歴史雑学20「特攻」の思想

間もなく、戦後80年を迎える日本人にとって、あの「戦争」を振り返り反省することは、現在の「日本のあり方」を考える上で、大変重要なことだと思います。なぜなら、今の日本人は、本来の「日本人」ではないからです。なぜなら、80年前の大東亜戦争の敗戦をきっかけに、連合国軍総司令部(GHQ)による占領政策だけでなく、日本人自らが「過去の日本」と訣別したからに他なりません。それは「反省」と言うには、あまりにも醜い転換でした。もちろん、GHQが占領の成果として日本政府を操り、日本人がアメリカにとって「都合のいい民族」になることを望んだのかも知れませんが、占領軍の言うがままに従うことを「よし」とした当時の政治家や官僚たちには、本気で「国を守ろう」という意識があったのか…と問われると甚だ疑問が残ります。もちろん、それについては多くの意見があることは承知していますが、未だに占領期に作られた「日本国憲法」の条文ひとつ変えられない状況を見ると、たとえ、形式上は「独立」を果たしたように見えますが、水面下では未だにGHQに替わるアメリカ政府(若しくは、アメリカ軍)の「指令」があるように思えてなりません。アメリカ政府や軍の内部には、未だに「日本を絶対に独立させてはならない…」といった明文化されない意識があるように思います。これは、他の敗戦国には見られない異常な現象です。

理由はわかりませんが、戦後の歴史を見ていて、日本の政治家がアメリカにとって不都合なことを言い出すと、アメリカは慌ててその政治家の口を塞ごうとするようです。たとえば、日本は、多くの「アメリカ国債」を買わされて保有していますが、これを「売りたい」と言うと、アメリカ政府は慌てて日本に要人を派遣します。日本が「核武装問題」を提起したときもそうです。田中角栄元総理が逮捕された「ロッキード事件」などは、田中元総理がアメリカの意向を無視して中国と「国交回復」をしたことに腹を立てたアメリカ政府の指示で日本の検察が動いた…という噂があります。さらに、安倍元総理が「戦後体制からの脱却」を宣言すると、アメリカ政府だけでなく、マスコミも挙って「歴史修正主義者」のレッテルを貼って、その追い落としキャンペーンを張りました。国民の一人としては「えっ、なんで…?」と驚きましたが、心の中では「こういうことは、言ってはいけないんだ…」と納得した人も多かったはずです。あの「暗殺事件」も「あんな、模造銃で人が殺せるものか?」と素人でも判断できそうなことが、警察やマスコミは、尤もらしい理由をつけて「あの玩具のような銃の弾丸が、安倍元総理の心臓を撃ち抜いた…」と言うのですから、「?」はずっと頭の中に残ったままです。そのアメリカが、前の大統領選挙で平気で「バイデンジャンプ」といった不正選挙疑惑を否定するくらいですから、何が起きても不思議ではないのです。

結局、今でも、間違いなく「戦後体制」は続いており、もう二度と、それを変えようとする政治家は現れないでしょう。いくら何でも、安倍元総理のような、あんな殺され方をするのであれば、敢えて挑戦する政治家はいません。安倍元総理の暗殺事件は、一見、「個人的な恨みによる暴力事件」のように装っていますが、そんな単純なものではないことは、素人でもわかります。こうして「嘘」で塗り固められた歴史を信じて、国民は生きてくしか道はないのです。しかし、いずれ「嘘」で塗り固められた歴史の真実が暴かれる日がやって来ることでしょう。今でも、多くの研究者が論文等を発表し、真実を掴もうとしていますが、それが「公文書」になることはありません。結局は、権力者側の都合に合わせた研究が評価され、「公文書」となっていきます。そして、国民は、子供のころからの学校教育において「公」が認めた歴史を学び、恰もそれが真実であると信じ生きていくのです。しかし、それで本当にいいのでしょうか。確かに、「今」を生きる私たちには、その方が生きやすく、それに逆らったところで得る物はありません。そんな歴史観では、高校や大学の受験すら合格はできないでしょう。それを知ったところで、親や教師たちからも「そんな歴史は嘘に決まっている…」「おまえは、騙されているんだ…」と叱責され、国民の大多数が信じる「公」の歴史観に戻されるだけのことです。それでも、心の中で「腑に落ちない」自分がいることは確かなのです。

先の大東亜戦争では、軍民合わせて約300万人の日本人が亡くなりました。戦った軍人にしても、戦火に倒れた一般国民にしても、戦後、自分たちがどのような扱いを受けるのか…までは想像できなかったはずです。そして、今の日本が、自分たちが考えていたような国になっているのであれば、自分の死も受け入れることができるでしょう。しかし、敗戦というだけで十分な「慰霊」もされず、国民の多くが忘れてしまうような「歴史の一部」になっていたとしたら、どう思うのでしょう。戦争を経験しない者の中には、「死んだ人間が、そんなことを考えるはずがない…」と考える人はいるでしょう。しかし、今を生きている人の考えだけで、日本の歴史や未来を勝手に創っていいのでしょうか…。「死んだ者」に発する言葉はありません。しかし、それを「思い遣り」、先祖に対して敬意を持ち続けることで、国は未来を描くことができるのです。残念ながら、今の日本にそれを感じることはできません。今の日本政府自体が「戦後体制」そのものなのですから、未だに「GHQ」の呪縛から逃れることができないまま時間ばかりが過ぎていきます。まして、安倍元総理のような悲惨な最期を目にすれば、たとえ、高尚な政治理念をもった政治家でも心が萎縮して当然です。そういう意味では、安倍元総理の死は、「自立の道」を進もうとした日本人の意思を挫く効果があったということです。

今の日本は、表面上は惨めな「敗戦国」ではなく、世界有数の「経済大国」として国際社会に認められているように見えますが、その「魂」は小さく萎み、「心」は既に日本の歴史や伝統を忘れた「亡国」になりつつあります。だれもが、自分が「今」を生きることで汲々とし、政治家や官僚や企業家たちも「国を背負う」気概は、何処にも見えなくなりました。「志」を失った権力者に明日はありません。一時の権力も、近い将来にはすべてを失い、失意のうちに社会から消えていくことでしょう。そして、彼らの残した「組織」は、急速に衰退し、10年後には何も残らないかも知れません。それが、今の「日本」という国の現実なのです。それでも、私は「日本」という国が、必ずや再生する時が来ることを信じています。確かに、政治家や官僚、企業家たちはその使命を忘れて堕落してしまいました。しかし、一方、国民の中には、未だに「日本人」であることを忘れない人たちがいます。それは、日本の「ものづくり」に関わる人たちです。日本の食文化は、「世界文化遺産」に登録されるなど、その独創性は他国の追随を許しません。日本のアニメは、世界各国に配信され、若者たちを虜にしています。日本の伝統的な工芸・建築技術は、世界の人々の賞賛と信頼を得ています。他にも、「我こそは、日本人なり!」と堂々と世界に向けて発信しているのは、日本に「こだわり」を持った人々なのです。

今、日本のスポーツ界では、アメリカ大リーグで活躍している「大谷翔平選手」の話題で持ちきりですが、彼は、けっして日本の「権力者」側に立つ若者ではありません。普通の家庭に生まれ、好きな野球をとおして「自分の夢」を実現した日本人です。そして、プロ野球選手としての成績だけでなく、その「人間性」が高く評価されています。恥ずかしながら、そんな若者に比べて「権力者」側に立つ日本人からは、彼らの「志」は見えません。兎角、若者は大人たちから非難されることが多く、「今時の若者は…」と揶揄されますが、今の肩書きだけ立派な大人たちから、そんな声はまったく聞かれなくなりました。数年前まで「ゆとり世代」とばかにされた若者世代の活躍は、まさに、未来を予測しているかのようです。「大谷翔平」こそが、大人たちの嫌う「ゆとり世代」の代表者だということを忘れてはなりません。この先、日本がどのような時代を迎えるかはわかりませんが、既存の政治体制が崩れ、世界が「グローバル化」の愚かさに気づいたとき、日本の「敗戦思想」と「戦後体制」が崩壊し、新しい日本の新体制へと移行するような気がします。そのとき、大人たちが「今時の若者は…」と揶揄された世代が活躍するのです。そのためにも、私たち「大人世代」は、次の世代に大切な「バトン」を渡すことができるように、もう一度、あの戦争で亡くなった多くの英霊や日本国民の声に耳を傾け、「歴史」に真摯向き合う必要があるのです。

