老人の独り言8 「戦争報道」にもの申す。

「戦争報道」にもの申す。                                    矢吹直彦

今年の12月は、珍しく「山本五十六」が取り上げられています。近現代史の学者たちが、当時の日本の状況を踏まえて様々な解説を加えていますが、どれもこれまで聞いたことがあるような話ばかりで、新しい知見に出会うことはありませんでした。それでも「真珠湾攻撃80周年」だそうで、新しい令和の日本人に向けて、何らかの意図を持って番組を作っているように思いました。その象徴的な人物として連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将(戦死後元帥)を取り上げるのはわかりますが、昔、よく言われていた「山本五十六名将論」や「海軍善玉論」の方針からずれることはなく、大東亜戦争も相も変わらず「太平洋戦争」と連呼している姿を見ると、歴史研究というものは、学界の定義から外れてはいけないのだ…ということがよく分かりました。司会者も解説者も皆、その用語への解説もなく、「太平洋戦争では、…」と発言することに違和感を覚えないのでしょうか。不思議な気がします。それとも、改めて自分たちの信じる歴史観を報道し、令和の日本人を洗脳しようとしているのでしょうか。現在は、開戦の経緯にしても、山本五十六という人物にしても様々な研究が進んでおり、名将論や善玉論はなくなったかと思っていましたが、どうしても、そうしたい勢力が未だに存在していることに気づかされます。今回は、今回の報道等で取り上げられていない「疑問」を述べてみたいと思います。

1 海軍は「善玉」ではない

終戦の際、陸軍大臣だった阿南惟幾大将は、陸軍を抑えるために自ら切腹し、彼らの暴走を止めたと言われています。天皇の信任の厚かった阿南は、本土決戦論とポツダム宣言受託論の間で苦悩し、天皇を守らんと必死に戦ったことがわかります。その阿南が、死の際に部下に向かって「米内を斬れ!」と命じました。この米内とは、内閣総理大臣、海軍大臣を務めた海軍を代表する大物である米内光政海軍大将のことです。終戦時にも請われて海軍大臣を務め、海軍を抑えたと言われています。もちろん、ポツダム宣言を受託しよう…という和平派の将軍として知られ、戦前は、日独伊三国軍事同盟に反対した親米英派の一人でした。そのためか、敗戦後も東京裁判で戦犯容疑もかけらていません。そんな和平派の米内を斬れ…とは、阿南の方が狂っていたのでしょうか。本土決戦に持ち込みたいがために、それを邪魔する米内を始末したかった…という考えも成り立ちますが、ことはそんな単純な話ではありません。戦後の教育が功を奏しているのか、「陸軍が暴走して戦争を起こした」という話が定説になっていますが、これは明らかに間違いです。大東亜戦争前の陸軍は中国との戦争に手を焼き、米英との戦争など、まったく想定していませんでした。寧ろ、主敵はソ連にあり、できることなら中国との戦争を終わらせ、ドイツと共にソ連を倒したかったのです。日独伊三国軍事同盟もその前の日独防共協定も、すべてソ連(共産主義国)の脅威を取り除こうとする立場から結んだもので、陸軍の装備も組織も対ソ連戦を想定していました。有名なノモンハン事件も、戦後の有名な作家たちは「日本陸軍の惨敗」と陸軍批判に利用しましたが、ソ連が崩壊し情報が公開されると、ソ連軍の損害が日本軍を上回っており、当時のソ連政府の情報管理が上手かったことがわかりました。私たちが見ても、あれほど強力が陸軍航空部隊があって、常に制空権を奪っていた日本軍が一方的にやられた…というのは合点がいきません。なぜなら、後の第二次世界大戦や大東亜戦争は制空権を奪った方が勝利をしているからです。ドイツがイギリスに侵攻できなかったのも、バトル・オブ・ブリテンと称されたイギリス空軍がドイツの空からの攻撃を阻止し続けたために、ドイツ軍がドーバー海峡を渡れなかったことが原因でした。日本が、ガダルカナル島の争奪戦でアメリカ軍に敗れたのも、制空権を奪えなかったからです。それなのに、ノモンハンでは、圧倒的に日本の陸軍航空部隊がソ連軍の航空機を圧倒していたのに、陸上部隊がボロ負けするとは考えられないのです。いくら、敵が強力な戦車部隊を擁していても、戦車などは空からの攻撃には無力です。地上と空から同時攻撃をかければ、ソ連軍に負けるはずがないのです。そして、中国大陸での日本軍は、大東亜戦争になっても中国軍には圧勝でした。つまり、大陸で正面から正規軍が激突すれば、日本陸軍は負けていなかったのです。それを海軍の戦争に引き摺り込まれ、小さな孤島で援軍もないまま玉砕していったために「弱い日本陸軍」というレッテルを貼られましたが、想定外の戦いを強いられた陸軍は本当に迷惑な戦争だったはずです。そんな戦争に引き摺りこまれた挙げ句、海軍が全滅したから「降伏」では、陸軍の軍人が納得するはずがありません。だから、陸軍大臣の阿南が、「米内を斬れ!」と叫んだ心情も分かる気がします。それに、米内は、蒋介石が日本軍を挑発するために仕組んだ第二次上海事変に派兵を叫んで、中国との戦争を泥沼化させた張本人でもあります。当時の陸軍参謀本部は、必死にそれを止めようとしていたにも拘わらず、海軍は戦争を望んだのです。米内光政が「和平派」というのは、まったく違います。その時々で海軍が有利になるように動いていただけのことで、純粋に和平を望んだ軍人とは言えないと思います。その米内の子分だった山本五十六が、どれほどの人物だったかはわかりませんが、決して名将と呼ばれるような軍人ではなかったと私は思います。気の毒な点で言えば、米内光政という親分にいいように使われた軍人だったのかも知れません。

