「昭和史」の真実 ー大東亜戦争外伝ー                          矢吹直彦

令和という時代を迎えて、やっと昭和史を分析する人たちが出て来た…と嬉しく思っています。私自身が子供のころから抱いていた疑問が、やっと解けてきたような気がします。それでも、既得権を得て生活している政治家、マスコミ、そして、学者や評論家の皆さんは、そんな風潮を苦々しく思っていることでしょう。せっかく、戦後の日本人を洗脳し、東京裁判を「正しい歴史観として」尊重する社会を創り上げたのに、それを覆すような勢力が好ましいはずがありません。できれば、「歴史修正主義者」というレッテルを貼って、社会から抹殺したいと思っているのかも知れませんが、嘘はいつかは暴かれるのです。その「嘘」が「嘘である」となったとき、日本という国もやっと正常な歴史観を取り戻し、日本人という存在を認識できるのかも知れません。私如きが、何も偉そうに語る資格はありませんが、自分なりに見えてきた「昭和」という時代を語ってみたいと思います。私は学者でもなければ、マスコミの人間でもありません。ただの一国民です。何の利害関係もなく、素直に社会を見聞き、歴史を学んできただけの人間です。もちろん、何の派閥にも属していませんし、これを語ることによってのメリットもデメリットもありません。だからこそ、疑問に思うことを口に出し、本当のことを知りたいという欲求があるだけのことです。人生も後期に入り、早く死んで行く仲間もいます。長生きできればいいのかも知れませんが、それだけではつまらない。そんな心境でこれを書いています。もし、「くだらない」とお考えになれば、それはそれで無視して戴ければ結構です。

1 日清戦争と日露戦争

「日本は、明治になってから戦争ばかりやっていた…」という論調がありますが、それは当時の国際情勢を弁えない人の暴論です。世界は産業革命以降、気が違ったように「領土拡大」の野心に燃えていました。今ほど、世界の状況がわからない時代のことです。未開な土地があれば、それを手に入れ自分の領土にしたい…という欲求はだれにも止められませんでした。たとえ、そこに住む人間がいようと、文明が劣る人間であれば、それは自分たちと同じ人間ではない…と考えたのです。この認識は、文明国共通のものでした。昭和の時代になっても、日本人を「黄色い猿」と罵ったり、日本人が欧米人を「鬼畜」呼ばわり出来たのも、常に敵の存在を意識し、「自分たちの敵が人間であるはずがない…」と思いたいからなのです。今の時代に、日本人が欧米人から「イエロー」「モンキー」「ジャップ」と呼ばれたら、どんな問題が起こるでしょうか。考えただけでも「あり得ない」人権感覚です。こうした偏見や人種的な差別が普通に行われていた時代に、日本はアメリカの圧力によって「開国」を迎えました。これを以て「昔の人間は愚かだ…」ということはできません。情報の少ない時代に、自分たちの都合のいい思想は意外と人々に受け入れられるものです。