「読書」というと、子供時代の教育論のように言う人がいますが、まったくの間違いです。大人になってからこそ、読書は必要なのです。それは、学校時代に学習した既成概念を払拭するためには、様々な角度から学校時代に習得した知識や経験を検証してみる必要があるからです。これができないと、いつまでも「偏差値教育神話」から脱することができず、教科書的な発想しかできなくなります。いつの時代も教科書(マニュアル)通りに行って成功した試しがありません。昔の戦闘機乗りは、「墜とされたくなかったら、教科書と逆の操作を行え!」と若い搭乗員に教えたそうです。何でもそうですが、「教科書」は、一番安全で無難な方法が書かれていますが、それでは、鵜の目鷹の目の競争社会では勝ち抜いていけないのです。確かに、教科書は優れた教材です。国語にしても算数・数学にしても、その学年の発達に応じて構成され、その年度で教えられるよう上手に単元が組まれています。学校において教科書を主教材として使用するのは、まったく合理的な考え方です。それに、日本では、技術系、芸術系、体育まで義務教育でしっかり教えられているため、「日本人の基礎」となる部分は学校に依るところが大きい…。しかし、それでも「教科書からの脱皮」こそが、生き残る道だと言いたくなります。その脱皮する術を学ぶためには、どうしても「読書」は欠かせないのです。なぜなら、読書だけは「本人の自由」が認められているからです。もちろん、明らかな悪書はあります。しかし、普通に書店や図書館に配架されているような図書に危険性はありません。常に様々なジャンルの図書が並べられ、かなり高度な内容の物を子供が選んでも注意を受けることがありません。小学生でも夏目漱石や森鴎外、太宰治を読む者はたくさんいます。しかし、それを「おかしい…」と教師や親が注意するでしょうか。これが、参考書ならそうはなりません。小学生が高校の参考書を読んでいたら、「何を見ているんだ?」と注意し、小学校用の参考書を薦めるでしょう。それが、読書なら「へえ、よく、そんな難しい本が読めるね…」と感心されるはずです。だからこそ、「読書」には「飛び級」があり、年齢に関係なく、生涯学び続けられる機会となっているのです。
さて、学校教育に於いて「読書」は、欠かせない学習として昔から続けられており、日本では小学校から大学まで校内に「図書室」「図書館」のない学校はありません。読書の重要性がわかっている学校や先生方は、子供たちに読書の習慣をつけさせようと様々な取り組みを行っています。今でも、「読み聞かせ」「朝の読書」「読書カード」「学校図書館司書の配置」「図書ボランティア」など、様々な取り組みが行われています。ここまで熱心に読書教育を行っている国は、他にあるのでしょうか。そこだけ見てると、日本人は知識も豊富で、教養のあるすばらしい国民だと思うことでしょう。ところが、一旦、学校を離れると、これが定着していないようなのです。もちろん、最近のコンピュータの普及が原因としてあげられますが、それと「読書の習慣」は違うような気がします。私は、どちらかというと「活字中毒」的なところがあり、常に手元に文庫本の一冊もないと落ち着かない人間です。したがって、風呂に入る以外は、身近に本があります。トイレにも持ち込むことは普通で、寝る前にも活字を読んでからでないと眠れません。しかし、スマホ等の普及で日本人の本離れが進み、「町の本屋さん」が軒並み閉店をしてしまいました。「本はネットで買う」という人がいますが、本屋のよさは、目的もなくフラッと立ち寄り、あれこれ眺めているうちに、気に入った本を買うのが楽しいのであって、「これを読もう」と決断して本を購入するのとは、目的が違います。こういう日本の状況について、私自身が不満を抱いていることもあり、少し、ここで私見ではありますが、私なりの経験に基づいた「読書」について考えてみたいと思います。
1 読書は「趣味」でしかない
人間は生涯に一体どのくらいの本が読めるのでしょうか。幼児期はわかりませんが、小学生以降の年齢になれば、そんなに苦労をしなくても、月10冊の本は読めるはずです。このペースで読み続ければ、1年で120冊。10年で1200冊になります。これは、凡そ、小学校入学から中学校卒業の年月に当たります。当然、小学校1年生のペースと中学校3年生のペースは異なりますから、個人差はありますが、大雑把に考えれば、こんなものでしょう。さて、それでは、次の10年はどうでしょうか。本好きの人間なら、他の勉強や部活動が忙しいからといって、本を読むのを止めるようなことはしません。小学校1年生から続いてきた読書の習慣は、「ご飯を食べる」のと同じことなのです。