2 政府内に蠢いていた共産主義者

戦前には近衛内閣の中には多くの共産主義者がいました。特に有名なのが昭和研究会の尾崎秀実ですが、この昭和研究会は、近衛とその仲間が創った政策集団です。近衛文麿という人物は、五摂家筆頭の藤原家の子孫で、天皇の御前においても「足を組んで椅子に座る」男ですから、如何に不遜な男であるかがわかります。できれば、天皇の座を自分のものにしたい…という野心が潜んでいたのかも知れません。弁舌が爽やかで、貴公子然とした人物だったそうですから、国民には人気があったようです。その近衛は、中国との戦争の問題も処理できず、挙げ句に「蒋介石を相手にしない…」などという声明を出す始末で、中国との戦争は泥沼に入っていきました。近衛の側近の尾崎は、ソ連のスパイであるゾルゲと緊密に連絡を取り合い、近衛を動かしていたことは間違いありません。後に、二人はスパイとして処刑されましたが、ゾルゲはソ連では「英雄」となっています。つまり、日本を「ソ連に向かわせなかった」功績で、英雄となったのです。ゾルゲは尾崎を利用して日本政府の「北進論」を「南進論」に変えさせ、日本を対米英戦争に引き摺り込んだ張本人なのです。それでも、ゾルゲを誹ることはできません。ゾルゲは祖国のために戦い、そして敵国の手によって処刑されたわけですから、英雄として尊敬されて当然です。納得出来ないのは、近衛であり尾崎です。裕福な日本の家庭に生まれ、何故に日本をそれほどまでに信じられかかったのか…と思うと、残念でなりません。当時の総理大臣だった近衛文麿が、そんな尾崎やゾルゲの正体を知らずに、重用したとは到底思えません。近衛自身も尾崎やゾルゲを利用して自分の保身を考え、日本の将来を危うくした人物なのです。近衛にはどんな未来像があったのかは分かりませんが、戦後、戦犯指名されると、GHQに出頭する前の晩に服毒自殺したそうです。一時はマッカーサーに取り入り、新しい憲法草案を任された…そうですが、残念ながら、近衛の野望は既に潰えていたのです。終戦間際になると、近衛は、天皇に対して「近衛上奏文」を提出し、「自分は共産主義者に操られていた」という弁明をしたそうですが、天皇はそんな近衛を「信用ならない男」だと断じたと言います。近衛の内閣には風見章という内閣書記官長(今の官房長官)がいました。この風見も根っからの共産主義者です。アメリカ政府もルーズベルトの側近のほとんどは共産主義者だったと言われていますので、この戦争を操ったのは「ソ連」もしくは、「コミンテルン」ということになります。彼らの背後には、世界の金融を操る組織がいたということですから、大東亜戦争は、世界的な謀略の中で起きた戦争だと言えます。その風見についていえば、戦後、妙な噂がありました。それは、風見が庭で大量の手紙の束を燃やしているところを息子が目撃していた…というものです。燃やしていた手紙は、風見が米内や山本と交わした手紙の束だったようで、決して知られてはならない内容が書かれていたのかも知れません。それにしても、共産主義者の内閣書記官長と海軍の上層部が密接に連絡を取り合っていたというのも解せません。そもそも、当時「共産主義者」は、特別高等警察の捜査対象の「思想犯」の対象になるはずです。治安維持法が出来て以来、「赤」と呼ばれた思想犯は、厳しい取り締まりを受け、日本共産党は弾圧され解体されていました。そんな時代に、政府の中枢に共産主義者が食い込み、軍部の上層部にも共鳴する人物がいたとなれば大問題です。こんな重大なことを歴史の専門家は一切触れようとはしません。それに、米内は、親ソ派で有名な人物で、和平交渉をソ連を仲介にして行わせようと企んでいました。米内は、戦前にソ連の駐在武官をしており、海軍の中の「ソ連通」として有名でした。ソ連の工作活動は有名ですから、米内もソ連駐在時代に向こうで何かあったのかも知れません。米内は、和平交渉で、海軍の残りの艦艇をソ連に引き渡してもよい…と考えていたという話もあります。山本は米内の子分ですから、どの程度まで風見とつながっていたかは分かりませんが、その書簡のやり取りから見て、相当に知恵を授けられたとしても不思議ではないのです。あの「真珠湾攻撃」も山本独自の発案ということになっていますが、謀略の匂いがするのは私だけでしょうか。実際、解明されない闇の部分がありますが、この「共産主義者」たちの暗躍を無視した戦争論はあり得ないと思います。

