歴史雑学12「源義経伝説」の真実

「源義経伝説」の真実 ー鎌倉時代外伝ー                         矢吹直彦

今年のNHKの大河ドラマは、久々に鎌倉時代が取り上げられています。鎌倉時代といえば、永井路子氏の「炎環」や「北条政子」などの小説が有名で、私も何冊か読ませていただきました。非常に丁寧な取材を元に、登場人物が生き生きと描かれています。飽くまで小説ですので、人間関係などは想像によるものですが、実際に歴史の流れに沿って見ていくと、小説のような関係性があったのではないかとさえ思わされます。日本の歴史研究は、必ず文献に当たらなければならず、推論だけでは歴史として認定されることはありません。これは、学問である以上、当然といえば当然の理屈ですが、それだけでは歴史は面白くない。実際の場面を見ることができない以上、現代人は、推察しながら当時を読み解くしかないのです。これが、一般人の感想だろうと思います。よく、「徳川家康は、鎌倉時代の研究をして徳川幕府を開いた」と言われますが、私もその通りだろうと思います。家康は、鎌倉幕府だけでなく、室町幕府や織田信長、豊臣秀吉の政治を研究した上で、新しい幕藩体制を築いたのでしょう。日本の歴史の中で、徳川家康の功績は非常に大きいものがありますが、意外と本人が地味なために、人気は今一かも知れません。しかし、江戸時代といわれる二百数十年にわたり、平和な時代を築いた功績を否定することはできません。今後、益々、徳川家康にスポットが当たる日が来ることでしょう。

さて、鎌倉時代といえば、源頼朝に続く有名人は、何と言っても弟の「源義経」です。義経の平家打倒の物語は、これが事実なのか…と疑うような奇想天外な場面が続き、私も子供心にワクワクしたことを覚えています。「義経と弁慶の出会い」「頼朝との出会いと別れ」「一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦」「平泉の藤原氏」「衣川での自刃」までのストーリーは、まさに判官贔屓の日本人の魂を揺さぶります。その義経が大陸に渡り「成吉思汗(ジンギスカン)」になったという、これまた奇想天外な伝説は、いくら小説家でも書けるものではありません。「事実は小説よりも奇なり」という言葉がありますが、日本の歴史には、こうした「あり得ない」天才が登場してくるので、面白いのです。そこで、今回は、勝手ながら、私の考える「義経伝説」について書いてみたいと思います。

1 頼朝と義経の関係

「天に選ばれた人」という言い方がありますが、日本史上、まさに「天」を味方にした人物はたくさんいます。その中でも源頼朝と義経兄弟は、まさに「武家政権を樹立する」ために、天に選ばれて世に出て来た人のように思えます。鎌倉幕府は、武家政権としては日本の歴史上、非常に重要な時代の転換点となりましたが、幕府の体制は、まだまだ未完成で、家人同士の争いも熾烈でした。そういう意味では、たとえ源氏の御曹司と言っても、頼朝や義経の政治基盤は非常に弱く、綱渡りのような政権だったようです。特に頼朝は、所詮は流人(犯罪者)の身であり、自分に忠義を尽くしてくれる家人はほとんどいませんでした。後の徳川家康などとは置かれた環境がまったく違います。家康の少年期は今川義元の人質として不遇な時代ではありましたが、領地である三河には、譜代の家臣団がありましたので、それが、後の天下統一の要になりました。しかし、頼朝にはその自分の右腕となる家人がいないのですから、平家打倒を叫んでも、まるで雲を掴むような話です。そして、唯一、頼朝は北条氏という嫁(政子)の実家が頼りでした。嫁の実家といっても、所詮は伊豆の小豪族でしかない北条氏を頼んだところで、たかが知れています。それに、嫁の実家など、妻と離縁(若しくは死別)してしまえば赤の他人。絆と言えるほどの関係性はなく、結局は同じく平家に不満を持つ関東武士団に担がれた源氏の棟梁という「旗頭」でしかありません。その「旗」も、使えないと思われれば、別の源氏の御曹司にすげ替えられるだけのことです。頼朝の立場になってみれば、これほど脆弱な主従関係はなく、常に不安がつきまとう毎日だったろうと思います。たとえ、それが一族といえども、いつか裏切られることを想定しておかなければなりません。事実、同じ源氏の中でも争いが絶えず、逆に平氏の武士でも、頼朝に従う者もおり、この時代の人間関係は複雑です。まして、「弱り目に祟り目」という言葉があるように、落ち目になれば、家柄や血筋など、なんの影響力も持たないことは、歴史が証明しているところです。この当時の武士に、後の武士道に照らして、「忠義」などという道徳を説くことの方が無謀というものでしょう。江戸時代には、家康が朱子学を国学にしたように、孔子を崇め、論語を活用して「武士道」という道徳的規範が生まれました。これにより、武士は庶民に道徳を説く「聖人」の役割を担わせたのです。「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という葉隠の一節が有名ですが、まさに、武士は常に「死」を意識する存在でした。自分や家、主君の名誉を守るためなら進んで死を選ぶ…などという発想は、どこの世界にも存在しません。だから、家康は天才なのです。鎌倉武士には、元々、そんな思想はありませんから、弱肉強食の世界で生き、「弱い者が負ければ、死ぬだけのこと」という死生観だけで生きていたはずです。そうなると、武士は強い者に従い、棟梁が弱いと見るや簡単に排除して、リーダーに相応しい棟梁にすげ替えるのを厭いません。結局は、「ご恩と奉公」という損得勘定で勝負するしかないのが鎌倉武士の世界なのです。そんな政権基盤の危うい中で、義経は頼朝の前に姿を現しました。

