今、日本の教育は「戦後最悪」と呼ばれるくらいに末期症状を呈してきました。これは、そもそも、明治維新後の日本の教育の失敗が、こうして「一世紀以上過ぎたころに表面化した…」言ったら言い過ぎでしょうか。明治、大正、昭和前期に至るまでの日本の教育には、確かに評価できる点も多くありましたが、「富国強兵」のための教育であったことは否めません。現在、NHKの朝のドラマで植物学者の「牧野富太郎博士」が取り上げられていますが、富太郎は、幕末期の武士の「学問所」では学んでいますが、明治時代の小学校では学んでいません。「小学校中退」が正式な彼の学歴なのです。そして、その「学歴」が後々まで、富太郎を悩ませることになるのです。もし、明治時代の教育がすばらしいのであれば、彼は、小学校を中退することなく「帝国大学」まで進んだはずです。そこに、このドラマの脚本家の「皮肉」が隠されているとしたら、なかなか、面白いドラマになるだろうと思います。つまり、江戸時代までの教育は「個性を伸ばす教育」でしたが、明治以降の教育は「画一的な国民を作る教育」だったのです。だからこそ、日本の兵隊は勇敢で優秀な「戦闘員」でしたが、幹部は、その「画一性」のために組織の中に埋没して行ったのです。それは、敗戦後の日本も同じです。
学校教育が「画一性」を追い求めていたことに、戦前も戦後も変わりはありませんでしたので、戦後の日本経済を支えたのは、優秀な「工員」たちでした。しかし、幹部は、やはり組織に埋没してしまい、優秀な「経営者」は誕生しませんでした。もちろん、個人としては、才能のある企業家はいましたが、彼らはどちらかと言うと、牧野富太郎博士と同様に、日本の「学校教育」に馴染まないような個性的な人ばかりだったのは、面白い現象です。令和の現代になると、それは如実に表れるようになり、日本経済はいよいよ停滞期から下降期に向かって進んでいるように見えます。人間は、一度成功体験をすると、それが忘れられなくなり「あわよくば、夢をもう一度…」と願う習性がありますが、夢がもう一度叶った例しはありません。既に時代は進み、社会は大きく変化しているのに、昔の夢を追いかけても成功するはずがないのです。しかし、一度、大きな「組織」に属してしまうと、その巨大さに圧倒され、その組織が永遠に続くものと勘違いをするのです。戦争中も敗戦が濃くなっていたにも拘わらず「大本営」に勤務する幹部軍人たちは、日本の勝利よりも自分たちの組織を守るために必死になっていたと言います。彼らには、「敗戦」の意味が分かっていなかったのです。そして、敗戦になり陸海軍という巨大組織が崩壊しても、その延長上にできた「自衛隊」に職を求め、「組織に生きる論理」から抜け出せず、同じことを繰り返したのです。それは、単に主人が「天皇」から「アメリカ」に移っただけのことでした。「生きていくため…」とはいえ、その節操のなさは呆れるばかりです。この「近視眼」的な思考では、希望のある「社会の発展」をリードすることはできません。そういう意味では、もう一度、日本の歴史を振り返り、しっかりと検証した上で、新しい「未来」を創造して欲しいと思います。
1 日本の「寺子屋」教育
江戸時代の教育のすばらしさは、まさに「個性重視」の教育だったことにあります。日本人の識字率を高めたのが、各所にあった「寺子屋」ですが、これは「官」が設置したものではありません。すべて、「民」が独自に開いたいわゆる「塾」であり、当時の日本人の意識の高さがわかります。昔から「読み書き算盤」と言うように、子供にとって社会に出て一番大切なのは、この「三つ」だという教えですが、寺子屋に通って来ているだけで、四つ目の「道徳」も学んでいました。私の子供のころは、「他所の家」「他所様」という言い方で、「他所の家に上がるときは、礼儀正しくしなくてはならない…」という躾がされており、おそらく、寺子屋でも同じような道徳的習慣が教えられていたはずです。もちろん、大人に対する「挨拶」も礼儀のひとつであり、下足を揃えたり、正座をして座ったり、お辞儀をしたりする習慣は、各家庭で厳しく躾けられたものです。最近は、子供たちも「友だちの家に遊びに行く」こともなくなったようで、親たちも他所の家の子を自宅に上げることもなくなったようです。そうなると、「他所に行く」ことがなくなり、「表での振る舞い」を学ぶ機会が減り、「公私の区別」を付ける行動が取りにくくなるはずです。