もし、「忙しいから…」という理由で、本を読まなくなった人がいたとしたら、その人は元々読書好きではなく、自分の生活習慣になっていない人が使う常套句として、言い訳にしているだけのことです。読書の習慣が身についた人なら、10代は一番本が読める時期でもあります。なぜなら、学校には必ず「図書館」があり、何処の学校もかなり充実した蔵書数を誇っているからです。まして、親にとって「子供が図書館で勉強している」ことを咎める人はいません。子供も「読書好き」は、堂々と公言できる「趣味」なのですから…。但し、読書が「趣味」の世界で甘んじていることには納得できません。この「趣味」という言い訳こそが、日本人から本を読む習慣を奪ってしまった元凶だと思うからです。
13歳から23歳といえば、高校や大学を卒業し、社会人になるまでの期間です。この年代なら、月20冊の本を読むことも十分可能でしょう。月に10冊は少ないくらいです。とにかく、「月10冊」と仮定して考えると、小学校入学時から大人になるまでに、約2400~2500冊読むことができます。多い人だと5000冊は読むと思います。そうではあっても、「だから、何だ…?」「冊数なんかに意味があるのか?」と首を傾げる人もいるはずです。この読書量が、日本の社会で大きな意味を持ったことがありません。進学や就職の履歴書に「読書した本の数」などという項目はありませんし、読書は所詮は「趣味」の欄に書くだけのことです。それも、面接で聞かれればましな方で、スルーされても、だれも文句も言いません。だから、読書は奨励されていても、実際は意味を持たない趣味なのです。それに、読書を単なる「知識」や「情報」と捉える人には、この冊数の意味が理解できないはずです。「そんなものは、スマホやパソコンで十分」「頭を休めるためなら、そんなに本を読む必要もないだろう…」「くだらない小説なんかを読んで、どうするんだ?」「どうせ、趣味だろう?」と考える人が多いために、いくら学校時代に読書を勧めても、読書が日本人に定着することはありませんでした。要するに、日本人は、生来「せっかち」な気性のためか、結果に結びつかない行動は「無意味」と考えてしまうのです。「読書の習慣はよい」と子供時代に言われながらも、大人にとっては必要不可欠なものではなく、仕事に直接つながらない趣味であれば、尚更、意味を為さなくなってしまうのです。こうして、「即効性」のない読書は、社会から消えていく運命なのかも知れません。
さて、ここで、よく考えてみて欲しい…。今の大学生の読書量は、「月平均2.5冊 」だそうです。1年間に一冊も読まない大学生も相当数いるようで、「学問をする学生が本を読まない…?」という批判を含みながら報道されるのが常です。しかし、本を読まなくても卒業できるわけですから、日本の大学は今や「学問」をする場とは言い難いものがあります。最高学府といわれながら、今や大学が学問をする場ではなく、社会に出て行くための「予備校」であるなら、文部科学省はもう一度、大学教育を根本から考え直す必要がありそうです。せっかく、「大学生」という学問に専念できる肩書きと時間をもらったのであれば、その時間を有効に使ってもらいたいと願うのが、親や国民の意識だと思いますが、どうなのでしょう。さて、そうなると、読書をした者とそうでない者の差は歴然です。おそらく、大人になるまでに100冊にも満たない読書量しか持たない者と2000冊を優に超える読書量を誇る者と、一体何が違うのでしょう。ここが問題です。実際、読書量と学力は必ずしも相関関係にならず、読書をあまりしない者でも偏差値の高い学校に進学する者はいます。教師の中にも「本は、あまり読まない」と平気で豪語する人もいますので、読書量=偏差値とはならないのが現実です。だから、学校教育で熱心に読書指導をしようとも、「読書なんか、偏差値には関係ない」と、受験を間近に控えた生徒などは、「読書などは控えて、受験勉強に専念する方がいい」と考えるのが一般的です。それは、教師も親も塾の講師も同じです。つまり、「読書」は、自分の人生の趣味にはなっても、将来、生きるために欠かせない「要素」ではないのです。親にしてみても、受験のような時期には、「本を読む暇があるなら、受験のための参考書でも読んだら…」と言いたくなるものです。これでは、大学生が進んで本を読む状態にはならず、寧ろ、「どうせ趣味なら、今風の趣味の方が面白い」と感じても無理はありません。読書を勧めてくれる大人がいなくなり、読書より受験勉強と言われれば、間違いなく読書の習慣はなくなります。そして、本を読む大学生はいなくなり、町から書店が次々と消えました。