平泉で藤原秀衡の庇護されていた義経は、ここで武士としての教養を身に付け、源氏の復活を夢見ていたのだと思います。ただ、秀衡にとって源氏が再び立ち上がり勢力を高めることは、けっして喜ばしいことではないはずです。中央に平家一門がおり、さらに、源氏が立つとなると、奥州の地も騒乱に巻き込まれる可能性があるからです。秀衡は、あらゆる情報網を使って平家と源氏の動きを探り、その上で義経を頼朝の元に送ったのでしょう。この時点で、秀衡は頼朝に敵対する意思はない…と見るべきです。若い義経は、そんな秀衡の思いとは別に、「兄が、平家打倒に立った」というニュースを聞くと、勇んで頼朝軍に合流するために平泉を出ました。やはり、秀衡にとっても平家がこれ以上、武士の頂点に君臨することは、面白くなかったはずです。そして、平家と源氏が争い、双方共に力を使い果たしたときが、藤原氏が天下を奪う好機なのです。それくらいの強かな計算の元に、義経を送り出したのでしょう。それも、僅かな手勢だったと言いますから、最後は頼朝の出方次第というところで、探りを入れるには恰好の人物だったといえます。それが、有名な「黄瀬川の対面」という場面になりますが、血縁関係の薄い頼朝にしてみれば、母こそ違い、父義朝の血を継ぐ弟が馳せ参じてくれたことは、嬉しかったに違いありません。平泉の藤原の保護を受けていたことは、承知していることですが、それでも尚、自分を兄と慕う義経の姿からは、裏の意図は感じられなかったはずです。この時代の兄弟ですから、血縁はあっても兄弟らしく一緒に生活したことはありませんでした。頼朝にしてみれば、最初は「兄弟を名乗る他人」のような感覚だったのかも知れません。流人生活が長かった頼朝によって、義経は、源氏の嫡流ではあっても、使える武将かどうか見定める必要がありました。ただ、側に血縁のいない頼朝にとって「同じ父親の血を受け継ぐ者」という安心感はあったでしょう。何を考えているか分からない坂東武者たちばかりの中で、兄と慕う弟が可愛くないはずがありません。その上、同じ源氏の嫡流として「平家打倒」は、共通の宿願なのです。腹の中は分かりませんが、二人が手を取り合ったのは当然のことでした。しかし、その共通の敵を、義経がその能力を発揮して、次々と打ち破ってしまうと、頼朝が義経に対して「怖れ」を抱いたことは間違いありません。実際の戦闘場面を見ていない頼朝は、使者が届ける報せだけが、平家に勝利している証なのです。実際の義経や家人たちの苦労が分かるはずがありません。この同じ戦場で戦ったという仲間意識を頼朝は味わうことがないのです。だからこそ、冷静に分析できるとも言えますが、逆に言えば、今で言うスポーツの「試合」を見ている観客のような感覚でいたことも事実でしょう。その場にいないのですから「監督」でもありません。義経の活躍が届くたびに、「こいつは、一体何者だ?」という疑心暗鬼が心の中でざわめき立つのを抑えきれなかったはずです。それが、頂点に立つ人間の宿命です。頼朝は、周囲の家人たちが口々に義経を褒めちぎり、「軍神」だの「天才」だのと言われて、嫉妬しないはずがないのです。同じ源氏の嫡流として、いつ立場が逆転してもおかしくはありません。「自分が死ねば、次の鎌倉殿は、義経か?」という思いは、ずっと消えなかったはずです。兄弟とはいいながら、肉親の情がそれほどなかった頼朝にしてみれば、その嫉妬心が憎しみに変わっても仕方がないと思います。「こいつ、いずれ、俺の地位を奪うかも知れんな?」という疑念は、頼朝本人だけでなく側近の家人たちも抱いたはずです。後の、家人同士の争いを見れば、鎌倉時代の武士が非常に疑り深い、嫉妬心の強い男たちだったことは分かります。たとえ、一緒に戦った仲間であっても、利益が絡めば、互いの足を引っ張り合い、それをきっかけに「〇〇の乱」を引き起こしています。これは、乱が起こったというより、乱を起こすように仕組まれたと考えた方が正解です。調べて見ると、宴席で口走った言葉や、些細な行動を疑われ討伐された武将も多く、生涯を全う出来た鎌倉武士は一体何人いたのでしょう。まるで、殺し合うことをゲームのように楽しんでいる風に見えます。あの頼朝でさえ、落馬事故で死んだことになっていますが、そんなに都合よく落馬などするはずがありません。おそらくは、事前に毒を盛られたか、馬に細工をされたか、とにかく「暗殺」によって殺されたと考えた方がいいように思います。それくらい、鎌倉時代の武士が、常に「自分と一族優先」で生きていたかが分かります。そして、自分に敵対しそうな人間を早め早めに追い落としていくのです。まさに、戦後のスターリンや毛沢東たち独裁者と呼ばれた人たちの所業と同じことが行われていました。だから、鎌倉時代をドラマや小説で描くと、明るさがなく、陰気な暗い雰囲気が漂ってくるのだと思います。

