先日、今、話題の映画「侍タイムスリッパー」を見に行きました。「低予算の時代劇」といった触れ込みで作られた作品だそうですが、その「殺陣」のシーンは圧巻でした。日本映画の殺陣は、独特の剣捌きで、日本人なら、テレビ時代劇でおなじみの「チャンバラ」シーンを思い出すことでしょう。ひと言で「チャンバラ」と言いながら、その所作はまさに武士道に叶っており、芝居、演劇といいながらも、その「時代」を学ぶ絶好の機会になっています。今の子供たちが江戸時代の風俗や言葉遣い、武士道などを知っているのも、こうした「時代劇」の成果なのだと思います。今回の主人公は、会津藩の歴とした武士です。しかし、上士ではなく「下士」と呼ばれる身分の低い侍でしたが、それでも「会津松平家家中…」と名乗る正規の武士なのです。そして、この男は、会津藩でも屈指の剣の腕前を持っており、自分に与えられた使命に忠実であろうとする「律儀者」でした。その頑なさは、まさに「会津魂」を持った侍なのです。
今でもそうですが、会津地方は福島県内でも「豪雪地帯」として知られています。県境を越えれば、すぐに「米沢」に入ることができます。「米沢」も越後から移されたころは、会津も「上杉家」が治めていましたから、会津と米沢は親戚みたいなものです。そんな縁もあってか、会津戦争では、最後まで会津に協力してくれたのが「米沢藩」でした。ここも、会津以上の豪雪地帯ですから、性格は似たところもあるのでしょう。それに、上杉家は「越後の虎」と言われた上杉謙信を祖とする武勇の家柄ですから、「義に厚い」侍たちが多くいました。上杉家は、後に「鷹山」が出て有名な「藩政改革」を行い、領民を慈しんだ政治を行っています。会津も米沢も京の都からしてみれば「田舎」でしかなく、訛りもきついことから江戸などの都会の武士から見れば、野暮な田舎侍に見えたのでしょう。そうした侮りが、元々西国諸藩にはあったようです。そもそも、南国と違って、雪の多い地方は、だれもが「無口」になります。そのために、「会津の人間は、何を考えているかわからない…」と言った陰口を聞かれますが、正直に言えば「考えはあるだども、どう説明してよいかわからぬ…」とでもいうところでしょう。まあ、諦めが早いのも雪国の人間の特徴です。よく、長州人は議論好きで、薩摩人は熱い男が多いと言われますが、会津や米沢の男は、だれもが寡黙で、長々と議論をすることを嫌います。女性も寡黙ですが、大人しく見えて「芯」があり、いざとなったときには、男以上に覚悟を決める強さを持っています。それが、日本女性の強さなのでしょう。
会津藩や白虎隊については、このブログでも、何度か書かせてもらいましたが、やはり語り尽くせぬことが多く、改めて、「会津」とは「武士道」とは…について考えてみました。もし、機会がありましたら、「侍タイムスリッパ-」を映画館で見て貰いたいと思います。そして、「侍」とは「武士道」とは…何なのかを考えて貰えれば幸いです。ひょっとしたら、今の時代に必要なのは、上手に世渡りができる器用な人間などではなく、不器用でも真っ正直に生きられる「侍」のような人間なのかも知れません。映画を見ながら、そんなことを考えていました。すみません。最後は、映画の宣伝のようになりましたが、私は関係者ではありません。
1 「会津松平家」は、賊軍ではない!
歴史の物語でよく遣われる言葉が、「勤皇派(官軍)」と「佐幕派(賊軍)」です。しかし、この時代「勤皇」でない武士など、何処にもいなかったと思います。ただし、「勤皇」を旗印に、権力闘争に明け暮れた藩(国)がいくつか見られました。それが、「薩摩」や「長州」などの「新政府方(西軍)」に属する藩でした。親藩である「水戸藩」も、新政府方と幕府方に別れて血みどろの内紛を起こしましたが、それでも、両者とも勤皇には違いはなく、思想の違いというか、政治的な判断というか、とにかく、どちらにつくのが有利なのかを考えての行動でした。それは、当時の武士にとって「御家の存続」が何よりも大切な価値であって、「御家のためなら…」一身を擲つのが武士というものだったからです。それ故に、忠臣蔵に見られるような「御家断絶(改易)」は、あってはならない不始末だったのでしょう。そもそも、「武士・侍」というものは、朝廷をお守りするために作られた「令外の官」であり、律令制度の中には組み込まれない武装集団(軍)でした。それが、権力を持つようになり、朝廷から官位をいただき、「武士の頂点」に立って政治を行ったのが「幕府」であり「征夷大将軍」なのですから、武士が「勤皇」でないはずがありません。ただ、日本全国の多くの武士は、「天皇を利用しよう」などという怖ろしい企みはしなかったということです。それを平気で行ったのが、「倒幕」を企んだ武士と天皇に仕える「一部の貴族」たちでした。それは、けっして「武士道」に則った行動ではなく、武士としてあるまじき、天皇を政治利用した「反逆行為(朝敵)」であったことを忘れてはなりません。ましてや、天皇をお守りする立場の「貴族」が、その地位を利用して政権を倒そうなどとは、「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」などのドラマにも出てこないような「悪党共」です。
そもそも、「天皇を政治利用する」などといった発想は、会津の侍には一切ありませんでした。それを考えることは、武士道に悖る行為であり、それより、考えるだけで「畏れ多い」といった気持ちの方が強かったと思います。それを「攘夷運動」を「倒幕運動」に切り替えた薩摩や長州の革命家気取りの武士たちは、朝廷の革命貴族であった「岩倉具視」と共に策を練り、あろうことか、時の天皇であった「孝明天皇」を毒殺して政権を奪おうとしたのです。もちろん、現在に至るまで「毒殺」の証拠はありませんが、状況から考えて、岩倉の意を汲んだ女官が、疱瘡の病から回復してきていた孝明天皇に「毒」を盛ったのは確かでしょう。実際、将軍家にしても、天皇にしても、常に権力の中枢にいるわけですから、「命の危険」は日常的にありましたから、「これが初めて…」ということはなかったはずです。用心をしていても、僅かな隙を狙って悪人が入り込めば、為す術がないのです。そして、そうした「策謀」によって命を奪われた将軍や天皇は多かったと思われます。まして、革命家たちは、天皇を「玉」と呼び、自分たちの革命を成就させるための道具として利用したことはわかっています。これは、武士道に生きる侍の道(思想)ではなく、権力を奪おうとする者たちの本心でした。そして、「自分の理想を実現するためなら、天皇を道具として考えてもいい」という思想が、大正・昭和の「軍閥」を誕生させたのです。
実際、昭和に入ると、日本各地でテロ事件が頻繁に起こりました。その標的には、経済界、政界の重鎮と呼ばれる人も多く含まれていました。総理大臣を務めた原敬や浜口雄幸、犬養毅、岡田啓介などは、総理大臣経験者です。「日本の政治のトップを殺せば社会変革ができる」というのも単純で怖ろしい思想ですが、現代でも安倍晋三元総理大臣への「テロ殺人」は、思想的に、この時代につながっているのかも知れません。昭和の軍人たちは、「昭和維新」を叫んだといわれていますが、これは、まさに「明治維新のような社会革命を起こす!」という宣言に他なりません。クーデターによって政権を奪う手法は、日本でも「大化の改新」以降、何度も起きていますから、それを「是」とする思想家に煽動された勢力は、今の時代であっても、必ず「ある」と考えなければなりません。現代においても、共産主義者は「暴力革命」を否定していませんし、昭和の中頃には、赤軍派や革マル派などといった「革命家気取り」の若者たちが、多くのテロ事件を起こしています。そう考えると、「武士だから…武士道に則った道徳的な生き方をするのだろう」と考えるのは、無理があるようです。そういう意味では、「会津松平家家中」の侍たちは、あまりにも「生真面目」過ぎたのかも知れません。
江戸時代において、会津松平家は300諸侯の中でも特別な存在でした。徳川の元々の姓である「松平」を名乗ることからもわかるように、徳川家の親戚(親藩)になります。藩祖「保科正之」は、徳川秀忠の三男にあたり、正妻の子供ではありませんが、秀忠が大奥の女中に産ませた子供ですので、将軍になる資格がある身分ということです。しかし、正之は、そんなことを奥美にも出さず、子供のころより、立場をよく弁えた賢さがありました。養子に出された「保科家」は、僅か3万石の小大名です。それでも、不満のひとつも言わず、黙々と政務に励んだといわれています。そのため、将軍となった兄の「家光」には殊の外可愛がられたと言います。そして、家光は、自分が亡くなるのを覚ると正之を枕元に呼び「後を頼むぞ…」と4代将軍となる家綱の後見になるよう命じて、静かに息を引き取りました。そして、その遺言を守り、徳川幕府の礎を築いたのです。その「保科正之」が、幕府に命じられて開いた「藩」が、会津23万石なのです。
そんな会津松平家にとって、徳川宗家と存亡を共にするのは、家の「掟(家訓)」になりました。正之は、本当に私欲のない人物だったようで、23万石もの領地を任された恩を忘れず「会津松平家は、徳川宗家と共にある」と宣言し、「どんなことが起きても、徳川宗家を裏切ってはならない」と書き残しました。それは、藩士のみならず、徳川家縁の大名家も承知していることであり、幕末に「京都守護職」の命が下ったときも、国家老たちが反対したにも関わらず、引き受けたのは、福井藩主松平春嶽が、その「家訓」を持ち出して容保に迫ったからに他なりません。つまり、「徳川宗家あってこその会津松平家」であり、たとえ、会津松平家が生き残ったとしても、徳川宗家が滅びてしまえば、それは「掟」に背くことであり、絶対に許されないことだったのです。確かに、会津藩の祖法は、そうかも知れませんが、幕末のあの時期に敢えて「京都守護」を引き受ける藩は、他にはありませんでした。
最初に幕府から「京都守護職」の打診があったとき、国家老の西郷頼母は、血相を変えて江戸藩邸に早馬を飛ばし、藩主容保の前で「薪を背負うて火の中に飛び込むようなもの」と、断固反対を唱えましたが、主君である「松平容保」は、「会津の掟を忘れたか!」と西郷を叱責し、蟄居を命じてしまいました。本来であれば、国家老の意見は重く、無闇に却下できるものではありませんでしたが、養子である「容保」にしてみれば、どうしようもなかったのでしょう。その後、藩主に疎まれた頼母は、会津で蟄居していましたが、会津戦争が始まると前線(白河の戦い)の指揮官に任じられました。しかし、新式銃で武装した新政府軍に次々と防衛戦を突破され、撤退を余儀なくなれたのです。その後も頼母は、正論を吐き続けますが、戦っている藩士たちの気持ちを逆なでするばかりで、結局は、戦いの最中に別命を受けて長男吉十郎と共に会津を去って行きました。「刺客」を送られたという噂もありました。その後は、仙台から北海道に渡り、「五稜郭の戦い」に参加し、それに敗れると、一人静かに会津に帰って余生を送ったと言われています。妻や子、母親など一族を自害で失っていた頼母は、どんな思いで明治という時代を眺めていたのでしょう。
歴史を振り返って見ると、現実論者の西郷頼母の見解は正しく、これによって会津藩は「朝敵」とされてしまったのですから、「京都守護職」は受けるべきではなかったのでしょう。しかし、いつも正論が正しいとは限りません。もし、西郷の意見を容保が採り入れ、京都守護職を断ればどうなっていたでしょう。おそらくは、藩内は揉めに揉め、容保は、主君としての信頼を失っていたでしょう。なぜなら、容保は養子であり、会津にとっては「よそ者」なのです。そんな容保に、保科正之が定めた掟(家訓)を破れるはずがありません。この掟は、会津松平家に脈々と受け継がれてきた「教え」でもあり、それに背くことはだれにもできなかったのです。それは、会津の武士にとって「死」を意味していました。それでも、「引き受けてはなりませぬ!」と言い張った国家老西郷頼母は、別の意味で「会津の侍」でした。しかし、「ならぬものは、ならぬものです!」と教えられてきた会津の侍にとって、どんな地獄につながる道であっても、徳川宗家の命には逆らえませんでした。まさに「国家存亡の危機」を会津藩に託されたのです。つまり、「やらねばならぬ役目」として、会津藩は、火中に身を投じたのです。