今でも、世界ではおかしなことが起こっていますが、それをマスコミ等の力を使って国民を納得させてしまう事例がたくさんあります。たとえば、先年のアメリカ大統領選挙など、その最たるものでしょう。だれが見ても「おかしい…」と思う選挙であったのに、裁判所や政府機関、高名な学者、マスコミ等が挙って「正しい…」と主張すれば、それに抵抗する術はないのです。したがって、「余所の国を侵略して、富を奪うことはおかしい!」という人として真っ当な意見さえ、「いや、我々は、文明を啓蒙するために助けてやっているんだ…」という詭弁を弄すれば、だれもが納得してしまうのです。いや、現地の人々は、そんな言葉に騙されるはずがありません。事実、目の前に起こっていることが野蛮な侵略行為だからです。それでも、正義は通らず、野蛮な植民地支配は「帝国主義」と名を変えて世界中に蔓延していきました。幕末から日本も、その渦の中に巻き込まれていったのです。やっとの思いで「開国」し、世界に出てみると、既に帝国主義が蔓延り、大国だと思っていた中国(清国)でさえ、イギリスに敵わない様子を見て、日本人の多くは戦慄を覚えました。「これは、攘夷どころじゃない!」という危機感は、少しでも世界に眼を向けられる人間であれば、だれもが感じる現実でした。これまでは、国内にだけ目を向け、だれが天下を奪うかに気持ちが向いていた者たちも、さすがに欧米列強が相手となれば攘夷どころではありません。そこから日本は、一気に「挙国一致体制」へと舵を切ったのです。そんなことは、幕府時代でもわかりきっていました。今さらながら、あんな国内戦争(戊辰戦争)で、有為な人材を多く殺してしまったことに後悔したはずです。幕臣にも各藩にも有為な人材がいたのに、関ヶ原の合戦の続きをやっているようなつもりで、単に「敵だ!」というだけで殺してしまったつけは、明治という時代にやってきました。「勝った、勝った!」と喜んでいたら、さらに強大な敵が目の前に現れたのです。それは、姿形も違う怖ろしい鬼のような国々でした。そんな鬼たちと戦わなければならないのに、日本人は、それでも国内政治にだけ眼を向け、同じ日本人同士での戦いを必要としました。明治10年まで続く士族の内乱は、「過去の時代の清算」「幕藩体制の整理」「武士の政治の終わり」という意味では、当然だったのかも知れません。日清、日露の戦争も日本が好んで行った戦争ではありませんが、日本を取り巻く国際情勢を見れば、やるしかなかった戦争ということも出来ます。開国して世界に出てみれば、そこは弱肉強食の修羅の世界でした。欧米列強が中国という「眠れる獅子」に眼を付け、虎視眈々と迫ってくる中で、日本だけが安穏と生きられるはずがないのです。まして、ロシアは常に太平洋に出ようと、「南下施策」を採り朝鮮半島や日本に迫っているのです。それは、目覚めてみれば四方から匕首を突きつけられているようなものです。しかし、日本人はそれに怯むことなく、戦う道を選択したのです。それが帝国主義の終焉の始まりとなりました。