3 中華人民共和国を創ったのはアメリカ

次に、マッカーサーのことです。だれもが知る占領時代の日本統治の責任者で、アメリカ陸軍の元帥にまで上り詰めた人物です。そして、マッカーサーはアメリカの上院議会で「日本の戦争は、自衛のための戦争だった」と証言しました。彼は、当時の大統領だったトルーマンにも「東京裁判は、するべきではなかった…」と語っています。日本占領の絶対的指導者として、実際に日本を統治してみて、省みることがあったのでしょう。日本の占領政策は、まさにアメリカの共産主義者たちの手によって成し遂げられました。連合国軍最高司令部(GHQ)は、ポツダム宣言を無視するかのように、次々と日本の歴史や文化、伝統を破壊していきました。占領下でありながら、日本政府に脅しのような手口を用いて憲法(大日本帝国憲法)を捨てさせ、新しい憲法を押し付けたことは有名です。この新憲法には、日本人はだれも参画していません。その国の最高法規である「憲法」にまで手をつけるとは、文明国としてあるまじき行為ですが、驕り高ぶった戦勝国軍人たちは、自分たちの目的のためには手段を選ばない傲慢さで次々と日本を変革していきました。もちろん、行き着く先は「共産革命」です。日本を共産化することができれば、ソ連は安泰です。アジア全土が共産主義国となり、次いで、アメリカ合衆国も共産化できれば、コミンテルンの野望は達成できます。共産主義という思想は、国家権力者にとって、これ以上都合のいい思想はありません。共産革命とは、ロシア革命や文化大革命を見れば一目瞭然です。「労働者のため」と言いながら、すべての階級を取り払い、資本家も貴族もなくし、その財産をすべて没収してしまうのです。ロシア革命では、皇帝すらも殺してしまいました。中国の文化大革命では、地主層やインテリ層を弾圧し、すべて一党独裁を敷いたのです。この間に、無慈悲に殺された人間は1千万人を超えたと言われています。そんな革命を日本の戦後にも夢見ていたとしたら、何と怖ろしいことでしょう。そうなれば、戦争ではなく革命によって「日本」という国は消滅したはずです。「まさか…?」という人はいるでしょうが、敗戦による革命が起こるのは、歴史が証明しています。崩壊してしまいましたが、旧ソ連も今の中華人民共和国も北朝鮮も、まったく同じ社会構造で、一部の権力者が国民を統治し支配しています。どの国でも人が殺されることは日常茶飯事で、今でもそれらの国の国民は、塗炭の苦しみに喘いでいるのです。一部の報道だけを見て全体を知ったかのように評論する学者を見ると、「疑いの眼で見る」のは私だけではないと思います。さて、中国ですが、戦後、アメリカは、中国に対して蒋介石への援助を停止し、毛沢東率いる共産党支援に回りました。中国では「国共内戦」と言いますが、勝利したのはソ連やアメリカの支援を受けた中国共産党でした。この時点では、ほぼ蒋介石率いる国民党軍が勝利していたのに、アメリカ政府は蒋介石に停戦命令を出すと、毛沢東率いる共産党の支援に回り、中国は完全に共産化してしまったのです。おそらく、アメリカ政府とソ連が密約を結び、中国の共産化に合意していたのでしょう。日本が何のために戦っていたのか、分からなくなります。眼に見えない大きな力の前では、一国の戦いなど無意味だということを思い知らされます。マッカーサーは、当初、日本に対して強い恨みを持ち、傲慢な日本人を変えてやろう…という考えで日本に乗り込んできたのでしょう。それでも、天皇に会い、日本人の姿を見ているうちに「これは、違うのではないか?」と気づき始めたのだと思います。それに、マッカーサー自身が共産主義者ではありません。だから、朝鮮戦争が起こると、必死になって戦い、韓国(南朝鮮)を死守しようとしました。しかし、アメリカ政府はそんなマッカーサーを解任し、朝鮮半島は分断されてしまったのです。マッカーサーは、アメリカ政府のやろうとしていることが理解出来なかったはずです。まさか、アメリカ政府が中国や朝鮮半島をソ連に譲るようなことはしない…と思い込んでいたと思いますが、実際はそうではなく、アメリカ政府は進んで中国や朝鮮半島をソ連に進呈してしまったのです。マッカーサーは日本の「連合国軍最高司令官」を解任され、失意のうちに日本を離れました。そのとき、日本国民は熱狂的にマッカーサーを見送ったといいますが、天皇だけは見送りに出ませんでした。後に、天皇がアメリカ訪問をした際も、マッカーサー記念館のある州まで行きながら、夫人の要請にも拘わらず、記念館に足を運ぶことはありませんでした。天皇は、マッカーサーという人物を見抜いていたのです。

