このところ、マスコミも「教員志願者激減」のニュースを連日のように報道しています。「学校ブラック化問題」が話題になるようになって約10年。いよいよ、学生の「教員離れ」が顕著になってきました。本来、「教職」は子供たちの憧れの職業のひとつであり、「学校の先生」は子供にとって一番身近な仕事だったはずです。それが、ここまで「忌避」されるようになるとは、日本政府も考えてもいなかったことでしょう。昭和の終わりころに田中角栄首相の登場によって、教師の待遇は劇的に変わりました。それまで、教師の給与は低いままに抑えられており「教師=貧乏」というのが一般的でした。私の若い頃でも、学校の先生は古くて汚い「教職員住宅」(市営・県営)と呼ばれる「長屋住宅」に住み、なんとか暮らしていたものです。当時のマスコミも教師に対して差別的な扱いをして「デモシカ教師」と揶揄して笑っていました。要するに、「他に何もできないから、教師にデモなるか…」「他に何もできないから、教師シカできない…」という意味で、公の新聞紙面を使ってばかにしていたのです。マスコミ関係者は子供時代に余程学校の教師に叱られた人が多かったのでしょう。その「恨み辛み」が、「デモシカ教師」という言い方で溜飲を下げていたのだと思います。このひと言からも、如何、日本の教師が公から「差別」されていたか…わかります。今なら、立派な「人権問題」「職業差別」として社会問題になっていたことでしょう。
ところが、昭和47年に田中角栄氏が総理大臣に就任すると、それまでの「教師」に対する扱いが一変しました。彼は、当時「今太閤」と呼ばれるような出世をした人物として取り上げられ、時代の寵児でした。年齢はまだ50歳前で、溌剌とした若手政治家でした。私などは、まだ中学生でしたが、その著書「日本列島改造論」や「日中国交回復」のニュースは、子供でも知っているくらいで、政治家としては「大スター」だったと思います。その田中首相が、学校の教師にスポットライトを当ててくれたのです。彼は「自分は、尋常高等小学校しか出ていないが、学校の先生には大変お世話になった…」と演説し、それまでの「デモシカ先生論」を吹き飛ばしてくれたのです。その結果、教師の給与は一般公務員より高く設定され、多くの研修の機会を与えてくれたのです。そういう意味では、田中角栄という政治家は、「教師の大恩人」なのです。しかし、残念ながら、それ以降の政治家で「教師のこと」を真剣に考えてくれた政治家は思い当たりません。そのために、半世紀も過ぎた令和の現在、学校は「ブラック企業」並の扱いになり、教師の待遇は酷い有様です。もし、田中角栄時代と同じような感覚の政治家が一人でもいれば、このような事態は招かなかったはずです。「教育は、国の根幹を為す」と言いますが、今の日本は、その「根幹」を忘れてしまったのでしょう。まあ、昔の話をしていても「繰り言」になりますので、今回は、社会が気づいていない日本の教師が持っているその特筆すべき「本能」について持論を述べたいと思います。
マスコミ等は気づいていないかも知れませんが、「デモシカ」と揶揄されていた時代でも「日本の教育」は「世界一」だったと思います。日本人のほとんどは、日本という国の教育を受けて育ちますので、他国と比較することができません。外国の教育を受けた人も、その多くが「上流階級の教育」を受けた人たちで、一般の学校に通った経験のある人は少なかったはずです。それと日本の公教育を比較しても意味はないでしょう。日本でも私立の有名校では、一般の学校とは比較にもならない設備と教師陣を揃え、いわゆる「エリート教育」を施していますので、さぞや「優秀な人間」が育っていることでしょう。しかし、学校嫌いなマスコミが比べるのは、常に日本にとって「不利」になるデータばかりです。戦後続いた日本の教育を壊したのは、いわゆる「国際学力調査」と称される「PISA」による調査でした。それは、「読解力低下問題」でした。そこに眼をつけたマスコミは、野党政治家たちと結託して「子供の学力が下がっている!」と、さらに問題化し、文部科学省が進めていた「ゆとり教育」を潰したのです。マスコミと政治の圧力によって日本の教育は「歪められ」、それ以降、教育は「政治家」と「マスコミ」の政争の道具に使われるようになりました。結果、日本政府や文部科学省は、「教育」と名のつく問題のすべてを「学校と教師」に押し付け、声高に「教育はサービスだ!」と宣言して見せたのです。
これ以降、日本の教育は完全に下降線を辿り、今や「世界一」を誇っていた日本の教育は完全に廃れ、それを支えていた「世界一の教師」たちも絶望感の中で一人去り、二人去りと、今や「世界一」と謳われた教師は死滅状態です。しかし、「世界一の火」は消えましたが、まだ、その燃え滓の奥には、微かな「火種」が残されているはずです。それをもう一度、燃えるような「炎」にするのは、私たち「日本人」の力なのです。マスコミや政治家に煽動される国民では、日本に未来はありません。自らの力で「日本の教育」を取り戻すためには、そんな「火種」を持つ教師たちを応援し、もう一度「世界一」を取り戻す他はありません。教育が再生されれば、多くの子供たちが救われるのです。今の現状を見るとき、本当に子供が気の毒でなりません。自分たちとは関係のないところで、大人の論理で潰されようとしている「学校」に通っているのは、日本の子供たちなのです。学校は、「教師と子供」という人間同士の関わりの中で運営されています。その「教師」がいなくなれば、だれが、子供に教育を施すのでしょう。だれが「愛情」を持って、子供を導いてくれるのでしょう。勝手な大人たちの論理が子供を苦しめているのです。おそらく、心ある日本人の中には、今の現状を憂い、何とかしたいと考えていると思います。もし、それを強く望むのであれば、社会に迎合するのではなく、自分の意思を強く持つべきなのです。そして、小さくてもいいので、日本の教師たちに「応援」のメッセージを送ってあげてください。
1 教師は、「教育」を司る
まず、日本政府に言いたいのは、「教育はサービスではない!」ということです。社会に迎合するように、文部科学省の官僚たちが、いきなり「教育サービス論」を唱えだしたために、日本の教育は坂を転がるようにして崩壊していきました。国民の多くは「えっ、教育ってサービスだったの?」「じゃあ、先生はコンビニの店員と同じじゃない?」「こっちは、サービスを受けているんだから、もっと強く要求しなくちゃ…!」と思うような人は多かったはずです。それまでは、「先生は、教育を行う偉い人」だと思っていたのに、いきなり「サービス業」になったのでは、教師も吃驚です。これ以降、学校や教師は、国民、保護者、子供の風下に置かれることになりました。おそらくは「外国かぶれ」の文部科学省の御用学者が言い出したことでしょうが、それは、日本の「教育の歴史」を学ぼうとしない「似非学者」の戯言でしかありません。どうも、今の政府は、物事を表面的にしか見ない人が多く、すぐに「アメリカでは…」とか「北欧では…」と、自分の国の「粗」を探そうとするあまり、眼が曇っているとしか言いようがありません。それとも、そうした「外交」が戦後の政府の基本姿勢なのかも知れませんので、官僚だけを悪し様に言うことはできませんが、「教育」がサービスというのは、明らかに「間違い」であり、重大な「失策」でした。
