歴史雑学19「日ソ」戦わば…

ソ連崩壊後の後継国となった「ロシア連邦」は、その強大な武力を背景に武力による「領土回復」の野望を捨てず、隣国ウクライナに侵攻して1年以上が経過しました。しかし、プーチン大統領が当初目論んでいたような展開にはならず、ウクライナは西側諸国の支援を受けて頑強に抵抗を続けています。どんな理由があれ、いきなり「独立国」に対して武力を行使することは、100年前ならいざ知らず、21世紀の現代において、許されざる「蛮行」としか言いようがありません。もちろん、政治的にはウクライナにも大きな問題があったことはわかりますが、それと国民を巻き込んだ「侵略戦争」を一緒に論じることはできません。まして、ウクライナの国民に死傷者が出ている状況を見れば、だれもが「第二次世界大戦」のアジアやヨーロッパの悲劇を思い起こしてしまいます。あのとき、ソ連は、ドイツとの戦争において、国民の多くを疎開させず「人間の鎖」として最前線に立たせた話は有名です。もし、同じことを当時の日本政府や日本軍が行っていれば、最早、それは「国民のための政府・軍」などではないことが証明され、国民の信頼を失い「戦争継続」は難しくなったはずです。日本は、天皇自ら「疎開」を拒否し「常に国民と共にある」と仰られたことで、国民の信頼を失うことはありませんでした。国民を「宝」と呼ぶのが日本であり、国民を「政治の下」に置くのが、帝政ロシアでありソ連だったのです。

そもそも、各国に「軍隊」が置かれているのは、政治家の野望を果たすためではありません。しかし、現実を見ると、どうも、何者かに利用されているような気がします。特にアメリカや旧ソ連は、その傾向が強く、本来の目的である「国の防衛」とか、「国民の生命を守る」ことが二の次になっているのではないでしょうか。ところで、「なぜ、日本は無謀な対米英戦争(太平洋戦争)に突入したのか?」ということを解説するドキュメンタリー番組や書籍を眼にしますが、それでも「合理的な説明」が見つからず、釈然としません。確かに、当時の「帝国主義」の中で、日本が活路を中国大陸に求めたのはわかりますが、日中戦争にしても、止めようと思えばできた機会を逃し、日本の「面子」にだけ拘って泥沼化していきました。もちろん、中国の背後には、ドイツやアメリカなどがいたことはわかっていますが、欧米諸国が中国に対して「野心」を抱いていたことは明白なのですから、危険であれば「一時撤退」する選択もあったはずです。確かに、国の面子は大切なのかも知れませんが、そのために「戦争」で決着をつけるという手法は、あまりにも短絡的で「感情」に走りすぎです。日米開戦の前夜、海軍の軍令部総長だった「永野修身」は、昭和天皇に「戦うも亡国なれど、戦わざるも亡国…」と言ったそうです。つまり、「どうせ、国が滅びるのなら、名誉ある滅亡を選ぶべきだ…」という意味でしょう。逆に言えば「成算がない」と言っているようなものです。普通、「成算がない」なら「やらない」という選択しかないはずです。ところが、海軍は作戦を連合艦隊に任せ、「真珠湾攻撃」という一番やってはいけない方法で開戦してしまったために、日本は本当に「滅亡の淵」まで追い込まれたのですから、話になりません。と言うより、実際は「大日本帝国」は滅亡し、新に「日本国」が作られたといった方が正しいのでしょう。それにしても、愚かな選択をしたものです。

1 ロシア・ソ連の脅威

今の日本人は、江戸末期から現在に至るまでの「ロシア帝国」「ソビエト連邦」そして「ロシア連邦」の本当の脅威を知りません。もし、北に「ロシア」という大帝国がなければ、日本の近代はもっと穏やかなものになっていたことでしょう。しかし、残念ながら日本にとって「ロシア」は背後を脅かす「脅威」そのものでした。そもそも、日本が「ロシア帝国」と戦争をしなければならなくなったのは、ロシアが国是としていた「領土拡大」の驚異が日本に迫っていたからに他なりません。ロシアという国は、国土こそ広大でしたが、そのほとんどは「凍土」で覆われており、耕作できる面積は少なく、少しでも「温暖な土地」そして「凍らない海」が必要でした。日本にいると、四季折々の季節が巡り、温暖な気候は「米」という生きる上で重要な穀物を豊富に収穫することができます。もし、日本で「米」が作れなかったとしたらどうでしょう。たとえば、稗や粟、蕎麦などでは、多くの人を養っていくことはできません。たとえ「国」ができたとしても、国民は常に「飢え」に苦しみ、その貧しさに耐えきれなかったことでしょう。そういう意味では、私たちは本当に「恵まれた国」に生きているのです。

「ロシア帝国」と「大日本帝国」が満州の広野で激突したのは、ロシアが朝鮮半島をねらい、中国大陸の「満州」地域に拠点を築こうとしていたからです。「南下政策」を採るロシアの野心を野放しにすれば、朝鮮半島などは瞬く間に「ロシアの衛星国」になってしまいます。そもそも、当時の「李氏朝鮮」は、「強い国の属国」となって生き延びてきた国であり、中国が強い時代は中国に従い、ロシアが強くなればロシアに従うといった有様で、まさに「朝鮮半島の防衛」こそが日本にとって重大な「死活問題」だったのです。今の「国」の感覚からすれば、あり得ない話に聞こえるかも知れませんが、そんな「不安定」な国が隣国にあったために、日本としても何とかして、ロシアの「南下」を止めなければなりませんでした。それが、「日露戦争」の大きな原因です。もし、満州や朝鮮半島にロシア軍が進出してくれば、次は「日本」が標的になることは明白です。既にロシアは、「ウラジオストック」に「艦隊」を揃えており、日本の「海軍」と対峙していたわけですから、こんな怖ろしいことはありません。日本は、日露戦争が始まれば「津軽海峡」を封鎖され、「艦砲射撃」によって日本本土が空襲されると想定していたほどです。

事実、日露戦争が始まると「日本海」は日露両軍の海の戦場となり、「203高地」で有名になった「旅順要塞」を乃木希典大将が命がけで落としたのも、ロシア極東艦隊(ウラジオ艦隊)が旅順港に居座っていたために、陸上からこれを砲撃して撃滅する必要があり、多くの犠牲を払ってでも落とさないわけにはいかなかったのです。そして、遂に多くの将兵を犠牲にして「旅順要塞」を落としました。「旅順の戦い」は映画にもなってご覧になった人も多いと思いますが、日露戦争の勝利はこの「一戦」にかかっていたのです。これで、日本海の脅威になっていた「ロシア極東艦隊」を撃滅し、今度は、ロシア本国から遠征してくる世界最大の艦隊である「バルチック艦隊」を迎えることになりました。当時の日本にはこの大敵と戦える艦隊は「連合艦隊」のみです。この戦いは、「引き分け」では日本の「負け」となる一戦でした。なぜなら、バルチック艦隊が日本海に出没すれば、日本海を通って「兵員や物資」の輸送が困難になるからです。東郷平八郎大将率いる「連合艦隊」は、対馬沖でこれを撃滅しました。有名な「T字戦法」がありますが、あれは、敵艦隊の「頭」を抑え、全滅覚悟で突進する「捨て身技」です。しかし、東郷司令長官は、敢えて、その「捨て身戦法」で勝利を手にしたのです。この戦いに勝利したことによって、日本は「勝利」をぐっと手繰り寄せることができたのです。それは、日本にとって「必死」の戦いの連続でした。もし、この戦争に敗れるようなことがあれば、満州も朝鮮半島もロシアの勢力圏内に置かれ、日本は、その「独立」さえも危ぶまれたはずです。そうなれば、ロシア帝国は、日本もその支配下に置き、太平洋を挟んで「アメリカ」と対峙することになったでしょう。

