教育雑学8「令和の学力観」

「学力」と聞いて、人は何を思い浮かべるのでしょう。おそらく、多くの人は、「学校の成績」のことを考えるのではないでしょうか。確かに、学校でも「学力の向上」は、常に課題になっていますし、文部科学省も「子供の学力向上」は喫緊の課題として各学校に指導を繰り返しています。ここでいう学力とは、主に国語、算数(数学)、理科、社会、外国語(英語)の「理解度」を指します。しかし、この「学力」を真に定義した話は聞きません。何となく、当たり前のように遣っているだけで、国民の多くは、「学校の勉強(成績)がよくできる人は、学力が高い」と思い込み、ひとつの「信用」のバロメーターのような役割を果たしています。だからこそ、そう思われている人が、とんでもない常識外れの事件を起こすと、世間は「えっ、あんな賢い立派な人が…?」と驚いてしまうのです。しかし、学校などで使用される「学力」という言葉は、飽くまでも「学校」という「場所と期間」だけで使用されている言葉であり、学校外の一般社会で通用する概念ではないことを知っておくべきです。一般社会では、学力が話題になることはあまりありません。それより、「仕事力」の方が問題で、たとえ学歴が高くても仕事ができなければ、周囲から高い評価を得ることはできません。それは、多くの人が知っている現実です。子供時代に成績がよく、周囲から期待されて来た人は、かなりのプレッシャーを感じながら成長していくはずです。中には、親の期待に応えようと必死に勉強をする子供たちもいますから、この「学力」問題は、教育をする側、される側にとってもとても重要な問題なのです。

そもそも、日本人のこうした「学力観」が生まれたのは、明治以降のことです。日本が開国し、西洋列強に遅れまいと国際社会に出て行ったとき、この「学力」には基準がありませんでした。当時の明治政府にとって、「近代化」は即ち「欧米化」することにありました。そして、その根本には、「日本は遅れている…」というコンプレックスが強くあったということです。今でも、日本人は欧米を「進んでいる…」と思い込み、自分たちを卑下する傾向にあります。最近では、そうでもありませんが、外国への「留学」などと言うと、ちょっと「偉く」なったような気がして、高校生や大学生の「短期留学」や「語学留学」が流行ったときもありました。教育界においても「外国の教育」と聞くだけで、「進んだ教育が行われている」と感じたものです。そして、自分や自分の国を卑下し、「だから、日本は遅れているんだ…」などとコメントすると、賛同者が多く現れ、多くの国民は「外国は進んでいる」という誤った認識を持ったのです。最近でも、「北欧の教育」を賛美する声が聞かれましたが、これらも一種のブームで、マスコミ等でちょっと持ち上げたかと思うとサッと手を引くように報道しなくなります。マスコミは、少しでも「マズい…」と思われるような情報が入ると、それまでの報道がなかったかのように振る舞いますので、最初に出された情報だけが一人歩きするのです。日本の学校では、今でも「全国学力学習状況調査」なる「学力テスト」が全国の小6と中3の子供を対象に行われていますが、これも、PISAと呼ばれる「国際学力調査」での点数が下がったという報道によって、マスコミが騒ぎ、政府が実施を決めたものです。今では、このPISAの調査に疑問を呈する意見もあり、本当にこの調査が、日本の子供たちの「学力調査」として適切だったのか甚だ疑問です。何でも「外国と比較」してネガティブなキャンペーンを張るのも、いい加減にして欲しいものです。ただ、国際情勢を見ると、明らかに日本の教育が「遅れている」と思われるものがいくつか見られます。

