「日本の教師は怒っているんだぞ!」と、日本全国の現役教師と教師OBは、だれもが「怒り」に震えていると思います。今、生きている人だけでなく、既に亡くなられた多くの「教師」という仕事に携わった人は、だれもが腸が煮えくり返るような悔しさを味わっているはずです。それが、この「令和の教育」の悲惨な現状なのです。これが、欧米なら、全国の教職員は挙って立ち上がり、無期限ストだろうが、国会前でのデモ行進だろうが、なんでもやって、自分たちの置かれている現状を国内だけでなく、世界に訴えているでしょう。しかし、謙虚な日本人は、そんな恥ずかしい真似はしませんが、今の教育の現状を見ると、それくらいの大事件だと私は思っています。マスコミは、己の所業を反省することもせず、他人事のように報道し、恰も、「教師の努力不足である…」かのような冷たい解説に終始していますが、長年にわたって教師を愚弄し、追い詰めて行ったのは紛れもなく現代の「マスコミ」であることを教師なら、だれもが承知していることです。そして、それに乗じて自分たちの私欲を得ようと企んだのが、政治家であり官僚たちなのです。この国の指導者たちは、残念ながら、だれも「国を憂える者」はいなくなりました。だれもが「我欲」に走り、自分の利益のために右往左往しているのが現実です。この間の選挙を見てもそれは明らかです。そのために、国民がどれほど苦しもうと一向に関係ない素振りをして人生を全うしようとしています。本当にそれでいいのでしょうか。現在、政府では「学校ブラック化問題」が騒がれてしまったために、やむを得ず、何らかの対処をして誤魔化そうとしていますが、そんな小手先の改善でどうなるようなレベルではありません。最早や「崩壊」していると言っても過言ではないでしょう。世界に冠たる教育をしてきた日本の学校教育が、政府の無策のために壊されるのを黙って見ていなければならない「教師」の悔しさは、携わった人間にしかわからないでしょう。そんな「怒り」を「元教師」の一人として、「ものを申したい」と思います。
1 教師を「サービス業」じゃない!
この国の教育行政はどうなっているんでしょう。とにかく、今の日本の教育の混乱を招いた元凶は「文部科学省」にあります。戦後の日本の教育改革も酷かったと思いますが、文部科学省が、学校教育に介入すればするほど、日本の教育はだめになり、今の酷い有様になってしまいました。そもそも、文部科学省は、どうして教員を「管理」したがるのでしょう。おそらく、原因はマスコミだろうと思いますが、教師を「目の敵」にしているマスコミは、いつごろからか、学校批判を始め、「だから、日本の教育はだめなんだ!」というキャンペーンを張るようになりました。最初は「管理教育」がやり玉に挙がったような気がします。それが社会の評判を呼び、マスコミ各社がそれに飛びついたのです。確かに、昭和の終わりころは、教師の子供に対する指導も厳しく、体罰も当たり前に行われていました。私から見ても「それは、やり過ぎだろう…」と思う指導もありましたが、現実を考えると「やむを得ない」事情もあったのです。そのころは、テレビドラマでは「学園もの」が流行し、たくさんの学園ドラマが創られました。その多くは「熱血教師」と「生徒」の交流話が主流でした。最初の頃は、人間ドラマとして面白かったものが、いつの間にか社会問題をテーマにするようになり、従来型の教師は、子供たちの「敵」であるかのように描かれるようになりました。そして、型破りな教師が人気を呼び、生徒たちの「ヒーロー」になったのです。それは、まさに、「常識的な教師」対「型破りの教師+純粋な生徒たち」という図式です。
この場合、常識派は「子供の心がわからない大人」であり、子供の味方が主人公の「型破り教師」です。型破り教師は、勤務時間など度外視し、学校の常識を勝手に覆し、「あんたたちは、何にもわかちゃいない!」と常識派教師と戦いますが、これは、フィクションとしては成り立ちますが、「現実離れ」していることが前提にあります。もし、こんな教師が本当にいたら、学校の秩序は乱され、学校生活に大きな混乱を招いたはずです。どうも、戦後の日本人は「敗戦のショック」から抜け出せず、「組織」というものに反発を覚えるようです。それは、きっと「軍隊」を思い出すからなのでしょう。今でも、学校を批判する用語として「軍隊」が持ち出されますが、その「軍隊」は、何処の国にもある絶対に必要な「防衛力」であり、「戦争抑止力」なのですが、「管理」や「規律」「秩序」という言葉を聞くと、なぜか反発を覚えるというのも困ったものです。
そもそも「組織」というものは、リーダーの統率の下に方針を定めて、ベクトルを合わせて動くことが「望ましい結果」を生むための最良な方法であり、「自分の思い込み」だけで突っ走る人間が一人でもいると、その方針は悉く破壊され、混乱を招くのです。大東亜戦争の山本五十六の「真珠湾攻撃」と同じです。そして、一度、方向性を見失うと「舵」が利かなくなり、その「組織」は崩壊して行きます。まさに、ミッドウェイ海戦以降の日本軍と同じことが起こるのです。要するに、どれだけ優秀な人間がトップに立ったとしても、唯我独尊、己の能力を過信して突き進むと、躓いたときにだれもフォローに入れないという事態に陥るのです。学校において、強い個性の「型破り教師」が周囲の賞賛を浴び、一時は結果オーライになったとしても、その人間が躓いた時点で、組織は方向性を見失い、これまで以上の混乱を招くことになるということです。これは、学校だけに限らず、どんな「組織」でも同じだと思います。だからこそ、リーダーは「組織」を生かす能力と、部下を心服させる「仁の心」が必要なのです。
したがって、「破天荒教師」ができることには、自ずと「限界」があります。もし、そんな教師が有能感を持って好き放題をすれば、いずれ周囲の信頼を失い、教職から追放されるに違いありません。テレビドラマのように、最後は常に「ハッピーエンド」で終わることがわかっていれば、何をやっても結構ですが、現実は、常に「予測不可能」の中で対処していますので、どうしても「組織力」で動く必要があるのです。ドラマのように、「子供のことなら、なりふり構わず、親以上に働く教師像」は、世間では持て囃されましたが、現実にそんなことをすれば、役所も警察も親も、その一人の「教師」に振り回され、結果、不幸な結末を迎えたとしたら、どうなりますか。責められるのは、その「破天荒教師」一人ではなく、その学校の教職員全員なのです。そして、その「破天荒教師」の家族も大きな傷を負うことは間違いありません。「ドラマ」というフィクションでありながら、さも、現実の教師を批判しているかのような論調に世間は拍手を送りました。しかし、その後、フィクションと現実を混同した意見が学校に寄せられるようになり、実際の教師たちには「大迷惑」だったのです。
