教育雑学12 教師の「授業力」を侮るな

学校の「教師」という職業は、子供にも大人にも非常に馴染みのある職業のひとつだと思います。だれもが、子供のころから青年期にかけて「学校」で学んで来たわけですから、馴染みがないはずがありません。それだけに、だれもが教育や教師に対して様々な感情を持っていることもわかります。これは、他人に対して抱く感情としては「特別」なものでしょう。肉親でもないのに、肉親以上の感情を持つこともある職業ですから、教師自身も安易な気持ちで子供に接することはできません。私自身、そんな「特別な職業」に携われたことを誇りに思っています。まったく見知らぬ世界の仕事であれば、関心を持ちようもなく、想像でしか考えられませんが、学校の教師は、単に「勉強を教える」だけの存在ではなく、親以上に叱ったり褒めたりしてくれる「家族」以上の存在となり得るのです。そのため、子供や親の「評価」は厳しく、その思いは、大人になってもずっと消えることはありません。今、教師に対して「厳しい眼」が向けられていますが、それは、その人の学校生活が「満足」できるものではなく、教師の指導に「納得」できないものがあったからでしょう。そして、教育に携わる人間が、日頃の言動とは異なる「いかがわしい行為」をしたとなれば、非難されて当然です。それらの点については反省する必要があります。しかし、逆に学校生活が「納得」できるものだった人は、そのときの教師に「感謝」し、いつまでも「よい思い出」として心に刻まれているに違いありません。そんな「人の人生に関われる」職業は、教師以外にはないのです。それが、今や子供たちにとって「不人気」な職業になってしまいました。親たちも教師になることを子供に勧めません。それは「元教師」の一人として残念でなりません。

しかしながら、それも一面的な見方であり、いわゆる「ブラック化問題」が解消し、教育界全体が新しい時代に相応しく改善できれば、もう一度「教師」の素晴らしさが社会に認められると思います。そのために、現職の先生方はこの苦難に耐え、自らの力量を高める努力を続けて欲しいと思います。そこで、今回は、教師のメインの仕事である「授業」について述べたいと思います。子供の人気の秘密は、実はその教師の人間性のみならず、この「授業の楽しさ」にこそあるのです。子供は、毎日、学校におよそ7時間ほどいて学んでいますが、この中で授業時間は「6時間」で270分(4.5時間)になります。だれもが経験したことですが、教師はこの「270分」をどう創るのかが大きな課題のひとつです。これをマスターできれば、教師は一人前です。もし、どんな教科においても、自由自在に操ることができたら、それこそが教師としての「最高の喜び」を実感できる瞬間だと思います。私も40年近く授業を行ってきましたが、「満足出来た!」授業は数回しか覚えていません。それでも、その数回ができたことに大きな喜びを感じています。そのとき、子供たちが言いました。「ああ、面白かった。今日の授業は短かったな…」と。それは、いつもと同じ「45分間」だったのですが、それほど、子供は集中して取り組んだということです。そんな授業を目指して教師は頑張っているのです。それでは、その「授業」について、自分自身の経験を踏まえて述べたいと思います。

1 素人とプロの違い

学校では、年に数回の「授業参観」がありますので、我が子の担任の授業をご覧になった方は多いと思います。しかし、教室に入っても、授業そのものより我が子の様子が気になり、担任教師が「どのような授業」を行っているか…までは、気が回らないことが多いのではないでしょうか。それでも、子供が「集中」して学習しているのか、既に「飽き」が来てしまってるのか…は瞬時にわかります。そこに教師の「力量」が現れています。授業というものは面白いもので、よい授業はたとえ途中から入室しても、すんなりとその流れに乗っていくことができます。黒板に書かれている教師の「板書」を見れば、授業の流れは一目瞭然でなければなりません。なぜなら、子供にとって「板書」こそが、自分が振り返ることのできる唯一の資料だからです。この「黒板」こそが、よい授業の足がかりになります。上手な授業は、たとえ授業参観であっても、子供のお喋りはなく、教室の後ろでお喋りをしているような保護者もなく、静かに整然とした雰囲気の中で授業が進んでいきます。逆に「つまらない授業」は、保護者が教室に入っても、何を勉強しているのかよくわからないまま進んでいます。子供たちも「今の課題が何か」が十分に掴めていないので、集中が続かずザワついてきます。それを担任教師が「静かに!」と言ったところで、それで静かになるはずがありません。要するに「授業の善し悪し」は、黒板と子供のざわめきひとつでわかるということです。

