歴史雑学15 「参謀教育」の真実

「参謀教育」の真実 ー大東亜戦争外伝ー                          矢吹直彦

「名将の下に名参謀あり!」と言われますが、まさにその通りだと思います。歴史を見れば、日本でも国内で多くの「戦さ」があり、「日本(天下)統一」を目指した軍記物語は子供のころによく読んだものです。そもそも、「下剋上」といわれた有力な戦国時代の武将たちは、内にも外にも多くの敵を抱え、常に緊張感に苛まれていたはずです。それが「常在戦場」ということなのでしょう。そんな武将たちは、本人自身が「智将」であり「軍略家」でもありました。そのくらい必死になって「智恵」を巡らせなければ生きていくことができなかったのです。そんな時代だからこそ、多くの名将が生まれました。武田信玄と上杉謙信の「川中島」、織田信長の「桶狭間」、豊臣秀吉の「中国大返し」、徳川家康の「関ヶ原」など、彼らの軍略は、学校で学んで身に付けたものではなく、己自身の「学び」と「経験」、そして人としての「知恵」の結晶として生み出されたものであり、彼らの伝記などを読んでいると「なるほど…」と感心することばかりでした。特に若い頃の秀吉を「ひとたらし」と言わしめた「調略」の才能は「天性のもの」としか言いようがありません。もし、今の学校教育でこんな生徒がいたとしたら、教師たちは、その特異な才能に手こずり、誤った「評価」を下すのではないでしょうか。そもそも、学校とは「安定した時代の平均的な国民」を作るところであって「突出した特異な才能」を伸ばすところではないのです。それに、そんな「特異な才能」を学校教育などで育てようとすること自体が不遜であり、それを指導できる「教師」などいるはずがありません。そういう意味では、「学校」はどんな教育を行ったところで自ずと限界があるということを知るべきなのです。それは、おそらく「軍隊」という組織の中においても同じだろうと思います。

私は、自分なりに日本の近現代史を調べていますが、大東亜戦争(太平洋戦争)時には、この「名参謀」と言えるような軍人がいっこうに見当たらないのです。開戦時の連合艦隊司令長官であった山本五十六大将の幕僚だった「黒島亀人」という首席参謀(大佐)が有名ですが、この人物は「変人奇人」に近い軍人でした。調べて見ると、確かに「奇抜」な発想の持ち主だったようですが、全体を「俯瞰」して見る力がなく、自分の立てた計画に固執する癖がありました。そのため、計画に「ゆとり」がなく独善的です。海という自然を相手にする海軍の参謀にしては、その自然を計算に入れることもできず、机上で考えた作戦で実際の戦闘を行おうとしていました。その上、傲慢、不遜な態度が眼につき、だれからも好かれない人物だったようです。もちろん、信頼に基づく人間関係が築けませんので、秀吉のような「調略」の才能もありません。山本五十六は、それでも自分の片腕のように使っていたようですが、特に秀でた「軍師」という評価は、現在になってもありませんので、やはり「変わった男」という程度の軍人だったのでしょう。山本五十六自身が後に言われるような「智将」ではなく、「思いつき」はあっても、それを具体化する能力には欠けていたようです。そのために、周囲が止めるのも聞かずに作戦を強行した結果、日本は大敗北を喫しました。あのときの連合艦隊の司令長官が山本五十六でなければ、もう少し日本海軍らしい戦い方ができたように思います。その、対米英戦争の多くを「負け戦」にした山本五十六の「責任」は大きいと言わざるを得ません。

また、開戦時に華々しく活躍した機動部隊の南雲忠一中将の幕僚には「源田実」という航空参謀(中佐)がいました。若いころは花形の「飛行機乗り」で、戦後は航空幕僚長や参議院議員を務めた人物です。彼は若い頃から相当な自信家で、南雲中将などは航空戦の指揮をすべて源田参謀に委ねていたといいます。そのために、陰では「源田艦隊」とまで揶揄されていましたので、こちらも人望という点では、あまり高い評価は下されていないようです。しかし、彼の指揮した海戦等を見てみると、意外と「正攻法」に拘るオーソドックスなタイプの参謀で、平時には奇抜なことも言いますが、実際となると「慎重」になるタイプの人間でした。その結果、失敗したのが、あのミッドウェイ海戦です。この人は、普段の威勢のよさがあるだけに、実戦でも思い切った戦法を選ぶのかと思いきや、実際には、常に「正攻法」的思考から離れられないようで、アメリカ軍の必死の攻撃に常に後手後手に回っています。本当のところは、気が小さく、物事を「客観的」に捉えることのできないのでしょう。思い込みが強く、頭に血が回るとどうしていいかわからなくなってしまうようです。終戦間際には、最新鋭戦闘機である「紫電改」部隊を率いて活躍しますが、これは、作戦というより、部下である搭乗員の頑張りと優秀な戦闘機のお陰だったようです。戦後、その「はったり」的な言動で出世しましたが、この人物を評価する元軍人はいません。

陸軍では、石原莞爾中将や辻政信中佐らの有名な「参謀」はいますが、石原中将は「満州事変」を起こした張本人で、大東亜戦争時には東條英機首相に嫌われて、既に軍を追われていました。「世界最終戦争論」を唱えた戦略家でしたが、やはり、人望がありません。天皇の軍隊を私的に動かし、満州事変を引き起こした張本人ですから、天皇からも忌避され、その後の軍部で陽の当たる道を歩むことはできませんでした。確かに、石原中将の思想には「先見性」はありますが、それを日本の中で具体化していく道筋が強引すぎます。やはり、天皇の意思を無視した作戦行動は、軍人としてあるまじき行為で、その後の不遇な境遇に陥ったのも自業自得というものでしょう。もし、石原中将に人徳があり、天皇の信頼があれば、大東亜戦争を回避する手立てがあったかも知れません。しかし、その性格上、いずれ同じ道を辿る運命の人だったような気がします。

また、辻政信中佐はノモンハン事件やガダルカナル作戦の作戦指導で有名になりましたが、どれも成功した作戦ではありませんでした。彼は物怖じしない性格だったようで、あの山本五十六にも直談判してガダルカナル島への支援を取り付けた強さもあります。また、実際のガダルカナル島に単身乗り込み、実際の戦闘と飢餓の実態を体験した参謀として評価されます。しかし、具体的に挽回する作戦を持っていたわけではなく、大本営に重宝に使われた「参謀」というイメージしかありません。能弁な性格で、周囲を強引に自分の意見にしたがわせる強さはありますが、失敗の責任を取ったわけでもなく、戦後は「戦犯」から逃げるようにアジア大陸に逃避し行方不明になっています。おそらく、何処かの地で殺されてしまったのでしょう。他にも戦後、「ソ連のスパイではないか?」と疑われた大本営参謀の瀬島龍三という少佐がいましたが、胡散臭さでは一番です。彼の悪名は戦後まで続き、大本営に送られてきた貴重な情報も彼の独断で「握り潰した」という噂もあります。また、ソ連と交渉をして「日本兵のシベリア抑留」を黙認したとも言われ、裁判でもソ連に有利な証言をしています。この人も周囲の人望からはほど遠い人物で、参謀としては「失格」です。戦後は日本を代表する商社の役員になり力を保ったまま亡くなっています。その人脈は政治家を動かすほどで、「暗躍」という言葉がよく似合う元参謀でした。

もちろん、突出した能力を持つ「参謀」がいたとしても、それを使う指揮官が「無能」であれば、宝の持ち腐れですが、日本軍の「参謀教育」においては、どちらかというと新しい発想を持つ人間よりも「オーソドックスで緻密」な人間の方が好まれたようです。陸海軍の「大学校」においても、指導する人間が軍人の上官ばかりでは、能力よりも「人間関係」が重視されるのは当然です。それに、軍隊というところは社会が小さく、幹部のほとんどが軍学校出身者ですから「身内」意識が強く、客観的な評価が得意ではありません。本当は、各専門分野においては、大学出や企業経験者、技術者などを採用し幹部に登用する制度であれば「身内意識」が少なくなり、広範囲な登用が可能だったのですが、海軍創設から50年程度ではそこまで成熟した「社会」を形成することはできませんでした。