4 共産化を免れた日本

次に報道されないのが、アメリカ議会による「反共運動」のことです。報道では、いつも「アメリカは…」という言い方をして、常にアメリカが一つの意思を持っているかのように言いますが、そんなことはありません。今でも、アメリカのマスコミは前大統領のトランプを非難していますが、あのおかしな大統領選挙を見て、アメリカが民主主義を貫く国家とは到底思えません。マスコミは、あれほど疑惑の残る選挙ですら「無視」出来るのですから、何かしらの大きな圧力があったと考えるのが自然です。この当時のアメリカも同じでした。先にも述べたようにアメリカ政府にはソ連のスパイが多く入り込み、ルーズベルト大統領自身、容共主義者でした。そうでなければ、あれほどの譲歩をソ連にするはずがないのです。「第二次世界大戦は、ソ連とスターリンの一人勝ち」と言われるように、ヨーロッパもアジアもソ連の思うような結果になりました。アメリカは、多くのアメリカ青年を戦場に送り多大な犠牲を出したにも拘わらず、得た物は少なかったのです。まして、原爆の投下によってアメリカの歴史に汚点を残し、その後もソ連との冷戦やベトナムや中東への戦争に介入しただけで、得る物はありませんでした。そして、その始まりが朝鮮戦争です。アメリカは、日本に替わって朝鮮半島を奪われまい…と国連軍を組織して朝鮮半島に出兵しましたが、中国軍が加われると戦況は悪化し、結局、朝鮮半島は南北に分断されてしまいました。マッカーサーはこのとき、「日本が何をしようとしていたか…」理解出来たといいます。満州国も朝鮮半島の併合も、すべてロシア・ソ連からの脅威に対抗するための戦いだったのです。日本を滅ぼし、自らが矢面に立たされて、マッカーサーはアメリカ政府の愚かさを覚ったのでしょう。これは、アメリカ国内でも同様でした。ヨーロッパとアジアで酷い戦争をした結果、アメリカには何も残りませんでした。強大な軍隊はありましたが、アジアの有力な貿易国を失い、戦前以上に共産主義に怯えることになったからです。アメリカ議会が調べて見ると、次から次へとアメリカ政府の不正が暴かれました。政府内にはソ連のスパイが多数入り込み、政府を操っていました。元々、アメリカは民主主義国家です。共産主義を受け入れる国ではありません。ところが、ルーズベルト、トルーマンと続いたアメリカ政権は、共産主義者に乗っ取られていたのです。日本への最後通牒と呼ばれた「ハル・ノート」ですらアメリカ議会は知らされず、「日本の真珠湾攻撃」にだけ眼を奪われた議会は、ルーズベルトの演説に騙され、闇雲に戦争に突っ込んで行ったのです。戦争が終わり、冷静に考えてみると、おかしなことばかりだということに気がつきました。そして、朝鮮戦争を契機にアメリカで起こったのが「レッド・パージ」(反共運動)です。これを機に政府内のスパイが次々と摘発され、公職から追放されたり逮捕されたりしました。日本でも、GHQ内の共産主義者が一掃され、占領政策は大きな転換期を迎えたのです。もし、この共産主義的な占領政策が後数年続けば、間違いなく日本に「共産革命」が起こったはずです。その2年後に日本の占領政策は終わり、日本は独立国として新たな道を進み始めたのです。しかし、占領されていた7年間の間に日本社会は変革され、戦前からの指導者はすべて「公職追放」の命令を受けたために、政治も教育もマスコミも新しい指導者の下で再スタートを切ることになったのです。新しい指導者層は、GHQが認めた人たちですから、その思想が共産主義的であったことは間違いありません。日本でも「レッド・パージ」が起こりましたが、それは飽くまでもGHQの命令でしかなく、日本の新体制は、GHQが創造したものが残り、戦後の日本を創っていったのです。ただ、日本が新しく「日本国」として皇室が残り、日章旗が国旗として残されたことは幸いだったと思います。