授業は小学校で「45分」、中学校は「50分」単位で行われます。小中学校における授業は、いわゆる「講義」方式ではありませんので、教師が一方的に説明して終わることはありません。文部科学省から出されている「学習指導要領」にも、授業は「問題解決的学習」の方法で行うように定められていますので、子供たちには「考える時間」「調べる時間」「まとめる時間」「話し合う時間」「説明を聞く時間」などが与えられ、それを教師が子供の学習の進捗状況などを見てコントロールしていくのです。一般の方が、この授業を任されると、ほとんどが一方的な講義に終始し、子供の発言を上手く処理することができません。たとえば、子供から質問を受けると、他の子供の意見を聞くことをしないまま、即座に解説してしまう人がいます。これでは、博物館等での「解説員」と変わらなくなり、「授業」と呼べるものではなくなります。やはり、授業である以上、一人で「考える時間」や子供同士で「話し合う時間」などを設ける必要があるのです。もし、こうした「講義式」の授業が続けば、間違いなくその学級は崩壊するでしょう。それは、教師の「人格」の問題ではなく「指導」の問題なのです。ただでさえ難しい学校の勉強を一方的な説明に終始すれば、子供は明らかに戸惑い、途中でわからなくなって投げ出す子供が続出します。「先生、わかりませーん!」の合唱は、教師にとって「不合格」の評価の表れでもあるのです。

また、先ほど述べたように「黒板をどう構成するか」が重要な鍵を握っています。傍から見ていると、教師が思いつきのように、黒板にチョークで子供の発言を書いているように見えますが、とんでもありません。そんなことをしたら、あの限られた黒板の「スペース」で足りるはずがないのです。それに、子供の発言したことをそのまま書いていては、授業が中断ばかりして学習が進みません。したがって、「何処に何を書くか」は、事前にある程度「想定」しておき、学習の過程がわかるように書く内容の「配置」まで考えて授業を行います。また、子供の発言の「要点」をまとめて「こういうことかな?」と発言者が納得するように整理してあげるのも教師のテクニックです。これを「板書構成」といいます。高校や大学になると、教師が思いつきのように黒板に「殴り書き」する人もいますが、あれでは、生徒や学生は今日の授業の内容の「半分」も理解できないでしょう。まして、授業の途中で「黒板を消す」ような教師は、残念ながら「授業者失格」です。これでは、子供は自分のノートに何を書いていいかもわからず、家に帰ってからの「復習」もできません。義務教育段階の学校では、能力別クラス編制がされているわけではありませんので、理解力の差は大きく、そういう意味でも「板書」は重要な意味を持つのです。子供にとって、今日の勉強の「振り返り」は、家庭での大切な学習のひとつです。言葉では「復習の大切さ」を説く教師が、授業では、子供の学習を阻害する「板書」しかしていないとしたら、子供の理解度は、50%ほど割り引いて考える必要があります。いや、それ以上かも知れませんが、私の感覚としては、家に帰ってからの復習はそれほど重要な意味があると思っています。確かなことは、「教師の板書が上手で子供の学習ノートが整理されている学級は集中力も高く、学力も高まる」ということです。こうして傍目には、何気なくやっている「黒板」の板書ひとつとっても、教師の光る「技術」はあるものです。

教師の間では、授業を行う教師を「俳優」にたとえることがありますが、実際の俳優との違いは、そこに「台本」がないことです。もちろん、「学習の計画」はありますが、いわゆる「台詞」というものが存在しません。それに、学校の授業では、常に「計画どおり」がよいわけでもないのです。また、俳優と同時に「演出」も自分で行います。もちろん、大道具や小道具も自分で作り、効果的な資料の提示も工夫して行っています。昔、ある女性教師が、「授業って、お芝居の舞台を作るのと似ているね…」と言っていたことがありますが、この教師は学生の頃に演劇部だったそうです。そう言われてみれば、様々な資料を用意し、子供と一緒に悩んだり、考えたり、相づちを打ったり、子供を試したり、矛盾を突いたり…と、その場その場で百面相のように表情を変えながら授業を進めていく姿は、まさに「舞台の演劇」そのものかも知れません。

