海軍兵学校長
「井上成美」の教育漫語
矢吹 直彦
はじめに
日本陸海軍が消滅して七十七年。
日本の歴史の中に軍隊なるものが存在した期間と同じくらいの年月が経ってしまった。今では、帝国陸海軍の研究をする研究機関や大学もなく、戦後誕生した「自衛隊」ですら、軍隊としての機能は有してはいない。
兵器の質や組織上は、軍隊に準じているかも知れないが、法的には、自衛隊は軍隊ではない。なぜなら、自衛隊はすべて国内法に照らして行動することになっているからだ。たとえば、緊急事態においても、すべて国会において法律を制定した後に軍事的な行動が取れるのだ。若しくは、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣が、超法規的措置という「奥の手」を使って、直接命令するしかない。どのみち、緊急事態には間に合わない仕組みになっている。
こうした議論や研究が為されないまま、現在に至っていることは、近隣諸国の不穏な動きから考えて非常に危険である。まして、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻を目の当たりにした今日、憲法改正や核攻撃に備えた体制を整えることは、政治家としての任務だ。
国民の大多数が戦後生まれになった現在、軍隊という組織を語れる日本人はごく少数になった。戦争経験者もほとんどが被害を受けた少年期を過ごした人ばかりで、戦争の実態把握ができていない。
もし、日本国民が恒久的な平和を望むのであれば、戦争や軍隊の研究を避けるのではなく、積極的に行って旧日本軍の問題点を洗い出す必要があると思う。
ここで取り上げる「井上成美」は、帝国海軍の軍人として、当時の対米戦争に深く関わった人物であり、終戦時に海軍大将という地位にあった。
大東亜戦争中には、第四艦隊司令長官、海軍兵学校長、海軍次官を歴任している。そして、海軍次官を務めていたときに、終戦にも深く関わった。
戦前からリベラルな将軍と言われることが多く、その評価は、分かれるところだろう。リベラルと言っても、今のような左翼を表す言葉ではなく、「自由主義者」とでも訳した方がいいと思うが、井上は、権力に阿らず自分の意見を堂々と主張するという意味で「リベラル」という英語を遣っていたようだ。
井上は常に冷静で表情も乏しい。物事が理詰めで、妥協の余地がない。多くの日本人のように忖度することを嫌い、思ったことを口に出す。それ故に、周囲に敵を作りやすい人物である。それに、日本人に好まれる「猛将」型の将軍でなかったことから、評価は分かれる。但し、それが海軍兵学校という海軍将校を養成する教育機関においては、その力を有効に働かせ、在任期間中、非常にリベラルな教育を実践してみせた。
戦後は、各方面から再就職の声がかかったそうだが、すべてを固辞し、横須賀市長井の海の見える小さな自宅の洋館で、地域の子供たちを相手に英語塾を開き、余生を過ごした。
これも大東亜戦争を敗北に導いてしまった海軍大将の身の処し方だったのかも知れない。
海軍兵学校長を命じられたとき、井上は、「自分に教育は向きません!」と辞退したそうだが、戦後、英語塾を開いたところをみると、兵学校長として生徒たちに指導する中で、「教育とは何か」を感じ取っていたのかも知れない。
井上は、兵学校長時代、自分の学校経営方針というべき「教育漫語」という冊子を各教官に配布し、指導の統一性を図った。
井上が兵学校長に就いていた期間は、昭和十七年十月から昭和十九年七月までの期間で、生徒は七十二期、七十三期の時代だった。
昭和十七年末頃になると戦局は次第に厳しくなり、その年の十二月に卒業した七十一期生徒たちは、卒業と同時に苛烈な戦場へと投入されていった。
七十二期や七十三期の生徒の中には、特攻隊の指揮官として戦死した者も多く、若い下級将校として最前線に立ち、若い命を散らしたのだ。
教官になっている者も、戦場から還ってきたような軍人ばかりになり、生徒たちへの教育も常に戦場を引き合いに出し、異様な雰囲気を醸し出していたという。そんな中で、井上は、この「教育漫語」を教官たちに配付したことで、物議を醸し出した。
「校長は、いったい、何のつもりでこんな悠長な冊子を配っているんだ!」
とか、
「こんなんで、戦場で勇敢に戦えるか!」
などと言った怒りの声が、教官室に谺した。
もちろん、民間出の教官たちの中には、「尤もだ」と考える人も多かったようだが、戦場を経験した軍人たちの多い教官室は、文官の教官が声に出せる雰囲気はない。
ちょうどその頃、兵学校では、「英語廃止論」が議論されていた。それは、戦時中だということもあり、全国で「英語表記撤廃」運動が巻き起こっていたからだ。
日本政府や地方政府は、国民や兵隊を鼓舞するために、国民にスローガンを募集したり、街中に戦時ポスターを掲示したりしていた。街中は、どこを歩いても軍歌が流れ、戦時色一色で、人々は、地味な国民服やモンペで過ごすようになっていた。
衣類等の配給も昭和十七年から始まり、国民生活は不自由を強いられていたのだ。
全国の各学校でも「英語教育廃止論」が起こり、国民の中から「敵性語は廃止しろ!」という声が高まっていた。実際に、全国の学校で英語の時間は少なくなり、実質的に世間の目もあり、英語の授業は消えていた。
陸軍士官学校でも受験科目から「英語」を外し、多くの英語発音の物の言い換えが起こった。そのころ、野球は東京六大学野球が人気で、人々は熱狂的に応援していたが、それも、「野球は敵性スポーツだ!」と言って、大学野球や中学野球ができなくなった。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の例え通り、日本人の島国根性が顕された。それは、兵学校の中でも起きていた。
「陸軍士官学校は、英語を受験科目から外したそうだ。兵学校も外さなければ、優秀な生徒が陸軍に流れてしまう!」
と、教官室で軍人たちが騒いだ。
それに対して、校長の井上は、表情も変えず毅然として、
「英語のひとつも学ぼうとしない生徒は、海軍にはいらない!」
と言い切り、部下の軍人たちを一喝した。その後も陰でブツブツ言う者はいたそうだが、井上に表面切って議論できる強者はここにもいなかった。さすがに三国軍事同盟を体を張って拒否してきた男である。若い教官如きが太刀打ちできる筈もなかった。
校長のひと言で、兵学校での英語教育は救われたのだ。そして、終戦のその日まで、海軍兵学校で英語教育は行われていた。
戦後、井上は、当時を振り返り、
「海軍士官は世界中を回り、その国を代表して外国の海軍士官と交流することになるんだ。戦争だからといって、英語教育や普通学を疎かにすれば、日本の恥となるだろう。そんな人間を私は育てたくなかった」
「それに、この戦争は負ける。そして、戦後の復興が始まるのだ。そのときに、生き残った者たちが新しい国を造るのだ。そのために、教育を疎かにすることはできない」
というように回顧している。
今聞けば、至極真っ当なことを言っていると思うが、戦時下の明日の命も知れぬ中で、それを堂々と言い、自分の主義主張を貫いた井上成美という人物は、只者ではない。
こうして井上は、望むと望まざるとに関わらず教育者の道を進んでいたのである。そして、気がついたことを小冊子「教育漫語」に認めた。
それでは、井上の「教育漫語」なる物が、どのような教えであったのか、整理していきたい。
第一章 井上成美という男
井上成美は、明治二十二年、宮城県仙台市に父嘉矩、母もとの間に生まれた。十三人兄弟の十二番目になる。十三人兄弟というのも、昔でも子だくさんだが、それでも、兄弟が多かったのは、母親の努力による。
井上がある上官から、
「貴様は、何人兄弟だ?」
と尋ねられ、
「はい、十三人であります!」
と答えると、その上官から、
「貴様、ふざけとるんか!」
と叱られたという逸話がある。さすがに十三人は、当時としても多すぎたのだろう。
母もとは、嘉矩の後妻で、前妻の花子は、子供を何人か産んだ後に亡くなっている。この時代は、子供を産むことは命懸けだった。
当時の女性たちは自分のことより、子孫を残す方が優先されたのだ。それに、当時の子供は死亡率も高く、十三人兄弟といっても、無事に成長できたのは九人だった。
井上は、実際は九人兄弟の八番目になる。
父嘉矩は、元幕府直参の御家人で、母のもとも、仙台藩士の娘であった。
わずか、二十年前には戊辰戦争があり、幕府も仙台藩も朝敵の立場にあった。
仙台藩は大藩ではあったが、あの時代の流れに乗れず、軍隊の洋式化も進まない状態だった。特に藩内での議論が進まず、奥羽越列藩同盟に盟主として与するが、藩論が統一されていないために参加した藩兵も戦闘意欲に乏しく、仙台兵は「弱兵」として、東北諸藩からも侮られる存在になってしまった。
要するに、武士としての覚悟がないままに新政府軍と戦ってしまったために、命を国のために捨てきれなかったということだろう。所詮、大義のない戦に勝利はない。
幕府も、将軍徳川慶喜が恭順蟄居となれば、直参旗本も、大将を欠いた戦など、大義どころの話ではないのだ。
井上の生まれた頃の仙台は、そんな朝敵の汚名の残る時代であり、旧東北諸藩は中央にも出られず、肩身の狭い思いをしていた。
仙台に暮らす嘉矩にも、そんな屈折した感情が、井上家に暗い影を残していたことは、想像に難くない。
嘉矩という人物が、どのような武士であったかは定かではないが、忸怩たる思いで明治という新しい時代を迎えた武士だということだけは、言える。そして、嘉矩が、生まれた我が子に「成美」と名付けた。
「君子は、人の美を成す。人の悪を成さず」
という論語の一節から名付けたといわれていることからも、かなり学識の高い人物だったようだ。
嘉矩にしてみても、「美を成す」ことのできる武士道を全うしたかったに違いない。
幕臣の侍として、禍根を残す戦だった。そして、恥を忍んで生きているが、先に夢があるわけではない。夢を託す存在は、子供しかいない。そういう時代だったのだ。
当時の東北諸藩の旧藩士たちにとって、「賊軍」の汚名は将来雪がなければならない恥辱だった。正義とは名ばかりの新政府軍のやり方は、真の武士道を貫きたい者たちにとっては、「卑怯」以外の何ものでもないのだ。しかし、敗者に語る言葉はない。
当然、言葉にはしないが、その腹の中は恥辱に塗れている。そして、その恥辱を晴らすことを己に誓い、子や孫の代にまで「恥辱を晴らす」ことを誓わせたのだ。
元長岡藩士の子である海軍大将山本五十六も同じだった。
賊軍となった山本も、この戊辰の恥辱を晴らすために海軍に入り、郷土の名誉のために死んだ。山本の生涯は、国のためというよりも「長岡のため」が強烈にあった。常に基準は「長岡」なのだ。
国にどう思われようとも、長岡の人に誉められる仕事がしたい。それが、山本の一生だったような気がする。
この時代、今の時代の人間と比較しても意味がないだろう。その背中に背負うものが違い過ぎるのだ。
井上自身がどう考えていたかは分からないが、元仙台藩士の子として先祖や父の思いを背負わぬ者はいない。そして、井上は、そのとおりの人生を歩んだ。
軍人として大軍の指揮を執り、海軍大将にまで上り詰めたわけだから、嘉矩の思いは晴れたのかも知れない。しかし、井上にしてみれば、無理な対米英戦争をしかけ、敗戦したことで、嘉矩以上の恥辱を味わうことになった。
父の汚名は晴らすことができたとしても、自分や国の名誉が地に墜ちてしまったことは、国に奉仕する軍人として許されざる行為でもあった。そう考えると、井上の無念というものを考えざるを得ない。さらに、井上が戦後、世を捨てたかのように隠棲した理由がわかる。敗軍の将が世になど出てはいけないのだ。それを恥ずかしげもなく人前に顔を晒し、昔の経歴をひけらかして職にありつくなど、軍人の風上にも置けないと思ったのだろう。
自分の元の上司であり海軍大臣や軍令部総長を歴任した嶋田繁太郎元大将が、新しくできた海上自衛隊の隊員たちの前で演説をしたことを聞いた井上は、「恥知らずが!」と嘆いたそうだ。嶋田は東條首相の腰巾着と揶揄され、海軍大臣、軍令部総長と歴任した海軍の大物だが、本来、絞首刑になってもおかしくない海軍の代表者なのだ。それでも、運良く、すべては、東條英機と陸軍が背負ってくれた。
それが、分かっているだけに、井上が嶋田を罵倒したい気持ちは理解できる。
それはともかく、井上は、その仙台という地で、多感な少年期を過ごした。
その頃の経歴を追うと、
明治三十五年、宮城県尋常師範学校付属小学校高等科二年修了。
同年、宮城県立第一中学校に入学。
明治三十九年、海軍兵学校入校(第三十七期)となる。
海軍兵学校三十七期は、大東亜戦争中、最前線の最高指揮官を担うことが多く、レイテ作戦で囮艦隊を率いた小沢治三郎中将や、ラバウル航空戦を指揮した草賀任一中将らがいる。しかし、アメリカ海軍と真っ向勝負で戦いを挑んだ作戦は、悉く失敗に終わり、多くの海軍将兵を死なせてしまった責任は大きいと言わざるを得ない。
井上も、第四艦隊司令長官として最前線で指揮を執り、オーストラリア近海の珊瑚海で、アメリカ主力機動部隊と激突した世界海戦史上初の「空母対空母」決戦に挑んだ。この戦いは、日本が辛うじて勝利した戦いだと言われているが、井上は、この戦いをとおして、「アメリカ海軍の底力を痛感した」と述べている。
珊瑚海海戦は、お互いに航空母艦一隻を撃沈し、引き分けに終わったが、これにより、アメリカとオーストラリアの交通路遮断を目的としたポートモレスビー攻略作戦が延期になったことから、事実上の失敗だといわれている。
実際に指揮を執ってみて、執拗に食らいつくアメリカ軍将兵のスピリッツは侮れないことに気づいたはずだ。
本当は、真珠湾攻撃の時に、奇襲攻撃にも拘わらず即座に応戦してきたアメリカ軍の戦いを見れば、どれほどの強敵かは分かったはずだが、それを分析した形跡はない。
当時、世界最強と謳われた日本海軍の機動部隊をもってしても、勝てなかったアメリカ海軍とは、どのような敵だったのだろうか。
アメリカ軍は、日本がこれまで戦ってきた中国兵やロシア兵とは大きく異なる資質を有していたのだ。
昭和十年代のアメリカは、世界大不況の時代とはいえ、既に世界一の大国だった。
国民の政治に対する意識も高く、教育水準も日本を遥かに凌駕する。もちろん、人種差別があり、だれもが教育を受けられたわけではないが、多くの兵隊は、自分でものを考え判断する能力を持っていた。それは、日本軍の将兵には見られない。
軍隊は、日本の戦国時代もそうだが、「考える」のは、将校以上の幹部たちだけなのだ。いわゆる「下士官兵」と呼ばれるような兵隊は、ただひたすら上官の命令に忠実に従うように訓練されていた。
日本の軍隊は、基本的に日清戦争のころも大東亜戦争のころも変わりがない。その証拠に、兵隊は「殴って教え込む」教育が徹底されていた。
日本では、今でも「軍隊は殴るところ」というイメージが付いているが、アメリカ軍にそれはない。アメリカ映画に出てくる兵隊は、戦場で指揮官に意見を述べる。すると、指揮官の少尉は、「ああ、わかった。じゃあ、こうしよう」などと、その兵隊の意見を尊重し、一応聞いた上で判断をする。その光景は如何にも自然で、アメリカ人には当たり前なのだろう。日本では、到底考えられない場面だ。
アメリカ海軍では、軍艦の副長規定として、「艦長の命令には、必ず反論すること」と明記されているそうだ。上官といえども、間違うことがあるので、副長にチェック機能を持たせたのだろう。逆に言えば「反論もできないような副長は、無能だ」ということになる。
日本では、「一々反論する嫌な男だ」と、その評価が下がるのは間違いない。
日本軍では、「おかしい?」と思っても、「上官の命令は、天皇陛下のご命令」では、反論もできない。
なぜ、そうなったのかは分からないが、おそらく、明治になって、統制上そんな慣習が出来上がったのかも知れない。明治の海軍は薩摩出身の武士たちが中心に創られたので、薩摩の習慣が、そのまま採用されたのかも知れない。
因みに陸軍は、長州出身者が創ったので、議論好き、謀略好きの気風が残されている。
とにかく、日本軍の幹部たちは、部下の反論などは、軍規違反として捉え、
「貴様の話など聞いてはおらん!」
と怒鳴りつけ、最悪の場合は懲罰の対象にしたのだ。だから、上官が命じれば、どんな間違った判断も採用され、全滅の憂き目に遭おうとも修正されることはなかった。
要するに、みんなの知恵を出し合って最善策を採るのがアメリカであり、指揮官の考えだけで行動するのが日本だとすれば、アメリカ軍に勝利の女神が微笑むことは当然の帰結なのだ。
井上が、「アメリカ軍の底力」と言った言葉の裏には、自分の死も勝利のためには厭わない勇猛さ、徹底した反復攻撃、そして柔軟な組織力に気づいたからだと思う。
海の戦いは、個人の戦いではない。艦隊は、集団として運用しなければ意味がないのだ。日本海軍は、機動部隊の運用において、そのことが徹底されていた。しかし、最前線の戦場における臨機応変な判断ができなかったために、勝利を逃すことになった。
アメリカ海軍に大敗北したミッドウェイ海戦を見ればわかるように、どんなに兵力を揃えても、硬直した組織運営では、戦場での判断を狂わす。なぜなら、大きくなればなるほど、責任も大きくなるからだ。
国の運命をも左右する大海戦を指揮するとなれば、だれだって怖ろしい。
航空戦の専門家ではなかった司令長官の南雲忠一中将は、己に自信がなかったのだ。
あのときの南雲艦隊は、大兵力を擁していたがために、自らその責任をとる覚悟ができずに、無難な「正攻法」という策になったのだろう。
「見敵必殺」は、海軍の合言葉であったにも拘わらず、いざという場面で判断が迷うのは、人間だからである。戦争は、そういう人間くさい一面も見せる。
空母「飛龍」で指揮を執っていた山口多聞少将が、何度も「攻撃隊発進の要あり!」と具申しても、最終責任者である南雲中将は、その決断ができなかった。「一度の迷いがさらなる迷いを生む」典型である。その点、アメリカ軍は違った。
強大な敵であっても、敵を発見したら即座に攻撃機を発艦させ、次々と波状攻撃を行った。この波状攻撃によって、日本軍は完全に受身に回り、効果的な反撃手段が採れないまま時間だけが推移した。
この間、アメリカ軍の攻撃機は次々と日本の戦闘機隊に墜とされ、多くの戦死者を出していた。それでも、その攻撃の手を緩めることはなかった。
結果論だが、もし、山口少将の意見具申を聞き、日本軍も即座に攻撃隊を発艦させていれば、多くの搭乗員を失うことになったとしても、数の力で勝利できたのだ。
この「即時判断」が、指揮官としての最も重要な資質なのだ。
戦国時代の日本の多くの合戦を見ても、全軍を指揮する武将にはこうした一瞬の判断が雌雄を決している。
鎌倉時代の源義経、戦国時代の織田信長、江戸時代の大石内蔵助など、成功した指揮官、皆、高い志を持ち、その目標のためならどんな苦労をも厭わない覚悟と、ここ一番に命を懸ける強さを持っていた。
残念ながら、ミッドウェイ海戦時の南雲中将にはそれがなかった。
教科書のような模範解答を書こうとでもするような慎重さばかりが目立ち、積極果敢な行動が採れない。躊躇して敵に時間を与えれば、形成が逆転するのは戦場の常なのだが、そんな基本も忘れていた。
それにしても、アメリカ軍の攻撃隊は、単機で次々と日本軍の中に突っ込み、その都度、零戦によって撃墜された。それでも、また、突っ込んで来る。その闘争心は日本人の特攻精神以上の強さを感じる。これが、狩猟民族と農耕民族の差なのだろうか。
もし、アメリカ軍が、このとき、大きな編隊を組むまで攻撃を待っていたら、間違いなく日本軍の大勝利だったことだろう。
アメリカ兵は、こうした戦死の確率が飛躍的に高まる命令を受けても、躊躇うことなく「早く俺を出せ!」と艦上で怒鳴り、次々と発艦していった。そして、その多くは還って来なかった。
こうした敵は、今まで日本軍が戦ってきた中国やロシアにもいなかったのではないか。
アメリカ兵も同じ人間。戦争で敵と戦うのは怖いし、命が惜しいのも当然の心理だ。それでも、敵を目の前にして敢然と立ち向かう勇気は、個々の人間の本性による。
アメリカ兵は、単に軍隊の一員として戦っていたのではなく、一人のアメリカ人として祖国を守るために戦っていたのだろう。
そういうスピリッツが、アメリカ兵はにはあった。それは、日本人が誇る「大和魂」以上の勇猛さかも知れない。このことは、ミッドウェイ海戦に参加し、生き残った将兵の記録に残されている。そんな巨大な敵を相手に、真っ向から勝負した最初の戦闘が珊瑚海海戦だったのだ。
第四艦隊の空母瑞鶴、翔鶴は大東亜戦争開戦直前に進水したばかりの新造艦で、南雲機動部隊のようなベテラン揃いの戦力ではなかった。それでも、珊瑚海海戦で少なくても「引き分け」以上に持ち込んだ井上を連合艦隊司令部は「弱腰!」と罵った。
断片的な情報しか入って来ない連合艦隊司令部では、井上に対して、「追撃せよ!」と命令を下したが、井上は、すべての状況を判断した上で追撃中止を命じた。
後から考えれば、井上の判断は理に適っており、一軍の指揮官として責められるような命令ではなかったのだ。しかし、初戦の勢いを勘違いしていた連合艦隊司令部は、しっかりした情勢の分析がないまま戦いを命じたのだった。
日本人は、威勢のいい言葉を冷静に受け止められない癖がある。なぜかは分からないが、今でも大声を張り上げて煽動すると、それに渋々ながらも従う一団がある。「同調圧力」という言葉を最近耳にしたが、どうも、個人という感覚が希薄なのかも知れない。
アメリカ人のような合理的な思考ができれば、ない資源を元に知恵と工夫で難局を乗り切る策が生まれたのかも知れないが、政府や軍自体が同調圧力に負けているようでは、対米戦争のような長期総力戦争には、勝ちようもない。
話が少し長くなったが、ここで、井上の少年期の父嘉矩の教育方針を見てみたい。その中に、井上成美という人物の思考のルーツが垣間見えるはずだ。
嘉矩は、家庭教育にも厳格で、子供の教育にも熱心だったようだ。
井上家には、八箇条にわたる「約束」という家訓が残されている。それは、こうだ。
其ノ一
親ニ対シテ立ツタママ物ヲ言ツテハイケナイ
其ノニ
午前五時三十分朝食 午後九時就寝
其ノ三
室内デモ肌ヲ見セテハイケナイ
其ノ四
胡座ヲカイテハイケナイ
其ノ五
勉強ヲ強制シナイ
其ノ六
友達トノ交際ニツイテハ厳シクセヨ
其ノ七
夜ノ外出ハ一切禁止トスル
其ノ八
早ク行キテ待ツコトアラバ潔シ 遅レテ急グ道ハ危ウシ
というものである。
やはり武家の家の子の躾教育である。現代の家庭教育に当てはめて論ずることは意味がないが、程度の差こそあれ、武士として、人としての誇りを持たせるための教育としては、これくらいの厳しさがあって当然だろう。この躾が、海軍将校になった後も、背筋の伸びた井上成美の姿を彷彿とさせるものとなった。
井上家は、成美を見るまでもなく、どの子供も優秀だった。
長兄秀二は、京都帝国大学理工科を首席で卒業。母校の助教授を務めた後、日本の水道事業に生涯をかけた。
次兄達三は、陸軍士官学校を卒業すると、重砲の開発に尽力し、陸軍中将まで昇進し、日本の砲術の権威になった。
五男多助は、京都帝国大学電気工学科を卒業し、日本の電気やガスの普及に尽力し、日本ガスの社長を務めた。
それにしても、井上だけでなく、兄弟が理化学の才に恵まれていることがわかる。
井上自身も、「カミソリ井上」と言われるように、顔色ひとつ変えず、理詰めで議論することを得意とし、感情が優先する軍人には、かなり煙たい存在だったと言われている。そして、非常に合理的な思考ができる人物で、それ故に妥協しない厳しさがあった。
この妥協を許さない性格は、これから述べる兵学校の教育に於いても、発揮されることになった。
井上の性格は、恐らくは、父嘉矩譲りあったのだろう。この八箇条に渡る家訓と、それを徹底させたという逸話からも、妥協を許しない嘉矩の性格が透けて見える。
嘉矩の幕府直参として、戦わずして江戸城を開城した屈辱は、父親から子へと語り継がれたに違いない。
幕末の動乱と戊辰戦争は、幕府方の人間には許し難い行為だった。
倒幕のためなら何をやってもいいという思考は、武士道に生きる者には、許されるものではない。
革命を起こす側にも一分の理があるのだろうが、それを認めてしまえば、武士道も法も何もかも失うことになる。つまり、三百年近く続いた平和の世の中を、謀略によって一瞬にして破壊された恨みは、子々孫々まで語り継がれなければならない。その井上が、同じ賊軍の汚名を着せられた、岩手盛岡の米内光政や新潟長岡の山本五十六に同調して三国軍事同盟に反対したのも、当然のことだった。
井上にしてみれば、ドイツの勢いに便乗するかのように「勝ち車」に乗ろうとする陸軍や右翼の連中に、幕末の薩摩や長州の男たちを見る思いがしたのだと思う。
海軍にも、陸軍と同じような派閥が存在し、軍拡に力を入れる艦隊派と、国際協調を進めようとする条約派があったと言われているが、それよりも、戊辰戦争の勝者と敗者の、積年の恨みが派閥を分けたように思える。
海軍の米内や山本も、世界を相手に戦争をした人間だが、心の奥底では、今の大日本帝国を壊してしまいたかったのかも知れない。我々は気がつかないが、「戊辰の恨み」は、敗者にこそ強く残るものなのだ。
結局のところ、無理な改革を押し通し、勝者が理不尽な形で敗者を虐げたところに、日本という国が破綻する要因があったのだろう。そうだとしたら、明治維新の評価は、もう一度再検討する必要がありそうだ。
さて、明治三十九年に海軍兵学校第三十七期生徒に採用された井上は、入校時の成績が、百七十九人中の九番だった。賊軍と呼ばれた地方から最難関の海軍兵学校に入校したことは、郷土の誉れであり、井上家にとっても積年の恥辱を晴らす好機となった。
海軍兵学校は、旧制の中学校の生徒の中から選り優れた頭脳と体力の持ち主を選抜したエリート養成機関だ。そして、そこでの成績上位者は、「優秀」という折り紙をつけ、すべてを委ねる指揮官として育成していった。しかし、これは、日本の選抜方法ではない。中国や西洋の選抜方法を日本政府が明治以降模倣したものだ。
江戸時代までの登用方法の多くは、塾や有力者の推薦によるものがほとんどだった。
たとえば、幕府の旗本の中で役職に就くことができるのは、家柄や禄高ではなく、学んだ塾での評判から、その塾の師範、若しくは、有力な親戚等の推薦が大きくものを言った。今の人は、「試験は公平でよい」と考えるが、限られた時間で行われるペーパーテストは、確かに知識や記憶力を測ることはできるが、すべてが過去問ばかりで、人物を見る尺度はない。もちろん、ペーパー試験の後に口頭試問があるが、初対面の試験官に見える人物像は限られている。そうなると、ペーパーテストで高得点をとった者が有利なのは間違いない。したがって、海軍兵学校の試験に合格した者の中にも、指揮官として不適格な人間が多く入っていたことも事実である。
海軍には変わり者として有名になった者も多い。
連合艦隊の首席参謀になった黒島亀人大佐は、変人参謀として有名だったが、「奴は、発想がユニークだ」として山本五十六が重用した。しかし、その作戦のアイデアが尽きると特攻作戦の推進者になった。また、同じ連合艦隊参謀の神重徳大佐は、戦艦大和を水上特攻隊として沖縄に出撃させ、無駄に三千名近い乗組員を死なせた張本人である。周囲の人間は、神を指さして「神がかり」と揶揄した。彼らは、兵学校を上位で卒業した軍人たちである。
特にこの二人は、大東亜戦争史に名を刻む軍人なのでここで取り上げたが、彼らは指揮官として有能だったのだろうか。
そして、海軍は愚かにも、「ハンモック・ナンバー」と呼ばれる「序列」を成績で決めていた。
二十代前半の学校での成績が、海軍士官としての将来を決めるとなると、それ以降は、努力をしても無駄だということになってしまう。
序列が変わるのは、事故や不祥事、病気など、序列を下げることが適当と判断できる場合に限られていた。結果、日米戦争では、この序列のために、有能な軍人がその力を発揮できないまま終わった例が多い。おそらくは、イギリス海軍の模倣だとは思うが、それを時期を見て、日本流に変えることができなかったのかと思う。
イギリスの海軍士官は、全員が貴族階級かそれに準じる人だと聞いたことがある。だからこそ、身分階級の中で、そうした序列が必要だったのかも知れないが、日本は、九十%以上が農民階級である。そこに学力だけで採用した青少年に特別の階級と権限を与え、恰も貴族のように振る舞わせたことにも問題があったと思う。
若い単純な脳は、兵学校生徒や海軍士官になれたというだけで、特権意識を持ち、それほどの能力がないにも関わらず、そのポジションに就いて戦闘の指揮を執らせたことは、大きな誤りなのだ。
単純にどのような制度がいいかは、一概には言えないが、戦後も続く日本式のエリート養成教育も見直さなければならない。そして、井上は、戦闘員としての軍人に適した人間ではないと思う。もちろん、軍の官僚としては優秀だったが、最前線で多くの部下を従えて戦うような猛将タイプではないし、「智謀泉の如し」というような知将でもない。
敢えていえば、優秀な官僚タイプ。しかし、一方、「教育者」という視点で見れば、類い希な資質を持った人間だと評価することができる。
昔から、人事は「適材適所」という言葉があるが、日本型の経営の場合、適材適所に人事を行うには、相当強力な圧力が必要であり、それは、人事の公正感を失わせる危険性があった。そのために、「和を以て貴しと為す」型の日本人には、好まれない。
とにかく、そんな優秀な頭脳を持ち、理屈っぽい性格の井上ではあるが、さすがに厳しい躾を受けた武士の子供らしく、兵学校の訓練にもよく耐えた。そして四年後、卒業時には、二番の成績であったと言うから、その頭脳はピカイチだったのだろう。
これは、優秀生徒に贈られる「恩賜の双眼鏡」が授与され、海軍の将来のエリートとして遇されることを意味していた。
因みに、三十七期生徒の首席は小林萬一郎という人物だったが、病気のために大正十一年に亡くなっているので、井上が、それから先のクラス・ヘッドということになった。
それでは、その後の井上の経歴を順を追ってみる。
明治四十三年、海軍少尉に任官。
明治四十四年、巡洋戦艦「鞍馬」乗組。
明治四十五年、海軍砲術学校普通科学生。海軍水雷学校普通科学生。海軍中尉に進級。
大正 二年、海防艦「高千穂」乗組。巡洋戦艦「比叡」乗組。
大正 四年、駆逐艦「桜」乗組。海軍大尉に進級。戦艦「扶桑」乗組。
大正 五年、海軍大学校乙種学生。
大正 六年、海軍大学校専修学生。砲艦「淀」航海長。原喜久代(二十歳)と結婚。
大正 七年、スイス駐在武官。
大正 八年、長女靚子誕生。
大正 九年、平和条約実施委員。
大正 十年、フランス駐在武官。海軍少佐に進級。
大正 十一年、軽巡洋艦球磨航海長。海軍大学校甲種学生。
大正 十三年、海軍大学校甲種学生卒業。海軍省軍務局第一課局員。
大正 十四年、海軍中佐に進級。
昭和 二年、イタリア駐在武官。
昭和 四年、海軍大佐に進級。
昭和 五年、海軍大学校教官。
昭和 七年、海軍省軍務局第一課長。
昭和 九年、練習戦艦「比叡」艦長。
昭和 十年、海軍少将に進級。横須賀鎮守府参謀長。
昭和 十一年、二・二六事件起こる。
昭和 十二年、海軍省軍務局長。米内海軍大臣、山本海軍次官と共に三国軍事同盟反対。
昭和 十四年、支那方面艦隊参謀長。海軍中将に進級。第二次世界大戦勃発。
昭和 十五年、海軍航空本部長。
昭和 十六年、第四艦隊司令長官。十二月、大東亜戦争勃発。
昭和 十七年、五月、珊瑚海海戦を指揮。
昭和 十七年、十月、海軍兵学校長。
昭和 十九年、八月、海軍次官。
昭和 二十年、五月、海軍大将に親任。軍事参議官。
昭和 二十年、八月十五日、敗戦。
昭和 二十年 十月十日、予備役。
ざっと、これが軍人としての井上の経歴である。
海軍軍人としては、輝かしい経歴だが、海軍の中枢にいた軍人として国家を滅亡の淵に追い込んでしまった責任を、井上は終生感じていたはずだ。
東郷平八郎に憧れ、同じ海軍大将の地位まで上り詰めたが、方や日露戦争の英雄であり、方や敗軍の将となり、すべてを失った。
「一体、何がいけなかったのか?」
井上は、戦後、後悔の念を抱きながら戦後を生きていたに違いない。だからこそ、横須賀の片田舎に隠棲し、世に出ようとはしなかった。
海軍では、異例の出世を果たした井上ではあったが、家族には次々と不幸が襲った。
最初の妻喜久代は、昭和七年、当時、不治の病といわれた肺結核を患い三十六歳という若さで亡くなった。井上は、妻の看病のために、内地勤務を海軍当局に願い出たそうだ。どんなに軍務に精励しようとも、男にとって妻を喪うことは、何にもまして辛く苦しいことだったと思う。
どんな立派な仕事をした人間であっても、肩書きを外せば、そこには一人の初老の男の姿があるだけなのだ。肩書きがあり、権力があるから部下はついて来るが、海軍そのものがなくなった時代に、井上を支える妻はいない。
海軍の船乗りは、いつ上陸して家族に会えるかも分からない。海に出たきり、戻らない夫はいくらでもいた時代なのだ。それも三十代半ばで、娘ひとり残して寂しく死んでいった妻に対して、井上は、どんな気持ちを抱いたのだろうかと考えると、気の毒な生涯でもあった。そして、その一人娘の靜子も、戦後間もなく、母親と同じ病で亡くなっている。彼女は二十九歳だった。
今なら肺結核は不治の病ではない。きちんと治療をすれば完治する病気だ。
戦争に敗れ敗軍の将となり、妻や娘に先立たれた井上には、もう何も残されてはいなかった。男子の孫も、夫の実家に引き取られていったそうだ。
井上が、戦後、地元の子供たちに密かに英語を教えていたのは、もう二度と軍隊には関わりたくないという思いや、兵学校で味わった教育者への情熱が、そうさせたのかも知れない。
井上の英語塾は、「躾は厳しいが、丁寧でしっかり教えてくれる」と保護者からも大変評判がよかったそうだ。それに、井上は謝礼も受け取らなかったために、親たちは、野菜や卵、魚介類などを差し入れし、その生活を支えたとある。
晩年は一人の女性と知り合い、その女性が最期を看取った。
さて、井上は、珊瑚海海戦を終えて日本に帰国すると、海軍大臣嶋田繁太郎に会うため、海軍省を訪れた。その頃、井上の元には、珊瑚海海戦の責任を問う声がいくつも届いていた。
井上は、第四艦隊司令長官として珊瑚海海戦を指揮し、敵空母レキシントンを撃沈、ヨークタウンを撃破したが、空母祥鳳を失い、翔鶴に爆弾を受けるという被害を出していた。虎の子の航空母艦を喪ったことと、追撃を諦めたことで、その責任を問う声は大きかった。
井上は、すべての戦況を俯瞰し、それ以上の決戦を回避した。日米共に、それ以上の決戦は不可能だったのだ。しかし、海軍部内では、そんな井上を「弱腰」と非難したのである。
冷静に分析してみれば、日本の機動部隊は、空母対空母の戦いを、アメリカと互角以上に善戦して見せたが、真珠湾攻撃での成功体験に驕っていた上層部は、碌な分析もしないまま井上を非難した。そうした気持ちの中には、いつも厳しく論破される井上に対する仕返しのつもりの人間もいただろう。
「勝てる戦をみすみす取り逃がすとは、井上中将も口ほどにもない」
そんな嘲笑の声が、井上の耳にも届いた。
連合艦隊司令長官であった山本五十六大将も、
「まあ、井上だから、こんなものだろう」
と、あきらめ顔をしていたそうだ。山本の真意は分からないが、この山本にしても井上にしても、軍政家としての能力は高いが、戦術家としての能力には疑問符が灯る。その後の山本の作戦を見ると、井上の指揮に文句を言えたような立場ではないが、日本人は、相手の欠点を見つけるといつまでも弄る癖がある。
結局、珊瑚海海戦を総括しないまま、井上の判断を非難することで、アメリカ海軍をさらに侮り、「勝ちたい」という願望から「勝てる」という思い込みになっていくのだった。
所詮は、碌な戦略も立てられない日本海軍に、勝てる可能性はなかったのだ。昭和の海軍にも、日露戦争時の秋山真之のような名参謀が必要だった。
結局は、その頼みの南雲機動部隊も、ひと月後のミッドウェイ海戦で大惨敗を喫するわけだから、アメリカという国は、日本が束になってかかっても、どうすることもできない強国だったということになる。もし、勝てるとすれば、あらゆる情報を正確に分析し、本気になって勝てる作戦を立てることしかなかった。しかし、人間関係と調和重視で生きてきた日本人には、たとえ、教育や訓練を受けても、国家戦略を描けるような才能を見出すことはできないだろう。
嶋田海軍大臣に会った井上は、早速、海軍兵学校長を打診されている。これは、井上を現場の指揮官から更迭するための方便でしかない。
それに対して井上は、
「私は、精神家でもなければ、人格者でもない。極めて自由主義者で、ざっくばらんで人前を繕うことも嫌いです。高いところに立って、生徒に対し聖人君子の道を言って聞かせるようなことは、最も嫌いな変わり種で、ひと言で申せば、いわゆる教育家などと言われる人からは、ほど遠い人間だと思っております」
と答えた。
嶋田という人物は、当時、海軍部内でも評判が悪く、山本五十六などは、同期生のためか遠慮もなく、
「嶋はんは、おめでたいからなあ」
とぼやくほどの軽い男で、首相の東條英機の腰巾着とまで揶揄されていた。そのためか、井上も、少々、小馬鹿にしたような物言いで応対している。そういう、山本も、滅茶苦茶な作戦指導をして、日本海軍の貴重な戦力を無駄に潰したのだから、あまり嶋田のことを評論する資格はないだろう。
まあ、「二流が三流を語る」という程度のことでしかない。
とにかく、井上にとって、兵学校長というポストが、栄転でないことだけは確かだった。海軍部内に、もう少し分析能力でもあれば、違った評価になったような気もするが、とにかく、井上は海軍兵学校長に異動になった。
今の時代から見れば、井上成美という人物は、自由主義者(リベラリスト)というより、合理主義者といった方が正しいような気がする。自分では、リベラルを称していたが、今のリベラルとは、根本精神においてまったく異なる。
井上にとって「感情」などというものは、海軍の指揮官としては、無用なものでしかないのかも知れない。もちろん、それは「人の情」がない…という意味ではない。
日本人は、往々にして情に流される傾向にある。
ミッドウェイ海戦の後、山本は、惨敗の報告に来た南雲長官や草鹿参謀長に引き続き機動部隊の指揮を執らせ、南太平洋海戦を戦わせている。
あれほどの大敗を喫していながら、温情で「仇を討たせる」とは、浪花節でしかない。本来ならば、幕僚共々更迭し予備役に送るのが当然の措置ではないのか。そして、責任を取るのならミッドウェイ海戦を計画した連合艦隊司令部にこそ、責任問題があるはずだが、
あれほど珊瑚海海戦で井上を罵倒した連中が、そのまま責任も取らずに居座るとは、言語道断である。こうした「恥を知らない」組織だから、何も反省ができずに負け続けたのだろう。
日米戦争は、海軍にとっても無謀な戦だったが、そのきっかけを作ったのは、海軍の米内光政である。
米内という男は、内閣総理大臣や海軍大臣も務めた海軍内の大物として海軍部内に君臨していた。
米内の場合は、成績というより、その風格において他を圧倒していたのだろうと思う。しかし、「親ソ派」の代表的な人物で、共産主義者たちとの接点も多く、未だに解明されてはいないが、かなり多くの闇を抱えている男である。その米内は、第二次上海事変(昭和12年8月)が起きたとき、陸軍の反対を押し切り、上海に陸戦隊や艦隊を送った。さらに、重慶への渡洋爆撃まで敢行している。陸軍参謀本部の多田駿参謀次長(中将)は、
「そんなことをすれば、中国と本格的な戦になり、収拾がつかなくなる」
と、大反対を唱えたが、米内は、海軍大臣でありながら、
「邦人を救えなくてどうする!」
と、強行に意見をぶつけ、そのまま南京攻略戦へと向かわせてしまったのだ。
多田次長は、涙を流しながら抗議したが、大本営の面々も、米内の勢いに押されて派兵を決めてしまったという。
多田は、後にこのことを後悔し、「あのとき、命に替えても止めておけば…」と嘆いたという。
後世の人たちは、「陸軍に引っ張られて日米戦争が起こった」ということを主張しているが、第二次上海事変当時の日本において、陸軍の参謀本部は、戦争不拡大の方針だったことを覚えておくべきだ。その米内が、戦争に敗れるとなると、終戦工作に走り、敗戦の責任を陸軍に押し付けた。
米内は、内大臣の木戸幸一と謀り終戦の工作を「ソ連」に仲介してもらおうと動いていたのだ。 米内は見返りとして、残った連合艦隊の艦艇をソ連に提供してもいいと考えおり、その言動は親ソ派の匂いが強い人物である。そして、内大臣の木戸もソ連への認識は甘く、「ソ連は、それほど酷い国ではないよ…」と周囲の者たちに漏らしていたそうだ。
天皇の側近でありながら、この認識の甘さは重罪に値する。そのソ連に日ソ中立条約を一方的に破棄され、敗戦間際の日本は、アメリカとの戦争以上の苦痛を味わわされることになった。
騙し討ちのようにして日本に宣戦布告を行い、満州国に雪崩れ込んだソ連軍は、日本人と見れば軍人も民間人も見境なく殺戮し、非道な行為は今も尚、日本人は忘れてはいない。
現在のウクライナにおいても、蛮行が繰り返し報道されているが、日本人の中には、あの時代のソ連軍を思い出す人も多いことだろう。さらにソ連軍は、八月十五日の停戦後も千島列島をねらって侵略を開始し、八月十八日から占守島で壮絶な防衛戦闘が繰り広げられた。私の伯父は、その戦車部隊に所属して、防衛戦を戦った一人である。その上、六十万人近い日本人捕虜をシベリアに連行し、強制労働をさせた上、その一割を殺した。これらはすべて国際法違反の犯罪行為なのだ。
そんな国にシンパシーを覚え、日本をソ連に売るような行為をした米内や木戸を許せない人はたくさんいる。
現在の日本では、米内や木戸、山本五十六は親米派として好意的に評価されているが、いずれ、各国の情報公開が進めば、彼らの闇は白日の下に晒されるだろう。
日米戦争の主たる戦いは、海軍の戦いであり、陸軍は海軍に引っ張られるようにして太平洋全域に兵を派遣したのだ。それが、最後の最後になって、「敗戦の責任は、陸軍にある」といった主張は欺瞞でしかない。
終戦時の陸軍大臣だった阿南惟幾大将が、切腹して敗戦の責任を取ろうとした際、部下に厳しい声で、「米内を斬れ!」と命じたことは、映画でも描かれる有名な話である。
真実を知る阿南にしてみれば、「米内こそが、敗戦の責任を負って死ぬべき人物」だったのだ。そのくらい、海軍が何の責任を問われず敗戦を迎えたことに、忸怩たる思いがあったのだろう。
結局、米内は、戦犯にもならず腹も斬らず、昭和二十三年に病で亡くなった。これも想像でしかないが、米内も「戊辰戦争」の恨みを抱えた人間で、山本同様に薩摩や長州が創った「大日本帝国」をぶっ潰してやりたいと思っていたのかも知れない。いくらソ連に親しみを感じていたとしても、米内たちの行動は、日本人として常軌を逸している。だから、謎なのだが…。 東京裁判(極東国際軍事裁判)では、戦争責任の多くを陸軍に被せるような判決が出たが、日米戦に限って言えば、その責任が「海軍」にあったことは明白だった。
井上の話から、少し逸れたが、井上もそんな米内の偏った思想や性格を承知していたことは間違いない。だからこそ、終戦後、井上はすべての関係を断ち切っている。
山本五十六は、米内の一の子分だったが、井上自身はこの二人と、少し距離を置いて付き合っているように見える。
米内が岩手、山本が長岡、そして自分が宮城と、東北勢による海軍だったが、米内や山本が共産主義のシンパであったとしても、井上は、そんな思想は持たない合理主義者だった。だからこそ、自分のことを「リベラルだ」と広言していたのだと思う。
今でも米内や山本の闇の部分は暴かれてはいないが、いずれ、真実が白日の下に晒されたとき、昭和史は大きく塗り変わることになる。
第二章 海軍兵学校の教育
第一節 海軍兵学校とは…
井上成美の教育論「教育漫語」を紐解く前に、井上の教育の原点である海軍兵学校について紹介したい。
戦後七十七年が経過し、「海軍兵学校」を知る者も少なくなったことだろう。その存在もさることながら、海軍兵学校が日本という国にとってどんな存在だったかを知ることは、あの時代を知る上で欠かせない。
ここから多くの日本のリーダーが誕生し、戦後も、兵学校の教育を受けた人たちが、戦後復興の一翼を担ったのだ。
「軍人の養成機関だからだめだ」という感情的な忌避では、真理を探ることはできない。いったい、ここでどんな教育が行われ、井上が戦争末期の校長として何を為そうとしていたのか、それを知ることであの時代を知り、新しい未来像を考えてみたいと思う。
明治維新以降、日本は、否が応にも海洋国家だということを認識せざるを得なかった。
日本が鎖国政策を止め国を開いたのも、イギリスの産業革命による蒸気船が、大海原を航海できるようになったからだ。
蒸気船は、大型の動力船で、船上には長距離砲を搭載することができた。この蒸気船が艦隊を組み、世界中の国々を恫喝すれば、どんなに勇猛を誇る国であっても逆らう術ない。
船上に備えられた大砲から放たれる巨弾数発によって、都市は壊滅し、町は焦土と化すのだから、同じ兵器を持たない国では戦いようがない。そして、それに対抗する有力な兵器を持たない以上、戦争にもならない。
日本も、そんな状況を中国での理不尽なアヘン戦争から学んでいた。
日本が、明治維新以降、急速に海軍を充実させていった理由がここにある。
日本は、欧米の帝国主義に怯えていたのだ。その恐怖心が、日本を開国に向けただけでなく、明治維新という革命の原動力となった。
それまで、「一国平和主義」に徹していた日本は、敢えて、外国の動向に背を向けてきた。それは、日本列島という地理的条件と、江戸時代初期の日本が軍事大国だったことと無関係ではない。
長く続いた戦乱は、いつの間にか、日本を世界有数の軍事大国に押し上げていたのだ。
織田信長や豊臣秀吉の時代、日本は大量の銃を製造し、戦も銃や大砲がなければ戦えない状態になっていた。それを推進したのが信長であり秀吉だった。
そんな軍事大国日本の情報が世界に届けられたとき、ヨーロッパ諸国は、「アジアの東の外れに、日本という軍事大国あり」ということに驚き、宣教師をとおしてつぶさに日本の軍事力を調査したに違いない。そして、「日本恐るべし」という結論を得た各国は、貿易とキリスト教の布教という「平和外交」を使って日本への接近を図った。しかし、信長も秀吉も、その跡を継いだ徳川家康も愚かではない。ヨーロッパ諸国の意図を見抜いた日本のリーダーたちは、彼らに厳しい制限を加え、けっして己の利益のために自由を与えることはしなかった。
徳川家康が鎖国政策に踏み切ったのも、ここに理由があった。そして、家康は、信長や秀吉が望んでいた「平和国家」建設へと進むために、幕府を開いたのだ。
応仁の乱から大坂夏の陣までを「戦国時代」と呼ぶとすれば、その期間は、約百五十年にも及ぶ。百五十年もの間、日本中で戦が行われていた。そのため、庶民にとっても戦は日常であり、人の死も日常になった。だからこそ、平和が求められたのだ。
平和をもたらしてくれるリーダーこそが、日本の救世主であり、それが信長であり秀吉であり、家康だった。だからこそ、徳川家康は、旗印に「厭離穢土欣求浄土」と書いた。
庶民は戦乱に飽き、有力大名や武士たちも繰り返される戦いに虚しさを覚え、狭い国土の奪い合いなど、何の価値もないことに気づいた。そんなことより、平凡でもいいから静かで平穏な暮らしを望んだ。それは、人間としての本能なのかも知れない。
自ら敵を作り、競い、争うのも人間なら、それに飽きれば平和がいいと望む。
人間とは、身勝手な生き物だと思う。しかし、人間がそれを真から望んだとき、時代は動く。
徳川幕府は、日本という社会を武から文へと転換させることで、日本を平和国家に導いた。そして、ヨーロッパ諸国は軍事大国となった日本を攻める口実を失った。
宣教師たちは、信長を怖れ、秀吉を怖れ、家康を怖れた。こういうリーダーが存在している国を攻めるには時が必要なのだ。各国は、それを待つことにしたのだろう。
だが、幕府はヨーロッパから眼を離していたわけではない。長崎を窓口として交易すると称して、世界情勢を確実に把握していた。
「幕府だけが知る権利がある」として、表向きには「鎖国」政策を掲げたが、家康は用心には用心を重ね、その強大な武力を手放すことはなかった。こうして、日本は長い安らぎの時を迎えたのである。しかし、どんな権力にも永遠はない。
長い期間、同じ体制で政治が行われれば、必ず腐敗、不正が起こる。
今の日本もそうだが、大国アメリカでさえ、民主主義の理想が怪しくなり、様々な権力が陰で蠢いているではないか。
徳川幕府も代が替わり、中期から後期にかけて幕府内での権力闘争が頻発するようになった。長い時間が家康の志を忘れ、幕府も己の存在意義を見失っていった。そして、己の権力維持が目的となり、国力が落ちてきたことに気づかなくなっていったのである。
徳川家が家康の志を忘れ、現状維持に汲々とする姿を見れば、ヨーロッパ諸国も、国内勢力もそれを黙って見過ごすことはしない。なぜなら、弱肉強食の時代、弱い者を強い者が支配するのは道理だからだ。
その道理に従い、世界の強国は日本にも牙を剥き始めた。それに気づいた武士たちが、己の体の中に流れる「侍の血」に目覚めた。それは、戦う本能だったと言ってもいい。
戦う本能に目覚めた男たちは、遮二無二戦を起こし、多くの血を流して革命を成就させた。それが、明治維新になった。
西郷隆盛も桂小五郎も大久保利通も、そういった侍だったのだ。そして、力を以てまだ目覚めない他の武士たちを叩き起こし、戦を仕掛け、国を乗っ取った。だが、そのために失ったものも多かった。
無理な変革は、いずれ破綻する。その破綻を何とか食い止めようと努力するが、一度見つかった綻びを直しても、次々と現れる綻びを完全に直す道はない。その究極の姿が、日米戦争なのだ。
開国し、新しい国造りを目指した日本は、富国強兵政策を採るしかなく、陸海軍の整備に取りかかった。
当時の欧米列強の軍隊は、既に日本の数十倍の規模になっており、日本が独立を守るためには、とにかく強力な軍隊を持つしかなかったのだ。
陸軍は、精兵なる武士団が基礎となったが、海軍は、まったくのゼロから創らなければならない。その上、海軍は金がかかる。
軍艦を購入するにしても、艦隊が作れるほどの数が必要なのだ。
乗員も、素人では意味がない。軍艦を操ることのできる技術者が必要になる。
内海なら、昔の「海賊」のような小艦艇で賄うこともできただろうが、外洋となれば、大型軍艦を何隻も持つ他はない。
蒸気船を動かす機関術、外洋を航海する航海術、大型の大砲を操作する砲術、艦隊となれば、艦隊を集団として動かす運用術も必要になる。そして、それらは各専門分野に分かれ、技術者集団を創らなければならなかった。それも、早急に。
こうした難題山積の中から海軍兵学校は誕生した。海軍兵学校こそが、国防のための要なのだ。
明治六年以降、日本にも徴兵令が施行され、国民皆兵制度が整ったが、海軍は、陸軍とは異なり、必要な人数分しか採用しなかった。それは、軍艦が「精密機械」だからある。
体力だけを必要とする陸軍歩兵と、その上に頭脳も必要とされる海軍では、その採用基準も異なって当然だった。
戦争前までは、徴兵検査で甲種合格になった者のうち、学力、体力考査で特に優れている者を海兵団に集めた。そして、海兵団で海軍軍人としての基礎を徹底的に叩き込んだ後は、各術科学校に配属し、専門教育を行ったのだ。それは、小学校しか出ていない兵隊でも教育によって専門中学校以上の学力と技術を与えた。
彼らは、専門の技術職の下士官として軍艦に配置され、「海軍は下士官で戦をする」とまで言われるまでになった。その能力の高さは、世界各国の下士官の能力を凌駕した。
下士官の中で特に優秀な者は、さらに海軍兵学校で学ばせ、特務士官に任官させた。だが、最後まで「将校」身分は与えなかった。
