昭和16年12月8日に始まった日米戦争(大東亜戦争・太平洋戦争)ほど、不可思議な戦争はありません。アメリカは、第一次世界大戦の後遺症が残り、国民はもう外国への戦争に参戦することを望んではいませんでした。三選を果たしたフランクリン・ルーズベルト大統領は、「アメリカの若者を二度と戦場には送らない!」と国民に約束して三期目の大統領に就任していたのです。日本にいたっては、アメリカは日本の産業の最も重要な貿易国であり、開国後に一番世話になった外国でした。当時の日本人にとって「アメリカ」は、何もかも日本より進んだ先進国であり「憧れの国」だったのです。そんな国と戦争をするなどとは、日本政府も陸海軍も国民も、だれ一人として考えていませんでした。それが、運命の糸に操られるように、あれよあれよと言う間に日米関係は悪化の一途を辿り、ついには日本が仕掛ける形で日米戦争は始まりました。そして、日本が想定していたような「限定戦争」にはならず、国を挙げた「総力戦」になり、日本は完膚なきまでに叩かれ「敗戦」の憂き目を見ることになったのです。
そんなことは、戦争をする前からわかっていたことでした。日本政府も陸海軍も「アメリカと戦えば、必ず負ける!」というシュミレーションはできていたのです。それは国民も同じです。少し知識のある者なら、だれだってそう思うでしょう。それくらい「国力」には大きな隔たりがありました。国民の一部には、「アメリカ兵は弱い!」とアメリカ人を蔑む言動も見られましたが、いくら一人一人の兵は弱くても、その強大な戦力は「気持ち」の問題でどうなる話ではありません。現実に、日本軍はその強大な戦力によって完膚なきまでに叩き潰されたのです。戦争が始まる前に、それを想定していなかった政治家や軍人はいなかったはずです。それでも、現実には日本海軍が、アメリカの「ハワイ」に奇襲攻撃をかけることで始まりました。よく「窮鼠猫を嚙む」の例えがあるとおり、まさに当時の日本は、この「窮鼠」だったのです。しかし、なぜ、アメリカは日本をそこまで追い詰めなければならなかったのでしょう。そこまで日本という国を憎む必要があったのでしょうか。それによって、アメリカにはどんな「得」があったのでしょう。どう考えても、答えを見つけることができません。しかし、最近になって多くの方が、あの戦争を分析し答えを導こうとしています。私も私なりに気づいた点もありますので、今回は、「日米開戦」の真実に迫ってみたいと思います。
1 アメリカ政府に蔓延った「共産主義」
今でこそ、アメリカは「民主主義の国」であり、「共産主義」を否定していると思われていますが、表面上はそうであっても、アメリカにも「共産主義思想」は広く蔓延していました。それは、国際金融資本家たちにとって都合のいい思想だったからだとも言われていますが、未だにそれが明確になっているわけではありません。また、今叫ばれている「グローバル化」も、形を変えた「共産主義思想だ」と言う研究者もいます。ソビエト連邦が、崩壊した今となっても「共産主義」が、世界からなくなることはないのでしょう。
「共産主義」は、ロシアで生まれた思想だと言われていますが、経済格差によって人が差別されることを許さない「平等主義」が、共産主義の基本的な考え方でした。そして、ロシア革命は、そんな思想に基づいた「人民革命」だと思われていたのです。その前の「フランス革命」も王制を倒した人民革命であり、ロシア革命も、それによって「帝政」が崩壊しました。こうして、人々の上に君臨する「特権階級」を崩壊させることで、人は「平等な社会」が築かれると信じたのです。しかし、現実的に社会がすべて「平等」になることはあり得ません。「平等」になるということは、「競争」をなくすことでもあるからです。社会から「競争」がなくなれば、だれも新しい発見や発明をすることもなくなるでしょう。人間は、他の動物に比べて優れた「脳」を持っています。そのため、「考える知恵」が備わっているのです。その人間から「競争」を奪ってしまえば、勤労意欲も湧かないし、新しいことに挑戦する意欲も湧かないでしょう。たとえ「平等」な社会が生まれても、意欲のない無気力な集団ができるだけのような気がします。
日本でも最近まで、学校の運動会等で順位をつけなくなったり、ゴールテープをみんなで一緒に切ったりする風景が見られ、学校でも、この「平等主義」は昭和の時代まで続いていました。理由は、「勝てない子供が可哀想だから…」だそうです。だったら、入学試験も入社試験も国家試験もみんななくしてしまえばいい…ことになります。国家資格を持たない医師に診て貰う、手術をしてもらう勇気は私にはありません。しかし、与えられる「給料」も住む「家」も、「仕事」もみんな平等だったら、働く意欲も湧かず、ただ、ぼんやりと一日を過ごすだけのつまらない人生になるような気がします。しかし、正直「楽」だろうと思います。「勉強をしろ!」とも言われず、「働け!」とも言われない生活なら、味わってみたいと思う人も多いと思います。まして、それまで圧政に苦しめられてきた人々には、「甘美」な言葉に聞こえたことと思います。それくらい「平等」という言葉は、心に響く言葉なのです。しかし、現実はそうはなりませんでした。ロシア革命後も指導者層にあたる「共産党」が国家権力を握り、人民を平等に「従わせる」構図ができあがり、国民は等しく「貧しく」なっていったのです。その上、権力側の共産主義に基づく指示(命令)は絶対であり、それに服従できない人には「平等の恩恵」は与えられませんでした。少しでも共産主義に疑問を持つような人は、「反対思想」の持ち主ということで「厳しい罰」が与えられても仕方がなかったのです。ソ連や今の中国でも、北朝鮮でも多くの人々が常に政府の管理下にあり、迫害を受けている人も多いのが現実です。つまり、自分たちが信じる思想(共産主義)に反対する勢力は、すべて「悪」であり、「敵」であるという極端な考え方で国民を統制しているのです。
ロシア革命後にロシアが「ソビエト連邦」になっことによって、世界は大きくその形を変えることになりました。それまでの「ロシア帝国」は広大な領地を持つ世界有数の軍事大国でした。それが、「封建主義」から「共産主義」に移ったことで、その思想は世界中に拡散されていったのです。当然、アメリカにも日本にも、その「支部」が作られ、多くの共産主義者やそのシンパが動き出しました。特に共産主義思想は、その国の知識人たちに多く受け入れられ、政治家や軍人、学者、マスコミ、官僚たちに広まって行きました。しかし、その多くは「指導者側」に立つ人々ですから、いくら法律で取り締まろうとしても、明確な証拠がなければ逮捕することもできません。日本でも、「治安維持法」が誕生して、共産主義思想の蔓延を防ごうと強い権力で取り締まりましたが、逮捕されたのは、末端に連なる人々ばかりで、大物は口を閉ざしてそれを眺めていたのです。若い人の中には、本当に「共産主義」の理想に燃え、日本の今の体制を批判する人もいましたが、本気になって、その理想を実現しようとする権力者側の人はいませんでした。
アメリカでは、大統領に選ばれたフランクリン・ルーズベルトが共産主義思想の持ち主であり、その政府内のブレーンにも同じ思想の人間が多く入り込んでいました。そうなると、アメリカは出来たばかりの「ソビエト連邦」を容認し、その体制を支持したのです。当時の日本政府は、「まさか、アメリカ政府が共産主義者に乗っ取られている…」などと思ってもいないことです。そうなると、日本は当然「目の敵」になってしまいます。なぜなら、日本は「天皇制」を採る国であり、日本の国家元首は「天皇」お一人だからです。これは、共産主義者が一番憎むべき体制で、「絶対君主」などは崩壊させなければならない存在だったからです。そして、日本国内にも「天皇制」を崩壊させたい勢力が生まれていました。こうした国内外の「共産主義思想」を持つ国や人間たちによって、日本は世界から孤立し追い詰められて行ったのです。