このころ、京の都は「攘夷の風」が吹き荒れ、この乱れに乗じた「志士」を名乗る浪人たちが、好き勝手に都を徘徊し、商家に無理難題を押し付けたり、気に入らなければ、すぐに抜刀し、乱暴狼藉が耐えませんでした。それを煽動したのが、長州藩の過激派だと言われていますが、こうなると、最早、通常の「京都所司代」や町奉行の手には負えなくなっていました。「天誅」という言葉が流行り、土佐の「人斬り以蔵」や薩摩の「中村半次郎」などが、有名な「暗殺者」でした。いくら幕末とはいえ、日本は「法治国家」でしたから、こんな無法が許されるはずがありません。京都所司代も町奉行も手を拱いていたわけではありませんが、あまりにも多い犯罪行為にどうしようもなくなっていたのです。それに、彼らの多くは大名家に属する「武士」でしたから、簡単に捕縛することもできなかったのです。役人たちにしてみれば、「まさか、武士たるものが、こんな非道をするとは…?」と唖然としていたことでしょう。当時の日本は、何処でも「治安」が守られ、人々は道徳的に生活していましたので、警察権力はさほど必要なかったのです。
少し前に「江戸しぐさ」と呼ばれる、江戸時代の町人たちの振る舞いが改めて評価され、マスコミで紹介されると一種のブームになったことがあります。それは、普通の挨拶や遠慮など、今でも通用する人々の何気ない「しぐさ」でした。それが、現代の人々にも「好ましい人間のあり方」として好評だったということでしょう。江戸時代というのは、けっして、貧しくて、権力者に虐げられていたわけではなく、人々は、慎ましやかに暮らし、遠慮や助け合いなどといった「道徳心」を持って生活していたのです。昭和期に作られた時代劇などでは、浪人者が、街中で刀を抜いて暴れるようなシーンがありますが、とんでもありません。そんなことをすれば、すぐに牢屋に入れられ、下手をすれば、打ち首刑になってしまいます。まともな武士が同じ事をすれば、本人の切腹だけでなく「家名断絶」は免れません。既に「法治国家」として成立していた日本社会は、だれもが秩序を重んじ、無法をゆるさなかったのです。そのため、武士は滅多に刀を抜かないことを戒めとし、武士が一旦刀を抜けば、それは、己自身の「死」も覚悟しなければならなかったのです。ところが、京の都だけは、浪人たちが刀を振り回し大暴れしていたのですから、非常措置として「京都守護職」が設置されたのは当然のことでした。
しかし、ペリー来航以降の「攘夷運動」と不逞浪人の行動が結びついていたために、一度点いた「火」は、なかなか消すことはできませんでした。そして、これを煽ったのが水戸藩主の徳川斉昭でした。別名「烈公」と呼ばれたように、とにかく、物言いが激しく、「尊皇攘夷」を掲げて「外国人を入れるな!」の一点張りでしたから、幕府内でも頭痛の種でした。「水戸藩」といえば、徳川御三家のひとつで、徳川光圀の時代から「大日本史」なる日本の歴史をまとめる編纂事業に取り組んでいましたので、その藩主の言葉は影響力が大きく、全国に「攘夷思想」が広まって行ったのです。それは、「水戸学」とも呼ばれ、過激派の「精神的なバイブル」になったとさえ言われています。そのために、都で暴れる浪人共も「烈公が申すとおり、俺たちが攘夷の先兵になるんだ!」と、悪党に危険思想を植え付けてしまいました。その上、長州藩の過激派は、そうした、社会に不満を持つ浪人を煽っては、裏で金を渡し、京の都に騒動を起こさせていたのです。浪人共は、勝手に「尊皇の志士」を気取ることで「世直し」に参加しているような気分になり、騒動が収まることはありませんでした。
それまで「都」は、「お上のおられる神聖な場所」という意識があり、治安は守られていたのです。都の人々は、幾度も戦乱に巻き込まれた経験がありましたので、「またか、今度は、なんや長州かいな…?」と、眉を顰めていたときに現れたのが、会津藩士1000名を率いた松平容保でした。その行列は華やかで、馬上にいる容保の姿は、まさに「錦絵」にでも出て来るような美男子ですから、都の人々が喜ばないはずがありません。そして、だれもが「会津藩」を信頼し、喝采を浴びせたのです。特に、孝明天皇は、自ら容保に言葉をかけ、二度にもわたる親書(宸翰)を渡されました。孝明天皇ご自身は、日本に外国人が入ってくることを嫌いましたが、それは、幕府の力で何とか解決して欲しい…と願っていただけで、だれにも「幕府を倒せ!」と命じたことはありませんでした。そのために、14代将軍家茂に自分の妹である「和宮」を降嫁させたのです。しかし、その気持ちを利用したのが、長州藩の過激派でした。水戸藩の斉昭は、自分の信念に基づいて「尊皇攘夷」を叫んだだけで、これも幕府と敵対する気持ちはありませんでした。だれもが、天皇を「政治利用」しようなどと考えもしない時代に、それを悪意を持って行った長州藩とそれに乗じて幕府転覆を謀った薩摩藩こそが、真の「朝敵」だったのです。したがって、会津藩が朝敵でないことは明らかなのです。
3 治安維持部隊「新選組」
新選組の誕生については、省略しますが、元々は幕府が、将軍「徳川家茂」の上洛に際して、その警護のために募集した「浪士隊」が元になります。新選組の主力は、近藤勇率いる「試衛館道場」の門弟(食客)たちでした。有名な土方歳三、沖田総司、永倉新八、斎藤一などの侍は、近藤の名声によって集まった剣豪たちです。しかし、浪士隊は、間もなく家茂が江戸に戻ると解散してしまいますが、近藤たちは、「徳川家のために都に残って働きたい」と、京都守護職である「会津藩」に願い出たのです。容保は、これを受け入れ、会津藩の古くからの部隊名であった「新選組」の名を与え、その傘下に加えました。彼らは、会津藩の別働隊ですから、動きも自由で、常に都の町を巡回し、不逞浪士の取り締まりを行っていたのです。最初の局長だった芹沢鴨たち一派は、そうした力を過信して横暴な振る舞いが見えたために、会津藩の命令によって粛正されました。それを実行したのが、近藤たち「試衛館道場」出身の隊士たちでした。そして、二度とこうした不祥事が起きないよう「新選組」は鉄の掟(局中法度)を制定し、「武士の誠」を旗印に都の治安維持に努めたのです。彼らが巡回するようになると、京の町も穏やかさを取り戻し、都の人々は、会津と新選組に拍手を送ったのです。これによって、動きを封じ込められた長州藩や過激派浪士の反感を買うことになりましたが、当時としては、正当な「警察行動」であり、違法な行為をしていたのは、長州藩と浪士たちなのです。
ドラマや映画などで「新選組」が扱われることが多くなりましたが、それだけ魅力ある侍が多く登場しているということでしょう。昭和の中頃までは、映画やドラマの時代劇で「新選組」と言うと、主役の敵役で、悪役俳優が憎々しげに演じたものですが、平成以降のドラマでは、そうした偏見がなくなり、幕末物の「大スター」になっています。勝った薩摩や長州などの侍より、新選組の人気が高いのはなぜでしょうか。それは、彼らには「嘘」がないからです。幕末といえば、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の高杉晋作、桂小五郎、土佐の坂本龍馬などが有名ですが、彼らは「革命家」「策謀家」としての闇の部分が多く、真っ直ぐに生きる「侍」とは違って見えます。「武士道」に照らし合わせれば、こうした政治色の強い武士は、「武士道」という道徳律とは無縁の存在のようです。そういう意味では、新選組や会津の侍は、「卑怯な振る舞いをしない」正当な武士に見えるのでしょう。それは、忠臣蔵で有名な「赤穂浪士」にも言えることです。江戸時代の価値観で見れば、赤穂浪士たちの「仇討ち」こそ、武士の華であり、何より「忠義心」は、徳川家康が「武士の心得」として示した重要な価値でしたから、だれも、赤穂浪士を卑怯者と言う人はいません。昭和の時代以降、多くの作家がフィクションとして描いた人物像が、一人歩きをしていますが、実際は、西郷も坂本も、かなりの「闇」を抱えた男たちなのです。
新選組は、元々の会津藩士ではありませんでしたが、会津藩と共に最後まで戦い徳川家に忠誠を尽くしました。そういう意味では、本物の「侍」だったと思います。新選組の近藤や土方は、生まれは「多摩」の農民です。しかし、この地方は、徳川家の存亡の際は、江戸城から甲府城に拠点を移して戦う「甲州街道」沿いに位置していました。「日光東照宮」を守る「八王子千人同心」などが置かれたのも「多摩」地方です。「八王子千人同心」は、元々は甲斐の武田氏に仕えた武士でしたが、武田氏滅亡後は、徳川家康の配下に置かれました。織田信長は、甲州攻めが終わると家康に「武田の遺臣は皆殺せ!」と命じましたが、家康は、これを黙殺し、その多くを自らの家臣団に組み入れました。武田軍団は、具足一式を朱色に染めた「赤備え」で有名でしたが、その武田勢を主力に軍団を創り上げたのが「井伊直政」でした。そのため、井伊家は後の世まで怖れられ「井伊の赤鬼」とか、「井伊の赤備え」と呼ばれて、徳川家最強を謳われたのです。しかし、幕末に大老井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺されると、井伊家内部では徳川家を見限る意見も多く、結局、戊辰戦争では会津藩に味方することはありませんでした。井伊家にしてみれば、味方であるはずの「水戸藩」の脱藩浪士に殺されたのですから、胸中は複雑なものがあったはずです。「徳川への恩もこれまで!」と見限り、新政府方についてしまいました。徳川御三家すら徳川家を守ろうとはしなかった(できなかった)ことを考えれば、井伊家の判断はやむを得ないのでしょう。
新選組は、鳥羽伏見の戦いで敗れ、大坂城に退去しましたが、ここで徳川方は一戦を交えることなく江戸に退去していきました。それは、薩摩、長州軍に「錦旗」が揚がったからです。「錦旗」とは、「天皇の軍」つまり「官軍」の証だと言われていますが、情勢定かでない中で、天皇自ら「官軍」を名乗り、徳川方を「朝敵」としたわけではありませんでした。しかし、策謀家の岩倉具視は、大久保利通等と謀って「錦の御旗」を勝手に作らせて戦場に揚げて見せたのです。当時、実際の「錦旗」なるものを見た人間はだれもいません。おそらくは、「源平合戦」の際の壇ノ浦あたりでは、平家が揚げたかも知れませんが、そんな時代錯誤のような演出を考えるのは、やはり、岩倉という男は、真の「策略家」だと言えます。現実的には、大して意味のない「幟旗」でしかありませんが、戦場という異常な世界では、そんな単純なものが、かえって効果をもたらすのでしょう。だれも見たことのない不思議な旗が見えたことで、徳川方は、だれもが「錦旗だ!」「錦の御旗が揚がった!」と勝手に怯え、「朝敵」となることを怖れたのです。
当時の武士にとって「天皇の敵(朝敵)」になることは、絶対にあってはならない「思想」でした。これも、江戸後期からの「国学」などが、大きく影響していたと思います。それに、水戸藩が編纂していた「大日本史」では、「徳川家の征夷大将軍職は、天皇によって任命される」と明記されていたわけですから、日本の元首が、天皇にあることは明白です。そのため、「尊皇」という言葉は、「攘夷」論とは、関係なく、だれもが信奉している思想だったのです。特に、水戸藩は、その創立に際して、家康から「朝廷と幕府が敵対した場合は、必ず天皇に味方すること」と厳命されていましたので、徳川家親藩とはいえ、朝廷に弓を引くことはできませんでした。その教育を受けていた最後の将軍「徳川慶喜」は、錦旗の報を聞くや否や、それまでの方針をさっさと放棄して、大将である自分と副将格の松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)を連れて、密かに大坂城を抜け出したのです。まさに、前代未聞の事態が起こりました。慶喜にとって、最早、戦の勝敗など関係ありませんでした。「天皇に弓を引く」などという怖ろしい行為をすることは、「水戸家」の人間として許されざる行為なのです。この感覚は、現代の人間にはわからないかも知れませんが、それほど、「家の掟(家訓)」とは、自分を縛るものなのです。戦力的にいえば、幕府軍は強大で、いくら、薩長主体の新政府軍が新式兵器で装備していたと言っても、長期戦になれば大軍を擁する幕府軍に薩長軍が勝てる見込みはありませんでした。まさに、一か八かの戦が「鳥羽伏見の戦い」だったのです。