2 義経の性格

さて、平家打倒に活躍した源義経という人物ですが、彼の行動を見ていると、「協調性のない頑固者」というイメージがあります。これは悪口ではなく、そう見える…ということです。なぜなら、協調性のある人間なら、周囲の武将としての先輩方の意見を尊重し、かなり妥協した作戦を考えるものですが、そうした形跡は見当たりません。若い割に、上から目線での発言も多く、源氏の御曹司、頼朝の弟という権威を楯にやりたい放題の戦をしていたようです。もちろん、だからこそ平家打倒を成就させることができたのですが、人間は成功したからといって、すべて「よし」とできるほど、心は広くありません。まして、鎌倉武士は粗野で、嫉妬心の強い野武士集団です。テレビドラマでも、当時の武士の教養の低さが取り上げられていましたが、江戸時代の武士とは違い、余程意識していなければ、武芸以外の教養を身に付ける暇も必要性もなかったと思います。それだけに、「戦士」としての能力には長けていても、政治力もありませんし、道徳的素養もどの程度あったのか疑わしい限りです。そして、彼らは皆、気に入らなければ、だれにも従属しないことを誇りとする「独立性」の高い孤高の戦士なのです。江戸時代なら、武士は「仕官」してこそ、武士階級に属することができましたが、浪人になれば、刀は挿してはいても、町人や農民と同じ扱いにしかなりません。武士は、主君に仕えてこその身分なのです。しかし、鎌倉時代の武士は、まだまだ草創期の時代です。武士なのか農民なのか、山賊なのかよく分からない者もいたことでしょう。氏素性は名乗っても、怪しいものです。但し、戦場でそれなりの働きを見せれば、周囲は武士として認めたのではないでしょうか。