1 「特攻隊員」たちの思い

日本の戦後は、連合国軍総司令部(GHQ)による占領政策から始まりました。これは、アメリカが中心となって日本を根本的に「改造」しようとする計画(WGIP)に基づくものでした。連合国にとって、いや「アメリカ政府」にとって、日本ほど怖ろしいと感じた国はありませんでした。50年前に「野蛮国」の扉を開いてやった恩も忘れて、凄まじい勢いで力を付けてきた「ジャパン」は、僅か半世紀ほどで世界の列強に肩を並べてきました。日露戦争のころまでは、「日本もよく、頑張っているじゃないか…?」と余裕を見せていたアメリカも、第一次世界大戦ころになると「アジアの脅威」と感じるようになったのです。それは、中国大陸に日本が日清、日露の両戦争による権益を得たからです。中国進出が遅れたアメリカは、何度も日本に「共同経営」を打診しましたが、日本政府は「多くの日本兵の血と国民の汗によって得たものだ」と、アメリカの要望に応えることはありませんでした。その「逆恨み」のような感情が、アメリカ人に「日本の野郎!」といった屈折した感情を抱かせた原因だと言われています。

そして、日本に対して数々の「嫌がらせ」を行い、日本を屈服させようと企んだのです。大正時代から始まった「黄禍論」と呼ばれる「日本人移民排斥運動」などは、その最たるものでしょう。白人優先主義と人種差別主義に基づく当時の欧米各国にとって、国際会議に堂々と出て発言する日本人が忌々しく、日本が何を言った…というのではなく「有色人種のくせに…」といった感情が彼らの心を支配していました。まずは、そのことを知っておくべきです。いくら、立派な服装をして威張っていても、所詮、人間の感情というものは、一般庶民も偉い人もあまり違いはありません。寧ろ、肩書きが立派なだけにプライドだけが高く、心の中で見下してる者に対しては、「俺様…」的な扱いをしてしまうものなのです。歴史書の中では、そうした人間の下劣な感情までは書けませんので、なかなか、当事者の心を読み解くのが難しいのかも知れません。「戦争」が起きるときというのは、意外とこんな「下劣な感情」があるからこそ起きるのです。その証拠に、戦時中、アメリカも日本も「敵国」を酷く罵り合いました。アメリカ人は、日本人を「ジャップ」とか「モンキー」と蔑み、日本人はアメリカ人を「鬼畜」と呼んでいたのですから、尊敬の欠片もありません。これが「戦争」なのです。

ところが、実際に「あの、憎たらしい日本人を懲らしめてやろう…」程度の感覚で戦争をするように仕向けてみれば、日本は、とんでもない実力を発揮し、数十万人のアメリカ青年を殺傷しました。日本軍による「真珠湾攻撃」の被害報告を受けたとき、アメリカのルーズベルト大統領は、思わず「まさか…」と呟いたそうです。それは、「まさか、日本が戦争を仕掛けるとは…」の「まさか」ではなく、「そんなに強力な軍隊があったのか…?」という「まさか」でした。そのため、自分で日本を「嵌めて」おきながら、アメリカ国民を欺くために、声高に「リーメンバー・パールハーバー!」を叫んだのです。そして、戦争が進むにつれて、アメリカ軍の被害報告は増加し続け、大統領は益々日本を憎むようになりました。そんな大統領の心の弱さと権力欲に付け込むように、ソ連のスパイが政府内に入り込んで、アメリカの政策を思うがままに操っていました。歴史の中では、これを「容共主義」と言うのだそうですが、ソ連や共産主義の怖ろしさを少しでも感じていれば、絶対に選択してはならない「政策」でした。そして、戦後、それをさらに誤魔化すために日本を必要以上に貶め、歴史を改竄したのです。

現実のアメリカでは、3年以上も続いた戦争に国民は飽き、続々と帰還してくる兵隊の姿を見るにつけ、国民の多くは疑問を持つようになっていました。それは、「こんな酷い戦争をいつまで続けるんだ?」というものです。マスコミは、連日、アメリカ兵の「英雄話」を報道し「間もなく、日本が降伏し平和が訪れる」といったキャンペーンで国民の関心が薄まらないようにしていましたが、実際は、「もう、たくさん…」と思う人がたくさんいました。それは、単純なことです。兵隊になるのは、自分の家の父であり兄であり、息子たちなのです。そんな大切な家族が戦争に行って戻ってきても、五体満足な人は少なく、見た目は普通でも「心」は酷く傷ついていました。あんな過酷な戦場で多くの仲間の死に遭遇し、自分も危うい経験を重ねれば、心が傷ついて当然です。政府や軍は、勲章のひとつも与え、僅かな恩給でも給与すればお終いです。まして、死んだ者は「認識票」ひとつ届けられ、遺体も戻らないのであれば、残された家族は泣くにも泣けません。これで、「戦争継続賛成」を叫ぶ者は、余程、戦争によって利益を得る者だけでしょう。アメリカ映画にも描かれてましたが、「硫黄島」で生き残った兵隊は、帰国後、すぐに「戦時国債募集」のためのキャンペーンに駆り出され、「作られた英雄」を演じなければならなかったそうです。

日本軍と戦ったアメリカ将兵が負った「心の傷」は深く、帰還しても回復は難しいほどの重症を抱えたまま残りの人生を送った者も多く、彼らは「戦争被害者」でもありました。それと同じことが「ベトナム戦争」時にも起こりましたが、国民にとって、「何のために戦っているかわからない戦争」に駆り出されるほど、ばかな話はありません。国民が「反戦運動」や「徴兵拒否」をするのは当然です。日米戦争時にも同じような状況にあったのです。当初、戦争が始まった頃は、ルーズベルト大統領の演説もあり、「日本憎し」で国民が一丸となることができましたが、それでも、心の中では「あんな卑怯な日本兵は、きっと弱いに違いない…」と勝手に思い込んでいた節があります。大統領自身が、真珠湾の被害の詳細を聞くと「あの飛行機には、ドイツ人が乗っているに違いない!」と叫んだそうですから、鼻から日本軍など相手にならないと考えていたのです。これは、もちろん、政府や軍からの情報などに基づく分析ではなく、単なる個人の「差別感」からくる偏見でした。こうした人間が、世界最大国(最強国)の大統領なのですから驚きです。

当然、アメリカ兵も最初は日本軍を「侮る」気持ちはあったでしょう。それに「リメンバー・パールハーバー」のキャッチコピーは、宣伝効果抜群でしたから、志願者が続々と軍に集まりました。だれもが、今度の戦争の主体はヨーロッパの「対ドイツ戦」であり、アジアの日本軍などイタリア軍より劣る旧式軍隊だと上官から教え込まれていましたから、太平洋戦線の方が楽だと思われていたのです。そして、幹部たちも「アジアをさっさと片づけて、ヨーロッパに向かおう!」と兵たちを鼓舞していました。しかし、実際は、ドイツ軍の方が先に降伏し、最後は日本だけが残って戦い続けました。本当のところ、一般国民に敵国の戦力や戦闘能力などわかるはずがありません。日本でも「零式艦上戦闘機」や「戦艦大和」などは、国内でも「極秘」扱いされており、実戦で戦った者たちだけが、その性能と怖ろしさに気づくことができたのです。そして、実戦をとおして、日本軍が如何に強大な敵であるかをアメリカは認識しました。昭和16年末から昭和17年中頃までの日本軍は、まさに「無敵」状態で太平洋からインド洋にかけての広大な地域を次々と占領していったのです。アメリカが、本気になったのは、この半年後のことでした。