2 日本の共産主義者たち
大正末期に起きた「世界大恐慌」の嵐は、近代工業国になったばかりの日本を直撃しました。当時の日本は、明治以降の「富国強兵政策」を転換できずにいましたので、軍事費は莫大で、たとえ不況になっても自ら「軍縮」することもできませんでした。大正時代には、第一次世界大戦の影響で、世界各国が「軍縮」に向かう中で、日本は、国際軍縮会議の場でも自己主張ばかりを重ね、世界各国と足並みを揃えることができませんでした。特に海軍は、艦隊派と条約派の軍人が対立し、「艦隊派」と呼ばれる軍人たちが海軍を牛耳り、良識ある条約派の軍人たちを海軍から追い払ってしまいました。そのため、日米交渉が難しくなっても「海軍は戦争はできない」と言うこともできず、やりたくもない日米戦争に突入するはめになってしまったのです。もし、このとき「条約派」の重鎮たちが海軍にいたら、日米戦争は回避出来た可能性がありました。とにかく、艦隊派が海軍の主流となったために大型戦艦の「大和」や「武蔵」を建造するなど、予算も関係なく「アメリカ海軍に対抗するため」と称して軍事費は高騰していきました。そのため、国民の目から見れば、「軍事費ばかりが高くなって、生活ができない…」という不満の声は軍部に多く寄せられたのです。それでも、陸海軍は、既得権を手放すことでできず「ロシアやアメリカに勝ってみせる」といった威勢のいい声だけが一人歩きをしていったのです。
国内の不満を解消する方法がないにも関わらず、軍備ばかりを増強する陸海軍、そして、深刻な不況に対して無策な政府…。近代国家になって100年も経たない日本は、国民に対して何のセイフティ・ネットも用意していませんでした。当時のエリートである大学生も、大学を卒業しても就職はなく、各企業も次々と倒産する時代になっていました。農村では重税に喘ぎ、娘を売るようなことが多く見られました。丈夫な若者は徴兵で兵隊に取られていては、農作業もままなりません。一般国民にとって、明治維新後の日本の近代化によって「豊かな暮らし」はやって来なかったのです。そして、国民の不満が高まると、昭和の初期にはいくつもの「テロ事件」が起きました。有名なのが、犬養首相を海軍将校たちが暗殺した「5.15事件」、そして、大規模な叛乱を起こした陸軍将校たちの「2.26事件」です。他にも政治家や経済界の大物が殺される事件が多発していました。この時代の日本人の気質として、「気に入らなければ、殺してしまえ!」という倒幕運動の名残みたいな野蛮性が残っていたのでしょう。今であれば、とんでもないテロ事件ですが、当時の国民は、これらの事件に喝采を浴びせ、首謀者たちの助命運動などが起きたのです。つまり、国民の多くは「テロ事件でも起こして、日本をいい国に造り替えて欲しい!」という願いを持っていたということです。この時代は「暴力」が肯定される時代で、不況と相俟って社会は殺伐とした雰囲気を醸し出していたといいます。
そんな彼らの精神的支柱となったのが「共産主義思想」でした。大川周明や北一輝、西田税などが中心となって、「日本を共産主義思想に基づいた国に改造しよう」という運動は、全国に広まり、皇室は危機的な状況にありました。特に、武力を持つ陸海軍には、こうした指導者に共鳴する軍人が多く現れました。陸軍では、「日本を国家統制下に置いて、国家総力戦のできる軍部中心国家に改造したい」とする「統制派」と、「天皇親政を実現し、軍部独裁内閣の下で国民を従わせたい」とする「皇道派」が対立していました。しかし、どちらも「軍部」が政治の実権を握ることに変わりはありません。要するに、近代国家になっても、未だに「軍人(武家)政権」を打ち立てたいのが軍人たちの野望だったのです。そうなると、「天皇」は名ばかりの飾り物になってしまいます。それでも、彼らには関係ありませんでした。なぜなら、明治政府を創った薩摩や長州の武士たちは、天皇を「玉」と呼んで、自分たちの手に収めようと画策していたのですから、軍人たちにとって担ぎやすい「軽い神輿」が天皇だったのです。それでも、昭和天皇は、2.26事件に際しては反乱軍に対して、断固たる討伐を命じ、国家元首としての意思を明確にされました。そして、それが大東亜戦争終結の「御聖断」につながるのです。もし、軍部のいうような「飾り物天皇」であったなら、日米戦争によって日本は消滅していたに違いありません。
日本政府内にも多くの共産主義者たちが蠢いていました。当時の首相だった近衛文麿は、華族筆頭である藤原家(公爵)の当主であり、共産主義思想に強い関心を持っていた人物でした。近衛は京都帝国大学の出身で、当時の帝国大学の中には、共産主義思想に共鳴する教員や学生がたくさんいたのです。政府が「危険思想」だと取り締まりを強化すればするほど、インテリ層の中には信念を強くする者もいました。生まれながらの「特権階級」である人間は、世間知らずで育つために、貧しい暮らしを強いられている一般庶民を見ると「同情」する気持ちが芽生え、問題を「資本主義体制」に見てしまうようです。まして、自分が「華族」という特権階級に胡座をかいていれば、「同じ日本人でありながら、生まれながらに差別があるのはおかしい?」という感情が生まれるのは不思議ではありません。有名な作家の太宰治が、そのことで苦悩を抱えていたことは彼の小説からもわかります。それでも、特別に与えられた権利を放棄しようとは思わない…。それが、階級社会の問題点でした。
近衛文麿のブレーン(仲間)には、同じようなエリート階級の共産主義者が付いており、「昭和研究会」なる組織を創って近衛に政策提言などをしていました。近衛が首相になったときの内閣書記官長(今の官房長官)は、やはり共産主義者の「風見章」という人物でした。当然、風見は近衛に対して共産主義に近い助言をしていたはずです。彼らの行為は、まさに「共産主義」いや、「ソビエト連邦」に味方する行為であり、彼らの真の祖国は「ソ連」にあったと言われています。昭和16年の秋に起きた、戦前最大のスパイ事件だった「ゾルゲ事件」では、朝日新聞社の尾崎秀実ら多くの近衛の仲間が逮捕されています。また、海軍の重鎮だった米内光政や山本五十六が頻繁に風見に会い、情報交換していたそうですから、そこで、どんな密談が行われていたのか気になるところです。とにかく、近衛の周りには日本にとって「危険思想」を持つ高官がたくさんおり、時の政治を左右していたことは間違いありません。こうして、アメリカ政府にも日本政府にも共産主義者が跋扈し、政治を動かしていました。そんな中で日米は開国以来、「最大の危機」を迎えていたのです。
3 ハワイ真珠湾攻撃は、山本五十六だけの考えだった
