歴史雑学14 「明治維新の大罪」の真実

「明治維新の大罪」の真実 ー明治維新外伝ー                       矢吹直彦

今の日本人の多くは、日本の近代化が成功したのは、「明治維新が成功したからだ!」と思っているはずです。なぜなら、学校でもそう勉強しましたし、テレビや小説等でも明治維新の英雄の物語は、格好良く描かれるからです。今でも「坂本龍馬」などは、司馬遼太郎という歴史小説家によって広く世に知られるようになり、何度もテレビドラマ化されてきました。そして、彼が、悪役に描かれたことは一度もありません。そういう意味では、西南戦争を起こした「西郷隆盛」も英雄視される人物で、その最期も武士の時代と共に潔く散ったイメージがあり、国民の人気を博しています。しかし、冷静に考えてみると幕末から明治にかけての動乱は、かなり政治的なものを感じます。いや、感じると言うよりも、だれが見ても「意図的」に仕組まれた「クーデター(暴力革命)」であり、「やむにやまれず立ち上がった草莽の志士」の物語とは少し違うようです。亡くなった方々には失礼ですが、彼ら自身が権力者に上手く操られ、権力を奪うために利用されたと言ってもいいでしょう。それを明治政府が、クーデターの「悪」のイメージを覆すために、「腐敗しきった徳川幕府を倒し、新しい世直しをする物語」にしてしまったのです。だから、辻褄の合わないところが多く見られ、昭和前期まで続く「藩閥・軍閥政治」に陥った原因だと考えられます。

個人的に言わせてもらえば、薩長が創った明治維新政府は、80年足らずですべてを灰にしてしまいました。大東亜戦争の敗戦は、すべて明治維新後の政治・軍事体制の中で行われた悲劇です。それだけ、日本は未熟だったのでしょうが、多くの血を流して創り上げた国家体制が、100年も保たないとは情けない限りです。前述の作家司馬遼太郎氏は、明治という時代を「みんなで坂の上の雲を目指した時代」と讃えましたが、私にはそうは思えません。もちろん、純粋に日本の近代化に尽くした人たちの中には、そうした思いはあったでしょう。しかし、真実を隠し、国民に偽りの歴史を教え、国民を分断した責任は明治維新政府にあります。言葉では「挙国一致」を叫んではいましたが、「賊軍」の汚名と差別は残り、神聖だと信じていた「皇室」までもが、新しい権力に利用される「玉」であったかと思うと、「建国以来の日本の歴史はなんだったのだろう?」と情けなくなります。現在の皇室は、「国民統合の象徴」として日本国憲法に明記されていますが、明治時代以降、政治に利用された「闇の時代」は、皇室にとっても、本当に不幸な時代でした。もし、明治維新後に皇室をあのような政治利用をしなければ、今の日本人の多くは、今でも皇室を大事に思い、尊崇の念を抱き続けたと思います。そのことが如何にも残念でなりません。それでは、せっかくの機会ですので、なぜ、「明治維新は罪」なのか、私見を述べたいと思います。

1 「攘夷」は、本当に必要だったのか?

明治維新のきっかけになったのが、欧米列強による世界規模の「植民地政策」いわゆる「帝国主義」でした。これは18世紀から始まった「産業革命」により、先進国が工業化していったことに原因があります。「工業化」=「近代化」=「幸福か?」と問われると、そうでもないことが、現代を見ればわかります。工業化の進展と共に人間らしさが失われ、世界中が「欲望」の坩堝と化した如く、別の意味での人間の「醜い本能」が蘇ったような気がします。それを具現化して見せたのが、大英帝国と呼ばれた「イギリス」でした。今でこそイギリスは、アメリカや中国、ロシアほどの大国ではありませんが、18世紀から20世紀初頭にかけては、世界の「七つの海」を支配するほどの大帝国でした。そのイギリスから始まった産業革命は、瞬く間に欧州全土に広がり、蒸気機関を利用した軍艦が世界中の海に乗り出したのです。それは、「白鯨」や「黒鯨」が世界中の海で暴れ出したようなもので、だれもその勢いを止めることはできませんでした。したがって、日本が混乱の渦に巻き込まれた原因は、幕藩体制による「内政問題」にあるのではなく、「外圧」によって混乱が生じたからです。それが、江戸時代の後期にあたります。

学校での歴史の授業では、「徳川幕府が、鎖国政策を採っていたから世界から取り残された…」と教わります。本当にそうでしょうか。もし、徳川家康が天下を統一し、戦国の世を終わらせなければ日本に「平和」が訪れることはありませんでした。江戸時代になり、外国との交易が盛んに行われれば、当然、大名たちには野心が起こり、外国から密かに武器の密輸も行われるようになったはずです。「大名」というのは、強力な軍隊を持つ地方豪族のことです。彼らを抑えるためには、徳川という「大豪族」の圧倒的な力が必要だったのです。「鎖国」は、そのための重要な施策だったはずです。今の日本は個人で武器を持つことを許されてはいません。豊臣秀吉から始まった「刀狩り」は、徳川幕府にも踏襲され、明治になると「廃刀令」が出され、国民は一部の公務に就いた軍人や警察官以外に武器を携えることはできなくなりました。これによって、日本は「平和な国」を実現させたのです。もし、徳川幕府が経済優先で、外国と積極的に交易を進めていたら、日本国内に多くの武器が流れ込み、200年以上もの平和を維持することはできなかったと思います。徳川家康は、幕府を開くにあたって、交易を取るか平和を取るかの選択で悩んだはずです。しかし、家康は「元和偃武」を宣言し、「平和はここから始まる!」「武器は蔵にしまえ!」と全国の日本人に命じたのです。「偃武」とは、武器を倉庫にしまうことを意味しています。もし、家康が、強大な軍事政権を目指そうとするなら、交易で儲けた資金で大量の武器を揃えたはずです。それは、日本全体が「軍事大国」になることを意味しています。そうなれば、いずれ、各地で戦が起きるのは火を見るより明らかです。家康は、それを怖れ、元号を「元和」とし「偃武」を求めたのです。確かに、「鎖国」によって生じた負の部分はあるでしょう。しかし、「平和」という当時の日本人の願いを実現させたことも事実なのです。