2 偏差値がリーダーを決める
今の日本には、本を読まない大学生、学問をしない大学生が多く存在しています。毎年、100万円以上の授業料を払い、大した努力もせずに学生生活を謳歌しているようでは、この国の未来も怪しいものです。年をとると、いつの間にか「今時の若者論」になりがちですが、正直言って、日本には大学と称する学校が多すぎるのです。大学に行くことが、幸福の切符を手に入れる第一歩であるかのような幻想を抱かせるのは、この国の大人たちの罪だと思います。そして、世界が「第五次産業革命」と言われている時代に、戦後の「学歴偏重社会」が未だに崩れないのは、保守的なのか、現実逃避なのか、わかりませんが、世界の潮流から遅れていくことだけは間違いなさそうです。今の大学では、どうも「本を読む」必要がないようです。ここ数年、日本ではコロナ対策としてリモート講義(授業)が加速しましたが、これは、飽くまでも単位を取得するための課題であって、講義を受けることは、大学生の学びの一部であるはずです。本来であれば、それ以外に「研究テーマ」があって、自分でテーマを決め、所属の教員とも相談しながら、研究を深めて行くというのが普通だと思いますが、どうも、それをらしい報道はありません。高校生までは、学校の教室で授業を受けるのが一般的な学習方法ですが、大学生にはもっと自由な研究があって然るべきです。しかし、テーマを持たない学生は、結局、自宅で「何をしたらいいか、わからない」まま、数年間が過ぎてしまいました。それに対して「授業料が高すぎる」という不満を持っているようですが、大学も、学生の研究を促すような対策を採らなかったことが、問題だったと思います。それにしても、今の学生はいつも受身のままで過ごしており、「ピンチをチャンス」に変えようとする気概は、あまり持っていないようです。
これからの時代は、過去問を解いて、既に正解がわかっていることを記憶するだけで足りる時代ではありません。既にわかっていることには、何の価値もありません。学校では確かに「◎」がもらえ、「100点」の答案が返って来るかも知れませんが、それを以て「優秀」ではないのです。これからの「100点」は、だれもが考えつかないような「解」をを見つけたり、自分の力で調査し、新しい「発見」をしたり、「独創的」な考え方でこれまでの概念を崩したりすることで、評価されなければなりません。したがって、正解を記憶するだけの勉強をしてきた人間は、社会の表舞台から去るべきなのです。
今の日本のエリートのほとんどは、抜群の記憶力によって高学歴を得た者たちです。ある有名な政治家や芸能人が、「自分は、それを見ただけで、写真のように映像として残り、即座に復元できる」と言っているそうですが、それは、「映像記憶」と呼ぶような特殊な能力のことで、ほとんどの人は幼児期までは残っていても、次第に薄れ、大人になってその能力が備わっている人は少数だそうです。この能力のある人は記憶力が優れ、学校での勉強もそれほど苦にならなかったはずです。しかし、だからといって、組織や国のリーダーとして相応しいと言えるのか…と問われれば、「応」と言えるだけの根拠がありません。今の時代であれば、記憶力が一番優れているのはコンピュータであり、「AI」搭載ロボットになれば、人間の能力を遥かに超える力を発揮するはずです。しかし、このロボットは、人間が使う道具であり、ロボットが意思を持つことはありません。もし、ロボットに自分の意思を持つプログラムを入れれば、当然、人間を凌駕し、人間はロボットに支配されることでしょう。こうした特殊能力を持つ人間が、「優秀」という評価をもらい、社会で優遇されるとすれば、その組織なり国が求めているのは、教科書的な「正解」だけということになります。それは、非常に危険だと言わざるを得ません。今の日本の姿が、まさにその通りだからです。マスコミは、これまで散々国民を騙すような記事を書き、報道してきたために愛想を尽かされているのに、未だに、新しい思考が生まれません。政治家は、コロナ対策、電力不足、物価高騰、少子化問題、ロシア・ウクライナ戦争等にも適切な判断ができず、自分の組織を守るために汲々として、国民から呆れられています。経済界は、未だに外国依存体質が改善できず、外国に投資し過ぎたつけが、今ごろになって自分の首を絞め始めています。最近では、エリート官僚までもが詐欺行為に加担し、不祥事が後を絶ちません。明らかに、日本は国としておかしくなってきていることは、間違いないようです。