英語でいう「サービス」は、日本のような「奉仕」ではないはずです。日本語では、「サービス・奉仕」というと「相手に謙って尽くす」といった「家来・下僕」的な扱いを想像してしまいますので、英語圏の人たちとの意識は相当に違います。今でも「お客様=神様論」を言う人がいますが、これも大きな間違いです。これは、提供する側が「客を丁寧に扱いましょう…」という心構えを諭した言葉であり、客の方が「俺は、神様だ!」と威張り散らす意味ではありません。よく、ばかな日本人が「金を払っているんだから、俺がおまえ等より偉いんだ!」と吠える人がいますが、それは正当な「対価」であって「客が偉い」わけではありません。それに、私なら、たとえ物乞いをしたとしても、そんな傲慢な人間からの「施し」は絶対に断ります。たとえ小売りの店員でも、そんな客には大事な商品は売りません。それと同じように、安易に政府が「サービス」という言葉を遣ったために、日本の教育はとんでもない事態を招いてしまったのです。日本では、古来、「教育」は「自ら学ぶもの」であって、「だれかに施される」ものではありませんでした。まさに、「学ばんと欲するが故に教えを請う」ものなのです。
ここ10年以上、学校の「不登校問題」が取り沙汰されていますが、「教育を受けたくない者」に教育を行うことは本来できません。何らかの理由があって「口を閉ざした者」に、無理やり口をこじ開けることはできないのと同じ理屈です。マスコミなどは、「教育に魅力がないから、子供は学校に行きたがらないのだ…」と、その原因を「学校教育」に問題があるかのように報道し、文部科学省もマスコミの批判を怖れて、それに同調しました。そして、何の策もないままに、「楽しい学校を作れ!」と教師たちに命じたのです。これが「個性化・個別化教育」や「開かれた学校づくり」「コミュニティ・スクール」へと続く、学校改革化の推進事業でした。しかし、そのどれも「成果」を挙げられないままに現在に至っています。その挙げ句、肝腎な「教師志望者」激減といった逆の「成果」を挙げてしまいました。現場感覚からすれば、「不登校」の真の原因は学校にあるのではなく、家庭や社会全体にあると考えるべきなのです。戦後、80年近く経過し、日本の学校教育体制も「金属疲労」した状態になり、小手先の改革などではどうしようもないところまで追い詰められているのですが、意識の低い政治家や官僚たちは「やったことのない改革」など、怖れてだれも手を出したくないのでしょう。それだけ、日本人全体の「質」が低下している証でもあります。
そう分析すると、すぐに、マスコミ等から「責任を転嫁するな!」と叱られそうですが、そのマスコミ自体が劣化している状態で、どの社も自分に都合のいい話しか記事にしませんので、国民の信頼を失っています。そもそも、学校が進めるべき「カリキュラム」は文部科学省が定めており、各学校はその「制約」の中で努力しているのであって、学校が自由にカリキュラムを編成することができるのであれば、もっと「個性豊かな学校づくり」ができるはずです。何もかも、雁字搦めに管理しておいて「魅力ある学校を作れ!」では、政府自身が信頼を失って当然です。付け加えて申せば、「教育課程外の活動」といわれる、本来の業務ではない「部活動」まで、教師のボランティアで賄っている事実を考えれば、政府は日本の教師たちの頑張りを高く評価し、「これまでの日本の教育は、全国の先生方のボランティア精神によって成り立っていたのであり、感謝の言葉しか見つかりません…」と頭を下げるべきなのです。「子供のことは、何でも学校でやります!」では、教育は成り立ちません。それでも、「まだ、努力が足らない!」と言うのであれば、未来永劫、日本に「真の教育」が戻ることはないでしょう。
具体的に言えば、「不登校問題」に対処するには、専門の「カウンセラー」が子供との面談を繰り返し、本人が学校に登校できない問題を少しずつ「解き明かす」必要があります。そして、その問題の原因が「親」自身にあろうと、それに向き合う勇気が「公の立場に立つ人間」には必要なのです。今の政府は、本気で子供を守ろうとしているようには見えません。常に国民の目を気にして、必要以上にマスコミを怖れている姿が哀れに見えます。何かしたくても、肝腎の「予算」は、財務省という役所の官僚たちに牛耳られ、必要な予算すら獲得できない有様です。各学校に当然配置されて然るべき「スクールカウンセラー」や「スクール看護師」「警備員」すら、まったく配置される気配もありません。先進国と肩を並べる教育がしたいのなら、まずは「人員の確保」でしょう。物事のスタートは、「準備を整える」ことにあるのです。こんな精神主義は、先の戦争でその過ちに気づいたはずなのに、未だに政府は「精神論」で学校改革をしようとしているところが滑稽であり、悲しいところです。そして、不登校の子供の「生活環境」を整え、自らが「学びたい・勉強をしたい」という欲求が出てこなければ、いくら学校が変わろうとも「教育を授ける」ことはできません。何よりも、国が予算をつけて必要な人員配置を行い、その上で、「家庭や行政」が子供と真剣に向き合って「学校に安心して通える環境を整える」ことが先決でしょう。
本来、教師は「教育を司る」のが職務であり、「教育の専門職」としての「地位と名誉」が守られなければなりません。それを安易に「子供を教えることなんてだれでもできる…」と傲慢な考えに支配されているのが、日本政府でありマスコミであり、今の多くの「国民」なのです。これを「愚か」と言わずして何と表現して良いかわかりません。教師の「指導技術」は一朝一夕に習得できるほど甘くはありません。まして、今の子供は多くの情報は持っていますが、何をどのように選択し、どう生きていけばいいのかわからずに足掻いています。それは、親だけでなく「社会全体」が日本という国の方向性を見出せないまま迷走しているからです。先日、埼玉県議会で「児童虐待防止」に関するあり得ない「条例案」が自民党議員団から議会に提出された…というニュースを見ました。だれもが、「まさか…あり得ない!」と憤慨するような内容になっていました。それを「県議会議員」とあろう者たちが、異議を挟むことなく易々と「法令化」しようとする神経が既に狂っている証拠です。あんなものが通れば、埼玉県から脱出を計る家族は次々と現れ、埼玉県に暮らそうと思う家族は激減するに違いありません。まさに、「議会の暴走」ですが、「良識の府」でなければならない議会がこれでは、教育のことなど真剣に考えられるわけもありません。結局、裁決寸前で「取り下げ」られましたので、埼玉県は恥を掻かずに済みましたが、まさに、「愚か」を画に描いたような茶番劇でした。
教師の「教育専門技術」には、①授業、②生活指導、③生徒指導、④相談、⑤対外交渉…などがありますが、どれも素人がすぐに習得できる技ではないのです。よく「職人は、10年の修行が必要」と言われますが、まさに、教師も「10年間」必死に研修し、現場での経験を積む中で習得できるものばかりです。それを1年目からの新人教師に期待する方が「無理」というものです。それを、育てるのは、学校の管理職や先輩教師ばかりでなく、子供たちや保護者の温かい「支援」があって初めて身について来るものなのです。昭和の時代までは、それらが上手く機能しており、私などは、どれだけ子供たちや保護者に助けられたかわかりません。もし、今、同じことをしていたら、すぐに管理職や教育委員会から指導され、早々に教職を離れていたと思います。それでも、運がよかったのか、地方教育行政にも携わり、管理職も長く経験したことで身についたことはたくさんあります。慕ってくれる「元教え子」や「元部下」もたくさんできました。しかし、それらが最初からできたわけではないのです。今の社会は、たとえそれが「人間」であろうと、電気製品でも買うように、「悪ければ、すぐに廃棄して買い換える…」ような思考になってしまいました。自分の気にいらなければ、他の子供たちや保護者の気持ちも考えずに、「担任を換えてくれ…」では、けっして子供のためにはなりません。自分の「焦り」を学校や教師に転嫁しても何も生まれないのです。教師も「普通の日本人」が就く仕事です。特別な人間が子供たちを教えているわけではありません。それなら、社会が「見守る・支援する」態度で臨まなければ、「よい教育」は生まれるはずがないのです。
