「差別」にもの申す。 矢吹直彦
国会で「LGBT法案」なる「性」の問題に特化した「差別禁止法案」が成立する見通しになりました。だれもが、「差別禁止」と言われて反対する人はいないでしょう。そこに付け込むようにして、自民党は急にこの「法案」を提出したと聞いています。それも、日本駐在のアメリカ大使から囁かれたことが発端というから驚きです。おそらく、この大使は本国からの指令に基づき、岸田首相にそう「命令」したのでしょう。表向きは、そんなことは言いませんが、日本が急に何かをするときは、こうした「囁き」と称する「命令」が下されたからに決まっています。日本社会を大きく転換させた小泉政権時も、アメリカ政府からの厳しい「命令」が下されていた…と噂されています。日本人であれば、こんな共産党が言い出しそうな法案を与党である自民党が率先して出すとは思えません。まして、安倍元首相が健在であれば「あり得ない」話なのです。そして、この法案を積極的に出す側に立ったのは、元安倍首相の側近だった有名な政治家たちとなれば、まさに「踏み絵」としかいいようがありません。「俺に忠実に順うのか、どうだ?」、岸田首相は彼らにそう凄んだに違いありません。要するに、この「踏み絵」を踏まなければ、「選挙応援はしない!」という恫喝です。結局、これに屈した安倍元首相の側近のみなさんは、何が何でもこの法案を通すために野党とも協同する嵌めになったのです。「政治家でいたい…」という小さな欲のために…。憐れとしか言いようがありません。
日本の保守を自認する論客たちは、この事実に驚愕し、この法案に与した安倍元首相の側近たちを「裏切り者!」として非難していますが、議席を守りたい政治家にしてみれば「背に腹は代えられない」心境だったろうと思います。しかし、こうも批判が多いと、次の選挙ではどう転ぶかはわからなくなりました。岸田首相も、首相の座を奪われる危険を冒してまで通した法案ですから、余程のきつい「命令」が下されたことは明白です。それが暴露されれば、おそらく、自民党自体が崩壊するような事態を招くはずです。まさに政治の世界は「魑魅魍魎の棲む世界」です。政治に「秘密」があることは、だれもが承知していることですが、表に出すことができない「秘密」を抱え込むというのは、腹の中に「小型爆弾」を飲み込んでいるようなものです。これが破裂すれば、本人だけでなく、国が滅びることになるのかも知れません。先の大東亜戦争(太平洋戦争)も、未だに暴かれていない「秘密」が相当に隠されているようです。いずれ、情報公開される日が来るのかも知れませんが、そのときには、今の世界は相当に変わっているはずです。もちろん、安倍元首相がそんな「秘密」を知らないはずがありません。あの「暗殺」事件も、あんな単純な事件ではなく、もっと複雑な政治の闇が引き起こした事件だ…と勘ぐるのは私だけではないはずです。まあ、せっかくの機会ですので、「LGBTQ」はともかくとして、「差別」という問題について、私的な意見を述べたいと思います。
1 差別は「歴史的」犯罪
だれもが知っているように、人類の歴史の中で「差別」がなかったことは、何処の国においてもありませんでした。20世紀を迎えても「人種差別」は撤廃されず、特に「有色人種」はずっと「白人」に差別され続けてきたのです。特に欧米では、帝国主義の時代は「奴隷制度」が長く続き、黒人奴隷は売り買いできる「商品」でした。そうした国々では、20世紀後半になっても、白人(ホワイト)と有色人(カラー)が一緒にレストランで食事をすることもできませんでしたし、公共交通のバスでさえ、席を分けられていたといいます。日本に対しても、大正時代には「黄禍論」なる言葉があるように、「黄色い顔をした人間は禍である!」として酷い差別を行っていました。そして、それは政治家や企業家でさえ、率先してそう考え、発言もしていたのです。日本が、大正時代に国際会議の場で「人種差別撤廃」を訴え、会議出席国の過半数を獲得したにも関わらず、アメリカ大統領のウィルソンは、「こうした重要な問題は、全会一致でなければならない!」として、日本の提案を退けてしまいました。心の中では、「忌々しい黄色い奴め!」と毒づいていたに違いありません。
