「戦艦大和の事件簿」~草野真一郎主計大尉の事件ファイル~

「戦艦大和の事件簿」~草野真一郎主計大尉の事件ファイル~

矢吹直彦

エピソードファイル 海軍主計大尉 草野真一郎

昭和17年1月某日。
一人の海軍将校が呉桟橋で、迎えの内火艇を待っていた。
背は180㎝もあろうか、当時として随分と背の高い男だったが、海軍士官のにわりには細身で、手足ばかりがやたら長い。その上、鼻は高く彫りの深い顔に眼鏡がよく似合っていた。遠くから見れば、外国人にも見える風体をしている。
本人もそれを気にしてはいたが、純粋な日本人であり、近い祖先に外国人はいないので、遥か遠い先祖の血なのかも知れなかった。しかし、それは、この男の責任ではない。
ただ、その足の長さは尋常な長さではなく、当時の男の平均身長からしてみれば大男に間違いはなかった。
それに、この男仕草も何となく気取っていて、どう見ても無精髭は似合わないだろう。

この日の呉は、今にも雪が降りそうな曇天で、灰色の厚い雲が幾重にも雲の層を作っていた。
この士官は、濃紺の将校マントを羽織っていたが、背筋がスッと伸び、長年海軍で鍛えてきた体幹をしているようにも見えた。
周囲には、同じ内火艇に乗る予定の下士官や兵が数人固まっていたが、そんな将校らしき男に怪訝な視線を送っていた。
眼を凝らしてよく見ると、軍帽と階級章に一本の白い線が入っている。
「な、なんだ…主計科か…?」
屯していた男たちは、ちょっと安心したように体の緊張を解いた。
兵科や機関科の将校なら、いわゆる戦闘配置の幹部なので気合いを入れられそうだが、主計科なら、陰で言う「事務屋」なので、それほど気合いの入った奴はいない…。そう男たちは値踏みをしているのだ。
いくら兵隊といっても、要領がよくなければ軍隊なんぞで務まるはずがないのだ。
すると、一人の若い下士官が、その主計科らしき将校に近づき、海軍式の敬礼をすると、申告するではないか…。
将校は、立てたコートの襟の間から、その下士官に眼を向けると、仕方ない…といった風情で、その下士官に正対した。
一応、こうした作法は心得ているらしかった。
「失礼いたします。私は、二等主計兵曹…中野二郎であります」
「本日付けで、大和乗り組みを命じられました!」
そう言うと、きちんと海軍式の敬礼をして見せた。
中野と名乗った男の袖には、山形に錨マークの入った「特別善行章」が光っており、主計科下士官の普通科特技章も付いていた。
すると、海軍将校は答礼して応えた。
「ああ、私は、主計大尉の草野真一郎です…」
「君と同じ、主計科です。まあ、よろしく頼みます…」
そう言って、笑顔を見せた。
これが、この二人の初めての出会いとなった。
真一郎は、子供のころから言葉遣いだけは厳しく躾けられており、どうもぞんざいな言葉を遣うのが苦手だった。
下士官兵にまで丁寧な口調で話すので、相手も困ったような顔をしていたが、こればかりは治しようがない。
商家の生まれなので、両親共に真一郎をそのように育てたのだ。
真一郎は海軍に入ってから、一度、試しに横柄な口調で話してみたが、それはそれで真一郎には合わないらしく、同期生たちから「止めろ止めろ!似合わん…」ということで、やはり丁寧な口調に戻ってしまっていた。
この中野二曹も最初は、変な顔をしたが、すぐに厳めしい顔を作った。
まあ、そのうち慣れるだろう…。
真一郎は、そう考え、気にしないことにしていた。

さて、主計科とは、簡単に言えば、軍隊の「事務屋」のことである。今の会社でいえば「総務」のような仕事で、戦闘部隊である軍隊の裏方にあたる。しかし、この主計科がなければ飯も食えないし、給料も貰えない。まして、転勤や昇進などの事務手続をしっかりしてもらわないと、将来に関わる大事な仕事なのだ。
下士官兵たちが気を緩めたのは、自分たちは戦闘配置の兵隊で、この将校が主計科だと見抜くと、「なんだ、事務屋か…」という侮りの気持ちがあったからに違いない。もちろん面と向かって上官にそんな態度を取る兵隊はいなかったが、これが、兵科や機関科の将校だとそうはいかない。
若い将校なんかに出会えば、会うなり気合いを入れられ、ちょっとでもおかしな真似をすれば、得意の「鉄拳制裁」が待っているのだ。
ベテランの下士官になると、
「ちぇ…、あいつらは、ばかみたいに殴りやがるからな…。気を緩めると命がいくつあっても足りやしねえや…」
と陰口を叩いた。しかし、主計将校は、そんなことはしない。
多くの者が眼鏡をかけており、何となく品があった。
主計科将校養成機関である「海軍経理学校」が東京の築地にあったことから、生徒は、休日なども銀座や日本橋などで過ごす者が多く、洗練された流行のファッションなどを取り入れ、軍服も少尉任官と同時に東京の老舗紳士服店でオーダーする者もいたくらいだった。
その点、兵学校は広島の江田島という何もない風光明媚だけが取り柄の離れ小島だったし、機関学校は京都の舞鶴で、日本海側の奥地である。
彼らは、お洒落をしようにも周囲は農村、漁村ばかりで、そんなことにかまけていると、先輩生徒から殴られるに決まっていた。
その点、学年20人くらいの経理学校は家族的な雰囲気があり、海軍贔屓の財界人や貴族院議員などから、パーティに招待されることもあったようだ。それだけに、紳士としての教育は、経理学校が一番進んでいたといえる。
もちろん、海軍軍人としての訓練は受けているから、海軍将校としての心得は十分に承知している。その上、戦闘時には戦闘配置に就くので、一通りの実戦訓練は受けていた。
中には、柔剣道に優れた者もいて、兵科将校より強い者もいるのだが、主計科将校に武道や戦闘能力は、あまり期待されていなかった。だから、その仕事柄、彼ら自身が下士官兵に手を挙げることはほとんどなかった。
それに、戦争が始まると、「短期現役士官」という制度ができて、大学だけでなく民間の商社や銀行から応召で海軍に入り、1年間の講習を受けて「主計科士官」になる者もいたので、どちらかというと「娑婆」の匂いをする人が多かったのだ。
そのために、下士官兵の中には、主計科将校や士官に気安く声をかける者もおり、彼らも、あまり軍人臭さを出すことを嫌っていた。
そう言えば、「海軍将校」という言い方と「海軍士官」という言い方をするが、海軍では、「海軍兵学校」「海軍機関学校」「海軍経理学校」を出た者だけが「将校」であり、それ以外の者は同じ階級であっても「海軍士官」と呼ばれた。また、下士官から昇進してきた「士官」は、別に「特務士官」と呼ばれ、また一段、低く見られていたのである。
その点、陸軍はすべて幹部を「陸軍将校」と称して、海軍ほどの差別意識はなかったようだ。
だから、海軍経理学校を首席で卒業した草野真一郎は、間違いなく「海軍主計科将校」なのだ。
それでも、主計科では戦闘時に指揮権はなく、最高の階級も「主計科中将」で、海軍大将や元帥にはなれない仕組みになっていた。
考えてみれば、海軍主計大佐がいても、戦闘が始まれば兵学校出の少尉の指揮下に入らなければならないのは、何となく不思議な気がしたが、まあ、言っても仕方がない。
当時の日本海軍は、何でもかんでも「兵科将校」中心の社会を造り上げていたのだった。

本編主人公の草野真一郎は、子供のころから頭はよかったが、理屈っぽいところがあり、軍人などとはほど遠い存在に思っていた。それに父親譲りなのか視力も悪く、小学校の高学年のころから、眼鏡は欠かせなかった。
それでも、背が高い分、陸上の走り高跳びの選手としては、東京府屈指のジャンパーだった。全国中等学校体育大会でも3位に入賞する成績を残しており、私立大学からも勧誘の声がかかるくらいだった。
唯一の趣味は、探偵小説、推理小説を読むことで、アガサ・クリスティ、エドガー・アラン・ポー、コナン・ドイルなど、学校の図書館に籠もっては夢中になって読むのが日課となっていた。
そのためか、視力はどんどん低下し、中学生になったころには、眼鏡が欠かせない体になっていたのだ。

周囲が、海兵だ陸士だ…と騒いでいたころに、真一郎は、中学校でも、
「草野は、軍人は無理だから、一高、帝大か…?」
などと、言われる存在だった。
それが、中学校の5年生の春になり、同級生の早瀬が、
「おい、俺、海軍経理学校を受けようと思うんだが、なあ、草野…、おまえ、一緒に受けてくれないか…?」
と頼まれてしまったのだ。
もちろん、真一郎に経理学校を受けるつもりもなく、参考書も取り寄せてなかった。
「ばか…言うな!」
「僕は嫌だよ。軍人になんかなるつもりはない!」
「まあ、一高がだめなら二高か、若しくは浦和高校かな…」
そして、将来は銀行員か官僚…などと考えていた。それに、官僚でも警察官僚なら、刑事事件の捜査もできて面白そうだ…と考えていたのである。
そこに、早瀬が海軍経理学校なんて言うものだから、驚いてしまった。
そんなこんなで三日ぐらい、嫌だ…と言い続けたが、最後は、
「じゃあ、受験だけだぞ。付き合いだからな…」
そう言って、志願書に必要事項を書き込んでしまったのだ。
担任教師は、
「おい草野…、おまえ、人がよすぎるんじゃないか…?」
と心配してくれたが、真一郎も「受かりっこありませんよ…」と気楽に考えていたところがあった。
確かに、軍の学校を希望する者は、専用の参考書を買い、毎日補習に通って、猛勉強に明け暮れていたし、真一郎のように片手間に受ける人間はだれもいなかった。
真一郎たちの通う私立成条中学校も「軍人クラス」を設けて、夏に行われる試験のために、連日、補習授業が組まれていたのだ。
志願書は出したが、行く気のない真一郎は、早瀬が補習に出ても、さっさと帰宅して推理小説三昧の日々を送っていた。
真一郎は、成条中の中でも理数系に明るく、成績もトップクラスだった。しかし、勉強熱心という生徒ではなく、いつも推理小説を鞄に忍ばせているのである。
特に最近は、日本の江戸川乱歩の明智小五郎シリーズに嵌まり、夢中になっていた。だから、学校の勉強は片手間なのだ。
こんな男の将来が海軍将校というのも、あまりピンと来ないが、人のいい真一郎は、誘われるままに海軍経理学校を受けることになった。

東京の志願者の試験は、築地の海軍経理学校本校で行われた。
昭和10年の経理学校の募集人員は20名。受験生は、全国から2000名を超えていた。実質倍率100倍である。
この当時、海軍や陸軍の将校養成学校は人気進学校であり、戦争の実感もないことから、今でいう「公務員でもなるかな…」程度の感覚で受験する者も多く、100倍と言っても、真剣に勉強してくるのは、そのうちの半分以下だといわれている。
真一郎自身も「冷やかし組」の一人であり、こういう男が全国にたくさんいて、地方では、「俺は、海軍兵学校を受けたんだ…」と自慢する風潮があったのだ。受けるのは資格要件さえクリアすれば受けられるのだから、中味はわからない。だから、戦争中の受験とは根本的な心構えが違っていた。

海軍の兵学校、機関学校、経理学校の3校が人気なのは、「海軍将校養成機関」であり、合格すると「海軍生徒」になれるからである。
生徒の身分は、「一等兵曹の上、兵曹長の下」と決められており、待遇は准士官となるのだ。
徴兵制度が存在した当時、健康な男子であれば兵役は免れないが、同じ兵隊になるにしても、試験に合格しただけで「一等兵曹の上」といった階級が貰えるとなれば、別格の待遇である。まして、地方には海軍将校などあまり見ない時代である。
雑誌やたまに見る映画などに登場してくる海軍将校は、真っ白な軍服に肩章をつけ、軍帽を被って敬礼する姿は、流行の最先端と言ってもいいくらいの人気を博していた。
それに、映画では、背の高い二枚目の俳優が演じるので恰好がいいが、実際は、その辺にいる「兄ちゃん」がなるのだから、かなりイメージは違うようだった。
その点、真一郎は、眼鏡さえ外せば、映画俳優並の容姿を誇っていた。
この待遇面は、3校共に同じだったが、経理学校だけが唯一「視力」に問題があっても、近視程度なら受験ができたのだ。それだけに、視力は悪いが海軍生徒を志す中学生たちが挙って志願をしたので、年によっては、兵学校や機関学校の倍率を上回ることがあった。この昭和10年の試験もそういう年度だった。
そうとも知らず、同級生から誘われて受験をしてしまうのだから、真一郎自身「ぼんやり」だと言われても仕方がない。それが、この男のいいところなのかも知れないが、面白い奴には違いない。

試験当日、早瀬に連れられるように会場に向かった真一郎だったが、試験勉強を何もしていないので、何をどうしていいのかもわからず、まごまごしていると、早瀬がすべての手続を済ませ、試験会場に入っていった。
試験は、5日間にわたって行われ、その日の夕方には発表されて、落第した者は、自分の受験票を探して持ち帰るシステムだった。ところが、あの早瀬が3日目で落とされたのに、真一郎は、最終日まで奇跡的に残ったのだ。
1日目は、代数、2日目は、数学と英語、3日目は、物理と化学と国語・漢文、4日目が歴史と作文である。
真一郎は、理数系が得意で英語も難なくこなした。問題は、国語だったが、それも問題数が少なく、運良くクリアできた。歴史と作文は、日頃の読書がものをいった。作文は、小説ばかりを読んでいるので、得意中の得意である。
最終日は、口頭試問だったが、面接官の海軍主計少佐から志望動機を聞かれ、
「はい。私は、理数科が得意ですので、砲術をやってみたいです…」
と答えたら、
「おいおい、ここは経理学校で、兵学校じゃないぞ…」
そう言われて、真一郎は顔を真っ赤にして「しまった…」と思ったが、その面接官は、
「しかし、それくらいの意気がなけりゃあ、海軍士官は務まらんからな…」
と言ってくれたので、ほっとため息をついた。
そして、「好きなことな何かな…」と聞かれたので、得意の陸上競技と推理小説だ…と答えた。
面接官は、「ほおっ…」と言ったきりで、次の質問に切り替えられた。
その後は、得意の数学と物理の問題を聞かれたが、それは簡単な内容で、すぐにすらすらと解いて見せた。
真一郎にしてみれば、試しに受けに来ただけだから、ここまで来ただけで十分だった。それにしても、誘ってくれた早瀬が気の毒でならなかった。
早瀬は、数年後、大学を卒業すると短期現役士官として海軍に入隊してきた。もちろん、主計科士官である。

経理学校時代の真一郎は、相変わらずモタモタと作業をこなしていたが、ここでは、カッター(短艇)などの操船技術より、英語や数学などの事務系に必要な座学が多かったので、真一郎には有利だったのかも知れない。それでも、陸上競技をしていたせいか運動神経はよく、剣道もその手足の長さを最大限に発揮した。
小柄な相手では、真一郎の「跳び込み面」を躱せる者はいなかった。それに、柔道も高跳びで鍛えた足腰の強さとバネがあり、内股を得意とした。
そんなわけで、一見ぼんやりして見える真一郎だったが、卒業時には立派に首席として栄誉の銀時計を授与されたのだった。
それでも、真一郎本人は、あまり名誉だとも思っていないらしく、その時計は、実家の自分の机の中にしまい込んであり、見つけたのは、戦後、しばらく経ってからだった。

内火艇は、予定時刻ぴったりに呉桟橋に到着した。
海軍では、何よりも「時間」が優先される。予定時刻に遅れようものなら、経理学校でも往復ビンタは覚悟しなければならなかった。
内火艇の艇長は、兵学校を出たばかりの少尉候補生が務めていた。まだ、初々しい顔つきをしており、真一郎に対して、艇の上だというのに硬い敬礼で挨拶をした。
「お待たせいたしました。チャージを務める山崎少尉候補生です!」
そう言うので、真一郎も、
「はい。よろしく…願います」
そう言って、真一郎は外套を翻して敬礼をした。
大尉が少尉候補生に対して、きちんと返事をして答礼をしたので、山崎も驚いてしまった。
チャージとは、内火艇などの連絡用ボートの指揮官を指す言葉で、若い少尉か少尉候補生が指揮官を務めることが慣例だった。
いずれは、彼らも軍艦を桟橋の所定の位置にピタリと付けなければならない。その最初の訓練として、内火艇のチャージはうってつけの練習の機会なのだ。
真一郎も主計科士官ではあったが、一応、チャージの経験はある。運動神経はいい方なので、こうした操作は得意であった。
ボートというのは、エンジンでスクリューを回して進むのだが、「行き足」と言って、エンジンを絞ってからその惰性でしばらくは止まることができない。うっかり、エンジンを絞るタイミングを失うと、桟橋からどんどん離れてしまい、もう一度やり直し…ということになる。これでは、海軍士官としては失格で、物笑いの種である。
チャージは、桟橋に近づくとエンジンを絞りつつ「前進」と「後進」を使い分けながら所定の位置に付けるのだ。
これは大和級の軍艦も要領は同じだったが、実際にやってみると案外に難しい。後の大和艦長になる森下信衛大佐は、この操艦が抜群に上手かった艦長として戦後も語られることが多かった。
真一郎も意外と操船を得意としていたが、他の主計科の士官は、苦手な者が多く、実際は、主計科士官がチャージを務めると、ベテランの一曹あたりが気を利かして自分で操船してくれたものだった。
その代わり、後で、その一曹には、それ相応のお礼をするのがしきたりだった…。
真一郎は、自分でやってもできるのだが、兵科でない主計科の自分が上手くやって見せては、兵科の連中が恥をかくだろう…と、時々はできない振りをして、兵科の一曹に任せるのだった。
あまり上手くやってみせると、その一曹の面目もあるし、お礼の件もあって、真一郎はたとえ自分がやっても、同乗してくれた一曹には、お礼をすることは欠かさなかった。
だから、煙草も吸わないのに、いつも封を切らない煙草を持ち歩いていたのだ。
それも海軍で覚えた「要領」という奴だった。
だから、真一郎は、非常に優秀な主計科将校として生きてこられたのかも知れない。
これまで、駆逐艦「浜風」、巡洋艦「阿武隈」と経験を重ね、今度は大型戦艦「大和」である。
発令されたのは、大和の主計科分隊長だった。

海軍でいう「分隊長」は、陸軍の「中隊長」のことで、陸軍なら百人以上の部下を持つ連隊の幹部である。
主計科には、経理事務・軍需品・被服・兵糧・調理などの各部門があり、真一郎の担当部署は「経理事務」なのだが、この「経理」には、かなり幅広い意味が込められているのだ。それに、分隊長として各部署に目を光らせていなければならなかった。
それでも、主計科は主計長をトップに3人の分隊長がいて、その下にそれぞれ3人の分隊士が付いていた。
分隊長は、主に「食糧関係」を扱う者、「経理・人事関係」を扱う者、「調達関係」を扱う者と3人の大尉が分担していたが、真一郎は、「経理・人事」担当分隊長でありながら、「内務分隊長」と「保安」を担当する班長も加えられていた。
この他にも、各士官、下士官兵の給与事務や勲章の申請など、その事務は多岐にわたり、戦闘員である「兵科」の連中にはない苦労をさせられていたのだ。
それでも、分隊長となれば、何でも融通が利く立場だ。
主計科は戦闘員ではないが、実戦となれば弾丸運びから戦闘記録まで、何でもこなす便利屋になった。
分隊長は、生きている限りご真影を護衛し、必ず紛失してはならない重要な任務が与えられていた。それは、命に替えても守るのが義務となっていた。
分隊長の主席である真一郎は、「ご真影」担当でもあるのだ。
平時は、烹炊所での飯炊きから食糧の調達、物品の管理、2000人を超える人員の管理と人事書類の作成、他艦との交渉など、戦闘以外の用務はすべて主計科に回ってくる。
それを百人程度の人員で回すのだから、気苦労は人一倍だった。それでも、大和に乗り組んでいる主計科の下士官のほとんどは、海軍経理学校で再教育を受けたベテラン揃いで、分隊長付にもベテラン兵曹長以下、頭脳はピカイチの人間ばかりが配属されていた。
彼らは、家が貧しかったために海軍を志願した兵隊たちだったが、もし、家に余裕があれば、海軍経理学校に行っていてもおかしくない頭脳と体力があった。
真一郎は、「たぶん、俺よりも頭がいい…」と思う部下が数名はいた。
それに、彼らは経理学校出身者と違い、頭だけじゃなくて体力もあり、柔道や相撲でならした猛者も多く、兵科の下士官から疎まれる男もいたくらいだった。
また、真一郎たち分隊長を補佐してくれるのが「分隊士」だが、今は、全員が短期現役士官の元銀行員たちで、中尉の階級だった。
彼らは、主計科士官不足から応召した際、本人の意思を確認して1年間経理学校で講習を受けさせて「海軍主計中尉」に任官させる制度を使って配属された者たちだった。
彼らは、元銀行員だけあって数字に明るく、緻密な計算を事も無げに扱うので、実際の仕事は分隊士に任せることが多かった。それに、社会人経験があるので物腰も柔らかく、艦内にも新しい風を送りこんでくれる貴重な存在となっていた。
これは、軍医にも同様な制度があり、主に、総合病院などの勤務医を招集し、1年間の軍医学校での講習を終えると、海軍軍医大尉や中尉として、各艦や部隊の軍医長として配属されていた。これも概ね2年間の短期契約である。
それにしても、「短期現役士官」とは、海軍もなかなかの名案を考え出したものである。ただし、この中の多くは、艦と共に運命を共にした者が多いのも事実だった。