江戸時代の後期になって、欧州の大型船が日本近海にまで迫ってくるようになりました。当時の幕府としてもオランダから逐一情報が入っていましたが、「これをどうする」ところまで議論が進んでいたとは言い難い状況がありました。そこには、朝廷の「攘夷思想」があります。特に孝明天皇は極度の異人嫌いで、「神国である日本に異人を入れてはならぬ!」と厳命していたほどです。それに乗じたのが水戸の徳川斉昭です。元々、水戸藩は徳川家の親戚でありながら、「万が一のときには朝廷側に立つよう」徳川家康から命じられ立藩した「親藩」です。家康も、徳川家の存続を考え、徳川家と朝廷が対立した場合、水戸家だけは宗家を裏切るよう命じてあったのです。これは、まさに大阪の陣のときの真田家と同じです。真田家は、当主真田昌幸と次男信繁は大坂方につき、長男信之は徳川に与しました。家族でありながら「家名を残す」ということは、それほど重要だったのです。そのために、水戸家は代々朝廷から奥方を迎え入れ、京都と密接な関係があったのです。徳川光圀が編纂を始めたという「大日本史」などは、まさに朝廷の歴史であり、徳川家が天皇家の家臣であることが明白に記されています。そのため、孝明天皇ご自身が「攘夷」を仰せになるのであれば、水戸徳川家はもちろん「攘夷論者」ということになるのです。

水戸藩の中でも、当主である水戸斉昭は過激な攘夷論者でした。水戸の考え方は「水戸学」と呼ばれ、藤田東湖などの思想家たちによって、静かに全国の下級武士たちの間に広まって行きました。簡単にいえば、「自分たちの主人が、江戸幕府(徳川)ではなく朝廷(天皇)だという」考え方です。これ自体に間違いはありません。そもそも、徳川将軍は朝廷から「征夷大将軍」の位を得て、武士の頂点に立っているのですから、その上に立つのが「天皇」であることは簡単な理屈です。それ故に、「天皇の命令(勅)の方が、幕府の命令より重い」と考えてもおかしくはないのです。それを徳川の親藩である水戸徳川家がお墨付きを与えたわけですから、多くの下級武士が「水戸学」に傾倒していった理由がわかります。その水戸藩の当主である斉昭(烈公)が、率先して攘夷を唱えるわけですから、幕府としては頭が痛い問題でした。その上、孝明天皇ご自身が「攘夷論者」ですから、幕府もすぐに「開国」とは言い出せないのもわかります。しかし、幕府は「開国やむなし」で一致していました。それは、冷静に考えてみればわかることです。欧米列強の植民地主義は隣国にまで及び、難癖をつけられて戦争を強いられ、一方的に敗れると人種差別も甚だしい「不平等条約」を押し付けられ、国の富を一方的に搾取されるのですから酷いものです。しかし、白人主義の世界では、有色人種は「差別されて当然」の人間なのです。それを知る人たちにとって、できもしない攘夷などより、一日も早く開国して「富国強兵」に転換しなくてはならないという焦りがありました。そんな渦中に日本が巻き込まれていたにも拘わらず、出来もしない「攘夷」を掲げて幕府(政府)を倒そうとするのですから、当時の日本は外にも内にも敵がいたことになります。

こうした「国難」の時には、日本人は一致団結して国難にあたるのかと思っていましたが、幕末期に於いては、そうした日本人はいませんでした。よく、鎌倉時代の「元寇」が日本最大の国難として取り上げられますが、まさに世界最強のモンゴル帝国の侵略を受けたのですから国難以外の何ものでもありません。しかし、あの利害関係で動く鎌倉武士が、幕府の命を待たずとも九州に参陣して、あの強力なモンゴル軍と戦ったのですから立派なものです。それに比べて、幕末の国難では、外様大名たちの多くは日和見を決め込み、強い者に靡く武士たちばかりでした。江戸時代当初は、赤穂浪士たちのように「義」のために、命を賭けて仇討ちまでしようとした武士がいたのに、「武士道」を学んだはずの後世の武士たちは、「国難など関係ない」という風情で風見鶏のようにウロウロした挙げ句、大恩ある徳川幕府に平気で弓を引く姿からは、武士道の「仁も義」もありません。「平和ぼけ」という言葉があるように、幕末の多くの武士は「平和ぼけ」になっていたのです。そして、日本の国難を利用して権力を奪おうとする者たちは、できもしない「攘夷」を煽り、幕府を困らせ、イギリスやフランスなどに付け入る隙を与えたのです。特に薩摩藩は、最後の最後に寝返り、新政府の中心となりました。名君と謳われた島津斉彬は、確か公武合体派だったはずです。西郷は、斉彬の第一の家来を自負していながら、倒幕クーデターの中心人物になるのですから、主君の顔に泥を塗るような所業ではありませんか。そうして出来上がった国が、どうして「正統な日本」だと言えるのでしょう。