ただし、このとき「ロシア帝国」内では革命の機運が盛り上がってきていました。「革命」が起きるには、それ相応の理由があるものです。もちろん、教科書的には「抑圧されていた人民の武装蜂起」ということになるのでしょうが、それだけで「革命」が成就することはありません。問題は「資金」です。それだけ多くの人が革命運動に加わるわけですから、「勢い」だけで長期間戦えるわけはないのです。事実、日本の「明石元二郎大佐」がロシアの「地下組織」と接触し、多額の資金を与えていた話は有名ですが、日本だけが「革命組織」を支援していたわけではありません。日本の「明治維新」もイギリスの「トーマス・グラバー商会」がイギリス政府の出先機関として、坂本龍馬たちを使って武器弾薬を薩長軍に支援していた話は「公然の秘密」として語られています。噂では、アメリカやイギリスの「国際金融資本家」たちが革命組織を支援し、「ロシア革命」を操ったとするものもありますので、実際は、莫大な「資金源」があってはじめて「国が転覆」するような革命が成功するのでしょう。日露戦争で、日本に多額の「外債」を買ってくれたのは、やはり「ユダヤ系の資本家」でしたから、日露戦争は「世界革命戦争」の一環として見ることもできるのです。

ロシア帝国が崩壊し、「革命政権」が樹立した後に待っていたのは「共産主義」というとてつもなく怖ろしい「思想」でした。最初のころは、「共に産み出す」という訳語から、日本でも「平等主義に基づく思想なのか…」と好意的に迎えられたこともありました。確かに、中世ヨーロッパが行ってきた「封建主義社会」では、絶対的な「王」が存在し、その家来として「貴族階級」がありました。彼らが、国のほとんどの領地と人民を支配しており、国民の多くは「奴隷的」な扱いを受けていたのです。そんな庶民が努力しても「貴族階級」に昇れることはなく、常に「領主」に搾取され続ける立場でした。日本でも江戸時代は同じ「封建主義社会」と言われますが、日本の場合は、身分は必ずしも固定されてはおらず、能力のある者はたとえ「農民」出身者であっても武士に登用されたり、「学者」「医者」として尊敬を受ける人もたくさんいたのです。つまり、ヨーロッパに比べて日本は、「緩い封建主義」だったことがわかります。明治以降も「平等主義」とはいいながらも、「皇族・華族・士族・平民」という身分は残りましたので「緩い封建主義」は形式的にも存続していました。その中で、ロシア帝国から「ソビエト連邦」となった旧ロシアの「共産主義思想」は、日本のインテリには眩しく見えたのかも知れません。しかし、実態は政権を奪った「共産党」が国民を支配するだけのことで、国民が搾取されることに変わりはありませんでした。それは、今も残る「中国」や「北朝鮮」もまったく同じ構造です。

日本のインテリ層の多くは、「華族」や「上級士族」「財閥系」「地方地主」出身者で「産まれながらの殿様階級」でした。彼らは、旧制中学から旧制高等学校、帝国大学へと進むエリートで、一般国民から見れば「雲の上の人」たちなのです。子供のころから苦労知らずで「特権階級」の中で多くの使用人にかしずかれて暮らしていますので、気儘な上に世間知らずでした。ただし、その血筋のためか、学力的には高い者が多く、国民が不況で喘いでいても「何処風吹く…」といった風情で暮らしていました。しかし、そんな彼らでも、自分の世話をする者たちへの「憐憫の情」がないわけではありません。有名作家の「太宰治」などは、青森県の富豪の地主家の子でしたから、同じ故郷の友人には貧しい家の子もいたようです。そのために、「自分だけが、ぬくぬくと暮らしていることに耐えられない…」といった心境を作品の中で吐露しています。しかし、やっていることと言えば、小説を書くくらいなもので、後は「女性問題」に悩み、最後は自死してしまいますので、インテリ層の悩みは、一般国民とは違うような気がします。そのインテリ層が、国を動かすような政治家や学者になり、明治以降の日本を動かしていたのです。

また、この「インテリ層」の中でも毛色が異なるのが「軍人」たちでした。軍人の中でも「将校」と呼ばれる幹部軍人たちは、たとえ「平民」の出身であっても試験に合格すれば、陸軍士官学校や海軍兵学校という「幹部将校養成学校」に入校することができました。しかし、この軍学校は、さすがに軍幹部を養成する学校だけあって競争率は高く、その学力試験も旧制高等学校以上のレベルにあったと言われています。彼らの多くは、庶民の普通の家庭出身であったために、特権階級のような豊かな生活を送ってはいませんでした。そのためか、余計に「共産主義」に関心を向ける者も多かったのです。確かに、社会構造として、努力ではどうしようもない「身分階級」があると、賢い者は「同じ人間なのに、ちっとも平等ではないではないか?」と、その社会構造に疑問を持つものです。普通の庶民は「昔からそうなのだから、仕方がない…」と、最初から諦めていますが、軍人は違います。なぜなら、若い将校たちの部下になっている「下士官・兵」は、自分たちよりさらに貧しい家の者が多かったからです。毎日、そんな兵たちと寝食を共にしていると「同情心」が湧いてきて当然です。そして、「こんな社会の不平等は、間違っている…」と考えるようになっていきました。そして、現実を知らないだけに、新しく生まれた「共産主義思想」に傾倒する将校たちが出てきたのです。これは、日本にとっても由々しき問題でしたが、将校が自分の心の中だけで持っている「思想」を取り締まることもできず、その考えは次第に軍人たちに広まって行ったのです。

そして、大正末期の「関東大震災」、昭和になってすぐの「世界大恐慌」による「大不況」の嵐が日本社会を襲いました。これは、アメリカでの株価の暴落が原因でしたが、日本は「近代工業国」となって日も浅く、それに対応できる「体力(経済力)」もなく、社会恐慌の不安は、政府に向けられたのです。そして、起きたのが「暴力(テロ)」事件でした。昭和初期には多くの政府の要人が「テロ」によって命を落としたのです。それは、軍人にまで広がり「もう一度、明治維新をやり直すんだ!」とか、「軍人中心の国づくりをしよう!」などという偏った考えが多くの国民に支持され、遂に行動を起こしました。それが、海軍将校が中心となった「5.15事件」であり、陸軍将校が中心となった「2.26事件」です。これらの事件の特徴は、「国を守る」ことを任務とした軍人が政府の要人を暗殺してまで政権を奪い、「自分たちの理想とする国」に造り直そうとしたことです。それは、まさに「明治維新」の再現を夢見た事件でした。一度、「テロ」で国を転覆させた経験は、彼らの脳裏に焼き付いており、「俺たちにも維新ができる!」と思い込んだのでしょう。それを囁く「社会主義者」たちが裏で操っていたことも事実です。