当時のテレビは、社会に大きな影響を与える「報道機関」であり、たとえ、フィクションだろうと、ひとたび人気が出れば、それが「一人歩き」し始め、制作者の意図とは関係なく、勝手な「偶像」ができてしまうのです。そして、それが恰も「正しい姿」であるような錯覚を起こし、人々は「それが、正しい」と思い込んでいくのです。そうなると、政府もこれを無視することはできません。国民が支持する方向に進んでいくのが「民主主義政治」なのです。まして、学校現場の教師たちの「声」が世間に届くはずもなく、世間は、勝手に自分たちの望む「教師像」を創り、要求を高めて行くのです。理想は理想として持つのは結構ですが、現実は、そんなに単純なものではありません。そして、現実離れしたフィクションを「とんでもない虚構だ…」と言えないところが、当時の文部科学省や政府の「弱さ」だったのかも知れません。そのころから、社会全体が「教師」に厳しい眼を向けるようになってきたのだと思います。それ以降、文部科学省は「国民の声」に後押しされるように、次々と学校に「理想」を求めてくるようになったのです。これが、今に続く「学校ブラック化」の始まりでした。
そして、少しでも学校批判の声が上がると、政府は慌てふためくように世間の声に同調し、「改善に努めます…」という答弁を繰り返しました。その上、マスコミは面白いように教師の「不祥事」を殊更に取り上げ、「学校の教師たる者が、こんなことをしているぞ!」と国民を煽り、「だから、教師はダメなんだ…」と、常に厳しい声を浴びせ続けました。その声に比例するように学校は、常に外に対して「謙る」ことを覚え、低姿勢の態度をとり続けたのです。理不尽な訴えに耐えかねて、何か反論でもしようものなら、「何!教師のくせに…」「教育委員会に訴えてやるぞ!」という言葉が常套句のように使われ、子供も真似をするようになりました。10歳にも満たない子供が、教師を睨み付け、昔のやくざのような台詞を吐く姿を想像してみてください。まるで、地獄の「餓鬼」が現世に蘇ったような恐怖を覚えます。それでも、マスコミも政府も「子供に寄り添え!」「子供の心の声を聞け!」と命じるばかりで、対応は、最後まで教師任せでした。やっぱり、子供に接したことのない大人は、実際の「子供の姿」が見えていないのでしょう。自分たちが勝手に作った「偶像」を崇め奉る古代人のようです。まったく、怖ろしい時代になったものです。
こうした世間の風潮を敏感に感じ取った政府は、自分たちの無能差を棚に上げ、内向きに対しては非常に強い権力を行使し始めました。政治家や役人というものは、外からの声には弱い立場ですが、内向きの人間には殊の外強気なのです。まして、彼らの多くは高学歴者で、学校の先生にお世話になったなどとは、これっぽっちも思っていません。どちらかというと、「低学歴のばかの集まり」くらいの感覚で見ていたと思います。そんな、頭でっかちの役人たちが、ない知恵を絞って「教師共は、何にもできないばか共だから、俺たちがしっかり管理しなけりゃいけないんだ!」とばかりに、次々と「通知」を出すようになりました。まあ「俺たちが、金を出しているんだから、厳しく管理して当然だろ…」という思考なんだろうと思いますが、彼らのいう「管理」とは、教師を「意のままに操る」ことに他ならなかったのです。そして、最悪だったのが「教育は、サービス業です!」と国民に向けてアピールしたことでした。それまでは、曲がりなりにも、教育は「聖職」だと言われてきたのに、急に「サービス業」にされては、教師は困惑するばかりす。そうなると、国民は「なんだ、教師はサービス業なんだ。これまで、偉そうにしやがって…」と上から目線で見下すような輩が登場してきたのです。文部科学省に公に伺えば、「サービスとは、質の高い教育を提供する意味です」とでも答えるのでしょうが、そんな説明もなしに、いきなり「サービス業」では、他の「接客業」と変わりがありません。要するに、保護者は子供は「お客様」になったことを意味します。日本では、「お客様は神様です」と言うくらい、「客をもてなす文化」がありますから、ばかな人間は「だったら、学校も俺たちを丁寧にもてなせよ!」といった気分が広まって当然です。まさに、「ふざけるな!」と叫びたいくらいです。
この「サービス業」発言以降、教師は国民の「風下」に立たされることになりました。まあ、どちらが上という話ではありませんが、実は、この「意識」の問題は非常に大きな「危うさ」を孕んでいたのです。文部科学省は、いわゆる「リップサービス」のような感覚で発言したのでしょうが、国民はそうは受け止めませんでした。このころから、学校に寄せられる「要望」が増えて行ったのは間違いありません。文部科学省が「開かれた学校」と言い出したのも同じ時期です。そのときに文部科学省は、「学校が変われば、地域が変わる!」とまで言いました。要は「学校が閉鎖的だから、地域がよくならないんだ!」という暴論です。これだと、「学校さえ一生懸命頑張れば、社会はよくなる」と言っているようなものです。そうなると、学校で働く教職員は「もっと働け!」と命じられたも同じです。「どうせ、いくら働かせても金はかからねえや!」と言うのが、役人の論理ですから、これではまるで「教師という名の奴隷」に他なりません。実際、このころに始まった新しい教育施策には、「学校コミュニティスクール化」や「学校評議員制度」「民間人校長の登用」など、教職員だけで行う「学校運営」には限度があるとして、様々な「民間の導入」が行われました。しかし、これが成功したかと問われれば、結局は学校が忙しくなっただけで、そんなに大きな効果は生みませんでした。今の「一億総活躍社会時代」では、70歳になっても働く人が多くなり、学校に外部の人が関われる環境はありません。国は、言うこととやることが「デタラメ」です。