今や世界の「最先端技術」は日本にはありません。コンピュータ社会の到来が予測されていたにも拘わらず、日本のパソコンやスマホの多くは外国製品です。最新機器に不可欠な「半導体」の製造も日本は早々に手放してしまったために、これも最新の物は外国で製造されています。日本人は、日本は「ものつくり大国」だと信じているようですが、それもいつまで続くかは疑問です。戦後の日本が急激な経済成長を成し遂げられたのは、「ものつくり」に関して確かな技術があったからです。当時の造船、鉄道、精密機器などは、戦前に培われた技術の遺産によって世界のトップを走りました。「大型タンカー」「新幹線」「光学レンズ」などが、戦前からの技術が転用された日本の「工業製品」でした。もし、航空機産業に参入できていたら、日本は今ごろ、世界一の航空機メーカーがいくつも誕生していたはずです。戦時中の日本の戦闘機や爆撃機はすべて「国産」です。一時期、世界の戦闘機のトップに君臨した三菱製の「零式艦上戦闘機」の技術は、他国の追随をゆるさなかったのです。しかしながら、敗戦によって、日本の空を日本の飛行機が自由に飛ぶことができませんでした。そのため、航空機の技術者の多くは鉄道や自動車に移って行ったのです。それでも、敗戦によって、GHQの制限を受けながらも多くの産業が発展していったのは、戦前の技術が高かったからに他なりません。今の社会では、あまり戦前の話は語られません。その時代を忘れたかのように、「戦後、戦後…」と言いますが、戦後の復興を成し遂げたのは「戦前に教育を受けた人」たちだったことを忘れてはなりません。

確かに、日本人は勤勉でまじめな国民です。しかし、それを生かそうとしない政治や経済の論理が蔓延すると、さすがにその「特性」も失われていくのは当然です。既に、昭和の時代にあった「家族主義」はなくなり、「中流意識」もありません。「個人主義」の社会が到来し、「格差」は広がるばかりです。「勤勉でまじめ」であることが推奨されなくなり、「投資」ばかりを強調されても、国民は戸惑うばかりです。こうした社会に求められる「学力」とは、一体何なのでしょうか。子供もどう育てていけばいいのでしょうか。その答えが見つからない限り、日本の「少子化」の問題は解決しないと思います。

1 「再生学力」の終焉

明治以降の学力観が、ペーパーテストによる「点数評価主義」だとすれば、江戸時代までの学力観は、人物評価や口頭試問等による「能力評価主義」だったように思います。もちろん、江戸時代にペーパーによる評価がなかったとは言いませんが、中国の「科挙」のような試験制度による登用試験はありませんでした。資料等を読むと、地方の優秀な学生は、その大名家の推薦によって江戸の「昌平坂学問所」に留学していることがわかります。「湯島聖堂」と呼ばれた幕府直轄の学問所では、徳川家の子弟だけでなく、日本中の秀才を受け入れていました。その中には、地方での身分の軽い者もいましたが、それでも優秀であれば「塾頭」に昇ることもできたのです。幕末での活躍で有名になった坂本龍馬は、神戸海軍操練所の塾頭だったはずです。身分は土佐山内家の郷士ですから、最下層の武士が、他の武士の上に立っていたことになります。それは、塾生の中で一番「優秀」だという評価が、運営をする側にあったと言うことになります。当時の蒸気船の運用ですから、ペーパー試験で序列を決めるはずがありません。知識、技術、人望、経験、統率力、決断力、人間性などを勘案して選出されるのが当然でした。ところが、明治時代になると、外国の模倣なのか、それとも「科挙」の導入なのかはわかりませんが、「試験制度」なるものが登場して「学校」への入学許可を与え、度重なるペーパー試験によって「序列」が決められました。こうなると、多くの問題に「正解」を出せる人間が有利です。多少、他の評価点が低くても、眼に見える「点数評価」は高いのですから、だれも文句を言う人間はいません。こうして、明治時代以降の「学力観」は定着していきました。

結果、明治以降の日本は「ペーパー試験」が得意な人間の独断場となったのです。特に戦前は、この試験制度によって軍人や官吏に登用されましたので、だれもが「過去問」を解くのに必死になりました。中でも陸海軍は、その試験の難易度が高く、その上、体力も人並み以上のものが必要でしたから、優秀な少年は挙って陸軍士官学校や海軍兵学校を目指したと言われています。しかし、それらの優秀な人間を集めても、対中戦争に決着をつけることができず、その上、対米英戦争にまで引きずりこまれ、敗戦の憂き目を見ることになりました。歴史を知る者にとって、如何にペーパーテストで高得点を取る者であっても、戦略や戦術を考える「知恵」が出せるとは限らないという事実を知っています。「過去問」はどんなに難易度が高くても、所詮、だれかがその「正解」を知っているのです。初めから答えがわかっているような作戦を立てても、敵に早々に見破られ、侮られるだけのことなのです。「知恵」とは、「正解のない答え」を導き出すような創造性がなければなりませんが、日本の試験制度では、そんな創造性豊かな人材を発掘することは不可能なのです。今でも、この時代の「ペーパー試験」は、各学校や企業等の試験に採り入れられています。そして、だれもその矛盾に気づきもしません。そこに、日本の「学力観」が立ち後れている理由があるのです。