その日本でも教科書にも書いてある通り、「士農工商」外の身分を作り、酷い差別政策を行っていました。身分制度は、施政者にとってはそれがあることで統治しやすかったのでしょう。それでも、日本の場合は「貴族階級」があって、その下に「武士」、そして「農民」「町人(商工)」と続きますが、たとえ身分上は上位にあっても、実質的な「資産」となると話は別です。貴族階級にも「貧乏公家」はたくさんいましたし、町人でも大名を凌ぐほどの財産を築いた者もいましたので、一概に身分が上だから「偉い」というわけでもなかったのです。まして、「武士の世の中」とは言っても、簡単に「斬り捨て御免!」などできる話でもなく、いたずらに町人や農民をいたぶれば、武士にもそれ相当の「罰」が下されました。それは、もちろん「切腹」のことです。武士にとって、罪を得るということは、なによりも「恥」を掻くことになります。この「恥の文化」が武士にあったために、武士と謂えども簡単に刀を抜くことはできなかったのです。時代劇に見るような、あんな横暴な武士ばかりだったとは思えません。幕府は、些細な失敗も見逃さず「改易」を申し渡したほどですから、家臣の過ちにさえ神経を尖らせていたはずです。
明治という新しい時代を迎えると、日本は「四民平等」を謳い、身分制度を撤廃しました。と言いながら、華族、士族、平民、新平民という「族称」を戸籍にのせてありましたので、表向きは四民平等でも、実際は身分制度は残っていたのです。それでも、士族以下は、余程のことがない限り差別的な扱いは受けませんでしたので、平民の部下に士族がいることは普通にあったのです。もちろん、当初はいざこざも起きたでしょうが、それに慣れてしまえばどうということもない話です。しかし、男女差別は別です。江戸時代以降「儒教」の考え方が幕府に採り入れられたことで、女性の地位が男性と同じ扱いになることはありませんでした。女性初の留学生になった「津田梅子」など、アメリカからの帰国後、日本女性があまりにも自己主張ができないので、教壇で生徒に怒っていたといいますから、アメリカのようになるまでには、相当の時間が必要でした。今でも「内助の功」とか「かかあ天下」などと言う言葉が残っているように、女性差別があったことは事実です。
それでも、欧米のような「奴隷制度」がないだけ、日本は差別の少ない国なのかも知れません。ただ、女性が「売買」の対象になっていたことは、恥ずかしいことでした。今でも「江戸の吉原」が舞台の小説や映画がありますが、昭和の中頃までそれはありました。「女衒」という男性が仲介して貧しい農家の娘などを買い集め、売春を生業にする店に送ったのです。今でも日韓関係のトゲのようになっている、いわゆる「従軍慰安婦問題」などは、その戦時中の女性差別の問題です。これも、今では「合法的」に集められた「売春婦」ということで、ほぼ決着がついていますが、日本女性で「自分は慰安婦だった」と名乗りを上げた人はいません。それくらい「恥ずかしい職業」だと思われていました。しかし、それは「貧しさ」故の出来事であり、当人たちは、それを仕事として一生懸命に働き、お金を貯め家族を支えたのです。それでも、他人に漏らせば、どんな誹謗中傷を受けるかわかりませんから、だれもが口を噤んでいるのです。
2 「差別」は人間の性
「差別はいけない…」と分かっていても、つい、「〇〇のくせに…」などと口走ってしまうのはなぜでしょうか。今でも、「差別反対」を叫ぶマスコミが、気に入らない政治家や学校教師などに対して、誹謗中傷を繰り返しても、それは「差別ではない」のだそうです。よく、「いじめ」は、「相手が、いじめと感じた時点でいじめと認定される」と言われますが、マスコミなどは自分たちにとって都合のいい解釈で「差別化」を図っているとしか思えません。やはり、心の底では「こいつを貶めてやろう…」という邪な心が動いているのでしょう。しかし、表だっては「いやいや、正当な意見です」と嘯いて見せるのです。しかし、昨今の有名人を対象にした「盗撮」や「盗み見」的な誹謗中傷記事は、いくらなんでもやり過ぎです。マスコミは、何かといえば「表現の自由」を楯に反論しますが、その前に「個人情報保護法」や「条例」に違反していると思います。こうした「犯罪行為を正当化する体質」が国民から嫌われているのですが、やはり、斜陽産業ともなると「背に腹は代えられない」といったところなんでしょう。