また、「読む」にしても単に文章を読んで理解するに止まらず、今でいう「情報」を得るための手段であり、かなりの崩し文字であっても「読める」技術を習得していました。子供にしてみても、貸本屋で滑稽本や小説の類いが読めれば、自分の世界が広がります。「読む」ことは、楽しい娯楽でもあったのです。そして、「書く」ことは「帳面を付ける」というように、仕事をする上で欠かせない「商いの基本」でした。今のように記憶する機械がありませんので、口約束ではない「記録」こそが、仕事ではもっとも重要になります。日本人が「時間に厳しい」というのは、この時代からの習慣が身についたせいかも知れません。なぜなら、「時間厳守」こそが「信用」につながるからです。そして、文字が自由に書けるようになれば、好きな相手に対しても「文」を送ることができます。日本の「和歌」には「恋の歌」が多いと言われますが、文字が誕生して以降、廃れずに発展してきたのは、こうした人間の「本能」に響くものだったからでしょう。単に「便利」というだけのものではないのです。
「算盤」の発明は、中国だろうと思いますが、日本人ならだれもが「算盤を弾く」ことができました。今でも小学校の算数の授業の中には、この「算盤」が行われています。もちろん、以前ほど熱心に教えられることはありませんが、全国には「珠算塾」があり、今でも通う子供が多いのは、単に「計算技術を身に付ける」だけでなく、「数理的な感覚を身に付ける」上で効果的だと思われているからでしょう。私も子供のころに「珠算塾」に通っていましたが、慣れてくると頭の中で算盤の珠を弾き、計算できるようになっていました。日本人が、「暗算」が得意な人が多いのもこうした算盤の成果だろう思います。江戸時代の中頃には、実質的には、「貨幣」が日本の経済を回しており、武士は「年貢米」を貨幣に換えて生活していました。そうなると、貨幣を運用する「商人」が大きな力を持つようになっていったのです。
徳川幕府が武士の哲学として「儒学」を採り入れたのは、けっして間違いではありませんが、「商業」を差別的に扱ったのは、政策の失敗でした。日本人は、儒教でもキリスト教でも「いいとこ取り」が得意なのですから、「米経済」中心主義を採るべきではありませんでした。最初は、「米本主義」であっても、次第に「貨幣経済主義」へと移行していけば、何の問題もなかったのです。そして、徐々に身分制度を解消していき、「税」を「貨幣で納める」ようにすれば、徳川幕府が傾くことはなかったはずです。実際、商人は身分制度で言えば「士農工商」の最下層の身分ということになりますが、多くの商人は「身分より金」という理屈がわかっており、身分など気にもしていなかったのです。それより、農民のように「税」を搾り取られる方が大変です。儒教の考え方では、「商い」は生産性がないために「恥ずべき行為」と考えられていましたが、孔子の時代から数千年も経っていたわけですから、よくよく考えて政策を採るべきでした。江戸後期の老中だった田沼意次は貨幣経済の意味がよくわかっており、一時、その方向に進むように見えましたが、残念ながら意次が失脚すると、生真面目一方の松平定信によって「質素倹約こそが美徳」という時代に戻ってしまいました。家計でもそうですが、いくら質素な暮らしに甘んじていても収入が増えるわけではありません。やはり、自分の能力を生かして資金を稼ぎ、その一方で「無駄を省く」のなら理に適っていますが、大本である「資金を稼ぐ」手段が「年貢米」だけというのも、政治家としては如何なものでしょうか? 江戸時代も平和な時代が長く続いたために、武士道も「原理主義者」が増えて柔軟な発想ができなくなっていったのでしょう。「商売は儲かる…」と分かっていながら、「武士道」に拘り続けたために、近代になると、武士は「不要」になってしまったのです。