2 真の「学力」とは…(私論1)

日本中の有識者が集まって、日本人の学力について議論が為されているときに、私如き元一教師がそんな高邁な説に反論するなど、身の程知らずなのでしょう。きっと偉い先生方は、一国民の論など気づきもせず、淡々と事務をこなすように「日本の行く末」を討議されていることと思います。しかしながら、日本人の「学力」が、このままでいいのか…と問われれば、だれもが否定するに違いありません。だからこそ、高校や大学入試等での試行錯誤が続いているのです。しかしながら、教育は「政治(政争)の一部」と化してしまいました。本来、教育には政治は一切関与しないのが「建前」だったはずですが、あの「ゆとり教育騒動」以降、マスコミや政治家の意向によって、教育は歪められ、政治利用されるまでになりました。よく考えてみれば、教科書検定にしても、「近隣諸国への配慮事項」を定めた時点で政治が深く関与しているのですが、「本音」が表に出てしまえば、「何でもあり」の世界です。いくら、公の場で綺麗事を並べても、教育が政治に利用できる手段であることは間違いありません。なぜなら、中国や韓国でも歴史を歪め、偏った歴史観で教育がなされていることは、だれもが承知しています。だから、日本だけが「正常だ」というつもりもありません。それだけに、国が指導する教育施策には、常に「政治が関与しているであろう」ことは考えておかなければならないのです。

既に世界は、「第五次産業革命」と呼ばれる時代に入りました。遅ればせながら、日本でもコンピュータ技術は生活の一部になっています。幼児や高齢者はともかく、日本人がスマホやパソコン、SNSを利用できなければ、仕事だけでなく「生活」そのものが成り立たなくなっているのです。「そんなの、よくわかならないよ…」と嘆いても、社会は待ってはくれません。「わからない人は置いていく…」「急いでついて来い!」というのが、現代です。だからこそ、小学校以降の子供たちにもタブレットを配り、学校で一生懸命コンピュータの基礎を学び、将来に備えているのです。そんな時代になって、旧来の「学力観」が通用するはずがありません。文部科学省は、それを見越してか、学習指導要領で何回かの改訂のたびに「生きる力」の育成を謳い文句にしてきました。ここに、新しい「学力観」のヒントが隠されているような気がします。

人間は、これまで自分が生きてきた「価値観」を容易に転換することができません。わかっていても、「これまで、これで上手くいっていたのだから…」と社会の変化に気づいていながらも、そこから一歩踏み出せないでいるのです。それは、大人だけでなく子供も同じです。実際、自分の眼で見て確かめて、周囲の動きに合わせるようにして行動するのが「人間」なのです。そして、周囲に合わせた時には、最初に走り出した人よりも何段階も遅れを取っているものです。教育の世界も同じです。「偏差値」教育が全盛だった時代に成功した人は、今でも「偏差値」を信じ、少しでも偏差値の高い学校を選びたがります。そこの学校の「教育内容」ではなく、いわゆる「有名校」であればいいのです。しかし、それも今の時代どこまで通用するのでしょうか。また、「ペーパーテスト重視」で成功した人は、常に過去問を解き、テストで高得点が取れる技術を高めようとします。これは、よく学習塾が用いる学習方法ですが、学校の教師の中にも学習塾と同じような手法で子供を指導する教師がいます。確かに、この方法で「得点」を上げることは可能でしょう。しかし、それだけのことです。これでは、過去の「学力観」を信奉しているだけのことで、新しい「学力観」に対応することはできません。そこを見誤ると、成人した後、「こんなはずじゃあなかった…」と嘆くことになると思います。