2 肥大化した陸海軍

明治から昭和の前期まで、世界は帝国主義で覆われていました。もちろん、それは政治的なことであって、どの国でも市井の人々は温かく優しさに溢れていました。当時のアメリカも学問の自由が尊ばれ、音楽や芸術もレベルが高く、みんなが競い合うようにして学んでいたといいます。同じ文明を持つ者同士は仲も良く、人権にも敏感でした。しかし、一旦政治となると、怖ろしいほどにエゴをぶつけ合い、戦争をも辞さない激しさと強さを見せたのです。この二重性は、今でも残されていますが、人間は、たとえ教養を身につけても、究極的にはエゴイストなのかも知れません。一方で暴力的に支配しておきながら、一方で宗教家が慈善活動を行います。同じ国の同じ民族の人が、まったく違う顔を持つのですから、侵略を受けた国の人は、何を信じていいか…分からなくなります。アジアでも中国、東南アジア、インドは欧米諸国の植民地となり、朝鮮半島は「日韓併合」で日本領となりました。「満州国」も日本の力で建国され、日本の支配下に置かれていました。こうした植民地政策は、欧米では「搾取と間接統治」で支配し、その土地の人も資源も上手に奪うことで自国の経営を支えたのです。ところが、日本の場合は「大アジア主義」と言うような理想があり、日本がアジアの盟主となって欧米列強に対抗しようとする考えがありました。それは、世界が白人優先主義であり、アフリカもアジアもアメリカも、有色人種にとっては常に「差別」という人間にとって最低な立場に置かれていたからです。第一次世界大戦後に日本が国際連盟に「人種差別撤廃」を主張したところ、アメリカ大統領ウィルソンのひと言で、これが却下され、日本は国際社会から睨まれることになりました。奴隷を酷使し繁栄を勝ち取ってきた白人国家にとって、有色人種は所詮「動物」並だったのです。その中で、日本は、近代化に成功した唯一の有色人種の国でした。国際社会は、強大が軍事力を擁し、大国ロシアに勝利した日本を蔑ろにするわけにもいかず、日本を受け入れたかに見えましたが、いつでも足を引っ張る用意はあったのです。第一次世界大戦後の軍縮条約で日本を抑え込もうとする意図は見え見えでしたが、それでも日本は国際協調を主とした外交で難局を乗り切ろうと考えていたのです。しかし、軍人は、元武士の末裔を自負していました。国際協調という建前はありましたが、易々と負けることを嫌う軍人たちは、ロシアに勝ったことでさらに自信を深め、政府に軍費の増額を平気で要求するようになったのです。陸軍は、ロシア(ソ連)を仮想敵国として満州を舞台に戦争をすることを想定して軍備を整えていきました。海軍は、アメリカ合衆国を仮想敵国として太平洋上で決戦をすることを夢見ていたのです。「敵はソ連とアメリカ」という二大強国では、予算がいくらあっても足りません。陸軍は新型兵器を製造するより金のかからない「兵隊」を揃えることに熱心になりました。満州では、広大な平地を舞台に数万規模での白兵戦を想定していたのです。要するに、人間の数によって高性能の兵器を上回ろうというのですから、人命軽視も甚だしいのですが、幕末の戊辰戦争、西南戦争、そして日清、日露の戦争と、何度もの戦いによって国を創ってきた当時の日本人にとって、兵隊の白兵戦こそが日本人の戦い方であり、「最後の勝利を収めるのは、命を捨てる勇気しかない!」と精神論にたよる軍事力に傾きました。こうして「強い兵隊」という大きな軍事力を手にした日本の軍人たちは、その強大な力を背景に政治に関与するようになりました。組織というものは、一度大きな力を手にすると、どんな時代でも肥大化するのが常です。今の日本政府においても、財務省は予算編成権限を持つ大きな官僚組織です。そのために、官僚が政治家以上に権限を持ち、国を左右するまでになりました。国民の正当な選挙で選ばれた政治家より、試験で入った官僚に大きな権限が与えられるとすれば、議会制民主主義の根本が崩れます。実際、大正期から昭和前期の陸海軍の組織は肥大化し、軍関係の予算の拡大によって国民の生活が圧迫されていきました。戦後、日本が急速な復興を遂げられたのも、こうした軍関係予算がなくなり、一気に国内の整備に回すことが出来たからです。もちろん、今で言う「防衛予算」が少なくていい…ということではありません。日本という国の規模や戦略によって「予算」が決められるべきであって、対アメリカ、ソ連と対等に戦争をする予算など組めるはずがないのです。それを恰も、米ソと対等に戦えるかのような欺瞞を用いて予算獲得競争に走った軍官僚の責任は大きいと言わざるを得ません。そして、その肥大化した組織に身を置くことで、一人一人の軍人は安心を得ていました。「これで、一生安泰だ…」という心の隙を巧みに突くように、自分の所属する派閥のために働くことをよしとする軍人が登場し、口だけの主戦論を叫んで見せたのです。平時においても威勢のいい主戦論は、人の気持ちを高揚させました。「アメリカをぶっ潰せ!」と声高に叫び、拍手喝采を受ければ、もう後には引けなくなります。「どうせ、そんなことは無理だ…」と本音では思っていても、火を消す役よりも点ける役は簡単です。消す役の人間を「弱虫!」と罵倒し、恰好だけでも威勢のいいことを言っていれば、その場を凌げます。こうした軍人が中心となったことで、対米英戦争が起こったとも言えます。戦後、主戦論を唱えた軍人の多くは生き残り、雑誌の取材などで「実は、自分は戦争には反対だったんだ…」としおらしくして見せました。社会に迎合して生き延びようとする卑屈な人間は、どの時代にもいるものです。敗戦の責任を取って自決した軍人は、思いのほか少なく、心ある人々を落胆させました。