さて、内火艇が大和の舷側に付けると、真一郎は、革の将校用トランクを下げて鉄の階段(ラッタルと称した)を上がっていった。
こりゃ…でかいなあ…。そう思って上を見上げると、まだ、道半ばであった。
今まで乗り組んできた駆逐艦や巡洋艦とは、桁違いの大きさである。
途中で、しばし、足を止めて眺めていると、下から声が聞こえてくる。すると、真一郎の下に10人ほどの兵隊が列を作っているではないか。
その顔は、「おい、将校、早く行けよ…」と言っているように見えた。
真一郎は、右手を挙げて「すまん、すまん…」と合図をすると、何を勘違いしたのか、彼らは一斉に敬礼をしたので、また、恐縮してしまった。
やっとの思いで甲板に着くと、今度は衛兵の下士官と衛兵司令の少尉が待っている。
真一郎は、少尉に官姓名を告げると、
「草野大尉。副長が待っておられます!」
そう言うので、荷物を近くの兵隊に委ねると、少尉の案内で副長室に向かった。
待っていたのは、戦艦大和副長の野村中佐である。
着任の挨拶をするなり、副長から、妙な命令がくだされた。
「草野大尉、ご苦労さん…」
「ところで、君の噂は聞いておるよ…」
真一郎は、「…噂?」と、訝しんだ顔を見せると、副長は、にやりと口角を上げ、
「前の軽巡阿武隈では、見事、いくつもの問題を解決したそうじゃないか…」
そう言われて、真一郎は、「ああ、あのことか…」と思い当たったが、あれは、問題というほどのことではなく、他愛もない男社会のつまらない喧嘩だった。しかし、問題が大きくなる前に片付けたことは事実で、秘密にしていたものが、なぜ、大和副長の耳に入ったのか…、その方が謎だった。
「はあ…」
真一郎が、野村副長に気の抜けた声でそう答えた。
そのときだった。
一人の少尉が、副長室に野村を訪ねてきた。
ノックの音に反応して、野村が、声をかけた。
「おう、入れ!」
「副長。ご依頼されていた物を用意いたしました!」
すると、少尉は、その袋毎、副長に手渡した。
「ああ、少尉。こちらは、今度主計科の分隊長に着任した草野真一郎主計大尉だ」
「大尉。これは、副長付の諸田予備少尉だ。本艦には要務士として乗艦している。彼は、早稲田の出身だよ…」
そう紹介された諸田少尉は、海軍式の敬礼を真一郎に向けた。
「飛行科予備学生第7期の諸田亘少尉であります」
「今後とも、よろしく願います」
諸田少尉は、初めて乗艦する艦がこの大和だということで、まだ22歳だと言っていた。
このころ、飛行科将校が不足することが予想されていた海軍は、以前から「飛行科予備学生制度」を発足させ、大学を出た優秀な人間を海軍士官に登用するようになっていた。
当初のころは、大学でグライダーや小型軽飛行機の操縦をしていた航空部の学生を採用していたが、戦争が始まるとそれを拡大して「兵曹長」待遇で大量に採用を始めたのだった。
飛行科予備学生は、本来、飛行機の搭乗員と整備員を養成する制度であったが、飛行科の要務全般を指揮する士官が必要だということで、1割程度は、要務士として任官させていた。
諸田少尉は、基本的に飛行科に属しているが、作戦等がないときは、こうして副長付として、艦全体の指揮を勉強していたのだった。
特に副長職は多忙で、艦全体の統括者であったから、こうした要務士が数名配置されていたのだ。簡単に言えば、「秘書業務」のようなものである。
その諸田が持参した袋を開けると、そこには、数冊のノートと真鍮で出来た古い鍵が入っていた。
副長は、真一郎に腰掛けるように勧めると、
「これは、君の前任の山田主計大尉が引き継ぎのために残していったものだ」
「本来なら、直接引き継ぎをして貰うところだが、この用務は、副長直々となっておるので、私から引き継ぐ」
「草野大尉。早速だが、君には、軍艦大和内務分隊長兼保安班長を頼みたい」
真一郎が返事をする前に、野村副長は、
「君のことは既に調べてある」
「浜風でも阿武隈でも、内務分隊長として、艦内の軍規の保持に尽力したそうじゃないか。ここでも、頼むよ…」
「これだけの大所帯だ。毎日、様々なトラブルが起きる」
「それに、男所帯だからな…。気がきかん者も多い」
「保安班は、副長直属になっている」
「これは、軍規だけでなく、艦内で起きた事件や事故の調査も含まれる」
「主計科の経理事務の仕事は、他の者に命じるから、本艦の保安隊長として尽力してほしい」
(またか…?)
と思ったが、主計科将校になってから艦内の取り締まりを行う「内務隊」に配属されることが多く、最近では、どちらが本職かわからないくらいだった。
本当は、「兵科」の連中の方が適任だと思ったが、彼らは、内務の仕事はやりたがらない。
それで、結局は主計科に仕事が回ってくるのだ。
兵科や機関科の連中にしてみれば、そんな下士官兵の監督など雑務にしか見えないのだろう。
そんな裏方の仕事は、「主計科だろう?」という顔をするのだ。
副長も兵科出身だから、そんな彼らの気質をよく心得ていて、主計科に仕事を割り振るのだった。
真一郎にしてみれば、(これは、主計科の仕事じゃないだろう…)という気分はあったが、いつも(仕方ない…)と諦めるのも真一郎の性格だった。
それでも、表情は変えずに、
「はっ、畏まりました!」
真一郎は、すぐに副長に敬礼し、それを了承した。

副長からの命令を受託し、主計科の部屋に顔を出すと、主計長の篠原清中佐に着任の挨拶をして、主な主計科職員に自己紹介をした。
大和クラスになると、主計長の配置も中佐になる。
中佐といえば、軽巡洋艦クラスの艦長であり、真一郎は、(さすがに、大和だな…)と感心するのだった。
実は、真一郎の名は各艦に知れ渡っており、「阿武隈の憲兵隊長」といった渾名までついていたようだった。しかし、この渾名は真一郎には不満だった。「憲兵」は陸軍の警察で、海軍には憲兵隊は存在しない。だからといって、陸軍と同じような扱いには納得いかなかった。それに、真一郎にしてみれば、
(俺は、そんなに強引な捜査はしない…)
と言いたいのだが、それを口に出すことはなかった。
それでも、確かに、これまで配属された各艦で内務分隊長として「保安班長」のような役割を担っていたが、特段、自分で希望していたわけではない。命ぜられるままに職務を遂行したまでのことだった。
この「保安班長」という役職も、従来は「兵科将校」が務めることが多かったが、駆逐艦「浜風」の主計長だったときに、人がいないので、艦長の寺田少佐が、
「おい、草野主計長、保安班長も兼務で頼む…」
と言われ、仕方なく引き受けたのだ。
まあ、駆逐艦や軽巡洋艦では人員も不足していて、一人で何役もこなさなければならないのが普通だったから不満はなかったが、ここは天下の戦艦ではないか…。そう思うと、少し腹が立った。
真一郎にしてみれば、ただ、他の者より少しだけ観察眼が鋭かったり、丁寧な調査を行うことから、トラブルになりそうな問題を上手く処理したたために重宝に遣われたことも事実だった。
まあ、兵科の連中にしてみても、艦内の警察業務は性に合わないらしく、主計科でやってくれればいい…的な考えもあり、真一郎の保安班長は結構喜ばれていた。
本人にしてみれば、仕事としてやっているだけのことだったが、まさか、この大和でも命じられるとは、思ってもみなかった。

真一郎が命じられた「内務分隊長」とは、主に軍艦内の警察任務が主な仕事で、事実、陸軍の「憲兵隊」のような仕事なのだ。しかし、憲兵隊のような組織は海軍にはなく、軍規の取り締まりは、「衛兵」の任務になっていた。
「衛兵司令」は、兵学校か機関学校出の少尉・中尉クラスの将校が務めることが多く、その下に「週番士官」を置いて、艦内に不祥事が起きないように目を配らせていた。
真一郎が務めることになった「内務分隊」は、副長の直属の部署であり、軍規、軍律に違反した者を逮捕し、副長の指示の下に処分を下す権限が与えられていた。もちろん、軍法会議に処するような案件は、艦長の決裁が必要だったが、軽微な犯罪行為は、艦内で処罰し、「禁固」や「降格」処分にすることもできたのだ。
海軍は、やはり年功序列制があり、勤続3年で「善行章」1本が与えられた。これは、勤務年数を示すマークで、水兵や下士官は、左袖に山型のマークが縫い付けられており、これで、海軍での勤務年数(飯の数)がわかるのだ。
いくら一等兵曹でも、3本くらいは付けていないと他艦の下士官から侮られることもあったようだ。
たとえば、数年前に出来た「甲種飛行予科練習生」などは、中学校3年生以上の生徒が志願する制度で、昇進が他の志願兵よりかなり早かった。そのために、善行章なしで一等飛行兵曹になる例もあり、他の下士官たちから妬まれる傾向にあった。
だから、階級章は一等兵曹でも「無マーク」の下士官は、大きな顔ができなかったのだ。
それに、功績のあった兵には「特別善行章」が与えられ、これには山型のマークの真ん中に「桜」があしらわれ、勇敢な兵士の称号となっていた。
この善行章が、下士官兵の誇りであり、その後の昇任に大きく左右されたので、不祥事は絶対に起こしたくない…のは下士官兵の共通の思いだった。
だから、真一郎たちのお世話になって「善行章」剥奪ともなれば、不名誉極まりなく、その分隊や班だけでなく、艦全体の汚名となるのだ。
だから、艦長は副長に、
「くれぐれも、本艦から不心得者を出さぬよう、努めて貰いたい!」
というお達しをしていた。
副長にしてみても、これを無事に勤め上げれば、次には「艦長」への昇任が待っていた。そのために「内務分隊長」は、各科関係なく、優秀な将校を充てたのだ。
真一郎は、そういう意味で、戦艦大和の「憲兵隊長」のようになっていた。まして、兼務で「保安班長」を務めるのだから、真一郎が考えるより、ずっと怖れられていたに違いない。
そのためか、真一郎が艦内を歩くと、どの分隊でもピリピリとした雰囲気で作業が行われるのが常だった。
(これは、参ったなあ…)
と内心では思うのだが、引き受けた以上仕方がない。
そういう真一郎は、背は高いが、そんなに強面の顔ではなく、さすがに色は日焼けで黒いが、鼻筋はとおり眼鏡の奥の目も優しげで、怖い「内務分隊長」や「保安班長」の雰囲気はなかった。
逆に言えば、そんな風貌で「切れ者」と称されたことに、兵隊たちは底知れぬ不気味さを感じていたのかも知れない。
大和の保安班には10名の主計科の部下が付き、すぐ下の分隊士には、同じ主計科の安西少尉と佐藤兵曹長が付いた。
安西は同じ経理学校出身の若い将校だが、佐藤は、警察官から志願して海軍に入り、主計科兵曹長になったバリバリの本職である。既に30代半ばの落ち着きを見せていた。
他の8人は、すべて二等兵曹があたり、彼らは主計科各班から選ばれた者たちだった。当然、桟橋で出会った中野二曹もその中に加わっていた。
部下は、二等兵曹なので年齢は若いが、選ばれて来ただけあって頭はよく、真一郎の指示でよく働く者たちだった。
控え室は、上甲板の士官室奥に「内務分隊・保安班室」と書かれた20畳ほどの部屋があり、内部は8畳ほどの部屋と三つの小部屋に仕切られており、取り調べもここで行われた。
この階は、通常は副長、士官専用の階であり、特別な許可を貰わなければ入れない場所になっていたが、艦内の中では非常に静かな場所で、逆に言えば不気味だ…と言う者もいる。
公務で動く際には、左腕に「内務」または「保安」と白文字で書かれた黒い腕章を巻いているので、すぐにそれとわかるのだが、普段は、衛兵司令と週番士官などがいるので、腕章を巻いていない限り、保安班員が特に目立つことはなかった。
小さな軍艦ならいざ知らず、ここは乗組員2500人もいる戦艦大和なのだ。保安班と衛兵を入れても、せいぜい30人程度だった。これで、艦内の治安を保持するのだから、なかなか難しい仕事ではあった。それでも、軍規が厳正に守られていれば、多少の問題は各分隊内で処理するので、公になることは少ないが、その「処理」の仕方がまずければ、大きな問題に発展する可能性があった。そこが、心配のしどころである。
こうして真一郎の戦艦大和での勤務が始まったのだった。

事件ファイル №1 ギンバエ問題

真一郎は大和に乗艦してすぐに分隊士の安西少尉と佐藤兵曹長に案内して貰って艦内をくまなく歩いて回った。
とにかく大和はでかい。
世界最大の戦艦と言われるだけあって、艦内地図を持っていても艦内に入るとそれは迷路のように細い通路が入り組んでいた。
(おっと、これはちょっと大変かもな…)
そう考える真一郎だったが、顔には余裕の笑みさえ浮かべていた。
真一郎は、そもそも道に迷うということがなく、一度通った通路は、しっかり記憶できる能力を持っていた。また、関係した事件は、その概要のほとんどを記憶しており、人の名前も顔をインプットされるのだ。
もちろん、主計科将校だけに数字には明るく、どんな桁数の暗算も瞬時に解く計算能力も身につけていた。
自分では、何も努力した…ということはないのだが、子供のころからの特技でもあった。
乗艦して1週間もすると、艦内地図がなくても大和の艦内は大体覚えてしまい、各分隊長の顔も官氏名まで記憶できていた。
この分隊長を知らないと、実は仕事にならないのだ。
当然、士官室で顔を合わせるので、おいおいわかってくるのだが、仕事場で見せる顔と士官室で見せる顔には自ずと違いが出る。
士官室は、部下のいない寛ぎの場所だが、配置場所は違う。そこは、軍人にとっての戦場であり、自分が死ぬであろう場所なのだ。だから、真一郎は、素の分隊長の顔を知りたいのではなく、戦場での分隊長の顔を知りたいと考えていた。
真一郎も内務分隊長という配置だが、この配置は、どこでも「大尉」の階級の者がなる。大尉という階級は、海軍のどの部隊においても、その部隊の中心となる隊長配置で、実戦部隊の指揮官に指名される男たちだった。したがって戦死率は高く、飛行科では、飛行隊長として攻撃隊の指揮官として先頭を飛んでいく役割を担っていた。
戦艦部隊では、どの部署においても重要な指揮を執る配置で、その指揮の善し悪しで戦闘が左右されるほどだった。
主計科も戦闘時には、特に烹炊所が大わらわになり、敵の攻撃を受けながらでも飯を炊き、握り飯の戦闘食を各配置に届けなければならなかった。平時は、「飯炊き兵」とばかにされるような配置でも、死と隣り合わせの中で、戦う兵隊の腹を満たすのは至難だったのだ。
烹炊所の兵隊は、戦闘中でも白い作業衣に前掛け、ゴム長が制服だった。分隊長である大尉も、人手が足りなくなれば、自分も前掛けをして飯を握るのだ。
傍から見れば、握り飯を握りながら死んで行く姿は、格好悪いと見えるかも知れないが、自分の配置で戦死できるのであれば本望というように教育されていた。それくらい主計科の兵隊たちにも自分の配置に対する誇りを持っていたといえる。
昭和20年4月に、戦艦大和は沖縄特攻で敵の艦載機によって沈められたが、主計科の兵隊で生き残った者は意外と少なかった。
烹炊所は、艦の中央部に位置し、おそらく、艦が傾いても、やけどしながら戦闘食を握り続け、そのまま死んだ者も多いはずなのだ。
その配置から離れられるのは、艦長からの「退艦命令」が出た後のことである。だから、艦が揺れようが傾こうが、絶対に持ち場を離れないというのが、日本の海軍軍人魂なのだ。
もし、真一郎がその場にいれば、おそらく兵たちと一緒になって飯を握りながら大和とともに海の底に沈んでいったに違いない。そして、事実、真一郎の後任になった柴田大尉は、大和とともに帰らなかった。柴田大尉は、真一郎の経理学校1期後輩の男で、入校したときに真一郎の分隊におり、何かと面倒を看たことを覚えている。とても几帳面な奴で、やはり東京の府立一中から経理学校に来た生徒だった。                                          (生きるも死ぬも紙一重か…?)
そう思うと、真一郎の気持ちは、いつまでも晴れることはなかった。

昭和17年2月12日。
大和は、連合艦隊の旗艦となった。
艦長の高柳大佐は、山本五十六連合艦隊司令長官を迎えて緊張していたようだが、上甲板も新しい連合艦隊の司令部が入り、何かと慌ただしくなっていた。
そのころ、真一郎を悩ませていたのは、軍艦特有の「ギンバエ問題」である。
「ギンバエ」とは、兵隊用語で「無断で余所の物を盗んでくる行為」のことを言う。要は、「こそ泥」のことなのだが、海軍では隠語で「ギンバエ」と呼んでいた。
当然、海軍でも犯罪なのだが、年数を経た上等水兵や三等兵曹にでもなると、軍隊の要領を覚え、このこそ泥行為も要領だと教えたのだ。
軍隊で支給される物品はすべて官給品と呼ばれ、「その班にいくつ」と数が決められていた。もちろん、主計科で兵隊の数に合わせて支給するのだが、物だから、古くなって壊れたり破れたりする物も出る。もちろん、主計科に言えば新品と交換するのだが、それを面倒がり、「員数を合わせる」と称して、他の班などからこっそり盗んでくることを奨励していたのだ。
そのうち、主計科が作業している烹炊所などからタマネギなどを失敬して、夜食に食うような不届き者も出る始末だった。だから、主計科でも、そんなギンバエの被害に遭わないように注意を喚起していたのだが、昔からある海軍の伝統のためか、毎日のように何かが盗まれる報告があった。
そして、このギンバエを行う実行犯は、各分隊の最下級の兵隊で、これを指示するのが、先輩の下士官兵なのだ。
新兵や補充兵などは、やらなければ私的リンチを受けるので、言われれば、           「はい。烹炊所にギンバエに行ってまいります…」
などと言っては、こっそり忍び込むのだが、見つかれば、懲罰の対象になり、しばらくは懲罰房で臭い飯を食うことになる。
それも陰の勲章にでもなるとしたら、海軍自体がやくざの世界と変わらないではないか…。
もちろん、これまでも、主計科では見張りを立て、厳しく監視していたが、監視している人間もギンバエの恩恵に与った兵隊だと、どうしようもない。
こうして、旗艦大和になっても、夜な夜なギンバエは横行していたのだった。

野村副長は、艦長から言われたらしく、
「さて、草野大尉。ギンバエ問題…、どうしたものかな?」
「近々、連合艦隊の旗艦になるという話もあるし、こんなことが横行しているようでは、世界に誇る新鋭艦大和としても恥ずかしい…。何とか、内務分隊で考えて貰いたい」
そう言うのである。
副長にしてみても、自分が兵学校生徒のころからあった海軍の慣習のようなものだから、あまり目くじらを立てたくはなかったが、「連合艦隊の旗艦」ともなれば、すべてにおいて「模範」とならなければならない。
それに、ここの乗組員は、海兵団でも優秀な兵隊を選抜して配置して貰っている手前、「ギンバエ問題」解決は喫緊の課題なのだ。
真一郎は、実態を把握するために、まず、自分の保安班の中野二曹を呼んだ。
中野は、真一郎と同じ日に大和に着任したこともあって、早く親しくなった一人だった。もちろん階級が違うし、上司と部下の関係なので馴れ馴れしい話し方はしないが、信用のおける下士官だと真一郎は思っていた。
内務分隊室に中野二曹を呼ぶと、詳しく事情を説明した。
すると、中野二曹は、「うーん…」と唸ったきり、言葉が出てこない。
1分ほど考えて、
「分隊長。ギンバエに手をつけても、キリがありません。イタチごっこになってしまいます…。おそらく、通達しても、ベテランの兵曹などは、言うことを聞かんでしょう…」
「各分隊長も、お達しだけで終わりにしてしまい、効果は薄いと思います」
(中野二曹が、そう言うのでは、やはり難しいか…?)
そう思う真一郎だった。
それでも、実態を把握するために、烹炊所と酒保に罠を仕掛け、ギンバエの実態を掴むことにした。それは、タマネギやキャベツなど、そのまま食べることのできる野菜を箱ごと倉庫の入口に置いておくのだ。
兵隊は、生野菜に飢えており、そのまま口にできる野菜は重宝だった。これらの野菜は調理がいらないので、食ってしまえば証拠は残らない。
こうして、餌を撒き、保安班員を配置すると、その晩、早速3人の二等水兵が捕まった。
一人は、機関科分隊の兵隊で、酒保に潜り込んできた。もう二人は、砲術科機銃分隊の兵隊で、やはり烹炊所の食糧倉庫に忍び込み、キャベツを盗もうとしているところを捕まえた。この3人はすべて30過ぎの補充兵だった。
真一郎は、当然、当該分隊長を呼び出し、厳しく指導するよう伝えたが、その分隊長自身が頭を掻きながら、
「まあ、草野大尉。今回は、懲罰でなく、訓告処分でできないかな?」
と頼んで来る始末だった。どうやら、余分な兵隊のいない各分隊では、一人でも欠けると作業に支障を来すのだ…ということらしい。
確かに、戦争が始まってから、太平洋全域に軍艦を派遣しているため、兵員に余裕というものがない。
主計科で人事を扱っているとそれがよくわかった。
そこで、
「わかりました。詳しく調書を取ってから各分隊にお返しします。ただし、補充兵ですから、各班で手荒なリンチはダメですよ。もし、見つけたら、それこそ、上に報告しますから…」
そう言って釘を刺すことを忘れなかった。
分隊長の大尉たちにしてみても、「監督不行届」として、艦長まで始末書が上げられれば、人事査定に影響を及ぼすことをよく知っていた。
いつまでも大尉でいるのと、佐官になるのとでは雲泥の差がある。少佐にでもなれば「参謀」の道も開かれるし、各部隊でも実戦指揮官から離れることができるのだ。
たとえば、飛行科では、飛行隊長は大尉の配置で、実戦の指揮官として先頭を飛ぶので、戦死の確率は非常に高くなる。それが、少佐になれば、飛行長の配置になる。飛行長は飛行機には乗らない。
戦闘部隊の運用を行うのが飛行長の役割で、母艦や基地にいて指揮を執ることになる。これなら、戦死の確率は格段に下がるのだ。
いやらしい考えだとは思うが、生死の境目がそこにあるとしたら、早く少佐になりたいと思うのは人情だろう。
真一郎は、そこを見抜いて釘を刺したのだった。

真一郎は、もう一度中野二曹を呼んだ。
「なるほど、調べて見てわかりました。これは中野兵曹が言うように一筋縄ではいかない問題です…。いくらひとつひとつ潰しても全体は変わらない。なら、できないように心理的な圧力をかけるのです」
「心理的圧力…ですか?」
中野二曹には、まだピンと来なかったが、興味は持った。
真一郎は、
「要するに、こちらがすべて見抜いている…ということを知らせるのです。ギンバエなどやっても仕方がない、割に合わない…と悟れば、やろうとする者も減るのではないですかね…?」
中野二曹は、
「なるほど、で、どうやって知らしめますか?」
と尋ねると、真一郎は、
「漫画です…。中野二曹も漫画は子供のころによく読んだでしょう?」
「あれですよ。漫画なら言葉で説明するより視覚に訴えることができます。要は、知らしめればいいんですから、漫画でいきましょう…」
そこで、真一郎は、漫画の上手い兵隊を探すことにした。
中野二曹も、
「わかりました。これだけの大所帯です。漫画の描ける兵隊の一人や二人はいますよ…」
そう言って、早速、各分隊に探りを入れるために部屋を飛び出していった。
こういう動きの速さが、中野二曹のいいところでもある。