特に「2.26事件」は、当の陸軍の上層部は、このクーデターを「叛乱」と断定することができず、躊躇いを見せていたところ、若き日の昭和天皇は、即座に「この者たちは、叛乱軍である!」と強い怒りを見せ、「陸軍が動かぬのなら、私が近衛を率いて鎮圧する!」とまで話されました。それほどの危機感を昭和天皇は抱いていたことがわかります。しかし、これほど大きな「クーデター」紛いの事件を起こしておきながら、国民の多くは「よくやった!」と賞賛し、実行犯たちの助命運動まで起こりました。つまり、昭和初期の大不況の中で、国民は苦しい生活を余儀なくされていたことで、だれもが「世直し」を願っていたのです。そして、その不満は、政府や特権階級の人たちに向けられたのは仕方がないことだったのかも知れません。そこに、「共産主義思想」が入り込む「隙」を与えてしまったのです。

昭和初期の日本は、悪く考えれば「運が悪い」としかいいようのない状態にありました。大正末期の「関東大震災」以降、世界は「大不況」に見舞われ、やっと「工業国」として立ち上がったばかりの日本に大打撃を与えたのです。「大震災」と「大不況」のダブルパンチは、日本の経済を滅茶苦茶にしてしまいました。その上、日本は「軍備」への予算も莫大で、朝鮮半島や大陸にある軍への支出もあります。国民がいくら働いても「豊かさ」が実感できるはずがありません。この「世界大恐慌」も「国際金融資本家」たちが企んだ「謀略」だという説もあるほどです。こうした時代背景の中で、ロシア帝国が崩壊し「ソビエト連邦」という「共産主義」を国是とする国が誕生したわけですから、日本は「三重苦」の状態に陥り、政府もその回復に努めましたが、「社会不安」は行き着くところまで増大していたのです。だからこそ、そんな「共産主義」を日本も採り入れれば、「ソ連のような平等な国になれる…」という幻想を抱かせたのでしょう。しかし、今になれば、その「ソ連」が、国民にどのようなことをしたのかは明白になっています。今の「中国」や「北朝鮮」の二国を見ても明白です。この「共産党一党独裁」がどれだけ怖ろしい政権なのかは、現代の人にはわかりきっていますが、昭和初期の人々には、それが「夢」でもあったのです。まさに「藁をも掴む思い…」で、共産主義という「幻」に惑わされたのです。

2 日本「共産化」の企み

昭和初期の日本は、アメリカ同様に「ソ連共産党」の影響を強く受けていました。有名なのが昭和16年に起きた「ゾルゲ事件」ですが、これは、ドイツの新聞記者を名乗るソ連の諜報部員だった「リヒャルト・ゾルゲ」が日本でスパイ行為をしていた事件です。当時の日本は「共産主義」を取り締まるために「治安維持法」を定め、警察にも「思想犯専門」の「特別高等警察」が組織され、とにかく、日本に「共産主義」が広がらないように徹底した管理体制を敷いていたのです。今では、この「治安維持法」は戦前最大の「悪法」とされていますが、それは、戦後の「日本国憲法」下であれば、そうでしょうが、「天皇制打倒」を叫ぶ共産主義思想は、「再度の革命」が起きる可能性を示唆しており、大日本帝国憲法下では、絶対に容認出来ない「思想」だったのです。ところが、特高警察が取り締まれるのは「庶民」ばかりで、政治家や権力者の取り締まりまではできませんでした。実は、この「共産主義思想」は、日本政府の上層部や陸海軍幹部、学者にまで幅広く信奉者がおり、いくら庶民を厳しく取り締まっても意味がありませんでした。有名な小説に「蟹工船」(小林多喜二著)がありますが、これを書いた小林多喜二は特高警察に捕まり、拷問の末獄死しています。それが為に、戦後「天下の悪法」とまで言われたのです。

「ソ連」は、建国と同時に「国際コミンテルン」という「共産主義思想を世界に広める組織」を創り、各国に「共産党」を設立することを求めました。日本にある「日本共産党」は、その時代の後継政党なのです。もちろん、アメリカにも非合法ながら「共産党」は存在しました。その活動の目的は、その国の「特権階級」を破壊することにあります。日本で言えば、「皇室の廃止」「貴族制度の廃止」「身分制度の廃止」などです。特に「皇室の廃止」となると、日本の建国の歴史から考えて、断固阻止しなければなりません。大日本帝国憲法では、天皇は「国家元首」と定めているのですから尚更です。そのために、軍部は「天皇親政」や「国家統制」という方法で、皇室は残しつつ、実質的に国を共産化した上で「軍部独裁」を目論んだのです。「軍部独裁政権」ならば、一々予算を付けるのに「議会の承認」を得る必要はありません。「戦いたいときに戦える」といった「臨戦態勢」を日常的に作っておけるからです。その上、肝腎の「予算」も軍が最優先されますので、自由に「軍備の拡張」ができるのです。第一次世界大戦後、「戦争は国家総力戦になる…」といった予測は正しく、それに備えるためには、「軍部独裁政権」が手っ取り早い方法でした。さらに、そうなれば「軍人は、国民の上に立てる」といった「立身出世主義」が頭にあったと言われています。それは、大日本帝国憲法により、「軍隊の統帥権は天皇にある」という他国には見られない「天皇の軍隊(皇軍)」といった異常性が原因です。本来、軍隊は「政府の下」にあるもので、「民主主義国」なら尚更、議会の承認なくして「軍の行動」はあり得ません。ところが、日本は「強力な軍隊」を備えるために「天皇=軍」という制度にしてしまったために、強力な軍備を備えた陸海軍は、政府の意向にも逆らい、遂には「天皇の命令」すらも無視するような暴挙に出るまでになっていきました。

このころ、政府内にも「共産主義」に傾倒する官僚や政治家はたくさんいました。もちろん、表面上、それを名乗ることはできませんが、「隠れ共産主義者」たちが蠢いていたのです。特に太平洋戦争(大東亜戦争)直前まで首相を務めた「近衛文麿」の側には、共産主義者たちばかりがいました。その中心が「ゾルゲ事件」でゾルゲと共に逮捕された新聞記者の「尾崎秀実」です。彼らは、近衛の側近として「昭和研究会」を作り、「日本の共産化」と「日本軍のソ連侵攻」を食い止めるために暗躍していたと言われています。さらに、近衛内閣の「内閣書記官長(今の官房長官)」は、これも共産主義者として名高い「風見章」ですから、この内閣は筋金入りの「左翼内閣」だったのです。そのため、「日中戦争」は泥沼化し、日本がアメリカとの戦争に引き摺り込まれて行きました。近衛文麿という人物は、良くも悪くも「公家気質」の持ち主で、周囲の人間を操って自分にとって都合のいい「権力」を手中に収めたいという野心家です。近衛家は、華族筆頭の家柄ですから、心の中では「天皇なにするものぞ…」といった傲慢さがありました。その上、苦労知らずのインテリです。その「近衛」を陰で操りたいと思う勢力がいたことも近衛自身が気づいていましたが、本人はそれを利用しようとしていたのです。