しかし、総大将だった「徳川慶喜」は、錦旗を見た瞬間に戦意を喪失します。慶喜は、このとき、幕府による政治を終わらせることを決断しました。そのためには、プライドをかなぐり捨ててでも、自分が、この場から逃亡して謹慎することでした。いくら、強大な戦力を持っていても、最高指揮官が指揮権を放棄すれば、戦争はできません。夜陰に紛れて、幕府軍艦「開陽丸」に乗り込み、江戸に向かいました。明け方になり、それを知った幕府軍は騒然となりました。「上様が、どこにもおられぬ!」「会津侯、桑名侯もおらぬぞ!」。大阪城内は戦どころではなくなってしまいました。こんな、「まさか…」ということが起きたのです。前日まで、全軍を鼓舞していた征夷大将軍が、翌日にはいないのですから、だれもが「これで、徳川幕府は、終わった…」と思ったはずです。当然、それに従っていた幕府方の武士や会津藩、そして新選組は、戦場に取り残された「敗残兵」になってしまったのです。その怒りは激しく、この事態を収拾できる人間はどこにもいませんでした。どんなに「忠誠」を尽くしても、それが報われないことを知ったとき、人間はどのような思考になるのでしょう。大半の幕府方の武士たちは、「ふざけるな!」「俺たちは、何のために戦ってきたんだ!?」と怒り、その恨みを徳川慶喜に向けたはずです。そして、これまで幕府にしたがっていた各藩は、雪崩を打つように新政府軍に降りました。こうして、230年にも及ぶ「徳川幕府」は崩壊したのです。あれほど「名君」と謳われ、「起死回生の征夷大将軍」と期待された徳川慶喜も、その「家の掟」には逆らえませんでした。と言うより、「逆らうつもりがなかった」のです。それが、徳川家康が水戸藩に与えた使命なのですから、当然の結果でした。岩倉や西郷が、そのことをどこまで知っていたかはわかりませんが、幕府にとっては、将軍に選ぶ段階で間違えていたことになります。
新選組は、そうとは知らず、武士としての「誠」を貫こうと、江戸に戻ってからも精力的に仲間を募り、「甲州での戦い」「会津戦争」そして、「箱館戦争」まで、戊辰戦争を戦い続けました。そして、新選組の副長だった「土方歳三」が戦死するまで、新選組は、「徳川の名誉」を守り続けたのです。こうして考えると、徳川慶喜は、武士ではあっても「政治家」であり、新選組は、農民あがりの武士ではあっても、本物の「侍」でした。武士も侍として生きるか、政治家として生きるかでは、その思想や生き方に大きな違いが生じます。西郷や大久保も最初は、「侍」であろうとしたのでしょうが、いつの間にか岩倉具視等の「政治屋貴族」に洗脳されて、侍から「革命家」になっていきました。しかし、西郷隆盛は、そうなったことを後悔していたのでしょう。最後は、自ら刀を取り「侍」として壮絶な最期を遂げました。ただ、武士が一度でも「侍」を捨て、権謀術策の世界に身を置けば、それは、最早「侍」ではないのです。西郷も知っていたと思いますが、やはり、最期くらいは「侍」として死にたかったのでしょう。「武士が武士らしく生きるとは、如何に困難であるか」を物語っています。しかし、その最期に、本物の「侍」のように死んだからこそ、彼は、日本の「英雄」の一人に加えられたのだと思います。
4 理不尽な「会津戦争」
そもそも、会津戦争は起きてはならない戦争でした。確かに、徳川慶喜が「敵前逃亡」によって徳川幕府を崩壊させましたが、それは、「天皇に弓を引いてはならない」という、日本人なら、だれもが信じる思想に基づいて決断したことであり、それはそれで「英断」というものでした。もし、このまま戊辰戦争が続かず、「江戸城無血開城」で終わっていれば、日本は、この後も「平和を愛する国家」として、世界に堂々と出て行くことができたはずです。なぜなら、日本全国には、有為な人材が数多おり、平和裏に政権交代が行われていれば、そうした逸材を登用した政治ができたからです。もちろん、それでは薩摩や長州の下級武士たちは収まらなかったでしょうが、「日本」という国のことを考えれば、少しでも「人材」は必要でした。もし、「江戸城無血開城」後、新政府軍が矛を収め、徳川慶喜の罪を許し「新しい形態の政府」を作ることで合意できれば、明治維新は、後々まで禍根を残すことはなかったでしょう。これは、飽くまで「もし…」という前提ですが、新政府を創ろうとする勢力(薩摩、長州、過激派公家)は、どうしても「多くの血が必要」だと考えていたのです。
それは、自分たちが過激派の浪人たちを焚きつけ、悪行の限りを尽くしてまで徳川幕府を追い詰めたわけですから、たとえ、徳川家が降伏したところで、一度火がついた導火線を消す方法はありませんでした。薩摩藩は、下級武士たちが挙って参戦し、西郷や大久保を煽り「にっくき、徳川を倒すまでは、戦はやめん!」と、幹部たちに戦争を迫っていました。また、長州藩は、高杉晋作の策略で「奇兵隊」なる武士でもない野武士のような男たちを集め、穏健派を叩き潰していましたので、薩摩より、もっと過激でした。彼らは、戦場でしか稼ぐ道がなかったのです。こうした情勢の中で、たとえ、徳川家が白旗を揚げても、「平和裏に政権を交替しよう」とはなるはずがありません。要するに、「飢えた狼」たちに餌を与えるかのように、狼たちの腹を満たす「生け贄」が必要だったのです。それが、「会津戦争」が起こる原因でした。
そんなことになっているとは、露とも知らない東北諸藩は、「会津に戦う意思がないのに、戦争を仕掛けるとは、どういう理由か?」と新政府に尋ねますが、それを真面に答えられる人間は、新政府方にはだれもいませんでした。彼らも、下から「突き上げられて」戦争に持ち込もうとしているのですから、理由などあるはずがありません。それでも、会津藩は、戦う意思を示さず、新政府に謝罪を続けたのです。おそらくは、長州征伐のときのように、家老三人程度の切腹で許されると思っていたはずです。しかし、戦争を望む新政府に議論の余地はありませんでした。そして、このことが、後の世に大きな禍根を残すことになるのです。そして、仙台藩士による「世良修蔵暗殺事件」が起こりました。これは、新政府軍の軍監だった長州の世良修蔵のあまりに酷い態度に、堪忍袋の緒が切れた仙台藩士が、世良の寝込みを襲って惨殺したものです。この男は、長州の奇兵隊上がりの野人でした。仙台藩主の伊達慶邦に対しても礼を弁えない横柄な態度に終始し、その面相は貧相で、だれもが「これが、新政府の役人なのか?」と驚いたほどでした。
こんな男を大藩である仙台藩に送り込むのですから、如何に新政府が最初から堕落していることがわかります。彼らにとって、自分の欲望が満たせればいいのであって、日本という国がどうなろうと関係なかったのです。少なくても、徳川慶喜には、国を憂い、天皇や朝廷を敬う気持ちはありました。そして、国内で争っている場合ではないことを承知していたのです。それに比べて、新政府方のやり方は、単なる「関ヶ原の恨み」「虐げられた下級武士の恨み」「血に飢えた欲望」…など、何処にも人間らしい「心」などなかったのです。実際、「奥羽鎮撫」などの言葉でついて来た公家たちにしてみれば、実際の指揮を執る武士たちの振る舞いを苦々しく感じていた者も多かったようです。しかし、所詮は「お飾り」の公家ですから、何の権限もありません。おそらく、心の中では「こんなことなら、徳川の方がましだった…」と思っていたのではないでしょうか。結局、会津や仙台などの東北諸藩は、攻めて来る「敵」に対して備えをしなければなりませんでした。それが、「奥羽越列藩同盟」となったのです。この同盟の主将は、伊達藩の伊達慶邦でしたが、伊達藩自体が、内部で「尊皇か、佐幕か」で揺れていたため、盟主でありながら力を発揮することはありませんでした。
会津の隣国の「越後」も、当初は「奥羽列藩同盟」に与するかどうか迷っていましたが、長岡藩(牧野家)の執政であった「河合継之助」が「中立」を宣言したために、なかなか、越後地方でまとまることができませんでした。長岡藩は、河合の決断により「洋式兵器」を買い揃えており、特に、これまで日本に入っていなかった「ガットリング機関銃」を二門購入していました。その威力は絶大で、「一丁で100人の敵を相手にできる」とまで言われていました。それが二門もあるのですから、長岡藩は一気に「軍事強国」へと変貌したのです。河合は、「攻めて来るのなら、それが何処の軍隊であろうとお相手いたし申す!」と「武力中立」でこの国難を乗り切ろうとしましたが、新政府軍は、河合との交渉に応じず、これを「敵」と見做したために、長岡藩は嫌が応にも戦乱に巻き込まれていきました。実際、長岡は城下のほとんどを焼き尽くされ、河合は、長岡の人々の恨みを買ったと言われています。そして、遅れて「奥羽列藩同盟」に加わり「奥羽越列藩同盟」となったのです。これで、「東北諸藩」は、ひとつにまとまることができましたが、やはり、内部では各藩共に「朝敵」になることを怖れ、「できれば、恭順したい…」というのが本音でした。同盟とは言っても、「いくら何でも、会津藩が気の毒だ…」というのが理由ですから、腰が定まらない藩があっても不思議ではありません。それに、洋式銃を揃えるにしても莫大な資金が必要です。ただでさえ、財政逼迫している折、藩庫に余裕のある藩はありませんでした。そのために、東北諸藩の中で、本気になって戦ったのは、会津と庄内、南部くらいなものだったのです。
5 必死に戦った「籠城戦」
会津藩にしてみれば、「我々は、天皇の御為に京都の治安を守るべく勤めたのであって、天皇に弓引く考えなどござらぬ!」と必死に抗弁しましたが、それを受け入れる新政府ではありませんでした。新政府方にしてみれば、もし、この嘆願を受け入れれば、新政府軍を称する「薩長軍」の兵士たちが収まらないからです。徳川幕府を倒すためには、なりふり構わず違法行為を続けてきた西郷や大久保にとって、今更「筋をとおす」考えは、毛頭ありませんでした。とにかく、兵士たちには「血」が必要だったのです。西郷たちにしてみれば、味方の兵士の命などどうでもいいことでした。要するに「使える駒」として利用しているだけであって、用が済めば「使い捨て」にするつもりだったのです。その証拠に、明治の世になると、戦った元兵士のことなど無視し続けています。その挙げ句、各地で「叛乱」が起きるのですが、そんなことは承知の上で、彼らをこき使い、死んでも見返りはほとんどありませんでした。新政府軍のやり方は、だれもが「世良修蔵」のように傍若無人な振る舞いで、東北の人々からは忌み嫌われました。彼ら、京でも江戸でも、東北でも、何処に行っても「嫌われ者」なのです。そのために、会津の農民たちは、自ら志願して「農兵」となって会津戦争に参加しています。