「差別」という文字を見れば、「差」と「別」に別れますが、「差がある」とは「人が人と何かを比べる」ときに使う文字です。「身長差」「学力差」「能力差」「経済格差」など、比べられて「下だ!」と言われた人が喜ぶことはありません。また、「別」は「別々」とか「別れる」とか、とにかく「離れる」ことを前提に使われる文字です。要するに「あなたとは、違いますよ!」という宣言でしょう。こうして考えると、人は常に同じ人間同士でありながら、常に「比べ」なければ気が済まない脳を持つ動物なんだと言えると思います。だからこそ、それを抑制するために、憲法や法律に明記して「力で抑制」するのが正しいと思っているのです。そう考えると、人間とは如何にも愚かしく、憐れな動物だと思ってしまいます。
これを憲法や法律で抑制しなければ、人間はその本能のままに行動し、あの悪夢のような「帝国主義」時代に戻ってしまうことを意味しています。世界は、イギリスで起きた「産業革命」以降、次々と大型の蒸気船を製造し、世界の海に乗り出して行きました。それは、単なる「冒険」ではありません。人間の最大の本能である「物欲」を満たすためです。しかし、近代という時代になって、人間は理不尽な搾取は、「正しい行いではない」ことに気づいていました。どの先進国でも「法」を定め、「法が国を治める」体制ができていたからです。キリスト教でも仏教でも、イスラム教でも「正しい行い」をすることが求められていました。しかし、「正しい行い」をすることと、本能である「物欲」は、なかなか結びつきません。そこで考え出された思想が「啓蒙」です。
「啓蒙」とは、「蒙を啓く」ことですから、「未開の文明を知らない人々に、文明の素晴らしさを教えなければならない」といった身勝手な思想で、自らの「邪悪な本能」を誤魔化したのです。実際は、強力な武器を携えた軍隊が、静かに暮らしている人々の国に無理矢理乗り込み、富を奪うことにありました。もちろん、「条約」という体裁だけを整えた「国家間の約束」を結び、飽くまでも合法的に富を奪って行ったのです。今ではこれを「帝国主義」と呼び、富を奪われた国を「植民地」と呼びます。「植民地」にされた人々は、条約の名の下に「差別」され続けたのです。それは、確かに当時としては、合法的(白人が勝手に決めた)な貿易活動だったのかも知れませんが、現在においても、植民地にされた国の人々にとっては、辛く悲しい時代であり、当然「恨む」気持ちが残っていたとしても仕方がないことです。
日本も日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て、そうした「植民地」紛いの支配地を持てるまでになりました。それが、満州地方の権益であり、朝鮮の「併合」でした。これらも、確かに日本にしてみれば、多くの兵隊の犠牲によって獲得した権益だったかも知れませんが、其処に暮らす人々にとっては、「外国の侵略を受けた」と解釈しても仕方のないことです。事実、日本人がその国に乗り込み、政治を動かし、軍を駐留させ、その地域で暮らす人々に命令をするようになったのですから、面白いはずがありません。客観的に見れば、その国の指導者が愚かだったために、国民に苦しみを味わわせる結果になったのですが、そんな理屈を言われても一般庶民には関係ありません。自分が「差別されている」と思っているのですから、帝国主義に「言い訳」なんか関係ないのです。もちろん、日本の植民地政策が他国のような「搾取主義」でなかったとしても、道徳的に間違っていたことは反省するべきでしょう。
3 「差別」はなくならない