3 真の「学力」とは…(私論2)

既に多くの国民が気づいているように、旧来の学力で培われるのは、主に「知識の量」だろうと思います。要するに国民の多くは、「物知り」=「学力」と捉えていると言うことです。昔であれば、「あの人は勉強家で、何でも知っているから尋ねるといいよ…」と言われ、難しいことでも丁寧に解説してくれれば、「さすが、よくご存知ですね…」と尊敬を受けたものです。そして、その尊敬を受けた者がすべての世界のリーダーになっていったのです。これなら、「偏差値教育」は間違っていません。しかし、現代のようにスマホやパソコンを使って「検索」をすれば、難しい内容も即座にわかりやすく解説してくれます。学校の難しい問題も簡単に「解法」を説明してくれるはずです。この機能を多用すれば、別に自分の頭に知識を詰め込んでおかなくても用は足りるということになります。つまり、昔の「物知り」は人間ではなく、「コンピュータ」に取って代わられたことになるのです。だとしたら、人間は何をすればいいのでしょう。そうなると、人間に求められるのは、その多くの情報を駆使して「分析」「考察」「創造」「構築」「実践」する能力です。これらを教育の世界では、「思考力・表現力」という言葉に置き換えられますが、それらの能力を育てることがこれからの課題になるはずです。

そのためには、いわゆる「受験勉強」だけで、学力を身につけることはできません。これまでは、受験が終わり合格を勝ち取れば、苦労して勉強した知識など「不要だ!」と嘯く人も多かったように思います。つまり、「学歴」という免許が得られれば、受験勉強はもう過去のことになってしまうのです。しかし、これではせっかくの努力があまりにも勿体ないような気がします。それに、たとえ不要になる「受験勉強」だったとしても、一時期、真剣に過去問に向き合う姿勢は無駄ではありません。要するに、その「中味」をどうするかにかかっています。それに、今でも「知識」が不要になったわけではなく、多くの情報を自分のものにしていくためには、自分の頭で情報を整理し「取捨選択」をしなければなりません。そして、自分が選んだ貴重な情報を「総合的に組み立て」て、自分が「納得」する形に収斂していく必要があるのです。その思考過程は、碌に本も読まず、学校の勉強もしてこなかった人間には到底身につくことはありません。つまり、「受験勉強」だけでは、現代に通用する「学力」は身につきませんが、スマホを弄っているだけでも、身につく学力など、ありはしないのです。「私は、パソコンやスマホは使える…」という人も、それは単に「操作できる」だけのことで、だれかが作成した「ソフト」を使えるだけのことでしかなく、自ら、新しい「ソフト」を開発する能力があるわけではありません。それでは、単に「利用者」でしかないのです。真の学力を身に付けた人は、それらのソフトも上手に活用しながら、新しい「創造の世界」を生み出すことができるのです。そこには、偏差値も学歴も関係ありません。その人がそれまでに努力してきた過程が社会に評価されるのです。

4 人間関係能力も重要な「学力」

数年間にわたって続いている「コロナ騒動」は、社会不安を巻き起こし、これが契機のようにロシアはウクライナに侵攻しました。この戦争は止まる様子もなく、世界は混乱の渦中にあります。日本国内でも、人の交流は制限され、仕事も「リモート」と呼ばれるパソコンを使っての「個人作業」が推奨されています。もちろん、子供たちも以前のように遊ぶこともできず、家の中に籠もってコンピュータゲームをする毎日です。これでは、「不登校」が増えるのもやむを得ません。そもそも、学校は子供同士が「交流」をする場であり、授業そのものも「交流」があるからこそ、自分を高められる機会となっているのです。それが、「個人学習」になれば、学校に通う意味すらなくなってしまいます。各学校では、国が推奨するように、配付された「タブレット」を利用して、登校できない子供に「リモート授業」を施していますが、交流のない「リモート学習」がどれほどの効果があるのかは、甚だ疑問です。