そんな武士たちが、平家打倒という美味しい手柄を義経に奪われて、面白いはずがありません。それでは、多くの恩賞を得ることもできなくなり、武士たちが不満を持つのは当然でした。後の「元寇」においても、国難に馳せ参じるといった武士の矜持はあったでしょうが、何よりも自分の手柄を立てて恩賞を得たいと考えて戦ったのが本音です。しかし、元軍を退けたといっても、敵は外国勢力です。防衛戦では、敵から奪う物はありません。だれもが承知していても、やはり、恩賞を得たいのは同じです。だからこそ、戦う前には自分の出身と生命を声高に名乗り、正々堂々と戦うことを旨としていました。こうしておけば、周りの兵たちが後で証人になってくれたからです。この習慣は戦国時代まで続き、武将たちが、生首をいくつもぶら下げて戦ったという話が残されています。そんな武士団(家人)を相手にしているのですから、十分な褒美も出せない鎌倉幕府としては、非常に苦しい状況に追い込まれました。恩賞が十分に与えられないことを知ると、家人たちは、単純に「恩賞も碌に出せない鎌倉殿など必要ない」と考えるようになるのですから、「恩と奉公」の関係性は、怖ろしいものです。義経の戦いの時も、おそらくは、戦いに勝っている間は口を噤んでいても、終われば、仲間うちでは不満も相当に出たはずです。梶原景時という武将が歴史上では悪玉に描かれていますが、それは、飽くまでも家人たちを代表した姿だと考えるべきです。義経は、この景時と対立したことで、頼朝の勘気を被るというストーリーですが、義経の至らなさは、こうした鎌倉の家人たちの心情をあまり考えていないことです。作戦は作戦として、勝利した後は、協力してくれた家人たちを持ち上げ、できる限りの恩賞が与えられるように配慮していれば、景時たちの印象も随分と違ったものになっていたでしょう。義経の側近にもそれを助言できる者はいませんでした。まして、戦場で多くの血を見た武士たちですから、気は昂ぶっています。酒が入れば、声も大きくなり、不平不満は世の常です。戦場での兵隊の癒やしといえば、「酒と女と金」に決まっています。義経も多くの女性を抱え、その一番のお気に入りが「静御前」だったのですから…。そんな殺伐とした雰囲気の中でも義経は、我関せずを貫き通し、自分の信念(勘)に基づいて、次々と新しい戦法を生み出し、武士たちに命令を下していきました。その戦い方は、次第に鎌倉武士たちを圧倒し、義経に尊敬の念を抱く者も現れたと思います。しかし、逆に、その圧倒的な力を怖れ、反感を持つ者が出てくるのも当然でした。こうして、義経の知らないところで、親義経派と反義経派ができていくのです。梶原景時は、無論、反義経派の代表格でしょう。分かりやすく言えば、親義経派は、戦場だけが生き甲斐とでもいうような「武闘派」が多く、反義経派は、頭の回転の速い「政治派」が多かっただろうと想像できます。江戸時代でもそうですが、剣に生きる武士たちは、政治には関わらず、自分の剣技にのみ拘った生き方を選びますが、政治に目覚めた武士たちは、政治の中枢に入り天下を治めたいと、勉学に励み、出世を望みます。義経は、まさに武闘派の旗頭だったのだと思います。そして、それを支持する鎌倉武士も相当数いたのです。知らず知らずのうちに、こうした派閥ができていたことに気づいた頼朝は、義経を怖れ、いずれ排除しようと考えていたのだと思います。

義経は、戦場でその力を発揮する武将です。幼少期から天狗に総合武術を学んだような男ですから、人並み外れた武芸と知力、胆力を持つスーパーマンでした。普段は、ぼんやりしていても、一度、戦場に出れば勇猛果敢に部下を指揮し、徹底的に敵を殲滅するまで戦うような武将でした。そのため、戦場で義経に逆らうような人間はいなかったはずです。だれもが、命は惜しいものです。だから、安全策を講じようとしますが、義経にはその感覚すらなかったのでしょう。「怖れを知らない者」こそが、戦場では一番怖ろしいのです。そんな義経ですから、部下の将兵に下す命令は非情です。「勝つためには、己の命さえ捨てられる」という感覚は、普通の人間には分かりません。有能な指揮官というものは、常に「率先垂範」を旨とし、自ら先頭に立って指揮を執ることを喜びとしていました。自分に向かって矢玉が飛んできても、それに怯まず、敵を圧倒できる大将に、多くの兵は従うものです。その点、頼朝には、戦場の勇猛な指揮官というイメージはありません。もちろん、鎌倉武士にとって「旗頭」の頼朝を失うことはできませんが、実際に戦場で戦いっている武士(家人)たちにとって、尊敬できるのは「義経」の方だったと思います。一ノ谷、屋島、壇ノ浦と続く平家打倒の戦は、義経の戦でした。だから、彼は日本史上最高の英雄なのです。

