歴史雑学23 「忠臣蔵」五人の侍

毎年、12月14日を迎えると、心は、あの「赤穂事件」に飛びます。私は、子供のころから「忠臣蔵」が大好きで、何冊も本を買っては、47人の浪士たちの活躍に胸を躍らせていたものです。このブログにも、何編もの「小説」や「評論」を書いてきました。評判も様々ですが、この12月14日周辺に「アクセス数」が集中するのも面白い傾向のひとつです。やはり、いつまで経っても、日本人には、「忠臣蔵」が欠かせないのですね…。そもそも、日本人は、一つの目標に向かって努力し、苦難を乗り越えて成就させる「物語」が大好きな国民性があるようです。この「努力」「苦難」という壁が高ければ高いほど、それを「乗り越えた」ときの感動は、人生にとって得がたい「感情」なのでしょう。人間、一度くらいはそんな経験をしてみたいと思うものです。今、大リーグで活躍されている「大谷翔平選手」が賞賛されるのは、古来、日本人が持っていた「美徳」を持っている人物だからなのでしょう。「努力」「思い遣り」「謙虚」「真摯」…など、その得がたい人物を記事にするのは、「日本人の美徳」の真逆の世界にいるマスコミの皆さんですから、その対比が、また面白いのかも知れません。もちろん、記事を書かれる記者さんだって、会社の方針に逆らってまで生きることはできませんから、そういう意味では、「忠臣蔵」の赤穂浪士と吉良家・上杉家の家臣たちを見る思いです。「忠臣蔵好き」の少年が、成長するにしたがって、芝居の「忠臣蔵」から、真実の「赤穂事件」へと目が向くようになりました。そうすると、また、見えてくる「景色」が変わってくるのです。確かに、悲劇の赤穂浅野家の家臣たちが、苦難の末、主君の仇である吉良上野介を討ち取るまでの物語は、涙を誘います。しかし、吉良方から見れば、これほど理不尽な「仇討ち」はありません。また、当時の公儀(幕府)方から見た赤穂浪士対吉良の戦いは、また、違って見えたはずです。そうした思惑を分析することで、その本質が見えてくるように思います。そこで、今回は、赤穂事件の主要な五人の侍の「心の内」を推し量り、「人間の賢さや愚かさ…」などについて考えてみたいと思います。

1 浅野内匠頭長矩

芝居「忠臣蔵」の悲劇のヒーローの一人です。江戸時代の大名の名前で、これほど有名になった人物はいないのではないでしょうか。今でも、様々な評価がなされ、その人物像が見えにくい侍ですが、元禄という時代背景を考えながら考察してみたいと思います。長矩が赤穂浅野家藩主「浅野長友」の長男として産まれたのが、幕府が開かれて70年近くが経過したころでした。当時、浅野家は、祖父「長直」の時代に笠間から赤穂へ移封されてきて、やっと領内が落ち着いたころでした。長直は、平和な時代でありながら、赤穂の地に「城」を築きます。もちろん、すべて自費で賄いました。幕府には、「赤穂は、山陽道の要衝の地でありますれば、万が一に備えて城を築きたいと存じます…」と申し出ました。幕府としては、大名が新しい城を築くことを認めてはいませんでしたが、度々の長直の要請により許可をすることにしました。これは、当時は、まだ戦国の世が収まって半世紀くらいしか経っていません。そのため、徳川家としても「謀反にそなえなければならない…」といった事情があったからです。特に「西国」は、多くの外様大名が治めており、徳川より「豊臣」に近い者が多く、幕府としても眼を光らせておかなければなりませんでした。それに、浅野長直が、「すべて、自費で賄う」と言うのですから、幕府としても有り難い話です。浅野は、広島に拠点を置く豊臣恩顧の大名家ですが、長直は、笠間にいたときから徳川家への忠誠を見せていました。そんなことで許可が下りたものと考えられます。そして、この城の「縄張り」(設計)をしたのが、山鹿素行、若しくは素行に軍学を学んだ家臣だと言われています。長直にしてみれば、今尚「戦国武将」足らんとする意地があったのだと思います。

そうした「尚武の風」に満ちた浅野家ですから、長矩も「平和な時代こそ乱を忘れず」の精神で、鍛えられました。そして、父長友の急死によって、僅か7歳で赤穂浅野家の家督を継いだのです。長矩は、幼少時から勘の強い利発な子供でしたが、母親も早く亡くしていることから、肉親の愛情を知らずに育った子供時代でした。大名家の嫡男ともなれば、一般の家庭のように親と一緒に暮らして育つことはできませんが、それでも、いるといないでは大違いです。いつの時代でも、本当に甘えたい幼少時に親がいなければ、自然と「我慢する」ことを覚えてしまいます。その「我慢強さ」は、次第に天性のものになり、本人の「寂しさ」を周囲の者が理解することはありません。主従関係というものは、そういうものなのでしょう。長矩が、後に妻の「阿久里姫」をずっと慈しんだというのは、やっとできた「心の支え」だったのだろうと思います。実際、7歳で大名となれば、幼いながらに江戸城内に出仕もしなければなりません。いくら、周囲に補佐役がいると言っても、やるべき仕事はたくさんあります。常に「勉強」と「仕事」が並列しており、心が安まる暇がなかったのです。普通の子供であれば、外で「ごっこ遊び」などに戯れる時期なのに、城に上がれば、周囲は大人ばかりで子供は自分一人です。さらに、厳めしい家臣たちの小言を聞きながらの毎日を送るのです。家臣にしてみれば、「よかれ」と思ってすることも、本人にしてみれば迷惑ということは、よくある話です。一人ひとつの「小言」も、10人もいれば「10の小言」を聞かなければなりません。それはそれで辛い日々なのです。後に、長矩は精神疾患である「痞え」という病を発症しますが、長年にわたるストレスが、長矩の体を蝕んでいたのだろうと思います。こうしたストレスの毎日が、長矩自身の性格を作っていきました。

幼少期から赤穂浅野家を背負うことになった長矩の目標は、祖父の「長直」だったはずです。僅か5万石の大名が、山陽道の赤穂に城を築き、城下町を整備し、塩田を広げて藩の財政を豊かにした手腕を誉めない者は、赤穂にはいませんでした。その上、武将としての能力も高く、有名な「山鹿素行」を赤穂に招き1000石で召し抱えた話は伝説になっていました。こうした話を家臣たちから聞いて育った長矩が、「長直のようになりたい」と願うのは当然のことです。そのため、長矩は武芸一般に優れ、武将としての資質を高めて行ったのです。しかし、反面、長年のストレスのためか、短気ですぐに癇癪を起こすような性癖がありました。それを常に宥めるのが「阿久里姫」でしたが、正妻は常に「江戸屋敷」にいなければなりません。そのため、赤穂に在中のときは、長矩を宥める人がいないのです。もちろん、10代の若いころは、国家老に「大石内蔵助良欽」がいましたが、孫の「良雄」の代になると、国家老すら軽んじるようになったのです。まあ、それはそうでしょう。いくら国家老と言っても、7歳から藩主の座に就いていた長矩からすれば「大石内蔵助良雄」は、最近出仕してきた家臣です。「儂の方が、そちより知っておるわ…」という態度は明らかでした。こうした態度が、長矩を傲慢な人間にしていったのだと思います。

まして、江戸に来れば、口うるさい内蔵助も「大野九郎兵衛」もいません。譜代の重臣たちは、皆、赤穂におり、江戸に来ているのは、どちらかというと都会に明るい新参の者が多かったのです。そのため、江戸では「側近政治」になりがちでした。その筆頭が、用人の「片岡源五右衛門」です。片岡は、若い長矩の側近を束ねて、長矩の気に入るように振る舞いました。用人は、家老と違って、あまり政治的なことを口にはしません。主に、長矩の身の回りの世話などの些事を取り仕切る役目ですから「痒いところに手が届く」のが、有能な家臣なのです。側近の「磯貝十郎左衛門」などは、琴の名手として有名で、討ち入りの際も「琴の爪」を懐に入れて戦ったと言われています。中には、長矩の「夜の相手」をした者もいたはずです。この時代は、男女関係なく相手をしたそうですから、側近に選ばれる者は、見目麗しい男子だと言われています。彼らの多くは長矩が切腹をすると、その遺体を泉岳寺まで運び、その場で髻を切って「最後までの忠誠」を誓いました。そうした強い主従関係があったのは、単に職務上の上下関係だけではなく、今でいう「男女の関係」に近い感情があったからに他なりません。しかし、その中には、討ち入り前に脱盟した者もおり、人の世の無情を感じます。そういう意味では、長矩の体は健康そのもので、若い頃から鍛錬していましたので、性欲は強かったようです。女性に対しても、相手を選ばず盛んだったようですが、残念ながら子孫を残すことはできませんでした。

長矩が、幕府から二度目の「勅使饗応役」に選ばれたのは、藩主となって25年以上が経過してからでした。一度目は、16歳のときのことで、自分の意思で動くことはできませんでしたので、万事、指南役の「吉良上野介」の指示を仰いでいます。しかし、二度目は、歳も重ね、長矩も33歳になっていました。長い藩主の地位にいたことは、人間を傲慢にしていきます。元々の性格が短気で、激しやすいと言われていた長矩ですから、重臣たちに忠告されても「そんなことは、知っておる…」と、軽くあしらっていただろうことは想像がつきます。重臣たちも(まあ、殿も経験がおありだから、あまり忠告めいたことをするのは控えよう…)と思っていたとしてもやむを得ないと思います。江戸城の中でも、20年もおれば、だれよりも城内に精通し、ある程度自由に行動することもできたでしょう。そんな気持ちが「慢心」を生んだとしても仕方がないのです。大名・旗本にとって、江戸城内での作法は、経験してみなければわからないことばかりで、同じ格の大名同士で「助け合う」雰囲気があったと言われています。そんな長矩ですから、控えの間でも堂々と振る舞い、経験の浅い大名仲間に頼りにされる部分があったはずです。そこに二度目の「饗応役」ですから、面白いはずがありません。

そもそも、饗応役という仕事は、大名の中でも若手の小大名に仰せつけられる仕事で、けっして名誉と言えるほどのものではありませんでした。幕府は、各大名家からは「税」を取り立てるようなことはしない代わりに「手伝い」と称する仕事を命じていたのです。それは、河川の修復工事であったり、幕府直轄領の城や神社仏閣の修復など、かなり大規模な工事も命じました。それらの多くは、今でいう「公共事業」で、多くの領民のためでもあったのです。有名なものとしては、「木曽三川の河川工事」や「印旛沼の干拓工事」などがありますが、それに比べれば「勅使饗応」などは、いわゆる「接待役」でしかありませんから、力が入らないのも当然でした。それも二回目ともなれば、不満に思うのは当然です。長矩にしてみれば、これまでの幕府への貢献を考えれば、もっと重要な「手伝い」が命じられて当然という意識がありました。当時、赤穂浅野家には、江戸の町を守る「大名火消し」の役目が命じられており、長矩も「火事!」の声を聞くや否や、火事装束に身を固めて火事場に馳せ参じたといいますから、本人にとっては、満足できる「侍働き」の場だったはずです。それと比べれば「饗応役」など、作法が面倒な上に、贅沢三昧な接待に明け暮れる気の遣う役目でした。さらに、その指南役が昔世話になった気難しい「吉良上野介」であれば、尚更、気鬱だったはずです。

30歳も過ぎ、藩主の座に20年以上も座っていれば、自然に貫禄も付きますし態度も大きくなってきます。江戸城中でも小大名の中では格上で、経験も豊富ですから、同じ饗応役の「伊達左京亮」とでは指南役の扱いも違って当然という傲慢が態度が見えていました。しかし、吉良上野介にしてみれば、どちらも小大名の格でしかなく、位から言っても上下関係は明らかです。それに、初々しい左京亮と比べて、長矩は横柄で不満が顔に出ています。(ムッ)としたのは、上野介の方だったと思います。こうした記録に残らない「態度」というものが、意外と問題の本質を突いていることがあるものです。そうなると、上野介も(そういう態度なら、好きにしたら宜しかろう…)と左京亮に比べて軽く扱われるのはやむを得ませんでした。それに、挨拶の仕方も、双方には大きな差があれば、上野介が気を悪くしたのも当然です。浅野家中であれば、経験豊富な壮年の藩主に意見する者などありませんが、この場合は、幕府から命じられた仕事なのですから、長矩自身がもっと慎重に対応するべきでした。それが、さらにストレスを生み、持病の「痞え」が再発する原因となったのですから、まさに自業自得です。