2 子供を優先する「本能」
日本人の多くは「責任感」の強く、自分の与えられた仕事を「最高の形で仕上げたい」と願うものです。そのために、金銭に拘らず黙々と仕事に打ち込み、「一流」となることを目指す人が多いと感じています。それは、日本社会を見れば一目瞭然です。たとえば、日本の「食文化」が優れているのは、職人(料理人)一人一人が「自分の味」を追究し「自分が納得する答え」を導き出そうと努力するからこそ、世界に冠たる「食文化」を創り出すことができました。また、古代からの日本の建築物を見ても、奈良の法隆寺や姫路城、そして現代のスカイツリーまで、その精緻さは世界の追随を許しません。いくら外見は質素であっても、日本の建築物の技術の高さは、見る人が見ればその「優美さ」に憧れを抱くはずです。そして、「教育」も同じように、教師一人一人が必死に研鑽して生み出された「技」が、「世界一の教育」を生み出したのです。そして、その根底には「人間愛」がありました。日本人は、人と争うことを嫌がります。よその人であっても「郷に入れば、郷に従う」のをルールとし、そのルールに従えば「仲間」として認め合える社会なのです。
日本人は「責任感」があり、欧米や中国のような「個人主義社会」で育っていません。よく、「日本人は個性がない…」といった言われ方をしますが、その「没個性」こそが、日本人の特性なのです。つまり、その「組織」なり「集団」の中にいて力を発揮し、「全体を押し上げる能力」に長けているということです。そのため、特に自分だけ目立つことを好まず、自分の功績であっても、全体に譲るのを「美徳」としていました。こうした教師なればこそ、自分の受け持った子供を愛し、仕事以上に子供の「将来」を心配して面倒を看てきたのです。おそらく、今ではこの「面倒を看る」行為そのものが否定されるのでしょう。「教師は、学校の仕事だけをやっていればいいんだ…」「子供の面倒を看るのは、教師の仕事ではない」と言われるかも知れません。しかし、人の「愛情」というものは、そんなに単純に割り切れるものではなく「親身になって」関わるからこそ、子供は教師に心を開き、素直に伸びようとするものなのです。しかし、それを「するな!」と言われれば、子供との関係も希薄になり、子供は益々「孤独感」を増して行くことでしょう。子供にとって「親」は絶対に信頼できる存在ではありません。「児童虐待」にまで至らなくても、親の気紛れで子供が辛い状況に陥っていることはよくあるこのです。たとえ、それが一時的なものであっても、その瞬間に「支え」られる教師こそが、子供に求められる存在といえるのです。
そうした人間らしい「愛情」を持った教師たちも、「学校ブラック化問題」や「働き方改革」の前に、為す術なく教壇を去って行きました。「もう、自分のやり方は通用しないんだな…?」という諦めに似た気持ちで、職場を去った元教師たちは、二度と教壇に立とうとは思わないでしょう。「自分が必要とされない場所」に平気で立てるほど、人間は傲慢ではありません。一生懸命、子供の未来を考えて行動した行為が、日本社会から「余計なこと…」と断じられれば、もう、その元教師たちは口を閉ざすだけのことです。今、学校現場では「教師不足」が深刻化していますが、一度、信頼を失った「公教育」に足を踏み入れる人間はいません。それもこれも、国がそうさせてしまったのです。この国の施政者は「愚か」です。戦後も80年近く経とうとしているにも拘わらず、7年間の「占領政策」の呪縛から脱することができず、いつまでも「敗戦主義」的な政治を行っています。唯一、安倍晋三元総理だけが「戦後体制からの脱却」を宣言しましたが、その安倍晋三氏は、凶弾に倒れ今はいません。そして、その志を継ぐ政治家もいません。まさに「愚か」な時代を迎えたのです。これからの日本社会は、最早、政治やマスコミに頼って生きていくことはできません。自らの頭で考え、家族や仲間と知恵を出し合い、自らの「意思」で決定して行動する「生きる力」が必要なのです。それは、子供たちも同じだということです。
3 日本の教育を取り戻す
日本の歴史の中で、教育がここまで混乱した時代はなかったように思います。敗戦後の混乱期でさえ、子供たちは学ぶ場を欲し、親たちは、子供に教育を授けようと必死でした。確かに、日本の教育は混乱し戦前からの教師の多くは、敗戦と同時に教壇を去って行きました。それでも、「日本の復興のため」という大義はあったのです。だれもがその日の暮らしを考えるだけで精一杯の時代です。教育にまで行政の手は回りませんでした。しかし、日本の教師たちは、何とか校舎を整頓し授業を再開したのです。自分たちだって生活に苦しく、子供たちの面倒まで看られない状況ではありましたが、「学校再開」は、焼け跡からの日本再生の第一歩となったのです。しかし、今の教育の混乱には、未来を見据えた「大義」がありません。本当は、「第五次産業革命」と呼ばれる時代に「日本人として、どう立ち向かうか」という大義があったはずです。しかし、政府は学校にも子供たちにも、その「大義」を示すことができませんでした。急速に変化する世界の波に遅れないようにと必死にコンピュータを教え、英語を教えようとしていますが、それは飽くまでも「方法論」であり「大義」にはなりません。「大義」とは、未来に向けた「目標」です。「そのためなら、歯を食いしばってでも勉強をするぞ!」という「大目標」がなければ、人の心は動かないのです。
戦後、日本という国は戦勝国であるアメリカの同盟国として生きてきました。それは、恰も新しいアメリカの「アジア州」にようにさえ見えます。このアメリカ追随型の政治が、日本人から「自立心」を奪ったのかも知れません。もし、日本がこれからの時代を「日本人らしく生きよう」とするのなら、日本は世界の目標となる「道義国家」になるべきなのです。日本人は、自分たちが持っている「すばらしい財産」を正当に評価することが苦手です。外国から指摘されて初めて「あ、そうだったのか…?」と考え直しますが、自分の手の中にあるにも関わらず、それをしっかり見ようとしないのです。私のいう「道義国家」とは、外国人が日本人の美徳として賞賛する「文化」を日本人がもう一度「評価」し直すことにあります。今のマスコミは、戦後ずっと日本人を卑下し、外国を賞賛することで「社会のリーダー」になろうとしてきました。確かに、昭和の時代はそれも通用しましたが、今でも同じ思考では、もう国民はついてはきません。既に「新聞」はその発行部数を減らし続け、企業として破綻寸前まで来ています。「テレビ」も多くのスポンサーが離れ、若者の多くはインターネットで情報を得るようになってしまいました。「出版」業界も本や雑誌が売れず、町から書店が次々と姿を消しています。なぜなら、最早、それらに「真実」を伝えようとする姿勢が見られないからです。「とにかく、売れればいい…」となったマスコミは、書かれている記事も劣化し、「記者」を称する人たちの品性も疑われるようになりました。マスコミも、自己変革の時を迎えようとしているのです。