「寺子屋」は、幕府の教育政策として採り入れられたものではありませんでしたが、この「寺子屋」によって教育を受けた子供たちが、成人して日本社会を支えたわけですから、日本人の「知的レベル」の高さがわかります。要するに、日本人は国が教育の面倒を見なくても、自分たちの力で教育を行っていくことができたのです。今も、文部科学省が日本の教育のすべてを司っているような顔をしていますが、もし、そんな役所がなくても、日本人は自分たちでしっかり「教育」をして、立派に子供を育て上げる能力があるのです。それを勝手にいじくり回し、日本の教育を壊しているのは「文部科学省」なのではないでしょうか。
徳川幕府が倒れると、明治政府は、教育を政治に利用しました。まさに「富国強兵」です。彼らの言う「富国」とは、「外国に勝つこと」を意味しました。だからこそ、勝てる分野を探しては資金をつぎ込み、ちょっとでも勝ると「勝った、勝った!」と大騒ぎをしていたのです。お陰で、国民は重税に喘ぎ「こんなことなら、幕府の方がよかった…」と嘆いた程です。学校教育の内容も、兵隊になったときに役立つようなことばかりを教え、学校は「ミニ軍隊」のようになっていました。確かに、立派な校舎を建て、教室を作り、背広を着た教師が数十人の子供を教える姿は、一見「近代化」しているように見えました。それに比べて「寺子屋」は、長屋の一室で、薄汚れた浪人者が教えているわけですから、あまり立派には見えません。西洋文化が入ってくると、新し物好きの日本人は、どうもそっちが「立派」に見えてしまったのでしょう。しかし、中味は、国の役所である「文部省」が指示したとおりに教えるだけで、子供たちはさぞや窮屈な思いをしたことと思います。
「寺子屋」では、こんなことはありません。今に残る寺子屋を描いた画を見ても、子供たちはのびのびと寺子屋で学んでいます。それでも、子供たちは自由奔放と言うわけでもないのです。寺子屋を出れば、待っているのは「奉公」だったり、「野良仕事」だったりするわけですから、いつまでも子供ではいられません。少し裕福な家になると、いわゆる「塾」にも通っていたようですが、それも「強制」ではありません。ここでは専門的な教育が受けられたのです。有名なのが「医学塾」ですが、全国各地にできた「医学塾」では、漢方を中心とした薬草の勉強や、薬の調合の仕方、人間の体の仕組みなどを学んだのでしょう。西洋医学から比べれば、拙い医術だったかも知れませんが、今でも「漢方」があることから考えれば、けっして、いい加減な治療でないことはわかります。こうして学んだ多くの人たちが、日本社会を支えていたのです。今の教育は、まさに、明治維新以後の教育の延長線上にあります。「AI時代」の到来と言われるような時代に、いつまでも「富国強兵政策」的な「画一教育」でもないでしょう。そろそろ、頭を切り替えて、一人一人の能力を育成する「寺子屋教育」「塾教育」に転換するべきなのです。
2 日本の「塾」の教育
「塾」は、今でも「学習塾」「進学塾」などで使用されている言葉です。「塾」とは、元来「門の両脇に設けられた部屋」を指す言葉で、その部屋で勉強を教えたことが由来だそうです。江戸時代には、多くの「私塾」が各地に設けられ、ある程度の学識のある者は「月謝」を受け取って塾の経営をしていたのです。有名なものでは、吉田松陰の「松下村塾」や緒方洪庵の「適々斎塾」、福沢諭吉の「慶應義塾」などがあります。今度、五千円札の肖像画になる津田梅子の「津田塾」もそのひとつでしょう。こうした「塾」は、飽くまで「私塾」ですから、本人が望んで入塾します。しかし、今のように高校や大学に「合格」するためのテクニックを学ぶ場ではなく、どちらかというと、「専門的」な技術や「教養」を身に付ける意味合いの方が大きかったように思います。当時の日本人は、何にでも興味を持つ性質があり、地方で優秀な若者には、強い「向学心」がありました。その上、みんな「負けず嫌い」です。少し前の映画に「天地明察」という時代劇がありました。囲碁を学んだ青年が、改めて「数学(和算)」の面白さを知り、新しい「暦」を作ろうと奮闘する物語です。その中に、数学の大家である「関孝和」が出てきますが、江戸時代の数学(和算)のレベルは、とんでもなく高いことに気づかされます。