結局、日本が対米英戦争「開戦」を決意する段階になると、近衛はその責任を取ることを拒み、内閣を投げ出してしまいました。そして、やむを得ず、陸軍大臣の東條英機に白羽の矢が立ったのです。東條はとんだ「貧乏籤」を引かされたものです。しかし、天皇側近の木戸幸一内務大臣が「軍部を抑えるには、東條がいいだろう…」と昭和天皇に奏上して決まりましたが、東條自身がその地位を望んでいたわけではありませんでした。「たとえ貧乏籤であろうと、陛下の御採決で指名されたのなら、やるしかあるまい!」というのが、東條英機という軍人の忠誠心でした。昭和天皇ご自身は「対米英戦争」に反対の立場でしたが、憲法の制約上、政府や軍の決定に従わざるを得ず「渋々、同意した…」というのが真相です。東條は、天皇の意思に従い極力「外交」で対米英戦争を回避しようと試みましたが、当事者の「海軍」が「開戦やむなし」としたことで、日本はまんまと「共産主義者」たちの策謀に嵌まってしまったのです。終戦間際に、近衛文麿は天皇に「上奏文」を提出し「自分は、共産主義者たちに騙されて開戦するに至った」経緯を説明しましたが、昭和天皇は「近衛は、いつも、自分のことばかりだね…」と呆れて相手にしなかったそうです。しかし、近衛の言葉はまさに「真実」を突いていたのです。「知っていたのなら、なぜ、その危険を回避する努力をしなかったのか…」と悔やむばかりです。近衛は、東京裁判の「A級戦犯」に指名されたと聞くと、狼狽えて呆然としていたといいます。そして、夜、寝室で「青酸カリ」を煽って自殺しました。もし、「東京裁判」で真実を話していたら、少しは違う評価をされた人物だったような気がします。

3 突然始まった「独ソ戦争」

戦前の「国際コミンテルン」による「共産主義思想洗脳作戦」は、大成功を収めつつありました。おそらく、これも「国際金融資本家」たちが策謀した結果だろう…という意見もありますが、戦後、世界中に「共産主義国」が次々と誕生したのを見ても、何かしらの策謀があったことがわかります。あのアメリカでさえ、昭和初期ごろは、まさに政治の中枢にまで「ソ連のスパイ」が入り込んでいたのですから、呆れて言葉が見つかりません。これも想像の範囲を出ませんが、「帝国主義」を採る欧米諸国にとって、後進国である「日本」が国際社会で大きな顔をするのは迷惑だったはずです。要するに「国際社会秩序」を破壊するかのように登場してきたのが「日本」だと考えれば、これ以上大きくならないうちに、その「芽」を摘んでしまおうという策謀があったのだと思います。そうでなければ、日本をあそこまで徹底的に追い詰めたアメリカ政府の意図がわかりません。まして、「戦場に二度とアメリカ青年を送らない!」と宣言して三選を果たしたルーズベルト大統領が、まるで日本との戦争を欲しているかのような「日米交渉」を行っていたわけですから、彼の意思と言うより、「裏」で糸を引く「組織」があると考える方が自然です。後からわかることですが、ルーズベルトの側近の多くは、間違いなく「ソ連のスパイ」だったと証明されました。日本に「ゾルゲ」が送り込まれたように、アメリカにも多くのスパイが送り込まれ、暗躍していたわけですから、「日米戦争」を回避することは困難だったでしょう。

日米戦争の原因として考えられるのは、日本と中国との長く続いた争乱でした。その争乱の元には「ソ連」の南下政策があります。そして、次に「共産主義思想」の南下があります。日本陸軍の「関東軍」が「満州事変」を起こしてまで「満州国」を作ったのは、この二つを「防衛」するためです。しかし、このことが日本をさらに窮地に追い込んでしまうのですから「政治の判断」は難しいと言わざるを得ません。ドイツと同盟を結んだのも「反共」を宣言していた「ナチス・ドイツ」と同盟することで、ソ連の共産主義を何とか食い止めようとする意図があったからです。そのころ、既に中国では毛沢東率いる「中国共産党」が設立されており、やはり「反共」の蒋介石率いる「国民党」と対立していました。ただ、そのころの「中国共産党」は、飽くまでソ連の傀儡であり蒋介石の国民党と戦えるだけの戦力はありませんでした。それでも、ソ連が支援していたことで、国民党と戦うことができたのです。

中国問題に対しては、日本は、できるだけ早く「蒋介石」と和平条約を結びたいと考えていましたが、日本が国民党軍を破っても、次々と軍事物資が「援蒋ルート」を通って蒋介石の下に届くのですから、戦争が終わるはずがありません。当時の首都である「南京」を攻め落としても、それでも蒋介石は「和平交渉」に応じようとはしませんでした。要するに、アメリカやイギリスは、蒋介石が日本と講和をするのを阻止しようと暗躍し続けたのです。それは、中国での混乱が日本を「弱体化」させるために好都合だったからです。蒋介石にとっても、本来の敵である「共産党」との戦いをする上で、アメリカやイギリスの「武器弾薬」等の支援は、喉から手が出るほど欲しい物です。それ故に、日本との戦いを止めたくても止められない事情があったのです。欧米の「援蒋ルート」は、東南アジア、インド、ソ連などから何本もあったと言われています。その上、アメリカ政府は「義勇軍」を中国に送り込み、「フライング・タイガース」として、日米戦争以前から、日本軍航空部隊と戦闘を行っていました。それ以上に、日米戦争以前から日本への「空襲」も計画していたそうですから、既に「日米戦争」は始まっていたのです。これでは、日本は中国と講和できるはずもありません。こうした「歴史」を学んでおかないと、いつも日本の「侵略」で終わらせてしまい、真実が見えなくなってしまいます。

