今の日本の教育は、戦後、最大の危機を迎えています。文部科学省は、これまでの体制を維持したまま、小手先の改善策で当面の危機を回避しようとしていますが、さすがに「授業時間数の削減」や「教職調整手当の増額」などでは、「当面」の手当にもならないのが現実でしょう。戦後80年を迎えようとする今日、日本はいよいよ、アメリカ占領軍(GHQ)による「日本国破壊工作」の最終局面を迎えようとしているようです。そう言うと、多くの国民は、「まさか…、今更そんなことがあるはずがないじゃないか…」とか、「何かの謀略論の読みすぎじゃないのか?」などと、端からばかにして考えようともしないはずです。それは、そうでしょう。昭和20年の敗戦のときから始まったGHQによる「WGIP」計画は、日本が独立した後も日本政府、経済界、教育界、マスコミ、各企業等にその「分子」が入り込み、日本を長く支配してきたのですから、そんな疑いを持つような国民はいなくなりました。しかし、昭和、平成、令和と時代が進むにつれて、日本人が大きく変化してきたことを否定する人もいないはずです。そもそも、「謀略」というものは、毒薬のように即効性をあるものではなく、その体内や脳に入り込むことで、社会全体を「洗脳」し、身動きできないようにするのが、一番の得策なのです。その証拠に、日本の政界も経済界もアメリカや中国などの旧連合国軍の意のままに操られ、遂には、「LGBT法」を成立させたり、「中国一辺倒」の経済活動になったりしているではありませんか。
要するに、日本の所謂「偉い人(指導者層)」の人たちは、自分のしていることが十分わかった上で、アメリカや中国の操り人形になっているのです。そうした方が、戦後の日本社会では「生きやすく」、社会に順応することができたからです。考えてもみてください。権力の中枢である日本政府が、方針を示し、社会をそちらの方向に導こうとしていることに、敢えて逆らって生きていくことは大変難しく、場合によっては犯罪者にだってなってしまうのです。そんなリスクを知りながら、無謀な挑戦をする者は、きっと「大馬鹿者」でしょう。「強い者には靡け」「長い物には巻かれろ」は、日本人が社会で生きていくための知恵なのです。GHQは、そうした日本人の気質を分析した上で、まずは、日本人の伝統的価値観である「武士道」を破壊しました。「武士道」とは、孔子の「論語」に由来する「道徳的規範意識」のことです。「武士道」なるものが確立するのは、江戸時代になってからのことですが、長く、日本の統治を担ってきた「武士階級」の「掟」が広く庶民にまで広がったものでした。そして、明治以降は、それを軍隊で教え、学校教育の中に採り入れました。そのために、「忠君愛国」のような偏った思想を押し付ける結果になりましたが、人々の生活の中の「武士道精神」は、社会秩序を保つための思想として日本人の心に定着していたのです。
GHQは、この「武士道精神」こそが、強い軍事強国を創り上げたと考え、徹底的に、この思想を破壊することを進めたのです。それは、まずは「戦前の日本社会」を破壊することから始まりました。まずは、国防の要である「軍隊」をなくし、経済を支えた「財閥」を解体し、そして階級社会の象徴だった「地主」から農地を取り上げ、多くの土地を持たない農民に下げ渡したのです。これは、一種の「共産革命」でした。もし、敗戦による占領期以外でこれを実施したとなれば、まさに軍部が称した「昭和維新」になっていたことでしょう。つまり、大川周明、北一輝らが画策した「昭和維新」は、GHQの手によって成し遂げられたのです。しかし、それを熱望した日本人には、何の恩恵も与えられませんでした。その上、「民主主義教育」を称する「自由」「平等」「人権」「個人」といった価値観を「日本国憲法」で謳い、日本の伝統的価値観に基づく社会秩序を壊しました。そして、それは、多くの日本人に受け入れられ、現在の「日本」という国を創ったのです。さらに、学校においても「修身科」を廃止し、学校教育から「道徳教育」を排除しました。
これが、「成功」に見えるのは、当時の日本の政治家の強かさに原因があります。その中で、吉田茂や岸信介たち戦前からの政治家たちは、GHQに屈服したかのように見せながら、日本に有利に展開するような策を巡らしていたのです。彼らは、この敗戦による「占領」というチャンスを逃しませんでした。要するに、日本を真の「民主主義国」にするのではなく、天皇を戴く「社会主義体制」に作り替えようとしていたのです。これぞ、まさしく「2.26事件」の首謀者たちが考えた「天皇親政による統制国家」の実現でした。さすがに、「天皇親政」だけはなりませんでしたが、「統制国家」が実現したことは現在の社会体制が物語っています。そんなことを言うと、「何を言っているんだ。日本は、世界に冠たる民主主義国ではないか!」と叱られそうですが、ある有名なアメリカの学者は、戦後の日本を見て「世界で一番成功した共産主義国である」と言ったそうです。さて、それは、どういうことなのでしょうか。
よく考えてみてください。そもそも「共産主義」というものは、①特権階級の廃止(王制や貴族制度の廃止)、②財閥の廃止(経済の独占の廃止)、③平等主義(身分制度の廃止)、④私有財産の廃止(土地や企業の国有化)などの政策が主なものだと思います。しかしながら、戦後誕生した共産主義国家は、すべて「一党独裁政権」による特権階級が国民を支配する国になってしまいました。ソ連も中国も北朝鮮も、形上は平等を謳いながら「共産党」という政権党が支配する「貧しさの平等」でしかありません。国民は、すべて特権階級である「党」に搾取される存在なのです。そして、その「党」は、すべての法律の上位に位置し、「書記長」という独裁者が国を支配する構図が出来上がりました。しかし、日本人が考える「共産主義」は、そうではありません。「天皇」という地位が保全された「議会制民主主義」の形態を採った「平等主義国家」なのです。そして、そのために「特権階級」が誕生することを憎み、「累進課税」によって多額の収入を得た者からは、容赦なく「所得税」という名の税を取り立てます。また、「相続税」という税によって、日本人が祖先からの僅かな財産さえ、引き継ぐことが困難になってしまいました。それも、財産は、子孫に平等に分配されますので、「家制度」がなくなりました。最近、「上級国民」という言葉で、元官僚や政治家などに警察などが忖度しているのではないか…と非難の声が上がりましたが、国家公務員や政治家の所得などたかが知れています。有名芸能人や企業のトップの方が、数倍以上の所得を得ています。しかし、彼らも稼げば稼ぐほど、多額の税金を納める仕組みになっているのですから、寄付などしようもありません。いわゆる「富豪(ブルジョワ)」など、日本では誕生するはずがないのです。さらに、過度な「人権意識」や「個人情報保護」が進むと、「家族意識」もさらに希薄になり、「家族制度」そのものが崩壊することでしょう。まさに「平等社会」の完成です。今の日本は、国民が望むか望まないかに関わらず、こうした理想の「共産主義国家」に改造されようとしているのです。
少し前置きが長くなりましたが、本論である「教育の危機」について私見を述べようと思います。
1 集団意識を育てない教育