それなら、自分たちの持っている「技術・手法」を用いて「日本のすばらしさ」を世界に発信したらいいのではないでしょうか。そして、国民が一致して「美しい日本を見直す運動」を展開すればいいのです。そうなったとき、教育は自ずと「復活」するはずです。人間の気持ちが一番昂揚するのは、①自分が他者から高く評価されたとき、と②自分の行為が「世のため、人のため」になっていると気づいたとき、だと私は思います。ところが、今の日本の教育にはそれがありません。それどころか、今、社会のニュースを見ていて、この二つを見ることがほとんどないのです。世の中は「格差社会」と呼ばれるように、国民の中でも中間層が減り、二極化が進んでいます。政治は「増税」ありきで進んでいるように見えますし、世界でも各地で戦争やら紛争が起きており、中国や北朝鮮、韓国などの「反日国」が日本に牙を剝いています。学校でも「いじめ」や「不登校」が増加し、学校でどんな対策を打っても何一つ効果を挙げられていません。これは、文部科学省も同じです。こんな有様では「高い評価」が教育界に下されることはなく、教師も子供も「世のため、人のため」どころか、「自分のため」にもならない毎日を送っています。まったく、八方塞がりで「打つ手なし」の状況が続いているのです。
どうも日本人は「自己肯定感」が低い民族のようで、常に「悲観的」な情報を発信することが「冷静」で「客観的態度」と見られるようです。そのために、評論家も政治家も、常に眉間に皺を寄せ、喜怒哀楽をできるだけ見せないようにして言葉を選びます。そのために、何かしら「冷たさ」のようなものを感じ、親しみを持つことができません。このような態度では、どんなに英語を習得しても外国人のように振る舞うことはできないでしょう。昔から、日本人は「能面のようだ…」とか、「何を考えているかわからない…」などと言われてきましたが、その態度は、今でも変わらないようです。これからの時代に必要な能力は、「コミュニケーション力だ…」と言われているのですから、いつもネガティブな話題ばかりせずに、少しくらいはポジティブな話題で楽しんでもいいような気がします。「暗い時代だからこそ、明るい話題を…」といった精神で、日本のよさを発信していくことが、「AI時代」を乗り切る方法だと感じています。
そのためには、教育においても「日本の教育のすばらしさ」を政府主導でマスコミと一緒になって発信していくことです。情報なら、文部科学省自らが募集をしてみたらどうでしょう。きっと、多くの日本人が、自分のエピソードを踏まえて投稿してくれるはずです。教師自身からの投稿もいいでしょう。「自分の考える日本の教育改革」というテーマで論文を募集してもいいと思います。現場で毎日、子供たちと接している教師ならば、文部官僚などよりずっと具体的な方策が示されるはずです。教育というものは、頭で考えるより「心」で感じる部分の方が大きく、子供たちは変な理屈よりも、教師の「熱い気持ち」に共感するものなのです。そのことを日本の文部官僚や教育学者はどうも忘れているようです。
4 日本の教師の「教育技術」
(1)「授業」は職人の技
全国の教育委員会では、教師不足が深刻化したためか、あたふたと「取り敢えず何でも作戦」を展開していますが、そんな「付け焼き刃」で優秀な教師が集まるわけはありません。文部科学省も悪名高い「免許更新制」を廃止しましたが、そんなのは、当初から「無茶」なことはだれもが知っていました。単に政府与党の中で、組合系教職員を憎んだ政治家が企んだ「組合組織壊滅作戦」だったのです。確かに、彼らが目論んだとおり教職員の「組合組織率」は低下し、組織として機能しないまでに破壊されてしまいましたが、後遺症として「学校ブラック化問題」が起きてしまったのです。つまり、一部の「悪い教師」を排除しようとして、多くの「いい教師」まで潰してしまったのが、この「免許更新制」でした。そのために、今や、「高度な教育技術」を持つ教師は激減し、若い教師や中途採用の教師は、まさに「素人集団」の域を出ません。なぜなら、この教育技術を身に付けるのは至難で、研鑽を積んだ教師が長年かけて編み出した「職人技」なのです。故に、一朝一夕で身につくはずもないのです。それも、経験を積めば習得できるほど甘いものではなく、おそらく、こんな技術を持つ教師は、昭和の時代でも、全体の「1割」ほどであったろうと思います。そんな教育技術の中で、突出しているのが、この「授業」に関する技術なのです。これが、できれば、他のことはそれほど難しくはありません。「教師は、授業ができてなんぼ…」の商売だということです。しかし、今では、全国の中でそんな技術を持つ教師は「1%」もいないのではないでしょうか。その「100人に一人」も、間もなく消え去ろうとしています。
そもそも、小学校で「授業」といえば、全教科・領域にわたって「一人」の学級担任が行うことになっています。それをやったこともない「学者(大学教授)」連中が、上から目線で「ああでもない、こうでもない…」とやるのですから、日本の教育学会も大したレベルではありません。私も「大学教授」とやらが行った授業を参観したことがありますが、「なんだ、この程度か…」と心の中で笑っていたことを思い出します。日本人はこうした「権威」に弱いので、碌に授業のできない「学者」であっても、肩書きが立派だと「そんなものか…?」と変に感心してしまうところがあります。私たちは、子供のころから、親や教師の言うことは「絶対」だと教え込まれていましたので、妙な理屈でも「鵜呑み」にしてしまうのが、日本人の悪いところなのでしょう。しかし、「授業技術」の高い教師は、そんな理屈は見向きもせずに、ひたすら、自分の「力」を磨き続けました。それは、「生まれ持ったセンス」が大きく作用する世界であり、毎日の勉強と経験がプラスされたとき、「センス」が開花するものなのでしょう。しかし、それが実現したとしても、わかるのは「本人と子供たち」だけの世界ですから、国民の多くが知らないのは無理もありません。
実を言うと、「授業の上手い」教師は、そのテクニックより「脳内の引き出し」が他の人より格段に多く持っているものなのです。それは、教師になってから身についたものより、子供のころからの「読書」によって培われた「能力」と言っていいはずです。どうも、日本社会は戦後「学歴信仰」が強すぎて、基礎的な「地頭のよさ」を軽視しがちです。この「地頭(じあたま)」は、必ずしも「学校学力」に直結しているわけではありません。「学校学力」は、教科書に書かれていることをどれだけマスターしたかにかかっており、あまり「深い思考」を求めてはいません。なぜなら、「教科書」は既に社会で認知されている事象を書いている「基礎的学習資料」であって、人間の「深い思考」を計るものではないからです。しかし、現実社会は、想定外のことばかりが起こる毎日です。だれもが考えるような「想定内思考」では、新しい発見も発明もできません。常に「二番煎じ」の茶を飲むだけの「凡人」を創るだけのことです。それを「優秀」とレッテルを貼るのは構いませんが、それは「安定した時代」だけの「学校学力神話」でしょう。