アメリカが、国を挙げて「総力戦体制」に移行すると、最早、日本に勝ち目はなくなりました。とにかく、アメリカの「物量」はもの凄く、日本の10倍の戦力が瞬く間に生産されるわけですから、長引けば長引くほど、日本の不利は明白です。それでも、日本軍は戦い続けました。日本国民にしてみれば、「戦争は、早く終わって欲しい…」とだれもが思っていても、プライドばかりが高い当時の軍部や政府の幹部には、そもそも「決断」する勇気がないのです。戦争は勢いだけで始められますが、終わるときは余程の覚悟が必要になります。もし、サイパンが落ちた時点で「講和」を言い出すためには、総理大臣、陸軍大臣、海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、外務大臣あたりが腹を切る覚悟が必要だったはずです。その方が、東京裁判などで絞首刑になるよりずっとましだったと思いますが、当時の顔ぶれを見ても、そんな勇気のある人はだれもいません。それが、昭和初期の日本の指導者の実態でした。せめて「2.26事件」で殺された高橋是清や佐藤實たちがいれば、違った判断もあったでしょうが、陸軍は日本の真の力となる政治家や軍人を殺し、または、予備役にしてしまっていたのです。したがって、日本軍の将兵は戦いたくて戦っていたのではなく、「終わりも見えない戦争」に困惑しながら戦っていたのです。そして、それは、個々の将兵たちの意識を変えました。それは、「国のために戦う=愛する者たちを守るために戦う」といった真の「愛国心」のための戦いになっていったのです。そうした、自分の「愛する者」を守るために戦う…方が、ずっと戦闘意欲は湧くというものです。そして、それは激しく敵国の兵士たちに向けられました。

実際の戦場で日本兵と戦ってみると、それはアメリカ軍が経験したことのないほどに苛烈な戦いが繰り広げられました。ヨーロッパ戦線で戦った経験のある将兵にしてみても、「あり得ない!」と叫ぶほど、日本兵は強靱で負けることを認めませんでした。そして、最期は「バンザイ!」を叫びながら白刃を煌めかせながら突っ込んで来るのですから、怖ろしくないはずがありません。いくら「戦争」とはいえ、合理的な思考の下で行うことが暗黙の「ルール」としてありました。部隊の三分の一も戦力を失えば、最早、それで「降伏」しても恥でも裏切りでもありません。当然のルールなのです。ヨーロッパの戦場では、それが当たり前で、「負け」がわかっているのに命を捨てるドイツ兵はいませんでした。たとえ「捕虜」になったとしても、特に虐待を受けるわけではなく、人道に基づいた対応は「国際法」で認められているのですから、捕虜は戦場で立派に戦った「英雄」なのです。ところが、日本軍は違います。貧弱な装備で食糧も補給もなく、アメリカ軍が「もう、終わりだろう…」と思っていても、まだ、日本兵は戦い続けようとするのです。大けがを負い、包帯を巻きながら、痩せ衰えた姿で突っ込んで来るのですから、想像しただけでも「身の毛がよだつ」ような怖ろしさです。これでは、「終わり」が見えなくなってしまいます。そんな日本兵を見て、アメリカ将兵は一様に驚き、困惑しました。そして、「こんなに命がけで戦う兵隊が、本当に卑怯者なんだろうか?」という思いを強くしたのです。

日本軍による「真珠湾攻撃」の放送を聞いたとき、今、戦場にいるアメリカ兵のほとんどは、驚き、次には、憤怒で顔を赤く染めながら軍隊への願書を書きました。そして、勇んで軍営の門を潜って戦場に出てきたのです。訓練の間中、上官からは如何に日本軍が卑怯で、その兵隊はすばしっこくて狡賢い人間かを散々聞かされました。そして、上官は口々に日本兵を「モンキー共」とか「ジャップ!」と罵り、同じ人間とは見做さない「野蛮な猿」扱いをして平然としていたのです。そして、「奴らには、俺たちの半分の知恵もない!」と見下し、「この新兵器を使えば、いちころさ!」とアメリカの兵器を自慢し、新兵たちを洗脳していきました。ところが、実際、戦場に出ると、勇ましいことばかり言っていた上官が、日本兵の捨て身の攻撃に慌てふためき、怯えていたのですから話になりません。結局、勇敢に戦ったのは、アメリカ国内で差別を受けていた有色人種の兵隊ばかりでした。彼らは、常に「最前線」に配置され、その戦死率は他の白人兵と比べても異常に高かったのです。ところが、マスコミが扱う場合は、勇敢な兵隊はいつも「白人」ばかりで、作られる映画も白人スターが主役でした。これでは、白人以外の有色人種の兵隊は、面白いはずがありません。それでも、国に残る家族のために、戦場で活躍して勲章のひとつも貰って帰りたいのです。そうすれば、帰国後はそれなりの仕事が見つけられ、軍人恩給も多く貰えるからです。それは、日本でも同じでした。日本の場合、戦場で死ねば、兵隊の夢である「金鵄勲章」が貰えるかも知れません。当時、勲章には「年金」が付いていましたので、自分が死んでも家族に「年金」が下りるのです。貧しい家の出の兵隊たちは、そのために勇敢に戦った一面もありました。だから、感情的には「日本兵」も「アメリカ兵」も、そんなに違いはなかったのです。何処の国でも「下級兵」というものは、そんなものだと思います。

そんな戦いが、二年、三年と続くと、だんだんと真相が明らかになってきます。もちろん、双方の政府や軍は、相変わらず敵兵を罵り、何とか将兵の「士気」を維持しようと躍起になっていましたが、それでも最初の頃のような興奮状態は収まり、今置かれている自分の状況を把握できるようになると、「何か、上官たちが言っていたことと様子が違うんじゃないか…?」という疑問を持つようになりました。それは、実際の「日本兵」と戦った人間だけがわかる真実なのです。最初のころは、姿が見えなかった日本兵が遺体となって姿を現し、そのうち「捕虜」になる者も出るようになりました。多くの「遺体」を探ると、寄せ書きが書き込まれた「日の丸の旗」や「家族写真」などが見つかりました。最初は「戦利品」として喜んで持ち帰っていたアメリカ兵も、よくよく見れば「同じような立場の男たち」であることがわかります。生き残った自分たちも、上着のポケットには大切な人の「写真」をみんな忍ばせていたからです。そんな姿を見ると、日本兵が「ずる賢い猿」には見えくなるものです。そうした上官の小さな「嘘」から、戦争そのものに疑問を持つ兵隊が出てきてもおかしくはありません。そして、偉そうに命令だけをする上官より、命をかけて戦っている敵兵に「仲間意識」を持つ者も出てきました。

戦後、日米の元兵士たちが集まり「親交」を深めたというニュースがありましたが、これなどは、末端の兵隊として「命をかけて戦った者同士」というスポーツ選手にも似た感情が湧いてくるからでしょう。そのときには、もう「恨み」はありません。「俺たちは、よく戦ったよな…」といった熱い思いだけがお互いの心の中に去来していたのです。そして、日本では、戦後「戦友会」が各所に作られ、年に一度は「靖国神社」に集まり、旧交を暖めたといいます。しかし、兵隊の心がわかる上官はその席に呼ばれても、非情に徹した冷たい上官には声もかけられませんでした。特に「特攻隊」の指揮官として命令を下し続けたような幹部将校は、戦後も忌み嫌われ、そんな仲間たちの元には顔も出せませんでした。そういった軍の上層部だった軍人の多くは、マスコミの取材に対しても「自己弁護」に終始し、反省の言葉を口にすることはなかったそうです。これは、おそらく、アメリカでもそうだったはずです。現代に生きる私たちは、「軍人」という言葉で一括りにして論評を加えますが、当事者たちは、そんな簡単に割り切れるものではありません。同じ人間でありながら、「命の値打ち」があまりにも違う現実に戦争の愚かさを感じるばかりです。それでも、必死に戦った兵士に「ご苦労様でした」のひと言を述べるのは、けっして恥ずかしいことだとは思いません。同じ「日本人」として、苦労をした先人を思う気持ちは、戦争とは関係のない「人間」としての「情」だと思います。