能力は海軍兵学校出の将校より高い者も多かったが、「下士官上がり」というレッテルが、それを許さなかった。
兵学校出の将校の中には、そんなことを気にすることなく、彼らを尊敬し教えを請う者も多かったと聞く。
戦闘機乗りで有名だった操縦練習生出身の坂井三郎一空曹の上官になった兵学校出の笹井醇一中尉は、ラバウル基地で坂井の厳しい指導を受け、全盛期のラバウル航空隊を支える名指揮官となった。
笹井は、坂井を兄とも慕い、坂井が負傷してラバウルを去る際に、自らのベルトのバックルを坂井に与え、「還って来い!」と言って別れたという。そのバックルには、「虎の絵」が彫り込まれていた。
「虎は、千里を行って千里を帰る」
まさに、階級と身分の垣根を超えた信頼関係だった。その笹井も坂井という優秀な部下を失い、間もなくラバウルの空に散った。この話は、坂井三郎氏の著作「大空のサムライ」に載っている。
海軍での兵に対する訓練の厳しさは陸軍以上で、顔見知りもいない集団だから、昔の奴隷のように四六時中体罰を加え、容赦なく鍛えたといわれている。これも、イギリス海軍の模倣でしかない。
身分階級がはっきりしているイギリスでは、貴族階級が労働者階級の者を殴って鍛えた時代があったようだが、近代になってまでそれを継承していたのは、日本海軍だけだったのではないか。
陸軍では、平手で殴ったそうだが、海軍は兵学校でも拳で殴られている。また、海兵団や軍艦では、樫の木で作られた「海軍精神注入棒」いわゆる「バッター」という棒で尻を殴られた。
戦後になっても日本の軍隊が嫌われるのは、こうした理不尽な暴力が罷り通っていたからなのだ。
戦争に負けて、日本人の多くは天皇には「申し訳ない」と頭を下げたが、軍に対しては、反感しかなかったという。昔の上官が、敗戦後に兵たちから仕返しをされた話がいくつも残されている。こうした行為がなければ、日本の軍隊ももう少し評価が高かったかも知れない。
敗戦後、復員してきた元兵士たちから軍隊内での暴力の実態が暴かれた。それは、階級社会とはいえ、あってはならない虐めであり人権問題だった。それを当然と考えていた時代だと言えばそれまでだが、既に欧米では理不尽な暴力はなくなっており、如何に日本が近代から遅れていたかがわかる。
GHQ(連合国軍総司令部)は、こうした軍隊の恥部を暴くとともに、「戦争中の日本軍の蛮行だ」とう宣伝をラジオ放送等で流すことにより、「日本軍は悪い軍隊だった」という認識を国民に植え付けた。そのため、ありもしない南京虐殺事件やバターン死の行進などが恰も事実であるかのように扱われ、日本軍はユダヤ人虐殺を行ったナチスドイツと同等の悪の組織として、東京裁判で断罪されたのである。軍隊経験のある元兵隊たちは、上官や軍への反感から、これらに対しての異を唱えることはなかった。
海軍兵学校は、イギリス海軍の負の遺産まで引き継ぎながら、海軍将校を養成する軍の教育機関として誕生した。そのため、学力、体力共に優れた少年たちを全国から選抜して入校させ、三年から四年、社会から隔離された瀬戸内の島で徹底的に鍛え上げたのだ。
学力試験は、旧制第一高等学校(日本のトップ校)並に難しく、その地域でもトップクラスの少年しか合格できないという最難関校に位置づけらた。
晴れて合格すれば、将来が約束されるわけだから、本人にとっても周囲の者にとっても誇りであり、郷土の英雄の誕生となった。
地方の優秀な進学校から年に一人か二人の合格者しか出せない学校だから、周囲の期待は大きく、だれもが未来の提督の誕生を夢見ていたのだ。まして、当時は進学率も低く、大半の者は小学校の高等科がせいぜいで、中学校に進学できる者は少ない。そのくらい「学力」(今でいう偏差値学力)に対して憧れと万能感を持っていたことがわかる。
義務教育が誕生して間もないころの日本人は、そもそも、学力という概念がない。
識字率は高くても、現代のように「学力」分析ができないために、人より多くの知識があれば、それだけで「優秀」と見做された。それは神話になり、戦後も受け継がれている。
日本は、戦後も同じような知識偏重による学力主義で、異常な「学歴社会」を作ったが、アメリカ民主主義を学んだにも拘わらず、学校制度だけはアメリカを模倣することはなかった。と言うより、GHQがそれをさせなかったというのが正しいだろう。
逆に、アメリカから六・三・三制の学校制度を押し付けられ、単線型の学校制度になったことで、より成績万能主義が徹底されたのだ。
昔から、「アメリカの大学は、入学は容易いが卒業は難しい」と言われ、大学の入学後の勉強が大切だということが分かっていた。しかし、日本の大学がそれを真似ることは現在もない。いつまでも「日本の大学は、入学は難しいが卒業は簡単だ」と揶揄される始末だ。いや、今は、少子化が進んだために、「入学も卒業も簡単」な学校が多い。だから、日本の学生は勉強することを嫌う。そんな歪な学校体制は外国にはないだろう。
戦後の学校制度を変えたのがGHQであることを考えれば、今の日本の歪な状態を創り出したのも占領政策の一環ということになるが、考えすぎだろうか。
さて、海軍兵学校に戻る。
海軍将校養成機関には、他にも、特に機関(エンジン等)を学ぶ海軍機関学校や事務部門を学ぶ海軍経理学校があったが、兵学校は、実際の戦闘を学ぶ兵科将校養成機関としての位置づけがあり、当時の少年たちの憧れの学校だった。陸軍でも、これと同様に陸軍士官学校が創られ、軍の指揮官養成が行われていた。但し、士官学校は、海軍と違い、生徒に特別待遇を与えてはいない。同じ指揮官(将校)養成機関でありながら、日本は陸軍と海軍の統一性はなかった。そのために、大戦後も統一指揮がなかなか執れず、戦場で大きな齟齬を生む原因ともなっていた。
陸軍士官学校では、生徒の入校時には、階級が最下級の「兵」でしかない。
階級章も星のない赤い布が襟に貼り付けられているだけである。こうなると、二等兵にも敬礼をしなければならなくなる。実際は、「星の生徒」と呼ばれ、すぐに昇級していくため、そんな失礼をする兵はいなかったが、兵学校のように、いきなり「一等兵曹の上、兵曹長の下」という准士官待遇が与えられたのとは大違いである。
だから、陸軍の将校は、全員が「兵」の経験があり、在学中に進級していくから、少しは兵隊の苦労もわかるのだろう。まして、少尉に任官すれば、少なくても数十人の部下を指揮する「隊長職」に就くために、兵の気質や考えなどを聞く「隊長」でなければ、評価されなかった面もあった。
参謀として有名になった石原莞爾や辻政信などは、兵隊に頗る評判がよかったそうだ。それは、兵たちと一緒に汗をかき、酒を飲み、飯を食い、家族のような付き合いをしたそうだ。それが、戦場で命をかけて戦ってくれる兵隊を造るコツだったのだ。
陸軍の兵隊は、年季が入ってくると、裏では上官より偉くなり、隊長が突撃命令を下しても、無駄な戦いだと覚れば、目配せして部下を動かさず、小隊長だけが突貫して戦死なんてことがあったそうだ。そこが、軍艦に乗る海軍とは違う。軍艦は敵の攻撃に晒されれば、逃げる場所がない。それに、陸軍兵のような武器は所持していない。
たとえば、飛行兵の武器は飛行機であり、機内に武器の類いはない。拳銃を所持していても、それは自決用であり、敵と交戦する武器ではないのだ。その隊長が愚かであれば、部下の兵たちは一蓮托生で死ぬしかないのが現実だった。
他にも、海軍は設立当初から、いくつもの問題を孕んでいた。
海軍では同じ指揮官(幹部)でも、兵学校などの海軍学校卒を「将校」と呼び、その他の出身者を単に「士官」と称させていたのだ。因みに陸軍では、少尉以上の幹部はすべて「将校」と呼ぶ。また、この三校の卒業生でも、機関学校卒は「機関将校」、経理学校卒は、「主計将校」として将校の上に「専門科」名がついたが、兵科は「兵将校」とは呼ばないのだ。そして、軍隊の最高位である「大将」に昇任できるのも兵学校卒だけだった。
こういう差別的な扱いが、多くの軋轢を生む原因になった。まして、予備学生出身の指揮官は単なる海軍士官であり、飽くまで「予備士官」だから、兵学校出の正規将校たちは、陰で「スペア」と呼んで差別していたのだ。
確かに、臨時招集だから「予備」には違いないが、こんな小さな島国の軍隊で、わざわざ啀み合うように制度を創った海軍の連中は、本当に懐が狭い。まさか、それが戦争中に大きな問題になるとは、思ってもみなかったのではないか。
人はいつの時代でも差別を受けることを嫌う。それが一食の献立であっても、揉める原因になるものなのだが、偉くなった人間には気づかないのだろう。「綻び」が広がるとは、そんなところからなのだ。それに、一般兵から出世していった指揮官は、「特務士官」と呼ばれ、服装から部隊における部屋まで別にされ、差別的な待遇を受けていた。
軍服にもわざわざ袖に桜のマークを入れ、一目で「特務」だとわかるようにしていたのだ。
正規将校からすれば、「悪気」はないのだろうが、違いを明確にすることで、序列を間違えない配慮だったのかも知れない。しかし、これにより優秀な人材の登用を阻んだのも事実だった。
予備士官や特務士官の中にも将校以上の働きをした優秀な人材はたくさんいた。
日本という国を強くしたいのであれば、幹部になった時点で同等の扱いをし、海軍大学校への受験を認めればよかった。そうすれば、兵隊出身の作戦参謀や司令長官が誕生した可能性があった。本当に最下級から出世した指揮官が誕生すれば、それは国の未来を明るくする「希望」になり得たと思うのは、私だけであろうか。
さらに、海軍は、極端な学力偏重主義を採っており、同じ兵学校出でも卒業時の成績を「ハンモック・ナンバー」と呼び、戦闘時の指揮権にさえ序列が決まっていたのだ。
実際の戦闘が起こり、被害を受けた軍艦にベテランの機関中佐が生き残っていたとしよう。そこに、兵科将校である新米の海軍少尉しか生き残っていなければ、艦の指揮権は、その少尉にあるのだ。
軍艦の構造も戦い方も熟知している中佐よりも、兵学校を出たばかりの少尉に戦いを指揮されるとしたら、兵隊たちはどう思うのか。
「こんな戦、勝てるわけがない!」と思ったとしても当然だろう。
空の戦いに於いても、飛行時間三百時間程度の新米少尉パイロットが、一千時間を超えるベテラン特務少尉の上位にあり、先頭に立って指揮をすることがあった。
部下たちは、新米少尉を敵機に墜とされまいと必死に護衛したそうだが、もし、優秀なベテラン兵曹がいれば、一時的にその兵曹に指揮権を与えれば、問題は即座に解決するのに、海軍はそれができない。
まさに命のやり取りをしている局面においても、平時の理屈が優先される戦争を日本海軍はしていたのである。それに、飛行機の戦闘は一瞬である。初陣で若い飛行将校が戦死していったのも、そんな事情からだった。
せっかく優秀な頭脳を持った人材を、そんなどうでもいい理屈で戦死させても構わないならば、強大なアメリカ軍に勝てるはずがない。そんなことを、「大空のサムライ」の中で坂井三郎元中尉(特務)が嘆いている。
こうした差別感が近代海軍に残ったのは、やはり江戸時代に身分制度があり、階級制度に馴染みがあったからだろう。いくら形上は民主主義を装っても、体に染みついた階級主義は早々に消えるものではない。
アメリカは、国民の下に奴隷がいたが、奴隷がいなくなれば、後は国民しかいない。だから、階級社会になりにくいが、日本の場合は身分があり階級があったわけだから、イギリスのような貴族社会の方が馴染むのだろう。
帝国主義の権化のようなイギリスは、植民地から連れて来た奴隷たちに軍船を漕がした歴史がある。そして、貴族は将校であり、元々の身分が大きく異なる。そのためか、上級兵が下級兵を殴ることも当たり前で、それでも陸軍は自分の手を使ったが、海軍では、樫の棒(バッター)で兵隊の尻を殴っていた。
手を使わないだけに、殴る方は痛みを感じることはなく、容赦のない懲罰が横行する原因となっていた。だが、それを改善しようとする動きはない。
海軍の方が陸軍より、兵を奴隷扱いしていたのだ。それに、それを行っていたのは、下士官兵の中だけであり、将校や士官は「見て見ぬ振り」をするのが伝統だった。こうした負の遺産も昭和の軍隊に引き継がれ、軍隊の印象を頗る悪いものにしたのだった。
結局、幕末の暴力革命によって成し遂げた歪な政権の負の遺産が、七十年の後にも日本の隅々に残り、日本という国を食い潰したのかも知れない。
兵学校においても上級生が下級生を「修正」と称して、殴る伝統を引き継いでいた。これも、海軍操練所などに訓練に来ていた各地の下級武士や浪人たちが、宿舎内で夜な夜な酒を飲み、喧嘩三昧を繰り返した名残りだという説もある。
兵学校生徒にしてみれば、鉄拳修正こそが軍隊であり、男らしさだと思える瞬間だったのかも知れない。それも、修正は最上級生が最下級生に対して行うもので、躾の期間を過ぎた二年生や三年生は修正を受けることはなかったようだ。
上級生が上級生でいられるのは、こうした慣習による特権が与えられたからだとも言える。もちろん、優れた一号生徒もおり、常に率先垂範、下級生の見本となるような行動が取れる立派な人間もいたが、終末期になると生徒の数も膨れ上がり、修業期間も三年を切るようになると、さすがに質の低下は避けようもなかった。さらに、初級指揮官の戦死率が高まり、二十歳そこそこで海軍大尉の分隊長では、実力が伴わない配置となった。
そこに、大量の予備学生出の士官が一緒になったことで、軋轢が生じるのは仕方がなかったのかも知れない。
本来であれば、その時点で従来の制度を改め、陸軍のように幹部は一律に「将校」とすればよかったのだが、プライドだけは高い兵学校出身者には、到底許せなかったのだろう。
敗色濃厚の時期になっても、無駄なプライドだけは捨てられない人間の悲しさだけが残った。
アメリカ軍では、「下の階級の者は、上級者に質問をしなければならない」と定めているそうだ。
アメリカ映画を見ていても、二等兵が少尉の小隊長に、ため口で自分の意見を言うシーンが出てくるが、余程の事がない限り上官はそれを咎めたり、問題視したりしていない。
「なんだ、言いたいことがあるなら言って見ろ?」
こんな感じで部下の意見を聞き、納得出来れば、
「わかった。それでいこう!」
そんな会話が成立している。
日本軍の中でも、歴戦の隊長ともなれば、それくらいの度量は見せるようだが、それは飽くまで個人の資質によるものなのだ。
日本軍では、「上官の命令は天皇陛下のご命令」という妙な理屈があり、とにかく反論を禁じている。ましてや、兵の階級の人間が幹部に意見具申をするなど、あり得ないことだった。もし、この禁を破れば、日本軍なら間違いなく重営倉の上軍法会議か、最前線に送られることだろう。これを「軍の統制」という言い方をした。
元々、自分に自信が持てない日本人は、他者から正論をぶつけられると怒りを覚え、冷静ではいられなくなる人が多い。まして、下級者が自分より能力が高いとなると、強い嫉妬を覚え、さらに怒りが湧くのだ。
日本人が、よく「〇〇のくせに…」と嘯く姿を見るが、小さな世界で生きてくるとこうなるという典型だろう。
アメリカ軍のように、常に「考えさせる」軍隊と、日本軍のように「絶対服従だけを誓わせる」軍隊のどちらが強いか、そんなことは言わなくてもわかる。
アメリカ軍は、二等兵だけになっても戦えるが、日本軍は、指揮官が死ぬと兵だけでは戦えないと言われている。
海軍兵学校は、全国の少年たちが憧れを抱くように、様々な工夫が為された軍の学校だった。まず、先に述べたように、とにかく入校試験が難しいということが挙げられる。
当時の国内状況として、軍艦や飛行機を操れるような素養を子供のうちから持たせることは到底不可能だった。街中には、自動車はおろかバイクでさえ見かけない。
せいぜい、馬車や人力車、自転車止まりで、自動車が通れば、だれもが振り向く時代なのだ。欧米の社会とは根本的に生活レベルが違い過ぎた。
日本は国民の生活よりも「富国強兵」が優先されたために、国家予算で軍事費の占める割合は、諸外国に比べて異常に高い。そのために、国民の生活レベルは低く抑えられ、福祉事業などには手が回っていなかった。したがって、国民は「これなら、江戸時代の方がまだましだ…」という感想しか持てなかった。
江戸のころなら、戦争は武士がやるもので、一般庶民には関係がない。戊辰戦争でさえ、現地では農民が強制的に徴用された例はあるが、農民に武器を持たせる軍はなかった。
それが、明治になると徴兵令という法律で国民皆兵制度が採られ、農家の働き手が「兵隊に取られる」ようになった。こうした不満が、どの家庭にもあったことは間違いない。
だからこそ、志願兵募集には力を入れ、できる限り魅力的な宣伝に努めたのだった。
特に陸軍士官学校と海軍兵学校は、官費の学校の扱いで、全国の中学校には校内にポスターが貼られ、少年たちを熱くさせたのだった。
そんな全国の中学生の中で、理科や数学、英語をマスターできる頭脳の持ち主は、千人に一人くらいのものだったと思う。そして、入校資格にある「中学校四年生程度の学力を有する者」という基準自体が、ハードルを上げていた。
当時の中学校への進学率は、地方によって異なるが、小学校卒業生の一割程度だったのではないだろうか。そして、その中の一%の生徒が合格できる可能性を秘めていたことになる。それは、まさに日本のスーパーエリートに他ならない。
優秀な者の中には、中学検定試験を受けて資格を取った者や、海兵団から志願して受験する者もいたと聞く。
当時、軍関係の学校はどれも倍率は高く、海軍だけでも「一般志願兵」「海軍年少兵」「海軍(甲乙丙)飛行予科練習生」「海軍兵学校・機関学校・経理学校」などがあった。
どれに志願するにしても競争倍率は高く、小学校卒業程度の資格でも、並の学力の少年では合格は難しかった。
陸軍にも、「幼年学校」「士官学校」「少年飛行兵学校」「少年戦車兵学校」など、やはり各種学校への募集が行われていた。これらの軍関係の学校は、どの学校も少年たちの憧れの的であり、大人気を博していた。それは、現代では考えられない現象だろう。
そもそも、徴兵がある時代だから、男であれば、遅かれ早かれ軍隊には行かざるを得ない。そうなると、「軍隊に早く入って出世しよう」と思う少年たちがいても不思議ではないのだ。まして、軍の将校(士官)にでもなれば、郷里に錦を飾る如く、立派な軍服を着て豊かなサラリーマン生活を送ることができる。無論、戦争が始まれば軍人として出征するのは当然だが、それは、適齢の男子であれば当然という考えがあった。それに、奉公に出されても苦しいのは一緒。
「どうせ苦労をするのなら、軍隊で鍛えられた方がましだ…」
という考えが一般的な考えだった。そういう意味で、海軍兵学校に入校できる体力と頭脳を持った少年たちは、幸せだったのかも知れない。そのため、全国の各中学校では、一人でも陸軍士官学校や海軍兵学校合格者が出ることは、学校の名誉であり、地域の誇りでもあったのだ。
日本という国は、そんな些細な競争に勝つことも「名誉」になるような貧しい国だった。その貧しさ故に、人は少しでも満足を得るために努力したのかも知れない。
「海軍兵学校=江田島」と言われるくらい、「江田島」という地名は有名になった。しかし、兵学校が最初から江田島に作られたわけではない。
兵学校は、当初、東京の築地にあったものを明治二十一年、広島県の江田島町に移転している。江田島は、広島港から船で渡る瀬戸内の小島のひとつである。だれが考えたかは、わからないが、ここに、随分と予算を取って立派な校舎を建てた。
今でも海上自衛隊が使用しているが、赤レンガに彩られた生徒館や、西洋風の大講堂や教育参考館、広い芝生の校庭などは、今訪れても風光明媚な美しい学校である。地方から選抜されて集められた少年たちの目が輝くのは当然だった。
地方にいては、こんな瀟洒な建物を目にすることはないだろう。
生徒が寝起きする生徒館(兵舎)の赤レンガは、イギリスから一つ一つ、丁寧に梱包されて届けられたという話があるくらい、洋式化された建物は人目を引く。また、学校の中央にある教育参考館には、歴代卒業生の遺品や東郷平八郎元帥、イギリスのネルソン提督の遺髪などが恭しく納められており、それは、まるで荘厳な社のような雰囲気を漂わせている。こうした演出が、海軍の近代化を後押しし、日本人のイメージ向上に役立った。そして、生徒が着用する軍服にも工夫を凝らした。
なるべく目立つように、「士官候補生」を演出できる軍服を着た生徒の動向は、当時の新聞や雑誌に何度も掲載され、世間の注目を集めることに成功した。さらに、兵学校や兵学校の生徒が登場する映画も製作され、だれもが憧れる存在となったのである。
その軍服もいくつか変遷を辿っているが、ポピュラーなのが、短ジャケット式の軍服だろう。
秋冬は、濃紺で蛇腹の縁取り。
夏は、真白な七つボタンに錨の付いた肩章。腰には、士官と同様の剣帯と短剣を下げた。釦は金色で、錨と桜のマークがあしらわれている。
軍帽は、士官帽と異なり、シンプルな碇のマークで、卒業すると少尉候補生となり、士官と同じ「錨に抱茗荷」の大きなマークが付く。これなども、陸軍の「金の星」ひとつより、随分と格好良く見える。
今でも戦前、写真家の真継不二夫氏が撮影した「海軍兵学校」というタイトルの写真集が残されているので、目にすることができる。
その写真に残された一号生徒の精悍な顔立ちと涼しげな眼は、如何にも未来を見据えた海軍将校生徒という雰囲気を醸し出している。
さらに、兵学校生徒に与えられる海軍での「階級」は、先にも述べたように、下士官の最上位に位置するものだった。
通常、一般志願兵として海軍に入隊しても、一等兵曹に進級するまでには十年は必要だった。十年間もの間鍛えに鍛えられ、専門科の学校で修業をし、軍艦等で実務をとおして学んだ結果が「一等兵曹」なのだ。
それが、たとえ試験とはいえ、入校したばかりの少年に与える階級としては非常識と言われても仕方がない。これも、イギリス式のエリート教育なのだそうだが、イギリスは、元々、貴族階級が将校になった。貴族は元々、貴族としての称号を持っている。したがって、海軍に入隊したとしても、それなりの階級は必要だった。しかし、兵学校は、一般国民から学力で入校してくるわけだから、真のエリート教育を受けて育ってはいない。
それを、入校初日から、
「お前たちは、人の上に立つ身分なのだ!」
と訓示をされれば、その責任感だけでなく、選民意識を持つのは当然だろう。
「今日から、俺は、他の国民とは違うエリートなんだ」
と、中味が十分に育っていないうちに、外見だけのエリートになってしまうと、その力の使い方を間違えてしまう人間がいてもおかしくない。その証拠に、兵学校の年限が短縮され、二年数ヶ月程度で少尉に任官した若い将校の中には、気分はいつまでも兵学校の一号生徒のまま、下士官兵や予備学生に対峙し、嫌われた者も多かったそうだ。
人間は、外見ではなく、人間としての修養ができていなければ、人はついては来ない。
それに、海軍では、一般社会を「娑婆」と呼び、上級生が下級生を叱るときも、「娑婆っ気を出すな!」と怒鳴ったそうだ。当然、その後は、鉄拳の修正を行うのが常だった。
六十八期出身の作家豊田穣氏は鉄拳制裁を肯定し、
「男らしくてさっぱりしている。ぐちぐちと説教されるより何倍も効果があった」
と、自画自賛しているが、それは、本人が積極的に殴ってきたから言える言葉だろう。
豊田氏の戦後の著作本に、後輩から、
「豊田生徒には、随分殴られましたなあ…」
と嫌味を言われた話が載っているが、本心では、
「この野郎。随分、殴りやがって…」
と思っているに違いない。
つまらない伝統とやらに固執し、中味を伴わない教育も兵学校の「伝統」の一つになっていた。
こうして、日本海軍は万事イギリス流を誇ったが、本当にそれでよかったのかという反省は必要だろう。
日米戦争が負けるに至った原因を海軍が作ったのだとしたら、その基礎教育である兵学校の教育が問われなければならない。単に懐かしむだけでは、反省にはならない。
確かに、彼らは、中学校という当時としては、高等教育を受けた者たちだったが、所詮は、十代の少年なのだ。学校のペーパーテストだけで、その指揮官としての地位を与えてしまってよかったのかという疑問は残る。
アメリカのように、大学を出た人間や、別の分野で専門的に活躍してきた人間を登用し、将校として遇しながら、部下を与えて任務を遂行させるという方法もあった。それを「予備」などと呼び、あからさまな区別をしたことで、彼らを有効に活用しきれなかった。そして、社会をよく知らない少年を、江田島という人里離れた狭い空間に押し込め、徹底した海軍教育を行えば、それが「絶対的価値」を持つのは当然だったのだ。その感覚のまま社会に出て行けば、一般社会の欠点ばかりが眼につき、自分を省みることがない。
だから、年数を経て高い地位に就いても、独善的で、相手を恫喝して黙らせる方法を採ってしまうのだろう。
本当は、軍人であろうと、一般社会人としての常識が必要だったと思う。
兵学校は、軍の学校ではあったが、そこに、一般常識や教養、道徳を身につけるカリキュラムがあれば、もう少し人間的に幅の広い指揮官になれたのかも知れない。
今もそうだが、明治以降の日本人は、「ペーパーテスト」に弱い。
「勉強ができるから、何でもできるだろう」という仮説は、どこから生まれたものなのだろう。
中国には「科挙」の制度があったが、そのために国が滅んだことを歴史が物語っている。 この学力偏重主義が、これからの日本を危うくする可能性がある。そして、若い頭に偏った思想は、どちらにしても生き方を危うくさせる。
昭和初期に起きた五・一五事件や二・二六事件を見れば、どちらも若い血気盛んな青年将校の手によって実行された。
「テロ」という常識人では考えもつかない方法で日本国の重臣を殺め、「世直し」をしようというのだから、それは狂気に違いない。
戦後も、赤軍派事件、オウム事件など、若い優秀な青年たちによって、とんでもない凶悪な事件が起こった。一人一人は、賢く思いやりのあるような人間が洗脳されたことによって起きた悲惨な事件である。そう考えると、やはり、教育の問題は大きかったと言わざるを得ない。
戦争が激しさを増すと、日本のエリートだった大学生の徴兵猶予がなくなり、多くの学生が「予備学生」として海軍に入隊してきた。それまで大学生が徴兵検査を受けても学生の間は、召集は猶予されていたが、戦争が激しくなるとそうも言ってはおられない状況になった。
アメリカやイギリスでも、大学生が進んで志願して兵役に就いているから、日本の大学生にも、そうした祖国防衛の気分は高まっていたと思う。しかし、それら多くの大学生が軍隊に入ることを、陸海軍ともに想定していないので、正規将校と予備士官の間で軋轢が生じるのは当然だった。
軍隊は、これまでの軍隊組織や慣例、伝統を重んじ、大学生出身者を重んじることはなかった。ここが欧米との違いだった。
最後のころになると、社会の然るべき地位に就いていた者まで召集し、二等兵として戦地に送り込むといったばかなことを平気で行い、軍隊の愚かさを晒してしまった。
役場の兵事係の職員が該当者名簿を作り、機械的に割り振られた人数で召集令状を発行したということだから、当時の軍部や政府が適当に招集していたことがわかる。
他にも軍需工場の主要な技術者までも赤紙一枚で招集したというから、日本の招集計画が如何に杜撰だったを物語っている。
これも、「軍の人間以外は信用しない…」という差別意識、特権意識がそうさせたのだろう。役場の職員にしてみれば、「上からの命令に従っただけ」でしかなく、責められる筋合いはないかも知れないが、政府や軍の上層部は、何を考えていたのか分からない。
その思考で言うと、兵学校出の正規将校から見れば、予備学生などは、軍隊の何たるかを知らぬ「娑婆っ気」そのものに見えたはずなのだ。実際、社会を知らないのは、軍に属した将校の方であり、軍隊という小さな社会だけが、自分の世界だったとすれば、かなり偏った教育が行われていたことが分かる。
要するに、自分たちの領分に他人が入ることを拒んだのだ。それは、たとえ戦争に敗れたとしても構わないといった意識があったことになる。
「俺たちの邪魔をするな!」
そんな気分が、正規将校たちにはあったのだろう。しかし、社会経験を積んだ大学出の予備学生にしてみれば、兵学校出の将校は、軍隊しか知らない威張るだけの愚かな集団に見えたはずだ。そして、階級という目に見える身分社会を創り上げ、その権威と権力を自分の力だと過信し、選ばれた人間だけで国を動かし、戦争を行っているという気分に浸っていると分析していたのかも知れない。それでも、祖国を守るために、彼らも正規将校以上に勇猛な戦いを続けたのだ。
予備学生たちは、学力的には兵学校出の将校たちに負けることはなかった。
中学を出て海軍に入った者と、大学という学問の府で専門教育を受けてきた者の差は、彼らが想像以上に大きかった。
中学時代を比べれば、遜色がなかったとしても、その後、高等学校、大学と進学して学ぶ中で、彼らの教養は軍人たちを遥かに凌駕する力となっていた。
戦後を見れば、兵学校を出た者たちは復員すると、再度、大学に入り直し、改めて勉強をした者が多い。それだけ、軍人としての能力だけでは、社会人として不十分だったことを自覚していたのだろう。
今でこそ大学は、「学生が自由に過ごせる時間」だという考えもあるが、当時の学生は、日本社会を背負う気概を持って学んだ者たちである。
兵学校出の将校が、帝国海軍を担う気概を持っていたように、大学生は、日本社会を背負う気概を持っていたことを忘れてはならない。
当時の軍や政府にその認識さえあれば、大学出の予備士官たちを遇する手立てはあったはずなのだ。
大学出の予備士官たちから見れば、この戦争の見通しだって、社会の生活状況を見ればわかる。政府や軍が言うように、勝っていれば、国内がこんなに逼迫してくるはずはないのだ。そのことを口に出すことも許されず、いい加減な命令で攻撃に向かうエリートたちは、不満を抱えてはいたが、それ以上に祖国防衛の信念が勝っていた。なぜなら、彼らの祖国とは、母であり父であり、兄弟なのだ。
せめて、自分たちも意見を言い、納得して攻撃に出るのなら諦めもつくが、少しだけ階級の上の人間が立てたいい加減な作戦で出撃しなければならない若い指揮官たちの苦衷は、察して余りある。
昭和十九年の秋になると、海軍は究極の選択をした。神風特別攻撃隊である。
これは、連合艦隊の最後の決戦となるはずの「レイテ湾突入作戦」の支援として考えられた作戦だった。
その主力は戦艦大和、武蔵を初めとした戦艦部隊である。もし、これが成功していれば、戦艦部隊として世界海戦史上に燦然と輝く作戦になるはずだった。それは、レイテ湾に集結したアメリカ軍上陸部隊を戦艦の巨砲で粉砕するといった大作戦だったからだ。さらに、この上陸軍には、アメリカ太平洋方面司令長官のマッカーサー大将がいたのだ。
航空部隊を指揮した大西瀧治郎中将は、自分の命をかけて、この体当たり攻撃を成功させたいと念願していた。そして、大西自身が「外道の統率」と言った無謀な必死作戦は、これ一回として終わらせ、終戦に持ち込みたいと考えていた。そのために、当時、フィリピンにいた飛行兵の志願を募ったと言われている。しかし、表向きは志願の形を採ったが、実際は、上官の命令に従って特攻隊員になった者がほとんどだった。
それでも、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の搭乗員たちは、「自分たちが敵空母に突っ込むことで、戦局が挽回できるのなら本望!」として、大戦果を挙げたのだった。しかし、戦艦部隊のレイテ湾突入は、栗田健男中将の変節によって中止となり、彼らの命を懸けた願いは空しく散ったのである。
それだけではない。この作戦一回きりの特別攻撃隊だったはずが、海軍当局は、これを正式な作戦に組み入れ、終戦のその日まで「志願」という命令で、多くの若者を死地に追いやったのだ。
こうした軍隊の体質の中で、その命令に従うことに躊躇う飛行兵はたくさんいたはずだが、命令が下った以上、それに逆らうことはできなかった。
戦後、多くの言い訳を書いた著作が、出撃を命じた元指揮官たちから出されたが、それを信じる人はだれもいない。大西瀧治郎中将のみが、一人責任を取って切腹したが、それが、せめてもの慰めだった。
中国古代の兵学者、孫子は、将の条件として「智・信・仁・勇・厳」と説いている。これらは、すべて「道徳」だということに注目していただきたい。
日本の兵法は、戦国時代までは、まさに孫子の兵法だった。それを、明治維新以後、その中国古典の兵法を捨て、中途半端な西洋戦術に偏ったところに、大きな過ちがあった。
残念ながら、兵学校は、指揮官としての基本的な技能は育てたかも知れないが、上に立つ者が備えるべき道徳性は、兵学校生徒には必要なかったということになる。
上に立つ者の人としての資質を育てないまま、多くの部下を抱えれば、優れた指揮官ほど、苦悩も多かったことと思う。
これは、今も同じことだが、もし、大学入試に「道徳科目」を設けて長文の論文を書かせたり、面接時に十分程度、その論文についての口頭試問を行えば、かなり違った学生を採ることができるだろう。そのためには、面接官自身が人間としての教養を身につけ、人格者にならなければならない。
日本のように、近代化を急ぐあまり、日本の歴史が育んできた「道義」を忘れた国は、やはり文化レベルの低い二等国でしか生きられないのかも知れない。
第一節 海軍兵学校の歴史
海軍兵学校は、明治二年九月十八日、東京築地に「海軍操練所」として創立された海軍兵科将校養成機関である。その前身は、勝海舟、坂本龍馬らによる「神戸海軍操練所」だと言われている。その頃は、まだ、日本海軍という発想自体がない時代だったから、本当に海が好きで、蒸気船で海を航海してみたいという純粋な若者たちが自由に訓練を受けていたに違いない。せっかく、そうした自由闊達な雰囲気があったのなら、それを後の兵学校も受け継げばよかったのだが、政府や軍の体制が整うと、どうしても組織を固めるために、先進国に倣うという手法を採らざるを得なかった。
海軍操練所は、翌年には「海軍兵学寮」となり、明治九年には「海軍兵学校」となった。
江田島に移されたのは、明治二十一年のことである。以来、昭和二十年の敗戦の日までに七十八個期にわたる海軍兵科将校養成が行われた。
当初、海軍将校と言っても、各藩から送られてきた若者たちの巣窟で、それぞれがお国言葉丸出しで、啀み合うことも多かったようだ。それに、暴力沙汰は日常茶飯で、血の気の多いサムライが多かったことから、東京の真ん中に置いておくこともできず、地方へ移転させたのかも知れない。
他にも、当時の武士は、政府に対して不穏な動きをする者も多く、軍人を政治に関与させると碌な事がない…と、海軍は、江田島移転に前向きになったようだ。
私の故郷である福島では、戊辰戦争に敗れた会津藩はなくなったが、賊軍とされた人々の不満は急に解消されるものではなかった。それは、士族の反乱の後に「自由民権運動」として形を変え、猛烈な勢いで拡大していった。
明治初年は、士族の反乱。その後は、板垣退助らの自由民権運動へと士族の不満の捌け口が変化していくのだ。
明治時代も中頃までは、国内は治まらず、日本政府は内政、外交と二重の問題に悩まされていたのだ。それは、まさに江戸時代の幕府と同じ状況にあったということである。
そんな時代だからこそ、兵学校の移転問題が浮上し、生徒たちが政治や思想にかぶれない環境を求めたのだった。
静かな瀬戸内であれば、妙な都会の雑音はなく、純粋に海軍だけのことを考える士官が養成できるというものだ。それに、元々、日本の海軍というものは、主に「水軍」と呼ばれた海の盗賊が始まりだったことから、船乗りは気が荒いと相場が決まっている。
船乗りが、「スマートで目先が利いて、几帳面」などと言われるようになったのは、海軍兵学校が江田島に移り、イギリス式の教育が行われて以降のことになる。そして、海軍には、「サイレント・ネービー」という伝統的な教えがあった。和訳すれば、「沈黙の海軍」という意味だが、要は、政治に介入せず、軍務に精励せよという暗黙の命令なのだ。
明治初期の海軍は維新の残滓があり、元サムライの生徒たちが、それぞれに熱く政治を語ったのだろう。中には戊辰戦争で戦った兵士もいたはずで、血の気が多いのは間違いない。
そもそも、軍隊という権力を持った集団が政治を語り出せば、それは、クーデターにつながる危険性があった。事実、東京に拠点を置いた陸軍士官学校では、生徒のころから政治に興味を持つ者も多く、北一輝や大川周明などの思想家に共鳴し、社会主義体制を学ぶ者もいたのだ。その彼らが将校となって起こしたのが、二・二六事件である。
明治維新も薩摩や長州の強大な武力を背景に成し遂げた暴力革命である。それも、強大なイギリスの支援を受けてのことだった。だから、「自分たちがやってきたことは、人もやる」と考えるのが常識だろう。
明治政府の指導者たちは、それがわかっていただけに、「サイレント・ネービー」なる言葉をイギリスから輸入し、海軍将校に釘を刺したのだ。 もちろん、陸軍も軍人勅諭で釘を刺したはずだったが、陸上にいる分、どうしても政治の世界が気になり、いつの間にか昔の長州藩のように謀略を楽しむような集団になっていったのだ。それに、戊辰戦争が終わって間もなくのことで、敵と味方に分かれた元藩士たちは、兵学校ができても幕末の恨みは強く残り、喧嘩が絶えなかったに違いない。
特に東北諸藩のサムライたちにとって、たとえ明治新政府に政権が移ったと言っても、故郷を蹂躙された恨みは、子々孫々語り継がれるべき怨念なのだ。
東京にいたのでは、常に政治的な動きに惑わされ、何が起きるかわからない。そういった不穏な空気を感じたからこそ、海軍の上層部は、兵学校を辺鄙な江田島に移転したのである。
確かに、江田島に移転することで、政治的な軋轢はかなり解消したようだが、やはり、生徒館の中では、出身地によって派閥ができ、様々なトラブルがあったことが記録されている。但し、あまりにも辺鄙な田舎に引っ込んでしまったがために、世情に疎くなりすぎたのも問題だった。
それ以上に、海軍という組織が、兵学校、海軍大学校出身者だけが国や軍を動かす大幹部になれるという実態こそが、大問題だった。
歴代海軍大臣、軍令部総長他、海軍の要職はすべてこの出身者だけで占められている。つまり、傍流がないのだ。
今の大企業にも確かに学閥や派閥はあるが、すべてその卒業生という組織はあり得ない。 明治初年当時は、人材不足の中でそれもやむを得なかったと思うが、明治後期には、そのシステムを改善し、一般大学や民間から登用できるシステムになっていたなら、もっと多様な考え方が出され、風通しのよい組織になっていたと思う。
今の自衛隊では、防衛大学校出身者だけでなく、一般大学の出身者も幹部候補生学校を出れば、海上自衛隊の中枢に入ることができる。
一つの偏った思想の持ち主だけで、軍という大きな権力を持った組織をを動かすことができるとなれば、国は危うい方向に引っ張られかねない。
日露戦争時は組織が固まっていなかったので、柔軟な対応ができたが、大東亜戦争時には、硬直化した組織としがらみの多い人間関係の中で人事が行われ、適材適所の配置が行われなかったことが残念でならない。
第三節 海軍兵学校の分隊組織
兵学校では、入校と同時に「生徒館」と呼ばれる兵舎(寄宿舎)での生活が始まる。その生徒館内での生活単位が、縦割り・学年混合の分隊組織である。
そもそも海軍の編成は、すべて分隊単位であり、艦船部隊や航空部隊においても基本は、この分隊になる。
たとえば、階級で大尉ともなれば、陸軍では、少なくても中隊長であり、数百名の部下を持つが、海軍では、大尉は分隊長職であり、部下も陸軍ほどは多くはない。
陸軍が、主に人で戦うのに対して、海軍では、主に艦船や航空機などの兵器を操作して戦うので、大隊や連隊ほどの規模はいらないのだ。
ところで、この縦割りの分隊編成というのは、各学年の生徒がそれぞれ十人。四十名程の人員で編成されている。今でいう、学校の「四十人学級」のようなものだ。
その最上級生を「一号生徒」と呼び、学年が下がるごとに、二号、三号、四号生徒と呼ぶことになっていた。
この学年は、常に四学年制と決まっているわけではなく、その時代背景や戦況によって修業年限や生徒数にも大きな隔たりがある。
大正時代の軍縮の頃は、学年百名程度の年もあれば、大東亜戦争の最中では、数千名規模に膨れ上がっている年もあり、教育の質も同じとは言えない。
戦争末期になると、江田島の校舎に入りきれない生徒は、岩国や防府などにも校舎を作り「分校」と称した。それでも、全国から万単位の志願者がいたと言うから、海軍兵学校の人気は不動だった。
分隊の編成は、第一学年(四号)生徒は、入校成績順。他学年生徒は、学年総合成績順に第一分隊から、最後の分隊まで順番に割り振られる。従って、だれが一番でだれがビリかすぐにわかる仕組みになっているのだ。
その学年の首席は、必ず第一分隊の名簿番号一番になる。
こうして、序列をはっきりつけることで、その後の「軍令承行令」に結びつけることができるのだそうだ。
この方法が、本当によかったかどうかは、大東亜戦争の戦い方を見ればよくわかるが、意外と、卒業順位(ハンモック・ナンバー)の中位から下位の人間の方が、活躍したように見える。
勉強がよくできる人間が、戦が下手だと言うつもりもないが、常に「答え」を出す習慣のある人間は、答えの出ない問題にぶつかると戸惑う。しかし、戦場に「正解」はない。お互いが齟齬の連続の中で、必死に答えを出そうと足掻くものだが、頭で戦争をしようとする人間は、「きれいな作戦を立案する」と言われている。
大雑把な計画では、兵が動かないと思っているようだが、余白の部分は現地指揮官に任せればいいと思うが、それでは、決裁は通らないそうだ。しかし、答えが既にあるのであれば、どんな作戦でも見破ることくらい、そんなに難しくはないだろう。
たとえば、アメリカ軍は、戦況が不利だった昭和十七年初頭に、航空母艦から陸軍の爆撃機を発進させて、東京に初空襲を行った。
「被害は、大きくない…」という報道だったが、検証してみれば、意外に死傷者も多く出ており、日本の混乱振りがよくわかる。
このとき、日本の軍部はまったく予想もしておらず、迎撃も間に合わなかった。
首都の防空任務は陸軍の担当だったが、防空専用の戦闘機もなく、高高度性能の優れた戦闘機もないままで、防空任務といっても形ばかりだった。
アメリカと戦争をするのなら、アメリカの事情をよく研究した上でするべきだったが、
日本海軍がアメリカ海軍を仮想敵国に想定していたわりには、何の研究もしていないことが分かってしまった。
要するに、するつもりもない戦争に引き摺られてしまったのが、真相なのだろう。
それに、アメリカ人なら、この程度の突飛な冒険的作戦は思いつきそうだが、それを予見した日本人はだれもいなかった。
連合艦隊司令長官の山本五十六が、ミッドウェイ島攻略を急がせたのも、この空襲がきっかけだったと言われている。
さすがに、アメリカ人は答えのない答えを出すことが得意なようだが、こんな作戦を考えたとしても、日本の優秀な参謀たちなら、「無謀な作戦だ!」と言って却下するに違いない。それに、軍令部内の決裁が取れない。
決裁権は軍令部総長にあり、下位の参謀が起案しても、これまでの前例にないことが許された例しがないのだ。それは、今の政府の官僚組織も同じことで、新規事業を立ち上げるのは、余程、上司に恵まれたときだけである。
あの真珠湾攻撃の決裁が下りたのは、山本五十六という上司がいて、自分の辞職を仄めかしたからであり、通常の作戦ではあり得ない投機的な作戦だった。ただ、この作戦は表面的には大成功でも、裏から見れば日本を敗北に追いやった無謀な作戦という評価がある。
日露戦争時の日本海海戦で、東郷平八郎司令長官が、艦隊を「丁」の字に展開した話は有名だが、この艦隊運動は、運動中は敵に砲撃できないという欠点を持っていた。それを敢えて実行したからこそ、バルチック艦隊を逃がすことなく撃滅できたのに、それを後の海軍は、だれも真似をしようとはしなかった。
このとき、司令長官の東郷平八郎も参謀の秋山真之も、自分の命を懸けてこの作戦を決断した。しかし、大東亜戦争時の海軍は、だれも本気でアメリカに勝とうとは思っていないように見える。
「勝てないまでも、負けない戦」などと弱気なことを言っているから、作戦が常に後手後手に回るのだ。
こうした柔軟な発想が、戦いには必要なのだが、日本海軍の「頭脳」は、セオリー無視ができず、次の一手がわかるようなへぼ将棋ばかりを指していた。
兵学校における成績順の「ハンモック・ナンバー」は、実際の戦いにおいても変わることがなかった。そのために、兵学校出の新進気鋭の指揮官たちは、戦場に出ると真っ先に戦死したといわれている。
これは、陸軍も同様で、敵兵を見ると、「俺に続け!」と軍刀を煌めかせて突撃して…「はい、お終い」となったようだ。そんなとき、ベテランの古参兵は、だれもついて行かない。大声だけ出して小隊長を見送るのだ。そして、小隊長が戦死すると、すごすごと陣地に戻っていった…という話を聞いたことがある。
中国兵相手の戦いならいざ知らず、火力に勝るアメリカ軍に白兵戦を挑んでも、敵の陣地に到達する前に、こちらの隊は全滅してしまう。もし、優秀な小隊長なら、古参兵の先任を呼んで作戦を練り直し、その助言を基にゲリラ攻撃の作戦を立てることだろう。
ペリリュー島の中川大佐も硫黄島の栗林中将も、勇ましいバンザイ突撃など行わず、徹底したゲリラ作戦でアメリカ軍を翻弄したではないか。これが、日本の基本戦略だったら、ガダルカナルもサイパンも、早々に落ちることはなかったと思う。
敵軍の状況等を掴み、敵の気づかない隙を突いて攻撃をするのなら、劣勢の日本軍の理に適っている。本来なら、それが指揮官の役目なのだが、戦場でも、官僚気分が抜けず、「決裁のない作戦は採れない」と本気で信じているとしたら、それは、戦士ではなく、事務官僚でしかない。
海軍は、無茶な真珠湾攻撃を敢えて行ったのに、敵空母を見つけられず、徹底的にハワイを叩くこともできず、数隻の旧式艦を沈めてバンザイをしているようでは、作戦部の見識が問われよう。
本来、短期決戦のための真珠湾攻撃が、いつの間にか長期戦に備えた真珠湾攻撃に変わってしまっているのだ。この貧乏くさい発想は、やはり「けちで、物を大切にする」習慣のある日本人だからなのかと唖然とするばかりである。
さらに言えば、日本軍は、年功序列を重んじすぎた。
やはり、日本のような農耕社会では、そういった秩序を重んじる傾向が強い。
農耕民族は、力よりも「和」を重んじ、コツコツと働く勤勉性に特長がある。それは、平和な時代であれば申し分のない資質だが、有事の際は、勤勉性より勇猛果断な攻撃性が必要になるが、日本人はたとえ軍人といえども、常に慎重派が体勢を占めていた。
秩序は、人との軋轢を回避し穏やかな暮らしを保障するが、それが障害になったのが、大東亜戦争だった。
今でも、「俺の方が先輩だから…」とか、「何で、俺が先じゃないんだ…」と不平を口にする人がいるが、この「序列」を間違うと人間関係がギクシャクし、仕事が円滑に進まないのだ。そうして、適材ではない人間でも序列によって、トップに据えてしまうことになる。
よく、一般論として、「適材適所」という言葉を遣うが、それはスローガンであって、実際は、やはり年功序列に敵うものはいない。
真珠湾攻撃部隊も、山本の構想からすれば、航空戦を研究していた小沢治三郎少将や山口多聞少将などが適任だったはずが、序列によって、水雷専門の南雲忠一中将を任命している。
南雲自身も「航空戦には、自信がない」と言っているのに、一度作られたハンモック・ナンバーを壊す勇気がないために、無難な人事を行ったのだ。
日露戦争時に、山本権兵衛海軍大臣が、いくつもの序列を無視して東郷平八郎に連合艦隊を任せたのとは大違いである。
それでも、「優秀な参謀がついているから、大丈夫だ」と言い訳をする人がいるが、たとえ参謀が優秀でも、最終決断は、トップが採るしかないという現実を忘れている。
参謀だって人間。トップが迷っている中で、「これが最善です!」と言い切れる人間がどのくらいいるだろうか。やはり、責任問題になる以上、Aという答えを持っていたとしても、トップに忖度してBという案を提示するかも知れない。その躊躇いが、決断を鈍らせるのだ。
生死を分ける戦いに躊躇は不要。生きるか死ぬかは、その人間の強い信念で決まる。
おそらく、どんな戦いにおいても躊躇して勝利した戦はなかったと思う。
あの織田信長が桶狭間の戦いのとき、あらゆる情報を一人で分析して、今川義元一人の首を取りに行った作戦こそ、将たる者の決断力と言うのだと思う。
なぜ、日本海軍は、日本の過去の歴史に参考になる合戦がたくさんあったのに、兵学校で生徒に学ばせなかったのか、不思議でならない。
人間、だれしも学力だけで戦っているわけではない。多少、学力では劣っても、それを長年の経験で補い、動物的な勘で咄嗟の行動に移れる人もいる。
たとえば、漁船の漁師や山のマタギなどは、大自然を相手にしているから、危険を察知する能力は、常人の何倍も発達している。
この「戦勘(いくさかん)」を養わなければ、修羅場に立つことは難しい。
昭和初頭にレーダーが発明されたとき、平和ぼけしていた海軍の首脳は、その科学的根拠を捨て、「我が海軍の見張員の能力をばかにするのか!」と、科学力より人間の能力を信じたそうだ。そして、そのレーダーを早々に軍に採り入れられたのがイギリスで、かのバトル・オブ・ブリテンの戦いのとき、いち早くドイツ空軍の攻撃を察知し、上空で待ち構え勝利を得た話は有名である。
要するに、イギリスは「戦勘」が働き、日本は、その勘すらなかったことになる。こうした能力こそが、勝敗を分けることを日本軍も知るべきだった。
日本海軍の幹部たちは、見かけは立派。しかし、その中味は、普通の一般人と何も変わらないのだ。裸になってしまえば、見分けなどつくはずがない。
自分の専門外の指揮を執らされ、経験もなく、他人の意見だけで究極の選択を迫られれば、当然、教科書的な作戦を選択するに決まっているではないか。
実際、ミッドウェイ海戦は、指揮官の南雲中将が自信を持った決断ができなかったために、むざむざと四隻の航空母艦を沈めてしまったわけだから、なぜ、序列ではなく、航空戦の専門家を指揮官に配置しなかったのか…と悔やまれる。
後に、航空参謀だった源田実中佐も、
「正直、自分も迷っていた。だから、思い切った提案ができなかった…」
と、当時の気持ちを述べている。
源田実と言えば、自信家で強引な作戦を採ることで有名な参謀だった。
真珠湾攻撃の計画立案者の一人としても有名で、戦闘機万能論者でもある。
終戦間際にも、最新鋭戦闘機「紫電改」を擁して敵グラマン戦闘機と対等以上に渡り合った三四三航空隊の鬼司令としても有名だ。それ源田でさえ、ミッドウェイ海戦では、判断に迷いが生じている。それは、長官の南雲が自信無げに見えるから、それが部下に伝染するのだ。もし、勇猛果敢な指揮官の下でなら、源田は自信を持って長官に助言できたに違いない。
結局、素人の司令長官が受け入れやすい作戦を提案してしまい、後で後悔することになった。そのとき、南雲長官は、少しほっとした顔をして、
「正攻法でいこう…」
と、呟いたと言われている。
海軍の「ハンモック・ナンバー」という制度が、適材適所を阻害していたとすれば、日本海軍には、アメリカに勝利する資格すらなかったことになる。
さて、生徒館に話を戻す。
兵学校では、基本的に日常生活は、生徒の自治に委ねられていた。それは、生徒館自体を軍艦に見立て、各分隊を競わせることによって、全体の力を高めようと工夫されていたからである。これは、軍艦においても同様に各分隊ごとの競争は頻繁に行われていた。
内容は多岐にわたり、有名なものとして、短艇競争、相撲大会などがあった。特に短艇(カッター)は、海軍兵であれば絶対に負けられない競技で、海軍の花形であった。