さて、それでは「授業の流れ」についてお話しします。まず、教師は、授業の最初に今日の「学習のめあて」となる課題を設定します。それは教科毎に内容は異なりますが、この1時間(45分間)に子供たちが取り組む「目標」になります。たとえば、国語科なら、「この物語の主人公の〇〇の気持ちになって考えてみよう」とか、算数科なら具体的な資料を提示して、「このリンゴの数の求め方を考えよう」などの「めあて」が設定されます。要するに、この「めあて」に基づいて思考や話し合いを繰り返して「問題を解決」していくのが授業です。そして、授業の流れ(過程)として、①「問題をつかむ」、②「自分なりの仮説を立てる」、③「自分なりの考えを持つ(方法を考える)」、④「近くの友人と話し合う」、⑤「発表する」、⑥「学級全体で話し合う」、⑦「まとめる(一般化)」、⑧「広げる(応用する)」などになります。このことが教師の頭に入っていないと、「問題解決的な学習」にはなりません。したがって、これを理解していない人が教壇に立っても授業ができないということです。子供たちは毎日のことですから、この学習方法に慣れていますので、45分間の授業の「リズム」として覚えているのです。

また、教師が、「計画どおり」に授業を行えば「いい授業」になるわけでもありません。30人以上いる子供は、教師や大人が思いもよらない考えや発想で発言する者もいます。いわゆる「想定外」の発言です。こうした「思いもよらない発言」に対して、それを「否定」しては、深まりのある授業にはなりません。もし、想定外の発言があり、教師が「これは面白い…」と気づけば、計画をその場で変更するのも「あり」なのです。と言うより、その方が「よりよい授業」になるはずです。そんな臨機応変の対応も教師の力量なのです。ある日、私の授業でこんなことがありました。それは、あまり学力の高くない子供の発言でした。周囲の子供が、その子の発言に対して笑ったのです。「おまえ、何言ってんだよ?」と。それは教師である私には、千載一遇のチャンスに見えました。それこそが、まさに「真実に迫る」発言だったからです。しかし、学習塾等で予習していた子供たちにとっては、非常識な発言に聞こえたのでしょう。私は、思わず「お、いい考えだね」といつも以上にオーバーアクションでそれを評価しました。すると、友だちに笑われてしょげていた子供が笑顔になり、笑っていた子供が「えっ?」という不審な顔をしたのです。そして、私が「この考えがすばらしい理由がわかる人はいますか?」と問うと、全員が真剣に考え出したのです。すると、一人の子供が手を挙げて「先生、こういうことですか?」と核心に迫る考えを述べるではありませんか。その子供は優秀な子で、クラス一番の読書家でした。私は、うんうん…と頷きながら、他の子供の発言を促しながら、少しずつ「解説」を加えたのです。約5分後、クラス全員が「あ、なるほど…」と首を縦に振りました。笑っていた子も納得顔で、最初に発言した子供を見詰めていました。単純に「〇と✕」を求める受験勉強では、その最初の子供の答えは不正解かも知れません。しかし、違う方向から眺めてみると、別の考えが見えてきて当然なのです。算数や数学でも確かに「解」はありますが、必ずしも最短時間で求める必要はありません。学校の授業は、「早く問題を解く」ために行われているのではなく、子供の「思考を深める」ために行われているのですから…。こうした授業を繰り返すと、子供たちは他人の意見をばかにしなくなります。そして、物事を「深く考える」態度が身についてくるのです。