今も尚、謎なのが「なぜ、ハワイ攻撃なのか?」という問題です。アメリカという巨大国家を相手に戦争をしようというのに、日本海軍も日本政府も、何の「策」もないままに開戦劈頭、アメリカの軍事拠点である「ハワイ」を空襲しました。この作戦は、ときの連合艦隊司令長官だった「山本五十六」大将の発案で実施されたものでした。奇襲作戦としては成功を収め、山本は日本の「英雄」になりましたが、この攻撃によってアメリカ国民を怒らせ、日本は悲劇的な最期を迎える第一歩となったのです。それにしても、日本の運命がかかっている大戦争を始めようとしているときに、その作戦を一将官に委ねるというのはどうした理由なのでしょうか。山本五十六は所詮は海軍の一将官であり、政府の要人でも作戦の「決裁者」でもありません。その一軍人が「ハワイを攻撃したい」と言っただけで、国策として決定していいのでしょうか。あり得ません。そんな一軍人個人の判断で国の運命を決められては、国民が納得しないでしょう。それも、大した根拠もなく、ただ「やりたい」の一点張りでした。
通常であれば、そんな異常な指揮官はさっさと退役させて、戦争になれば、輸送艦の艦長でもやらせればいいのです。人事権は海軍大臣にあり、作戦は軍令部総長に決定権があるのですから、山本五十六を「連合艦隊司令長官」から更迭するのは簡単なことだったのです。それを軍令部総長の永野修身は、「山本に辞められては困るから…」といった消極的理由でハワイ攻撃を決裁したと伝わっているのですから驚きです。そんなことは、常識で考えても絶対に「あり得ない」話です。だれが考えても理屈に合わない作戦を現場監督が考えたとして、その人間が辞職を仄めかした…と言ってそれを止めるために「やらせた」とする証言は、永野の苦し紛れの言い訳にしか過ぎないでしう。おそらく、永野は真相を語ることができないために、GHQの質問にそう答えるしかなかったのだと思います。この永野修身は、東京裁判のA級戦犯に指名され、判決を受けることなく独房で獄死しています。GHQにとって大切な証言者であれば、もっと大切に扱ったと思いますが、逆にアメリカにとって不都合な人間であれば、「病死」として処理することは簡単です。それに、永野の死後、その私物が入ったトランクが遺族の下に渡る前に電車の中で紛失したという事実があります。まあ、「盗まれた」のでしょうが、中には、永野の書いたものもあったようですから「闇」は深まるばかりです。
そう考えると、この山本五十六が一人で考えた「ハワイ攻撃」には「裏」があると考えた方が正しいと思います。山本五十六だけを「表」に立たせることで、世間の目を欺き、裏で何かを企んでいた人間は、責任を山本一人に被せ、「知らぬふり」をすることができます。そして、山本五十六が死んでくれれば、真相は闇に葬ることができるのです。事実、山本五十六は、行きたくもない最前線の出向き、アメリカ軍の手によって殺されました。そう考えると、この戦争には何かしらの謀略の影がちらついて離れません。結局、ハワイ攻撃は表面上は日本軍の大勝利に終わりましたが、山本五十六が言うような「アメリカ国民の戦争意欲を削ぐ」ような話は一切なく、逆に「アメリカ国民の戦争意欲を燃え上がらせ」てしまいました。アメリカ人は、喧嘩となれば自ら引っ込むような人たちではありません。「フィロンティア・スピリッツ」といわれるような「開拓魂」があります。それは、温暖な日本にいて外敵が少なかった日本人のスピリッツである「大和魂」以上に、怖ろしい精神力だったのです。
これにより、日米戦争による日本の敗戦は決定的になりました。実際、ハワイを攻撃した海軍の搭乗員たちの中でも、「こんなことをして大丈夫なのか?」という意見を持つ者は多かったようです。戦闘機部隊の指揮官だった飯田房太大尉は、中国との戦争をしているときから、「こんな戦争をしていては、国が滅びる…」と心配をしていたそうです。優秀な彼の頭脳は、間違いなく日本の敗北を予見していたのでしょう。彼は、ハワイ上空で被弾すると、そのままハワイの陸地目がけて自爆しました。映画などでは、格納庫に向かって突っ込んだと言われていますが、実際は、人のいない道路に突っ込んでいたそうです。飯田機は確かに被弾してガソリンが漏れていたそうですが、すぐにでも引き返せば、助かった可能性がありました。攻撃前の打ち合わせでは、不時着地点も示されていたのです。要するに、帰ろうと思えば帰れたはずの被弾でしたが、敢えて自爆したのは、こんな戦争を始めた上層部への抗議の意味があったのかも知れません。実際に、アメリカという国を知っている人から見れば、この作戦は「無謀」としか言いようがなかったのです。
定説では、アメリカはまったく日本軍のハワイ攻撃を予見しておらず、完全な「騙し討ち」によって一方的に被害を被ったことになっていますが、それもあり得ません。日本を経済封鎖で追い詰めたのは、アメリカ政府です。アメリカ政府の国務大臣であるコーデル・ハルが日本政府に「最後通牒」(ハルノート)を通知してきたのも事実です。これによって、日本は開戦を決意したと言われています。そして、この文書は、ルーズベルト大統領が直接命じて日本に出されたもので、アメリカ議会が知るのは、日本の敗戦後だったそうです。つまり、ルーズベルト大統領は、日本を戦争に引っ張り込むために、議会まで騙して日本をとことんまで追い詰めたのですから、「戦争を予見していなかった」はずがありません。当然、「日米開戦が近い…」と判断して、世界中のアメリカ軍基地に警告を発していたはずです。それは、もちろん「ハワイ」にも届いていました。つまり、「臨戦態勢」ができていたのです。事実、ハワイ空襲に参加した搭乗員からは、「ハワイは、空襲直後に素早く応戦してきた…」と語っており、戦争準備が為されていたことがわかります。「騙し討ち」と言ったのは、ルーズベルトがアメリカ議会で言っただけのことで、ことの真相は明らかにされていません。このとき、アメリカ議会もアメリカ国民も、すべてルーズベルトの企みに騙されていたのです。
普通に考えれば、アメリカは国を挙げての情報網を使い、日本の「連合艦隊」の動きを徹底的にマークしていたはずです。「無線の傍受」「暗号の解読」「兵隊たちの動き」…など、監視の眼はあらゆる場所にありました。それでも、アメリカ政府は「何も知らなかった…」という言い訳をするために、情報が入っても、それを各所で共有しなかったのだと思います。それは、飽くまで日本軍に「奇襲攻撃」をさせるためです。アメリカ国民が、外国の戦争に参戦したくない…と言っている以上、こちらから戦争を仕掛けることはできません。そのために、日本を追い詰め、日本から攻撃させるように企んだのです。そして、その場所は「ハワイ」が一番適当でした。これが、フィリピンのアメリカ軍基地なら、アメリカ国民があれほどまでに激高することはなかったでしょう。所詮は、外国にある基地ですから、第三者的に眺めていたかも知れません。しかし、ハワイとなれば話は違います。なぜなら、「ハワイ」は、アメリカの州のひとつであり「国土」なのです。それが、一方的に蹂躙されたとなれば、若者が挙って志願するのは当然でした。それを見てほくそ笑んだのは、大統領のルーズベルトとその側近たちでした。
4 ワシントン大使館員の大不祥事
日本の開戦にあたっては、もうひとつ重大なミスが指摘されています。それも、本当に「ミス」なのか、それとも意図的なものなのかは不明ですが、日本の外務省にとって、明治以降、現代にまで影響を及ぼす「大不祥事」が起きてしまいました。それが、日本政府からの「最後通牒」がハワイ攻撃より後の時刻にアメリカ政府に手渡されたことです。山本五十六は、「くれぐれも、ハワイ攻撃の前には通知してくれ!」と頼んでおいたにも関わらず、日本の外務省、いやワシントンのアメリカ大使館は、その重大な使命を忘れ、アメリカ政府に「日本に騙された」ことを世界に訴えられたのです。しかし、不思議なことに、戦後この問題が国内で問題視されたことはなく、その関係者は、何の処分も受けずに出世したといいますから、これも「怪しい事件」だと言わざるを得ません。