結局、戦が終われば、残るのは政治の世界です。頼朝が最も得意とする政治の世界では、義経が活躍できる場はありません。後白河上皇や周囲の人間に上手く利用され、義経は頼朝の意を汲んだ行動を採ることができませんでした。捕虜にした平宗盛を連れて鎌倉に入ろうにも、頼朝は義経を鎌倉に入れることを拒みました。凱旋将軍を源氏の棟梁が迎え入れない…ということは、本来あってはならないことです。だれもが、平家打倒は義経の功績だと知っているのに、それを無視するかのように義経を京へ追い返してしまいました。義経は「腰越」で、頼朝に詫び状を認めたといいますが、既に政治の世界で動いている頼朝には、何も響かなかったのでしょう。頼朝の頭にあるのは、最早、滅びた平家のことなどではなく、源氏の棟梁として、武家政権を打ち立てることでしたから、戦うことしか知らない義経が邪魔になって当然でした。しかし、この戦の大功労者を排除したことが、源氏の世を早く終わらせた原因だと思います。頼朝は、既に京の貴族と同じような政治家になっており、自分や周囲の者たちが武士であることを忘れてしまっているかのようでした。武士には武士の価値観があります。それは、「戦場で勝った者が、一番尊ばれる」という価値観です。そうでないなら、だれも「武士」を名乗らないでしょう。平家が犯した過ちは、武士でありながら貴族化したことにあります。頼朝は、武士たちが最も嫌う「貴族」になっていることに気づいていませんでした。鎌倉に立派な屋敷を建て、自分の周りには武士ではなく、武士とは名ばかりの有能な文官ばかりを置けば、自然と貴族化していくのは当然です。中でのしきたりも自然と京風の雅さを求めるようになり、都から来た文官の地位も上がっていきました。武士たちにしてみれば、「戦場に出たこともない奴らが、威張り腐りやがって…」と考えるのは当然です。その点、義経は自分たちが憧れる「軍神」です。ただ、空気が読めないのが最大の欠点でしたが、それでも、武士として平家討伐という大殊勲を挙げた以上、その功績は大いに褒められるべきものだと思っていたはずです。それが、政治的な思惑があったとしても、鎌倉に凱旋将軍として迎え入れない頼朝の態度に呆れ、愛想を尽かした武士たちが多くいたことに、頼朝も、その側近も気づきませんでした。このことが、源氏が三代で滅んだ原因です。もし、義経を粛正するにしても、タイミングが悪すぎます。やはり、一度は「凱旋将軍」として、鎌倉に迎えて歓待し、それ相応の立場で遇するべきでした。頼朝が征夷大将軍になったのなら、義経を副将軍にして、後年の水戸光圀のようにすればよいのです。義経を兄弟として遇し、その信頼関係を背景に、鎌倉を守る軍団長として君臨させれば、その後の統制が取れ、家人たちの醜い争いも起きなかったかも知れません。後に「元寇」という国難が起きるのですから、義経に鎌倉ばかりでなく、京を初め、日本の防衛拠点の整備に当たらせてもいいだろうし、奥州藤原氏を鎌倉に従わせる使者に遣わしてもいいでしょう。義経には、まだまだ使い道はあったはずです。それを、義経の未熟さと失態を理由に粛正してしまえば、だれも頼朝という大将を敬なくなります。家人たちも「次は自分か?」と首を竦めはしても、心の底から頼朝を信頼し、忠義を尽くす武士はいないのです。面従腹背という言葉どおり、頼朝は義経を排除したことで、鎌倉武士から見限られたと考えた方が自然のような気がします。

3 義経の最期

義経の最期は、奥州平泉において藤原泰衡に攻められ、敢えなく妻子を道連れに自刃したというあっけないものでした。軍神とまで讃えられた義経の最期にしては、あまり策がなく、少し腑に落ちない結末です。奥州藤原氏といえば、金色堂で有名ですが、藤原氏三代の栄耀栄華が語られる北の都です。おそらく、その軍勢は数万はいたでしょう。勢力範囲を考えれば、今の東北地方全域に及んでいたはずです。その奥州の覇者である藤原氏が、たとえ、鎌倉の勢力が高まっていた時期だとしても、大した戦もせずに、易々と滅ぼされるのは合点がいきません。まして、先代の秀衡が頼朝の追及から逃げてきた義経を匿った時点で、対鎌倉は鮮明になったはずです。ならば、義経を匿った時点で軍議を開き、対鎌倉軍との決戦を考えたはずです。それは、ある意味、平家軍との戦よりも熾烈な戦いになったことでしょう。東北地方は、中央に奥羽山脈が連なり、東と西に分断される地形で、その東西には太平洋と日本海という大海があります。中央部も奥州街道が山沿いに連なっていますが、大きな平野は仙台あたりまで出ないと出て来ません。河川も多く、阿武隈川や最上川などは、春になると雪解け水が溢れ、一度大雨でも降れば洪水になります。したがって、平家戦のような海上戦闘にはなりにくいのです。その上、大軍を一気に展開できる平野もなく、たとえ、鎌倉軍が大軍で襲来しようとも、地の利を得た奥州軍がゲリラ戦を展開すれば、個々に撃破することができるのです。鎌倉の家人たちは、東北の雪や寒さも知らず、山岳戦の経験もありません。当時の馬では、この険しい山道を登るだけで使い物にならなくなったでしょう。その点、奥州の馬は、馬体は小さくても「寒ざらし」で鍛えており、その我慢強さは鎌倉馬の比ではないはずです。また、奥州の武士は、我慢強さで有名です。大東亜戦争時においても、東北地方の兵隊は我慢強く、粘り強い特長を持っており、西の軍隊に比べて精強でした。さらに、日々、野良仕事や山仕事で鍛えた体は、関東の武士に負けなかったはずです。それが、なぜ、泰衡は秀衡の遺言すら守らず、早々に義経を討ってしまったのでしょう。一説では、「泰衡の弱い性格」と「藤原氏の内紛」を見抜いた鎌倉が、義経暗殺を仄めかしたと言いますが、名君と呼ばれた秀衡が指名した泰衡が、歴史に描かれたような凡庸な武将だったとは思えません。ならば、当然、義経を最高指揮官(大将)とした対鎌倉戦を想定していたはずです。それが、一転して「暗殺」してしまうのですから、訳がわかりません。きっと、何か裏事情があった…と考えるのが自然です。あるとすれば、秀吉が得意とした「調略」でしょう。だれが動いたかは分かりませんが、家人の中で奥州に縁のある武士が選ばれて、各東北地方の有力武士たちに働きかけたということです。その結果、藤原氏自体が内部分裂を起こし、戦う以前の状態に陥ったことが考えられます。確かに、秀衡にはカリスマ性があったようですが、泰衡にはそれほどの資質はないでしょう。常識的に見ても、信長の後継者には、信長を超える人材は出て来ませんし、秀吉の後の秀頼、家康の後の秀忠を見ても、父親ほどの才気はありません。そこが、藤原氏の弱点だったのかも知れません。