因みに、私の祖先は「白河地方」の農民でしたが、やはり「農兵」となって会津戦争に参加しています。その地で暮らす人々にとって、土足で人の家に上がり込み、狼藉を働く西国の兵士たちを見て、驚きました。新政府軍が東北の宿場にやって来ると、各農家を脅し、食糧を奪って行きました。それは、米だけでなく、ニワトリや牛などの農作業に使う家畜まで奪うのです。それに対して、金銭を払うこともせず、文句を言えばすぐに抜刀して脅かすか、殺戮に及んだといわれています。話す言葉も乱暴な上に訛りが酷いので、東北の人間には聞き取ることができませんでした。さらに、声だけは大きく、大酒を飲み、女と見れば見境なく乱暴し、やりたい放題の「ならず者」ばかりでした。当然、将校もいましたが、彼らも兵士たちの狼藉は「見て見ぬふり」をするのが常でした。要するに、こうでもさせておかないと収まりがつかないからです。そもそも、命令系統がいい加減で、新政府に恭順した各藩が渋々出した兵士ですから、彼らには戦う「大義」も「誇り」もないのです。単なる「侵略者」としてだけ、その活躍が期待されていました。その代わり、たとえ、戦場で死んだとしても、その骸が大切に扱われることもありません。事実、そんな新政府軍の戦死者を弔ったのは、東北の人々なのです。今でも白河に行くと、彼らの「墓碑」が各所に存在しています。100年以上経った今でも、供養されていることを子孫の方々は知っているのでしょうか。
東北諸藩の武士には、そんな「獣」みたいな粗野な人間はだれもいませんでした。東北と越後に乗り込んだ西国の兵士たちは、敵を攻撃するだけでなく、散々と狼藉を働き、その町の人々から財産や女を奪い、まさに「獣」と化していったのです。彼らには、最早「武士」としてのプライドもありませんでした。国(藩)元では、新政府軍の命令に応じて兵士を送るだけのことで、それに「大義」はありません。中には、会津藩や東北諸藩に同情をする者もいたはずです。この時代の武士は、ずっと同じ家に仕えた者ばかりでなく、「新規召し抱え」になったよそ者もいましたので、西国の藩と言えども、東北の藩に親戚がいる者もいたはずです。そうした武士にとって、自分の親戚と戦うのは、嫌なものです。逆に、東北になど縁もゆかりもない者は、盗賊と変わらぬ姿で勝手放題をして、自分の国の恥を晒していったのです。人間は、どうしてそこまで「愚か」になれるのか…とさえ思いますが、やはり、権力者による強固な「規律」がなくなると、人間は本能のままに生きる動物なのかも知れません。この「会津戦争」は、そんな「人間の醜さ」を改めて見せつけられた戦でした。
会津鶴ヶ城の「籠城戦」は、一ヶ月に及び、その間、新政府軍は、城が間近に見える小田山に陣を敷き、大砲を城内に向けて撃ち続けたのです。そもそも、籠城戦というものは、援軍があることを想定して行う戦法で、会津周辺諸藩が次々と降伏する中で、孤立した会津藩が単独で戦うのも限界がありました。まして、城内には男だけでなく、藩士の家族も入城していましたので、食糧にも限界があります。それでも、彼らは老若男女、だれもが必死に戦い続けたのです。男たちは、遊撃隊となって、少人数で敵陣地への「斬り込み」を行いました。その中には、大河ドラマでも有名になった「山本八重」もいました。彼女は、新式銃を操り、正確な照準で敵兵を倒していったと言われています。その服装は、女性のものではなく、鳥羽伏見の戦いで戦死した弟の軍服を着ていたそうです。また、女たちも、城外で戦った者たちがいました。それは、後に「娘子隊」と呼ばれる女性たちです。その多くは江戸詰の家臣の家族たちでした。彼女たちは、江戸にいたころから道場に通い「小太刀」や「長刀」を習い、相当の腕前の者もいました。しかし、会津に戻ってきてからは「よそ者扱い」で、会津言葉にも馴染めず、辛く悔しい思いをしていたといいます。私のころもそうでしたが、田舎の人は人見知りで、いわゆる「標準語」で話す人間には、あまり心を開きませんでした。江戸時代のころなら尚更です。そんな彼女たちは、松平容保の義理の姉である「照姫」が、城外に出るという噂を聞き、その護衛のために城外に出て戦う決意をしたのです。しかし、情報が乱れていたこともあり、娘子隊は、照姫には会うことはできませんでした。そこで、彼女たちは、家老の萱野権兵衛を頼り、従軍を志願しました。しかし、権兵衛は、「何を言うか!会津が、戦に女まで使ったとなれば、御家の恥ぞ!」と怒り、城に戻るよう諭しました。しかし、それに納得できない女性たちは、「ならば、この場で自害いたす!」と脇差しを抜いたために、権兵衛は、それを諫め、仕方なく応援に来た部隊に配属され、「柳橋」付近で戦うことになったのです。
明け方、新政府軍の先鋒部隊が前線に出てきて、涙橋付近に陣を張る会津藩の部隊と激突しました。すぐに、敵味方乱れての白兵戦に突入しましたが、その後から来た敵軍の小銃部隊が発砲すると、味方は押され、総退却となりました。そのとき、「娘子隊」の副将格だった「中野竹子」が銃弾で胸を貫かれ戦死、神保雪子が敵軍に捕らえられました。中野竹子は小太刀の名手で、長刀も扱い、その勇猛さは男たちにひけを取らないとさえ言われた「会津の女傑」のひとりです。そして、神保雪子は、会津藩公用方「神保修理」の妻でした。修理は、大坂で、藩主容保が将軍慶喜と共に無断で江戸に戻った責任を問われて自刃していました。雪子は、そんな夫の無念を晴らそうと娘子隊に同行していたのです。神保家は会津藩家老の家で、義父の内蔵助も既に城外で自刃していました。また、彼女の父、井上丘隅もやはり家族と共に死んでおり、たった一人、孤独の中で「死のう!」と決めた戦いでした。しかし、彼女は、無念にも敵方に捕らえられてしまいましたが、敵方の眼を盗んで自害して果てたそうです。「辱めを受けるよりは、自害を選ぶ」のは、女性とは言え「武家の習い」だったのでしょう。この他にも、会津城下では、各所で凄惨な出来事が起きていました。それは、藩士の家族たちが、城に入るのを潔しとせず、自宅で一族揃って自刃していたのです。京都守護職就任を断固反対していた家老西郷頼母の一族も、その邸で十数人が自刃していました。妻の西郷千重子は、辞世の句を残しています。「なよ竹の風に流るる身ながらも撓わぬ節はありとこそ聞け」まさに、武士道に生きた女性の最期でした。彼女は、長男の吉十郎のみを城に向かせると、義母、娘たちの自刃を助け、最期に自分の喉を突いたといわれます。それに比べて、新政府方の兵士たちの振る舞いは、あまりにも憐れでした。
城下に雪崩れ込んだ、新政府軍は狼藉の限りを尽くし、邸に押し入っては金目の物を奪い、町人だろうが構わずに見つけ次第殺戮しました。そして、女性は乱暴された上で無惨に殺されたのです。こうした蛮行は、各所で起こり、新政府軍の幹部たちも「見て見ぬふり」どころか、自ら手を汚し、知らぬ顔で故郷に凱旋して行ったのです。この連中は、本当に「武士」だったのでしょうか。知らぬふりをして国に還った侍の中には、新政府の役人や警察官、軍人になった者も多かったはずです。「恥は掻き捨て」という言葉がありますが、まさに「厚顔無恥」な男たちでした。日中戦争や大東亜戦争において、日本軍兵士が中国などで蛮行に及んだという噂が流れましたが、おそらくは、会津戦争時の記憶が、そう思わせたのかも知れません。「あいつらなら、やりかねない…」というのが、賊軍とされた東北人の疑念であり恨みなのです。時々、山口県(長州)から会津若松市に対して「昔の遺恨は忘れて、友好の絆を結びましょう」という提案がなされますが、歴史を知っている会津人は、その提案を「断固拒否」しているそうです。自分たちの先祖が、酷い辱めを受け、徹底的に差別された歴史を知る者が、にこにこと笑顔で「友好」などと言えるはずがありません。やった方は「心」に一切の傷がないのです。自分の先祖が、そんな愚かな侍だったことがわかっても、「新しい時代を開いた偉人」と言えるのですから、おめでたいものです。
6 「白虎隊」の少年たち
当時、会津藩は新政府軍の来襲を予測して、部隊を編成しました。それが、「白虎」「青龍」「玄武」「朱雀」の4隊です。そのうち、10代の少年で編成したのが「白虎隊」です。この部隊は、戦闘部隊というより、「護衛隊」若しくは「支援部隊」という任務を帯びており、前線に出ることは想定されていませんでした。しかし、白河城、棚倉城を落とした新政府軍は、その勢いを借りて母成峠に攻め込みました。会津は、いわゆる「盆地」の地形をしており、広大な会津盆地には田畑が広がり、今でも「米所」として有名です。しかし、その周囲は、外壁のように山々に囲まれており、猪苗代湖から会津に向かう峠が「母成」なのです。今では立派な道路で猪苗代と会津若松がつながっていますが、車で走ってもかなり急勾配な坂を昇らなければなりません。多くの兵隊が通行するのは、かなり難しく、それも「戦闘」となると、一度に多くの兵員を動かせないといった読みがありました。そして、その頂上にあたる「母成峠」周辺に会津藩は陣を張り、新政府軍をここで迎え撃つ作戦を考えていたのです。もう一方は、日光口ですが、ここには、やはり精鋭部隊を配置しており、若き家老の山川大蔵(浩)が指揮を執っていました。日光口は、今でも鬼怒川から会津鉄道が通っていますが、渓谷沿いの街道で、やはり大軍で通るのは無理があります。それに、会津の精鋭部隊は越後からの部隊も展開していましたので、やはり無理をしてでも「母成峠」を抜けるのが上策でした。
しかし、母成峠には、土方歳三率いる「新選組」や幕府諸隊も配置され、ここで新政府軍を防ぎ「会津の冬」の到来を待つのが会津方の作戦でした。「薩長土肥」と言われるように、新政府軍の主力は西国諸藩ですので、東北の冬を知りません。そのため、雪の装備もないはずです。そこが、会津藩が負けない唯一の「武器」でした。それは、ヨーロッパでも、ナポレオンの「ロシア遠征」やナチスドイツの「ソ連侵攻作戦」などでも証明されている事実です。しかし、どうしたことか、この「母成」があっけなく陥落してしまったのです。実は、新政府軍は、土地の農民や猟師などを雇い、会津に入る「間道」を案内させ、少人数の部隊を次々と送り込み、「母成峠」の会津方の裏をかく作戦を採りました。今でも猪苗代湖の山の中には、新政府軍が通ったといわれる「間道」が残されており、「えっ、こんな獣道を通って来たの?」と驚かされます。彼らもそれくらい必死だったのでしょう。そこに会津将兵の油断があったのです。
母成峠が破られると、後は坂を下るように会津盆地に敵が入って来ます。もう少し時間的余裕があると考えていた会津藩の幹部たちも大慌てで、街中の鐘を鳴らし、若松の人々に避難を命じました。そうなると、町は大騒ぎです。街中ごった返す中で、覚悟を決めた藩士の家族たちが次々と自刃していったのです。このあたりの様子については、後に陸軍大将になった「柴五郎」の生涯を書いた「ある会津人の記録」を読んで欲しいと思います。五郎は、男子であり、まだ幼かったために校外の農家に避難させられていましたが、家は男子以外は皆自刃して果てました。本当は、「鐘が鳴らされたら、藩士の家族は城内に入るように…」との通達があったにも関わらず、「城中の兵糧を戦もできない者が食べてはいけない」と自分の身を処したと言われています。それでも、会津藩砲術指南の娘であった山本八重や若き家老山川大蔵の家族は城内に避難し、苛烈な籠城戦を耐え抜きました。後に、日本人初の女子留学生となり薩摩の大山巌夫人となった「山川咲(捨松)」も城内に入って戦いました。まだ、幼い少女時代の話です。その間、大蔵の妻は、新政府軍が撃ち込んだ砲弾を布団で包もうとして爆死してしまいました。昼夜を違わず撃ち込まれる砲弾のために、城内でも多くの死傷者が出ました。死んだ者は、遂には土に埋めることもできず、井戸に放り込んだと言われていますが、その死臭が漂い城内は凄惨を極めたのです。
「母成峠が破られた!」という報告を受けると、藩主容保は、白虎隊を護衛につけて前線に士気を鼓舞するために出陣しました。そして、「滝沢本陣」まで来ると、新政府軍が間近に迫っているとの報告を受け、急いで城に戻りましたが、白虎隊の中の「士中二番隊」に前線への出動命令が下されました。この「士中」というのは「上士の家の子」を意味しています。「士中一番隊」は、容保と共に城に戻り城中で敵と戦いましたが、この「二番隊」が後の世に知られることになった「白虎隊」です。士中二番隊は、日向内記に率いられ、滝沢本陣から母成峠に向かう途中の強清水に立ち寄り、そして、その先の「戸ノ口原」に布陣しました。季節は、旧暦の八月下旬であり、既に会津には秋風が吹いていました。そのため、軍装も黒い軍服に袴を履いていたようです。一応、小銃は肩に背負ってはいましたが、アメリカの南北戦争で使用した「先込め式」のミニエー銃で、性能は火縄銃とそんなに違いはありませんでした。それでも、形ばかりは正式な会津藩の戦闘部隊なのです。