この「学校を開く問題」は、学校に多くの負担をかけることになりました。それは、外部から、どんどんと「子供」への協力依頼が増えたからです。少子化の時代になり、大人が子供と疎遠になると、子供に声をかけることもできなくなりました。家庭も孤立しており、地域の「子供会」といった組織もなくなっています。そうなると、子供に協力を得たければ、学校に頼む以外にはないのです。それまで、学校は外の人間から見れば「敷居」が高く、学校も「教育課程外」の依頼は、できるだけ選んで来た経緯がありました。もし、外部からの依頼を来る度に引き受けていれば、子供たちの「授業」の多くが、それに取られてしまうからです。しかし、文部科学省の打ち出した「開かれた学校づくり」が、この慎重な姿勢を壊してしまったのです。子供の数が少ない今、どんな事業においても「子供」という名前を出せば、効果が上がることをみんな知っています。街中にも、子供の書いた習字やポスター、標語などが貼られていますが、これらはみんな、学校外の機関が学校に「依頼」して実施されたものです。最近では、子供たちの「演奏」を街中で見ることがあると思いますが、あれなども、イベントを盛り上げるために、主催者が学校に依頼して実施したものです。見ている客は「ふーん…」「結構、上手じゃん…」程度の感想しか持ちませんが、そのための「練習時間」や「教師の指導」に頭を巡らす人はいません。教師や子供の多忙化は、こうした「善意の依頼」が大きく影響しているのです。
学校も、こうした依頼が少ないうちは、(まあ、これも地域貢献かな…)と引き受けているうちは、ゆとりがありましたが、文部科学省の方針転換以降、「積極的に学校を開く」ことが課題となり、学校は、否応なしに外部依頼を受けることが当然という雰囲気になりました。この「雰囲気」とか「空気」というものに、日本人は縛られやすく、思考を停止してしまうのです。校長の判断でそれを「取捨選択」しようとすると、「あの学校は、協力的ではない…」と役所や地域から不満が出ます。その不満が地元教育委員会に向けられ、「あの学校はなんだ!?」という苦情になるのです。自分たちの都合で依頼していたはずのものが、「やってもらって、当たり前」といった感覚になると、返事を待たずにプログラムに載せてしまい、学校は断れなくなってしまうのです。こうして、教師と子供の負担は増え続け、正常な「教育課程」が適正に行うことができなくなるという矛盾を孕んでいきました。しかし、こんなことは国民は何にも知りません。本来、国民の多くは教育になど関心はないのです。「あの学校で勉強したお陰で、今がある…」なんて言った政治家は、田中角栄元首相の後にも先にもありません。それが、現実なのです。そして、「サービス業化」した学校は、様々な要望や注文に応えようとしているうちに肥大化し、遂に「崩壊寸前」にまで追い詰められたのが現在なのです。
2 芯のない「学習指導要領」
戦後の日本の教育は、欧米の流行に合わせるかのように目まぐるしく変わっていきました。それを「民主主義」とか「国際協調・理解」などと言うのでしょうが、言葉を換えれば「主体性の欠如」だったのです。戦後の日本の政治は、「戦前の否定」から始まりましたが、それは表向きのことで、裏では、戦前の官僚機構がしっかり残り、GHQは、その官僚に指示を出して「改革」を実行していったのです。そのために、今でも日本の官僚は「上意下達」の意識が強く、教育も思うがままに操ってきました。今の学校も上部機関からの「通知」と聞いただけで、どんな無理をしてでも成果を挙げようとしますが、言い方を変えれば、学校には「主体性」がないとも言えるのです。そのため、日本の学校は私立を除けば、どこの段階でも「金太郎飴教育」しかできません。まさに、「右へ倣え」の体制が継続されているのです。そこに持って来て、小学校から高等学校までは、文部科学省から出される「学習指導要領」に縛られます。これは、「法的拘束力」があると言われる教育の指針で、教科書もこの趣旨で作成されています。
日本の教科書は「国定教科書」ではなく、「検定教科書」と言われるように、まずは、出版社が独自で教科書を作成し文部科学省の検閲を受けます。そして、その内容が「学習指導要領」に適合しているかの審査を通って初めて「教科書」として認可されるのです。しかし、ここ20年ほど前から、教科書が社会問題化してきました。それは、「歴史教科書」の内容について様々な意見が出されるようになったからです。戦後の歴史問題は、言ってしまえば「嘘を真にしたい勢力」対「嘘を暴き真実を伝えたい勢力」との争いに他なりません。「嘘」を嘘だと知りながら「真」にしたい勢力は、政治家や官僚を味方につけ、「GHQ」が創った歴史を未だに拡散しようとしています。ここには、大国のアメリカや中国がバックに控えていますから、日本の歴史観の主流を形成しています。とにかく、日本は敗戦後の占領期に「天皇」を人質に取られるようにして、「アメリカ万歳主義」の歴史観を押し付けられ、「東京裁判」という茶番劇まで演じさせられました。しかも、大人のこうした芝居は辛辣です。敗戦後にも関わらず「戦争犯罪」と称して、勝手に作られた「戦争犯罪人」を数千人も処刑したのです。これは、日本国民への「見せしめ」であり「二度と逆らうな!」という「警告」でもありました。その歴史観を受け入れて、日本は、国際社会の仲間入りを果たしたのです。しかし、そんな「大嘘」を子供たちに教えていいのでしょうか。まあ、賢い大人は、「いいじゃないか。それも生きる方便だよ…」と言うのでしょうが、それでは、先祖に対して申し訳が立ちません。その方便の基に作られたのが「学習指導要領」なのです。
戦後、長きにわたって、学校で「嘘の歴史」を教えられた子供は、優秀であればあるほど、その「刷り込み」は強く、社会人になっても、それを鵜呑みにしたままの人生を送るのです。そして、政治家や官僚になれば、それが直接「政策」となり、社会を間違った方向に導くのですから怖ろしいものです。今の政治家の9割は、そうした「歴史観」の持ち主だと言っても過言ではないでしょう。唯一、亡くなられた安倍晋三元首相が、総理大臣になられたとき、「戦後体制からの脱却」を訴えましたが、左翼やマスコミ、アメリカ、中国、韓国などからの猛反発を受け頓挫してしまいました。もう、アメリカが「自己否定」でもしない限り、「GHQ歴史観」が覆ることはないでしょう。そして、日本もアメリカに隷属しながら存続していくのです。しかし、「アメリカ絶対主義」もそろそろ怪しくなってきました。マスコミも以前のような力はなくなり、SNSが情報発信の中心になっていく気配が見えます。そうなったとき、日本の国民は「騙されていた嘘」に気づき、政治を変えようとするかも知れません。もし、そうなれば「学習指導要領」は大きく改訂され、日本の歴史が修正されるでしょう。その日が一日でも早く来ることを切に願っています。