あのとき、孝明天皇がなんと言おうと、挙国一致で「中国の二の舞にはならない!」と、「攘夷」などというまやかしを論ぜず、大名たちが力を合わせて積極的に開国に向かっていれば、日本は欧米から侮られることもなかったのです。結局、明治の世になると、明治維新政府はあっという間に方針を変更し、「文明開化・富国強兵」に舵を切るのですから「二枚舌」もいいところです。そんないい加減な政府を信じる国民はいません。天皇家も維新政府にいいように利用され、着たくもない軍服を着せられ、白馬に乗せられ「大元帥」と讃えられても、嬉しいはずがありません。ましてや、京都御所から引き摺られるように「東京」の武士の館(江戸城)に住まわされた屈辱は、皇室のみならず朝廷の人間にとっては、忘れられない傷となったはずです。その証拠に、大東亜戦争の敗戦に際して昭和天皇の母である「貞明(節子)皇后」は周囲の者たちが将来を案じている中、ひと言「これで、昔に戻っただけよ…」と毅然として前を向かれたそうです。この言葉には、明治以降の皇室の方々の複雑な思いが込められているように思うのは私だけでしょうか。そもそも、軍人(武士)は「令外の官」と呼ばれ、朝廷の正式な役人ですらありませんでした。その最低の地位に天皇を就かせたのですから、明治政府の役人たちは、日本の歴史を泥靴で踏みにじったも同然です。あの織田信長でさえやらなかった不敬を働いた明治維新政府は、きっと「日本の神々」からも見放されたのだと私は思います。

2 明治憲法(大日本帝国憲法)の欠陥

今の日本国憲法にも問題はありますが、明治憲法にもそれ以上の大きな欠陥がありました。今でも憲法を「不磨の大典」などという言葉で、「絶対に犯してはならない法」であるかのように叫ぶ学者がいますが、他国では当然のように時代に合わせて内容を変えています。現行憲法の最大の問題点は、その制定までの「過程」そのものにありますが、明治憲法の問題点は「統帥権の独立性」にありました。これによって、日本はまともな政治ができずに、愚かにも世界大戦に巻き込まれ自滅していったのです。今の人が、昔の軍の「統帥権」と言われてもピンと来ないでしょうが、簡単に言うと、統帥権は天皇にあり、政治はそれに関与できない仕組みだったのです。つまり、政府も内閣も議会も「軍」に関しては、何も決める権利がないということです。これでは、まともな民主主義は育ちません。江戸時代などよりも酷い専制主義で、日本に別の「軍」という独立国を抱えていたようなものなのです。

明治憲法では、天皇は「国家元首」であり「主権者」として存在していました。今のように「国民主権」の考えはありません。国民はすべて天皇の「赤子」であり、天皇の下に庇護される人民という扱いになります。政府や内閣、議会等は、天皇の命を受けた人たちが天皇の行う政治を助ける(輔弼という)ために存在しているのであって、天皇の意思によってどのような国家運営も為されることになります。幸い、近代日本の各天皇は、古代の仁徳天皇にように「仁」の心を持つお人柄でしたから、明治憲法によって「大元帥」に持ち上げられても、その権力を自分のために使うことはありませんでした。そもそも、天皇という地位が「日本の歴史と共にあった」ことを知る人たちは、敢えて天皇を軍人や政治家にさせる気持ちはなかったと思います。飽くまでも祖国の安寧を願い、民の暮らしを憂える存在としてあり続けたかったはずです。それを維新というクーデターを使って政治利用したのが、明治政府を創った革命家たちです。

明治憲法は、伊藤博文がプロシア(ドイツ)の憲法を参考にして作成したと言われていますが、クーデターを起こした人間としては、「軍」が、政治の下に置かれることに我慢がならなかったのだと思います。それは、当時の武士の思い上がりであり、やはり「権力」を手放したくないという欲望から「統帥権」を独立させたのでしょう。こうしておけば、上には天皇しか存在しないことになり、天皇を助ける(輔翼という)のが軍人の役目ですから、軍の意向で予算を取ることも、政治を動かすことも自由になります。明治の初期のことですから、長州の山県有朋たちが画策したものと思われます。それを伊藤博文がどう思っていたかはわかりませんが、明治時代はそれでも統帥権を乱用することはなく、維新を生き抜いた政治家や軍人がいる間は、軍も勝手な行動はしませんでした。今でも、大きな老舗の会社などでも、創業社長や会長が君臨している間は、部下が勝手なことをすることはありませんが、二代目、三代目になると創業時の苦労も知らずに勝手気ままに振る舞い、会社の経営をおかしくする人が出てきます。それとよく似たことが、大正、昭和という時代に起こったのです。