長矩にしてみれば、そうした自分を反省することなく、厳しく接する「吉良上野介」に恨みに似た感情を覚えていったのでしょう。上野介にしてみれば、一度指南した関係でもあり、どちらかというと、当初は(立派に成長されたな…)という感慨もあったでしょうが、最初から、眉間に皺を寄せて不満ありげな顔をされては、取り付く島もありません。逆に、成長したというより(此奴、偏屈になりおって…)と残念に思っていたはずです。実際、やらせればできるのですが、作法というものは、心が入っていないと型が崩れます。それを芸の世界では「緩み」と言うのだそうですが、そうした緩みがあちこちに出て、上野介も苛立ちを隠せませんでした。それに比べて、19歳の伊達左京亮宗春は、所作はぎこちなくても、誠実さや一生懸命さが姿に現れます。そこに「好感」を持つのも人間だからなのです。その機微もわからない年長の長矩に対して(困った奴じゃ…)と思っても、仕方のないことでしょう。これで、吉良上野介が悪者にされる謂われはありません。

その上野介の左京亮に対する態度を「贔屓」と捉え、さらに意固地になっていきました。忠臣蔵の芝居などで、上野介が長矩に嫌がらせをする場面が出てきますが、それは芝居の「脚色」です。実際は、そんな暇はなかったはずです。もし、饗応に粗相があれば、叱られるのは饗応役ばかりでなく、指南役の「高家」にまで及ぶのですから、いい加減な指南はできようもありません。この芝居のせいで、上野介は「歴史上最大の嫌われ者」になってしまったのです。もし、上野介が気を回して浅野家江戸家老を邸に呼び、事の子細を話して協力を求めていれば、さすがに「刃傷」にまでは及ばなかったかも知れませんが、さすがに高家職がそこまで気を配ることも憚られたのでしょう。結局、長矩のストレスは次第に高まり、夜も眠れず、食事も喉を通らない事態にまでなってしまいました。それでも、休もうとしなかったのは、長矩の「武士の意地」だったと思います。長矩の持病であった「痞え」とは、今では「自律神経失調症」のことでしょう。要するに長矩は、長矩自身の性格や言動によって病を発症し、拗らせていったことは間違いありません。

長矩の赤穂時代のエピソードにこんなものがあります。赤穂浪士の中に「千馬三郎兵衛」という100石取りの馬廻役の家臣がいました。100石といえば、五万石の大名家では相当の上士にあたります。もちろん、譜代の家臣です。この三郎兵衛は、なかなかの骨のある武士だったらしく、主君である長矩の行状に対して、度々諫言を述べていました。100石の家臣ですから、当然、殿様の前に出ることはあります。まして、馬廻役となれば「武官」ですので、武芸一般に秀でた者たちです。三郎兵衛は、長矩の父親くらいの年齢ですので、早く父親を亡くした長矩に対して「譜代の家臣」として、言いにくいことも言うのが家臣の務めと考えていたのでしょう。しかし、長矩は、度々の諫言に腹を立て、70石も家禄を減らしてしまいました。それでも、三郎兵衛は諫言を辞めませんでした。三郎兵衛にしてみれば、先代「長友、長直公であれば、申したはずだ!」と心を鬼にして諫めたのでしょう。しかし、長矩には三郎兵衛の「真心」は伝わりませんでした。そして、諦めた三郎兵衛は、自ら浅野家を去ろうとしていたときに、あの刃傷事件が起きたのです。三郎兵衛は、内蔵助に「このときこそ、先代からの恩に報いるときでございます…」そう言って、同盟に加わりました。そして、静かにそのときを待ち、討ち入りに加わりました。本当に「武士らしい」男でした。こうした忠義の家臣がいながら、自分の言うことを聞く人間だけを集めて、勝手な政をしようとしていたのが長矩だったのです。これでは、遠からず、家臣たちの気持ちは殿様から離れていったでしょう。

長矩が、江戸城中で吉良上野介に刃傷に及んだのは、ちょうど、勅使が江戸城に到着する時刻でした。江戸城の中央付近に位置する「大廊下」で待機していた長矩は、些細なことが気にかかり、上野介を待っていたといいます。その理由はわかりませんが、昨晩から一睡もできず、朝食も満足に食べられなかった長矩は、廊下で待っている間にも「痞え」の症状は出ており、脂汗を流していました。そこは、既に饗応役の「待機場所」であり、家臣が出て行ける場所ではありませんでした。そこで、じっと堪えていた長矩の我慢も最早限界に近づいていました。そのときには、脂汗だけでなく、体も震え、拳を握りしめているのがやっとの状態です。それでも、必死に正気を保とうとしていた長矩でしたが、向こうからゆっくり歩いてくる上野介を見つけたときが「限界」でした。おそらくは、自分の意思とは関係なく立って歩き始め、上野介に呼びかけたのだと思います。それは、ただ呼びかけただけで、何を聞こうとしているのかもわかりません。まさに、頭は真っ白な状態になっていました。そして、次に長矩が動いたとき、長矩は我を忘れて上野介の斬りかかっていたのです。そのとき発した言葉が、「この間の遺恨、覚えたるか!」だったそうです。この「遺恨」というのは、まさに、自分勝手な「思い込み」でしかありませんでした。自分の「不満」が、自分の気持ちを暗くさせ、ストレスを溜め込み、持病の「痞え」を暴発させたのです。

結局、あれほど武芸に秀でた長矩が、儀礼用の刀(小さ刀)を振り回して上野介の額と背中に傷を負わせただけでした。当時の服装が「大紋・長袴」という正式の衣装でしたから「やむを得なかった…」とする意見もありますが、そんな恰好で刀を抜いても成功がお覚束ないことくらい武芸に秀でた者ならわかりそうなものです。この件を見ただけでも、長矩が「正常」でないことがわかります。もし、切腹覚悟の刃傷であれば、こんな「へま」はやりません。正面から刀を上野介に向けて、体ごとぶつかるだけで、相手に致命傷を与えることができたでしょう。長年、武芸に励んできた侍が、最後の最後に、素人同然の剣しか振るえなかったのですから、長矩にとっては「一生一大の不覚」だったはずです。したがって、取り調べを受けても、長矩は何も答えられませんでした。さすがに「頭が真っ白で、自分でもわからぬ…」とは、言えなかったでしょう。そのために、「遺恨の理由」がわからないまま、長矩は切腹してしまいました。遺されたのは、「風さそう…」の辞世の句だけでした。

この「理由不明」が、次の事件を引き起こす要因でもあったのです。幕府から浅野家に沙汰が下った直後から、赤穂浅野家の江戸屋敷は大騒動になりました。「切腹・改易」となれば、すぐにでも邸を幕府に返さなければなりません。家財道具も山のようにあります。それらを急いで処分して、邸をきれいに片付けて返すのが武士として当然の作法です。その指揮を執ったのが、長矩の妻である「阿久里姫(瑤泉院)」だと言われています。そして、江戸家老たちは「早馬」を仕立てて国元に知らせなければなりません。親戚筋への報告も必要です。自分のことは置いといて、必死に立ち働き、邸を開けると、早々に退去していきました。家老たちは、江戸邸の「金銭管理」も重要な仕事ですので、最後の後始末は、江戸家老の安井彦右衛門や藤井又右衛門らが行ったのでしょう。長矩に軽んじられていた江戸家老たちでしたが、「赤穂浅野家」の評判が落ちぬよう気を配ったのです。江戸家老の両名は「討ち入り」には加わりませんでしたが、浅野家の家臣としての務めは立派に果たしたと思います。そして、「瑤泉院」は、一人静かに実家である「三次浅野家」の江戸屋敷に戻って行きました。長矩が唯一愛した妻でしたが、その愛情も長矩の行動を止める力にはなりませんでした。因みに、その後「瑤泉院」は、赤穂浪士の遺児たちの助命に力を尽くし若くして亡くなりました。やはり、心労が祟ったのかも知れません。

2 吉良上野介義央

「吉良上野介義央」は、浅野長矩の父親くらいの年齢になります。旗本4000石の大身ではありますが、「高家」という幕府と朝廷を結ぶ役職に就いていましたので、官位も「従四位の上・少将」と高く、長矩のような小大名が対等に話ができる相手ではありませんでした。この官位は、「国持ち大名」に匹敵する位で、あの仙台伊達家でさえ「従四位の上・中将」ですから、遜色がないのです。幕府内でも将軍に直接面会できる身分であり、朝廷との関係も、他の大名家とは別格の扱いでした。そのため、「気位が高く、横柄」だったというイメージがありますが、それは、大名たちが「所詮は、旗本…」という「「官位」に対してのやっかみがかなり入っており、額面どおりの評価をすることはできません。しかし、朝廷の位の高い公卿と接する機会の多い高家筆頭ですから、あまり低い官位では、彼らと交渉することもできないのです。それ故の「官位」だと考えれば、仕方のないことだと思います。ただ、大名たちにしてみれば、(俺たちの先祖は、戦国の世に於いて、戦働きをしたからこそ、こうして大名になれたのだ…)という意識があり、あれこれと細かな貴族の作法や茶道、芸事などに精通している高家職を「武士」として尊敬できなかったのでしょう。それが、長矩たち小大名にも影響を及ぼしていたようです。実際、「官位は高いが、実収入は少ない」のは、現実でしたから、朝廷との交渉に赴くのに、かなりの出費が強いられていたようです。幕府にしてみれば「手当は、十分に出している」とでも言うと思いますが、直接に相手のお宅に訪問して「手ぶら」という訳にはいきません。やはり、「手土産」が必要になります。

朝廷の貴族ともなれば、そうした「手土産」に期待するのは当然です。それが、全部「公費」で賄えるのかと言えば、現代の感覚でしても「無理」だと言えるでしょう。相手の貴族にも好みはあり、生活が苦しい朝廷の懐具合を考えれば、相応の「贈り物」を準備しなければなりません。事情を知らない(興味のない)幕府の役人には、(そこは、上手く取り計らえ…)といった心底が見えるようです。そのために、上野介は、自分が指南した大名、旗本からの「謝礼」は欠かすことができませんでした。要するに、その「謝礼」は、上野介が贅沢するためのものではなく、仕事で必要な「資金」になったのです。それは、当時としては、間違いなく「必要経費」だったはずです。赤穂浅野家でも、当然承知していることですので、それ相応の「謝礼」は、贈っているはずですが、五万石とはいえ富裕藩として名高い浅野家と三万石の伊予伊達家では、当然、謝礼に差がついて当然です。それが、上野介には「期待外れ」に終わったとしたら、どんな気持ちがするでしょう。詳しくは、何を贈ったかはわかりませんが、長矩が江戸家老に、「倹約に努めよと老中の仰せだ…」と言われてしまえば、特別な謝礼を出すことは憚られます。一説には、赤穂の内蔵助が内々で「四百両」の金子を送ったと言われていますが、実際のところは、わかりません。そうした小さな「齟齬」が、大事件を起こすのですから、人間はよくよく考えて行動するべきなのでしょう。

上野介は、けっして贅沢三昧な生活を送っていた人ではありません。子供のころから、先代の父「義冬」によって、徹底した「高家」となるための教育が施されており、朝廷の「有職故実」と呼ばれる作法に精通するまで、修練を重ねていました。また、茶道や華道、香道など、貴族が一般に嗜む教養も身に付けなければなりません。高家ともなれば、貴族たちから侮られる訳にはいかなかったのです。それは、幕府の体面を守るためでもありました。まして、吉良家は足利氏を祖とする源氏の嫡流なのです。徳川家が「源氏」の一門を称するように、吉良家には正統な源氏の血が流れていました。もし、徳川が天下を治めなければ、吉良家はその立場を逆にしていた可能性もあるのです。それが、方や天下の征夷大将軍家であり、もう一方はその配下の「旗本」なのです。そうした、家系は子々孫々まで伝えられ、身分は低くても、その誇りだけは失うまいと必死に励んだのです。そういう意味では、上野介は非常に勤勉で真面目な人物でした。それが、歴史に残る「極悪人」にされてしまったのですから、世間というものは怖ろしいものです。