3 日本軍の戦略思想

陸軍の任務は、仮想敵国「ソ連」を牽制し、日本への侵略意図を阻止することにありました。ロシア帝国の時代からソ連は、常に不凍港を求めて南下政策を企図していました。それは、今でも同じです。ソ連にとって朝鮮半島は、どうしても手に入れたい地域です。この半島が手に入れば、太平洋に進出する足がかりが出来ます。しかし、太平洋に出て行くために、どうしても邪魔な障壁がありました。それが「日本列島」です。もし、この日本列島を自国に編入することができれば、太平洋を挟んでアメリカと対峙することが出来るのです。現実にそれをねらっているのが、今の中国共産党でしょう。中共は、アメリカ大統領に対して「太平洋を二分して中国とアメリカで統治しないか?」と提案したと言われていますが、まさに、本音が出た発言でした。もちろん、日本がそこにあるにも関わらず、こうした発言ができる裏には「日本なんて国は、近いうちに滅ぼすことが出来る」と考えているからです。まさに、当時のソ連と同じ発想です。そして、ソ連は日本に対して「共産主義思想」を吹き込み、多くの同志(スパイ)を日本に送りこみました。戦争をしなくても、内部から日本社会を分断させ、ソ連の有利になるように働きかける任務を帯びたスパイは、一般社会にも政府内にも深く入り込み、日本の社会と政治を動かしました。大東亜戦争が始まる前に摘発された「ゾルゲ事件」の関係者は、まさにその中枢にいた人たちでした。そのとき、近衛文麿首相の側近だった尾崎秀実がリヒャルト・ゾルゲと共に逮捕され処刑されましたが、逮捕された多くは、日本の有力政治家や貴族階級に近い特権階級に属する人々でした。日本を動かす「天皇の藩屏」となる階級の人々が共産主義に犯されていたことは、世間を驚かせました。当然、近衛首相自身が、彼らの思想の支持者だったことは間違いありません。評論家の中には、「近衛は、それらを政治に利用したんだ…」と言う人もいますが、思想的な共感なくして、彼らを実際の政治に使うことなんてできるはずがありません。実際、書記官長(今の官房長官)には、有名な共産主義者の「風見章」を登用しているわけですから、まさに親ソ連の政府が戦争を始めたのです。特に陸軍の将校には、共産主義に共鳴する者が多く、2.26事件を起こした将校たちの多くは、まさに日本に共産革命を起こし、軍部独裁政権を打ち立てようとしていたのです。今でも彼らの純粋性を哀れみ、同情的な声が聞こえますが、彼らもまた、政治を動かす思想家や政治家に利用された側面があります。「天皇親政による軍部独裁政権」のどこが民主的で、理想的な国家なのでしょうか。時代背景を見れば、やむを得ない…という人もいますが、それは、まさにソ連の共産党独裁政権と何ら違いがありません。特権階級だけが富、国民は等しく貧しくなる国造り。軍事力だけが突出して大きく、予算のほとんどを核開発に注ぎ込まれる国のどこが幸せなのか、教えて欲しいと思います。それを彼らは「昭和維新」と呼びましたが、もし、このクーデターが成功していれば、日本はソ連と同盟を結び、同じ共産主義国家として近い将来、ソ連の衛星国になっていたことでしょう。当然、皇室は廃止され、ロシア革命のような末路を迎えたことは、想像に難くありません。しかし、いち早く、彼らの意図を見抜いた昭和天皇の英断によって、その計画を頓挫させることに成功しましたが、共産主義思想が日本から消えたわけではありませんでした。そもそも共産主義とは、特権階級を否定しています。つまり、日本の場合「皇室」そのものを否定しているのです。ロシア革命では、皇帝一家は暗殺され、その血は途絶えました。だから「万世一系」の天皇を除くことは、日本の歴史の否定であり、日本を別の国に変えようとする「革命」なのです。だからこそ、「共産主義」は日本に入れるわけにはいかない過激思想でしかなく、それを認めることは絶対に出来なかったのです。ただ、当時の思想家たちは、「天皇親政による共産革命」を夢見ていました。そして、それを行うのは、軍人だ…と考えていたのです。陸軍には「統制派」と「皇道派」という二つの派閥が存在していました。どちらも「天皇中心の軍部独裁内閣」を夢想し、議会制民主主義を否定していましたので、考え方は同じようなものです。しかし、2.26事件を起こした将校たちの多くが皇道派に属する軍人たちだったことから、それ以降は統制派の軍人が陸軍の中枢に座ったのです。開戦時の首相を務めた東條英機はもちろん、統制派の軍人でした。皇道派の軍人の多くは前線に追いやられ、空しく戦死したり戦犯容疑で処刑されたりと、派閥の争いは敗戦後まで続きました。