兵学校でも短艇競技に勝利することは、一号生徒の悲願であり、その優勝旗を目指して日夜訓練に励んだと言ってもいい。
分隊の指揮を執るのは、一号生徒。つまり四年生がリーダーとなる。
この一号生徒の考え一つによって、その年の生徒館の運営方針が決まるといっても過言ではない。もちろん、各分隊には「分隊監事」と呼ばれる大尉クラスの将校がいたが、基本的に、生徒の自治に分隊監事は口を挟まないことが原則だった。
一号生徒が「鉄拳制裁」を容認する年は、生徒館に鉄拳の嵐が吹きまくると言われていた。本来、兵学校でも暴力を容認してはいないが、教官や監事たち自身が殴られて教育を受けてきたために、それを積極的に禁じようとはしなかった。従って、建前は体罰禁止だが、軍隊特有の「見て見ぬ振りをする」態度でいたので、一号生徒が下級生時代に殴られていると、やはり殴る上級生になったようだ。
兵学校出身者の作家豊田穣氏は「海兵四号生徒」という小説に、自分が体験した生徒館の様子を生々しく描いている。
豊田氏によると、一号生徒の気質は受け継がれるようで、豊田氏たち六十八期生は、「獰猛クラス」と称して、四号生徒を殴りまくったと書いている。それを豊田氏自身が肯定的で、自身も率先して下級生を殴って鍛えた柔道主任だったそうだ。そして、殴られた七十一期は、やはり「獰猛クラス」になるという、子供じみた伝統があった。
それに反して、一号生徒が「鉄拳制裁禁止」を謳ったクラスは、比較的おとなしく、豊田氏は、それを「お嬢様クラス」と揶揄している。
当時の男性観が如実に出ている記録で、殴らない教育を「女々しい」と蔑んでいるのだ。だからといって、実戦の場で、彼らが女々しかったかといえば、それはない。「殴ったから強くなった」ということは、ないのだ。
やはり兵学校は、知的に優秀な生徒が集まっているので、教育に体罰を用いるのも、ばかばかしいと思う生徒も多かったということだろう。
因みに、豊田氏は柔道の猛者で、中学生時代に殴り殴られる経験を散々してきた強者だったそうだ。それでなければ、柔道の大会で全国レベルで活躍することはできなかっただろう。今でもそうかも知れないが、そういった体育会系の男たちは、体罰容認派になりがちだということだ。しかし、後世の目で見ると、軍隊の将校が部下を体罰でしか統率できないとなれば、戦場では冷静さを欠いた蛮勇が優先されることになる。
考えもなしに「突撃!」と叫んで突っ込んだところで、緻密な計算がない攻撃に戦果はない。ただ、大切な命が簡単に失われただけのことでしかない。それで「名誉の戦死」となれば、彼らは満足だったのだろうか。そうだとすると、日本人の死生観は、検討する必要がある。
そうした偏った価値観でしか戦を考えられない人間は、将校とか指揮官としての資質を著しく欠くものだと思う。やはり、常に冷静に考え、知恵を出し合う集団や組織を作るべきなのだ。
戦乱の世を終わらせ、安定した幕藩体制を築いた徳川家康は、知恵比べでは、信長や秀吉には敵わなかったかも知れないが、多くの頭脳集団を作り、緻密な組織を創り上げた。
老中制は、一見、家柄によるものと見られがちだが、譜代の小藩であっても、優秀な大名を抜擢した例は多い。そして、その配下の幕臣たちは、知的に高い者たちを役職に就け、思い切った政治を行わせている。幕末のころの幕府の官僚たちは、頗る優秀だった。
特に勘定奉行の小栗忠順などは、日本の未来を見据えて横須賀ドッグや製鉄所を造り、それが現在でも稼働しているのだ。また、アメリカ政府と交渉し、金の流出を防いだ功績も見事だった。
こうした有能な官僚が登用できた背景には、家康の「人を見る眼」が、幕府に受け継がれてきた証である。そうでなければ、三百年近くも続く単独政権が維持できるはずがないのだ。そう考えると、僅か半世紀程度の間に、日本人は大きく変わったような気がしてならない。
幕府という旧体制から学ぶことを嫌った明治政府の責任は大きい。
教科書にも、「江戸時代は世襲制であった」と書かれているが、世襲したのは、その「家」であって、幕府や藩の役職まで世襲したわけではない。もちろん、当時は「家柄」という、その家の歴史は重んじられたが、たとえ、高禄の譜代の家柄の者であっても、能力がなければ、その家柄に相応しい役職には就けなかったのだ。
逆に、家柄はなくても、長年学問を積み実績を残した人間は、たとえ身分が農民階級であっても、登用し執政にまで上り詰めることもできた。
幕府や藩といっても、その政治や経済をきちんと回すことは至難であり、領民の不満が高まれば一揆となり、藩が改易になる怖れすらあったのだ。数百年間、「御家安泰」を貫くのは、至難だということだ。
そういう意味では、信長や秀吉は、人造りが上手だったとは言い難いところがある。
彼らは、自身が有能であったために、教育によって後継者を育てるという発想がなかったようだ。しかし、家康は、教育によって人材を育てて後の世に送り出そうと考えていた。そのため、幕府の昌平坂学問所(湯島聖堂)は、幕臣のためだけの学校ではなく、全国から選りすぐりの逸材が集う学校となった。時には、その優秀な人材を他藩から幕臣に取り立て、旗本として遇している。
中には、下級武士もいたが、能力には身分差は関係ない。優秀な人材を育てることは、明治以降の近代よりも、それ以前の日本人の方が卓越していた。
兵学校も優秀な頭脳集団なのだから、軍人としての「型」に嵌める教育をせずに、その能力をもっと引き出す教育を行えば、日本の近代化はさらに加速したように思う。
優秀な士官候補生を、一兵卒でも鍛えるように、怒鳴ったり殴ったりする教育ではなく、常に思考し議論させ、論理性を磨く方向に進めば、合理的な精神を養うことができた。
そうすれば、戦争末期のような精神論一辺倒の軍人にならずに、あんな特攻攻撃などを採用せずにすんだのだ。そうした頭脳集団であれば、持てる戦力を縦横無尽に動かし、アメリカ軍を翻弄することができたかも知れない。
せっかくの頭脳を、単純な官僚組織に組み込んでしまったことが失敗だった。
彼らは確かに優秀ではあったが、出世コースに乗った時点で、その頭脳を生かすことを止めたのかも知れない。
鄙びた田舎から出てきた少年が、海軍の艦長となって故郷に錦を飾れば、それは鼻が高いことだろう。それで満足してしまえば、人生もそれで終わる。
軍人は、戦争に勝つことが求められている。平時にいくら立派な統率ができても、有事に勝てなければ意味がないのだ。
獰猛な指揮官は、兵を奮い立たせはするが、そもそも作戦は、獰猛な性格ではできない。 常に興奮を抑え、できる限り情報を集め、整理し、分析して考察する。そして、味方に不利な結論が出ようとも、それを理解し、長期的な視点で作戦計画を立てなければならない。そこに自分個人の感情など入り込む余地はない。
兵学校出の優秀な将校には、それが求められていたはずなのだが、世間の風潮に流され、日米戦争の作戦は、悉く情報不足、分析不足、考察不足のためにアメリカ軍の思うがままに翻弄され続けた。
「アメリカの物量に負けた」と言う人がいるが、物量の前に、「人間の頭脳戦」で既に負けていたことを、認めなければならない。
日本の戦国時代でも「楠木正成の千早城の決戦」や「真田昌幸の上田城の戦い」などは、大軍を堂々と迎え撃ち、奇策を用いて敵軍に多くの出血を強いた作戦として有名である。
日米戦でも、ペリリュー島や硫黄島の高度な持久戦法とゲリラ戦が功を奏し、アメリカ海兵隊に多大な出血を強いた作戦として有名になった。また、海軍でもキスカ島の撤退作戦などは、気象条件を利用した奇策として名高い。
こうした指揮官が、軍の中枢部にいなかったために、日本軍が巧妙に戦うことができなかった。所詮は、官僚制度の中で戦争を行うということ自体が無理なのだ。
官僚は、平時にこそ生きる役人であり、その発想のままでは、有事には使えない。
戦争は、ノーマルな発想では敵に手の内を読まれ、敗北するのは当然だった。
なぜ、源義経が、僅かな手勢を率いて平家滅亡に貢献できたかといえば、義経には定石というものがない。常に敵の裏を掻き、奇策を用いて敵を翻弄し、最後には敵の大将の首を獲るといった戦法だから、敵は常に後手に回り義経に振り回されるのだ。
そうなると、大軍は弱い。
日本の合戦の歴史には、様々な奇策やゲリラ戦が登場してくるが、それを自由に操れるのは、歴史に名を刻んだほんの少数の武将だけだったのかも知れない。つまり、類い希なる才能のある者だけができる技なのだろう。
残念ながら、昭和の陸海軍には、そうした才能のある将はいなかったという他はない。
さて、兵学校の生徒館だが、
兵学校生活の自治は、一号生徒に委ねられ、各分隊では、それぞれの「係」に従って役割を果たしていくシステムとなっていた。
分隊の指揮官は一号生徒だが、その一号生徒の首席を「伍長」、次席を「伍長補」と呼び、所謂、分隊長の役割を担わせた。
これは、実際の軍艦内を想定した生活実習訓練というべき対策だが、一号生徒は、この訓練をとおして海軍将校としてのあり方を学んだのだ。 そして、この分隊を常に競わすことで、技術を向上させるねらいがあった。
実際、軍艦に乗艦すると各分隊同士の競技も活発に行われ、優勝分隊には、艦長から金一封や清酒などが褒美として手渡され、さらに分隊間の競争意識は高まったといわれている。
兵学校は、この分隊競技の多い学校だった。
有名なものでは「弥山登山競走」「短艇(カッター)競争」「水泳競争」「棒倒し競技」などがあるが、どれも分隊の名誉にかけて、少しでもよい順位を取ろうと必死になって四号生徒を鍛えたそうだ。
ある一号生徒は、四号生徒に向かって拳を突き出し、
「貴様ら!この手には何があるか?」
と、問うたそうだ。
四号生徒が、「五銭銅貨であります」とか、「瓶の蓋であります」などと他愛のない答えをする中で、気の利いた四号生徒が、「優勝旗であります」と答えて、「そうだ!優勝旗を握っておるのだ!」などと気合いを入れることがあったと豊田氏は、その小説に書いている。
これまで中学生だった少年たちが、兵学校に入校して、その規則正しい生活と高度な授業、そして個人でも分隊でも競わせる戦いは、「兵学校生徒」というプライドがなければできるものではない。それに、分隊という仲間が協力して勝利を得るという「チームプレイ」の大切さを教えたのだ。
戦場ほど、危険極まりない場所はない。
気を許したり、油断したりすれば、即、自分だけでなく、隊の全滅が待っている。
死を覚悟して軍人になったとしても、勝利を得ない死では、あまりにも無念だろう。
こうした訓練は、戦場で戦う兵士には必須のものだったのだ。しかし、戦場で戦う兵士と、命令をする立場の指揮官の意識の差が大きければ、兵士の死は無駄になってしまう。それを、「華と散る」などという綺麗な言葉で人の死を美化したところで、死んで行った兵士の慰めにもならない。
軍人は、死ぬために戦うのではなく、祖国の勝利のために戦うのだ。
昭和七年に英語教官として兵学校に赴任したイギリス人、セシル・ブロックは、その著「英人の見た海軍兵学校」(EDAJIMA.the.Dartmouth.of.Japan)の中で、分隊競争を次のように評している。
「分隊の競争は、分隊内の団結力を養い、且つ上級生の統率力を養成するのに抜群の効果がある。日常生活を通じて、統率力の養成と規律の厳正が保持できる裏には、何世紀にもわたる封建社会制度と領主に対する絶対服従という武士の教典が背景となって存在する」
なるほど、外国人らしい冷静な論評だ。但し、「領主に対する絶対服従という武士の教典が背景」という分析は、間違っていると思う。それは、日本型儒教の考え方である。
ヨーロッパの封建主義は、絶対領主と奴隷の関係でしかないが、日本の武士道は、「長幼の序」を重んじる。そのために、年長者を常に敬い、その指示に忠実に従う習慣があったということだ。
今でも中学生は部活動等で上級生から、様々なことを教わるが、それは飽くまで「先輩・後輩」の関係の中で行われる。日本の学校は、教師からすべてを習うのではなく、上級生から下級生へと受け継がれることが多いのだ。これも、儒教的な「長幼の序」を重んじる日本ならではの習慣だろう。
井上の家庭を見ても、父嘉矩の権威は大きく、父親は家長としてその家族の生活一切を見なければならないという大きな責任がある。
兵学校の一号生徒も、経験の浅い「四号生徒」の面倒を見るような気持ちで、厳しく指導した。日本人は、厳しい指導も「愛情」と感じる感性がある。
日本の家長制度の中で、父親や長兄の権威は大きく、ときには体罰を以て躾けられることは日常茶飯だった。特に武士の家では、礼儀作法、生活習慣、言葉遣い、時間を守る…など事細かく決められることが多く、それを苦痛とは感じない習慣ができていた。
兵学校においては、その上に「鉄拳制裁」という体罰が黙認されていたので、下級生徒にとっては苦しい時代ではあったが、それも新入生時代だけのことで、二号生徒や三号生徒は、一号生徒にそれほど厳しく鍛えられることはない。それに、この英人教師は、分隊の「団結力」を賞賛しているが、軍艦を指揮する軍人にとって、この団結力こそが戦力であり、彼ら自身の安全を確保する術でもあったのだ。
今でも日本では、団体種目を行うときは、この「以心伝心」の団結力を育成しようと工夫を凝らす。「同じ釜の飯を食う」というのも奨励されることが多い。また、日本の学校に制服が多いのは、やはり「同じ学校の生徒」という意識を育てるのに効果があるそうだ。
一時期、アメリカの教育使節団が日本を訪問し、生徒の同じ制服と給食、清掃に驚いたそうだが、それが「団結力」を養う秘密だと気づいたそうだ。
最近では、日本以外の国でも学校に制服を導入することが増えてきたそうだ。
この分隊方式は、イギリスのパブリック・スクールでも同様な仕組みが採られているという。イギリスでは、分隊は「ハウス」、伍長は「ハウス・キャプテン」と称するそうだ。
日本海軍が、兵学校をどのように運営しようかと考えたとき、海軍の母体であるイギリスに倣ったのは、当然だろう。但し、丸ごと採り入れてしまったために、日本人の習慣には馴染まない点も多く、それが戦争となると、顕著に現れることになったのは、当時の担当者の勉強不足と言わざるを得ない。それでも、こうした教育が施せる日本の向上心は誇ってもいいだろう。
第四節 一号生徒による自治
兵学校生徒が日常生活を送り、訓練の場ともなった生徒館の主は、間違いなく最上級生の一号生徒である。
一号生徒は、既に二十歳を超えており、喫煙や飲酒も許される年齢になっている。入校したての四号生徒にしてみれば、ずっと大人に見えたに違いない。
今でも十八歳の大学一年生と二十二歳の四年生では、随分と貫禄が違うものだ。
実は、新四号生徒を迎えるとき、一号生徒もかなり緊張していたようなのだ。
なぜなら、自分たちの一号生徒が卒業し、それまで二号生徒だった自分たちが、生徒館の自治を任されたわけだから、その責任の重さはこれまで以上だった。まして、すぐに四号生徒が入校してくるとなると、一号生徒も準備をしなければならない。そして、今までの四号生徒が三号に進級し、ほっとひと息を吐くのだった。
さらに、その上の三号生徒が二号生徒に進級すると、様々な係の補佐を務め、一号生徒を助ける役割に就く。
二号生徒というのは、生徒館の「母親役」と呼ばれたように、入ってきた四号生徒に親身になって話を聞いたり、励ましたりする役割も担っていた。もちろん、軍隊だから甘えは許されないが、一号生徒の命令をよく噛み砕き、丁寧に教えてやる兄貴分だと考えてもいいと思う。これを「対番」と言って、やはり生徒館の自治活動に組み込まれた制度だった。
二号生徒は、対番になった四号生徒に、
「いいか、消耗するんじゃないぞ…」
「わからないことは、俺に何でも聞け…」
と、優しくを声をかけ、脱落することを防いだのである。
生活環境が一変した四号生徒にしてみれば、そんな些細な言葉かけも有り難く受け止め、貴重な情報源としていた。それに、同じように鍛えられている同期生が十人いたので、励まし合いながら、何とか一年間を乗り切ったのである。そして、その優しかった二号生徒も翌年、新しい四号生徒が入ると、鬼の一号生徒に豹変するのだ。
そんな緊張感が常に生徒館を覆い、否が応にも軍人としての面構えができてくる。
今、残されている写真を見ても、四号生徒と一号生徒の顔つきはまったく違うことに気がつく。一号生徒は凜々しいと言うよりは、顔の筋肉も引き締まり、眼も鋭く、厳しさの方が勝っているように見える。要は、一号生徒も必死だったということなのだ。
それに海軍では、「月月火水木金金」をモットーとしている。
つまり、「訓練に休みなし」という教えだが、これは、気持ちの問題で、実際には土曜日、日曜日の休養日は設けられており、夏季や冬季の休暇も与えられた。
但し、そうは言いながらも、戦局が厳しくなると、「休みを返上しても鍛える」ようになり、兵学校内にも戦争の色が濃くなってくるのだった。
この海軍の「訓練に休みなし!」の考え方は戦後も残り、現在の日本の社会にも見られる現象になっている。
日本人は、「休む」ことを「恥」と考える習性があるように思える。
今でこそ、週休二日制は定着し、働き方改革という言葉も出始めているが、学校や企業のブラック化問題は、解決には向かっていない。
欧米の社会では、既に百年近く前から「休日」の重要性を認識し、軍隊においても兵に休日を与えなければ、暴動も起きかねない雰囲気があった。それは、たとえ戦場でも兵隊が休暇を取るために、新しく補充兵が来るのは当たり前で、死ぬまで働かされることはない。
土日もなく働く社員が罰せられたという話は聞かないが、無理に「責任感」だけを賞賛しても、体は正直なものである。日本人に精神疾患や過労死が多いのも、この「休む」ことへの罪悪感が原因しているように思える。そして、それは、農耕民族の性なのかも知れない。
農民は、いつも田畑が気になり、水やりや雑草取り、害虫駆除、風水害への備えなど、ありとあらゆる想定の下に準備を怠らないのが、立派な農民とされた。
軍人も、そういった農民の子孫だから、「休む」ことを極端に怖れたのかも知れない。そこが、合理的な思考のできる欧米人と、考え方が根本的に違うのだろう。
かの東郷平八郎元帥も、「訓練に限度はない!」というような発言をしたそうだが、軍縮条約によって日本の軍艦の比率を欧米より下げられた日本は、その分を訓練で補おうと考えたのだ。
「月月火水木金金」は、そのときにできたスローガンなのだ。
しかしながら、精神的には常に危機意識を持っていた日本軍も、上層部になると少し話は違う。
危機意識が強いというのなら、もう少し情報戦を考え、できるだけ敵国の情報を収集しようとするものだが、実際の日本は敵を侮るだけで、敵国の分析を専門的に行おうと考えた形跡がない。
自分に都合のいい情報は欲しがるくせに、不利な情報になると隠蔽し誤魔化そうとする。そのために、大東亜戦争中も何度も作戦を誤り大失敗を繰り返した。
海軍だけでも、「真珠湾」「ミッドウェイ」「海軍甲乙事件」「レイテ湾」「マリアナ沖」「台湾沖」と、何度も重大な決戦を行ったが、どれも作戦のミスで、被害ばかりが大きくなっていった。真珠湾は被害こそ少なかったが、目的のひとつも果たせず、勘違いの戦果に酔うという大失態を犯している。
「海軍甲乙事件」などは、ミスと言うより、あり得ない失態である。そして、日本の連合艦隊司令長官を僅かな期間で二人とも戦死させるとは、暗号問題といい、作戦行動といい、いい加減な計画に素人の私でもウンザリする。それでも、責任者が処罰されたことはない。
アメリカ軍は、戦争が始まると日本を徹底的に研究し、日本軍の作戦の裏を掻くような巧妙な罠を仕掛けてきた。それは、まるでハンターが獲物を狩るが如しである。
こうした思考の違いが、戦争指導にも現れ、日本は後手に回ることが多くなった。
兵学校においても、精神性がかなり強調され、忍耐と協調性を教え込まれた。そんな兵学校において、生徒たちの精神的支柱となったのが分隊監事である。
先にも、各分隊には「分隊監事」がついていたと述べたが、兵学校では、大尉クラスの軍人を分隊監事として生徒の管理監督のために置いていたのだ。
分隊監事は妻帯者で、三十歳を過ぎた人格者を充てた。
戦争末期になると、二十代前半の大尉もいたが、平時は家庭人としても落ち着いた年代である。
監事の多くは教官も兼ねており、学校の外に官舎があった。
若い生徒たちにとって、分隊監事は、ひとつの目標であり、その落ち着いた雰囲気と生活に憧れを抱く者も多かったのだ。いずれ、戦地に赴くとしても、こうした家庭生活を営めるのであれば、海軍暮らしも悪くはない。
戦死、戦死…と死ぬことばかり考えがちな生徒にとって、一時であっても、平和な家庭生活は、将来への憧れにつながる。
妻を娶り子をなして、一家の主として「妻子を守るために戦場に出る」ことは、励みでもあったはずなのだ。
たとえ武運拙く戦死することになっても、家族のために命を懸けたことに悔いはない。武士とは、そういうものだと思う。
分隊監事は、生徒が多くなると数分隊をまとめて面倒を看ることになったから、その気苦労も大変だった。自治を一号生徒に任せてあるとはいえ、若い生徒が無闇矢鱈に制裁を加えるのも困りもので、気がつく度に伍長を呼んで指導したり、実際に中に入って指導したりと、学校の教師の役割も担っていた。それでも休日ともなれば、分隊監事も気を遣い、生徒たちを自宅に招いたという。これは、分隊監事のサービスのようなもので、学年ごとに十名も呼べば、かなりの出費になったはずだが、すべて自腹だと聞く。
監事の奥様方にとっても、そのもてなしは、大変には違いない。自分たちの生活費を切り詰めて、生徒へのご馳走代に費やしたそうだ。
夫が、戦地に行かないで済んでいる分、仕方がないのかも知れないが、そんなことを忖度できる生徒たちではない。
生徒にとっても、こうした温かい家庭の雰囲気を味わうことは、日頃のストレスの解消になり、明日からの訓練にも力が入ったようだ。
分隊監事の多くは、なるべく一号生徒の自治には口を出さないようにしていた。
もちろん、彼らも兵学校の卒業生だから、一号生徒の指導がどんなものかは、十分に知っているし、四号生徒の苦労も身にしみて知っているからこそ、温かく見守る態度を取り続けられたのだろう。そして、二年もすると、自分自身が辞令一本で戦地勤務になるのである。
陸軍士官学校は、海軍のような分隊監事は置いていない。逆に、生徒と寝起きを共にする「区隊長」が置かれていた。
区隊長には、士官学校を出て間がない、少尉、中尉クラスが担ったのだ。
陸軍は海軍と異なり、「幼年学校」という小学校卒業程度の少年を選抜し、将校教育を施していたので、陸軍士官学校には、一般中学校から入校する者と、幼年学校から入校する者がいたのだ。
当然、幼年学校卒業生は、陸軍という組織を熟知したエリートになる。そこに、一般中学校卒の生徒との間に溝ができた原因があった。
区隊長の多くは、幼年学校出身者ということもあり、少し年長の兄貴が若い弟分を引き連れて鍛えるといった図式が生まれた。
陸軍は、幼い少年たちを熱い心を持った青年将校の訓育によって、国軍の中核となるよう鍛えたのだ。しかし、若い青年将校の中には、過激な思想を持つ者もおり、それが必ずしもよい結果を生んだかどうかはわからない。
陸軍士官学校は東京の市ヶ谷にあり、海軍兵学校が江田島にあったのとは違い、陸軍の中枢に置かれていた。しかし、軍隊という性質上、閉鎖的で、独善的になるきらいがあったことは事実だった。
二・二六事件なども、陸軍の青年将校が共産主義思想を信奉するようになり、起こしたクーデター事件である。
小さな集団の論理の中で、強烈な思想を吹き込まれれば、幼い少年たちが、それに染まるのは自然かも知れない。
軍隊という組織は、その性質上、大所高所からものを見て、判断することは難しかったようだ。飽くまでも「戦闘行為」に主眼が置かれ、戦争を決定するのは政治家であり軍人ではないとする軍律があった。もし、軍人に戦争を行う決定権を与えれば、何かを理由にして暴発する可能性があったからである。それを怖れた明治政府は、「軍人は、政治に関与しないように」と軍人勅諭を通して命じたが、やはり、戦力という「力」を持つことによって、軍人の発言権は大きくなっていった。
本当なら、日本も「国家戦略室」といった部署を設け、軍官民一体となって、その頭脳を結集した組織があった方がよかったのだが、派閥意識の強い国民性は、それほど思考が柔軟にはなれなかったのだ。
大正デモクラシーの時代を経て、世界中が大不況に見舞われると、脆弱な日本の工業は一気に衰退してしまった。それまで「軍縮」に進んでいた日本が、その経済的な問題を欧米と同じように外国に眼を向けることで解消しようとしたのである。それが、中国への進出となった。
日本は、日清戦争、日露戦争によって中国東北部の「満州」に大きな権益を得たが、逆にそれが日本の足枷になろうとは思いもよらなかった。
常に南下しようとするソ連の脅威に対抗するためには、満州を守らなければならない。
また、多くの戦死者の血によって購われた満州や中国での権益は、何があっても日本が守り抜かなければならない「生命線」と言われていた。それが、日本の進むべき道を誤らせた。
帝国主義は、欧米諸国に通じる理屈であり、有色人種の日本がその仲間入りをすることは、欧米諸国にとって不快でしかなかった。
当時の日本は、そのことに気づくことなく、国際社会に出て行ったが、それは欧米諸国とさらなる軋轢を生み、日本が活躍すればするほど、彼らの憎しみを買う結果になっていった。
昭和になると、陸海軍は、その軍備の増強を政府や国会に強く要請するようになった。それは、世界中が戦争の危機を煽ったからに他ならない。どの国もこの大不況を乗り切るために戦争を欲するようになっていたのだ。
軍部にとって、それは勢力を拡大するチャンスに見えた。
陸軍は、師団の増設を求め、海軍は、艦隊の増強を求めた。そして、陸軍は、仮想敵国をソ連に求め、海軍は、それをアメリカに求めた。そのどちらも勝利は覚束ないような強大な国である。日本一国で勝利を勝ち取ることは無理だということは、だれの目にも明らかだった。それでも、陸海軍は、敵に「勝利」するために軍備の増強を強く求め、議会でそれを押し通した。それには、昭和初期に起きたテロ事件が大きな影響を与えたと言われている。
政治家や財界人は、五・一五事件や二・二六事件の再発を怖れた。
一国の総理大臣や天皇の重臣たちを次々と暗殺するために軍を利用するなど、あってはならないテロ行為だったが、一度起きてしまうと、もう、それを押し止める方策がないことにだれもが気づいていた。
軍部は、口にこそ出さなかったが、いざとなれば「軍を動かす」ことができることを暗示し、議会や財界の口を封じたのだ。ここに、日本は、軍に屈服し、議会制民主主義の理念を放棄したと言わざるを得ない。そして、昭和が始まって僅か二十年足らずで、すべてを失うことになったわけだから、如何に軍部の責任が大きかったかが分かる。
もちろん、日本一国だけなら世界大戦になるはずがない。アメリカもイギリスも金融界も、この大不況をチャンスと捉え世界中に紛争の種を撒いていたわけだから、日本だけを責めることはできない。それでも、もう少し賢い選択はあったはずだ。
陸軍も海軍も、いつのまにか「国防の本質」を見誤り、自分たちの組織だけの繁栄を夢見たのだ。こうした独善的な態度は道を誤る元であることを、現代の私たちは肝に銘じておかなければならない。
さて、兵学校に話を戻す。
よく海軍では、
「一号生徒と艦長は、一度やったらやめられない」
と言うのだそうだが、それほど、絶対的な権力を握っているということを指している。但し、軍艦の艦長は、その能力を乗艦している乗組員全員に知られている。
普段、どんなに偉そうに振る舞おうが、操艦技術が未熟な艦長は、部下の兵隊に侮られてしまう。なぜなら、軍港に寄港した際、所定の位置に軍艦を寄せて停止させるのは艦長の役割だからだ。この操艦が未熟だと、敵の魚雷や爆弾の攻撃に対して安全に回避することができない。したがって、兵隊たちの命は、艦長の操艦にかかっているというわけなのだ。
艦長の中でも航海科出身の艦長は操艦が上手く、砲術科出身の艦長はぎこちなかったという。井上は、この操艦が巧みだったそうだ。
生来、生真面目な井上は、航海術を学ぶと、青年士官の頃から熱心に操艦を訓練していたのだ。もちろん、軍艦の操艦は艦長だが、航海士となればその操艦を間近で見ることができた。それに、内火艇の指揮(チャージ)を務めれば、操艦の基礎は実地で身についたのだ。こうしたこまめな努力が、艦長になったときに役に立つ。
軍艦の艦長は、駆逐艦で中佐職、巡洋艦や戦艦は大佐職が務めるのが通例である。したがって、兵科将校なら、たとえ飛行科でも任命される可能性はある。
それを想定して怠らないのが、優秀な指揮官の資質だったのかも知れない。
軍艦が寄港すれば、その後は「上陸」となる。
陸へ上がって早く風呂に入ったり、旅館で寛いだり、映画を見たり、好きな女性のところに行ったりと、兵隊たちはだれもが上陸を楽しみにしていた。そんなとき、何度もやり直しをして、他艦に出し抜かれることでもあれば、艦長の面目は丸潰れになる。
これが一発で寄せて「機関停止。上陸を許可する!」となれば、「俺たちの艦長は凄いな!」と大喜びは必定だった。
この操艦技術で有名なのが、戦艦大和の艦長だった森下信衛大佐や駆逐艦雪風の寺内正道少佐などだ。この艦長の操艦技術一つで、その戦闘の運命を変えるわけだから、やはり、艦長の存在は大きかったのだ。しかし、兵学校の一号生徒には、それほどの責任は、まだない。一年間、生徒館に君臨して指揮官の真似事をするのも勉強だったと思うが、その勢いで艦隊勤務となり、少尉候補生としてビシビシ兵隊を鍛えていると、大体は、上官から注意され、
「おい、候補生。ここは江田島じゃない。そう張り切るな!」
となったようだ。
下士官兵にしてみても、一応上官なので敬礼はするが、七つ釦の短ジャケットでは、威厳がありようがない。それでも、中尉や大尉に昇級し勤務が長くなると、下士官兵への気遣いもできるようになり、一人前の海軍将校になっていった。とにかく、それだけ自分の責任と自覚が大切になるポジションなのだ。
戦後、豊田穣氏の同期生であった松永市郎氏が「先任将校」という本を著した。この戦記は評判を呼び、リーダー論として若い起業家たちに読まれている。
松永氏たちが乗艦していた軽巡洋艦「名取」は、レイテ決戦に参加し、アメリカ潜水艦の攻撃により沈没した。その際、短艇(カッター)三隻に生き残った百八十三名の乗員を乗せて、二週間をかけてフィリピンのミンダナオ島に辿り着いた奇跡の実話である。そして、この短艇隊の指揮を執ったのが、先任将校だった小林英一大尉(兵学校六十五期)である。
弱冠、二十七歳の海軍大尉が、乗艦の沈没によって遭難した部下将兵を率い、無謀にも二週間、飲まず食わずで太平洋を橈漕させたのだ。
実際、艇内では下士官兵を交えて様々な議論が交わされたようだ。
生きるか死ぬかの瀬戸際にいる彼らにとって、単に名前だけの指揮官についていくつもりはない。その指揮、命令に従うということは、「命を預ける」ことなのだ。敵と戦うことは一蓮托生だから、死ぬ覚悟はできる。しかし、生きるための戦いは、そうではない。 指揮官が迷えば、即座に内部で反乱が起こり、その指揮官を殺してでも自分の意思を通そうとする下士官兵が出てくるはずなのだ。それが、極限に置かれた人間というものだろう。
その恐怖を感じつつ、「自分について来い!」という命令を発するためには、相当の心の鍛錬が必要なのだ。
名取短艇隊の指揮官になった小林大尉は、そうした海軍将校だった。
大尉は、下士官兵の意見を聞くと、即座に決断し実行に移した。それも、理に適った方法を示し、議論していた下士官兵を納得させたのだ。
問題を避けるために、当たり障りのない言い方で宥める方法があるが、それでは時間稼ぎにはなっても、指揮官としての信用を失いかねない。指揮官に心服させてこそ、団結力が生まれるのだ。
この短艇隊の次席将校が、この記録を書いた松永市郎大尉だった。松永氏は、小林大尉の命令を忠実に実行しただけでなく、艇内にいる下士官兵の面倒をよく看て、暴発を防いだという。これも、兵学校時代に経験した「伍長」と「伍長補」若しくは、「対番」の経験が生きたのだろう。そして、見事にこの前代未聞の航海を成し遂げたのだった。
この話には、実は続きがある。
ミンダナオ島に到着した軽巡「名取」の乗組員は、痩せてはいたが、健康そうに見えたそうだ。すぐにでも食べ物を欲するので松永大尉が陸軍部隊に相談した。すると、そこに民間病院から応召された陸軍軍医中尉がいた。
軍医中尉は、松永大尉に、「名取隊の医務を担当して良いか?」と尋ねた。なぜなら、陸軍の軍医が、命令もなしに海軍部隊の仕事をすることはできないからだった。
それを快く許可した松永大尉は、間もなくして、この軍医中尉に怒りをぶつけることになった。それは、「腹を空かせた乗組員に、薄い重湯のような飯とはどういうつもりか?」ということだった。
すると軍医中尉は、こう言ったそうだ。
「皆さん、見た目は元気そうですが、二週間も飲まず食わずでは、内臓は非常に弱った状態です。今、食欲に任せて飯を食えば、全員が明日までには死んでいるでしょう…」
「申し訳ないが、重湯から初めて、少しずつ飯の量を増やしていくしかありません。折角、永らえた命です。分かってください」
この若い軍医中尉が、上官に対して丁寧に説明し、謝罪をしたそうだ。
この軍医にも医師としてのプライドがそうさせたに違いないのだ。
先任将校の小林大尉、そして次席将校の松永大尉、さらに陸軍軍医中尉がいて、この無謀と思える航海が成功したのだった。しかし、彼らの多くはこの後のフィリピンでの戦いで戦死している。
この彼らの精神こそが、海軍兵学校で目指すべき精神だったはずなのだ。まさに、「模範とすべき一号生徒」だった。そういう意味で、兵学校は「船乗り」に必要な資質を、しっかり育てることができたと言える。
第五節 普通学重視のカリキュラム
海軍兵学校は、海軍の将校養成機関である。日本海軍が、イギリス海軍に倣ったのは、当時の世界情勢から考えても当然だった。
戊辰戦争で、薩摩藩を支援したイギリスは、その力を背景に日本との交易を望んだのだ。
恐らくは、戊辰戦争が長引き、イギリス兵が上陸して薩摩兵と共に幕府軍と戦う機会を窺っていたのだろうが、それを察知した将軍徳川慶喜は、さっと身を引き、大政奉還に続いて、江戸を新政府に明け渡すことに成功した。
有名な、勝海舟と西郷隆盛の談判の内容は、この「イギリスの企み」についての情報交換と今後の政権交代の実務的な話し合いであったと考えるのが適当であろう。
もう、この頃になると日本にやって来る欧米諸国のねらいはわかっていた。
内乱に乗じて自国の軍隊を派遣し、戦争が終わるや否や、政治や軍事の顧問団を派遣して、その国の中枢を支配しようとするのだ。
明治期にも、多くの外国人顧問が来日したが、明治政府は、ギリギリのところで列強のねらいを逸らし、日本人の手によって改革を成し遂げた。これが、単なる権力闘争だけであれば、列強の入り込む隙はあっただろう。それを考えると、最後の将軍になった徳川慶喜は立派だった。
イギリスは、薩摩藩に「徹底的に徳川を叩き潰せ!」と唆したに違いないが、西郷隆盛もそれに踊らされるほど愚かな人物ではなかった。そのため、戊辰戦争は外国兵の上陸を許さず、国内戦で終結させることができたのだ。
徳川慶喜を殺さない替わりに、会津藩や庄内藩を叩くことは、勝と西郷の密談で決まったのだろう。だから、両名共に東北戦争には深い関わりを持たず、冷淡に接している。
徳川慶喜に対しても、水戸へ蟄居後は特に関与した動きを見せていない。
フランスは、直接慶喜に会い支援を申し出たと思うが、蟄居を決めた慶喜は、その提案に乗ることはなかった。それは、水戸学を信奉する慶喜にとって、「幕府や徳川家より天皇こそが日本だ」ということを知っていたからである。
たとえ、政権が奪われようとも、天皇が日本に存在する限り日本は滅びないが、政権を外国に奪われれば、日本は植民地となり国が消滅することがわかっていた。それに、戊辰戦争を見たイギリス人やイギリス政府は、日本武士の勇猛な戦いを見せつけられ、日本の植民地化は「無理」と判断したのだろう。
逆に、アジアの拠点として、日本に恩を売り、同盟を結ぶことを模索するに至ったのである。その顔色の変化を見て、明治政府は、イギリスを味方につけるために、海軍は、イギリスに倣うことにしたのかも知れない。それは、イギリスにとっても世界制覇のための布石であり、ロシア、アメリカを牽制するための手段でもあった。
アジアに、強い同盟国を持てば、イギリスの世界支配は続く。
イギリスにとっても台頭してくるアメリカやロシア、ドイツなどは脅威なのだ。その点、日本は、今のところ脅威にはならない。それ以上に、未来の同盟国として優遇した方が、イギリスとしても損はない。
日本の海軍兵学校が、イギリスのダートマス海軍兵学校やパブリック・スクールを範としたのも、そういった経緯があるからだろう。
海軍には、
「海軍将校は、ジェントルマンでなければならない!」
という教えがあった。
このジェントルマン教育は徹底しており、海軍は、殊の外身嗜みにはうるさかった。それは、たとえ二等水兵といえども、海兵団には踊り場に必ず大きな鏡が設置してあった。 自分の全身を映すための鏡で、アイロンの利いた純白の水兵服、磨き込まれた短靴など、上官に「だらしない」という注意を受ければ、上陸(休暇)禁止になってしまうかも知れないのだ。
上陸こそが、唯一の楽しみであった兵にしてみれば、数日前から念入りに準備を整えるのは習慣になった。そして、上陸前の晩には、もう一度外出用の制服にアイロンをかけ、折り目をつけて寝たそうだ。
まあ、背の低いがに股の日本人が、軍服を身につけても、それほど格好良くは見えないが、それでも、清潔、身だしなみをモットーとする海軍教育は、日本を世界の仲間入りする意味で効果はあったようだ。
兵学校でも同じようなしつけ教育が行われていた。
整理整頓は当たり前で、机の中から私物を入れる箱(チェスト)まで、上級生から点検され、ベッドメイキングも完璧でなければ、何度でもやり直しを喰らった。
列の並び方、腕の振り方、敬礼の仕方まで、常にきびきびと動かなければならない。
イギリス海軍が、そうであったかどうかは定かではないが、海軍は、軍隊だから、極端に「無駄」を嫌う組織だったことは、間違いない。
明治三十一年の「海軍特設教育機関教育要旨」には、
「普通学の教育は、将来、将校として必要なる学術を研究するの地歩を成す。併せて、其の気品と嗜好とを高めるに必要なるが故に、深く、此の点に留意して、教授すべきものとす。就中、数学及び外国語学は、職務上及び兵学研究上、殊に必要なるが故に、最も之を重視すべきものとなす」
と書かれている。
こうして、兵学校では、「気品と嗜好」「数学、外国語学」を高める上でも、普通学が重視されたのだった。
ジェントルマン教育は、まさに、この「教育要旨」が柱となっている。
但し、外国語(英語)は、大東亜戦争末期になると、兵学校でも一大論争を巻き起こすことになった。
それは、官民一体となった「敵性言語の排斥運動」によるものだった。
既に、一般社会では英語表記がなくなり、外来語すらも使わなくなる風潮の中で、陸軍士官学校は、受験科目から「英語」を外したのだ。
野球においても、東京六大学野球が廃止に追い込まれ、昭和十八年十月には、「出陣学徒壮行早慶戦」が神宮球場で行われ、それ以降は、学生野球が行われなくなった。それも、「野球は米国から入ってきたスポーツだから」というのが廃止の理由だったそうだから、戦争は、どうも人間の正常な判断や理性を狂わせてしまうようだ。
アメリカでも兵隊や国民への宣伝が進み、日本人を「猿と同種の動物だ!」と教え込んでいたから、戦争とはまさに異常な世界である。要は、「人間じゃないから、駆除する」といった理屈で、人間を動物以下にするのだ。
戦後、しばらくして「猿の惑星」というアメリカ映画がヒットしたが、まさに、あれこそ、アメリカ人が抱いた「日本人」の姿だと言う人もいた。当時の気分は、まさに「猿の惑星」だったのだろう。
古来から、「敵を知る」ことの重要性は叫ばれていたが、敵国人を「悪」として見ると、日本人もアメリカ人もとんでもない人々のように見えてしまう。一方、友好関係が築かれ、「善」として見ると、これほど尊敬できる人々はいない。
同じ事実であっても、見る方向や解説によって、印象が極端に変わることを認識しておくことが、戦争を知ることになるだろう。
戦争後期の「英語廃止論」は、まさに敵国人のすべてを「悪」と見做した施策だった。当時、それを信じた子供たちが、戦後、喜んで英語教育を受けたことを考えると、「公」のすることも安易に信じることはできないという典型的な事例になった。そんな風潮が兵学校にも押し寄せ、多くの教官が、「英語反対論」をぶち上げたことは、先にも述べた。
「戦場で、多くの先輩たちが必死に戦っている時に、敵国語を学ぶとは、何たることか!」
と、勇ましい軍人(教官)たちは気炎を上げたのだろう。難癖つけるのが上手い輩はどの世界にもいる。そんな勢いに推されて、兵学校でも「英語廃止論」が優勢を占めた。しかし、時の校長である井上成美は、そんな教官たちの反対論を、断固撥ね付けたのだ。
「戦争は、いずれ終わる。英語のひとつも学ぶ意欲のない者が、海軍将校になってどうする。そんな気概のない者は、海軍にはいらない!」
背筋をすっと伸ばし、古武士然とした鋭い眼に睨み付けられた教官たちは、校長に向かって言葉を発することができなかった。
教官全員をひと睨みすると、井上は、英語廃止論をぶった戦場帰りの教官の眼を見詰めた。すると、その若い将校は、すっと目を逸らすと下を向いてしまったという。
気迫が違う。あの三国軍事同盟のとき、軍務局長室に乗り込んできた連中を、コテンパンに論破して追い返した凄味は健在だった。
日本の将来を憂いていた井上と、世間の風潮に乗っただけの軽薄な男の差がここに現れた。
井上は、明治の「教育要旨」にあるように、海軍将校には「気品と教養」が必要だと常に考えていたのだ。まして、海軍の用語の多くは、英語である。「ラッタル(階段)」「バス(風呂)」「ガンルーム(士官次室)」「チェスト(机)」…、兵学校でも英語は多用されているにも関わらず、英語が不要では、どんな海軍を創ろうというのか。
単純な教官たちは、
「優秀な、人材が皆陸軍に採られる!」
と騒いだが、井上は、そんな意見は一顧だにしなかった。
戦後、井上は、この普通学・英語教育の重視を改めなかったことに対して、
「戦争が終わった後、国を再建するのは生き残った者たちの使命だ。この兵学校で学んだ青年たちが、日本の復興に必ずや役立つことを信じていた」
と語っている。
井上ほどの人間なら、この戦争が日本の敗北に終わることは、わかっていたはずだ。ただ、どうやって負けるかを考える時期に来ていたのだ。それがわかっていて、若い生徒を、戦争マシンにすることだけは、許せなかったのだろう。
井上の予想通り、戦後、兵学校で学んだ元生徒たちは、その気力と頭脳を生かし、社会の各分野で活躍した。そして、日本の復興に大いに寄与したのだ。
生き残った生徒の一部は、生涯井上の教えを守り、井上が死ぬまで陰になり陽向になって井上の生涯を支えたという。
第六節 自啓自発の兵学校教育
兵学校というところは、なかなかユニークな取り組みをする学校(軍隊)でもあったようだ。なぜなら、校長の裁量権は大きく、海軍省などの干渉を受けなかった。それに、校長は海軍中将のポストで、海軍の中枢ではないが、閑職ではない。
井上のように、兵学校長から海軍次官に異動しているところから見ても、海軍部内での影響力は残していたとみるべきだろう。それに、兵学校は、海軍の「兵科将校」の養成機関である。
兵科とは、戦闘員のことを指す。つまり、軍艦を指揮し、操艦し、敵と戦うのが主務であり、軍人の花形でもあった。
同じ将校でも「機関科将校」は別名「罐焚」と呼ばれ、軍艦のエンジンや飛行機の整備などが主務だった。階級も中将が最高位であり、兵科のような指揮権はない。
井上は、戦争末期に、この兵科と機関科の統合問題を解決し、機関科将校でも指揮権を与えるような制度改革を行った。そのため、機関学校卒業の戦闘機乗りや特攻隊員が多く出ている。また、海軍の将校には、「主計科将校」があり、事務を主務とする将校で、海軍経理学校で教育と訓練を受けている。
主計科は、主に事務的な仕事だが、衣食住に関わるすべてが主計科の担当になっている。 兵から大将までの人事異動から日々の食糧や備品の調達、兵たちの管理まで主計科将校がいなければ、何もできない。それに、海軍経理学校は採用人数も少なく、例年二十名から三十名という年もあり、あまりにも少数のために、戦争が拡大すると、その補充に苦労している。
主計将校の仕事は、かなりの緻密な事務仕事が多く、海軍では、大学を出た一般の会社員を「短期現役主計科士官」として採用している。戦後、総理大臣を務めた中曽根康弘氏は、この制度の主計科士官として戦地に出ている。
主計科将校は、その採用人数が少ないために、視力に問題がある生徒が応募する傾向にあり、その競争倍率は兵学校どころではなかったようだ。
主計科は、元々戦闘員ではないので指揮権はない。階級も中将止まりだったが、その職務柄、一般社会でも通用する人が多く、戦後の活躍も目覚ましいものがある。
他に、予備学生の中から「要務士」という職を設けて、やはり、事務的な仕事に携わる士官がいた。しかし、やはり主流は兵学校出身者なので、海軍のトップである海軍大臣も軍令部総長も、連合艦隊司令長官も、皆、兵学校の卒業生である。
今であれば、大学から幹部候補生学校に入学して海上自衛隊の幹部になる人も大勢いるが、海軍では、それは認めていない。
こうした均質性の高い集団は、自ずと「村」を作りやすい特徴がある。そして、正式な「村人」以外を排除しようとする性質を持つ。
特に「同期生」は、まさに「同じ村民」意識が高く、互助会のようになっていた。そうなると、同じ階級にあっても、水兵あがりや予備学生出身者、技術士官などは、同じ村の住人とは、認めたくない雰囲気があったのだろう。
陸軍も各地の幼年学校、士官学校と多くの村を作ったが、人数が多い分、海軍ほどの強固さはなかったように思える。但し、政治的な思想で軍閥を作ったのは陸軍だったが、日本の軍部は、陸と海では、敵よりも仲が悪く、戦時中も多くの軋轢を生んでいる。
実は、日本の陸海軍は、短期決戦しか想定できない軍隊だった。
第一次世界大戦に参戦していながら、その研究を怠り、自分の所属する組織の利益のためにしか動けない幼児性が垣間見える。
第一次世界大戦は、国民を総動員した長期消耗戦になっていた。軍隊だけで決戦を行う戦争は、既に過去のものとなり、総合的な「国力」で勝る国が勝者となるのだ。そして、一度敗者となれば、国内では革命が起こり、その国家体制も悉く破壊されてしまう。それは、ドイツ帝国やオーストリアを見てもわかる。しかし、日本は、その現実を学ぼうとはしなかった。もちろん、一部軍人の中には、総力戦を研究した者もいたが、国家的意思に基づいた研究が為されず、陸海軍は、第一次世界大戦を予算獲得のために利用していた。
第一次世界大戦後の世界は、軍縮の時代に入り、日本国内でも軍縮の動きがあった。
兵学校の生徒数も削減され、大東亜戦争では、中堅の中佐クラスが異常に少ないという事態に陥ったのだ。そして、この軍縮時代は、軍人は威張ることもできず、軍服を街中で着ることに躊躇いがあったそうだ。それ故に、軍人の中には、「戦争でも始まらないかな」と嘯く者もいて、軍人にとっては停滞期と言える。しかし、世界的に見れば、戦争で得をする人は少なく、厭戦気分が広がると、軍縮の動きは加速度的に進んで行ったのである。
この大正時代という時期は、世界が平和で穏やかな暮らしが満喫できたが、それも僅か十年足らずで、日本も関東大震災以降、不運の時代へと突入していったのである。
昭和という時代は、世界的大恐慌の中で始まった。
陸海軍は、少ない予算を奪い合い、常に相手を牽制し合い、手を携えることは最後までなかった。
昭和六年に満州事変が勃発し、満州国建国に突き進むと、日本の社会は「戦争熱」に煽られ、国際社会から孤立していくことに危機感を持つ者は少なかった。
それでも、日中戦争が拡大することを怖れた陸軍の参謀本部は「不拡大論」を展開し、中国からの邦人の引き揚げも検討しますが、逆に海軍は「徹底論」に終始し、政府を中国大陸の戦争に引っ張っていった。
戦後、「海軍善玉論」が盛んに宣伝されたが、嘘もいいところある。
日中戦争、大東亜戦争は、すべて海軍主導で行われた戦争だった。陸軍は海軍に引きずられるように長期消耗戦に巻き込まれていったのだ。その恨みは、根深いものがあり、陸海軍が本気で協調することは最後までなかった。
酷いのは、陸軍大将で総理大臣になった東條英機大将には、真珠湾攻撃を行うこともミッドウェイ海戦の敗戦も、当初はまったく知らされず、後から報告を受けるだけだったという。
日本の運命を決める決戦を総理大臣が報されていないとなれば、日本の運命は海軍が握ることになる。政治家でもない軍人が、周囲を謀って戦争を起こしたとなれば、その罪は永遠に消えるものではない。まして、それが海軍の仕業となれば、祖国防衛のために死んだ多くの海軍軍人は浮かばれないだろう。
天皇も日本政府も、そこまで海軍に委託した覚えはないのだ。それでは、「大本営」の意味がない。そして、それが海軍の意思でもなく、米内光政や山本五十六という一海軍大将に過ぎない軍人に委ねられていたとなれば、それはもう国家として機能していないことになる。
日露戦争時には、総理大臣の伊藤博文が全責任を負い、「最後は自分も一兵卒となって突撃する!」とまで言わしめた。その強い責任感が、トップには求められていたのだ。しかし、海軍の暴走により、東條英機は首相として何もできないまま、敗戦の責任だけを取らされ絞首刑となったのは、如何にも無念だったと思う。
東京裁判で、絞首刑になったのは陸軍の軍人と文官の広田弘毅だけだ。広田が処刑されたのは、今以てわからない東京裁判の謎である。あるとすれば、広田に生きていては困る勢力が連合国軍内にあったとしか考えられない。
文官が死刑に処されていながら、戦争の当事者だった海軍側はだれ一人死刑になっていないのは、どういう理由なのか。海軍には、こうした狡猾な一面があることを指摘しておきたい。
さて、ここで兵学校に起きた教育改革の一端を紹介しよう。
軍の学校でありながら海軍兵学校は、その独立性がかなり担保されていた。校長が海軍中将ということもあって、海軍部内でも侮れない機関でもあったのだ。中央の将校は、ほとんどが兵学校の卒業生だから、予算も多く、その歴史と伝統は海軍の根幹を為していた。
その兵学校にも新しい風が吹いたのは、大正デモクラシーの余韻が残るころだった。
戦争の足音が、まだ聞こえてこない昭和三年、開戦時の軍令部総長を務めた永野修身中将が、校長として着任してきた。この頃の永野は、大正時代の「自由教育」にかなり感化されていたようだ。
永野という男は、海軍部内で出世し軍令部総長にまでなった軍人だが、米内や山本に弱味でも握られていたのか、あの真珠湾攻撃の決裁印を押した軍令部の最高責任者だった。
東京裁判では、「山本が辞任を仄めかしたので、後任がおらず、やむなく印を押した」と述べたそうだが、言い訳にしても見苦しい。その上、元々体調が優れなかった永野は、裁判の結果を知らずに獄中で亡くなっている。
それも、窓ガラスも満足にない独房に入れられ、肺を患った上での病死だそうだ。
本来であれば、貴重な証言をする証人を、敢えて殺すような真似はしまい。
要するに、永野は口封じのために殺されたという見方が正しい。それは、何故か。
永野は真珠湾の秘密を知っていたからである。それ以外に考えられない。
さて、余計な話は慎もう。
永野修身が兵学校に着任すると、「海軍兵学校教育綱領」を改正し、次のような文言を入れた。