現在の学校においては、その体制だけは旧態以前に見えますが、実質は、昭和の時代と比べて180度ほども違う学校に変貌してしまいました。それは、第一に「集団意識」を育てない教育にあります。前書きでも述べたように、今の日本は「集団から個へ」の移行スピードを速め、社会全体に「個を優先するべきだ」という考え方が、優位を占めるようになりました。それは、各企業の「働き方」を見れば一目瞭然です。小泉純一郎内閣のときにアメリカ政府の強い働きかけを受けて、日本政府は「規制緩和」「労働者派遣」「男女の雇用」等について、「平等」の名の下に次々と法律を定めて、これまでの日本社会の慣例を壊して行きました。それまでは、各業界が昔の「座」とでもいうような「同業者組合」をつくり、仕事を独占していたのです。それは、一見、他者の参入を拒み「自由競争」を阻害しているように見えますが、小さな業界を守る意味もあったのです。今でも日本の「農業」は、国の保護政策の下、自由競争にはなっていません。これだって、他者の参入を拒む組織であり、自由競争ではありませんが、日本の主食である「米」を守るためには必要な施策だと言われています。この「業界」毎の「縄張り」は、そこで働く人たちの雇用を守り、安定した社会を創る一助になっていました。それを、「規制緩和」の名の下に破壊したのが「小泉改革」なのです。
「規制緩和」を断行した小泉改革は、国民に「自由」を保障し、「集団(組織)」より「個(一人一人)」を大切にする社会づくりであるかのように見えました。そのため、国民の多くは賛成し、小泉内閣は支持を高めて行ったのです。しかし、それから30年ほどが経過した現在を見ると如何でしょうか。「規制緩和」の名の下に実施した多くの施策によって、各企業は激しい競争に晒され、そのしわ寄せが「労働者」に向けられるようになりました。これまで独占的にあった仕事が、「自由競争」の名の下に同業他社と競わなければならなくなり、特に中小企業は、仕事を求めて右往左往するようになりました。さらに、労働者の「賃金単価」が上がらず、大企業は好景気だと言っても、その恩恵は、中小で働く人たちには回って来くることはありませんでした。「好景気」も国民には「他人事」になってしまったのです。つまり、企業は、自由競争に晒されると、社員の「賃金抑制」をすることで、他社との競争に勝つような「生き残り」を図る体制に変化したのです。各企業は、常に「倒産の危機」に怯え、必要以上に「内部留保」と称される「貯め込み式」の経営手段を採るようになり、社会活動は、停滞して行きました。
また、「働き方も自由」とばかりにできた「労働者派遣法」は、ほとんどの職種に適応されるようになり、企業は低賃金で労働者を雇うことができるようになったのです。要するに「派遣社員」「契約社員」と言われる「期限付臨時社員」のことです。これにより、企業は必要な時期に必要な労働者を確保できるようになりました。これで、企業は、賃金を上げる必要がなくなり、労働者を期限付で雇う、いわゆる「使い捨て雇用」にすることができるようになったのです。政府は、これで、「国民は、自由に仕事を選択できる」と、規制緩和の成果として誇りましたが、実際は低賃金で喘ぐ日本人を増やしただけのことでした。今、テレビCM等で「アルバイト」の宣伝が多くなったことに気づくでしょう。「隙間バイト」とか、「お気楽バイト」などの謳い文句で、求人募集を行っていますが、これなども、「低賃金労働」で人材雇用が難しくなったことが原因です。こうした「自由」が拡散されたことで、日本は一気に「経済停滞期・下降期」に突入して行ったのです。実際、利益を「貯め込む」のは会社だけで、その利益を社員に還元することはなくなりました。今では、先進国の中で低賃金に喘いでいるのは「日本だけ」だと言われています。
「賃上げ」という形で、会社の利益を社員に配分しない手法は、一企業にとっては、短期的には成果のように見えますが、国民の消費熱が下がることで、景気が後退するのは、素人でもわかります。よく「内需の拡大」と言いますが、日本人の国内消費量は莫大で、本来であれば政府もそれを推進するはずですが、賃金が抑制されたままで消費の拡大などあるはずもないのです。お陰で「物価」は低いままで、欧米諸国とは雲泥の開きができてしまいました。それでも、企業は、「よし、賃金を抑制できるのだから、今のうちにさらに儲けよう…」と企みましたが、社員の会社への帰属意識も薄くなり、日本人らしい「会社への恩を返す」などという発想もなくなりました。それはそうです。だれも「人間を使い捨て」にするような会社に「恩」など感じるはずがありません。要は、その会社自体が、いつの間にか、社員から「使い捨て」にされる立場になってしまっていたのです。現在、国家公務員へのなり手が減ったのも、教員志願者が減ったのも、日本人の伝統的な意識である「恩の文化」がなくなってしまったからに違いありません。昔から公務員は、収入が少ないと言われてきましたが、それでも、国家公務員や教員は、国民から「感謝」される仕事だったのです。私も、田舎に帰ると「立派な仕事に就かれて…」と誉められたものです。だからこそ、この世界で「頑張ろう」と思いました。こうした、日本人の心を忘れた政策や方針が、国の停滞を招いているのですが、上の立場の人には、理解できないようです。実は、企業が存続できる重要な要素に、日本人独特の「ご恩と奉公」という「精神性」があったことを忘れてはなりません。
それでも、「鎌倉時代じゃあるまいし、何がご恩と奉公だ?」と言う人はいるでしょうが、昭和の時代は、「会社に受けた恩を、一生懸命に働いて返す」といった社員が大勢いたはずです。そして、「会社は家、社員は家族」といった考え方で、日本は戦後復興を成し遂げ、発展していったのですが、小泉改革によって、その文化はすべてなくなってしまいました。これも、アメリカによる「日本弱体化政策」の一つだと考えるのが正しい見方でしょう。要するに、占領期のGHQによる「WGIP」は、現在でも動いているということなのです。「ご恩と奉公」の関係が崩れた日本に何が残ったかと言えば、日本らしい「労働文化」は衰退し、欧米のような割り切った「個人主義」優先社会ができたということです。今や、会社は、若者たちから徹底的に分析され、自分のステップアップに利用されています。テレビでも「転職サイト」の会社が、次々とCMを出していることに気づかれると思いますが、今や「転職(ステップアップ)」こそが、日本人の働き方の主流になってきたのです。「会社なんて、自分には関係ないや。用がなくなれば、次の会社に移って稼げばいい…。こんな会社が潰れたって知ったこっちゃない。俺には関係ないよ…」。これが、今の若者の考え方なのです。こうした考え方を否定する人はいるでしょうが、社員にそう思われたくなければ、会社自体も企業努力によって「新しい発想」で多くの若者の支持が得られるようにすればいいのです。しかし、それがどのくらい難しいことか、考えればわかるでしょう。「使い捨て」とは、そういうことなのです。そのためには、自分の売りになる「才能」を伸ばそうと努力する若者が増えているのも事実です。