しかし、士中二番隊は、急な出動要請だったために食糧の準備がなく、戸ノ口原で敵を待つ間、僅かなものしか口にしていなかったのです。隊長の日向内記は一人で隊を離れ、味方との連絡と食糧調達に出ており、少年たちだけが塹壕に取り残されていました。記録では、数人の大人の武士がいたそうですが、いつの間にか、少年たちだけで行動しています。この間に、何か伝えられない「いざこざ」があったのかも知れません。そのうち、雨が降ってきて、少年たちの体を冷やしていきました。およそ40人の隊員たちは、空腹の中で焦燥感だけが大きくなっていったのです。それでも、周囲には味方の部隊が展開していましたので、多少の安心感はありましたが、夜から明け方にかけて、空腹と疲労感は増すばかりでした。その間、隊長は隊に戻っては来ませんでした。一説によれば、敵と遭遇し、逃げている間に道に迷い隊に戻れなかったとか、少年隊士たちが隊長の「退却命令」に背き、前線に出ていったなどの説があるようですが、正確なことはわかりません。しかし、いつ戦闘が始まるかわからない時期に、隊長や大人の将校たちが隊を離れるといった行為は非難されて当然でしょう。後に、日向は城に戻っていますので、少年たちを「見殺しにした」と非難されても仕方のない行動でした。ただ、多くの事情を含んでいたために、生涯口を閉ざしたのかも知れません。結局、隊長や将校たちが戻らないために、士中二番隊の指揮は、篠田儀三郎が執ったようです。その篠田も、まだ、17歳の少年でした。そして、夜が明けると視界が開け、敵が攻め込んできたために、戸ノ口原では戦闘が行われました。士中二番隊が、ちりぢりになるのはこの後のことです。
今、戸ノ口原に行くと白虎隊の「慰霊碑」が立っており、その側には会津藩士の墓が数基草叢の中に見ることができます。おそらく、戸ノ口原の戦闘で戦死した藩士のものでしょう。戦死した者の遺体は、周囲の村人が丁寧に弔っていますので、その墓石が今でも当時を思い起こさせます。そして、飯盛山に逃れたのは19人ということになっています。他の隊員たちの安否については、明らかになっていない部分があり、ちりぢりになった後は、少人数で会津若松に向かって逃れたことは間違いないでしょう。隊士の酒井峰治などは、農家に立ち寄り草鞋の交換と食べ物を調達している間に他の者たちとはぐれ、一人彷徨う中で味方の部隊と遭遇し、城に戻っています。途中で、愛犬の「クマ」と出会うなど、彼には「生きる定め」があったようです。「白虎隊」というと、この飯盛山に逃れた19人が有名ですが、「士中隊」「寄合隊」「足軽隊」など、会津藩の少年たちの隊が「白虎隊」なのです。そして、名も知れず、山野に倒れた少年たちも多かったのです。その多くは、遺族の元に帰ることができないまま土に還っていきました。それは、それで憐れな最期でした。戸ノ口原から飯盛山に向かうには、今でこそ、舗装された道路を利用すれば、難しい行程ではありませんが、街道は既に新政府軍がいたでしょうから、山の中を下るしか方法がありません。今でも飯盛山周辺は、水路が水を湛えていて、絶え間なく流れています。会津は、豊富な「水」の恵みに支えられた地域ですから、美味しい「米」や「酒」が作られるのです。
19人の「白虎隊士中二番隊」の少年たちは、二人、三人と別れて飯盛山を目指しました。なぜなら、この山は、平地の会津盆地にぽっかりとお椀を伏せたような小高い山で、少年たちの馴染みのある山だったからです。「飯盛山まで行げば、お城の様子がわかるんでねえか…?」、少年たちはそう言い合いながら、飯盛山を目指したのでしょう。その「道」といえば、「水路」が最適でした。街道は敵に遭遇する確率が高いので、敢えて冷たい水を湛える水路を選択したのです。この水路は、飯盛山下の「さざえ堂」の付近まで流れ込んでいましたから、そこから先は、いつもの山道になります。旧暦の8月下旬の会津は、秋風が吹き、腹を空かし、戦いで傷ついた少年たちが必死になって、腰まで水に浸かりやっとの思いで歩き続け、疲労困憊で飯盛山に到着したことを考えれば、彼らに「冷静な判断」を求めるのは難しかったと思います。おそらくは、途中で諦めて自刃した者もいたことでしょう。したがって、最初から19人がまとまって歩いていたわけではありません。
彼らの「自刃の地」には、今では「白虎隊士の石像」がお城をじっと見詰めています。その周辺は、今でこそきれいに整備されていますが、当時は、鬱蒼と木々が茂る斜面でしかありません。その木々の隙間から、少年たちは鶴ヶ城を見たのです。その「鶴ヶ城」は、周囲の燃える炎と黒煙で霞んで見えました。既に城下は新政府軍の攻撃によって焼かれ、残すは「鶴ヶ城」のみとなっていたのです。その光景をみた少年たちは、「最早、これまで…」と覚悟を決めたはずです。気持ちの中では「城に戻らなければ…」という思いはあったはずですが、三々五々に集まって来た少年たちに無傷な者はだれ一人としておらず、だれもが疲労困憊で、今にも倒れそうな者もいました。しばらくは呆然としていた少年たちでしたが、一人、石田和助という少年が「傷が痛みますので、これで、ごめん!」と叫ぶなり、脇差しを抜くや否や腹に突き立てました。これが、引き金になりました。中には、伊東悌次郎のように「早まるな!城はまだ落ちてはおらぬ!」と、自刃しようとする仲間を制止しようとする者もいましたが、一人腹を切らせては、武士の面目が立ちません。それに、ここが、体力の「限界」でもあったのです。
少年たちは、己の最後の力を振り絞って刃を己の身に当てました。ある者は、腹を切り、ある者は喉を刺しました。隊士の中でも年少だった飯沼貞吉は、刃の先を喉に刺し込みました。尖った切っ先は、スッと喉に入りました。そして地面に倒れた勢いで喉を裂くはずでしたが、切っ先が骨に当たって貫けないのです。貞吉は、もう一度、鮮血で濡れた手で、切っ先を傷口に当てると、木の根を握りしめて体を前に倒しました。すると、切っ先が首の後ろに抜けたのです。そして、彼の意識はなくなっていきました。この間、周囲では、次々と隊士たちが思い思いの方法で自刃していったのです。その後、三人ほどの少年が遅れて到着し、仲間が血塗れで横たわっている姿を見ると、彼らも躊躇うことなく刃を身に突き立てました。こうして、「白虎隊士中二番隊」の壮絶な集団自決が行われたのです。そして、数刻の後に、飯沼貞吉だけが蘇生し、近くの農民によって助けられました。貞吉の自刃の様子は、彼が、後に書き残したものでわかりました。これも「奇跡」というものでしょう。貞吉には、他の人間にはない強い「生命力」と「蘇生能力」があったのかも知れません。しかし、一人生き残ったことで、彼は生涯、そのことで苦しみ続けます。明治の世になり、電気技師として生きた貞吉でしたが、終生、飯盛山の仲間たちのことは忘れることができませんでした。そして、遺言により、貞吉の墓は、飯盛山の「自刃した地跡」に設けられています。やっと、仲間たちの元に還ることができたのです。
7 悪夢のような「戦後処理」
今でも、会津若松市は、長州(山口県)からの「和解メッセージ」を受け入れようとはしません。それは、会津戦争敗北後の「戦後処理」に大きな問題があったからです。新政府軍が、戦争中に会津若松で行った狼藉の数々については、前述したとおりですが、さらに酷かったのが、戦後の扱いでした。会津藩主松平容保は、一ヶ月に及ぶ「籠城戦」を戦い、これ以上戦うことは無理だと判断して城に「白旗」を掲げました。「降伏」です。戦い抜いた藩士たちは、各所に設けられた「謹慎所」に送られ、会津の地を去っていきました。そして、残されたのが多くの遺体だったのです。飯盛山にも白虎隊士18名の遺体が取り残されていました。現地の人々は、これを「憐れ」と思い、遺体を丁重に葬ろうとしましたが、それを「罷り成らぬ」としたのが、新政府の役人たちでした。侍には「武士の情け」という、戦った者への尊敬の念があったはずですが、驕り高ぶった彼らは、それを許さず、しばらくの間、遺体は放置されたままになり、さすがに死臭が町全体に広がるようになって初めて埋葬を許可したのです。こうした仕打ちは、会津藩の武士たちだけでなく、会津地方の人々の恨みを買いました。「あいつらは、人間の皮を被った獣だ…」と新政府の人間を心の中で罵っていたのです。それが、100年後も消えることはありませんでした。
ちょっと前まで、福島県では、「戦争」というと「戊辰戦争」を指す言葉でした。古老たちの記憶の中では、大東亜戦争よりも戊辰戦争の悲劇の方が、強く心に残ったと言うことでしょう。その「心の傷」は、ずっと語り継がれ、今から40年以上前に亡くなった私の祖母も、私に「いいか、西の人間を信用してはなんねえよ…」と言い残しました。それくらい、「西の人間」は信用ならない人たちだったのです。もちろん、現代において、そんな偏見でものを見る人は少数でしょうが、幕末、明治、大正、昭和と、あらゆる度に「賊軍」と陰口を叩かれ、差別と偏見の中で過ごしてきた祖母たち世代には、腸が煮えくり返るほどの「屈辱」だったのだと思います。私とは、60歳くらいの差がありましたから、祖母は明治の中頃の生まれです。祖母の祖父母は、江戸後期の生まれでしょう。したがって、あの「戊辰戦争」を直接見聞き、体験した人間なのです。その祖父母や父母から聞かされ、自分も受けてきた「差別感」を忘れることができず、昭和中期に生まれた「孫」にまで語り継いだのです。それは、悪意ではなく、孫の将来を心配しての「遺言」でした。それを私は忘れることができません。
明治時代になると、会津地方を中心に福島県全土では「自由民権運動」が盛んになりました。それは、「運動」というよりは、元武士たちによる「叛乱」に近いものがあったのです。特に会津地方では殊の外激しく、明治政府は、その取り締まりに躍起になっていました。それは、当然でしょう。結局、会津藩は「滅藩」となり、「会津松平家」はこの世から消滅してしまったのですから…。そして、明治政府が、元家老の山川浩(大蔵)たちの嘆願を聞き入れたかのようにして青森県の陸奥に「斗南藩」を開くことを許しました。公称で、わずか「3万石」、実質は「3千石」もあればいい方の不毛の地でした。隠居した容保の嫡子であった「容大」が松平家を相続したことで、保科正之から続く「松平家」は存続することになりましたが、そこは、まさに「一藩流罪」に等しい土地で、多くの藩士や家族が飢えて亡くなりました。会津などと比べようもない極寒の地で、筵を敷いて寝るような有様です。藩庁からは「すまぬが、自力でなんとか凌いでくれ…」と言われるだけで、支給される食物も僅かでした。藩士たちは、海岸で海藻を採ったり、土地を耕したりと必死に働きますが、それも束の間、11月から襲う「冬将軍」がすべてを奪ってしまうのです。陸奥地方の冬は、今の暦で11月から5月まで続きます。約七ヶ月の極寒に耐えられる者はいません。そして、間もなく「廃藩置県」となり、「斗南藩」は僅か3年足らずで消滅したのです。結局、生き残った藩士たちは、ある者は陸奥の地で根を下ろし生きようとしました。ある者は会津に帰り農民になりました。そして、ある者は東京に出て学問で身を立てようとしました。北海道に渡った者も多くいたそうです。そんな過酷な運命に生きた人々の明治政府への怒りは、怨念となり子々孫々にまで語り継がれることになったのです。
8 「戊辰の恨み」を晴らす