真一郎の補佐の安西少尉が、内務分隊内で全員に声をかけた。
「おい、これだけの大所帯だ。だれか、漫画の上手い兵隊を知らんか?」
そう言うと、しばらく考えている風だったが、佐藤兵曹長が、
「確か、工作班におる井上っていう上水が、確か、漫画が得意だって言っておりましたな…」
そう言うので、早速、佐藤兵曹長は中野二曹を連れて工作班の作業場に向かうのだった。
大和の工作班は、日常的には補修と点検、応急処置などを施す部署で、機関科に属してはいたが、久里浜の海軍工作学校を出たプロの集団だった。
工作班長は、池田兵曹長で佐藤兵曹長とは同年の志願兵で、一緒に横須賀で訓練した仲間だった。
佐藤兵曹長が、工作作業中の池田班長を見つけると、早速用件を切り出し、井上上水に声をかけてもらったのだ。
井上上水は、保安班の佐藤兵曹長の前に出ると、即座に緊張した敬礼をして、
「私が、井上和美上等水兵であります!」
と怒鳴るように言うので、佐藤兵曹長が、
「おいおい、勘違いをするな!」
「今日は、貴様に頼みがあって探しておったのだ…」
「貴様は、漫画が描けるか?」
佐藤兵曹長の言い方は、軍人らしく紋切り型である。
すると、井上上水は、
「は、はい。娑婆では、漫画家の助手をしておりました!」
そう答えると、直立不動のまま、その場に固まってしまった。
佐藤兵曹長は、少し離れて池田班長に耳打ちすると、
「おい、井上の描いた図面を持ってこい!」
と命令した。すると、仲間の一水が、工作机の上に広げていた図面を持ってきた。
「佐藤、これは、今工作班で製作している連合艦隊司令長官用の椅子の図面だ…」
「なかなか、恰好のいい椅子だろう?」
「これを工作しているのが、この井上上水さ…」
「山本長官に何度も確かめて作っているんだから、間違いない。もうすぐ完成するところなんだが、なかなかいい出来だろう…」
そう言うと、まだ塗料の塗っていない長官用の椅子に座って、座り心地を確かめるのだった。
(なるほど、これほど精密に椅子の曲線を描けるなら、漫画家の助手をしていたことは、間違いあるまい…)
佐藤兵曹長は、
「池田兵曹長。後で、井上を借りることになると思うが、そのときは、すまないが、頼んます…」
そう言うと、煙草を5、6箱ほど、池田班長に手に握らせるのだった。
こういうところが、保安班の抜け目のないところだった。
煙草は余程のことがない限り、自費で酒保で買わなければならない嗜好品だった。この当時、軍人には愛煙家が多く、その小遣いの大半を酒と煙草に費やす者が多く、港に着けば、それに女が加わり、給料の大半はそれで終わるのが常だった。
さすがに所帯持ちは、そうもいかないが、煙草が貴重品だったことは間違いない。
煙草5、6箱といえば、大事に飲めば2週間分くらいにはなった。それに、酒保に在庫がなければ、補充されるまで、煙草盆に残った「しけもく」で我慢するしかない。それを考えれば、日本にいるときより何倍も価値のある土産だった。
池田兵曹長は、愛想を崩し、
「ああ、佐藤の頼みだ。いつでも使ってくれ」
と上機嫌になった。
こうした横のつながりが、組織を円滑に動かすのである。
真一郎たち主計科将校は、こうした部下の気配り術を見て、覚えたことも多かったのだ。それに、主計科には、倉庫に行けば自由に手に入る物品も多く、帳簿さえ合っていれば、だれに咎められることもなかった。
だが、それを悪用するような者は、だれもいない…というのが、主計科のプライドでもあったのだ。

真一郎は、佐藤兵曹長からの報告を受け取ると、即座に井上上水を呼び出した。
上甲板にある「内務分隊・保安班室」と書かれた木札のかかった部屋に来ると、井上上水は、緊張で足がガタガタと震えていた。
それは仕方がないことだった。この部屋は、下士官兵にとって大和最大の鬼門であり、ここでの取り調べは、どんな拷問よりもきついと噂されていたからである。
実際は、ここで昔のような拷問を加えるようなことはなかったが、真一郎たちは敢えてその噂を打ち消そうとはしなかった。
せっかく、「大和の鬼門」と呼ばれているのならそれもいい…と考えていたからである。
ここの分隊の保安班員たちは、だれもが厳めしい姿をしている者はおらず、全員が正規の経理学校で講習を受けてきた主計事務の専門家なのだ。だれもが、そんな怖ろしい刑罰を学んだ者もなく、今時、拷問で口を割らせよう…なんていう前近代的手法を用いるような単細胞な人間はいなかった。
ただ、これまでの事件で、取り調べを受けたような連中が、尾鰭を付けて話したことから、井上上水のように、部屋に入るだけで震え出すような効果があったことは間違いない。
井上上水は、足下も覚束ない有様で入ってくるので、これでは話も出来ないと判断した真一郎は、
「すみません。飯野一水。冷たいサイダーとグラスを持って来てください!」
と命じたのだった。
飯野一水は、真一郎担当の従兵で、真一郎は従兵に対しても横柄な言葉を遣うことはなかった。
(サイダー?)
そう聞いて、井上上水の顔が一瞬キョトン…と眼を見開くのがわかった。
「はーい!」
部屋の奥からそんな返事が聞こえたかと思うと、正真正銘のサイダーがテーブルに置かれるではないか。
井上上水にしてみれば、まるで狐に摘ままれているような驚きで、そのサイダーを見詰めていた。
主計科の分隊長である真一郎が、艦内で融通のつかない物品はない。
これだけ自由に物品を扱えるのは、連合艦隊司令長官の山本大将より草野大尉だったろう。
なぜなら、几帳面な真一郎は、山本大将が飲み食いした食糧もすべて帳簿にチェックし、後から精算していたからである。しかし、真一郎たちが飲み食いする食糧などは、「内務分隊特別会計」に組み込まれるので、公用も私用もない。さすがに真一郎は、大っぴらに遣うことはなかったが、どんなものでも基本的には、必要経費だと見做していた。
この上水に飲ませるサイダーも、この男に仕事をさせるための「報酬」なのだ。
井上上水は、大尉の分隊長から直々にサイダーをグラスに注いで貰ったので、吃驚してしまった。
「まあ、井上上水。さっ、どうぞ一杯飲んで話を聞いてください?」
そう言うと、井上上水は、まさか分隊長自ら兵隊の自分を接待してくれるなど前代未聞であり、まさに、この保安班というところは驚きの連続だった。
それでも、目の前の甘い炭酸水の誘惑には勝てず、口を付けると一気に喉の奥に流し込んでしまった。
(あ、甘い…。そして旨い…)
それは、日頃甘い物に飢えていた下級兵には、何よりのご馳走だった。
真一郎は、ググッ…と、井上が冷たいサイダーを飲み干すのを見ると、もう一杯グラスにその液体を注いだ。
井上は、
「もう、結構です…。ありがたく戴きました…」
と、遠慮したところで、「実は…」と、話を切り出すのだった。

真一郎の依頼とは、「ギンバエ」についての手引書を作ってくれ…というものだった。
真一郎は、
「私も、艦内でギンバエが横行していることは、よく承知しています」
「まあ、昔からの慣習ですから、私たち内務班もこれまで大目に見てきたんですが、さすがに連合艦隊の旗艦ともなると、そうもいきません」
「取り締まりを厳しくすることはできますが、それでは、何の解決にもなりません。実際、今、サイダーを飲む井上上水を見ていて、若い人が甘い物を欲していることがわかりました。それは、改善しましょう…」
「だけど、ギンバエはいけません。これは、間違いなく犯罪行為です」
「まあ、班の下士官などが命じて行わせる行為なのですが、近代海軍として、昔の悪癖は断たなければならないと思います…」
「どうですか…?」
少し間を置いて井上上水を見詰めると、ウンウンと首を縦に振る様子が見られた。どうやら、この男も二水のころなどは、相当にやらされた一人なのだろう。
そこを見抜いた上で真一郎は、こう告げたのだ。
「私は、ギンバエ防止の手引書を漫画で作りたいと考えています」
「漫画なら、そういう娯楽に飢えている兵隊にちょうどいい…。それに、上水は、昔、漫画を描いていたそうではないですか?」
「なかなかの腕だと聞いていますよ…」
真一郎は、かなり階級の下の者にもこんな風に丁寧な話し方をするのが常だった。
内務分隊といえば、艦内で怖れられる存在だから、これまでは、内務分隊は、荒々しく怖ろしいという印象を残していたが、それでは、表面上の軍規は統制できても、心が育たない…と真一郎は考えていたのだ。
だから、真一郎は、敢えて自分の言葉遣いや態度を改めようとはしなかった。

井上上水は、「内務分隊」からの呼び出しと聞いて、内心、ビクビクしていたが、大尉クラスの将校からこんな丁寧に扱われて、即座に了承したのは当然といえば当然かも知れない。
そして、井上上水は、気持ちが落ち着くと、ポツポツと自分の経歴を話し始めた。それを真一郎は、頷きながら聞いてやるのだ。
この「聞く」という行為が、これまでの海軍にはなかった。
上官は常に命令し、部下は命を賭けて働く。そして、上官は率先垂範、部下に手本を見せればいい…という「男らしい」姿を理想としていたのだ。
だが、人間はそんなに単純なものではない。それは、東京で親が呉服商を営んでいた真一郎には、分かりすぎるくらい分かっていた。
だから、この井上上水の話も文句も言わずに聞くことにした。

「私は、子供のころから絵を描くのが好きで、小学生のころは、それで多くの賞をいただきました。私の家は大工で、親父は自分で図面を引いて家を建てるような職人で、結構腕はよかったと思います。
小学校の高等科を出ると、大工の見習いをしていたんですが、漫画家になりたくて家を飛び出し、伝手を頼って東京の漫画家に弟子入りしました。そして、入隊のその前日まで漫画のペン入れをしていたんです。
海軍には応召で入隊し、海兵団にいたころ、絵が描けるのと手先が器用なので、随分と助かりました。余った紙があると、それに「のらくろ」や「あんみつ姫」などを真似て描いてやると、みんな喜んでくれて、本当は殴られるところをこの漫画で救われたんです。
そして、それを見ていた班長や分隊士が推薦してくれて工作科に配属され、大和乗り組みとなったのです…」
と、自分の経歴を語るのだった。
真一郎は、
(なるほど、芸は身を助ける…か)
それはそれで、いいことだと感心したのだった。
そこで、真一郎が、紙と鉛筆を渡すと、井上上水は、サラサラっと、得意のタッチで「戦艦大和」の絵を描いて見せた。それは
まさに、この大和が海上を疾走する姿であり、もちろん線は荒いが、その構図はまさしくプロのものだった。
それに、その脇に描かれた水兵は、ユーモアがあり、真一郎がイメージした漫画そのものだった。
「やっぱり、上手いもんだなあ…」
そう言うと、佐藤兵曹長や中野二曹を呼んで見せると、
「ほう、こりゃあ、上手いもんですな…」
「大和には、いろいろな人間が乗っているということですね…」
と、その絵に感動すら覚えたようだった。
「よし、じゃあ、井上上水に頼もう」
そう言うと、真一郎は、井上上水に条件を付けて漫画の依頼をしたのだった。

「早速ですが、井上上水。さっきも話したように、描いて貰うのは、ギンバエの手口を詳細に解説したものです…」
「ページは何枚になっても構いません。あなたの名前は一切出しませんが、監修は私がします。そして、私の名前で印刷して各部に配ろうと思うんです…」
「もし、これが上手くいったら、あなたの望みをひとつ、私が叶えてあげましょう…。どうですか?」
そう言われて、井上上水も戸惑いの表情を見せたが、海軍にいて漫画が描けるのである。内容よりも(漫画が描ける…)方が、井上上水には何よりの褒美に見えた。
井上上水が「わかりました。頑張ります…」と頷くと、真一郎は、具体的な話を始めるのだった。

そこで、真一郎は安西少尉、佐藤兵曹長を呼び、具体的な指示を出した。
「井上上水が漫画を描く時間は、私が作ります…」
「内務班用務で、ここに来て描いて下さい」
「機関科分隊長には、私から直接話をしておきますので、工作班の方は、佐藤兵曹長お願いします…」
「安西少尉は、機関科に何か便宜をひとつ図ってやってください」
そう言うと、二人は即座に了解し、早速動き出した。
井上上水は、
「本当にいいのでしょうか…?」
そう言うので、真一郎は改めて、
「これは、戦艦大和全体に関わる重要問題なのです。この件は、当然、副長から艦長に話が行っていますので、あなたのやることは、艦の名誉に関わる重要な仕事なんですよ…」
と話すと、井上上水は、その場にサッと立ち、
「井上上等水兵、確かに承りました!」
そう言って、敬礼をするのだった。
真一郎は、「まあまあ…」と言いながら席を勧めると、改めて従兵を呼び、
「おい、すまないが、羊羹と熱い煎茶を淹れて下さい…」
今度は、羊羹とお茶である。
井上上水は、海軍に入隊以来、軍艦内でこんな上等な接待を受けたことはなかった。水兵の身分で大尉の分隊長から直々のお声掛かりである。
考えてみれば、断れる道理もなかったが、井上上水にしてみれば、そんなことより漫画が堂々と描けることが嬉しくてならなかった。

井上上水は、上甲板の保安室の片隅で3週間をかけて「ギンバエの実態」を20ページにわたって描ききった。そこには、下級兵の笑いと涙のエピソードがたくさん盛り込まれ、娯楽漫画としても一流だ…と真一郎は思った。
早速、副長に見せると、野村中佐は、
「ほう、面白いじゃないか。ところで、ギンバエの取り締まりに、なぜ、漫画なのかね?」
と尋ねるので、真一郎は、こう答えた。
「従来のお達し的な遣り方では、兵は表面上は順うフリをしますが、幹部の見ていないところで、悪事を働くものです。しかし、こうして具体的に描かれた漫画ならどうです?」
「ここまで、上の人間、つまり内務分隊に知られているとなると、当然、そこに監視の眼が向けられていることを悟るはずです…」
「だからこそ、内務分隊長の名前で監修されているのです…」
「副長、どうかこれを許可してください。これを出す代わりに、兵たちがギンバエなどしなくてもすむように、支給品は各分隊一割増とし、甘い菓子なども支給します。そして、私たちが見ていて優秀な分隊には、報償品を出します」
「たとえば、大和艦長賞や連合艦隊司令長官賞なんかは、どうです。兵たちは一升の酒1本でも夢中になって働きますよ…」
「そこは、副長から具申して下さい。お願いします…」
そういうわけで、主計科で印刷製本された漫画「ギンバエ防止マニュアル」は、各分隊に配られ、大好評を得たのだった。
山本司令長官も、これを手に取ると大笑いし、
「注意書きが、漫画になるとは、なかなかの内務分隊長だな…」
と感心し、第一号の司令長官賞は漫画を描いた井上上水に下されたのだった。

真一郎が井上上水を呼び出し、
「さあ、あなたの望みをひとつ聞きましょう…」
そう言うと、井上上水は、少しもじもじしていたが、
「では…。申し上げます」
「ぜひ、分隊長の下に置いて貰えませんか?」
「司令長官賞をいただいたことで、この作者が私であることが分隊内全員にわかってしまいました。もちろん、それに対して嫌なことはされませんでしたが、何か、居心地がよくありません」
「せっかく、漫画を描く仕事を戴けたので、もっとお役に立ちたいと思います」
「この保安班で使って貰えませんか?」
「ここの、広報担当としていただけたら、私も気兼ねなく分隊長の命令を受けることができるのですが…」
真一郎にしてみれば、考えてもいないことだったが、確かに「広報」は必要だった。
そこで、
「なるほど、よくわかりました。約束ですから、そうしましょう」
「艦内人事も私の担当ですから、副長に話して取り計らいます」
「ところで、工作班は大丈夫ですか?」
すると、井上上水は、
「はい。私がいることで、いつ漫画に描かれるかも知れない…と心配していましたので、逆に喜ばれると思います…」
と言うではないか。
司令長官賞を貰った兵隊を疎んじることもできず、中にいては気になって仕方がない…では、作業に支障を来すことは明白である。
真一郎は、早速、機関科分隊長の真田大尉を訪ねた。
真田大尉とは、機関学校と経理学校の違いはあるが、同年に入校した同期で海軍ではこれを「コレス」と称した。
このコレスは、横の連帯も強く、仲間意識があった。
真田機関科分隊長は、いつも作業衣に工具をぶら下げているような機械屋で、船底に近い機関室に籠もり、エンジンのチェックに余念がなかった。
真一郎が機関室に降りていくと、真田大尉が、部下に指示を出しているところだった。
こんな停泊中の軍艦でも機関科は、やることがたくさんあるらしい。
真田大尉に会うと、
「おう、内務の分隊長。張り切ってやっているじゃないか…」
「あの、ギンバエ漫画、傑作だったよ」
「貴様らしい遣り方だが、あれは面白い…」
早速、好意的に受け止めてくれたので、井上上水の話を切り出すと、
「ああ、いいよ。そんなことくらい、分隊士にでも言ってくれりゃあいいのに…。相変わらず律儀だな…」
そう言って、話は簡単についてしまった。
その代わりと言って、なるべく早く人事異動で1名の補充を頼むのだった。真田という男も、なかなか食えない男なのだ。
真一郎と真田は、乗艦した艦は違ったが、同期会で顔を合わせることが多く、大和に乗り組む前にも、呉でよく酒を飲む仲間だった。

これを機に、大和艦内でのギンバエ事件は激減したのは言うまでもない。
井上上水は、機関科の工作班所属ではあるが、副長から兼務発令を貰い、「主計科内務分隊広報係」を仰せつかることになった。いずれは、機関科から主計科に転科させることにした。
この後、張り切った井上上水は、様々な注意書きを漫画化して各部署に配ったので、これまで絶対に読まない下士官まで先を争うようにして、その啓発漫画を手に取る姿が見られるようになった。
これも、真一郎が大和に着任してからの功績になった。

そのころ、日本の第一段作戦は順調に推移し、大和が戦闘に出る機会もなく、柱島での停泊も長くなってきていた。それでも、外海に出ては主砲の発射訓練などを行い、その衝撃に、連合艦隊司令部も大和乗組員も、
「これで、敵艦を粉砕できる!」
という確証を得て、益々自信が高まるのを抑えきれなかった。
ところが、それからひと月も過ぎたころである。
第二段の作戦準備に忙しかった大和の艦内でひとつの事件が起きた。
それは、高角砲分隊内で起きたリンチ事件である。
医務室に大けがをした一等水兵が運ばれてきた…との報せを衛兵司令から受けた真一郎は、早速、医務室に患者の様子を見に出向いた。
けがは、かなり殴られたらしく、顔面の殴打に加えて、尻も腫れ上がるほどに棒で叩かれたらしい。前歯や奥歯も数本は砕けており、肋骨や尾?骨なども折れている可能性があった。
海軍では、どこの分隊にも「海軍精神注入棒」と書かれた樫の木でできた棍棒が置かれていたが、今回もそれを使用しての体罰だった。
軍医は、
「何も、ここまで殴らんでもいいだろう…」
と立腹していたが、軍艦内での暴力は日常茶飯であり、殊更咎め立てることもできなかった。しかし、この水兵がミスを犯したとしても、事情だけは確認しておく必要がある…と判断した真一郎は、当該分隊の分隊士である山本少尉を保安室に呼んだ。
山本少尉は、海軍兵学校出の将校だが、配属されて間もなく、状況を十分に把握できているとも思えなかった。
案の定、山本少尉は、その分隊下士官の言い分のみを聞き、十分な聞き取りをしていなかった。そして、
「高角砲配置は、連携して砲弾を運搬し装填しなければなりませんので、何より、緊密な連携作業が不可欠です。その点において、この一水は、作業不慣れの上、緩慢な態度であったが故に、懲罰を加えたものと考えております…」
と答えるのだが、何か、奥歯に物が挟まったような言い方が気になった。
真一郎が、
「確かに、それは認めますが、ここまで殴るのは如何なものでしょう?」
「これでは、集団リンチと差はなく、他に理由があれば、軍法会議ものですが…。担当分隊士としては、それでよろしいのですか?」
「一水といえども、軍艦大和の貴重な戦力です。もし、この兵隊が理不尽なリンチで傷害を負ったとしたら、それは懲罰などではなく暴力です。それを承知の上でのことなら、内務分隊長として何も申すことはありません…」
「詳細は、さらに調査の上、副長及び艦長に伝え決裁をいただきますが、よろしいですね」
真一郎が、そう咎めるように言うと、少尉の顔色が青くなったのを見過ごさなかった。
(こいつ、何か知っているな…?)
真一郎は、さりげなく、
「まあ、少尉に任官して間もないあなたには、これ以上は酷な質問かも知れませんね…」
「ですが、兵学校では3号生徒に、五省を指導していたのではないですか?」
「一つ、至誠に悖るなかりしか…ですよね」
真一郎が優しくそう諭すと、山本少尉は、キッパリと顔を上げてひとつ深呼吸をしたように見えた。そして、「実は…」と徐に話し始めるのだった。

山本少尉が言うのは、こういうことだった。
この分隊の各班では、未だにギンバエが横行しており、それは、これまで以上に巧妙になっていたようだ。
山本少尉も大和に配属され、分隊士として張り切って指導していたが、ギンバエ等の犯罪行為については、「ギンバエ防止マニュアル」を配付し、厳しく取り締まることを乗組員全員に伝えたにも拘わらず、結局はこのざまである。
高角砲の砲術科分隊長は、赤石大尉である。
赤石大尉は、真一郎より2期上の大尉で、間もなく少佐に昇進する年次になろうとしていた。しかし、ここで不祥事は起こしたくないはずだった。だから、自分は来ないで、担当分隊士の若い山本少尉を寄越したのかも知れなかった。
真一郎としては、いずれ、砲術科としての責任を追及するつもりでいたが、ここは、まず山本少尉の話を聞かなければならなかった。
それに、真一郎は、それでショックを受けることもなく、(やはりな…)と来るべき時がきた…ことを悟っただけだった。
この一水は、清水といい。ひと月前に海兵団から配属された新兵だった。
もちろん、高角砲配置は厳しい部署で、戦闘員としては名誉かも知れないが、その訓練は過酷を極めた。
高角砲の砲弾は、火薬を装填すると30㎏を超えるが、弾薬庫からはエレベーターで高角砲台まで運ばれる。しかし、そこから実際の砲に装填するには、人力が必要だったのだ。そのために、高角砲弾を連続射撃するには、何度もこれを繰り返す必要があり、運搬する兵隊は、相当の体力と気力が必要だった。
主砲や副砲になると、人力では到底運べる代物ではないので、すべて自動装填だったが、30㎏という中途半端な重量が高角砲の弱点になっていた。
確かに、数発ならそれもいいが、数十発ともなれば、運ぶ人間の筋力には限界がある。それでも、装填しなければ弾は撃てないのだ。
大和艦内の配置の中でも、一番過酷な配置だと言えるが、だからと言って犯罪行為が許されていい道理はない。

日頃、各分隊の下士官たちは、部下の兵を叱咤激励し、厳しく鍛えたのだが、勘違いをした下士官の中には、理不尽な暴力も「兵を鍛える」手段だと考える者もいたのだ。
真一郎は、これまでの経験で、各艦には、そうしたやくざ紛いの下士官がいることを承知していた。そうした不良下士官は、上官を上官とも思わず、その目や態度で威圧するのである。
おそらく、この山本少尉も、この不良下士官共に威圧され、「見て見ぬ振り」を強要されていたのだろう。
実戦部隊は、兵学校のようなエリート学校ではない。
年齢も違えば、経験も違う。実戦経験を積んだ下士官には、若い少尉など、ひとたまりもないのだ。
それを知っていただけに、山本という人間の素にかけてみたのだ。
兵学校だけでなく経理学校でも、夜就寝前の自習時間に、この「五省」を分隊員全員で暗唱するのが日課だった。
一 至誠しせいに悖もとる勿なかりしか
一 言行げんこうに恥はづる勿なかりしか
一 氣力きりょくに缺かくる勿なかりしか
一 努力どりょくに憾うらみ勿なかりしか
一 不精ぶしょうに亘わたる勿なかりしか
この五つの言葉は、海軍将校たる者の心得である。
兵学校で3年間叩き込まれたこの五省に賭けてみたが、やはり若い山本少尉は、軍人としてこれに背けるほど、根性が腐っていたわけでなかった。