「教育の実施にあたりては、生徒をして克く理解了得せしむるを旨とし、且つ自啓自発の慣習を養成せしむるに努むるを要す」
永野は、当時、アメリカで流行していたヘレン・パーカーストが創案した「ドルトン・プラン」を兵学校の教育に導入した。
ドルトン・プランとは、
「学校を社会的実験教室と見なし、従来の固定した学校組織から生徒を解放し、学校を現実の世界の中の社会的条件がそのまま行われる場所にすること」
を本旨としたものだそうだ。
つまり「自学自習」によって、生徒の学ぶ意欲を喚起し、詰め込み暗記教育からの脱却を狙ったものだった。
当時のアメリカは、教育においても先進的な国だった。
元々が個人を尊重し、個性を重んじる性質がアメリカ人には旺盛だったので、教育においても、さらに、自由に考えさせようとする気風が育っていたのだろう。このドルトン・プランは、そんな自由主義教育の典型として日本に輸入されたものだった。さすがに、これほどの自由教育を軍人に施そうとするのは、大きな挑戦ではあったが、型に嵌まった将校を創ることより、柔軟な発想で対応できる将校を育てないという永野の意図は理解できる。この点においては、戦争末期の井上の思想に通じるものがあるように思う。
永野という男は、容貌はなかなかの面構えだが、繊細な上に非常に優秀な人間だったらしい。こんな逸話がある。
若い頃、甲板士官として、軍艦の当直に当たっていた。
港は、穏やかで静かなものであった。ふと、隣の軍艦に目をやりながら、
「万が一、隣の軍艦に火災が起きたらどうするのがいいだろう…」
ということを考えていたそうだ。
要は、眠気覚ましに一生懸命、最悪を想定した思索を巡らしていたところ、どうしたことか、眼前に火柱が立ち、隣の軍艦に火災が発生したのだ。
永野は、直ちに「総員起こし!」を命じ、隣の艦への放水を行わせると共に、救助隊を編成して乗員の救出に努めた。その臨機応変な対応は、初級士官として立派なものであり、両艦の艦長からお誉めの言葉があったそうだ。
もちろん、その後、永野が海軍上層部から高く評価されたことは、言うまでもない。
永野という軍人は、常に何かを想定したシュミレーションを頭の中で行い、「ああなった場合は、こうする」とか、「こうなったら、対処はこうだ」などと、空想の世界で、危機対応をしていたというのだ。
こうした頭のトレーニングをするような将校は希で、海軍省に長く勤務し、教育局長を務めた高木惣吉少将などは、
「大正初期の兵学校教育は、想像もできないほどの詰め込み、丸暗記主義で、それも大砲、機雷、航海兵器などの構造の暗記に大きな点数が加えられた」
と嘆いている。
高木は、終戦工作に関わったような人物で、海軍の教育方法に問題があったとする一人である。
そういう男が、あの真珠湾攻撃をつまらない理由で決裁したのは何故か。
昔の永野なら、いくつもの仮説を立て、真珠湾攻撃案など「ばかを言え!」と一蹴しただろう。それを「山本五十六の辞職」程度の脅しで、決裁するとは考えられない。
とにかく、大正時代の兵学校での教育は「暗記主義」に偏っていたことは事実で、当時の海軍には、教育に対する見識を持つ者がいなかったということになる。
日露戦争、第一次世界大戦と続く戦争を経験していながら、海軍将校教育に無策だったとは驚きである。
もし、この当時であれば、友好国だったアメリカに教育視察団を派遣することも可能だったはずなのに、それをした形跡がない。
こんな学ぶ意欲すら失っていた軍隊に未来がないのは当然だったのだ。
そもそも海軍は科学技術で成り立つ軍である。その上、戦術は日進月歩。兵器も次々と新しい物が誕生し、その運用次第では戦略すらも変わる可能性があった。のんびりと過去問を解いている場合ではない。
いくら戦艦優位の時代でも航空母艦が登場すれば、戦術は変わる。
現代のようにコンピュータ、ロボットの時代になれば、その思想自体が変わるのだ。
大正初期の兵学校生徒なら、大東亜戦争時には、第一線の指揮官として活躍した大佐から少将世代になる。つまり、実戦指揮官がマニュアル化した作戦しか採られなかった理由は、兵学校時代の教育にあったからかも知れない。もちろん、人間は、その後、成長し自分の力で課題を克服するものだが、海軍という狭い社会での出世コースを歩む軍人にとって、「詰め込み、丸暗記主義」は、能力を勘違いする元なのだ。
しかし、戦後から現在に至るまで、この「詰め込み、丸暗記主義」は、一向に改善されていない。だから、ベンチャーと呼ばれる新しい企業経営者は、学閥に囚われず、自分の考えた手法で会社経営をしている。そして、そうした企業は、着実に実績を残し、大企業を凌駕するようになってきた。
学歴、詰め込み、丸暗記主義では、人の考えつかないような発見や発想はない。いつも、人の発見や発想を見ては、一生懸命真似をしようとするが、真似は真似でしかない。
能力とは、「創造力」「実践力」なのだということを教えてくれている。
残念ながら、海軍兵学校は、そういう教育には到達できなかった。なまじ、記憶力が優れていたために、新しい教育に転換することができなかったのかも知れない。
大正時代といえば、日本の中でも唯一「自由主義」を謳歌し、戦争のない平和な時代を求めて軍縮が叫ばれていた時代だった。
教育の世界でも、教育の自由化が叫ばれ、ユニークな学校が各地にできている。そんな時代に、「詰め込み、丸暗記主義」が兵学校で行われていたとすれば、欧米の海軍と比べても、量だけでなく質もかなり低下していたと言わざるを得ない。
永野は、自分自身が「想像力」の逞しい人物だったから、「思考を停止」したような生徒を見て、危機感を強めたのだろう。そこで永野は、このドルトン・プランを成功させるために、「自選作業時間」なる時間を設けた。
この学習時間には、砲術や水雷術等の兵学の教室が開放され、必要に応じて教官を配置した。
生徒は、各自、自分の学びたい科目を自分で決め、自分で調べるなり、各教官に質問したりして、問題の解決を図るのである。これまで、一方的に教えられ覚えることを優先してきた生徒たちの脳が混乱したことは言うまでもない。
さらに、教科書は、白紙のページが主体で、図解のみが印刷されていたというから、中々徹底したものであった。
生徒は、あれこれ思案しながら、調べたり質問したりして、白紙のページを自力解決で埋めていくのだ。
これまで、詰め込み主義、丸暗記主義で勉強をしてきた生徒にとって、これは難題で、優等生に限って不満を漏らしたことだろう。
教える教官にしてみても、生徒の多様な思考についていかなければならないため、自分も教科内容について精通しておかなければならない。
教官自身が、詰め込み、丸暗記主義で勉強してきたわけだから、柔軟な思考を要する学習に対応することが難しかったのではないかと推測する。
結局は、永野の校長退任と共に消えていった実験教育だった。しかし、「自啓自発」の精神は井上が校長の時まで残されており、夜間に「自習時間」が設けられていたことは救いでもあったのだ。
もし、これが定着し、日本海軍にもディベートやディスカッションをする習慣ができていたら、海軍の戦い方も変わっていたと思う。
永野修身が最後まで永野らしさで戦っていたら、もう少し違う歴史が訪れたのかも知れないと思うと、如何にも残念な軍人だった。
ところで、今でも江戸時代の教育を「前近代的」という見方で、低く見る風潮があるが、検証してみると、現代においても参考にするべきものがたくさんあることに気づく。
江戸時代は、試験による登用は基本的に行っていない。もちろん、様々な塾があり、試験はあったが、その試験結果のみで、その人物を評価しているわけではない。
それは、「飽くまでも、その人間の能力の指標でしかない」という弁えがあった。
たとえ成績がよくても、「まだ、修行が足らんな」と師匠に言われれば、そこまでの評価でしかない。
よく剣術修行で「免許皆伝」という言葉があるが、「皆伝」とは、「師からその道の奥義をすべて伝えられること」である。たとえ、周囲の者を圧倒する技を有していても、心技体というように、「心」と「体」が「技」について来なければ、皆伝とは言わない。
最近の大相撲を見ていても、ベテランの解説者が、「確かに強いのは間違いないが、それで横綱というのもどうかと思います」と言った発言を耳にすることがある。
いくら技が優れ、一番の勝ち星を挙げても、人間的に優れていなければ頂点には立てないという教訓だと思う。それが、最近の大相撲は、マスコミの影響なのか、勝ち星の数を昇進の基準にしているきらいがある。
それを言うなら、心技体の「心」と「体」も数値化して基準化しなければ、公平性は担保できないだろう。それがないとしたら、大相撲は国技を名乗ってはいけない。
プロレスと同じように、一興業としてやればいい。そして、早々に「神事」という形式も取りやめてもらいたい。
要するに、試験結果のみで登用したりすることは、技の採点だけで、心と体が採点に入らない偏った選抜方法だということなのだ。
心と体の入らない指揮官は、部下にも慕われず、強い組織を作ることはできないだろう。もし、できると豪語する人がいるのなら、その根拠をしてして欲しいものだ。
もし、試験万能主義が最適な方法だと言うのなら、幕府も諸大名も中国のような「科挙」を採り入れ、その試験結果によって、官僚に登用したはずなのだ。しかし、そんなことをした形跡は、日本では見られない。
薩摩藩の西郷や大久保も、確かに優秀な頭脳の持ち主ではあったようだが、試験を経て登用されたわけではない。西郷は、主君島津斉彬の命を受けて、御庭番のような仕事をしていたし、大久保は、島津久光に認められて登用されている。
要するに、実力者が気に入らなければ、思うような出世はできないということなのだ。一見、不公平のように見えるが、単純な試験による登用より、長い時間をかけて、その実力者が見抜いた人物が、無能なはずがない。
今の時代は、何でも公平に試験によって採用するという制度を採りがちだが、意外と、ベンチャー企業などは、実力本位で採用していると聞く。
確かに試験は、一部の能力を測るには便利な方法だが、その人間の実力を測るテスターとしては、不十分なのだ。
当時の実力者は、周囲に声をかけておき、「優秀な人材がいる」と聞けば、早速その人物を召し出し、複数の人間で口頭試問を行い、慎重に検討した上で抜擢している。
若しくは、実力者自らが自分の眼で確かめた者たちを登用するのだ。そうでなければ、信用もできないだろう。
たとえば、算術などは、神社の絵馬に難問を書いてぶら下げておくと、次に、だれかが、解答を絵馬に書いてぶら下げておくといった「算術比べ」を行ったそうだ。これは、漢文でも、医学でも、同様の「○○比べ」をとおして、他人と自分の実力を測ろうとする一種のゲームになっている。負けず嫌いの日本人は、このゲームに夢中になり、負けたくない一心で新しい問題に挑戦しようとする。結果、勝負がついても、そこであきらめがつく。
所詮はゲームだから、仕官が叶うとか出世するとかの話ではない。ただ、自分が「無双」でありたいという意地のぶつかり合いなのだろう。
「天下無双」という言葉があるが、どんな世界にも、それを誇りにする人は存在するのだ。そして、その競争を通して相手の人物を知り、どちらが優れているか競い、その競争相手を敬う。たとえ、それが「剣」を交える命のやり取りだとしても、納得出来るのが日本人死生観なのだ。そして、真の競争に勝った実力者は、知らず知らずに人々の評判を呼んだ。そうした評判は、武士の世界だけでなく、町人も農民も関係なく、「才のある者」として、尊敬を集めることになった。
日本全国には、そうして名を上げ、地域に貢献した偉人がたくさん存在してるす。それは、あらゆる芸術、学問、産業等に携わる人々で、そのお陰で日本の文化や学問は栄えたのだ。
日本では「職人」に対して、多くの人が敬意を持っている。
日本は、国として、職人を大事にしようと努力している。「人間国宝」という言葉がありように、国が優れた職人に勲章を授与し、特に優れた者は「重要文化財」指定を行い、褒め称えるのだ。そして、その職人の技が廃れないように支援をしている。しかし、「科挙」を採用している国では、職人は一般サラリーマンより低く見られ、技の継承は難しいという。
要するに試験万能主義だから、試験を伴わない仕事は価値がないと見做されるのだろう。それでは、歴史や伝統に基づいた文化は育たない。
その時代の価値が最優先で、過去の歴史や伝統を軽く扱えば、それを継承する者もいなくなる。
日本は、千年の歴史を持つ会社があるそうだが、百年程度なら各地方に継承されている会社はいくつもある。そして、そこの社員は、「うちの会社は、江戸末期の創業なんですよ」と、小声で客に自慢をするものだ。それを聞いた客は、その年数だけで信用を置き、その商品もきっとすばらしい品だと確信する。それが、歴史や伝統の重みなのだと普通の日本人なら分かる。
たかが百年、されど百年。その伝統という「暖簾」を引き継ぐ重みは、日本人ならわかっている価値なのだ。
教育も同じではないか。
単に目先だけの姿を見て、「自分たちは遅れている」と思い込み、深く考えもせずに、新しさばかりを取り入れても、日本人の「魂」は入らない。
今の教育も流行を追うことは得意だが、歴史から学ぼうとする意識がない。だから、上滑りの施策ばかりで、社会に定着しないのだ。
教育に携わる者ほど、日本人としての「心の伝統」があることに気づいて欲しいものだ。
ところが、明治政府は何を考えたのか、欧米の煌びやかな姿に幻惑され、手っ取り早く西洋式の「科挙」の制度を採り入れてしまった。そのために、これまでの登用制度を無視し、試験に合格さえすれば、「優秀」というお墨付きを与え、万能であるかのような錯覚を広めてしまったのだ。
アメリカにも試験制度はあるが、ペーパーだけでなく、論文や口頭試問等をとおして、徹底的に能力を探る手順を踏んでいくそうだ。そして、現場に出れば、卒業時の成績なんかより、実際の働きで評価していくシステムが確立している。
よく、アメリカの大学は「入学は簡単だが、卒業は難しい」といわれ、アメリカ流の学びを評価するが、だからといって、日本のシステムは何十年も変わらない。
日本は逆に、「入学は難しいが、卒業は簡単」と揶揄されているのに、改革の声は上がらない。どうも、日本は、大学を正当に評価していないように思う。
「折角、大学に入ったのだから、遊んで学生生活を謳歌しよう」
などという声が聞こえても、大人たちは「そうだな…」と頷くばかりである。
高い授業を払って「遊ぶ」のでは、何のための学問かと思う。
戦後、アメリカ民主主義を受け入れていながら、教育制度は「科挙」のままというのは、納得がいかない。
失礼ながら、アメリカ人は「開拓者」だけに、本物の能力主義ということがどういうことなのか、骨身に沁みてわかっているということなのだろう。
日本人は、長い時間をかけて「人材を育てる」工夫を重ねて、社会に定着していたにも関わらず、明治維新という暴力革命によって、何もかも変革してしまったことは、如何にも惜しい。
明治維新が、あのような倒幕によって為されることなく、公武合体による大政奉還と新政府の樹立であったら、どうなっていたのだろう。ここでは、それを論ずる場ではないので控えるが、もう少し日本らしい変革ができたような気がする。
それにしても、もう一度、本気で「人材育成」をしたいと考えるのなら、大学教育を根本から見直し、一刻も早く「科挙」の制度を廃止することだ。そして、教育によって日本の青少年を鍛え、日本の大学を世界有数の学問の府となることを期待する。
第七節 海軍兵学校の最期
海軍兵学校は、明治二年の創設以来、昭和二十年の大東亜戦争敗戦による解体までの七十六年間に七十八個期にわたる海軍将校養成の責任を果たした。
最後の在校生は、七十五期三四九八名、七十六期三五五六名、七十七期三七五六名、七十八期四一三五名であった。
校舎も江田島本校の他に、山口県岩国市に岩国分校、江田島の大原に大原分校、長崎県針尾島に針尾島分校と生徒の採用人数増大に応じて、拡大していった。そして、機関学校も兵科に統合され、舞鶴の機関学校も兵学校舞鶴分校になった。しかしながら、大東亜戦争に敗れた日本は、「軍隊の無条件降伏」を受け入れ、すべての軍の施設も解体されることになったのだ。
昭和二十年十月一日付けをもって生徒差免が行われ、十二月一日、海軍兵学校は、その歴史に幕を下ろしたのだった。
海軍兵学校は、海軍の将校養成機関としての役割を終えたが、その果たした役割は大きかったように思う。
明治初年以降、海軍の人材育成は社会の注目を浴びていた。それは、日本における真のエリート校だったからだ。それまでの身分に関係なく、学力と体力に自信があれば兵学校を受験することができた。江戸時代に武士にだけ門戸が開かれていた学問所とは異なる。 農民の子でも、商人の子でも、志さえあれば日本のエリート軍人になれたのだ。それは、明治維新という変革の時代の象徴でもあった。
昨日まで、畑で鍬を振るっていた少年が、数年後には真っ白な軍服を着て、腰には金の短剣を吊り、颯爽と帰郷する姿は、まさに新しい時代の英雄だったろう。
少尉に任官すれば、多くの部下を持つ海軍の幹部軍人となる。
親にとっても、郷里の人々にとっても、これほどの出世は望めない。この少年の行く末は、軍艦の艦長だって夢ではないのだ。これは、江戸時代には到底あり得ない夢のような出来事だった。しかし、それが日本という国を考えたときに、本当によかったかと問われれば、必ずしも正解でないことは、歴史が証明している。
日本のエリートは、他にも旧制高等学校や帝国大学などがあったが、これらの学校に入学するためには、家庭の経済的な力がどうしても必要だった。
その地域の村の小学校の卒業生で旧制中学校に進学できる者は、十%もいなかった時代だ。ほとんどの子供は、小学校を卒業し、その後二年間の高等科を出れば、農家の手伝いをするか、町に出て働くしかなかった。
成績がよかったとしても、中学校に上がれる者は、選ばれた人たちなのだ。さらに、その家の相続権は長子相続が原則で、余程の家でもなければ、次男、三男、そして女子には相続権はない。現実を考えれば、学校を出れば家を出て、働きに行くしか道はないのだ。しかし、兵学校は、たとえ中学校を出ていなくても、試験にさえ合格すれば、海軍将校への道は開かれるわけだから、必ずしも経済力に比例するわけでもない。
事実、貧しい家庭の子供でも一旦志願して海兵団に入り、水兵から兵学校生徒になった者もいた。それに、旧制中学校には、夜間中学もあった。
兵学校六十八期の首席生徒だった山岸計夫生徒は、夜間中学から兵学校を受験して合格した秀才なのだ。このことは、作家の豊田穣氏が、自身の小説に書いている。
山岸は、昼間は学校の「小使い」として働き、夜は夜学に通い、妹を女学校に行かせたいと、その給料までも節約したという逸話が残されている。
兵学校生徒になった頃は、山岸を知る同級生から、
「こいつは、小使いから兵学校に入った秀才だ」
と、からかわれても、何も反論せず、実際の頑張りとトップの成績で、三号生徒になってからは、同級生の先任として生徒館に君臨したそうだ。
こうした逸話は、意外と兵学校には多い。
「貧しい家の子でも、頑張れば、海軍将校になれる」
という夢は、当時の少年たちに大きな希望を抱かせたに違いない。そして、上層部の作戦はいざ知らず、現場の指揮官となった下級将校たちは、自分の命を省みず、潔く戦場に散っていったことを考えると、時代とはいえ、気の毒でしかない。今でも、戦記を読むと、多くの若き指揮官たちの苦闘が描かれている。
その覚悟や沈着冷静な行動を見ると、かなり老成して見えるが、僅かに二十歳を数年過ぎたばかりの若者たちなのだ。それだけに、人材として考えれば、誠に惜しい逸材としか言いようがない。
真珠湾攻撃時の戦闘機隊長、飯田房太大尉(六十二期)は、真珠湾を攻撃後、対空砲火で燃料タンクを損傷し、部下を母艦へと誘導すると一人引き返して真珠湾に戻り、滑走路目がけて自爆した。その責任感は、日米双方から賞賛され、アメリカ軍が丁寧に埋葬している。一説によると、飯田大尉は「この戦争は負ける」と予言しており、そんな戦争への抗議の意味を込めて自爆したという。また、真珠湾攻撃時の特殊潜航艇隊長、岩佐直治大尉(六十五期)は、小型潜水艇で真珠湾内に侵入し、敵艦攻撃後撃沈され、大東亜戦争初めての軍神となった。戦後、彼の袖章が海底から発見され、靖国神社に奉納されている。
岩佐大尉は、自ら特殊潜航艇での出撃を希望し、最初の特攻隊員となった。
ラバウル航空隊戦闘機隊長、笹井醇一中尉(六十七期)は、死闘といわれたラバウル航空戦を戦い、敵機を多数撃墜して南の空に散った。
部下の坂井三郎元中尉が書いた「大空のサムライ」で有名になったが、笹井は当時、「ラバウルのリヒト・ホーフェン」と謳われたそうだ。
海軍兵学校開校以来の秀才と謳われた、平柳育朗中尉(七十期)は、駆逐艦文月砲術長としてカビエン沖で部下を指揮しながら戦死した。今でも、兵学校卒業時に彼が恩賜の短剣を授与する映像が残されている。
先に紹介した、夜学から兵学校に入校し、首席で卒業した山岸計夫中尉(六十八期)は、駆逐艦「風雲」の砲術長として、ベララベラ沖海戦で艦と運命を共にした。
神風特別攻撃隊敷島隊隊長、関行男大尉(七十期)は、フィリピンのレイテ沖で、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈し、軍神となった。
関大尉は、結婚したばかりの身で、上官からの指名で特攻隊の隊長になった。心の中では拒絶していたのだろうが、海軍兵学校出身者として拒否はできない。関は、報道班員にこう話して征った。
「俺は、KA(海軍の隠語で妻を指す)のために死ぬんだ」
この言葉は、海軍そのものに対する抗議の言葉として受け取っていい。だが、関はそれ以上、自分の属する海軍を批判することはできなかった。
他にも、戦記には、多数の若い指揮官たちが登場してくる。彼らは、純粋に祖国防衛の魁として散っていった人たちなのだ。
戦争は遠い時代の出来事かも知れない。しかし、今でもウクライナの若者たちは、銃を執って戦いの場に出て行っている。それを思うと、もう他人事では片付けられないだろう。
最後に、七十一期首席の田結保中尉のエピソードを紹介したい。
昭和十九年二月、東京府立一中に、突然、先輩である田結保中尉が現れた。
田結中尉は、母校である府立一中では既に有名人だった。なぜなら、天下の海軍兵学校を首席で卒業した人物だったからだ。戦争が始まると、先生たちは、この偉大なる先輩を讃え、府立一中の目標とさえなった人物だったからだ。それが、戦局の厳しい中、突然の学校訪問だったから、先生たちも大いに驚いた。
学校に着くなり、田結中尉は、校長に「生徒たちに話がしたい」と申し出たそうだ。
田結中尉が、なぜ母校を訪ね、急な申し出をしたのかは分からない。しかし、既に死を覚悟していた田結中尉だからこそ、これからの後輩たちに何か言葉を残そうとしたのかも知れない。とにかく、無理を承知で校長に願い出た。
校長は、戦時下でありながら、多忙の時間を縫って本校を訪ねてくれたことに感謝の言葉を述べたはずだ。校長は、都合の付くクラスの生徒を校庭に集めた。
それを見ていた田結中尉は、校長に礼を述べて、徐に号令台に上がった。その姿は、海軍中尉だから当然だが、濃紺の第一種軍装を身につけ、腰には将校用の短剣を下げていた。しかし、田結中尉が登壇すると生徒たちからざわめきが起こった。それは、海軍の軍服を見慣れている生徒たちにとって、田結中尉の姿があまりにも異様に見えたからだ。
壇上にすくっと立った田結中尉の軍服は、濃紺の縁取りを残して、あまりに鮮やかなブルーに染まっていたからだ。それも、均一のブルーではなく、ところどころに剥げたような跡があり、到底、スマートな海軍将校の姿ではなかったからだ。
校内において、田結保中尉は、府立一中の一番、海軍兵学校首席のスーパー生徒だ。
それが、色褪せた粗末な軍服を着て、真っ黒に日焼けした顔で壇上に立っているではないか。それだけでも生徒には驚きだったが、壇上に立った田結中尉は、生徒全員を見渡すと、今度は優しげな声で語りかけたという。
「今、日本の戦況はけっして思わしいものではない。しかし、私は、帝国海軍の将校として必死に戦っている。しかし、一中で学ぶ君たちが急いで戦場に出て来ることはない。君たちは、戦争のことなど関係なく、日々の勉学に着実に勤しんで欲しい。そして、日本の未来を創って欲しい」
それを聞いた生徒は、皆、一様に驚いた。
これまで、先輩の兵学校生徒や軍人が講話と称して、熱く戦争を語ることは度々あった。当然、田結中尉も同じように、自分たちを鼓舞するために来たものと思っていたのだ。それに、この軍服は戦場帰りの軍人の証である。厳しい訓練と長い艦隊勤務の証でもある。その生粋の海軍軍人が、「勉強に勤しめ」「日本の未来を頼む」と言われたのだから、生徒もそこに同席した教師たちも驚きを隠せなかった。そして、校長に例を述べると、静かに学校を去って行った。
その後、田結中尉は約半年後の十月、レイテ沖海戦において軍艦「筑摩」の対空射撃指揮官として、艦と運命を共にして逝った。
田結中尉は、本当は生徒に何を話したかったのだろうか。
彼の目には、遠くない将来に日本は敗れ、国の復興を後輩たちに託さなければならないという強い義務感を抱いて、訪ねて来たのだろう。本当に純粋で立派な指揮官だった。
確かに、海軍の対米戦での作戦は緻密だとは言えないし、国家戦略としての疑問も多いことは事実だ。
「機動部隊」という新しい強力な攻撃方法を発見しておきながら、中途半端な運用になってしまったがために、戦艦や潜水艦を始め、多くの艦艇を有効に活用できないまま太平洋に沈められてしまった。しかし、現場指揮官として、彼らは持てる力を発揮して必死に戦った。それだけは忘れないで欲しい。
それでは、なぜ、海軍には、優秀な「将」や「参謀」が育たなかったのだろうか。考えてみたい。
海軍で「参謀」職に就くためには、原則として海軍大学校を卒業することが条件になっていた。大学校に入校するためには、現場指揮官としての実績の上に、所属艦長(部隊長)からの推薦状、そして、難しい試験を突破しなければならなかった。そのために、大尉クラスで志願をしようと思う者は、受験勉強に余念がなかったという。そして、この試験というものが、優秀な人材を登用できなかった問題点なのだ。
今でもそうだが、公務員試験では、試験後の公開が義務づけられている。その問題に対して自己採点で何点取れているかが自分でわかる仕組みなのだ。これは、おそらく「公平・公正」を担保するために行われていると思うが、残念ながら、この制度を取り入れてから公務員に優秀な人材が集まらなくなった。
試験で高得点が取れれば、普通は「合格」と考えがちだが、民間企業では、必ずしも試験の得点だけで採用しているわけではない。採用する側には、「必要な人材を採る」という目標があり、たとえペーパー試験が得意な人間であっても、対人能力や創造力、リーダーシップ、個性、教養など、数値化できない観点もあるのだ。だから、民間企業では、試験問題等の公開はしていないし、不合格者にはその連絡すらしない。たとえ連絡する会社があったとしても、定型文のような紋切り型で、不親切極まりないのが普通である。
もし、公務員試験のように問題文を公開し、問い合わせに応じたら、
「自己採点でこんなに高い得点だったのに、なぜ、不合格なのか?」
という問い合わせが相次ぐに決まっている。もし、自分より低い点数で合格している人間がいたとしたら、「不正があったのではないか?」と訴えられるかも知れない。だから、試験の公開などは絶対にしない。
そもそも、「不正があったのではないか?」などと騒ぐ人間を採用したいはずがないのだ。社会やマスコミは、「公正、公正!」と騒ぐが、公正という言葉が定義されない以上、「欲しい人材を採る」のは、企業として絶対に必要なことなのだ。
ところが、公務員試験は公開が前提にある。つまり、公務員は国民の税金で採用試験を行っているわけだから、民間のようなわけにはいかない。
常に「公正」であることをアピールしなければならない以上、数値化できない「価値」は評価に値しないことになる。
要するに、公務員になりたければ、ペーパー試験問題を解く練習をすればいい。
過去問を何度も繰り返して解き、公務員らしい論文を書く練習をすれば、おそらく、合格する可能性は高まる。たとえ、その人間に、対人能力や創造力が欠けていたとしても、合格は可能なのだ。しかし、残念ながら仕事はできない。
実は、海軍では、これと似たようなことを行っていたのだ。
海軍兵学校が学力重視であったことは、先に述べたが、参謀を養成する海軍大学校も同じだった。
海軍大学校を受験するにしても、上司の覚えがよくなければ推薦状を書いて貰えない。したがって、どうしても、兵学校卒業時のハンモック・ナンバーが上位の人間が受験する仕組みになっている。
中位から下位に甘んじていた将校は、「どうせ、無理だから…」と、受けようともしないだろう。海軍大学校を出なくても、上手くすれば少将くらいにはなれる可能性があった。
しかし、戦場では、そんな中位から下位の成績の指揮官が、有能さを発揮した例はたくさんある。
たとえば、キスカ島撤収作戦を指揮した木村昌福少将は、ハンモック・ナンバーは同期生の下位で、海軍大学校も出ていない。
生涯、船の上で暮らす生粋の船乗りで、海軍のエリートではなかった。それでも、最後は海軍中将にまで進んでいることから、その人材を惜しむ上の人はいたのだろう。
キスカ島の撤収作戦は、ひたすら濃霧が出現するのを待ち、アメリカ軍の裏をかいてキスカ島の将兵を駆逐艦等に収容することに成功した。そのまま放置すれば、キスカ島の将兵はアッツ島と同様に玉砕する運命だったのだ。
傍から見れば、戦闘に勝利した作戦ではなく、無事に北海道に引き揚げさせた地味な作戦だったが、並の指揮官であれば、のんびりと濃霧が出るのが待てず、闇雲に突っ込んで、アメリカ軍に多くの艦船を撃沈されてお終いになるところだった。そうなれば、当然、キスカ島の将兵は玉砕するしか道はない。
木村少将は、参謀たちから何を言われても、「また、来ればいいさ…」と暢気に構えていたそうだ。
要するに、腹の据わり方が違う。しかし、この「腹」なるものを試験で測ることはできない。その人間の資質というか性格というのか、とにかく、粘る腹がある軍人だった。
こういう人材の育成手法がない日本は、結局、真に優秀な人材を発掘できないまま、時だけが過ぎてしまったのだ。
この木村少将の「キスカ島撤収作戦」も一部では高評価だったが、戦闘がなかったために、中央から忘れ去られ、木村少将を重要作戦に起用しようという人事は行われなかった。そして、そこから戦訓を学ぶこともなかったのだ。
日本海軍は、現場指揮官として優秀な人材であっても、兵学校の卒業席次が下位の者には、なかなかチャンスが巡って来ないシステムが出来上がっており、重要な部隊の指揮官は、このハンモック・ナンバーで決められたのだ。
この「序列」がくせ者で、軍人たちは如何に大過なく過ごし、序列を下げないことに汲々としていたそうだ。病気やけがで休めば、この序列は下がる。他にも重大な過失を犯したり、罪に問われれば免官も覚悟しなければならない。しかし、大した実績がなくても、健康でまじめに勤務していれば、その序列は基本的に下がらないのだ。
二十歳そこそこで決められた序列が、四十代になっても変わらずに自分の海軍における序列だと知ったとき、人間は新しいことに挑戦しようとは思わない。
よく「軍人は、戦争を欲する」という人がいるが、それは一部の高級軍人だけのことである。予算を獲得したり、新しい兵器を導入したり、議会での発言力を高めたりする上で、実際の戦争は有効な手段なのだ。しかし、実戦部隊に配置される軍人たちは、そこで生死を懸けて戦うわけだから、できれば避けたいのが本音だった。
海軍に入って十年もすれば、大尉にはなれる。そのころは、まさに中年になり、家族もできる。
平時であれば順調に出世し、年金を貰って悠々と暮らすことも夢ではない。
大佐クラス以上にでもなれば、天下りもある。そんな平凡な人生を夢見ている人たちが、戦争を欲するわけはないのだ。そして、このハンモック・ナンバーも、実は軍人たちにとって迷惑な部分でもあった。
たとえば、真珠湾攻撃時の機動部隊の指揮官は南雲忠一中将だが、南雲は、元々水雷(魚雷)出身の将官なのだ。航空戦は、自分でも「ずぶの素人」と言うくらい自信がなかった。しかし、海軍省は、このハンモック・ナンバーに基づき、南雲を機動部隊の司令長官に任命したのだ。
本人も「専門性はないし、開戦劈頭の大作戦の指揮を執る」ことに躊躇いがあったと言っている。海軍部内でも、航空専門の小沢治三郎少将や山口多聞少将を推す声はあったが、人事権を持つ海軍省は、「平時の序列」に拘って南雲を指揮官に任命した。
要するに、この序列を無視すると、その後の海軍部内での統制に混乱が予想され、事務手続きにも齟齬が生じるなどの問題があったからだという。
日本が滅亡するかどうかの大戦争をしようと言っているときに、平時の頭で戦争をしようと言うのだから、このころの日本人は、明治の日本人とは違い、随分と危機感が薄い。
日露戦争では、連合艦隊司令長官に東郷平八郎を据えて大戦争に望んだが、東郷の序列は、もっと低いところにあったのを、海軍大臣の山本権兵衛大将が、「あいつは、運がいい男だ!」と強く推薦し、抜擢したと言うから、上に立つ者は、よく人物を見ていたということになる。
そのあたりの危機感がないまま、本心では「対米戦争はできない」と考えていた海軍がアメリカの謀略もあって戦争に引き摺り込まれたというのが真相らしい。
結局、軍人は、軍服を着ているときは威勢もよく、強い口調で危機を煽るが、それは一種のパフォーマンスだったことになる。
軍服を脱げば、平和な時代の一般国民と同じ。もちろん、戦場で出れば命を懸けて戦うのが使命なのだが、だからといって人間的に優れているわけでもなく、先が見通せるわけでもない。
海軍大学校が、その建前として参謀教育を行っていたが、ユニークで新しい戦術を考える人間より、当たり障りのない常識的な戦術を好む人間の方が、高得点を採れるというシステムになっていたようだ。
なぜなら、学生を教える教官が優秀な常識人だから、世界各国の戦術を学び、それを学生に教えているのだとすれば、新しい思考が生まれるはずがない。
要は、過去問をしっかり覚え、想定質問に答えられれば「優秀」という折紙が付いたのだろう。
高得点を貰って参謀になった将校たちは、いつまでも昔の戦術に拘って失敗を繰り返し、自滅の道を進んだのだ。
その典型であり、一番残念だった戦いが「レイテ沖海戦」ではないのか。
昭和十九年十月に起こった連合艦隊最後の大海戦だったが、ここで日本海軍は、とんでもないミスを犯し、ここから先は、どう負けるかの戦いに突入していくのだ。
フィリピンを巡る攻防戦は、大東亜戦争の天王山だった。
開戦当初にフィリピンを落とした日本軍は、アメリカ派遣軍を駆逐し、ここに太平洋の橋頭堡を築いていた。このフィリピンは、アメリカの植民地であり、あのマッカーサー元帥が、実質の支配者として君臨していた土地である。それを日本軍は、開戦早々に攻撃し、マッカーサーをフィリピンから追い払っていたのだ。
当時のアメリカ軍としては、フィリピンを再度攻略しなくても、日本本土に迫れると考えていたが、太平洋方面司令長官になっていたマッカーサーにとって、フィリピン奪還こそが、自分の名誉回復につながると考え、アメリカ軍の方針を変えてまでフィリピンに拘っていた。
もし、このとき、日本海軍の連合艦隊が、アメリカ軍の上陸部隊にいたマッカーサーを輸送船ごと吹き飛ばしていたら、戦局は変わっていた可能性すらあった。
だからこそ、連合艦隊司令部は、フィリピンのレイテ島に上陸せんとするアメリカ軍部隊を戦艦の巨砲で粉砕し、講和のきっかけを掴もうと考えたのだ。
しかし、この作戦も指揮をする幹部たちの裏切り行為によって敗北し、事実上、連合艦隊は壊滅した。
作戦の主目標は、レイテ沖に停泊しているアメリカ軍の輸送船団だったはずが、いつの間にかアメリカ艦隊の撃滅に変わってしまい、司令長官の栗田健男中将は、偽の電文でレイテ湾を目の前にして反転したのだ。
艦隊の将兵は、連日の空襲で多くの戦友を失い、それでも必死の思いでレイテ湾口にまで到達しておきながら、一八〇度反転する艦隊を見て呆然としたという。中には、
「おい、どこに行くんだ?」
「レイテ湾は、もう目の前だぞ!」
と叫ぶ者もいたそうだが、司令長官の命令は、「反転し。敵戦艦部隊との決戦」に変わってしまっていた。しかし、行けども行けども敵の影は見えず、残された戦艦部隊はすごすごと引き揚げざるを得なかったのである。
この栗田中将の反転命令は、戦後も長く「謎」とされ、真実が語られることがなかったが、ようやく、最近になって真実が分かった。
それは、噂どおり、司令長官の栗田長官とその幕僚たちが仕組んだ芝居だったのだ。
栗田中将以下の司令部幹部は、命令を受ける前から、敵輸送船などの撃滅のために戦うつもりがなかったのだ。しかし、連合艦隊から命じられ、渋々出て行ったというのが本音だった。
そんなことは知らず、日本海軍最後の戦艦部隊は、各方面からレイテ湾突入を目指して戦いを続けていた。小沢治三郎中将は空母瑞鶴に座乗し、自らが囮になることによって、強力なハルゼー中将率いる機動部隊を誘い出し、栗田艦隊のレイテ突入を支援したのだ。
さらに、大西瀧治郎中将は、心を鬼にして特別攻撃隊を編成させ、若い搭乗員に体当たり攻撃を命じたのだ。
当然、アメリカ軍の上陸軍支援部隊による反撃は大きく、栗田長官指揮下の戦艦部隊は、次々と沈められ、あの戦艦武蔵さえシブヤン海の藻屑となった。それでも、栗田は、レイテ湾突入を躊躇い、最後は、偽電報まで使って逃走を図ったのだ。そして、これだけの失策と命令違反を犯しながら、栗田もその幕僚も処罰されなかった。
栗田司令部では、
「戦艦大和を初めとする貴重な戦艦を輸送船などと引き換えては、海軍の恥だ!」
などと考え、最初から命令に従うつもりはなかったようだ。
参謀の一人は、連合艦隊司令部からの詰問に、
「事前に、敵艦隊が出現した場合は、決戦を行っても構わないという一筆をもらっている」と嘯いたそうだ。
これが、普通の軍隊であれば、「抗命罪」「敵前逃亡罪」で死刑になってもおかしくない不祥事だった。この罪は、栗田健男本人のみならず、参謀長も参謀たちも同罪である。
彼らも、全員が、海軍兵学校、海軍大学校で学んできたエリートたちなのだ。その高級軍人が、国を裏切り、戦友を裏切り、天皇の命令に背く行為ができる心理が分からない。
その栗田は、陸に上がると海軍兵学校長に異動になった。井上が校長から海軍次官に転出後、僅か四ヶ月後のことである。そして、海軍兵学校最期の校長職を務めた。
若い純粋な生徒たちを前に、栗田は何を語ったのだろうか。彼には後悔という言葉はなかったのだろうか。
栗田は、戦後も「レイテ沖の謎の反転」については、一切口を噤んだまま何も語らずに亡くなった。まさに恥ずべき人生を終えたのだ。
こうして、敗戦と共に海軍兵学校は消えたが、単にひとつの教育機関が無くなったと考えるべきではない。そこには、日本の最高の資質を備えた少年たちが集まり、日本で最高の教育が施されていたはずだった。そして、そこから巣立った若き海軍将校の中から、日本海軍や日本政府に重きを為し、大日本帝国の未来を担う存在になっていったはずなのだが、そうとばかり言い切れない現実があった。
軍隊には確かに負の遺産もたくさんあった。しかし、日本の近代にとって、その存在は無視できない。戦争に敗れたからと言って、すべてをなかったかのように消し去ることは、歴史への冒涜だと思う。
日本から「海軍」はなくなったが、その伝統は今の海上自衛隊に受け継がれ、江田島の校舎は、海上自衛隊幹部候補生学校に引き継がれている。
第三章 教育漫語
この「教育漫語」は、校長である井上成美中将が、教官たちに対して生徒の指導における要点を解説したものである。井上は、自らを「リベラル」と称したように、自由な発想で物事考えようとした軍人だった。現在の政治の世界で使われるリベラルとは、少し考え方が違うようだ。
井上は、自分の受けてきた武士道教育を誇りに思っていた。それが、井上という人間の人格形成に大きく関わったことは間違いない。戦後、英語塾を開いた後も、塾に通う子供たちへの躾は、家庭以上に厳しかったと言われている。
親たちも、そんな井上の姿勢に感銘を受け、子供たちを通わせたというから、やはり、敗戦後も、日本人らしい礼儀作法は必要だと感じていたのだろう。それに、井上の生活は「清貧」というに相応しい慎ましいものだった。それでも、食事を摂る際は、西洋流のマナーに基づき、ゆで卵も「エッグ・スタンド」に立てていたという。
今でも井上が塾で教えている写真が数枚残されているが、井上は、常に腰を立て、きちんとした姿勢で教えている。ギターを奏でる井上の姿は、まさにジェントルマンだ。
海軍時代の写真も細身で凜とした姿が井上らしさを表している。
初めて学習塾で学ぶ子供にしてみれば、井上の教育は、少し窮屈だと思った者もいただろう。しかし、それも含めて井上らしい教育方針だったのだ。
その上、井上の頭脳は生徒時代、兵学校の中でも群を抜いていた。
暗記が得意というだけでなく、そのものの原理を理解する能力に長けていたのだろう。教育においても、その洞察力は抜群だった。さらに、井上は、人物を肩書きでは見ない鋭さがあった。
常に合理的に考え、是は是、非は非として厳しく対応した。それがために、恨みを抱いた人物も多かったようだ。
兵学校の教育参考館という瀟洒な建物には、東郷平八郎元帥とイギリスのネルソン提督の遺髪が祀られていた。そして、歴代海軍大将の肖像画も懸けられていたのだ。しかし、井上は、その海軍大将の肖像額を見るや、「この中には、国賊のような大将もおる!」と一喝し、気に入らない額は外してしまったそうだ。そして、「このような人物たちを目標にして貰っては困る!」と教官たちに言い放った。
海軍大将といえば、海軍将校たちの憧れの存在であり、尊敬する軍人であるにも拘わらず、「国賊」呼ばわりする校長に、若い教官たちは度肝を抜かれたに違いない。そういう人物が校長になったわけだから、教官たちが緊張したのは当然だろう。そして、世間の風潮に流されず、真の人間教育をしようとした井上の眼は、既に数十年後を見据えていたのである。そして、そのための計画書が、この「教育漫語」だったのだろうと思う。
ここからは、具体的にその「教育漫語」について述べたい。
第一節 「躾」教育に就いて
躾教育ハ、元来、家庭ニ於ケル子女ノ教育ニ於イテ、ソノ言動ニ就キ、善キヲ賞シ、悪シキヲ戒メ、連綿不断ノ是正ニヨリテ、良習慣ヲ付与スルコトニ始マルナリ。
兵学校生徒は幼児ではないので、人間としての「躾」について考えてみたいと思う。
井上の言うように、家庭を基盤において「善悪」を見極める訓練を施すことこそ躾の基本だが、この言葉は、指導者にこそ求められる言葉であり、指揮官としても心しなければならない基本である。
家庭においては、だれもが知っている生活の基本だが、振り返って見ると、意外と難しいことに気づく。それでは、兵学校の下級生徒から見た一号生徒や教官、その他の大人たちは、どのように見えていたのだろうか。
もちろん、日本の軍隊では「反論」は許されない。「上官の命令は天皇の命令」というように、かなり歪な命令構造にあった。
確かに、命令系統を単純化しておいた方が、上の立場の人間にとっては、至極便利には違いない。しかし、反論されないということは、上の人間自身も思考を停止することになる。
幕末から明治にかけては、どこの藩や軍においても議論が盛んに行われていた。下級武士であろうと藩の家老に意見を延べ、御家の進む道を模索したのだ。
戊辰戦争時に会津藩では、新政府軍が攻めて来る中で激しい議論が行われたが、長幼の序に縛られた上席の家老たちは、若い藩士たちが意見を言おうとすると、
「汝は、長幼の序を知らねえのか?」
と窘められ、思いきった意見が言えなかったそうだ。
会津藩には、藩祖保科正之が定めた家訓があり、「ならぬものはならぬ!」という掟があった。しかし、戦時でありながら、飽くまで平時の家訓に拘ったために、新しい展開もなく新政府軍に敗れた。ここにも、日本人が学ぶべき教訓が残されていると思う。しかし、さらに大きな「日本」という国が滅びるかも知れない大戦争の最中、議論をさせないまま、一部の人間だけで国策を決定してよかったのだろうか。
政府であろうと軍であろうと、その組織に属する者の意見を遍く求める場面があって然るべきだったと思う。また、位の下の者であっても、易々と上官の命令に従うというのも、国家存亡の危機にある国の軍人の採る態度とは思えない。
おそらくは、「天皇の命令」という錦の御旗で、言論を封鎖してしまったのだろう。だから、命令を司る人間たちの横暴が罷り通る時代になってしまったのだ。
これでは、井上の言う「善キヲ賞シ、悪シキヲ戒メ」が、成り立たない。
上に立つ者が常に善であれば結構だが、もし、過ちを犯しているのであれば、どう対処すればよかったのか。
上位に立つ者であっても、下位の者から諫められる場面があることが想定できていれば、さらに慎重に対応したはずなのだ。その人間としての「躾」ができていないところに、既に日本軍の欠陥があったと見るべきだろう。
そこで思い出すのが、「海軍乙事件」という大不祥事事件だ。
連合艦隊の山本五十六司令長官が戦死した後、連合艦隊司令長官に就任したのが、古賀峯一大将だった。
昭和十九年三月、トラック島が米軍の大空襲を受け、避難するためにフィリピンのダバオに二式大型飛行艇で向かった連合艦隊司令部が、飛行途上、台風と遭遇し、乗機が行方不明となった事件が起きた。
古賀大将たち連合艦隊司令部員七名は、捜索も空しく遺体も揚がらず、殉職扱いとなった。そのとき、二番機もフィリピンのセブ島沖に不時着し、参謀長福留繁中将以下九人は、飛行艇を脱出、泳いでセブ島に辿り着いたが、ここでフィリピンゲリラの捕虜となったしまったのだ。その際、福留たちは重要機密書類の入った鞄をゲリラに奪われていた。
おそらく、機密書類の入った革鞄がプカプカと海上を漂っていたのをゲリラが回収したのだろう。
現地の日本軍は、すぐにゲリラ側と交渉し、福留らは解放されたが、「捕虜」となった事実は、公表されることはなかった。
福留本人も拘束を受けながらも、短時間であったために、捕虜となった事実を認めなかった。それだけでなく、この暗号の入った機密書類が敵の手に渡ったことが想像できたにも関わらず、彼ら全員が口を閉じたのだ。
福留たちは、手元に機密書類がないことを問われると、「錘つけて海の底に沈めた」と主張し、不問に伏されたという。もちろん、そんな下手な言い訳が通用するはずがない。しかし、連合艦隊司令部が壊滅しただけに止まらず、司令部幹部が捕虜となった上、機密文書が奪われたとなると、海軍始まって以来の大不祥事事件になる。
数ヶ月前に、前の連合艦隊司令長官山本五十六大将が暗号を解読されて飛行機ごと殺されたすぐ後に、この大不祥事では海軍の面目は地に墜ちる。
面子に拘る海軍は、これを不問とし、福留たちはだれ一人として処罰されることはなかった。
敗戦後、元日本海軍の調査官が福留に問い詰めたが、それでも「知らぬ存ぜぬ」を貫き通したそうだ。そればかりか、「自分はいい迷惑をしている」とまで言ったそうだから、レイテ沖の栗田といい、この福留といい、海軍の上層部には保身しかないのか。
その調査官は、「盗まれたのは事実です。お帰り下さい!」と語気を強めて言い放ったそうだ。
戦後とはいえ、あのとき、暗号が奪われたかも知れない…と正直に話していれば、その後の作戦にその暗号を使用することもなく、多くの戦友が無駄に死ぬこともなかったろう。
調査官も元は海軍の軍人だった。だからこそ、この厚顔無恥な男を上官と仰いでいた自分が情けなかったに違いない。これが、連合艦隊司令部の実態だったのだ。そして、福留は、真実を語ることなく昭和四十六年に亡くなった。
ひと言付け加えれば、フィリピン戦線では、敵の捕虜となった一機の一式陸上攻撃機の搭乗員七人が、やはり、一時、敵の捕虜となった事件がある。
解放された後も、彼らは「戦死認定になっている」との理由で、単機攻撃を命じられ、敵の上空で散ったという。まさに、懲罰命令が下されたのだ。
こうした下位の者には厳しく上位の者には甘い体質が、日本海軍の特長だった。
組織が腐るときは、必ず、こうした不正が行われるのが常である。
この福留以下の連合艦隊司令部は、一体、何のために戦っていたのだろうか。
天皇を欺き、国民を欺き、部下将兵を欺き、最後には自分まで欺いて口を拭う癖は、今に始まった話ではないだろう。
こんな怖ろしい発想の持ち主が、日本を破滅の淵に追い込んだと考えると、今でも、彼らを許すことはできない。
井上の言うように、「善悪の峻別」は、確かに躾の基本である。しかし、海軍の実際は、連合艦隊司令部という組織のトップの不祥事が、つまらない「面子」のためにもみ消され、下級兵士の不祥事は、情状酌量の余地すらなく、厳罰に処すでは、海軍というところは、堕落した官僚組織であったと言われても弁解の余地はないだろう。そんな上層部の面子のために、必死になって戦った若い兵や将校たちは、何を思うのだろうか。
残念ながら、「日本を滅ぼしたのは、海軍そのものだった」ことを歴史に刻まなければならない。
日常ノ軽易ナル言動ニ於イテ、微細ノ点ニツキ、本人ノ気付カザル点ヲ教示シテ、之ヲ実行反復セシメ、習性タラシムルヲ本旨トス。
何と言っても、「習慣」とは恐ろしいものである。
特に機械を扱う海軍にとっては、一人一人の習慣や癖によって作業手順が狂うのを極端に怖れた。
海軍では、戦士としての闘争心より、常に平常心で機械を正確に操る能力が重視されたのは当然だった。
映画や小説などでは、淡々と作業する兵隊よりも、燃えるような闘争心で敵に立ち向かう姿が強調されて描かれるが、軍艦にしても、飛行機にしても、機械というものは、感情が入り込む余地はないのだ。
機械に感情はない。操作する人間によって正確に動くだけの物であって、それ以上の結果は生まれないのだ。しかし、操る者の判断一つによって、性能以上の力を発揮する場合がある。
一般志願兵から航空兵となった操縦練習生出身の坂井三郎元中尉が、戦後、自分の戦場体験を書いた「大空のサムライ」という本がある。
英語にも翻訳され、世界中で読まれた戦記物として有名になった。その坂井一飛曹(当時)が、ガダルカナルでの航空戦で頭部に負傷を負い、ラバウル基地まで零戦を操縦して、往復二千㎞の飛行距離を約七時間かけて還ってくる場面が登場してくる。
これを「不撓不屈」の精神論で読むのか、坂井三郎という兵士の「緻密な操作」の賜物と読むのかでは、その印象は大きく異なることだろう。
恐らく、同じ条件下で飛行したとして、坂井一飛曹のようにラバウル基地に帰還できる確率は、数%に違いない。
頭部を負傷したということは、その痛みと出血で正常な思考は困難だということが、まず考えられる。
零戦という単座戦闘機で、目印のない海上を航空地図を頼りに、目的地まで飛行することは、健康な状態であっても困難であることは間違いない。
零戦という飛行機の癖や性能を熟知した上で、最適な操縦をしなければ、燃料消費との関係で、目的地まで到達することは困難なのだ。
同じ、戦闘機であっても、それぞれの機体には特性があり、その特性を知った上での操縦が求められる。その上で、「不撓不屈」という精神論が出てくるのだ。
戦時中の兵隊の心理として、「自爆」するという行為は、特に非難される行為ではなかった。むしろ、「潔く自爆して死ぬ」ことは、武士道における「切腹」の行為と同様に、賞賛されることでもあったのだ。したがって、坂井一飛曹にとって、死は身近であり、だれからも非難されないとなれば、たとえ、その行為が不合理であろうと、容易に受け入れやすいということになる。しかし、それでは、なぜ、坂井一飛曹は、死を選ばず、難しい操作を繰り返しながら生きる道を選択したのだろうか。
