ではなく大阪日本大学出の予備中尉だった。
横田たち甲種予科練出身者は、志願で軍人を志した職業軍人だったが、予備学生は、本来、軍人ではなく民間で働く人たちという認識があったために、海軍内では低く見られがちだった。
横田たちにしてみても、職業軍人としての意識から、兵学校出の正規将校と比べて軽く見がちだったことは否めなかった。しかし、親しく接してみると、それが大きな間違いだったことに気づくのだった。
池渕隊長は、既に結婚をされており、新婚の奥さんを残しての出撃だった。新婚生活は、わずか1週間だと聞いていた。
それでも、それを悔やむ様子もなく、淡々としておられたことに、横田たちは、腹の据わった隊長だ…と感心していたのだった。
当時の横田たちに、この隊長の苦悩はわからなかったのかも知れない。
奥さんの由紀子さんは、高砂の池渕家の実家におられた。
隊長は、池渕家の長男だったので、奥さんも家に入られたようだが、僅か1週間の結婚生活にも拘わらず、この家を継ぐ覚悟をされているようだった。
横田が訪ねたのは、大阪の久家少尉の墓参りをして、すぐのことだった。
高砂市の中心部にある大きな商家で、奥さんも他の従業員とともに一生懸命働いていた。
横田が、
「昔、一緒に出撃した者です…。もし、よろしければ御仏壇に線香のひとつも供えさせてください」
そう言うと、驚いたような顔を見せたが、
「わざわざ、遠い所をご苦労様です。どうぞ…」
と、仕事の手を休めて仏間に案内してくれたのだった。
隊長のところには、既に一緒に出撃した園田少尉が立ち寄っており、出撃の様子は園田少尉から聞いているようだった。
園田少尉は、東京大学出の秀才で、その後、もう一度出撃したが、やはり、回天の故障で戻って来ていた。
やはり、横田と同じような苦悩を抱えながら、隊長のところに来たのだろう。戦後は、東京の大きな商社に勤めているとのことだった。
常に冷静な人で、よく横田の言う冗談に笑い、
「横田兵曹は、おもしろいな…。君は、話すことを職業にするといいよ…」
そんなことを言われたことがあった。
死を覚悟した出撃を前にして、「職業…?」なんてことを言うのは、この園田少尉くらいしかいなかった。
やはり、この戦争のことを冷静に見ていたのだろう…と、今さらながら感心するのだった。
仏壇には、やはり多くの位牌があったが、そこに新しい池渕少佐の位牌があった。
仏壇に手を合わせた後、隊長のお墓がある高砂市の善立寺に案内をして貰った。軍神の墓にしては、ごく普通の墓だったが、これは奥さんの願いでそうして貰ったそうだ。
池渕隊長の性格を考えると、
(仰々しい墓より、この墓の方が隊長らしい…)
と横田も思った。
(それにしても、この由紀子さんは、何と気丈な方なのだろうか…)
別れ際に挨拶する横田に奥さんは、
「横田さん。もう、戦争は終わったんです。いつまでも、それに囚われず、横田さんらしい人生を歩んで下さいね…」
「主人もそれを望んでいると思います…」
そう言って、深々と頭を下げるのだった。
横田は、新海と一緒になって調べた名簿を持って、この他にも十数カ所の遺族を訪ねて歩いた。中には、まったく消息が掴めずに諦めた者もいた。
そのときは、必ず靖国神社に参り、手を合わせながら英霊になった戦友たちに報告することを忘れなかった。
それにしても、僅か4年の間に社会は移り変わり、人の世も大きく変わっていることに気づいた。
遺族に中には、横田の訪問を快く思わない人もいた。
「もう、思い出させないで下さい!」
「なんですか、あなただけ生き残って!」
「二度と来るな!」
と、厳しい声をぶつけられもした。
それでも、横田は、できる限り遺族を探し、死んだ戦友に手を合わせるのだった。
東京に戻ったある夜。
生き残った戦友の篠田正美と酒を飲む機会があった。
篠田は、やはり土浦空の同期で、後期に回天隊に入った男だった。 後期回天隊は、前期の横田たちと違って、その多くが「基地回天隊」に配属されていた。 要するに、本土決戦に備えて八丈島や房総半島などに配備され、基地から来襲する敵艦隊に特攻をかけるよう訓練を受けていたのだ。そのために、実戦の経験のないものがほとんどだった。