ソ連という国は、ロシア革命によって誕生した国ですが、傍から見れば、労働者階級が自らの闘争によって国を特権階級から取り戻した…というように見えましたから、差別的な扱いを受けていた封建主義的な国の人々から見れば、理想的な国家に見えたのです。日本の中にもその思想に共鳴し、庶民のための政治を行うためにも共産革命は必要だ…と考える人は多く出て来ました。しかし、それが一面的な見方であることは、戦後誕生した共産主義国を見ればわかります。ソ連も中国も北朝鮮も一党独裁体制を敷いて国民を等しく貧しくしました。そして、富は一部の特権階級が奪い、平等な配分はいつまでたっても行われませんでした。それでも、政治や軍、警察を掌握した独裁者に敵う術はありません。今では、当然のように知っている事実でも、当時の国民はそこまで考える情報もなく、ひたすら盲目的に共産主義に傾いて行ったのです。そんな軍人たちが、本気でソ連と事を構えることなどできるはずがありません。「日本をねらう怖ろしい敵国だ」という認識はあっても、その政権の思想に共鳴していては、陸軍の対ソ戦略も怪しい限りでした。では、海軍はどうでしょうか。もちろん、海軍の中にも同じような親ソ派と呼ばれる人たちはいました。海軍大臣や首相を務めた米内光政は代表的な人物です。軍令部総長だった永野修身や連合艦隊司令長官だった山本五十六なども米内に近い人物として名前が挙げられています。終戦の際に、米内は終戦派の軍人として評価されていますが、ソ連を仲介として和平案を考えたのは米内と木戸内大臣です。彼らは、「連合艦隊の残りの軍艦と引き換えに仲介を頼んだらどうか?」とか、「いや、ソ連はそんなに悪い国じゃないよ…」と言って、ソ連に近づこうとしていたのです。もし、ソ連が仲介に乗り出せば、北海道の分割くらいではすまなかったはずです。終戦間際に日本との中立条約を一方的に破棄し、満州、樺太に攻め込み、玉音放送後に千島列島に侵攻してきたのはソ連軍です。降伏した多くの日本兵を極寒のシベリアに送り込み、強制労働をさせ、何万もの日本兵を死なせたのはソ連です。米内や木戸は、これをどう評価するのでしょうか。その海軍は、太平洋を挟んで対峙しているアメリカ合衆国が仮想敵国でしたから、アメリカの太平洋艦隊と決戦することを夢見ていました。やはり、日露戦争時の日本海海戦の夢が捨てきれなかったのです。あのときの東郷平八郎連合艦隊司令長官の大活躍は、世界中の海軍軍人の憧れとなりました。東郷の後の海軍軍人たちは、「出来れば、自分も大艦隊を率いてアメリカ海軍と一大決戦をやってみたい…」と夢想して、世界三位となる連合艦隊を造り上げていったのです。日本海軍は、日露戦争以降、第一次世界大戦に参戦し地中海に駆逐艦隊を派遣した他は、戦闘を経験していませんでした。そのためか、そのころに海軍の中枢に座った海軍軍人は、実際の指揮を執った経験がないのです。有名な山本五十六でさえ、日本海海戦に海軍少尉として参加していますが、指揮をしたとまでは言えません。下級指揮官で、一戦艦の部署で戦っただけのことです。それが、昭和の大戦争の指揮官になるわけですから、経験不足は否めませんでした。大正時代の海軍は、陸軍と同じように「艦隊派」と「条約派」の二大派閥に別れ、海軍部内で勢力争いをしていたのです。艦隊派は、アメリカと対等に戦える艦隊を整備することに主眼を置き、「大戦艦を持った方が敵が怖れ、防衛力が増す」という考え方でした。逆に条約派は、「軍縮条約に参加して、お互いに軍拡競争にならないことが日本に取って得策だ」と考えていました。現実的に見れば、条約派の方が理に適っているように見えますが、帝国主義まっただ中の時代です。昔から「寝首を掻かれる」という諺があるように、「怠りなく準備をする」という点においては、艦隊派の理屈もわかるのです。しかし、それがどちらか一方に偏ると、派閥抗争に明け暮れ、将来を見誤る原因となりました。事実、ロンドン軍縮条約で妥協できなかった日本海軍は、その後、条約派の軍人たちを予備役に追いやり、日米戦争を艦隊派の軍人たちで戦い敗れたのです。陸軍は、統制派の軍人たちで戦い、海軍は艦隊派の軍人たちで戦い、共に滅びました。自分が将来を託した組織が消滅し、自分の勝手な論理がすべてを無くす原因になろうとは、考えもしなかったでしょう。あんな大戦争にも関わらず、「挙国一致」体制で戦えなかったが、残念でなりません。もし、有能な人間を政府や軍に呼び戻し、相応のポストに就けることができれば、もう少しましな戦争が出来たような気がします。所詮は、人間のエゴイズムを剥き出しにしても、国を救えないという事実だけが残りました。