大正時代になると、伊藤も山県も明治天皇も亡くなり、「優秀」な試験エリートたちが軍を動かすようになっていました。軍人も、日清戦争や日露戦争を経験したと言っても、下級将校で参加しただけのことで、軍の中枢で作戦を考えたり政治を動かしたりしたわけではありません。何となく、先輩たちの真似をするので精一杯だったと思います。陸軍では、西郷隆盛や大山巌といった薩摩の武士たちの貫禄を真似て、「命を預けた!」的な態度が好まれたそうです。人間の器が違うのに、形だけはそれを気取っても部下に侮られるだけのことです。要するに戦場での活躍が出来ない時代は、星の数に似合う「貫禄」が欲しかったのでしょう。そうなると、下々の将校たちは、上官の将軍たちを侮り、自分の「仲間」を作り、政府批判をしたり「世直し」論を叫んで気炎を上げるようになっていきました。これは、まるで幕末期の「攘夷論」や「倒幕論」を叫んだ「志士」たちと同じです。それより始末が悪いのが、彼らが草莽の志士などではなく、歴とした「エリート軍人」だということです。権力を使える側の人間が、「世直し」を叫ぶようでは国が危ういのは当然です。おそらく、戦争もなく、活躍する場を失った軍人たちが、その鬱憤の捌け口を求めていたのでしょう。その結果が、海軍の「5・15事件」であり、陸軍の「2・26事件」につながるのです。

彼らの多くは、本気で「昭和維新」を起こして死ぬつもりなどなく、何となく雰囲気で仲間に誘われ、軽い気持ちで参加したようです。自分たちだけの世界で妄想を繰り広げた結果が、昭和天皇の怒りを買うことになったのです。彼らの単純な思考は、「天皇を戴いて軍人の政権を創り、国家総動員体制を敷く」ことにありました。つまり、自分たちの都合のいい「軍人政権」を夢見ていたのです。そこには、国民も国家もありません。単に「軍人が威張れる国」を作りたいという欲望だけなのです。そうすれば、軍人は国内で一番のエリートになれるという思惑があったからです。もちろん、理論的には未来の戦争が一部地域で起こる「限定戦争」ではなく、国民全員が動員される「国家戦争」になるという考えはありました。しかし、日本の国力を考えれば「限定戦争」しか、戦争に勝利する道がないことは明白です。しかし、優秀な頭脳を持つエリート軍人は、国力の計算もしないまま「未来の戦争」を想定して軍を強くすることばかり主張していたのです。そして、それを押し止めようとする政治家や学者に対しては、伝家の宝刀である「統帥権」を持ち出し、何か不都合なことを言われると、「統帥権干犯だ!」と騒ぎ立てたのです。「統帥権」は、天皇にのみ与えられた最大の権力ですから、これを批判する者は、天皇を批判することになり「賊」の汚名を着ることになります。明治維新からそれほどの時間が経っていないころのことです。この「国賊」という言葉は、「日本では生きられない」ことを意味しています。そうなれば、だれもが口を噤むのは当然です。こうなると、「愚か者!」と言うしかありません。結局、軍人たちは、軍と自分の利益のために国を疲弊させ、最期は外国との軋轢を生んで自壊していったのです。

3 それでも「徳川」を「悪」にしたい

「明治維新によって、日本は近代化した」という嘘を信じて、日本の近現代史は作られました。「いつまでも平和ぼけが治らない腐敗した徳川幕府に替わって草莽の志士たちが決起し、日本を近代に導いた」というのが明治維新史観です。そのために利用されたのが長州藩の「吉田松陰」です。確かに彼は、思想家としては一流だったと思います。熱い情熱を持って国難を憂い、若者たちを新しい時代に導きました。そして、自身は「安政の大獄」によって処断されたことは、一人の武士としての悲劇でしょう。松陰の言う「大和魂」こそが、日本人の精神性を表していると思います。しかし、その純粋さがクーデターを起こす連中に利用されたのです。いくら師匠が純粋であっても弟子が純粋であるとは限りません。「純粋なふりをする」のが得意な人間もいます。「吉田松陰の弟子だった」という肩書きは、我々が想像する以上に有効な働きをしたのでしょう。あの伊藤博文もそれを名乗っていますが、彼は、単に松下村塾で下働きをしていた「小僧」でしかなく、そんな大層な思想なんか学んではいません。そこを勘違いするから、歴史の見方がおかしくなるのです。

どんな小説を読んでも、悪は固陋で腐敗した徳川幕府であり、善はクーデターを起こした志士たちなのです。どんな場合でも、「大きな権力に立ち向かう弱者の物語」は、時代のヒーローになれます。あの坂本龍馬も、資産家の息子という部分は強調されずに、「最下級の武士(郷士)」という部分ばかりが強調され、幼少期に於いては、如何にも「愚図で、のろまな少年」であったかのように描かれます。しかし、本当のところはどうなんでしょう。龍馬自身の才能や知見があったことも事実でしょうが、革命家たちにしてみれば、「ここに、都合のいい男がいた」くらいの扱いだったのではないでしょうか。彼が暗殺されたのも、簡単に言えば「用済み」「邪魔な存在」だったからです。革命家側からしてみれば、トカゲの尻尾を切るが如く、用が済めば簡単に処分したのだろうと思います。今でも「坂本龍馬暗殺の謎」が歴史ミステリーとして騒がれますが、「トカゲの尻尾」を斬るくらいのことですから、暗殺者はいくらでもいます。単に利用した者が始末をしただけのことでしょう。そうして早くに処分された「草莽の志士」と呼ばれた武士は多かったはずです。