それでは、義経は、やはり泰衡の裏切りによって殺されたのでしょうか。考えられるのは、「分かった上で、自ら死を選んだ説」と「暗殺死の狂言を演じて、逃亡した説」の二つです。最初の説は、義経という人間らしくない行動です。義経は、どちらかというと周囲の空気を読まず、自分の考えのみにしたがって行動するタイプの人間です。平泉に義経の安住の地があったとすれば、それは秀衡というリーダーの懐の深さだったように思います。少年期に京から平泉にやってきた源氏の御曹司を匿い育てたのも、「この男がいつか藤原の役に立つ」と考えたからで、善意だけで受け入れるはずもありません。もし、このことが平家方の耳に入れば、藤原氏の禍となることは明らかだったからです。もちろん、内部でも反対意見はあったと思いますが、それを、秀衡の「儂に任せておけ!」というひと言で、義経は秀衡の庇護されたのでしょう。しかし、秀衡の子供たちは、義経をどう思っていたかは分かりません。秀衡の死後、兄弟でも意見の対立があったようですから、なかなか、秀衡の跡を継ぐリーダーが育たなかったことだけは確かなようです。そうなると、義経を味方に付けた方が有利となるのは明らかです。ここは、好き嫌いという感情よりも、「義経」という強力な指揮官(武器)を手に入れるかどうか…という判断だったと思います。逆に敵に回せば、これほど怖い存在はありません。「空気を読まない性格」だけに、義経という武将は、危険な火薬庫のような存在なのです。

秀衡が死んで、泰衡が跡を継ぎましたが、秀衡は、最期に、「鎌倉と事を構えるときは、義経を大将に戦え!」と命じたと言われています。つまり、平家滅亡後に義経が平泉に来たときから、秀衡は「対鎌倉戦」を想定していたのです。そして、着実にその体制を整えていたはずです。そうなると、やはり考えられるのは、鎌倉方による調略が功を奏し、平泉は戦う前から切り崩され、たとえ義経がいようがいまいが、軍勢が整わなかったということです。そうなると、藤原氏が生き残る最後の手段は、泰衡が行ったように、義経を暗殺することです。歴史では、義経は泰衡の軍勢に不意を襲われ、自刃したことになっています。「弁慶の立ち往生」が起きたのもこの時のことでした。しかし、これでは、戦術家である義経らしさがありません。「空気を読まない」いや「読めない」義経が、平泉の藤原軍の体制が整っていないことに、すぐ気がつくはずです。義経にも数名の家人はいました。元々は、秀衡が付けた家人たちですから、平泉の内情を知らないはずがないのです。もし、そんな情報を耳にすれば、政治的な動きのできない義経ですから、さっさと逃げることを考えたでしょう。「泰衡はばかだ。あんな男には付き合いきれない…」そう言って、逃げるルートを研究していたはずです。つまり、あの暗殺は「狂言」以外の何ものでもありません。というのが、結論です。要するに、義経は秀衡が亡くなった後、藤原氏の怪しい動きを感じると、家人たちに命じて逃げる算段をしました。それは、まだ、秀衡の影響のあるルートだったに違いありません。もしかすると、そのルートを教えたのは秀衡本人だったかも知れません。