明治時代以降、日本は学力偏重主義で国を創ってきました。そして、その弊害が昭和初期に現れ、遂にはアメリカ等の謀略に易々と嵌められ、やってはいけない大東亜戦争を引き起こし、その結果、すべてを失うことになりました。しかし、その反省は、残念ながら日本の戦後社会には、見られませんでした。結局は、学力偏重主義は変わらず、官僚機構もそのままに日本は戦後を迎えたのです。たまたま、朝鮮戦争や米ソの冷戦が始まり、日本は経済成長を成し遂げることができましたが、逆に、学力偏重主義と官僚制度は温存され、現在に至っているのです。そして、本物の能力のある人たちが昭和と共に現役を去り、偏差値教育に蝕まれた大人たちが社会を動かすようになると、あっという間に日本は世界のトップから滑り落ちたのです。日本は、明治維新後は、優秀な江戸時代の人々を利用することで社会を発展させ、対外戦争にも勝利しましたが、それが、江戸時代の教育にあったことに気づく人はいませんでした。それでも、戦前までの教育は、それ以降の教育より数倍はましでした。学力偏重はありましたが、進学率は低かったために、学力より「実務能力」が評価される時代でもあったのです。そうした知恵のある人々が戦後の日本を創ったのです。戦後の日本のトップ企業の創業者を見ればいい…。最近、出光石油の創業者である出光佐三氏を描いた「海賊と呼ばれた男」という小説を読みましたが、彼は非常に賢い人間でしたが、そんなことより「心」が人の何倍を強く、熱い思いを持った「男」でした。こんな人間を創るとしたら、それは、周囲の大人がすばらしかった…としか言いようがありません。親も教師も、仲間や部下も、こういう熱い心を持った人間の側にいたいと思うのです。偏差値教育で少しばかり頭のいい人間を、ここまで信頼することはありません。なぜなら、熱い「心」がないからです。今回のコロナ対策の報道を見ていて、政府にも医師会にも学者の世界にも、熱い心を見せてくれた人はいませんでした。唯一、総理大臣だけが無言でアメリカと交渉し、ワクチンを調達してきてくれました。しかし、マスコミはこのリーダーを叩き潰し、総理の座から引き摺り下ろしました。そして、それは、しっぺ返しのように自分に返り、マスコミの信頼はさらになくなったのです。そんな熱い「心」を創るには、どうしたらいいのでしょう。明治以降、学校教育でそれができた例しはないのです。
3 読書することの「意味」
人間にとって、「生きる」とは、どういう意味を持つのでしょう。ある人は、「幸福になりたい」といい、ある人は「金持ちになりたい」といい、ある人は「長生きがしたい」と言います。どれも正しい欲求でしょう。しかし、その方法がわかりません。「幸福」という価値は、その人によって随分と違うものです。ある人は「経済力が大切」と言い、ある人は「愛情さえあればいい」と言う。自然に憧れる人もいれば、便利な生活を求める人もいます。誠に「幸福論」は難しいものです。「金持ち」という価値も、金銭があった方が生活するには助かりますが、欲望にはきりがなく、あったらあっただけの生活になるだけのことです。それが普通になれば、金持ちには際限がありません。「長生き」も、健康であればいいのですが、医療によって生かされる長生きも困ったものです。年を取ればそれだけ体はきつくなり、自由に動くこともままなりません。それでも「生きたい」のであれば、後は「不老不死」の妙薬でも探すしかないでしょう。これも困りものです。そんな人間の強い「欲望」のままに生きていると、人間は自分が「神」にでもなったかのような錯覚を起こしてしまいます。「お客様は神様です」という流行語がありましたが、ここでいう「神」は、絶対神ではありません。そして、何でも叶う、万能の超能力も持っていません。ただ、努力する人間を優しく「見守って」いるだけのありがたい存在なのです。「神頼み」という言葉がありますが、何の努力もしない人間を神様が助けたという話を聞いたことがないのは、神は、人間の都合のいい頼み事を聞く召使いでないからです。そんなことを考える人間は「不敬」極まりない…。だから、人間は、自分の与えられた「生」を精一杯生きて、人生を全うするだけのことなのです。私は、こんな風に考えていますが、賛同される人はどのくらいいるのでしょう。