そんな状況の中で、ヨーロッパで「第二次世界大戦」が始まりました。ドイツ軍は隣国「ポーランド」に侵攻し、そのポーランドを助けようとイギリス・フランスなどが軍事行動を起こしたからです。この「ポーランド侵攻」はソ連とドイツが秘密裏に計画したもので、ソ連軍も同時にポーランドに侵攻したために、ポーランドは国を失うことになってしまいました。最初、ドイツのヒットラーとソ連のスターリンは「仲間」だったのです。ところが、ドイツ軍は「バトル・オブ・ブリテン」の戦いに敗れると、イギリス上陸作戦を延期して「仲間」だった「ソ連」に対して侵攻を始めたのです。元々、両国には利害関係があり、友好国とは言えませんでしたが、突然の「侵攻作戦」に、日本だけでなく世界中の国々が驚きました。そして、その「電撃的」な攻撃は成功するかに見えたのです。実は、ここに「落とし穴」が待っていました。それは、ソ連の頑強な抵抗と「冬将軍」でした。特に「スターリン・グラード」の攻防戦では、住民のおよそ9割が亡くなるという悲惨な戦闘が繰り広げられ、ドイツ軍は「モスクワ攻略」を果たすことができなかったのです。ソ連共産党は、このとき、住民の「疎開」を認めず、市民も「人間の盾」として戦わせたのです。さすがにドイツ軍も住民を「戦闘員」として使うソ連共産党の発想に驚き、ここでの「足止め」が「冬将軍」の到来を迎えてしまったと言われてます。結局、「電撃作戦」で冬に入る前に「モスクワ」を攻略してソ連を屈服させ、改めて「イギリス上陸作戦」を進めようとしていたドイツは、その計画が途絶し、その勢いはなくなりました。それは、ちょうど、日本が大東亜戦争に突入し米英軍相手に連戦連勝していた時期と重なります。まさに、日本は「ドイツ」が負けはじめた時期に戦争を開始したことになります。もう少し、ドイツ軍の様子を見ていれば、開戦は回避できたかも知れません。日本の「情報戦」の弱さが露呈した出来事でした。

4 対米英戦争か、対英ソ戦争か

日本政府や軍は、当初「対米戦争」は考えていませんでした。それは、「国力」があまりにも違い過ぎるからです。もちろん、アメリカが中国の蒋介石を支援しているために「日中戦争」が片づかず、泥沼化していることは日本も十分にわかっていました。大正時代からアメリカは、「オレンジ計画」なる「対日戦争案」を策定し、日本を追い詰める戦略を実行に移し始めていました。よく知られているのが、「日系人差別」です。それまで、多くの日本人が海を渡り「アメリカ」に入植し、農園等で働いていましたが、その彼らを疎ましく思うようになったアメリカ市民を味方に「黄禍論」を巻き起こし、「日系人排斥」にまで及んだものです。これにより、日本人のアメリカへの好感度は低下し、「アメリカは、酷い差別の国だ!」という憎しみが増したといいます。また、白く塗った「アメリカの艦隊」を日本に派遣し、「黒船」ならぬ「白船外交」という示威行動まで日本してみせました。これも一種の「恫喝」でしょう。それが、段々エスカレートして日本を追いつけて行ったことは事実です。それが、「日本を消滅させる」計画だったかどうかはわかりません。しかし、それでも、戦前から「日本本土空襲計画」を策定し、日本を空から攻撃して「都市を焼土と化す」計画を持っていたことは事実です。実際、昭和20年に入ると、アメリカ軍大型爆撃機「B29」の焼夷弾攻撃と原子爆弾投下によって日本の都市は「焼き尽くされ」ました。まさに「オレンジ計画」どおりに戦争は推移したのです。そんな計画があることまでは、日本政府も軍も気づいてはいませんでしたが、「アメリカとだけは、絶対の事を構えるな…」は、日本人であれば、だれもが考える「常識」だったのです。だからこそ、昭和天皇は、最後まで「戦争を避け、外交交渉で妥協しろ!」と命じていたのです。それを敢えて無視し、「戦うも亡国なれど、戦わざるも、また亡国」とか、「時には、清水寺の舞台から飛び降りる勇気が必要」などと勇ましい言葉を並べて対米英戦争に突入したのは、日本政府であり日本陸海軍なのです。

そのころのソ連は、対ドイツ戦で国の戦力の多くを西に向かわせていました。つまり、アジア方面のソ連軍は手薄になり、日本にとって「千載一遇の好機」が巡ってきたのです。当然、陸軍の多くは「対ソ連戦に向かうべきだ!」という論調で、政府に迫りました。しかし、そのとき、日本とソ連との間には「日ソ中立条約」が締結されていて、もし、日本軍がソ連領内に侵攻すれば、それは「条約違反」となります。その国際条約を反故にしてまでソ連に向かうかは議論が分かれるところでした。まして、昭和天皇は「国際条約を遵守せよ!」と政府に命じていましたので、だれもが躊躇する事態だったのです。この条約を締結したのは、当時の外務大臣だった「松岡洋右」でした。松岡はドイツにわたり、三国同盟締結した立役者であり、その帰りにはソ連に立ち寄り「中立条約」まで結んでいたのです。ドイツにしてもソ連にしても、この時期の「日本」との関係を築くことはメリットがあり、松岡はそんなタイミングで両国との関係を強めました。それには、日独伊の「三国同盟」から、日独伊ソの「四国同盟」にまで発展させ、欧米に対抗しようという計画があったからです。しかし、松岡にとって「条約」など、状況次第ではすぐにでも「破棄」できる程度のもので、この時代、「国際信義」など名目上のものでしかないという考えを持っていました。それ故に、独ソ戦が始まると、掌を返し、「すぐにでも、中立条約など破棄してソ連をドイツと共に叩くべきだ!」と唱えましたが、その決断が日本政府にも軍部にもできませんでした。逆に、松岡は「独断専行が過ぎる!」と昭和天皇の怒りに触れ、更迭されてしまいました。

日本が「対ソ戦」に迎えなかったのには、もうひとつ大きな理由がありました。それは、「石油」の問題です。当時の日本国内では、石油はほとんど採れませんから、アメリカからの輸入に頼っている状態でした。そのアメリカが、日本に対して厳しい要求をしてくるようになりました。それは、すべて「中国問題」です。このころの蒋介石は「宣伝戦」に力を入れ、「第二次上海事変」後に起きた「南京攻略戦」で「大虐殺」が行われたと世界中に触れて回りました。また、重慶爆撃では、捏造された写真をアメリカの有名雑誌掲載させるなど、アメリカ国民を味方につけて「日本の非道」を世界中に訴えたのです。事実ではなくても、元々「日本叩き」を企んでいたアメリカにしてみれば「渡りに船」です。恰も、そのすべてが「真実」かのように宣伝をして、国民が「日本人」を憎むように仕向けたのです。こうして、日本を叩く口実を見つけたアメリカ政府は、「ソ連のスパイ」たちに操られるようにして日本を追い詰め、遂には日本軍がアメリカを攻撃するよう仕向けたのです。