秀衡自身が、泰衡に後を託して亡くなりますが、その武将としての器量を見抜いていたのは父親である秀衡自身です。その秀衡が、自ら庇った義経という人間を易々と殺させようとは考えるはずがありません。そこで、自らが義経を自室に招き、逃亡ルートを授けたとしても頷けます。「よいか、九郎。泰衡に鎌倉に対抗する力はない。それに、あの小心者では、九郎を頼んで一戦に及ぶ度胸もないであろう。さすれば、これを見よ。この地図を頼りに北へ逃げよ。津軽には水軍の安藤もおる。蝦夷地まで逃げれば、鎌倉もどうしようもないはずじゃ…」。こんな会話が想定されます。義経にしても大恩人の秀衡の遺言を無視することもできません。それに、義経自身が平泉に来て、鎌倉に対抗できないことくらい、すぐに理解していたはずです。ひょっとすると、秀衡に言われるまでもなく、義経自身が既に計画していたことかも知れません。そして、衣川で死んだ「義経」は、義経を慕う忠実な部下の一人だったと思われます。当時から影武者がいたかどうかは分かりませんが、偽物ながら「義経」として死ぬのなら本望という武士がいたとしても不思議ではありません。だから、義経の首は、どうなったのかも分からないのでしょう。本来なら、鎌倉のどこかに「義経公の首塚」があって然るべきですが、その存在は確認されていません。もし、うち捨てられていたとしたら、当時の武士たちの感覚からしたら、まったくあり得ない発想です。源義経は、鎌倉武士にとって「軍神」であり、「八幡様の化身」なのです。その首があるのなら、我が家の「守り神」として密かに埋葬し、子々孫々にまで受け継がれるはずです。その形跡もないことから、鎌倉武士は義経が死んだことを、だれも信じてはいなかったのです。

4 義経北行伝説

私が義経の北行伝説を知ったのは、推理小説家の高木彬光氏による「成吉思汗の秘密」を読んだことが最初でした。当時は、インターネットはなく、調べたければ図書館等で本を漁るしかありません。それでも、調べて見ると、義経北行伝説は広く知られていることが分かりました。明治時代には、外交官、学者として有名な末松謙澄が論文を書いていることもあり、かなり信憑性があると感じたものです。これを単なる「伝説」「判官贔屓」として済ませてしまえば簡単ですが、何もジンギスカンにならなくても、「北行伝説」自体は非常に高い確率で可能性があったように思えるのです。今は、ネットがありますから、多くの説を見ることができます。そして、義経伝説の残る場所を辿っていくと、間違いなく北海道に渡れるのです。もし、義経が平泉を脱出したとすれば、高木彬光が言うように、藤原氏の「黄金」と関係があるように思います。中尊寺の金色堂は、まさに黄金の御堂です。そして、そこには様々な鉱物(宝)が埋め込まれており、藤原氏が大陸と交易していた可能性を示唆しています。私は、青森県に住んだこともありますので、津軽地方の豪族に「安藤(安東)氏」がいたことは承知していました。安藤氏は「安藤水軍」として知られており、北東北を拠点にしていた豪族です。津軽には十三湖(湊)という湖がありますが、外海に通じていて、津軽半島からなら北海道(蝦夷地)はすぐ目と鼻の先です。これなら、当時の日本の和船でも交通は可能です。安藤水軍なら、アイヌとの交流もあり、交易が盛んだったはずです。当然、藤原氏の影響下に置かれていたと思われますが、関東の鎌倉には、どのくらいその情報が入っていたかは不明です。戦国時代や江戸時代初期には、あまり蝦夷地の話は出て来ませんので、現地の豪族がたとえ盛んに交易していたとしても、鎌倉や京にその情報が入るのは、難しかっただろうと思います。当然、頼朝が征夷大将軍になった後は、興味を示したはずですが、義経を攻め滅ぼす段階では、そんなことを考える余裕もなかったでしょう。奥州藤原氏と安藤水軍の関係がわかれば、義経北行説もかなり信憑性を持たせられると思います。そして、安藤氏が鎌倉幕府の支配下に置かれるのは、平泉の藤原氏が滅亡した後だと思われますので、津軽まで平定するには、義経の死後かなり経過していたはずです。そうなると、義経が北に逃避行した時点では、安藤水軍を頼った可能性は否定できません。安藤氏は藤原氏と共に、蝦夷地のアイヌとの交易を行っていた噂がありますから、アイヌの部族に義経を託したとも考えられます。そうなれば、義経の北行伝説は、かなり信憑性を増すというものです。そのアイヌ人が、舟で海峡を渡り大陸へ通じる道を知っていたとしても何ら不思議ではありません。そこから先は、まさに未知の世界です。最後に、高木彬光氏は「ジンギスカン」という名前を漢字で「成吉思汗」と書くと説明しています。これを和読みすると、「成す・吉(よし)・思(も)・汗(かな)」と読み、静御前が頼朝の前で義経を偲んで謡った歌の「しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」の返し歌として、義経がモンゴルでの自分の名としたと推論しています。何の証拠もありませんが、歴史には時々、こうしたいたずらが隠されているものです。