恐らく、それは、ベテラン搭乗員としての「習性」だろうと思う。
若い頃から、徹底的に合理的な判断を求められ、厳しい訓練をとおして身についた操縦技術は、自分の本能をも凌ぐ力があったとしか考えられない。つまり、戦闘で傷ついた頭で考えて操縦をしていたのではなく、身についた体が反応したということになる。
その著作の中にも、
「朦朧とした頭の中で、必死に考えていた」という一文があるが、多量の出血をしている中で、手足を確実に動かすためには、その人の「癖」の段階にまで至らなければ、体は、反応しないだろう。これが、井上の言う「習性」なのだと思う。
それに、先にも述べたように、井上は、軍艦の艦長としての操艦技術に長けていた。
軍艦に乗り組んでいる兵にとって、休暇(上陸)は、何ものにも代えがたい楽しみだった。しかし、乗艦している軍艦が、港に停泊しなければ休暇は与えられない。
兵たちは、そのとき、何を見ているかと言えば、艦長を見ているのだ。
井上は、大きな戦艦の艦長であっても、港の定められた停泊位置に、一回で正確に止めることができたといわれている。
船は、自動車とは違う。
スクリューと舵を使って操艦する以上、停泊するのも、この二つの操作で決まる。それに、艦長は自ら舵を取ることはできない。すべて、艦橋からの命令で舵の操作が行われるのである。
艦長の命令を機関室と操舵室に伝達して、軍艦を動かすわけだから、艦長の責任は重大だ。操舵員は、ベテランの下士官がその命令に基づいて、外が見えない操舵室で行うが、艦長との呼吸が合わなければ、操舵をうまく操作することもできない。それに、一度推進力がついた大型艦を止めるのは、自動車のようなブレーキがあるわけではないので困難極まりない。
大きければ、大きい軍艦になればなるほど、その操艦は難しいと言われていた。
港では、多くの兵隊が見守っているし、艦内でも部下の兵たちが、固唾を飲んでそのときを待っている。
井上が、艦を所定の位置にピタリと止めると、艦内からは「オーッ!」という響めきが起こったという。
早く停止すれば、それだけ早く休暇が貰えるわけだから、兵たちにとって、これほど有り難いことはない。「さすが、うちの艦長は、たいしたもんだ」という評価は、その部隊の士気を高めただろう。
艦長にとっても操艦技術を高めなければ、いざ海戦になったとき、爆弾や魚雷を回避できなくなるのだ。それは、艦の沈没をも招く大事なのだ。だからこそ、艦長職は常に敵艦や敵航空機との戦いを想定した訓練が必要なのだ。
井上は、軍政家として有名な人物だが、「教育漫語」に書いたように、「習性」にまで高める教育の必要性を、身を以て熟知していたのだろう。もちろん、井上自身が操艦の練習を人知れず行っていたことは、その操艦を見れば、だれもが気づいていた事実である。
艦の幹部たちも、井上の努力を知り、改めて井上成美という人間を見直したことだろう。そういう意味で、井上は「努力を惜しまない合理主義者」だったと言えるのだ。
従ッテ上長自ラノ言動ガ、部下ノ躾ノ標準トナルコト必然ナリ。
上長自ラ気付カズシテ、平気ニテ犯シ居ル如キ言動ニツキテハ、部下ヲ躾得ル筈ナシ。 躾ノ要ハ、極メテ些細ナル事ヲ見逃サヌ処ニ在リ。
大ザッパナル人ヨリ云ハシムレバ、「カカル事ハ、天下ノ形勢ニハ関係ナシ」ト見ラルル如キ事柄ニ存スルナリ。
人間は、家庭であっても、学校であっても、会社であっても、必ず上の者を見る。
組織というものは、そういうものなのだ。
家庭においては、妻や子は父親を見て行動する。学校では、生徒は先輩や教師を見る。会社では、部下は上司や社長を見るだろう。
その上に立つ者の言動が、子供や部下のすべての「基準」になることは、上に立つ者の戒めとしなければならない。
建前上は立派な訓示を垂れても、行動が伴わなければ下の者に侮られ、指示を徹底させることはできない。
海軍にとって、命令が末端まで徹底できなければ、瞬時の判断を誤り、戦に勝つことはできないのだ。よく、真珠湾攻撃は「成功」だと言われているが、本当に命令は徹底されていたのだろうか。
確か、司令長官の山本五十六大将は、「敵、航空母艦の撃滅!」と、その目的を明らかにして真珠湾攻撃を命じたはずだが、実際、真珠湾では、その空母一隻も見つけられずに引き返してしまった。それも、指揮官の南雲忠一中将は、飛行隊長たちから、再度の攻撃の必要性を訴えられたにも関わらず、あっさりと反転し、千載一遇のチャンスを逃したのだ。そして、主目的を達成することが出来なかったにも拘わらず、帰国してみれば、大成功と賞賛されたのだった。
では、「真珠湾攻撃」は、一体、何のために行った作戦だったのだろう。
旧式軍艦の数隻を撃沈したところで、戦争の行方を左右するほどの戦果ではない。
戦艦など構わずに、航空母艦のみを狙って索敵を繰り返せば、必ず航空母艦は見つかったはずなのだ。そのために、海軍は六隻もの大型空母をこの作戦に投入したのだから、「見つからなかった」では、すまない話なのだ。
本音を言えば、「本当にアメリカと戦争をするのか?」と、だれもが首を捻りながら、真珠湾に向かい、奇襲作戦の失敗ばかりを怖れていたために、目先の戦果に酔い、目的を忘れてしまったのが、南雲忠一とその司令部だった。そして、この作戦を立案した山本五十六ですら、自分の立てた作戦の主目的を忘れ、参謀たちの再攻撃の要請に、「南雲はやらんだろう…」と、さっさと諦めてしまっているのだ。
そんなに易々と諦めるくらいなら、なぜ、職を賭してまで真珠湾攻撃に拘ったのか、今でも謎は残る。
本当の目的は、アメリカと戦争を始めることであって、真珠湾の空母などどちらでもよかったのかも知れない。このころ、日本ではゾルゲ事件が起こり、近衛文麿首相の側近たちが次々と逮捕されていた。彼らは、親ソ派の社会主義者たちで、スパイ活動容疑で特別高等警察の捜査を受けていたのだ。
真相は闇の中だが、あの戦争は日露戦争のときのような挙国一致体制で戦争を始めたとは、到底思えないのだ。
当時の海軍は、機動部隊の指揮官に相応しくない南雲中将を選んだり、主目的を果たさないまま引き返すのを黙認したりと、山本五十六の真意が分からない。
日本海軍の手本は、あの東郷平八郎元帥のはずなのだが、そうであれば、日本海海戦のように、連合艦隊の司令長官自らが空母赤城に座乗し、指揮を執るべきだったのではないか。そして、主目的であるアメリカ太平洋艦隊の航空母艦を撃滅することに全力を挙げるべきだったと思う。
つまり、山本自身の本音は、ハワイに奇襲攻撃をかけ、アメリカに対日戦争の口実を作らせるのが目的で、敵空母のことなど、どちらでもよかったのかも知れない。そんな、謀略論が出てもおかしくない奇妙な作戦だった。
図らずも、山本五十六はこの作戦の成功により国民的英雄となった。そして、作戦の失敗は糊塗され、次の作戦に生かされることもなかったのだ。
日本人は、いつも結果オーライの国民性があり、熱しやすく冷めやすい性質を持っている。そして、地道な計画や分析、考察を加えることが苦手なのだ。
「まあ、勝ったからいいじゃないか…」という大雑把な捉え方しかできない。そして、だれかが口を挟もうとすると、「いい気分のときに水を差すな!」と、自分の気持ちが最優先させる情緒的な民族である。だから、真珠湾攻撃も大きな教訓を残したにも関わらず、だれもそれを指摘することなく、「いい気分…」のまま、次の作戦に向かって行ってしまったのだ。
井上が指摘しているように、開戦時から、上に立つ者のいい加減さが、海軍という組織を蝕んでいたのだ。きっと、井上のことだから、「南雲は、何をやっているんだ!」と怒り、嘆いたはずだが、それを素直に聞く海軍軍人はいなかっただろう。それに、日本人は、小さなことに拘ることを、特に嫌う。
「何だよ、ちまちまとそんなことを考えても仕方がないよ」とか、「まあ、そう言うな。あいつも、一生懸命やったんだから」と慰め、ことを穏便に済まそうとする。それが、後に大きな禍根となる例は多いのだが、その場が収めればそれでいい…という場当たり的な思考は、日本人なら理解できるはずだろう。
陸軍でも同じようなものだった。
大将ともなれば鷹揚に構えて、部下に任せる風が、立派に見えて尊敬されたのだそうだ。よく、西郷隆盛や大山巌がそうだったと伝説的に言われているようだが、この二人は、そんな人間ではない。
西郷は、徹底的な現実主義者であり、冷徹な判断で兵を動かしている。
西南戦争での最期も、薩摩武士団を壊滅させ、武士の世を終わらせるための決断だと思う。
自分の命を捨てることで、薩摩に象徴される武士の時代を終わらせたのだ。
よく「命の使い方」というような言い方をするが、西郷ほど、自分の命の値打ちを知り、捨てるときも潔く捨てる覚悟があった真の武士なのだ。
部下に作戦を任せたのは、「負ける」ために任せただけのことでしかないのだ。
大山巌は、日露戦争時の満州軍司令官の座にあったが、児玉源太郎という総参謀長と呼吸を合わせ、児玉という男を上手に使う器量があった。そして、児玉も大山巌に心服し、全力を傾けて作戦を考えた。そこには、日本を滅ぼしてはならないという責任感だけがあった。それに、大山は、砲術の大家と呼ばれ、研究熱心で有名だった。
砲術は、科学そのものである。その大山が、大雑把であるはずがない。
井上と同じように、徹底した合理主義者だったが、その風貌を利用し、部下を上手く操った将軍だった。そこには、戊辰の戦を戦い抜いた武士の生き様があった。
昭和の薩摩出身の将軍の中には、薩摩訛りを遣い、「そいでよか…」とか、「頼みもんそ…」などと二人の英雄を気取っていた人もいたようだが、たとえ形だけを真似ても、実力もなく底の浅い人間は、「軽い御輿」にしかなれないのだ。
陰で参謀たちに笑われているとも知らず、「よか、よか…」と脳天気に笑っているとすれば、草葉の陰で二人の英雄も嘆き悲しんでいることだろう。
躾教育上、生徒ニ与フル言動ノ標準ナキカ。
一案アリ、研究ヲ望ム。
「自己ノ考フルガ如ク、他人ガ皆考エ、自己ノ考フルガ如ク皆言ヒ、自己ノ行フガ如ク万人ガ行フナラバ、其ノ社会ナリ、団体ナリガ如何ニモ良クナリ、愉快ニナルベシト認ムルコトハ之ヲ為ス、之ニ反スルコトハ之ヲ為サズ」
「生徒に与える言動の標準」なるものは、どんな社会にも存在しない。
井上が言いたいことは、
「生徒の思想が統一できれば、以心伝心で人は動き、効率的、効果的な運用が可能になる」
というものだろう。しかし、人間が各々に個性がある以上、そんなことは未来永劫あり得ないし、あってはならないことだと思う。
確かに、海軍という組織の運用上、意思の統一に相当の時間を要することは、よくわかる。
実際、日本海軍の戦略思想すら統一できなかったために、軍令部が長年かけて創り上げた戦略を、山本五十六という一人の個性によって悉く覆され、敗戦の憂き目を見ることになったわけだから、如何に思想を統一することが難しいかがわかる。
もし、井上が言うように、「同じ思想」の持ち主ばかりが育つことになれば、異論が生まれることがなくなり、その頂点に立つ者は、「独裁」が可能となる。
ドイツのヒトラー、ソ連のスターリン、中国の毛沢東…、これらの独裁者がやったことは、国民全員が自分の思想を理解し、行動することだった。そして、それに反対する者は、排除していく「粛清」が行われた。
結局、人間は、自分の意見に従う者を欲し、自分の欲を満たすために人を動かしたいのだ。
井上は、結論は、「愉快か不愉快か」で決めると述べているが、どんな結論が出るとしても、皆が、納得して「愉快」になることなど、あり得ない。
社会とは、基本的に、他と自分は「違う存在」だと認めるところから始まるのだと思う。
軍人は、確かに同じ軍服を着て同質性を求めるが、それは、作業効率としての同質性であって、思想の同質性ではない。それは、井上自身が己を省みれば分かることではないか。
実際、井上に敵対した人間が、どれほどいたことか。
たとえ、仲間だと思っていた山本五十六や米内光政であっても、井上には、相容れない思想があったはずなのだ。
おそらく井上自身が気づいていたと思うが、山本も米内も容共主義者だった。山本はアメリカに留学していたときに、共産主義者が近づき、米内もソ連の駐在武官時代に、やはり共産主義者が近づいてきたのだろう。二人とも、女性に甘いところがあるから、その点をうまく突かれたのかも知れない。そうでなければ、共産主義者の風見章と頻繁に会合し、書簡のやり取りなどしないはずだ。
風見は、近衛内閣の書記官長(今の官房長官)をしていた政治家である。
風見は、その出自において共産主義者であり、ゾルゲ事件に関与した尾崎秀実たちとも交流が深い。
海軍軍人と共産主義者の政治家との交流と聞けば、自ずとその思想はわかるだろう。
風見は、戦争が終わると、山本や米内との書簡を庭で燃やしていたと、風見の息子が証言している。しかし、井上には、共産主義を容認するような雰囲気は一切ない。それでも、山本、米内と海軍省で仕事をしていたとき、二人が通じ合っていたことは知っていたはずなのだ。そのとき、井上がどう動いたかはわからないが、戦後、井上が公職の一切を断り、横須賀に隠棲したことと無関係のようには思えない。たとえ何かを知っていても、口外できない秘密を抱えたまま、井上も死んで行くしかなかったのだろう。
井上の言うように、井上は米内や山本の思想が井上自身には、納得することができず、不愉快だったのかも知れない。若しくは、それも是とする考えもあったのかも知れない。
昭和の歴史上で、思想の統一を図ろうと企てたのが、二・二六事件を起こした陸軍の青年将校たちではなかったか。
彼らは、世界恐慌で喘ぐ日本の貧しい国民を救いたいという純粋な心の持ち主だったのかも知れない。そして、今の政治体制を変革して天皇親政とし、軍部の純粋な者たち(皇道派)が中心となった政権を樹立すれば、国民は平等に扱われ、国家総動員体制が、天皇の名の下に完成すると考えていたのだろう。これこそがまさに、同じ思想を持つ愉快な解決方法に違いない。
富は、一部の特権階級のものではなく、国民すべてのものだという思想は、まさに平等主義であり、共産主義思想そのものであった。しかし、戦後、証明されたように、共産主義者による富の分配は、国民すべてが貧しくなることであり、それを指導する党や人間だけに、一部の富が集中する「鍋蓋社会」ができるだけのことでしかなかった。
その壮大な社会実験は、スターリンや毛沢東たち「独裁者」による粛清の嵐によって成し遂げられ、国民を塗炭の苦しみの中に放り込んだ。
陸軍の青年将校たちが夢を見た「みんなが幸せになれる」理想郷は、どこにもなかったのだ。そして、その犠牲者は、世界中で数千万人、数億人とも言われている。
ひょっとしたら、井上自身も共産主義を容認する思想を持っていたのかも知れない。この時代のインテリの多くは容共主義者だという説もある。
今でこそ、戦後の共産主義国の政治を知っている私たちには、共産主義思想が怖ろしい悪魔の思想だということを知っているが、井上たちの時代には、近代が生んだひとつの思想であり、帝政ロシアが倒されソ連が誕生したときなどは、「封建主義、資本主義に変わる夢の体制だ」と賛美する声がたくさん上がったと言われている。しかし、知的で合理主義、自由主義を標榜する井上には、それを信じるに足るだけの研究はできていなかったのだろう。だからこそ、教官たちに「研究」を命じたのかも知れない。
軍という大きな組織を動かす人間には、やはり、思想の統一は魅力的なのだと思う。
それは、軍だけでなく、国民すべてが同じ思想を持ち、同じように考えて行動できれば、必勝の形ができると信じられていたのだ。
当時、日本陸軍は皇道派と統制派に別れて派閥争いを繰り広げていたが、どちらにせよ、目指す道は、天皇中心の「統制国家」なのだ。
海軍も艦隊派と条約派に別れていたが、議会という面倒臭い手続などを踏まずに予算が通る体制を望んでいたのは、艦隊派の軍人たちだった。
山本もこの艦隊派だったからこそ、生き延びて連合艦隊司令長官に上り詰めることが出来たのだ。条約派は「良識派」ともいわれ、国際協調路線を目指したが、艦隊派に敗れ、多くの有能な将官が海軍大臣大角岑生によって海軍から追放された。昭和八年のことである。そして、僅か十二年後に日本海軍は跡形もなくなったのだ。
艦隊派の軍人たちは、陸軍の統制派に与する形で予算を取り、軍拡を目指した。
時代遅れの大型戦艦を建造し、勇ましく「アメリカ海軍と戦うのだ」と国民を煽動したが、その大型戦艦も時代遅れになり、彼らが活躍できる場はなかった。
上に立つ者にとって、仲間を欲する気持ちは分かる。自分の属する派閥が力を持ちたいと願う気持ちも分かる。だが、それは飽くまで国を憂うという純粋さが必要なのだ。
確かに、青年将校たちには、純粋さはあったであろう。しかし、狭い視野しか持たない人間の身勝手な思想は、如何に危険か、先の大戦は教えてくれている。
躾教育に関する注意事項
㈠ 躾教育ニ於イテ、其ノ方法ヲ誤リ、「ベカラズ」ノ連発ノ為、生徒ヲシテ其ノ全精 神力ヲ上長ヨリ咎メラルガ如キ事ヲ為サザル為ノ努力ノミニ注ギテ、水平線以上ノ 善キ事ヲ進ミ求メテ為サントスル努力ヲ消失セシメザルコト
指導者には、意外にありがちな方法であろう。
家庭においても、未熟な子供に様々な課題を与え、できないと叱責したり、すぐに先回りして「いけない、いけない」と、注意ばかりしている親がいるが、そういう環境で育った子供は卑屈になり、常に親や教師の顔色を窺うようになる。その上、叱られることを怖れるあまり、だれかを貶めても自分だけが助かろうとする卑怯者になる怖れもあるのだ。
感性の鈍い人間は、往々にしてそう行った間違った躾をしてしまうものなのだ。
兵学校の物語を読んでいても、こうした癖のある一号生徒は必ず出てくる。
海軍は、軍艦で戦う以上、常に軍艦内を想定した生活を送ることになっていた。たとえば、階段を上り下りする際も、駆け足が基本だが、軍艦の狭い階段(ラッタル)を上り下りするには、ゆっくりしている余裕はない。戦いは一分一秒が勝敗の分かれ目になる。
したがって、海軍では、常に「駆け足」が基本であった。そして、階段は「一段抜かし」で行うことになっていた。
敬礼が、陸軍と異なり肘を畳むのが海軍流だが、これも、狭い艦内を想定して、相手と肘がぶつからないようにとの配慮である。こうした海軍の「常識」は、新入生には分からない。そこで、一号生徒が、新入生徒を見つけるたびに「待て!」と停止を命じ、躾けていくのだが、何事にも限度というものがある。
こうした生活の基本に関わる指導が年中行われていると、最初のころは従順に従っていた下級生も、表面だっては反抗的態度は採らないが、心の中で不満を溜めることが多くなる。そうなると、四号生徒は、「待て!」の命令がかからないように、一号生徒がいる付近だけ注意して行動するような姑息な手段を選びものだ。
こうして、自然に、上司から叱られないような無難な答えを出すことが習性になっていくのだ。
日本海軍は、下級兵を躾けるのに、「海軍精神注入棒」(通称バッター)と称する樫の木の棒を使用したことは、あまりにも有名になった。どこの海兵団や部隊にもあったから、明治時代から受け継がれてきた道具なのかも知れない。
新兵が海兵団や予科練などに入隊すると、班長となった下士官は、この樫の棒をバットのように振って、新兵の尻を殴るのだ。
意識の高い下士官は、ある程度のところで止める理性を持っているが、狂気が宿るようなタイプの下士官になると、新兵が廃人になるまで殴りつけたという。
ある予科練出身の飛行兵の手記には、優秀な練習生が、粘着質の下士官に意識がなくなるまで殴られて腰骨を折り、飛行兵を断念せざるを得なかったことが書かれていた。これでは、何のための懲罰か分からない。その上、暴力を振るった下士官は、特にお咎めもなく通常勤務を続けたということだから、海軍では過度な暴力が容認されていたことになる。
こうした暴力でしか部下を服従させられないとすれば、それは、近代の軍隊ではない。
海軍上層部は、当然、そうした懲罰が行われていたことを承知していたが、積極的にそれを是正しようとする動きは最後までなかった。要するに、高級将校たちにとって、下士官兵などは、戦争の「駒」としか認識していないことになる。
将棋の「歩」などは、いくらでも代わりがあると考えていたようだ。だから、兵隊の命など、どうでもよかったのだろう。
あれほど「兵器を大切にしろ」とうるさかった軍隊で、尤も大切な「兵」という兵器を粗末にする矛盾に気づかない愚かさは、一体どこから来ているのだろうか。
「兵は、家畜以下の存在」だという認識しか持っていなかったとすれば、やはり、近代国家の軍隊にはなり得ず、敗れるべき組織だったと言うことになるだろう。
こうした組織だからこそ、人命を軽視し、長年、厳しい訓練によって鍛え上げた兵たちを易々と見殺しにするような下手な作戦を立てても平気なのだ。
元々、資源の乏しい国でありながら「人間」という優秀な資源を一番無駄にしているのが、日本軍なのだ。
アメリカ軍でも人種差別は露骨にあったが、「命を守る」ことは、アメリカ人として当然の考え方だろう。
合理的に考えれば、兵を一人前の戦闘員に育てるには、相当の時間と費用を要する。
特に技術系の兵隊は、企業でいう熟練工のようなものなのだ。
たとえ、艦長が交替してもその艦の指揮はできるが、熟練の機関科の兵隊がいなければ、被害を最少限度に留めることもできない。
戦争の終盤になったころ、日本海軍は最新鋭の航空母艦「大鳳」と「信濃」という巨艦を就航させている。ところが、この二隻とも敵潜水艦の魚雷攻撃で脆くも沈没してしまい期待外れに終わってしまった。
原因は、敵の攻撃による損傷というよりも、それによって生じたガス漏れが原因だったそうだ。そのころになると、海軍の兵隊たちもベテランが激減し、艦の修復作業にも不慣れで、モタモタしている間にガス爆発を起こしたのだ。
日本海軍には、そもそも、軍艦等の応急処置を行う専門部隊がおらず、そこにいる兵隊が応急処置に当たったのだそうだ。
人を階級だけで見て、下級兵を軽んじたつけが、こんなところにも現れている。
結局、海軍上層部の軍人たちは原因を追究するでもなく、反省をした様子も見られない。彼らには「謙虚」という言葉すらなくなっていたのだ。
戦闘機のパイロットも同じだった。
最初は、何もできないパイロットも多額の予算を遣って訓練を施せば、優秀な搭乗員となる。それを「簡単に死なせては、軍の損失だ」と考えるのが、アメリカ軍の思想である。
もちろん、アメリカ二世の日系人部隊のように、「敵国人部隊」という理由で、常に最前線に投入され、多くの戦死者を出した例もある。しかし、功績を挙げれば、アメリカという国はそれを賞賛し、勲章を授与した。
海兵隊の上陸作戦の最前線に、多くの黒人兵が使われた例もある。しかし、だからといって、負傷すれば、後方に送り治療もするし、優秀な兵には、勲章も与えた。そして、戦死した後もできる限り遺骨を収集し、弔うこともしている。
さらに、アメリカ軍は、海戦や航空戦においても、最前線に救難機や救難用の潜水艦を配置し、できる限りの兵の収容を行っている。この場面は、日本海軍の将兵も目の当たりにしており、その勇敢さと人命尊重の精神に驚いたという。それに比べて、日本海軍はアメリカのような救難用の組織は持たず、余裕があれば救助の向かう程度で、「兵は大切な戦力」だという認識が乏しかった。それに、日本軍のように、片手間に救出するようなことをすれば、アメリカの世論が許さない。ここが日本という社会との一番大きな違いかも知れない。
アメリカにも息子を戦場に送る母親はいる。だれもが、戦いの勝利より我が子の帰還を祈るのが親の情というものだろう。アメリカでは戦死率が高まると、戦時国債が集まらず軍事予算に影響が出たというから、日本軍との戦いは正直頭の痛い問題だったのだ。
当時の日本は、国民を軽視していた。
「お上」という言葉があるように、一般国民は、政府や軍に従うだけの存在でしかない。言いたいことも言えず、ひたすら我慢を強いられ、その挙げ句に軍に捧げた息子を畜生のように扱われても怒ることもできない。
日本人にとって徴兵によって集められた兵隊は、いわゆる「雑兵・足軽」扱いなのだ。 指揮官である士官は武士だが、下士官兵を武士とは見ていない。こうした差別意識は、なかなか消えることはなかった。
人間は、自分では正常だと思っていても、社会が歪んでいると、その歪みすら「常識」となって、狂っていることに気づかない。そして、狂った感覚の人間が多ければ多いほど、
正常な人間が狂って見えるという倒錯した社会が生まれるのだ。
もちろん、アメリカという国もおかしなところはたくさんあるが、「人命」ということに関しては、当時の日本は、あまりにも軽視していたと言わざるを得ない。
兵隊も、自分たちが武士だとは思ってはいない。武士に使われる家来か小者くらいの認識しかなかったであろう。だから、主人に仕えるような気分で上官の命令を聞いていたのだと思う。そんな組織に人間らしい扱いを求める方が無理なのだ。
確かに、大東亜戦争はアメリカの謀略によって始まった戦争かも知れないが、軍隊組織としては、アメリカ軍に遠く及ばないのが日本軍の実態だった。
もし、明治維新が、五箇条の御誓文にあるような「民主主義的思想」に基づくものであったら、その軍隊ももう少し民主化された組織になっていたのかも知れない。そうなれば、日本軍にもせめて、救難用の専門部隊が創られ、多くの日本兵の命が救われるだけでなく、再度、重要な戦力として活用できた。
航空機にも、もっと搭乗員の命を守る工夫が要求されたことだろう。
「攻撃こそが最大の防御」はわかるが、攻撃を受ける側に立ったとき、その脆弱さが命取りだった。
井上の指摘する「べからず」は、確かにその通りである。しかし、部下の言葉を封じ込めることで、上位者の欠点を知らしめない甘い習慣は、海軍そのものの基本的欠陥だったのだ。
井上自身も、その構造的欠陥の上に存在した将官の一人であり、わかっていながら改革ができなかった責任は大きいと言わざるを得ない。
㈡ 躾ニハ、時ニハ軽度ノ体罰ヲ必要トスルコトアリ、之ガ実施ハ、是非共、簡明直裁、 男性的ニシテ後口悪カラザル様、注意ヲ要ス
井上は、「軽度の体罰」なら容認する考えのようだが、上級生や上官が、部下や下級生を殴って指導することが、本当に必要なのか考えてみるべきだろう。
アメリカ軍は、懲罰として、腕立て伏せやランニングを科すことはあるという。しかし、「殴る」ことによって、兵隊としての躾をしているようには思えない。
殴るという行為は、暴力の肯定であり、人を人として認めない行為なのだ。
家の家畜を追うときに尻を叩くのと同じ理屈になる。こうした感覚は、相手を尊重する気持ちを失わせ、やはり、人命を軽視することにつながるだろう。
まして、兵学校生徒は、幼児期の子供ではない。優秀な能力を備えた立派な青年であり、卒業すればすぐに将校になる立場の人間なのだ。頭脳も明晰で、どう考えても家畜同然に扱われる理由がない。
兵学校六十八期卒の作家、豊田穣氏は、兵学校を舞台にした作品には、必ず、「鉄拳制裁」の場面を描いている。そして、六十八期を「獰猛」と呼び、豊田氏自身も一号生徒の時には、相当数殴ったと誇らしげに書いている。
彼も、井上の言う、「簡明直裁」「男性的」と、その効果を賞賛している一人なのだ。しかし、これが近代海軍の姿かと思うと、疑問は残る。まして「獰猛」という言い方をして男性的だ…と言うのなら、男性的というのは「知性がない」と思われても仕方がない。ところが、豊田氏の一期先輩に当たる六十七期生徒は、「鉄拳制裁禁止」をクラス全体で決議したという。
六十八期の豊田生徒たちが、それを不満に感じ「お嬢様クラス」と揶揄したそうだが、指揮官に獰猛な男性を求める必要はなかったと思う。その証拠に、六十七期生徒も戦争中の第一線指揮官として働き、六十八期以上の戦死者を出している。
殴ったから兵が強くなったわけではなく、日本海軍の「兵としての誇り」があったから、
日本兵は強かったのだと思う。
そう言えば、こんな逸話がある。
硫黄島の戦いで、日本兵は硫黄島全体を地下要塞にするべく、連日、碌な飲み水もないままに重労働を強いられていた。周囲をアメリカ艦隊に包囲され、連日、大規模な空襲が行われ、硫黄島は裸の島になった。アメリカ軍の上陸が始まると、兵たちは「一死十殺」を合言葉にアメリカ軍と戦い続けた。
日本兵は飲まず食わずで、だれもが痩せ衰え、骨と皮ばかりに見えた。ところがである。その兵隊が、敵が現れると、まるで「鬼」とでも化したかのように、背に爆雷を背負いアメリカ軍戦車に突撃していくのだ。あの体のどこにそんな力が残されていたのか、不思議だった。
これを聞いたとき、私は、「これが、日本人なんだ」と思った。
だれも日本兵は上官に命じられるままに死んだのではない。上官が怖ろしくて自暴自棄になったわけでもない。自分の死が「祖国を守る」「愛する人を護る」という信念があればこそ、とんでもない力を発揮して敵陣に突っ込んで行ったのだ。それは、だれが教えたわけではないだろう。日本人としての「魂」がそうさせたと言うほかはない。
日本軍創設の際、こうした「日本人観」があれば、もう少し違った組織になっていただろうに、残念である。
それに、そもそも、江戸時代、日本の武士道教育の中で、上司が部下を殴ることがあっただろうか。戦国時代、兵を鍛えるのに、武将たちは、毎日殴っていたのだろうか。
どんな記録を読んでも、そんな情景は描かれてはいない。寧ろ、木下藤吉郎が策を講じて足軽たちを競わせたような逸話はいくつも残されている。
織田信長が、狼藉者の首を即座に刎ねた話はあったが、あの信長でさえ、部下を殴る場面はない。
日本は、どこで勘違いをしてしまったのだろう。
もちろん、兵隊の仲間同士の喧嘩が度々起きたであろうことは否定しない。しかし、対等の喧嘩と階級の上の者からの体罰は、同じにならないのは道理だ。
この「殴って鍛える」という行為は、奴隷に対して貴族が鞭を振るい、体に傷をつけ、恐怖心で戦わせるといった、人種差別思想から来ている。
中国やソ連では、農村から兵隊を銃で脅して集め、戦闘中に逃げようとする農民兵を後方から味方が撃ち殺したと聞く。「督戦隊」と言うのだそうだが、「逃げる奴は撃ち殺す」という恐怖心を植え付け、敵に向かって突撃させたのだ。こうなると、どちらが本当の敵かわからなくなる。
昭和十六年に、日本軍は、東條英機首相の名前で「戦陣訓」なる「覚え書き」のようなものを出した。どうやら、法的な根拠はないらしい。
これにより、「虜囚の辱めを受けるな」と敵の捕虜になることを禁じたとある。
この戦陣訓は、東條首相自らが考えたものではなく、日本軍が既に用意していた軍人への戒めなのだそうだが、政府や軍の幹部は、如何に同じ仲間の兵を信用していないかがわかる。要するに、「こうでも言わないと、逃げ出す奴がいるかも知れない」という不信感に他ならない。
日本人は、どうも人の上に立つと、部下を信用しない傾向になる。
今でも、企業などでは不祥事が起きるたびに「綱紀粛正」という言葉を発し、「〇〇だめ論」を幾度も発出する。注意や脅しを利かせれば、部下たちが素直に言うことを聞くと思うのかも知れないが、これでは逆に上に対する不信感しか芽生えない。
綱紀粛正を謳うなら、その前に、これまでの「功績」を讃えよ。それが、人を使う人間のやるべきことだ。
祖国防衛に立ち上がった日本兵に対して、失礼極まりない文章を恥ずかしげもなく出してしまった。これだけ見ても、政府や軍の傲慢さが目に付く。そして、敗戦を迎えると、「虜囚の辱めを受けるな!」と叫んだ政府高官や軍の高級将校たちは、全員が口を噤んだのだ。
何人かの陸海軍の将官は自決し、その責任を取ったが、東條首相も米内大将も腹を斬ることはなかった。一人、陸軍大臣を務めた阿南大将だけが、政府を代表するような形で切腹して果てた。
この「戦陣訓」を本気で信じていたのなら、戦争を指導した人間は、全員自決して果てるべきだったのだ。それができなかったとすれば、如何にいい加減な文書を書いたものだと呆れてしまう。
高い地位に就いた者の傲慢さというか、下の者を見下す習性が身についた人間の醜い姿と憐れさだけが残った。
この軍隊での「体罰」が日本に持ち込まれたのは、ヨーロッパの軍隊の慣習によるものだろう。身分差別が厳しい中世ヨーロッパでは、特権階級である貴族が軍を支配していた。そのため、一般兵との身分差、階級差は大きく、体罰が常習的に行われていたものと推測できる。もちろん、貴族が自分の手を痛めるようなことをするわけがないので、一般兵の中の下士官クラスの兵隊が下級兵を殴って従わせていたのだろう。
因みに、海軍兵学校では拳で殴る「鉄拳制裁」だが、海軍機関学校では、太い縄で殴っていたと聞く。どちらにしても、指揮官を養成するような学校で行うべきことではない。 兵学校でも表向きは「体罰禁止」だったようだが、長年の慣習として残った「鉄拳制裁」がなくなることは、終戦の日までなかったのだ。
戦後、日本から軍隊はなくなったが、この「体罰」の伝統は、学校教育に残された。
もちろん、体罰がすべて「悪」と断じることはできない。しかし、戦後の学校では、そんな議論もないまま、軍隊時代の名残なのか、教師が生徒を叩く行為は黙認されていたのだ。それだけ、体罰を受けて育った人が多かったということだろう。
「悪いことをしたら、少々叩いても構いません」
というのが、当時の親の意識だったから、教師もそんな気分で叩いていたと思う。
もちろん、軍隊ではないから、適度な体罰といった弁えはあったようだが、教師自身が安易に考えていたのは間違いない。
但し、軍隊は学校とは違い、明らかな階級社会である。
明治期は、軍隊ができたと言っても、組織が固まらない時代のことで、まだ、どういう組織になるのか分からない時代だった。
新政府軍の流れで、新政府に味方した藩から多くの軍人が採用された。
「薩摩の海軍、長州の陸軍」と言われたように、当初の軍隊は、かなり偏った組織編成になっていたのだ。そのため、軍隊内でも旧新政府軍側の人間と、旧幕府軍側の人間との間に、かなり軋轢が生まれた。
戊辰戦争が終わって何年も経っていないわけだから、軍隊内では、戊辰戦争に参加した元武士がたくさんいたのだ。そして、旧新政府軍側の人間が上官になり、旧幕府軍側の人間が部下になるわけだから、面白いはずがない。そこに、今度は、全国から町人兵や農民兵が集められた。ここには、旧身分制度が残される原因となった。
元とはいえ身分差別が厳格な時代である。町人や農民風情が自分たちと同じ兵隊でいることに我慢のならない人間もいただろう。まして、明治政府は四民平等を謳いながら士族、士卒、平民と身分を設けている以上、士族は士卒や平民と同じ扱いは許せなかったはずなのだ。
そうなると、階級にものを言わせ日常的に暴力が横行するのは当然の流れである。これを厳罰に処することができなかったところに、日本の軍隊が近代化できなかった原因がある。
そのうち、「平民」や「士卒」出身であっても、士官学校などを出た人間が将校となり、士族出身の人間に命令することになるわけだから、人としての感情は複雑で、不満と鬱憤だけが残った。こうした心情的な軋轢が暴力を生み、「天皇絶対論」になったことも頷ける。
「上官の命令は、天皇陛下のご命令である!」という論理は、単純であり、部下にものを言わせない雰囲気を作り上げたのである。
民間においても、軍隊から戻ってきた人たちが、自分が何かの指示を出すとき、このフレーズを使ったのではないか。そうすれば、どんな反論も遮断することができるのだ。
何でも「天皇陛下の御為である」という言い方は、社会でも便利に遣われ、国民の言論を封じ込める政策に用いられるようになったのだろう。
海軍兵学校の英語廃止論議も、その流れの中にある。ところが、その危うさを見抜いていた井上によって論破されたが、権力を持たない一般国民に強制するには都合のいい「魔法の言葉」となった。だが、考えてみればこれほど不敬なことはない。
天皇という存在を表面上は敬ったように見せかけ、裏では幕末の長州藩が嘯いたように、「玉」という程度の認識だったのかも知れない。
アメリカ軍のように、元々は、ヨーロッパから逃れてきた仲間意識があった国民とは異なり、日本のように、最初から身分社会の中で作られてきた軍隊制度は、近代国家の軍隊としては、大きな欠陥を抱えていたことになる。そして、軍隊における階級制度が、新たな身分制度を生み出し、人格や能力、すべてにおいて兵は、将校とは異なる種族であるかのような錯覚が生まれたのだろう。
井上にしても、極端な差別主義者ではないが、この身分制度に基づく「体罰容認」論否定できないのは、長く続く慣習が身についていたからだろう。
現代を生きる私たちは、体罰が多くの虐めを容認する元であり、どんな人間にも人権があることを学んできた。だから、体罰や暴力による躾を否定するものだが、それをこの時代に求めるのは酷なことかも知れない。
ところで、海軍は士官(将校)になると「従兵」という、ボーイのような若い兵隊がついて、雑用を任せることになっていた。
中尉くらいまでは、少尉、中尉の部屋に数名という程度だったが、大尉の分隊長以上になると、個室が与えられ、一人に一人の従兵が付いた。
陸軍でも「当番兵」という制度があり、自分のプライベートの用事まで、兵に行わせるのが習慣になっていた。中には、自分の下着の洗濯から買い物まで、好きなように使用して、威張っている士官もいたそうだが、人間として疑問を持たざるを得ない。
中には、若い従兵を自分の性の捌け口に使うような輩もいたそうだから、これもかなり問題のある制度だった。
これは、軍隊だけの特権であり、一般社会では幹部に「秘書」はいても、彼らは個人の使用人ではない。まして、兵学校のように、近い将来、多くの部下を率いる指揮官となる者たちを、たとえ上級生だとはいえ、自分の気分で殴りつけ、「一号生徒は偉いんだ」と思わせるような教育は、将校養成に有益だとは思えない。
戦争末期になると、若い兵学校での将校と予備学生出身の士官が、その立場の違いからトラブルになるケースが多かったと聞く。その多くは、兵学校出身者が同じ士官でありながら予備学生出身者を差別し、いつまでも兵学校の一号生徒気分を残していたからだと言われている。
体罰は、余程、修練を積んだ人間が、信頼できる部下(教え子)に対して瞬間的に行う危険回避のための指導でしか効果はないだろう。まして、同じ修養中の生徒同士が指導と称して安易に用いるのは危険である。
六十八期の豊田穣氏は、殴り、殴られたことを「青春の熱情」と懐かしんでいるが、生き残った者たちの中には、それを恨みに思っている者が多数いたことを忘れてはならない。それでも、海軍兵学校が、日本最高の知的集団であったことは、間違いない。その知性をもってしても、軍隊という組織の論理は、覆すことができないとすれば、それだけ一般社会と隔絶された社会だったという他に言葉が見つからない。そんな閉鎖された社会の人間だけで、アメリカという総合力に勝る強大な敵を相手にしたわけだから、その根本に置いて勝利することは敵わなかった。
㈢ 学校内事々物々ニハ、生徒ノ躾上有害ナル事柄ノ存在セザル様注意ヲ要ス
○不要ノ電灯ノ消灯 ○清潔 ○整頓、几帳面 ○無精ノ不存在 ○当直ノ尊重
兵学校には、昭和七年頃から「五省」と呼ばれる校訓が存在した。
当時、兵学校の校長であった松下元少将は、将来、海軍将校となるべき兵学校生徒の訓育のために、日々の行動の反省として五箇条の「教訓」を徹底させたのだ。つまり、井上の言うように、日常生活の中で注意すべき点は、山ほど存在している。しかし、これを一つ一つ掻い摘まんで指導をしても、終わりは見えない。そこで、松下校長は、「この五つが備われば、海軍将校としての資質は、十分だ」と考えたのだろう。
この五つの価値さえ十分に理解できれば、海軍将校として十分だという教えは、理に適っている。その点において、この松下少将はなかなかの教育者である。
人間は、生きていく上での大切な価値は、無限に存在する。しかし、兵学校生徒としての必要な価値は、この五つだと明確に示されれば、それが、大きな目標となり、その五つの価値に誇りを持つようになるものだ。こうした直裁的な価値の指導は、限定的な期間内での教育には、非常に有効であると思う。
よく学校などでも、小学生くらいの子供に、教師が様々な注意を与えるが、その教師自身に「思想の柱」があるのか…ということに尽きる。思想のない者は、与える注意の多くは「余計なお節介」程度のものでしかなく、生きていく上での示唆にはならない。
目の前の現象に一喜一憂していると、先が見えなくなり、自分の見える範囲のことしか興味を示さなくなる。これは、愚か者の生き方なのだ。
もちろん、相手が小さな子供なら、注意をしてし過ぎることはないだろう。しかし、相手が納得できない注意は、所詮「小言」でしかなく、小言で人間は成長しないのだ。
家庭でも些細なことが気になる母親が、小言を言い続ける例があるが、それとよく似ている。
軍隊は、躾にだけ時間を取られているわけにはいかないのだ。そして、その小言が優秀な指揮官になる訓育だとも思われない。そこで、この「五省」があるのだろう。
今でも、企業などでは、この五省を会社の社訓として使用してる例も多いと聞く。
企業もひとつの組織体だ。その組織を維持、発展させるためには、社員一同の進むべき方向性を定める必要がある。そういう意味で、この五つの教訓は、人生を豊かにする上でも効果的だと思う。そして、兵学校生徒というものを知る上で、非常に参考になるはずである。
一 至誠に悖るなかりしか
誠実さや真心、人の道に背くところはなかったか。
「至誠天に通じる」という孟子の言葉があるように、人の真心(誠意)というものは、いつか、きっと天がお認めになるのだという意味に使われるが、海軍将校にとって、至誠こそが、その人格そのものであって欲しい。しかし、残念ながら、日本海軍の多くの不祥事は、この言葉に「悖る」ことが、多かったと思う。それでも戦場に散った多くの海軍将校は、この言葉のとおりに職務を忠実全うし死んでいった。その彼らに罪はない。
あるとすれば、その「至誠」を忘れ、政治や保身に走った軍人たちなのだ。
今、各企業においても、儲け主義だけでいいのかという議論があるようだ。共産党一党独裁国家「中華人民共和国」に深く依存し、中国人同様に儲け主義に入っている企業家は多い。それも、昔からの大企業でさえ、工場の拠点を中国に移し、そこから抜け出せないで喘いでいる。
戦争を始めたロシアは、ロシアから撤退しようとする外国企業に厳しい制限を加えているという報道もある。たとえ、一時の利の為に、体制の異なる国への投資は、相当のリスクも考えておかなければならない。まして、自分のために、国民を巻き添えにすることは許されないのだ。
明治の日本に多くの産業を興した渋沢栄一は、商人道を「論語と算盤」と言った。論語は、もちろん道徳のことである。
「算盤勘定も大事だが、人の道を大切にした商いこそが、発展の道である」
これこそが、「至誠、天に通ず」ではないのか。
二 言行に恥づるなかりしか
発言や行動に、過ちや反省するところはなかったか
先の大戦において、多くの若き指揮官たちは部下を率い、立派に戦った。恐らくは、常日頃から「恥る」行為を戒め、正直に敵と向かい合っていたのだろう。しかし、それでも戦争末期の特攻作戦のように、世界の人々から非難されるような戦法を採り続けたことは、日本海軍の汚点になってしまった。
特攻作戦は、それに参加した多くの将兵に罪はない。寧ろ、その勇気と祖国を守ろうとした気持ちは、世界のだれもが賞賛している。だからこそ、今の日本人にも敬意を払う人がいるのだ。しかし、それを特攻作戦を容認し、この作戦を採り続けた海軍そのものに罪があったと思う。もし、本土決戦が行われ、国民すべてに特攻が命じられたとしたら、たとえ講和が成ったとしても、日本の皇室は国民からの信頼を失い、そこで消滅することになっただろう。
国民が父と仰ぐ天皇自らが、愛する子供に「死」を命じた時点ですべては終わるのだ。ここに国体は消滅し、別の勢力によって造られた「日本」が現れるだけのことだった。
国家として、兵であろうが、国民であろうが、何人にも「死を命ずる」権利はない。
国民の信頼を無くした国家元首の最期は、どこの国のクーデターを見ても憐れなものでしかない。
今のロシアの大統領も、いずれ国民に見捨てられ、無惨な姿を晒すに違いない。権力を過信した指導者の末路は決まっているのだ。
国家元首は、国民の生命と安全を護ってくれる存在だからこそ、神聖な存在として崇め、精神的支柱となり得るのだ。
日本海軍は、特攻作戦を命じた時点で、天皇を裏切り、国民の信頼を裏切り、消え去る運命にあったのだと思う。
戦後、生き残った海軍の高官だった連中が、詭弁を弄し、特攻隊を美化しようと努めたようだが、それを信じる者もなく、彼らの悪評だけが残った。そんなことをするより、表に出ることなく黙って英霊に跪き、懺悔の日々を送るべきなのだ。
ただ、心ある国民は、尊い命を捧げて戦陣に散った散った多くの将兵に手を合わせ、その冥福を祈っている。
五省では、この「言行に恥づるなかりしか」を問うている。それをよく噛み締めてもらいたい。
井上は、自分の後半生を一人静かに暮らす道を選んだ。そして、子供たちに英語を教え、音楽やマナーを教え、教育者となって死んで行った。彼にも、この言葉の意味が分かっていたのだろう。
三 気力に欠くるなかりしか
物事を成し遂げようとする精神力は、十分であったか
海軍の戦場における指揮官の気力と精神力は、国際的にも高い評価を受けた。
圧倒的な勢力の前に、日本の将兵は次々と倒れていったが、それでも、指揮官たちは先頭に立って戦い続けた。戦場での記録には、卑怯未練な振る舞いをした指揮官の記録は少ない。やはり、日本人としての魂が、卑怯な振る舞いを許さなかったのだろう。
作戦としての特攻は、大西瀧治郎中将自身が「統率の外道」と言うように、軍隊としての命令の限界を超えたものだったが、それを実行して敵艦に突っ込んで行った指揮官たちは、鬼神のようだった。それは、実際に特攻攻撃を受けたアメリカ艦艇の多くの乗組員が証言している。
数年前に「永遠の0」という映画が大ヒットした。
作者は、放送作家だった人だが、彼の持ち込んだこの小説は、どの出版社でも編集者から相手にされなかったそうだ。
「今時、こんな戦争小説、だれが読むんですか?」
若い編集者には、戦争は遙か彼方の歴史であり、興味の対象ではなかったのだろう。
それが、小さな出版社が文庫本で出版すると版を重ね、映画化の話まで進んだという。
そして、その映画を見に老若男女が劇場に足を運んだのだ。
プロの編集者がばかにした戦争映画が、人の心を掴み、だれもが素直に涙した。
だが、有名新聞社は、多くの有名作家や評論家を駆使して、この映画を酷評し、この作家を貶めた。だが、そんな論評に騙されるほど、日本人は愚かではなかったのだ。
今の日本人は、戦争を知らなくても、家族の中には戦死した者もいる。空襲で焼け出された者もいる。だれもが、そんな歴史を刻んでいるのだ。
兵学校六十八期の松永市郎中尉は、軽巡洋艦「名取」の沈没時に、六隻の短艇(カッター)を率いて脱出に成功した六十五期の小林英一大尉の指揮振りを絶賛して、「先任将校」という本を書いた。
二十七歳という若い将校が、百九十五人もの部下を率いて、水も食糧も得られないまま、十五日間も撓漕し、無事に味方基地まで辿り着くことに成功した不屈の闘志と精神力は、兵学校教育の賜物だと言っても過言ではない。
批判も多い兵学校の教育ではあるが、軍人としての必要な資質は、間違いなく育てていたと思う。こうした名もない一指揮官が、あの戦争を戦い、その多くは海や空に散っていったのだ。
「気力」とは、抽象的な言葉ではあるが、彼らの真摯な行動を通じて「気力とは何か」を教えられた気がする。
四 努力に憾みなかりしか
目的を達成するために、惜しみなく努力したか。
日本海軍の特長は、その訓練の厳しさにあった。
日露戦争が終わったとき、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、
「百發百中ノ一砲、能ク、百發一中ノ敵砲百門ニ對抗シ得ル」
そして、最後に、
「古人曰ク勝ツテ兜ノ緒ヲ締メヨ」
と訓示したという。
つまり、資源も金もない日本が、世界の列強に対抗していくためには「訓練」しかないのだ。そして、常に有事を想定した「緊張感」を保つように戒めたのだ。しかし、残念ながら、その訓練は「月月火水木金金」の猛訓練で達成できたが、戦力を過信し、戦略を誤ったために、訓練の成果を十分に発揮できないまま、大敗を喫してしまった。そして、肝腎な「緊張感」を無くした海軍首脳部は、そのときの時勢に流されるままに戦争を選択し、勝てる戦までも放棄するかのような作戦に終始したのである。そして、最後には明治の先人たちの遺産を食い潰して日本海軍は消滅した。
米英を敵に回すということは、九十九%の敗戦を覚悟した上で、日本人としての出来得る限りの知略をもって戦わなければならなかったのに、日本海軍は、平時体制のままで戦い、必死になったのは若い将兵ばかりであったことは、残念の極みである。
今更言うことでもないが、その指揮を執った者の責任は、あまりにも大きい。
「努力」という言葉は、今でも日常的に遣われる言葉で、励ましの意味を持つ。
私たちも常に努力し続け、何某かの結果を得ることに喜びを感じ、人生の糧としてきた。
人間は、生涯「努力」をし続ける存在なのだろう。
ここで、日本の技術者の努力を紹介したい。
戦前、日本の航空機産業は陸海軍の支援を受けて、急速にその技術力を高めていった。
有名な海軍の「零式艦上戦闘機」は、三菱が海軍の要請を受けて開発した画期的な戦闘機だった。海軍は、スピード、航続距離、旋回機能、攻撃力のすべてにおいて世界の水準を凌駕するように求めたという。
実際、これまでの「九六式艦上戦闘機」では、航続距離が短く、海軍の中型攻撃機の護衛任務を全うすることができず、中国空軍機に墜とされる件数が増えていたのだ。
中国大陸は奥が深い。そのためには、長距離飛行ができる戦闘機が必要だったのだ。
だが、これまでの技術では到底不可能だと考えた三菱の設計陣は、これまでの常識を覆す方法でそれを可能にして見せた。
それは、第一に機体を軽量ジュラルミンで覆い、接続するための「鋲」も頭の出ない「枕頭鋲」にして、機体表面を極限まで滑らかに仕上げたのだ。これにより、空気抵抗は減り速度は向上した。それでも目標の時速五百㎞を達成するために、内部構造の強度を保つための最低限度の金属は残し、他は丸い穴を開けて重量を減らす努力までしたのだ。そして、
約一千馬力の高性能エンジンを積むことで、世界一の戦闘機を完成させたという。
ところが、戦争が始まると、その技術が仇になるときがやってきた。それが、ガダルカナル島の航空戦であり、人命軽視の機体構造だった。
確かに、長距離を飛行できるということは戦闘機にとっては有利だったに違いない。しかし、それを操縦する搭乗員の肉体への負担は大きく、次々と登場してくるアメリカ軍の戦闘機に墜とされていったのだ。また、速度と航続距離を優先したために、機体と搭乗員を守る防弾設備が施せず、敵弾が機体に当たれば、燃料を吹き出し、そのまま墜落していったのである。
三菱の技術者たちは、おそらく、こういう事態になることを予測していたと思う。それは、設計者にとって一番辛いことなのだ。
戦後、GHQの命令によって、日本の航空機産業自体が解散させられ、日本の空を日本の飛行機が飛ぶことはできなくなった。それでも、技術者たちは、鉄道や自動車に未来を託し、それぞれ別の産業で力を発揮したという。
今も活躍している新幹線や高性能自動車の多くは、彼ら航空機技術者が設計したものである。
「努力」は、時には実を結ばないかも知れない。しかし、諦めてしまえば、そこですべてが終わる。それでも挫けず、頑張り続けることが未来を切り開いていくのだ。
五 不精に亘るなかりしか
怠けたり、面倒くさがったりしたことはなかったか