吉良家の「三河地方」の領地である「吉良の庄」では、「赤馬伝説」が残されています。「赤馬」というのは、農耕馬のことで、上野介のような高位の武士が乗る馬ではありません。普通は、「駿馬」と呼ばれるような馬体が大きく、毛並みのいい馬が選ばれて殿様の乗馬に用いられるものですが、「吉良の庄」は農村であるが故に、すぐに手に入る農耕馬を使ったようです。また、それをすぐに乗りこなすのですから、上野介に武道の心得があることがわかります。江戸では、高家の旗本が馬に乗るはずがありませんので、「吉良の庄」に戻ったときには、武士らしい稽古をしていたのでしょう。こうした日々の鍛錬を怠らないのが、上野介の武士としての矜持だったのです。そんな人物が、芝居の「忠臣蔵」で描かれるような「因業爺」であるはずがありません。さらに、「吉良の庄」には「黄金堤」と呼ばれる堤防があります。これは、当時、吉良周辺の領地は入り組んでおり、「水の権利」を巡って訴訟が起きていました。これは、領地問題ですから、簡単に解決できるものではありません。それを上野介が自ら交渉に当たり、領地問題を解決した他、水害で悩む領民のために「堤」の建設を行い、領民の生活を守ったという話です。

三河地方(今の愛知県南部)は、今でも多くの河川が入り組んでいる地域です。特に「木曽三川」と呼ばれる「木曽川・揖斐川・長良川」は、水量の多い大河で、一旦暴れると手がつけられませんでした。そして、その支流も多く、豊かな実りを保障してくれる代わりに、低地が多く、水害は農民たちの頭痛の種だったのです。吉良家も四千石の身代ですから、江戸での暮らしだけでなく、領地の経営もしなければなりません。大名と違って家臣の数も限られていますので、殿様自らが差配しなければならないことも多かったのでしょう。実際、京都に向かう際には、必ず「吉良の庄」に立ち寄り、代官から経営の様子を聞き、必要であれば自らが視察に出向き、交渉にも当たったのです。あの「赤馬伝説」も、遊び半分で農耕馬に乗っていたのではなく、必要に駆られて地元の馬に跨がって領地を巡っていたのです。領民にしても、殿様が直にお出ましになり、親しく声をかけられれば、嬉しくないはずがありません。「うちの殿様は、赤馬でいらっしゃった…」という話は尾鰭がついて「伝説」になったのです。そんな領民に慕われた殿様でもあったのです。そして、その中で優秀な若者は、農民であっても登用し家臣に取り立てています。赤穂事件で有名になった吉良方の剣士に「清水一学」がいますが、この男も上野介に認められた侍です。一説には、非情に美男で「殿様の隠し子ではないか…?」という噂があったほどです。彼は、最後まで上野介を守り、斬り死にしました。

吉良家は、上杉謙信で有名な「米沢上杉家」と深い関係にありました。上野介の母親の「富子」は、上杉家から吉良家に嫁いだ女性です。一説では、父親の義冬が、あまりにも美男であったために、富子姫は一目惚れしてしまい、自ら望んで旗本の家に嫁いだと言われています。忠臣蔵の芝居の中で、上杉家に「吉良邸討ち入り!」の報が入ると、藩主の上杉綱憲が血相を変えて飛び出そうとする場面が描かれますが、この「綱憲」は、上野介と富子の子なのです。上杉家では、先代が急な病を発症して亡くなってしまったために、本来であれば「改易」になるところでした。あの上杉謙信以来の名家を取り潰すことを惜しんだ、ときの大老保科正之(会津藩)が、養子の届けを受理し、三十万石から十五万石に減りはしましたが、上杉家の存続が決まったのです。そして、そのときの「養子」が、上杉綱憲なのです。綱憲は、吉良家の嫡男であり、他に男子はいませんでした。そのため、吉良家では、上杉家の大ピンチとは言え、さすがに跡取りを養子に出すことはできませんでした。しかし、富子の強い願いもあり、上野介は「綱憲に複数の男子が産まれたら、一人を養子に迎える」ことを条件に綱憲を上杉家に出したのです。もし、これがなければ、さすがの保科正之も上杉家を改易にせざるを得なかったでしょう。そのため、上杉家と吉良家は切っても切れない関係になっていたのです。

普通、「御家を守る」ことが第一と考える武家が、敢えて思い切った判断を下したのも、上野介という人物の懐の大きさでした。必ずしも綱憲に男子が産まれるとは限りません。それも二人以上が必要なのですから、無謀な挑戦と言えます。おそらく上野介は、「もし、跡継ぎができなければ、吉良家は潰しても構わない。親戚筋の家が高家を引き継ぐであろう…」と考えていたのだと思います。確かに、上杉家では、その後、多くの援助を吉良家に行ったと言われていますが、それは至極当然のことで、綱憲は「親孝行」のつもりで、吉良家の両親を大事にしたのです。上杉家内では、上野介への援助を快く思わない者もいたようですが、家が存続できた恩を考えれば、仕方のない出費でしょう。しかし、時間を過ぎると、当時の恩も忘れ「吉良様は強欲な人だ…」などと悪口を言う者も出てくるのです。そんな人間には「浪々の身の辛さ」など、考えもしないのでしょう。結果として、吉良家は、綱憲の次男「春千代」を養子に迎え跡継ぎとしました。これが、上野介の孫の「義周」です。しかし、義周は、そうした巡り合わせに産まれながら幸福な人生を歩むことはできませんでした。赤穂浪士の討ち入り後、吉良家は取り潰され、義周は「諏訪高遠」に流されました。そして、僅か数年で病死してしまったのです。吉良家の当主になってしまったために、すべての責めを負う形での流罪でした。

上野介には、最後まで自分が浅野長矩に恨まれる理由がわかりませんでした。「饗応役」の指南は、高家職として行っただけの職務であり、特段、意地悪をしたつもりはありませんでした。ただ、「質素倹約」を唱える長矩に注意をした覚えはあります。それは、幕府としての体面の問題であり、「貴族に侮られまい」とする武士の意地でもあったのです。まして、このたびの勅使下向は、将軍綱吉の生母「桂昌院」に「従一位」の位を授けるための使者です。それを丁重にもてなすことは、饗応役としての体面を保つ重要なことだと上野介は信じていました。長矩のように(早く終われば、なんでもいい…)といった態度では、赤穂浅野家の「武門の恥」となるのです。それは、先々代長直を知っているだけに、余計そう思っていたのかも知れません。それに、20年前の少年だった長矩に指南した記憶もありました。それだけに、(赤穂浅野家に恥は掻かせられない…)という思いが強すぎたかも知れません。しかし、それは飽くまでも上野介の善意から出た行為であり、悪意は少しもなかったのです。まして、芝居で言われるような「田舎侍」とか「鮒侍」などといった悪口を叩くはずもありません。子供のころから、そうした「恥ずべき振る舞い」を戒めるように教育をされているのです。それが、「高家職」の誇りでした。

勅使が江戸城で将軍綱吉に会うということは、形式上は「天皇」に謁見する形で行われます。したがって、将軍は下座に着かなければなりません。そのため、大名たちは挙って大廊下に侍り、勅使をお迎えするのが礼儀でした。服装は、武士の正装である「烏帽子・大紋・長袴」に「小さ刀」という儀式刀を帯びます。そして、勅使の案内をするのが「高家」なのです。特に上野介は、高家筆頭(肝煎り)でしたので、多くの人間を束ね指図をしなければなりませんでした。まして、饗応役は、この場ではあまり必要がありません。本来の仕事は、江戸に入られてからの宿舎の用意や料理の接待等、将軍との面会時刻までの対応ですから、この最後の日の城中では、それほどの仕事はありませんでした。上野介にしてみても、将軍の謁見の場の方が重大で饗応役のことなど頭になかったはずです。そんな時間に追われるような多忙の折りに、長矩は急ぎ足で上野介に近寄り、何事かを尋ねようと必死になっていました。そのとき、桂昌院付の旗本「梶川与惣兵衛」が、一足先に上野介に声をかけ、要件を伝えていました。そんなとき、いきなり刀で斬られたのですから、驚いたのは上野介です。上野介の目には、顔は青ざめ、眼を血走らせた男が見えたはずです。幸い、長袴が邪魔をして、切っ先は、額と背中を浅く斬られただけですみましたが、気が動転したのは上野介も同じです。これが、次につながる大事件の序章でした。

上野介は、結局、額と背中を斬られ出血しました。その傷よりも、職務中に突然襲われたことの方がショックでした。長矩は、その場で梶川与惣兵衛他の者たちに取り押さえられ、上野介も茶坊主たちに支えられながら別室に運ばれました。運ばれた直後は、血の気が引き、口も利けない状態でしたが、白湯を飲まされ、静かに眼を閉じているうちに落ち着きを取り戻しました。しかし、頭に浮かぶことは「なぜだ…?」という疑問だけでした。止血し、しばらくすると医師が訪れ背中の傷を数針縫ったようです。時間が経っても、なぜ、自分が斬られるようなことになったのか、わかりませんでした。それより、自分が傷を負ったことで(もう、高家としてはやっていけぬな…)ということだけは気づきました。なぜなら、そんな醜い姿で朝廷の貴族に会えるはずがないのです。貴族たちは、殊の外「血」を穢れたものとして見ます。まして「刀傷の男」など、忌まわしいものでも見るように遠ざけるはずです。最早、これだけで上野介の「人生」は終わったのです。幕府からは「治療に専念せよ!」との指示があり、邸に戻りましたが、長矩の刃傷のことより、自分の仕事ができなくなったことの方が大きく、悔しくてなりませんでした。

浅野内匠頭の「即日の切腹」は、さすがに幕府にとっても失態でした。桂昌院が「従一位」の位を受けるための勅使下向でしたから、将軍綱吉も神経質になっていたのでしょう。本来は、「生類憐れみの令」を出すほどの文治派の将軍でしたから、争いごとの嫌いな性格で、表向きの政治は老中たちに任せておくタイプでした。それに、側近には小姓時代から仕えている「柳沢保明(吉保)」がいます。保明は、綱吉が館林藩主のころからの家臣で、夜伽もしていた仲ですから信頼も厚く、「万事、そちのよいようにせよ…」と申し付ければ、政治はうまく回っていました。それが、このときばかりは、保明を通さずに、直接綱吉の耳に入ってしまったがために、綱吉が激高して「切腹」を申し付けてしまったのです。それを後から聞かされた保明は、(しまった…)と臍をかんだことでしょう。これまでの慣例からすれば、将軍は政治に関する命令を直接下すことはありませんでした。なぜなら、それをしてしまえば、徳川幕府は将軍という「独裁者」による専制政治になってしまうからです。幕府は、飽くまでも「家臣の合議制」でなければなりません。それが、徳川家康時代からの「教え」だったのです。それを破ったことで、事は急展開してしまいました。それが、上野介の不運でもあったのです。

結局、大失態を犯した長矩は、綱吉の怒りを買い、碌な取り調べも行われずに奥州一関藩「田村右京太夫」邸で庭先で切腹させられました。このときも幕府内で一悶着がありました。それは、目付の「多門伝八郎」が田村右京太夫邸に赴き、切腹の場を検分したときでした。田村家の家臣に案内された「切腹の場」は、なんと庭先に作られていたからです。そこに現れた大目付の「庄田下総守」に対して、伝八郎は猛抗議を行いました。「仮にも、内匠頭は赤穂の城主でござる。その者を庭先で切腹とは、到底承服できかねる!」と憤然として主張しました。それに対して、下総守は、「これは、儂の判断である。儂の配下であるお主の指図は受けぬ!」と突っ張りました。下総守にしてみれば、本来は座敷で切腹させるものだということは承知していましたが、「即日切腹」という命令で、田村家に迷惑をかけていること、また、切腹した座敷は「破却」が定めでしたので、経費の負担をかけることなどを考慮して判断したものでした。そのため、下総守は、伝八郎の正論に対して反論できませんでした。それでも、下総守は伝八郎の意見を無視し「庭先での切腹」を強行させたのです。結果、庄田下総守は「職務怠慢」を理由に大目付を罷免されました。また、多門伝八郎も、あまりにも頑固すぎたのか、やはり罷免されています。それらは、上野介とは何の関係もない出来事でしたが、赤穂の者たちにとって「あまりにも、武士の情けを知らぬ処断」と怒りを増幅させたのです。