5 鎌倉幕府は、北条氏が創った

頼朝の死後、源氏は頼家、実朝と続きますが、すべて早く亡くなってしまいました。この中で頼朝以外は、殺されています。その頼朝も一説では「落馬事故による死」ですが、それを本気で信じる人はいません。当然、「吾妻鏡」という鎌倉幕府の公式文書にはそう書かれているのでしょうが、普通に考えれば、どんな弾みかは知りませんが、馬に乗り慣れている武将が、そう易々と死に至るような落馬事故を起こすわけがないのです。つまり、頼朝は家人たちに見限られ、勢力争いの中で暗殺されたのです。その後も、源氏の嫡流など意味を為さないことを覚った家人たちにより、次々と暗殺され、源氏政権はあっけなく幕を閉じました。その後は、北条義時を中心とした「執権政治」に取って代わられるのです。これは飽くまで想像ですが、北条氏は、最初から頼朝という人間を単なる「御旗」にしか、考えていなかったと思います。大河ドラマの中でも「坂東武者の世を創る」という台詞がありますが、まさに、北条氏の目的は平家を倒し、源氏を利用して政権を奪いたいという目的で一致していたように思います。それは、初代時政も二代義時も気持ちは同じだったはずです。そのために、北条政子が頼朝に近づいたのですから。結果、鎌倉幕府は、北条氏が政権の頂点に立ち、全国の武士団をまとめ、その後、明治維新まで武家政権が続くきっかけを作りました。これもまた、日本史の驚きです。北条氏は、源氏の嫡流が絶えた後は、朝廷から皇族を将軍職に迎え、御旗としました。そして、実際の政治は北条氏を中心に行ったのです。鎌倉時代の「恩と奉公」の関係性は、当時としては理に適った方法だと思います。武士たちにとって、自分の役割は、一族を守ることにあります。そして、少しずつ領地を増やし、幕府内で強い発言力を持つことを願っていました。これは、今のサラリーマンの考え方に近いものがあります。

21世紀を生きる私たちは、江戸時代のような武士道や忠義の世界では生きられません。会社も以前のように家族経営ではなくなり、自分の属する会社(組織)の為に、奉公しようという考えもありません。だれもが独立性が高く、信頼の置けない会社(組織)なら、とっとと逃げだし、別の優秀な会社を探します。各企業も、優秀な社員を求めてキャリア採用を増やし、社内で一から育てるという文化もなくなりました。まさに、今のサラリーマンは、鎌倉時代の武士と同じなのです。だから、家柄や高貴な血筋の源氏を見限り、能力のある北条氏についていこうとするのです。そして、その北条氏がだめだとわかれば、次は足利氏につき、足利がだめなら、次は織田や豊臣につくといった割り切り方をしています。これが、本来の「武士道」なのです。こうした時代は、まさに弱肉強食の時代ですから、弱い者は切り捨てられます。家柄や血筋などは、御旗にあればいいのであって、一般のサラリーマン(武士)には関係ありません。学歴は所詮、「家柄」でしかないのです。野武士のような鎌倉武士は、常に実力を蓄え、信頼できる御旗を探していました。頼朝がいいのか、義経がいいのか、それとも北条がいいのか…。それは、難しい判断だったと思います。そして、北条についた者だけが生き残り、後の世に一族を残しました。残念ながら、その後、源氏の嫡流も消え、北条の嫡流も消えてなくなりました。徳川家康は「征夷大将軍」と言う称号を得るためだけに「源氏」を名乗り、恰も自分が源氏の末裔であるかのように振る舞いましたが、その系図は、まったくの偽物でした。家康自身、そんなことは百も承知で、単に「御旗」になるための飾りとして源氏の「肩書き」が欲しかっただけのことです。あれほど、苦労して平家を滅亡させても、自分があっけなく滅亡させられては、源頼朝も義経も苦労の甲斐がなかった…としか言いようがありません。新しい時代の武士(サラリーマン)たちは、そんな時代を理解し、自分の生きる道を探していくべきでしょう。どちらにせよ、自分が納得できる道を進むべきなのです。どこに属していようが、自分が納得さえできていれば、たとえ消え去る運命であろうと、自分の誇りだけは守られたと思います。たとえ「滅ぶ運命」であろうと、滅びの美学があるのも日本人らしいではありませんか。

 

 

 

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