2 「解」を求めるのが授業ではない

子供たちは毎日学校に通ってきますが、大人である教師の「仕事」を理解しているわけではありません。その日その日を子供なりに精一杯過ごしているだけのことで、周囲を見渡す余裕などないでしょう。もちろん、家庭のこともよくわからないまま過ごしているはずです。家庭の経済事情も親同士の関係も、もっと大人になって初めて気づくことばかりです。学校の教師のことも、自分に関わりのある教師はわかりますが、他学年の教師や管理職のことは、あまり知らないまま卒業していくのです。したがって、毎日受けている「授業」も、「面白い」か「つまらない」か…は感覚的にわかりますが、授業の「善し悪し」まで判断できてはいません。きっと、家に帰って家族に学校の様子を話すときも、「先生の教え方、わかりやすい」とか「授業、楽しかった」などと自分の感覚で感想を伝えているのではないでしょうか。もちろん、子供はそれでいいのです。その「感覚」こそが大切なのですから、下手な理屈は要りません。しかし、その「面白い」授業を行えるのが、教師の力量なのです。しかし、その技術が一朝一夕に身につかないのも事実です。もし、そのことを日本の政府(文部科学省)がわかっていたら、大学出たばかりの教師を即「担任」にさせるようなシステムは採用しないはずです。おそらく、「授業なんて、だれでもできる…」くらいに安易に考えているか、「昔からそうだった…」程度の認識のままでいるから、改善する必要性を感じていないのでしょう。

実際、数日前まで「教育実習」でしか授業をしたこともない「大学生」だった若者に、赴任当日から30人以上の子供を預けるのですから、「すごいことを日本の学校はするものだ?」と感心します。自分もやってきたことですが、これは、かなりの能力がその若者に備わっていない限り、正直「無茶」だと思っています。でも、「これまでは、できていたじゃないか?」という疑問が湧くと思いますが、それは、これまでの子供も保護者も「我慢していてくれた」からに他なりません。子供を掌握できない若い教師を見て、「しょうがないなあ…」と思ったとしても、「そのうち、慣れるだろう」と温かい眼で見ていてくれたからこそ何とかなっていたのです。しかし、今の時代のように、即座に答えを求められるような時代になると、保護者はすぐに担任に迫り、適切な対応ができなければ「担任を換えて欲しい」という要求をするはずです。なぜなら、学校の教師は「サービス業」だからです。当然、保護者が「消費者目線」で見ていれば、若いだけで何もできない教師は、商品としての「価値」はないでしょう。文部科学省も教師たちの意見も聞かないまま「サービス業発言」をしてしまったのは、日本の教育にとって大失敗だったと思います。あれさえなければ、保護者や国民が、学校教育に対して「消費者目線」で見ることはなかったと思います。もし、仮に相応の理屈があったとしたら、日本の学校教育を根本から見直し、制度改革を行ってから発言するべきでした。学校現場を知らないエリート官僚にそんな「深い思考」はなかったのでしょう。非常に残念なことでした。

さて、「授業」に話を戻しますが、長く続いた「知識偏重主義」は、日本国民全体に「勉強は、暗記すること」という間違ったメッセージを送り続けてしまいました。それでも、日本が発展して来られたのは、日本人が「勤勉」だったからに他なりません。確かに、高校や大学の入学試験はマークシート方式に見られるように「記憶力」が優れている人間に有利にできています。しかし、入学後はどうでしょう。高校はともかく、大学はけっして「暗記」中心のテストは行いません。大学生になると、勉強さえしていれば成長と共に「語彙」が増え「論理的な思考」や「洞察力」も高まり、文章力が増すと考えられているからです。したがって、大学の提出物の大半は「レポート」と呼ばれる小論文であり、単位を取得するためのテストもこの「小論文」が中心になります。そのため、大学生には論理的に文章をまとめる能力が求められるのです。これが理系であれば「実験」や「調査」なども増え、大学生らしく「研究」が主体となるでしょう。それでも、大学を卒業して社会に出れば、「暗記力」はほとんど陰を潜め、「独創性や発想力、そしてプレゼンテーション能力」が問われるわけですから、小学校から高等学校までの教育は、「本当にそれでいいのか?」という疑問が湧いてきます。