この「ミス」は、非常に単純なものでした。ワシントンの日本大使館にしてみても、当時の日米交渉が苦しい状況に追い込まれていたことは、館員ならだれもが承知していたはずです。もし、交渉が決裂すれば「戦争」になってしまうわけですから、外交官たちは夜も眠れなかったでしょう。まして、日本からの通知は、すべて外務省用の「暗号」で送られてくるわけですから、四六時中、無線機の前で待機していなければなりません。「暗号」は、その「解読書」と照合して文章化しなければなりませんので、時間がかかります。そうなると、専門の担当者が配置され、正確に暗号を読み解き、アメリカ政府に通達する必要があります。まして、どの国でも仮想敵国の「暗号解読」は、国を挙げて取り組む情報戦のひとつです。「外交」とは、それくらい緊張を強いられる仕事で「武器を使用しない戦争」とまで言われています。そんな仕事に携わる外交官が、一番肝腎の日本政府からの「最後通告」の暗号文を放置して、転勤するための職員の送別会に全員で参加していたと言うのです。こんなことが、あり得るはずがありません。暗号文は、当然、アメリカ政府も傍受して解読しているはずですから、大使館としても一分一秒を争う重大な職務です。それを、このときばかりは「宴会」が優先されたというのですから、俄に信じることはできないでしょう。
おそらくは、だれか大物からの指示で「宴会」を開かされたというところが真実だと思います。そして、「こんなことをしている場合じゃない!」と考えていた大使館員を押し止め、上司の権限で足止めをしていたのでしょう。そうでなければ、この「緊張感のなさ」は異常です。さらに言えば、当日は、日曜日のために専門のタイピストがおらず、職員が下手なタイプで解読した文書を整理していて遅れた…ということになっていますが、普通、こんな差し迫った時期にタイピストを休ませる役所はありません。時間外の給与を支給して「待機命令」を出すのが普通です。「日曜日だったから…」という臭い言い訳をしていますが、それを信じたとすれば、日本政府は「素人以下」の集団ということになります。明治、大正と近代国家として国際社会に出ていた日本政府が、このときだけ「素人集団」に化けたのですから、何か大きな権力が動いたとしか考えられないのです。もし、文書が間に合わなかったとしても「内容」がわかるわけですから、野村吉三郎、来栖三郎の両大使は、急ぎアメリカの国務省を訪ね、口頭でもいいから「国交断絶」を国務大臣に告げれば外交上の問題は起きません。何も「宣戦布告」は文書でなければならない決まりはないのです。それも怠り、ハワイが攻撃されて1時間もしてから慌てて国務省に飛び込んでも、恥をかくだけのことでした。国務大臣のコーデル・ハルは、不機嫌そうに、「こんな、恥ずべき文書を見たことがない!」と二人の大使をその場で追い返したそうですが、きっと、心の中では「ばかな奴らだ…」と笑っていたことでしょう。
こうして、日本は国際社会の「ならず者国家」として世界に広く知られることになり、徹底的に潰される口実をアメリカに与えてしまったのです。それでも、この大失態を演じた外交官たちは、戦後、何のお咎めも受けなかったのですから不思議なことがあるものです。おそらく、それを止めたのは、アメリカ政府(若しくはGHQ)でしょう。当時のワシントン大使館の中には、アメリカのスパイが入り込んでおり、アメリカの意図の下に動いて、日本の動きを封じ込めたのだと思います。そして、それを上手に演じたことで将来を約束したのでしょう。日本政府も敗戦後のGHQの命令は絶対でしたから、外務省としても、今さらそれを責めるとGHQからお咎めを受けることがわかっていました。だから、彼らの言うがままに当時のワシントン大使館員を出世させ、「秘密は墓場まで持って行け!」と命じたのだと思います。そうでも考えなければ、何でもかんでも、アメリカの都合のいいようにはなるはずがありません。今でも、日米同盟の裏では、アメリカ政府の意向が日本政府に色濃く反映されていると言われています。それは、依頼などではなく、「命令」に近い指示だと思います。それがいいとか、悪いとか言うつもりはありません。国際政治というものは、そうしたものでしょう。
5 戦後を見れば「謎」は解ける
戦後の日本では、敗戦ということもあって、だれも「真実」を暴こうとする人はいませんでした。なぜなら、そんなことをすれば、戦後の日本社会で生きていくことはできないからです。戦後、7年間にわたって日本を変えたのは、紛れもなくアメリカ政府の意図を汲んだGHQ(連合国軍最高司令部)です。最高司令官は、ダグラス・マッカーサー大将ですが、マッカーサーは元々「日本憎し」で戦った陸軍の指揮官でした。当時の白人の多くは「差別主義者」です。マッカーサーにしてみれば、日本人などは「黄色い顔をした劣等民族」であり、知能も「12歳の少年」程度という認識でした。そんな日本軍に、自分の祖父の代から統治していたフィリピンを追い出された恨みは、ずっと続いていたようです。そのために、日本占領にあたっては、何から何まで自分が気に入るように変える気で日本に乗り込んできたのです。それが、アメリカ政府の意思でもあったのです。そして、行ったのが悪名高き「東京裁判」です。今でも、日本の国会では、この裁判が「合法」だという論が主流ですが、これを否定すれば、アメリカとの同盟関係にヒビが入りますので、口が裂けても否定することはできないのでしょう。しかし、だれが見ても、こんなばかばかしい「復讐裁判」はありません。すべてが、アメリカに都合のいいように創られた「でっち上げ裁判」で、日本人に「悪い政治家や軍人たちに操られた戦争だった」と思い込ませたのです。こんなことを本気で日本の歴史に刻むのですから、「勝てば官軍」というのは本当だと思いました。明治政府もいい加減な歴史を創作しましたが、それ以上に悪辣な歴史を日本人の押し付けたのが「東京裁判」なのです。
当初、このGHQには多くの共産主義者が送りこまれていました。それが、アメリカ政府の意思でもあったのです。不思議なもので、当時のアメリカ政府は、表面上は「民主主義、資本主義」を謳いながら、裏では「共産主義思想」に共鳴しているわけですから、掴み所がありません。日本においても同様ですが、「思想」というものは、その国の柱までシロアリのように食い潰し、いずれは、その国を崩壊させていくのです。日本も戦前は、まさにそうした「共産主義思想」に政界も軍部もマスコミも食い荒らされていたのです。近衛文麿は、昭和20年になって、やっと自分の行った政治の愚かさに気づき、天皇に「近衛上奏文」なる文書を手渡しました。それには、「自分は、共産主義者たちに騙されて政治を行っていた…」旨が書かれていたそうです。それを見た天皇は驚き、「近衛は、自分の都合のいいことばかりを言っている」と、それ以降は相手にされなかったようです。しかし、近衛にしてみれば、自分が共産主義者を利用して自分の権力を高めようとしていたはずが、いつの間にか、自分が利用されていたことに気づかされたのでしょう。彼にしてみれば、共産主義だろうがなんだろうが、華族筆頭の自分が「権力の座」に就ければ、何でもよかったのです。