日本人の中には、「そんなこと、絶対に無理だよ…」と思うようなことでも、挑戦しようと生涯を賭ける人が現れるのです。日本地図を完成させた「伊能忠敬」などは、隠居後に全国を測量して回ったというのですから驚きです。その「努力」こそが、日本人の特長を現しているのではないでしょうか。千葉県の佐倉市には「順天堂記念館」が置かれていますが、「順天堂」と言えば、今の順天堂大学医学部に連なる日本近代医療の「祖」と謳われています。この堂主である「佐藤泰然」がいなければ、日本の近代医療は、現在のような体制にはなっていなかったはずです。これも「私塾」なのです。時の政府は「学校」を作ることには熱心でしたが、端から「私塾」を無視していたように思います。学校が正当な教育機関であるかのように宣伝し、必要のない「学歴社会」を作り上げました。しかし、旧制の高等学校、帝国大学などを作っても、本当に優秀な官僚や政治家は生まれなかったようですから、「学校制度」もあまりあてにはなりません。もちろん、それに反論する人はいるでしょう。しかし、考えてもみてください。そんなに優秀な人材が育っていたのなら、80年前の「敗戦」はどうしたことでしょう。
優秀な官僚に政治家、陸海軍の優秀な軍人、そして最強と謳われた日本帝国陸海軍を擁しながら、国土を焼き尽くされ、300万人もの日本人が亡くなって「無条件降伏」をしなければならない戦をした責任は、この「優秀」なリーダーたちにあります。80年後の私たちに「もっと、勝てる方法はあっただろう?」と言われるようでは、当時の「優秀」なリーダーたちの能力もあまり評価はできません。そして、その「学歴社会」は今でも続き、やっぱり、官僚や政治家のやることは「頓珍漢」な話ばかりです。それなら、「塾の方がずっといい!」という人もたくさんいることでしょう。要するに、明治以降、かけ声ばかり「近代化、近代化!」と叫び、「寺子屋や塾なんて古くさい。これからは、学校だよ、学校!」と偉そうに言っていたのに、この体たらくです。これなら、もう一度「塾」に日本の教育を任せてみたらどうでしょうか。
3 「国」の目指す学校は古い
今の日本の「学校教育制度」は、最早、社会のニーズに応えていないことだけは確かなようです。政府は、教員の「働き方」にのみ注視し、全体を見ようともしていません。教員の働き方などは、老朽化した学校教育体制の「氷山の一角」でしかないのです。おそらく、政府はこれからもこの体制を維持してやっていこう…と考えているのでしょうが、益々、混乱に拍車がかかり「自壊」する道を選ぶことになります。考えてみれば、明治5年に「学制」が発布されて以降、150年もの長きにわたって中央集権的な「学校教育体制」が維持されてきたことに驚かされます。もちろん、当初は、それが上手く機能している部分はあったでしょう。新しい「学校制度」を導入した明治の政治家や官僚たちは、「これで、日本も近代化できる…」と喜んだでしょうが、とんでもありません。日本が近代化できたのは、「江戸時代の教育」が国際的に見ても進んでいたからに他なりません。それに気づかず、新しく「学校」を創っただけで満足した明治の人たちは、あまり「知恵」がなかったようです。確かに、国としては、何でも「中央集権」は便利な政治手法です。未来永劫、この制度で「日本人を教育できる」と信じたのでしょうが、上手く行ったのは僅かな期間だけのことでした。
この制度は、「有事」にはまったく効果がありませんでした。考えてもみてください。戦争に勝った日清戦争、日露戦争は、江戸時代に教育を受けた人々が戦った戦争です。服装や組織は「近代化」されているように見えますが、中味は、みんな江戸時代の感覚の人たちです。乃木希典、東郷平八郎、山本権兵衛、伊藤博文…、この人たちはいつの時代の人でしょう。ちょっと、考えてみればわかることです。ところが、昭和の戦争を戦った人たちは、みんな明治の教育を受けた人たちです。東條英機、山本五十六、近衛文麿…、みんな政治家や軍人として「落第」の評価しかできません。運良く、山本五十六などは、今でも一部では「英雄扱い」されていますが、彼が成功した作戦は何一つありません。冷静に考えれば「真珠湾攻撃」など、愚の骨頂です。博打じゃあるまいし、投機的な作戦で、貴重な戦力を消耗させた責任を問わないでどうするのでしょう。いつまでも、都合のいい「英雄視」的な見方は改めるべきです。これが、「明治の教育」の実態なのです。ところが、面白い現象があります。それが、日本の「復興」です。