とにかく、明治政府にとって、徳川をすべて「悪」にしてしまわなければ自分たちの悪事が暴かれてしまいます。それでは、命懸けでクーデターを起こした意味がありません。せっかく、権力を徳川から奪ったのですから、自分たちの行った悪事はすべて「闇の中」に封じ込めるしか、自分たちが生き残る道はありません。正直言って、日本の近代化が急速に進んだのは、自分たちの力ではないことを明治維新政府の連中は知っていました。いくら太鼓を叩いても、その素地がなければ西洋の技術も文化も習得できるはずがないからです。幕府を倒すことまでは、勢いだけで進みましたが、国を壊したのですから、再度「建て替える」作業が必要になります。それも、急いで建てなければ、すぐ側まで欧米列強という強大な力が迫っているのです。これからは、革命家が活躍できる場面はありません。国家建設、国家経営という重大な責務が明治維新政府の役人になった武士たちにのし掛かってきました。そうなると、西郷も大久保も木戸も用なしです。彼らは、維新後10年の間に全員が亡くなりました。西郷は西南戦争で自刃。大久保は暗殺。木戸は病死です。これも神のなせることなのでしょうか。それに、維新を成し遂げましたが、いわゆる「西軍」の人材だけで近代化ができるはずがありません。彼らは泣く泣く、幕臣や旧幕府方の人材を集め要職に就けるしかありませんでした。有名なのが、日本経済の父と呼ばれた渋沢栄一です。彼は、徳川慶喜に仕えた幕臣です。彼がいなければ、日本の経済は、なかなか近代化することができなかったでしょう。我欲に走らず、経済の世界にも「論語」の大切さを説いたのは、特筆すべき功績だったと思います。他にも戊辰戦争を最後まで戦った榎本武揚や大鳥圭介、勝海舟などが新政府で活躍しました。民間に於いては、医学の世界では佐藤泰然の順天堂や緒方洪庵の適塾などが有名ですが、その多くは、幕府方の人間たちだったのです。「賊軍」の汚名まで着せられ、あれほど武士としての誇りを傷つけられても、彼らは新生日本のために「礎」となったのです。

今でも、幕末維新を扱った小説やドラマは多く創られていますが、最近になってやっと幕府方を偏りなく描くことが増えてきたように思います。特に「新選組」は、幕末の京都の治安を守るために、不逞浪士たちを厳しく取り締まっていましたので、完全に「悪役」でしたが、それでも、近藤勇や土方歳三、沖田総司などは人気者で、彼らの功績も見直されてきています。また、戊辰戦争の悪役である「会津藩」は、一方的に朝敵にされた汚名を着せられたままでしたが、これも最近、NHKが大河ドラマで取り上げてくれたこともあって、以前ほどの「悪役」ではなくなったようです。それでも、学校の教科書には、「維新の三傑」と称して、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が写真入りで紹介されていますので、明治維新史観は訂正されそうにありません。西郷贔屓の人から言わせれば、「徳川幕府が存続していたら、日本は外国の植民地になっていたはずだ!」となるのでしょうが、そんなことはありません。「攘夷」や「倒幕」などの内乱などなくても、日本は近代化できたのです。徳川幕府もそんなに愚かではありません。人材も豊富に揃っていました。それに気づこうともせずに、単なる「関ヶ原の仕返し」を企んだだけのクーデターに価値などあるはずがないのです。後付けで、様々な理由をつけてはいますが、明治維新は外圧を利用した「クーデター」以外の何ものでもないことを押さえておきたいと思います。

4 近代日本は、江戸幕府が起源

どうも、日本の学校で勉強をすると、明治以前の日本は「時代に遅れた非文明国」といった誤った認識になるようです。そして、近現代史では明治維新の嘘を信じ込まされ、日本が軍の横暴によって軍国主義が広まり「侵略国家」となったというさらなる嘘を信じ、敗戦後は占領軍(GHQ)の嘘によって洗脳され、「戦後民主主義が絶対だ!」と思うことで「日本」という国が保たれているというのは、あまりにも情けないと思います。こんなことを言うと、現職のころは周囲から変人扱いされ、下手をすれば、だれからも相手にされない危険性すらありました。それはそうでしょう。その「嘘」を真実と教えられ、高校や大学の入学試験でも、その嘘以外の答えはないのですから、普通の人間なら信じるほかはありません。そして、そう思い込んだまま人生を送れば、それが絶対的な価値を持ち、他の価値を認めることができなくなります。まして、それを広めたのが日本政府であり、国会議員であり、マスコミであり、有名大学の学者たちなのですから、その論に逆らう術はありません。幸い、日本では「表現の自由」が憲法で保障されていますので、公務でない限り発言は自由です。それにしても、考えれば考えるほど歴史には「矛盾」が多く、歴史学者という人たちは、よくもまあ、こんないい加減な歴史を信じて国民に広めたものだと感心してしまいます。「生きるため」とは言いながらも、この「長いものには巻かれろ」的な思考は、農耕民族の日本人らしい哲学かも知れません。