日本軍が、最後の最後に採った作戦が、敵艦に爆弾を抱いた飛行機ごとぶつける「体当たり攻撃」でした。人間が飛行機を操縦して爆弾を投下せずに、機体ごと軍艦にぶつける方法は、何処の国でも研究もしたことのない「無謀」な戦法でした。それを、日本軍は正式に採用し「軍命令」として計画的、継続的に実施したのです。これは、もう「戦争のルール」など関係ない「前近代的な作戦」でした。もちろん、そのことを日本軍の指導者たちは、みんな知っていました。そして、「戦争のルール」を逸脱していることを承知の上で行ったのです。当然、アメリカ人の感覚では「絶対にあり得ない作戦」であり、考えもしない戦法でした。これを初めて見たときのアメリカ将兵の驚きは、どんなものだったのでしょう。もちろん、それまでも被弾した飛行機が突っ込んで来る例はありましたが、それは戦闘中に起きたひとつの「出来事」であり、「作戦」として行われているとは考えもしません。おそらくは、「なんて、無茶なことをするんだ?」と思っていたことでしょう。それが、昭和20年入ると「常態化」してきたために、アメリカ軍もそれに対する「防衛体制」を敷かなければならなくなりました。特に沖縄戦が始まってからは、連日、特攻機が飛来し、アメリカの艦船は、その対応に大童になったのです。

そして、いくら防御体制を整えても、次から次へと「体当たり機」はやって来ては、猛烈な対空砲火にも拘わらず、火達磨になりながらも突っ込んで来るのです。こうなると、戦果がどうだ…という話ではありません。アメリカ軍の艦船の乗組員たちは、火の粉でも払うかのように日本軍機を狙って機銃を撃ち続けました。防衛を担った戦闘機も、日本軍機を見つけ次第撃ち墜とし続けたのです。それは、毎日、毎日、朝から夕方まで続きます。夜になれば、体当たり機はなくなりますが、今度は、日本軍の夜間攻撃機が魚雷を抱いて突っ込んできます。乗組員たちは、常に飛行機の爆音に耳を澄ませて緊張の糸を張り続けなければなりませんでした。もちろん、このころにはアメリカ軍も各艦船に「レーダー」装置を配備し、日本軍機の来襲を把握していましたが、いくら「何時頃に来襲する」とわかっていても、それで心が落ち着くわけではありません。余計に緊張し、その「怖ろしい瞬間」を待たねばならないのです。そして、日本軍機がやってくれば、全艦が「無事」ということはありませんでした。必ず、駆逐艦の数隻は大損害を受け、戦死傷者が出るのです。今の人たちは、戦果を「撃沈・撃破」の数で考えますが、艦船に損害はなくても、日本軍機が撃ってくる銃弾によって人的な被害は出ていました。まして、体当たりでもされれば、日本軍機から漏れたガソリンがあちこちに撒き散らかされ、甲板上は火の海になります。鋼鉄の船は無事でも、生身の人間は無事ではすまないのです。

こんな怖ろし戦争をしていれば「神経」が持ちません。連日の戦いで、多くのアメリカ兵が「神経症」に罹り、戦場から離脱して行きました。神経症は、今でもそうですが、そんな簡単に治癒する病気ではありません。記録には残されませんが、病気のため「除隊」になって故郷に帰っても、その病気に苦しめられて生涯を終える元兵士は、たくさんいたのです。そして、その男を抱える家族は、長い「介護」という苦しみを味わうことになりました。戦勝国だからこそ、不運に見舞われた家族の悲劇は、敗戦国の日本人以上だったのかも知れません。ついでに言えば、アメリカは、対日戦争の後も「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」と多くの戦争に参加し、たくさんのアメリカ青年を兵隊にして戦場に送りました。その「悲劇」は、今も尚続いているのです。

ところが、連日のように「体当たり攻撃」を受けているうちに、そんな「無謀」な戦い方をする日本兵に敵意ではなく、憐れみとも違う「共感」を覚えるアメリカ兵が出てきました。あるときの攻撃では、機体から火を吹いて、海上に墜ちた日本軍機の中から辛うじて這い出て来た日本兵を見つけました。この男は、助けを請うのでもなく、こちらに向かって黙々と泳いできます。すると、だれかがこの男を銃撃し殺しました。男は、無言で血を流しながら海の底に沈んでいきました。その光景を見ていた多くのアメリカ兵は、敵を殺したことに対して喜ぶでもなく、その男が沈んだ海面をじっと眺めていたといいます。それは、激しい戦場の中での「一瞬」の出来事でしたが、だれもが、その光景を「自分事」として捉えていたのです。男は若く、こちらを見る眼は、最期まで燃えるように光っていました。もちろん、そんな日本兵の名もわかるはずがありません。それでも、命のやり取りをしている若いアメリカ兵には、そんな日本兵に「共感」し、「尊敬の念」さえ湧いてきたのです。「日本の若者よ。よくやった…。安らかに眠ってくれ…」それは、戦う兵士というより、一人の「人間」としての叫びだったに違いありません。

そんな戦いが毎日続き、戦うアメリカ兵たちはだれもが「無口」になっていきました。それは、次第に、その艦全体に広がり、だれもが「こんな戦争、いつまでやるつもりなんだ…」と、上層部の対する不満となって燻り始めたのです。最早、日本軍に戦局を挽回する力がないことは最下級の兵隊にもわかります。無我夢中で互角に戦ってる間は、敵愾心に燃え、狂ったように引き金を引き続けられますが、戦いが終わり「掃討戦」になると、今度は自分の「命」が惜しくなり、早く「帰還」したいとう思いに駆られると言います。それは、沖縄本島に上陸して戦ってきた陸軍のアメリカ兵も同じです。戦っても戦っても、勝っているのに終わりの見えない戦闘は「心」を蝕んで行きます。ましてや、戦闘員である日本兵を殺すのではなく、一般の日本人を殺さなければならないのです。「向かって来る敵は、兵隊も民間人もない」という理屈はわかります。しかし、実際に銃を向けるアメリカ兵にとって、女性や子供、老人に銃を向けて「引き金」を引くことは、本当に辛い作業なのです。今に残る映像には、淡々と掃討作戦を行うアメリカ兵が映っていますが、この地上戦においても多くの「神経症患者」が出て後方に送られて行きました。多くのアメリカ兵は「早く、手を挙げてくれ!」「もう、降伏してくれ!」と思って戦っていたのです。

そんな兵士たちの「士気」の低下は、沖縄に派遣されている艦船や各部隊に大きな影響を与えることになりました。指揮官たちも、「こんな戦争をいつまでやるんだ?」という疑問を持つようになり、沖縄からの「撤退」すらも議論されるようになったと言います。もし、沖縄戦が、後ひと月も続けば、ひょっとしたらアメリカ軍に何らかの動きがあったかも知れません。そのくらい兵士たちにとって「過酷な戦場」が「沖縄」だったのです。アメリカ軍は、昭和20年の12月から21年の春にかけて、日本本土への「上陸作戦」を計画していたようですが、もし、実際に実行されたとしたら、その後の「ベトナム」以上の悲劇が待っていたかも知れません。最早、アメリカ軍やアメリカ政府は、現地指揮官や兵士たちの「声」を無視できなくなっていたのです。それは、アメリカ本土の国民も同じでした。昭和20年5月に「ドイツ」が無条件降伏したことで、「第二次世界大戦」は決着がついているのです。後は、日本に対して「降伏」を勧告するだけの話です。それは、「無条件降伏」などではなく、戦争を終わらせるための「講和」でよかったのです。国民も兵士も最早、戦争に飽いており、だれもが「平和」を待ち望んでいました。日本を屈服させることを望んでいたのは、アメリカ政府だけでした。それは、体を壊していたルーズベルト大統領がソ連のスターリンと密約を結んだせいですが、そんなことを知る国民は皆無で、政府の役人や政治家でそれを知る者は、ほとんどいませんでした。その「密約」のために、日本は原爆を投下されて、ソ連の参戦まで戦争を終わらせることができなかったのです。