知恵のない政治家や軍人の勝手な屁理屈で始まった「大東亜戦争(太平洋戦争)」は、300万人の犠牲者と国土を焼土にされて終わりました。そして、日本の「復興期」が始まったのです。もちろん、その復興が成功したのには「朝鮮戦争」という国際情勢の変化がありましたが、それでも、20年足らずで「東京オリンピック」が開催されるところまで辿り着いたのは、日本人の努力の賜物です。実は、その復興に一番寄与した年代が「大正自由教育」を受けた人たちなのです。日本も昭和一桁時代までは、日中戦争も始まっておらず、国内は平穏でした。そして、大正デモクラシーと呼ばれた「自由」が叫ばれた時代の申し子たちの多くが、戦場で亡くなった世代なのです。彼らの多くは、実は「自由な時代」を知っていたのです。おそらくは、戦争が始まり「鬼畜米英」を叫んだり、「特攻」などを考え出したのは、明治時代に教育を受けた政治家や軍人たちでしょう。実際に戦った下級士官や兵隊の多くは、そんな「明治頭」の上官に呆れながらも、「家族を守る」ための戦いをしたのです。彼らが、黙って命令のままに死んで行ったのも「国=家族」という意識があったからで、命令を発する人間を信じていた人はだれもいません。きっと、見えないところでは、頭の悪い明治生まれの上官を罵倒していたはずです。
4 江戸時代の「教育」を取り戻せ
「第五次産業革命」の時代と言われ、世界が大きく変革する時代に突入したと言われながら、日本はここ30年、世界から大きく取り残されました。一時は「ものづくり大国」などと呼ばれ、政府も得意気に「日本のものつくりは、世界一だ!」と豪語しましたが、このコロナ騒動ですべてが明らかにされてしまいました。コロナワクチンですら、ノーベル賞の大村教授の「イベルメクチン」が有効だと言われながら、それを検証した形跡すらなく、ひたすらにアメリカの薬品メーカーに頭を下げて買ってくるだけでした。国民の多くは、「日本の技術なら、造れるのではないか?」という希望を持ちましたが、とうの昔にそんな基礎研究はやっていないのだそうです。その後、「半導体、半導体…」と騒ぐから、「あれ?、以前、日本の半導体は世界一だったはずじゃ…?」と思っていたら、今では「そんな金にならない製造は、とうの昔に手を引いた…」そうで、韓国や台湾などから半導体を輸入しているのだそうです。その上、「AI革命だ!」というから、日本のAI技術はすごいのかと思えば、アメリカや中国などの軍事大国の比ではないそうです。市販されるパソコンですら、国産品は高いばかりでさっぱり売れず、多くは外国製品ばかりになりました。
結局、今の日本で誇れる技術は何なのでしょう。ここに来て、「教育大国日本」も崩壊寸前です。政治は元々「三流国」ですから、最初から話にもなりません。平成の頭に「バブル景気」が弾けて以降、日本が誇れるものは何もなくなってしまったのです。それなら、いっそのこと「自分たちの愚かさ」を反省して原点に立ち返ればいいのですが、それを考える勇気がこの国の経営者にも政治家にもありません。日本は、今、まさに「リーダー不在」の国になってしまったのです。特に、国会議員にしても大企業の経営者にしても、「このままではだめだ!」という切迫感がありません。自分たちの生活が保障されているせいか、わかっていても、ここで立ち上がろうとする気概がないのです。これは、地方も同じです。各都道府県を見ても、この知事は面白いとか、この自治体はすごい…というところが見当たりません。学校も同じです。有名な民間人校長経験者が、偉そうに、「能書き」だけ垂れたような本を書いて一流の「教育者」のような顔をしていますが、底の浅さが文章にありありと見えて、驚いてしまいます。それでいて、自分は「一流だった…」かのような錯覚に陥っているのですからおめでたいものです。そんな程度で、日本の教育が語れるはずがありません。少しは、江戸時代の学者を見習って欲しいものです。