軍隊というところは、陸軍も海軍も「序列」がはっきりと決められており、それは自分たちでもわかる仕組みになっていました。たとえ、階級が同じであっても、この「序列」にしたがって「指揮権」が決まります。もちろん、常時、「指揮権」を曖昧にしておくことはできません。命令がすぐに全軍に伝わらなければ「組織」として動くことができないからです。しかし、その運用が硬直化していると、戦場では不都合な問題を起こすのです。時間にゆとりのある平和な時代では、指揮権者(決裁者)が無能でも、「君に任せたよ…」で何とかなりますが、災害などの非常時では、最高責任者の決断は人命に関わるので非常に重要性が増します。それと同じことが「戦場」でも起こるということです。たとえば、太平洋上における海軍の戦いは「航空戦」が中心になりました。「制空権」を奪った方が戦いに勝利できたのです。しかし、先任の指揮官が航空戦を知らなければ、指揮を執りようがありません。それでも「序列」順位からいえば、航空戦を知らなくても指揮権が生じるのです。今の人に言えば、「そんなばかな…?」と思うでしょうが、当時はこんなことが議論もされず、実戦の場に於いても運用されていたのですから、日本軍は「戦争をする資格」すらなかったことになります。言葉では「適材適所」と言っていましたが、実際は平和な時代の「序列」がそのまま運用されており、改正される兆しはまったくありませんでした。日露戦争のときに、海軍大臣だった山本権兵衛が連合艦隊司令長官に東郷平八郎を抜擢した人事とは比べようもありません。山本大臣は、天皇の質問に「東郷は運がいい男ですから…」と答えたという逸話は有名になりました。それすらも考えなかったわけですから、当時の日本海軍は、本気でアメリカやイギリスと戦争をする気などなかったということです。

そもそも、日本の軍隊は「形」だけは欧米の軍隊を真似ていますが、実際は、封建時代の「縦割り社会」から一歩も抜け出してはいませんでした。日本人は何かを決めるときに、何かと「身内」だけで決めたがります。「同じ釜の飯」を食った仲間意識が非常に強く、企業等においても、同種の人間関係を作ろうとします。そのために、いい意味でも悪い意味でも「前例」を踏襲したがるのです。「今までどおり」は、責任者にとっていい「逃げ口上」なのです。その上、子供のころから儒教的な教えである「忠義」とか「孝行」「長幼の序」などが重んじられますので、外国の軍隊に比べて「階級」を必要以上に重く受け止めてしまうのです。よく、軍隊を描いたドラマで「上官の命令は、天皇陛下のご命令と思え!」という台詞がありますが、天皇ご自身がそんなことを言ったことは一度もありません。勝手に兵隊たちが「大元帥」である「天皇」の名を利用して下級兵を従わせただけのことです。こうなると、ひとつでも「階級や序列」の上の先任者の命令には従わなければなりません。それでは、「戦争に勝つこと」よりも「身内の秩序を守ること」が優先されることになります。だから、日本軍が敗北し「日本軍」という組織が解体されても、「やむを得ない」と粛々としたがったのでしょう。みんなが同じようになるのなら、秩序が壊れても人間関係は壊れません。この「仲間意識」が強すぎるために、今でも、外国との関係を上手く築けないのかも知れません。

このような組織が、本気になって向かって来る「敵」に敵うはずがありません。上に立つ人間が「ノーマル」な思考しかできなければ、下の者に「アブノーマル」な力を求めるはずがないのです。農耕民族の日本人らしい発想ですが、欧米のような狩猟民族はノーマルな発想では知恵のある獣を狩ることはできません。そのためにあらゆる可能性を考え、「敵の裏をかく」作戦に長けています。そして、能力のある者が「リーダー」にならなければ、その集団をまとめることができないのです。今の欧米でも、国のリーダーが選挙によって次々と交替していきます。無能とみれば、もの凄い批判を浴びますし、抗議デモも日本の比ではありません。時の大統領が逮捕されることもあり、日本のように「だれがなっても、一緒だろう…」といった諦めの心境にはならないのです。その点、欧米は「白黒」がはっきりしているので、政治にも緊張感があります。「国民性」と言ってしまえばそれまでですが、日本の政治はリーダーが多少甘くても、国民が勝手に動いてくれますので、大きな騒動にはなりません。逆に国の規制が多くなると、社会全体がギクシャクして上手く機能しなくなるのが日本社会です。「だいたい…」という程度が日本人にはちょうどいいのでしょう。したがって、軍の「参謀」にもそんな思考を持つ者が多く、自分の立場や上官に忖度している間に敵に「手の内」を悟られ、気がつけば、形勢は逆転し「じり貧」になっていくのですから、どうしようもありません。したがって、日本人には「戦さ」は向かないということです。

「参謀」という言葉を調べて見ると、「作戦・用兵などに関して計画・指導にあたる将校」をいいます。日本でも陸海軍には、この「参謀職」が置かれ、胸に「参謀飾緒」なる金色の縄のような「飾り」を付けていました。傍から見ると、何やら立派な雰囲気を装い、彼らはそれを片時も離さず身に付けていたといいます。それほど、参謀という職は「名誉」あるものだったようです。なぜなら、軍隊の中で「参謀職」に選ばれるのは、陸軍大学校や海軍大学校などを出た「エリート将校」だけだったからです。「自分は選ばれた人間だ!」という意識は、気持ちを高揚させ意欲を高めるものです。中には「天狗」になり、随分と偉そうに振る舞った人間もいたようですから、日本人らしい「島国根性」丸出しです。欧米などでは、最下級の二等兵が将校に自分の意見を述べたり、文句を言ったりすることがあるようですが、「自分で考え判断する」といった思考は、日本人より欧米人の方が遥かに勝っています。そのため、「参謀」は作戦に失敗すればすぐに更迭され、場合によっては軍を追われたようですから、日本の軍隊とは大違いです。日本人は「肩書き」に弱く、学歴や有名企業、役職などの名前を出されると易々と信じてしまうので、「詐欺」がしやすいのです。「肩書き」だけで仕事ができるなら、こんなに楽はことはありませんが、そんな甘い社会は何処にもないことを、もっと日本人は知るべきです。

今でも大きな企業になると、「参謀」という職名はないにしても「〇〇参謀…」と呼ばれるような優秀な社員はいるものです。経営者の「片腕・右腕」とか「懐刀」などと呼ばれ、実際の経営に参画し、新しい画期的な「提案」をして会社の業績を上げることに貢献するような社員です。しかし、今のいわゆる「〇〇参謀」は、何処かで「特別な教育」を受けてきたわけではありません。なぜなら、今の日本でそんな教育を行うような学校は存在しないからです。したがって、そうした「参謀」的な仕事ができるのは、その社員なりの「個性」や「能力」「経験」によって培われてきた「センス」のようなもので、生まれ持った資質が大きいのではないでしょうか。しかし、この「参謀」を教育によって創ろうとしたのが、明治時代に創設された「日本軍」です。江戸時代にも「参謀」的な役割を担う武士はいましたが、徳川幕府を見ても、特別な参謀教育をしていたような記録はありません。学問所として、徳川家には「昌平坂学問所(湯島聖堂)」がありましたが、そこは、どちらかというと「武士の資質や教養」を高めることに主眼が置かれており、「戦略や戦術」に特化した教育は行われていませんでした。各藩の「学問所(藩校)」を見ても、軍事面の指揮を執る「参謀」は、自分の家臣の中から選ばれた武士であり、彼らが特殊な教育を受けてきたわけではありません。ただし、「兵学」は武士の嗜みとしてほとんどの武士が学んでおり、武田信玄縁の「甲州軍学」などは、形を変えて各大名家に伝わっていました。有名な「赤穂浪士の討ち入り」では、甲州軍学の流れを汲む「山鹿流」軍学を学んだ大石内蔵助たちが作戦を立てて実行に移したと言われています。日本にもこうした「軍学」があるのですから、何でもかんでも「外国が一番」だと思わないことです。日本の今の企業でも、日本伝統の「兵法」を学べば、外国人に侮られない日本的な経営ができると思うのですが、如何でしょうか。