さて、宗教界では「悟りを開く」という言葉がありますが、ここでいう「悟り」とは、どういう意味なのでしょう。それは、「人間としての修業の先にある気づき」だと、私は解釈しています。そして、修業とは、人間として「努力する」こと以外にありません。そして、その「努力」は、自分のためではなく、「世のため、人のため」になってこその努力であり、己の欲望のための努力では、人としての修業は「半ば」だと思います。そして、この「悟り」の境地に辿り着くために、人間ができることのひとつが「本を読む」ことだと思います。もちろん、悟りは、あらゆる修業の中で会得できるはずです。日常の生活を一生懸命行えば、それは修業の場となるはずです。しかし、それでも、私は読書を勧めます。人間は、自分の少ない社会経験だけで成長することはできません。また、自分を取り巻く、少ない人間関係だけで成長することもできないのです。論語に「温故知新」という言葉がありますが、「故きを温ねて、新しきを知る、以て師たるべし」は、「故きを温(たず)ね」なければ、「新しきを知る」ことができないという教えです。つまり、過去を知る(学ぶ)ことを諭しているのです。過去は歴史です。その歴史を知るのは、タイムマシンでもない限り、読書しかありません。今、生きている人の僅かな人生経験だけを頼りに生きようとすると、必ず、時代の波に翻弄され自分を見失うことになります。それを諫めてくれるのが「過去の歴史」なのです。
今、私たちが学校で勉強していることも、過去にだれかが行った事実を解説しているだけのことで、私たち現代人の発見ではありません。私たちは、現代の科学社会を恰も立派な社会を創り上げたかのように誇りますが、本当でしょうか。確かに、衣食住に困ることはなくなりました。数々の電化製品は、人の労力を減らし、余暇を楽しむ余裕すらあります。しかし、科学は、自然とかけ離れた生活を人間に強いています。もちろん、それを選択したのは私たち自身ですが、人間が動物であることすら忘れさせるような社会は、如何にも歪です。人間が機械に操られるような時代になり、真実を見極める目も曇り、人間の持つ本能が失われてしまいました。自然災害が起きても、今の科学の力ではどうしようもないのに、責任を科学に向けようとします。そして、その科学を利用して戦争さえ起こす愚かな人間が、国の指導者にさえなっている現実をどう考えればいいのでしょうか。科学のみを信じる人には、人間らしい「謙虚」さがありません。自分が恰も神になったかのように振るまい、人に対する敬意を失い、傲慢な「鬼」になっていきます。鬼は、所詮、滅びる運命にある「物の怪」なのです。そんな鬼になっている自分の姿を見ても気づかず、餓鬼のように常に欲に塗れ、どんなに食べても食べても、心も体も満足することなく飢餓地獄へと落ちていくのです。なんと憐れな姿でしょう。人間は、本来は優しい動物だったと思います。脳が発達していたことで、思いやりや優しさという「心」を持つことができました。しかし、その心も、物欲には勝てません。一つ欲しい物を手に入れれば、また、別の物を欲しくなります。そして、それを手に入れることが「幸福」だと勘違いをするのです。たとえ、それが人の物を奪う行為だとしても、自分を正当化して、自分の心を捨てていくのです。そんな、人間らしい「謙虚さ」を失えば、もう人間ではなくなります。今、大河ドラマで鎌倉時代が描かれていますが、あの時代の権力者を見ると、まさに、優しい謙虚な男が、欲望に塗れ、鬼と化して行く姿が描かれハッとさせられます。自分の敵だけでなく、仲間や兄弟も信じられなくなり、次々と殺して、自分を正当化していく姿は、権力者というものを如実に表していると思いました。創られたドラマとはいえ、やはり、それも「歴史の解釈」なのです。過去の歴史を見るとき、単に「愚か…」と嘆くのではなく、そうしなければ生きられなかった悲しい時代であったことを思い、自分たちの時代と未来を憂う人間でありたいと思います。そして、思うことは、「故きを温ねる」ことなくして、未来はないということです。
4 読書が「情緒」を育てる
「読書と情緒」というと奇異に感じる人がいるかも知れません。ところが、これが意外と関係があるようなのです。最近では、脳科学の分野が発達してきたせいか、多くの脳科学者が「読書と脳」の関係を発言するようになりました。読書をすることによって「脳」の動きが活発になり、性格も穏やかになる…というものです。今、この説が日本の医学の世界で主流になることはないようですが、既に「脳トレーニング」という言葉があるように、高齢者向けの「脳トレ」の一環として読書が勧められています。そして、読書をするなら、黙読よりも「音読」の方がより効果が高いといわれています。江戸時代までは音読を「素読」と言って、武士の子でも町人、農民の子でも「論語」の素読が行われていました。今、見ると、論語の文章などは難しいと感じますが、漢字に「ルビ」をふって声に出して読むと、リズムがあって読みやすいと感じます。