その日は、一日中慌ただしく過ぎていきました。赤穂の家臣たちは殿様の顔も見ないまま、殿様である長矩は、即日切腹となり、上野介は碌な調べもないままに「お構いなし」の裁定が下されてしまったのです。これは、吉良家にとって、けっしてよいことではありませんでした。もし、慎重に調べが行われ、評定所で結審しておれば、長矩の病気のこともわかり、一種の「錯乱状態」を起こしたことが判明したと思います。そうなれば、長矩は切腹であっても「御家取り潰し」までには至らず、弟の「大学長広」をもって二千石くらいの旗本として「浅野家」は存続を許された可能性があるのです。そうなれば、上野介も浅野家に対して同情もできたでしょう。同じ「お構いなし」であっても、きちんとした手続きを経てさえしておれば、後に「忠臣蔵」の芝居になることもなく、単なる「江戸城での刃傷事件」のひとつとして記録されただけですんだはずでした。そして、赤穂浪士の討ち入りもなく、上野介は高家職を退いたとしても、生涯を全うしたことでしょう。それにしてもお気の毒な晩年でした。

3 大石内蔵助良雄

江戸時代全期において、「大石内蔵助」ほど光り輝いた人物はいないでしょう。あの赤穂事件の後、武士であれば、だれもが内蔵助に憧れ、「赤穂浪士にあやかりたいものぞ…」と願ったといいます。それが、江戸時代に「武士道」が急速に広がった一因でした。事実、各大名家では、藩士が学ぶ学問所などでは、この事件のあらましが語り継がれ、その思想は幕末になって「尊皇運動」の原動力になりました。幕府にとって、武士道の思想が広がることは好ましいことではありましたが、その「忠義思想」が、いつの間にか、将軍家から「天皇への忠誠」へと転嫁していくと、徳川家や幕府は、それに替わる思想を見出せず崩壊していったのです。そして、明治時代になると「天皇への忠誠心」は政治利用され、「天皇は、神聖にして侵すべからず」といった「絶対君主」となり、それがために、国民は軍部の意のままになる存在となってしまいました。政治は、所詮は人間が行うものである以上、権力闘争が付きものです。それが、天皇を「玉」と呼ぶ勢力に利用されたことが、日本の不幸だったのです。内蔵助には、そんな考えは毛頭なかったと思いますが、物語が一人歩きを始めると、当事者が想像もしない出来事につながるものです。そういう意味で「大石内蔵助」は、偉大な思想家だったとも言えます。

内蔵助は、内匠頭が江戸城で刃傷に及んだ後も、赤穂浅野家の「国家老(筆頭)」として、全精力をひとつひとつの難題の解決に傾けていきました。おそらく、内蔵助に突きつけられた課題は、数百に及んでいたはずです。家臣たちには「決裁権」がありませんから勝手なことが言えます。そのため、大評定の場は混乱を極めました。しかし、内蔵助は、それを黙って聞いていました。内蔵助には、人間というものは、本当の苦境に立ったとき、自分の胸の内を吐き出さなければ、次の行動に移せないことがよくわかっていたからです。それを内蔵助は、一身に受け止めました。内蔵助にしてみれば、(藩士たちに思いの丈を言わせる他はない…)といった心境だったはずです。しかし、罵声に近い部下からの声を聞くことは、本当に辛い仕事です。今でも「倒産」寸前の会社などでは、労使の間で喧嘩腰の騒動になりますが、内蔵助のような態度で聞ける幹部はいるのでしょうか。「言い訳」に終始し、なんとか、この場を収めようとしてあたふたする姿が目に浮かびます。しかし、内蔵助は冷静でした。(こうなった以上、やむを得まい。赤穂浅野家の後始末をせねばなるまい…)と思い、ひとつひとつ、問題を片付けていったのです。

最初に内蔵助が採った方法が、「藩札」の交換でした。通常、御家が改易になった場合、藩札は交換もされず、ただの「紙くず」になる例が多かったようですが、内蔵助は「それでは、赤穂浅野家の信用問題となる…」と主張して、「六分」で交換することに定めました。「藩庫」にある金子を計算しても、それが精一杯だったのです。この処置によって、城下は落ち着き、大騒ぎになることはありませんでした。もちろん、損をした者は多く出ましたが、それでも「六分」という比率で交換できたことは、赤穂浅野家に同情が集まる原因ともなりました。後に「仇討ち本懐」の報せが赤穂の町に届いたとき、町の人々は、我がことのように喜んだそうです。それは、このときの「藩札の交換」が大きかったのです。人間は、表に出た功績だけで人を評価しているわけではありません。もちろん、多くの人は、自分にはできないことを成し遂げた人を高く評価しますが、身近な人たちは、それだけではないのです。その人間が起こした行動、そして、その人の人間性、道徳心、表情や言葉など、多くの情報を基に評価します。内蔵助が、おこなった「藩札交換」は、赤穂浪士の討ち入りから比べれば、些細な出来事かも知れませんが、そうした「些細」と思われることに気づく人間が尊いのです。

次に内蔵助が行ったことに「赤穂城」の受け渡しがありました。この城は、先々代の浅野長直が自力で築いた城です。幕府は、新規の築城は認めていませんでしたが、長直は、大老保科正之を説得します。それは、「山陽道の拠点として、未来永劫徳川家を守る城としたい…」と幕府への忠誠を誓いました。そして、やっとの思いで作った城であり城下なのです。海に近かったために、わざわざ「水道」を整備し、城下に真水を引く工事も行いました。築城は有名な兵学者「山鹿素行」の手によるものです。しかし、素行は、後に幕府批判で罪に問われましたので、表面上はその門弟が行ったことになっています。素行の縄張りは「武田流軍学」を基本としており、城は、まさに「戦国時代」を思わせる「攻めにくく、守りの堅い」堅牢な物になったのです。改易によって、それを幕府に渡さなければならないのですから、藩士一同の悔しさは、察してあまりあります。藩士の中には「城を枕に討ち死に!」を主張する者もいましたが、それは一部でした。しかし、主戦論はいつの時代も勢いがあります。それを収めるために内蔵助は、「開場後、大手門前にて切腹!」を主張して、主戦派を黙らせます。同じ死でも、戦って死ぬのは武士として本望かも知れませんが、「切腹」は、余程の覚悟が必要になります。しかも「切腹」は、武士としての最高の死に方ですから、反対もできません。これも内蔵助の作戦でした。内蔵助の強い口調に怯んだ主戦派は、一度は切腹に同意しますが、結局、多くの藩士は同調しませんでした。それは、内蔵助が「思うところあり!」と、仇討ちに含みを残したからでした。

内蔵助の「思うところ…」とは、当然、上野介への「仇討ち」以外にはありません。それを「含み」としたことで、藩士一同は武士の面目を保ち「開城」に協力したのでした。この間にも、内蔵助は「浅野家再興」を幕府に願い続けます。それが、どの程度可能性があるかはわかりませんが、そうすることで、国家老としての努めを果たそうとしていたのです。実際、「幕閣に手づるがある…」と聞けば、何度も嘆願書を提出して頭を下げました。金子もかなり必要になります。赤穂城の開城後に残された浅野家の公金と長矩の妻である「瑤泉院」の結婚時の持参金、そして、内蔵助が密かに「赤穂塩の相場」で儲けた資金が使われたといいます。内蔵助は、自身の蓄えを使い、大坂の塩問屋をとおして「塩相場」で「運用益」を得ていました。もちろん、浅野家も当然、塩の運用益で資金を蓄えていましたが、それ以外に、内蔵助自身が長年にわたって塩を運用していたことが幸いだったのです。今で言えば「インサイダー取引」として罰せられる手法ですが、当時は、そんな法はありません。そういう意味で、内蔵助は大坂商人顔負けの商売上手だったのです。

しかし、幕閣へ働きかけても御家再興の話はありませんでした。それどころか、長矩の舎弟である「大学長広」が、安芸の広島浅野本家へ流罪となり、遂に「赤穂浅野家再興」の道は途絶えたのです。内蔵助は、この時を待っていました。このとき、内蔵助には二つの道がありました。ひとつは、御家再興となった場合は、速やかに「仇討ち」は断念し、同盟は速やかに解散すること。もうひとつは、御家再興がなくなったときのことです。御家再興の道が正式に閉ざされたときは、速やかに「吉良邸討ち入り」を実施し、「亡君の仇を討つ」ことです。ここに、内蔵助の躊躇いはありませんでした。本音からいえば、御家再興の可能性は低く、討ち入りをやらざるを得なくなることを見越していました。既に、大坂の塩問屋「天川屋儀平」には、武具の調達を頼んでいたのです。この「天川屋儀平」なる商人は、未だに真実が不明なのです。当時の大坂の塩問屋には、「天川屋」なる屋号はなく、単なる「芝居の中の創作」ではないか…という話もありますが、あれほど用意周到な内蔵助に支援者がいなかったというのもおかしな話です。実際はわかりませんが、大坂の有力な塩問屋仲間が協力したために、偽名として「天川屋」が使われた可能性があるのです。これも、歴史の不思議なところでしょう。そして、決断までの期間は、長くて「2年」というのが内蔵助の見立てでした。討ち入りとなれば、相当の武具が必要になりますが、これを江戸に運ぶのは至難です。当時、幕府は江戸への大量の武具が入るのを怖れ、各所での検問を厳しくしていたからです。

そのため、「天川屋」は、江戸の支店と謀って少しずつ武具を調達していました。刀も無銘ではあっても、なるべく「古刀」を集めました。江戸と大坂の両方で少しずつ集めれば、古道具として扱えますので、見つかっても咎められる心配はありません。武士がいる以上、武具はなくてはならない必需品だからです。もちろん、大石家にも、浅野家にも「名刀」と呼ばれる物はありました。それらを「城引き渡し」以前に、数本は持ち出していたのです。赤穂浅野家は、長直以来「武門の家」として知られていましたので、その収集は百本はあったと言われています。浪士たちは、それぞれに刀は所持していましたが、斬れ味の鋭い名刀を持っている者は少なく、この当時、一般の武士が持っていた刀は、軽量に作られていて、あまり実戦向きではありませんでした。実際、刀は実戦で使用すると、すぐに曲がり元の鞘に収まらなくなります。刃毀れも酷く、肉を斬るとそこに肉の脂がついて斬れ味は落ちます。そんな具合ですから、予備がなければ「身幅」が広く、厚くて重い刀でなければなりません。それには、戦国時代までに作られたような「古刀」が必要だったのです。以前、テレビドラマで「子連れ狼」という時代劇が放映されていましたが、その主人公である「拝一刀」が使用していた刀が、「胴田貫」という実戦用の古刀でした。別名「斬馬刀」というのだそうです。「馬が斬れる刀」とは、どんな代物なのでしょう。要するに、そんな古刀でなければ、実戦では使い物にならないということなのです。

今でも、泉岳寺や大石神社の資料館などに残されていますが、浪士たちは、全員が「鎖帷子」を着込み、「鉄甲」「鉄脚絆」「鉢金」などで急所を防御できる防具を身につけていました。これも、後の世に持ち込まれた「偽物」だとする意見もあるようですが、厳寒の深夜に2時間もの戦闘をして、だれも戦死者を出さなかったことを考えれば、その装備は完璧だったことが想像できます。そして、それを用意したのは、おそらく、「天川屋」を名乗った大坂の義商たちなのだと思います。内蔵助の大坂との関係を明らかにした記録はありませんが、赤穂浅野家は、有名な「赤穂塩」によって財を築きました。それを取り仕切った人物が浅野家にいたわけですが、当然、家老クラスが関わらないはずがありません。先々代の長直は、赤穂城を築くほどの名君です。その殿様が、塩を「専売」することを思いつきました。このあたりが、西国の人間の合理性かも知れません。東国の人間は、すぐに「武士道」や儒教に縛られて、経済的な思考に至りませんが、元々、経済観念の強い「豊臣秀吉」が創った大坂人なら、身分に関係なく「経済的思考」ができたはずです。