ところで、明治になると日本陸軍はドイツに倣って「参謀本部」なる組織を立ち上げ、戦争時の「作戦を指導」する部門が誕生しました。後を追うようにして海軍でも「軍令部」ができ、陸軍と海軍は同等の力を持つ「日本軍」となったのです。これとは別に「陸軍省」「海軍省」が置かれていましたが、こちらは「軍政面」を担当する機関で、予算編成や兵隊の召集、人事などを主に担当しますので、ここでいう「参謀」は、実際に作戦を考え、戦闘を指揮した「参謀本部」と「軍令部」の参謀を指します。さて、その「参謀を養成する教育」が本当に妥当だったのか検証をしてみる必要がありそうです。何でも「近代化」の名の下に欧米に倣うことが「当然」のように考える風潮がありますが、それが本当に「日本」という国にとって必要だったのかどうか…ということです。今でもそうですが、戦後の日本は「アメリカ民主主義」を信奉して発展してきましたが、それが本当に「日本」や「日本人」にとって一番いい政治形態だったのでしょうか。そんなことを含めて、「参謀とはなにか?」を考えてみたいと思います。

1 日本の近代化の「失敗」

日本で「参謀教育」が始まったのは、明治時代以降のことになります。軍隊が整備される過程で、日本(陸軍)はドイツに学ぶことに決めました。当時のドイツは「鉄の宰相」と呼ばれたビスマルク公爵が力を持っていた時代です。ビスマルク率いるドイツは、ドイツ皇帝の下で強力な軍隊を持ち、ヨーロッパに於いても特殊な地位を築いていました。この強気な国家観を見た伊藤博文は、そんなドイツに憧れを抱き、日本が「目指す国家像」としたのでしょう。そして、アジア初の憲法をそのドイツを参考に作られました。おそらく、伊藤博文だけでなく、多くの政府高官は「アジアにおけるドイツになりたい」と夢想していたのだと思います。確かに「富国強兵」を目指す日本にとって、皇帝が国民の上に君臨し強力な軍隊を持つドイツは、目指すべき理想国家だったのかも知れません。しかし、そのドイツは、両大戦において無惨な敗戦国になってしまうわけですから、本当に日本が目指すべき国だったかどうかは疑問が残るところです。そのドイツから学んだのが、近代軍隊組織であり「参謀本部」だったのです。

ドイツ軍は「参謀本部」と呼ばれる組織を置き、軍はその命令を受けて作戦を実施するのですから、この「参謀本部」の力は絶大でした。日本陸軍を創り上げたのは長州の山県有朋ですが、山県は日本の軍隊を政府に介入させない組織にしようと画策しました。それが、「統帥権」の独立です。近代の軍隊というものは、本来であれば「政府の下」に置かれるもので、政府の命令がなければ一兵たりとも動かせない(シビリアン・コントロール)のが普通でした。いくら天皇が国家元首であり「主権者」であっても、軍隊を動かす権限を国家元首である「天皇」にのみ付与するのは、如何にも乱暴です。まして、天皇は形だけの「大元帥」であり、その下にある軍人に「全権委任」したのと同じことになってしまいました。これは、近代軍隊にとって絶対にやってはならない「禁じ手」なのです。結局、日本には「日本政府」と「日本軍」というふたつの「政府」ができたことになります。いくら日本政府が方針を示しても、軍が「統帥権」を楯に「勅命がなければ、軍は動かせない!」と突っ張れば、政府はどうしようもないのです。また、逆に政府が「これ以上、軍を動かしてはならぬ!」と命じても、「勅命がなければ、政府の命令には従えない!」と言われてお終いです。これでは、「天皇」の名を利用した軍の「専制政治」となってしまいます。後に日本軍は「帝国陸軍」と「帝国海軍」に別れますので、それぞれの意思の疎通を図ることができずに「大日本帝国」は滅んだのです。要するに、明治維新後に「軍隊」を創設した時点で、日本の近代化は「失敗」していたのです。

2 優秀な「参謀」に教育は不要

明治陸軍は、ドイツ軍を真似て「参謀本部」を設置し、ここで具体的な作戦を考える「参謀職」を設けました。それでも、明治初期の陸軍は、特別な「参謀教育」などを行わなくても、戊辰戦争や西南戦争などの内戦を戦ってきた武士たちがいましたので、実戦は経験済みでした。その武士たちが軍服を着て階級章を付けただけですから、戦い方はよく知っています。それは、次の世代くらいまで強い影響を及ぼしました。明治時代になって日本が「文明開化」をしたと言っても、地方では、昔からの習慣や教育は残っており、実際、「時代が変わる」には50年程度の年月が必要になります。今の「時代」も、昭和と令和では、日本人の「思考」は大きく異なり「日本の伝統」も失われつつあります。明治という時代は、実際は「江戸時代」までの教育観が強く残されていたからこそ「発展」していったことを忘れてはなりません。外見は「西洋化」していても、実際の中味はまだまだ「江戸時代の日本」だったのです。したがって、家庭や地域の教育の中で「武士」としての「常識」は教えられており、いわゆる「武士道」は強く残っていました。

「明治の参謀」として有名になったのが陸軍では「児玉源太郎中将」であり、海軍では「秋山真之中佐」でしょう。日露戦争を指揮した児玉源太郎中将は、開戦当初「参謀本部次長」の職にありました。後に「満州軍総参謀長」に就任し、軍司令官の大山巌大将を補佐して実質的な満州での作戦を指導したのです。この児玉中将が「旅順攻略」に苦戦していた乃木希典大将に助言して旅順要塞を陥落させた話は有名です。児玉中将は長州の出身であり、親友である乃木が「旅順で苦戦をしている」と聞くや、その旅順に出向き、膝詰めで乃木に作戦変更を助言したといいます。そして、大本営に対しても強い態度で支援を要請し「難攻不落」と言われた旅順要塞を陥落させたのです。このときの児玉と乃木は、軍隊の序列や階級など関係なく、単に「親友」として助言したのであり、堅苦しい組織の一員としての行動ではありませんでした。これは、組織が硬直化した「昭和の日本軍」にはあり得ない行動です。しかし、昭和の日本軍の思考では、あの「旅順要塞」を陥落させることはできなかったでしょう。この「柔軟な思考」こそが、本来の「参謀職」に求められる資質だったのです。

また、海軍では、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将の片腕として秋山真之中佐が「参謀」として作戦を練り、日本海海戦に勝利したことは有名です。秋山真之の物語は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に描かれていますので知っている人は多いと思います。秋山中佐は若いので、直接、幕末期の動乱を経験してはいませんが、その当時の教育はやはり「武士道」が基になっていました。彼は正岡子規の親友であり、文学に才能があった人物のようですが、単に「立身出世」のために海軍に入った人物ではなさそうです。それに、彼の友人関係は多彩で、一海軍士官というだけでは片づけられません。兄の秋山好古中将は、陸軍騎兵の創設者になったような人物で、やはり出世には興味はなく、退役後は故郷の松山で中学校の「校長」を務めた教育者でもありました。彼の軍人としての評価は高く、戦場においても勇敢な指揮官でもありました。やはり、明治時代は、江戸時代の気風を受け継いだ人々が多く、「学校教育」がその人間の「人格形成」にまで及ぶことがなかったと言ってもいいでしょう。逆に、家庭や地域、社会全体の「価値観」がしっかりしている時代は、学校の役割も限定的で、現代のように「教育は、全部学校で行う…」ような偏った考え方はありませんでした。昔なら、「うちの子供のことは、うちで責任を持ちます!」という親がほとんどだったのではないでしょうか。