確かに、「平均的な凡人」を育てるだけの教育でよければ、「学校学力」のみで教えても支障はないはずですが、そんな「授業」が楽しいはずがありません。子供たち全員が「想定」している「解」を教えてもらっても、それほどの喜びにはならないのです。人間は、常に「新しさ」に気づいたときに脳が激しく動揺し、それを喜びと感じる性質があります。いわゆる受験勉強が「苦行」と言われるのは、ひたすら、過去に解き明かされた事象を覚えるだけの「単調作業」だからです。それを周囲から「それが、勉強だ!」と言われるもんだから、子供たちは「勉強嫌い」になっていくのです。これは、教師も同じです。もし、この「単調作業学習」を勉強と捉えているとしたら、その教師が受け持つ学級は、間違いなく「崩壊の危機」を迎えるはずです。要するに、「受験用の勉強」だけしか教えられない教師など、子供にはまったく不要なのです。「先生の授業、つまんないや!」「もっと、楽しい授業やってよ!」という怨嗟の声が教室内に響き、それに応えられない教師に「ついていこう…」とする子供はいないということです。それは、その教師の「人間性」には関係ないのです。
ところが、脳内の多くの「引き出し」を持った教師は、子供の要求に応えて、次々と魔法のような「問い」を発することができます。たとえば、国語の物語を勉強していたとして、その教師が多くの文学書を読み、自ら小説を書くような人であったら…どうでしょう。つまらない「赤本」片手に解説をする教師より、自らの体験をとおした「文学談義」の方がずっと楽しいはずです。私も若い頃、とても優秀な女子児童を担任したことがあります。卒業して日本トップクラスの私立中学校に進学していきましたが、その子の父親に卒業後にお会いしたとき、「〇〇さんは、私の授業では物足らなかったのではないですか?」と尋ねたところ、その父親は、「いや、うちの子は先生の授業を楽しみにしていました。なぜなら、進学塾でも聞いたことがない面白い話をたくさん聞かせてくれた…からだと言っていました」と返答されたのです。まだ、未熟な時代のエピソードですが、確かに、そのころの私は、子供のころからの「読書」の習慣があったために、授業中、よく「脱線」することがありました。それを「楽しみ」にしている子供がいたことに安堵したものです。それ以降、私の「脳の引き出し」はどんどんと作られていったような気がします。
「授業」は、常にアイデア勝負です。その「アイデア」も、コピペでは自分のものにはなりません。そして、授業の前に「準備」をしておけるものでもないのです。授業の中で子供とやり取りをしているうちに「ひらめく」ものであって、その「閃き」があった瞬間に「脳内の引き出し」が開き始めるのですから、自分でもコントロールはできません。そして、自分の多くの「引き出し」の中から見つけ出した「ヒント」だけが、自分の授業に使えるのです。「授業の上手い教師」は、その「脳内引き出し」が多い人を指します。一度、引き出しが開き始めると、次から次とヒントが出始め、授業に「リズム」が生まれます。そうなると、教師だけでなく子供たちも乗り始め、面白授業が生まれるのです。これは、経験をした者しかわからない喜びなのです。
(2)「生活指導」は、真の愛情
学校生活で、子供たちがやらなければならないことはたくさんあります。それは、学年が上がるにつれて多くなり、6年生になると、学校の教職員と同じような「スタッフ」として働くようになります。このことを経験しておかないと、自分が集団や組織の「リーダー」になったとき、能動的な働きができなくなり、集団をまとめられなくなるからです。最近、若い人たちが就職しても「管理職」を目指さない…といったニュースを聴きますが、それは、「管理職になるメリットがない」とか、「管理職は忙しいだけ…」といった理由があるそうですが、私から見れば、「その前に、管理職としての振るまい方がわからない…からでしょう?」と言いたいところです。これは、実は、国にとっても大変大きな問題を孕んでいます。それは、この考えでは、「家族の長にもなれない」と言っているように聞こえるからです。結婚をして家族を持てば、自ずと子供が産まれ、親は子供に対して「責任」を持つことになります。夫は、妻に対しても責任が生じます。それは「お互い」に言えることですが、その「家族を守る」ための覚悟のないままに結婚すれば、問題が生じた時点で関係は壊れるような気がします。皆さんは、「家族に対して責任を持ちたくない父親(母親)・夫(妻)」と一緒に暮らしていけますか。そんなことになれば、子供は不幸です。「責任を持つ」ということは、大人になれば自然と身につく能力ではなく、子供のころから「責任のあり方」について学んでいたからこそ、大人になって仕事でも家庭でも「責任」を全うすることができるのです。
政治家の中にも、こうした「リーダーとしての素養」のない人を多く見かけます。選挙演説中の言葉は立派ですが、「いざ!」となったとき、腰が引けてまともな行動がとれない人たちです。言い訳がましい言葉は多く持っているようですが、眼が泳いでおり、「覚悟」がまったく見えません。「のらりくらり…」というか、「記憶にありません…」と言って逃げるか、とにかく、「自分はこうしたい!」というメッセージ性に乏しいため、時間ばかりが過ぎて行き、眼は「誰か助けてよ…」と訴えかけています。これでは、「危機管理」は任せられません。これは、社会の責任でもありますが、学校で育ててこなかったことも原因しているように思います。今の時代は、「子供を鍛える」ことをしなくなりました。何でも「かわいそう…」といった感情が先に立ち、厳しい指導を「酷い扱い」と受け止める傾向があります。教師の方が、そんな意識はなくても、周囲の人たちが「あんなにしなくても…」と噂にでもなれば、自分の進退さえ危うくなる時代ですから、だれもが「遠慮」した指導にならざるを得ないのです。
何も「理不尽」なことをやらせているわけでもなく、「虐待」をしているわけでもないのに、理由も聞かず「子供がかわいそう…」では、何もできません。教師が、「今、厳しく鍛えておかないと困るだろうに…」と思っていても、上から「やめておけ!」と命じられれば、黙って引き下がるしかないのです。しかし、「鍛錬」という言葉があるように「鉄は熱いうちに打つ」のが基本なのは、今も昔も変わらないはずです。それができなくなったとき、教師は「無力感」に苛まれ、自分の仕事に誇りを持てないで教壇を去っていくことになるです。教師を「生かすも殺すも」そんな社会風潮なのかも知れません。
子供の生活は、必ずしも「望ましい姿」ばかりではありません。親によっては、十分に面倒が看られない家庭もあり、生活で精一杯で子供に「時間」をかけられない人もいます。同情はしますが、どんな言い訳をしたところで、子供の生活が乱れれば、子供(人間)は「健全」に育つことはできないのです。それを教師が気づいたとしても、今の時代は「そっと、見守れ!」と言われます。余計なことをして親を怒らせれば、教育委員会や文部科学省が動き、一教員の進退などどうにでもなってしまうのです。それに抵抗しようとすれば、否応なしに「懲戒処分」をちらつかせ「我慢しろ!」と言うばかりです。そんな親が家庭内で「虐待」をしているかも知れないのに、問題を大きくしたくない上部機関は、必ず「我慢しろ…」「謝罪しろ…」と命じてきます。物事の真実も見ないままに、親が怒り、議員が動き、マスコミ沙汰にでもなれば、それに抗する力は「役所」にはありません。どんな理由があれ「子供が学校に来ない」理由が教師にあれば、それで身の破滅なのです。今の日本は、事実でないことも、ネガティブな「噂」ひとつで責任ある立場の者を社会から葬ることができます。後から真実が明かされたとしても、一度着いた「汚点」は、簡単に消えるものではありません。子供に真剣に向かえば向き合うほど、窮地に追い込まれる社会でいいのでしょうか。そのことが残念でなりません。