その篠田が、横田に聞いた。
「おまえは、どうして、そこまでして遺族を訪ねているんだ?」
「みんながみんな、おまえを歓迎してくれるわけではないだろう…」
そう聞かれた横田は、
「ああ、そうだ…」
「知れば知るほど、辛くなることもある…」
「だが、死んで行った連中は、その何倍も苦しみ抜いて死んで行ったんだ…」
「おまえは、回天に乗って、発進命令を受けたことがないからわからないんだ…」
「三号艇、発進!」
「その命令を受けたとき、俺は、正直、頭が真っ白になった。でも、それよりも自分の任務の方が重かったんだ…」
「それに、同じ隊の仲間がいる…。特眼鏡で見た、発進直後の気泡とスクリュー音、甲板上に残されたワイヤーバンドを見るたびに、俺を出せ!と叫んだんだ…」
「出れば、それで確実に死はやってくる…」
「起動桿を押して熱走が確認されれば、バンドは解かれ回天のスクリューは回り始めるんだ…」
「俺は、そんな夢を何度も見る」
「それは、いつも決まって俺が起動桿を押すところなんだ…。起動桿を押すんだが、何度押しても熱走しない。だから、何度も何度も押すんだ…」
「だけど、俺の艇は、熱走しないんだ…」
そう言うと、横田は、テーブルに肘をついて顔を覆った。
篠田は、横田の背中に手を置いて謝った。
「そうか、そうか。すまなかった…。おまえの気持ちも汲んでやれずに、つまらぬことを聞いてしまったな…」
「許してくれ…」
横田は、涙で濡れた顔を上げると、
「いいんだ。取り乱してすまなかった…」
「だが、あのときの気持ちは、本当は、発進命令を受けた者しかわからないんだと思うよ…」
「まあ、俺の気の済むようにさせてくれ…」
そう言うと、再び笑顔を見せて酒を酌み交わすのだった。
第6章 復職
昭和25年4月。
横田は、成条小学校に復職すると同時に、あの花田雅恵と結婚した。
雅恵なら、一緒に生きられるかも知れない…と考えたからだった。それに、何人もの遺族に会い、墓に詣で、気持ちが落ち着いたからかも知れなかった。
それに、教師という仕事は、「未来を作る仕事」のように感じられたことが、横田に生きる気力を与えたのかも知れなかった。
そして、雅恵と家庭を築き、自分の心にポッカリと空いた穴を埋めたかったのかも知れない。
それでも横田は、小学校の教師をしながら、時間を見つけて、残った遺族を訪ねるつもりでいた。
乾校長は、この3月で校長を退任したが、学園の理事職に就くことになった。
新しく着任されたのは、横田の父親の学だった。
学は、成条中学校の教頭だったが、この4月から昇任して小学校の校長となったのだった。
横田にしてみれば、まさか、親子で同じ学校で仕事をすることになろうとは思わなかったが、人事となれば致し方ない。
妻になった雅恵は、逆に新設された成条幼稚部へと異動になった。
元々、幼児教育に興味を持って勉強していた雅恵だったから、新設幼稚部での仕事にやり甲斐を見出していた。
二人の生活は順風に見えたが、雅恵には一つ気になることがあった。それは、横田が夜、時々魘されることだった。
それは、実は横田から「夜、怖い夢を見ることがある…」と聞かされていたことなのだが、それは、春から夏場にかけて多く見られた。
横田は、隣の寝床で苦しそうに寝汗をかき、ウン、ウン…と魘されるのだ。それは、数分の時もあるし、10分以上続くこともあった。
雅恵は、気が気ではなかったが、横田の戦争中の過酷な体験を知っているだけに、可哀想でならなかった。
そのために、1年間の休職を取って遺族のところを回ったことを知っていたし、今でも、休日になると出かけていた。
その間に、子供を二人授かった。
女の子と男の子である。
横田は、その子らに美子と守と名付けた。
横田は、平和な時代に生まれたその子らを殊の外可愛がり、元軍人とは思えないほど家庭には協力的だった。
そんなとき、横田に執筆を勧めたのは雅恵だった。
雅恵は、夜になると魘される夫を見て、