5 マスコミが絶対に言わない真実

戦前のマスコミは、国民の空気を察したのか、戦意昂揚のための記事を次々と世に送り出しました。記事には常に日本軍の勝利で賑わい、たくさんの美談が生まれました。戦意昂揚のために書いた記事が戦後、問題になったものもあります。国民にとって情報は新聞かラジオしかありません。今でこそ誇大記事を「大本営発表」などと揶揄しますが、当時の大本営は軍の最高機関ですから、国民が信じて当然でした。戦争記事は、世界のどの国でも怪しい記事が普通で、あまり真実を書くと、戦争が遂行できなくなるだけでなく、ナガティブな情報ばかりでは新聞は売れないのです。庶民にとって、新聞は「真実を書く」ものではなく、「娯楽を提供」してくれるものなのでしょう。今でも、見出しにはもの凄い内容であるかのようにデカデカと書きますが、中味は大したことがないのが普通です。こうして、各新聞社は戦争で業績を伸ばしていったのです。それでも、記者は「報道班員」として戦場に赴き、そのまま戦死された方も多かったと思います。まして、海軍の報道班員は、軍艦に乗ったり、孤島の戦場に出て行ったりと、それこそ記事を書くにも命懸けだったことがわかります。それが、GHQによる占領政策が始まると一転しました。なぜなら、「検閲」が日本軍以上に厳しかったからです。当時の新聞には連合国軍に関する批判記事は一切書けなかったといいます。アメリカ、ソ連、中国…、真実を知っている記者たちでさえ、検閲にひっかかり、思うような記事が書けない…ということでした。こうして、マスコミもGHQの洗脳を受け、新たに再スタートを切ったのです。したがって、マスコミには多くの「タブー」が存在しています。もちろん、自分の会社の批判をすることは許されませんが、当時、報道されたような内容を批判したり、訂正したりすることを極端に嫌います。数年前に大新聞社が、「従軍慰安婦」という誤報を記事にして大問題になったことがあります。あのときは、当時の社長が記者会見を行い訂正しただけでなく、自ら社長を退きました。社是の方針に基づいて書かせていたはずが、誤報と明らかにされてトップが謝罪するはめに陥ったことは、報道機関としての汚点でした。社長にしてみれば、「社の方針に従っただけだ」と言いたかったと思います。こうして、一度書いてしまった記事は「訂正できない」のが、マスコミなんだろうと思います。今の戦争報道にしても、余程のことがない限り、「太平洋戦争」というGHQが指定した戦争観から抜け出すことは出来ないと思います。それは、個人ではなく組織としての決定事項だからです。政治家も同じです。従軍慰安婦問題については、当時の与党の政府談話が今でも訂正されずに残り、世界に発信されています。もし、訂正される日が来るとすれば、それはアメリカが情報公開をしたときだろうと思います。今でも、開戦時の情報は開示していないアメリカ政府ですので、余程、都合の悪い内容が書かれているのだと思います。これが、公開されたとき、世界中で「第二次世界大戦」と「日米戦争」の真実が暴かれるのかも知れません。個人としては、日本の戦争報道は疑問だらけですが、報道機関としてはそれもやむを得ないのかも知れません。

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