「浅野家」は、秀吉の妻の「寧々」の実家です。本家も広島ですから、彼らは間違いなく「西国人」なのです。そして、国家老の「大石家」は、元々は、豊臣秀次に仕えた近江の武将でしたから、近江商人の感覚は己の「血」となっていたはずです。そうなると、長直が真っ先に相談したのは、間違いなく笠間時代から浅野家に仕えていた家老の「大石内蔵助良欽」しかいません。良欽は、自分の伝手を使って大坂の塩問屋に「赤穂塩」を持ち込み、相場に加えてもらっていたのでしょう。単に「売り買い」だけでは、儲けは少ないのは常識です。この時代は、米にしても大豆や小豆なども「投機」の対象でした。だれもが「一攫千金」を夢見て「相場」を張ったのです。良欽は、赤穂浅野家の家来の中から、経済に明るい優秀な者を選んで、大坂に派遣して「塩相場」のデータの収集をさせていたはずです。それは、おそらく、財政方家老の「大野九郎兵衛」の配下であった勘定方の「矢頭長助」あたりではないかと思います。長助は、最初から内蔵助にしたがい、大坂で資金の調達などを行っていましたが、病に倒れ、討ち入りには、長男の「右衛門七」が加わっています。この「長助」たちが、集めた資金が浪士たちの「武器」と「装備品」になったことは間違いありません。もちろん、浪士個人で用意できたものもあったでしょうが、生活にも困窮していた多くの浪士に、そんな余裕はなかったでしょう。軍事行動をするには、相応の準備が必要であり、そのための「資金」がなければ、できるはずもないのです。

「大野九郎兵衛」は、歴史上でも「忠臣蔵」の芝居でも、内蔵助に反対する「卑怯者」という役割を演じていますが、本当にそうでしょうか。赤穂浅野家は、財政方家老の働きが非常に大きかったように思います。「藩札の交換」も藩士への「分配金」も、「浅野家再興運動資金」も「討ち入り資金」も並大抵な「額」ではありません。それを取り仕切るには、内蔵助以上に浅野家の内情に詳しく、詳細な「収支」がわかる人間が必要です。その全体像を把握しているのは、国家老だった内蔵助ではなく、「財政方家老」の大野九郎兵衛しかいないのです。その配下に「岡嶋八十右衛門」や「矢頭長助」がいました。江戸時代の初期は、武士で「算盤が弾ける」者は少なく、身分が低いのです。なぜなら、浅野家もそうですが、殿様が「武将」だからです。まして、浅野家は「武門」を誇りとしている家柄で、忠臣蔵の芝居の中でも、有名なのが「堀部安兵衛」や「不破数右衛門」などの武闘派ですから、彼らに「数学」はわからなかったでしょう。

しかし、実際、戦となれば、そこにかかる経費は莫大で「気持ち」だけでは、どうにもならないのです。赤穂浪士たちも、わずか2年で生活に窮乏し、内蔵助に金子を無心する者が多くいたことがわかっています。「武士の商法」と言われるように、「数学」は彼らが一番不得手にしていることでした。したがって、内蔵助一党の中に相当な「経済感覚」の持ち主がいたことを暗示しています。もちろん、芝居では、それを行ったのも「内蔵助」だということになっていますが、それだけの大仕事を内蔵助だけでできるはずがありません。実際、商人たちへの「貸付金」の回収に回った浪士もいたのですから、それを具体的に指示できるのは「大野九郎兵衛」しかいないのです。それ故に、九郎兵衛は、内蔵助と謀って「卑怯者」と蔑まれながらも、裏方に回ったと考えるのが自然です。そうでなければ、赤穂城開城後の「資金」の流れが見えて来ません。芝居では、そこを描いても絵になりませんから、無視していますが、実際となると一番「肝腎」な部分だと思います。それを多忙な「内蔵助」が全部指示したというのは、無茶というものでしょう。そういう意味で、大野九郎兵衛という侍は、誤解の多い「不義士」ということになります。しかし、一説には、大野九郎兵衛は、「第二陣」として「討ち入り」が不首尾に終わったとき、米沢に逃げるであろう上野介を討ち取るための「備え」の役割をしていたという話もあり、九郎兵衛が「不義士」ではないことを訴えているのかも知れません。

「忠臣蔵」の芝居の中では、山科に居を移していた内蔵助が、伏見の「一力」で遊女と遊ぶ場面が出てきますが、これも、内蔵助の実際の姿の一面だと思います。内蔵助の魅力には、こうした「男性的」な女遊びにも現れています。内蔵助は、赤穂城の引き渡しがすむと、一時的に赤穂の邸を離れて、一人、海沿いの家に移っています。そのとき、彼は「疔」という「できもの」が背中にできたそうです。「面疔」というウィルス疾患が今でもありますが、抗生物質のない時代にこれを治すのは大変だったと思います。おそらくは、それまでの心身の疲労が、背中の「できもの」として現れたと考えるのが自然です。毎日、毎晩、ほとんど眠れない夜が続き、多忙に多忙を重ねていました。もし、内蔵助に体力がなければ、この「疔の病」で死んでいた可能性もあります。しかし、妻の「りく」の看護により、この病を克服しました。それほどのストレスを抱えていた内蔵助が、羽目を外して「色里」で遊んだとしても、だれも責めることはできません。まして、当時の武士の「遊び」として公認されていた色里ですから、余程のことでもない限り責められることではないでしょう。内蔵助は、何も考えず、その「ひととき」を楽しんだはずです。そうでもしなければ、彼の「心」が壊れてしまっていたでしょう。それを、吉良家や上杉家の間者がどう判断したかはわかりませんが、それも内蔵助の人間くさい一面でした。さらに、妻の「りく」と子供たちを、妻の里である但馬豊岡に帰した後は、「かる」という17、8歳の娘を愛妾にしました。

自分の身の回りの世話をさせているうちに、内蔵助の男としての本能を抑制できなくなったのでしょう。この「かる」は、内蔵助たちの切腹の後に「男子」を産んでいます。大坂の商家に引き取られた「かる」は、その内蔵助の忘れ形見を育てながらその生涯を閉じました。しかし、「かる」もそう長い命ではなかったようです。その「男」が、自分の出生の経緯を知っていたのかどうかまでは、わかりませんが、そのまま大坂で商家の手伝いをしながら、離れの座敷でのんびりと絵を描いたり、琴を奏でたりして優雅に暮らしたそうです。算盤は、かなり上達が早く「さすが、内蔵助様のお子…」と感心されたそうですが、これも噂の域を出ません。やはり、「天川屋」を名乗った商人たちも、さすがに「大石内蔵助の子供」として公にすることはできなかったでしょう。なぜなら、そんなことをすれば、自分たちが、あの「討ち入り」に加担していたことがばれてしまうからです。そして、それが、内蔵助の「忘れ形見」の男にとっても、幸せだとは考えられなかったからです。名前も残されていませんが、それも「歴史」だと思います。

内蔵助が、本気で「吉良邸討ち入り」を考えたのは、長矩の養子になっていた弟の「大学長広」が浅野本家に「永のお預け」が決定したときだといわれています。確かに、手続きとしてはそのとおりですが、実は、内蔵助は「御家再興」と並行して「討ち入り計画」を練っていたように思います。その中心となったのが、「菅谷半之丞」という侍です。半之丞は、赤穂浅野家では「馬廻り」100石の歴とした譜代の家臣です。しかし、それだけの立派な武士でありながら、彼に関するエピソードがないのです。噂では、「内蔵助の軍師ではなかったか…」と言われていますが、それすら「謎」のまま、今に至っています。その要望も「美男」という人もいれば「醜い」と言う人さえいる始末で、実際は、あまり表に出てこなかった人物なので、プロフィールが創れません。年齢は、浪士の中でも中堅の40過ぎの侍です。彼は、「馬廻り」という殿様の側近の役目に就いており、当然、武芸に秀でた人物であることは確かです。一説には「山鹿素行の門弟」という噂もあり、「軍師であった」と仮定すると、内蔵助の命を受けて、赤穂城の開城の後は、密かに「討ち入り計画」を練っていたのかも知れません。先にも述べましたが、防備を固めた四千石の旗本の邸に、僅か50人足らずで討ち入り、成功を収めるのは「完勝」しかありません。

もし、赤穂浪士と吉良・上杉侍が互角の勝負をしたとなれば、上野介が逃げ出すチャンスはいくらでもあったはずです。吉良方にしてみれば、上野介と当主の義周さえ無事なら、家来が何人死のうが「勝ち」なのです。逆に、家来に一人の戦死者が出なくても「大将」が討たれれば、その戦は「負け」となります。これは、当時の常識でした。赤穂の浪士は、早い段階で見積もっても100人を超えることはありませんでした。その中から、一年半の間に櫛の歯が欠けるように約半数が脱盟していったのです。この数が多いのか少ないのかわかりませんが、200人規模で守る広大な敷地の旗本邸を50人足らずで攻めるのですから、普通に戦っては勝ち目はありません。だからこそ、ここに「軍師」が必要になったのです。江戸詰の者や過激派の浪士の中には、少人数でもいいから吉良邸に討ち入ろうと考えていた者もいたようですが、現実を考えると、それは「無駄死に」でしかありません。そして、一部の者たちの暴発によって、本隊が一網打尽に捕まれば、すべてが「水の泡」になってしまいます。それを説得したのは、もちろん、内蔵助自身でした。そうしている間にも「半之丞」は、一人で「最善の策」を練っていました。それを知っているのは、おそらく、大石内蔵助自身と副将格の「吉田忠左衛門」だけだと思います。最後に、逃亡したと言われた足軽身分の「寺坂吉右衛門」は、内蔵助と半之丞の「つなぎ役」だったに違いありません。

半之丞は、諸説のとおり「山鹿素行門下」の俊英でした。彼の立てた作戦どおりに着々と準備が進められていました。半之丞は、内蔵助に「最終的に50名を切るようであれば、この討ち入り決行はできませぬ!」と断言していました。そして、実際、討ち入りに参加した浪士は「47人」でした。半之丞は、山鹿流の兵法に基づき「一向二裏」の小隊編成とし、表門と裏門に分けて突入させることにしました。そして、手練れの小隊には「遊撃隊」を命じ、吉良邸を縦横に走り回らせ、各小隊を鼓舞するとともに「応援部隊」としての役割も担わせました。そのため、堀部安兵衛や不破数右衛門などの手練れの浪士は、大活躍をすることができたのです。また、縄ばしご、龕灯、鎹、短弓、短槍、掛矢、竹笛などを用意させたのも半之丞でした。また、手傷を負わないための「防具」は、主に「天川屋」に依頼して集めさせました。こうした武具は、「大坂の陣」を経験した大坂の武具店や質屋には多く残されており、それを少しずつ「古道具」の中に混ぜて、船で江戸に送っていたのです。陸路と違い、船は関所も少なく、荷物の積載量も馬車などとは比べものにならないほどの量でしたから、船底に隠すことなどなんでもなかったのです。