実は、今でも小学校では「テスト」はともかく、授業自体は単に「解」を求めるだけの授業は実施してはいません。もちろん、未熟な教師の中には指導方法が十分に身につかずに「暗記」させるような授業を行う教師もいるようですが、それは、学習指導要領の意図するところではなく、改善の必要がある授業だと言えるのです。ただし、中学校や高校では「入学試験」を想定しなければなりませんので、小学校のような「問題解決的学習」ばかりで授業を行うこともできない現状があります。学校の授業においては、特に「思考を深める」機会を設けるように定められており、ある課題を自分で調べるだけでなく、学級の小グループで話し合ったり、ゲストティーチャーを招いて話を聞いたり、実際に野外に出て「フィールドワーク」をしたりと、自分が「納得」できるまで「学ぶ」ということに主眼を置いて実施されています。そして、これらを「コーディネート」するのが、教師の役割なのです。もちろん、こうした授業が展開されるようになると、いわゆる「一問一答」形式の授業は成り立ちません。今では、子供自身が「タブレット」を使って「プレゼン資料」を作って説明したり、他校の同級生と同じ課題で交流したりと幅広い活動をとおして学んでいるのです。こうした授業を構成できるようになるためには、教師たちのたゆまぬ「研究・研修」があることを知っておいてほしいと思います。そして、教師間に於いても、そうした授業技術を持った「ベテラン教師」は尊敬の対象となっています。

3 子供の発言を「否定」してはいけない

授業の「善し悪し」を見る時、子供の発言を「上手く拾えるか」どうかが、ポイントなります。下手な授業では、教師の期待していない子供の発言を軽くいなし、「他にない?」と聞く場面を見ることがあります。これでは、よい授業を創ることはできません。教師が期待するべき「解」とは、何も「一直線」に求める必要がないのです。右へ行ったり、左へ行ったりしながらも少しずつ「解」に近づくことが、子供の思考を深めていくのです。たとえば、社会科の歴史で考えてみましょう。戦国武将の織田信長は、「天下布武」を掲げて日本統一を目指しました。では、「天下布武」とはどういう意味でしょう。ある子供は、①「武力によって、天下を治めること」だと答えたとします。おそらく、これで「正解」と言ってもいいのかも知れません。しかし、授業としてはそれでは「つまらない」。ある子供は、②「日本を強い国にすること」だと答えたとします。こうなると、先の子供とは随分ニュアンスが変わります。①の子供の場合は、「天下を治める」ことが目標であり、当時の武将たちの常識から抜け出せていません。しかし、②の子供の場合は、「日本を強い国にして、どうする?」という問いが生まれます。そして、③の子供が言いました。「日本を強力な軍事国家にして、世界を目指すのだ」と。こうなると、随分とスケールの大きな話になりますが、どちらが正解かは正直わかりませんが、可能性としてはどちらも「正解」だと思います。

織田信長という武将は、これまでの武将とはかなり思考が違う人間のようです。そんな野心家の武将が、他の戦国武将と同じような目標を立てるでしょうか。その割には、他の武将のように朝廷をあまり敬わず、日本国内の権力や権威にも興味がないように見えます。もし、③の子供のように、信長自身が「世界進出」を夢見ていたとしたら、「天下布武」の意味は大きく変わってくるのではないでしょうか。はっきり言えることは、戦国時代後期の日本は、世界有数の「軍事大国」になっていたという事実です。そのために、豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を行い、当時の中国(明)への侵攻まで考えていたのですから、信長の意思を継いだ秀吉の行動を考えれば、③の子供の意見も無碍に否定はできないはずです。それでも、標準化された模擬テストなどでは、①の「武力によって天下を治める」が正解になるのでしょう。しかし、授業では、③のような子供の意見も大切に扱うべきなのです。

そのためには、教師は受験勉強等で学習した程度で教壇に立つことはできません。たとえ、小学校1年生を教えるにしても、せめて高校で学習する程度の内容は把握しておくべきです。実は、どの教科も小中高へとつながる「系統」を大事にしていますので、先の学年の学習内容がわかっていないと、その学年での指導すべき内容が漏れる怖れが出てくるのです。たとえば、算数の「九九」は、小学校の低学年で「完璧」にマスターさせておく必要がありますが、この「九九」は、「100点満点」でなければ意味がありません。90点程度での「うろ覚え」では、次の学年で必ず計算ミスを犯します。そのために、家庭に持ち帰らせて保護者にも「よく、見てあげてください」と、「反復練習」をお願いするのですが、これをマスターしておかないと、内容を理解していても、度々計算ミスによって得点を逃し、「算数嫌い」を生む原因になります。また、小学校の中学年で「分数」を学習しますが、これも十分に理解しておかないと、次の「小数」の計算で躓き、それから先の算数、数学ができずに「学校嫌い」になっていく可能性があるのです。