4 本土決戦論

昭和20年に入ると日本はいよいよ追い詰められ、「本土決戦」が本格的に検討されるようになりました。4月に沖縄にアメリカ軍が上陸すると、日本は徹底抗戦に努めましたが、一旦形成が不利になると沖縄を放棄し、本土決戦で雌雄を決しようと、陸海軍の精鋭部隊や航空部隊を温存したのです。そのために、沖縄県民は日本本土から見捨てられ、多くの県民が犠牲になりました。そして、このことは、戦後、沖縄県民が日本本土の人々に複雑な感情を抱く原因になったのです。事実は、数千に及ぶ陸海軍の特攻機が連日出撃して敵艦への体当たりを敢行しました。また、戦艦大和の艦隊が沖縄嘉手納湾目指して特攻出撃し、3000名に及ぶ戦死者を出しました。それでも、沖縄の戦いが、「沖縄決戦」にならなかったことは事実です。実際、沖縄では陸軍部隊は壊滅し、戦艦大和を沖縄に突入させたところで、戦局の挽回は不可能でした。本来、大本営は、沖縄軍守備隊に、降伏するよう命じるべきでしたが、日本軍は「降伏」を忌避し、常に「玉砕」という全滅するまで戦うという精神論に凝り固まっていました。日本人は「潔さ」を美徳としていますが、「命を捨てる」ことまで潔さを求めてしまったのです。明治時代までの戦争には、戦争のルールがあり、武士道や騎士道の精神がありました。たとえ、降伏して捕虜となっても、敵を貶めるような行為は恥ずべきことだったのです。だから、乃木希典大将や東郷平八郎大将は尊敬されているのです。ところが、日中戦争以降の戦争は、冷静さを失い、いつの間にか精神論一辺倒に陥ったのは、日本人の閉鎖性が原因なのかも知れません。逆にアメリカ軍や中国軍も日本兵に対してかなり残虐な殺し肩をしていますので、「降伏や捕虜になると辱めを受ける」という意識は日本軍に根付いていたのかも知れません。それ以後の戦争もルール無視の戦争が行われているようです。ただし、日本軍が本当に近代の軍隊であれば、「降伏」や「捕虜」という当たり前の手段を兵隊たちに教えなければなりませんでした。それを怠り、「最後の一兵まで戦え!」という命令は、軍隊の命令ではありません。個人の感情が優先され、「軍」という近代の組織を忘れては、国軍を名乗る資格を失っているように思います。まして、「絶対死」を命じた「特攻命令」などは、軍隊としての異常な姿を露呈しています。神風特別攻撃隊第一号の命令を下した大西瀧治郎中将自身が「統率の外道」と言うように、「外道作戦」を採るしかなかった時点で戦争は負けています。戦争の終わり方も考えずに、闇雲に大戦争に突入した政府や軍部の責任は大きいと言わざるを得ないのです。大東亜戦争は、8月15日の昭和天皇の「玉音放送」によって、実質的に終結しました。もし、このときの聖断がなければ、日本は、昭和20年から21年にかけて戦争を継続していたと思います。アメリカ軍は既に日本本土上陸作戦を計画しており、鹿児島と千葉、神奈川に上陸して東京を制圧しようと考えていました。もし、そうなれば、日本で戦えるであろう男女は、根こそぎ動員され「特攻攻撃要員」になったはずです。武器はありません。「竹槍でも鉈でも、包丁でもなんでも使って戦え!」と命じられ、後、数百万人は犠牲になったはずです。天皇は長野県の松代に避難し、東京は悲惨な修羅場になったことでしょう。空襲はさらに全国に及び、原爆も後2発程度は落とされています。そうして、徹底抗戦を続けた結果、日本は無政府状態になり、本当の無条件降伏をして国が無くなったのです。想像するだけで空恐ろしいシュミレーションですが、「本土決戦」とは、そのようなものだと言うことは、あのドイツが物語っています。皇室も松代大本営が落ちれば、天皇のお命すら保証がなく、戦争が終わったとしても、日本国という存在がなくなったことは間違いないでしょう。陸軍にしてみれば、海軍に引き摺られて起こした戦争でしたが、その力を十分に発揮出来ないまま終戦となることに耐えられなかったのだと思います。そのために「本土決戦論」は、陸軍が主導しましたが、それを収めたのは陸軍大臣だった阿南惟幾大将でした。阿南大臣は、戦争の責任を取って武士らしく腹を切って亡くなりましたが、海軍では、戦争の責任を取って自決した将官はいませんでした。因みに、大西瀧治郎中将が自決しましたが、彼は「特攻隊の英霊」に対しての責任で自決したのです。