今の日本人に江戸時代ほどの「学者」がいるでしょうか。私が記憶にあるだけでも、江戸時代には、吉田松陰、石田梅岩、広瀬淡窓、山田方谷、二宮尊徳、緒方洪庵、佐藤泰然、佐藤一斎、渡辺崋山、高野長英、佐久間象山、高島秋帆、貝原益軒、華岡青洲…、などの名前を思い出します。時代はバラバラですが、高名な学者として名を馳せた人たちです。もちろん、全国をくまなく調べれば、もの凄い数の「先哲」というべき人材が出て来るはずです。この人たちに匹敵する学者が、もし、今の日本にいたとしたら、ぜひその名を教えていただきたいものです。まさか、「学術会議」と称する左翼学者の巣窟から選ぶことはないでしょう…。これほどの人材が世に出られたのは、なぜなのでしょうか。今の「江戸時代史観」から言えば、当時の日本人は、身分制度の中で圧政に苦しみ、武士から搾取され続けてきた可哀想な人たちです。身分は固定され、這い上がろうとしても許されず、そんな世の中を変えようとして、下級武士たちが幕府を倒したのが「明治維新」だったはずです。そして、日本は「明るい夜明け」を迎えたはずです。ところが、西洋式の学校教育制度を整え、富国強兵政策に邁進しても、優秀な兵隊を造ることはできましたが、逆に優秀なリーダーを造ることはできませんでした。優秀な学者も政府の顔色を窺うような「御用学者」ばかりは幅を利かせ、市井の学者は疎んじられたのです。
結局、「官」が政策的に優秀な人材を育てようとしても、それは飽くまで「官」に都合のいい人間を育てるだけのことで、世界に通用する人間かどうかはわからないのです。今でも「グローバル化に対応できる日本人の育成」とやらで、「学力が高く・英語が流暢で・情報機器を操れる日本人」を育てようとしていますが、それで「世界に通用する」のでしょうか。そんな「目先」の技術的なことばかりを言っていないで、もっと個人の「能力」を高める教育に転換していくべきなのです。日本人は、元来「知的好奇心」が強く、新しいものにチャレンジする「進取」の気風に富んでいる国民性があります。小賢しい教育学者の理論などなくても、自分たちで「学ぶ」ことは十分にできるのです。政府も、余計な指図をせずに「学校」や「塾」に教育の多くを任せればいいのです。そうすれば、自ずと優秀な人材が育っていくはずです。それに、今の「マスコミ」には、本物のジャーナリストはいません。だれもが大きな組織の中に汲々としたサラリーマンばかりで、「真実」よりも、社の方針が優先される体制の中で働いているだけです。これでは、物事の真実を見極めることはできません。既に、「戦後教育」が失敗に終わったことは、今の「学校ブラック化問題」によって証明されました。それならば、政府は早々に教育から手を引き、「民」にそれを委ねるべきでしょう。
5 「科挙」を廃止せよ
そもそも、明治政府の教育の失敗は、江戸幕府が採り入れなかった「科挙」の制度を採り入れたことです。「科挙」とは、中国における「官僚登用制度」のことで、要するに「試験」によって点数の高い者を採用しようとするものです。日本では、明治以降「学校」や「官公庁」で積極的に採り入れられ、それによって明確な「序列」が生まれました。試験で高い点数を採った者が「優秀」で、点数の低い者が「劣等」ということになり、それを「甲乙丙丁」に分けて評価する仕組みになっていました。戦後は、学校の成績は「五段階評定」になり、「5~1」まで相対的に付けられ、間違いなく「差別化」を図ったのです。これは、一見「公平」に見えますので、明治以降はずっと消えることなく続いていますが、本当に「甲」や「5」を取る人間が「優秀」だと言えるのでしょうか。今でも、私たちはそうした「思い込み」に縛られ「偏差値」の高い学校を卒業した人間を「優秀な人」として、企業や役所でも高い地位につけたがりますが、それが、今後も有効なのでしょうか。