江戸時代は「封建社会」という言い方で、欧州の封建社会と同列に扱い、常に農民は搾取され続けてきたような言い方をされますが、どの国(藩)においても基本は「五公五民」で、あまりにも酷い搾取が行われたような場合は、農民一揆も起こりましたし、幕府も事態が大きくなれば、その大名を評定所に呼び出して詮議し、証拠が揃えばその藩を罰しました。徳川幕府にとって、各地の大名家は常に「監視」の対象なのです。江戸時代には武士が過ちを犯せば武士道に基づいて「切腹」という処罰が下されました。これを「名誉ある死」としたところが、統治の巧みさです。これを単に他の罪人同様に「打ち首」にでもすれば、その遺族や家の名誉は傷つき、子孫が生きていくことはできません。しかし、名誉ある切腹なら「武士としての面目は立った」として諦めもついたでしょう。それに恨みも残りません。それと同じように、大名が領内を治められなかったり、不祥事を起こせば、幕府は容赦なく藩を取り潰し(改易)たのです。そうなれば、ことは一大事です。有名な「忠臣蔵」を見ればわかるように、殿様一人の不始末で、その家がなくなるわけですから、数百人という家臣とその家族はたまりません。したがって、各大名家では、常に幕府の顔色を窺いながら、領内に問題が起きないように細心の注意を払うのは当然でした。そんな政治を行っている中で、農民一揆が起こるような酷い搾取をするはずがないのです。ただし、江戸から遠く離れた薩摩藩などでは、幕府の眼を掠めて、琉球や奄美大島の人々を差別して酷い搾取を行っていたと言いますから、例外はあったと思います。そんな「差別意識」の強い薩摩人が、明治政府の中心だったのですから、表向きは「四民平等」でも、その意識は江戸時代以上に封建的だったのではないでしょうか。

形上は、明治維新によって日本は「近代化」の道を進んだことになっていますが、その素地は江戸時代にありました。黒船が来航したとき、確かに一時は慌てましたが、次の瞬間には「興味」の対象になったといいます。それは、日本人ならではの「好奇心」がムズムズと湧いてきたからです。来航したアメリカ人やイギリス人にしてみれば、他のアジアやアフリカの人々は、大砲の音を聞いただけで恐れおののき、すぐに降参したそうですが、日本人は違います。「へえ、すごい物があるんだなあ…?」と感心した先には、「どんな構造になっているのかなあ?」となり、すぐに調べようとします。そして、少しでも構造がわかると、「なんだ、あれと同じじゃないか?」「これなら、俺にも作れるかも知れんな?」となり、見よう見真似で黒船を造ってしまったそうです。あの「飛行機」でさえ、江戸時代の発明家の中には、既に模型を完成させて実験した人がいたわけですから、たかが「船」の一隻、どうということはありません。江戸時代では、完璧ではないにしても国産の蒸気船を完成させていますし、明治38年には、国産の正式戦艦「薩摩」を完成させています。あの戦艦大和でさえ、昭和16年には完成させているのですから、明治維新後70年足らずで、世界の科学技術の最高水準を超えたことになります。こんな国は、何処にもありません。それをすべて「明治維新以降の教育の賜だ!」と言われれば、「そんなばかな…?」と笑うしかないでしょう。

江戸時代は、間違いなく「平和」な時代です。もちろん、国内では様々な事件や災害は起こりました。しかし、それは今も同じです。その平和な時代が200年以上続いたのですから、徳川幕府を悪し様に言う人の気持ちがわかりません。どんな政権でも、欠点を指摘すればいくらでも見つかるでしょう。今の政権でも一年も経たずに批判に晒され、総理大臣が替わったり、総選挙が行われたりしていますが、それでも批判に晒されない政権はありません。徳川幕府の運営に批判があることはわかりますが、それでも安定した政権運営をした結果、200年にも及ぶ平和な時代が創られたことは「評価」されるべきです。その中で、多くの「文化」が華開いたことはだれもが承知しているとおりです。今でもその多くは「〇〇道」として継承されており、日本の文化の高さを内外に誇っています。そんなことのできる日本人が、江戸時代だけは、「愚か」であるはずがありません。学問も盛んに行われ、和算などは既に世界水準だったと言われています。木造建築の技術も高く、今でも「宮大工」として技術が継承されていますが、各地方の城郭や寺院、神社等が「観光地」として成り立つのも、当時の技術が高度で芸術性に富んでいるからに他なりません。そして、一般庶民の識字率は高く、各地にできた「寺子屋」は、現在の学習塾以上に「生きるための知恵」を授けてくれました。そこでは、「読み書き算盤」の他に「論語」を基本とした「人の道(道徳)」を学んだのです。先年、「江戸しぐさ」という江戸の町人の「人への思い遣り」が流行りましたが、「論語」を学んだ人なら、その程度のことは「常識」だったと思います。

こうした教養ある日本人が多くいたことで、明治維新を迎えても大きな混乱もなく日本は近代化の道を進むことができました。これを、明治維新政府は自分たちの功績のように言っていますが、単に政権を奪いたいだけの革命家たちにできる政治は、たかが知れています。言わせて貰えれば、明治維新の英雄たちがみんな亡くなり、伊藤博文たち第二世代になったことで、やっと日本は近代化の道を歩み始めたのです。伊藤たちも年を重ね、少しは落ち着きが出てきたころ、やっと本気になって「日本」という国のことを考え始めたのかも知れません。しかし、残念ながら知識も経験も少ない伊藤たちができたことは、形ばかりの明治憲法を作り、「これで、近代国家の仲間入りができた」と喜びましたが、「統帥権独立」というとんでもない爆弾を仕込んだことで、日本は崩壊の道を辿ることになりました。もっと知恵のある者を全国から集めて慎重に議論をしていけば、アジア初の立派な憲法ができたかも知れませんが、それが、明治維新政府の限界だったと思います。