今回の「LGBT法案」を見るまでもなく、この「差別」という人間の「性」というべき心の歪みを正す方法はありません。こんな意味不明な法案が通るのも、世界中の人々がそうした「差別」に苦しんできた歴史があるからです。それは、前述したように日本より欧米の方が酷く、それが宿痾のように今の欧米各国を苦しめているからです。考えてもみれば、わずか数十年前まで明らかな「人種差別」はあったわけで、それを今さら「忘れましょう?」などと言えるのは、差別をした方の論理で、された方は「永遠の憎しみ」でしかないのです。ただ、それを口にするかしないかが、人間として理性的かそうでないかの違いでしかありません。日韓関係がうまくいかないのは、明治時代の「日韓併合」問題に行き着きます。もちろん、当時の国際情勢や法律的には「適正な措置」であったと思いますが、庶民感情はそんなものではありません。もちろん、この被差別感情を政治利用している政治家の責任もありますが、「差別されていた…」という心の傷は、一朝一夕に消えるものではありません。まして、今や日本は軍事小国なのです。何を言っても日本側から「仕返し」を受けないと分かれば、立場は逆転します。これが、差別の循環なのです。その悪い流れを断ち切るのも人間だということを忘れたくはありません。
これを人間関係に当て嵌めると、自分自身が己を律し、「絶対に差別はしない!」と心に誓わない限り、世相に流されれば、気づかぬうちに「差別的発言や態度」はしているものです。人は、自分を含めた大勢と「同じ」ということで安心感を得ます。同じような家に住み、同じような経済状況で、同じような学校に通い、同じような仕事に就くことで安心を得ているのです。したがって、個性的な人は、そんな「安心感の輪」の中には入れませんし、独自で道を切り開いて行く他はないのです。そう考えると、「個性」を伸ばすということが如何に難しいかがわかります。「人と違う」ということを認識した人は、多かれ少なかれ悩むはずです。なぜなら、親も含めた周囲の大人たちが「どうして、この子はこうなんだろう…?」と悩むからです。「いいじゃない。人と違うって個性がある証拠でしょ!」と思えばいいのですが、日本人は、極端に「違う」ことを嫌います。きっと、「違うことは、差別されること」という恐怖心が本能に植え付けられているのでしょう。農耕民族にはありがちな思考です。
さらに、もうひとつ加えれば、それは国としての「価値観」をしっかりと示すことです。本来、それは「憲法」が担わなければならないのですが、今の日本国憲法は、如何にも脆弱です。それは、敗戦後の占領期にGHQが中心となって作成して国民に示されたもので、「国民の総意」に基づくものではないからです。読んでみるとわかりますが、今でいう「グローバル化宣言」のように聞こえます。しかし、この憲法は「日本から世界を見る」点ではよいのかも知れませんが、「日本人が日本という国を見つめ直す」視点がありません。つまり、「お国柄」が表現されていないのです。だからこそ、「憲法改正」が必要なのですが、これを金科玉条のように崇め奉っている人々には、改正なんて信じられない「暴挙」なのでしょう。しかし、「多様な価値観」から「多様すぎる価値観」まで広げてしまうと、もう、人間はなにもできなくなります。つまり、「社会秩序」は不要ということになりかねないのです。「働くのも自由」「勉強するのも自由」「税金を納めるのも自由」…となれば、「国」は不要です。そんな社会で、自分にとって都合の悪いことは、すべて「差別」としてしまうこともできるのです。
今でも、常に自分が「被害者」であるかのように訴える人がいますが、自分個人で考えれば、それも正当な意見でもあるのです。「あの人にああ言われたから、自分は酷く傷ついた!」となれば、「傷をつけた、あの人」は「悪い人」なのです。たとえ、善意で助言したとしても、個人の「受け止め方」がすべてですから、そんな「助言」も不要だったという結論になります。こうした考えが蔓延すると、だれも「お節介」を焼く人や「よかれ」と思って助言する人はいなくなり、国民すべてが「孤立」していくのです。つまり、「差別をなくす」ためには、人間関係を「希薄」なものにするしかないのです。そうなると、今度は「格差」が広がります。病む人も貧しい人も、悩む人も「所詮は他人事」であれば、福祉もいらなくなります。そのうち「友人もいらない」「家族もいらない」「自分一人でいい」といった感情に行き着き国家体制は崩壊します。そんな社会になれば、きっと他国の強力な軍隊が攻めて来て、あっという間に日本人はすべて「奴隷化」されるのでしょうね。