こうした社会が作られてきた以上、学校が「集団意識」を育てることは、もう限界が来ているのです。「学歴」をつけるために通っていた学校も、企業が厳しい競争社会に喘いでいては、最早意味がありません。企業も単に「学歴」だけで採用するほど甘くはないということです。企業が安定した業績を上げているときは、「学歴」こそが、安定の証でしたが、倒産の危機に怯えながら、新しい発想を模索している企業にとって、学歴より「才能」の方が優位に立つのは当たり前です。「何処の学校を出た」ことより、「何ができる」の方が重要だということです。そうなると、「今の学校なんて、集団行動みたいな古くさい教育しかできない、時代遅れな場所…」といった意識は、アメーバのように拡散し、「学校絶対主義」思考から「個人絶対主義」へと変化して行きました。今や学校なんかに通わなくても、インターネットを活用すれば必要な学びを得ることができます。自分の「やりたいこと」を最優先に考えれば、学校に通う時間は「無駄」に見えてくるのです。そして、いわゆる「通信制」の学校は増え続けており、自分の興味関心に応じて全国、いや世界から学校を選択し、その学校のカリキュラムにしたがって学べばいいと考えるようになりました。教室に入らなければ、面倒な人間関係で悩むこともなく、いじめをする側にもされる側にも立たなくて済みます。教師の「当たり外れ」も自分で選べるのであれば、能力のある教師から学ぶだけのことです。ここには、基本的に「集団」や「組織」はありません。「個が優先される社会」とは、そういう社会なのです。まさに、小泉改革の成果が令和の時代になって顕著に現れるようになりました。日本政府(文部科学省)が、現在の学校での問題にあまり関心を示さないのは、こうした理由があるからなのでしょう。「教員志願者の減少」「学校ブラック化問題」「不登校の増加」など、学校の問題は山積していますが、これも「規制緩和」の一環と考えれば、政府も次の段階が来ることを待っているに違いありません。
2 学級をまとめられない教師たち
現在の学校教育の最大の問題点は、人手不足や勤務外労働などではなく、学級担任が自分の学級を「まとめられない」点にあります。それは、今の子供たちは、社会と同じように「集団で学ぶ」意味を見出せないでいるからです。令和の時代になると「子供の個性の尊重」とか、「子供の個性に応じた教育」などという言葉が文部科学省から示されました。それらは、平成の初期から始まった考え方ですが、学校は相も変わらず「一斉型指導」が中心で、「個に応じた指導」をしようにも、教員の数や教室等の問題で、なかなか理念どおりの教育は実践されませんでした。それに、批判される「一斉型指導」にもメリットはあり、親しい仲間同士で話し合う、議論し合う授業は、個では味わえない達成感があるのです。しかし、現在のように「個を伸ばそう」とする社会では、「一斉型授業」は古くさく、「今時流行らない旧式の授業」に見えるのでしょう。本当は、こうした子供同士の関わり合いが、人間関係を築く要因になると思うのですが、さて、どうなのでしょう?
最近、よく「発達障害」などの用語を耳にすると思いますが、子供は、だれでも、個性と同じように「偏り」があるものです。これは、大人も同じはずです。ただ、大人になると身体のバランスが保たれてきますので、わかりづらくはなりますが、本人は、かなり苦労するそうです。子供は、まだ、そこまでの身体(心)のバランスが取れませんので、特に、集団生活の中に入ると、この「偏り」が全体の調和を乱す原因にもなっています。いわゆる「勝手なことをする子」というレッテル張りです。本人は、自分がおかしな行動を採っていることに気がつきませんが、ちょっとでも「和を乱す」ような言動は、子供といえども、多少は慎まなければなりません。それが、うまくできない子供に対して「発達障害」といった言葉を用いて、医学的に判断するようになったのです。子供の中には、発達障害の他にも、何らかの課題(障害を含む)を持つ者もおり、「一斉型指導」では、その対応に苦慮することも事実です。これも、子供たちの生活に「ゆとり」がなくなったことが原因になっています。本来、子供はそれこそ「自由」であり、子供は子供なりに自分たちの世界を創り上げていました。そこには、子供なりの「ルール」があり、名前なんかも「あだ名」で呼び合うような関係でした。真面目な大人が聞けば、「えっ、大丈夫…?」などと心配するかも知れませんが、変に正義感を振り回して、子供の世界に介入すると、とんでもない「しっぺ返し」が待っているものです。それを、今は、どんどん「子供の世界」に大人が介入していくため、子供は、眉を顰めながら「口を噤む」しかできないのだと思います。それが、あまり度が過ぎると、子供といえども反旗を翻すことになります。大人が、「子供は大人の言うことを聞くもの」といった古い概念に囚われていると、後で、その修復が困難になるものです。「家庭崩壊」や「学級崩壊」は、そうしたことが原因だろうと推測できます。とにかく、大人が次々と子供の世界に介入したために、いつの間にか「子供だけの世界」は消えてなくなり、子供の「孤立化」は、益々進んで行ったのです。
したがって、子供の遊び方も大きく変化し、コロナ以降は特に「外遊び」が激減し、室内での「パソコンゲーム」が主流になっていったのですから、「個」に拍車がかかるのは当然です。実際、外で遊ぼうにも、あちこちに「禁止」の札が掲げられれば、子供だけのスペースはありません。さらに、気候変動や不審者問題など、社会が子供にとって「居心地」のよい場所ではなくなっていたのです。仲間で遊ぶ経験が少ない子供たちは、一見、おとなしく見えますが、協調性がなく、自分のペースを崩されるのを嫌います。集団で行動することが苦手で、常識だと思われていた「道徳観」も希薄です。そのため、子供同士のトラブルは多く、その対応で教師は苦慮しているのです。また、文部科学省からは「優しい指導」「丁寧な指導」「誉める指導」「理解させる指導」「認める指導」…などが求められるために、子供にとって教師は「怖い大人」ではなくなったのです。今の教師の評価は、保護者も含めると「優しい先生」「丁寧に接する先生」「面白く、楽しい先生」「わかりやすく教えてくれる先生」などで、「怒る先生」「厳しい先生」などは、保護者からの苦情によって、教育委員会から指導を受ける対象となってしまいます。そのため、本音で子供にぶつかるような教師はいなくなりました。
それでも、生徒指導案件やいじめなどがあると、文部科学省は、教師に対して「毅然とした態度で指導するように…」と指導しますが、まるで日本語の言葉遊びのようです。現実を知らない官僚たちは、上手に日本語を駆使して学校を指導すれば、自分たちの役目は終わるのでしょう。しかし、子供を取り巻く環境が、これほど大きく変化しているのですから、何らかの対策は講じなければならないはずです。それが、「予算」という壁に阻まれているとすれば、政治家たちの怠慢と言う他はありません。それとも、最早現状を回復することは不可能と考えて、今の「学校教育」を根本から見直す作業に入っているのかも知れません。既に、高等学校などは「通信制高校」が認可され、各都市にはいくつもの学校がビルに看板を出しています。この夏の高校野球大会でも、そうした高校が地方予選で活躍したニュースを聴きました。当然、高等学校が始まれば、次は中学校、そして小学校と拡大することは火を見るより明らかです。既に時代は、世界のニーズに応えるように流れているのでしょう。