教師にとって、この「学習指導要領」が曲者なのです。教科書もこの指針にしたがって書かれていますが、これが、10年毎に改訂されるために、学校に定着しないという問題点を抱えているのです。それも、「一本筋が通った思想(バックボーン)」がないために、右や左にウロウロするばかりで、学校現場は常に混乱に晒されています。文部科学省は、いわゆる「有識者」なる専門家を招集して会議を開き、その提言に基づいて「新しい学習指導要領を策定している」と言っていますが、これだって「お約束」の会議で、文部科学省の意向に沿った答申がなされるだけのことなのです。名前だけは「中央教育審議会」などという厳めしい名称をつけていますが、会議自体は文部科学省のシナリオに基づいて話されているだけで「結論」は見えています。これによって、混乱を引き起こすのが学校現場なのです。文部科学省は、いずれの省庁と同じように「欧米」からの情報に敏感に反応し、既にアメリカで実験的に行われたような「指導方法」を日本に採り入れたりしていますが、それが「定着」した例しがありません。よく、マスコミでも欧米の教育を絶賛して紹介しますが、それも一時的で、その後、どんな成果を挙げているかまでは報道しませんので、よくわからないのが現状です。文部科学省は、まるで流行を追うかのように、学習指導要領を弄りますが、肝腎な「大学受験」だけは効率的な「丸暗記主義」から抜け出せません。だから、学生は未だに「勉強=暗記」と捉えており、深い思考をすることができないのです。これは、一重に文部科学省の責任だと思います。
戦後、日本の教育は、アメリカの学者が提唱した「経験主義」なる教育からスタートしました。確かに、明治期から続いた「丸暗記主義」もどうかと思いますが、この「経験主義」は、あまりにも子供の自主性に重きを置きすぎたため、結論が出ないまま終わってしまい「這い回る経験主義」と揶揄される始末でした。これに失敗すると、今度は「系統主義」が台頭し、学習内容の系統性を重んじる教育が行われました。しかし、これも、結局は、昔からの「暗記主義」から出るものではありませんでした。結局、高等学校や大学が整備されるようになると、常に試験の「公正さ」ばかりが強調され、試験内容も「客観性」が重視されたのです。これは、一見「公正」な試験のように見えますが、結果として「だれもが納得できる答」を求めるようになり、暗記主義を脱することはできませんでした。欧米の試験では、面接(口頭試問)や論文に重きを置くようになったにも関わらず、日本では、相も変わらず「ペーパー」重視の試験が行われていたのです。そのうち、「マークシート方式」がアメリカから輸入されると完全にアウトです。単なる「正解らしき小枠」を塗りつぶすだけの試験では、その受験生の「思考過程」を見ることはまったくできません。現代に必要な能力は、単に過去問を解ける力などではなく、新しい「考え」を導き出せる能力だと言うのに、文部科学省は、欧米の「新しい学力観」さえ封じ込めてしまったのです。これは、まさに政府の「怠慢」としかいいようがなく、今の日本が新しい産業(IT・AI)に遅れを取った要因です。
「マークシート方式」は、確かに採点する上で効率的で間違いがありません。たとえ「塗り間違え」が起きても、それは本人のミスですので、採点する側の落ち度ではありません。これなら、機械処理も簡単にできます。しかし、人の学力を単に「機械」で判定できる制度が、本当に優れているのでしょうか。逆に、どんな人物かもわからず、どんな才能が潜んでいるかもわからず、一部の切り取った「学力」で、その人間の能力評価しようというのですから、如何にも乱暴です。そうなれば、当然、中高校生は、ひたすら、教科書と参考書を片手に黙々と過去問を解くことに専念するのは、当然でした。こうなると「暗記主義」に拍車がかかり、「記憶力」の優れた生徒が「優秀」と見做されて難関大学に入学できたのです。その優秀な学生は、やはり、「暗記主義」で採用してくれる官公庁やマスコミなどに就職していきました。しかし、大学で「思考」の大切さに気づいた学生の多くは、教師から教えられることを鵜呑みにすることなく、自分の特性を生かした勉強を独自に始め、既存の官公庁や大企業を敬遠するようになりました。中には、自分の興味のある「ベンチャー企業」や、自分で、新しい会社を「起業」するなど、独自の道を模索するようになっています。日本人は、元々、探究心旺盛な国民で、あの黒船が来航してきたときも「怖れる」のではなく、興味を持ってそれらを眺め、「よし、これなら俺でも作れるんじゃないか…?」と眼を光らせたそうです。そうした「探究心」があるからこそ、無謀とも言える「明治維新」が成功し、「近代化」につながっていくのですから、国もそんな国民性を侮ってはならないのです。
それは、教師も同じです。何も「学習指導要領」に事細かく規定しなくても、教師に任せておけば、ちゃんとした教育をしてくれるのです。もちろん、教師の中には、文部科学省が気に入らない人たちがいることは承知しています。そして、ばかな「不祥事」を起こす人間もいます。しかし、その一部の偏った人間を排除しようと、「教員免許更新制」などを作っても、多くの真面目な教師たちの反感を買うばかりでした。そして、子供でも扱うように「管理」と「綱紀粛正」ばかりでは、教師の信頼を失うのは当然でした。それを、傍から見れば、偉そうに「なんだ、かんだ…」と小姑のようなことばかり言って、教師を従わせようとするから、だれも何も言わなくなってしまったのです。それは、「納得して言わない」のではなく、「呆れて言わない」か「諦めて言わない」かのどちらかでしょう。どうも日本人は、「何も言われない」と、相手のことを慮ることが苦手なようです。「言わないんだから、これでいいや…」といった傲慢な態度が、政府役人には見られます。確かに、政治家になった塗炭に「俺は選ばれた人間だ」と元々嫌らしい顔が、もっと凄味を増す人がいますが、落選したときにテレビに映し出される顔は、「貧相」そのものです。中には、涙を浮かべる元政治家もいますが、泣きたいのは国民の方です。文部科学省も、少しは謙虚になって「現場の教師の声」に耳を傾けるべきなのです。そして、「任せるところは、任せる」態度で、教師に接すれば、日本の教育は自然とよくなるはずです。「芯のない・細かすぎる・流行に追われる学習指導要領」が、学校を混乱させている元凶だということを認識して、現場の声を聞く「新しい教育改革」を推進して欲しいものです。
3 「大学教育」は、これでいいのか!?