4 「道徳」という価値観
もし、日本人が本気で「差別」をなくしたいと考えるのなら、それは「法律」を定めるのではなく、「道徳」に眼を向けなければなりません。外国人から見れば、日本人はまだまだ「道徳的な振る舞いができる国民」だと思われています。大リーグで活躍している大谷翔平選手やダルビッシュ有選手などを見ていても、本当に「みんなのために働く」ことを喜んで引き受け、今年のWBCにおいても大活躍をされました。あれだけの選手ですから、自分の体の管理や大会までの準備期間を考えれば、いくら要請があったからと言って「はい。大丈夫です!」にはならないはずです。それでも、「大会に出場する!」と明言した以上、たとえ、自分が苦しくなってもチームの為に働いたでしょう。こうした気持ちや態度が、世界中の人から賞賛される理由なのです。そして、この二人の大リーガーのお陰で、日本チームはひとつにまとまり、あの優勝があったのです。こんな人たちの中で、「差別」や「いじめ」などが起こるものでしょうか。だれもが、日本での一流選手たちです。日頃はお互いがライバルであり、切磋琢磨するプロなのです。お互いを尊敬する気持ちはあっても、貶めようとする気持ちはないはずです。
そう考えると、やはり「道徳」は人間が生きる上での大切な指針になるはずです。まずは、これを日本人が取り戻すことです。戦後、日本は欧米流の「多様な価値観」を認めてきました。確かに、欧米流の民主主義は学ぶべきところもたくさんあったと思います。しかし、この「多様な価値観」を認めすぎると、国家とか国民という意識が薄められるのも事実です。既に欧米諸国では、これら「多様な価値」を求める人々であふれかえり、その国の特徴が薄れています。それが、意見の対立を生み、国としての方向性を見失うのです。日本でも、それは既に始まっています。今、学校教育が混乱しているのは、そうした「多様な価値観」を持つ人々の意見に沿った教育ができないからです。国民一人一人が意見を持つことは大切なことですが、その意見が「お国柄」に合っているかどうか、改めて考えるべきでしょう。それを「必要ない!」と言うのであれば、いずれ、「日本という国も必要ない」ということになると思います。
ただ、私たちが忘れてはならないのは、私たちが「日本国民」として様々な恩恵を受けているという事実です。普段は特に考えることもありませんが、平和で安心して暮らせるのは、日本が「国」として世界中から認知されており、国際的にも重要な地位を占めているからです。軍隊はなくても「自衛隊」という武力組織があり、「日米同盟」という軍事同盟があることで、日本な他国の侵略を防いでいます。そして、曲がりなりにも「経済大国」のひとつであり、日本経済は堅調に推移しています。学校教育制度も充実しており、学ぶ機会を失われている子供はいません。環境問題にも積極的に取り組んだお陰で、日本の美しい自然は守られています。そして、曲がりなりにも日本の歴史や文化、伝統は現代にまで受け継がれています。日本政府が、その重要性をどの程度認識しているかはわかりませんが、日本人一人一人の意識の中には、「今の日本を守りたい!」という意識はあるはずです。それでも、日々の生活の中では、何かしらの事件が起こり、最近では「凶悪事件」の報道も頻繁にあります。特に若者たちのSNSを使った凶悪事件は、社会の「閉塞感」を象徴しているのかも知れません。