子供問題で最大の懸念である「児童虐待問題」は、増加する一方で、家庭に帰っても、満足な食事も摂れない子供が大勢います。国も政治家も「選挙権」を持つ「親世代」には、気を遣い、強い口調で諭すこともありませんが、「家庭環境の劣化」は、もの凄い勢いで広がっていると考えた方がいいでしょう。それも、小泉改革による「規制緩和」という自由化が招いた負の結果です。本当は、教師も家庭などに忖度せず、本音で子供と向き合い、厳しくても愛情溢れた教育がしたいと望んでいるのですが、苦情に弱い政府や自治体は、相手を確かめることもせずに、学校に「善処」を求めてくるのです。もし、教師が保護者と喧嘩にでもなれば、マスコミが喜んで飛びつき、保護者の肩を持った論調で、学校を責め立てることでしょう。そこに「児童虐待」が、たとえ潜んでいようと、「相手を責めた方が勝ち」の世の中ですから、そんな対応に疲弊した教師が諦めて白旗を揚げるのは眼に見えています。そして、学校側に言い分があろうと、上部機関から「それは、罷り成らぬ!」となれば、最早、打つ手はありません。結局、子供や教師が望むような教育は実現されず、日本人的な「泣き寝入り」で終わりです。別に勝った保護者やマスコミが、これによって「得るもの」は、何もないのですが、「喧嘩に勝った」自慢だけが残るのでしょう。
平成の初めころから、世界の流行の思想(グローバリズム)に乗った政府は、学校においても「グローバリズム教育」を進めてきました。多くの政府刊行の公文書には、たくさんの「グローバル」という言葉が出てきます。そんなに素敵な言葉なのでしょうか。単に国の壁を取っ払って、何でも「自由」に往来できることが「幸福の道」なのだそうですが、欧米諸国の「移民問題」を見る限り、とても、そういう気にはなれません。何か理念先行型の思想にしか見えず、現代版の「共産主義」という人もいます。それを「子供に教えろ!」と言うのですから、多くの教師は「?」だと思います。彼らの言う「人権」「平等」「機会均等」「個性の尊重」などは、言葉としては美しい言葉ですが、それを制限なく行えば「集団」も作れなくなり、いずれは、「家族」も「国」もいらなくなるだけです。国連で定めた「SDGs」も、ムキになってやっているのは日本だけだと聞きますが、どうなんでしょう。今、日本国内でも、多くの外国人労働者が就労ビザで入ってきていますが、地域のよっては、住民とのトラブルになっており、必ずしも「グローバル化」が成功しているとは言えません。本当は、だれも、そんな世界を望んではいないのかも知れませんが、総理大臣を経験したある有名政治家は、いみじくも「日本は、日本人だけのものではない!」と豪語しました。それを聞いた国民は吃驚です。まさに、彼のような人を「グローバリスト」と呼ぶのでしょう。しかし、彼を「信頼できる政治家」だと評価する国民はいません。但し、外国では人気があるようです。
ただ、社会がそうなると、子供への影響は計り知れないものがあります。「世界中の人と仲良く」までは、よくわかりますが、実際の暮らしの中で、異文化の外国人と「仲良く」と言われても、文化が違えば、生活習慣も違います。ものの考え方も違えば、当然トラブルは起こります。おそらく、政府は「そのことを弁えた上で、外国人の身になって行動して欲しい…」とでも言うのでしょうが、それは、つまり「日本人の方が遠慮してやれ!」ということなのでしょう。そうなると、日本国民より、外国人が優先されることになりませんか。もちろん、観光で来られる外国人であれば、「お客様」としてもてなすこともできますが、一緒に暮らして、仕事もするとなれば、それは「対等」の関係を築く他はありません。どうも、日本政府は、グローバル化の名の下に「外国人優遇政策」を採りたいのか…と思ってしまいます。それが、外国からの圧力なのかどうかはわかりませんが、教育に政治を持ち込むと碌なことにならない「典型事例」のような気がします。
だからこそ、子供は、大人以上に周囲を観察し、その時代の中で必死に生きようとしているのです。そんな敏感な子供たちが、既存の「学校教育」を受け入れるはずがないのです。「おい、本当にこんな勉強していて、大丈夫なのか?」「グローバルって何だ?」「先生は、急に叱らなくなったよな?」「どうも、教育委員会が怖いらしいよ?」「今、学校ってブラックなんだって…」そんな会話が聞こえてきそうです。要は、子供だって、ただ、暢気に過ごしているわけではありません。子供は「その社会を映す鏡」そのものなのです。子供の「不登校」などは、学校と子供本人の問題であるかのようにマスコミは報じますが、本当は、社会の不安感が子供に影響しているとは、思わないのでしょうか。要は、子供は、今の大人を信じて生きることができないのです。特に親や教師を信じられなくなった子供たちは、社会の路頭に迷う他はありません。そして、そんな社会と自分に自信のない若者は、「孤立」を深めるのだと思います。大人が言う、「今時の子供」を創るのは、今の大人たちだということを肝に銘じておきたいものです。
今の時代は、まず「親」があてになりません。それは、子供がよく知っています。もちろん、「すべての親が…」と言うつもりはありませんが、かなりの割合で、困った保護者が増えていることは事実です。今の親たちは、子供を厳しく叱る親ではなく、友だちのように、何でも気兼ねなく話せる親が「いい親」だと信じているようですが、そんなことを望む子供は少数です。子供の本音を言えば、「善悪」をしっかり見極めて、正義感の強い親や教師を求めているのです。したがって、自分が悪いことをすれば「叱られて当然だ」という意識はあります。それで、叩かれても恨みなど持つはずもないのです。「訳知り顔」で接する親より、家族みんなが仲良くして、優しいときも厳しいときもある親を信頼するのです。口では、「何でも言いなさい…」と言っておきながら、親自身にとって都合の悪い話になると知らぬふりを決め込む…では、約束が違います。最近は、「三組に一組」が離婚するそうですから、自分の親たちもいつどうなるかわかりません。夫婦間とはいえ、喧嘩が絶えないのは見ていて苦しいものです。その上、学校のことになると親たちは目くじらを立てて「なにい!」「学校に文句を言ってやる!」と意気込み、そのまま教育委員会に電話をしてしまうのです。子供の話をよく聞けば、一方的に怒る話でもないのですが、親が怒って公に苦情を言ってしまったら、後には引けません。真実がどうあろうと知ったこっちゃない。後は、親の「面子」の問題です。そうなると、もうぐちゃぐちゃです。最後は、仕方なく学校の校長か担任が謝罪しないとすまなくなります。当事者である子供本人は、穴があったら入りたい心境ですが、最早手遅れで、何も言い出せないまま、怒り狂う親とペコペコと頭を下げる自分の担任を見詰めているのです。心の中では、(ああ、俺ももう終わりだ…。こんな親に話すんじゃなかった…)と後悔しても後の祭りです。「何でも話せ」って言うから話したのに、話を盛り、勝手に憶測して騒ぎ立てられれば、子供の立場はありません。こうして、また一件、家族が壊れて行くのです。