江戸時代の後期、徳川幕府は開国に備えて、既にその「体制」を変革することを考えていました。当初は、徳川家が政権を担当するにしても、東京に政府を創り、郡県制を敷いて藩をなくすことまで考えていたのです。それがなければ、安易に「大政奉還」などするはずもないのです。もちろん、多少の混乱はあったと思いますが、憎しみと復讐心で起こした「戊辰戦争」のような無様な内乱にはならなかったでしょう。徳川家が政権を朝廷に返上し、徳川家の当主である慶喜が謹慎しているにも拘わらず、自分たちの私怨を晴らすために奥州に攻め入って、理不尽な戦いを強いた新政府軍を東北人は未来永劫許すことはないでしょう。「薩摩、長州…」と聞いて会津の、そして東北の人間が笑顔を見せることはありません。今の人たちは「そんな昔のことをいつまでも根に持って…」と言いますが、あの時代にあの戦乱に巻き込まれ死んで行った多くの人々の思いを考えれば、「昔のこと」ではすまされないのです。そんな無惨な戦いをするくらいなら、明治維新などなくてもよかったと思います。よく、明治維新は、「血を流さないクーデター」と言う人がいますが、とんでもない。戊辰戦争から西南戦争まで続く内戦こそ、必要のない「血」だったのです。

5 クーデターによる成功体験の後遺症

結局、権力を奪うためだけのクーデターは、後の世に大きな負の遺産を残しました。それが、革命家やテロリストを認める歴史観です。今でこそ、革命とかテロと聞くと、怖ろしい犯罪者といったイメージがありますが、この時代は、「維新」という言葉が使われているように「改革者」といったイメージが強かったように思います。確かに、身分制度が確立している社会では、自分の個性や能力を発揮する場は少なく、主従関係というのも煩わしいものです。江戸時代までの日本人は、ずっとそんな価値観の中で生きていますから、それを「おかしい」とは思わないのでしょうが、高度な学問をしたような人間には、自分の「夢」を阻害するそれらの「壁」が、邪魔であり壊さなければならない対象であったはずです。それを実行するか否かは、その時代背景にも関係してきますので一概には言えませんが、気分としては、多くのインテリが抱えていた不満だったと思います。幕末の志士たちの動機を見ると、そのほとんどが「這い上がれない自分への苛立ち」が多いような気がします。しかし、それはすべて幕府の責任とはいえません。土佐藩などは、公武合体派でありながら武市半平太のような過激な行動をする革命家が誕生しています。坂本龍馬は、それに感化されて、一時、「土佐勤皇党」に属しますが、生まれが資産家なので本当の下級郷士の気持ちは理解できなかったと思います。いつも上士に気を遣い、差別的な扱いを受ける身分では、出世する道などないも同然でした。しかし、それを制度化したのは主君である山内家であり、徳川とは関係がありません。逆に徳川家では、どんなに身分の低い御家人であっても優秀な人材を登用しようとしていました。徳川家の学問所である「湯島聖堂(昌平坂学問所)」は、そんな旗本・御家人の学ぶ学校だったのです。そうでなければ、勝海舟のような低い身分の御家人が登用されるはずがありません。恨むなら、自分の主家を恨めばいいのです。

薩摩藩では、改革派だった島津斉彬の死後も弟の久光が国主となって藩をリードしました。藩内での混乱は過激派を抑えるための「寺田屋事件」などが起こりましたが、犠牲は最少限度で止めることに成功しました。但し、幕府にとって、薩摩藩が起こした「生麦事件」や「薩英戦争」は、日本国の政府に国をまとめる力のないことを外国に知らしめる結果となり、薩摩の横暴はこの後を続くことになりました。長州藩は、何故か当初から「攘夷」を叫び続け、朝廷工作を行うなど、過激な論を吐き続けた結果、幕府による「長州征伐」になりましたが、これも薩摩藩が動かなかったために、改易を免れたという経緯がありました。しかし、藩政を担っていた重臣たちが「長州征伐」の責任者として処分されると、過激派の高杉晋作たちが台頭し藩内は混乱を極めた末に「倒幕」に舵を切ったのです。長州はフランスとも「下関戦争」なる戦いを行い、外国勢力の力を見せつけられました。長州藩では、ずっと「打倒徳川」がこの大名家(毛利家)の夢だったようですから、理由の如何を問わず、「倒幕」にお墨付きを与えるのは当然でした。しかし、その後の未来を描けないのも長州人の性格によるのかも知れません。

朝廷派であり親藩でもある「水戸藩」では酷い内乱が続き、身内同士で凄惨な戦いを繰り広げた末に人材が枯渇し、明治維新政府で活躍した人物はだれもいなくなりました。天皇方に味方したい勢力と、徳川の親藩としての立場を守りたい勢力の争いは、水戸人にとって悲劇的な歴史となってしまいました。全国の大名家でも多かれ少なかれ、こうした藩内での意見がまとまらずに身内同士で争う事態に陥りました。そして、「錦旗」に従うことを決めた大名家は生き残り、徳川の恩義に報いようとする「武士道」に徹した大名家は、新政府軍と戦いその軍門に降ったのです。つまり、武士の規範であった「武士道」とは、所詮この程度の価値でしかなかったわけです。明治時代になると、武士道を捨てたはずの元武士の役人や軍人たちが、軍隊内で改めて武士道に近い「軍人精神」を説いたわけですから、心の中で笑っていた兵隊もいたはずです。結局、「勝てば官軍!」という価値観だけが残りました。