軍艦や飛行機は、当時の科学の粋を集めた精密機械である。精密機械を扱うには、高度な知識と技術が必要になる。海軍兵学校では、数学や物理、化学などの座学が多く、文系の人間は相当に苦労したと聞いたことがある。
海軍将校の出世コースは、航海科や砲術科などが主流で、飛行機や潜水艦は傍流といわれた。それは、海軍が戦艦部隊による艦隊決戦思想から脱却できなかったために、多額の予算は、軍艦の製造に回されていたからなのだ。
生徒たちは、将来の艦長を目指して兵学校に入校したといっても間違いではない。
さて、日本海軍は、新しい兵器を造るのが得意で、調べて見るととんでもない数の兵器が誕生している。
巨大戦艦は、大和や武蔵野他に空母に改修した信濃という艦があった。ただし、この信濃は試験航海中にアメリカの潜水艦の魚雷攻撃で撃沈されてしまった。まったく活躍もしないまま、乗組員の不手際で沈んだと言っても仕方のない最期だった。
特に航空機は、次々と新兵器を誕生させた。
たとえば、零戦の後継機になった紫電改。局地戦闘機雷電。攻撃機彗星、流星改、銀河。
偵察機彩雲など、僅か数年の間に次々と新しい機体が誕生したが、既に日本にはB二九による本土空襲が行われ、その生産数はどれも十分とはいえなかった。
唯一、零戦だけが改良を加えられ、最後まで使われる機体となった。しかし、これだけ多くの軍艦や航空機を製造すると、それに伴う整備兵が必要なのだが、あまりに多岐に渡るため、その技術の習得は大変だったらしい。
その点、アメリカ軍は同一部品を大量に造って同じ型の軍艦や潜水艦、そして航空機を製造している。特に飛行機はどれも二千馬力級の強力エンジンを備えていたために、零戦のような軽量化を図る面倒もなく、熟練工でなくても製造できるシステムを作り上げ、兵器を大量に戦場に送り出していた。
本当は、日本軍こそが、そういった簡略化を図るべきだったのだが、軍からの要望が細かいために、どれも大量生産に不向きで、使用される部品も多かった。これでは、いざというときに数を揃えられず、各部隊の取り合いが起きたそうだ。
どうも、日本人は大局的に見ることが苦手で、細かなことに拘るために、結果、後手に回ることが多く、失敗を繰り返したのだろう。
それに、どんなに優れた新兵器を開発したところで、それを操る人間が、その性能を最大限に発揮させられなければ、無用の長物と化すのは当然だった。
日本海軍の兵士が「不精」だったとは言わないが、その兵器の性能を生かす努力を怠った事実は見逃せない。
たとえば、日本海軍の潜水艦は、当時でも世界最高水準にあった。ただし、海軍は、その兵器の使い方がよくわかっていなかったのだ。いや、現場の指揮官たちは、十分に理解していたが、軍令部や連合艦隊司令部が、使い方を間違えていたのだ。
潜水艦は、精密機械の塊である。海上戦闘艦と違って、見栄えはそれほどよくないが、その隠密性と攻撃力は侮れない。それに建造が難しく費用もかかる代物だった。それでも、
海軍は研究を重ねて、世界最高水準の潜水艦の開発に成功していた。しかし、これも日進月歩で、ドイツ海軍の最新型のUボートに比べれば、その性能においてはかなりの遅れを取っていたようだ。だが、問題は潜水艦の運用にあった。
真珠湾攻撃時にも、この優秀な潜水艦を偵察任務と特殊潜航艇の運搬任務に使っている。 あの時点で、特殊潜航艇のような「小型潜水艇」が実戦に使える可能性は著しく低かった。役に立たないのであれば、そんな部門は閉鎖し、優秀な兵隊を別の部隊に任用替えをすればよかったのだが、そういう判断をするのが遅い。
真珠湾攻撃も、特殊潜航艇による攻撃は失敗に終わっているのに、「戦艦アリゾナ撃沈」などという誇大広告を出して、恰も成功したかのように見せかけた。そのために、アリゾナに魚雷を叩き込んだ飛行隊は、面目を失ったのだ。
実際、多くの搭乗員が見てきた戦果を、別なものに付け替えていいのだろうか。彼らに「至誠」という言葉はあるのだろうか。本当にご都合主義の軍人がいたものだと感心する。 まして、戦死した特殊潜航艇の搭乗員を国威発揚のための宣伝に使おうという卑しい心根は、天皇の尤も嫌うところだが、それすらも気づかないのだ。
それも、「九軍神」などと英雄に仕立て、死んだ後もその名誉を冒涜した罪は重い。
たった一人、意識不明のままアメリカ軍の捕虜となった酒巻少尉は、軍神から除外され、戦争中はずっと不名誉な扱いを受け続けたという。
本来、潜水艦は、偵察任務や運搬業務などではなく、「通商破壊戦」に用いるべきだったのだ。
アメリカでもドイツでも、潜水艦は、単艦で隠密裏に行動し、主に警戒の薄い敵の輸送船団を捕捉して魚雷攻撃することを任務としていた。
日本は、この「通商破壊任務」を軽視し、輸送船攻撃命令を積極的には出さなかったのだ。それは、輸送船を沈めても、海軍軍人としての考課表には、さして影響しないからである。
海軍では、第一に戦艦若しくは航空母艦、次いで巡洋艦というように、戦闘艦の攻撃を趣致して考えており、輸送船のような船は、海軍の任務ではないと考えている節があった。
ここが、日本以外の国の思想とまったく違う点である。
日本海軍では、潜水艦は飽くまで戦艦部隊の補助兵器でしかなく、艦隊に付属するような形でしか運用を考えていなかった。
この物資の輸送を止めることができれば、戦争に勝てるチャンスも生まれたはずなのに、従来の作戦と己の面子に拘る上層部は、潜水艦作戦のあり方を変えようとはしなかった。
そして、敗戦間際になって、やっと通商破壊に潜水艦を向かわせた時には、敵は既に優秀な装備を施しており、日本の潜水艦が優勢を保つことはできなくなっていた。
もし、これが開戦直後から通商破壊戦を行っていれば、おそらく、一年もあれば連合国軍の輸送ルートは破壊され、日本にも勝機が生まれたはずだった。それを「艦隊決戦」だけを夢見ていた海軍は、潜水艦を効果的に運用できないまま、敗戦を迎えることになった。
さらに、日本海軍は、自国の輸送船の護衛任務に軍艦を出すことも惜しみ、そのために、民間から借り上げた貨物船は次々とアメリカ潜水艦の餌食となった。そして、本来、戦場に届くはずの兵器や食糧、兵員が太平洋の海底に沈んだのだった。
「艦隊決戦思想」は、大正時代までであれば、可能だったかも知れない。しかし、航空機が発達した昭和の時代は、如何にも時代遅れでしかなかったのだ。
海軍には、海軍大学校や軍令部があり、作戦を練っていたにも拘わらず、その時代遅れの思想に拘り続けたために、一流の海軍だと思っていた海軍が、既に二流になっていたことに気づけなかった。そもそも、真珠湾を航空機で攻撃した時点で、艦隊決戦は起きることはないと知るべきだった。
日本人は、ペーパーテストで高い得点を採る人間を優秀と見るが、そのテストのレベルが低いければ、当然、高い得点に意味はない。だが、それに気づかない組織にいると、自分たちの論理が常に正解だと信じることができるのだろう。
国際社会から孤立するということは、こういう結果を生むのだ。おそらく、アメリカ海軍の海軍兵学校あたりでは、日本の潜水艦作戦の愚かな失敗を教材化し、自分たちの戒めとしているに違いない。
もし、日本の潜水艦が開戦当初に、太平洋からインド洋にかけて、縦横無尽に動き回っていたら、もっと多くの敵輸送船を撃沈させ、敵の交通路を破壊し、多くの作戦を優位に運ぶことができたであろう。
こうした自由行動を制限し「回天」などの未完成な特攻兵器を運搬するだけの任務に終始すれば、見かけは勇壮でも、多くの犠牲を強いるだけの結果になることは明らかだった。
実際に命令で戦った将兵は、よくぞ戦ったと賞賛されるべきだ。しかし、日本海軍の作戦はあまりにもお粗末。これを以て「不精」と言うのだろう。
因みに、この「五省」は、毎晩、自習時間終了五分前になると、ラッパの合図で自習時間が終わり、机上を整理すると瞑目静座し、当番生徒が五省を発唱するというものだったそうだ。
慌ただしい一日が終わり、この「五省」を瞑目して声に出し、暗唱することで、
「ああ、やっと、今日も一日が終わったな…」
という感慨に耽ったことだろう。
兵学校の中での、一服の清涼剤のような役割を果たしていたような気がする。
元兵学校生徒だった人たちは、この教訓を忘れず、その後も団結を保ったという。そして、亡くなるまで、戦死した同期生の遺族を見舞いその霊を慰め続けたということだ。
第二節 「自学自習」に就いて
教育ハ、習ヒタル事ヲ自己ニテ考ヘ、思案シテ初メテ自己ノモノトナル。自学トハ、習ハズシテ、初メヨリ思案ニヨリテ習得スルナリ。
故ニ学習ハ、自学ヲ最良トス。
然レドモ、絶対的自学ニハ、左ノ如キ危険アリ。
㈠ 誤解ヲ正解ト思ヒ込ムコト
㈡ 自己ノ解ノ拙劣ナル場合、一層気ノ利イタル解法アルモ、之ヲ知ルニ由ナシ
㈢ 自己ニテ全解ト思ヒ込ミ居ルコトモ、突込ンデ問ハルルトキハ、生半解ノコトアリ
此故ニ自学ニモ「締メククリ」ヲ必要トス。
教官ノ必要ナル所以ナリ。
大正時代の自由教育の影響を受け、兵学校でも「詰め込み教育」から生徒の自主性を重んじる「自学教育」へと方針が転換されていった。それは、兵学校の生徒の学力ならば、実現不可能な実験ではなかっただろう。
逆に、兵学校で成功していたら、戦後の日本の教育モデルになっていたかも知れない。
多くの生徒は、各中学校のトップクラスであり、旧制高等学校や帝国大学への進学も夢ではない生徒たちなのだ。そして、学力の他にも運動に秀でた者も多く、そのほとんどが健康優良児だった。そんな生徒たちだからこそ、当時の校長の永野修身中将は、ドルトン・プランを導入する気持ちにもなったのだろう。その永野自身も頭脳明晰で、従来の詰め込み式の教育では、将来が危ういと感じていたのだと思う。
ドルトン・プランについて調べて見ると、
「一種の個人別学習指導の方法で、主要教科(数学、歴史、理科、国語、地理、外国語)について、生徒の能力、個性に応じた学習進度計画が作られ、生徒は、各自思い思いの計画に従って、それぞれの科目の研究室で自学自習を行う。各研究室には、それぞれの担当教師がいて、生徒の相談に応じる」
ものだそうだ。
日本でも、大正デモクラシーを反映し、大正十二年頃より、東京の成城小学校を初めとして、自由教育の波は全国に広がって行ったが、徹底した個別学習であるため、その設備の問題や生徒の定数の問題などが取り沙汰され、さらには、昭和初期の世界恐慌と相まって、自由教育が日本に根付くことはなかった。しかし、兵学校は正式には軍隊であり、その点、かなり自由に発想できるメリットがあった。
兵学校は、「海軍将校」になることが約束されていただけに、その学習方法は、経営者によって如何様にも裁量できたのだ。それに、多くの部下を率いる指揮官が、臨機応変に対応できなければ、戦の指揮は務まらないという現実的な問題もあった。
軍隊だからこそ、画一的な教育より、「自分で思考する」教育が求められたのは、当然だった。
日本の自由教育は、戦時色が濃くなるに連れて廃れていったが、兵学校にだけは、「自学自習」や「自啓自発」といった自学主義が残されたのは、「軍隊の指揮官を養成する」といった国の要請に基づくものであることから、終戦のその日まで、自由な雰囲気のある教育は継続されたのである。
当時の兵学校には、こんな唄が残されている。
海軍兵学校の机を叩きゃ
自啓自発の音がする
自啓自発はどこから流行る
江田島健児の胸の中
このドルトン・プランの教育は、永野中将の校長退任とともに終わりを迎えたが、自啓自発や自学主義の考え方は、その後も継続されていったのは幸いだった。
井上自身も、自学主義の効果は認めながらも、その「危険性」を指摘することで、趣旨は生かしたいと考えていたのだろう。
戦後、海軍兵学校出身者が復員すると、それぞれが自立の道を模索した。
当時としては珍しく、しっかりと教育を受けてきた人たちである。
民間にいた者たちよりも勉強する自由は多く与えられ、戦時下とはいえども、海軍将校になるための訓練に手抜きはなかった。
終戦間際には、江田島も空襲を受け生徒が亡くなるという痛ましい事件も起きたが、それでも、軍用基地ではない江田島が襲われることは少なかった。
生徒たちが「娑婆」と呼ぶ一般中学校では、勤労動員が始まり、生徒たちの学業より兵器の生産が中心となった。そのために、多くの軍需工場は空襲を受け、動員されていた中学生が亡くなっているのだ。また、本土決戦の前哨戦となった沖縄では、中学生や女学生は軍に動員され、鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊などで軍とともに戦い、多くの犠牲者を出している。そういう意味で、兵学校に入校した生徒たちは、日本で一番恵まれた環境の中で、勉強や訓練が行われていたのだ。
戦後、井上が言っていたとおりの時代を迎えることになった。
郷里に戻った生徒たちは、それぞれの道を進むことになったが、大学に入り直す者も多く、卒業すると、海軍時代の経験を生かし、各界で活躍することになったのである。
経済界、教育界、医学、政治などにも多くの人材を送り込み、日本復興の大きな戦力になっていったのである。
尚、自学実施ノ為ニハ
㈠ 教科書ヲ自学用ニ、適当ナルヤウ編纂スルノ要アリ
㈡ 非常ニ多数ノ教材ヲ必要トス
㈢ 生徒ニ非常ニ多クノ時間ヲ与フルノ要アリ
従ツテ、絶対的自学ハ、本校ニ於テハ実施不可能ナリ。然レドモ、自学ノ利ハ、厳然トシテ存ス。故ニ、各教官ハ、ナシ得ル限リ生徒ニ自学セシムルヤウ計画シ、実施スルヲ希望ス。
自習ノ量(時間的)ハ、生徒ノ能力ニ因リテ同ジカラズ、優者ト劣者トニ其ノ相違アルハ当然ナリ。又、生徒ノ個人的性能ノ差異ニ依リ、各課目ニ割当ツル自習ノ量モ、各人同ジカラザルハ、当然ナリ。
従ツテ、自習ノ内容ハ生徒各自ノ選定ニ委スノ要アリ。是レ講堂ニ於ケル自学ヲ不可トスル理由ナリ。故ニ生徒ノ日課ノ案配ハ、課業時間ヲ成ルベク減ジ、自由時間ヲ成ルベク多ク生徒ニ与フルノ必要アリ。
井上は、この「自学」中心の「自啓自発」を重んじた教育を推奨している。
昭和初期ならいざ知らず、井上が兵学校長でいたのは、昭和十七年十月から昭和十九年八月までの約二年間でしかない。この頃、戦争は益々激化し、前線の下級指揮官がバタバタと戦死していった時代なのだ。
兵学校の教官に赴任してくる海軍将校たちも、戦陣を潜り抜け、多くの戦友を亡くした中で着任していた。
当然、苛烈な戦場を体験した者にとって、前線の指揮官養成は急務であった。
兵学校の生徒を即戦力にする使命を帯びていたと言っても過言ではない。そんな中で、肝腎の校長が、昭和初期に失敗した「自学」や「自啓自発」を唱えていることは、忌々しくて仕方がなかっただろう。それに、井上には、珊瑚海海戦を失敗した弱将の評判もあり、実際井上に会うまでは、心の中で軽蔑していた教官もいたはずなのだ。
若い教官たちにとって、すぐに戦場で役立つ人間が欲しいのであって、井上のいう「海軍将校は、紳士たれ」など必要なかったのかも知れない。当時は、「非常時」を叫ぶことが奨励された時代であり、余所から見れば兵学校の教育など言語道断。「非常時を何と心得る!」といった叱責が聞こえてくるようだ。
当然、井上は、これらの教官たちと悉く対立をすることになる。そして、命令に従えない教官は、再度、異動を命じたのだった。もう、既に、井上と教官たちとでは、見ている世界が違っていたのだ。
教官たちは、戦争に勝ちたい一心で、生徒を一日も早く戦場に送り出すために鍛えたいと熱望し、井上は、戦後の復興を見据えていたとなれば、話が噛み合うはずもなかった。
当時として、そのどちらが正しかったのかと問われれば、正直、難しい問題である。
ただ、冷静に分析すれば、井上の考えが正論であることは分かる。しかし、今、戦場で多くの仲間が戦い、死んでいることを思えば、教官たちを責めるのも酷ではないか。
井上は、敗戦を見据え、戦後の日本の復興のために、兵学校で学んだ生徒たちを生かしたいと考えていたからこそ、「自学」も「自啓自発」も「外国語」も必須だったのだ。
この井上の変わらぬ信念によって、兵学校の教育は、戦後に生かされることになった。
もし、井上が教官たちが言うような教育に終始していたとしたら、敗戦後、彼らは進べき道を見失い、路頭に彷徨うことになったかも知れない。
戦時下でありながら、普通学をしっかり学び、英語を学び、紳士たる教育も身につけたお陰で、彼らは、道を誤ることがなかった。
敗戦直後、己の進むべき道を見失い、自決して果てた若者も多かったそうだ。その中には、家族を道連れにした者もいる。
もちろん、彼らの悔しい気持ちは分かるし、絶望感に苛まれるのも当然だろう。だが、同じ死でも、敵と戦って死ぬのと自殺とでは、まったく意味が違うのだ。
終戦になるまで、井上が戦後のことを語っていたとは到底思えない。しかし、冷静に分析のできる井上だからこそ、米内海軍大臣の要請に応じて、海軍次官に就任したのだ。そして、「終戦」に向けて井上自身が積極的に動き出したことは間違いない。
とにかく、井上は海軍兵学校長としての責任を全うし、未来の海軍将校養成という使命を放棄することはなかった。たとえ、卒業したらすぐに最前線に送られ、戦死する確率の高い生徒たちではあるが、それでも、兵学校にいる間は、しっかり勉強をさせたいという井上の熱い思いも分かる。
やはり、井上は海軍軍人である前に教育者であった。教育を司る者は、常に聖職者であろうとする。現実がどうあろうと、聖職者は、教え子に正しい人の道を教え、導くのが使命なのだ。「戦場で死ね」と教えることは、教育への冒涜とも言える。井上は、どんなに厳しい訓練を課したとしても、「死ぬための教育」だけはできなかった。そういう意味で、井上は真の軍人にはなりきれなかったのかも知れない。
自啓自発ハ、最良ノ学習法ナリ
学術訓練ニ臨ムニ際シテハ、「教ヘラルルガ故ニ学ビ、命ゼラルルガ故ニ為ス」ノ消極的態度ヲ執ルコトナク、須ク常ニ、「学バント欲スルガ故ニ教ヲ乞フ」ノ積極的態度ヲ以テ、終始一貫、敢為進取、学習ニ精励スベシ
サレバ、断ジテ自己ノ好悪ニ因リテ勤怠ノ差ヲ生ゼシムルガ如キコトアルベカラズ
而シテ学習ハ、徹底ヲ期シ、遂ニ活用自在、達人ノ域ニ達スルヲ要ス
知ルハ習フノ第一歩ナリト雖モ、タダ単ニ知ルヲ以テ事足レリト為スガ如キハ、剣法ヲ心得ズシテ銘刀ヲ帯ブルニ等シキモノナルコトヲ悟ルベシ
確かに、井上が言うように、この「自啓自発」の教育が全国の学校に採り入れられれば、日本の教育そのものが変わったことだろう。そうなれば、いわゆる「秀才」の考え方も自ずと変わることになったはずである。
明治以降、現代まで、「ペーパー試験による登用」が当たり前に行われてきたが、「自学」が主となる教育が行われれば、たとえ試験があったとしても、それは「記憶の再生」ではなく、「思考の深さ」が、評価の基準になるはずなのだ。そうなれば、学校教育そのものが変わったと思う。しかし、残念ながら、戦後の教育改革においても、それは実現されなかった。
GHQの教育改革においても、日本の教育方法の弱点を洗い出し、従来方式が日本には適した方法だと考えたのかも知れない。アメリカが進めている方法を日本が採り入れれば、日本人の能力を以てすれば、アメリカをすぐにでも超えてしまう危険性を感じていたのかも知れない。そのための「六・三・三制」の学校体系だったとしたら、頷けるものもある。
日本の近代化は、産業面での近代化には成功したが、教育の近代化には失敗したと断言してもいい。なぜなら、何度も言うようだが、現在まで日本で実施している「試験制度」は、中国の「科挙」の制度から脱却できていないからだ。
科挙は、記憶力再生の試験である。要するに、この記憶力がずば抜けた人間が秀才であり、創造力や思考力などは、あまり計れない仕組みだからである。
確かに、記憶力が大切な力であることはわかる。過去に起きた事例を覚えていれば、それを基礎として新しいものを生み出すこともできるし、何かを模倣するにも、記憶の再生がスムーズにできれば、上手に真似ることもできるだろう。日本が戦後の高度経済成長を成し遂げられたのも、この「真似をする力」が高かったとする意見も多い。しかし、そこから新しい発想で新発見や画期的な発明ができるかといえば、それは難しいだろう。
もちろん、「天才」と呼ばれる人は必ず現れる。しかし、その出現率は限りなく低く、発想力を持つ、創造性豊かな人間が表舞台に出てくるには、社会全体がそれを承認する空気が必要なのだ。
ところが、日本は、こういう人を「変わった人」とか、「不思議な人」などと敬遠する傾向にある。学校においても、みんなが同じ制服を着用し、好き嫌いなく同じ給食を食べ、同じように生活する「同質性」を重んじ、それに沿わない人間は仲間として認められないのだ。大人になっても、常に「安定」志向が強く、公務員人気が途絶えないのは、特に目立つような業績を上げなくても、生涯、安定した生活が送れると考えるからである。
それでも、やはり天才的人間は現れる。
明治以降の陸海軍でいえば、この天才に連なる人物は、陸軍の石原莞爾、海軍の秋山真之くらいなものだろう。しかし、石原は陸軍部内から疎まれ、開戦時には東條英機と対立して予備役に回されていた。秋山は、日本海海戦後はその輝きを取り戻すことはできなかったという。
山本五十六は、そんな天才参謀を黒島亀人大佐に求めたが、彼は一種の奇人変人で、天才ではない。奇抜なことを言い出したり、自室に籠もって風呂も入らずに作戦を考えたりと、変人には違いないが、黒島が関与して成功した作戦は何もなかった。要するに、山本には、人を見抜く力など最初からなかったのだ。
山本が選んだ参謀たちも平凡な男たちで、山本が戦死したときも、機上戦死したことにするために、策を弄していい加減な死体検案書を書かせたために、真相が分からなくなってしまった。こういう知恵は回るのに、山本の視察ひとつ止められない危機管理の弱さは、参謀としてどうなのだろうか。
もし、兵学校が先の「自啓自発」教育を充実させ、入校試験でその才能豊かな人間を発掘することができたら、もっとすごい閃きを持った天才が見つかったかも知れない。
海軍は「手相見」を飛行機の搭乗員の適性を見るために使ったと言われているが、そんな非科学的な方法を用いるくらいなら、もっと科学的な方法があったように思う。
それに、井上が、「自学」や「自啓自発」の教育に惹かれたのは、海軍という組織の閉塞感を感じていたからに違いないのだ。
井上が見た部下の海軍将校は、どこを切っても同じ種類の人間に見え、個性を感じられなかったに違いない。同種の人間は、作戦を考えても同じような考えに行き着き、敵を欺くこともできない。
アメリカ軍は、日本人の生活習慣や癖、ものの考え方などを専門的に分析し、次にどういう作戦を用いるのか、かなりの確率で予想できていたという。そこに、予定通りに日本軍が現れたとしたら、まさに「飛んで火に入る夏の虫」であろう。
日本海軍の将校は、「ハンモック・ナンバー」が幅を利かせ、戦争に勝つための最善の策を練ることよりも、海軍内の人間の和を優先させ、内部から不満が出ないようにすることに気を配った組織だったのだ。
「村社会」という言葉があるが、小さな集落では、新しいことに挑戦しようとする若者は嫌われる。村は運命共同体なのだ。昔からの伝統だけを守り、それで村がなくなろうと、運命共同体だから、それはそれで構わないという変な拘りがあった。
豊作になればみんなで祝い、飢饉に襲われれば、みんなで嘆き悲しむ。村社会とはそういうものなのだ。
実は、海軍という組織も、日本型の「村社会」だった。
海軍以外の一般社会を「娑婆」と呼んで、自分たちの住む世界とは違うと自分で決めつけているところに、特権意識が見える。だから、その娑婆から来た新兵や予備士官を差別し、「娑婆っ気を抜いてやる!」と、理不尽に殴りつけたのだろう。
そうした村社会では、秩序が乱れることを極端に嫌い、よそ者を排除することで、自分と自分の仲間を守ろうとするものなのだろう。
だから、新しい制度ができて、同じ兵隊が、年数も経たないのに、トントン拍子に出世していくことが許せないのだ。
予科練や予備学生などは、その典型だろう。
予科練も最初のころは、そんなに問題にはならなかったが、甲種、乙種、丙種に分けられると忽ち騒動が起こった。それは、「甲種」予科練である。
この制度は、これまでの予科練に中学校卒業程度の者を採用し、早急に下級指揮官を養成しようとするねらいがあった。そのために、短い期間で海軍の下士官になり、特務士官になっていった。
同じ年代でも、方や甲種の練習生に階級を追い越されるのだ。そのため、乙種予科練だけでなく、他の兵種の兵隊からも睨まれたそうだ。
平和な時代では、そうした秩序が和を乱さない方法だったのだろうが、国の存亡を賭けた大戦争である以上、そんな悠長なことは言ってられないのだが、人間というものは、つまらないことに拘る者なのだ。
その点、アメリカ海軍は合理的である。
海軍の将官は、平時は「少将」が最高位で、中将以上は、その職にある間のみ与える臨時の階級なのだそうだ。だから、海軍大将とは、アメリカ太平洋艦隊の司令長官などの職に就いた者に与えられる階級で、その職を退けば、元の少将に戻るといわれている。
これならば、適材適所に有能な者を配置できる。
井上が指摘しているように、「教ヘラルルガ故ニ学ビ、命ゼラルルガ故ニ為ス」という態度に終始する習性のある日本人だから、自ら改革に乗り出すこともできず、体制の命じるままに行動していたのだと思う。これが、村社会では一番穏当な生き方なのだから仕方がない。
もし、日本海軍がアメリカ海軍流の制度を採っていたら、真珠湾攻撃も南雲中将ではなく、航空戦に詳しい、山口多聞少将や小沢治三郎少将が任命されるはずだった。
戦争が始まっているというのに、年功序列で最高指揮官を決めるなど、アメリカ軍では考えられなかっただろう。それに、「右翼から狙われる」などという些末な理由で、山本五十六を連合艦隊司令長官に異動させたが、軍令部の作戦に異を唱えた時点で、予備役とするか、余所に異動させればすむだけの話なのだ。しかし、海軍次官まで務めた大物を簡単に異動させることもできないとしたら、日本海軍は人事もできない組織ということになる。
これも空想だが、適材適所で井上という人間を見ると、やはり、海軍省で軍政を担当させるのが一番適任だったように思う。
平時なら、戦艦の艦長や艦隊の司令長官もいいだろう。しかし、国の存亡を賭けた戦争となれば、海軍省に戻し、軍政面で戦争を勝利に導くために働いて貰いたかった。
兵学校が、永野修身時代の教育を継承し、生徒に、自学自習や自啓自発の精神を学ばせ、柔軟な発想力を身に付けさせて送り出していれば、開戦当時、優秀な参謀として各方面で活躍したことだろう。そして、戦争に負けたとしても、その戦いは後世の歴史家が納得するだけの戦いをしてくれたと思う。
井上の思惑通り、自啓自発の精神を学んだ元生徒たちは、戦後、あらゆる分野で活躍した。それは、井上の心からの願いでもあったのだ。
第三節 「生徒の生活」に就いて
「生活ハ愉快ニ」之ハ、本職ノ方針ナリ
生徒ノ生活ヲ愉快ナラシムル為ニハ、
㈠ 生徒ヲシテ、精神、身体ノ両方面ニ、今少シ「ユトリ」ヲ与フルコト
㈡ 日課行事ニ変化ヲ与フルコト
㈢ 学暦ニ変化ヲ与フルコト
ノ必要ヲ感ズ
生活ハ、訓育トモ密接ノ関係アリ
生徒ノ生活ニ余裕ヲ有セシメザル時ハ、
㈠ 心ノ潤ヒ
㈡ 寛容ナル気持
㈢ 進ンデ事ヲ為サントスル気持
㈣ 他人ノ立場ヲ尊重スル気持
㈤ 他人ニ親切ヲ尽ス気持
㈥ 他人ニ同情スル気持
ヲ失ヒ、動モスレバ、自己ノ事ノミニ追ハレ、我利ニ走ラシム危険アリ
本職ガ生徒ヲシテ、一日一度ニテモ、ヨロシキ故、心ノ底ヨリ笑フ機会ヲ作ラシムベシ、トイフハ其ノ意味ナリ
「真面目ナル生活トハ、笑ナキ生活ナリ」ト思フハ、誤リナリ
井上は、兵学校長として着任した昭和十七年十月当時、兵学校生徒の顔が、皆、厳しく余裕のなさが見て取れたという。
六月のミッドウェイ海戦で敗北した日本海軍は、機動部隊の再建に躍起になっていた頃のことだ。初戦の戦果はともかく、兵学校に入ってくる情報は、教官や生徒たちの危機感を募らせていたことは間違いない。
開戦以来、相次ぐ先輩たちの戦死の報は、否が応にも一号生徒の下級生に対する指導を厳しくし、井上には、余裕がないように見えたのだろう。
因みに、井上が校長として、最初の卒業生が七十一期である。
この期は、五百八十一名が卒業し、三百二十九名が戦死している。戦死率は、五十六%を超えた。次の七十二期も、六百二十五名が卒業し、三百三十五名が戦死。戦死率は五十三%を超えた。
このように見ると、卒業生の二人に一人は、卒業間もなく戦死していることになる。
軍隊と見れば、当然なのかも知れないが、学校と見れば異常でしかない。まさに、兵学校は、海軍将校の墓場と化していたのである。
そんな中で、生徒に「ゆとり」を持たせたいと考えていた井上に対して、教官や一号生徒が反発したことはよくわかる。しかし、その一号生徒から厳しく指導されたはずの七十三期になると、校長としての井上を慕う声は大きいのが特徴である。
戦後、彼ら七十三期が主体になって「井上成美伝」を刊行していることからも、教官や一号生徒に対して毅然とした態度で方針を貫いた校長に、一種の尊敬の念を抱いたのだろう。そして、戦死率三十一%を超えながらも、井上を恨む声はなかった。
この七十三期は、兵学校卒業と同時に、戦争末期の戦場に投入された最若年の海軍将校たちだった。
戦艦大和が沖縄に向けて海上特攻をかける際、七十四期の少尉候補生たちは、未だ若年という理由で艦を下ろされたが、一年上の七十三期は少尉に任官していたこともあり、そのまま、苛烈な戦場で若い命を散らせたのである。
飛行学生に進んだ人たちも、僅かな飛行訓練で実戦に投入され、やはり特攻隊の指揮官になった者も多くいる。中には、海中特攻隊である「回天」の搭乗員になった者もおり、七十三期は、十分な経験を積まないまま部下を率いて戦場に出て行ったのだ。
おそらく、年齢は二十歳を少し過ぎたばかりの青年だったはずだ。今の同年代と比べても仕方がないが、平和な時代であれば、青春を謳歌して、人並みに恋をし家庭も持ったことだろう。それでも、自分の持てる力を発揮して堂々と戦い抜いた精神は立派なものである。
海軍将校として、恵まれた時代を経験することなく、多くの部下の前で勇気をふるい真っ先に死んで行く運命を甘受できたのは、どうしてなのだろうか。それが、運命に殉ずる生き方なのかも知れないが、やはり、兵学校時代に味わった人間らしい教育に触れ、納得して死を受け入れたのかも知れないと考えるときがある。
戦後、隠棲した井上成美を人一倍気にかけ、その最期まで看取った七十三期生徒こそが、井上の唯一の「教え子」だったような気がする。
それにしても兵学校の校長自らが、「笑う」ことを奨励するというのも、面白い。
今に残る井上の写真は、ほとんど口を真一文字に結び、笑顔の写真はない。
当時の海軍では、口元を緩めただけで、「何をニタニタしておるか!」と上官や一号生徒から鉄拳を受けることは間違いない。だれもが、口を一文字に引き締め、眼を釣り上げてミスを咎められないように、体を強ばらせていたのだと思う。もし、井上が言うように、一日の生活のうちに一度でも「笑い」があれば、空気も和み、さらに効果的な指導ができただろうと思うが、そんな余裕があっただろうか。
ただし、海軍では消灯ラッパが鳴ると、「酒保開け」とか、「煙草盆出せ」などという放送が入り、休憩時間になった。
今の海上自衛隊では、艦内での飲酒は禁止されているようだが、当時の軍艦では、この休憩時間は飲酒も許されるのだ。海軍の飲み会はなかなか豪快で、普段口も利けない分隊長や艦長が兵員室に入ってくると、一緒になって大騒ぎをしたという記述もあるので、何でもかんでも厳しかったということでもない。
兵学校では、未成年の者も多く、飲酒する者はいなかったが、休憩時間には、銘々で寛ぎ、みんなで談笑したという話もある。また、短艇を借りて、分隊毎に「巡航」と言って、艇に帆を立てて、瀬戸内を自由に航行する訓練を行ったときなどは、食堂から食糧品を積み込み、楽しいひとときを過ごしたようだ。
海軍だからといって、すべてが厳しいわけではなかったが、けじめだけは意識しておかないと、猛烈に修正されたようだ。
今の会社の上司の中には、「部下と仲良くしたい」と、普段から友だち言葉で会話するような人がいるが、それで部下から信頼されるわけではない。「親しき仲にも礼儀あり」は、当然なのだ。
親子関係でも、似たようなことはあるようだが、親として子に厳しく接しなければならない時はあり、やはり、「けじめ」のある付き合い方をしたいものだ。
それに、「笑い」を「不真面目だ」と誹る人もいるが、緊張した心では、納得した仕事は出来ないのは当然である。
心に余裕があるからこそ笑みがこぼれ、そこがたとえ戦場であろうと、最期の瞬間に笑顔を見せて、敵陣に突っ込んでいった指揮官がいたとしたら、だれもが「この隊長と一緒でよかった」と心から思えるのではないだろうか。
尚、訓育上、余リニ「ベカラズ」ノ一方的注入ニ傾クコトハ、将来、大木トシテ生長スベキ生徒ヲ盆栽ニスル懼レアリ
常ニ注意シテ、円満ニシテ豊カナル人間味ノアル生徒ニ育テ度キ念願ヲ有ス
鍛フベキ時ニハ、アクマデ鍛フベシ
然シ、温味ノ無キ「枯木寄寒厳」的人格ヲ作リ度クナシ
是レ生活問題ヲ特ニ取リ上グル所以ナリ
「円満ニシテ豊カナル人間味ノアル生徒」
教育の求める姿は、即戦力になる人間造りではなく、井上のこの言葉に集約されると思う。井上は、「将来、大木に生長すべき生徒を盆栽にするな!」と苦言を呈しているが、戦時中ばかりでなく、平和な時代においても、大木に生長すべき教育を行っているのだろうかという疑問が残る。
盆栽は、確かに見栄えはいい。しかし、それは、近視眼的に見るからこそ、立派で美しいが、俯瞰して見れば、何百年も命脈を保った大木にはその風格も威厳も敵うものではないのだ。
床の間に飾る置物なら盆栽だろうが、社会の荒波に漕ぎ出す若者が、盆栽でいいはずがない。
井上は、戦争中の指導者でありながら、日本と生徒の将来を見据えていた。そして、
「鍛えるべき時には、徹底的に鍛えろ!」
と訓練の重要性を説き、その上で、「円満にして豊かな人間」となるよう、心を育てることを忘れなかったのだ。
戦争は、会ったこともない人間と人間が、政治上の問題を解決するために命令によって殺し合う、究極の解決方法である。
前線に立つ将校も兵も、命を捨てる覚悟はしていても命は惜しい。そのとき、命令に従って命を捨てることになるのであれば、その自分の死を無駄にはしたくないはずだ。そして、その命令を発する者に対して、「この上官の命令なら死んでも悔いはない…」と思わせるような、熱い心が指揮官になければ、兵はついては来ないだろう。
戦後、実体験を元に、「回天特別攻撃隊」の記録を書いた海軍一等飛行兵曹の横田寛氏は、その作品の中で、兵学校七十二期の多々良隊隊長柿崎実中尉とのエピソードをこんな風に書いている。
因みに、兵学校七十二期は、井上校長の薫陶を受けた生徒たちだ。それは、出撃の前に柿崎中尉が、馴染みのおばさんに横田を紹介する下りである。
「母ちゃん、この男はね。今度、俺と一緒に征くことになったヤンチャ坊主だ。小さいときお袋が死んでね。だから、母ちゃん。今日一日でいいから、こいつのお袋になってやってくれんかな。隊長が”母ちゃん”というとき、私は思わず吹き出しそうになった。が、見ると、隊長は大真面目である。おしげさんのほうも、少しも悪びれた様子もなく、ハイハイと答えている」
部下に対して、こんな温情で接してくれる隊長なら、一緒に死んでも本望だったと作品の中で横田氏は書いているが、この出撃で柿崎中尉は特攻で戦死し、横田兵曹は艇の不調で帰還している。
「隊長と一緒に死ねなかった」という、横田兵曹の後悔は、死ぬまで続いたそうだ。 柿崎中尉のような、「円満にして豊かな人間」を育てることができた井上の教育に間違いはなかった実例だと思う。
この「回天」という人間魚雷は、本来、あってはいけない兵器だったと思う。
大西瀧治郎中将が、特攻作戦を「統率の外道」と言ったように、この回天という兵器を採用した時点で、日本は戦争に敗れてるのだ。
そもそも、軍隊とは何だろう。
どの国でも「国の防衛」のために、軍隊を置き、強力な武装を施している。それは、戦争をするためではなく、自分の身を守るための手段なのだ。
人間は、知性と感情のある生き物だが、何故か、自分の主張を通すためなら、争いもやむを得ないと考える本能を持っている。
日本の国会でも、平和論争は度々行われているが、非武装中立などということが現実的にあり得るのだろうか。
今回のロシア・ウクライナ戦争は、だれが見てもロシアの侵略戦争であり、明らかな国際法違反である。それを承知の上で、軍事力を行使する以上、指導者は国際社会から孤立しても構わないという強い意思と信念がなければならない。
だが、命令を受けて戦う兵士にとって、侵略戦争に参加することの意味は何だろう。
たとえ、末端の兵士であろうと、命を落とすかも知れない「戦争」に参加する以上、自分の死に意味を持たせたいのは人情である。
では、日本の特攻作戦には、どんな意味があったのだろうか。
確かに、「祖国防衛」のための攻撃だということは分かるが、それが、命令で行われることに疑問を感じるのは、当然だろう。
戦争における統率とは、「人間としての尊厳を重んじながら、大義のために戦闘を命じる」ものでなければ、ならないだろう。つまり、どんな階級上位の指揮官であろうと、兵士に「死ね」と命じる資格はないのだ。それも、兵器として未完成な代物に人間を乗せて、敵艦に体当たりさせるなど、狂気の沙汰である。
井上の言う「円満にして人間味ある生徒」を望むなら、日本軍が採った「特攻作戦」こそが、大きな誤りだったことに気づくべきなのだ。
第四節 「外国語教育」に就いて
最近、日本精神運動勃興シ、拝外思想ヲ排斥スル思潮盛ナリ。
誠ニ結構ナル事ナルモ、此等ノ運動ニ従事スル人物ノ主張スル所、概ネ浅薄軽率ニシテ島国根性ヲ脱セズ、外国語ヲモ眼ノ仇ノ如ク為ス者多ク、為ニ中等学校ニ於ケル英語熱ノ誠ニ振ハザルモノアルハ、遺憾ナリ。
本職ハ明言ス。
「此等、浅薄ナル日本精神運動家ノ外国語排斥ノ如キ、似而非ナル愛国運動家ノ言ニ雷同スベカラズ」ト。
(日本精神ハ、此クノ如ク狭量ナル又左様ニ簡単ナルモノニ非ズ。精神運動ヲ起サネバナラズト感ジ居ル人コソ、自身日本精神ニ欠クル有ルニ非ズヤ。運動等セズトモ、日本精神ハ、日本人ノ血ノ中ニ厳然トシテ存ス)
「日本精神とは、何ぞや?」
という世の中の風潮を憂い、戦争の前途を憂えていたことがわかる。
井上が「島国根性」というように、日本人は世界的視野で物事を見ることができない。いつでも、自分の見える範囲で物事を捉え、一喜一憂するから判断を誤るのだ。
確かに、昭和初頭の世界大恐慌は、国際社会に出て行った日本人にとって、死活問題だった。しかし、早急に満州に進出し、陸軍の横車で「満州国」を建国してしまったことが、本当に、国際社会の反発を招かないと考えたのだろうか。
満州国建国は、それを主導した石原莞爾中将がいうように、アジアの人々みんなが仲良く暮らせる理想国家を目指した趣旨は分かる。
当時の中国大陸の情勢を見れば、日本が主導してアジアに平和をもたらしたいという願いは当然である。
欧米列強の植民地政策は、紛れもない「侵略行為」であって、アジア唯一の独立国家である日本が、アジアの盟主となって、ひとつのアジアを創ろうとする動きには大義があった。満州国は、そういう意味で、アジアの未来を担う国になるはずだった。しかし、建国の趣旨はそうであっても、それを継ぐ世代が同じように考えるかは微妙な問題を孕んでいる。
日本人たちの中に、「どうせ、あいつらだってやってきたことだ」と欧米列強と同じような行為は許されるという甘えがあったからこそ、満州事変という侵略行為を犯してまで建国したことは事実であった。
理想は理想として、現実に起きたことを考えれば、現状破壊そのものであり、石原たちが言う大義が、どこまで通用したかは分からない。日本人の中にも、満州国建国については、意見の分かれるところだろう。
もちろん、欧米列強の反発を招くのは必至であり、それを分かった上での行動は、慎重さを欠いたと言われても仕方がない。
早速、国際連盟はリットン調査団を派遣して、満州国の実態を探ったが、調査団がどんなレポートを作成しようとも、国際社会がこれをこれを容易に受け入れるはずがないのだ。
当時、日本が掲げた「八紘一宇」の精神は純粋であり、アジアの国家が皆家族のように助け合う「同盟」こそが、アジアを侵略から守る唯一の方法だったのだ。
だが、国際社会が、これを易々と認めるはずがない。
実際、日本は、国際連盟から脱退せざるを得なくなり、世界から孤立していったのである。
本来の日本精神は、外国の排斥でも、国際社会から孤立することでもない。もっと、奥深い日本人らしい心の有り様を指しているのだが、「世界は、けしからん!」というような仲間内だけでの「鬱憤晴らし運動」では、国の未来を危うくすることを、井上は心配していたのだろう。そして、この「日本精神主義」は、戦争が進むに連れて、国民に広く浸透していくことになった。それが、「外国文化排斥運動」につながったのだが、逆な見方をすると、それだけ外国が怖ろしかったのだと思う。
怖いから、過剰に反応し、相手を言葉で痛めつけなければ、自分が保てなかったのだ。
国際社会にデビューして、その恐ろしさを実感した日本は、小さな体を大きく見せなければ怖くてしかたがなかったというのが真実だと思う。
アメリカ政府も戦争が始まると国民の憎悪をかき立て、日本人を「ジャップ!」と口汚く罵り、巧妙に日本が如何に悪い国であるかを宣伝し続けた。そして、日本人は未開の野蛮人であり、自分たちと同じ人間の扱いをしてはならないと声高に叫んだのだ。
当時のアメリカ兵向けの日本人は、「狂信的な天皇崇拝主義者」で「獣のように恐ろしい闘争心」の持ち主に描かれている。さらに、日本人の風体は、ジャングルに潜む「猿」だと教え、「凶暴な猿を狩る」ことが正義だと教えたのだ。そして、それは戦場で大きな効果を発揮することになった。
アメリカ兵は、どこの戦場においても日本兵を蔑視し、戦死した日本兵の遺体から多くの遺品を奪い取り、戦利品として持ち帰った。今でも、アメリカから日章旗や軍刀などが遺族に返還されることがあるが、あれは、すべてアメリカ兵が奪った日本兵の遺品だということを忘れてはならない。しかし、それでもアメリカは、戦争の仕方をよく知っていた。
戦争が始めると、アメリカ軍は「日本語学校」を開設し、日本人の言語から歴史、文化、そして生活様式まで研究し、その弱点を探したのである。その結果、アメリカは、日本の都市空襲を軍事拠点爆撃から一般住宅地への無差別焼夷弾攻撃に変更したといわれている。
戦略的に見れば、高高度からの精密爆撃では効果は薄く、低空からの焼夷弾攻撃は、日本人の生活を奪い、恐怖に陥れる作戦としては有効だろう。しかし、それを選択するには、日本人への同情があってはできない。開戦以来、「日本人は悪魔」という脳への刷り込みがあったからこそ、この残虐な戦術が採用されたのだと思う。原子爆弾の投下も同じ理屈になる。
日本人は、せいぜい「鬼畜米英」と敵を罵り、敵を知ろうとするのではなく、敵の物は「穢れ」と感じて遠ざける方法しか採らなかった。この「穢れ」思想は、日本人が古代から持つ考え方だが、敵を知ることよりも、その恐ろしさから遠ざける方が、取り敢えずは安心できたのかも知れない。
その点、アメリカ人は日本人を敵と認識していたが、獣を駆逐するハンターのような感覚ぐらいしか持てなかったのだと思う。勝つのはアメリカであり、日本がどう戦おうが結果は決まっていたのだ。
だが、戦争が長引き、アメリカ兵にも多くの戦死者が出始めると、アメリカ世論は政府や軍に対して批判の眼を向けることになったそうだ。
ペリリュー、サイパン、硫黄島、沖縄と、アメリカ軍が小さな島々を落とすたびに、夥しいアメリカ兵の血が流れ、国民を唖然とさせた。
海戦や航空戦では、それほどの人的被害は出ないが、地上戦になると万単位で死傷者が出る。それは、勝利しか知らないアメリカ人には、恐怖だったのかも知れない。そして、最後に特攻隊と称する体当たり攻撃が組織的に行われるようになると、アメリカ艦艇の乗組員を恐怖のどん底に陥れ、神経症を発症して後方に送られる兵が続出したそうだ。
実際、本土決戦となれば、日本人は百万人くらいは死んだだろうと言われているが、アメリカ兵の犠牲も考えられない数に上ることは眼に見えていた。それが、戦争終結のきっかけになった可能性もある。
日本人は、敵を「穢れ」と認識して遠ざけ、アメリカ人は、敵を「獣」として認識し、狩るための分析を怠らなかった。そう考えると、日本人が如何に戦争に向かない民族かがよくわかる。
さらに、日本人には「言霊」に縛られる傾向が見られ、「不吉」なことは言葉にしないという習慣がある。そのために、「負ける」「敗れる」などの表現は使いにくくなり、撤退する場合には「転進」と言い換えたり、全滅を「玉砕」などの言葉で美しく誤魔化そうとしたりするので、状況が分からなくなる傾向が見られた。
こうした国民心理に付け込むように、公式報道もいい加減になっていったのだ。
英語教育も考え方は同じである。
「英語を話せば、日本人としての心が穢れるから、英語教育をなくせばいい」
という発想でしかない。「穢れ」などは、実際、証明する術はないのだが、だれかが「ある」と言えば、あることになるのだ。
こうした言霊や穢れなどの思想は、日本人の生活そのものなのかも知れない。
こうして、心に余裕をなくした日本国民は、外国を穢れの対象として忌避し、英語廃止を叫んだのだ。しかし、そんな世間の風潮に惑わされることなく、一人井上は、それに真っ向から反対し、海軍軍人としての誇りを失うまいとしたのだろう。
英語ハ、学問ニ非ズシテ技術ナリ。
言葉ハ、人種同士ノ符牒ニシテ規約ナリ。
其ノ使ヒ方ヲ知リ、之ニ習熟スルコトガ其ノ技術ヲ習得スル所以ナルモ、本校教程ハ、時数少ク之ヲ望ミ得ザルガ如シ。
然シ、英語ニ対スル「センス」ハ、充分ニ之ヲ育成シテ卒業セシムル必要アリ。
「センス」ハ、音楽ヲ解スル為ノ音楽ノ「センス」、美術ヲ鑑賞スル為ノ美術眼ニ比スベシ。
英語ノミナラズ、外国語ヲ解スル力ヲ有スルコトハ、感覚ヲ一ツ余分ニ所有スル丈ノ利アリ。
少クトモ、肉眼ニ加フルニ望遠鏡ナリ顕微鏡ナリヲ以テスル丈ノ利アルヲ信ズ。
井上の考える「英語教育」に戦争は関係なかった。むしろ、日本という国のプライドの問題だったのではないか。
アメリカ、イギリスと並んで世界三大兵学校と謳われた日本の海軍兵学校が、単なる戦争屋を作り出して行くことに耐えられなかったに違いないのだ。
戦争は、そう遠くない時期に終わる。それは、恐らく、日本の敗戦で終わるだろうということは、井上には、当然わかっていただろう。しかし、教育というものは普遍でなければならないのだ。
戦争中であろうと平時であろうと、海軍将校は、その国の外交官の役割も果たさなければならないというのが、井上の哲学だった。
先年、開戦後の日本海軍の駆逐艦長のジェントルマン・シップが話題になったことがある。駆逐艦の名前は「雷」、艦長は兵学校五十一期の工藤俊作中佐である。
工藤中佐は、兵学校を出ると海上勤務が多く、軽巡洋艦や駆逐艦に乗艦することが多い普通の海軍将校だった。風貌は、やや小太りの上に丸眼鏡をかけているので、海軍将校としては、あまり風采は揚がらない人物だった。それでも、穏やかな人柄を偲ばせる風貌をしている。でも、もちろん、開戦時の駆逐艦長といえば、既にベテランの域に達した強者だけである。
工藤中佐率いる駆逐艦「雷」は、昭和十七年三月一日のスラバヤ沖海戦において、イギリス海軍の重巡洋艦「エクセター」や「エンカウンター」を撃沈するなどの戦果を挙げていた。 事件は、その翌日に起きた。
翌、三月二日、戦闘のあった海域を航行中の「雷」の見張員は、数名の漂流者を発見した。彼らこそは、前日の海戦で沈没した「エンカウンター」等の乗組員であった。
戦闘海域において、艦を停止することは御法度である。だが、艦長の工藤中佐は、漂流者発見の連絡を受けると、直ちに艦を停止し、救助することを命じたのだ。
もちろん、乗組員の中には、戦闘海域での停止は敵潜水艦などからの攻撃を受ける可能性を指摘し、そのまま立ち去ることを具申したが、工藤中佐は「その意見は、尤もである」としながらも、命令を取り消すことはなかった。そして、危険を冒しながらも三時間に亘り救助活動を行い、「雷」は乗組員に倍する四百二十二名を救助したのだ。
甲板に引き揚げられたイギリス海軍の将兵には、着替えの衣類、酒、食糧と、乗組員の分まで提供し、手厚くもてなしたのだった。
甲板に蹲るイギリス将兵に対し、工藤中佐は英語で、
「あなた方は日本海軍の名誉ある賓客であり、非常に勇敢に戦った」
とスピーチしたという。
戦後、この話は長く語り継がれることはなかったが、生き残ったイギリス海軍の将校によって日本政府に問い合わせがあり、世に知られるようになった。
この救助に尽力した駆逐艦「雷」は、昭和十九年四月十三日、輸送船の護衛任務中にアメリカ潜水艦の魚雷攻撃によって撃沈された。生存者はいなかったという。
工藤俊作中佐は、雷艦長後も駆逐艦「響」の艦長を務めた後、陸上勤務となった。そして、昭和十九年ごろには体調を崩し海軍を退いたのだった。
工藤元中佐は、昭和五十四年一月十二日に病のために亡くなったが、このイギリス兵救助の話は、だれにも語ることがなかったために、日本で知られることはなかった。
工藤中佐は、駆逐艦艦長のころから鉄拳制裁を禁じており、部下の兵たちにも温かく接していたという。おそらく、一緒の飯を食い酒を飲み、気楽に声をかける名物艦長だったのだろう。
戦後は、兵学校のクラス会に出ることもなく、毎朝、戦死した戦友や部下たちのために仏前に座り、冥福を祈っていたそうだ。
工藤中佐は、ハンモック・ナンバーが上位の人ではなかっただろう。しかし、人格は円満で、決断力に富んだ名指揮官だったと思う。この工藤俊作の名が世に出たことで、日本海軍と海軍将校の面目は立てられたのだ。
井上が言う、ジェントルマンとは、工藤俊作のような将校をいうのだと思う。
彼は、大正時代の教育を受けて海軍将校になった人だが、ただの戦争屋ではなかった。
単に戦争に勝てればいいと考える人でもなかった。
そして、井上といい工藤といい、心ある海軍将校は皆、寡黙なのである。
この逸話を知るだけでも、「英語教育」の重要性が分かるというものだ。
井上は、戦後もこの話を聞くことはなかっただろう。しかし、自分の後輩の将校に、こんな人物がいたことを知れば、きっと深く頷くに違いない。それが、日本海軍の伝統だと思う。
外国語ニ対スル「センス」養成ノ方策ハ、外国語ニ愈多ク親シム事ニ外ナラザルモ、本校ノ如キ時間少キ場合、之ヲ望ムモ結局ハ、虻蜂取ラズトナルベシ。
依ツテ、本職ハ左ニ一案ヲ堤ス。(極メテ大胆ナル表現ナルモ)
㈠ 兵学校ノ英語教育ハ、文法ヲ基礎トシ、骨幹トスベシ。
㈡ 英語ハ、頭ヨリ読ミ、意味ノ分ルコトヲ目標トスベシ。
英文ヲ和訳セシムルハ、英語ノ「センス」ヲ養フニ害アリ。和訳ニ力ヲ入ルルハ、和訳ハ、英語ヲ読ミ乍ラ英語ニテ考フルコトヲ妨ゲ、反対ニ英語ヲ読ミ乍ラ日本語ニテ考フルコトヲ強フルヲ以テナリ。
㈢ 常用語ハ、徹底的ニ反復活用練習セシムベシ。
㈣ 常用語ニ接シテハ、其ノword・familyヲ集メシメ、語変化ニ対スル「センス」ヲ養フベシ。
㈤ 英文和訳ノ害アルガ如ク、英語ノ単語ヲ無理ニ日本語ニ置キ替エ訳スルハ、百害アリテ一利ナシ。
英語ノ「service」ノ如キ語ヲ日本語ニ正確ニ訳シ得ザルハ、日本ノ「侘ビ」トカ「寂ビ」トカ云フ幽玄ナル語ヲ英語ニ訳シ得ザルト同ジ。
井上が言うように、これが英語教育の真理だとするならば、戦後の英語教育は何だったのだろうか。
井上は、「英文和訳は有害である」と主張するが、戦前から戦後、そして現在に至るまで、英語教育は英文和訳は必須だったはずだ。
中学生以上になると、単語を一つ一つのスペルを覚え、日本語に訳し単語帳を作った。