その費用は、かなりの金額になりましたが、「天川屋」にしてみれば、これまで世話になった内蔵助の頼みであり、「塩相場」によって儲けさせてもらった恩義がありますから、内蔵助や半之丞の希望に添うような準備をしていたはずです。それに、大坂商人としての意地もありました。「大坂」という町は、江戸時代になっても「太閤さんの町」という意識があり、何かと「江戸」に対して対抗意識を燃やしていました。そこに持って来て、江戸の「吉良」を大坂の「大石」が討つというのですから、気分としては「大坂の陣の復讐戦」のようなものです。それに、江戸も大坂は「海の町」でもあります。大坂は各所を運河がつないでおり、船便は大坂の「荷車」でもあったのです。天川屋は、こうした大坂の利便性を生かして船便で江戸に荷を送り、江戸の運河を利用して浪士たちの元に武具を届けたのです。こうした知恵を編み出しのも「半之丞」でしょう。半之丞は、幕府などからの眼を眩ますために、一箇所に止まることなく、討ち入りまでの1年9ヶ月、居場所を点々としていました。そのために、彼の素性が割れることなく計画に没頭できたのです。その「軍師」としての才能を見込んで、計画を一任していたのも大石内蔵助という人物の懐の大きさがわかります。

赤穂浪士が、御家断絶の憂き目を見た後、約1年9ヶ月の間、内蔵助をひたすら信じて、そのときを待っていました。それは、本当に苦しい日々だったと思います。赤穂在住の者、大坂に出た者、江戸に向かった者など、その暮らしは一人一人がなんとか凌がなければなりませんでした。まして、家族持ちの者は妻や子の生活のこともあります。どちらかにでも「身寄り」があれば、貧困にならずにすんだかも知れませんが、一人の肩に生活のすべてがかかっていた者は「仇討ち」どころの話ではありませんでした。内蔵助だけでなく、浅野家の重臣たちは、家臣たちの生活が成り立つように、あちこちに職を求めたと言います。彼らも、けっして「元浅野家の家臣」を忘れたわけではありません。しかし、初めの頃の興奮した気持ちが収まると、生活に追われる日々は長すぎました。1年が過ぎたころから「脱盟」する者が増え始めたのです。その多くは「音信不通」となり、仲間内にも顔を出さなくなりました。そして、それを「咎めるでない!」と諫めたのも内蔵助だったのです。内蔵助にしてみれば「なるもならぬも、人の心次第…」と考えていたようです。そして、最後に「神文返し」というやり方で、同盟者の最後の意思を確認し、人数を決定しました。それが、わずか「50人」でした。

内蔵助は、「50人」という数を聞いて、遂に決断しました。と言うより、半之丞の献策により「少なくても、一年半の猶予は必要…」と聞かされていたからです。半之丞によれば、「人は、危機に備えて一年は耐えられます。しかし、その後、ひと月、ふた月と経つうちに気持ちが緩み始めるものでございます。それは、敵も味方も、いや幕府とて同じこと…」。つまり、危機感の強いうちは、討ち入っても備えが厳しくて成功は望めないというのです。そして、周りが、その緊張感に耐えられず「気を緩めたころ」が、大事を為す「好機」と言うのです。確かに、内蔵助は自分の周りを見ていても、吉良や上杉の眼がなくなったような気がしていました。当初のような「噂話」も聞かれなくなり、だれもが、あの刃傷事件など忘れてしまったかのようでした。さらに言えば、同志と思われた浪士たちに「神文」を返したところ、半数以上がこれを受け取り、ほっとした顔をしていたという報告を受けていました。それに、大坂の「天川屋」に依頼した支度も既に調い、まさに「機は熟した」のです。

江戸に入ると、内蔵助は「吉良邸の絵図面」と「上野介の在宅日」を確認する作業に取りかかりました。もちろん、既に浪士たちの一部は、内蔵助の命を受け、そのために一年以上動いていたのです。半之丞と内蔵助の策は、将棋の駒のように次々と「数手先」まで打ち込まれ、最後の「詰め」を残すだけとなっていました。たとえば、吉良邸の裏門付近には、神崎与五郎と前原伊助が「美作屋」という雑穀小売店を営んでおり、常に吉良邸を見張っていたのです。ここも、元々は「天川屋」の持ち物でした。ここが、討ち入り時の「基地」になる予定でした。吉良側も新しい店舗には用心をしていましたが、この店は新規と言っても、店に立つ店員は、以前から知っている天川屋から派遣されている者も多く、その中に与五郎や伊助が紛れ込み、自然と吉良邸の使用人とも懇意になっていきました。美作屋や「扱う豆類の品質が良く、正直な商いをする」という評判で、多くの客で賑わっていました。この二人は、浅野家では下級の身分でしたが、関西人らしい如才なさで、だれが見ても「商人」に見えたといいます。また、「絵図面」は、吉良邸の前の持ち主だった旗本のころの図面が手に入りました。これは、「岡野金右衛門」が、当時の大工の棟梁の家に「見習い大工」として入り込み、「参考に…」と手に入れたものでした。芝居では、金右衛門が美男で、棟梁の娘といい仲になり、娘に「絵図面」を探し出させたようなことになっていますが、実際は、器用で如才ない金右衛門の地道な活動の末に手に入れたものでした。

俗に「吉良邸が要塞のようになっている…」という説もありますが、吉良家にも上杉家にも、そんな予算はなく、いわゆる「付け人」と称する上杉家の家臣を常駐させるくらいしか対策は採れなかったようです。それも、時間が経つにつれて上杉家も困り果て「そろそろ、人数を制限させてもらいたい…」と吉良家に申し出ていました。これが、半之丞にいう「緩み」なのです。そして、最後は「吉良の在宅日」の確認だけになりました。それは、大高源吾からもたらされました。源吾は、俳人としても有名な人物です。彼は、赤穂時代から、既に江戸の「宝井其角」と交流があり、その伝手から、年末に行われる吉良邸での「茶会」の日を知ることができたのです。そして、これは「美作屋」からも、もたらされました。「茶会」そのものは、秘密でもなんでもありません。吉良邸の奉公人なら、その準備で忙しくなります。当然、様々な食料品を調達しなければなりません。美作屋は「雑穀商」ですが、米でも酒でも味噌でも扱います。そうした調味料などの注文が吉良邸から入ったのです。その雑談の中からも複数の証言を得られました。「上野介は、師走の14日には、必ずいる!」そう確信した内蔵助は、主な浪士たちにそれを伝えると、伝令が各所の隠れ家に走りました。いよいよ、悲願だった決行の日時が決まったのです。そして、多くの武具が集合場所と定められた隠れ家に人数分が運び込まれました。これを担ったのは、もちろん「天川屋」です。刀は、集合した時点で確かめられ、余程の業物を帯びていない者には、用意された「古刀」が渡されました。鎖帷子や鉄籠手、鉄脚絆なども天川屋が用意した物が使われました。

多くの貧しい浪士たちには、一年半に及ぶ浪人暮らしで武具を揃える資金もなく、刀一本を携えるのがせいぜいだったのです。その刀でさえ、毎日のように手入れをしなければ、瞬く間にさび付いてしまいます。刀の手入れをすることは、今でも難しい作業ですが、ましてや、実戦に用いるような刀は、一両、二両で買えるような代物ではなく、その10倍、20倍は必要なのです。そんな武器を用意できる浪士は、僅かでした。それでも、事前に「体ひとつで参集せよ!」のお達しがあり、だれもが怪しまれないように、普段の小袖と袴で集まったのです。その方が周囲に怪しまれることはありません。有名になった揃いの「火事場装束」は、改易になった当初に、江戸家老の藤井又左衛門や安井彦右衛門が、蔵にしまわれていた装束や道具を急いで「天川屋」の日本橋支店に移しておいたものでした。「不義士」とまで言われた江戸家老も「万が一に備える」覚悟は持っていたのです。彼らにしてみれば、長矩の独善的な政治と、片岡源五右衛門たち側近が、今回の事件の元凶だと考えていましたので、内蔵助たちの企みに与することはありませんでした。それでも、「備え」だけは怠らない武士道は持ち合わせていました。そして、そのときの武具が、討ち入り時に役だったのです。

討ち入り前日から降り続いた雪は、15日を超えるあたりで止みました。江戸の町は、珍しく真っ白な化粧を施し、まさに「舞台」は整いました。そのころ、吉良邸裏の「美作屋」では、天川屋の者たちが、飯を炊いたり、湯を沸かしたりと「前線基地」としての準備を密かに整え始めていました。このことは、おそらく、どの記録にも記載がないと思いますが、常に「最悪」を想定した「最善策」を整えておくことが「軍師」としての役割ですから、これを指示したのも半之丞でしょう。外から見れば、雨戸がぴっちりと締まり、中の様子を窺うことはできません。しかし、耳を澄ませば、中で大勢の人間が働いていることがわかります。また、灯りが外に漏れており、ここだけが動いている様子もわかるはずですが、寒気が厳しい雪の夜に、外に出る者などいるはずもありません。それも又浪士たちには幸いでした。吉良邸界隈の三箇所に集まった浪士たちは、そこで「火事場装束」に着替え、数人が固まって吉良邸を目指しました。もし、途中で咎められることがあれば「大名火消し」を名乗り、「公務による巡回中である…」と、理由を告げることになっていました。赤穂浅野家は、長直時代から「大名火消し」を命じられ、その行動は迅速で、町の人々から信頼されていました。それに、この時代は、まだ「町火消し」はありません。それ故に、正式な装束を纏い「大名火消し」を名乗れば、それに疑念を持つ者はいないのです。

よく、「忠臣蔵」の芝居では、羽織の襟に「認識票」代わりに「播州赤穂 大石内蔵助」と墨痕鮮やかに書かれていますが、あれは、芝居用の脚色です。実際は、袖に白布を縫い付け、そこに「氏名」を書いただけでした。要するに、討ち死にした場合だれであるかがわかればいいのですから、そんなに大きく書く必要はありません。こうした作業も、天川屋が用意してくれたものです。芝居を見てると、そんな細かなことは「当たり前」で、「だれが縫ったのか?」とか「だれが、書いたのか?」などという詮索はしませんから、気になりませんが、実際は、そうした細かな作業があって、あの「討ち入り」があるのです。たまに、歴史家を名乗る人間が「赤穂浪士には、統一性はなく、薄汚れた装束で討ち入った」と論ずる例もありますが、そんな状態で、だれも戦死者が出ることなく「完勝」することなど、あり得ません。それでは、吉良方の侍は、みんな戦わなかったことになります。戦闘の内容は、詳しくはわかりませんが、多くの死傷者が出たことは間違いありませんので、吉良の侍も奮闘したのです。

「討ち入り」に関しては、多くの資料が残されていますが、やはり、その「準備周到」な作戦が功を奏しました。討ち入りの時刻は、よく「寅の刻」と言われていますが、今でいえば「午前4時」となります。前日は、遅くまで「年忘れの茶会」が催され、仲間の高家の方々や俳句、お茶仲間など多くの客が吉良邸に来ていました。「茶会」というのは、単にお茶を作法通り飲むだけでなく、その後に「宴席」が待っているものです。上野介にとっても(これが、江戸で行う最後の茶会になるやも知れぬな…)と考えていましたので、できるだけ来客をもてなそうとしていました。そのため、出入りの商人も多く、様々な物が運び込まれました。その宴会は夜遅くまで続き、上野介が就寝後も、吉良邸の者たちは後片付けなどで、床に就いたのは午前2時ころになっていたはずです。実際、「朝方4時」というのは、一番眠りが深くなっているころだと考えられます。そうなると、多少の物音に気づいても、体は上手く反応してくれません。まるで、「金縛り」にでもあったかのように、床から離れられないのです。夏場ならともかく、厳寒の12月(旧暦)ですから、一度温まった寝床から出るのは勇気がいるものです。そうなると、多くの吉良の侍は、実際に赤穂浪士が邸内に討ち入った際の叫び声や物音で、飛び起きたというのが正しい見方でしょう。

特に吉良邸の裏門は、掛矢で打ち壊して侵入していますので、これで気づかぬ者はいません。しかし、吉良邸の侍は、すぐには飛び出しては来ませんでした。やはり、闇雲に飛び出しては何があるかわかりません。まして、凍り付くような寒さと暗闇の中での出来事ですから、「信じられない思い」で唖然とした者もいたはずです。そのうち、浪士たちは、手分けして侍たちが暮らす「長屋」の雨戸を「鎹」で打ち付けて回りました。こうなると、戸を思い切り蹴破らなければ外には出られません。これも半之丞の策のひとつで、「敵を怯ませる」ことにねらいがありました。いつものように手で戸を開けられないとなると、蹴破るしかありませんが、人間は、そうした先に何があるかわからない恐怖心で身が竦むものです。まして、外には「命を狙う」武装した赤穂の浪士たちが待ち構えているのがわかりきっているのです。おそらくは、寒さと恐怖で、歯の根も合わないほどに震えていたと思います。まして、実戦経験などない者がほとんどですから、怖くない者などいるはずがありません。