「どう、あなた。あなたの体験を書いてみたら…。出版するとか、そう言うことじゃなくて、あなたの体験や戦争に対する思いを原稿用紙にぶつけてみるのよ…」
「そうすれば、あなたの気持ちも整理できるし、この子らや学校の子供たちにも、何かしら伝えられることができるんじゃない…」
「私もお父さんたちも、みんな戦争では苦労したけど、いずれ時間が経てば、美子や守のように戦争を知らない世代だけになるのよ」
「そのとき、真実は強いわ…」
「戦死した皆さんのためにも、あなたの気持ちを書くべきよ…」
妻からこう言われて、横田は、
「ああ、考えておくよ…」
と、その場は答えたが、時間が経つに連れて、
(そうか、雅恵の言うとおりかも知れんな…)
と思い、白河の新海に相談した。
新海は、
「そうだよ。横田、ぜひ、そうしろよ。俺も協力するし、今だったら、灘尾さんのように、兵学校出の士官だって助けてくれるさ…」
そう言って励ましてくれるのだった。
昭和27年ごろになると、GHQの占領も終わり、日本も改めて独立できる機運が盛り上がっていた。昭和26年の9月には、時の総理大臣だった吉田茂首相が、サンフランシスコ平和条約に署名し、この効力は昭和27年の4月28日ということが決定していた。
そうなれば、間もなくGHQの占領が終わり、日本は再び独立国となるのだ。そうなれば、「回天特攻隊」の真実を書いても、だれに咎められることもない。
戦後、日本を占領したGHQは、ポツダム宣言の趣旨を無視するかのように、次々と日本に新しい改革を要求していった。
ポツダム宣言では、無条件降伏を求めたのは日本軍だったのに、それを「日本国」そのものが無条件降伏だったかのように宣伝し、多くの日本人は、それを信じていた。
出版物も、元軍人が真実を書いて発表しようとしても検閲が厳しく、思うように出版できなかったり、内容の大幅な修正を求められた。
あの東京裁判も、まるで画に描いたような茶番劇だったが、報道を統制していたGHQは、連合国側に不利な証言はすべて却下し、一般下士官兵にまで犯罪を適用して容赦なく処罰したのだった。
最後は、これまでの憲法が破棄され、新憲法と称するものが制定されたが、 「GHQが、1週間でまとめたらしいぞ…」 という噂まであった。こうして、日本はそれまでの国とは180度も違う国へと変えられてしまったのだった。
新海は、時々、電話をよこし、
「なあ、横田。戦争に負けると、こんなに酷い目に遭わされなければならないのか?」
「戦争は、外交や政治の一手段だろ…」
「人間っていう奴は、本当に怖ろしい生き物だな。あれだけ酷い殺し合いをやったかと思えば、国の文化や歴史まで奪い去り、それを正義と称して威張っているんだから…」
「教師である俺たちには、何ができるのかな…。何だか、空しくなってくるよ」
そう嘆いたが、世界から見ればちっぽけな一教師の言うことなど、だれも聞いてくれないことは、よくわかっていた。
そんな雅恵や新海の言葉が届いたのか、横田は、ある決心をした。
ある晩の新海からの電話に出た横田は、
「新海、わかった。やってみるよ…」
そう答えていた。
このとき、横田自身に何かはっきりとした目標があったわけではない。
日本の占領が終わり、やっと独立できる時代になった。
だが、これまでの横田は過去にばかり拘り、未来を見ることを忘れていたことに気づいたのだった。
(そうだ、もう前を見よう…)
(あの戦争当事者の一人として、悔いはある。だが、失ったものだけを追いかけても未来は開けない…)
(子供たちの為にも、頑張らなければ…。そのための遺書だと思えばいい…)
そんなことを横田は考えていた。
電話口でそう話す横田を見て、雅恵はホッとするのだった。
(これで、あの人の苦しみが少しでも和らげばいいのだけれど…)
そう思う優しい雅恵だった。
昭和27年度が始まると、横田はまた6年生の担任として張り切って教壇に立ち、子供たちの指導に精を出していた。
その間を縫うように、関東近県の戦友の遺族を訪問し、空いた時間を見つけては机に向かった。