そして、ひたすら覚えるのが、英語の学習法として、日本全国の学生が行ってきたのだ。 その英語学習法は、学校教師が奨励し、高校や大学入試においても、高得点を得るための方法として定着している。
井上は、「害のある学習方法」と指摘するが、日本の文部科学省は、この問題をどうのように捉えているのだろうか。
確かに、日本人は長年、学校の授業で英語を学んできたが、実際のところ身についていないのが実感である。しかし、そのお陰で英語文化は日本に根付き、英語のスペルガ街中で見かけても違和感は感じない。寧ろ、英語表記は格好良く見える。
最近の流行歌の多くも、英語のフレーズが必ず入っており、日本人の生活と英語は密接な関係にあるといえるのだ。それに、たとえ英単語の意味が分からなくても、今のスマホを使えば難なく意味は出てくる。そういう意味では、日本での英語教育は無意味ではなかった。ただ、井上の言うような英語力は身につかなかったことは事実だ。
おそらく井上は、海軍将校としての技術としての「英語」を述べたものだと思う。
確かに、英会話において、英語を日本語に置き換えるようなことをしていれば、会話にはならない。まして、海軍の用語は英語が主であり、英語での命令も多いのだ。
冷静に考えれば、海軍将校にとって英語は必須技能である。英語なくして海軍将校の仕事はできない。
井上にとって、英語教育排斥論などは、時代の風潮に流された戯言でしかなかったのだ。 この兵学校での英語教育は、陸軍士官学校を初め、全国の学校から排斥され、「敵性言語」というレッテルまで貼られたことを考えれば、非常に冷静でノーマルな判断ができたと言うべきだろう。
海軍部内においても、井上のような男に逆らってまで、「英語を止めろ!」と言える大物もいなかったことは事実かも知れない。
戦前から海軍省内で大きな発言力を持ち、世界初の空母対空母の海戦を指揮した海軍中将に対して、正面切ってものを申す人間がいるとは思えない。
真珠湾攻撃の指揮官だった南雲忠一も、三国軍事同盟問題の時に軍務局長室に怒鳴り込み、言うことを曲げない井上に対して、「貴様など殺してやる!」と脅したそうだが、そんな言葉にも怯まず、南雲を追い返した話は有名である。
若いころの南雲は、兵学校の獰猛クラスの出身だったのか、井上のような冷静で論理的な男は、大嫌いだったようだ。
珊瑚海海戦の後、井上は、理由もなく「弱将」のレッテルを貼られたが、その後のミッドウェイ海戦やマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦と悉くアメリカ機動部隊に粉砕されたことを考えれば、当時の井上の判断を他の人間が誹ることはできない。そもそも、戦略的に大失敗をしていた日本海軍が、このような無謀な作戦を展開したこと自体が大間違いだったのだ。
すべてを山本五十六個人に負わせることはできないが、国の大方針を誤ることが、どういう事態を招くことになるのか、井上は、肌身を以て知り、嘆いたであろう。それだけに、井上は、敗戦後の日本を行く末を見詰め、兵学校の生徒に精一杯の教育を施してやりたかったとしても、教育者として当然の判断だったと思う。
戦後、八十年近くが経過し、井上が指摘したとおりの政策に移りつつある。
文部科学省も旧来の学力観を改め、思考力や創造力を培う内容に転換を図っている。
大学入学試験にも、かなり思考力を問う設問が増え、高校では相当に混乱しているようだが、長い目で見れば当然だろう。
今のようなコンピュータ、そしてAIといわれるロボット時代になれば、記憶再生能力など、それほど役には立たない。それらは、すべてコンピュータがやってくれるのだ。
今、子供も大人もスマートフォンを持っていない者はいないだろう。分からないことがわれば、瞬時に検索し、その場で正解を知ることができる。知識が必要ないわけではないが、昔ほど「知識」があることが、優れている基準にはならないのだ。
今、日本人に求められる能力は、間違いなく思考力、創造力、判断力、コミュニケーション能力だろう。それらは、なかなかペーパーテストでは測れない。
今後は、企業への入社試験にもAIが導入され、様々なデータに基づく人間分析が行われると思う。そして、より深い思考ができる人間が選別されるのだ。そして、新しい発想を生み出せる創造力豊かな人間が求められる。そうなると、知識重視で学んできた学生は、自然に淘汰されることになる。
英語力においても、技術としての英語力と国際人としての英語力が試され、知識だけの英語力は不要となるのだ。
間もなく、そういう時代がやって来ることを考えれば、井上成美の教育論は、百年後に認められることになるかも知れない。
第五節 「数学教育」に就いて
数学ハ、暗記スル学問ニ非ズ、考フル学問ナル故、数学教授ニ当ツテハ、八分ハ生徒ニ考エサセ、二分丈説明スル様ニシ度シ。
尚、此ノ二分ノ説明ニ於テモ教官ノミガ活躍シ、生徒ガ全然受身ノ立場ヲ持スルハ、宜シカラズ、出来ル丈、生徒ニ考ヘサセツツ、生徒ガ追従シ得ル如キ調子ニテ説明ヲ進メ、説明スル事丈ハ、生徒ヲシテ講堂ニテ充分理解セシムルヤウシ度シ。
ここにも、井上の「自学・自啓自発」の精神が採り入れられている。
当時の学校の教授法は、特別な例を除けば、講堂での一斉指導型である。それは、小学校でも大学でも、そんなに変わるものではない。それに、一斉指導が、個別指導に比べて効果がないとも言い切れない面もあるのだ。
兵学校は、日本中の優秀な頭脳の持ち主が入校してくる学校である。当然、地元の中学校でもトップクラスの頭脳の持ち主で、将来を嘱望されていた生徒たちが未来の提督を目指して集まっていた。そこには、学力差があるとは言っても、一般の学校とは大きく異なり、理解力は高い。もし、その頭脳を生かそうとするならば、一斉教授型より自学自習型の方が、その能力の見極めはしやすいともいえるのだ。
詰込式で覚えた知識や技能は、オーソドックスな問題には対応できるが、少し捻った問題になると、途端に解を導き出せなくなる傾向にある。それは、記憶型の生徒は、いくつもの解法パターンを覚え、そのどれかに当てはめようとするからである。
よく、試験などで難問に挑戦している生徒が、「そう言えば、一度、同じような問題を解いたことがある」と呟くことがある。それは、問題集を徹底的に浚い、繰り返し解法パターンを覚えることで、自分の脳に解法を刻みつけるやり方である。これは、一般的にポピュラーなやり方で、記憶力のいい生徒に好まれる。
だが、それは飽くまで、だれかが解いた方法を覚えただけのことで、自分のオリジナルな解き方を見つけたわけではないのだ。
「数学ができる」という意味は、その問題が解けるのではなく、自分のオリジナルの解法で解けることを言うのだと思う。それは、実は過去に別のだれかが既に見つけた方法かも知れないが、単に解法の仕方を覚えて解いたのとは根本的に違うのだ。
前述した六十八期の豊田穣氏の小説を読むと、兵学校受験の場面が登場してくるが、理数系が苦手だった豊田生徒は、ひたすら過去問を解き、パターンを覚えたと書いている。
彼は、文学的素養は高かったようだが、理数系は文学のようには閃かなかったようだ。しかし、彼自身、「自分の記憶力はよかった」と回想しているように、兵学校の試験も、この記憶力の高さが能力の高さと考えられていたのである。
ところが、実際に兵学校に入ってみると、クラスヘッドの山岸計夫生徒のように、教室で一度教官の説明を受けると、瞬時に理解し応用できる頭脳があったことに気付いている。
おそらくは、井上自身もそのような頭脳の持ち主だったのだろう。だからこそ、記憶力偏重ではなく「考える」学習に転換したかったのだと思う。
そうなると、ひたすら覚えることで高得点を取ってきた生徒には、「二割のヒント」だけでは、本当に苦しかったと思う。二割を聞いて、そこから解法をイメージし、筋道を立てて合理的に解につなげていくためには、相当の創造力と柔軟な思考が必要になる。
井上は、その頭脳を鍛えたかったのだろう。
軍人とはいえ、戦争が常ではない。大正から昭和前期は、世界大戦が二度も起きたが、それは、あまりにも異常な世界だった。
通常であれば、一部の衝突は起きたとしても、国民を巻き込むような戦争は想定されていないものだ。だから、軍人は、日常を訓練と研究に費やすことになる。
訓練は当然として、日進月歩の兵器の発達は、数年で旧式化するという。そんな中で、新しい技術を習得するのは、なかなか苦労も多かったことと思う。
従って、海軍将校は、常に世界に眼を向け、新しい情報を手に入れて研究をしていかなければならない存在なのだ。
戦争中は、敵と戦うことが使命であるが、平時は、普通のサラリーマンと変わりのない生活を送っているのだ。
もし、井上の試みが平和な時代に行われていれば、日本海軍は大きく変わったかも知れない。そうなれば、一般の学校においても兵学校に刺激され、新しい教育が促されたような気がする。その目は、既に大正時代にあったのだ。そして、七十年後、日本の教育界は、新しい教育に目覚めようとしている。
戦後、井上の教育を受けた元生徒たちは、日本の復興を一から成し遂げる力となった。 戦後の復興は、マニュアルが存在しない大プロジェクトだった。
だれもが初めての経験で、右も左も分からないまま、暗中模索の中での復興作業に邁進したのだ。
この戦後の復興事業で思い出すのが、技術者たちの活躍である。
敗戦によってGHQは、日本の航空機産業をすべて廃止させ、日本の空を日本の航空機が飛ぶことを許さなかった。今でも、日本の航空会社は独自の技術で旅客機を作ることができない。それは、占領期の七年間で日本の航空機産業は廃れ、その技術者たちは、すべて転職を余儀なくされたからである。まさに「壊滅」だった。ところが、その航空機の技術者たちは、自動車や鉄道、ロケット分野へと転出し、恐るべき成果を挙げたのだ。
今でも日本の自動車製造や鉄道の技術は世界一だと自負できると思う。
日本の航空機メーカーは解体されたが、三菱や川崎は重工業メーカーとして日本の産業の重要な地位を占めている。また、中島飛行機は自動車のスバルと社名を変え、トヨタ、日産と並ぶ自動車産業の大手となった。
他にも元々の航空機メーカーが、新しい分野で活躍している例はたくさんある。
それができたのは、彼らの持つ技術が、自動車や鉄道車両に生かされたからある。
ひとつ例を挙げれば、日本の新幹線は、日本の戦闘機の技術が応用されている。あの振動の少ない車両は、戦闘機のエンジンの振動を抑えるゴム製のバネを採用していたからだそうだが、それと同じ技術が新幹線に応用することに成功した。この振動問題が解決できなければ、今の新幹線はない。
兵学校だけでなく、こうした日本の工業技術の世界では、井上の目指す数学教育が行われていたのだろう。だからこそ、戦前には航空機産業が発達し、日本の軍需産業を支えたのだ。そして、戦後はその技術が鉄道や自動車に応用され、瞬く間に世界トップ水準に躍り出たのだ。日本人は、このことをもっと誇りにしてもいいのではないかと思う。
戦後、日本は、自動車、鉄道車両、造船、高層建築、精密機械など、工業部門が復興の柱となっていった。それは、新しい時代の人々の努力もあるが、戦前の教育の賜物でもあったのだ。
無論、兵学校出身者が、どの分野でどんな活躍をしたかは調べようもないが、昔の会社の沿革史には、それを偲ばせる記述が多く見られる。
戦記物を読んでいると、多くの兵学校出身者や予備学生出身者の名前を見ることがある。そして、その名前が数十年後に改めて眼にしたとき、その人の人生が見えるようで嬉しくなる。
井上の理想とした教育は、そのときに成果を挙げることはなかったかも知れない。しかし、井上の死後、それは着実に日本という国に根付いてきていることが分かる。
だれもが考えようとしない時代、井上が為そうとしたことは、日本にとって本当に必要なことだったのだ。
説明・解説ニ際シテハ、当面ノ問題ノ解モ必要ナルモ、出来ル丈、其ノ問題ヲ借リテ、物ノ考ヘ方トハ、斯クスルモノナリトノ説明教示スルヲ必要トス。
数学は、単に「解」を求めるだけで満足してはいけない。「数学的な考え方」が重要なのだ。
兵学校の生徒が臨む場は、間違いなく戦場である。それも、過酷な命のやり取りをする場だ。そこで、多くの部下を率い、勇猛果敢に戦う使命を持っているのが将校なのだ。
戦場では、よく「初陣に気をつけろ!」と言われるが、戦場を経験したことがない指揮官が、部下に舐められてなるものかと勇んで敵陣に突っ込んでいくことが多いと言われる。それを宥め、指揮官を補佐するのが、ベテラン下士官の役割なのだが、それでも、興奮して突っ込んで戦死してしまう例が多いのだ。しかし、そんな修羅場を二度、三度潜り抜けると、肩の力も抜け、数ヶ月は死なずに済むようだ。
どんな戦場においても、勇猛果敢は必要だが、冷静に状況を読み、的確に判断するのが指揮官の務めだと考えれば、この論理的な「数学的思考」は、重要になる。
井上の脳裏には、常に戦場が描かれていただろう。それも、前線に立つ指揮官ではなく、全体を統括する司令長官としての俯瞰した眼であったと思う。
珊瑚海海戦のとき、連合艦隊司令部は強く再攻撃を命じたが、第四艦隊司令長官だった井上は、躊躇うことなく「引き上げ」を命じた。
攻撃は、勇猛果敢だけではできない。あのとき、日本の機動部隊は、瑞鶴、翔鶴という最新型の二大航空母艦を擁してはいたが、搭乗員の練度はそれほど高くなく、再度の攻撃に耐えられる技量はなかったと井上は判断した。そして、撤退していく敵艦隊を全速力で追うにしても、燃料不足に陥る危険性があったと言われている。さらに、敵は、潜水艦を配備し、暗くなれば潜水艦の攻撃を受けることは必至だった。
ポートモレスビー攻略を一時断念することは、悔しいが、総合的に判断すると、「戦機は去った」と、井上は判断したのだ。
これを単純に「弱腰」と評価するのもよいが、連合艦隊司令部では、「井上中将は、頭がよすぎて、判断が鈍い」と言っていた参謀がいたそうだから、他人を批判する空気が元々上層部にはあったのだろう。
司令部という実戦の場から離れ、安全地帯に身を置けば、だれもが評論家になり得る。
今でも現場で起きたことを報告だけ受けて判断する上部機関は、どの世界にも存在するが、その場の空気とか雰囲気を加味しないと真実には辿り着かない。
井上の戦場での指揮官としての能力評価は別にして、戦場に立ったことがない参謀たちが、入ってくる僅かな情報だけで戦争指導をしていたとすれば、勝利は覚束ないだろう。 だから、ミッドウェイ海戦のような惨めな結果を招くのだ。あれこそが、驕り高ぶった人間たちの愚かな姿だと思う。だれでも批判することは容易く、現場で決断を下すことは難しいのだ。だからこそ、序列などという平時の人間関係などに配慮するのではなく、有事の思考が大切になるだが、それができないのも人間の性かも知れない。。
有事の思考とは、「適材適所」を貫く信念しかないのだ。
どうも、日本海軍は科学を扱っている割には、日本陸軍のような精神論に傾く傾向が見られた。
日本人全体の風潮として、人に対して、沈着冷静な人間より、「声が大きい」とか、「やる気がある」とか、「根性がある」などという感情豊かな人間像を求めがちである。それに比べて井上のような、冷静で落ち着き払った人間を「冷たい奴だ」と言って嫌う傾向がある。
単純な言動は、確かにわかりやすく扱いやすいとは思うが、有事には、冷静な判断が求められるはずではないのか。だからこそ、井上が言う、「数学的思考」が重要なのだ。
残念ながら、海軍全体の風潮として「勇猛果敢であればよし!」とする空気があり、若い将校などは、冷静に周囲の状況も考えず、「どうせ、死にゃあ、いいんだろう!」と、突っ込んだ例もあったそうだ。
「目的」を見失い、精神面だけの評価が強調されると、勝てる戦も勝てない。戦争は、辛抱強い方が勝つという見方もあり、昔の豊臣秀吉などは小田原城攻めなどは、兵糧攻めにして勝利している。
日本海軍は、性急に行動を起こしすぎたために、足下を見られて失敗する例が多く、もう少し敵の弱点を突きながら、ジワジワと包囲していく方法もあったと思うのだが、それは、最初から考えになかったようだ。
元々海軍は、「艦隊決戦」による決着を想定していたことからも、あまり戦略的な行動は採っていない。逆に、アメリカ軍は初戦こそは劣勢に置かれたが、珊瑚海海戦、ミッドウェイ海戦、南太平洋海戦と機動部隊同士の海戦で大きな犠牲を払ったが、その間に戦力の増強を図り、挽回のチャンスを窺っていた。そして、ガダルカナルに日本軍が前線基地を設けようと動いた時に、一気に攻勢をかけてきたのだ。
この我慢強さは、さすがに戦上手と言う他はない。
井上が言うように、数学の問題を解く方法の説明だけでは、それが各方面に広がることはない。しかし、「数学的考え方」であれば、方程式でも解くようなつもりで、戦闘を解説することはできる。
闇雲に戦って勝利したとしても、それは偶然や運が味方しただけのことであって、次の参考にはならないのだ。たとえ、小さな戦闘であっても、しっかり状況を分析し、あらゆる角度から勝利する確率を考え、だれもが納得する作戦で勝利できたとしたら、それは、
貴重な「戦訓」なるだろう。
日本海軍は、訓練においては世界一だったと思う。しかし、せっかく鍛えた兵を深く考えもせずに、自分勝手な精神論で潰してしまうのは、あまりにも惜しい。
指揮官としての資質を高めたいのであれば、無用な精神論は捨て、論理的、合理的に思考できるよう訓練するべきであった。
又、数学ノ定理ナリ関数式ナリヲ出シタル場合ニハ、其レヲアラユル角度ヨリ検討シ、之ヲ味ワイ、之ニヨリ生徒ノ「センス」ヲ養成スルヨウ心掛ケラレ度シ。
「センス」ハ、「識」トモ云フベク数学ヲ味ワイ、理解スル能力トモ云フベキモノナリ。
井上の言う「識」とは、物事の道理を知ることにあった。
井上は、よく「センス」という言葉を遣うが、「センスを磨く」という言葉があるように、センスは、鍛えることができるものらしい。たとえば、国語のセンスは、子供の頃からの読書や良質な会話によって磨かれ、言葉に対する感性が研ぎ澄まされる。また、情緒を安定させる効果があり、読書は脳の働きをよくし、心を穏やかにするそうだ。
最近では、脳科学の分野が発達し、江戸時代の「素読」の効果などが検証されている。
数学のセンスは、単に解を導き出すだけでは磨かれない。その解が示すものについて説明が問われるのだ。過去問を熱心に説けば、解は導くことはできるかも知れないが、それだけでは不十分である。あらゆる角度から研究しようとする、その思考の過程にこそセンスが磨かれるチャンスがあるのだ。
それでは、戦場でのセンスとは何なのだろうか。
ラバウルの撃墜王と謳われた坂井三郎元中尉は、毎日の猛烈な訓練によって、そのセンスを磨いたと言う。
上官から命令を受けなくても、昼間の星を観察し、体を鋼のように鍛え上げ、飛行機内でも、如何に効率よく飛び事ができるかを日々研究していたと、その著書に書いている。そして、彼は、「列機を喪わない」という強い使命感を抱いていた。
もちろん、単座戦闘機を操縦する以上、助けられない場合もあろうが、「列機を喪わない」という使命感を持つことで、見張りを厳重に行いリスクを回避するという効果があった。
当時、戦闘機は三機編隊で飛ぶが、坂井は小隊長として部下を率い、空の戦場を俯瞰して敵機を攻撃しつつ、部下の飛行機にも眼を配ったという。そして、無理な操縦をすることなく、人一倍の視力で敵機を捕捉し、先制攻撃に徹したというのだ。
この話と同じようなことを、やはり撃墜王の岩本徹三元少尉も語っている。岩本は、「零戦虎徹」とライフジャケットの背に書き、仲間と群れることなく、先制攻撃で敵機を仕留めたと言われている。仲間からは、「自分勝手な奴」と嫌味を言われていたそうだが、彼の空戦哲学は非常に合理的だった。
このような思想が日本軍にあれば、戦争そのものが始まらなかったかも知れない。彼らは、兵学校のようなエリート教育を受けた人間ではない。だが、「考える力」や「生存本能」は、抜群の「センス」だといえよう。
戦場で生き残るには、遮二無二敵陣に突っ込んでいくことではなく、様々な条件を分析し、最良の選択をすることにあるようだ。それでも、突発的な事故や攻撃により死ぬ運命が待っているかも知れない。
こうした戦場でのセンスは、戦いというものを知り尽くした人間だからこそできる「技能」でもあるのだ。
井上は、兵学校の生徒にも、そんなセンスを身につけさせたいと考えていたのだろう。特に彼らは指揮官として部下の先頭に立つ任務と責任がある。単に勇猛だけで部下がついて来るわけではないのだ。
その磨かれたセンスを十分に発揮して、部下をまとめ上げ「負けない指揮官」になることこそ、目標とすべきであった。
現代においても優秀な「営業マン」がいる。
営業マンにとって、商談を成立させ営業成績を挙げることが、現代における戦いだろう。もちろん、本物の戦場と比べることはできないが、「戦う」という意味においては、今も昔もそう変わらない。
優秀な営業マンの特長は、足を運ぶことを厭わない誠実さがある一方、相手方をよく観察し、人物を見極める眼力に優れていることである。そして、この相手が自分のよき交渉相手だと判断した後は、時間をかけて、その相手との人間関係を築く。その上で、相手の思いをよく聞き、最善の方策をアドバイスすることが、信用を勝ち取る第一歩なのだ。
結果、「あなたは、面白い人だ」と言われたら大成功だと聞いたことがある。
商談するということは、相手にも利がなければならない。こちらの一方的な理屈を捏ねても、相手を納得させなければ商談は成立しない。
戦場においても同じではないのか。
戦場は、当然、命のやり取りの場だが、ベテランの下士官ともなると、戦う相手への尊敬の念も生まれて来るそうだ。
お互いに技術を磨き合い、多くの経験を積んだ強者同士が戦場で相対すれば、どちらかが敗れて命を落とす可能性は大きい。それでも、鎬を削って戦い抜いた先に、たとえ「死」が待っていようと、それに満足できるのが本物の戦士というものなのだそうだ。それは、
「宮本武蔵」の世界観に通じる。それは、余程の修業を積まない限り、なかなか、たどり着けない境地だが、どんな世界においても人間は成長を求めるのだということが分かる。
よく、「人を引きつける魅力」などと、人を評価するときに使われるが、その魅力を育てるのは、学歴や肩書きなどではなく、弛まぬ修練の結果と人間性だということを覚えておきたいものだ。
尚、数学ノ「センス」ヲ養成シ願クバ生徒ヲシテ、数学ニ対スル趣味ヲ養フ所マデ達セシメタキモノナリ。
将棋、碁、カード、麻雀ハ娯楽ナリ、而シテ其ノ楽シミハ考フル楽シミニ非ザルハナシ。探偵小説ノ興味ハ、純粋ナル考フル楽シミニ存ス。
井上は、「学問を趣味の世界にまで広げることで「センス」が磨かれる」という。
娯楽を「所詮、遊び」としか見ないような狭量の見方では、生徒のセンスを磨くことはできない。たとえ、一生懸命、机に向かい必死になって頑張っているように見えても、娯楽のようなつもりで学問を楽しんでいる人間には、到底勝ち目はないのだ。
今、知能指数(IQ)が、百三十を超える人間を「ギフト」というそうだが、出現率は、二%程度だそうだ。
この当時、兵学校にも今でいう「ギフト」に当たる少年たちは、間違いなくいた。
兵学校の歴史で一番優秀だったといわれるのが、七十期の平柳育朗生徒と言われているが、彼は頭脳明晰、授業中だけでどんな内容も理解できたそうだから、その能力は底が知れない。そして、試験は常に満点。教えたことのある人間なら、だれもが「天才」と呼んでいる。こうした頭脳を持つ平柳が、戦争の行く末を見通せないはずがない。
平柳は、兵学校在校中の昭和十六年元旦に母校の浦和中学校を訪れた。
午前中に行われる拝賀式に出席するためだったという。おそらくは、冬季休暇で帰省していた時期であり、学校から要請を受けたのだろう。当時、平柳は兵学校の二号生徒で、三月には一号生徒となる年のことだ。戦争は、まだ半年以上先のことで、街にはまだゆとりがあった。
浦和中学校の校長は、生徒の励みになると思い平柳に講話をお願いした。そこで、彼は、こんなことを在校生に話したという。
「諸君は徒に軍人に憧れてはいけない。軍人は一部の者だけが使命とすればそれでいい。我々は海に出て戦うことになるが、諸君は各々の志を貫いて欲しい」
その言葉に周りの人々が驚いたであろうことは、想像に難くない。兵学校の生徒がいきなり、「軍人に憧れるな!」と言うのだから、会場はざわついたに違いない。
これと似たような話が、同じ兵学校の後輩に当たる七十一期の田結保中尉が、やはり母校の府立一中で行っている。
私たちは、このことをどう考えたらいいのだろうか。
想像するに、抜群の能力を持つこの二人には、戦争の行く末が分かっていたとしか思えない。そして、自分の運命にも気づいていたのだろう。だから、敢えて、後輩の生徒たちに自重するように訴えたのだ。本当であれば、彼らも海軍軍人などではなく、別な夢を持ち、生きて世の中の役に立ちたいと考えていたのかも知れない。しかし、一旦軍人を志した以上、それも運命と諦め戦地に行くことを覚悟したのだと思う。当時、二十歳そこそこの青年である。
そう力説した平柳生徒は、僅か三年後、駆逐艦「文月」の砲術長として昭和十九年一月、ソロモン海で戦死した。敵機の襲来により、胸と腹に敵弾を受けた壮烈な戦死だったそうだ。それでも、対空砲の指揮官として多くの兵を指揮し、最後まで任務を全うして死んだ責任感は、見事としか言いようがない。
日本海軍は、こうした類い希な才能を生かすこともなく、喪ってしまった。もし、井上がその地位にいれば、こういう逸材を生かす努力ができたのではないかと、残念でならない。
数学ハ難解ナリトテ、趣味トハナラズト云フ人アランモ、釣魚ノ趣味アル人ガ、常ニ難シキ釣魚ニ向ヒ、又、探偵小説ヲ楽シム人ハ、其ノ構成「トリック」ガ巧妙ニシテ難解ナル程面白味ヲ覚ユルヲ見レバ、数学トテモ趣味トナラザル理ナシ。
数学教官ノ工夫努力ヲ望ム。
井上自身が、平柳や田結たちと同様に非常に優秀な頭脳の持ち主だったことは分かる。
全国の俊英が集まった兵学校の首席(クラスヘッド)になるような人間は、ただ者ではないだろう。
数学を「釣り」や「探偵小説」のような趣味の世界に置き換えられるのは、やはり脳の構造が常人とは違うことを意味していると思う。
兵学校といえども、全員が天才ではない。IQは比較的高い生徒もいたが、その多くは、少しだけ理解力や記憶力がいい程度の少年たちだった。その彼らが必死に勉強をして過去問を解き、頑張って入校してきたのだ。もちろん、一般社会にいれば優秀な人間として、それなりの地位を得られた人たちだが、井上や平柳生徒のような頭脳の持ち主ではない。だから、彼らは兵学校でも必死に勉強し、同期生の優秀な者からも自習時間に教えてもらいながら努力を続けた結果として、海軍将校としての地位を得たのだ。それにしても、授業等において数学を楽しむような工夫ができれば、海軍将校も、もっと柔軟で合理的な人間が育ったことだろうと思うが、合理性より人の感情を重視する日本人は、なかなか井上の言う真理は理解できないのかも知れない。さて、ここで、少し、海軍の兵器について考えてみたいと思う。
日本海軍は、戦艦や航空機、潜水艦、魚雷など、欧米を凌駕する新兵器を開発している。
それらの多くは、外国のそれと比べても遜色ないレベルにまで達している。明治維新後の期間を考えれば、驚異的なスピードで世界に追いついたことになる。そのことについては、大いに評価したい。しかし、新兵器を作ることはできても、使い方の柔軟性や合理性がまったく見られないのは、どういうわけなのだろうか。
たとえば、戦艦大和や武蔵などの超大型戦艦は、連合艦隊の旗艦として使われていたが、決戦兵力として使用されなかった。戦争中の多くは、軍港に停泊し、連合艦隊の旗艦として存在していただけなのだ。
旗艦が必要ならば、アメリカ海軍のように陸上基地に拠点を置いて、世界的視野で作戦を練ればいいと思うが、やはり、海軍の軍人だから海の上がよかったのだろう。これも、非常に情緒的な思考である。
軍艦の艦長職は、兵学校当時から生徒の目標であり、子供のころからの夢でもあった。 あの山本五十六も、海軍次官から連合艦隊司令長官に異動しているが、海上に停泊している旗艦長門の甲板に立ち、潮風を思い切り吸い込むと「娑婆の嫌なことをみんな忘れられた」と述懐している。しかし、山本が海上に逃れたといっても、社会情勢が変化したわけではない。当座の嫌なことを忘れられたかも知れないが、問題は山積だった。
やはり、戦争を指導するような立場の人間は、軍艦などではなく、すべての設備が整えられた陸上基地で指揮を執るべきだったのだ。それが「合理的判断」なのだが、日本人は、情緒が優先され、それができるようになったのは、終戦直前のことだった。
本来、戦艦大和や武蔵などが最優秀な兵器ならば、機動部隊に随伴させ護衛任務に就かせれば、一番効果的な運用だと思うが、それができない。また、その高性能の通信設備を駆使して情報を収集し、情報艦としての役割も果たせただろう。
敵の攻撃時には、その巨体を晒して航空母艦を守り、対空用の三式弾を改良して防空任務に就くことだってできたはずなのだ。だが、それを議論した形跡はない。
アメリカ海軍は、開戦直後から戦艦部隊を空母の護衛任務に就かせたり、艦砲射撃をさせたりと、戦艦の性能を遺憾なく発揮させ、日本軍を混乱させている。
結局、戦艦武蔵はレイテ湾突入が果たせずにシブヤン海に沈み、大和は、沖縄戦に海上特別攻撃隊として投入され、鹿児島県沖で撃沈された。さらに、三番艦として建造された航空母艦信濃は、十分な試験航海のないままアメリカの潜水艦に、たった一発の魚雷で沈められてしまったのだから、大いなる無駄遣いと言われても、申し開きができない。
兵学校には、せっかく、抜群の能力を持つ優秀な人材が多数いたのだから、もっと柔軟で合理的な作戦が立てられるような環境を整えられたはずなのだが、それもない。
大東亜戦争は、海軍にとっても日本にとっても、到底納得できる戦いではなかったはずなのだ。それは、「真の実力を出し切れていない」もどかしさを感じているからだろう。
アメリカなら、こうした優秀な人材だけを集めた組織を創り、勝てる作戦を考えさせたと思う。
常に人間関係を最優先にして、序列を重んじる日本人には無理な発想なのかも知れないが、今の防衛省はどんな思想で作戦を練っているのだろうか。
井上が言うように、「趣味」の世界で数学を考えるような柔軟で合理的な思考が、あの時代も今も求められているのだ。
独人ハ曰フ、「英米人ハ金銭ノ力ニテ橋ヲ架ス、独人ハ金銭ナシ、然シ数学ニテ橋ヲ架ス、数学ハ金銭ヲ要セズ」ト。
確かに、井上が言うように、英米には経済力がある。当時も今も世界の金融の中心はロンドンとニューヨークだと言われているし、国際金融の決済はすべてドルである。
そこから考えても、この両国以外が世界経済の中心にはなり得ないことが分かるだろう。
日本にとって戦争は、あってはならない残虐な行為に見えるが、見方を変えれば、これほど多くの経済効果をもたらすものもない。
アメリカから見た第二次世界大戦は、自国に空襲を受けたわけでもなく、国民の平和な暮らしは保たれていた。死ぬのはアメリカ青年であるが、民間人ではない。
裏から読めば、アメリカは世界大恐慌のつけを戦争特需によって、すべて賄ってしまったのだ。ルーズベルト大統領は、ニューディール政策の失敗が、対日戦争によって帳消しとなり、アメリカの英雄として、今でも教科書に載せられていることだろう。
その資本力は、日本の数十倍規模かそれ以上であり、日本がアメリカと長期戦を行える体力は最初からなかったのだ。
こういう戦争は、力の国にとっては景気回復の手段であり、世界を支配するための方策なのかも知れない。その証拠に、戦後もアメリカは各紛争地域で出兵しては、戦争を繰り返してきた。特に、ベトナム戦争は大義を持たない戦争として、今でも非難されている。それも、人道的に使うべきではない爆弾や化学兵器を用い、敵国の国民を容赦なく殺戮したのだ。
対日戦争では、市民の虐殺を意図した焼夷弾による都市空襲を行い、約百万人が犠牲となった。また、広島と長崎に原子爆弾を投下し、二十万人近い市民を殺したのだ。
この原子爆弾にしても、ドイツにいたユダヤ人科学者等の亡命を助け、その頭脳や技術を使って開発に成功したものである。
おそらく、開発に拘わった科学者には、多額の謝礼が支払われたことだろう。
彼らも、この爆弾の怖ろしさについては十分に認識していたが、身の安全と多額の謝礼は、魅力的なのだ。
どんなに高名な博士であろうと、人格者であろうと、危険を冒してまで協力する謂われはないが、アメリカが提示した報酬はよほど魅力的だったに違いない。
英米は、こうした「金」の力で、世界を征服していったのである。
それに比べて、ドイツや日本は、英米ほどの経済力はないが、勤勉な性格と努力によって戦後復興を成し遂げ、現在に至っている。敗戦国でありながら、国際社会でも大きな発言力が持てるようになったのも、両国国民の努力の賜物であろう。
井上が指摘しているのは、小さな国であっても「数学的思考を養えば、大国と競える」ということなのだと思う。確かに、金銭が潤沢にあれば、英米のような戦争もできるが、小国は、知恵比べて勝たなければならない。つまり、戦争は「作戦」で決まる。しかし、残念ながら数学的思考で合理的に戦ったのはアメリカ軍の方で、日本軍は最後まで計算のない戦いばかりに終始したのは残念だった。
歴史を見れば、日本にも優秀な戦略家や戦術家はいる。
かの源義経は、大軍を擁する平家軍をその策略で悉く打ち破り、平家討伐に功績を挙げた。この逸話を知らぬ者はいない。一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦いは、多くの芝居にも取り上げられ、義経は日本歴史上最大の英雄なのだ。その義経が、奥州平泉で死なずに大陸に渡り成吉思汗になったという話まで創られ、その英雄伝説は止まることを知らない。また、織田信長の桶狭間の戦いは、小さな戦力でも大軍に勝てる見本として、当時の陸軍においても研究されたそうだ。こうした人物は間違いなく、日本人の先人たちなのだ。
だから、日本人が戦略や戦術において、英米に敵わないことはないと思う。ただ、そのような才能を生かす道を整えなかった責任はある。
江戸幕府も、明治政府も欧米に倣った制度は整えたが、日本人の才能を引き出すような制度を創り出すことはできなかった。
二十一世紀の日本は、秩序型ではなく、多少破天荒であっても、天才型の人間を発掘し、社会の発展のために役立てて欲しいものである。
数学ノ公式、其ノ他一切ハ、海軍生活ノ永ク継続スルニ従ヒ、大部分ハ忘却スベシ。サレド、養ハレタル「センス」ハ忘ルル事ナシ。数学ヲ趣味トナスニ至レバ、公式モ忘レザル程ニ之ヲ使フコトトナルベシ。
然レドモ、兵学校ノ数学教官ニシテ「余ハ、数学ニ趣味ヲ感ゼズ」ト云フ者アラバ、吾亦何ヲカ云ハン。
井上が言うように、数学が趣味の境地にまで達すれば、そのセンスは磨かれるだろう。それは、自分の思考の一部となり、数学で培われた論理性や合理性は、どんな場面でも生きるに違いない。しかし、現実は、残念ながら、そのようにならないことが多いものだ。
平凡な秀才は、必死に勉強することで何とかカリキュラムに食らいつき、やっとの思いで卒業を迎える。そんな趣味の境地にまで達する生徒は一人か二人いれば御の字である。それは、どの学校においても同様だろう。
上位十人くらいまでの生徒は、確かにIQも高く、それほど必死に努力しなくても、兵学校生活を送ることはできたはずだ。予習や復習も、自習時間にさっと眼を通しておけば、理解の定着は図れる。しかし、やっと合格した生徒にとって、兵学校の学習レベルは相当に高く、きつかったはずなのだ。その上、毎日が訓練が課せられており、体力的にもギリギリのところで生活を送っていたことは容易に想像がつく。
多くの課題を一つ一つ熟していくことだけでも、中学生時代には考えられないような、労力を使っていた生徒たちだった。
中学校を出たばかりの少年たちにとって、ゆっくり風呂に入ったり、飯を食ったりする「ゆとり」が、兵学校にはないのだ。
風呂に入ることも寝ることも、訓練なのだから、大変である。その上、一号生徒の眼が光り、サボることもできない。こうした訓練が、一人前の海軍将校としての基礎を作るのだが、生徒に余裕はなく、日々の暮らしで精一杯といったところだろう。それに、教える側の数学教官の問題もある。
井上の言うように「思考重視」の教育は重要だが、それを指導できる教官がどのくらいいるかという問題があった。
戦後教育を見ても、数学の指導で思考させる授業を行っていた高校教師は、あまりいなかったように思う。それは、解法をたくさんのパターンで覚えておいた方が試験には有利だからだ。そのため、受験生は、ひたすら過去問を解き、解法のパターンをいくつも覚えたものだ。それは、今の入試制度も同じである。そうなると、指導教官自身が経験したこともない「思考重視」の教育に転換できるのかという問題が出てくる。
明治期の詰め込み式教育でエリートとなった人たちが、急にその指導方法を変えられるとは思えない。
確かに、井上の言うように転換していくことは必要だが、そのためには、余程の覚悟でカリキュラムを見直していかないと、理想に近づくことは難しいだろう。
江戸時代、日本の算術は世界水準に達していたと言われている。その算術の大家が関孝和であろう。関は、微分積分をも理解し、欧米の高等数学を凌ぐ理論を既に持っていたという。それは、関自身が算術をほとんど趣味の世界にまで高めていたからである。
当時、算術を志す者は、神社に懸けられている「絵馬」を利用し、「算額」なる絵馬を神社に奉納したという。そして、その額に描かれた問題を算術家が解いていくのである。
その難易度は高く、現在、数学を専門にしている学者でもそれを解くのは至難だと言われているくらい、レベルが高かった。
そうした学問があったために、黒船が来航したときも、算術家たちは驚きもせず、その構造を計算し始めたという。それがなければ、自前で戦艦大和や零式戦闘機が造れるはずもないのだ。
たとえ、海軍兵学校で数学教育に力を入れようとも、大学の数学教育は、それを遥かに凌ぐレベルであったことを知って欲しい。
もちろん、井上はそれを承知しているからこそ、兵学校の教官たちに発破をかけたのではないだろうか。
「娑婆の世界の方が、貴様らよりずっとレベルの高い教育をしているのだ」
ということを、教えたかったのかも知れない。
第六節 「理化学教育」に就いて
理化学ニ於イテハ、生徒ヲシテ諸現象ヲ正確ニ観察シ、之ヲ分析綜合シテ、整理スルコトヲ教ヘ、且、之ニ習熟セシメ之ヲ習性タラシムコトニ注意スベシ。
理化学ノ諸実験、計測ヲ生徒ガ行フ場合、測定ノ誤差、観測ノ誤差、入リ来ルベシ。
実験スル立場ヨリ見レバ、此等ノ誤差ナルモノハ、誠ニ厄介物ナル故、誤差ノ入リ来ルヲ嫌フハ当然ナルベキモ、本職ヲシテ云ハシムレバ、実験ノ際ノ誤差ハ寧ロ歓迎スベキナリ。
教官ハ須ク此等ノ誤差ヲ厄介視シテ簡単ニ「之ハ誤差ナリ」ト片付クルコトヲナサズ、生徒ヲシテ、誤差ノ質的及量的検討ヲ為サシメ、誤差ニ充分親マシムルヤウ指導教授スベシ。
海軍にとって、「誤差」をいい加減に処理する癖をつけると、兵士としてものの役に立たなくなる。たとえば、今のようにレーダーが装備され、GPSで位置確認ができる時代と異なり、軍艦の航海は、海図と羅針儀、そして天測が頼りなのだ。
目的地に正しく艦を誘導するには、それらの誤差を修正しながら航海しなければならない。そのため、航海士は、常に海図に位置を記入しながら、計測によって艦を操艦するのだ。まして、飛行機の搭乗員ともなれば、いわゆる「航法」は、必須条件だった。
複座の攻撃機でさえ、敵艦攻撃後、機位を失い自爆した例は多かったという。
当時の日本の飛行機にはレーダーはなく、航空地図と無電、無線機くらいしか積んでいないのだ。それも、性能にはかなり問題があったが、最後まで改善された話は聞かない。
太平洋上での移動は、それだけでも大変な作業だったが、敵艦を攻撃し、やっとの思いで帰路についても、夜間ともなれば、海も空も真っ暗な闇の中である。
複座の攻撃機には、偵察員が乗っているが、燃料の関係もあり少しの誤差が母艦発見につながらなくなるのだ。そして、母艦も敵に察知されることを懼れて、電波を出すことや、照明を灯すことを躊躇ったという。そのため、母艦の近くまで辿り着きながら、あえなく、自爆していった多くの攻撃機があった。
そのとき、攻撃機の偵察員の多くは、
「母艦ノ武運長久ヲ祈ル…。我、コレヨリ自爆ス」
といった無電を発し、若い命を散らしたのだ。
当時の日本海軍には、優秀な兵士を救うという発想も組織もなく、みすみす救える命さえ、見殺しにする非情さがあった。
井上は、常に「合理主義」を説いたが、実際の海軍では、人命を軽視し、「勇猛果敢であればよし」とする風潮で覆われ、「潔い」ことが美しいと錯覚していたのである。これでは、人命を尊重したアメリカ軍に敵うはずもない。
アメリカ軍は、救助用の部隊を編成しており、小型飛行艇が最前線まで赴き、一人でも兵士を救う任務に就いていた。特に戦闘中は、潜水艦を近海に待機させ、戦闘終了後に、不時着した兵士を救出するのだす。
日本海軍の兵士の中にも、海に不時着し、アメリカの潜水艦や艦艇に拾われ、捕虜となった者も少なくない。
六十八期の豊田穣氏は、ガダルカナル攻撃時に乗機の九九式艦上爆撃機が撃墜され、漂流中にニュージーランドの船に救助されている。
彼は、敵に救助された後、偵察員の兵曹から、
「分隊士、死ななくていいんですか?」
という質問をぶつけられ、「まて…」と、死ぬことを制止したと小説に書いている。
当時の軍人にとって敵の捕虜となることは、恥辱以上の重罪だった。それを敢えて「待て!」と制した豊田氏の判断に敬意を表したい。しかし、一緒に捕虜になった兵曹は、戦後、自衛官になり活躍したそうだが、退官後に自殺している。それも「割腹自殺」だった。
日本が敗戦になり、連合国軍によって占領された時点で、日本人全員が捕虜になったようなものなのに、戦後、何年も経ってから自決の道を選ぶとは、あまりにも悲しい出来事だった。しかし、捕虜になったことを屈辱と考え、自決することを止められた兵曹の気持ちも分からないわけではない。
日本軍にもう少し、人命尊重の意識があれば、軍の兵器だけでなく、そこで働く兵隊に対しても、人間としての尊厳を持った扱いができたのではないかと思う。そして、最低限の「国際法」を兵隊全員に教育し、
「戦った後、敵の捕虜になってもそれは恥ずかしいことではない」
「敵もジュネーブ条約に則った対応をするはずだから、堂々と日本軍らしく振る舞え!」
とでも教えておけば、こんな悲劇は生まれなかったのだ。
井上が言うように、理化学における「誤差」を見逃さない態度は重要だが、それを徹底したいのなら、誤差を出さない兵器や機器を研究するべきなのだ。
レーダーの開発にも遅れ、無線機すら通じないような飛行機に乗せ、それでも必死に戻ろうとする戦友を誘導もせずに見殺しにする態度こそが、傲慢なのではないか。
それも、上の立場の人間には甘く、下の者には厳しい組織こそ、著しい「誤差」というものだろう。
井上は、理化学的な見地から「誤差」を修正できる将校を育てたかったようだが、物事は、すべて予定通りに進むわけではない。そこには、必ず予期せぬ「誤差」が生じ、それが勝敗を左右することもあるのだ。
その「誤差」を認めつつ、常に修正する意識を持たない限り、強い組織は作れないのだと思う。
日本が戦った多くの戦闘は、日本軍もアメリカ軍も過ちの連続だったという。その過ちを素直に認め、過ちが何であるかを追及し、研究する態度こそ、近代軍隊には欠かせないものだと思う。
海軍は科学を重んじると言いながら、八木博士が発明した「レーダー理論」に目を向けず、これを無視し、「日本兵の眼」という人間の能力を過信したつけは、大きかった。
もし、言葉通りの海軍であれば、世界に先駆けてレーダー装置を開発し、日本軍に有利なような戦闘ができたに違いない。それを己の力を過信した軍人が、科学を疎かに扱ったつけは、敗戦という形で日本人に見せつけられたのだ。
戦後、日本は戦争中の反省を基に、科学を重視する政策を採ってきた。
今、使われているスーパーコンピュータ技術は、世界最高水準を保ち、科学立国としてその技術の高さを誇っている。しかし、科学は日進月歩の例えがあるように、今日技術は明日には使い物にならなくなっていることもあるのが、科学なのだ。
実際、子供や学生は数学や理科を嫌い、文系を目指す学生が多いという。数学や理科は、実験も多く、手間と時間のかかる学問なのだ。だが、自分ではスマホを持ち、コンピュータゲームに嬉々としていながら、その構造にはとんと関心のない人間が多すぎる。
科学立国を目指そうとするなら、教育においても、もっと充実した施策を望みたい。
理化学教育ノ実施ハ、出来ル限リ実験ヲ以テシ、生徒ノ五感ヲ通ジテ習得セシムルヤウ実施スベシ。
生徒ヲシテ、「電鈴」「ラジオ」受信機ヲ作ラシムルガ如キ教育法ハ、之ニ支払フ時間ハ相当大ナルベキモ、之ニ因リテ得ル所ハ、費ス所ヲ償ツテ余アルト信ズ。
教育に「体験」は、最も効果的な学習法の一つである。
いくら頭で理解したつもりでも、実際に体験しないことには、操作することは難しいのは当然である。
井上は、戦時中の多忙な時間の中で、できる限りの体験を生徒にさせたかったのだ。
よく飛行機の操縦が難しいといわれるが、飛行機こそ、井上のいう「センス」が問われる機械だと思う。
戦争が始まると、搭乗員不足が海軍の大きな問題になり、兵学校でも卒業生の半数程度は飛行機専修に回された。そして、飛行学生として霞ヶ浦航空隊で訓練に励んだのである。
兵学校出の将校は、半年ほどの艦隊勤務を終えると、少尉候補生から晴れて少尉に任官する。そして、本人の希望や適性が判断され、飛行学生になった。しかし、飛行機は座学で学習したようなわけにはいかない。
飛行機の操縦には、離着陸だけでなく、特殊飛行や射撃、航法もマスターしなければならないからだ。まして、兵学校での将校は、前線の部隊では、早速、指揮官として数十機を率いて飛ばなければならなかった。実際、これは到底無理なやり方だったのだが、飛行機後進国の日本は、飛行機を運用した戦い方がわかっていなかったのかも知れない。
外国の多くは、飛行兵はすべて士官で編成していた。
日本のように下士官や兵が飛行機の搭乗員になることはなかったのだ。それだけ、飛行機の操縦は難しく、大空では臨機応変の対応が求められていたのである。
日本では、部下の搭乗員の中には、難しい試験を潜り抜けた操縦練習生や予科練出身のベテラン兵曹がいた。古い搭乗員ともなれば、飛行時間は一千時間を超え、日中戦争以来の飛行機乗りも、少数ながら各隊にはいたものだ。
兵学校出の将校だと威張っても、そんな部下を束ねるプレッシャーは、並大抵ではなかったであろう。一号生徒のように、大声を張り上げていれば事足りるほど、大空の戦いは甘くはなかったのだ。
古い搭乗員が激戦地で戦っていた頃、兵学校では、まだ学生のような勉強をしていたわけだから、余程、人間的にできていなければ、最前線で侮られるのは仕方のないことだっであろう。
もし、日本軍が柔軟な発想で、ベテラン下士官の中で指揮官として相応しい者がいれば、部隊長の推薦で「海軍飛行学校」のようなところに三ヶ月ほど研修に行かせて、中尉待遇で迎えればいいのだ。そうすれば、戦闘集団の指揮を執らせることができる。
戦場は階級だけでどうなる世界ではないだろう。実力と運のある者が生き残り、そうでない者には、早い段階での死が待っているだけなのだ。
こうした柔軟な発想がないから、士官搭乗員と下士官兵の搭乗員の軋轢を生むことになったのだと思う。それでも、特異なセンスを持った搭乗員は、兵学校からも誕生している。 七十期の菅野直大尉は、戦争末期の松山基地で最新鋭機「紫電改」を操り、新撰組隊長として名を馳せた。彼は、高性能の戦闘機を巧みに操り、一撃離脱戦法で多くのアメリカ軍機を撃墜している。
なぜ、若い菅野大尉が優秀な搭乗員になれたかと言うと、彼は、紫電改という戦闘機の特性を知り、それを効果的に運用する方法に気がついたからだ。それが、高速を利用した高高度からの一撃離脱戦法である。
従来の戦闘機の搭乗員たちは、一対一の格闘戦が空戦だと考えており、非常に難しいテクニックを身につけ、敵機を翻弄する遣り方で多くの敵機を墜としてきた。そのために、零戦が時代遅れの旧式機になっても、その戦法しか採れなかったのだ。しかし、菅野は、その、昔ながらの技術では自分が劣ることを知っていた。なぜなら、飛行時間も短く、それを習得する時間がなかったからだ。
菅野は、その自分の弱点を補うために、戦法を変えることを決意する。それが先ほどの「一撃離脱戦法」なのである。
これを行うためには、第一に見張りが重要になる。
なるべく早く敵機を発見し、自分に優位な位置に飛行機を移動させなければならない。そして、敵の背後から一気に加速して攻撃を加え、そのまま離脱するのだ。
たとえ零戦でも、この戦法なら優秀なアメリカ軍の戦闘機とも戦えたはずなのだ。
その証拠に、アメリカ軍の若いパイロットは、優速な戦闘機の長所を生かして、この戦法で多くの日本機を墜としている。
飛行時間の短いパイロットが、日本軍機のような巴戦をマスターするには、当然時間がかかる上に、アメリカ軍機の特性を生かすことができない。合理的なアメリカ人は、そんな無駄なことはしないだろう。
アメリカの戦闘機は、新しくなればなるほど高速化しており、その上、重武装になっていた。戦争末期に登場してきたP五一ムスタングやP四七サンダーボルトなどは、二千馬力以上の高性能エンジンを搭載しており、いくら日本軍機が巴戦を挑んでも、彼らは高速を生かして離脱してしまい、戦いにならなかったという。この戦闘機と高速を利用した戦い方なら、若いパイロットでも戦えたのだ。
日本もこのことに気づき、海軍も紫電改や雷電などの高馬力エンジンを積んだ戦闘機を送り出したが、搭乗員の空戦に対する考え方と飛行機の特性を生かすことができず、最後まで零戦に頼らざるを得なかったのだ。
菅野は、自分をよく知るタイプの性格だったのだろう。
単に周囲に合わせることはせず、自分のやり方にあった戦い方を身に付けていった。
たとえ、日本の戦闘機でも、高度差をつけて急降下すれば、その速度は通常飛行の倍近い速度になる。まして、敵の油断を突く戦法だから、敵のパイロットもすぐに反応することができない。
結局は、日米共に同じ思想で戦っていたことになるのだ。やはり、科学は日進月歩である。飛行機の性能が向上すれば、それに応じた飛行技術が必要になり、自分のやり方にのみ固執すれば、いずれ墓穴を掘ることになる。
意外と日本のベテラン搭乗員が、墜とされた原因がここにあったようだ。
こうして、菅野は自分のハンディを克服して見せたのである。こうした合理的な考え方ができる能力が、菅野直という人には備わっていたのだろう。
兵学校での成績は、けっして優秀ではなかったが、その飛行適性は抜群であり、部下にも慕われた隊長だった。こうした逸材は、兵学校教育の成果というより、本人が持っている本来の資質としか言いようがない。
普段の菅野は、物静かで、文学の好きな青年だったそうだ。一般的には「猛将」にたとえられるが、戦争がなければ兵学校にも入らず、文学者か学校の教師にでもなっていたのではないかとさえ思える。
他に、下士官出身の撃墜王、坂井三郎元中尉や岩本徹三元中尉、雷電の赤松貞明元中尉なども非常に合理的な考え方で戦う搭乗員で、長い戦争を生き抜いた猛者たちである。
そして、実戦を知らない幹部たちに対して、かなり厳しい口調で批判をしている。
やはり、信頼できない上官の指揮で出撃し、辛酸をなめたのだろう。それは、実際に指揮を執る幹部たちも、できない自分を恥じ、同じように惨めな思いをしていたのだと思う。