それから1時間。真一郎は、山本少尉の言葉に耳を傾けた。
山本少尉自身も苦しかっただろうが、それを乗り越えなければ、海軍将校として、部下と生死を共にすることはできない。
この事件の発端は、高角砲班のベテラン下士官による「ギンバエ命令」にあった。この下士官は、大和乗り組みが長い兵曹で、以前、酒保の鍵をギンバエして隠し持っていたのだ。そして、酒保の担当下士官のいない隙に、酒保倉庫にこの一水らを忍び込ませ、缶詰や煙草、菓子などの食糧品をギンバエさせていた。
酒保担当の主計科下士官は、このベテラン兵曹の元同僚で、帳簿を誤魔化して便宜を図っていたというのだ。
軍艦大和の酒保ともなれば、酒にしても煙草にしても、唸るように倉庫に在庫を抱えていた。まして、連合艦隊の旗艦となってからは、その量はさらに増え、まるで大型ホテルの貯蔵庫のようだった。
この酒保も、当然、真一郎たち主計科の担当だったが、担当分隊士も帳簿の誤魔化しには気づかず、在庫が減っていることにさえも気づいてはいなかった。
事はそれだけではない。
実は、この一水は、そのギンバエした食糧や煙草などを隠し持ち、夜な夜な、それを出しては楽しんでいたことがバレて、リンチを受けたのである。
新兵にしては、大胆不敵な男だったが、真一郎は、これを知ると烈火の如く怒った。ましてや、自分たち主計科の下士官までもが悪事に荷担していたとなると、まったくもって許し難く、厳罰で臨むことを決断したのだった。
その後の真一郎は、いつもの温厚な顔が消え、まるで鬼が乗り移ったかのような厳しい表情で、何人もの取り調べを行うのだった。
それは、特に主計科の下士官においては、その怒号が保安室の外にまで響き、1時間後、その下士官が外に出て来たときには憔悴して、一人では立てない状態になっていたという。
関係者は、即座に懲罰房に送られ、一人孤独の中で、処分を待つ身となったのだった。
彼らにしてみれば、
(今までだって、多かれ少なかれやってきたことだ…。今回、バレたところで始末書一枚で終わりだ…)
と嘯いていたが、真一郎を甘く見たつけは大きかった。
実際に暴力を振るった3名の下士官は、軍法会議送りとして呉鎮守府の法務部に身柄を預けた。おそらくは、軍籍やこれまでの功績が剥奪されて退役となることだろう。再招集を受けても、二等水兵からである。
暴力を受けた一水は、艦内で禁固となり、3週間の独房暮らしとなった。その上で、また二等水兵に降格となって、高角砲分隊に帰されることになった。
監督不行届きを咎められた分隊士の山本少尉は、正直に申告したことで退役だけは免れ、軍艦大和から佐世保の海兵団付に異動になった。
当然、赤石分隊長も譴責処分となり、少佐への昇任は1年以上見送られることになった。その上、高柳艦長の逆鱗に触れ、山本少尉共々大和から放り出された。
艦長は、
「あれほど不祥事は出すなと厳命しておいたのに、分隊長とあろう者が、それを見て見ぬ振りをするとは、ゆるさん!」
と、赤石大尉を厳しく叱責の上、青森の大湊航空隊へと飛ばしてしまった。そこは、北の防備を任された航空隊だったが、都会育ちの赤石大尉には、さぞや厳しい土地だろう…と、少しは気の毒に思えた。
そして、関係者を出した主計科自体も主計長はじめ真一郎自身も酒保の管理不行届ということで、1ヶ月の減給処分となった。
これを聞いた山本五十六司令長官は、高柳艦長に、
「なかなか、肝の据わった内務分隊長がいたもんだな…」
と感心していたそうだ。
これだけ聞くと、すべて真一郎の手柄のように見えるが、保安班員たちは、真一郎が聞き取った証言を元に、裏付け捜査行い、高角砲班以外のギンバエの実態を把握したが、それについては「黙認」し、裏ではかなり厳しいお達しを出していたのだ。それも、すべて真一郎の胸三寸だった。
この後、軍艦大和内でのギンバエ事件はほとんどなくなり、漫画だけが、大和が沈むその日まで、各分隊内に置かれて愛読されていたのだった。

事件ファイル №2 同性愛

昭和17年5月。
どうやら、いよいよ出撃らしい…。
軍艦大和もひととおりの試験も終わり、アメリカ機動部隊の撃滅を目指してミッドウェイに出撃する…というのが、専らの噂だった。
それにしても、次の出撃の目標地点まで噂に出るようになるとは、真一郎も考えてもみなかった。
兵隊まで、
「次は、ハワイ近くのミッドウェイという島まで遠征するらしい…」
と囁き合っている。
もちろん、軍機に関する事項だから、みだりに漏らさないのが軍人の心得だが、こうもあちこちで噂されるということは、噂の根は、どうも連合艦隊司令部にあるようだった。
(それにしても、口の軽い参謀がいたもんだ…)
と真一郎も呆れたが、連合艦隊司令部は、真一郎たち大和乗組員とは別の組織であり、こちらに監督権もないので、調べることもできなかった。
そのうち、保安班の中野二曹が、妙な噂を聞いてきた。
「分隊長。何やら連合艦隊司令部内で、妙な噂が立っているようです」
「ん、なんですか…。話して下さい…」
中野二曹が、聞いてきた話に寄れば、それは航空参謀補佐の岩田茂大尉のことである。
岩田大尉は、当然、海軍兵学校出の将校で、航空参謀の富田中佐の補佐役だった。海軍大学校を出たばかりのエリートで、いつも真っ白なワイシャツを着込み、軍服も上質な物をオーダーで造っているようだった。
何でも、実家は、大阪でも有名な銀行らしく、金にも不自由していないらしい。
このころ、海軍将校と雖も俸給は少なく、出撃でもしないことには戦時加俸も出ないために、懐は潤沢とは言えなかった。
まあ、その艦にだけ乗っていれば、それほど遣うところもないのだが、男所帯では、たまには羽根も伸ばしたくなる。
そこで、内地にいる間は、横須賀や呉、佐世保などの軍港にある料亭の座敷に上がり、芸者を呼んで遊ぶのが、海軍士官の羽根の伸ばし方だった。
大尉や佐官クラスになると、港港に馴染みの女がいて、海軍ではそれを「インチ」と隠語で呼んでいた。
この岩田大尉は、遊ぶには遊ぶが、それほど女に執着心はないらしく、あっさりと遊ぶので、司令部内でも、
「岩田大尉は、男前の上に遊び方もきれいだ…という噂だぞ」
と、評判は上々だった。
ところがである。
岩田大尉の従兵に付いたのは、大和の主計科の渡辺一水だった。
本当は、連合艦隊司令部付の兵隊を付けるのが普通だったが、司令部にはそれほど人員に余裕はなく、連合艦隊参謀長の宇垣少将からの依頼があり、野村副長が許可をしたものだった。
この渡辺という男は、以前は、副長の従兵をしていた男だが、万事気が利く男で、連合艦隊司令部に恥ずかしくない兵隊を送ったのだった。
ただし、籍は大和にあるので、渡辺一水の監督権は内務分隊にあり、真一郎の管轄だった。
真一郎も同じ主計科部員ということもあり、顔は知っていたし、渡辺一水は、算術が得意な兵隊だったので経理事務に遣っていた。
従兵ともなれば、四六時中司令部に詰め、誰彼構わず、命じられればそれに順わなければならない。司令部も雑務は多く、その接待も気苦労が多いと聞いたことがあった。
その渡辺一水が、密かに保安班の中野二曹に相談をしたことで、事が露見することになった。
それは、岩田大尉の夜の行跡である。
岩田大尉の従兵についた渡辺一水も、当初はかなり緊張していたようだったが、副長の従兵勤務の経験もあったので、仕事はそつなくこなしていた。
最初の1週間くらいは、岩田大尉も渡辺一水に気を遣い、あまり無理な要求はしなかったが、それでも、軍服や靴などを調えておくことについては、何度も注意をされたそうだ。
大尉は、
「俺は、銀行家の息子なんで、子供のころから行儀や整理整頓は、嫌というほど叩き込まれたもんさ…。銀行家の跡継ぎが、そんなこともできないでどうする…ってな」
「子供のころは、それが嫌だったが、海軍に入ってからは、それが役に立つなんて思わなかったよ…」
「だから、細かいことを言うようだが、わかってくれ…」
そういう態度も清々しく、渡辺一水はこの上官に好感を持ったのだった。
岩田大尉は、煙草も吸わず、酒も少々。食事に好き嫌いはなく、言葉どおりに、自分から自室の整頓をするマメな男だった。
(まあ、これくらいの従兵任務なら、大したことはないな…)
と渡辺一水もホッとして安心していたが、2週間目ころから、夜、自室に呼ばれることが多くなった。
従兵の任務は、基本的に夜の消灯までの間である。
消灯ラッパが鳴ると、1時間くらいの自由時間が与えられた。これを海軍では、「煙草盆」と言われ、「煙草盆出せ!」の命令で休憩時間に入るのだ。
なぜ、そう言うのかはわからないが、おそらく、海軍操練所時代からの慣習だろう。
そうなると、夜に担当将校から呼び出されることはないのがルールだった。
それに、従兵といえども、将校の個室に入ることは少なく、昼間にベッドメイキングや後片付けはするが、私物には触れてはいけないことになっていた。
海軍の士官には、艦内に「士官室」が設けられており、ここには大尉クラス以上の士官が使用することができた。
それでも、艦長や副長がここに来て寛ぐことはほとんどない。
中尉、少尉は「第二士官室」なる別の士官室が設けられており、個室の貰えない士官は、ここに寝泊まりしていた。ただし、海軍大尉でも「特務」が付く下士官兵あがりの士官は、兵曹長クラスも一緒に「特務士官室」にいた。
海軍は階級が殊の外厳しい社会で、イギリス海軍を模範にしたために、こうした階級社会ができたと思われるが、どうも日本人的ではないようだった。
真一郎も正規の海軍将校だったが、「主計科」という事務屋だったために、兵科や機関科の将校たちからは、一段低く見られていることに気づいていた。
それに、「予備士官」といわれる大学出の士官などは、正規将校たちから、陰で「スペア」と呼ばれ、さらに低く見られるのだ。
それに、自分たちでさえ、「ハンモック・ナンバー」と呼ばれる順番や「海軍大学校」出か、そうでないかで大きな差があった。
こんな小さな島国の海軍で、どちらが上とか下とか言っているのだから、めでたいと言えば本当にめでたい国民なのかも知れない。
真一郎は、主計科が性に合っているので不満はなかったが、こんな妙な組織を創った先人をあまり尊敬する気にはならなかった。

少し話がそれたが、渡辺一水に話を戻す。
岩田大尉が消灯後に、渡辺一水を呼び出すようになってのは、3週間も過ぎたころだった。
渡辺一水にしてみれば、任務外の夜の呼び出しだったので少し驚いたが、訪ねてみると、最初は、こっそりと菓子や煙草、酒などを渡辺一水にくれるのだった。
岩田大尉は、
「まあ、昼間に渡すわけにもいかんのでな…」
そう言って、大きな紙袋を渡辺一水に手渡してくれた。
そのとき、岩田大尉の手が渡辺一水の手に触れるが、お菓子に気を取られていて渡辺一水も当初はあまり気にならなかったそうだ。
「大尉。ありがとうございます…」
そう言って、渡辺一水は有り難くそれらの品を頂戴していたが、そのうち、
「まあ、少し酒に付き合え…」
となり、大尉の個室でウィスキーやワインをご馳走になった。
当然、巡検も終わり、いわゆる「煙草盆出せ!」という海軍の休憩時間だったから構わないのだが、それでも、海軍大尉と一等水兵では、階級が違い過ぎる。
階級社会の厳しい海軍では、兵は兵同士、下士官は下士官同士、士官は士官同士が当たり前で、軍指定の料理屋などもその区別ができていた。
呉の「五月」、横須賀の「小松」、佐世保の「錦」などが有名だが、ここは、高級料亭で、真一郎たち大尉クラスでさえあまり使わなかった。
だから、大尉と一水では、一緒に酒を飲むことなんてあり得ないのだ。
最初は、渡辺一水も遠慮をしていたそうだが、二日に1回くらいの頻度で呼ばれると、少し「?」になってきた。
ある晩。また、呼び出されて大尉の自室に入ると、岩田大尉は既にワインをボトル半分ほど開けており、珍しく顔が赤くなっていた。
渡辺一水は、
「大尉。少し、飲み過ぎではありませんか?」
と、ボトルを片づけようと手に取ると、岩田の目が渡辺に注がれ、
「おい、渡辺。今日は俺の相手をしてくれ…」
そう言うなり、渡辺一水に抱きついてきた。
渡辺一水という男は、小柄で、軍隊の中では華奢な方かも知れなかった。それでも、剣道の有段者だったし、けっして女形ではない。それに、渡辺一水にその趣味はなかった。
「大尉、すみません…」
そう言うと、岩田大尉の腕を振りほどき、一目散にその場から逃げ去ったのだった。しかし、従兵という立場上、このまま済ませることはできなかった。
考えた挙げ句に、渡辺一水は保安班の中野二曹に相談したのだ。
中野二曹も、妙な話に少し困惑して、上官である真一郎に報告したのだった。
真一郎は、この話を聞くと、あまり表情も変えずに、渡辺一水を呼び、こう告げた。
「いいですか、渡辺一水。明日も、岩田大尉の従兵は続けて下さい。この件は、私が預かります…」
「ただし、軍規上の問題ですから、内偵を進めます。その上で、対応しますので、しばらく辛抱をお願いします」
「もし、岩田大尉に怪しい動きがあれば、この中野二曹に必ず報告をお願いします。大丈夫、私たちがついていますから…」
そう言うと、渡辺一水を帰した。そして、即座に中野二曹に命じて、岩田大尉のこれまでの従兵を探し出し、内偵を始めたのだった。
渡辺一水に拒否されたことがショックだったのか、岩田大尉は、それ以後、渡辺一水に妙な真似はしなかった。
夜の呼び出しもなくなった代わりに、菓子や酒をくれることもなくなったようだ。
それに、間もなく大和も出撃となる。
そうなれば、内偵どころではなくなるだろう…。
1週間後、中野二曹が報告にやってきた。
この間、真一郎も内々に岩田大尉の考課表を調べ、大和にいる岩田大尉の同期生の大尉たちにも話を聞いた。
岩田は将校としては、真一郎の先輩にあたるが、連合艦隊司令部なので所属は別である。しかし、大和ほどの大きな軍艦になれば、同期生も数人はいた。
大和艦内で「内務分隊長兼保安班長」の肩書きは大きかった。
軽く見られがちな主計科と雖も、内務分隊長に目を付けられては、自分の出世どころか人事異動で降格処分もあり得るのだ。
真一郎は、兵学校同期(コレス)の大尉3人を一人ずつ保安室に呼び出し、岩田大尉の個人情報を聞き出した。すると、岩田は兵学校時代からその癖はあったようで、公にはならなかったが、生徒内では噂になったようだった。
ただ、兵学校としては、公にするわけにもいかず、放置していたようなのだ。
同期の大尉の一人は、真一郎に、
「まあ、飽くまで噂の域は出ないが、奴にねらわれた下級生徒や雇員は、いろいろと便宜を図って貰う代わりに、仕方なく何度か隠れて相手をしたらしいぞ…」
「ただ、あの男は用心深く、相手に固執しないので、事が公にならなかった…という話だ」
「まあ、ここは、男社会だからな。そんな変態がおらんとも限らん…」
そんなことを言う者もおり、真一郎も海軍の闇の部分を垣間見た思いがして、気分が悪くなった。
中野二曹も、従兵経験者にそれとなく聞いて回ると、岩田大尉については、そんな噂が広まっていることに気づかされた。
真一郎たちが調べただけで、大和艦内だけでも3人の男たちが、岩田大尉に触られただとか、抱きつかれただとか…迷惑を被った事実を突き止めていた。
それに、連合艦隊司令部の佐々木一水は、それ以上の関係になり、医務室に入室したことで、主計科の渡辺一水が替わりの従兵になったことがわかった。
(これは、許せないな…)
大尉という階級を笠に着た変態行為による軍規違反は、たとえ、連合艦隊司令部の人間でも見過ごすわけにはいかなかった。

真一郎は、出撃前の深夜、保安室に岩田大尉を呼び出した。
大和所属の内務分隊長から呼び出しを受けたのだから、面白くはなかったが、それを知らせたのは従兵の渡辺一水だった。
頭の回転のいい岩田大尉は、渡辺一水が届けてきた一通の文書を見て、すべてを悟っていた。それに、この文書には、「内務分隊長の印」がない。
それは、正式な文書でないことはわかる。
そう悟った岩田大尉は、素直に召喚に応じたのだった。
部屋に来ると、真一郎は、一人で岩田大尉に応対した。
通常であれば、記録係としてもう一人下士官を置くのだが、内々の話としてあるので、真一郎は一人で岩田大尉に対峙した。
岩田大尉を前に、真一郎は簡潔にこれまで知り得た情報のすべてをこの男にぶつけた。
「岩田参謀補佐。私たちは、ここまで貴官の行動を掴んでおります。ただし、所属が異なりますので、私どもに捜査権はありません。したがって、これは飽くまで噂の範囲を出ません」
「こちらが必要と判断すれば、連合艦隊司令部に報告させていただきますが、如何ですか?」
真一郎のそう告げられると、岩田大尉は、
「な、何を言うか…!」
「いやしくも、俺は海軍大尉で連合艦隊司令部の人間だぞ…。貴様、もし、これが濡れ衣だったら、どうなるか分かっているんだろうな?」
と凄んで見せるが、動揺しているのは明らかだった。
真一郎は、
「さて、こちらとしては別に構いませんよ…。ただし、大和に所属する兵隊の風紀を取り締まるのも、我々内務分隊の仕事なので、悪しからず…」
真一郎は、そう言って、岩田大尉の眼を見詰めるのだった。
普段は温厚で優しげな真一郎だったが、怒ったときは、その表情は豹変するのだ。「優しげな表が、般若のような、鬼のような表情に変わる」とは、見たことにある中野二曹の言葉だった。
このときの真一郎も、自分の部下を弄ぼうとしたことに腹が立っていた。
それでも、冷静を装い、
「わかりました。それでは、明日にでも証拠を持って宇垣参謀長に直に報告させて戴きます。岩田大尉、ご足労をおかけいたしました!」
そう言うと、真一郎はサッと立ち上がり、岩田大尉をさらに睨み付けた。
真一郎は180㎝を超える大きな男だ。
その高さから怒りに燃えた眼で睨み付けられた岩田大尉は、震え上がった。
顔面蒼白になり、
「す、すまない。草野大尉、この件は内密に願いたい…」
そう言うなり、土下座でもせんばかりに、深々と頭を下げるのだった。そして、
「私も近々、嫁を貰うことになっている。世間体もある…。どうか、公にはしないで貰いたい…」
そう懇願するのだった。
海軍大尉などという厳めしい肩書きを持っていても、所詮は人間であり、壮年の男なのだ。涙ながらに哀願する岩田に真一郎は少しは同情した。
(癖のある人間は、これからも苦労するのだろうな…)
そこで、真一郎は岩田大尉に告げるのだった。
「確かに、貴官の行動と性癖は海軍軍人として、いや、海軍将校として著しくその誇りを傷つけるもの…と判断します。しかし、出撃を目前に控えた今、事を公にして作戦に支障を来すのは憚られるところです」
「ここに、私どもが調べた記録があります」
「貴官がこの大和にある間は、私個人が保管し、貴官が異動になる時点で処分しましょう…」
「くれぐれも、海軍将校としての品位を保ち、あらぬ噂など立ちませんよう、よろしくお願いします」
真一郎は立ったまま、顔色を変えずに、そう告げるのだった。
扉を隔てた部屋には、中野二曹と渡辺一水が控えて、ことの成り行きを記録していた。
真一郎は、最後に、
「渡辺一水は、こちらに返していただく。あの男は、我々大和主計科にはなくてはならない存在なので、従兵は、そちらで賄っていただきたい」
「こちらから、その旨参謀長にお伝えいたします」
「ご足労、ありがとうございました」
真一郎は丁寧にそう言うと、静かに岩田大尉に帰るように促すのだった。
岩田大尉は、連合艦隊司令部の威厳もなく、首を落としてトボトボと自室に帰っていった。
渡辺一水が元の主計科経理事務の職に戻ったのは、翌日のことだった。
大和の野村副長には、すべてを話したが、野村副長は、
「ああ、わかった。それにしても、男という者はしょうがないな…。で、この後、どうする?」
そう聞いてくるので、
「じゃあ、また、漫画にでもして艦内に配りましょうか…?」
と冗談交じりに真一郎が答えると、副長は、
「そりゃあ、傑作だ。まあ、作戦が終わってからやってみるのも一興だな…」と二人で笑い合うのだった。
その後、この話が漫画になった…と聞いたことはない。
結局、岩田大尉は、真一郎が何も言わなくても、しばらくして心を病んだようで、作戦が始まる前に病気を理由に大和を退艦していった。
話では、しばらくは海軍の久里浜養生所で静養するらしい…。
久里浜は精神科や結核の治療のための療養施設で、体のいい隔離場所としてはうってつけだった。
真一郎は何も言わなかったが、どうも、野村副長が宇垣参謀長と謀り、この処置にしたようだった。
この後、真一郎たち内務分隊の評判は兵たちの中でジワジワと広まり、時々、中野二曹たちのところに相談に来るようになったそうだ。
そんなことも、真一郎のねらいだったのかも知れない…。