原稿のタイトルは、「回天特別攻撃隊の記録」とした。横田にしてみれば、自分の体験を綴るつもりで書いたもので、他の人間に見せることを意識して書くつもりもなかった。ただ、真実のみを残したい一心だったのだ。
それに、これを書くことで二人の子供に父親の生き様を見せられるような気がしていた。
父親としても教師としても、真実の自分を知ってもらいたかった。
それに、このころになると、日本では戦記物がブームになり、少年雑誌にも戦艦大和や零戦などが特集で組まれるようになっていた。それは、戦時中の人々には知らされていない新事実ばかりだった。
このころ作られた映画にも、度々「特攻」が登場したが、人々を感動させようとする演出が目立ち、事実と異なる描写も多かった。
製作する側も予算や製作日数などの関係で、あまり取材をしないで製作しているように思われた。
回天が登場する映画では、特攻隊員同士が一人の娘を啀み合った末に奪い合うようなシーンがあり、真実を知る横田たちには耐え難い描写となっていた。
新海も憤慨して横田に電話をしてくる始末で、
「横田。だから、真実を書くしかないんだよ…」
と、横田に早くまとめるように催促するのだった。
確かに、今のままではどんどん真実が歪められ、あの東京裁判と同じようなことになってしまうと思うと、放ってはおけなかった。
だからこそ、横田の執筆には意味があったのだ。
そんなとき、学校でひとつの事件が起きた。
それは、昭和28年の春のことだった。
学校に3人組のやくざ風の男たちが校長を訪ねてやって来た。
校長は、横田の父の学である。しかし、そんな3人に面識のない学は、面会を断ったのだが、勝手に校舎に入ってきた3人は、無断で校長室に入り込み、横柄な態度で1冊の書籍を売りつけようとしていた。
それは、分厚い「紳士録」だった。
紳士録とは、各界の著名人の名簿を集めて一冊の本に仕立てた物だったが、ある意味いい加減で、やくざの資金源になっているという噂があった。
今回もその類いの押し売りだった。
横田校長は、当然のようにその要求を毅然と断り、
「君たちは、何のつもりでここに来たのか?」
「私は、そんな物を買うつもりはない!」
と突っぱねた。
それも一冊3千円だ…というではないか。
そのころの大学卒の初任給が、まだ一万円に届かない時代である。
それを滅多に見ることのない分厚い紳士録が3千円だと嘯く輩が、まともな人間であるはずがない…。
横田校長が立ち上がり、
「もう結構だ。帰り給え!」
校長室には、横田校長と安西教頭が3人と対峙するような形になった。
3人は、見るからにやくざ者で、その中の一人が、教頭の胸ぐらを掴み、
「おい、いいのかよ。世田谷の校長さんたちは、みんな買ってくれたんだぜ!」
と脅しをかけたそのときである。
報せを聞いた横田が、校長室の扉を開けると、その胸ぐらを掴んだ男の襟首を掴み、教頭から引き離すな否や、後ろに放り投げた。
男は、バランスを崩して応接椅子に倒れ込んだ。
「おい、貴様。やってくれるじゃないか!」
と、横田に向かってきたそのときである。
一人の男が、大きく手を伸ばして、
「待てっ!」
と二人に声をかけた。
横田が、その男の顔をじっと見詰めると、
「おい、おまえ。古谷じゃないか…?」
「13期の古谷…だろう?」
横田から古谷と呼ばれたその男は、顔を曇らせ、小さな声で、
「先任…」
と呟いた。その男の顔は、既に血の気を失っていた。
先任とは、甲種13期の先任下士官のことを指す。
それを聞いた横田は、間違いなく同期の古谷誠二だと気がついた。
横田は、
「なんだ、貴様、生きておったのか?」
「貴様は、飛行機に行って特攻したと聞いていたんだがな…」
横田の言い方は、まるで軍隊時代と同じになっていた。
それは、上官が部下に遣うような命令口調の言い方で、横田校長も自分の息子がこんな威厳のある話し方をすることに驚いた。
すると、古谷と声をかけられた男の顔が、みるみる赤く染まり、二人の男を引き離すと、
「先任。申し訳ありません…。変なところでお会いしてしまいました…」
「勘弁して下さい!」
そう言うや否や、紳士録を奪うように抱えると、
「おい、帰るぞ!」