もし、日本海軍の思考が柔軟で、優秀な人材を登用する制度になっていたら、もう少し納得の出来る戦い方になっていたのではないかと惜しまれる。
第七節 「歴史教育」に就いて
歴史教育ニ於テハ、史実ヲ暗記セシムル必要ナシ。
国家興亡ノ因ツテ来ル因果ヲ正確ニ把握スルヤウ「歴史ノ読ミ方」ヲ教フベシ。
本職ノ此処ニイフ「正確ニ把握ス」トハ、史実ニ固着セズ、其ノ根底ヲ掴マシムルノ謂ナルニ注意スベシ。
戦後の学校教育に於ける歴史教育は、残念ながら「暗記教育」に終始している。と言うより、元々暗記に重点を置いたのは、戦前も同じではないか。
明治維新以降、政府は官軍方を善とし、幕府方を悪とする歴史観を創り、国民に宣伝してきた。そのために、日本の近代史は相当に歪められてしまっている。それ以降、歴史は史実ではなく、政治的なイデオロギーに染められたプロパガンダになってしまったと言っても言い過ぎではないだろう。そもそも、教科書の記述内容について、各方面から異議が唱えられているにも拘わらず、公的な試験にその問題が使われるのは、如何な者かと思う。
敗戦後、GHQによって大東亜戦争史は太平洋戦争史となり、アメリカにとって都合のいいような歴史にさらに改竄され、現在に至っている。
帝国主義当時の敗戦国というものは、帝政や王政が崩壊し、国民が奴隷化されても文句が言えなかった。第一次世界大戦時の敗戦国であるドイツは、帝政が崩壊させられ、ワイマール憲法という押し付け憲法で雁字搦めにされたのだ。当然、それを知っていた国民は、日本にも同じことが起こると怖れた。
日本がなかなか降伏に踏み切れなかった理由がここにある。
日本にとって「皇室」がなくなることは、日本国がなくなることであり、たとえ新しい国家体制が誕生したとしても、それは最早「日本」ではない。事実、大日本帝国憲法はいつの間にか消され、新しい日本国憲法がGHQによって押し付けられて現在に至っている。
ただし、唯一「天皇」の地位が明文化された憲法だったので、日本人は受け入れたのだ。もし、ここで皇室がなくなるような事態が起きれば、占領軍相手に再度の抵抗運動が起きた可能性があった。
日本は、完全に敗れて降伏したのではなく、戦争継続中に「天皇のご命令」によって矛を収めたまでで、陸海軍将兵の戦闘意欲は衰えてはいなかったのだ。
その事実を一番知っていたのが、マッカーサー本人だったであろう。
GHQのマッカーサー司令官はアメリカ本国の指令を受けて、天皇の地位を残した。
マッカーサー自身もフィリピンでの日本軍の強さを実感しており、厚木基地に降り立つときも恐怖で体を強ばらせていたというから、取り敢えずは穏便に占領政策を進めたいと考えていたようだ。それに、当時のアメリカ政府内にも日本をよく理解した政治家は存在していた。
日本にとって、「天皇」の地位の保全こそが、最重要課題だったのだ。
それでも、七年間の占領期間に日本のあらゆる制度が変えられた。しかし、GHQの施策は、日本人を奴隷化することではなく、二度とアメリカに逆らえない国にすることだったので、軍隊はなくなったが、国民は奴隷になることはなかった。もし、ソ連がGHQの主導権を握っていれば、多くの日本人は「強制労働」という奴隷化政策の餌食になっていただろう。そういう意味では、アメリカの占領政策でよかったと言わざるを得ない。
アメリカにしてみれば、日本人に強制労働を強いても得る物は少なく、逆に管理の問題が生じ、そんなリスクは負いたくないというのが正直なところだったと思う。
こうして、戦後の日本は、アメリカ型の民主化政策が推し進められたのである。
戦後、七十七年ほどが経過したが、明治維新から敗戦までの歴史の中での出来事が常に話題になり、近隣諸国から執拗に謝罪を求められるのは、GHQの長期戦略であったと考えるのが妥当だと思う。
歴史を初めとした教育の問題も然り、日本国憲法の問題も然りで、アメリカの占領政策は七年で終わったわけではない。アメリカは長期的展望に立って、日本国弱体計画を練り、
ジワジワと日本人の思考を変えようと企んだのだ。
それが、従軍慰安婦問題であり南京大虐殺問題につながっている。
お陰で、今でも韓国では、従軍慰安婦や徴用工という、ありもしない事実を国際社会に訴え、日本を貶めるために躍起になっているが、その姿を見てほくそ笑んでいるのが、戦勝国と言われる国々だということである。そして、それに同調した政治家やマスコミは、それを恰も事実であるかのように宣伝し、国民を誘導しようと企んできたのだ。
もちろん、それは個人や企業の勝手な動きではなく、占領政策の一環として日本に残された計画に基づく活動であり、それを司る日本人を育てていたということである。
だから、その使命を持った個人やマスコミ、企業は堂々とそれを主張し、社会的に通用する立派な肩書きや社名を持っていることを知らなければならない。
本来の歴史教育は、その、いわゆる「歴史的事実」を鵜呑みにするのではなく、「真実は何か?」を探求する学問でなければならない。
戦後、海軍は「善玉」で、平和を求めた良心的な組織だったかのような印象を持たれているが、日中戦争に引きずり込んだのは、だれあろう海軍大臣だった米内光政大将である。そして、その米内の子分が井上であり、山本五十六なのだ。
ここで井上のことを悪く言いたくはないが、当時の海軍主流派と呼ばれた米内や山本に同調し、軍務局長として戦火を拡大した責任は、井上にもある。
第二次上海事件の際、陸軍は戦争を拡大するのは泥沼に嵌まるようなものだとして反対していたものを、海軍は、渡洋爆撃までして戦争を拡大させたのだ。
陸軍の言う通りに、上海にいた邦人を海軍の艦艇に乗せ、引き上げさせる方法もあったのが、敢えてそれをせず、政府内の反対を海軍は押し切ったのだ。
あのとき、陸軍参謀本部次長の多田駿中将が必死になって派兵を止めようとしていたのに、米内がそれを罵倒し、派兵を決めてしまった事実を知らなければならない。
後に多田は、「あのとき、私が妥協せずにもっと反対しておれば」と後悔の言葉を残している。
戦争末期になると、米内は早々に「和平」を口にして、戦争終結を画策したお陰で、戦後は戦犯にも指名されず、生き残った。
大東亜戦争の中で、対米戦争は海軍の担当であり、ほとんどの海戦においてアメリカ海軍に敗れたのは海軍だということを忘れてはならない。「艦隊決戦」を叫び、あれほどの艦隊を整備しておきながら、その悉くを失うはめになろうとは、明治の海軍の人々は、唖然とした思いで見詰めていたことだろう。如何に昭和の海軍が無策だったことがわかる。
日独伊三国軍事同盟が、日米戦争の引き金になったという人がいるが、あれは後付けの言い訳である。確かに米内や井上、山本たちの時代の海軍はこの同盟に反対したが、それが対米戦争の直接の原因ではない。
あの同盟は、欧米列強に対抗するための措置であり、対米戦争に至った一番の原因は、日本軍の「南進」にあったのだ。
当時、陸軍は宿敵ソ連を打倒するために、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、同盟国ドイツの支援のために、関東軍特種演習と称して満州に七十万人以上の兵力を集めた。
そして、いつでもソ連領内に攻め入る態勢を整えたのだ。しかし、政府は日ソ中立条約を結んでいたことと、大本営内部で「南進論」が優勢を占めたために、これを断念。日本軍が北に向かうことはなかった。
戦後になって分かったことだが、この「南進論」を裏で謀ったのが、近衛首相の側近だった尾崎秀実といわれている。尾崎は、開戦間近の昭和十六年十月尾崎はゾルゲ事件に関与した容疑で逮捕され、後に死刑の判決を受けて処刑されている。
開戦直前まで首相を務めた近衛文麿は、共産主義者の風見章や尾崎秀実を重用し、政策決定に大きく関わらせており、この日本の南進政策こそが、日本を対米戦争に引き込むための最大の謀略だったという説もある。事実、ソ連は処刑されたゾルゲを顕彰し、国の英雄として現在でも讃えている。
歴史というものは、なかなか真実が見えて来ない。それは、政治を行う人間にとって、真実が暴かれれば不都合なことが多いからである。
正直なところ、米内や山本、井上らの海軍の中枢にいた軍人たちの裏での動きは分からない。ただ、傍証によって類推するしかないのだ。
ここで言えることは、大陸での中国との戦争に引き摺りこんだのは海軍であり、開戦の引き金になった真珠湾を奇襲攻撃したのも海軍だということである。
さらにいえば、真珠湾攻撃は、大本営の計画にない連合艦隊による独断案でしかなく、
山本五十六個人が計画し、山本主導で実行されたことになっているが、これも眉唾物だろう。
この太平洋方面の対米戦争の大半は海軍の戦争であり、対米戦争の敗北が大東亜戦争の敗北につながったのだ。それを終戦間際に、「和平案」を支持し、ソ連を仲介にしてまで戦争の終結を謀ったのは、海軍であり米内だった。
終戦直後にすべての責任を取って自決した陸軍大臣の阿南惟幾大将が、切腹に際して、「米内を斬れ!」と部下に命じたと伝わっているが、この戦争の責任を陸軍に押し付けて、のうのうと生き残った米内光政という男に対して、阿南惟幾は、許し難い感情があったのだと思う。
この米内は、ソ連のスパイではなかったかという噂もあるが、少なくても親ソ派の重鎮であったことは間違いない。
生き方として、井上成美という軍人は、清廉で正直な人間だったと思う。なぜなら、彼は、戦後一切の公職に就かず、世を捨てるが如き人生を送るような人物だったからだ。そして、自宅で英語塾を開き、謝礼を受け取らず細々と生きた生涯に嘘はないだろう。
おそらく、井上には、米内や山本がどういう人間なのかは充分承知していたのだと思う。そして、この戦争の責任がどこにあったのかということも承知していたに違いない。
だからこそ、井上は「沈黙」するしかなかったのだとしたら、その苦しみには同情を禁じ得ない。
「歴史を正確に把握するとは、史実に固着することなく、その根底あるものを掴め」
とは、この戦争の歴史も、教えられた史実に固執することなく、「その根底にある真実を見つけろ!」と、生き残った者たちに伝えようとしていたのではないかとさえ思える。
井上自身には、自ら、それを暴くこと許されなかった。そんな負い目のような感情が、井上の心を支配していたとすれば、昭和の日本海軍が犯した罪は、だれよりも重い。
第三章 海軍兵学校が遺したもの
第一節 明治教育の失敗
明治維新以降の日本の教育が、本当に日本人にあった教育だったのかどうか、検証してみる必要がありそうだ。
明治政府は、これまでの日本式の教育を大きく転換させた。それが、明治五年の「学制」発布である。この義務教育制度は、学校への就学率を高めたように見えたが、本当にそうなのだろうか。
江戸時代、各地で自主的に行われていた「寺子屋」は、公的なものではないかも知れないが、日本人の識字率を上げ、生活の基本となる「読み・書き・算盤」を教えていたことは、だれも否定していない。そして、それらの学習をとおして「人の道」や社会のルールを学んだのである。また、日本人は孤立して暮らすことを好まず、村単位、町単位で暮らすことを基本としている。もちろん、幕府も人別帳などを作り、地域の寺がそれを管理する制度を整えていたために、人々は公的にも管理されていたことになる。
時代劇などで悪代官や悪名主などが登場してくるので、どうも農民は搾取されるだけの存在に見えてしまうが、村の秩序を守るためには、お互い「持ちつ持たれつ」の関係で暮らしていたことは、十分理解できよう。したがって、農村や町にも寺子屋はあり、学ぶ者も多かったと考えるのが自然である。一説によると、江戸で一千軒以上、全国で一万六千軒以上あったといわれており、庶民が無学だったというのは暴論である。
明治時代以降に創られた「物語」では、貧しい家の子供たちが学校にも通えず、人買いに売られていくような話が多いが、明治時代に日本を旅行したイザベラ・バードは、日本の子供のことをこう書き記している。
「私は日本人の子供たちをいたく気に入っている。私はいまだに日本の赤ん坊が泣いているのを聞いたことがない。問題を起こしたりぐずったりする子供を一人も見ていない。日本においては親孝行が一番の美徳であり、親に対する従順が何百年にも渡って習慣として身に着いている。英国の母親たちが甘言や脅しによって子供たちに意に沿わない服従を強いていることはまだ知られていない。私は子供たちが楽しみの中で自立心を獲得するという日本のやり方に感心している。子どもが色々な遊びの中でトラブルがあった時、言い争いで中断するのではなく、年長の子供の裁定に従うというルールを身に着けることが、家庭教育の一部になっているのである。子供は自分たちだけで遊び、大人を煩わせることがない。私は普段菓子を持ち歩き、それを子供たちにあげるが、父親か母親の許しを得ないでこれを貰う子供は一人としていなかった。貰った子はにっこり笑い、お辞儀をしてそこにいる他の子供全員に配ってから食べ始めるのである。なんともジェントルだが、形式ばって、早熟な感じでもある」
これは、明治十年代の青森県弘前周辺の子供の姿である。こうした躾をきちんと受けている子供たちが、愚かであるはずもなく、彼女は、あまりにも子供もらしくない姿に、「なんともジェントルだが、形式ばって、早熟な感じでもある」という批評を加えてる。
彼女は、日本やアジアの国々も訪れ、忖度なく厳しい批評をしていることから、当時のイギリス婦人が見たそのままを書き残したものだと考えて差し支えないだろう。
もし、現代の歴史書の中で、寺子屋で学ぶ子供たちの生き生きとした姿を描き出してくれたら、江戸時代の真実に迫れるような気がする。そして、江戸時代の学びがあったからこそ、明治時代の富国強兵政策が成功したことの意味がわかるはずだ。
江戸時代は、この生活の基本を習得することによって、日本人は、仕事に就き家庭を持つことができたのである。これは、いわば「私塾」であり、「私立学校」と呼んでも差し支えないだろう。その定着していた日本流の学校制度を、西洋流の「学校」に転換したところで、何が大きく変わったと言うのだろうか。
各地では、幕府が倒れた後、新しい私塾が次々と生まれている事実がある。元の藩校を造り替え、新しい学校へと転換を図っているのだ。
房総半島の拠点であった佐倉藩では、藩校の「成徳書院」は、学制の発布前に「成徳館」として、新しい教育をスタートしている。
佐倉は、徳川幕府譜代の堀田家の領地で十一万石の城下町である。堀田家は幕府の老中を出せる家柄で、幕末にも堀田正睦の時代に筆頭老中として幕府の方針を開国に向けた実績があった。また、近代医学の祖と呼ばれた佐藤泰然の「順天堂」が置かれ、学問の町としても知られている。
藩校成徳書院は、学制以降も、私立「鹿山精舎」、「佐倉英学校」、「佐倉集成学校」「県立佐倉中学校」、「県立佐倉高等学校」と引き継がれ、進取の精神を今に残している。
これはひとつの例だが、こうした町は全国にもたくさん存在し、地域の子弟の教育には、どの地域でも殊の外、熱心に取り組んでいたということを覚えておいてほしい。
明治政府のいう学制発布の趣旨は、どこの国を指して言っているのか意味が分からない。 薩摩や長州では、身分差別が酷く、そういう状況が見られたのかも知れないが、政府である以上、全国を俯瞰した上で政策を決定するべきであった。
ところが、明治初年は未だに戊辰戦争の傷が深く、政府にも全国の状況を知る由もなかっただろう。だから、薩摩の郷士あたりの感覚で「邑ニ不學ノ戸ナク家ニ不學ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」などと、身分差別の激しい薩摩藩あたりの状況を憂えて定めたものだと思う。そして、「新政府は江戸時代よりすばらしい政策を行っている」とでも言いたかったのではないだろうか。
それが、今の「学校」につながる近代学校制度のルーツである。
確かに、中央集権国家になったことで、国の方針が各地方にまで行き渡り、「富国強兵」政策の推進には、大きく貢献しただろうが、現代でいう「個性」を大事にする教育において学校は、寺子屋や私塾には敵わない。
江戸時代の私塾は、寺子屋だけではなく、医学、数学、絵画、蘭学、英学、書、漢文、剣術、柔術など、様々な専門分野の「塾」があった。そして、寺子屋で学んだ子供の中から、才能を見い出された者は私塾に通い、高度な知識を持つ教授から指南を受けたのだ。それが、行く行くは出世の糸口になり、幕府や各大名家などに仕官する道も開けたという。 武士にとっても、それらの私塾は才能を持つ人間の集まる場であり、そこには、身分はそれほど関係がなかった。
武士の子であれ、町人の子であれ、学識の高い者が塾頭になり師範代として、入塾した生徒に教えたのだ。従って、どんなに家柄がよい子弟であっても、実力の伴わない者は浮かばれないのだ。この厳しい競争が日本の国力を高めていったのは間違いない。
それを明治政府は、学歴、階級、成績などというよく分からない基準で、社会のリーダーを選ぶ体制を作ったために、真の実力者が世に出て来れなくなったのかも知れない。
岡山の儒学者山田方谷や農学者二宮尊徳などは、農民出身の大学者である。また、土佐藩脱藩郷士の坂本龍馬が海軍操練所の塾頭をしていたことは有名だが、浪人ともなれば、身分は最下層と同じである。武士の風体をしているので武士階級かと思われがちだが、彼らは町奉行の支配を受ける町人身分なのだ。
江戸時代は、こうした才能のある人物が登用され、各分野で活躍している。
明治政府のような西洋式の登用方法では、政府の型に嵌まった人間しか登用できず、多彩な才能を野に朽ちさせるだけのような気がする。
それに、身分制度が固定的で、役職も世襲だったという説は一面的な見方で、能力がなければ譜代の家老職を務める家柄であっても登用はされない。その上、家禄が少しずつ減らされ、ついには、家格だけは高くても並の藩士と同じ扱いにされた例はいくつもあった。 先の佐倉藩では、「一芸一術」の制を設け、「免許」を受けた者は家禄を減らさず、藩の役職に登用したのだ。
それも、「免許」には区別を設けず、己の好きなものでよいという制度だったために、
佐倉藩出身者は、多彩である。
有名な人物に、近代農学者になった津田仙、産業を興した西村勝三、洋画家浅井忠などがいる。他にも順天堂からは、佐藤尚中、松本順、佐藤進らの西洋医師、外交官林董など、
佐藤泰然に連なる者も多いのが特徴だ。
たかが十一万石の大名家からでさえ、これほど多くの逸材が育ったことを考えれば、明治政府の採った学校制度など、近代の発達に貢献したとは言えたものではない。
徳川幕府は、教育に関しては制限を設けず、身分に関係なく優秀な人間を登用しようと昌平坂学問所を全国の大名家にも開いていた。各藩で優秀な人材は、江戸に出て勉学に励み、一流の学者となって各々の大名家に戻り活躍している。幕府内においても家格に拘らず、旗本や御家人の家禄の少ない家の者であっても、優秀な人材は積極的に登用し、出世をしていった者も多い。
歴史上に出てくる武士の多くは、家柄や身分だけで出世した人たちではないのだ。
こうした優れた教育制度を持ちながら、明治維新という「改革」を実行したことで、前政権のすべてを否定しなければならなくなり、明治政府も慌てて「学制」を整えたというところだろう。
新政府といっても、明確なビジョンを持っていたわけではなく、「幕府を倒しさえすれば、新しい世ができる」という強い思い込みだけが、革命を起こしたい下級武士たちを突き動かしたのだろう。それは、幕府への不満というより、自分の置かれた環境への不満が大半で、その口実に「倒幕」を叫んだに過ぎないのだ。
実際、幕府を倒してみて、気づくことがあったに違いない。あの伊藤博文などは、維新のころと日露戦争のころは、まったく違う人格のように見える。立場が人を変えたのだろうが、自分の鬱憤を晴らすことをエネルギーとした若い時代と、世界情勢がわかり、日本国を背負う立場になったときの思いが同じはずがない。そういう意味で、伊藤博文は日本の偉大な政治家になったのかも知れない。
結局、日本の教育は西洋流を模倣するしかなく、単純な「詰め込み教育」「一斉指導」方式を導入し、形ばかりは西洋風を装ったのだ。その上、藩閥政治と呼ばれるような偏った登用制度は優秀な人間の見極めが出来ず、政府内は薩摩や長州出身者など、新政府についた大名家の家来が登用されるという図式が出来上がっていったのである。
この期間に、江戸時代にあった人物主義の登用制度は廃れ、「科挙」と同じような点数主義によって登用される仕組みが出来上がっていった。
「テスト」で高得点を採るには、たくさんの知識を記憶するしかない。それも、教科書に書かれた内容を徹底的に覚え、作成者の意図を汲んだ「正解」を出せば、「優秀」という称号が得られるのである。つまり、新しい発想や着眼は不要で、過去問が正確に解ければ、それでよしとなる。こうすれば、だれが採点しても同じ結果となり、不公平感は生まれない。
この明治時代に日本に導入された試験制度は、今も尚、日本の教育界に残され問題になってきている。その究極は、大学共通試験のマークシート方式だろう。
この試験方法は、戦前のアメリカで作られ、軍隊で兵隊の所属先を決める際に使われたようだ。確かに、基礎的な知識を見るには都合のよいやり方だろう。それに、アメリカは大学に入ることより卒業が難しいといわれ、入学時の能力より、卒業時の能力に価値を置くシステムがあるから、このマークシートが入試に採り入れらても問題は少ない。しかし、日本では、大学入学時の学力が問題であり、「〇〇大学卒」の肩書きが欲しいために少しでも偏差値の高い大学へ入学しようと努力するのである。
これでは、本当の学力を測ることができず、その後の学生の努力の成果も評価できないことになる。
だれが、日本に広めたかは知らないが、歴史的に見れば一番愚かな試験方法だという評価が、いずれ下されるだろう。
「答えさえ、正解を出せればいい」
こんな試験方法で、国を動かす役職にまで登用しようと言うのだから畏れ入る。もちろん、それを導入している人たちには反論もあるだろうが、世間ではそう思っている。
「頭のよさ」を「知識の量・理解力・記憶力」と定義したことで、国民の多くは勘違いをししまったようだ。
学校の勉強はできても、新しい発想力も創造力もなく、ひたすら知識の獲得だけに邁進した青年が、海千山千の現実社会に出て行くのだ。その現実社会は、戦場と同じで何が起こるか分からない。そのための準備を怠りなく続け、いざとなれば死を覚悟して決断する能力を、テストだけで測ろうとしても無理であることは明白である。だが、他に方法がないのも事実なのだ。
今となっては、公平・公正に試験を行うとなると、だれもが見て分かるマークシートを採用せざるを得ないのだ。だから、実務者の苦労はよくわかる。
企業においても、人事担当の職員は、採用者がすぐに辞めないように、あの手この手で引き留め策を講じるという。せっかく、多くの予算と時間を使って採用した人間が、仕事に慣れることもなく「私に合いませんので、辞めます」では、人事担当者と会社の面子は台無しである。しかし、僅かな期間で履歴書とペーパー試験、面接だけでは人物の能力まで測れないのが現実だろう。だから、学歴を重視し、ペーパー試験を重視するのだ。
面接は大事だが、今や面接専門の塾も存在する。履歴書の書き方や面接の仕方にさえマニュアルがある時代なのだ。
失礼を承知で言えば、国民の代表者を選ぶ議員選挙も、未だに学歴や職歴、知名度で選ぶ傾向が強い。本当にそれだけで政治家としてのセンスが見抜けるのかと問われれば、それは無理だろう。いざとなれば、「顔つき」という曖昧な基準で投票用紙に記名することさえある。
かの、松下電器の創業者である松下幸之助氏は、優秀な政治家を育てる意図で、政治塾を創ったが、その卒業生で活躍した人物を知らない。もちろん、中にはすばらしい政治家になった人物もいるのだろうが、国民に届かないのも事実だ。やはり、「松下幸之助」を学校で育成することはできないのだろう。
明治に作られた海軍兵学校は、入校してくる生徒が揃って優秀で、海軍将校たらんとする意思も堅固である。だからこそ、やり方によっては、もっとユニークな人材を育成することができたと思うが、大正期の永野修身の実験を最後に、新しい試みは行われなかった。
やっと、大戦中に井上成美が挑戦してくれたことで、海軍としての面目は立ったのかも知れない。
こうしてみると、明治政府の政策は本当にあれでよかったのか、一度考えてみる必要がありそうだ。歴史作家として著名な司馬遼太郎は、
「明治という時代は、坂の上の雲を掴もうと、必死に山道を駆け上がった」
と表現したが、果たしてそうだろうか。それは、一部の人間にはそう見えたのかも知れないが、日本が「近代国家」として、あれより他に方法がなかったのかという疑問は残る。
小説家が小説風のナレーションをつければ、確かに「坂の上の雲」を掴もうと、必死に頂上を目指したのだろうが、さて、頂上の上からは何が見えたのだろうか。
それより、「薩長が創ったと思った近代日本を、奇しくも同じ薩長が滅ぼしてしまった」それも、「たった八十年で」と言えば皮肉だろうか。
第二節 知的な頭脳集団
兵学校は、紛れもなく明治以降の日本最高峰の頭脳集団のひとつだった。
全国から集められた優秀な頭脳は、生徒の入校時点においては、旧制第一高等学校をも凌ぐ存在で、合格の難易度は日本一高かったといわれている。そんな頭脳集団を擁しながら、その力を充分に生かしきれたかと問われれば、疑問が残るのも事実だろう。それは、陸軍士官学校においても同様だったと思う。そもそも、日本は「軍隊」という組織がわかっていなかったように思える。
日本は、明治になって初めて西洋式の軍隊を整えたが、日本の多くの武将から「軍団」をどのように創るかを学んだ形跡がないのだ。本来なら、日本式の軍隊の造り方があったのではないかと思う。
歴史を見ると、やはり、軍団として一番機能していたのが織田信長軍ではないだろうか。
信長は、徹底した実力主義を採った戦国大名である。そして、彼の発想は奇抜で、まさに天才の名を恣にした武将である。
他の大名たちは、地域に根差した領国経営には長けていたが、その分、門閥を切ることができず、組織経営というよりは、門閥経営に陥っていた。これは、徳川家康も同様だが、家康は門閥には大国は与えず、幕府の経営という権力のみを与えている。これにより一万石程度の小大名でも、老中職に抜擢されれば薩摩藩や加賀藩などの大国さえも、その膝下に跪かせることができたのだ。しかし、信長は、そうした方式を採らなかった。
柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀など、実力のある人間を積極的に登用し、大国を預けたが、ミスを犯せば、いつでもそれを奪う用意もしていた。それは、信長としては当然であり、信長にはそもそも門閥という家柄を重んじる気風がない。
織田家の大名たちは、常に「結果」を出さなければ、いつ左遷されるかわからない緊張感の中にあった。その緊張感が、よい領国経営に発揮され、軍団としても強力なものになっていったのだろう。戦国という平和な時代ではないだけに、緊張感を失うことを信長は最も怖れていたのだと思う。
明智光秀が、謀反を起こした原因は、信長による過度な「要求」だと言われているが、本当にそうだろうか。
信長は、光秀の能力をさらに引き出し、「結果」を出させようと考えていたと思えてならない。それに、光秀自身も自分個人の理由で、謀反を起こすような人間には見えない。もし、個人が理由なら、信長に浪人に戻ることを申し出て、自分の領国もすべて信長に返せばいいのだ。そういう光秀を、信長は咎めたり、止めたりすることはなかっただろう。
彼が、謀反を起こした原因は、日本国にとっての秩序を壊す怖れを感じたからであって、光秀個人の問題ではない。そういう人間だからこそ、信長は、謀反の首謀者を聞いたとき、「是非に及ばず」という言葉を吐いたのだと思う。
この信長の「能力主義」は、秀吉にも受け継がれ、徳川家康も秩序を重んじながらも能力のある者を重用する意識を持っていた。こうした能力主義は、江戸時代までで終わり、その後、明治政府に引き継がれることはなかったのである。
信長という男は、源義経と並ぶ軍略の天才だが、両者共に日本人らしさがない。
義経は、「戦神」ではないかと思わせるほどの戦術家であり、それ以外の才能は皆無に等しかったのではないかとさえ思える。だから、最後の平泉の戦いは、だれの目にもおかしく映る。頼朝軍の長所も欠点も知り尽くしている義経であれば、策を弄して頼朝軍を欺き、地の利のある平泉で易々と首を獲られるような間抜けなことはしないはずだ。だから、義経は北へ逃げ、大陸に渡ったという説が流れるのだ。
頼朝でさえ、義経の首を疑っていたということだから、案外、この逃亡説を信じていたのかも知れない。それに、義経の性格を知る頼朝は、義経が逃げることを示唆するような動きをしたのかも知れないと思うと、まさに歴史ミステリーである。
それに対して、信長の本能寺の変は、如何にも信長の最期らしいお膳立てである。それも、智将として知られた明智軍によって殺されたとなれば、信長自身も本望だったに違いない。
信長は、日本統一を果たした後は、世界を目指そうとしていたそうだが、それは何の為だったのだろうか。想像するに、信長には子供のような純粋な気持ちを持ち続け、新しいことを知りたいという欲求があったように思える。したがって、世界を奪おうというのではなく、「世界を見てみたい」という純粋さが、壮大な夢になったかも知れない。
とにかく、この二人は日本の歴史上希に見る天才であり、今の時代では到底評価されない人たちだと思う。
つまり、近代国家というもは、敢えて、そういう天才を見つける努力ができる組織を持つ体制を作らなければならないのだろう。
現在においては、コンピュータが世界中に広がり、その技術たるや日進月歩で、「明日には新しいソフトが開発されている」とまで言われている。その技術は人々の生活ばかりでなく、軍事にも転用されており、先進的なコンピュータやロボットを開発した国が真の強国となり得るのだ。また、サイバーテロと呼ばれるネットワークへのウィルスの侵入を防ぐ技術も「防衛力」の一つとなっている。
そうなると、これを扱える人間の育成が急務なのだが、日本は未だに天才を見出し、教育を施す体制ができていない。これでは、IT先進国の後塵を拝すのみで、独立国として心許ない現実がある。
日本人は、常に横並び思想が強く、突出した人間を嫌うが、そろそろ考え方を百八十度変えていかないと対米戦争の二の舞になりかねない。
前に述べた、兵学校のクラスヘッドであった平柳育朗中尉や田結保中尉などは、まさに天才に匹敵する頭脳であり、未来を予測する力が並外れていたからこそ、母校の後輩たちに「自分の道を進め!」と伝えたのだろう。
彼らこそ、駆逐艦などの初級指揮官として使うのではなく、海軍省や軍令部に籍を置き、作戦参謀の補佐的な仕事を与えれば、もっと活躍できたのではないかと思える。
兵学校は、全国から優秀な頭脳を集めたが、その使い方を知らず、ただ闇雲に「率先垂範」させただけに終わってしまった。
組織というものは、大きくなればなるほど、先が見えなくなるものだが、単に彼らの死を「勇猛果敢であった」と褒めるのなら、兵学校で学んだことはなんだったのかと問いたい。
日本という国は、アジアの小国だが、世界をリードできる民族だと思う。ただ、それを生かすも殺すも、国民だということなのだ。国民の意識が高まり、日本人に与えられた使命を果たそうと思うのであれば、人を最大限に生かす道を見つける努力をするべきだろう。
大東亜戦争では、軍民併せて約三百万人の日本人が死んだ。その人たちの死が無駄死にならないよう、未来を担っている我々が果たすべき役割は大きい。
第三節 義務を果たした青年将校たち
組織というものは大きければ大きいほど、その権威に惑わされ、真実が見えないことが多いものだ。現実に、今の日本の大企業も戦後の勢いはなくなり、斜陽産業化している企業も多く出てきている。特に、家電メーカーは悲惨な状況にあるのではないか。また、マスコミ業界も新聞は売れず、テレビも昼間から通販番組をやっているようでは、先がないだろう。インターネットが普及し、タイムリーに話題が提供されると、新聞やテレビが用を為さなくなるのは当然なのだ。さらに、ネット上での批評もストレートに書き込まれ、マスコミが社会をリードする時代は、間違いなく終わったと思う。
教育界も同じだ。
三十年ほど続いたマスコミによる学校批判は、多くのモンスター、クレーマーを誕生させてしまった。そして、縦割行政の中で「教育」と名がつけば、すべて学校に押し付けてきた結果、学校の教職員は疲弊し、ブラック化が叫ばれている。
地方公務員でありながら、残業手当も付かず、ブラック企業と同じような目で見られている異常さは、通常、考えられない。そのため、優秀な学生は教職を避けるようになり、今や、学校は国の不良債権化している。
昔は教師は聖職といわれたが、今やブラック企業の労働者に成り下がった。
子供のなりたい職業にも顔を出さなくなり、今では、「なりたくない職業」の常連ではないか。
組織というものは、大きければ大きいほど、根腐れを起こしていることに気づきにくいものだが、一度、傾き出すと急速に劣化し、倒産の憂き目を見ることになる。
後、十年も経たないうちに家電メーカーもマスコミも学校も立ち行かなくなるだろう。それと同じことが、昭和の陸海軍でも起こっていたのだと思う。いや、日本政府自体が明治維新後、五十年で根腐れを起こしていた。
歴史の経過から見ると、海軍が斜陽化したのは、大正時代の軍縮に失敗したころからだろう。
大正時代、第一次世界大戦を経験したヨーロッパの人々は、「もう二度とこんな戦争はしたくない」と強く願い、国際連盟もできた。しかし、人々が望むことと施政者が望むことは違う。そして、戦争によって巨大化した資本家たちも見ているところが違う。
それでも、世界は「軍縮」の時代へと入っていった。
軍縮は、悲惨な戦争の裏返しであり、絶対に叶えたい願望だったのだ。一人、それに気づかなかったのが、日本である。
日本は、第一次世界大戦に参戦したといっても、所詮は、アジアの遠隔地の国である。地中海にまで駆逐艦隊を派遣したり、中国の青島のドイツ軍要塞を攻撃したりと、それなりの貢献は見せたが、日本国内は特に何事もなかったかのように平和だった。そして、戦争特需が起こり、その恩恵だけを受けていたのだ。
このような状況の中で、もっと政府や軍が真剣に第一次世界大戦を見ていれば、これまでの戦争とは異なる異常事態が起きていることに気づいたはずなのだが、それは一部の人間でしかなかった。
この大戦は、日本が経験したような局地戦ではなく、国全体を巻き込んだ「総力戦」に移行していたことだった。それに、航空機が登場してきたことで、空からの攻撃を視野に入れなければならない。そうなると、海軍も従来の大艦巨砲主義でいいのかという疑問が出て来て当然なのだが、海軍は、未だに戦艦中心主義から頭を切り替えることができずにいたのだ。さらに、世界が「軍縮」に向かっているにも拘わらず、陸海軍共に軍縮に反対し、自己の利益に固執したのは、如何にも見苦しい姿だった。
もし、このとき、日本も軍部が反対をせずに軍縮を受け入れていたら、国際的な立場もよくなり、戦争に引き摺り込まれることは避けられたかも知れない。
事実、海軍では「条約派」と呼ばれた国際協調派の将官が多数いたのだから、彼らを中心に軍縮を進め、海軍の近代化を図る方法があっただろうと思う。
だが、艦隊派と呼ばれ、条約派と対立していた将官たちは、条約派の追い落としを謀り、皇族の伏見宮博恭王大将の威光を笠に、大角海軍大臣を動かした。そして、谷口尚真、山梨勝之進、左近司政三、寺島健、堀悌吉といった条約派の将官を海軍から追い出してしまったのである。
つまり、対米戦争は艦隊派と呼ばれた軍人たちによって引き起こされたものであり、米内も山本もそれに連なる軍人だったことを覚えておいてほしい。
この軍縮問題は、陸軍でも大きな問題になっていた。
陸軍で一番の課題は、人件費である。兵隊を集めて師団を組織するためには、多額の予算を必要とする。もし、軍縮を実行すれば、その人員を削減しなければならない。それは、既得権を得ている軍人たちには頭の痛い問題だった。なぜなら、兵隊を減らすということは、それを指揮する将校も減らすことになるからである。
軍人を職業としている人間にとって、軍縮は死活問題なのだ。
しかし、もし、軍縮が成功すれば陸軍の機械化も可能になり、新生陸軍はドイツのような高度に機械化した軍団になれる可能性を秘めていた。そうなれば、兵隊に持たせる小銃も自動化され、戦車も重戦車が造れたのだ。
対米英戦争の一番の問題点は非力な火力だったわけだから、人員を減らして機械化が進めば、強力な軍隊が誕生したのだが、それを陸軍の一部の将校たちは、伝統の「人海戦術」に拘り、軍縮を受け入れなかった。それは、日本国の為ではなく、己の保身が第一だったことを忘れてはならない。
結果として、海軍は無用になる軍艦を造り続け、陸軍は相変わらず「白兵戦」の訓練に明け暮れる始末で、第一次世界大戦から戦訓を学ぶことが何もできなかったのである。
図らずも、大東亜戦争が始まって、慌てて航空機の開発と増産に踏み切ったが、時既に遅く、アメリカの近代化された軍需産業の足下にも及ばなかった現実を突きつけられたのである。それに、海軍の機械化の遅れは、レーダーやソナー、無線機などの通信・情報機器にまで及び、国民は「世界三大海軍」と言われた嘘にやっと気づかされることになった。
そんな国が本土決戦を叫び、国民総特攻を命じれば、国民は政府や軍、そして皇室を見限り、新たな国家元首と政府を求めるために全国的な内乱を起こした可能性もあったと思う。そうなれば、ソ連やアメリカが介入するまでもなく日本で革命が起こり、政府が転覆する事態が起きただろう。上に立つ者が、自分の保身だけを考え、国民国家であることを忘れた悲劇である。
しかし、幸いなことに、天皇はそれを憂え終戦の詔を発せられた。このことは、日本人の心に刻まれ、今でも皇室を敬う気持ちにつながっているのだ。
天皇は国民一人一人も「赤子」と思い、民の苦しみは自分の苦しみと感じる「仁」の心を戦争中も持ち続けられ、お一人で決断されたことに感謝したい。
日本海軍は、組織自体が大きすぎたために、軍人たちは、未来永劫不滅な組織だと勘違いをしてしまったのだ。それが、敗戦という事態を招き、一瞬にして消滅していくのだから、戦争を指導した軍人や政治家たちは、自分の愚かさに改めて気づいたことだろう。
終戦をリードした米内や井上にしても、実際にアメリカの占領軍を見たとき、それは衝撃的だったに違いない。
組織というものは、大きくなればなるほどコントロールが利かなくなり、破滅が近いことがわかっていても、前例どおりに事を進めようとするものである。よく「死んでも不幸を離さない」という言葉があるが、日本海軍も同じ過ちを犯した故にわずか八十年で滅びる運命にあった。
もし、あの戦争で賞賛に値する人間がいたとすれば、それは、戦った将兵たちだけだと思う。
兵学校や機関、経理学校の卒業生は将校と呼ばれたエリートたちだったが、兵から叩き上げられた特務士官や予備学生出身の士官たちの活躍を抜きにして、大東亜戦争を語ることはできない。
ヨーロッパには、「ノブレス・オブリージュ」という言葉があるそうだが、「高貴な者の義務」を指す言葉なのだそうだ。つまり、身分や地位のある者は、国の危機に際しては、「真っ先に銃を執って戦う」という使命感のようなものをいう。
日本でも、兵学校や士官学校、大学出の若き将校や学生たちは、次々と銃を執って戦場に出て行き、その多くは還らなかった。これは、イギリスでもアメリカでも同様だろう。
日本の真珠湾攻撃を知ると、アメリカの学生たちは、国が募集をかける前に次々と軍隊を志願したそうだ。日本の学生たちも学徒出陣により徴兵猶予が撤廃されると、黙って戦地に赴いたのだ。
こうした使命感は、恵まれた者たちの義務として、昔から受け継がれていたのである。
戊辰戦争の時も、会津藩の少年たちは、次々と志願し、白虎隊員として国に殉じた。
徳川家の家来たちも、幕臣としての誇りを持ち続け、彰義隊などに加わり新政府軍と最期まで戦った。そこには自分の損得では動かない「魂」のようなものがあったからだと思う。国家とは、国の体制を言うのではない。そこに暮らす家族、仲間、そして先祖を指すのだ。
先年、国会で「愛国心」についての議論があったが、愛国心は、国家体制を愛することではない。「なぜ、日本人は天皇を敬うのか?」と問われれば、「天皇は個人ではない。この国の歴史であり、伝統であるのだ。そして、私たちのルーツそのものなのだ」と答えるだろう。
もし、また、日本に有事が訪れたら、日本の青年たちは先の大戦の若者たちと同じような行動を採るに違いない。それが、私たち日本人の遺伝子に刻まれた「魂」なのだと思う。
第四節 兵学校教育を分析せよ
ここまで、井上成美の「教育漫語」を論じてきたが、あの時代に日本の教育機関の中で、唯一冷静さを保っていたのが、海軍兵学校の校長だったというのも皮肉な話である。
それも、井上という特異な才能の軍人がトップにいたからこそできた経営だった。
井上には、「学問」というものの本質がわかっていたのだと思う。
本人は、「私は、教育とは無縁な人間だ」と言っていたが、ものの本質を見る目は確かだった。
よく井上は、
「兵学校教育は、丁稚を育てる教育ではいけない。将来、大木となるポテンシャルを育てることにあるのだ」
と言っていたが、それは、どの教育にも当てはまる。
海軍では、「海軍士官は、紳士たれ」という言葉があるが、紳士とは、「ノブレス・オブリージュ」の精神を持つ者を言い、地位や階級ではない。だから、兵学校の教育参考館から生徒の模範にならない海軍大将の肖像画を外したのだ。
私たちは、商人になるための「丁稚教育」を非難するものではないが、「すぐに使える人間を育てるのではない」、という意味は分かる。もちろん、丁稚の修行から始めて、体を通して商売というものの基礎を学ぶ商人の道も長く険しいものだろう。戦争で戦うことだけが、社会に貢献する道でないことは、井上も承知していた。そして、それは戦死した平柳中尉や田結中尉の言葉からも分かる。
敗戦後、海軍の解体とともに兵学校が閉校となり、その歴史に幕を閉じたが、その理念を踏襲する学校は、今以て生まれてはいない。
現在、自衛隊では、自衛隊幹部養成機関として防衛大学校を設立し、三軍の幹部自衛官を養成している。特に海上自衛隊は、幹部候補生学校を江田島に置き、兵学校跡地で同様の教育が実施され大きな成果を挙げていると聞く。しかし、その教育が、現代社会に与える影響は大きくはない。
一般大学を見ても、経営陣と教授陣が、大学教育を抜本的に見直そうとする気概はないようだ。
大学こそが、未来を担う青年たちを育てる場であるという認識を持ち、その教授法を考えてもらいたい。そして、学生を徹底的に鍛え、世界に通用する人間に育てることが、先の大戦で亡くなった人々への恩返しだと思う。
井上が行った兵学校の教育は、実験的とはいえ、「思考」を鍛えようとする意思は明確だった。
海軍将校が、常に現場の状況等に応じて臨機応変に判断し、時にはマニュアルにはない判断を下すことも必要となるだろう。今でも、海上自衛隊や航空自衛隊では、隣国との国境付近において、一触即発の状況の中で隣国軍と対峙している。もし、万が一の有事の際、現地指揮官は、日本国を代表しての行動が求められるのだ。
今のウクライナの軍人たちは、その有事を経験し、命を懸けて国を守ろうとしている。もちろん、政治的な判断があり、国の指導者には指導者の思惑もあることだろう。だが、現地で敵と向き合う指揮官には、そんな思惑など関係ない。あるのは、国を守る使命感だけなのだ。
日本の自衛官も隣国軍が越境し、攻撃を仕掛けてくれば、当然、自衛行動に移らなければならない。それは、緊急事態であり、政府の指示を待つ時間的余裕はないだろう。
自衛官には、国民の生命と安全を護る責任がある以上、断固とした処置を採るしかないのだ。その判断は、一瞬であり、議論の余地はない。そして、その責任は個人が負うのではなく、日本国が負うのだ。
十年以上前、中国の漁船が領海内に侵入し、日本の海上保安庁の巡視船に体当たりしてきた事件があったが、日本政府は何も動けず、逮捕した船長を中国に送り返してしまい国内で大きな議論になった。そのときの映像を政府は公開しなかったために、一海上保安官が独断でネットに公開し、公務員法違反に問われた。
その海上保安官は懲戒処分を受けたが、どちらの判断が国益に適っていたのだろうか。
敵国と交戦するということは、国民を守ることなのだ。政治家個人や、その政党を守るために国民が犠牲になるとすれば、本末転倒である。
有事は、戦争ばかりではない。日本は自然災害の多い国なのだ。地震も頻繁に起こるし、台風被害も大きい。大雨による土砂崩れ、雷雨による被害、交通事故…、瞬時に判断しなければ命が守れない事態は常に私たちの身近にあるのだ。そのときに、瞬時の判断ができる人間を育てるのが教育だと思うが、間違っているのだろうか。実は、そこにこそ教育の真理が隠されているような気がする。
教育の義務が法律により定められている理由は、何処の国においても、国民としての資質を高め、常に社会正義に基づいた正しい判断ができるよう、期間を定めて行っているものである。その国の国民だからといって、自由気ままに、勝手な振る舞いを許すために教育があるのではない。そして、国民は、教育をとおして「愛国心」を養い、労働をとおして国や社会に貢献しなければならないのである。その教育が、知識偏重の学歴偏重主義では、七十年以上も前の海軍兵学校の教育の方が数段先進的だと言えるのではないか。
当時の兵学校で行われていた教育に、現代の教育が追いついていないとするなら、戦後の教育学者は何を見ていたのだろう。
既に井上が提唱し、実践していたにも関わらず、戦後の日本の教育は、明治維新以降、少しも進歩していない。
もう二度と、海軍兵学校のような教育機関が誕生することはあり得ないと思うが、これだけ大学が設立されてきた今、井上のいう教育実践に取り組もうとする学校はできないだろうか。
英語、数学、理科、歴史など、学生の個性を尊重しながら個人に応じた支援の元に、その能力を引き出すことができたとしたら、海軍兵学校で永野修身や井上成美がやろうとしたことが実現できるかも知れない。
よく、「日本人には個性がない」という言い方をされることがあるが、それは、個性がないのではなく、個性を伸ばす教育が行われていないということだと思う。
日本海軍は、「海軍士官は、紳士たれ」という言葉を残したが、海軍士官を「日本人は」の読み替えてもいいだろう。そんな教育が未来を創る人材育成になるのではないかと考える次第である。
おわりに
私が井上成美を知ったのは、ある教育雑誌の記事だった。発行日を見ると「昭和五十二年三月一日」とある。今から四十五年も前の雑誌だ。昭和五十二年といえば、井上が亡くなって僅か二年後のことである。そこには、黒板に白墨で英語のスペルを書く老人の姿の写真と、海軍時代の参謀飾緒をつけた井上が写る家族写真があった。軍服を着た写真は若く、中佐時代のもののようだった。妻も娘も元気そうで、幸せそうな顔でカメラの前に座っている。海軍中佐であれば、昭和二年頃のものだろう。井上がイタリア駐在武官に赴任する前に撮ったのだろうか。
戦後、英語塾の姿を写した写真の井上は、ブレザーを着ているので、この雑誌の取材用に撮らせたものだろう。だが、井上が書いたであろう英語の筆記体の文字は、とても美しく、繊細な井上の性格が滲み出ているようだった。その記事のタイトルは、「反戦提督 井上成美は英語塾で何を教えたか」である。
私は、ちょうど高等学校を卒業し、大学の教育学部への入学が決まり、小学校の教師を目指して家を離れようとするころだった。
子供のころから、戦記物を読むのが好きだった私は、書店に出かけては戦記物を買って貰い、多少難しくても、貪るように読んでいた。そのころの愛読書は「大空のサムライ」で、坂井三郎の不撓不屈の精神に憧れていた。
このころは、まだ、親世代が戦争世代であり、学校の教師や身近な大人たちの中にも軍人として出征した人がいて、戦争に関する話題は日常の中にあった。
私の伯父も元陸軍伍長で、戦車兵だった。彼は千島列島の占守島の戦車隊の一員として、八月十五日後に上陸してきたソ連軍と戦った戦車第十一連隊の少年兵だった。そして、多くの戦死者を出したが、ソ連軍をそれ以上進軍させることはなかった。停戦後には、戦闘に勝利していながら捕虜となり、シベリアに抑留された経験を持っていた。
私がそのことを尋ねると、あまり語りたくはなかったようだが、その事実だけは伝えてくれた。後に、詳しく調べる中で、占守島の戦いがどんなものであるかを知った。
そんな私が教師になろうと考えたのは、子供たちに歴史の真実を伝えたという純粋な思いからだった。
だから、大学時代も歴史小説や戦記を読み漁り、卒業論文も「海軍兵学校の教育」を書いた。それを大学に提出すると、ある教授は顔を顰めて、「なんで、軍隊なんだ?」と質問をしてきた。私は、「今の時代だから、必要なんです。あの時代に目を背けて今の教育を語ることはできません」と答えると、それ以上何も言わなかった。ただ、私の担当教授は、「この論文は、よく書けているよ。よく調べたね」と誉めてくれた。
大学時代、私は「教育史」を専攻し、日本の学校制度や教育勅語、戦後教育の課題などを調べており、日本の戦後教育が、アメリカの教育使節団の勧告によって制度化されたことを知っていた。つまり、アメリカ占領軍(GHQ)の占領政策の一環として命じられたものが、日本の独立後も改正されていないということなのだ。日本国憲法といい、教育といい、日本人の手によって創られて初めて「日本の教育だ」と胸を張れるのではないだろうかと思った。
この井上成美の英語塾は、私にはとても新鮮だった。英語はスペルを覚え、英文を和訳して意味を考える勉強ばかりしてきた私には、井上の発想はこれまでの英語教育にはない考えに映った。その後、私は海軍兵学校七十三期のクラス会に連絡し、何度かの取材をとおして「海軍兵学校の教育」を完成させたのだ。
その論文は、今も私の手元にあるが、若干二十二才の学生が書いたものであり、今読み返しても恥ずかしい限りである。それでも、私から井上成美の教育が消えることはなかった。
それから、四十年近く、私は小中学校の教育に携わり管理職も務めた。その中で、私の心の中に刻まれているのが、「教えられるが故に学ぶのではない。学ばんと欲するが故に学ぶのである」という井上の言葉である。
海軍兵学校は、確かに日本のエリート校には違いないが、海軍軍人、それも指揮官たる将校を育成する軍学校である。一般の教育と同列に論ずることに異論があることは承知している。そして、昭和二十年の敗戦と共に、二度と日本に復活することのない学校である。
しかし、井上は軍人としてではなく、学校長として海軍兵学校を経営したのだ。そして、戦争に勝てる軍人を養成したのではなく、「紳士」を養成しようと努めた。だったら、一般の学校でも「紳士」を養成すればいいのではないか。紳士とは、海軍のいう「スマートで目先が利いて几帳面」であるだけでなく、「ノブレス・オブリージュ」の精神を身に付けた者を指す。
私は、教育とは本来そういうものであると思う。文部科学省は、個人を尊重し、「自分探しの旅」に出ることを勧めるが、私はそうは思わない。自分探しなどをせずとも、「世のため、人のため」に働くことこそが、人の生きる道だろう。そして、それが自分の幸福につながるのだと信じたい。
私は、井上成美という人に出会って、教師の理想を井上に求めた。そして、戦後、清貧に甘んじながらも、子供に英語を教え、兵学校の教え子たちに慕われた人生を羨ましく思う。
完
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