結果は、だれもが知るような悲惨なものでした。開戦前に軍人たちは、「戦わざるも亡国…」と言って見栄を切りましたが、実際「亡国」となってしまった日本を見て、どう思ったのでしょう。結局、ほくそ笑んだのは「ソ連」だけだったのです。日本を追い詰めたアメリカのルーズベルト大統領は、終戦を見ないまま執務室で倒れ亡くなりました。「世界史上最悪の密約」として有名になった「ヤルタ会談」では、病が酷くなり、自分では何も決められなかったといいます。ソ連の「スターリン」だけが意気軒昂で、世界地図を出すと、自分でさっさと線を引き、ソ連に有利なように交渉を進め終始ご機嫌だったそうです。支援を受けてやっと戦勝国の仲間入りをしたイギリスのチャーチルは何も言えず、その後、国内で失脚しました。今では、この「ヤルタ会談」は、アメリカのブッシュ大統領によって否定されています。要するに今のような「世界」になった責任の多くは、ルーズベルト大統領にあったのです。要するに、日本もアメリカも、この「ソ連」のスパイたちの暗躍によって動かされ「日米戦争」になるように仕向けられたということです。もちろん、日本の軍人や政治家たちも自分たちの利益や面子ばかりに拘り、「対米戦争」がどういう結果をもたらすかという想像が欠如していたのですから、責めを負うのは当然ですが、人間のちっぽけな「欲」に付け込まれた意味のない戦争でした。特にアメリカのルーズベルト大統領は、政府内にも「対日戦争反対」の勢力があったにも関わらず、ソ連のスパイを重用して日本を追い詰めた責任は重大です。一説には、アメリカの「金融資本家」たちの意のままに操られていたという話もあることから、ルーズベルト自身も「わかっていながら…」操られたふりをしていたのかも知れません。「権力の座」にしがみついた愚かな老人だったと思います。

5 関東軍特殊演習

日本がソ連との戦争を決意するチャンスは、この「関東軍特種演習」しかありませんでした。これは、昭和16年の7月に「満州」で計画した日本軍最大規模の「軍事演習」で、約70万人の兵員を動員し、航空部隊や戦車部隊などを合わせれば「100万人」の大動員でした。そのころは、もちろん、アメリカとの外交交渉も佳境に入っており、日本としては、「対米戦争」か「対ソ戦争」かの選択を迫られていた時期です。アメリカが日本に要求した「カード」は、日本がこれまで中国で得た「権益」のほとんどをなくすほどのものでした。もし、これを飲めば、日本は「近代工業国」としてやっていけなくなる可能性があります。そして、日本が撤退した後に、欧米諸国が中国に入ってくるのは明白です。当然、ソ連もその仲間に加わるでしょう。それは、日本が明治初年から築き上げてきた「近代国家」としての発展を止めるようなもので、これだけでも「開戦」の口実になるほどの過酷な要求でした。

陸軍としては、「対米戦争」は海軍の戦争であり、これまで増強してきた「対ソ戦計画」を考えれば、ドイツ軍がソ連に侵攻したチャンスに「極東」から攻め入りたい…という願望がありました。しかし、前年に行われた「ノモンハン事件」の後遺症が残っていた陸軍は、ソ連の「機甲化部隊」を怖れていたのです。ソ連製の戦車は「装甲」が厚く、日本の戦車ではまったく刃が立ちませんでした。そのため、ノモンハン事件では、多くの歩兵部隊が全滅し、ソ連軍の強さを改めて認識していたのです。「もし、ソ連軍の極東部隊が対ドイツ戦に向かわなければ、容易に勝てないかも知れない…」という弱気な発言をする軍人も現れはじめました。事実、独ソ戦が始まってもソ連は、極東から軍隊を引き揚げることはしませんでした。それくらい、日本が侵攻して来ることを怖れ、「阻止」したかったのです。このとき、日本の近衛文麿首相が尾崎秀実たち「共産主義者」の口車に乗らなければ、「対ソ戦争」が昭和16年8月には開始されていたはずです。今になってわかったことですが、前年に起きた「ノモンハン事件」のソ連軍の損害は日本軍以上で、特に「航空戦」においては、日本は完全にソ連軍を圧倒し、「制空権」を奪えていたのです。もし、対ソ戦争で「空」を制することができたなら、地上部隊はもっと楽にソ連領内に侵攻し、ドイツと共にソ連を屈服させることができたと思います。日本の航空部隊は、首相になった「東條英機」が陸軍航空本部長のころから増強をはじめ、特に「戦闘機部隊」は世界トップの精鋭部隊だったのです。また、海軍航空隊は「少数精鋭主義」ではありましたが、「零式艦上戦闘機」が登場し、爆撃機などの「攻撃機部隊」も充実していましたので、「対ソ戦」になれば、ソ連軍の艦隊や航空部隊は、短期間で殲滅できたはずです。要するに、「ノモンハン事件」の誤った認識が過度の「怖れ」を抱かせ、判断を誤らせたとすれば、日本の「情報戦」は、如何にも脆弱だったことがわかります。

日本がソ連に向かえなかった原因は他にもあります。それは「石油」の問題です。今でこそ、満州地方には「大慶油田」という「大油田」が、戦後、発見されていますので、もし、あのころにこの油田が発見されていれば、何もアメリカと事を構えなくても「エネルギー問題」は解決したはずです。ところが、なぜか「大慶油田」は見つかるような痕跡すらないのです。普通なら、あれほどの規模があれば、周辺の村などでは「油臭い匂いがする…」とか、「燃える石が見つかる…」などという何らかの痕跡が発見されるものですが、それが「ない」のですから不思議でなりません。あれほど、「石油が欲しい!」と騒いでいた日本陸海軍は、本気で探していたのでしょうか。このころは、「石油探査」は「軍の機密」とかで、主に陸軍が担当していました。もし、外国の探査技術を使い、民間で行っていれば、間違いなく発見できたはずです。実際、中国がこれを探し始めたのが、昭和28年のことです。そして、6年後には「大油田」が発見されているのですから、「日本は、一体何をしていたんだ?」と不思議がられても仕方がないでしょう。まさか、戦後間もなくのころに、そんなすごい探査装置が発明されるはずもなく、戦前からの調査方法で見つかっているのです。如何、陸軍が「いい加減」な調査をしていたかがわかります。まさか、「知っていながら、知らぬふり」をしていたとなれば、それこそ「歴史上の大問題」になると思いますが…。

そんないい加減な石油探査をやっていながら、中央では「石油は、地の一滴より貴重だ!」と騒いでいたわけですから、本当は「対米戦」も「対ソ戦」も考えるべきではありませんでした。そして、自分たちで見つけられないことを覚ると、オランダの植民地にある「油田」に眼をつけたのです。まして、アメリカからは「中国から手を引け!」と脅され、さらに「石油」の輸入を止められていたわけですから、東南アジアの「油田地帯」は、喉から手が出るほどに欲しかったのです。しかし、南に向かえば「イギリス・オランダ」と戦争になります。すぐ側の「フィリピン」を攻めれば、当然、今度はアメリカとの戦争になります。「北にソ連」「南にイギリス・オランダ・アメリカ」となれば、まさに「世界を相手」に戦争をするようなものです。いくら、単純な思考の軍人でも、「それでも勝てる!」と豪語できる者はいません。そこに、日本の苦悩があったのです。