そう言うや否や、二人の男を連れて、その場から走って逃げていったのだった。
「古谷…」
横田は、開け放たれた校長室の扉を見ながら、そう呟くのだった。
横田は、父であり校長である学に、説明をした。
「あの男は、同期の古谷誠二という男です。出身は埼玉の川越だったと思います…」
「私を先任と呼ぶのは、私が土浦空甲種予科練13期の先任下士官だったからです…。奴は、私の班にいた男で、要領が悪くいつも教員に殴られていました」
「勉強もあまりできず、やっとのことで予科練を卒えたんです…」
「私たちは、回天搭乗員として、卒業後すぐに大津島に行きましたので、残った連中のことは、よくわかりませんでしたが、その多くは、空の特攻隊員になったようです」
「奴もその一人です」
「特攻で死んだ…と思っていたんですが、まさか、やくざ者になっていたとは、知りませんでした」
「本当に、昔から要領の悪いばかな奴です…」
そう言って、父である横田校長に頭を下げるのだった。
こんなところで、懐かしい同期生に会うなんて驚きだったが、本当は、もっといい形で会いたかった…と思う横田だった。
すると、横田校長は、
「これも戦争なんだよ…」
「あの古谷という男も、戦争で死ぬことができずに苦しんだのだろう…」
「戦後、日本は、元軍人に冷たかった。戦争に負けたとはいえ、必死に戦ってくれた軍人に感謝しても、あれほど冷たい仕打ちをすることはなかったんだ…」
「私は、あの紳士録を買ってやればよかった…と、今は後悔しているよ」
「あの人たちに気の毒なことをした…」
校長の言葉を聞いていた職員は、自分の心の中で、元軍人を蔑むような気持ちを持っていたことが恥ずかしかった。
(戦争に負ける…ということが、こうも辛いことなのか?)
横田は、今の自分の境遇に、申し訳なさでいっぱいだった。そして、古谷が、真っ当な道を歩むことを願うのだった。
横田が、名簿にあった遺族を回り終えたのは、それから5年の月日が流れていた。それでも、その中の2割は消息不明で辿り着くことができずにいたのだ。
新海は、そんな横田に声をかけ、福島から何度も東京に足を運び、横田を支えてくれた。
2年の月日をかけて書き上げた「回天特別攻撃隊の記録」は、学校で印刷し、新海を始め数人の元同期生に配付した。
だれもが当時を思い出し、
「横田…、ありがとう。すばらしいよ…」
そう言って喜んでくれた。
これが機運となって、甲種飛行予科練習生13期の回天会が設立された。
最初は、20人ほどの集まりだったが、年に一度靖国神社に集まり、慰霊祭を行ったり懇親会を開いたりして、旧交を温め合った。
幹事には13期次席の新海喜久夫が就いた。
新海は会報まで作り始め、
「俺も横田みたいに、作家にでもなろうかな…」
などと言う始末で、本当に面倒見のいい男だった。
横田の原稿は、いつの間にかある出版社の目に留まり、書籍化されると大きな反響を呼んだ。
特攻隊と言えば、「神風」といわれるように、空の特攻隊のことだと思われていたものが、海中特攻があったことに人々は驚いた。
横田の書籍は版を重ね、映画化もされた。しかし、横田個人は、どんな取材やインタビューにも応じることはなかった。
取材に応じたのは、回天会の新海だった。
新海は、
「おまえの苦しみは、俺の苦しみだ…」
「真実を書くように勧めたのは俺だし、面倒なことは俺がやる」
「それが、次席の役割だからな…」
そう言って、表に出るような仕事は、全部引き受けてくれたのだった。
それでも、作者の横田に会いたいと言う者には、
「私は、一介の教師です。私の話したいことは、ここに全部書きましたので、これを読んで下さい…」