「生活」を整えさせるためには、常に「リズム」が必要になります。人間だれしも、生活リズムが崩れたまま「心と体の健康」を保つことはできません。大人でさえ、難しいのに、子供の生活リズムが崩れれば、健康だけでなく、すべての機能が麻痺してしまいます。この「リズム」を作れなかった責任は学校にあるのではなく、すべて「家庭」にあることを忘れないでください。これを「虐待」と言います。親の都合がどうかはわかりませんが、子供の「生活リズム」を整える努力もせずに、自分勝手に子育てをして、失敗すると「責任」を社会や学校に押し付けるような親は、「親」として失格なのです。それを恰も「教師の指導が悪かった…」と表明してしまうのは、教師への「侮辱」であり、重大な「人権問題」に当たるのではないでしょうか。こんな考えだから、日本の児童虐待問題は一向に減少しないのです。若し、教師に子供の教育を「全面的に指導できる権限」を与えてもらえれば、今の日本の子供たちは「10年」で見違えるように立派になっているはずです。しかし、それを今の日本人が望んでいるかどうかはわかりません。「子供時代は自由でのびのびと育ち、大人になってからは、自分らしい生き方を探す旅に出よう」という時代では、私たちがいう「立派な人間」など、不要なのかも知れません。
(3)「生徒指導」は、心の教育
子供たちの中には、複雑な家庭環境が原因となって「問題行動」を取ってしまう者がいます。文部科学省は、すぐに「家庭と連携して対応すること」と安易に言いますが、その「家庭」が問題なのですから、どうやって「連携しろ」と言うのでしょう。昭和のころの感覚のまま言い続けているとしたら、認識不足も甚だしいと思います。若い教師の中には学校でトラブルが起きると、すぐに家庭に電話をして、その親に「包み隠さず」報告した上「指導」を要請する人がいますが、本当にそれで大丈夫でしょうか。中には、親から厳しい叱責を受けた挙げ句、「体罰」を受ける子供もいるのです。そうした子供は、翌日学校に登校してきたとしても、もう担任教師には心を開かなくなることでしょう。なぜなら、「先生は、僕(わたし)を守ってくれなかった…」という恨みに似た絶望感が心を支配しているからです。教師は、マニュアルに則って「保護者と連携」して解決しょうとしただけで、「何も悪いことはしていない…」と思うのでしょうが、子供のことなどまったく考えてもいません。そんな「マニュアル教師」に頼る子供がいるはずがありません。こうしたことを繰り返すと、その教師は子供たちから「あいつは、だめだ…」と呆れられて、真面に話を聞こうとしなくなります。子供の中には、強い「正義感」を持つ者や「冷静」に物事を判断できる者もいます。「大人は、すべてにおいて子供に勝る」といった概念がありますが、実際、子供と接してみると、その辺の大人以上に「賢い者」が多くいることに驚かされます。大人は、子供の「見た目」で判断しがちですが、それも、今流にいえば「差別」なのではないでしょうか。子供は大人をよく観察しています。そして、その子供たちの判断は大人以上に「正しい」と私は思います。子供は、「教師が、どっちを向いて仕事をしてるか…」ということを見極めるのが得意なのです。そんな子供たちに「嘘」はつけません。
子供に信用してほしければ、常に「子供の側に立って」仕事をすることです。それは、単に子供に阿る話ではありません。「子供の側」とは、その子の性格、能力、長所・短所を知り、その子の家庭環境、親の考え方や性格などを知ることです。それがわかっていれば、自ずと「対応」は個々に異なって当然なのです。それを、だれが作ったかもわからない「公的マニュアル」で済まそうとするから、話が厄介になるのです。もちろん、賢くない管理職は、常に教育委員会や「公的マニュアル」に従って仕事をしたがりますが、それは、その管理職が「無能」な証拠です。そして、自分が学級担任時代に学級をまとめられなかった証拠でもあるのです。大人の集団は、それでも「大人の判断」をしますが、子供は自分の将来がかかってますので、大人の都合に自分を合わせることはしません。それは、子供の「生存本能」というべき「六感」なのかも知れません。「生きる力」が強い子供ほど、嗅覚に優れ、危険な大人には近づかないものです。それを理解できなければ、教師は務まらないと知るべきです。
真の「生徒指導」は、子供の「心」にどれだけ寄り添えるかにかかっています。権威や権力に阿った判断をすれば、即、子供に見抜かれ、その教師は信頼を失います。教師も大人ですから、できれば「組織」に逆らうようなことはしたくないし、「親の意向」に逆らうような真似はしたくないものです。以前、児童虐待死事件でこんながことがありました。当自治体の教育委員会の課長が当該児童の父親の圧力に屈し、子供の提出した「アンケート用紙」をその父親に見せたことで、父親が激怒し、子供が虐待を受けた挙げ句殺された事件です。あまりにも悲惨な事件でしたので覚えてる人も多いと思いますが、この「アンケート用紙」は「親にも見せない」ことを前提に書かせたものでした。そのことを十分にわかっていた「課長」ですが、父親を名乗る男の剣幕に恐れおののいて、自らルールを破ってしまったのです。これぞ、まさに大人の「保身」の極みです。まして、この課長は、学校からの出向で教育委員会に来ていた「元校長職」だった人間です。この課長が如何に「子供に寄り添うことなく」今まで教育の世界でやってきたかがわかるというものです。今は、定年退職を迎え、一老人として「年金暮らし」をしているのでしょうが、自分の判断の誤りで、間接的にでも「子供を殺した」事実からは逃れようもありません。おそらく、後悔の念に苛まれた老後を送ることになるでしょう。また、そうであって欲しいと思います。「子供に寄り添う」とは、本当に「覚悟」がいるものなのです。
(4)「相談能力」は、カウンセラー以上
昔から、学校は地域や保護者、子供たちが唯一「相談」できる場所でもありました。学校制度ができたころ、教壇に立ったのは「寺子屋」時代の師匠たちでした。寺の住職や元武士、塾を終えた青年など、その地域の「インテリ」が学校の教師に採用されたのです。そうした人たちは、寺子屋時代からの経験があり、日本の教育制度は、そんなに混乱することなく進められていきました。そのために、地域の人々は、困ったことがあると地主や学校の教師を頼ったのです。特に子供やその親たちは、「子供に関すること」は、専ら学校頼みだったはずです。その伝統があるために、今でも多くの相談が学校に寄せられます。マスコミは、散々学校を叩き、教師を貶めようとキャンペーンを張っていますが、本当に「困った人」は、やはり「学校の教師」しか、相談する場所はないのです。今、マスコミに「権力」があることがわかってきたためか、学校の問題を喜んで新聞社に「売り込む」人たちがいますが、マスコミの人たちも「自分の不満の捌け口」に利用されていることに早く気づくべきです。匿名でマスコミに情報をもたらし、記事になってほくそ笑んでいる人の姿は、けっして「健全」とは思わないでしょう。