一体、今の日本には何校くらいの「大学」があるのでしょう。そもそも、少子化と言われている時代に、そんなに多くの「最高学府」が必要なのでしょうか。文部科学省の統計資料によると、今の大学数は796校、大学生の数はおよそ263万人、進学率は55%を超えるのだそうです。高校の進学率は、ほぼ100%ですから、今の高校生の半分以上が大学に進学していることがわかります。大学の他にも専門学校や短期大学がありますから、今の若者のほとんどは「高等教育」を受けていることになります。しかし、現実を考えると、一体大学に何を勉強しに行っているのでしょう。今の日本の大学は、「入りやすく、卒業しやすい」状態が続いており、「大学入試が難しい…」と言われていたのは、最早、過去の話です。もちろん、偏差値の高い大学はありますが、自分の学力に合った学校を選べば、何も浪人してまで行くことはないでしょう。それに、ここ30年くらいは、ペーパー試験を実施しない、いわゆる「推薦方式」の入試も多く行われており、昔のような「受験勉強」が要らなくなってきました。これが、大学入学者を増やしてきた原因です。
ただ、今、問題になっているのが、大学に通うための「費用」です。一般的に言えば、大学の学費は文系で年間120万円程度、理系だと150万円を超える学部はざらにあります。もし、下宿(部屋を借りる)でもしていれば、その生活費だけで年間150万円(毎月10万円程度)は、超えるはずです。そうなると、4年間で最低でも600万円、下宿でもすれば1000万円もかかる計算になります。これで、子供が二人いれば、親の負担は大学だけで「2000万円」と計算して間違いないと思います。以前、政府は、「老後資金に2000万円必要」と説明しましたが、既に子供の学費で、その金額は使われています。現在では、「老後資金は、4000万円必要」との声もありますので、親はたまったものではありません。もし、これを学生自身が負担したとすると、就職を前に既に「1000万円の借金」をして社会人をスタートさせることになるのです。社会人になっても、既に終身雇用制度はなくなり、退職金もありません。正社員は少なく「非正規社員」が増えている今、継続して「借金」を返せる保障はないのです。これって、何かおかしくないですか? 日本には「奨学金」と称する「教育ローン」がありますが、どれも返還義務がある「借金」ですので、就職をしても、これを毎月こつこつと返していくことを考えると、安易に奨学金を借りるのも問題です。いくら親だって、こんなに高額な「借金」を、簡単に返せるはずがありません。なんとも酷い仕組みを作ったものです。
テレビのワイドショーなどでは、よく、新しい大学の施設を取り上げて「すごいですねえ…」と、その施設の豪華さや立派さを褒め称えていますが、視聴者から見れば「これって、学生から一体いくらの寄付金を取っているんだ?」と眉を顰めてしまいます。碌に稼いでもいない学生から多額の寄付金を取り、立派な校舎を建て、高級レストランかと見紛う食堂で高額なランチを提供するのですから、学生はお金がいくらあっても足りません。結局は、学業よりも生活費や学費を稼ぐ「バイト」に明け暮れるしかないのです。結果、日本の学生は「勉強」をしなくなりました。読書量も小学生以下です。取り敢えず、大学のつまらない講義を受けて単位を取れば、それで終わりです。余裕があってサークル活動をしても、その費用を賄うのに、また「バイト」をしなければなりません。これで、研究をしたり、論文を書いたりすることができるのでしょうか。絶対に無理です。できるのは、小学生程度の「作文」がせいぜいでしょう。後は、パソコンを駆使して、だれかの論文を「盗む」ことしかありません。これを「コピペ」と言うのだそうですが、そうでもしないと、何もできないのですから、日本の大学は、学生に何も教えていないことになります。単に学生だけを責めても解決はしないでしょう。これでは、欧米や中韓、インドなどの大学生に勝てないはずです。
大学教育で、もうひとつ問題なのが、大学の教師の「質」の問題です。数年前にも「日本学術会議」が問題になりましたが、どうも、日本の学者たちの世界は、一癖も二癖もありそうです。そして、テレビにしゃしゃり出ている大学の教員の質は、失礼で申せば「異次元の人々」という感じでしょうか。自分の主張(テレビ局の主張)だけが常に先行し、政治家だけでなく一般国民もばかにしているかのような言動が多く見られます。先日もある評論家が「日本人は劣等民族だ!」と言って笑ったというニュースがありましたが、これでは、ヒットラーの言葉と大差がありません。こんな傲慢な人間を崇め奉って、テレビ番組で言いたい放題させているから、テレビ業界が国民から見放されるのです。近くでは、兵庫県知事選挙で辞職した元知事が大差で当選すると、テレビは挙って「国民が、SNSに洗脳されている!」と、自分たちの「分析力のなさ」を反省もせずに宣う姿は、本当に「醜い人間」を見た思いがしました。自分に都合がいいことは「これは、民意だ!」と叫ぶくせに、都合が悪くなると「洗脳されている!」では、怒りたくもなります。それを恥ずかしげもなく放送する業界に対して「もう、テレビはだめだなあ…」と思うしかありません。要するに、自分たちに都合のいい学者を呼んで代弁させていただけのことなのです。