事件ファイル №3 後発後期罪

昭和17年7月。
ミッドウェイ海戦が終わり、為す術なく大和は呉に帰ってきた。
戦前の予想では、ミッドウェイ島にアメリカ機動部隊をおびき寄せ、そこを一気に日本の機動部隊が叩き、大勝利を収めるといったシナリオができていた。だから、戦艦大和を初めとする戦艦群も後方から機動部隊に付いて行き、勝利の美酒のおこぼれに預かろうという寸法だったのだが、目算は大外れになってしまった。
艦内の主計科で事務仕事に忙殺されていた真一郎には、少し離れたミッドウェイ島で、そんなことになっていようとは思ってもみなかったが、噂は瞬く間に広まり、主計科内でも、
「おい、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4空母全部やられたらしい…」
「今ごろ、連合艦隊司令部は大慌てで、大変だぞ…」
そんな声が聞こえてきた。
真一郎は、それを聞いたとき、
(ああ、やっぱりな…)
と思うところがあった。
そもそも、大名行列じゃあるまいし、実際の戦闘を行う機動部隊の後ろを「支援」と称してのこのこ大勢で付いていくなんて、滑稽だ…と思っていたからだった。
それに、巷でさえ「ミッドウェイ、ミッドウェイ…」と騒ぎ立てる始末で、これでは作戦内容を敵に知らせるようなものである。
大和艦内でも出撃であるにも拘わらず、雰囲気は至って平穏で緊張感というものがなかったのだ。
野村副長は、真一郎に、
「いかんな…。誠にいかん。この緩さでは敵につけ込まれるだけだ…」
と心配していたが、まさに、そのとおりになった。
開戦前は、
「敵は、世界最大の軍事力を誇るアメリカなのだ。ひとつのミスも、それが命取りになるのだぞ!」
と気合いを入れられたものだが、たかが、ハワイ空襲が1回成功したくらいで、何を浮かれているのか…と真一郎は、上層部の遣り方が歯痒くてならなかった。
それでも「後悔先に立たず」の言葉があるとおり、大和艦内は意気消沈したまま、呉に帰投していたのだった。
上からは乗組員全員に箝口令が敷かれ、
「一切の情報は漏らすな!」
と厳命されたが、負け戦ほど周りに知られるのは早い。
「噂、千里を走る」の諺どおり、1週間もしないうちに、あちらこちらの料亭では仲居たちまでもが、
「ミッドウェイでは、相当やられたって…」
と噂をするまでになっていた。
真一郎は、保安班の兵曹たちを使って、呉の町周辺の情報収集に当たらせたが、戻って来るなり、全員が異口同音に、
「だめです。もう、相当に噂になってます…」
と報告してきた。
保安班の情報収集能力は高く、信頼できるものだった。
真一郎は、副長に報告すると、野村副長は、
「当たり前だよ。噂なんてものを止められると思っているとしたら、連合艦隊司令部も相当にめでたいね…」
と鼻で笑う始末だった。
呉に戻ってしばらくすると、あの岩田大尉は、久里浜を出て密かに異動になったという噂を聞いた。
なんでも、東北地方にある練習航空隊の副長勤務らしい…。
(連合艦隊司令部の参謀補佐までやった男が、田舎の練習航空隊とは…。人間、どこに闇があるかわからん…)
そう思い、ため息を吐くのだった。
真一郎は、
(まあ、田舎なら男色もあまり目立たないだろう…。今度は、少年たちが餌食にならなければいいがな…)
そう心配知る真一郎だった。
それに、連合艦隊司令部の参謀たちは、今回の大敗北の責任を取って左遷されるという噂もあり、岩田大尉は、早々に飛ばされただけかも知れなかった。
そんな中、大和も今度は南洋に出て行くことになった。
連合艦隊司令部は、本拠地を内地の呉から、南洋のトラック島に置くことが決まったのだ。
連合艦隊は、日米の決戦場を南洋のソロモン諸島海域と定めたらしく、陸軍部隊の協力を得て、南洋の小さな島々に守備隊を置いたのだ。
特にアメリカとオーストラリアの連携を断つために、ニューギニア南部のラバウルに航空基地を設けて、オーストラリアを牽制するのだそうだ。
主計科の真一郎には、ほとんど関わりのない作戦計画だったが、世界地図を広げると、あまりにも太平洋は広く、そんなところで戦っても早期講和などできるような気がしなかった。
たとえ、オーストラリア軍を大陸に封じ込めたとしても、主敵がアメリカ海軍である以上、ハワイを攻略するなり、アメリカ本土に攻撃をかけるなどしなければ、アメリカが講和を申し出るとは到底思えなかったのだ。
(そんな暇があるのなら、西に向かい、ドイツと連携してイギリスを叩いた方が戦争を終わらせるのは早道じゃないのか?)
と思ったが、それは副長の野村中佐も同じだったようだ。
野村副長は、主計科の真一郎が気安いのか、よく主計科に顔を出した。
そこで、作業の点検をするフリをしながら、真一郎に日頃の愚痴を言うのだった。
「なあ、草野大尉。貴様はどう思う…?」
「俺には、連合艦隊の考えていることがよくわからん…。ミッドウェイ作戦だって、もっと単純に考えれば負けるはずがないのに、あっちこっちの顔を立てて作戦海域を広げすぎたために、ミッドウェイに集中できなかったんだ」
「この大和だって、のこのこ付いていくくらいなら、機動部隊に同伴させ、護衛艦隊にすればよかったんだ…」
「アメリカ機動部隊撃滅が主目的でありながら、敵が来るだの、来ないだのと議論をしていたらしい。そんな中途半端な作戦を立てるから、こんなざまになるんだ。あそこの黒島は、昔から知っているが、ありゃあ、変人だよ」
「賢いんじゃない。変なんだ。それが連合艦隊の首席作戦参謀って言うんだから、同期の連中はみんな笑ってるよ…」
「俺は、悪いが、あの黒島を使う長官じゃ無理だと思うがな…」
主計科の烹炊作業は、熱と音で騒々しい作業場だったせいか、副長は、好んでこの場所で真一郎に愚痴を言うのである。
うるさくて、所々聞こえないところもあったが、野村副長が相当不満が溜まっていることだけはわかり、真一郎もその意見に同感だった。

そんなころ、いよいよ出港という段になり、今度は機銃分隊から至急の報告が入った。それは、
「内務分隊長。兵が一名戻っていません!」
「艦に戻るのは、1800の予定でした。しかし、1時間経っても戻る気配がありません。既に桟橋の内火艇も全艇引き返しています。どうすれば、よろしいでしょうか?」
というものだった。
機銃分隊の分隊長は真一郎の1期下のクラスで、兵学校出身者だった。
出港の2100までは、後2時間。
桟橋まで内火艇で20分。往復40分。余裕を見て1時間と考えれば、一刻の余裕もなかった。
真一郎は、副長にその旨を告げると、
「私が、桟橋まで行ってきます。おそらく、桟橋で呆然としているはずです…」
「そこにいなければ、後発後期罪容疑として呉憲兵隊に通報し、保護を依頼したいと思います」
そう告げると、保安班の若い伊藤二曹と3人の主計科の兵隊を連れて、内火艇に飛び乗った。
夏場なのでまだ明るかったが、もう間もなく日没を迎えるはずだった。
軍隊では時間に遅れることは重罪なのだ。
若い兵隊では、早く見つけなければ自殺する可能性があった。
(今ごろ、内火艇が見つからず、途方に暮れているに違いない。艦が出港してしまえば、敵前逃亡罪も加わり、最悪死刑になる可能性がある…)
(これは、何とかしなければ…)
さすがの真一郎の顔にも焦りの色が浮かんでいた。
それにしても、もう時間がない。
もし、探せるとしても「10分」を限度と考えていた。

内火艇は、いつも以上の速度で呉桟橋に到着した。
真一郎は、5人の部下に命じて周辺の捜索をさせたが、ひと言こう申し渡した。
「いいですか。落ち着いて静かに探して下さい…。大声で探すのはだめです」
「新兵が出港に遅れるということは、即、重罪に問われます。自殺も考えられますので、静かに探して10分で発見できなければ、諦めます…」
「では、お願いします」
これは、真一郎が新兵の気持ちを察しての最大限の配慮だった。
たとえ罪に問われることになっても、自殺だけはさせたくなかった。なぜなら、軍人は戦闘によって国に奉仕するものであり、その戦闘員が自殺することは、国民への裏切りだと考えていたからである。
桟橋の埠頭で待つ真一郎は、時計を見続けていた。
既に夏の夜も闇に包まれ、あちらこちらの街灯だけが、唯一の灯りだった。
そろそろ、予定の「10分」が終わる…。
すると、真一郎を呼ぶ声が聞こえた。
それは、一緒に捜索に加わった一水の声だった。名前は、矢吹と言った。
「隊長。おりました。桟橋の見える高台に蹲っておりました…」
「こいつ、私と同期の檜垣一等水兵です…」
矢吹一水の傍らには、項垂れたまま鼻水を垂らしている兵隊がいるではないか。相当、心細かったのだろう。暗闇の中でも泣いていたことはすぐにわかった。
真一郎は、
「よし、よく帰った。話は艦で聞く!」
「全員、内火艇に乗れ! 戻るぞ!」
その声は、いつものような丁寧な言葉遣いではなく、ベテランの海軍将校のそれだった。

大和に戻った真一郎は、矢吹一水に立ち会わせて檜垣一水の取り調べを行うことになった。
野村副長は、発見された…という報せを聞くとホッとした顔を見せ、
「後は、保安班長に任せる!」
力強く、そう言ってくれたので、こちらで預かることになった。
ただ、間もなく出港のために、この一水への処分は艦が太平洋上に出た時点で考えることになった。

この檜垣一水は、まだ19歳で、呉の海兵団から大和に乗り組んできた兵隊の一人だった。配置は、20粍機銃分隊だったが、新兵は射撃などできるはずもなく、弾丸運びが相場だった。
それでも、ここの分隊長によると勤務態度も真面目で、優秀な方の兵隊だということだった。要領も悪くなく班長たちの心証もよかった。
それが、後発後期罪という怖ろしいことをしでかしたことに、班員全員が首を傾げた…ということだった。
となると、後は「女」しかない。
実は、この檜垣一水は、海兵団にいたころから馴染みの女が呉にいたようだ。その女の働く店に上陸のたびに通い続け、お互いが好きになってしまったのだろう。
女は、5つ年上の酌婦だったが、今回もこの女と離れがたくなり、内火艇の出る時刻に遅れた…ということだった。まして、新兵が最後の内火艇に乗ることも躊躇われ、遂には、一人桟橋に取り残されたという…。
内火艇は、兵隊が戻る時刻に合わせて計3回出るのだが、1時間前には兵隊が乗り、30分前には下士官、そして、最後の便には士官が乗るのが内規になっていた。
新兵が下士官の乗る艇に乗るのでさえ勇気がいるものだが、まして将官でさえ乗る最後の便などに乗れば、後から上官に懲罰を喰らうのは目に見えていた。
それで、実は最後の便に間に合っていたのだが、怖ろしくて乗れなかった…と言うのだ。
檜垣一水は、艦に戻って来てからはしばらく懲罰房に入れることにした。ここで分隊に戻しても、単に上官から酷く殴られることはわかっていたし、処罰するにしても、しっかりと調べた上で…と考えていたからである。
取り調べは3日ほど行ったが、呉の警察署でも調べてくれて、確かに馴染みの女がいることがわかり、檜垣一水の行動の裏付けが取れたので、処分を下すことになった。
真一郎は、内々で「後発後期罪には問わない」とした。
なぜなら、捜索のために内火艇を出したとはいえ、刻限までに桟橋に到着していたことを考慮すると、遅れる意図はなかったと判断したからである。
「敵前逃亡罪」を充てるには、逃げようとする意思がなければならないが、この一水にその意思はない。
そうなれば、後は「遅刻の罪」を問えるかどうかだが、これは、最後の内火艇に乗らなかった時点で発生する。だから、厳密に言えば、この檜垣一水の罪は問えるのだが、こちらの内火艇の運用にも問題があるのも明らかなのだ。
真一郎たち士官から見れば、遅れなければどの艇に乗っても困ることはない。しかし、下級兵はそうはいかない。最初の艇に乗り遅れれば、次は下士官、そして次は士官と、階級の上の人間と一緒に小さな艇に乗り込むのだ。
これでは生きた心地がしないのは当然である。従って、真一郎は、「運用にも罪はある」と結論づけた。
そして、大和では、今後、3回の迎えの便はすべて兵、下士官、士官を問わずに乗艇できるように通達することにしたのだ。確かに、今回のようなことを考えると、若い兵にとって規則で定められていれば、多少の遠慮はあったにしても、乗らないという選択はないだろう…と判断したからだった。
しかし、今回の騒動は、後発後期罪に問われないにしても、新たに捜索隊が出たことや艦に迷惑をかけたことを考慮し、「特別作業1週間」という処分を下すことにした。
この「特別作業」とは、真一郎が考えた軽い処罰で、使用した内火艇をすべての清掃と整備点検をするように命じたのだった。
内火艇は、機関科の管轄だったが、機関科の分隊長に掛け合って、
「この兵隊に、内火艇の清掃でもやらせてやって下さい」
と真一郎が頼み込んだものだった。
機関科の高安分隊長は、真一郎より2期上の機関科将校だったが、内務分隊長の頼みと聞いて、
「内務分隊長の頼みでは、聞かんわけにはいかんからな…」
と笑いながら了解してくれたのだ。
真一郎は、その替わりと言って、新鮮なタマネギひと箱を分隊長室に持って行った。
「大丈夫です。これは、員数外の食糧ですから、機関科で食べて下さい」
これも真一郎一流の処世術なのだ。
こうした気配りができたことで、真一郎は内務分隊長兼保安班長という難しい役職をこなすことができたと言っていい。

1週間の懲罰を受けた檜垣一水は、期限が過ぎると真一郎から直接「懲罰終了」の命令を受け、懲罰房から出て元の機銃分隊に戻っていった。
機銃分隊長には、真一郎から「班内での私的懲罰は、見過ごしませんから…」と釘を刺して置いた。
その1週間後の巡検時に、改めて機銃分隊に出向くと檜垣一水の元気そうな顔を見ることができ、本件は落着したのだった。
そして、その檜垣一水は、その後も大和に勤務し、レイテ沖海戦に参加して、壮烈な戦死を遂げたのだった。

事件ファイル №4 戦死認定

軍艦大和には、搭載機として「零式観測機」が7機後甲板に格納されていた。これは、800馬力エンジンを積んだ三菱航空機製で、複葉機でありながら格闘性能は抜群の機体だった。
搭乗員は、操縦者と偵察員各1名で、武装は、前面に7.7粍機銃2と後席に同じく旋回機銃1が装備されていた。もちろん、対戦闘機戦を想定してはいないので、敵機を撃墜することは難しいが、上空からの偵察任務には欠かせない偵察機だった。
本来は、主砲の発射を助けたり、弾着の観測を行う機体として設計されたのだが、今時の海戦にそんな悠長なことをやっている暇はない。しかしながら、偵察任務は益々重要度を増してきており、大和の飛行隊も毎日の訓練に勤しんでいた。
したがって、大和には軍艦には珍しく飛行科があり、搭乗員及び整備員合わせて30名ほどが配置されていた。そして、その分隊長が、兵学校出の佐久間大尉である。
佐久間大尉は、まさに真一郎のコレス(同期)で、出身も同じ東京だったことから、真一郎が大和に乗り組んで以降、仲良くなった男だった。
佐久間大尉は、兵学校を卒業すると1年間の艦隊実習を終え、飛行学生として霞が浦で訓練を受けた後、水上機課程に進み、水上機搭乗員として開戦時には、パラオ基地で偵察任務に就いていたのだった。
開戦後間もなく大和乗り組みを命じられ、真一郎と前後する形で大和に着任していた。
水上機の発艦は、航空母艦ではないのでカタパルト発進になる。
大和型戦艦のカタパルトは、後甲板に突き出すように鉄骨が剥き出しで見えるが、大型クレーンで格納庫から偵察機が引き出されると、その鉄骨の発射台に機体が据えられ、火薬の爆発による衝撃で前方に機体が弾き出される仕組みになっていた。
これが、結構な衝撃が搭乗員に加わり、慣れていないとそのショックで操縦を誤る危険性があった。発射速度は、秒速30mというもの凄い速さなので、発射された直後は、一瞬、その圧力で目の前が真っ暗になる。それでも、すぐに意識を取り戻し操縦桿を引かねばならない。
この衝撃は、よく、急降下爆撃機の降下する時と比べられるが、急降下爆撃をする際、1000mの高度からほぼ垂直に降下する気分で敵艦に突っ込み、高度450mギリギリで爆弾を投下し、機体を引き起こさなければならなかった。このときの大気圧力は150㎏にもなり、これに耐えなければ爆撃機の搭乗員にはなれなかったのだ。
それと同じ位の圧力がカタパルト発進なのである。
だから、初心者などは、この射出時に意識を失い、そのまま海上に飛行機毎墜落するといった無様な真似をしかねなかった。そのために、日頃の訓練は厳しく、普通の戦闘機や大型爆撃機搭乗員とは、異なる訓練が行われていた。
この佐久間大尉も、兵学校時代は柔道2段の猛者であり、腕っ節は下手な下士官では歯が立たないと言われていた。
真一郎は、陸上の選手だったが、柔道をこの佐久間とやると、引き込む力が強く、背の高い真一郎は体勢崩され負けることが多かった。逆に剣道は、背が高く手足の長い真一郎に有利で、その跳び込み面は、大和艦内でも屈指の遣い手として有名になっていくのだった。

この佐久間大尉機が事故に見舞われたのは、大和がトラック島基地に到着し、零式観測機による偵察訓練を行っていたときだった。佐久間機が訓練を終えて、大和に収容されるために着水しようとしたときだった。
それまで静かな海面で、特に着水に支障があるようには思えなかったが、佐久間機が穏やかな海面に着水しようとした瞬間だった。その前面に大きな三角波が突如として現れ、佐久間機は海面に叩きつけられるようにして転覆、機体は南洋の海に飲み込まれてしまったのだ。
大和では、早速内火艇を3隻出動させ、機体と搭乗員の捜索を行った結果、偵察員の太田二飛曹は無事に救助されたが、いくら探しても佐久間大尉を見つけることができなかった。
機体は、波に打ち付けられた衝撃で片翼は千切れ飛んでいたが、その他の部分は横転していたために、海の中に沈んで行った。慌ててトラック島から工作船が出動し、機体を海底から引き揚げたが、その操縦席に佐久間大尉の姿はなかった。
機体の引き上げには、事故から5時間は経過しており、次第に海の流れも変わったことから、佐久間大尉は、意識不明のまま流された可能性も考えられたが、海に墜落した衝撃で死んでしまった可能性も否定できなかった。
助けられた太田二飛曹によると、佐久間大尉から、
「今から着水体勢に入る!」
「いいか、衝撃があるので、しっかり掴まっておれ!」
と伝声管を通して命令があった。
太田は、いつものように四肢を踏ん張り、波の衝撃に耐える体勢を取っていたことが、生き残った原因だと思われた。
普段なら、
(天気のいいこんな日に、分隊長も用心深いな…)
と思うところだが、この日は、何となく、隊長の命令通りに四肢に力を入れて踏ん張っていたそうだ。
ところが、着水する寸前にどうしたことか、大きな波が前面に現れ、零式観測機はそのまま波にがぶられ、宙に飛ばされたのだ。
その後、太田二飛曹は記憶を無くしていて、
「自分がどうして助かったのか、わかりません…」
と首を振るばかりだった。
佐久間大尉の捜索は翌日も行われたが、結局は見つけることができず、平時なら殉職扱いのところ、戦地での死亡のために「戦死認定」となり一階級特進して少佐になった。

ところが…である。
戦後、真一郎の元に、「佐久間哲治」の名前が書かれた国際郵便の封書が届いたのだ。
真一郎は、昭和18年の正月に大和を降り、内地に戻ると、それからは呉の鎮守府付き法務官として働いていた。
主計科時代から、内務分隊長や保安班長などを歴任していたことから、法務を担当する部署に異動になったのだろう。
そのために、戦死することなく戦後を迎え、終戦後は細々と小さな造船会社の経理事務をして生活をしていた。幸い、東京世田谷の実家は戦災に遭わなかったので、そこで暮らすことができた。
これから、夜間の大学に入り法律を勉強して、いずれは弁護士として働きたい…と考えていたのである。
真一郎は、まだ独身だったこともあり、とにかく両親とともに生きていくことを決心していた矢先だった。
そんなとき、あの「佐久間哲治」から手紙が来たことに驚きを隠せなかった。それも、当時としては珍しい国際郵便である。
(あの佐久間少佐は、確か、昭和17年の夏にトラック島で行方不明になり、戦死認定されたはずだが…)
そう思って恐る恐る手紙を読むと、こんなことが書かれていた。

草野真一郎様へ
この手紙を読まれて驚かれたことと思いますが、私は、軍艦大和で飛行科分隊長をしていた元海軍大尉の佐久間哲治です。
私が、自分の名前が佐久間だと気づいたのは、つい、1年ほど前のことでした。それも、日本ではなく、あの懐かしいトラック諸島の名のない小さな無人島です。島民は、この島を「イオ」と呼んでいましたが、そんな島があることは、当時の私にはわかりませんでした。
実は、私はそれまでの記憶を無くしたまま6年間、この島にいたことになります。
私は、島民には「サッチ」と呼ばれていましたが、その由来も知りません。今では、この島の住民の一人として家族を持ち、海に出て漁をして暮らしています。
記憶を取り戻したのは、あることがきっかけでした。
ここは常夏の島です。だから、季節というものがありません。
ある夜、仲間の島民とともに、自分たちで作った小さな小舟で漁に出ました。漁と言っても、自分たちが食べる分くらいの量が獲れればいいのです。
夜でも灯りを点けて網を投げると、面白いように小魚やエビがかかります。
そんな漁をしていたとき、私は、思わず足を滑らせ海に落ちてしまいました。
暗い海は非常に危険です。
この日は、沖に出ると意外と波が荒く小舟は左右に揺さぶられていました。ここに、4人の漁師が乗っていたのですが、漁をするとその魚や貝、エビなどの重量がかかります。
当たり前のことですが、大漁だったこともあり、重量オーバーになったようでした。
私は泳ぎは得意でしたが、暗い海のことです。
仲間の漁師たちも必死に探してくれましたが、なかなか見つからなかったらしく、私は大量の海水を飲み、必死に藻掻きました。そして、かなりの海水を飲んだためか、ほとんど溺死に近い状態になり、私は意識を失いました。
その混濁する意識の中で、私は、ふっと、あの日のことを思い出していたのです。そう、それは自分が「サッチ」などという名前ではなく、「佐久間哲治」という海軍の飛行機搭乗員だったということです。
しばらくしてすくい上げられた私は、意識が混濁したまま、仲間の漁師にとって訳のわからない言葉で、何かしら訴えていたそうですが、私は覚えていないし、たとえ覚えていたとしても、日本語が通じる相手ではありません。
仲間たちは、サッチが何か譫言を言っていると驚き、慌てて私を島の家まで運びました。
家に戻るころになると、舟上で水を吐いたせいか、少しずつ意識が戻ってきていました。そして、意識が戻ると、自分が「佐久間哲治」だということも蘇っていたのです。その上、今の記憶もしっかりとありました。
イオ島の家に戻ると、妻の「キヨコ」が私を心配して待っていてくれました。この女は、原住民の女です。そして、私には3人の子供もいたのです。
妻の「キヨコ」という名は、結婚するとき、私が新たに妻に付けたのだそうです。
なぜ、自分が妻になる原住民の女に日本名のような名を付けたかはわかりません。きっと、どこかに日本人としての記憶が残っていたのでしょう。
そのキヨコの顔を見ると、私は、自分の記憶が戻ったことを彼女に告げました。
彼女は、悲しそうに涙を見せましたが、それでも、何となくそれに気づいていたようで、
「思い出してしまったのね…」
と言うと、部屋の奥から、当時、私が身につけていた飛行服を持ってきました。そして、
「これは、サッチが着ていた服です…」
そう言うではありませんか。それは、間違いなく私の飛行服でした。そして、袖には紛れもない「海軍大尉」の袖章が縫い付けられていたのです。
当時、私がこの島の島民に救われたとき、世話になったのがこのキヨコの家でした。
キヨコの父親はアメリカ贔屓の男で、トラック島に来た日本人を快く思っていなかったのです。それを知っていたキヨコは、すぐに私の飛行服を脱がせると、自分の部屋の奥にしまい込んだそうです。
父親も日本人と気づいていたようですが、知らん振りをして、いつかはアメリカ軍に引き渡そうと考えたのでしょう。私は、意識を取り戻しても記憶を無くしたまま、その家に世話になっていました。
その後、父親が亡くなり、私はキヨコの家の手伝いをするようになっていました。家は小さく、キヨコは原住民といいながらも若い娘です。二人が、男女の仲になるのに、そんなに時間はかかりませんでした。
私は、自分がここの人間でないことはわかっていましたが、かと言って、行くあてもありません。そのまま居続けているうちに、戦争が終わっていたのです。
そして、この家に来てから6年後、記憶を取り戻した私は、悩みました。
村長に聞けば、戦争はもう3年も前に終わっているというではありませんか。情報の少ない島でしたが、戦後、アメリカ軍が進駐してきて、この島を統治下に置きました。
小さな村ではありますが、村の中心にはアメリカ軍の駐屯地があり、100人程度の兵隊が常駐して島を巡回しています。だから、最近では、言葉も現地語だけでなく英語も共通語として使われているのです。
私はそこで、当時の雑誌を見せて貰い、戦争が終わり日本が復興に向けて進んでいることを知りました。
あなたのことを思い出したのは、大和の内務分隊長として有名だったし、同じ東京の出身の同期生で、仲良くしていただいていたからかも知れません。
そこで、アメリカ軍を頼ってあなたの住所を調べ、この手紙を出すことができました。
あなたが、戦死なされず、ご実家に戻られたことに安堵いたしました。
別に私は、今さら日本に帰国しようとは思いません。海軍もなくなり、トラック島イオ島の人々に救われた私ですから、ここを離れることはできません。 それに愛する妻も子もいます。
唯一心残りなのは、私の日本の家族のことです。
もし、私の家族のことがわかりましたら、どうか、あなたの手でこの手紙を見せてあげて下さい。そして、私が、南洋の島で元気に暮らしていることをお伝え下さい。よろしくお願いします。
元海軍大尉 佐久間哲治