それでも、多くの保護者は学校を頼り、教師に「子供の相談」をします。教師としても親に頼られるのは嬉しいものですが、ただ、現在、そんな相談に適切に対応できる「教師」が、どのくらい残されているのでしょう。「学校ブラック化問題」が騒がれて以降、多くの教師が教壇を去り、頼まれても戻ろうとしな現実があります。その中で、頭数さえ足らず四苦八苦している学校が「相談機関」としての機能を残しているかどうか、甚だ疑問です。たとえ、子供のこととはいえ、問題解決は簡単ではありません。「友人関係」「家庭問題」「進路関係」「学力問題」…等、教師はそれらに対応できるための経験と知識、情報を持っている必要があるのです。最近、学校に「カウンセラー」がときどき来校するようになりましたが、「たまに来る」カウンセラーが、どの程度戦力になっているかは不明です。「話を聞くだけで終わり」というケースも多く見られ、カウンセラーたちも「常勤にしてほしい…」と訴えていますが、文部科学省も財務省もその気はないようです。
先進国なら当然「スクール・カウンセラー」が配置されているところが、日本は、それすらも予算を確保しません。大学院まで出て「臨床心理士」の資格まで取っても、彼らにはまともな就職先がないのです。法科大学院もそうですが、何でも先進国に倣ってそういった「資格」を取る機会は設けますが、その後のことは「勝手にどうぞ!」では、社会が整備されるはずがありません。そのために、日本の教師は「臨床心理士」的な仕事までこなしています。言い方を変えれば、四六時中子供と接し、本人の性格から能力、家庭環境まで把握している教師が「カウンセリング」までするのですから、下手な「カウンセラー」より適切な助言ができて当然です。それなら、それに見合う待遇を与えればいいのですが、政府にそのつもりはありません。「金をかけずに効果だけは期待する…」なんていう虫のいい発想は、何処から出て来るのでしょう。封建時代の大名でさえやらないようなことを平気で命じる「日本政府」こそが「ブラック化」しているのです。
一流の教師になると、自分の学級経営と相談技術によって「学級」を力強い「組織」へと変貌させてしまいます。子供たちも人間です。「自分の生きる道」を指し示してくれる教師には全面的な信頼を寄せ、自分の持てる力を十分に発揮させるための「エンジン」が動き出すのです。それが、子供が本来持っている「生きる力」なのです。文部科学省は、「生きる力の育成」を提唱しながら、それを目指す方向性を示すことができませんでした。人間は、だれしも「よりよい未来」を模索し続けるものです。しかし、その「よりよい未来」が何処にあるのかわからないために迷うのです。ある者は、それを「学力」に求め、塾通いをして「学歴」を手に入れようとしますが、そんなものが通用する未来など、もう二度と現れることはありません。ある者は、自分の才能を活かし、芸能界やスポーツ界で活躍するために、多くの時間をそのための「練習」に費やしますが、その成功者は、才能のある者の「1割」にも満たないのです。では、子供たちは何を目標に頑張ればいいのでしょう。その「目標」を与えられる者こそが、一流の「教師」なのです。
人間が迷うことなく生きるために必要なことは、「我欲」を捨てることにあります。子供も同じです。ガツガツと浅ましく「エサ」を欲しがるような人間に真の幸福は訪れないでしょう。そんなちっぽけな「我欲」を捨て、「世のため、人のため」に生きてこそ、人間の「真の喜び」が生まれるというものです。こう言うと、「なんか、宗教くさいなあ…?」と思う人もいるでしょう。しかし、考えてもみてください。「我欲」は所詮、自己満足の極みです。それで自分が満足するのか、親が満足するのかはわかりませんが、その先に待つのは、もっと「強い欲求」だけなのです。「もっと上に、もっと有名に、もっと幸せに…」と願った先に待っているのは「奈落の底」かも知れません。それが「人生」というものです。昔の人は、科学が発達していませんでしたので「自然」に対して非常に謙虚でした。「諦め…」というか、「達観している…」というか、自分の人生を「天」に委ねようとする「死生観」がありました。「生きるも、死ぬるも天のお心次第…」という心境は現代人にはわからないかも知れません。しかし、同じ人間である以上、やはり「人生」は思うようにはいかないものです。それなら、自分の運命を「天」に委ね、精一杯生きてもいいではありませんか。そして、自分が「生きた証」として「世のため、人のためになる仕事がしたい…」と考えても間違いではないでしょう。たとえ、子供であっても「そんな心境」になれば、だれもが「努力」しようとするものです。
私はよく子供たちに言いました。「自分のために頑張っても、自分で自分を誉めるだけのことでしかない…。しかし、人の役に立とうと頑張ったことは、人が誉めてくれる。人に誉められた方が、嬉しさは全然違うんじゃないのかな…?」「人は、天から何かしらの使命を与えられて生を受けたと考えたらどうだろう。人生をかけて、その使命を全うして自分の人生を終わる。私はそんな生き方がしたい」と…。すると、子供たちは考えたようです。「そうか、先生は子供が好きだから先生になったんじゃないんだ…。子供を教育するのが自分の使命だと考えているんだ…。それなら、自分もそんな生き方をしてみたいな…」と…。これは、けっして「洗脳」などではありません。教師なりに「人の道」というものを教えたまでのことです。しかし、それを生活の中で全うすることは至難なことでした。私は、いつも「この子たちに嘘はつけない」と思いながら、教師生活を送るように努力したつもりです。「世のため、人のため」と言いながらも、時々「我欲」が出る毎日です。それでも「我欲」を抑えて、質素に生きていこうと思う気持ちに変わりはありません。そこに、自分の人生を「納得」できる「答え」があると信じているからです。
(5)「対外交渉」は、まるで営業マン
教師の中には、一般企業の「営業職」が十分に務まるだろうと思われる人材が多くいます。彼らはひとえに能弁で、子供たちを飽きさせません。この「技術」は、長年の経験と本人の「才能」によるものです。1単位時間、45分(中学校50分)の授業を演出するのは並大抵ではありません。知らない人は「たかが、小中学生の授業くらい簡単だろう…」とばかにした態度を取りますが、40人の人間を前にして「緊張」もしないで授業などできるはずがないのです。もちろん、慣れてくれば当初のような緊張感は薄れますが、それでも「無くなる」ことはありません。それは、企業の営業職の人間ならわかって貰えるはずです。喜劇の世界で活躍した「小松政夫」さんは、芸能界に入る前は、自動車のトップセールスマンだったという話を聞きました。常にトップの成績を譲らず、「それじゃあ、つまらない…」と大金を掴める仕事を捨て、芸能界に入った…と言うのですから、やはり「天才」はどこか違います。晩年まで、あの話術は衰えることを知らず、機転の速さはテレビを見ている私たちにさえ伝わってきました。ドリフターズの志村けんさんや加藤茶さんも同じ天才肌の人たちです。もし、彼らが学校の教師になっていれば、やはり「日本一授業の上手い教師」になっていたはずです。それくらい、彼らの「話術」と「機転のよさ」は群を抜いていたと思います。