確かに、学校で学習する内容程度であれば、記憶力や理解力に優れた生徒は「甲」や「5」を取る確率は高く、教師が作成する「試験問題」レベルでは、高得点を取ることでしょう。しかし、それは、既に「答え」がある問題を解く能力に優れているのであって、自分で「問題に気づくことができるか?」、若しくは「問題を創り出すことができるか?」という能力とは異なります。実際の社会や戦場は、常に「答えのない答え」を出さなければ生き残ることはできません。だれもがわかる「答え」を得意気に答えても、そんなものは「AI」の前ではまったくの無力なのです。明治以降の日本の教育は、ひたすら「過去問」に取り組み、多くの「解法」を覚えた者が有利になる仕組みでした。それも、最早、限界に来ていると思います。
勤勉な日本人には、この「ひたすら覚える」勉強方法が好まれ、「受験勉強中は、一日〇〇時間も勉強した…」ということを誇らしげに語る人が多く、「覚える量」で「頭のよさ」を競ったのです。しかし、そんな勉強方法は、「真の学問」ではありません。既に過去の人が解き明かしたような「問い」は、解法さえ知ってしまえば、別に特別な発見でもなんでもなく、単に「差別化」を図るための方便に過ぎません。「私は、おまえよりものを知っているぞ!」という自慢は、コンピュータのない時代までは通用しましたが、今は、だれも「物知り」を誇る人はいなくなりました。今の若者は、ちょっとわからないことがあると「スマホ」を取り出して、ちょちょい…と検索機能を利用して答えを見つけてしまいます。本質までは理解できなくても、当座を凌げる程度の情報はスマホで十分なのです。だったら、試験会場に「スマホ持ち込みOK」にしておけばいいのではないでしょうか。そうすれば、どんな「難問」を出しても、受験生はたちまち高性能スマホで「答え」を見つけてしまうでしょう。本当の「頭のよさ」を見つけたいのなら、そんなペーパー試験は無意味だと思います。
今、大リーグで活躍している「大谷翔平選手」は、だれもがやらなかった「二刀流」を引っ提げて、堂々と世界を相手に戦っていますが、数年前までそれを信じた「専門家」はだれもいませんでした。「プロの世界で、投手をやって、バッターもやる…?」「そんな人間は、この世には存在しないよ…」「そんなことをしたら、体が壊れてしまうじゃないか?」…と、元プロ野球選手たちは口を揃えて言い続けました。つまり、「自分たちができなかったことは、人もできない…」という暗示にかかっていたのです。「科挙」の制度も同じです。「あれほど難しい問題を解いたのだから、優秀な人間に違いない…」という暗示は、百年以上も続くと、証明されていないのに、だれもが信じてしまうのです。そして、「学力の高い人間は、人格も立派なはずだ…」という意味不明な暗示に罹りやすいのも科挙の特徴です。とんでもない。「頭と心」が一致する話など聞いたこともありません。「あの人は、偏差値の高い大学を出たそうだから、きっと立派な人に違いない…」と思って、どれだけの人が裏切られたことでしょう。政治家に立候補する人に高学歴の人が多いのは、そうした暗示に国民をかけやすいからです。「東大卒」「弁護士」「医師」…そうした肩書きの政治家はたくさんいますが、それでも、日本の政治は「三流」にしか見えません。それに、「詐欺師」は、みんな頭がいい人ばかりです。会えば容姿端麗でスマートで、会話も流暢です。専門用語を駆使して上手に懐に入ってくれば、何も知らない善人は個人情報をペラペラと喋ってしまいそうです。テレビ等でも散々注意喚起をしていますが、それでも引っ掛かるのは、やはり「頭のいい人は、立派な人が多い…」という暗示にかけられているからでしょう。これだけ「特殊詐欺」が横行している時代になっても、人の心はそんなに変わらないのです。
明治政府は、単に政権を安定させたいために徳川幕府を必要以上に貶め、「自分たちが世直しをしたんだ!」と宣伝するために、江戸時代の教育を敢えて蔑み「無視」を決め込みました。それは、完全な「幕藩体制」からの脱却を意味していましたが、300年近く続いた「政治体制」や「文化」を否定することは、歴史の断絶を意味し後世に多くの禍根を残すことになりました。そして、国民に対しては「文明開化だ!」と、すべてを西洋化してみせることで「過去」を振り返らないように仕向けたのです。これは、一種の詐欺行為みたいなものでしょう。