そうなると、明治維新の苦労も知らない軍人エリートたちは、「勝って官軍になればいい!」と単純に考えるのです。軍人が「勝つ」というのは、外国の軍隊に勝つこと以外にあり得ません。そのためなら手段を選ばないのも「革命家気取り」の軍人たち共通のものでした。「社会が不景気なのも政治家や実業家が搾取しているからだ!」と思い込み、「日本が世界から侮られるのも軍隊が弱いからだ!」と思い込み、「だったら、俺たち軍人が政治をやればいいんだ!」と思い込んだ結果、中途半端なクーデター紛いの事件を起こしたのです。5・15事件では、海軍将校他数名で犬養毅首相を暗殺したにも拘わらず、だれも死刑になりませんでした。これは、マスコミが国民を煽り、彼らの行動を「忠義」と讃えたからです。昔の武士道に照らせば、加わった人間は全員その場で腹を切ったはずです。若しくは、全員が赤穂浪士のように処断されなければ武士道の名折れでしょう。しかし、彼らは戦後も生き延び、平気で左翼活動をしていますから、軍人たちの使う「武士道」は、いい加減なものです。この5・15事件を見て、陸軍の過激派将校たちは決起し、2・26事件を起こしました。計画では、総理大臣他の重臣たちを悉く暗殺し、その勢いで自分たちが心を寄せる将軍たちを中心とした内閣を作り、「天皇親政」の名の下に軍人が社会を牛耳る日本を作ろうとしたのです。それは、「天皇」を軽く考え、「玉」と称した幕末の長州人と同じ発想です。「天皇の勅命」さえ下されれば、後は自分たちが自由に政治を動かせるといった思想は、まさに「明治維新史観」そのものです。たった一度の成功体験が身近にあったために、同じ発想に陥るところが、日本人の浅はかなところなのでしょうか。「昭和維新」を旗印に決起した陸軍将校たちでしたが、今度は、昭和天皇ご自身が「我が忠良なる重臣を殺すことは、私の首を真綿で締めるのと同じである」と激怒され、決起した将校たちは一気に「賊徒」とされて叛乱は鎮圧されました。こうしたことが起こるのも、明治維新という革命が成功したための「後遺症」と言えるのです。

6 今も残る「革命論」

敗戦後、日本を占領した連合国軍(GHQ)は、不思議とこの「明治維新史観」を否定しませんでした。日本における唯一の「革命」を容認することで、占領政策をやりやすくしようとしたのかも知れません。とにかく、GHQは、「WGIP」という計画で、日本人が「戦争を起こした罪」を自覚し、二度と欧米に逆らわない国にしようと企んだことは明白ですから、明治維新も彼らには都合のいい歴史だったのでしょう。戦後間もなくはGHQの中にも共産主義者や親ソ派の人間が多くいましたので、心の中では、「日本に共産主義革命が起きればいい」と思っていたはずです。そのころ、日本に命じた多くの占領政策はまさに「共産主義的政策」ばかりでした。しかし、昭和25年の朝鮮戦争を境にアメリカの空気も一変し、アメリカで「レッド・パージ」(共産主義者追放運動)が起こりましたので、日本は革命までには至りませんでしたが、その左翼思想は今でも国内に多く存在しています。特に国会議員の中には、多くの左翼思想の持ち主がおり、日本社会をそちらに誘導しようと企んでいます。彼らは言葉巧みに政治を動かそうとしていますが、安易に口車に乗ると、とんでもない事態を引き起こすことになると思います。

昭和天皇が崩御されると、日本の「皇室」に対する論調が大きく変わり、皇族のみなさんがマスコミに狙われるようになりました。そして、そのひと言ひと言の発言が切り取られ、いいように報道されるようになりました。ましてや、皇位継承問題まで国民の間で議論されるようになると、いずれは、「皇室廃止問題」まで起きかねません。それは、日本という国自体の大きな問題であり、もし、皇室が本当になくなれば、そこで日本の歴史は「断絶」することになります。それというのも、明治維新政府が、天皇を朝廷から引き離すように「東京」に連れてきて、軍服を着せるようになってから起きた問題なのです。江戸時代、徳川家康は「禁中並びに公家諸法度」を出して、朝廷の力を弱めましたが、それは大正解でした。もし、朝廷や天皇に強大な力があれば、鎌倉時代のような貴族と武士の争いになり、国が二分されたはずです。実際、幕末にはそうしたことが起きたわけですから、家康は、朝廷の力を大きくすることを怖れたのです。その結果、天皇には「権威」だけを残し、「権力」は武家政権に譲ったのです。これが、天皇を争乱に巻き込まず、日本の「国家元首」として人々に敬われる存在となり得る最善の方法でした。それを陸海軍の統帥者にした明治維新政府は、何もわかってはいません。単に「徳川憎し!」といった感情論だけで革命を起こしただけなので、深い洞察力もありません。伊藤博文は、プロシア(ドイツ)の憲法を参考に明治憲法を作ったと言われていますが、そのドイツ帝国は、今は何処にもありません。結局、欠陥憲法だから、跡形もなく消え去るのです。そんなことも考えずに、ただ「ドイツは強い」という目先の評価だけで判断したことが、後で後悔を生む結果となったのです。ただ、「今の世を変えたい」だけのクーデターは、未来に大きな禍根を残しました。したがって、これから先もこの明治維新史観を信奉するようでは、日本の政治も危ういことになると思います。わかっていても、「現状維持」を望むだけの政治家はもう不要です。少しでも真実に眼を向け、新しい日本に向けた改革に取り組む政治家や学者、マスコミが登場してくることを期待するのみです。

 

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