会津藩の若き家老であり、斗南藩の執政だった「山川浩」は、藩がなくなると東京に出ました。明治政府の中にも、会津藩に同情する者は少なからずいたようです。東京に出た浩は、家族を養うために、できたばかりの「警視庁」に入りました。あの「会津戦争」で日光口の指揮を執り、彼岸獅子の紛争で敵を欺き、鶴ヶ城に入城した話は有名でした。各地での元武士たちの叛乱の兆しが見えてきた明治政府は、急遽、旧幕府方の元武士たちに声をかけ警察組織の充実を図っていました。これまでのような「町奉行」程度の組織では、どうにもならない事態になっていたのです。そういう時勢の中で、「会津の山川」に声がかかるのは当然でした。それでも、階級は「警部」でしかありません。会津松平家23万石の家老を勤めた男が、末端の将校である「警部」の肩書きでしか採用されないのです。それでも、浩はそれを受けました。浩は、古い家老たちが次々と自刃し、最後に会津戦争の責任を取って切腹した「萱野権兵衛」の跡を継ぎ、元会津藩士の精神的支柱となっていたのです。元藩主だった松平容保も江戸に出て浩を頼りにしていました。容保は、後に日光東照宮宮司となり、最後まで徳川家に尽くして亡くなりました。その体には、京都守護職時代に孝明天皇から賜った「御宸翰」と「和歌」を竹の筒に入れて、肌身離さず身に付けていたそうです。そんな「勤皇の心」の厚い容保が、朝敵とされたのですから、時の明治政府が如何にまやかしであるかがわかります。それでも、新しい時代を迎え、だれもが黙々と働き、必死に時代を生き抜こうとしていたのです。
「ご家老(山川浩)が警察に入る」と聞いた元会津藩士たちは、「よし、俺も…」と続々と警視庁の採用試験を受けて多くの者が採用されました。新選組で活躍し、最後まで会津に残った「斎藤一」も名を「藤田五郎」と変えて警視庁に勤務していました。明治政府は、旧幕府出身者でも「剣の腕」を見込んで積極的に採用していたのです。それは、全国で起きつつある「士族の反乱」に備えてのものでした。明治10年、日本で唯一の陸軍大将であった「西郷隆盛」が、薩摩の不平士族に担がれて「西南戦争」を起こすと、会津の元侍たちは、警視庁が組織した「警視庁抜刀隊」の一員として、九州に出動していったのです。会津の侍にとって、薩摩藩は自分たちを裏切った「卑怯者」なのです。会津藩が、京都守護職に就いた当初、薩摩藩は「公武合体」を推進しており、長州軍が攻めて来た「禁門の変」では、会津や幕府と協力して長州軍を京都から追い払った実績がありました。その指揮を執ったのが、西郷隆盛です。その西郷が、密かに「薩長同盟」を結び「倒幕」に動こうとは、政治的な謀略に疎い会津藩士たちには、考えもしなかった行動でした。その薩摩の「裏切り」によって、倒幕運動は盛んになり、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争における「最大の敵」になったのです。その薩摩の士族が政府に反旗を翻したとなれば、これを討つことは「正義」なのです。
「今度は、こっちが官軍じゃ!」と、会津だけでなく、賊軍とされた多くの東北諸藩の元武士たちが警察官に採用されて九州各地の戦場へと送られて行きました。彼らは、口々に「戊辰の復讐!」を叫びながら薩摩隼人に向かって行ったそうです。その中に、会津藩最後の家老になった「佐川官兵衛」がいました。官兵衛も警視庁の警察官募集に応じて採用されたものです。官兵衛は、会津戦争では「別撰隊」を率いて暴れ回り、新政府軍から「鬼官兵衛」の名を付けられ、怖れられていました。しかし、官兵衛は、最後の夜襲に遅れをとってしまいました。連日の戦闘で疲労困憊していた官兵衛は、僅かいっぱいの酒を飲んだだけで、翌未明、夜襲をかけることになっていた予定の時刻に起きることができなかったのです。官兵衛が来ないまま夜襲隊は新政府軍の陣地に突撃していきました。そして、多くの藩士が還っては来なかったのです。それ以来、官兵衛は「死に場所」を求めていました。そして、最後に見つけたのが、西郷との戦いでした。官兵衛は、敵軍を見つけると、真っ先に突撃し、何人もの敵を斬り倒しました。そして、乱戦の中で銃弾を体に受けて戦死しました。即死だったそうです。その遺体を収容してみると、白い肌襦袢に戦死した会津藩士数千名の名が、墨で書かれていたそうです。官兵衛は、最後の最後まで「会津の侍」だったのです。
9 「戊辰の恨み」の言霊
日本は、明治維新によって「中央集権国家になった」かのような歴史観で教科書が書かれていますが、この「戊辰戦争」についての記述が乏しく、中には「世界に類を見ない平和革命」などと言っている歴史学者すらいます。私からすれば、「戊辰の戦ほど、日本人を分裂させた戦争はない!」と断言したいほどです。もちろん、100年以上が経過し、今の日本人にそんな「恨みがましい」ことを言う人はいませんが、それでも、それぞれの日本人の心の中には、この「恨みの言霊」が宿っているのです。それが、特に色濃く出たのが、先の「大東亜戦争」でした。よくかどうかはわかりませんが、「薩長が作った国を80年で薩長が壊した!」という意見がありますが、私はこの意見に大賛成です。明治維新政府は、薩摩や長州の人間が中心になって作った政府です。しかし、実際に戦争に参加した兵隊が、すべて政府に登用されたわけではありませんでした。明治天皇が東京に移ったとき、薩摩が中心となって「御親兵」を創り、「東京警視庁」を創りましたが、さすがに薩摩藩の元武士だけで創るわけにはいきませんでした。当然、新政府に味方した諸藩からも有為な人材を集めなければなりません。ただ、「維新の戦争に参加したから…」といった「報償」の意味で役人等に登用していたら、国は成り立ちません。それに、「有為な人材」というものは、そんなに多くはないのです。
会津戦争を見ても、本物の武士らしい戦をした者は少数で、後は、権力を笠に着た横暴な将兵ばかりで、統率さえままならない藩もあったと言われています。さすがに、上級の指揮官たちは、そんな人間をよく見ていたのでしょう。意外と政府の役人に登用された人物は、その世界で卓越した能力を持つ者が多く、単に「新政府に味方した」だけでは、新しい国づくりの障害になってしまいます。現実は、そんなに甘いものではありませんでしたが、「せっかく、味方して勝利したのに、何の恩恵もないのか!?」という怒りが、西側諸藩の武士たちに溜まっていったのです。彼らの頭の中は、数百年前の「関ヶ原の戦」から何の進歩もしておらず、明治維新も単なる「武家の政権交代」くらいにしか考えていなかったのです。ところが、実際は、国内問題より「国際問題」の方が、大きな課題になっていました。もし、国内問題だけで争っていれば、隣の「清国」や「朝鮮」の二の舞です。日本が「独立」を保持するための改革であり、欧米列強の「植民地」にならないための改革なのです。おそらく、そこに気がついていたのは、勝利した西側諸藩の「数%」の人間だけだったろうと思います。ほとんどの武士は、「維新」の意味すらわかっていませんでした。
結局、「梯子を外された」士族たちは、自分たちの行った蛮行を反省することもなく、新政府に不満を抱き、自滅していったのです。私は、これを「自業自得」だと思っていますが、「自分たちの先祖が、新しい国を創った」と思い込んでいる人たちは、到底、理解不可能だと思います。亡くなられた元総理も長州の人で、よく「吉田松陰」の名を挙げて、その理想を現実に生かそうと考えていたようですが、それはきっと「大きな勘違い」だということには、気づいてはいなかったろうと思います。明治政府は、実は、周囲を「怨念」で囲まれた政権だったのです。そのひとつが「朝廷」です。実際、朝廷の貴族たちの中で「維新」を望んだ貴族が、どのくらいいたのでしょう。岩倉具視や三条実美らの過激派貴族は喜んだでしょうが、多くの「穏健派貴族」にとって、明治政府のやり方は、皇祖皇宗に申し訳の立たない危険なやり方でした。たとえば、京都から東京へ天皇を人質のように連れ去ったことです。特段「遷都令」が出されたわけでもないのに、「東夷」と蔑んでいた「江戸」に幼い明治天皇を連れ去り、ましてや、令外の官でしかない「武家の館」に住まわせ、挙げ句の果てに「軍服」まで着せられては、貴族たちは泣いていたことでしょう。大東亜戦争の敗戦が決まったとき、皇室に仕える人々が「これから、どうなるのだろう…?」と心配していたとき、節子皇太后がひと言「昔に戻るだけですよ!」と毅然と言い放ったという話があります。それくらい、皇室の人々や貴族たちにとって、明治以降の政治は「あってはならない」出来事だったのです。
次に、「裏切られた士族」たちの怨念です。特に新政府軍に味方した諸藩の元武士たちにとって、明治政府は、けっして望んだ形ではありませんでした。「廃藩置県」「版籍奉還」もショックでしたが、一番堪えたのが、「断髪令」と「廃刀令」そして「徴兵令」だったはずです。要するに「武士は、最早、人々の上に立つ身分ではない」と宣言され、家禄を没収されてしまったからです。武士にとって、浪人することは屈辱以外の何ものでもありませんでした。自分が先祖代々の「家禄」を受け継ぎ、主君に仕えてこその「武士」であり、そのための新政府への味方だったはずが、仕える「家」はなくなり、土地も禄も失えば、それは「浪人」することなのです。僅かな「退職金」を受け取ってみたものの、武士以外にできる仕事はなく、商売を始めても失敗ばかりです。「寺子屋」をやりたくても、政府が「学校」を作り、手習いの師匠にもなれません。特に、「二本ざしの刀」もなくなれば、風体自体が武士ではないのです。これで、「新しい時代が来た!」と思う人間はいません。そして、武士だからこそ、その「屈辱」を心に秘めて生きて行くしかなかったのです。また、「賊軍」とされた会津藩並びに東北諸藩の武士たちは、その汚名を着たままの人生を送りました。さらに、その家族だけでなく「東北地方」全体が、ずっと「差別的な扱い」を受けてきたのです。今でこそ、口には出しませんが、明治、大正、昭和と続く中で、東北の人々がどのような屈辱を味わわされたかは、もっと知るべきでしょう。戦前の「2.26事件」も、そんな東北の貧しい農民を救おうと決起した事件であり、そこには、日本が抱えていた「闇」があったのです。
明治10年の「西南戦争」が終わると、もう、日本には政府に叛乱を起こそうとする士族の集団はなくなりました。特に長州、薩摩、佐賀で起きた士族の反乱は、まさに「新しい国を創った武士」による叛乱だったことを忘れてはなりません。それは、新政府が自分たちが望んでいたような政府ではなかったことを示しています。それでは、叛乱を起こした士族たちの望みとは何だったのでしょう。それは、新しい「幕府」を開き、戊辰戦争で勝利した自分たちが「大名・旗本」に取り立てられ、権力者として全国支配をすることにありました。これこそ「天下を取る」といった武士の「夢」だったに違いありません。それが、真逆の政治が行われ、自分たちが欲していたものが、何一つ手に入れられなかったのですから、「新政府」が許せなかったはずです。しかし、彼らに敗者を思い遣る気持ちは、これっぽっちもありませんでした。そして、これらの叛乱を力で抑え込んだ新政府にも、敗者に寄り添う気持ちはまったくなかったのです。こうして、全国に新政府に対する「怨念」が渦巻き、それを解消できないまま日本は「近代化」を進めていったのです。
日本では、昔から敗者を悼むために「社」を設けることがよくありました。それは、自然に対してだれもが「畏れ」を抱いていたからです。人間の死は、だれにも平等に訪れます。疫病もいったん広がると、神仏に祈る以外にそれを防ぐ方法がありません。「病」は、だれしもが罹りたくない「凶事」ですが、それを防ぐ手立てがないのです。戦も同じでした。戦わざるを得ない以上、どこかで雌雄を決しないですませることはできません。自ずと勝者と敗者が生まれます。そこで、日本人は、勝者が「敗者」の遺体を懇ろに葬り、そこに寺社を建て「祀る」ことで怨霊を鎮めようとしたのです。東京の「神田明神」や福岡の「天満宮」などは、平将門、菅原道真の怨霊を鎮めるための「社」として有名です。それが、明治政府は、戊辰戦争や士族の反乱等で敗者となった「霊」を弔う社を設けませんでした。「靖国神社があるではないか?」と言う人がいるでしょうが、あの社には「敗者の霊」は祀られてはいません。もちろん、地域の寺社では、敗者の霊を祀ろうと努めていますが、「国」としての慰霊の場がないのです。つまり、明治政府の人間の頭には、「敗者」は存在せず、「勝者」のみの力で国づくりをしようとしていたことがわかります。こうした思想が、80年後に「国を滅ぼした原因」と言っては言い過ぎでしょうか。