結局、近衛はGHQの前でも上手く立ち回ろうとしましたが、東京裁判の「A級戦犯」に指名されると、「話が違う?」と驚きました。GHQも最初の頃は、占領政策に近衛を上手く利用しようと考えていたようですが、それほどの利用価値がないことがわかると「戦犯」容疑で逮捕する方針に変更してしまいました。そして、逮捕される寸前に毒を呷って自殺してしまいます。本当に「自殺」かどうかも怪しいものです。近衛ほど、戦前の共産主義者の動向には詳しい者はいません。もし、東京裁判で自分の保身のために、知っていることを洗いざらいばらされたら、それこそ、隠れた共産主義者たちは大変なことになります。そこで、「毒殺説」が生まれるのですが、これも今では闇の中です。ところが、アメリカで大変なことが起こりました。それは、アメリカ議会の議員によって、アメリカ政府内に共産主義者が多数いたことが暴かれてしまったのです。そして、前の大統領のルーズベルトが、ソ連を助けるために共産主義者たちを使っていたこともわかってしまいました。
アメリカにとって、共産主義は「非合法」です。したがって、アメリカには「アメリカ共産党」は認められていません。それなのに、あまりにも多くの共産主義者が政府内にいたことは大問題になったのです。そして、次々と共産主義者たちが捕まっていきました。中には、自殺をした人もいたようです。それをアメリカでは、「レッド・パージ」と呼んでいます。要するに「共産主義者追放運動」です。そして、それは日本にも波及し、GHQからも共産主義者たちが追われました。しかし、それでも、世界に蔓延した共産主義思想を食い止める術はありませんでした。日本においても、共産主義は合法となり、日本共産党が誕生していましたし、GHQの命令で戦争中の指導者はすべて「公職追放」になり、新しい指導者層が形成されていましたので、今さら「レッド・パージ」と言われても、どうしようもありませんでした。アメリカでは非合法でも日本では「合法」なのです。日本国憲法には、「思想・信条の自由」が謳われていますが、歴史を見ると、その思想や信条によって国が覆されることがあったわけですから、日本もいずれこの「憲法」によって、国が滅びるかも知れません。
戦争中、アメリカ政府は中国に過大な期待を寄せ、日本をアジアから追放しようと画策していました。それは、日本が「アジア主義」を唱えて、アジアを「有色人種」の一大派閥にされることを欧米が怖れたからです。日本に残された「八紘一宇」の精神などは、まさに「アジア主義」のスローガンです。けっして侵略戦争を拡大する意味など持ってはいませんでした。差別され続けてきた「アジア」がひとつになって欧米に対抗しようとしたのです。しかし、中国だけは日本と協力しようとはしませんでした。日本がいくら中国に援助し、孫文や蒋介石を助けても「中国は中国」なのです。この「中華思想」は、今の中国にも強く残っていますが、やはり「世界の中心」という強い誇りがあるのでしょう。だから、アメリカがいくら支援しても、最後はアメリカに従属せず、今ではアメリカと敵対しています。そこを読み間違えた日本は、深く中国に関わったために大きなけがをすることになったのです。
戦争中に「援蒋ルート」という言葉がありましたが、当時の「中国国民党」の党首である「蒋介石」をアメリカもイギリスも、そしてドイツも支援していました。ドイツは、日本の同盟国でありながら「武器を売る」目的で国民党軍を支援し、日本との戦争を側面から支援していたのです。第二次上海事変にみるように、ドイツ仕込みの武器と戦術を採る国民党軍との間の戦闘は激しく、日本軍も大きな犠牲を払うことになったのです。同盟国ですらこんな状態ですから、だれが味方でだれが敵かもわかりません。まさに、国際情勢は「複雑怪奇」なのです。そして、日本が戦争に負けると、アメリカは今度は「毛沢東」率いる「中国共産党」をソ連と一緒になって支援するようになりました。つまり、中国を「共産主義国」にするためです。これには、蒋介石も驚きました。今まで、自分を応援してくれたアメリカが、今度はアメリカが嫌いなはずの「共産党」を支援するのですから、訳がわかりません。結局、中国の内戦に敗れた国民党軍は「台湾」に逃れ、「中華民国」を名乗ることになりました。これはこれで、台湾の人々には悲劇だったのです。台湾の言葉に、「犬(日本)が去って豚(中国)が来た」というものがありますが、同じ民族とはいえ、蒋介石の国民党軍は台湾を差別し、圧政を敷いて台湾の人々を従わせたといいます。そして、アメリカがあれほど支援した中国は「中華人民共和国」を建国し、そのアメリカと敵対するようになりました。そして、起こったのが「朝鮮戦争」です。
要するに、日米戦争は、欧米にとって目障りな「日本」という国を国際社会から排除するために仕組まれた「戦争」でした。そして、それは共産主義国にとっても「目障り」な国だったのです。欧米から見れば、日本という国は、「天皇」という「神」の下に国民が一致して「正義」を振りかざす厄介な国に見えていました。農耕民族でありながら、その軍隊は精強で、開国後に「あっ」という間に世界の先進国の仲間入りをしてきました。国際連盟ができると、早速「人種差別撤廃」を言い出し、国際社会を怖れさせました。もし、日本がこれ以上強くなると、これまでのような「植民地主義」が崩壊してしまいます。それに、日本は「軍縮」にも応じようとしません。言語は理解しづらく、その生活習慣も欧米とは大きく異なります。その上、国民は「勤勉」で「賢さ」は欧米人以上かも知れません。さらに、日清戦争、日露戦争に勝利し中国大陸に大きな「権限」を持つようになっていました。そして、欧米諸国にも遠慮がありません。欧米列強にしてみれば、「中国」は大きな市場なのです。しかし、その中国に日本軍が入れば、欧米の権益は日本によって制限を受けることになります。それは、白人至上主義の欧米人には許し難い行為だったのです。
こうした感情の軋轢は、日本人には気づかない部分でもあったのです。「明治維新以降、散々助けてやった日本が、生意気にも一人前の顔をしやがって…」と、国際社会で台頭してくることを怖れたアメリカは、様々な「嫌がらせ」を続けた挙げ句に、日米戦争を仕掛けたのです。「嫌がらせ」とは、「日本人差別」です。明治以降、多くの移民を受け入れていたアメリカでしたが、日本人が勤勉で一所懸命働くようになると、元々のアメリカ人との間に軋轢が生まれました。アメリカという国は、白人社会でしたから、アジアの人たちは現地では差別的な扱いを受けていたのです。そして、アメリカで起きたのが「黄禍論」です。要するに「黄色い禍がやってきた!」というあからさまな差別で日本人を見るようになりました。アメリカという国は、親しくなればなるほど、上手くやれない国なのかも知れません。日本が国力を高めていくにつれて、アメリカ人から笑顔が消え、日本に対して警戒心を抱くようになってきました。日本は、アメリカが大好きなのに、アメリカは日本を警戒していくのです。
それは、一般のアメリカ人と言うよりも、アメリカ政府や大統領を影で操る「国際金融資本家」たちだったのかも知れません。これまで、世界を操ってきた人間たちにしてみれば、「日本」という国は「金に靡かない」嫌な国に見えたことでしょう。日本人は、何でも「天皇のため」に働く民族なのですから、欲得で動かすのは難しかったはずです。そこが、今の政治家とは違います。そうした人間にとって、勝手に伸びてきた「芽」は早々に摘むにかぎります。彼らにとって日本という国は、相当に目障りだったのです。それに、普通のアメリカ人にとっては、自分たちが直接攻撃されなければ、日本と戦争をする理由など、これっぽっちもありませんでした。日米交渉だって、日本ができる限りの「譲歩」の姿勢を見せていたのですから、アメリカ政府に「妥協する」気持ちがあれば、戦争などになるはずがないのです。ただし、共産主義国の「ソビエト連邦」にとって、日本は戦争で敗れた「旧敵」でした。もし、日本がドイツと組んでソ連を攻めて来たら、ソ連は間違いなく崩壊したでしょう。だからこそ、共産主義者たちを総動員して「日本潰し」を画策したのです。そう考えれば、日米戦争が起きた理由もわかります。