現代(令和)になると、昭和40年代以降の教育が影響し始めました。この時代になると日本は戦後の復興が終わり、高度経済成長期に入っていました。東京オリンピック、そして大阪万国博覧会と続く社会全体の好景気ブームは、日本人の意識も「公」から「私」に価値が移って行きました。特に社会では「自由」という言葉がよく遣われるようになり、日本人一人一人が自分の「夢」を描くようになったのです。社会の経済成長は子供たちの進学率を上げ、偏差値教育が学校教育の中心になりました。当時は、「大量生産」「大量消費」が豊かさの象徴でもありました。戦争に敗れ、敗戦後の塗炭の苦しみを味わった日本人にとって「豊かさ」とは、「便利な道具に囲まれ、好きな物をたくさん食べられる」ことを意味していたのです。そのため、工場はオートメーション化され、社会は「物で溢れ」ました。そして、新しい製品が出ると、古い物はどんどん廃棄されていったのです。このころには、「リサイクル」も「リユース」も「SDGs」もない時代です。それだけに、労働者に求められるのは「考える力(個性)」ではなく、社会の「歯車(没個性)」として経営者にしたがう能力だったのです。それ故に「学歴偏重」「偏差値教育」は有効でした。

そうなると、「学校の成績が人生を決める」かのような錯覚が社会に蔓延し、偏った学力観が生まれたのもこの時代です。そして、昭和の終わりとともに日本の「経済成長」も終わりを迎えました。その後は、日本人の「中流意識」がなくなり「二極化」の社会構造が出来上がったのです。それは、日本が「グローバル化」するためのアメリカの戦略に飲み込まれたからに他なりません。そして、そんな社会構造が変化した後も「学歴主義・偏差値」神話はなくなりませんでした。そして、今も、この「偏差値教育」で社会に出て行った人々が、社会の中枢に座り日本を動かしていますが、企業は目先の利益に走り、政治はどの政治家も「自由主義者」ばかりになってしまいました。そして、真の保守政治家であった「安倍晋三」元総理が何者かに暗殺されてしまったことで、政治はさらに混乱を極めています。これが、戦後教育の「成果」なのだとしたら、日本に、国の行く末を考えた真の「参謀」は育たなかったことを意味しています。政治にも企業にも、そして教育界にも「未来」を見据えた「考える力」を持つ人はだれも育たなかったのです。いや、一部にはそうした「思考」を持つ人はいますが、彼らは皆、学校教育でそれを教わった人たちではありません。自らの「個性」に順って、そうした感性を磨いてきた人たちなのです。

さて、それでは大正時代から昭和にかけての「参謀教育」について見ていきましょう。大正時代の「海軍兵学校」の教育について、海軍省教育局長を務めた高木惣吉少将は後にこんなことを述べています。「大正時代の海軍兵学校の教育は、詰め込み丸暗記主義だった…」と呆れた様子で語っていたそうです。とにかく、覚えることが異常に多かったのでしょう。日本中の秀才に中から選ばれた若者が学ぶ兵学校ですから、軍人としての体育訓練も厳しく、その上、軍艦となれば、その時代の最先端技術の塊です。いくら優秀な頭脳集団といえども、科学の粋を集めた軍艦を動かすだけで精一杯で「参謀」になるための教育などを行う余裕はなかったはずです。まして、当時の小中学校の教育は、西洋に追いつくための基礎教育が中心で、今のような「個性や創造力を伸ばす教育」など考えもしなかったと思います。そもそも、欧米とはその「思想」に於いて大きな開きがあったのですから、形ばかりは真似ができても、「近代戦」が理解できるはずがありません。結局、日清戦争も日露戦争も日本人の「我慢強さ」や「協調性」「勇敢さ」が発揮され、いわゆる「人海戦術」が有効に働きましたが、欧米のような「合理的」な思考にはならず、「人命軽視」が甚だしい戦いでした。「日本海海戦」は、その日本人らしさと東郷平八郎や秋山真之という司令長官と参謀の「個性」によって勝利を掴んだものであって、「海軍教育」の成果とは到底言えないものでした。この日露戦争の勝利が、日本軍を「近代軍隊」に変わるチャンスを逃したとも言えるのです。

大正時代の中頃に、海軍兵学校長に就任した開戦時の軍令部総長を務めた「永野修身」中将が、当時の「自由教育」に感化されて、「ドルトン・プラン」なるアメリカの自由教育方法を兵学校に導入したことがあります。これは、まさに「教科書のない学び」で、子供たちの「自主性」「意欲」に期待した教授法です。教室には教師はいますが、生徒には一切教えません。生徒も白紙のノートを持って自由に「課題」に取り組みます。そして、疑問があれば図書館で調べたり教師に尋ねたりして「自分で課題を解決する」のだそうですが、いくら優秀な兵学校生徒であっても、これまで「詰め込み・丸暗記」で学んできた生徒には無理があり、永野校長が退任するとこの教授法もなくなりました。ただし、兵学校ではその後も「自習時間」は残り、就寝前には予習や復習ができたと言いますから、この「自分で学ぶ」習慣だけは残されたのです。しかし、大正時代に兵学校で教育を受けた生徒は、後の大東亜戦争時には第一線の指揮官や参謀職に就いた人たちです。「詰め込み・丸暗記主義」で高得点を取った生徒が、後の参謀ですから、柔軟な発想で作戦が考えられるはずがありません。きっと、教科書に書いてあるような「オーソドックス」な作戦しか考えられなかったとしても、仕方のない側面があるということです。

陸軍士官学校や海軍士官学校などの「指揮官(士官)養成学校」を卒業すると、軍隊では「少尉」という下級幹部に任官して下士官兵の上に立ち、「命令」を下す立場になります。そして、そこで経験を積み「大尉」ともなると、陸軍では「中隊長」勤務になり100人以上の部下を持ちます。海軍では「分隊長」として軍艦のひとつの部署を任され指揮を執る立場になります。ちょうど、そのころが「大学校」への入学時期にあたりますが、その入学に際しては、若い頃の成績がものを言うので、士官学校や兵学校での成績が振るわなかった者は、そもそも上官の推薦を受けられなかったのです。それでも倍率は高く、合格すれば軍のエリートとして「将軍」への道が開かれました。軍隊では「将軍」と呼ばれる階級は三つあります。それが「少将・中将・大将」になります。その上に「元帥」がありますが、これはいわゆる功績のあった将軍の名誉職みたいなもので、現役の軍人が元帥になることはありません。その元帥の上が「大元帥」で、これは「天皇」の軍隊での地位です。

「参謀」というのは、概ね「少佐」から「大佐」までの階級の軍人が就く職で、指揮官である将軍職の下で幕僚として働く者(専門職)を指します。陸軍や海軍の「大学校」で参謀としての戦術や戦略を学び、それを実際の戦闘に生かすことになります。たとえば、海軍では「作戦参謀」や「航空参謀」「水雷参謀」「砲術参謀」などの各専門分野に分かれて参謀職が設けられていました。この中でも「作戦参謀」は最も重要な参謀職で、その戦いの勝敗を決める作戦を考えるのが仕事ですから重大な任務です。そして、参謀の上には「参謀長」がおり、これは大体「少将」クラスの将官が就きました。実際の命令が下されるのは、参謀が立案した計画を参謀長が決裁し、司令官に伺いを立てます。そして、最終的な判断は最高指揮官である「司令官」の判断になりますが、そこまでのプロセスを考えると、司令官が「NO!」と言うことはあまりありません。しかし、司令官自身に経験や深い洞察力があれば、参謀の意見を却下しても自分の意思を貫く人もいたようです。