教師は、正直、粗方の事実は掴んでいますが、かなりの「個人情報」が含まれていると、公には話しづらい面があります。したがって、いくら面談をしても情報の3割程度しか話が出てきません。全部、曝け出してしまえば、事実は明らかになったとしても、子供自身が相当に傷つくことを考えれば、「できないものは、できない…」といった心境になるものです。そして、それを相手に配慮しつつ述べたところで、教育委員会や校長が謝罪してしまえば、万事休すです。子供を恨んでも仕方がありませんが、こうして教育の世界に幻滅して辞めていった先生のなんと多いことか。自分に何の瑕疵もないのに、謝罪を求められ、評価を下げられるのが学校の教師なのです。厳しく指導すれば、子供に嫌われ、親から苦情をもらいます。優しくすれば、子供は馴れ馴れしくなり、教師の足下を見て、大人を見下すような態度を取る者もいます。一度、中途半端な指導に終われば、もう二度と修復は不可能です。こうして、学級は早々に崩壊し、この担任は「ダメ教師」のレッテルを貼られ、寂しく教職を去って行くのです。では、どうしたらいいのでしょうか。文部科学省や教育委員会の指示通り動いてもだめ、親や子供の要求通りに動いてもだめ、まして、校長の助言のままに動いたらもっとだめ。挙げ句の果ては、「あんたの責任だからね。あんたが、謝罪しなさい!」で終わりです。自分が間違ってもないのに「謝れ!」なんていう命令は、職務命令でもなんでもありません。これこそ「パワーハラスメント」の極地でしょう。とにかく、役所ってところは、「まあまあ…」「そこをなんとか…」「表沙汰にならないように…」と、事を荒立てないのが優秀な職員のあり方ですから、トラブルが発生したというだけで、「ダメな教師」なのです。苦情を言う方は、真実などそっちのけで自分の感情のままを教員や役所の職員にぶつけますから、勢いがあります。受け手が何か言い訳しようにも、感情が先立つと「聞く耳」がなくなります。要するに、勝敗は明らかなのです。これで、「上手に学級をまとめろ!」と言われても、無理でしょう。おそらく、今の日本の大人が学級担任をやって、成功する人は「1%」もいないかも知れません。これが現実なのです。
3 聞くだけのカウンセラー
最近は、「スクールカウンセラー」と称する心理の専門職が、学校に配置されるようになってきました。「配置」されると言っても、常駐ではなく、週に1、2回程度時間を決めて訪問するシステムです。それでも、これまで、学校にはこうした専門職員はいませんでしたので、先進国に一歩近づいたというところでしょうか。しかし、このスクールカウンセラーは、子供や親の話はよく聞いてくれますが、それだけです。まあ、「それだけ…」というのは、心理学の専門家に失礼ですが、学校での印象は、そんなところです。「敢えて」でしょうが、彼らは、教師のように、具体的な指示や助言はしません。もちろん、「〇〇したら、如何ですか?」程度のアドバイスはされるようですが、あまり強制的にならないように気をつけているようです。また、あまり細かな指示を出してしまうと、教員の職務とダブってしまいますので、子供の混乱を招く危険性があります。したがって、少し「物足りない」程度がいいのでしょう。しかし、実際、この「カウンセラー」が、どの程度効果を挙げているかは、今のところ不明です。もちろん、「常勤職員」として各学校に配置されれば、学校組織に組み込まれますので、その専門性は生かせると思いますが、現状では、何か、国民への「言い訳」のように聞こえます。
よく、学校で大きな事故が起きると、「カウンセラーを派遣して、子供の心のケアに努めます…」と言いますが、「派遣して…?」に疑問が残ります。「派遣して、どうするんだよ。専門家と称する人間が、ちょっと顔を出して子供の話を聞いたところで、気休めにもならないんじゃない?」などと陰口を叩きたくなります。学校の本音としては、「それなら、派遣などと言わずに常駐にしてもらいたい」と思うはずです。一時期の派遣では、その先の計画が立ちません。それに、「話を聞いて、心の負担を減らす」だけでいいのでしょうか。教師であれば、それですむ話ではありません。子供の声というものは、時には、社会を動かす力にさえなるのです。たとえば、子供が自分の家庭のことを担任に話したとします。それが、「暴力」などの虐待を受けているような話になれば、教師はどうしたらいいのでしょう。他にも「いじめ」などは、日常茶飯事の問題です。カウンセラーは、聞くだけでいいのかも知れませんが、それを知った学校は、即座に行動することが求められるのです。
教師の難しいところは、そうした「実践」にどのくらい迅速に取り組めるかにあります。若い教員などは、経験がないために自分の判断だけで行動すると、さらに問題を拗らせることになりかねません。たとえば、虐待案件などでは、本来であれば児童相談所等の機関に「通告」しなければなりませんが、「親に黙って通告していいんだろうか?」という躊躇いを持ちます。それは、万が一、事実と異なっていれば、「通告した人間」が責められることを怖れるからです。しかし、この「通告」は、教育公務員としての義務であり、虐待の「疑い」があれば、速やかに通告しなければならないのが規則で定められています。そのとき、訴えた子供の親から、怒鳴り込まれても毅然とした態度で、対応することが求められますが、若い教員にそれが可能でしょうか。校長であっても、保護者や市民から怒鳴り込まれることは避けたいものです。したがって、「疑い」程度では、通告を躊躇うこともあり得るのです。しかし、それができなければ、教師失格であり、職責を全うできないことになるのです。そして、大切な子供の生命を守ることもできないのです。よく、「体を張る商売」という言い方をしますが、警察官や自衛官、消防官などは、その最前線で戦っている人たちですが、「教員」もまた、体を張って戦う仕事なのです。
4 「歴史と伝統」を語れない教師たち
今の日本の教育に欠けているものは、「歴史観」と「文化・伝統」への関心です。「そんなものは、今の時代には必要ない…」と思う人もいることでしょう。確かに、大学等の受験を考えれば、日本人としての歴史観や文化・伝統を重んじるような意識がなくても、合格することは十分可能です。寧ろ、そんなものは、この国で生活する上では不要なものかも知れません。もし、成績がよい子供が、歴史好きだったとしても、そんなものは「趣味程度でよい…」と考える保護者や教師は多いのではないでしょうか。そんなことより、少しでも早く「英語」を学び、少しでも早く「パソコン」を習得し、少しでも早く受験科目を教える「学習塾」に入れたいと思う親は多いはずです。ところが、こうした考え方が、日本の未来を危うくし、子供自身の成長を阻害しているとしたら、日本人はどうしたらいいのでしょう。これも、敗戦後のGHQによる「WGIP」の一環なのだと考えれば、合点がいきます。
世界を見ても、何処の国でも「自国の歴史や文化」を大切にしない国はありません。中には、真実をねじ曲げてでも「美しい建国の物語」を作ろうとさえします。そうして、子供たちに、自分の国に対する「誇り」を持たせようとしているのです。彼らは、「誇りを持てない民族は滅びる」ことを承知しているからです。ところが、日本の学校では、日本の歴史は「天皇中心の国づくり」と「武家政権の歴史」そして、「搾取され続けた庶民の歴史」が中心となっています。特に、農民は、権力者に搾取される「かわいそうな人々」という扱いで、それをもって「封建社会の犠牲者」と教えています。そのため、歴史を「先祖の物語」として捉えることができず、自分とは関係のない「過去の話」で終わってしまうのです。本当は、その時代時代に自分の先祖が存在し、一生懸命に生きていたはずなのです。それが、日本の学校で勉強しても、所詮は「他人事」としか考えられず、興味のない子供には、単に「暗記」するだけの勉強となっています。本当にそれでいいのでしょうか。親世代も同じような経験しかありませんから、暗記するだけの教科に興味を持つ人は少なく、まして、外国人に「日本の歴史を教えて?」などと言われれば、吃驚して「日本には、話すような歴史はありませんから…」と丁重に断ってしまうことでしょう。