そんな内容だった。
真一郎は、半信半疑ながらその手紙を佐久間大尉の家族の下に届けたのだった。佐久間大尉の家は、三鷹にあり、真一郎の住む世田谷からは隣町といった関係で、佐久間大尉の実家を探すのにそんなに苦労はしなかった。
佐久間の家は、代々地域の名士で、農地解放が進む中でも弟の完治がその経営手腕を発揮して、手広く野菜や米、生活雑貨の販売を行っていた。
完治の売る野菜や米は、闇市で買うものより数段安く、その良心的な経営は地域の評判でもあった。
真一郎が訪ねると、丁寧に当主の完治が応対してくれた。
佐久間大尉からの手紙を見せると、完治は、何も言わずに、その手紙を仏壇に供え手を合わせるのだった。そして、
「父さん、母さん。姉さん…。兄さんは生きていたんだよ。それも、南洋の島だってさ。あれほど心配していた兄さんが生きていて、みんなが先に死んでしまうなんて…。何の因果かは知らないが、でも、よかったよ…」
そう呟くのだった。
佐久間の家は、空襲にこそやられなかったが、姉の幸子が東京の下町の商家に嫁いでおり、
「そろそろ、疎開して来ないとね…」
そう言って、疎開するための荷造りに両親で向かった晩に空襲で被災し、3人はそのまま戻っては来なかったそうだ。その上遺骨も見つからず、完治は途方に暮れながらも、戦後は家を守り、生きてきたのだ。
祖父母も終戦の報せを聞くとがっくりと肩を落とし、弟の完治にすべてを託して2年前に亡くなっていた。
完治は、嫁の絹恵と一緒になって働き、家屋敷と先祖代々の墓を守っているとのことだった。
「ああ、兄の哲治もこの墓に入っているんですが、どうしたもんですかね…」「両親も姉も遺骨がないので、家にあったみんなの肌着を骨壺に入れて埋葬したんです」
「ただ、生きていると言っても、日本に帰ってくるつもりもないようなので、私としてはそっとしておいてやりたいです」
「そのうち連絡が来れば、そのときに考えます…」
弟としては、そっとしておくことが一番いい…と考えたのだろう。
その後、真一郎は、佐久間大尉が日本に帰ってきたという話は聞くことはなかった。
戸籍が「戦死」で終わっている以上、そのままにしておくのがいい…と佐久間大尉も思っているのだろう。
真一郎は、人の運命の不思議さを感じるのだった。

事件ファイル №5 相撲大会

この話は、事件というより、トラック島での平和なエピソードのひとつに数えられる思い出深い出来事だった。
昭和17年のトラック島は、まだアメリカ軍の反攻は始まっておらず、日本海軍はミッドウェイで敗北を喫したと言っても、勝負はまだまだこれから…という意識が強いころだった。
秋には本格的にアメリカ軍の反攻が始まり、ソロモン海を中心に日米海軍が激突した。しかし、9月ころまでは、軍艦大和はトラック基地で骨休めをしているような状態が続いていた。
海軍では、何でも競争をさせるのが好きで、軍艦に乗り組んでも艦内で柔道、剣道、相撲、短艇、綱引きなどの大会が行われていた。強いのは、もちろん兵科で、それに次いで機関科が競い合っていた。
主計科は、普段が力仕事が少ないので、いつもどん尻は主計科の分隊だった。主計長も半ば諦めていて、
「まあ、主計科は頭脳だから、こうした競技は不向きだからな…」
と大会前になると、ため息を吐くのだった。
本心から言えば、「たまには、優勝でもしたい…」のだろうが、主計科に優勝旗を持って行かれては、戦闘分隊は面目丸潰れである。だから、各分隊長は、
「間違っても、主計科にだけは負けてはならぬ!」
と練習に気合いを入れるのだった。
これは、各分隊の名誉だけでなく、連合艦隊の旗艦の時は司令長官賞や艦長賞が出て、優勝分隊には名酒の一升瓶やウィスキーのボトル、振る舞い餅などが副賞として添えられ、その夜は、大宴会になるのが常だった。
上陸も最優先にして貰ったり、金一封が分隊長や副長から出ることもあった。
このときの、相撲大会は、真一郎にとっても忘れられない海軍での楽しい思い出のひとつとなった。

「各分隊対抗相撲大会」の通知が出されたのは、季節的には夏が終わり秋を迎えるころだった。
軍艦大和では、広い上甲板に土俵を作り、恒例の相撲大会が開かれることになった。
大和の甲板は、学校の運動場がすっぽりと入ってしまうくらいの大きさがあり、直線なら100mが優に取れる長さもなった。とにかく、それは「でかい!」としか表現のしようがなかった。
そこに、いくつもの土俵が設けられ、常にどこかの分隊が稽古をしていた。
海軍では、どこの海兵団でも「負け残り」と称する相撲が行われており、とにかく勝つまでは土俵から降りられないのだ。
二番、三番くらいまではいいが、五番、六番と続くと、精も根も尽き果て、後は気力で相撲を取ることになる。そこまで行くと、審判を務める教班長などが、
「いいか、最後は気力が勝つんだ。気力だ、気力を出せ!」
と怒鳴るのだが、それでも負ける。そこを踏ん張ると、なぜか開き直りが出て、十番目くらいで勝てるのだった。
まあ、相手も手加減するようになるのだが、必死にぶつかっていくだけの負け続けている者にはわからない。そんなトリックはあったが、「負けん気」を付けるために奨励されていたのだ。
そんなわけで、「相撲こそが海軍」とでも言えるように、どの分隊でも稽古に稽古を重ねて相撲大会に燃えていた。
そんな中で、一人冷静なのが主計科だった。
冷静というより、既にあきらめムードが漂っていたのだが、それでも、今年は最強のメンバーを真一郎は選出していた。
真一郎が選んだのが、
先鋒に烹炊班の板垣泰介二水。
この板垣は、トラック島への出港前に主計科に配属になった新兵だった。
ところが、身長160㎝にも満たない小さな体ながら、その怪力には目を見張るものがあった。出身は佐賀の漁師で、応召で入ってきた男だった。
海兵団では、当然、戦闘配置を希望するのかと思ったら「主計科」に熱望と書いてきた…と言うので、当時の班長が理由を聞くと、
「いやあ、除隊した後、帳簿の一つも付けられれば商売が上手くいくと思いまして…」
と悪びれないので、海兵団では希望者も少なかったこともあって配置したそうなのだ。
この男を見つけたのは、やはり真一郎だった。
新兵にしては度胸がよく、率先して作業をこなす板垣を見て、真一郎は、「こいつは、面白い。足腰は強いし、度胸もある…」
とすぐに相撲メンバーに入れたのだった。
話してみると、体だけでなく頭もいいので、結構、業師として使えるかも知れなかった。
次鋒は、保安班の中野二郎二曹。
中野は、何度も真一郎を助けて、事件解決に導いてくれた名参謀だった。
本来は、経理事務担当の下士官だが、日頃から体を鍛え体幹ならだれよりも整った男だった。それに、瞬発力は並外れていた。体は中肉中背だったが、この隠されたスピードで相手を翻弄できるかも知れなかった。
中堅は、酒保担当の山本謙一一水。
山本は、体が大きく力持ちだった。
酒保倉庫から荷物を運んで来るにしても、この男は米俵2俵を軽々と運ぶ怪力の持ち主だった。この男だけは、他の分隊からもマークされており、その押しの強さは捨てがたい。
副将は、やはり烹炊班の工藤弘文一曹。
工藤は、年齢は20代後半になっていたが、相撲歴は長く、子供のころから相撲を学ぶ、主計科相撲班のコーチ的存在だった。青森県出身で、既に妻帯し子供もいる。
工藤は、18歳で海軍を志願し主計科一筋10年というベテラン兵曹だった。
烹炊班の主のような存在だったが、相撲理論は抜群で、体は小柄だが、その筋肉は相撲でできている。
そして大将は、経理事務班の分隊士である須藤与一郎少尉。
元銀行員で、東京帝国大学相撲部出身の猛者だ。短期現役士官として志願し、海軍経理学校で学んだ男だった。
普段は厚い眼鏡をしており、算盤が得意だったが、その相撲も緻密な計算でとる男だった。
最後に、補欠兼監督は、真一郎自身が務めることになった。
真一郎は背が高く手も長い。
陸上競技に親しんできたせいか、最初のころはうまく腰が落とせなかったが、稽古をするうちに上手くなり、その長い腕で相手を捕まえると、意外と押しが強く、投げ技も得意とした。しかし、実力からいえば、6番手が精々だろう。
主計科では、士官も入ったメンバーで、主計長も密かに期待していた。

真一郎は、そんなに練習時間が取れないことを考慮して、一人一人の特長を生かした戦い方で臨むことにした。稽古は、主に夜の巡検後になる。これは、どこの分隊も同じで、集まって稽古する時間は、この時間しかない。要は、睡眠時間を削って練習をするのだ。
そうは言っても、相撲の選手は、各分隊の代表であるから、どの分隊でも「特別作業」と称して、作業中に休息を取らせたり、間食をさせたりと工夫をしていることは、承知している。
主計科でも、昼食後には、特別に牛乳や卵、チーズなどの高カロリー食品を食べさせたり、高タンパクの鶏肉を振る舞ったりして、主計科らしい対策を練っていた。
相撲に選ばれた連中は、それだけでも大喜びである。
真一郎は、夜になって上甲板に主計科相撲部員を集めると、それぞれの役割に応じた戦い方を指示したのだ。
まず、先鋒の板垣二水は、元漁師で足腰が強い。
その上、小柄で俊敏である。そこで、相手の懐に飛び込むや否や、腹の下に低く潜り込み、「足を取る」作戦を指示した。そして、この動作を繰り返して体に覚え込ませるのだ。
相手はどのみち、ほとんどが初顔合わせで、取り口を知らない。そこにつけ込む作戦というわけだった。
やらせて見ると、板垣は本当に俊敏で、足腰が強く腕力もあるので、この奇襲作戦の確率は高い…と確信が持てた。
次鋒の中野二曹は、仕事でも洞察力に優れ、人をよく見ている。この男も瞬発力があり、体のバランスは抜群なのだ。
そこで、そのスピードを生かして、立ち会いとともに、まず相手の胸を突き、相手が仰け反ったところで後ろまわしを掴んで「脇を取る」作戦を指示した。相手の脇を取れば、どんな大柄な相手でも半身となり、こちらが絶対的に有利になる。そこで腰をさらに落として「足を払う」のだ。
この攻撃には、リズムが必要なので、音楽に合わせるように何度でも「突く・脇を取る・足を払う」動作を繰り返させた。
本人も体が上手く反応するようで、この戦い方に自信を深めていった。
中堅の山本一水は、典型的な相撲取り体型だった。
体が大きく力持ち。
こういう型の相撲取りには、正攻法が一番似合う。とにかく、大きな体を生かして相手を「ぶちかます」しかない。そして、相手が一歩でも下がったら次は「てっぽう連射」で突きまくるのだ。その太い腕で連射砲のように突きまくって相手を土俵の外に「突き出す」ことを指示した。
それには、柱に向かってひたすら「てっぽう」の稽古しかない。
山本一水は、作業中も時間が空けば、いつでも鉄の柱に向かって「てっぽう」を繰り返した。
副将の工藤一曹は、本格的な相撲を身につけた主計科唯一のプロである。
ただし、それほど若くはないので技で勝つことを指示した。工藤の技は、多彩で、内無双から裾払いまでなんでも器用にこなした。その上、体の柔軟性は相撲部員の中で一番である。これなら、土俵際の「うっちゃり」も十分できるだろう。稽古をしてみると、どんな悪い体勢になっても、簡単に土俵を割ることがない。その「技と柔軟性」が持ち味だった。
階級は一曹だったが、この大会に限り、真一郎は工藤一曹を主計科相撲部の主将に任命し、稽古中は階級を捨てることを約束させていた。
そして大将の須藤少尉である。
須藤少尉も大学相撲を経験した猛者の一人だった。厚いレンズの眼鏡を外すと、なかなか男前で、みんなから「色男…」と冷やかされていた。
計算の得意な男で、須藤も玄人はだしの相撲を取る。そこで、真一郎は、工藤にみっちり鍛えさせ、多くの技を学ばせることにした。中でも「内無双」は、この須藤がやると結構、決まる確率が高かった。
「内無双」とは、自分の上手で相手の足の膝の内側を掬い上げ、体を捻って相手を倒す技のことを指す。須藤は、相手の胸に頭を付けると、一瞬腰を落とし、右手で相手の左膝の内側を外に払うと、そのまま左のまわしを捻り、相手のバランスを崩して倒すのだ。
やらせて見ると、本人も「これは面白い…」と何度も同じ動作を繰り返すのだった。
こうして、主計科5人の技は決まったが、まだ一人、どうしようもないのがいた。それが、補欠兼監督の真一郎である。
真一郎は背が高く、手足が長い。その分、相手のまわしに楽々と手が届くのだが、如何せん、他の連中より腕力が足りない。足腰は陸上で鍛えたので強いのだが、足が長い分、相手に腹の下に飛び込まれやすく、欠点が多いのだ。
真一郎自身、仕方のないことなので、「おい、みんなけがをするなよ!」と言うのが精々だった。
真一郎は、自分が出ることより、この5人が力を出せるよう主計科分隊長としてできる限りの支援をするつもりだった。
他の分隊長や主計長も「ああ、何でも使ってくれ!」と最大の援助を申し出てくれているので、この際、大いに甘えることにしたのだ。
そのために、わずかな期間にもかかわず、彼らの体は一段と大きく引き締まった。こうして、主計科相撲部は、大会に向けての準備を調えたのだった。

大会は、9月に入ったばかりの日曜日に行われた。
戦争中だというのに暢気と言えばそれまでだが、昭和17年という年は、連合艦隊の各将兵には「負けている…」などという気分はまったくなく、ミッドウェイに敗戦も、
「何だ、機動部隊の連中はだらしがないな…」
という程度で、深刻に考える者はいなかった。もし、敵艦隊が現れたら、得意の雷撃戦と砲戦でアメリカ艦隊など粉砕できると考えていたのだ。
確かに、連合艦隊各艦の練度は高まっており、当時の技術水準で言えば「世界一」だっただろう。ただし、この時期、アメリカ国内では新型兵器の開発に余念がなく、この科学力を生かして日本軍を殲滅出来る…と考えていたのだ。
戦争は科学の優劣だ…という単純な構図に、このときの日本人はだれ一人として思い浮かばなかったのは、愚かなことだった。

南洋の空は蒼い。
晴れ渡った南の風景を見ていると、戦地にいるとは到底思えなかった。
それに、大和主催の「相撲大会」となれば、艦内は最高の盛り上がりを見せていた。
来賓として連合艦隊司令長官の山本五十六大将も顔を見せ、将兵にニコニコと笑顔を見せるのだった。
参加分隊は30分隊。
大会は、トーナメント方式の勝ち抜き戦である。
個人戦もあったが、盛り上がるのは分隊対抗の団体戦に尽きる。
30分隊が出ているので、優勝するには5回全部勝たなければならなかった。だからこそ、各分隊生え抜きの精鋭が揃っているのだ。
特に、この大和の相撲部員は、連合艦隊の中でも屈指の猛者揃いで、この大会の優勝分隊が、大和の代表として連合艦隊主催の相撲大会に出ることになっていた。
これまで、数々の優勝旗を大和にもたらした栄光は、今でも大和艦長室に飾られている。
優勝候補は、今年も兵科の主砲分隊である。
大和の主砲は世界一の大きさを誇り、それに携わる隊員は各海兵団成績上位者から選ばれるのが常だった。
体力、気力、頭脳…すべてにおいて秀でた兵隊が大和の主砲分隊に配属され、たとえ二水であっても、「大和乗り組み、主砲分隊!」と申告するだけで、他艦の下士官などは道を開けるとまで言われていた。
それに、この連中は出世も早く、大和で1年も勤務すると、海軍砲術学校などに優先的に推薦され、下士官全員が特技章や特別善行章を袖に付けていた。 同じ特技章でも主計科のそれでは、あまり幅が利かず、他艦の連中から道を譲られたことはない。
それくらい、主砲分隊は大和の象徴でもあった。
主計科分隊は、それでも1回戦、2回戦を突破し、今大会の台風の目になりつつあった。
しかし、3回戦まで来ると主計科の相撲部員にも疲れの色が見え始めていた。1回戦こそ4勝できたが、2回戦は大将戦までもつれ込み、須藤少尉が後のないうっちゃりで勝利したが、それでも、薄氷を踏むような戦いだった。
3回戦は、飛行科分隊である。
飛行科は、零式観測機7機を保有する分隊だったが、ここの整備員は強い。
重量のある飛行機やカタパルトを操作するので、否が応にも力は付く。だから、この分隊は力で押してくる相撲を取るのだ。

先鋒に烹炊班の板垣泰介二水。
立ち会いで相手の胸に飛び込んだ板垣は、前褌を取ると一気に引きつけると、そのまま相手を土俵際まで攻め立て一気に押し出した。得意の「足取り」は出なかったが、あの引きつけの強さなら安心できる。
先鋒の1勝で、幸先のいいスタートを切ったが、次鋒の中野巌二曹が、相手の巨漢の整備兵曹に両まわしを深く取られ、これは一気に押し倒された。
中堅の山本健一一水は、立ち会いから押して押して押しまくったが、最後の土俵際でうっちゃられ、前のめりで土俵下に転落してしまった。
これで主計科分隊は、1勝2敗。いよいよ、後がない。
副将の工藤弘文一曹は、本分隊の最年長だったが、常に冷静さを保ち、その技術は一流だ。
腰を屈め、相手の腹の下に潜り込むと、裾払いというプロ顔負けの技を繰り出して、相手を土俵中央に転がして見せた。
これで2勝2敗。最後の大将戦である。
これに勝てば、いよいよ準決勝戦になる。真一郎も、補欠ながらも必死に祈るばかりだった。
そして大将は、真一郎直属の部下である須藤与一郎少尉だ。
ところが、ここでアクシデントが起きた。
須藤は、その若さと緻密な動きで相手を翻弄したかに見えたが、相手の大将も必死である。二人はもつれるようにして投げを打ち合い、土俵下に落下したのだった。
勝敗は?
土俵下にいた全員が固唾を呑んで見守っていると、主審の連合艦隊司令部付きの少佐がサッと須藤に軍配を上げたのだった。
ワーッ!という喚声が轟き、辛うじて主計科分隊は3勝2敗で勝利することができた。どうやら、相手の大将が下手投げを打ったとき、既に足先が土俵の外に出ていたらしく、下で見ていた副審がそれを確認して手を挙げていたのだ。
「よし、やったあ!」
真一郎がそう歓声を上げたが、須藤が起き上がってこない。
須藤は、副将の工藤一曹の肩を借りて土俵に上がり、勝ち名乗りを受けたが、その表情は苦痛に歪んでいた。
須藤は、投げの打ち合いになった際に足を捻り、自力では立てないほどの負傷を負ってしまったのだった。

こうして、主計科分隊の相撲大会は実質、幕を閉じたのだった。
結局、準決勝戦は主砲分隊との戦いになったが、勝ったのは工藤一曹だけで、大将の代わりに出た真一郎は、向こうの上曹に長い足を取られて土俵下まで放り投げられ、為す術もなく負けてしまった。
決勝戦は、やはり予想どおり砲術科の主砲分隊と機関科の機械分隊となった。そして、この年は、主砲分隊に凱歌が上がったのである。
主計科分隊は3位となり、副賞に名酒一升を副長から受け取ったのだった。
それでも、万年ビリの主計科分隊が奇跡の3位という結果を収め、久しぶりに主計科分隊は、大騒ぎとなった。
その夜は、篠原主計長もやってきて相撲部員の労を労い、夜遅くまで痛飲したのだった。

こうしてトラック島での平和な時期を過ごした真一郎たちだったが、その年の秋には南太平洋海戦が起こり、次いで、ガダルカナル島争奪戦、度重なるソロモン島沖海戦と続く中で、多くの仲間が死んで行った。
真一郎は、南太平洋海戦が終わると、日本に戻され法務官として実戦部隊から離れることになったので、大和のその後の戦いには参加していない。
この5人の相撲部員は、その後の戦闘で全員が戦死した。
この相撲大会の主計科関係者で、生き延びたのは、真一郎と副長だった野村中佐だけとなった。野村中佐は、この後、駆逐隊司令としてレイテ沖海戦に参加したが、運良く乗艦した駆逐艦が生還したことで、命を全うすることができたそうだ。
一緒に喜んだ篠原主計長も亡くなり、真一郎の手元に残ったのは、3位の記念の写真一枚だけとなった。

戦後、経理事務をしながら働いて、大学の夜間部に入り直した真一郎は、苦学の末、新しく制度化された司法試験に合格し、数年の修行の後、実家で小さな弁護士事務所を開いた。
この時代、大きな弁護士の依頼などあるはずもなく、小さな町の中小企業の顧問弁護士などをして生計を立てていた。それでも、経理事務に明るい真一郎は、税理士のような仕事もこなしていたので、重宝がられていた。
その真一郎の小さな事務所の本箱の中には、「昭和17年9月3日 軍艦大和相撲大会」と書かれた写真が一枚、粗末な額に入れられて飾られていた。そこには、あの5人の相撲部員と補欠の真一郎、それに篠原主計長と野村副長が写っており、真一郎が一応監督だったので、3位の表彰状を持って笑顔を見せていた。
その笑顔は、屈託のない表情で、まるで戦時中とは思えない明るさがあった。
真一郎は、それをときどき眺め、フッと笑みを浮かべるのだった。