そもそも、人間は、一人で生きていけるような生物ではありません。個体としての人間は弱く、幸い「脳」が他の動物に比べて優れていたために「文明」を持ちましたが、それでも「群れ」を作り、家族を作り、国家を作ったのです。それが、コンピュータの登場によって、恰も「一人でも」生きていけるかのような錯覚を覚えましたが、社会が多くの人の手によって支えられていることは明白です。自分の手で何も生産できない人間が、社会の手を借りずに生きていけるはずがないのです。その「錯覚」を敢えて見ずに、「プライバシー」の名の下に社会から孤立すれば、人間は遠からず滅びていくことでしょう。個人主義の行く末は、国家の消滅であり、人類の消滅になることは明らかです。人間は、それほど愚かな生物ではありませんから、たとえ、コンピュータ全盛社会が到来しても、人間同士のつながりを否定することはしないはずです。そして、コンピュータ社会だからこそ、人間同士の温かい触れ合いが必要なのです。

人間の脳は、機械ではありません。自分の感情によって「幸福」にも「不幸」にもなれるのです。今、世界では「AI搭載ロボット」の研究が進み、人間型ロボットが次々と誕生しています。しかし、そのロボットが、完全な人間になることはできません。たとえ、表面を取り繕っても、中味まで「生物化」させることはできないからです。だとしたら、人間は、人との「コミュニケーション」なくして成長しないということです。現在、「学力」の定義には「コミュニケーション能力」は入っていないと思いますが、これから先、コンピュータやロボットが進化し、人々の生活に欠かせないものになって来ると、「人間同士の絆」の問題が問われてくるはずです。今でも、「リモート化」された環境では、人は今まで以上に孤立化しやすくなり、うつ病等の精神疾患の患者が増えてきています。人間には適度に「一人になる」ことは必要ですが、生涯、ずっと孤独なままで生きることはできません。そうなると、何処かで「人間関係」を学ぶ機会が必要になります。それは、おそらく「学校」だと思います。もし、文部科学省が学力の定義の中に、「思考力」「表現力」に加えて「コミュニケーション能力」を加えてくれたら、社会の「学力観」は大きく変わるかも知れません。社会が加速度的に進んで行く中で、私たちは「人として生きる」ことを選ぶべきなのです。多少の「不便さ」や「面倒臭さ」は甘受しつつ、「人間関係づくり」を学ぶカリキュラムがこれからの豊かな社会を創る真の「学び」のような気がします。

5 道徳心も重要な「学力」

今、小中学校では、道徳の授業が「教科」となり、年間35時間以上の授業を受けています。戦前までは、「修身科」という時間を設けて道徳の授業が行われていましたが、敗戦によって、それらが禁止となり、しばらく「道徳」は復活しませんでした。昭和の30年代に「領域道徳」という形で週に1時間の授業が行われることになっていましたが、まずは「教科」でないこと、そして、社会がそれに反対する動きがあり、学校の教師の多くは、道徳の時間をあまり有効に活用しませんでした。それが、学校での子供による「いじめ」が、過激になり、それを憂えた国が動いて教科となった流れがあります。だとしたら、この「道徳」が、これからの日本人の「学力」となっても問題はないように思います。もし、今、世界の人に「日本人とは…?」と尋ねたら、評価する人は、「優しい人が多い」とか、「親切」「礼儀正しい」などの、その道徳性を評価するのではないかと思います。失礼を承知で申せば、政治や経済は、日本独自の哲学がなく、いつも大国の動きを見ながら対応を決めるのみで、「アメリカや中国の顔色を窺っている」という印象しかありません。おそらく、それは外国人も同じように見ているはずです。しかし、「道徳的な振る舞い」をする日本人を好ましく思っている外国人は多いはずです。先日まで行われていたサッカーのW杯において、日本人サポーターや日本代表選手が、自分の使った席やロッカーをきれいに掃除して引き揚げたことが世界中の話題になりましたが、それは、だれもが「正しい行い」を知っているからです。この道徳心は、日本人個々の問題ではなく、日本という国が、その歴史や文化として受け継いできた「心」なのです。もし、これを「日本の力」として認めるのなら、道徳心も「学力」として認め、「知識・技能・思考・創造・コミュニケーション・道徳」を「総合学力」として育成して欲しいと思います。

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