アメリカ政府には、既に軍や議会からも「戦争終結」についての意見は多く上がってきていました。また、各州からも「国民の声」は届いていたのです。後は、アメリカの大統領の決断ひとつでした。しかし、病に苦しんでいたルーズベルトは、最期まで日本の「無条件降伏」に拘っていました。彼ほど、日本人を差別し憎んでいたアメリカ人はいないでしょう。ルーズベルトは、戦後に「国際連合」を創設し、その盟主として世界に君臨したいと考えていました。そのためには、ソ連の協力が不可欠だったのです。そのため、だれもが慎重になっていた「ソ連」をいち早く「国家」として認め、「共産主義」をひとつの理想主義として認めたのです。そのために、アメリカ政府内には、ソ連のスパイが多く入り込むことになったのですが、それすらも「容認」してきたのが、ルーズベルトという男でした。今のアメリカが、ルーズベルトをアメリカ史上最大の「英雄」として認めているのも、この時代の「闇」を暴かれては困るからです。闇が深ければ深いほど、それを隠蔽しなければ、政権は保ちません。そして、一度隠した「真実」は、世界がどうなろうと地獄まで持って行くのが鉄則なのです。もし、アメリカ国民がこの事実を知れば、社会は大混乱を引き起こすかも知れません。そうさせないためにも、アメリカ政府は、必死になって日本と日本人を貶め、多額の予算を使って「如何に日本軍は卑劣で、野蛮人だったか…」を宣伝しなければならなくなったのです。あの「原子爆弾」でさえ、「数百万人のアメリカ兵を犠牲にしないため…」という詭弁を弄し、必死になってその「正義」を訴えました。しかし、実際には、ヒロシマやナガサキの写真や資料が出始めると、さすがのアメリカ国民も「これは、やり過ぎだろう…」という声が聞かれるようになってきました。キリスト教の信者の多いアメリカにとって、たとえ「敵」だとはいえ、一般市民をたった一発の爆弾で「焼き殺した」事実は、後世までの「汚点」として残りました。今でも、それはアメリカ人の深い「傷」なのです。今も広島の「原爆ドーム」とその資料館には、多くの外国人が訪れますが、見学後に「それでも、原爆投下は正しかった」と言えるアメリカ人は少ないと思います。

心の中には、そんな「罪悪感」を持ったGHQは、戦前の日本の歴史をすべて「否定」し、日本人自らが「自分たちが悪かった…」という自虐的な意識を植え付ける「洗脳作戦」を採ることになったのです。これが「WGIP」という日本人に罪を認めさせるための「心理作戦」でした。そして、この「WGIP作戦」は大成功を収め、今の日本人を創り出したのです。要するに、こうしたGHQによる「陰謀」から戦後は始まりました。まずは、このことを強く認識しておく必要があります。当然、「特攻」などという作戦は、まさに「愚かな極み」であり、GHQにとっても「許し難い暴挙」として捉えていました。真相を言えば、昭和20年に入ってからの日本軍の死に物狂いの戦いは、連合国軍にとって「恐怖」以外の何ものでもなかったのです。考えてみれば、日本が「絶対国防圏」とした中部太平洋から日本本土にかけての防衛ラインは、日本に取って絶対に敵の手に渡してはならない最後の「砦」でした。もし、ここを破られれば、後は「本丸」しかありません。日本の指導者たちにも、あの忌まわしい「戊辰戦争」を思い出したはずです。会津藩は、防衛ラインである「母成峠」を落とされて、会津若松城下に新政府軍が雪崩れ込み、会津は敗れました。徳川幕府も「箱根峠」を破られたことで江戸に危機が迫り、幕府が崩壊しました。当時の軍人も政治家も数十年前の出来事を思い起こせば、この時点で大東亜戦争が「詰んで」いることは承知していたはずです。それでも、戦争を終わらせることのできない人間の弱さが露呈しました。そして、最後は「本土決戦」「国民総特攻」を考えるようでは、軍隊は終わりです。唯一、昭和天皇だけが正気を保って「終戦」を決断されたことは幸いでした。

本来、「体当たり攻撃」などという「一死零生」という作戦は採るべきではありませんでした。そもそも、どんな時代であっても人に「死ね」と命じることは「国家の崩壊」を意味します。なぜなら、そんなことをすれば「国家」が国民との契約でもある「国民を守る」ことを政府も軍も放棄することになるからです。いくら「国体を守る」と言っても、天皇お一人を守って国民が玉砕してしまえば、国は復興する力を失います。「特攻」は突き詰めれば、「日本」という国を滅ぼすことなのです。おそらく、「本土決戦」が叫ばれるようになると、国民のほとんどは日本の未来に希望を見出すことができず、政府も軍も信頼を失っていたはずです。いくら「権力」で、国民を抑えつけようとしても、そんな「政権」が長く続いた例しはありません。そのことを昭和天皇は、気づいていたからこそ、終戦の「聖断」を下されたのです。もし、あのとき、昭和天皇が聖断を下さないまま戦争が終わったとしたら、日本国民は、天皇への信頼をなくし「革命」が起きていたことでしょう。政治家や軍官僚は、「国体=天皇」だと信じていたようですが、「国体=国民」だということに気づいていたのは「天皇」お一人でした。やはり、邪な気持ちで行った「明治維新」は、数十年後にその欠点を露呈し、外国の手によって終末を見たと言って差し支えないと思います。

戦後の日本人が占領軍である「GHQ」の命令を易々と聞いたのは、当時の政府と軍が国民から見限られていたからです。その主な原因は「敗戦」などではなく、若い将兵(国民)に易々と「死」を命じたからに他なりません。沖縄が陥落すると、政府や軍は「本土決戦」を叫び、国民全員に「特攻」を命じようと企んでいました。本来、政府や軍は「国民の平和と安全」を守るために機能している組織であり、それを自らが侵すようでは、国の体制は維持できません。唯一「天皇」だけが、国家元首として、その機能を維持していました。国民は、「天皇陛下だけは、国民のことを考えて下さる…」と信じていたのです。そして、それは「玉音放送」という形で戦争を終わらせ、国民の信頼に応えました。「やはり、天皇陛下は、国民のことを第一に考えて下さっていたのだ…」という安心感があればこそ、「無条件降伏」という理不尽な扱いを甘んじて受けることができたのです。

それは、特攻を命じられた若い将兵も同じでした。「天聴に達する…」という言葉は、何ものにも代え難い喜びであり、最高の栄誉でもありました。事実、昭和天皇は、この特攻隊の戦果を聞くと、じっと考え込まれ、最後に「そうまでしなければならなかったのか…。しかし、よくやった…」という言葉を発せられました。これは、国家元首として当然の言葉だったと思います。しかし、それを「喜んで」いたわけではありません。「そうまでしなければ、ならなかったのか…?」という疑問は、ずっと昭和天皇の心の中にあったはずです。それがあればこそ、終戦間際まで「本土決戦」を叫ぶ軍指導者に向かって「この国を未来につなぐ責任が私にはある!」と、毅然とした態度で「ポツダム宣言の受託」を決定したのです。もし、自分の身の安全のみを考えるような天皇(国家元首)であれば、早々に皇室を地方に疎開させ、徹底抗戦を命じたことでしょう。最後に終戦を決断した背景には、「自分の身はどのようになっても構わない…」という強い意思があったからこそ、戦争を終わらせることができたのです。そうした「真心」を国民が知っていたからこそ、国民は、政府や軍を信頼しなくても「天皇」を最後まで信じることができたのです。もちろん、特攻隊員たちも同じです。命令を下す参謀や司令官を信じられなくても、心の拠り所であった「天皇」だけは信じられたのです。そして、それを裏切るような昭和天皇ではありませんでした。

2 特攻を命じた男たち

大東亜戦争史では、最初に「体当たり攻撃」(特別攻撃)を命じた指揮官は、フィリピン方面の海軍の司令長官だった大西瀧治郎中将だということになっています。確かに、多くの目撃者や記録などを読んでも、軍隊の組織の長(責任者)として命令を下したのは、大西中将で間違いないようです。しかし、大西中将は、この作戦を「レイテ作戦」の一支援作戦として行ったものであり、それなりの成算があってのことでした。そして、それ以上にこの戦争を終わらせるための秘策を秘めていたと言われています。それは、この「特攻隊の出撃」を以て「戦争を終結させる」意図を持っていたということです。そのために、敢えて、自ら「統率の外道」とまで言わしめた作戦を命じたのです。そして、いずれ近いうちに自分が「自決」することで、責任を取ろうと考えていました。実際、昭和天皇の終戦の詔が出された翌日、大西中将は、海軍軍令部次長官舎で自刃して、その責任を取りました。ただ、大西中将にとって「残念」だったことは、あのフィリピンでの特攻作戦をもって戦争が終わらなかったことです。