事件ファイル №6 長官の恋

真一郎の軍艦大和勤務は1年に満たなかったが、司令長官の山本大将と話をする機会は意外にも早く訪れた。それは、大和が連合艦隊旗艦としてトラック島に停泊すると、山本大将は積極的に各方面への視察などに動かれるようになったからである。
もちろん、自分が旗艦としている大和は、乗艦するや否や、すぐに野村副長を呼び、艦内を見たい…と司令部の参謀を一人か二人を連れて歩かれていた。
山本大将は根っからの大砲屋だったが、航空機の発展にも尽くされた軍人で、航空母艦赤城の艦長や航空本部長も歴任し、自他共に認める「飛行機屋」の一人になっていた。
海軍では、その専門を指して「水雷屋」とか「大砲屋」などと言い合い、自分の経歴を誇示していたのだ。
まあ、一番羽振りがいいのが「大砲屋」で、大艦巨砲主義といわれた時代が長く続いたために、海軍兵学校を出て、砲術科専修学生そして海軍大学校、戦艦の艦長と進むのがエリート街道と呼ばれていた。
そこへ行くと、主計科将校などはまったくの傍流であり、海軍大学校は参謀職を養成する機関であり、主計科には関係ない存在なのだ。主計科の中には、東京や京都の帝国大学で経営学を学ぶ学生もいたが、それだけのことであり、いくら昇進しても「海軍主計中将」で停年である。兵科将校のように、海軍大将や元帥になることはない。
山本大将が、自分で「飛行機屋」と称しているが、飛行学生出身ではなく、
日本の航空機産業を発展させ、
「これからの戦いは、航空機中心となる」
という持論を持っていたせいもあるが、本来は、立派な「大砲屋」なのだ。
この新鋭艦大和にも非常に興味を持たれ、その知識欲は旺盛だった。
真一郎が大和の艦内で見ている山本大将は、どこにでもいるような小柄な初老の男で、慣れてくると、フラッと一人で艦内を見て回ることもあった。
連合艦隊司令長官で海軍大将の軍人が、あちこちと動き回るので、司令部では大慌てだったが、真一郎にはそれが可笑しくてならなかった。
山本長官の動きに合わせて参謀たちが右往左往するので、見かねた宇垣参謀長が高柳艦長に相談して、
「艦内を歩くときは、大和に詳しい人物をお願いしたい…」
という申し出があり、だれもが尻込みする中で、真一郎に白羽の矢が立った。
とにかく、山本大将は饒舌な人で、ところ構わず質問してくるので、部下や随行の人間は困ってしまうのだ。
この大和についても、着任するなり、
「大和の主砲は、どのくらいの威力が想定されているんだね?」
とか、
「大和一隻で、航空機何機と戦えると思うかね?」
などと思いつきで質問するので、みんな閉口してしまっていた。
そうなると、一番うってつけの部署が、主計科なのだ。
主計科なら、そんな戦闘に関することは、たとえ知らなくても専門外…として通ってしまうし、長官も、主計科なら質問も控えるだろう…という考えもあったようだ。
こうして、面倒臭いことは、みんな主計科に持ち込まれるのが常だった。
まして、真一郎は、「内務分隊長兼保安班長」という役目柄、艦内を見て回ることが多く、一カ所にじっと座っていることはほとんどなかった。それが幸いしたのか、野村副長は、すぐに真一郎を呼ぶと、嬉しそうに、
「草野大尉。すまんが、山本長官の案内係を頼みたい…」
と言うのだった。
真一郎が、
「これは、命令ですか?」
と尋ねると、副長は、
「まあ、そう取ってもらっても差し支えない。内務分隊長の草野大尉でよろしければ、ご案内させます…って、もう宇垣参謀長には言ってしまったよ…」
そう言って、カラカラと笑うのだった。
真一郎は、ムッとした顔を見せて、
「副長。しかし、これは連合艦隊と副長への貸しですから、よく覚えておいてください…」
と言うや否や、
「その代わり、最近、酒保に入ってくる嗜好品が少ないような気がしますので、副長から連合艦隊に掛け合ってください」
「どうも、司令部の連中の消費が多すぎるようですから…」
と、釘を刺すのを忘れなかった。
(どうせ、そうなることは、眼に見えていたさ…)
と真一郎は思っていたが、仕方のないフリをするのも、熟練主計科分隊長の腕の見せ所だった。
それに、長官の案内となれば、下士官というわけにもいかず、そうかと言って、他の分隊長クラスでは荷が重い。そこで、艦内の治安を預かる内務分隊長…ということになるのは、自然の流れなのだ。
真一郎は、
「わかりましたが、期限は2週間とさせていただきます。それ以上は、こちらの仕事に差し障りがありますので、それで了解して戴けるなら、喜んでご案内いたします…」
そう言って、期限を切ってもらった。そして、各部署が作業中は、兵員にみだりに声をかけないこと、挨拶はできる限り簡略化させてもらうことなどを条件に、
「せっかくですから、乗組員が常日頃、どのような態度で作業しているのか、実態をご覧いただきます…」
と注文を付けた。
宇垣参謀長は、大和からの注文に難色を示したが、当の山本長官は、
「おう、それはいい。私も分隊長任務はかなりやってきた。各分隊の生の姿が見てみたい…」
そう答えられたので、真一郎は2週間だけの「長官付き副官」任務を命じられたのだった。

前日の夜に長官室に呼ばれた真一郎は、そこで始めて山本長官と話をすることになった。
浴衣に着替えられた長官は、「まあ、一杯だけいいだろう…」と、冷えたビールを真一郎のグラスに注ぐのだった。そして、
「草野大尉。君のことはよく知っておるよ…」
「海軍経理学校26期の首席で、本艦の内務分隊長兼保安班長…だったな」
「確か、東京の府立四中から経理学校に進んだんだったな…」
「君の仕事ぶりは、連合艦隊内でも有名だよ…」
「浜風、阿武隈と随分働いたそうじゃないか?」
「みんなが、主計科分隊長でありながら、その艦の艦長よりも偉い男だ…って言っているのを聞いたことがある」
そう言って、笑顔を真一郎に見せるのだった。
真一郎にしてみれば、迷惑千万な話で、(冗談じゃない…)と腹立たしくもあったが、長官の前で顔に出すことも出来ず、
「ん? 困りましたな…」
と苦笑いをするのが精々だった。
山本長官は、こうして人をからかい、密かに楽しむところがあるらしい。
まあ、昔からギャンブル好きでは有名な人だったから、こうした言い方も、相手を困惑させる手段なのだろう。
真一郎は、山本五十六という人物の「人の悪さ」を少しだけ垣間見る思いだった。

翌日から、真一郎は作業開始時刻から1時間、山本長官のお供をして艦内の巡検に回ることになった。
当然、各部署には前日の夜に「連合艦隊司令長官の巡検について」という通知文を出しており、①作業を中断するな ②敬礼は簡略にせよ ③言葉を交わすな ④特別なことをするな…といった内容の徹底を図った。
分隊長クラスの中には、
「だが、相手は司令長官だぞ?」
「本当に、こんなんでいいのか?」
という疑問が出されたが、真一郎は士官室で、
「これを無理と言うのであれば、長官巡検は中止となります。連合艦隊では、他艦においても、長官巡検を実施したいとの意向ですので、大和での巡検実施が今後のモデルとなります。それを承知されたい…!」
と真一郎にしては珍しく語気を強めて申し渡した。
各分隊長は、
(内務分隊長が言うのだから、従おう…)
ということになった。
実際、長官と二人だけで各部署を見て歩くと、どの部署でも黙々と作業に集中し、今まで以上の意気込みが見られたのだ。
(まあ、長官直々の訪問だからな…。張り切らない方が無理か?)
そう思うと、人間の素直さがかわいらしくもあった。
長官は、その都度、真一郎に質問をぶつけたが、真一郎は、それを丁寧に答えるのだった。それは、艦長や副長などでは知り得ない情報が含まれていて、山本長官自身が、いたく感心するのだった。
(この草野大尉は、並の男ではないな…)
山本長官の興味は戦艦大和から、この案内をしてくれる「草野真一郎」に注がれるようになった。
そんなことを露とも知らない真一郎は、毎日、下調べを念入りに行い、山本長官を案内することに苦労をしていた。それに、1時間と言いながらも延長することは度々あり、酷いときには30分も延びて真一郎を困らせた。
真一郎にしてみれば、案内ルートを計画するのは自分だったし、毎日1時間という時間の限りであれば、それほど難しい作業ではなかったが、長官のいいように時間を延ばされると計画が狂い、真一郎も困ることがあった。
それでも、臨機応変に立ち回ることができるのも、真一郎の頭の回転のよさだったが…。
真一郎は、毎日、職種の違う部署を回るのではなく、似通った部署を中心に巡検しているので、調べることも限定されていた。
慣れてくると、山本長官のペースにならないように先手を打つようになり、密かな心理戦が二人の間で行われるようになっていたのだ。
そして、いつの間にか、真一郎が主導権を握るようになり、長官巡検のペースは、真一郎の勝ちになった。
そこは、これまで培った「内務分隊長」としての実務がものをいったのである。
内務分隊室の書庫には、各部署の機密文書がファイル化されており、それらは、形式上は公文書だが、内務分隊独自で作成した「機密ファイル」で「軍機」となっている。
海軍で「軍機」の朱肉が押された書類は、艦長の命令を受けた者しか閲覧することはできなかった。特に「人事考課」に関する人物評価は、その人間のハンモック・ナンバーにも左右され、昇進に影響するのだ。
海軍での人事評価は、一人の評価で決定はされない仕組みになっている。
たとえば、真一郎の評価は、最初に乗り込んで駆逐艦「浜風」、軽巡洋艦「阿武隈」、そして戦艦「大和」の3人の艦長の評価を照合して、海軍省人事部で評価されるのだ。
詳しく言うと、浜風では、「明朗で、部下思いである」と書かれているとする。ところが、阿武隈では、「部下に気を遣い、上官らしくない」と書かれていると、その評価はまったく違うものになる。
そして、大和では、「部下を掌握して、指揮官としての資質が高い」と書かれていれば、それは、「阿武隈」の評価が不当という判断になるという仕組みなのだ。
人は自分の好みによって人を評価するきらいがあり、なかなか、冷静に分析して判断することが難しいものである。
この山本長官などは、まったくふた通りの評価が下される典型的な人物のように真一郎には見えた。
これまで、どんな評価を受けてきたかはわからないが、それでも海軍の重要ポストにばかり就いてきたのだから、評価が低いはずがない。
要するに、一人の人間が、偏った評価をしたとしても、3人が同じならそう判定されるが、大きく違えば、どこに原因があるのかを探るのが海軍の評価方法なのだが、真一郎は、敵であるアメリカ軍は、どんなふうに人物を評価するのか知りたいと思うのだった。
日本軍では「◎」でも、アメリカ軍では「×」かも知れない。
そう思うと、最後は、「自分の眼で確かめるしかない…」と自分に言い聞かせるのだ。
だからこそ、この「機密ファイル」は重要なのだ。
自分の眼で見るだけでなく、このファイルに書かれていることを覚えておくだけで、その人間がよく見えてくる。
一面的ではない、多角的な視野で人を見るのも楽しくはあった。これも、推理小説好きの真一郎らしい思考なのだ。
そして、この「機密ファイル」には、艦長から二等水兵までの経歴から功績、家族構成や性格まで知り得た情報が整理されていたのだ。
ただし、この機密ファイルが作成できたのもこのころまでのことで、戦争が激しくなると軍艦の多くは太平洋に沈んでしまい、人事評価どころではなくなったことも事実だった。

この「機密ファイル」は、それを管理する内務分隊長とそれを所管する副長のみが艦長から閲覧することを許されており、その存在自体が「機密」扱いになっていた。
真一郎は、大和に乗艦してからは、歴代の内務分隊長が作成したこのファイルを読み続け、今ではだれよりも大和艦内の乗組員のことについて知る一人となっていた。
そこには、過去の過失などのデータや性癖なども記載されており、それらがすべて「人事考課」に反映されているわけだから、内務分隊長に逆らうような者がいるはずがない。
だからこそ、「内務分隊長兼保安班長」という厳めしい肩書きを持つ真一郎は、「清廉潔白を貫かねばならない…」といった信念を持っていた。それが、山本長官には面白い男に見えたのだろう。
こうして2週間もの間、真一郎は山本長官と親しく接し、その人柄や思想を知ることになるのだった。

そして、最後の日。
山本長官は、
「巡検後に長官私室を訪ねるように…」
と、真一郎に声をかけてくれた。
「草野大尉。大変世話になった。大和の乗組員だけでなく、君の仕事ぶりもよくわかった。ありがとう、参考にさせて貰うよ…」
そう言うと、素直に頭を下げるのだった。
海軍大将が遥か下級の海軍大尉に頭を下げるのだから、真一郎自身が恐縮してしまった。
「と、とんでもありません。お役に立てば、何よりでした…」
そう言って、敬礼をする真一郎だった。
そして、最後に、
「巡検後に、君にお礼がしたい。それと…、頼みがあるんだが、いいかね」
そう言われて、真一郎は「頼み?」が気になったが、それはそれでいいだろう…と、
「わかりました。では、夜、お伺いいたします」
そう言って、山本長官を連合艦隊司令部に送り届けると、主計科分隊室に戻るのだった。

この間、真一郎には、ひとつ腑に落ちない山本長官の言動があった。
それは、上甲板を歩いていたときのことだった。
長官から、いつものように真一郎に質問があった。
それは、
「なあ、草野君。この戦争、君はどう思う。主計科将校として、率直な意見を聞かせてくれないか?」
というものだった。
「この戦争…」
そう言われても、返す言葉が見つからない真一郎は、言葉を濁した。
「はい。全力を挙げて米英をアジアから駆逐し、聖戦を完遂するのみと心得ておりますが…」
と答えると、山本長官は険しい顔をして、
「そんな綺麗事じゃない。この戦争の行く末だよ…」
「君は優秀な人間だ。それに冷静だ…。そんな君だからこそ、率直な意見が聞きたい…」
「こんなことは、聞くべきじゃないのだろうが、私も迷っている…どうだろう?」
そこまで言われて、真一郎は自分の思っていることを口に出した。
「では、申し上げます…」
「この戦争の勝利は…ない…と確信しております」
それは、衝撃的な発言だった。
山本長官は、(ん…?)という顔をして、真一郎を見詰めていた。
「私なりに総合的に判断すれば、ともかく国力的にアメリカの生産力には日本は到底及びません。それに、科学技術もアメリカの方が数段上です…」
「さらに言えば、アメリカ兵は、この戦争に対して戦意を燃やし、何としても負けまいとする必死さが日本の将兵を上回っているやも知れません」
「私は、早々に戦争を終わらせるためにも、早い段階での講和を望みます」
そう言うと、大和の舳先から南洋の海を凝視した。
しばらく、山本長官は黙っていたが、
「やはりな…。君はさすがに優秀な男だ。この戦争が終わったら、君のような人間が必要になるだろう…。そのときは、頼んだぞ!」
そう言って、固くなっている真一郎の肩をポンポンと叩くのだった。

(長官は、なぜ、あんなことを俺に聞いてきたんだろう?)
それに、「自分も悩んでいる…」と言っていた。
それは、ハワイ攻撃やミッドウェイ攻撃のことを後悔しているのだろうか?
真一郎にわかることは、山本長官自身に、戦争に勝つという自信がないことだった。
実際の指揮を執る人間が迷えば、部下も迷う。そして、戦意を失った人間にどんな兵器を与えても、勝利は奪えないのが戦というものなのだ。
(この戦争…、負けるのだろうか?)
あの一瞬だけ見せた山本長官の自信無げな表情が、真一郎の脳裏に焼き付いて離れなかった。

その晩、山本長官の私室を訪ねると、山本長官は既に寝間着の浴衣に着替えており、
「草野君。こんな恰好で失礼するよ…」
「私はね、長岡生まれの田舎もんだから、洋服よりこんな浴衣や丹前の方が楽なんだよ…」
「君は、軍服のままですまないね…」
そう言うと、既に従兵は帰したようで、長官自らがビールを運んできた。
真一郎が、
「あ、そんなことは、私がやります…」
と言うのだが、山本は、
「なあに、家じゃ、いつも私が女房や子供の給仕をするんだ。それが、山本流かな…?」
その手つきは、手慣れた風で、話していることも満更嘘ではないようだった。ただ、あまり家族の話題はしないことからも、奥さんとはあまりうまくいっていないのかも知れない…と真一郎は感じていた。
この日の山本は饒舌で、この戦争のことや戦艦大和で見たことなどを熱く語って聞かせた。それに、自分のなくした左手の中指を見せ、
「私が、日本の傷痍軍人一号だ…ということになっているらしい…」
「この指を吹き飛ばした砲弾の欠片が、胸にでも刺さっておれば、即、戦死だったがな…」
そんなことを言いながら、じっと自分のなくした指を見詰めるのだった。
そんな他愛のない話で30分も過ぎたころ、山本は、奥の机の中からひとつの小箱を持ってやってきた。それは、大きな南洋真珠の入った桐の小箱だった。それを真一郎に見せると、
「なあ、綺麗な真珠だろう…」
「これが天然で採れるんだ。それにしても不思議だな…。どうしてこんなにも丸くできるのか、私にもわからん」
「私は、国民をこんな戦争に巻き込んでしまった責任がある。それは、悔やんでも悔やみ切れん…」
「あのとき、私が絶対にできない…と言い続けておれば、戦争にならずにすんだのかも知れん。私には、その勇気がなかった…」
「私は、みんなに申し訳ないんだ…。本当にすまないと思っている…」
酒が回ってきたのか、そんなことを呟く長官の姿に、真一郎自身が驚くと同時に、不安に駆られるのだった。
それからしばらく間を置いた後、顔を上げた山本長官が真一郎にこんな話を始めた。
「草野君。実は…、頼みというのは他でもない…。この真珠のことなんだが…」
「真珠?」
「ああ、この真珠…を、呉にいる八千代という女性に手紙と一緒に渡して欲しいのだ…」
「はい?」
真一郎は、まさか、山本長官の私的なことを頼まれるとは思いもよらなかった。
「しかし、私は大和の配置で、ここはトラック島ですが…?」
すると、山本は、
「実は、君には近々、転勤命令が出ることになっている…」
「転勤ですか?」
「ああ、異動先は、呉鎮守府の法務部だ…」
「ここの内務分隊長兼保安班長を立派にやり遂げた君だ。今度は、呉で思う存分働き給え」
「君のような優秀な主計科将校は、もっと大きな場所で働くべきだ…」
真一郎は、まさか、この「真珠」のために、自分を呉に戻そうとしているのではないか…と疑った。
しかし、冷静に考えてみると、そこまで連合艦隊司令長官が口出しするはずがない。きっと、事前に知った長官が、この小箱を託すのに相応しいかどうか、自分を試したのだろうと思った。
「それで、長官は、私という人間を確かめたのですか?」
そう問うと、
「ああ、そうだ…。だが、それだけじゃない」
「私は、人生の最期に自分の気持ちを吐露する人間が欲しかったんだ…」
「偽りの海軍大将なんかじゃなくて、長岡の一人の男、人間山本五十六としてだ…」
「それには、君という人間を見極めた上でなければ話せないし、こんなことは頼めないからな…」
そう言うと、今度はウィスキーのボトルからグラスに酒を自分で注ぐと、一気に飲み干すのだった。
真一郎は、
「わかりました。しかし、事情を聞かなければ、私もお引き受けすることはできません。それでよろしければ、お引き受けいたしましょう」
そう答えると、山本長官は顔を真一郎に向けて、話し始めた。

山本長官には、家族があり、妻と3人の子がいた。
しかし、家に帰ることはあまりなく、各基地周辺に馴染みの女「インチ」がいた。
それは、どの将校でもよくある話で、珍しいことではない。
だが、山本長官は、呉に残した「八千代」こと、島田千代に惚れてしまったというのだ。二人は、山本が国内にいるときは逢瀬を重ね、山本長官が東京にいるときは東京に出て来ており、呉に行けば一緒に呉に付いてきた。
八千代は源氏名で、幼少のころから置屋に預けられた新潟の人間だということだった。
「それも、長岡の女なんだ…」
「今から、10年以上も前になる。東京の料理屋で働いていたとき、馴染みになり話すうちに同郷だということがわかった」
「私とは、30近くも違う若い娘だった。最初に会ったときは、22、3だったろうか?」
「最初のうちは、同郷の娘が東京で苦労しているから…と、援助してやるつもりで、その料理屋では必ず呼んで贔屓にしていたが、そのうち、男と女の関係になっていた」
「私たちは深い関係になったが、海軍の将官と小料理屋の仲居では、一緒になれるはずがない。それに、俺は所帯を持っている」
「そうか…と言って、妾にする勇気は私にはなかったんだ…」
「まあ、妾なら、それほど騒ぎにはならないだろうが、若い妾を囲い、いい気なものだと陰口を叩かれるだろう」
「それに、こんな五十面の男の妾だぞ。若い女が、可哀想じゃないか…」
「だから、いい人ができたら嫁に行け…と言っていたんだ」
「だけどな。八千代は、私に何通も手紙を寄越すんだ。そのたびに、私は切なくなる…」
「草野君。変だろ、可笑しいだろ…?」
「こんな50過ぎの男が、若い娘に恋をして女々しいことを言っているのだ…」
「それも、こんな非常時にだぞ…。笑ってくれ!」
そこまで話すと、山本長官の目から涙が溢れるのを真一郎は見逃さなかった。
「長官…」
真一郎は、30を過ぎた男だが、今まで女性にこれほどまでに恋をしたことはなかった。出会いがなかった…と言えばそれまでだが、50を過ぎた立派な男が少年のように純情な恋をしていることに感動すら覚えていた。
すると、山本長官は、
「私は、おそらく、二度と日本には帰れんだろう。ここが、私の墓場だ」
「私は、それで構わんが、この戦争は、とんでもないことになる…」
「私が始めてしまった戦争が、日本を破滅へと導くのだと考えると、私は生きてはおられんのだ」
「だが、八千代のことだけが気がかりだ…。すまん、愚かな男の気持ちを察して頼みを聞いては貰えまいか?」
山本長官は、そう言うと、頭をテーブルに擦る付けるようにして真一郎に哀願するのだった。

結局、真一郎は、この真珠の小箱と山本の遺書を携えて転勤したのは、それからふた月を過ぎた昭和17年の晩秋のころだった。
この後、トラック島を始めソロモン海域は日米の艦艇が入り乱れた主戦場となり、多くの将兵が戦場に屍を晒した。
特にガダルカナル島の攻防戦は、連日のように続き、日米戦の天王山といわれたが、結果、日本軍の撤退により、間違いなく日本の敗戦は刻々と迫っていったのだった。
山本長官は、翌年の4月8日、前線視察中にアメリカ陸軍航空隊の奇襲攻撃を受けて戦死した。そして6月5日、日本で国葬が営まれ、元帥となった。
真一郎は、山本戦死の報を受け取ると、(やはりな…)とその事実を淡々と受け止めていた。
(ひょっとしたら、長官は自殺したのかも知れない…)
とも考えたが、それは言わない方がいいだろう…と思った。
あの真珠の小箱と遺書は、間違いなく「八千代」こと島田千代に手渡したが、千代は、それを受け取ると、それほどの感情を昂ぶらせることなく、
「すみません。遠いところからわざわざ…」
そう言ったきり、ぺこりと頭を下げると、また、置屋の奥に引っ込んでしまった。
真一郎は、そんな八千代の胸中を図る術はなかったが、それ以来、戦後も八千代に会うこともなく、消息も耳にしなかった。
八千代にとって山本五十六という男は、どういう存在だったかはわからないが、男の純情ほどには、女は純粋にはなれないかも知れないな…と思うのだった。
そして、山本長官が心配していたことが、現実となって、日本を苦しめることになるのは、もう間もなくのことだった。