その学者が、これまた有名大学の肩書きを持っている姿を見ると「この大学を人に勧めることはできないな…」と思います。亡くなられた安倍晋三元首相を「あいつは、人間じゃねえ!」と叫んだ学者も、有名私大の教授でした。もし、小中高の教員が同じことをやれば、即座に「懲戒処分」は免れません。なぜ、大学になるとそれが許されるのでしょう。そんなに「大学」って偉いのでしょうか。どうも、日本人は「教育」がわかっていないようです。さすがに大学生くらいの年齢になると、ばかな教員がいても、「あいつ、ばかだなあ…」と言って無視することもできますが、それでも、高い学費を払っていることを考えれば、「金返せ!」と学生が騒いでもいいと思います。大人しい日本人は、大した学問もない教員に教えられたくありませんが、できれば、しっかり「評価」をして、学生の不満が多い教員は、大学から排除するべきです。そして、思想的に捻くれていない人間を採用し、まっとうな「人間教育」を行えば、もう少し、日本の大学も外国から評価されるかも知れません。まずは、この「大学」を変えなければ、日本の教育は変わらないと思います。
もし、大学が欧米のような「研究機関」になり、学生には多くの課題を与え、一定基準に達しない者は「卒業認定をしない」というシステムになれば、日本の学生は、きっと必死になって勉強をするはずです。そして、入学した学生の半分も卒業できなければ、自分を反省し別の進路を選択するでしょう。そうなれば、大学の数も、今の半分以下に減り、本当に学びたい学生が大学に集まり、日本を担う人材が育つはずです。そうなれば、「高等学校の教育」が変わります。丸暗記主義の勉強法から「思考を大切にした勉強法」に変わり、どんどんと「論文」を書くようになるでしょう。そのためには、一に読書、二に読書しかありません。せっかく、大学には充実した「図書館」が整備されているのですから、これをフル活用して研究に没頭できる環境を整えていただきたいと思います。そして、自分が行った「研究」は、地域の高等学校や小中学校で発表し、子供たちが「大学生はすごいなあ…」と眼を輝かせるような人になって欲しいものです。そうなれば、子供たちの勉強に対する意欲は増し、「自分もああなりたい…」と思うはずです。今、大リーグで活躍している大谷翔平選手を子供たちが熱い眼で見ているのは、彼が弛まぬ努力をして、今の結果を出していることをみんなが知っているからです。その「努力」は、彼が子供のころから計画的に実践して積み上げてきた「長い時間」だということを子供たちは知っています。「夢」は、結果で見るものではありません。その「過程」から学ぶものなのです。それに気づかせてくれた「大谷翔平」という若者は、ひょっとしたら、日本の神が遣わしてくれた、日本人への最後の「贈り物」なのかも知れません。もし、ここで気づかなければ、日本の神々は、「日本列島から去って行く」という暗示のような気がします。
4 「教師」をばかにするな!
長引く「教師ブラック問題」は、文部科学省がいかなる対策を採ろうと、最早、手遅れの状態になっています。もし、この問題を何とかしたいと考えるのなら、まずは、文部科学大臣が全国民に向けて「教師は、サービス業ではない!」と、これまでの方針を撤回し、国民に呼びかけることから始めるべきでしょう。そして、文部科学省の官僚を各都道府県に派遣して「サービス業発言」を撤回したことを説明し、すべての教育に携わる人に対して「謝罪」することです。そして、それを全国民に知らせ、「教育の再生」に向けて協力を呼びかけなければなりません。その上で、現場教師の「声」を広く集め、それを基にした「学校教育再生計画」を練るべきでしょう。そうなれば、おそらく、マスコミは挙って反対論を叫び、文部科学省の弱腰を非難するでしょうが、それを甘んじて受ける覚悟が文部科学大臣と日本政府には必要になります。そして、財務省がなんと言おうが、学校における「教職員定数」を増やし、子供に関わる教師を「複数配置」にして、教職員の管理を都道府県ではなく、市町村に移管するべきです。そして、市町村独自でも教職員を採用できる体制を創り、「教育の自由化」に向けて動き出すしかないでしょう。
そもそも、今の体制は、基本的に学校の教師に対して「敬意」どころか、「無能の集団」のような扱いをしています。文部科学省は、都道府県教育委員会をとおして、厳しい「管理・監視体制」を敷き、「お上の言うことを聞かなければ、すぐにでも処分するぞ!」と脅しています。それは「綱紀粛正」の名の下に行われている「教育統制」でしょう。但し、大学だけは文部科学省の管轄ではないようですが…。そして、こうした管理体制が効果を発揮し、全国の教師は次第にその個性を失い「金太郎飴教師」が、次々と生み出されてきました。今の若い教師は、常にリクルートスーツを着て、自分だけの世界を築いているようです。何か、叱られるのを怖れる「子ネズミ」のように見えるのは、私だけでしょうか。若くても、虎や狼、ライオンなどがいるから学校は面白いのであって、だれもが「子ネズミ」では、覇気が感じられません。まあ、文部科学省が、こうした教師がお好きなのでしょうが、子供には人気はないようです。子供の眼は節穴ではありません。自分だって、将来は「大谷翔平」のような「大鷹」になりたいと思っているのに、教える教師が「子ネズミ」では、納得できるはずもありません。「鷹」は、鷹にしか育てられないのです。