大西中将の計画では、連合艦隊が総力を挙げてレイテ湾に突入し、アメリカの輸送船団を撃滅するための支援作戦として、この「特攻作戦」がありました。本来は、フィリピン全域に展開する基地航空部隊がアメリカの機動部隊を攻撃し、連合艦隊の突入を支援することになっていました。しかし、日本海軍の情報分析が甘く、アメリカ軍に先手を取られ、フィリピン各地の航空基地は大規模な空襲によって壊滅させられてしまいました。このとき起きた有名な事件が「ダバオ水鳥事件」です。海軍の監視所の見張員が、恐怖のあまり「波しぶき」を見間違い、「敵の上陸用舟艇が無数、こちらに向かって来る!」という情報を本部に通報したことで本部が大混乱を来たし、確認行動を起こさないまま「撤退」命令を下したというお粗末な出来事がありました。実際、美濃部少佐という航空隊の隊長が飛行機を操縦して偵察したところ、何もなかったという事実が判明したのです。しかし、そのときには、本部では暗号書や地図などを焼いてしまっており「司令部」としての機能を完全に失っていたのです。こんな士気で、アメリカの機動部隊と上陸軍を迎え撃とうと言うのですから、話になりません。そんな状態ですから、アメリカ軍に先手を取られ、フィリピン各地の航空基地が空襲に晒されたのも当然でした。大西中将がフィリピン方面の司令長官に着任したときには、既に使える日本の攻撃機は、いくらも残されていなかったのです。使える機材といえば、零式艦上戦闘機ですが、これは対戦闘機用の機材であり、攻撃用ではありません。それでも、多くの攻撃機を失った現在、この零戦を使って敵機動部隊の行動を阻む必要がありました。当時、零戦はアメリカ軍機と対等に戦える戦闘機として期待されており、その攻撃能力も優れた機体だったのです。こうした状況を踏まえた上で、大西中将は「体当たり特別攻撃隊」の編成を命じたのです。

これまでも搭乗員が、敵の艦艇に体当たり攻撃を行ったことはあります。たとえば、愛機が被弾し、母艦や基地に戻れないと判断した搭乗員は、自分の意思で少しでも戦果を挙げることが可能な敵を探し、自爆を試みました。珊瑚海海戦では、敵艦隊の捕捉を命じられた偵察機が、敵艦隊発見の功績を挙げながら、自ら味方攻撃隊を敵艦隊まで誘導し、敵艦に突っ込んだ話はありました。しかし、それらは、すべて搭乗員の判断で行ったもので、命令ではありません。厳密に言えば、命令によってそこまで強制をすることはできないと言うことです。もし、可能であれば、戦場より少し離れた地点で不時着して救助を待つか、自分の任務が終われば、できるだけ身の保全を図るのが軍人の努めです。もし、「犠牲的精神」が評価されるのであれば、それは最早、組織として成り立っていないことを表しています。「命令」とは、「復命」して終わるのが規則ですから、死んでしまえば「復命」はできません。勝手に自爆死したとすれば、それは重大な「規則違反」となるのです。しかし、当時の日本軍は、未だに「武士道精神」を重んじる組織でしたから、「潔く腹を切る」文化が強く残っていました。それ故に、軍人が率先して「死」を選ぶ行為を「武士道に則った行為」として容認できたのでしょう。しかし、これでは近代的な「組織」とは言えません。そこに、日本の重大な欠陥が潜んでいたのです。

大西瀧治郎という軍人も江戸時代から続く「武士道」の信奉者でした。軍人が「死ぬこと」を名誉と考える人間です。それ故に、自分の下した「命令」が、近代の軍隊という組織ではあり得ないことを十分承知していながら、「武士道」という別な価値観の下でなら理解されると考えていたのです。しかし、それは大西自身が指摘しているとおり「統率の外道」なのです。つまり、軍隊という組織の「統率」を図る上で、侵してはならない命令を下したわけですから、その責任は「万死」に値します。故に、大西は、敗戦直後に自ら切腹して責任を取ったのです。その最期は見事なものでした。当時、海軍軍令部次長を務めていた大西は、終戦に際して最後まで「徹底抗戦」を主張し続け、海軍大臣の米内光政から「大西、いい加減にせんか!」と怒鳴られました。それでも、尚、徹底抗戦を叫んだのは、多くの死んで行った英霊たちと、今、まさに戦っている多くの軍人たちの声を代弁したものでした。その声を天皇に届けることで、天皇の真の「決断」を求めたのです。昭和天皇は、軍人たちの必死の叫びを聞きながら、大局的な判断から「ポツダム宣言」の受託を決めたのです。それを見届けると、大西は、何も言わず静かに皇居を去ったと言われています。「これで、英霊も軍人も納得できるだろう…」そんな思いだったのかも知れません。

大西は、次官官舎で昭和天皇の「玉音放送」を聞くと、その晩、副官に「これから、腹を切る」と伝え、遺書を認めた上で従容として一人で腹を切りました。本来であれば、苦しまないように「介錯」を頼むものですが、大西は「少しでも長く苦しんで死ぬ。治療は無用!」と言い、自分の心臓の鼓動がなくなるまで、苦しみにじっと耐えたそうです。それが、自分の下した命令で死んでった者たちへのせめてもの償いだと考えていたのです。このとき、大西の妻の淑恵は、次長官舎に立ち入ることを禁じられていました。それは、「官舎は、俺の戦場なのだ。その戦場に私情を持ち込むことは許されない!」とする大西の信念があったからです。このとき、大西に私邸は空襲で全焼しており、淑恵は、一人寂しく疎開をしていたそうです。

大西瀧治郎という軍人は、けっして冷静な判断のできない人間ではありません。合理的な思考の持ち主でしたが、人間的には情に熱く、信義を重んじる侍でした。あのとき、フィリピンにいて、連合艦隊の主力をレイテ湾に突入させるためには、どうしても「空」からの支援が不可欠でした。しかし、既に攻撃機は空襲で壊れ、手持ちには数十機の零戦しかありません。そうなれば、唯一有効な支援は、あの「体当たり攻撃」しかなかったのです。「統率の外道」と知りながら、やらねばならなかった苦渋の決断があったのです。しかし、その連合艦隊のレイテ突入も、栗田健男という愚かな男によって失敗に終わり、大西は死んでも死にきれない悔しさを味わいました。もし、このとき、戦艦大和を主力とする連合艦隊がレイテ湾に突入していたら、マッカーサー大将率いるアメリカ軍将兵は、その輸送船ごと大和の主砲に粉砕され、数万人の戦死者を出したであろうことは明白です。そうなれば、たとえ、戦争に勝てなくても「講和」を申し出る機会になったはずです。それが、どういう結論になったかはわかりませんが、アメリカのルーズベルト政権に大きな打撃を与え、アメリカ世論を動かせたかも知れません。そのチャンスを一人の愚かな軍人の行動によってなくなったことを考えると、如何に「人を育てる」ということの難しさを痛感します。もし、日本にもっと多くの「侍がいれば…」と思うのは私だけではないでしょう。

3 「特攻」を推進した男たち

大西の真意は、早期に戦争を終わらせることにありました。そのために、「体当たり攻撃」という非常手段を用いた作戦を実行したのです。そして、それは、大きな戦果をもたらしました。しかし、そこまでの決意で行った作戦も一人の男(栗田健男)の裏切りによって失敗に終わり、戦争を終わらせる手段とはなりませんでした。大西の決意など知らないマスコミは、戦闘機数機によるアメリカ空母撃沈や大破の報せは、ビッグニュースとして取り扱われ、特に「特攻第一号」となった「敷島隊」の五人の搭乗員は「軍神」として二階級特進の栄誉を授けられたのです。敗報が続く中での大戦果は、国民を熱狂させ、「これで、戦争は勝てるのではないか?」という淡い期待を抱かせました。しかし、実際はアメリカの数百もの艦艇の一部に損害を与えた程度では、勝敗に影響するはずがありません。単に「士気を高める」程度の効果しかなかったのです。もし、戦艦大和の巨弾がレイテ湾に密集していた輸送船団に撃ち込まれれば、それこそ、この戦争の一大転換点になった可能性があります。大西の「特攻」は、飽くまで「支援作戦」であり、主力にはなり得ないのです。