そうではなくて、歴史を「先祖の物語」と考えたらどうでしょう。もし、学校で、先生たちがそんな風に教えていたら、その時代に生きていた人々の「息づかい」みたいなものを知ることができたのではないでしょうか。たとえば、「農民は領主から搾取され、酷い扱いを受けていた」といった歴史を学ぶと、まるで、欧米の封建主義に見られるような、「奴隷」のような扱いを想像してしまいます。そして、日本人の多くは、その「農民」を先祖に持ちますので、「私の先祖は、奴隷だったのか?」と思うと、がっかりして、それ以上、先祖の話に関心を向けなくなってしまうのです。まずは、それを否定しないことには「先祖の物語」は始まりません。
日本の江戸時代の農民は、そんな「奴隷」のような扱いを受けてはいません。確かに、土地を持たない百姓にとって、生活は楽ではありませんでしたが、横暴な領主には、「直訴」や「一揆」という戦い方もありました。農民の話では、「佐倉惣五郎」や「二宮尊徳」が有名ですが、全国には、今でも「義民」と呼ばれるような立派な行いをした農民の話が伝わっています。それは、だれもが自分の為ではなく「世のため、人のため」に働いた人たちなのです。それに、農民の中でも立派な家系の名主の中には、その土地を治める大名家から「苗字帯刀」が許された家も多く存在し、「地主制度」は、GHQが廃止するまで続いていたのです。それを言うと「水呑み百姓」たちは、「年貢に苦しめられていたんだ!」と言う人がいますが、江戸時代は「米中心の経済」であり、農民に「税」を課したのは当然だったと思います。但し、その負担率が高すぎると農家が苦労したことは事実ですが、現在のように「品種改良」が進んでいない時代ですから、「豊作・不作」が天候次第という難しさがあったことは事実です。それは、町人階級も同じで、町人の「長屋暮らし」などを見ていると、消費生活の苦労が偲ばれます。よって、農民だけが「奴隷扱い」される理由はありません。
他にも、武士が農民のなることを「帰農」と言いますが、どうして、そんなことが起こるのでしょう。そんなに酷い扱いを受ける身分ならば、武士が農民になることなど考えられないはずです。しかし、主家が滅びれば、武士は「浪人」身分になります。「浪人」とは、厳密には武士階級ではなく、「身分外の者」という立場に置かれます。つまり、「士農工商」のどれにも当てはまらない身分のことを指します。こうなると、江戸に暮らしていても、町名主の支配下に置かれ、町人以下の扱いを受けるのです。武士は、武家に仕えてこその武士であり、主を持たない武士は、二本の刀を挿していても、町人以下の立場に甘んじなければならないのです。そのため、町人に仕事をもらって生活することを余儀なくされます。それは、主を持って仕えていた武士にとっては、相当の屈辱だったと思います。世間体だけは「武士」を装っていても、実際は、町人以下の扱いでは、真面な町人が相手にするはずがありません。それをするくらいならと、自分の故郷に戻り、僅かな田畑を買い求め「本百姓」として生きていく方がずっと「まし」というものです。なぜなら、それが武士の「原点」だからです。「農民に帰る」ことを武士は恥だとは考えていませんでした。それは、豊臣秀吉が天下を取るまでは、農民と武士の境界はなく、当時の武家屋敷の多くは農村にあり、武芸を鍛錬しながらも畑を耕し、狩りに勤しんでいたのです。秀吉の「刀狩り令」によって、農民は、武器を取り上げられましたが、戦国の時代であれば、農民のほとんどは「農兵」であり、領主から命じられれば、武器を携えて戦場に出陣するのが常でした。そして、その活躍によっては、真の「武士」に取り立てられるチャンスを得られたのです。それを証明して見せたのが「豊臣秀吉」ですから、農民とはいえ、武士に軽んじられる理由はありません。要するに、武士は、農民になることを躊躇いませんが、商人や職人になろうとする者はほとんどいません。なぜなら、農民と武士は「兄弟」のような関係だからです。地方に行けば、何処の大名家でも武士の邸の中には、畑があり、作物を栽培するのは当たり前のことでした。しかし、武士が商人や職人になるのは、少し違います。
ここに「武士道」という儒教の考え方が影響してきます。江戸時代の身分が「士農工商」と言われるように、「経済活動(金儲け)」をする仕事は「卑しい仕事」と教えられ、「武士は食わねど高楊枝」などという戯れ歌まで詠まれる始末でした。つまり、武士は、農民のような生産活動に従事することは卑しいことではないが、汗水垂らして働きもせず、金勘定ばかりしている商人は卑しい仕事なので、間違っても武士が就く仕事ではない…という教えが徹底していたからです。しかし、現実は、経済活動に従事した商人が国を発展させ、近代国家の基礎を築いたわけですから、資本主義社会には欠かせない仕事の一つです。その上、商人になるには、さらに特別な勉強が必要でした。下級武士の中には、「勘定方」の侍が商人の家に婿に入った例もありますが、元々勘定方に取り立てられる武士は、「銭勘定を扱う卑しい仕事」だと思われていますから、家禄も少なく、武士としての身分も低いままでした。武士の花形は、「番方」と呼ばれる「戦闘要員(軍人)」です。彼らは、常に殿様の側に侍り、護衛の任に当たることが任務であり、いざ戦場となれば、甲冑を着けて馬に跨がり、先陣を切るのです。江戸時代の武士には、万が一にもそんな機会はありません。それでも、「常在戦場」は、武士の心構えなのです。元禄時代に起きた「赤穂浪士討ち入り事件」などは、全国の武士にとって憧れの事件だったために、「忠臣蔵」という芝居が賞賛されたのです。それこそが、「武士としての本来の姿」と憧れていた「武士道」なのです。
しかし、その「武士道」が、長い年月を経て日本全国に広まり、日本人の「道徳律」を作ったのですから不思議なことです。今でも、「思い遣り」「優しさ」「配慮」「おもてなし」「遠慮」「謙る」などの言葉が、日常的に遣われていますが、この心情こそが「日本人そのもの」なのです。先日、パリオリンピックが終わったばかりですが、マスコミ等では何かと東京大会と比較した記事が掲載されています。そして、多くの外国人選手が「東京はすばらしかった」というコメントを寄せています。それは、「日本人のおもてなしの心が優れていた」と言いたい記事ばかりなのです。マスコミは、何かと欧米を高く評価し、「だから、日本人はダメなんだ…」と報道することが多い傾向にありますが、さすがに「おもてなし文化」だけは、素直に認めざるを得ないのでしょう。確かに、日本人は、身内だけでは「ああだ、こうだ…」と盛んに意見を言い合いますが、そこに客が入るとだれもが、これまでの「言い争い」などなかったかのように振る舞い、精一杯のおもてなしに尽くすものです。私たちは、これを「常識」と捉えていますが、その「常識」がいつまで続くことやら、心配でなりません。なぜなら、それを「子供たち」が十分に受け継いでいないからです。