たとえば、硫黄島の戦いの指揮を執った陸軍の「栗林忠道中将」などは、参謀たちの意見をすべて却下し、水際作戦から地下道に籠もった持久戦法に方針を転換しています。結果としてはそれが正解だったのですが、陸軍大学校で学んだ参謀たちには、その「正解」を理解する能力や経験が不足していました。いくら大学校で学んだとしても、創造力の乏しい人間には、新しい発想は生まれないという証拠でもあります。日本軍は、日露戦争に勝利したことから、いつまでも「人海戦術」に頼ろうとする癖がありました。「日本軍の突撃は、世界一だ!」という思い込みは、火力の乏しい時代ならあり得たでしょうが、強力な火力を装備した近代戦闘には、まったく通用しませんでした。そもそも、日本の国力では、近代戦に耐えうるような装備を整える予算がありません。そのため、兵隊は、大東亜戦争時にも明治時代に開発された「三八式歩兵銃」を使っていたのですから、米英軍の「自動小銃」に敵うはずがないのです。戦車の装甲も薄く、欧米の何処の国の戦車より貧弱でした。辛うじて、飛行機だけが世界水準を超えていましたが、量も少なく、陸海軍でそれぞれ飛行機を製造していましたので、互換性がまったくありませんでした。同じ日本軍なのに「弾薬」すら共通ではないのです。こんな状態で欧米との近代戦争に勝てるはずがないのです。そんな実態がありながら、何の手も打たなかった「参謀」共は何をしていたのでしょう。結局、いくら学校で「参謀学」を学んでも、その組織の中に埋没してしまえば、自分の能力など関係ないのです。上の人間にへつらって出世をすることだけに喜びを感じる人間に「参謀」も「指揮官」も務まらないことだけは確かだと思います。

3 「参謀」に必要な能力

(1)「過去から学ぶ」勇気

明治維新以降の教育で一番欠けているのが、この「歴史教育」です。論語にも「温故知新」という言葉があるように、「故きを温ねる」ことは「君子」になるための第一歩なのです。近代の教育は、「時代の先端」を学ぶことに汲々としており、肝腎な「過去から学ぶ」ことを疎かにしてしまいました。特に「参謀」と言われるような戦略や戦術を練る仕事に携わる人間には「必須」の学問なのです。孟子の言葉に「天地人」というものがあります。これは、「天の時は地の利に如かず  地の利は人の和に如かず」という意味です。そもそも人間は、「天」を味方にしなければ運は開けません。勝負事というものには、必ず「時の運」があります。その「運」を掴むには、身を慎み、我欲を捨て、努力し続けた者だけに与えられる一度きりの「チャンス」なのです。そして、いくら天運があっても、その「地を知らなければ成功はつかめない」と孟子は教えています。これは、事前の調査と現場の状況把握を言うのでしょう。そもそも、「敵を知らずして」戦おうとすること自体が無茶なことですが、戦前の日本は、その強大な欧米軍を怖れるがあまり「侮る」ことで、その恐怖から逃れようとしていました。本来は、怖ろしいからこそ、「徹底的に調べ上げる」でなければならないはずですが、「米兵など怖れるに足らず!」と同じ日本人同士で罵り合うことで、恐怖から逃れようとするのは、如何にも「小心者」の姿にしか見えません。「参謀」職を務める軍人自らがそれでは、孫子の言う「敵を知り、己を知れば、百戦危うべからず」とは真逆な思考に陥っていたことになります。この根拠のない「自信」こそが、「臭い物に蓋」をする日本人らしい対処法だと思います。

孟子は最後に「人の和」を説いています。「天を味方につけ地の利を得ても、人の和には敵わない」と孟子は釘を刺しています。武田信玄も「人は石垣、人は城」と言ったそうですから、「人心を味方につけなければ、戦には勝てない」ということです。そういう意味で言えば、大東亜戦争は「天の時」も「地の利」もなく、「人の和」どころか、陸軍、海軍、そして政府が銘々に戦っていたようなもので、口で言う「挙国一致体制」にはほど遠い戦争でした。国民は必死になって戦いましたが、それは政府や軍を信頼して戦ったというよりも、「愛する者も守るための戦い」だったような気がします。せめて「天地人」のどれかでもあれば、もう少し違った経緯を辿っていたような気がしますが、本来「人の和」に努めてきた日本が、そうならなかったことが如何にも残念です。

戦略や戦術を考えるときは、「現在と未来」を考えるだけでは足りません。あの徳川家康は、自身のバイブルが歴史書の「吾妻鏡」だったと言われています。家康ほど「鎌倉幕府」を研究した武将はいないでしょう。武士の根本的な思想であった「ご恩と奉公」を、儒学を基にした「忠義」に変え「武士道」という「道徳」に昇華させたことは、戦略として「完璧」です。この思想が武士とその他の人々を分け、武士が単なる「野蛮な戦士」から「侍の道に生きる道徳実践者」になるわけですから驚きです。家康は、これから訪れるであろう「未来」を見据えた上で「過去」から学んだのです。この思考が「教育」には必要だと思います。それは、軍の「参謀教育」にだけ必要だということではありません。今も日本の学者の多くは、進んだ「欧米」の理論や技術を日本に紹介し「日本の未来図」を予想して見せることを得意としています。しかし、逆に「歴史から学ぶ教育」を紹介する学者は少なく、他の分野の専門家から指摘されることが多いのが現実です。今の政治家や企業の経営者も、おそらく「現在と未来」のことは考えていると思いますが、過去の歴史をどの程度学んでいるのでしょうか。戦後の民主主義教育では、戦前までの教育をすべて「否定」したところから始まりました。私たちの学校時代がまさにそうした偏った教育が罷り通っていたのです。今尚、それを反省することなく、日本の教育は進められていますが、その行き詰まりが、今の「学校ブラック化問題」になっているような気がします。

企業経営も戦争も、究極の目標は「勝利・成功」以外にありません。企業の勝利(成功)とは、目先の利益の追求ではなく「世のため、人のため」になる企業経営を進め、会社を発展させ、そこに働く従業員やその家族を幸せにすることにあります。そして、世に送り出した製品なりサービスなりが、社会をよりよい方向に進めて行く上で「不可欠」なものになることが理想でしょう。それには、数年後の未来ではなく、何十年後の未来まで見据えた経営でなければなりません。それが企業経営者の「勝利(成功)」の形なのです。そして、戦争での勝利とは「負けない」ことに尽きます。大東亜戦争のように敵国だった外国人によって国が占領され、施政権を奪われるような終わり方は、完全なる「敗北」です。しかし、お互いが途中で矛を収め「講和」ができたとしたら、それは形式上は「引き分け」であっても、その国にとっては「勝利(負けない)」以外のなにものでもありません。本来、日本はそういった戦争を目指すべきでした。しかし、日本軍の「参謀」たちは、常に目先の勝利を勝ち取ることに汲々として、「戦略」を練ることを忘れていました。

いくら「局地戦」で勝利しても、それは戦術による勝利でしかないのです。残念ながら、当時の日本には「戦略」がなかったということになります。その「戦略」には、日本人の「結束」もあったはずです。これが孟子の言う「人の和」なのでしょう。残念ながら、日中戦争から続く大東亜戦争に於いて、日本が本当の「挙国一致」体制で戦ったとは到底思えません。軍や政府は、国民にはそれを要求し戦争に協力を求めましたが、陸海軍は最後までそれぞれの立場を主張するだけで、戦略も戦術も「統一」が取れませんでした。さらに、日本政府は政治の主導権を軍部に握られ、最終判断を天皇に求めなければならない醜態を晒して決着をつけたのです。それもこれも、当時の指導者たちが自分たちの「歴史」から何も学ぼうとしなかったことに原因があるのです。