そう言って、最後まで取材に応じることはなかった。それでも、横田の書いた「回天特別攻撃隊の記録」は、英訳され「KAITEN」として、アメリカでも出版され評判を呼んだ。 時には、「自分は、回天に攻撃された駆逐艦の艦長です…」と名乗りをあげる元アメリカ軍の軍人もいたが、会うのは決まって新海だった。新海は、得意の英語を駆使して、それらの軍人から情報を聞き出し、回天会で報告するのだった。そして、横田の死後、新たに上官だった灘尾博元中尉と共著で「回天特別攻撃隊の真実」を出版した。それは、横田のような個人の記録ではなく、アメリカ軍に残る記録と日本に残る記録を照合し、回天の戦いを詳細に分析したものだった。 新海は、 「私は、先任の横田兵曹の後を受け継ぐ者です。彼の志を次席の自分が継いでいるのです…」 と語り、常にこの二冊を携え、全国を講演して回った。 雅恵には、そうした新海の姿が、横田と重なって見えたという…。
横田は50歳まで成条小学校で教鞭を執ると、その後は、自宅近くに畑を買い、毎日、野菜を育てることに精を出した。
管理職にならないか…という話は度々来たが、横田はそれを丁重に断り続けた。そして、
「私は、指揮官ではありません。予科練出の一下士官です…」
「それに、この戦争を戦って敗れた当事者でもあります。そんな男が、組織のリーダーになって新しい教育を語る…などと言うことはできません」
「リーダーは、新しい時代の人にお任せします」
と言うばかりだった。
そんな横田の姿を見て雅恵は、
(自分の好きな道を歩いて行けばいいのよ…)
と、常に横田の隣に座り、優しい眼差しを送るのだった。
横田の農業の師匠は、あの新海だった。
新海は、上京するたびに横田の家に泊まり、同期生や遺族の情報をもたらした。その多くは、横田も知ってはいたが、新海は、その場にいたかのように話すので、雅恵も新海が来るのを楽しみにするようになっていた。
それに、彼の農業は本格的で、教師をしながら、家の跡を継いで手広く経営も行っていたのだ。
新海は、退職の年まで中学校で数学を教え、地元の中学校の校長まで勤め上げた。
横田にしてみれば、本当に器用な男で、その切れのいい頭脳は、予科練時代から少しも変わらなかった。それに、次席という立場が性に合っていたらしく、いくつになっても「先任」である横田を立て、甲斐甲斐しく動くのだった。
横田が、倒れたのは60歳を迎えるひと月前のことだった。
夏の盛りに、「草を取ってくる」と言って、家を出たきり畑から戻ってこなかった。
おかしい…と雅恵が畑に向かうと、草刈り鎌を握ったまま、横田は畑の真ん中で倒れていたのだ。
雅恵が救急車を呼んだときには、既に横田は息をしていなかった。
診断では、脳出血だということだった。
酒も煙草も飲まない横田が、脳出血というのは解せなかったが、これも運命なのだろう…と雅恵は思った。
それに、横田の顔は、苦しみに歪んでおらず、寧ろ安心したかのような顔をしていたことが、雅恵の気持ちを落ち着かせた。
新海が報せを聞いて駆けつけたときには、夏場でもあり、横田の体は荼毘に付され、骨になっていた。
新海が骨壺を持つと、その骨は意外にも軽く、体もかなり弱っていたことに周りが驚いていた。
雅恵は、
「この人は、ずっと死んだ戦友の方々のことだけを考えて生きておりました…」
「その苦悩が、体を蝕んだのかも知れません」
「私たち家族と一緒のときでも、どこか、遠くの方を見ているようなところがありましたから…」
「でも、これで、柿崎隊長や池渕隊長さんのところに行けるでしょう…」
「本当に、ご苦労様でした…と言ってあげたいです」
そう言って、新海に頭を下げるのだった。
あの戦争が終わって40年が過ぎようとしていた。 新海は、その後も精力的に回天会の仕事に尽力し、さらに、農業経営者として地域の発展に貢献した。新海には、白河市から「教育長になって、地域教育に努めて欲しい…」という要請があったが、 「私は、指揮官ではありません。予科練出の一下士官です…」
「それに、この戦争を戦って敗れた当事者でもあります。そんな男が、組織のリーダーになって新しい教育を語る…などと言うことはできません」
「リーダーは、新しい時代の人にお任せします」 と、丁重に断り続けた。まさに、あの横田の台詞をそのまま返して見せたのだ。 新海は、死んだ戦友の分まで長生きし、戦後70年の節目の年に亡くなった。 90歳の大往生だった。
完
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