最終ファイル 大和の悲報

昭和20年4月。
真一郎は、呉鎮守府の法務部に法務官として勤務する日々を送っていた。そのころには、階級も一つ上がり、海軍主計大尉から海軍法務少佐になっていた。
法務官は元々、軍人ではなく旧司法制度に基づく法律の専門官が軍属として配置されていたものだったが、大東亜戦争が始まると、階級がよく分からない軍属では上手く対応できない…とのことから武官である軍人が司ることになった。ただし、これまで勤務していた法務官は自動的に陸海軍の武官に登用され、これまでの制服から軍服に着替えただけのことだった。
真一郎は、新しくできた制度の下で、主計科将校から法務科将校へ転科を命じられたのである。
艦船勤務が長かった真一郎にとって、陸の上の勤務はあまり馴染まないものだったが、着任すると様々な案件が上がってきており、
(これでは、民間の人間では無理だろう…)
ということが、すぐにわかった。
勤務する呉鎮守府は、主に関西地方の府県、九州の一部の県を所管とする海軍区の一つで、呉軍港を拠点に海軍関係のすべてを司る地方軍政府のような役割を担っていた。
そのために権限は絶大で、当時の呉鎮守府の長官は高橋伊望中将で、旧会津藩の出身だった。元々はバリバリの海軍士官で、戦争が始まると第二南遣艦隊司令長官や南西方面艦隊司令長官を務めた歴戦の司令長官だった人だ。
真一郎が着任して挨拶をすると、細身でにこやかな笑顔を見せてくれた。
すると、
「ああ、君が草野主計大尉ですか?」
「なるほど、山本長官から私宛に手紙が届いてね。優秀な主計科将校を送ったから、よろしく頼む…と書いてあったよ」
「私と山本さんは、同じ大砲屋でね」
「山本さんは新潟の長岡、私は福島の相馬だから、東北人同士でよくして貰った…」
「ところで、君の処遇についてだが、山本長官の手紙によると、君は大和の内務分隊長として随分活躍したそうだね…。それで、君には法務科の捜査部長として働いて貰いたいのだが、いいかね?」
真一郎は、大和から離れる際に、野村副長から内々に、
「君には、主計科から法務科への転籍を考えているようだから、一応伝えておくよ…」
そう言われていたので、「法務科」の話は驚かなかったが、その「捜査部」が気になった。
真一郎が尋ねると、
「まあ、軍艦でいえば内務分隊長のことだよ…。長官から、君の働きを聞かされては、そうするしかないのでね…」
高橋長官は、それ以上詳しくは知らないようだった。
真一郎には、(なるほど…)と思い当たることはあった。
要するに山本長官は、真一郎が街中に自由に歩いてもいい…特権を与えてようと便宜を図ってくれたのだ。
これなら、八千代に山本の手紙や小箱を渡すのも容易に違いない。
(それだけ、長官は八千代のことが忘れられないんだろうな…)
と思う真一郎だった。

高橋長官への挨拶を済ませると、早速、捜査部に赴き着任の挨拶をすると、その部屋にいた20人ほどの海軍士官や下士官兵が一斉に立ち上がり、敬礼をするのだった。
ここには、他にも軍属の雇員と呼ばれる民間人や女性も数人勤務しており、(こりゃあ、変な具合になってきたぞ…)
と思ったが、真一郎がいつものように、
「お世話になります。海軍主計…もとい、海軍法務大尉の草野真一郎です。本日付けでこちらの捜査部長を仰せつかりましたので、よろしく願います」
と丁寧に挨拶をすると、敬礼をしている全員が、少しホッとしているように見えた。
こうして、真一郎の呉鎮守府での勤務が始まったのだった。

呉軍港には多数の軍艦が停泊しており、また、海兵団や様々な海軍の関連機関が設けられていることから、海軍の町として内外に知られていた。
さらに隣町の広島市は陸軍の軍都であり、どこに行っても陸軍や海軍の兵隊で溢れていた。
そのために、小さな事件から大きなものまで多数が呉鎮守府の真一郎のところに持ち込まれ、着任早々「海軍法務少佐」への昇任と「捜査部長」の肩書きを貰ったが、実際は人員不足のために、真一郎自身が動くことも多かった。
特に、陸軍の憲兵隊や地元警察署、各軍艦との交渉などは、「元海軍主計大尉」の肩書きがないと相手にもしてくれないのだ。
もちろん、「呉鎮守府法務部」の名前は大きいが、これまでが「軍属」である法務官が対応していたわけだから、軍人からしてみれば正直、(民間人は引っ込んでいろ!)という扱いになる。
応対は一応丁寧だが、何も教えてくれないということが多かったようだ。
それに、真一郎の部下たちも、そのほとんどが元軍属の書記官であったり、法務官補だったりするので、軍服が着こなせていない。
そこで、面倒なトラブルが起きると、真一郎自身が出向かないと埒が明かないのだ。
(こりゃあ、困ったな…)
と思いながら、いつも大和時代に率先して動いてくれた佐藤兵曹長や中野二曹のことが思い出された。
それでも、「元戦艦大和内務分隊長」の旧肩書きは大きく、真一郎が、
「今度来た、法務部の草野真一郎だが…」
と言うなり、これまでの成り行きを忘れたかのように、
「はいっ、失礼いたしました。草野少佐直々にお出で戴くとは、申し訳ありませんでした!」
と最敬礼することが多かった。
そんなことがあり、捜査部員の部下たちも一様に真一郎を見る目が変わり、「うちの部長、大和時代、鬼の内務分隊長兼保安班長として、長官に意見できる立場だったらしいぞ…」
とか、
「何でも、山本長官と大げんかして、こっちに飛ばされたって話を聞いたぞ…」
などと言う武勇伝が広まり、それは、呉の町全体にもあっと言う間に拡散していったようだ。
だから、ひと月もすると真一郎を知らない軍や警察関係者はいなくなり、「山本長官の陰の副官」と呼ぶ者もいた。
それは、あのたった2週間の口頭による兼務発令だったのだが、真一郎にしてみれば、一時期でも副官勤務をしたことは間違いないので、高橋長官に尋ねられたときも、
「はい、短い期間ではありますが、副官勤務をいたしました」
と答えたので、満更嘘ではない。
こうして、話には尾鰭はひれがつくことは、真一郎は承知していた。しかし、それを嘘でもない限り否定しないのも真一郎らしかった。
こうなると、呉の町の憲兵や警察署は、呉鎮守府の法務部を頼りにするようになり、部下たちも「法務部の捜査です…」と言うだけで、
「ああ、草野少佐には、大変お世話になっております…」
と頭を下げるようになったのだった。
海軍の中でも、真一郎の話は伝説のように広がっており、真一郎が停泊中の艦艇に出向くと、すぐに艦長が飛んできて、
「これは、草野少佐。わざわざ、申し訳ありません。私がお話は伺います…」と丁寧に挨拶するだけでなく、戦艦大和時代の山本長官の話を聞きたがった。
真一郎にとっては、面倒な話なのだが、捜査協力のためには必要な「飴」と心得て、小さなエピソードを話してやるのだった。
それだけ、山本五十六という軍人の、社会に対する影響の大きさを感じざるを得なかった。
(それでも、山本さんには山本さんの悩みもあったし、恋もあったんだがな…)
と思うと、偉くなるのも考えものだ…と首を傾げるのだった。

山本長官に依頼された「八千代」の話は、大した話にはならずに、あっさりと片づいてしまったが、山本長官には何も伝えなかった。するのなら、あの八千代が得意の「恋文」を出して、また何かをねだるのかも知れないが、さて、その恋文が長官の下に届くのかどうか…。
人の恋路を云々するつもりはないが、男の恋情ほどに女は想ってはいない…ことだけは確かめられたような気がした。
そして、
(これは、自分への戒めとしなければ…)
と心に誓う真一郎だった。

こうして真一郎の呉鎮守府勤務も2年が過ぎた。
その間に戦況は益々厳しくなって、あの山本長官も戦死し、それを継いだ古賀峯一大将もすぐに戦死し、太平洋の戦いが熾烈なものであることを内地にいる国民に知らしめる結果となった。
真一郎は、このころになると呉だけでなく関東から九州まで飛び回ることが多くなっていった。
どこの基地でも、大量の兵隊を集めたのはいいが、質の低下が大きな問題になっていたのだ。
既に第一線の士官や下士官は前線に出ており、新兵を教育する者も少なくなり、単に殴ったり脅したりしながら、兵隊を恐怖だけで軍に縛り付けておくような事例が頻発し、各基地でも頭を抱えていたのだ。
そこで、「元戦艦大和内務分隊長」への依頼が増えてくるという寸法だった。だから、真一郎は横須賀、佐世保、舞鶴…と鎮守府のある海軍基地に飛び、例の「ギンバエ防止マニュアル」や、その後に作った「漫画軍規マニュアル」を配り、啓発に努めたのだが、真一郎にしてみれば、それを監督する幹部将校たちの質も低下していることを見過ごすわけにはいかなかった。
以前であれば、30過ぎの大尉が分隊長として部隊に君臨していたものだが、今では、20代前半の大尉が大声で怒鳴り、まるで少尉時代の週番士官のような真似をしているのだ。
これでは、軍規の保持はできない。
要は、心の問題なのだが、兵学校を2年少しで出て来て、すぐに実戦部隊では、人の心を忖度するような修行は積んでおらず、やたらに「軍人は、死ぬことと見つけたり!」などと騒いでいるのだ。
基地の司令などに、そんな話をするのだが、司令自身も、「うーん?」と頷くばかりで、
「草野少佐。とにかく、人がおらん。君の言うことは私らにはよくわかるが、見て見ろ。あんな若造が内務分隊長だぞ…」
「あれなんか、予備学生出身で、海軍の生活は1年も満たないだろう。だから、若い兵隊に舐められておるわ…」
「まあ、とにかく、実態を見て指導してくれ給え…」
そう言って、肩を落とすのだった。
確かに、こうなると真一郎にも出来ることは限られていたが、それでも、真一郎が来るだけで、そこの風紀はピリッと引き締まるようだった。
真一郎は、
(今でも、大和内務分隊長や山本連合艦隊司令長官付き副官の肩書きは、ものを言うのか?)
と、死んでも尚、山本五十六という名前が光り輝いていることに、唖然とするばかりだった。

佐藤兵曹長と中野二曹が、真一郎を訪ねて来たのは、昭和20年も3月に入ったばかりのころだった。
今では二人とも昇進し、佐藤兵曹長は少尉に、中野二曹は上等兵曹になっていた。既に佐藤は大和を退艦し第二艦隊の駆逐艦雪風の主計長として活躍していた。そして、中野上曹は、大和の古参兵曹として主計科内務分隊で、その力を発揮し、新しい分隊長の補佐をしているとのことだった。
二人が、真一郎を訪ねたのは他でもない。
大和がこれから沖縄に向けて出撃するので、別れのつもりで来たことは明らかだった。
そのころの呉は、敵機動部隊の攻撃に頻繁に晒され、軍港は使用できなくなっており、大和は山口県の徳山沖に停泊しているとのことだった。
丘の上に断つ呉鎮守府の瀟洒な建物も銃撃され、赤煉瓦のあちこちに銃弾の痕が生々しかった。
警戒警報が出るたびに、地下の壕に入らなければならないので、真一郎たちの仕事も滞りがちになっていた。
それでも、敵の狙いは軍港で、そちらを散々爆撃すると、さっさと翼を翻して海の彼方に帰って行くのだ。お陰で、軍港に残る艦船は小艦艇ばかりで、軍艦の多くは遠方に退避し、歴史を誇る呉軍港も寂しくなっていた。
そんなとき、二人が訪ねて来てくれたのだ。
二人は、「最後の休暇が出た…」と話す二人には、特段変わった様子も見られなかったが、「特攻に出る」ことは、既に内部では噂になっていた。
わざわざ会いに来てくれた二人に、真一郎は、前の呉鎮守府司令長官だった高橋伊望中将が愛用されていた隠れ家的料理屋の「さくら」に二人を案内した。
高橋中将は、真一郎が着任して間もなく体調を壊し、病気療養の後予備役になっていた。その後、司令長官はめまぐるしく変わり、南雲忠一中将、野村直邦中将、そして今は、沢本頼雄中将になっている。
南雲中将は、だれもが知っているハワイやミッドウェイ、南太平洋の各海戦で指揮を執った機動部隊の指揮官である。しかし、昨年7月に赴任したサイパン島で玉砕して戦死していた。
野村中将は、呉鎮守府の司令長官時代に海軍大将に昇進し、海軍大臣として中央に復帰していた。今は海上護衛の司令長官を務めている。
今の沢本中将は、どちらかというと文官タイプの将官で、海軍次官などを長く務められていた。
この戦争には当初から反対を表明した一人だったが、意見が入れられず、
「もし、あのとき、もっと強く反対しておれば、こんなことにはならなかったかも知れん…」
と、呉に来てからも後悔の言葉を漏らすことがあった。しかし、真一郎からしてみれば、
(案外、優柔不断な将軍だな…)
との思いがあり、それほど親しく交わることはなかった。

この「さくら」という小料理屋は、高橋長官が贔屓にしていた店で、よく一人でフラッと立ち寄ったとのことだった。
艦船勤務が長かった長官が、体調を崩すなんて考えられなかったが、かなり無理をして激務をこなしていたために、ずっと我慢をしていたようなのだ。
確かに、海軍軍人らしく赤銅色に日焼けをしていたが、からだは細く、その肌にも張りがないことに真一郎も気づいてはいたが、自分から退役を申し出たことからも、相当に無理があったことに同情を禁じ得なかった。
その高橋長官が、ときどき真一郎を誘って来た店が、この「さくら」なのだ。
店は、呉の駅近くの繁華街から少し離れていたが、住宅街の奥の方にあり、知っている人間でないと見つけることは難しいだろう。
真一郎は仕事柄、この辺りの地理も承知していたが、高橋長官に連れられて「さくら」に来てからは、一人でも、何度か足を運んだ行きつけの店である。
店は、女将と50過ぎの板前だけで切り盛りしており、奥に6畳ほどの座敷があって、そこが長官専用のようになっていた。
店に来るのは軍人というよりは、商売人が多く、それも一人客が多い店で、黙って酒を飲み、料理を摘まむといった客ばかりだった。
高橋長官は、この店に行くときは背広に着替えて行くことが多かったが、真一郎は、仕事柄そうも行かず、きちんと軍服を着て行くので、店の客や女将からは少し驚かれたが、高橋長官が、
「ああ、心配はいらんよ。この人は、私の部下で、気の優しい法務科の士官だから、気にせんでいい…」
と紹介してくれたのだ。
高橋長官がいなくなった後も、真一郎は度々ここに足を運び、自分の癒やしの店として重宝させて貰っていた。
女将には、戦死した夫がいた…とかで、板前の男は、従兄弟だという話だったが、飲み屋の話は「?」の話が多い。
女将は、年齢は40を少し過ぎたくらいで、決して美人ではなかったが、優しい口調で話すので、軍人や警察関係者とばかり話す真一郎には、本当に癒やされる場所だったのだ。
板前の男は本当に無口で、年は女将より少し上のような感じがしたが、いつも板場で黙々と料理をするだけだった。

この日は、他に客もなく、店に入ると、
「ああ、草野さん。どうぞ、奥に…」
と案内してくれるので、面倒なことはない。
3人は座敷に上がると、久々の再会を喜び合った。
そして、真一郎は、佐藤少尉と中野上曹と別れの杯を交わすのだった。
佐藤少尉は、駆逐艦雪風の寺内艦長から内々に話を聞いていたようで、
「愈々、私たちにも最期のときが来たようです…」
「連合艦隊では、第二艦隊に沖縄への水上特攻を命じるとの噂で持ちきりです」
そう言うと、大和の中野上曹も、
「私も、内々にそう聞いています…」
「第二艦隊の伊藤中将や本艦の有賀艦長は反対のようですが、中央でそう決めれば、やるしかないでしょう」
「まあ、行っても、半分まで行けるかどうか…っていうところですがね」
「燃料も片道分しかない…って話ですし…」
そう聞くと、真一郎は、呉の陸上でのうのうとしている自分が恥ずかしかった。
「すまないな…」
「俺なんかは、未だに陸上で燻っているだけだ。本当は、みんなと一緒に働きたいのだが…。本当にすまない」
と頭を下げることしかできなかった。
それでも二人は、
「何を言っているんです、分隊長!」
「私らは、そんなつもりでここに来たんじゃありません」
「私らは、あのとき大和で分隊長からたくさんのことを教えていただきました。それに、あの相撲大会は面白かったですね…」
「あの日が、私の一番の思い出です」
そう言って、あの日の相撲大会の様子や、夜の宴会を思い出しては、夜遅くまで酒を酌み交わすのだった。

この二人を乗せた駆逐艦雪風と戦艦大和は、予定どおり4月6日、徳山沖に集結して出撃した。
燃料だけは何とか工面して、往復分を入れることができたようだったが、帰って来られる艦があるのかどうかも分からなかった。
そして、4月7日、鹿児島県坊ノ岬90海里の地点でアメリカ機動部隊の攻撃を受け、約2時間の死闘の末、大和を初めとする第二艦隊の艦艇の多くは、爆沈して海底に沈んだ。
中野上曹のいた主計科分隊は真っ先に敵の爆弾を受け、全滅したそうだ。
中野上曹も、その爆発の中で死んだのだろう。気の優しい、いい男だった。
駆逐艦雪風に乗っていた佐藤少尉は、寺内艦長の見事な操艦のお陰で命拾いをして佐世保港に帰ってきた。

それから4ヶ月後、日本は広島と長崎に原子爆弾の攻撃を受けて壊滅した。
真一郎は呉で、広島に投下された原子爆弾を見た。
ちょうど、朝、鎮守府の執務室に出勤し、今日の予定を確認しているときだった。
一瞬、強いフラッシュを焚いたような光を感じたと同時に、猛烈な爆発音が響き、鎮守府の赤煉瓦の建物を震わせた。
真一郎は、即座に、
「全員、防御態勢!」
と命令し、その場に伏せた。
建物はガタガタと揺れ、しばらく振動は収まらなかった。
幸い、ガラス窓は爆発の振動を防ぐテープが貼られており、割れることはなかったが、間違いなく呉の町がやられたと思い、爆発音が止むと一気に走り出して建物の外に出て軍港を見た。
しかし、軍港は、特に平穏な姿を見せていたが、その背後を振り返ったとき、もの凄い雲が、空を覆わんばかりに上空に昇っていくのが見えた。
これが「原爆によるキノコ雲」だと知るのは、後のことだった。
その後、真一郎たちは、救護班を編成して原爆投下直後の広島市に入り、三日三晩救助活動に当たったのだった。
それは、まさに「地獄の業火に焼かれた町」という世界でしかなく、今になって、あのとき、山本長官が言っていた言葉の意味を悟ったのだった。
(山本長官が、言っていた後悔とは、こういう世界を予言していたのか…)
そう思うと、山本が生きてはいられない理由が分かったような気がした。
そして、不眠不休での活動も3日間が限界だった。
呉鎮守府の救護班は二次被曝のことも知らないままに、終日ぶっ通しで救護に当たったが、それは救護というより「人間の処分」という方が正しかったかも知れない。
満足な治療薬や包帯もなく、真一郎たちは、担架で重症者を救護所にひたすら運ぶのだ。捜査部長の真一郎自らが担架の柄を握り、大汗を掻きながら救助の当たるのでは、他の連中も休むわけにはいかなかった。
真一郎は、意識が遠のくのを感じながら、不眠不休の作業が続いた。
そして、いよいよ疲れ果て、次の部隊と交替すると、軍用トラックに乗せて貰って呉に帰った。呉に帰ってからも、なぜか体調は戻らず、気怠さがずっと続くのだ。それは、真一郎だけでなく、救護班に出た部下もみんな、体の不調を訴えるのだった。
それは、真一郎たちが、二次被曝を知らなかったために起こった症状で、その後、真一郎たちは原爆による放射線の後遺症に悩まされることになった。
幸い、真一郎は放射線に強い体質なのか、数日間は髪の毛が抜けたが、このころは佐官であっても坊主頭に刈り込むことが多く、真一郎も昭和20年に入って早々から、頭を丸刈りにしていた。
そのためか、髪の毛が抜けてもあまり気づかず、強い放射線異常は見られなかったが、しばらくは食欲もなくなり、嘔吐や下痢を繰り返すのだった。
兵隊の中には、それが原因で亡くなる者をいて、それが「原爆症」だとわかるには、数年の時間が必要だった。
真一郎は、その後も空襲跡の撤去作業や、亡くなった兵隊の調書の作成などに追われ、本務である法務官としての仕事はほとんどなくなってしまった。
ない…というよりは、そんなことをする時間がなくなった…という方が正しい。
街中では、兵隊が暴れたり、兵隊による窃盗事件なども起きてはいたが、それを取り締まる警察署も憲兵隊も手薄で、犯罪者を留め置く留置所さえない有様だった。
そして、その間を縫うように、敵の艦載機が空襲にやって来ては、多くの人命が失われていった。
それは、もう喪失感しかなく、ラジオや新聞などで騒ぐような、「一億特攻!」や「本土決戦!」などという言葉に動かされる者もいなかった。
こうして、真一郎たちは8月15日を迎えたのだった。

真一郎が、佐藤少尉に会ったのは、間もなく夏も終わりになろうとするときだった。
8月15日に終戦となり、その後は、鎮守府の残務整理に当たっていた真一郎は、旧海軍省から復員業務員として東京に戻るように命令されていた。
東京に戻る二日前に、鎮守府の建物に佐藤元少尉が顔を見せたのだ。
佐藤は、くたびれた海軍の三種軍装で現れたが、真一郎の顔を見ると、
「分隊長、すみませんでした。私は生き残りましたが、中野は大和とともに逝ってしまいました…」
そう言って、顔を覆うのだった。
真一郎は、どう慰めていいのかわからなかったが、
「せめて、佐藤さんが生きていてくれて、本当によかった…」
「大和に残っていた連中もほとんどがやられてしまったんだろうな…」
「はい…」
「私は、雪風の寺内艦長のお陰で艦が沈まずにすみましたが、他の艦は、悉くやられました…」
真一郎は、佐藤の肩を抱き、
「でも、こうして生き残ったんだ。佐藤さんも中野君の分まで生きないとな…」
真一郎は、妻や子もある佐藤元少尉に、そう言ってやるのが精一杯だった。
佐藤元少尉の家は、四国の松山にあり、そこには疎開させていた妻や子供がいるはずだった。そして、真一郎の顔を見て、すべてを報告すると、
「では、これから郷里に帰ります…」
「郷里に帰って、どこかの会社で、また経理事務をやりますよ…」
「私も歴とした主計科の兵隊ですから、敵と戦うよりも、算盤を弾いている方が似合いますから…」
そう言うと、リュックを背負うのだった。
真一郎は、「ちょっと、待て!」と昔のように命令し、建物の奥から、段ボール一杯の缶詰を運んできた。
「いやあ、缶詰だから少し重いが、今やこんな物も貴重品だからな…」
「佐藤さんのそのリュックに背負えるだけ背負って帰ってやれ!」
そう言うと、何だかわからない缶詰を詰め込むのだった。
下を向いて作業をする真一郎の目には、不覚にも涙が溢れ、二人は泣きながら再会を誓い別れるのだった。

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