今の日本人は、過去のことを紹介してもあまり興味を示しません。「なんだ、そんな古い時代の話か…?」と軽く見るのが精々です。逆に、外国の「新説」にはすぐに飛びつき、「横文字言葉」で日本に紹介しようとします。日本政府も自らが進んで横文字言葉を書き連ね、国民は「?」となっていてもあまり気にならないようです。最近では、環境に配慮した言葉として「SDGs」なるものが紹介され、テレビコマーシャルでもそれに関連した内容が流されています。何かそれを使うと、如何にも「立派」なことをしているような気分にさせられるのでしょう。まあ、けっしてそれが「よくない」とまでは言いませんが、もっとわかりやすい言葉で紹介してもいいのではないか…と思ってしまいます。それでは、日本は過去に「SDGs」のようなことはなかったのでしょうか。江戸時代の暮らしを見てください。今でも田舎暮らしをしている人の多くは「環境」に配慮した「物を大切」にした生活を送っています。今風に「SDGs」と言わないでも、江戸時代の庶民の暮らしを紹介するだけで、かなり環境に配慮した生活ができると思うのですが、それでは「だめ」なのでしょうか。何でも「外国」からの情報ではなく、「日本の歴史」から学ぶことの方が、日本人には合っていると思うのですが如何でしょう。

(2)「リアル」な思考

「参謀」という仕事は、戦略を立てて「戦いに勝利する」ことが前提にあります。負け戦となって後からいくら反省をしても、仕事としては「零点」でしかありません。理屈を言う前に、その作戦が実行可能なのかどうかを見極める判断能力が必要です。周りから煽てられて、「優秀」と思っているような人間は、自分の下手な作戦を棚に上げて「現場」に作戦失敗の責めを負わせる傾向がありますが、現場が納得できない作戦など「愚策」でしかありません。大東亜戦争末期にもいくつもの「愚策」がありました。最たるものが開戦を決めた「ハワイ作戦」ですが、いくら戦術的な勝利を得ても、アメリカ国民すべてを「敵」に回しては勝ち目はありません。これは、「戦略」の大失敗例です。そして、終戦間際の「特攻作戦」が、最後の「戦略」的失敗例でしょう。確かに、レイテ島を巡る攻防戦の最中、連合艦隊をレイテ湾に突入させるために大西瀧治郎中将が命じた「特別(自爆)攻撃」は意味がありました。もし、戦艦大和がレイテ湾突入に成功し、アメリカの上陸部隊をその輸送船ごとレイテ湾に沈めることができたとしたら、「神風特別攻撃隊」は日本の戦争史に燦然と輝く「作戦」として高い評価を得たはずです。しかし、戦艦大和のレイテ湾突入作戦は意志薄弱な指揮官(栗田健男中将)のせいで失敗に終わりました。

ここまでなら、「特別攻撃」は、「やむを得ない作戦」として評価されたでしょう。しかし、その後は如何にも「まずい!」と言う他はありません。当の大西中将が「統率の外道」と自らの過ちを認めていた「特攻」が、正式な軍の作戦として終戦のその日まで行われたことは、まさに「愚策」そのものでした。戦争にも一定のルールがあり、軍隊にも統率するためのルールが存在します。単に敵を殺すための「自爆攻撃」は、軍隊の常識を無視した無謀な命令であり、大西中将が言った「統率の外道」でしかないのです。文明国の軍隊にとって、上官には「命令権」がありますが、それは、「死」を命ずるものではありません。勝利を得るために「作戦」を立て、兵にその作戦どおりに動くことを命じますが、「死」は可能性ではあっても「絶対」ではないのです。作戦行動の結果としての「死」を「義務化」してはならないのが軍隊の常識なのです。それを、「戦果が挙がる」という理由で作戦を司る「参謀」が計画したとしたら、本来は「懲罰」の対象でしかありません。終戦後に大西瀧治郎中将は、切腹してその「罰」を認め、自裁したのです。そこには、理不尽な命令で亡くなった多くの「特攻隊員」への謝罪の気持ちが込められていました。ならば、大西の後に「特攻」を命じた「参謀」たちも同様に腹を斬らなければならないはずです。しかし、そんな軍人はだれもいませんでした。

そもそも、「参謀」が、周りの空気に飲まれては、冷静な判断をすることができません。どんな窮地に陥ったとしても、そこから脱出する「策」を巡らすのが「参謀」の仕事であって、一緒に死ぬことが使命ではないのです。日本人の参謀には、こうした周囲の雰囲気や空気に飲まれる人が多いように思います。バブル全盛時代に、日本の経営者や「経営参謀」たちは、ひたすら「投機」に走り「土地神話」なる造語まで生まれました。価値のない物に「価値」を持たせ、値上がりを待っては「売り捌く」という手法が、本当に企業経営として健全だったのでしょうか。中国が安い労働力を売りに、日本の企業に「誘致」を持ちかけたとき、政治体制が異なる国への投資に不安を感じる経営者や参謀はいなかったのでしょうか。そして、それが「健全な企業の経営である」と確信できたのでしょうか。どちらも個人では「危うい」と感じながらも、社会や社内の雰囲気に飲まれ「他社に遅れるな!」とばかりに投機や投資に走ったに違いありません。渋沢栄一が「論語と算盤」と言ったように、企業経営者には「世のため、人のため」という道徳的な理念が必要だったのですが、いつの間にか、日本企業はそのことを忘れ「金儲け」こそが「善」であるという「我欲主義」に飲まれていったのでしょう。それが、令和の時代になり中国経済が傾いてくると、中国依存体質から抜けられない企業は、今や二進も三進も行かない事態に追い込まれています。僅か「30年」ほどで、またもや「経営方針」を見誤り、バブル崩壊の二の舞を見るのかと思うと残念でなりません。これも、「リアル」に判断できなかった経営者と参謀の「ミス」なのです。

(3)「戦略」のない戦争

軍も企業も同じですが、「戦いに勝ち抜く」ために必要なことは「戦術的勝利」を追い求めることではなく、「戦略的勝利」に導くことにあります。日本軍の敗戦の原因は、この「戦略と戦術」の区別ができず、最初から最後まで「戦術」に拘ったことにあります。たとえば、開戦時の「ハワイ作戦」や「マレー作戦」は一体何のために行ったのでしょうか。連合艦隊司令長官の山本五十六大将は、よく「早期講和を求めていた」と言われていますが、当時の日本政府にも軍部にも「早期講和策」は出てきません。時の首相であった近衛文麿の伝記にも「早期講和」を目指して行動したという記述はありません。天皇自身は「戦争回避論」を述べていたにも拘わらず、だれも「戦争の終わり方」について具体策を持たなかったというのも不思議な話です。つまり、やむなく始めた戦争を漠然と「戦術的勝利」にだけ期待して、後はヨーロッパでの「ドイツ頼み」だったとすれば、政治としては「あり得ない」選択をしたことになります。これでは、軍の参謀が戦術にのみ拘った作戦しか採れなかった理由がわかります。