大東亜戦争は、海軍の戦争だったと言われますが、その海軍の指揮を執ったのが「山本五十六」です。山本五十六は、今でも英雄視され、当時も、その死に対して「国葬」を賜っています。これを指導したのが、「米内光政」です。山本は、昭和18年4月にラバウルの前線基地を視察する途上、アメリカ軍の待ち伏せに遭い「機上戦死」したことになっていました。そのため、マスコミは「連合艦隊司令長官の壮烈な戦死」として扱い、「英雄」扱いしたのです。しかし、実際は、強引な視察命令を出し、暗号を解読され、機上ではなく地上で亡くなっているのですが、やはり、国民の戦意昂揚を意図して、こうした物語が作られました。そして、それを完結させたのが「国葬」だったのです。しかし、昭和天皇は、山本五十六の戦死に国葬で報いることについては、「なぜ、山本は特別なのか?」と疑問を口にしたそうです。しかし、その言葉を無視して米内は、強引に国葬に持って行きました。今、なぜここで、この二人の名を出したかというと、この二人は、旧幕府方の人間だからです。山本は越後の「長岡」、米内は東北の「南部」の出身です。この二人について調べて見ると、かなり「怪しい事実」が出てきています。それは、彼らが当時の「共産主義者」と密な関係にあったからです。詳細は述べませんが、二人とも、本当に「愛国者」だったのか、疑問が残ります。もし、旧幕府方の人間として、今の政府や軍部に対して「恨み」を抱いていたとしたらどうでしょう。特に山本は、長岡戦争で敗れた山本帯刀家の養子になった男です。米内は、賊軍となった「南部盛岡」の人間です。彼らが、自分の両親や祖父母、親族から何を聞かされて育ったのでしょう。昭和中期の私でさえ、「戊辰の恨み」を聞かされて育った人間です。明治時代に生まれた東北の男が、それを知らないはずがありません。そう考えると、先祖の「言霊」が、大東亜戦争を敗戦に導いたとも考えられるのです。まあ、これは、私の勝手な「邪推」でしかありませんが、私は、「言霊」という力を軽んじてはならないと思っています。
10 「白虎士魂」が残したもの
今、「国家」というものが問われ始めています。世界がグローバル化する中で、世界の人々は「国家」というものに懐疑的になっているのかも知れません。それは、「国」というより、その「権力志向」に問題があるように思います。江戸時代までの日本は「天皇中心国家」であったことは、間違いありません。確かに、権力は幕府が握り、政務を担当していましたが、日本人の頭には、「天皇」の存在が常にありました。「お上」と言えば「天皇」を指す言葉であり、将軍は「上様」ではあっても「お上」ではありませんでした。そして、形式的とはいえ、天皇に謁見するときは、将軍は下座に着き、平伏しているものです。こうした「弁え」があるからこそ、天皇の権威を後ろ盾にして「権力」を行使できたのです。これが、日本人の「ものの道理」であり、だれもが守るべき「思想」なのです。それ故に、日本は安定した時代を送ることができました。それは、徳川家がそうした「秩序」を守ってきたからです。それを、個人的な「妬み」や「嫉み」によって、守られてきた「秩序」を破壊したのが、薩長を中心とする勢力であり、明治維新なのです。
今でも、「明治維新史観」によれば、「腐った徳川という大木を切り倒し、新しい世の中を開いた」といった理由付けをして明治維新を賞賛する風潮がありますが、会津戦争を見ただけでも、それが「大嘘」であることは明白です。彼らの「秩序破壊」によって、伝統的な日本社会は壊されたのです。そして、普通の感覚を持っていた会津藩を「朝敵」とし「賊軍」としたことで、武士が持っていた「武士道」が壊され、日本人に「天皇も道具でしかない」「詭弁を弄してでも、権力を持てばいい」といった誤った価値観を植え付けました。そして、最終的には、愚かな「大東亜戦争」を引き起こし、国全体が破壊されたのです。日清、日露の両戦争が辛うじて勝利できたのは、実際に指揮を執った政治家や軍人の個人的特性によるものが大きく、彼らには「武士道精神」の欠片が残っていたからです。ところが、大正、昭和と時代が進むと、明治維新が残した「宿痾」が顔を出し、軍部も政界も権力争いに明け暮れるようになりました。昭和初期に多くの「テロ事件」が起きたのも、明治維新の残滓でしょう。「所詮、何をやっても勝てばいいんだ!」という思想は、人を人間から「獣」にしてしまうのです。いや、獣たちでさえ、我が子を慈しみ、仲間を守る「正義」は、本能的に持っているものです。しかし、「勝てば官軍」という意識は、その僅かな「正義感」すら奪ってしまったのです。
会津は、薩長という邪な思想に洗脳された勢力によって「敗者」とされました。そして、当時の日本人として持っていた普通の「勤皇」の国が、「賊」の汚名を着て「不正義」とされたのです。その歴史観は、その後もずっと続き、現在にまで至っています。洗脳されたままの薩摩(鹿児島)や長州(山口)の人々は、自分たちの先祖が行ってきた蛮行に眼を瞑り、「新しい時代を開いた偉大な人たち」と崇め、未来の子供たちにも、それを伝えようとしています。今の政治家たちの多くも、そうした思想に取り付かれた野心家ばかりで、「国の行く末」のことより「御身かわいさ」で、権力に阿るようなことばかりを考えるようになりました。そのため、国民はそんな政治に愛想を尽かし、国政選挙ですら半分の国民が投票もしない始末です。マスコミは、それを「国民の意識の低下」だと嘆いて見せますが、それでは、「だれに投票しろと言うのか!?」と返されることでしょう。結局、日本人から、真っ当な「歴史観」と「正義感」を奪ったのは、あの忌まわしい明治維新だったのです。しかし、それでも、一部の日本人の中には、その正しい歴史観と正義感を持つ者がいます。その力は乏しく、絶対権力に敵うものではありませんが、少しずつ、そうした勢力が台頭してきたことは、社会がもう一度変わるチャンスかも知れません。
ここ数年、「皇位継承」について、国会議員たちが議論しているようですが、やはり左翼の政治家たちは「女性天皇」に持って行きたいようです。保守系の政治家は「男系男子」で皇統を維持したいと考えているようですが、皇室問題を政治の世界に持ち込めば、当然、こうした議論になるのは避けられないことでしょう。そもそも、明治維新がなければ、皇室問題は、政治問題化することなく、日本人にとって「当たり前」の形で継承されていったはずです。それが、天皇を「政治の道具」と考えた時点で、日本の皇室は時代に翻弄されるようになってしまいました。明治政府は、憲法を制定するとき、天皇の地位を明らかにし「国家元首」と定めました。そして、わざわざ、「神聖なもの」という但し書きまで書き加えたのです。確かに、これまでの歴史観からすれば、それは当然なことなのですが、文字で定義されてしまうと、どうも、それに縛られてしまい、自分の中の「天皇像」が崩されるような気がします。戦後の「象徴天皇」になると、なおさら、その気持ちは強くなります。本来「勤皇」とは、だれもが心の中で持っている「畏れ」であり、文字に表すようなものではなく、普段は、会話の中にさえ出てこないものでしょう。しかし、それを文字に起こしたことで、天皇の「神聖さ」は失われ、生々しい「天皇像」が描かれるのです。もし、「女性天皇論」が力を持ち、女性天皇が誕生したら、伝統的な「皇統」は崩され、正統性を失った皇室は、いずれ消滅することになるでしょう。そうなれば、日本はお終いです。明治維新によって、天皇を国家元首と定め、軍服を着せ、「大元帥」を名乗らせ、「力の象徴」とした結果、日本は、圧倒的な力を持つアメリカにコテンパンにやられました。つまり、「力の上の力」を見せつけられたのです。その天皇も結局は「敗者」となり、世俗的な権力争いの渦中に巻き込まれました。その時点で、神代の時代から続く「日本」という国は消滅してしまったのかも知れません。
もし、できることなら、日本人に本当の「勤皇の心」を取り戻してほしいと願います。それには、いわゆる「明治維新史観」を考え直す必要があります。これまでのような、表面的な「綺麗事史観」を捨て、本当に何があったのか、どうしてそうなったのか…を自分の目で確かめ、自分の頭で考えてみることです。これまで、多くの日本人は「学校で習うことは常に正しい」と思い込み、そうした一方的な価値観だけで判断をしてきました。しかし、現代のような「AI革命」が起きる時代に、そんな権力者にとって都合のいい情報だけで、自分の人生を決めていいはずがありません。もし、やり直すことができるのなら、「本当の江戸時代とは、何だったのか?」「幕府は、本当に腐った大樹だったのか?」「戊辰戦争は、どうしても必要な内戦だったのか?」「なぜ、勝ったはずの士族が反乱を起こしたのか?」…など、真剣考えてみてください。
教育というものは、本当に怖ろしいもので、それが「正しい」と教え込まれると、人間は、なかなか自分でそれを否定することができなくなります。そして、それを教えることにより、権力者側に都合のいい「生き方」を選択してくれるのです。たとえば、バブルのころ「土地は投機の対象」でした。「土地さえ、持っていれば資産価値は上がり続ける」と言っていた人がいましたが、今ではどうでしょう。バブル崩壊後、土地は値下がりを続け、所有者にとって固定資産税を払うだけで厄介な「資産」となってしまいました。これだって「刷り込み」でしょう。他にも、「大学に行けば、将来は安泰だ」と言われた「学歴社会」が作られました。しかし、令和の時代を迎え、少子化でだれもが大学に入れる時代になっても、学校格差は大きく、「実力のない大卒者は不要」になりつつあります。経済が停滞している今、年間100万円以上の授業を払う価値が「大学」にあるのでしょうか。日本の大学教育は、いつまで経っても「実力養成」にはなっていません。入試の難易度もかなり下がり、中学校卒程度の学力でも大学に入ることができます。その上、「奨学金」と称する「借金(教育ローン)」は、卒業後に大きくのし掛かってきます。大学という名だけで、碌な勉強もしなかったつけが、その後の人生を狂わせているのです。これも「学歴神話」という教育の賜でしょう。
映画「侍タイムスリッパ-」が好評を博しているのは、単なるストーリーの面白さばかりではなく、そこに本物の「侍」を見たからなのではないでしょうか。確かに、映画に登場して来る会津侍は、寡黙で不器用、しかし、素直で実直な男でした。自分が属する会津藩や幕府のために、必死に働こうとした人間です。そこには、いやらしい「駆け引き」も「企み」もありません。美しい女性を見れば、心が動き、それが、他の人間に簡単に見透かされる単純さがあります。言葉足らずで、自分の思いを相手に伝えることもできません。そんな「不器用さ」が、今の人たちに受けているのだと思います。会津の「白虎隊」の少年たちは、本当に純粋でした。大人の「いやらしさ」を身に付ける前の純粋さを持った少年です。それは、現代の少年たちも同じです。一見、何を考えているかわからないところがありますが、彼らに寄り添えば、子供らしい「生真面目さ」が見えてくるものです。大人はすぐに「大人の基準」で物事を判断しがちですが、僅か数十年の経験でしかない「基準」で、未来を語ることの愚かさに早く気づくべきなのです。少年世代の生真面目な純粋さがあれば、社会は変革できる可能性があるのです。幕末時に薩摩や長州の人間は、会津の侍たちを笑っていたことでしょう。「あの田舎侍共は、単純でばかばかりだ!」「あいつらを騙すことは、簡単さ!」とでもほざき、一段も二段も低く見ていたはずです。そうでなければ、あれほど酷い戦はしなかったでしょう。