5 帝国主義の終焉

「大東亜戦争は、アジアにおける日本を疎ましく思った国際社会を支配する勢力が意図的に仕掛けた戦争だった…」という説が最近唱えられるようになりました。これを従来の歴史観を重んじる勢力からは、「歴史修正主義者」というレッテルや「愛国主義者」「極右」という言い方で排斥しようとしています。しかし、戦後75年以上が経過し、情報公開が進む中でアメリカだけが、アメリカの言う「太平洋戦争(パシフィック・ヲー)」の情報が公開されていません。これは、最高の国家機密に属する情報だ…ということなのですが、東京裁判の言うように、「日本が共同謀議を行い、侵略戦争を始めるために、真珠湾を騙し討ちで攻撃した」という論理ならば、何も情報を隠す必要がありません。正々堂々と当時の情報を公開して、日本の歴史認識を定めればいいだけのことです。それを躊躇うということは、アメリカ自身に隠しておきたい事実があるのではないか…と勘ぐられても仕方がありません。これと同じように、ケネディ大統領の暗殺ファイルも公開出来ないのだそうです。もう、だれもが分かっているように、アメリカという国は、権力者の都合がいいように情報を隠し、自分たちに都合のいい「物語」を創る国なのです。実際、ルーズベルト大統領時代のアメリカ政府に多くのソ連のスパイが入り込んでいたことは、既に明らかにされています。あのおぞましい「ハル・ノート」を起草したのも、ヤルタ会談を主導したのも、ソ連のスパイなのです。そんな連中が暗躍していた時代だと考えれば、当時のアメリカ政府がどういう方針で日本に向き合っていたかが想像出来ます。最近では、トランプ大統領が敗れたアメリカ大統領選挙がいい例です。あれを「正当だ…」と言い放つ人間は、アメリカ国民の中にどのくらいいるのでしょうか。非常に疑わしい選挙をしても、それを報道もせず、日本のマスコミもその体制に飲み込まれて、いい加減な報道をしていました。さて、いずれ、それらの真実が暴かれる日が来るのだと思いますが、そのとき、日本の歴史は修正されるのでしょうか。さて、そんな汚名を着せられて滅亡寸前まで追い込まれた日本でしたが、昭和天皇のご決断と戦後の社会変動によって、日本は辛うじて独立国として存続することが出来ました。もし、本土決戦になっていれば、現在、日本という国はなく、共産主義国「ヤポーネ」とでもいう国が誕生していたことでしょう。そして、ソ連が崩壊した後も皇室のない日本は、根無し草のように漂い、中国に飲み込まれていたかも知れません。あの終戦は、日本が生き残る最後のチャンスだったとしか思えません。そして、日本が何とか生き残った後、世界は帝国主義の終焉を迎えました。欧米列強に侵されていた世界中の植民地国が、次々と独立戦争を起こして本当の独立を勝ち取っていったのです。大英帝国を誇ったイギリスは、ドイツとの戦いで疲弊し、アメリカの援助なくして戦争を継続することも出来ませんでした。辛うじて第二次世界大戦の戦勝国になりましたが、その栄光は地に墜ちてしまいました。他のヨーロッパの国々も同じです。どの国も勝利したとはいえ、莫大な戦費と犠牲、国土の荒廃によってこれまでの植民地支配が出来なくなったのです。その上、敗れたとはいえ、「アジア解放」を謳った日本軍のめざましい進撃は、彼らに勇気と希望を与えたことも事実です。ロシアを破り、また、欧米と互角に戦った日本軍の姿を彼らは見ていました。そして、最後はボロボロになり国土は荒廃しましたが、それでも、また立ち上がり、高度経済成長を成し遂げた日本に、どれだけの勇気を貰ったことでしょう。「やればできる!」は、自信を失っていた有色人種の国の人々を奮い立たせたのです。これは、日本に取っては、戦争の副産物のようなものかも知れませんが、自分たちで考えるより、有色人種の人々の評価は非常に高いものがあると思います。実際、日本人がそれを意識することはありません。国内では、東京裁判史観と呼ばれる歴史観でないと、学校では「〇」は貰えません。さらに、社会に出ても変人扱いされ、出世の道は閉ざされます。だから、だれもが口を噤み関わらないように、避けて通るようにしているのです。本当は多くの日本人が気づいていても、賢く振る舞わないと自分に不利益を被るとなれば、敢えて火中の栗を拾うような真似はしません。それでも、いつか、真実が暴かれる日を心待ちにしているのです。