最初から「こんなの難しい…から子供には無理だ…」と諦めるのではなく、子供と一緒に声に出して読んでみれば、意外とスッと体に入っていくことに気づきます。今の人は、「こんな難しいことを勉強しても意味がない」と、すぐに「意味」とか「効果」とか、自分にとって「利益がある、なし」で判断しようとします。そして、少しでも「無駄」だと思うことはやりたがりません。それが、本当に無駄かどうかも考えずに、切り捨てる思考法は、将来を危うくします。読書にしても、結局は「やっても、意味がないから無駄だ…」と考える人が多くなったということでしょう。社会が発展してくると、科学的な証明がない限り、人として「自分を高める」といった思考にはなりにくいのかも知れません。「読書」に意味があるか、ないか…ではなく、読書をとおして「言葉の感性を磨いている」と考えればいいのだと思います。読書をすることで脳が活性化され、多くの知恵を授かり、心が穏やかになるのであれば、人間としてそれ以上の「意味」は見出せないはずですが、現代では、通用しない考え方なのでしょう。
そう言えば、ここ30年前くらいから、「キレる」子供のことが話題になりました。そして、今では、この「キレる」のは、子供より大人の方が多いように思います。「キレる」状態を考えれば、一種の「精神錯乱状態」を言うように思います。何か、自分にとって不都合な事実に出くわすと、冷静に対処するのではなく、「パニック」を起こしてしまう精神障害だと思います。この「パニック」の多くは、自分がまったく想定していない事態に陥ったときに起こるもので、事故や災害時に気持ちが動転して「頭が真っ白」になったという表現が遣われます。しかし、それは、人間生活の中で頻繁に起こるものではなく、一生に一回あるかないか…だと思います。それが、些細な出来事で「頭が真っ白」になるとしたら、その人間の耐性は、どうなっているのでしょう。この「キレる」日本人が増えてくるとなれば、国内での異常な事件が頻繁に起こり得るということになります。もし、身近にそういう人がいれば、側に寄ることもできません。こういう精神状態になるのは、いくつかの要因が考えられますが、まず、頭に浮かぶのが、「乳幼児期の育児」の問題です。児童虐待が年々増加しているように、本来、愛されて育つべき乳幼児期に、虐待若しくは、それに近い環境に置かれたとしたら、人間は正常に発達するのでしょうか。子供は一人で育つことはありません。子供には優しい「愛語」が大切だと言われますが、たとえ、衣食住が足りたとしても、親の愛情なくして、子供が健全に育つことはないでしょう。これは、「読書」とは違いますが、それ以前の人間としての「暮らし」の問題になります。
長年、「読書」に親しんできた者として言えるのは、学校での勉強は、人として生きる上での基礎にはなったかも知れませんが、日進月歩で進む社会に、教科書で学んだことだけで対応することはできません。社会は「流行」で動きますが、たとえ、流行に敏感に反応しても、それが、必ず幸福につながるかと言えば、それは「否」です。所詮、人間の幸福とは、自分の「心」の問題であって、目に見える物質が幸福を招くのではありません。地位も名誉も金銭も、それは、生きていく以上、あった方が便利でしょう。しかし、そこに、満たされる「心」がなくては、傍からいくら「幸せね…」と評価されても、真の幸福は得られないでしょう。読書をするということは、「心」を育てることにあります。先人の「知恵」を学ぶことになります。己を「知る」ことにあります。人間は欲深い生き物です。だからこそ、人類は発展してきたのでしょう。しかし、その欲深さが、人間の愚かな部分でもあります。
先日、大河ドラマの中で、源頼朝が死ぬ場面が描かれていました。頼朝は、平家打倒という宿願を果たし、征夷大将軍という武士としての最高の地位を手に入れ、新しい時代を築いた時代の寵児です。得意絶頂で、「この世の春」を満喫しているかと思えば、それどころか、家族や仲間でさえ信用できなくなり、挙げ句は精神まで病んでしまった…という物語でした。そして、最期に、自分の死期を悟り、欲を捨て去ったとき、頼朝は穏やかな素の自分に戻って死んで行きました。源頼朝という一人の人間にとって、伊豆の流人として穏やかに一生を終えるのと、すべての権力を握り、鎌倉殿と周囲にかしずかれて終えるのと、どちらが幸せだったのでしょう。物欲から見れば、後者でしょうが、その欲を捨てたとき、人間は、自分の素に気づかされるのです。「読書」とは、そういう意味で、自分を見失わないための「道標」になるのではないでしょうか。
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