確かに、今でも学校では道徳を「道徳科」として教え、日本人らしい道徳観を身に付けさせようと努力していますが、それ以外の価値を持ち出されると、「それは違う!」と言えない雰囲気があります。社会全体が「多様な価値観」を受け入れようとしている中で、日本人としての「道徳観」を強制的に教えることもできません。そういう意味では、今の教師は辛い立場に置かれていることになります。そもそも、学校という機関は、国民の子弟を強制的に学ばせる教育機関であって、憲法にも「教育を受けさせる義務」が盛り込まれています。それ故に、国は「学習指導要領」を定め、検定本という名の「教科書」を選定して9カ年の教育を保護者に課しているのです。そうなると、教師は、飽くまで、国の方針に則った教育をしなければなりませんが、その国自体が、マスコミや政治家の圧力を受けて、右往左往する始末です。「多様な価値観」を尊重し、受け入れるように指示を出しておきながら、一方で、学校という教育機関をとおして、国にとって望ましい「日本人」となるよう、教育を施そうとしているのですから、現場の教師が指導に自信が持てなくなって当然です。要するに、社会全体が「共通の価値観」の下で生活をしていれば、学校は、その「一般論」に準じた教育を施せばいいのですが、そうとは限らない思想を持ち込まれると、今の学校体制ではどうしようもありません。それ故に、学校は戸惑い、そこで働く教職員の苦悩は尽きないのです。よって、日本の歴史や伝統が重要だとわかっていながら、指導を躊躇う教師も多いことでしょう。「そんなことより、もっと大切な英語やパソコンを教えてくれ!」と言われれば、返す言葉もありません。心の中では、「英語やパソコンなんかより、日本人として必要な勉強をさせてやりたい…」と叫んでも詮ないことです。もし、それに反論できるとすれば、文部科学省しかありませんが、彼らにそれをする気も勇気もないでしょう。
5 教育に必要なのは「誇り」
戦後の日本の教育は、常に世界に遅れまいとするあまり、思想や哲学を教えることを怠り、常に「方法論」に終始することで「事足りる」としたのです。それは、日本人としての歴史や伝統を軽んじることにつながり、一人一人に「日本人としての誇り(プライド)」を育てることを避けてきました。そのことは、もちろん、GHQによる指令の下に行われたことですが、占領期が終わり、日本からGHQがいなくなっても、その指令で動く日本人が多数残りました。特に教育界においては、戦前からの「左翼思想」を持つ学者が台頭し、保守的な思想を持つ学者は「公職追放」の憂き目を見て、教育界に復帰してくることはありませんでした。そして、東京大学を頂点とする学校制度が創られたのです。現在の「6・3・3・3・4制」は、単線型なので、先が見通せるという意味では、よくできた学校体系だと思います。そのために、「学歴社会」を作りやすかったとも言えるのです。小中学校の義務教育期間を終えれば、すぐに3年生の高等学校、そして4年生の大学と続くわけですから、学歴が欲しければ、次のステップに上がればいいのですから単純です。そして、これが、日本の「学歴社会」を生み出しました。
しかし、どの課程の学校においても、日本人としての「誇り」を学ぶ機会はなく、子供たちは自分の国の歴史ばかりでなく、自分の「家の歴史」すら満足に知らない…といった現実が生まれました。要するに、日本の学歴社会では、そんなものは人生にまったく必要がないのです。なぜなら、いくら日本の歴史や家の歴史を勉強しても、受験には関係ないし、企業等への入社試験で問われることもありません。資格試験にも出てきませんし、あるのは、娯楽映画かテレビドラマくらいなものでしょう。要するに日本人にとって、歴史とか文化、伝統などというものは、所詮個人の「趣味」の世界のものでしかないのです。多分、政府で働く優秀な官僚や政治家に「あなたの家の歴史(ルーツ)を教えてください」と尋ねても、満足に答えられる人はいないでしょう。また、「では、日本の江戸時代について、外国の方に説明してください」と依頼されて、満足に説明できる人もいないでしょう。だから、外国人に「なぜ、自分の国や家の歴史を語れないのか?」と不思議がられるのです。何処の国でも自分の国や家に誇りを持っています。なぜなら、それが「国家」だからです。「国」とは、単に利害関係で集まった人の集合体ではありません。長い年月をかけて、同じ歴史や文化を育んできた「家族」なのです。その家族が「煩わしい」「不必要だ」という人は、「国」の構成員にもなれません。もし、一個人が国や家族を捨てて、何処に行こうと言うのでしょう。もし、この世界から「国」という存在がなくなれば、後は「力の強い者」が支配する弱肉強食の世界になるだけでしょう。
血のつながりも、地域のつながりも、歴史や伝統のつながりもない「利害だけ」の関係を築いても、自分も社会も幸福にはなれません。「家」を持てば、多少のいざこざがあり、中での争いもあるでしょう。しかし、それでも「利害」のみでつながる関係よりは、ずっと「まし」なはずです。平成のころから、世界は「グローバリズム」なる思想が広まり、「日本も世界とつながらなければならない」とばかりに、企業は、アジア諸国に飛び出して行きました。特に中国からの勧誘は多く、その愛想笑いと人件費の安さで、我も我もと大陸に進出して行きましたが、30年後の現在、本当に日本社会は幸福になれたでしょうか。国内は空洞化が進み、経済は停滞したまま、一向に改善する姿が見えません。大陸に出て行った企業が儲かったか…と問われれば、一時は喜んだ時期もあったようですが、今や、どうやって日本に戻ってくるかで頭がいっぱいの状況のようです。会社に命じられて大陸で働いた社員の中には、スパイ容疑で当局に拘束されたままの人もいます。言葉では、「グローバリズム」とか「海外進出」などと格好いい言葉で、さもさも立派な企業であるかのように振る舞ってきましたが、本音は、「安い労働力」を求めて甘い言葉に誘われただけなのではありませんか。最早、そんな「泡ぶく(バブル)」のような時は過ぎました。そもそも、日本企業でありながら、「国」そして、「社員・家族」を大事にできないような会社は、淘汰されて当然なのです。そうした企業の幹部には、日本の歴史や伝統にも関心がなく、日本人としての「誇り」もないのでしょう。見た目立派な企業の大社長が、テレビをとおして「夫婦別姓を推進しろ!」としたり顔で語る時代ですから、頭の中は、既に日本という国を離れてしまっているのでしょう。「夫婦別姓」にするということは、「家族」を壊し「戸籍」を廃止する道を開くことです。そんな企業が、多くの国民に支持されるとは思えません。
6 「誇り」を失った国は、衰退する
今の「学校ブラック化」問題は、政府の小手先の改善案で何とかなる問題ではありません。もっと根深い、日本の病巣と言うべき問題を孕んでいるということです。この夏も、「戦後79年特集」と言うような「戦争」関連の報道がされていましたが、戦後の「GHQ」による「日本改造計画」について、触れるマスコミはありませんでした。おそらく、その部分は、日本の各業界は絶対に触れてはならない「闇」の部分なのでしょう。特に政治の世界では、日本が絶対に踏み込めない領域があるようです。最近では、唯一、安倍晋三元首相が、そのタブーに切り込んだ政治をしようと頑張っていましたが、安部氏を怖れた人々は、一斉に「安部おろし」に血眼になり、連日、マスコミをとおして「ネガティブキャンペーン」を張り続けました。それでも、国民の支持は大きく、長く政権を担いましたが、あの「暗殺事件」によって、日本の戦後体制を見直そうとする政治家はいなくなりました。だれかが後を引き継ぐのかと思えば、それをする勇気のある政治家は皆無で、またもや、アメリカ、中国に操られる政治家のみになってしまいました。彼らには、国を憂える気持ちはあっても、行動する「勇気」がないのでしょう。あんな「暗殺」事件を見れば尚更です。