その主力が、大失敗を犯したことで、支援作戦でしかなかった「特別攻撃隊」に国民の目を逸らすことで、海軍は失態を国民の目から隠しました。それどころか、天皇にさえも正しい情報を伝えず隠蔽していたのです。これは、今に始まったことではなく、昭和海軍の「悪癖」と言うべき体質になっていました。何処の組織でも、自分の地位や名誉を守らんがために都合の悪いことは「隠す」ことがよくあります。現代の日本でも、あらゆる組織で、その闇が暴かれ(告発され)、大問題になる例がありますが、国の滅亡がかかっていても、その場凌ぎの「言い訳」や「逃げ口上」「嘘八百」は、人間ならばだれもが持ってる「弱さ」なのでしょう。この「特別攻撃隊」もそのひとつでした。この事態を大西は苦々しく見ていましたが、天皇に上奏され「よくやった」というお言葉を賜ってしまえば、万事休すです。本当ならば、「レイテ決戦」に勝利して戦争が「膠着状態」に入った時点で、大西自らが天皇に上奏し「講和」を勧める計画だったのです。おそらく、軍令部に勤務していた高松宮殿下(大佐)と共に、「この機会に講和を進めていただきたい…」と直接進言するはずでした。それが、戦艦大和を初めとした主力艦隊が、レイテ湾を目前にして反転してしまったのですから、どうしようもありませんでした。

こうした動きは、おそらくは海軍省や軍令部の幹部たちにはわかっていただろうと思います。だれもが、「まあ、大西がやるのであれば、やらせてみよう…」くらいの気持ちで見ていたはずです。大西であれば、「最後は自分で責任を取る男だ」ということは、彼の言動を見ていればわかります。ここで言う「責任」とは、「腹を切る」ことしかありません。「大西が特攻の責任を取って死んでくれるのであれば、特攻作戦を進めよう」というのが、幹部たちの考えでした。事実、フィリピンでの特攻作戦が終了しても、硫黄島、沖縄と続く戦いの中で、次々と特攻隊は編制され敵艦目がけて突っ込んで行きました。陸軍も海軍の成功を見ると、「俺たちも続け!」とばかりに特攻隊を送り出して行きました。要するに、「統率の外道」でも何でもいいのです。だれかが責任を取ってくれるのであれば、もう怖いものはありません。軍令部では、海軍大学校を出た大佐・少将クラスのエリート幹部が中心となって「特攻作戦」計画を練り、各部隊に実施を命令していきました。この作戦を推進したのが、「黒島亀人少将」「中沢佑少将」「源田実大佐」たちです。有名な海軍のエリート将校たちですから、名前くらいは覚えておいてほしいものです。彼らは、敗戦後も大西にのみ責任を取らせ、自らは知らぬふりを決め込んで、戦後の社会をうまく泳ぎました。これが、実態です。

さて、特に沖縄にアメリカ軍が上陸して以降は、特攻に歯止めが利かず、遂には虎の子の戦艦である「大和」にまで特攻命令を下したのです。さすがの連合艦隊司令部や軍令部は「戦艦を出しても、飛行機にやられてしまうのは目に見えているだろう…」と主張しましたが、軍令部の「神重徳大佐」は、「今、大和を出さずしていつ出すのか?」「大和を残して戦争に敗れれば、日本海軍の恥となる!」と強行に主張したそうです。世界最大の戦艦と謳われた「大和」でしたが、開戦当初は、連合艦隊の旗艦として使用され、レイテ沖海戦では、唯一、活躍できる機会を愚かな司令官によって失われ、最期は「水上特攻隊」として沖縄の遥か手前でアメリカ機動部隊によって撃沈されました。まさに、「宝の持ち腐れ」状態だったのです。もし、大和などの戦艦群を日本の機動部隊の「護衛艦隊」にでも使えば、もっと立派な戦いができただろうと思います。日本の戦艦の乗組員の練度は高く、その技術は世界一の水準にあったのです。あの「神重徳」は、水泳の達人と言われながら、敗戦直後、不時着した飛行機から脱出すると、救助の手を振りほどき、同乗者たちとは反対方向に泳ぎ、そのまま行方不明になりました。さすがに呵責の念に駆られての行動だったのかも知れません。大西中将が始めた「特別攻撃」でしたが、一度火がつくと闇雲に命令が下され、死ななくてもいい命まで「特攻」というまやかし戦法の犠牲となったのです。ある特攻隊の指揮官は、戦後、事実と異なる弁明の「記録」を世に出し「彼らは、自ら志願して立派に散華したのだ」と宣伝しました。そして、自分は僧になり、戦死した特攻隊員たちを供養し続けました。しかし、その家族は、そんな父親を憐れみ、病気で亡くなった後も「父は、やっぱり、軍人らしく自刃するべきだった」と、父親の犯した罪を憎んだそうです。たとえ、どんな弁解をしようとも、多くの若者を死地に追いやり、戦後、のうのうと生き恥を晒すことに耐えられない人もいたのでしょう。これも悲劇です。

4 「特攻」が残したもの

令和という時代になって、「特攻」や「カミカゼ」といった80年も昔の話をしても、国民の多くは「?」かも知れません。しかし、先年「永遠の0」という映画が上映され、空前の大ヒットとなりました。この原作者は、放送作家だった百田尚樹氏ですが、当初、この小説の原稿を出版社に持ち込んでも、編集者は、相手にもしてくれなかったそうです。要するに「受けない」ことがわかっていたからでしょう。しかし、現実は、小説も映画も大評判を呼びました。そして、それに対する批判ももの凄く、たった一本の映画であり、架空小説が、社会現象を巻き起こすことなど影響を日本人に与えたのです。これは、一体何を物語ってるのでしょうか。

日本は、戦後、自分たちの歴史を否定するところから始まりました。それは、「敗戦」そして「占領」という忌まわしい歴史があったからです。明治維新によって「旧体制」を否定し破壊し尽くした明治政府は、常に「勝利・成功」するといった「結果」だけを重視した政策を採り続けました。そして、「結果を出した者が正義」という誤った価値観で国民を洗脳し続けたのです。今、毎朝のドラマで日本初の「女性弁護士」誕生の物語が放送されていますが、そこに出て来る「偉い」日本人男性は、その多くが傲慢で粗野に描かれています。特に「女性蔑視」は甚だしく、「男」だけが国を支えているように見えます。もちろん、反論する人もいるでしょうが、「納得」する人の方が多いと思います。私は、既に還暦を過ぎましたが、私たちの親世代は「女性は家事と子育てをする存在」という扱いで、亡くなった父は「女をいつまでも働かせるものじゃない…」と言い続けていました。こうした誤った価値観を植え付けたのが「男至上主義」です。そのために、日本の男は、猛烈に「戦い」そして、猛烈に「働き」ましたが、だれもが傲慢で「女、子供」といった言い方で、尊大に振る舞っていました。私の子供のころは、「…のくせに」という言われ方で、蔑まれる子供や女性を多く見てきましたので、それが「当たり前」のように感じていたものです。

しかし、それは「内向き」の顔で、外国に対しては「戦争責任」を感じているかのように振る舞い、戦前までのような「毅然とした態度」で、外国人に向き合うことはなくなり、恰も部下が上司を接待するかのような「謝罪外交」を繰り広げるようになりました。当時、日本人の「外国人評」といえば、「エコノミックアニマル」などと揶揄され、「常にペコペコと頭を下げるが、腹の中で何を考えているかわからない」といった恥ずかしいものばかりでした。軍事をアメリカに依存した日本は、その予算を経済発展に回せるようになったわけですから、国が豊かになって当然です。そしていつのまにか、「日本には、平和憲法があるから戦争が起きないのだ」などというおかしな意見まで政治家が口にするようになり、日本人は、つい十数年前の出来事をしっかりと総括することなく、社会の「雰囲気」で判断するようになっていったのです。日本の平和が維持されたのは、だれが考えても「日米同盟」という強固な軍事同盟があったからに決まっていますが、それすらも忘れてしまうのは、日本人が自らの手で「大東亜戦争」の総括をしなかったせいでしょう。