小学校で学ぶ内容には、学校だけでなく日常生活で使う様々な「基礎」を学びますので、これを疎かにすると、学力とか言う前に「生活」を送る上で不都合なことが起きてしまいます。大人は、「学校に普通に通っていれば、生活に困ることはないだろう…」と言いますが、その「普通に通う」ためには、勉強も「普通」に行っていく必要があるのです。たとえば、生活の基礎となる「国語」の力を養うために、子供時代には進んで「本を読む」とか、健康に関心を持ち、ケガや病気の予防のために「運動に親しむ」とか、社会に適応するために「道徳性」を身に付けておく…など、様々な要素が学校での学習内容に含まれています。日本人は、ほとんどの人が9年間の義務教育を経験し、高等学校に進学する人も多いために「学校で学ぶ」ことが当たり前で、特に「学校で学ぶこと」の意味を考えなくなってしまっているのかも知れません。今でも発展途上国の国や差別が当たり前に存在している国では、「学校で学ぶ」ことが難しい子供たちが大勢います。その子供たちにしてみれば、「毎日、学校に通える」ことが本当に「幸せなこと」であり「羨ましい」ことでもあるのです。同じ時代に同じ「地球」という惑星に生まれ、これほど大きな「差」が生まれるのか、まさに世の中は未だに理不尽なことばかりです。子供たちには、「学ぶ機会」が保障されている日本という国に生まれた幸運に感謝し、日本でいう「普通」に頑張って欲しいと願うばかりです。そして、教師たちには、日本や世界の未来を担う子供たちに、「精一杯の教育」を施してあげて欲しいと思います。

4 ベテラン教師の「技術」を生かす

学校の教師の中には、本当に授業の上手な先生がいます。どこの都道府県でも、教師たちは校内だけで仕事をしているわけではありません。地域毎に「教育団体」を作り、お互いの交流をとおして研鑽に努めています。これらの情報が広く知られることはありませんので、一般には知らない人がいて当然です。これらの組織は、大きなものになるとその地域だけでなく、県や各地方、そして全国まで広がる組織になっており、お互いの授業を参観して協議する機会が数多く設けられています。そして、その中にはとんでもない「指導技術」を持った教師が存在しているのです。彼らは、けっして著名人ではありませんが、卓越した技術と指導力を発揮して、毎日、子供たちと共に学び続けています。それでも、60歳になった3月31日を迎えれば「定年」で退職を余儀なくされます。中には、再任用教員として再度教壇に立つ人もいますが、その多くは教育の世界から離れる人がほとんどで、彼らの能力を最大限に生かすシステムはありません。

企業でも学校での同じことですが、定数さえ揃えば「いい仕事(教育)」ができるわけではないのです。特に企業にとって「その社員がいなくなると本当に困る」といった状況はあると思います。何十年にもわたって培ってきた技術は、一朝一夕にマスターできるわけではありません。戦時中も日本軍は「根こそぎ動員」で、優秀な技術者や工員を赤紙一枚で召集してしまったために、実際の軍需工場で兵器を造るのは中学生だったという冗談にもならない話が残されていますが、国の存亡に関わる事態に於いても、こんないい加減な体制で戦っていたというのですから、日本人が如何に「危機管理能力」が欠如しているかがわかります。アメリカでは、優秀な技術者や学者、専門職は温存され、軍で必要なときは、それ相応の「待遇」で迎えたと聞きます。場合によってはいきなり「佐官」の階級で軍務に就いた人もいたようです。それに比べれば、日本ではどんな肩書きを持つ専門家でも、召集されれば最初は「二等兵」ですから、話になりません。本来、そうした柔軟な対応は小国の日本が採るべき体制であって、「何を悠長なことをしていたのか…?」と当時の日本政府や軍に対して、怒りすら覚えます。しかし、それは戦後の今でも同じようなことが起きています。