赤穂の浪士たちは、攻撃していく側ですから、恐怖心はあっても、そもそもの「覚悟」が違います。まして、天川屋が用意してくれた装備は完璧でした。その重武装が、怖さを乗り越えさせてくれたのです。若い矢頭右衛門七などは、(これなら、刀が当たっても傷つくことはあるまい…)と考えていました。彼は、父親である長助が遺した鉄胴を腹に抱いていましたので、尚更です。今の剣道や柔道の道着もかなり分厚い生地でできていますが、浪士たちが小袖の上に着たものは、さらに厚い生地の「刺子」でできており、水を含むとさらに強度が増すと言われていました。そういう意味では、「雪の戦場」は、浪士たちに有利に運びました。それに反して、吉良方の侍は、袴を着けている者は少なく、薄い寝間着のままでしたので、防具類は一切ありません。これでは、体が冷えて十分な働きができるはずがないのです。こうした条件を満たすために「冬」という季節を選んだのも半之丞の計略でした。

内蔵助は、そうした「菅谷半之丞」という軍師を得たために、着々と「討ち入り計画」を進めて行くことができたのです。しかし、半之丞は、討ち入りが始まると一浪士として戦いに参加し、できるだけ表に出ないようにしながら戦いました。そのため、彼ほどエピソードの少ない浪士はいません。「忠臣蔵」の作者は、だれもが、半之丞のエピソードを創るのに苦労をしたと思います。彼が美男に描かれたり、真逆の醜男になったりと、その面影すらわからない有様ですから、謎の人物になってしまいました。今でもテレビドラマや映画に描かれる赤穂浪士の中で、「菅谷半之丞」は無名の俳優が演じることが多い所以です。そして、半之丞の計画どおり、戦闘は2時間で終わりました。戦う浪士たちにとっても、重い武装をして戦っていますので、相当の汗を掻きました。それが、防御力を増すことにもなりましたが、疲労の原因にもなるのです。そして、吉良方の侍の多くも傷つき、戦闘力を失いました。そして、最後に上野介を発見すると内蔵助は、その首を刎ねることに躊躇いはありませんでした。戦が「敵の大将の首を獲ること」を目標としている以上、ここに来て、上野介の心情や刃傷事件の真相は関係ありません。そうした「非情な心」がなければ、一軍の大将は勤まらないのです。そうした大将だからこそ、50人もの侍がついて来たのです。

内蔵助は、赤穂城の開城以降、まさに「武士道」に則って行動してきました。国家老として「浅野家の再興」を願い出ることは、当然の義務でした。しかし、それをあれほどまでにしつこく、何度も嘆願を重ねた国家老は、これまでいませんでした。「御家お取り潰し」という武士にとって最悪の事態に、冷静に対処できる者は、これまで、だれもいなかったのです。城の開城の見事さ、藩札の交換の素早さ、粛々と家臣団を退去させた手腕、そして、公儀への主家再興の願い…と、それは、全国の同じ立場にある侍の共感を得ました。「赤穂の大石という家老、見事な差配じゃ。見習わなければならぬ…」という感嘆の声は、全国に広がって行ったのです。もし、内蔵助が再度の仕官を願い出れば、これまでの1500石以上の高禄で召し抱えたいという大名は、いくらでもいたでしょう。それくらい、各大名たちも、そんな内蔵助に対して高い評価を下していたのです。巷で言われるような、「早く、仇を討て!」と騒いだのは、領地経営とは無縁の庶民たちや下級武士ばかりでした。そして、「御家再興ならず」となったとき、内蔵助は迅速に行動を起こしたのです。

「討ち入り」と決定した後の内蔵助の行動は迅速でした。これまでの「昼行灯」というあだ名が嘘のように行動し、同志の浪士たちが迷わぬよう、何もかも準備が整えられていったのです。そして、脱盟者は当日の夜になっても現れました。最後に脱盟したのは、何度も吉良邸に潜入し、貴重な情報をもたらしてきた「毛利小平太」でした。小平太が時刻になっても現れることを知ったとき、多くの同志が狼狽えました。「ま、まさか、あの小平太が…?」と唖然としたのも当然でした。小平太は、当初から同志に加わると、いち早く江戸に赴き「忍者」さながらの働きをして、同志を助けていたのです。それも、黙々と働き、だれもが信頼する仲間だったのです。しかし、一人内蔵助だけは慌てず、ひと言「あの者にも生きる縁ができたのでろう…。それでよい。我らは、あまりにも不器用故、一途に走ってきた者共じゃ。さて、参ろうかの…」と言って、采配を手に取りました。その落ち着いた態度に、だれもが安心して内蔵助について来られたのです。一説によれば、毛利小平太は「幕府の隠密」という噂があります。当時、幕府は各藩に「隠密」を放っていました。その中で、その大名家に長年仕える家臣の中にも「草の者」はいたのです。小平太が、最後の最後に身を隠したのは、そうしたわけがあったのかも知れません。

そして、数刻後、「仇討ち」が成功し、上野介の首を獲った後の内蔵助の差配も見事でした。戦場となった吉良邸は、火事が起こらぬよう「火の始末」を確認し、早々に退去していきました。行き先は、長矩の菩提寺でもある「高輪泉岳寺」です。回向院の門前で上杉の追っ手に備えましたが、これが来ないことを知ると、内蔵助は「寺坂吉右衛門」に命じて「事の子細」を縁者、関係者に知らせるよう走らせました。足軽身分の吉右衛門を仲間に加えた理由は、「事の子細を知らせる」ことにあったのです。こうしておけば、吉右衛門が「生き証人」となり、幕府も勝手な「書き換え」ができなくなります。内蔵助は、後世に正しい「真実」を伝えようとしていたのです。事実、吉右衛門は、各所で討ち入りの実際を報告し、自らも「寺坂吉右衛門日記」を書き残しました。内蔵助は、泉岳寺の長矩の墓前に「上野介の首」を供えると、持参した長矩の「小さ刀」で上野介を打ち据えました。長矩の鬱憤を墓前で晴らして見せたのです。こうした演出ができるのも内蔵助の頭のよさでしょう。そして、上野介の首は、泉岳寺をとおして吉良家に返還されました。吉良家では、胴と頭を縫い合わせて弔ったそうです。

幕府では、この顛末を聞くと対応に困り果てました。本来であれば、浪人身分の者が、幕府の高級旗本宅に押し入り、狼藉に及んだ挙げく、先の高家筆頭を殺害したわけですから、町奉行に命じて捕縛し、吟味の上「磔獄門」が相当です。元浅野家家臣とはいえ、浪人となれば風体は武士であっても、実態は「町人」と同等なのです。死罪にしても、浪人に「切腹」などはあり得ません。通常であれば「打ち首」です。しかし、この騒動ばかりは、そう簡単に済ませられるものではありませんでした。そもそも、この事件の発端は、浅野内匠頭の城中での刃傷事件です。しかし、その処置が如何にもまずかった。将軍の「鶴の一声」で、十分な取り調べをしないままに長矩を切腹させてしまい、事件の真実がわからないままになってしまったからです。将軍である「徳川綱吉」も、落ち着いてから、この処置を大いに悔やみました。なぜなら、綱吉は「武」の政治家ではなく「文」を重んじる政治家だからです。彼は、未だに気風として残る「戦国の世」を終わらせようとしていました。そして、これまでの「武断政治」ではなく「文治政治」に変えなければ、徳川の世が長く続かないことを知っていたからです。いわゆる「法治国家」を目指す政治を目標としていました。

しかしながら、浅野の刃傷事件は、自分の母親の「叙位」に関する行事の最中に起きた騒動だっただけに、冷静な判断をすることができず、怒りにまかせて「切腹」を命じてしまったのです。これでは、信長や秀吉などの戦国時代の政治と何も変わりがありません。まさに、自分がやろうとしていたことと真逆の判断をしてしまったのです。そのために騒動は大きくなり、「赤穂の仇討ち」を期待する声が、大名たちからも聞かれるようになってしまったのです。そして、実際、1年9ヶ月後、その「仇討ち」が行われてしまいました。こうなると、幕府としても、知らぬ顔で「町奉行預かり」で処断することもできません。もし、御定法どおりの沙汰を下せば、また、あの刃傷事件の顛末が蒸し返されるのは必定です。「なんだ、あんときは、碌に調べもせずに切腹させやがって、今度は、知らぬ顔で御定法どおりやんのかよ…?」といった声が上がるに決まっています。そうなると、国としての統一した「法」の権威が揺らいでしまいます。そのことを幕府も将軍も怖れたのです。

事実、綱吉は側近の柳沢吉保を呼び、「どうしたらよいであろう…?」と相談しました。すると、吉保は「ここは、慎重に事を運びませぬと幕府の権威に関わりまする…」と答え、異例の「大名預かり」としたのです。「犯罪を犯した浪人者を大名が預かる」とは、前代未聞の処置でした。これには、江戸中の武士ばかりでなく町人たちも驚きましたが、それを非難する声は上がりませんでした。なぜなら、既に「赤穂浪士」は「忠義の士」であり、人々の「英雄」になってしまっていたからです。この「仇討ち事件」が、両国界隈の人や町の瓦版屋によって広まると、江戸の町は大騒ぎになりました。まるで芝居のような劇的な出来事が目の前で起きたのですから、人々が興奮して当然でした。そして、浪士たちが「大名預かり」だと知ると、だれもが、「そりゃそうだ。仇討ち本懐を遂げた忠義の士を丁重に扱うのは当然じゃねえか…!」という声が町に溢れたのです。ここに吉保の政治家としての企てがありました。

吉保は、あの城中での刃傷事件を片時も忘れたことはありませんでした。なぜなら、綱吉の「文治政治」は吉保の長年の夢でもあったからです。吉保は、子供のころから綱吉に仕えた側近です。綱吉とは、まるで「竹馬の友」のような関係にありました。そして、幼い頃から自分たちの「夢」を語り合っていたのです。それが「法治国家の建設」でした。頭の良い綱吉は、元々、武芸より「花鳥風月」とでも言うような風流なものを好み、本を読むことが大好きな人間でした。しかし、自分の周囲に仕える者たちの多くは、戦国の世を懐かしむような「武闘派」ばかりで、あまり賢くはありませんでした。しかし、吉保だけは違いました。甲斐の武田氏の流れを汲む吉保でしたが、綱吉と同じように賢く、唯一、同じ趣味・目標を持つ友人のような関係を築いたのです。そして、二人は、時間があれば「将来の国づくり」について語り合いました。もちろん、それは館林の田舎での話です。いくら将軍家の血筋とはいえ、綱吉が将軍になる可能性は低く、自分もなれるとは思ってもいなかったでしょう。それが、運命の糸に引かれるように徳川家五代将軍になってしまったのです。将軍になった綱吉は、幕府内の武闘派を一掃し、法を厳格に運用することにより「社会秩序」を取り戻そうとしていたのです。

その綱吉が、己の感情にまかせて裁断してしまったのが、「赤穂事件」でした。これでは、今まで吉保と共に行ってきた政治を自らが否定することにつながりかねません。そこで、吉保は一計を案じ、この「赤穂事件」を利用することを思いついたのです。それは、大石内蔵助という「男」だからこそでした。当初、吉保は、赤穂の開城にあたって不始末でもあれば、国家老である「大石内蔵助」という男を処罰することを考えていました。そうすれば、残された家臣の動きを封じ込めることができます。(主将として、大石が相応しいのかどうか、ここは見極めねばなるまい…)そう思い、赤穂に眼を光らせていました。しかし、届く情報のすべてが大石を賞賛するものばかりだったのです。そして、内蔵助の嘆願が幕閣にまで届いていたことも知りました。それとなく老中や大目付などに聞いてみると、だれもが「あの、赤穂の大石とやら、なかなか見事な手腕だそうな…」と誉めるではありませんか。そして、世間が「仇討ち」を噂している話も耳にしていました。そこで、保明が思案したことは「このまま泳がせてみよう。もし、仇討ちをするようなら、それもよし…。幕府への抗議は、そのまま吉良に被ってもらえばいい…」そして、「奴らが忠義の士となれば、まさに武士道の発露じゃ。世の侍すべてが、忠義の心を忘れず、主君や幕府に忠誠を誓わせることができる。この手を放っておくのはもったいない…」と言うものでした。