「子ネズミの金太郎飴」と化した教師は、常に、上からの「通知文」に則った指導を心がけるようになり、自分で「責任」を取ることを極端に嫌うようになりました。何か失敗をしても、「校長先生から、こうするように言われました…」と言うような言い訳を常に用意しています。授業も、教科書に書かれているとおりになぞり、新しい工夫をすることもなくなりました。そんな余計なことをすれば、授業準備に時間がかかり、自分の負担(金銭と疲労)にもなりますが、厳しい「勤務時間管理」ができなくなるからです。パソコンは使いますが、最低限の指示どおりのことしかやりません。英語教育も、ALT(英語指導助手・外国人)に任せれば、それほどの労力は必要ありません。こうして、「限られた範囲」の中で、咎められない程度の仕事をすれば「OK」なのです。余計なことをして、教育委員会から注意でもされれば、自分の将来が危うくなります。要するに、「金太郎飴教師」は、子供の方を見ているのではなく、常に「お上」を見ている人たちだということです。なんと「つまらない先生」でしょうか。でも、文部科学省は、それが、「お気に入り」なのです。
文部科学省は、自分たちの成果を挙げるために、いつの間にか日本の教師の力を削ぎ、教育力の低下を推進してきました。おそらく、それは「意図」して行ったことではないでしょう。しかし、今の官僚は、戦後教育にどっぷり浸かった「優等生」ですから、日本人としての「芯(バックボーン)」がありません。ただ、役所の雰囲気やその時代の流れに乗って政策を進めていたら、こんなことになったのが現実でしょう。それは、どこの業界も同じですから、彼らだけを責めることはできません。これも「戦後教育の賜」なのです。そして、「教師の質」が下がれば下がるほど、出す「通知文」が多くなり、若い官僚たちにしてみれば「やってる感」満載で、職場では、教師たちの悪口を言い合っていると思います。そして、いつの間にか、自分が偉くなったような気になり「教師共は、何もできやしない…」と嘯きながら、益々、強く指導をするようになっていったのでしょう。今では、「萎縮した教師たち」が学校現場で喘いでいますが、そんな姿を見た国民は、益々「公の教育」から遠ざかろうとしています。経済的にゆとりのある家では、できるだけ、我が子を「私立」に入学させ、少しでも質の高い教育を受けさせようと必死になるのも頷けます。
今や、若者たちは、「あんな、リスクの高い、怖ろしい仕事はごめんだ…」と、だれも採用試験を受けてはくれません。一部は冷やかしに受ける者もいるでしょうが、教育に情熱を持つ者ほど「今は、止めておこう。また、時期が来るだろう…」と、冷ややかに傍観しています。そして、これまで情熱を持って頑張って来た教師は、次々と辞めていっている状態です。まるで、敗戦後の日本を見ているかのようです。そして、一度辞めた教師が、二度と教育現場に足を踏み入れようとはしません。「あんな理不尽な目に遭って、冗談じゃない!」と心底怒っているのです。文部科学省などでは、相も変わらず「やり甲斐」をアピールして、少しでも若者の心を掴もうとしていますが、一度失った「信頼」を取り戻すことが、如何に困難かは文部科学省自身が知っていることです。それでも、何かしらの手を打たなければならないのも官僚の辛さでしょう。しかし、我慢を重ねて、耐えに耐えてきた「踏ん張り」を外された日本の教育は、坂道を急激に転がり始めました。これは、日米戦争の敗戦に続く道と同じことです。多分、だれもこれを停める手段を持たず、最後は「教育の民営化」になって終わるような気がします。それが、運命かも知れません。
世の中が発展し、権威というものが弱くなってくると、社会は常に「平等」を求めがちです。子供にしてみれば、「そんなに大人が偉いのか?」「教師が偉いのか?」「親が偉いのか?」と疑問を持ちます。それでも、社会が発展し、大人が自信を持って子供に厳しく接している時代は、無条件に「大人が偉い」と刷り込まれますが、社会が停滞し、社会全体が自信を時代になると、だれもが人に「気を遣う」ようになるものです。大人が子供に気を遣うようになると、子供は、それを喜ぶのではなく、「なあんだ。大人も大したことないや…」と見くびるようになるものです。まして、今の時代のように、SNSがだれでも自由に使えるようになると、子供でも様々な情報を獲得できます。いい大人が、子供でもやらないような不祥事を起こすと「大人にも、ばかな奴はいるもんだなあ…?」と冷たい眼で大人を見るようになります。それが、自分の親に向けられ、教師に向けられ、社会に向けられ、次第に「大人の権威」は失墜していくのです。そして、子供にとって耳障りのいいことを言う大人を見ても、やはり、「大人って弱いなあ…」と感じるのです。
実は、子供は、自分に「阿る」人間が大嫌いなのです。なぜなら、阿ることしかしない大人は、常に「偽善者」だからです。強い大人は、自分の言葉に「責任」を持ち、態度も堂々としていますが、弱い大人は、子供の前でも腰を屈め、まるで客でももてなすように頭を下げます。その笑顔は、卑屈で、口元は笑っていても、その眼が冷たいことを子供は直感で見抜きます。最早、こうした大人は「信用してはならない」人間なのです。社会は、教師たちにまで、こうした卑屈さを求めたのです。こうして、権威を失った大人や教師が、当たり障りのない説教を垂れても、「ひれ伏す」子供はもういません。説教がどんな言葉であっても、行動の伴わない上っ面の言葉など、子供の心には、まったく響かないものです。本音では、「もっと叱って欲しい」「強い大人や教師であってほしい」と願っても、周囲の理解が得られなければ、教師は無力です。その上、文部科学省が国民に阿るように「教師は、サービス業でございますから、なんなりと申し付けて下さい…」的な発言をするものだから、益々、教師の権威は失墜し、世間から「軽んじられる職業」になってしまいました。そんな仕事に人生をかけようとする愚かな若者はいません。常識的に考えれば、逆に「いない」方が、健全だとも言えます。
5 国民は「教師の声」を聞け!