6 庶民が見た「大東亜戦争」の時代
戦後、80年近くが経過し、あの大東亜戦争の意味を考える評論が多く出されるようになりました。その多くは歴史学者のものではなく、国際政治学者や小説家、経済学者などの研究者によるものがほとんどだと感じています。ここまで述べたように、あの戦争は「必要のない戦争」でした。日本にとって、明治維新以降、頑張って近代化してきた結果があの「敗戦」ですから、日本の近代化は「失敗」だったと評価せざるを得ません。明治初期の「富国強兵政策」は、やむを得ないとしても、第一次世界大戦後に訪れた「平和への希求の時代」に日本は大きく変われる機会を自ら放棄してしまったのです。世界が「軍縮」に乗り出したとき、日本も陸海軍の人員を整理し「新しい陸海軍」を創るべきでした。それは、軍隊の「近代化」です。いや、日本社会全体が「近代化」するべきだったのです。それが、できなかったのが日本を戦争に向かわせた大きな原因かも知れません。
明治以降の「富国強兵政策」によって、日本は急速な近代化が図られましたが、国民はそれについて行くことができませんでした。あれよあれよ…と言う間に時代が変わり、「文明開化だ!」「近代化だ!」と煽られているうちに武士の世が終わり、いくつもの内戦が落ち着くと次は日清戦争、日露戦争と続き、国民は自分たちが何処に向かって進んでいるのか、正直わからなかったと思います。それでも、日本が戦争に勝てば、ほっとして「日本軍は、強いなあ…」と喜びました。しかし、それで生活が大きく変わったわけではありません。寧ろ、江戸時代よりも税は重くなり、四民平等と言っても差別感は残っていました。農村には、小作農と地主の差は歴然とあり、金持ちと貧乏人も明らかに区別されていました。明治になると、日本にも陸海軍ができ、徴兵によって国民が兵隊になる時代になりました。それも、強制的に軍隊に送られるわけですから、国民にしてみれば「嬉しい話」ではありません。そうして、何もかも「お国の命令」で社会が動き始めて行ったのです。
学校は、これまでの寺子屋や塾とは違い、教師の命令で、まるで「軍隊」か「監獄」にでもいるように厳しい管理が行われていました。勉強も「暗記主義」で、とにかく「覚えること」だらけです。もちろん、記憶力のいい者は得をしますが、そうでない者は「劣等生」という有り難くないレッテルが貼られました。学校は常に「甲・乙・丙・丁」と評価に晒され、学校の勉強ができる者が「優秀者」として誉められました。そして、出来のいい子供は、大人たちから軍隊に入ることを勧められ、軍人として出世することが、家や郷土の「誉れ」となったのです。そのころ、大学や高等学校などの高等教育機関ができましたが、そんな学校は庶民には関係ありません。中学校でさえも地元の地主や商家の子供が行けるだけで、普通の子供は小学校卒で終わりです。そのことについて、特に疑問を持つ者もなく、あったとしても、どんどん新しいことが進む社会にいては、そんな疑問を持ってもどうなる話でもありませんから、だれもが、黙々と社会の動きに合わせる他はありませんでした。
そんな時代ではありましたが、唯一「大正時代」のほんの一時期、明るい華やかな時代が訪れました。それは、第一次世界大戦が終結に向かい、日本が好景気に浮かれていたころです。欧米から「自由主義」の思想が入り、大戦に影響のない日本は「好景気」の中で、欧米の文化がどんどんと入ってきたのです。今でも当時の東京の写真を見ると、モダンボーイ、モダンガールと呼ばれる洋装の格好いい男女の姿が写っています。東京には高層の建築物が建ち、食べる物も豊富でした。学校にも「自由教育」という思想が入り、これまでのような「丸暗記主義」ではなく、「もっと、子供の自由な発想を生かした教育をしよう」という運動が起こりました。このころの教師は進んで新しい教育に取り組むようになり、学校も堅苦しい「管理教育」から抜け出そうとしていたのです。しかし、それも束の間のことで、大正末期に「関東大震災」が起こり首都が壊滅してしまいました。同時にアメリカで大恐慌が起こると、その余波を受けた日本経済は急速に冷え込み、モダンな雰囲気は一気に冷めていったのです。しかし、ほんの一時期であっても、こうした自由の雰囲気を味わった人たちは、戦後も、そんな時代を夢見ていたのです。このころは、軍人も威張ることもできず、軍縮の関係もあって軍人の数も減らされていました。政府も「大戦が終わり、世界は軍縮ムードなんだから、そんなに軍事費に予算をつけなくてもいいよな…?」という雰囲気で、日本でも「軍縮」ムードが漂い、このまま世界に「平和」が訪れるかのような錯覚が生まれていました。
ところが、陸海軍の軍人たちは、そんな軍人の待遇が面白くなく、何とか挽回する術を模索していたのです。軍人たちは、何かといえばすぐに「会合」を持ち、社会に対する不満をぶつけ合い、「もう一度、維新をやろう!」などと物騒なことを考えるようになっていました。そして、いくつもの「派閥」ができていったのです。そして、遂に政治家と一緒になって「統帥権」を持ち出し、「軍事費は、統帥に関する問題だから、政府のいいなりにはならぬ!」と政府に難癖をつけ、何かと言えば「統帥権の干犯だ!」と騒ぎ立てたのです。この「統帥権」は、日本にだけある特殊な法律で、これを行使できるのは「天皇」だけという異質なものでした。だから、日本の軍隊は「天皇の軍隊」とか「皇軍」と言われたのです。しかし、軍事費が政府で決められないとなると、国家予算は計画できませんので、政府は軍部との事前折衝が必要になります。軍部も陸海軍が競い合うように軍事費を要求してきますので、予算が成り立ちません。そんな国内の軍の争いが、国民生活を圧迫していったのです。こんな「縄張り争い」をして啀み合っているところが、日本軍の愚かな部分でした。結局、軍部は、軍縮による「平和」などではなく「勝てる戦争」を欲していたのでしょう。そうすれば、軍の威信が高まり、勲章を兵隊に与えることができるからです。自分たちも出世することができ、軍人はまさに「我が世の春」を満喫できるという寸法です。この判断の「甘さ」が、欧米に付け入る隙を与えたと言っても過言ではありません。
昭和になると、中国とのいざこざが増え、遂にはいくつもの「事変」と呼ばれる戦争が起こりました。このころの中国は、統一政府がなく、広大な大陸の中で「軍閥」が跋扈し、限られた地域を勝手に治めていたのです。その中で、一番大きかったのが蒋介石が率いる「国民党」でした。したがって、日本もこの「国民党」と交渉することになったのですが、なかなか折り合いがつきません。それは、蒋介石側にも問題はありましたが、日本側にも「中国人を差別する」ような言動が見られ、中国に「反日気分」があったからです。日本は、「正当に得た権利だ!」と主張しましたが、中国の民衆にしてみれば、横柄に振る舞う日本に対してよい感情を持つはずがありません。当時の日本人は、こうした人間の心の機微を理解しようとはしませんでした。新聞にもよく「横暴な中国を懲らしめる…」的な記事が掲載され、国民の多くは「中国人なんて、もっと懲らしめてやればいいんだ!」という気分で差別的に見ていたのです。特に軍隊は、その組織上からも「上官は絶対者」であり、上官になった人間の資質もありますが、下級兵などはまさに「奴隷」扱いでした。こうした「前近代的な習慣」は、その後ずっと日本人の課題になったのです。