本来であれば、「ハワイ作戦」と「マレー作戦」に成功を収めたのですから、即座にアメリカ、若しくはイギリス政府と交渉して「平和交渉」を進めるべきでした。そのためには、一時期でも「ハワイ」を占領して、アメリカ太平洋艦隊を日本軍の支配下に置く必要がありましたが、それを考えた形跡はありません。第一、現場の指揮官であった南雲中将や参謀長の草鹿少将が「一撃離脱論」を述べているようでは、何のための「ハワイ作戦」だったのかわかりません。まして、それを計画した山本大将自身が、そのための命令を出していないのですから、先の見通しのない戦争だったことがわかります。やはり、山本自身にも「ドイツ頼み」の気分があったのでしょう。ハワイ作戦が失敗だったことを悟った山本大将は、改めて「ミッドウェイ作戦」を強引に進めましたが、何のことはない。これは、改めて「ハワイ」を攻略し、もう一度「早期講和」に持ち込もうとする作戦でした。しかし、「二匹目のドジョウ」はいません。最初のハワイ攻撃が「奇跡」的に成功したからといって、もう一度同じ「奇跡」が起こるはずもないのです。やはり、慎重の上に慎重を重ねて練った「作戦」でなければ、成功も覚束ないのは今も昔も同じです。

もし、日露戦争時の「伊藤博文」のような「政治」のリーダーがいれば、ハワイとシンガポールを占領した時点でアメリカやイギリスと交渉したはずです。特にイギリスはシンガポール要塞を失い、わざわざ本国から派遣した東洋艦隊を日本軍によって壊滅させられては、最早打つ手はありませんでした。アメリカもハワイを占領され、アメリカ太平洋艦隊が壊滅させられれば、即座に打つ手はないのです。もし、伊藤博文であれば、日米英交渉を通じて、かなり譲歩した「和平案」を提示したはずです。占領地域から即座に撤退し、中国とも和平交渉に入ったでしょう。これが「戦略」なのです。しかし、当時の日本にはそういった「戦略」を考える政治家はいませんでした。そして、伊藤ほどの強い「リーダーシップ」を発揮できる政治家もいませんでした。今も「安倍晋三」という戦後稀に見る「強いリーダー」を失ったことで、日本の政治は既に「迷走」し始めています。平和な時代は「調整型」のリーダーが好まれますが、有事には絶対に「強いリーダー」が必要なのです。

つまり、「リーダー不在」のまま、日本は対米英戦争に突入してしまったことになります。ただでさえ中国との全面戦争を戦っている最中に「世界」を相手に戦うなどということは、まともな政治家なら選択するはずがありません。開戦を決める会議の中で、軍令部総長の永野修身大将は、天皇に対して「戦うも亡国ならば、戦わざるも亡国…」と格好をつけて述べたと言いますが、「無条件降伏」のような敗北をしては「亡国」以外の何ものでもありません。敗戦によって「日本人の魂」を抜かれてしまった現在の日本を見ても、永野は「亡国にはならなかった…」とでも言うのでしょうか。そんな永野も敗戦によって「A級戦犯」に指名され、冷たい牢獄の中で病死したと伝えられています。そんな未来を想像できていれば、違う「選択」があったような気がします。時代の「流れ」というものは本当に怖ろしいもので、中国との戦争に飽きていた日本人は「戦争」そのものが日常化してしまい、「人の死」に対しても鈍感になっていたのだろうと思います。だからこそ、対米英戦争すらも「リアル」に考えることができず、日中戦争の延長線上にある「戦争」だと思い込んでしまったとしたら、日本の敗戦は「必然」だったのでしょう。

「戦術」のみで戦う戦争は、いずれ「行き詰まり」を見せます。なぜなら、どんな軍隊でも「常勝」はあり得ないからです。それは、スポーツを観ればよくわかります。野球でもサッカーでも、「完全試合」は、ほとんどありません。一つのゲームの中でさえ「流れ」があり、その「流れ」を上手に捉えた方が得点を取り、「流れ」を捕まえられなかった方が失点をして敗れるのです。実際の戦争も同じです。対米戦争だけを見ても、アメリカ軍は常に日本軍に勝ち続けたわけではありません。結果として局地戦でも勝利をしていますが、スコアは「僅差」な戦いばかりでした。特にガダルカナル攻防戦、ペリリュー島や硫黄島、沖縄での戦いはアメリカ軍も大きな犠牲を払い「薄氷を踏む」思いで勝利を掴み取ったのです。そして、その多くの戦死者や負傷者の数は、アメリカ国民を震撼させました。アメリカ人にとって戦争での「勝利」は、当然の結果であり、アメリカという国が敗れることなどあるはずがないのです。問題なのは「息子や夫、父や兄が無事に凱旋してくるか、どうか?」という個人的な感情が、戦争そのものの意味を問うのです。もし、日本に「戦略」があるのであれば、この「アメリカ国民の感情」に訴える方法はいくらでもあったはずです。

たとえば、開戦を決断する前に「世界」に向けて、「日本が如何に理不尽な要求をアメリカ政府に突きつけられているか」ということを発信するべきでした。あのアメリカの最後通牒というべき「ハル・ノート」は、アメリカ議会を通さず、大統領の決裁のみで日本政府に突きつけられた文書でした。戦後、これが問題になるのですが、これが開戦前に世に公表されれば、アメリカ国民はどう思ったのでしょう。「アメリカは戦争には参加しない!」と明言して大統領選に勝ったルーズベルトは、国民に「嘘」を吐いたことになります。それをアメリカ国民は許すのでしょうか。当時の日本政府にも軍部にも、本当の「民主主義」を理解する者がいなかったということです。昔の武士の感覚のままで、「国民」の存在を意識できない人々は、「世論」の怖さを知らなかったのでしょう。

山本五十六たちも「アメリカに行ったことがある」と言っても、所詮は「特権意識」の中でしかものが見られず、「戦略眼」もないまま漠然と過ごしたに違いありません。「兵器」や「資源」「工業力」は戦争をする上で大切な視点ではありますが、もうひとつ「国民」という最大の武器を忘れては戦はできません。山本大将は、ハワイを攻撃する理由として、「開戦劈頭、アメリカ太平洋艦隊を叩き、アメリカ国民の戦意を挫くことを目的とする」と言っているのですが、逆に、この奇襲攻撃を政治に利用され、「リメンバー・パールハーバー」は今でもアメリカ人の口に上る名言になってしまいました。山本は、アメリカ人の気質をまったくわかってはいなかったのです。そして、その理由を否定できる「参謀」は、だれもいませんでした。

4 「参謀」はセンス!

結論から言えば、「参謀」になれるような人間は、「簡単に学校などで創れるものではない!」ということです。確かに、子供のころから、その子供の才能を伸ばすような教育を行っていけば、ある程度「柔軟な思考」を持つことは可能だと思いますが、それだけで「戦略的な思考」が持てるとは思えません。確かに、日本軍の「参謀教育」に見られるように、東西の過去の「戦術」を分析したり、外国の戦争の状況をつぶさに研究することはできるでしょう。しかし、「戦略」となると、何事も「俯瞰」して見る視野の広さとそれを分析し考察する「冷静」な判断力・洞察力が必要になります。そのときに何者も怖れない「強さ」が求められるのです。日本人の場合は、軍隊でも企業でもそうですが、「組織への忖度」が常に働きます。言葉を換えれば、「その場の空気感」とでも言えばいいのでしょうか。日本軍の「大本営発表」は、今でも「誇大広告」と批判されていますが、事実を事実として伝えることは本当に「勇気」の要る作業です。そして、それを伝える者は、社会の非難を浴びる「覚悟」が必要になるのです。それは、場合によっては自分のこれまで築いてきた「キャリア」を棒に振るかも知れません。その職から追われるかも知れません。それでも「真実」を伝えようとするには、「死」をも覚悟する必要があるのです。そんなことが、組織が行う「教育」によって養えるものでしょうか。アメリカでさえ、日本との戦争の被害を正しく国民に知らせてはいません。戦争も終わりころになると「戦時国債」の売れ行きも悪くなり、志願者も大きく減じたと言われています。日本ではアメリカの公式記録は「正確」だと思われているようですが、それすらも「怪しい?」と考えた方がいいようです。そのくらい、「正直に伝える」ことは難しいのです。