要するに、急いで近代化を成し遂げなければならなかった明治政府は、悠長な「個性教育」なんかをする暇もなく、優秀な「兵隊」や「労働者」を造るために、西洋式の学校教育を導入し、組織に従順な人間を作るために現代版「科挙」と呼ばれる「試験制度」を設けたのです。「身分に関係なく、どんな人間も試験に通ればエリートになれる…」といった宣伝文句は、国民の心を掴みました。そして、その「試験」が過去問の「丸暗記」でいいのですから、少し知能の発達している者には好都合です。世の中は、「末は博士か大臣か…若しくは大将か…」などと言われれば、悪い気はしません。難しい試験に合格した人たちは、次々と帝国大学、将校養成軍学校に入るや、その組織で出世していきました。そのうち、自分が属する「組織」の方が国より大切に思うようになり、自壊していったのです。
その「学校教育」によって日清戦争、日露戦争に勝利したような気分になった政治家や国民は、「これで、西洋諸国に並んだ…」と喜びましたが、そんな付け焼き刃の仕事で、長い歴史を持つ欧米に並べるはずがありません。それでも、プライドだけは高い元武士たちは、そう思い込むことで、自分たちのしてきたことを肯定したかったのでしょう。実際は、江戸時代の教育を受けた人たちが軍事や政治のリーダーとなって指揮したのであり、明治の学校教育で学んだ人は、ほとんどが「兵隊」か「下級士官」たちでした。彼らは、リーダーたちの命令のままに動いただけで、実際の戦闘の指揮を執ることはありませんでした。大東亜戦争のときに実際に指揮を執った将軍たちは、実戦の経験など一切なく、海軍の山本五十六でさえ少尉候補生として乗り組んだ軍艦で負傷して終わりです。何が何だかわからないうちに戦争に勝っただけのことなのです。他の軍人たちは、飽くまで机上の作戦を学んだだけの人たちで、実際に指揮官として有能だったのは、一割もいなかったでしょう。真のリーダーが育たないまま大正、昭和と時代が進み、江戸時代の教育を受けた人々がいなくなると、日本は凄まじい勢いで坂道を転がり始めたのです。
日本人は、従順で規律を重んじるために「兵隊向き」と外国人から言われますが、けっして「リーダー向き」ではありません。リーダーに必要な資質は、瞬時の「判断力」であり「行動力」です。「勇気」と言ってもいいと思います。日本人の多くは、決断する力に乏しく、「ああだ、こうだ…」と迷っているうちに戦機を逃して失敗を繰り返します。大東亜戦争も、そんな失敗の連続でした。それでも、大戦末期には「本土決戦」を叫ぶのですから、どういう勝算があって本土決戦をやろうとかんがえたのでしょうか。結局、自分たちではどうしようもなくなって、天皇の御聖断を仰ぐことになったことで、明治維新以降の教育の失敗を証明して見せました。大戦争を仕掛けておきながら、「終戦」の仕方すら研究していなかったのですから、国を預かるリーダーとは思えません。やはり、「答えのない答え」を導き出す能力がなかったということです。それでも、戦後も「科挙」の制度に固執して80年近くが過ぎました。国民の多くは、最早、肩書きだけで人を見るのは止めようという空気になってきています。
政治家は、自分の所属する政党という組織に雁字搦めに縛られ、政治家としての真面な発言も封じられています。官僚は、自分の所属する省庁の権益を守るために、国民の生活など関心がないように振る舞い、多くの国民から呆れられています。学校教育も、既に崩壊寸前の状態になり、あれほど人気のあった「先生」の志願者も激減しています。子供たちは、そんな学校に登校する意味を見出せず、不登校が続出しています。高校も今では全日制の普通高校より、通信制の私立高校に人気が集まっているのが現状です。子供たちは、理屈は分からなくても、感覚的に「今の学校はだめだ…」ということを悟っているのでしょう。そして、「自分の将来をこんな学校に預けたくない…」という意思表示を示し始めています。親たちも、次第にそんな空気を察知し、以前ほど「不登校」と騒がなくなりました。それならば、国も古くなった「科挙制度」を転換し、その人間の能力を見極めるような「教育制度づくり」に取りかかるべきなのです。
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