しかし、一人の人間として見たとき、さて、どちらが信頼に値するのでしょうか。どちらに少年たちはついて行きたいの思うのでしょうか。このことを「白虎隊」の少年たちは教えてくれています。今の時代は、自分が「損」をすることを極端までに嫌います。少しでも「得」をすることばかりを考え、「世のため、人のため」という「利他の心」を忘れています。最近「闇バイト」と称する凶悪事件が多発していますが、逮捕された男たちを見ると、だれもが「優男」で、そんな凶悪事件を起こすような人間には見えません。「だれかに唆された」か「脅された」のかも知れませんが、それで事件を手を染めれば、どんな未来が待っているかわかるはずです。そこには、「白虎隊」の少年たちの生真面目さの欠片もありません。人間として、どちらになりたいと思うのでしょうか。時代は違っても人間の「本質」は、そんなに違うものではないはずです。映画「侍タイムスリッパ-」を見て、そう思いました。私ももう一度、あの「会津戦争」について、調べてみたいと思います。
11 「南会津」への旅
先日、友人と一緒に「東武鉄道」に乗り、千住から鬼怒川へ出て、野岩鉄道・会津鉄道と乗り継ぎ「大内宿」で有名になった「湯野上温泉」に降りました。この「湯野上温泉」は、茅葺きの駅舎で有名で、多くの旅人がスマホを駅舎に向けていました。電車も一両編成の小さな車両で、「撮り鉄」さんや「乗り鉄」さんには、たまらない電車と駅なんだろうと思います。以前は、ここに「猫駅長」がいたんですが、今はいないようです。駅の待合に「囲炉裏」が切ってあり、炭火が熾っていました。それも、田舎の「ご馳走」の一つです。そこから、バスで大内宿まで約20分。今でこそ、開けた南会津の観光地になってしまいましたが、私が初めて訪れた40年程前までは、道路も十分整備されておらず、大きな駐車場もありませんでした。今は亡き父親が「ちょっと、面白いところがあるから、行ってみるべ…」と誘われてきた集落です。あのころは、すべてが整った「茅葺き」ではなく、(そろそろ、吹き替えた方がいいんでねえべか…?)などと思いながら、家の縁側に開いた店で、餅やだんごなどを買い、店のばあさんと会話を楽しみました。白髪のばあさんは、「まあ、最近では、少しずつお客も来るようになったんだよ…」と嬉しそうでしたが、曲がった腰を見ると(随分と苦労したんだべな…?)と、その深く刻まれた横顔の皺を見ていました。その「白髪」と「皺」に、この女性の人生の足跡が刻まれているのです。私の家には、そのときいただいた「絵手紙」が壁に貼られて残されています。「笑顔は人生の花 絆、心一つにいつまでも」と筆文字で書かれています。これを書いた人の「人生訓」のようです。(なるほどね…)
それが、今では、福島県内有数の観光地に発展し、平日にも関わらず外国人も多く訪れる「日本の原風景」のひとつになったかのようでした。確かに、大内宿の集落外を見ても何も「人工物」が見えません(もちろん、電柱くらいはあります…)。見えるのは、広い空と森、何処までも続く「水田」ばかりです。(最近、こんな長閑な風景は、見てないなあ…?)と感慨に耽り、私もスマホを取り出しました。ここに来ている観光客は、昔であれば「当たり前」の風景を見たくて来るのでしょう。何でも「無い物ねだり」といいますが、40年前までは「こんな田舎、だれも来ねえよ!」と嘯いていた人たちが、今では、「わあ、素敵。こんな自然の中で暮らしてみたい!」「美しい風景ね…」と喜んでいるのですから、本当に人間の心は「秋の空」なのでしょうね。もちろん、私も同様なので、それを非難するつもりは毛頭ありません。だから、人間って面白いのでしょう。「大内宿」は、江戸時代までは、参勤交代などの宿場町として、そこそこ利用があったらしいのですが、明治以降は、ずっと下の方に、新しく「会津若松」に向かう道路が整備されたために、峠越えの大内宿は利用されなくなりました。それでも、集落としては残り、村人は農業と林業、そして「出稼ぎ」で何とか暮らしていたそうです。全国には、今でもこうした集落は多くあります。そういう意味では、大内宿は本当に「運がよかった」としか言いようがありません。
夜は、温泉宿に泊まり「24時間源泉掛け流しの湯」にゆっくりと入り、旅の疲れを癒やさせてもらいました。ここの「温泉」は、日本全国でも有数の湯量を誇り、各家庭にもその湯を引いているのだそうです。「蛇口を捻れば、温泉が出る町」なんて素敵ですね。それに、この湯は飲用にも適しているようで、見た目は「無色透明」ですが、常に「60度」の温泉が滾々と湧いて出るのですから、昔の人は、農閑期には各地から「湯治」に来て、骨休めをしたのでしょう。温かい温泉に浸かった後は、おいしい夕食をいただきました。たくさんの料理とお酒は、どれも「唸る」くらい美味でしたが、やはり一番は「新米の炊き立てご飯」です。会津産の「こしひかり」は、水と炊き方にもよりますが、やはり「絶品」でした。真っ白な米粒、固くもなく柔らかすぎず、一粒一粒が立っている「白飯」は、「日本人ならわかるご馳走」です。これなら、梅干しや漬物で何杯を食べられそうでした(実際は、お替わりをして二杯です)。そして、夜は、宿のバスで再度「大内宿」に向かいます。宿ご自慢の「ナイトツアー」なのだそうですが、観光客のいない夜の「大内宿」は、幻想的で、まさに「タイムトラベラー」になったような気がしました。喧噪を離れて、静かな田舎町を訪ねるのも楽しいものです。
こんな話をしていると、「会津戦争」や「白虎隊」とは関係ないように思いますが、実は、新政府軍は「白河・猪苗代・母成峠・若松」と続くルートの反対側である「日光街道」を北上するルートでも攻めて来ています。鬼怒川からの道は、渓谷沿いのくねくね道の難所で、その各所で戦闘が起こり、会津藩と旧幕府軍の諸隊は、ここに防衛戦を張り、若松城下に入らせないようにと頑張っていました。そうなると、当然「大内峠」は、防衛の拠点となり、峠の上には会津軍・旧幕府軍が待ち構え、坂下から新政府軍が攻撃するといった戦闘になったのではないでしょうか。そうなると、「大内宿」は戦乱に巻き込まれることになります。食糧などの物資の調達には、村は欠かせません。「焼かれた」という話は聞いていませんので、両軍にとって「大内宿」は、兵隊に休養を取らせるためにも重要な拠点になったのでしょう。会津藩では、若き家老「山川大蔵(浩)」などが、中心となって日光口を守っていました。ここでも「白虎隊」は活躍しています。それは、主に「足軽隊」の少年たちでした。彼らは、身分こそ低いものの、士中隊と同じように会津で育った少年たちなのです。ここでも、何人かの白虎隊士が戦死しています。飯盛山の少年たちのような祀られ方はしていませんが、各所に墓が作られ、近くの寺では今でも供養が行われています。
余談ですが、山川浩は、明治になると陸軍に入り陸軍少将にまで進みました。弟健次郎はアメリカに留学して理学博士となり、東京帝国大学、京都帝国大学の総長まで務めた人物です。そして、妹捨松(幼名咲)は、日本初の女子留学生となり帰国後、陸軍元帥となった大山巌夫人となって日本の女子教育に貢献しました。明治時代の会津藩士は、この山川家が支えとなっていたのです。
地図を見ると、会津若松に入るのは「母成口」より「日光口」の方が、軍を展開する上で条件は整っているように見えます。電車に乗っていても、鬼怒川の険しい渓流沿いの道を抜ければ、後は割合平坦な道に出ますので、急峻な「母成」より攻めて来る公算は大きかったはずです。しかし、新政府軍がその裏をかき、猪苗代の山の間道を抜け、一気に母成を落とすと「十六橋」をわたり若松城下に雪崩れ込んで来ました。そして、その急を聞いて、山川隊は急いで若松に戻ったのです。しかし、山川隊が若松に近づくと、そこは既に新政府軍が城の周囲を囲むようにして陣を張っており、入り込む隙がありません。だれもが、入城はあきらめ、外から支援しようと考えていましたが、山川は「いや。城に入る方法がある。任せておけ!」と叫んだのです。それは、山川の一世一代の「大芝居」を打つことでした。その「大芝居」とは、「会津彼岸獅子」の恰好で敵陣を突破しようとするものす。「彼岸獅子」とは、全国にもある風習で、夏の終わりに「秋の収穫」を祈って踊る民俗習慣です。会津でも「獅子面」を付けて数人から十数人で各所を巡りました。そこには、笛の音や太鼓の音が必要です。ですから、山川隊は、田島あたりの村から「彼岸獅子」の衣装を借り出して堂々と若松市内に入って行きました。当然、新政府軍は、急に笛や太鼓の音、そして、派手な模様の衣装を纏った「獅子面」の踊りを見て驚くと共に、「ああ、俺たちの国でも、そろそろ獅子舞が来る季節になったんだなあ…?」と感慨深げにそれを眺めていたそうです。もちろん、将校の中には「おい、あれは、どこの藩の者共じゃ…?」と見咎める者もいたようですが、まさか「敵」だとは思いもよりませんでした。数百人の隊が、威風堂々と行進してくるわけですから、「敵だ」と疑う者はありません。こうして、山川隊は若松の「鶴ヶ城」に入城することに成功したのです。
その後の籠城戦については、先に書いたとおりですが、久しぶりに「大内宿」に着き、数十年変わらぬ風景を眺めたとき、ふと「山川浩」を思い出しました。50年ほど前、私が子供だった頃、田舎の老人は、「戦争」というと、大東亜戦争ではなく「戊辰戦争(会津戦争)」を思い出すといいます。それは、自分が産まれる前の江戸時代末期の国内戦争でしたが、その後の人生に大きな影響を与えた「戦」だったのでしょう。私の友人に母方の曾祖父が会津藩士だった人がいます。本人も母親も、福島の生まれではなく千葉の佐原の人ですから、会津訛りの方言も知りません。親から聞かされなければ、自分のルーツが「会津」にあることも知らずに過ごしたのでしょう。しかし、その方の母上は、我が子に「我が家のルーツ」を教えたのです。それは、何だったのでしょう。わざわざ、言わなくてもいいことなのかも知れません。しかし、言っておかなければならない「先祖の物語」だったのです。そして、大人になって自分の血のルーツを知ったとき「合点がいった」と伺いました。「なぜ、自分が理不尽なことに対して怒りを覚えるのか…」「なぜ、困難なことがあっても、自分の意思を貫こうとするのか…」それがわかった…と話していました。
今の日本人で、そんな「自分の先祖」のことを考える人がどのくらいいるでしょう。自分が何者かも知らず、現代の価値観に振り回されて生きていく人生に、どんな意味があるのでしょう。今の子供たちは、実は歴史が大好きなのです。それも「自分に関わりのある人物」には、殊の外興味を持ちます。そして、自分で調べて、とことん追究する子供が現れます。それは、学校で「教わる」勉強ではなく、自分の心の中の欲求から生まれた「学び」なのです。私は、それこそが「本物の学びの経験」だと思います。確かに、勉強には「必要だから学ぶ」ものと、必ずしも必要ではないかも知れないが「役に立つ学び」があります。そして、その上に「どうしても学びたい学び」が存在するのです。そこには、親や教師は関係ありません。自分の「心」が、人間が「水」を欲するようにそれを「必要」としているのです。そして、「自分が何者か」を覚ったとき、人間は、堂々と人生を歩んでいけるような気がしますが、如何でしょうか。今から100数十年前に「会津藩」は破れ賊軍とされました。そして、長い期間、日本国内で「差別」され、その子孫は、先祖の思いを受け継ぎながら生きてきたのです。しかし、「賊」とされても、会津の侍は「真の武士」でした。今でも会津若松駅前には「白虎隊士像」が城を睨んで立っています。しかし、それは、正々堂々とした姿で、何者にも屈しない強さを感じました。
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