隣国の中国では、そうした日本の技術者を積極的に「リクルート」した事実が知られています。定年退職した優秀な人間を、現職時代の数倍の報酬を払って中国企業に誘ったのです。おそらく、「半導体」などの技術も日本からもたらされたものだと思います。しかし、このリクルートされた日本人を責めることはできません。なぜなら、「定年退職」した人は既に戦力ではなく、その会社には「不要」な人材として扱われるからです。日本では、定年退職した人は、会社の温情で「臨時職」で残してもらったり、子会社に「出向」して、与えられた仕事をこなすだけで、自分の能力を買ってくれているわけではありません。たとえ、現場の技術者たちが「あの人がいたらなあ…」と嘆いても、それに応じてくれる組織ではありません。だから、簡単に中国にリクルートされるのです。人間は、自分を高く評価してくれることが喜びなのです。子供も自分の頑張りを評価してくれる教師や親のことは「大好き」です。しかし、いくら努力をしても望んでいる評価が得られなければ、その意欲は減退し、教師や親を信頼することもできなくなるでしょう。大人でも同じです。それが、日本社会の問題点でもあるのです。

もし、これから「日本の教育」を再生したいのなら、そうした「優秀な人材」を活用するしかありません。たとえば、そうした人材を各自治体の教育委員会に推薦してもらい、本人が希望するなら、審査の上「特別指導教諭」という職名を与えてもいいでしょう。そして、各学校に派遣して、教師たちの「授業改善」や「研修会」の講師として指導させるのです。場合によっては、若い教師の学級の「副担任」を命じて、若い教師の支援をしてもいいと思います。もちろん、そのためには現職時代と「同等の給与」を支給する必要がありますが、「5年」程度の契約であれば、喜んで協力してくれる退職教師はいるはずです。それを各学校に必ず「1名以上」配置できれば、学校のトラブル等もかなり未然に防ぐことができ、管理職も大いに助かるような気がします。

日本人は、平均的に優秀な人材が多い国です。それは、江戸時代を見てもわかるように、だれかに強制されなくても「学ぶ」ことに喜びを感じる国民性があるからです。それは、日本人が農耕民族だったからかも知れません。農耕民族の特長は、まず第一に「我慢強い」ことです。日本のように自然災害の多い国は、どんなに頑張って働いても必ずしも豊かな実りが得られる保障はありません。地震、台風、干ばつ、冷害…と周期的に災害はやって来ます。そして多くの民が亡くなるのです。それでも、日本列島に暮らす以上、逃げ出す場所はありません。そんな暮らしの中でも光はあります。幸運に恵まれれば豊かな実りを手にし、腹一杯ご飯が食べられる日も来るのです。だからこそ、日本人はみんなで助け合い、一生懸命田畑を耕し続けたのです。そのDNAは、間違いなく私の体にも備わっています。そして、「学び」に大切な「挑戦する」心はだれにも備わっています。明治維新後の日本が急速に近代化が進んだのは、何も明治維新政府のお陰ではありません。日本人の「興味関心」や「挑戦する心」が他国の人々に比べて高く、教養のレベルも高かったことに原因があります。日本の教育も同じです。何も政府の施策によって日本の教育が維持できたのではなく、一人一人の教師の「向上心」によって支えられてきたのです。その一番が学校での「授業」でしょう。いくら政府が尻を叩いても、やる気のない人間に進歩はありません。ましてや、毎日行われる「授業」は、ほとんどが教師個々のプライドをかけて行っている教師の「財産」なのです。授業が上手いからといって、急に評価が高くなるわけではありません。給料に反映されるわけでもありません。せいぜい、同僚や教師仲間に認められるのがいいところでしょう。それでだれもが「満足」なのです。こうした日本人の「教師気質」を忘れては、日本の教育を語ることはできないと思います。それが「当たり前だ!」と言われては、反論する術はありませんが、今の日本の教師に対する社会の評価は厳しく、このままの状況が続けば、本当に日本の教育はダメになってしまうような気がしています。そして、肝腎な「授業」が疎かにされては、これまでの教師たちの努力が水の泡になるような危機感を感じています。このブログを読まれる方は少数だとは思いますが、少しでも現職の先生方の応援ができればと思っています。そして、これからも、「授業」を大切にする教師が、次々と誕生することを切に願っています。

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