ここまで手詰まりになれば、普通は「諦める」ものですが、当時の日本政府も日本軍も諦めるどころか、「やけっぱち」に戦争をしようと言うのですから、昭和天皇が驚くのも無理はありません。別に細かな計算をしなくても、「やってはいけない…」ことくらいすぐにわかります。それを敢えて「やめる!」と言えないところが、日本人の「小心」なところなのだと思います。この事態を受けて「戦争はできない!」と正面切ってものを申せば、反対派に殺されてしまうでしょう。しかし、本当に国に「忠誠」を誓っているのであれば、強い信念と勇気を持って「ならぬ!」と言う人が出るべきでした。それこそが、誠の「英雄」なのです。しかし、残念ながら、この時代にそんな勇気のある人物はいませんでした。今の時代でも、とんでもない不祥事を起こしておきながら、「私は関係ございません…」と記者会見で述べる社長や役員がいますが、それによく似た体質です。そう考えると、昔も今も日本人はそんなに変わっていないと言うことです。結局、どうしても「油」が欲しい日本は、「対ソ戦」を諦めざるを得なくなりました。満州に集められた70万人の日本兵は、その後、大東亜戦争が始まると「南方」へ引き抜かれ、次々と孤立無援の島で玉砕していったのです。

「対ソ戦」を諦めると、仕方なしに「対米英戦」が真剣に議論されるようになりました。それでも、大変な戦争になることはわかりきっています。あの「日露戦争」でさえ、ギリギリのところでの勝利だったのに、中国との戦争が終わらないまま「対米英戦争」をしようと言うのですから、だれもが頭を抱えて当然です。昭和天皇は、当然、日本の存亡に関わる重大事態であることは認識されていました。それが故に、「とにかく、アメリカとの外交交渉に全力を尽くせ!」と命じましたが、アメリカ政府は、既に(どうやったら、日本に先制攻撃をさせられるか?)という段階に来ていましたので、どんな交渉を行おうと「和平の道」は閉ざされていたのです。そんなことは知らない日本では、「もし、対米交渉が上手くいかなかったら、軍はどうするんだ?」という議論が白熱し、何回会議を開いても「答え」が出ません。

最初の頃は、周囲の空気に飲まれて、「対米戦争準備」という結論で進んでいましたが、「ドイツ軍」の劣勢の話が入るようになると、だれもが威勢のいい話をしなくなってきました。やはり、だれの頭にも「ドイツが勝てば何とかなる…」という他力本願のところがあったのです。その「ドイツが怪しい…」となれば、もうすがる先はありません。特に「海軍」は、首相となった東條英機が「海軍は、どうなんだ?」と聞いても「政府の判断に委ねる…」と、責任を取ることを拒み続け、のらりくらりとするばかりでした。やはり「対米戦」には、自信が持てなかったのです。それは当然と言えば「当然」でしょう。いくら、仮想敵国が「アメリカ海軍」であっても、実際にやるとなると戦略が立たないのです。これまで、海軍は海軍なりに「日本海海戦」のような「一大決戦」で決着をつけるような計画を持っていましたが、「航空機時代」が到来すると、今度は「東京への空襲」が心配になってきました。開戦間近だと言うのに、日本本土の「防空体制」はほとんどできていなかったのです。

後に、山本五十六が、アメリカ軍爆撃機による「東京初空襲」を受けたことで、慌てて「ミッドウェイ海戦」に向かったことを考えると、首都「東京」でさえ、その防衛は整っていなかったということです。それに、もし、「長期戦」にでもなれば「じり貧」は確実です。とにかく、国力に大きな差がある以上、長期戦になるということは「敗北」を意味しますので、だれもが「勝利に自信あり!」とは言えません。結局、目の前に「戦争」が見えてくると、それまでの威勢が消え、だれもが「責任」を取ることを嫌がりました。日本政府や陸軍にしてみれば、「海軍は、これまで、あれだけ威勢のいいことを言って予算を取っておきながら、今さら、できない…はないだろう!」と海軍の首脳に詰め寄りますが、それでも、海軍は「できる!」とは言いませんでした。

本当は、海軍が「戦争をする自信がない…」と言えば、対米戦争は回避できたはずです。もちろん、政府や陸軍は「海軍ができないと言っている!」という理由で説明しますので、責任は「海軍」が負うことになります。そうなれば、海軍は、国民からの非難を浴び、マスコミからも相当に叩かれたでしょう。予算も削られ、軍備も縮小されたかも知れません。要するに、それが怖かったのです。いくら、海軍大臣だ、海軍大将だと威張っていても、国民の非難の的になって「非国民」扱いされたくはないのです。だったら、「戦争の方がまし…」と考えるのが小心者の常かも知れません。こうなると、国のことより「我が身」のことが優先し、結果を先送りしただけのことでした。その結果、ハワイ「真珠湾攻撃」という無謀な作戦を決裁し、日本から戦争を仕掛ける道を選んでしまうのです。この無謀な作戦を計画したのが、連合艦隊司令長官だった「山本五十六大将」でしたが、山本自身、何を考えてこの奇襲作戦を実施したのか、きちんとした理由を述べていません。今、伝えられているのは「アメリカ太平洋艦隊を撃滅して、アメリカ人の戦争意欲を減衰することにある…」と言うことですが、素人が考えても、外交交渉の最中に、騙し討ちのようにして「国土」が攻撃を受ければ、「このやろう…、何しやがるんだ!」と激高するのは当然です。それが見えていながら、「いいだろう…」という決裁者の頭はどうなっていたのでしょう。ここに、海軍の「闇」があるのです。

6 もし、対ソ戦争を選択したら…

日本は、対ソ戦か対米英戦かの選択を迫られ、南方の「油」欲しさに「対米英戦争」を選びました。これも「取り敢えず、油が欲しい…」というだけの選択です。もし、あの「関東軍特種演習」で動員した70万人の戦力でソ連領内に侵攻すれば、ソ連軍は西にドイツ軍、東に日本軍という「二正面戦争」を余儀なくされたはずです。もちろん、極東ソ連軍が強力で簡単に敗れないかも知れませんが、陸海軍の航空兵力を動員すれば、日本得意の「電撃作戦」は可能だったと思います。対米英戦争でも、半年間の間に「西太平洋」から「インド洋」「東南アジア全域」を手中に収めた実力は「世界トップクラス」のものだったはずです。いくら、ソ連の極東軍が精強であったとしても、日本の航空部隊と戦艦部隊は「世界最強」だったのですから、十分「勝算」はあったはずです。ただし、そうなれば、当然、「米英蘭」が黙って見過ごすわけはありませんので、まず、油田を奪われた「オランダ」と戦うことになります。さらに、シンガポールなどの要塞を攻略するために「イギリス」とも戦端を開くでしょう。問題は、アメリカですが、たとえば「フィリピン」のアメリカ軍を攻撃したとして、アメリカ国民がどのような反応を示すのかが問題です。たとえ、植民地の基地としても、アメリカの支配地を攻撃すれば、当然、「アメリカ」とも戦争になりますが、「真珠湾攻撃」のような「リメンバー・フィリピン」にはならないはずです。なぜなら、そこは、アメリカの領土ではないからです。それを考えれば、対ソ戦は十分可能だったと思います。