人間は、だれしもが「穏やかな生活」を望むものです。一時は、猛烈に働いたり勉強したりすることもあるでしょう。しかし、それも日常に戻れば、ゆっくり寝ていたいし、遊びにも出かけたい。忙しさを忘れて温泉にでも浸かりたい…というのが人情です。そんな気持ちのときに、人を「差別」しようなどとは考えないし、友人を「いじめよう」などとも思いません。私も子供時代を振り返れば、休日に、二人でお喋りを楽しんでいた友人が、学校で私に意地悪を言ってくる…という経験をしたことがあります。同じ人間がこうも豹変するのかと思うくらい、表情もまったく別人になっているのです。それが、また、休日になると穏やかな顔に戻るのを何度も見ました。要するに、この友人の本性は、休日の「穏やかな場所」にあるのです。学校で意地悪を言い、いじめのようなことをするのは、この子の「ストレス」が原因なのだと後にわかりました。成績の良かったその友人は、親や教師からの期待も大きく、それに応えようと必死に頑張っていたのだと思います。それが、学校にいるとき、友人の私にぶつけられたのでしょう。それでも、私は何も言いませんでした。何となく感じるものがあったからです。「差別」的な言動は、そんなときに起きるのです。それを国会で「法的に規制」しようとする方が、多くの人に余計な「ストレス」を与える原因になるのではないでしょうか。
日本は、世界の人々から見れば、非常に「道徳的国民」だと思われています。政府も外国人の観光客を増やしたいと思うのなら、ハード面ばかりを整えるではなく、日本人の心(ソフト)を大切にした施策を打つべきでしょう。日本には、他国に負けない「道徳」があります。思い遣りや優しさ、譲り合いや我慢強さなどは、あの東日本大震災でも証明して見せました。そんな日本人の徳性をなぜ、自ら壊すようなことをするのか私には理解できません。おそらくは、国会という日常とは異なる世界に身を置いていると「普通の人とは違う価値観」が生まれ、様々な人間関係の中で異質な議論がされても、違和感を感じなくなってくるのかも知れません。まして、彼ら政治家を叱る人はいません。「選挙」だけがその機会ですが、それも投票率が低ければ「自分が国民に叱られている」という意識になることもないのでしょう。肝腎な「国会」が「道徳の府」にならなければ、国民を導くことができないのは「当然の理」です。
それでも、「差別をなくしたければ、道徳心を高めるしかない!」というのが私の結論です。それがない限り、いくら法律を定めても実効は少なく、国民をさらに萎縮させ、ストレス社会を作ることにしかならないことを知るべきです。最近は、その肝腎の道徳を学ぶ機会は激減してしまいました。道徳は、改めて「道徳」として学ぶのではありません。日常生活の中での人々との関わり合いをとおして学びます。10年程前に「江戸しぐさ」なる「思い遣り文化」が紹介されたことがありますが、わざわざ「江戸しぐさ」などと言わなくても、それは日本人の日常の中にあったはずです。そして、そういう時代は、テレビドラマや映画、歌謡曲に至るまで、道徳的な表現が見られました。私は今でも「忠臣蔵」の大ファンですが、あの物語に出て来る登場人物に「悪人」はいません。敵役の吉良上野介ですら、同情の余地のある老人なのです。それでも、「武士の一分」を立てるために「仇討ち」という非常手段に出なければならなかった大石内蔵助の胸中を思うと、涙が出てきます。これが、日本人の情緒を育てて行ったのです。
もし、そうした日本人の心の繊細さに気づく政治家がおられたら、ぜひ、国会の場で「日本人の道徳論」を訴え、国民に問うてください。それが、保守政党でなくても構いません。日本人が「日本人」を取り戻さなくて、だれが取り戻してくれるというのでしょう。現代のように、常に「損得」という価値で自分の行く末を決めてしまえば、絶対に後悔するはずです。人はけっして「損得」だけで生きているわけではないのです。「差別」や「いじめ」も、こうした人間の醜い部分が出てきたときに起こる現象です。その原因は「ストレス」なのだということを忘れては、何も議論は進みません。もちろん、ストレスのない社会などできるはずもありませんが、だれもが「道徳」を学び、先人の知恵を学び、良書を読み、自分を反省することを忘れなければ、差別やいじめは起こらないのです。もう一度、日本に「道徳論」を蘇らせましょう。
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