今の日本人は、「危機感」というものが希薄過ぎます。それは、国民というよりも政治家や官僚の危機感のなさが、マスコミ等をとおして拡散されているせいかも知れません。戦後、長い間、日本は「日米同盟」によって守られてきました。それは、「アメリカ」にとって、日本が二度と強力な軍隊を持つ国家にさせないための手段でしたが、戦後も80年も経過すると、日本人だけでなく、アメリカ人にとっても、この同盟関係が不思議なものに見えてきているのです。実際、トランプ大統領の時代には、首脳会議の場で「日本も独自で防衛力を強化しろ!」と、総理大臣に迫ったいう報道がありましたが、確かに、いつまでもアメリカに依存した「国防」は許されないと思います。アメリカ大統領にしてみれば、「いつまで、日本はアメリカに頼っているんだ!?」と怒りたくもなるでしょう。それは、日本側からすれば「アメリカがそう仕組んで来たことじゃないか!?」と反論したくもなりますが、いくら何でも「80年」は長すぎました。ここに来て、いわゆる「核の傘」によって守られていた日本が、ようやく「自立の道」を模索し始めたのです。しかし、80年もの間、そうした危機感を持たなかった日本人は、中国や北朝鮮の軍事的脅威にも鈍感だし、ロシアの戦争も他人事、韓国の反日行為も理解する始末では、どうしようもありません。今でも尚、「平和憲法を守っていれば、安全だ!」という勢力が存在するのもおかしなことです。常識的に考えれば、おかしなことでも、政治家やマスコミが主張すれば、「なるほど、そうなのか…?」と、理屈抜きに納得してしまう国民がいるのも「平和ぼけ」の証みたいなものでしょう。実は、教育においても、同じような現象が起こっているのです。
ここ数年、学校のブラック化問題はさらに深刻度を増し、教員不足は目に余るものがあります。年度当初から「欠員」が出ている有様で、一年間、その補充もできていません。年度途中に担任が退職したり、休職したりと、学校は正常な活動ができていないのです。しかも、その欠員のしわ寄せは、各教師に回って来るのです。ただでさえ多忙なのに、輪をかけて忙しくさせている現状は、まさに「負のスパイラル現象」というものでしょう。本来、そんなことが許されるのでしょうか。それも、公教育の場において「人が足りないから、やっといて…」と社長(文部科学省・教育委員会)から言われているようなものです。欧米なら、当然「NO!」でしょう。契約で決まっている以上の仕事を特別な報酬もなしに「やっといて…」などという会社は、こちらから願い下げです。そして、社長の言う理由は、「やってくれる人がいないから仕方ないんだよ…」「こっちも、一生懸命探しているからさあ…」とあきらめ顔で呟くだけです。従業員に頭を下げるわけでもなく、人から尋ねられても「いませんから…」と平気で居直る社長についていく社員など、いるはずがありません。これと同じことを文部科学省も各自治体の教育長も言っているのです。こんな有様を見たら、欧米の教育関係者は、どう思うのでしょう。その上、仕事は過酷で、金銭にも恵まれない。その上、毎年多くの教師が心身を病み、現場を離れているのです。若い真面な人間なら、「こんな危ない業界は、やってられん…」と怒りだし、早々に退職願を出すのではないでしょうか。
そして、その中での一番の被害者は「子供」たちです。今の時代は「異常」というほど、教師に規制がかかっています。本来、真剣に子供に向き合わなければ成り立たない仕事が、「あれはだめ!」「これもだめ!」「もっと丁寧に!」「きちんと説明して!」「優しい言葉で!」「わかりやすく!」「よく話を聞いて!」「一人一人に配慮して!」「毅然とした態度で!」「仕事は早く!」「残業はだめ!」「安全第一!」「子供の心に傷をつけないように!」…と、教師への注意事項を列挙すると、とんでもない数に上ります。今は、どの教師もこうした「規制」を堅く守って子供と向き合っているのです。もし、子供や親が気に入らない教師がいれば、不満を教育委員会にでも並べ立てて「担任の交替」を要求すれば、事実など関係なく、その教師は「指導力不足」のレッテルを貼られ、左遷されるのは眼に見えています。そうなれば、自ら辞表を書く人も多いはずです。そして、また、子供の前から一人の教師が去って行くのです。おそらく、周りの子供は「いい先生だったのに…」と残念がるだけでなく、自分たちの授業をする教師がいなくなり、連日「自習」になるか、取り敢えず、校内のだれかが授業を埋めるだけの対応で終わりです。何か困ったことがあっても、責任を持つ「担任の先生」はいません。相談したくても、信頼も置けない他所の教師に「悩み」を打ち明ける子供はいません。まさに被害者は、子供なのです。そんな状況を見ている教職員は、(おい、偉そうにしているばっかりじゃなくて、なんとかするのが文科省だろ…!?)と、口には出しませんが、怒りに震えながらも黙々と職務をこなし、じっと耐えているだけなのです。
もし、声を大にして言えるものなら、大声で政府の無策を非難するはずです。しかし、社長に逆らえる社員はいません。ストも打てず、デモもできず、文句を言えば処分を喰らい、不祥事が起きれば「綱紀粛正!」が叫ばれ、研修ばかりをやらされます。そんな中で、わずかな「手当」が増えても喜ぶ人はいないでしょう。しかし、いずれ、その怒りもなくなり「あきらめて」教壇を去って行くしか選択肢がなくなります。今では、学校では定年退職後の教師を「再任用」という形で継続雇用をしていますが、その割合は年々増え、70代になっても働ける道が開かれました。いよいよ、「70代の学級担任」が登場して来る時代になったのです。小学校低学年の子供にしてみれば、自分のおじいちゃん、おばあちゃん以上の世代です。隣の学級は20歳そこそこの若い先生で、こっちは70歳の高齢先生の組み合わせも、傍目には面白いとは思いますが「日本国の教育」として、これでいいのでしょうか。本当に怖ろしい時代になったものです。この状況を打破する解決策はありませんが、「だれのせい」とだけ言い続けることも愚かなことです。それならば、やはり国民が、国政選挙の場で、その「一票」を投じ、自分の意見として表明する以外にはありません。もし、投票率が「70%」を超えて、大きな国民の「うねり」になれば、国が変わることでしょう。教育は、「国家百年の大計」なのです。戦後教育の「80年」の結果はわかりました。それなら、次の「100年」を見据えた計画が立てられなければなりません。そのためには、民主主義的な手法である「投票行動」が必要なのだと思います。
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