ソ連にしても、西と東の「二正面戦争」では、勝敗は眼に見えています。当然、海上はすべて封鎖されるでしょうから、欧米からの支援は入ってきません。日本の連合艦隊なら、ソ連の極東艦隊を殲滅するのは時間の問題です。アメリカ海軍が太平洋に出てくる前に、日本はソ連と決着をつけることが可能なのです。それに、ソ連侵攻と同時にソ連領内の「油田地帯」を確保すれば、南方油田にそれほど依存しなくてもすみます。また、対ソ戦争が「短期間」で終了すれば「米英蘭」との和平交渉も可能になるはずです。なぜなら、ドイツがソ連に勝利すれば、次は「イギリス上陸作戦」が行われるはずですから、このとき、日本が双方の「和平」の調停に乗り出すチャンスが生まれます。日本にしても、ドイツが全ヨーロッパを支配し、次はアフリカ、インド、太平洋へと進出してくることは「新たな脅威」になるからです。そうなる前に、日本の圧力でドイツに「妥協」を迫り、第二次世界大戦の終結に貢献できれば、その後の日本の「未来」が開けるでしょう。もちろん、「ナチス・ドイツ」という国とは、いずれ「戦争」になるかも知れませんが、そのときは、日米が同盟を結んで「世界平和」という大義を掲げて戦うことができるのです。

もし、「ソ連」という国が、昭和の前期に崩壊していれば、世界中に「共産主義」が拡散されることもなく、中国が「中華人民共和国」になることもありませんでした。それは、北朝鮮も同じです。それは、日本にとって明治以降の「悲願」でもあったのです。現実には、大東亜戦争は、日本とドイツの大敗北によって終結し、ソ連はアメリカを凌ぐほどの「大強国」になってしまいました。そのため、勝利者となったアメリカは、戦後、次々と起こる世界中の「紛争」に軍隊を派遣せざるを得なくなったのです。そして、本来、強い同盟関係を築けたはずの「日本」を叩き潰してしまったために、「アジアの防衛」まで、アメリカが負うことになってしまいました。それを本当にアメリカ国民は望んでいたのでしょうか。いや、日本を戦争に引き摺り込んだ「ルーズベルト大統領」でさえ、考えていなかったことかも知れません。そう考えると、「ソ連」という国は、本当に怖ろしい国だったことがわかります。戦後の長い「冷戦」によって「ソビエト社会主義連邦」は崩壊しましたが、その後継国となった「ロシア連邦」は、「帝政ロシア」「ソ連」時代の意思を引き継いだかのように「領土回復」の戦いをやめようとはしません。「世界平和」のために作られた「国際連合」の常任理事国でありながら、世界を混乱に陥れている「大国」なのです。

歴史に「IF」はありませんが、あのとき、日本は「北に向かうか、南にむかうか…」の二つの選択肢がありました。もちろん、「どちらも選ばない」という選択肢もあったはずですが、それは「帝国陸海軍」にしてみれば、できない選択だったのでしょう。明治維新以降、日本軍は「敗北をしたことがない」というのが、自分で自分を縛ることになったのです。もし、「戦での敗北」を言うのなら、薩摩藩は「関ヶ原の戦」でも敗北を喫し、徳川家に従属したではありませんか。長州藩も同じ「関ヶ原」で戦わずして敗北し、「萩」という小都市に押し込められたことを忘れてるのではないでしょうか。まして、幕府方の諸藩は、戊辰戦争という理不尽な戦争を新政府に仕掛けられ、酷い目に遭わされたのは、まだ、半世紀ほど前の話です。それを「無敵皇軍」を自ら名乗るようでは、「帝国陸海軍」が幼い軍隊だったことを証明しています。要するに「情報分析」が甘いのです。見かけだけ立派にしても、「冷静な判断力」と「情報分析」「合理的な思考」ができて初めて「近代軍隊」と呼べるのですが、日本軍は常に「天皇のご命令」のみで動く軍隊ですから、最初から「科学」を忘れていることになります。「天皇」は「地位」であって「神」ではありません。それをいつまでも「現人神」であるかのように「神格化」したことで、日本は「近代」から取り残されてしまったのでしょう。

結論から言えば、あの時点で、日本は、アメリカとの戦争を避け、アメリカ政府の要求を「飲む」べきだったのです。その上で、アメリカという国をよく分析し、悪名高い「ハル・ノート」を世界中に発信し、「こんな、酷い条件を突きつけられて困っている…」「これでは、戦争するしかない…」と訴えるべきでした。この「ハル・ノート」は、ルーズベルト大統領の一存で日本政府に送られた「最後通牒」のようなもので、「アメリカ議会」も「国民」も、何も知らされていなかったのです。何度も言いますが、ルーズベルトは「戦争はしない!」ことを公約に掲げて当選した大統領です。その大統領が、日本に対して、ここまで追い詰めれば「戦争」になるのは必然です。そのことを議会や国民が知れば、アメリカは、自分の国の政府が信頼できなくなるはずです。実際、戦後、そのすべてが暴かれ、ルーズベルトの側近だった政府の要人は、すべて失脚しています。前大統領だった「フーバー」は、「我々、アメリカ国民は、ルーズベルトに騙されていた!」と、その著書に書いています。今でも、ルーズベルトは「アメリカの英雄」なのだそうですが、彼の行ったことがすべて暴かれれば、アメリカ政府の信用は失墜し、建国以後の歴史に「泥を塗る」ことになるでしょう。だからこそ、この時期の「公文書」は未だに公開禁止になっています。

日本は、敗戦によって、連合国軍に「占領」されました。たとえ、「国際金融資本家」たちや「ソ連のスパイ」たちによって戦争に引き摺り込まれたとしても、当時の政治家や軍人たちの認識の甘さが、彼らに「付け入る隙」を与えたのも事実です。もし、有力政治家や軍人が、「こんな戦争をすれば、日本は焼土と化し、間違いなく亡国となる!」と叫べば、御前会議で昭和天皇が「開戦はならぬ!」と聖断を下されたかも知れません。昭和20年に入り、アメリカの「オレンジ計画」どおりに各主要都市は焼夷弾攻撃を受け、まさに日本は「焼土」と化しました。その上、「核兵器」まで落とされ、戦前、東條英機が発した「時には、清水の舞台から飛び降りる勇気が必要だ…」のたとえどおり、日本は自ら「奈落の底」に転落して「亡国」となりました。そして、戦前持っていたすべての外国の支配地と権益を失い、辛うじて「皇室」だけが残されたのです。これをもって「国体が維持された」という人もいますが、本当にそうでしょうか。確かに形式的には皇室は残っていますが、国民の皇室に向ける眼は厳しく、一般国民より厳しい「制約」を強いられています。マスコミも常に皇室を「監視」し、尊敬と言うよりも「見下す」ような態度も見られ、本当に不愉快になります。それは、皇室の方々が十分に感じられていることでしょう。そして、あの忌まわしい「東京裁判」で、生き残った多くの軍人が、公正な裁判を受けることなく「処刑」されていきました。そんな「未来」を予測できる政治家や軍人が一人でもいれば、明治時代の三国干渉のときのように「臥薪嘗胆」で耐え忍び、新しい時代を切り開くことができたような気がします。それにしても、「300万人」もの日本人の「死」を経験しなければ、気づけなかったのでしょうか。それが、如何にも残念でなりません。

 

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