6 歴史を取り戻す

なぜ、昭和史が謎に包まれているかと言えば、それは、国民から真実を覆い隠すような嘘が多いからです。これは、アメリカも中国も日本も同じです。もし、国民が真実を知れば、どのような反発があるかわからないから、政権にある者たちは、それを怖れて情報の公開が出来ないのです。しかし、少しずつではありますが、真実が明らかにされてきました。特にソ連が崩壊したとき、多くの秘密文書が公開されました。ロシアは、ソ連の負の遺産を引き継ぐことはしなかったのです。次があるとすれば、それは中国でしょう。なぜ、中国が共産党支配になったのかを知る鍵は、アメリカと中国共産党の内部文書にありますが、これが明らかになれば、当時の国際社会の闇がすべて暴かれるはずです。よく「歴史は権力者によって創られる」という言葉がありますが、それは今も続いているということです。日本は大東亜戦争によって、明治から昭和にかけての歴史を改竄され、嘘で創られた物語を真実だと思い込まされてきました。それが一度、学問的に認められ、社会通念となれば、もう覆すことはできません。その歴史観によって「生きる人々」がいるからです。日本は大東亜戦争の敗戦によって、大東亜戦争のがアメリカのいう「パシフィック・ヲー(太平洋戦争)」に変えられてしまいました。もちろん、日米戦争はアメリカからしたら太平洋を舞台に戦った戦争ですから、太平洋戦争なのですが、日本は、アジア解放を目指して、中国、東南アジア、インドに跨がる広大な地域で戦争を行いました。主戦場は海軍が担当した太平洋でしたが、それだけ広大な地域を戦場にして戦ったのです。だから「大東亜」なのです。開戦の詔書にもその呼称が使われています。これなどはその一部でしかありません。東京裁判では、今でも議論されている多くの事案が日本軍の行為だとして裁かれました。特に南京事件や慰安婦問題などは、戦後に日本を貶めるために捏造された部分が多い事件だと思います。当時、中国の蒋介石の国民党軍には、多くのアメリカのジャーナリストが入り込み、国民党と結託して、日本軍の戦いを殊更に貶める記事を世界中に配信していました。このジャーナリストもソ連のスパイとも考えられます。こうした宣伝活動は、孫子のいう「詭道」です。実際の戦闘などよりも、こうした情報戦で敵を内部から切り崩す戦法は、中国が得意とする手法です。日本は、いつまでも「武士道精神」で戦おうとするあまり、近代戦争では当たり前な「降伏」することや「捕虜」になることを禁じたわけですから、軍隊として成り立ってはいません。日本の戦国時代でさえ降伏や捕虜は当たり前の行為で、条件さえ整えば、捕虜の交換も行われていました。日清、日露の戦争でも同じです。ところが、昭和になると、「戦陣訓」なる妙な訓話が発表され、「生きて虜囚の辱めを受けず」などという余計な一文が入ったために、軍人の降伏を阻みました。だから、日本兵は、生きることをすぐに諦め、自決の道を選んでしまったのです。それを国民に強制するような空気を創り上げたのが失敗でした。もっと、人間を大切にした近代的な軍隊であれば、敵のスパイに足下を掬われるようなことはなかったと思います。こうした、日本人の閉鎖性も歴史を敵の思うがままにされる原因となりました。今、日本を動かしている指導者たちは、戦後の既得権で生きてきた人々の子孫に当たります。政治家は、GHQの指導の下に出来た政党の後継者であり、アメリカ従属の精神から抜け出そうとはしません。そして、中国に対しては、「アジア侵略」を行った人間の子孫として振る舞い、ひたすら卑屈になることで、政治家として生き残ろうとしています。経済人は、中国からの甘い誘いに乗り、製造工場を次々と中国に移転してしまったことで、首根っこを押さえられ、常に監視と脅しと甘い汁によって、完全に中共に屈服しているようです。学者は、今や中共と結託して軍事研究を行い、日本の学問の情報は既に中共に筒抜けの状態になっています。そして、学閥を牛耳るのは東京裁判史観の学者たちばかりですから、新しい学問は生まれません。こうした体制は、戦後70年以上をかけて作られてきたのです。しかし、若い世代は違います。そうした恩恵を受けていない世代は、常に冷静に物事を見ています。大人たちの尤も臭い言論を危ぶみ、自ら調べようとしています。自分で調べて、自分で考え、自分で判断して行動する世代が間もなくこの国の中枢を担うはずです。その人たちは、きっと是々非々で物事を判断し行動していくことでしょう。そうすることが、日本の歴史と伝統を受け継ぐ世代になるのです。戦後100年は、日本の長い歴史の中の1ページでしかありません。後100年後に、「日本が日本でなかった時代」として取り上げられ、「過ちは繰り返さない」歴史を創ってくれることを期待しています。

 

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