中国での戦いが続くと、「赤紙一枚(召集令状)」で兵隊に取られた兄や弟、息子たちは、否応なく戦場へと駆り出され、村にも白木の箱が帰ってきて盛大な葬式が行われるようになっていきました。その「村」にしてみれば、国策としての戦争に協力しないわけにはいきません。出征すれば、村中で見送り、戦死すれば、遺骨の凱旋を村中で迎えたのです。それが「お国のため」に尽くした証だったのです。だれもが、国がどういうことになっているかもわからず、新聞に書かれていることくらいしか、情報はありません。ときどき、村長や地主から都会での噂話を聞くくらいで、真相などだれも知らないのです。おそらく、政治家も高級軍人も、真相は知らなかったと思います。彼らも時の勢いで何かを叫んでいるだけで、日本の将来を憂えていた日本人は、「天皇」を除いてはだれもいなかったと思います。それに、政治はは国の偉い人(政治家や役人)がやるもので、一般国民には関係ありません。戦争は、軍人の偉い人がやるもので、国民は兵隊になって命令どおりに戦うだけです。それでも、徴兵検査で「甲種合格」でももらえば、鼻が高かったし、軍隊で上等兵や伍長にでもなれば、村では大出世なのです。中には、戦争から帰ってきて胸にメダル(勲章等)をぶら下げてくる兵隊もいました。そのうち、「日本軍は、世界で一番強い軍隊なんだ!」とか、「日本の海軍には、世界一の軍艦があるんだ!」などと威勢のいい噂話が広まり、遂には「ロシアに勝ったんだから、アメリカにだって、勝てるんじゃないか?」とさえ考えるような空気になっていったのです。
そう言う人も実際のアメリカなんて、見たこともありません。せいぜい、「車が家にあるんだってよ?」とか、「すごく早い汽車が走っているんだって?」くらいで、アメリカの軍事力がどのくらいのものか、知る由もありませんでした。やはり、現実は甘い世界ではありません。中国とのいざこざは、遂には本格的な「戦争」になり、終わりが見えなくなってきていました。陸軍の幹部たちも「半年ほどで、中国は降伏するでしょう?」などと楽観的な報告を天皇にしていましたが、何年経っても解決の糸口さえ見えないのです。そして、軍事費は年々増加し、国民の生活を圧迫していきました。中国には「満州国」なる新しい国ができて、村では移住者を募るようになりました。小作人の次男や三男は、碌に耕す田畑もないため、満州やアメリカ、ブラジルなどに移住して稼ごうとする者も出てきました。または、少し利口な者は、軍隊に志願して下士官にでもなろうと考えました。まさか、「将校」さんになるとまでは考えません。時々、陸軍に志願して行った兵隊が出世して軍馬に乗って街中を闊歩する姿を見て憧れたりしたからです。そのうち、日本はドイツと同盟を結ぶ話が出てきました。「満州国建国」が国際連盟で否定され「名誉ある脱退」などと新聞は書き立てましたが、せっかく、明治以来、国際社会でそれなりの地位を得たのに、日本軍が無理矢理創った「満州国」によって日本は世界の「孤児」になってしまったのです。
要するに、どんな理屈をつけようとも国際社会から見放されては、日本のような国はやっていけるはずがありません。本当は、満州国など放棄しても「国際連盟」に残るべきでした。日本には「臥薪嘗胆」という言葉があるのに、このころの日本は「短気」に見えます。それで、アドルフ・ヒットラーが登場してきた「ドイツ」と同盟する話が出てきたのです。しかし、ドイツは日本から見れば、異質な国で、その上あまりにも遠い国です。本来、同盟を結ぶのならアメリカかイギリスしかなかったはずですが、世界の孤児となった日本には、それしか選択肢がなかったのでしょう。これも国民には、「寝耳に水」でしたが、急速に工業を復活させたドイツは、「第三帝国」を夢見て、第二次世界大戦のきっかけを作ってしまったのです。
ドイツ軍は、電撃的にポーランドに侵攻し占領してしまったことで、世界大戦が始まりました。その近代化された軍隊は、目を見張るような装備で、陸軍の将校たちを虜にしてしまいました。おそらく、「自分たちも、ああなりたい…」と純粋な子供のような気持ちで、ドイツ軍の快進撃を見ていたのだと思います。しかし、それは、アメリカが参戦してくるまでの一時の「幻」だったのです。初戦のドイツ軍の相次ぐ連勝によって、日本人の多くは熱狂的なドイツ贔屓になってしまいました。そして、そのドイツと「同盟」が結べるという話は、国民の話題になり、陸軍は特に熱心に政府に働きかけました。さすがに、同盟を結ぶとなると「統帥権」だけでどうなる話ではありません。巷では、「ドイツは、そのうちヨーロッパ全土を占領するぞ!」という期待を込めた噂になり、だれもが「ドイツのバスに乗り遅れるな!」と騒ぎ立てました。特にマスコミは、挙って同盟賛成論で盛り上がり、慎重派の海軍を罵倒する始末です。
海軍にしてみれば、陸軍の尻馬に乗るような同盟論は面白いはずがありません。それに、ドイツはユダヤ人差別を行っており、それも気に入らない理由のひとつです。日本政府は、国際連盟発足時に「人種差別撤廃」を提議した経験があり、人種差別が当たり前に行われている国際社会に不満を持っていたのです。その上、ドイツ軍は陸軍や空軍には力を入れても、海軍は貧弱で小さな潜水艦(Uボート)が主力でした。そのため、海軍としては、協力しようにも、日本にとってメリットが少ないという判断があったのです。さらに言えば、「こんな同盟を結んでは、アメリカやイギリスを敵に回しかねない…」という本音があります。海軍の仮想敵国は「アメリカ」でしたが、本気でアメリカ海軍と戦う気など海軍にはなかったのです。結局は、世論と陸軍に押される形で「日独伊三国軍事同盟」が結ばれましたが、日本にとって、何一つメリットのない同盟でした。それも、国民は、単にマスコミと陸軍に煽られただけのことで、本音は「どうでもいい…」同盟でした。
そのうち、ラジオから「日米開戦」の報せが流れてきました。まずは「ハワイとマレー半島攻撃成功」のニュースからです。いよいよ、アメリカやイギリスとの戦争です。だれもが、「まさか…?」と思いましたが、「戦艦を何隻沈めた!」「どこどこを占領した!」というニュースが流れると、国民は万歳三唱で喜び合いました。「あのアメリカに勝った!」という報せは、オリンピックで金メダルを取った以上に興奮する報せでした。人々は、他所の世界のゲームを楽しむかのように、戦争の勝利のニュースを一喜一憂して待つようになったのです。それまで、日本はアメリカから経済封鎖を受けており、国民もいつの間にか「憧れのアメリカ」から「意地悪なアメリカ」へと感情が変化していきました。多くの国民は、大正時代の「自由」な雰囲気を知っていましたので、昭和の時代に入った塗炭に「暗黒の世界」に入ったような気がして、気分が鬱屈していたことも事実です。それだけに、日米開戦の報はその将来を心配するより、「いじめっ子をやっつけてやりたい!」という気分の方が強かったのだろうと思います。現実の「戦争」を理解するには、もう少し時間が必要でした。