これまで、日本の学校は、国民の期待に応えようと頑張ってきましたが、それを「よし」としない勢力によって、学校教育は歪められ、遂に、崩壊寸前にまで追い込まれています。このまま、後数年が推移すれば、日本の子供たちの学力は下がり続け、外国との競争力を失うことでしょう。道徳心も学力もなくした子供たちが生き残る術はありません。そして、子供の教育が崩壊すれば、自ずと、日本の教育は衰退し、高校も大学も弱体化し、日本は先進国からも相手にされない国に成り下がるのです。おそらく、それを目論んでいる勢力が、この日本にはあるということを忘れてはなりません。昔、「国鉄」が民営化されようとしているとき、政治家はマスコミを使って「国鉄の腐敗」部分を殊更に取り上げ、世論を誘導しました。「郵政民営化」も同様の手口で、日本が誇る「公的郵便制度」を破壊しました。今、日本の郵便料金は度重なる値上げを余儀なくされ、その信頼は墜ちるばかりです。そして、政府は、アメリカの指示を受けて、国民に「投資」を呼びかけていますが、これも、日本人が多くの「貯蓄」をしていることに眼を付けたアメリカ政府の企みであることは明らかです。近い将来、政府が勧めた投資によって、人生を狂わされた国民が多く出ることでしょう。日本の教育も同じ道を辿っています。平成のころから、「学校教育の問題点」ばかりを殊更に取り上げ、マスコミは挙って学校の教員を叩きました。そして、外国による学力調査の数値が下がると、ここぞとばかりに政府を追及し、学校の負担を増やし続けたのです。政府は、教育を「サービス」と称して、子供に関するありとあらゆる問題を学校の教師に押し付けました。結果、現在のような事態に陥ったのです。こうして、日本の優れている分野を破壊し続け、日本の国力を削ぐのです。その先に何を見ているのかは知りませんが、これが、日本を弱体化させる「陰謀」でなくてなんでしょうか。
おそらく、数年後には日本の教育は大きな変革を求められるはずです。それは、学校教育の「民営化」に他なりません。「国」によって壊されたものを「国」が修復できるはずもなく、後は、「民間主導」に任せるしかなくなるでしょう。今でも私立学校は堅調に推移し、「通信制」の学校も多く設立されました。この後は、「学習塾」を経営する企業等にも呼びかけ、小中学校の教育を委ねるはずです。そうなれば、不登校問題や引き籠もり問題は、目立たなくなり、国の莫大は教育予算が削減されることになるのです。それに合わせて、地方の自治体も教育予算を削減し、民間への「補助」という形ですませるはずです。公務員だった教員は、すべて「派遣会社」に登録させ、勤務している期間だけ「準公務員」として扱えば、その服務を公的に扱うこともできます。そうなれば、教員は、他の「派遣社員」と同じ待遇になり、学校の姿はこれまでとは大きく変わることになります。子供の学力差は、益々大きくなり、経済的に恵まれている家庭は、子供に投資できますが、そうでない家庭は、それなりの教育しか受けさせることはできません。こうして、社会の「二極化」は、加速度的に進んで行くのです。
こんな話を聞いて、「まさか…」と思う人がいるでしょうが、現実に、欧米や中国では、同じ事が起きているではありませんか。日本のマスコミは、欧米の見栄えのいい部分しか報道しませんが、先のパリオリンピックを見ても、フランス国内が混乱していることがよくわかります。アメリカの大統領選挙報道を見ても、最早、人気投票でしかなく、堂々と、大統領選挙に不正まで起こる国になり果ててしまいました。それが、今度は日本にも起こるだけのことなのです。今、日本は加速度的に「少子化」が進んでいますが、先行き不透明な時代に、本当に若い夫婦が子供を産んで、その子を幸せに育てることができるのでしょうか。不安でいっぱいなはずです。だれしも、子供には「幸せになって欲しい」と願うものですが、それが実現不可能となったとき、結婚も出産も躊躇う人が出てきて当然でしょう。そうした不安感が、日本だけでなく世界中を覆っているのが現在なのです。
「日本」は、世界の中でも「歴史や文化」「道徳心」に優れた国として、多くの外国人に支持されています。その「日本」が力を失えば、「弱肉強食」の世界が誕生するだけのことなのです。既に世界は「帝国主義」の時代を経験し、人を人とも思わない政治をやり尽くしました。しかし、今現在でも、昔の「帝国主義時代」を懐かしみ、もう一度、強い力を取り戻そうとする勢力は存在します。一時は、「世界はひとつ」とでも言うような甘い言葉で囁き、世界の人々の心を惑わせました。しかし、実態は、権力者が世界を支配することでしかなかったのです。「覇権主義」という言葉がありますが、日本のように政治が弱い国は、そうした勢力のターゲットにされているのです。「教育」が国づくりの基本であることは、昔も今も変わりません。それを破壊することは、国の存続の危機なのです。力のある者は、その財力を使って日本の中枢を動かすことができます。日本の中枢にいる政治家や企業家たちは、保身に走り、国や国民のことより、自分優先で物事を考えます。「個人主義」が進むと、人は、他人のために働くことに意味を見出せなくなるのです。その例が、政府による「投資の勧め」でしょう。昔なら、「貯蓄の勧め」でしたが、今は国を挙げて「ギャンブル」を推奨するのですから、時代が変わったことを実感するのは当然です。
そもそも、「ギャンブラー」に「誇り」などあろうはずがありません。高いリスクを冒してでも「人より儲けたい」のがギャンブラーですから、「世のため、人のため」など、考えることもないでしょう。そうした人間は、物事の価値基準がすべて「損得」になります。そして、絶対に「損」をすることを嫌うのです。だから、学校で少しでも我が子が不利益を被れば、「自分が損をした」と感じ、その「損」を取り返そうと躍起になるのです。その割合が多ければ、多いほど、国力は衰退します。日本は、今まさにそんな状態にあるのです。私たちが子供のころは、学校の教師や地域の立派な人は、「働くは、傍が楽になることなんだよ…」と教えてくれました。仕事は、自分のためではありますが、「傍」の人のためでもあるのです。いつも、「自分が、自分が…」と言い続けて幸せを掴んだ人は見たことがありません。確かに、道端に落ちている硬貨を拾うことはできても、周囲の「信頼」という大きな価値を得ることはできません。いつも、下を向き「硬貨が落ちていないかな…」と歩いていても、大きな目標に向かって進むことはできません。そんな一枚の硬貨より、もっと大切な「人生の目標」があるはずです。それを取り戻さない限り、日本は限りなく墜ちていくことでしょう。もう一度、日本人一人一人が「自分」を振り返り、「生きる目標」を見つめ直す時間が必要なのだと思います。
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