「参謀」に向く人は、自分にも他人にも「厳しさ」を求めることのできる人です。いくら学校の成績がよく、「優秀」という評価を得たとしても、それは周囲が認める「好感度」が大きく加味されていることが多いものです。もちろん、普通の人間関係能力を評価するのなら、周囲に忖度し、だれからも好かれるような人物は「優秀」でしょう。しかし、それは、「周囲が望む物を用意できる能力」に長けているということであって、そこに「真実」を見極めようとする「客観性」が見られるかどうかは別問題です。「周囲が望む物」の中には、その場凌ぎの「成果」も多くあるものです。簡単に言えば、「言い訳が上手い能力」とでも言えばいいのでしょうか。前述したように、大東亜戦争の開戦にあたって、主作戦を担当する海軍軍令部総長だった永野修身大将は、天皇陛下に向かって「戦うも亡国、戦わざるも亡国なら、海軍は全力を挙げて戦います!」と言ったそうです。主作戦の責任者が、既に「亡国」という言葉を安易に遣っているところに、この人物の「性根」がわかります。「亡国」になるということは、「日本という国が無くなる」ということなのに、「戦わざるも亡国」とは、何という言い草でしょうか。国には「外交」という手段があるはずです。永野は、「戦わなければ、内乱が起きる」とまで言ったそうですが、「内乱」で亡国になった例はありません。日本でも、これまで多くの内乱を経験し、新しい時代を築いてきたのです。いくら内乱が起きて、内閣が倒れたり、重臣たちが殺されたりしても、それを抑える勢力があれば、必ず「秩序」は回復出来るものです。そんなことも弁えずに「対米英戦争」を「やむなし」とする思考は、戦争も安易に捉えている証拠であり、アメリカという国の「国力」を正確に捉えていない証拠でもあるのです。戦争の責任者にしてこの有様では、戦争の「終結」を考えることもなく、闇雲に開戦に向かって、その場の「空気感」だけで進んで行ったのでしょう。それも、「ドイツ」という同盟国が「勝つ」という前提で国の命運を賭けるとは呆れてものが言えません。これが、この時代の「トップ」のレベルだったのです。

同情するなら、あの時代の「空気感」は、今の時代にはない重苦しいものだったことはわかります。行き詰まるような「閉塞感」から抜け出したいという思考は、当時の日本人ならだれしも思うところでしょう。昭和の初頭から始まった「世界大恐慌」の波は、工業国として立ち上がったばかりに日本には大きな打撃でした。経済不況は、都市部だけでなく農村までも疲弊させ、膨れ上がった人口の捌け口を海外に求めたのもわかります。「弱り目に祟り目」と言うように、そんな弱った状態の日本に対して、世界は冷たく、新興国の日本など「消えてしまえばいい」という邪な気持ちが芽生えたとしてもやむを得ません。自分たちの「利益」を奪う者はだれであろうと排除するのが「帝国主義」の掟みたいなものだったのです。それに、どの国も、自分たちが「生存」することで必死だったのです。そんな余裕のない世界が、力による「現状打破」を考えるのは、今も昔も同じです。そういう意味では、日本だけが「おかしかった」わけではありません。だからといって、一国のリーダーが周りの空気に忖度して、自暴自棄になっては国を保つことはできません。破竹の勢いでヨーロッパを席巻するドイツ軍を見て、その「勝利」を信じた日本人が多かったことはわかります。しかし、「他力本願」で一か八かの勝負を賭けても、「賽の目」は思うようには転がらないのが「博打」です。やはり、ここは「隠忍自重」しても開戦を避け、国内だけで問題を解決するべきでした。しかし、残念ながら、それを説く政治家はおらず、良識派の軍人の多くは既に軍を追われ、だれも「冷静」に判断する日本人はいなかったのです。学校などでは、よく生徒に「強く生きる」ことを教えますが、困難に直面したとき、自分の「意思」を貫き、周囲に流されずに生きることの難しさは、歴史が証明しているところです。その「強さ」がなければ、「参謀」などという仕事ができないとすれば、日本人には一番「不向き」な仕事かも知れません。

結論から言えば、「参謀教育」とは、人間としての「意思の強さ」と「知恵を働かせる」教育なのです。そうなると、「知恵のある人間を育てる」ためには、どうすればいいか…ということになりますが、それは如何にも難しい課題です。もし、答えがあるとすれば、それは明治以降の「近代教育」ではなく、江戸時代の「寺子屋」から学ぶべきかも知れません。言えることは、当時の陸海軍のように、「知識偏重主義」では「知恵」は育たないということです。知識量が多すぎると、いわゆる「常識」が邪魔をして、独創的な発想が生まれないのです。その上、知識のある人間は「保守的」になりがちです。なぜなら、彼らはすべて「過去問」を解くのが得意だからです。海軍兵学校出身者が、戦後、そのときの「採用試験」の問題などを紹介していますが、確かに難易度は高く、数学や理科などは当時の中学校レベルを超えていると思いました。しかし、現在と同じように「過去問」の参考書は市販されており、少し賢い生徒なら、努力次第で何とか問題を解けるようになるでしょう。なぜなら、模範解答も付いていますから、多くの過去問にあたり、ひたすら勉強すれば合格は夢ではないのです。実際、当時の志願者が相当に勉強していたことがわかります。「海軍予備校」なる学校もできていたくらいです。しかし、いつの時代でも「記憶力」や「理解力」に優れた者はいるもので、そんな頭脳を持った人間には、さほど高いハードルではなかったはずです。ただし、この試験に合格したからといって「軍人」や「参謀」に向いていたかは別問題です。

人間の「知恵」というものは、いわゆる「学校エリート」と呼ばれる人間に備わるものではなく、学校の勉強などはできなくても、社会で揉まれているうちに「閃き」のように湧いてくるものだと思います。「発明」などというものは、だれもが気づかない「視点」を持つからこそ生まれて来るのであり、学校とは何の関係もありません。ただ、「学校で学んだ知識が応用されている部分がある」という程度のものでしょう。今の時代、よく「ギフト」と呼ばれる子供や青年のことが話題になりますが、彼らの能力は常識では計り知れないものがあり、通常の学校生活や社会生活に馴染めず、混乱を来しているとのことです。日本では、そうした「突出した能力」を持つ子供を教育する場がなく、引き籠もりや不登校状態になっていると聞きます。しかし、欧米や中国などでは、既に彼らを育成する機関が存在し、「防衛(セキュリティ)」のための新しい技術の開発に活用していると言われています。これまでは、「常識的な日本人」を育成することが学校教育等の役割でしたが、時代が変わり「AI(人工知能)」が社会を動かす力になるとすれば、そうした技術を開発できる「ギフト」が日本でも必要になるはずです。もちろん、それが専制国家のように「軍事」に特化して使われるのは賛成できませんが、そうした能力が生かせる「環境」が整えられ、活躍できる「場」ができれば、日本も発展していくに違いありません。

だれもが「ギフト」のような能力が持てるわけではありませんが、それも「個性」と考えれば、「社会の歯車」的な人間を育成することより、「個性を伸ばす」教育に舵を切った方が正解でしょう。そうすることによって、よりよい「参謀」的な思考を持つ日本人が育成されるような気がします。人間の「個性」を認めることは勇気のいることです。場合によっては「秩序」を壊す言動をするかも知れません。「自分勝手」で他を顧みない「我儘」を助長させるだけかも知れません。しかし、「個性」を「長所」と捉えれば見方は変わるような気がします。「短所」は教育によって直すことが可能です。しかし、「長所」は社会(大人たち)の温かい眼差しと支援によって伸びるのです。それには、日本社会自体が認識を改める必要がありますが、既に「江戸時代」には、そうした「個性重視」の教育が実践されていた事例も多く残されています。そのことをもう一度見直すことによって、「新しい教育像」が描けるのではないでしょうか。

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