「特攻隊」と言う言葉を聞いても、日本人の多くは、内容を知ることもなく「犬死に」「戦争犠牲者」「テロ」などと、いい加減で自分勝手な評論を繰り広げ、当時の日本人を貶めることで満足しています。それが、たった一本の映画によって、今の日本人が、マスコミや学者が言うような人々ではないことがわかってきました。多くの日本人は、実は「本当のこと」が知りたいのです。東京裁判にしても、南京事件にしても、従軍慰安婦にしても、何が本当のことなのか、何も教えて貰わないまま政治利用されてきました。「特攻隊」も同じです。だれもが「真実」を知りたいのに、だれも教えようとはしません。本来、それをやるべき学者やマスコミが、こぞって口を閉ざし、外国に配慮した報道に終始しています。そして、架空小説(映画)ひとつに目くじらを立て、もの凄い勢いで批判するのです。そんな姿を見て同調する日本人は僅かです。特に若者は、「おい、何をムキになって騒いでいるんだよ?」「何か、やましいことでもあるんじゃないのか?」「そんなに外国に忖度しなけりゃいけなのか?」と不満を口にするようになりました。確かに、日本には「長い物に巻かれる」「強い者に靡く」といった諦めの感情がありますが、それでも、いい加減な歴史を教えられて納得する者はいません。やっぱり「嘘は嘘」なのです。

今後、小説や映画だけでなく、何ものにも忖度しない研究者が現れ、多くの議論を巻き起こすことでしょう。「なぜ、日本が戦争をしなければならなかったのか?」「なぜ、無謀な真珠湾攻撃をしたのか?」「なぜ、特攻隊が生まれたのか?」…。そうした「疑問」が次々と出され、若い研究者たちが純粋に調べることで、少しずつ真実が明らかにされていくことでしょう。そうすることが、戦争によって命を落とした300万人の先人への慰霊になると信じています。

5 オリンピック選手が語った言葉

先日、パリで開かれていたオリンピックが無事に閉幕し、日本選手団は例年以上の活躍を見せてくれました。その中で、卓球で複数のメダルを獲得した女子選手が、マスコミのインタビューに応じ「特攻記念館に行きたいです」と語ったことが大きなニュースとして取り上げられました。マスコミは、そんな回答になるとは思わず、「日本に帰ったら何がしたいですか?」という単純な質問をしたにも拘わらず、まだ20代の女子選手が、特攻隊に言及したのですから、マスコミは驚きました。と同時に、早速、中国が反応したのです。それは、「卓球」という競技は、中国のお家芸ということもあって、日本人選手が活躍することを温かい眼で見ているところがありました。それは、「王者の余裕」ともいうべき態度で、「早く追いついて来なさい」とでも言うような上から目線で語ることが多かったように思います。そして、日本選手の多くは中国語も上手に話し、だれもが「中国に近い存在」「中国を理解している選手たち」だと思っていたのでしょう。その日本のトップ選手が「特攻隊記念館に行きたい」という発言をしたことは、まさに驚き以外の何ものでもなかったようです。一瞬にして中国のマスコミは、彼女の発言に激怒し、これまでの友好的な態度を翻しました。ところが、日本では、多くの若者が反応し、その言葉に拍手を送ったのです。そして、国内の特攻隊関係の施設に多くの若者が足を運んでいるというニュースが流れました。

彼女の言いたかったことは、「自分が卓球というスポーツに専念できるのは、こうした人々の尊い犠牲があったからだ…」「その幸せを確認し、亡くなった方々に手を合わせたい」ということだったようです。その言葉には、政治家の言うような嫌らしさは微塵もありません。本当に素直な真心から発した言葉なのでしょう。その眼は、本当に澄み切ったスポーツ選手の真摯な眼でした。まさか、日本のスポーツ選手がこのようなことを言葉にするとは、私も思いもよりませんでした。なぜなら、彼女たち世代は、学校教育の場で「特攻隊」など、勉強する機会はなかったはずだからです。今でも、日本の学校では大東亜戦争を「太平洋戦争」と言い換え、その理由は教えません。そして、戦争は日本軍の攻撃によって始まったことを教え、昭和20年の原爆投下、ソ連の参戦によって「ポツダム宣言」を受託して終戦となったことを教えます。さらに付け加えれば、この戦争によって日本だけでなくアジア諸国の人々に大きな迷惑をかけたことを教えます。特に中国に対しては、日中戦争、太平洋戦争の長きにわたって迷惑をかけたことを詫びるような論調にさえなっています。そんな歴史観で教えられている若者世代が、まさか「特攻隊」を学び、彼らの尊い犠牲があったことに感動しているとすれば、一体、だれが、何処で教えたのでしょう。先日も、現代の女子高校生がタイムスリップして戦時中の特攻兵に出会う恋愛物語が映画として大ヒットしたというニュースを聴きましたが、若者たちは、学校などで教えられなくても、自ら、近代の歴史に関心を持ち、学校とは異なる知識を得ようとしているのです。そして、純粋に当時の若者に共感し、亡くなった航空兵に心を寄せようとしているのです。

それは、大人たちが考えるような「戦争賛美」でも「誤った歴史認識」でもありません。もちろん、戦争遂行のための作戦として見ているのではなく、純粋に「同世代」の人間として「共感」しているのです。そこには、政治的な思想は微塵もありません。中国のマスコミは、そうした日本の若者の心情を考えることなく、自分たちの歴史観や思想に反する行為として非難しているのであって、共感している感覚はわからないでしょう。先年、「永遠の0」という日本の航空兵を描いた小説や映画が大ヒットして、多くの著名な人たちが狼狽え、マスコミをとおして非難の声を浴びせましたが、彼らこそ、今の若者の心情が何も理解できていなかったのです。おそらく、今回も、そんな若者たちに対して、したり顔で「勉強不足」と非難するのでしょうが、メダリストの声は純粋です。そして、政治的思想がないだけに多くの日本人の共感を生みました。社会で成功を収めた偉い大人の言葉を鵜呑みにするような若者はいません。「なんだ、あのじいさん。随分と偉そうに喋ってるけど…何様?」そんな感覚で見ていることでしょう。私は、この事実をきちんと記録しておきたいと思います。

昭和の時代、日本人の多くはGHQの洗脳工作によって大東亜戦争を「日本が犯した愚かな戦争」として評価し、特攻隊を「犬死に」「狂信的」「テロと同じ」と蔑みました。特に、日本のマスコミは、一大キャンペーンでも張るかのように、当時の日本を「全否定」して見せたのです。それが、今回のことで、平成、令和と時代が進むにつれて、日本人の意識が変わってきたことに驚かされました。「自分たちの力で、日本人の意識を変えることができる」と豪語していた新聞社もテレビ局も雑誌社も軒並み国民の支持を失い、今や青息吐息の状態に陥っています。ネット社会が到来して以降、日本のマスコミは斜陽産業と化し、優秀な人材が希望する職ではなくなりました。つまり、多くの日本人に「愛想をつかされた」のです。最早、日本のマスコミが復活することはないでしょう。もし、国民の信頼を得たければ、「誤魔化し」や「嘘」で国民を洗脳しようとするのではなく、丁寧な取材と公正・公平な態度で真面目に仕事に向き合うことです。そして、若者が支持するような仕事にならなければ、マスコミに未来はありません。それは、日本政府や学校も同じです。もしかしたら、今、学校教育が荒廃しつつあるのも、こうした「嘘」を長きにわたって子供たちに発信してきたからかも知れません。政治に左右されるようになった教育に未来がないのは当然です。そして、これからの日本人は、自分たちの歴史を人から教えられるのではなく、あらゆる方法を使って、「自分の眼で確かめる」時代に入って来ているのです。それを教えてくれたのが、今回の「早田ひな選手」の言葉でした。還暦を過ぎた身が、若者から教えられる時代になったのです。嬉しいことではありませんか。

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