授業の上手い教師は、「学級経営」も上手でした。子供たちにしてみれば、学校にいる大半を教室で授業を受けているわけですから、授業が「つまらない」では、学校が楽しいはずがありません。国語、算数、理科、社会、体育、音楽、図工、道徳…と毎日の授業は休みなしです。こうした授業を創るには、学級内の「ルール」が必要になります。これは、一般社会も同じことで、何でも「自由・気儘」では、社会は秩序を失い混乱を招くだけです。そのために、法律があり、それを取り締まる警察官や裁判所があるのですから、学校だけが「無秩序」でいいはずがありません。それを一部のマスコミや学者たちは、「子供の権利」と称して「自由」を奨励したがりますが、これに理解を示す大人は少数でしょう。もちろん、政治家やマスコミは、だれも反対できない「子供の権利」を利用して「政治活動」を行っているのですから、純粋に子供のことを考えているわけではありません。民主主義という思想は、一見、「みんなの意見を採り入れる政治手法だから…」と納得しがちですが、意図的に偏った情報を流すことによって、多くの国民の意見を「偏った方向」に進める危険性もあるのです。それを私たちは散々経験してきました。
学級内に信頼できる大人(教師)がおり、子供たちが納得できる「ルール」があれば、子供は自然に「子供らしさ」を見せ、落ち着いた雰囲気が出てきます。こうした学級を創るのが理想ですが、これができるのは、やはり、全体の「1割」の教師たちだけでしょう。残りの「9割」の教師たちは、毎日、試行錯誤の上、やっとこ子供たちをまとめているといった具合です。だから、つい「今年の子供たちは…」といった愚痴が出るのです。それでも、「やっとこ」できれば合格点なのですが、それも「できない」で苦しんでいる教師は多いと思います。そんな時代になり、営業マンを超えるような教師は、今や「1%」になってしまいました。日本人は、マスコミの「ネガティブ・キャンペーン」と文部科学省の「教師は、サービス業発言」以降、教育を軽んじるようになってしまいました。それは、政府が「教育予算」を増やさないための策略かも知れないのです。必要以上に「組合活動」をクローズアップさせ、「教師は、碌でもないことをやってる…」という宣伝活動は、GHQの「占領政策」からの引継ぎ事項だったのかも知れません。そんな穿った見方をすると「非常識だ」と笑われるかも知れませんが、戦後の日本社会の教師に対する偏見は、異常としかいいようがないのです。それが、戦後80年近く経って「成功」していると考えると、日本に明るい未来は見えてきません。
本当は、日本でも「スーパー・ティーチャー」をどんどん増やす教育をするべきでした。彼らの「交渉術」は、毎日、子供相手に鍛えられているために、丁寧で「相手を思い遣る言葉」で溢れています。ときには、厳しい言葉を投げますが、愛情に裏付けされた「言葉」に嘘はありません。本当は、そんな教師を支えるのが「国」の責任なのですが、我が国は残念ながらそうではありませんでした。今後、「スーパー・ティーチャー」になり得る才能を持った若者たちは、だれも「教育界」に足を踏み入れることはしないでしょう。それよりも、これからの時代の最先端である「AI技術」を使った仕事に向かうはずです。「AI」なら、煩わしい雑音を聞くこともなく、「自分の実力のみ」で人生を生きていくことができます。どんなに真剣に取り組んでも報われない職業は、今後、若者たちから見捨てられ「消えていく職業」になるような気がします。そして、「教育」は「公」に頼るのではなく、大人たち個々が考えて行っていく時代になります。それは、日本にとって、「幸か不幸か」はわかりませんが、それを選択したのも国民だということを忘れてはなりません。
5 「教師の本能」を信じよう
今、この国に期待をしているのは、アメリカの真の同盟国として「自立」した国家経営をすることにあります。既に自民党はアメリカ従属の国家経営から逃れられず、外務省や財務省も「国の機関」として正常に機能していません。もちろん、文部科学省も真面な「教育哲学」を持たず、アメリカ従属型の学者たちのいいなりでしかありません。しかし、まだ、今なら、日本の正統な歴史観、国家観、教育観を持った教師や企業経営者、学者が生き残っています。もし、真の「保守政党」が国の政権の座に就けば、日本の教育は大いに変革されることでしょう。そのときが、真の「日本人」が立ち上がるときかも知れません。これは、飽くまでも私個人の期待であって、そうならない確率も高く、夢で終わる可能性も大きいと思いますが、それでも、「最後のチャンス」は、今しかありません。
「教師」といえども、公務員制度の中で生きていくには、文部科学省や地方教育委員会の命令を無視することはできません。それに反抗すれば、厳しい「懲戒処分」が待っています。だから、だれも「口を閉ざし」鬱々とした日々を過ごしているのです。これまで、国は現場の教師の「声」を聞こうとはしませんでした。文部科学省も、中央教育審議会なる「有識者会議」で決まったことを現場に下ろすだけのことです。現場がどんなに悲鳴をあげていても、それを積極的に取り上げることもしませんでした。おそらく、中央の高級官僚や政治家たちからしてみれば、「たかが、教師共が…」と上から目線で見くだし、いいように「こき使って」いたのでしょう。それでも、文句も言わない教師たちは、「便利な下僕」扱いだったのです。それが、ここにきて「破綻」しただけのことです。もし、新しい政権が誕生し「教育の再生」を謳うのなら、ぜひ、一流の「教師」たちの声を聞いてあげてほしいと思います。学校現場は、大学で研究をしている学者には、けっして理解できない「困難さ」があります。それを肌で感じている教師たちは、それを「改善」する方策を持っています。それを「無視」して、「付け焼き刃」の施策をいくら実施しても問題は解決しませんし、「一流の教師」も育ちません。若い学生も「一流」の人間から学ばなければ、人間としても「一流」にはなれないのです。
「教師の本能」は、「日本の歴史と伝統」の中にこそあります。それは、江戸時代に作られました。明治以降の教育は、単に「江戸時代の教育」の土台の上に「西洋型」を乗せただけのことで、真の「日本人の教育」ではありません。教育は「歴史と伝統」の中にこそ存在しているのです。それを弁えた教師がいる間に「教育再生」に踏み出さなければ、本当に日本は終わります。すべてが「灰」になった後に再生しようとしても「火種」すらなくしてしまってからでは、何もかも手遅れなのです。平成から令和の時代にかけて、日本から「日本らしさ」が次々と消えていきました。一番顕著なのが、「日本人」だと思います。あれほど、外国人が「日本人は、謙虚で優しくて、美しい」と評価してくれたのに、当の「日本人」は、政府の方針もあって「外国人と対等になれる人間になれ」と「個性が強く、自己主張が好きな」人間へと変貌を遂げ始めています。それで、多数の日本人が満足であればいいのでしょうが、どうもそうでもないようです。親たちは、子供に「優しく、思い遣りのある人間」に育ってほしいと願っていますし、教師も「みんなと仲良くなれる優しい人になってね…」と子供たちを諭しています。さて、これからの日本は、どういう社会を創ろうとしているのでしょうか。それによって、教師のあり方も変わってくると思います。
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