しかし、その戦争が「怪しい…?」と思うようになったのは、やはり、インテリの大学生や会社員たちからだったと思います。一般の国民は、日々の生活が貧しくなっていくので「おかしい…?」とは思ってはいましたが、「まさか、日本軍が負けている…」などとは思いもよりません。連日、ラジオでは、日本軍の連戦連勝のニュースが流され、時には「玉砕」などと言葉も使われましたが、それは、「頑張って最期まで戦った英雄」の話であり、だれもが「立派だなあ…」と感心こそすれ、日本軍が負け続けているとは思いもしませんでした。それに気づくようになるのは、実際に空襲が始まった昭和20年ころからでしょう。その前に、地域で防空演習が始まり、建物疎開、児童疎開など「あれ…?」と思うようなことが起き始め、だれもが首を傾げ始めたのです。それでも、新聞やラジオは「嘘を吐くはずがない」し、学校でも教師自らが、生徒たちを軍隊に志願するように勧めていましたので、これも、「アメリカやイギリスに勝つためだ!」と思っていたのです。
人間は、「怪しい…」と思っても、周囲がそうするのであれば、自分だけ違うことはできません。まして、日本人は「農耕民族」ですから、周囲に合わせないと生きられないことを、みんな知っています。そうこうするうちに、配給が滞るようになったり、竹槍を作らされるようになったり、村に戻ってくる戦死者の遺骨が増えたりと、怪しいことがどんどん増えていきました。そして、あの暑い盛りのお盆の日に、突然、「天皇陛下のお言葉」を耳にしたのです。こうして、「日本は戦争に負けた」ことを国民は知ることになりましたが、国民の多くは、自ら積極的に戦争を指導したわけではありませんので、「今までのことは、何だったんだ?」と呆れていましたが、すぐに、「まあ、しかたないか…」と銘々が目先の仕事に精を出して働き始めました。もちろん、先々に対する不安はありましたが、「戦争が終わった」ことは、ひとつの安心材料でもありました。それでも、農村部と都会では環境がまったく違いますので、受け止め方は一律ではありませんが、日本の人口で一番多かった農村人々は、敗戦をそんな風に受け止めたのです。
一番苦労をしたのは、都会にいた人々でした。空襲は日本中の都市部を襲い、便利なところに暮らしている人ほど、戦争を実感させられました。空襲で家を焼かれ、家族を殺され、食べる物もなく、本当に戦争の怖ろしさを味わいました。だからこそ、ずっと自分たちを騙し続けた日本の指導者たちを恨み、その家族にまで辛くあたったのです。首相を務めた「東條英機大将」の家族は、随分と周囲からいじめられ、辛い戦後を送ったそうです。特に高級軍人たちは、周囲から蔑まれ、生きて故郷に帰っても居場所もなかったといいます。何も知らない国民を騙して酷い目に遭わせたわけですから、それも仕方がないのかも知れません。しかし、戦場で戦って辛うじて生き残った軍人に対しても世間の風当たりは強く、仕事もなかなか見つからなかったといいます。闇市には、やさぐれた復員兵が屯し、「特攻くずれ」などと揶揄され、殺伐とした生活を送る者も多くいたのです。
結局、アメリカ軍が中心となった占領軍が来ると、多くの日本人は、これを淡々と迎えました。戦争に負けた今、それを素直に受け入れるのが日本人のよさなのかも知れません。戦争中は、国全体が熱病で魘されているかのような興奮状態にありましたが、終わってみると、その熱も冷め、いつもの日常に戻って行くのです。それができるのも、自分自身がこの戦争に積極的に関わっていないからです。家族には戦死した父親や兄弟、息子がいましたが、いつまでも泣いているわけにもいかず、涙を拭いて働き始めました。「生きていく」ことが精一杯の時代です。綺麗事ばかりを言っているわけにもいきません。新聞やラジオは、昨日まで「一億火の玉となって戦おう!」と叫んでいたのに、占領軍が来ると掌を返したように、「新しい日本建設に邁進しよう!」と占領軍の政策を支持しました。ある人は、それを「節操がない」と言いますが、国民の多くに戦争の当事者意識はありません。知らないうちに国の偉い人が始めた戦争です。戦争に負けて終われば、別の「偉い人」が政治を行うだけのことです。そんな割り切りができるのも、日本人のいいところでしょう。
確かに、戦争をした敵国は「アメリカ」ですが、なぜ、戦争になったのかもわからず、何となく過ごしているうちに大騒ぎになっただけのことで、本気でアメリカを憎んでいたわけでもありません。国が「鬼畜米英」と言うから、「そうかな…?」と思うだけのことで、国民にはどっちでもいいのです。兵隊たちにしてみても、戦っている最中は、興奮状態で敵兵であるアメリカ兵を殺しても、罪悪感が生まれるわけではありません。なぜなら、それは「お互い様」だからです。日本兵が捕虜になると、安心したように「よく喋る」と言われていますが、「戦え!」と命令されたから戦っただけのことで、相手が憎くて戦ったわけではありませんから、役目さえ終われば、ただの一市民に戻るだけのことでした。逆に、「リメンバー・パールハーバー」と叫んだアメリカ兵の方が、日本兵より憎しみは強かったと思います。空襲で家族を殺されても、日本人は「戦争」は憎みましたが、敵国であるアメリカを強く憎んだという話は聞きません。日本人は、どこかで「アメリカ人」にも同情していたのだと思います。それは、母親たちを見ればわかります。戦争は勝っても負けても、我が子を失えば、それはその家族にとって最大の「不幸」なのです。戦勝国のアメリカにも何十万もの母親の「涙」はあったのです。
実際に日本を占領し、政治を行ったGHQの幹部たちは、日本人があまりにも従順に従うのに驚きました。あれほど勇敢で、怖ろしい日本軍が一夜にして豹変した思いがしていました。もし、他国なら、こんなに上手く占領政策を進めることはできなかったでしょう。アメリカ兵が何処に行っても、日本人は丁寧にお辞儀をして挨拶をしてくれます。攻撃的な言い方をする人もいません。それだけに、戦場での日本兵の勇猛さが思い出され、「日本人は、二面性があって怖ろしい…」とさえ思ったそうです。しかし、これくらいは日本人にとっては当たり前の姿でした。日本人にしてみれば、政治や軍の偉い人がいなくなっても、特に困ることもありません。政治が占領軍に委ねられても、「そんなものか…?」と眺めて安心することができました。財閥の解体、農地の解放、教育改革、戦争の放棄、民主主義国家の建設…などは、「2.26事件」の青年将校たちが言っていたこととあまり違いがありませんでした。だれもが、「そうなればいいのに…」と思っていたことが、敵国であるアメリカ人によって進められたのですから、特に文句を言う筋合いはなかったのです。
国民にしてみれば、確かに戦争の被害は大きく「戦争」自体は憎むべきものになりました。しかし、戦争を引き起こしたのは、国民ではありません。日本やアメリカの指導者たちなのです。偉い政治家や軍人が「戦争」を起こした当事者であり、その人たちが処罰された今、もう、あの戦争を思い出したくもありませんでした。ただ、戦場で亡くなった家族が痛ましく、その慰霊は続けていかなければなりません。いつの時代も国民は、平穏な日々が続くことを願うばかりです。政府やマスコミは、何かと世間を煽り、問題を提起し続けますが、国民はそんな嫌なニュースを聞きたいわけではないのです。よく、「ちゃんとやってよ…」と言う言い方を日本人はしますが、政治でも何でも「ちゃんとやって」くれさえすれば、文句はないのです。難しい話はさておき、いつまでも「平穏な日常」が続くことを願っているのが、普通の国民の思考だということを忘れてはなりません。
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