実は、内蔵助はこの企みに気づいていたようです。それは、刃傷事件から一年ほど過ぎたころから、山科に隠棲する内蔵助を見張る「眼」がなくなったことに気づいたからです。それまでは、橦木町に遊びに行くときも、「軽」と戯れているときも、数人の浪士と会って話をしているときも、その「眼」はあったと感じていましたが、それが、いつの間にか消えていました。それは、赤穂浅野家の後継者である「浅野大学長広」が広島の浅野本家にお預けになり、浅野家再興が潰えたときと一致しました。しかし、内蔵助はそのことをだれにも漏らしませんでした。(監視の眼が消えた…ということは、どういうことなのか?)と訝しんだ内蔵助は、半之丞を密かに呼びました。事情を聞いた半之丞は、これを指図した者がいることを指摘し、それは、「柳沢吉保殿しかおりませぬ…」と内蔵助に告げたのです。つまり、(柳沢殿は、討ち入りを黙認する…という暗示でありましょう)と半之丞から聞かされた内蔵助は、幕府に操られることを「よし」とはしませんでしたが、逆にそれを利用して、(我らの思いを世間に知らしめよう…)と企んだのです。ここにも、大きな駆け引きがありました。

内蔵助は、(柳沢が黙認するとしたら、それは、将軍家の失態を糊塗するための方便であろう。そうなると、こちらも心してかからねばなるまい…)と、気を引き締めるのでした。つまり、この「仇討ち計画」が、飽くまで「武士道」の規範に則っている間は黙認するが、それから一歩でも外れれば、直ちに捕縛するという暗示に思えたのです。なぜなら、我らが勝手な行動に出れば、世間の風向きは変わり、「英雄」を望んでいる人々の気持ちを裏切ることになり、彼らの支持は得られなくなるからです。この「英雄」として見られ続けなければ、たとえ吉良を討ち果たしたとしても、一挙は成功とは言い難いのです。そこまで考えた内蔵助は、半之丞と密議を重ね、用意周到な計画に練り上げたのでした。そして、それは、今まさに「成功」しようとしているのです。そして、最後は、仇討ちを果たした赤穂浪士46名が「立派に死ぬ」ことで完結すると考えていました。そのためには、「助命」をなんとしてでも阻止しなければなりません。しかし、最早、大名家に「お預け」に身となれば、それも叶いません。しかし、内蔵助は、(柳沢殿なら、しくじりはせぬであろう…)と考えていました。そして、内蔵助は、取り調べを受けている最中、何度も目付役人にこう申し続けました。「我ら一同、本懐を遂げた以上一日も早く泉下の内匠頭様の下に馳せ参じ、直接、ご報告を申し上げたいと思っておりまする…」と。

これも、内蔵助の「忠義の士」の演出に他なりません。もし、助命でもされれば、半之丞と苦労して練った策も「水の泡」となってしまいます。46人が揃って「腹を斬る」ことで、幕府はその面目を立て、赤穂浪士も「永遠の輝き」を得ることができるのです。「生きる」ことを望みとする若い浪士もいましたが、内蔵助は、最初から最後まで「我らに待つのは、死あるのみ!」と厳命していました。それ故、だれ一人として見苦しい態度を見せる者はいなかったといいます。そして、吉保は、「死か助命か…」で悩む綱吉を説得するために、儒学者の「荻生徂徠」を呼び「意見書」を書かせました。吉保が、綱吉と共に「文治政治」を行うにあたって、一番頼りにした学者が、町場にいた儒学者の荻生徂徠でした。徂徠は、意見書にこう書きました。「このたびの騒動は、確かに武士道に於いては賞賛されるべき忠義の行動でありましょう。しかしながら、法の下に於いては、江戸府内で騒動を起こした責任は免れませぬ。彼らは、既に多くの賞賛を浴び、武士道を全うした英雄となりました。ならば、彼らを英雄のままに死なせてやるのも情でありましょう。そして、罪は罪として罰し、武士道に則った切腹を仰せつければ、彼らの死は永遠のものとなりまする…」と。この「情理論」によって、内蔵助たちの「切腹」が決まったのでした。

元禄16年2月4日、内蔵助たちが起きて、次の間の床の間を見ると、そこには「生け花」が生けられていました。それを見た浪士たちは覚ったのです。「いよいよ、本日、処罰が下る…」。それは、お預け先の四家とも同じでした。そして、幕府から目付が到着し、浪士全員に「切腹」の沙汰が下されたのです。これで、内蔵助の企みも完成します。そして、柳沢吉保は(これで、徳川の世は、しばらくは盤石じゃな…)とでも考えことでしょう。そして、この大事を成し遂げた「大石内蔵助」という男を改めて(世の中には、すごい男がいたものじゃ…)と、その死を惜しみました。「切腹」は、浪士たちのお預け先である「細川・松平・毛利・水野」の各江戸屋敷で行われました。時刻は、何処も午後四時からだったようです。旧暦とはいえ2月は、まだ寒く、夕闇が迫っていました。内蔵助は、細川家の整えられた切腹の場に臨みました。背中側を屏風で覆い、畳を二枚敷いて、その上に白い布団を敷いたようです。その方が遺骸の片付けが楽だったのでしょう。内蔵助は辞世として「あら楽や 思いは果つる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし」と詠んだと言われていますが、真偽のほどは定かではありません。しかし、練りに練った策が功を奏し、それなりの「物言い」ができたことで、内蔵助は満足だったと思います。そして、その「魂」は、彼らの物語と共に後世に残されることになったのです。

4 吉良左兵衛義周

「赤穂浪士討ち入り事件」での一番の被害者は、なんと言っても、吉良家当主の「吉良左兵衛義周」でしょう。それにしても、幕府は本当に酷いことをしたものです。義周は、吉良上野介の息子である上杉綱憲の次男です。したがって、上野介の「孫」にあたる人物です。既に有名な話ですが、上杉家の先代が急な病で亡くなり、跡継ぎが定まっていなかったために、本来の幕府の法によれば「御家取り潰し」になるところでした。しかし、当時の幕府大老だった保科正之(会津候)が、「名門上杉家を改易にするのは、如何にも惜しい…」として、いわゆる「末期養子」を認めたのです。江戸時代の定めによれば、大名や旗本家では、万が一、当主に不幸が起きた場合、その跡目を襲う人物を決めておかなければなりませんでした。それは、それまでに度々起きた「御家騒動」の原因となったからです。しかし、どの御家もすぐに実子ができるとは限りません。できれば、「我が子」に跡を継がせたいというのは親心でもあります。そのため、側室を置いて多くの男子を産むことを期待されていました。商家などでは、実子がいなくても「夫婦養子」などを迎えて商家を継がせることもできましたが、武家はそういうわけにはいきませんでした。もし、実子ができず、また、跡継ぎも定めておかなければ、当主が事故等で亡くなっても御家を継ぐ者がありません。これは、「家を子々孫々までつなぐ」という当時の絶対的価値観からすれば、許されざる失態なのです。

こうしたことが、名門「上杉家」に起きてしまったのです。この窮地に力を貸したのが、高家筆頭であった吉良上野介でした。上野介の妻は上杉家から輿入れした「富子」です。富子には、上野介の子として男子がありました。しかし、本来であれば、この男子は「吉良家」を継ぐ大切な跡取りです。いくら、妻の実家の頼みであっても承諾できるものではありませんでした。それを上野介は、「嫡男を養子に出す代わりに、この子に男子が複数産まれたら、その一人を我が家に迎えたい…」という条件をつけました。まさに、前代未聞の出来事でした。普通に考えれば、こんな「条件」は、あってないようなものです。今でさえ、子が産まれず苦労している夫婦が多いのに、いくら側室を置いているとはいえ、男子が複数産まれる可能性は高くはないのです。事実、浅野長矩には跡継ぎの男子はいませんでした。そんな「お人好し」の上野介でしたが、幸い、養子に出した綱憲に子が産まれ、次男の「春千代」を吉良家に迎えたのでした。これが、事件当夜の吉良家当主「吉良左兵衛義周」です。まだ、二十歳前の若者でした。

元禄15年12月15日の夜明け前に「赤穂浪士」たちが邸に押し入って来ました。義周は、まだ成人前だったこともあり、酒席には出ず早めに床に就いていたといいます。外の物音に気づいた義周は、側にいるはずの近習に声をかけますが、前日の疲れのためか、側近の侍たちは熟睡したままでした。そのうち、物音が大きくなり吉良邸全体が騒がしくなってきました。そこに飛び込んできたのが、上杉家から付け人として派遣されてきていた「山𠮷新八郎」と「新貝弥七郎」の二人でした。この二人は、親子ほどの年齢差はありましたが、どちらも米沢の出身です。「殿、今のうちにお隠れ下さい!」と新八郎が申し出ますが、義周は「大殿をお守りせねば、私の面目は立たぬ!」と強い言葉を発して鴨居の上にかかっていた長刀を手に取りました。義周は、まだ若かったために、本身の刀より、非力でも使える長刀を得意としていたのです。しかし、ここで義周に死なれては、吉良家の面目が立ちません。なぜなら、現吉良家当主は「義周」だからです。そこで、新八郎と弥七郎が、その義周の前に立ち、防御の態勢を整えました。他の近習たちも寝所の前で敵を防ごうと身構えました。

そこに、大声で飛び込んで来る武装した侍たちが現れました。奴らは、同じ黒の刺子の小袖を着込み、かなり重々しい出で立ちで向かって来ます。それも一隊が三人組になっているようでした。最初に、若い近習たちが敵に襲いかかりましたが、次々と血飛沫を上げて倒れていくのがわかりました。こちらは、だれもが薄い寝間着一枚で戦っており、用意のいい新八郎と弥七郎が袴を着けているのみです。襖がガラッと開けられました。そこに、すかさず新八郎が渾身の面を打ち込みましたが、敵を斃すまでには至りませんでした。そのうち、乱戦になり、弥七郎は庭に出て戦っているようです。義周は、それでも長刀を振り回し、敵を追い払い続けましたが、しばらくすると、新八郎とも離れ、一人で三人の敵を相手に奮闘していました。しかし、あちこちに傷をつけられ、満身創痍で「最早、これまで…」と観念したとき、物陰から自分を引っ張る手がありました。義周はもつれる足で、そのまま倒れ込みました。すると、どこかから大きな屏風が自分の体に被さってきたのです。周囲では、未だに刀と刀がぶつかる音や肉が斬り裂かれる音、そして、大声で叫ぶ声や断末魔の声が耳に入りました。しかし、義周も多くの傷を負い出血もしています。起きようと藻掻きますが、もう、残された力はありませんでした。そして、そのまま意識を失ってしまったのです。

赤穂浪士たちは、上野介だけでなく義周も探していました。そして、義周の寝所の近くで「桐の紋」の入った長刀を見つけましたが、倒れている多くの吉良侍の中から義周を見つけることはできませんでした。義周は、倒れてきた屏風の陰に隠され、その周辺にも昏倒した家来たちが倒れていたからです。暗い闇の中で、顔が知られていない義周を探し出すことは、さすがの赤穂浪士にもできませんでした。義周が意識を取り戻したのは、浪士たちが上げる「勝ち鬨の声」によってでした。「エイ、エイ、オー!」と叫ぶ声でハッと眼を覚ました義周でしたが、頭からの出血で眼がよく見えません。手や足からも血が出ているようでした。義周は、祖父上野介の安否が気になりましたが、その浪士たちの声を聞くと(大殿は、討たれたのだ…)と確信しました。そして、義周の目からは、大粒の涙が零れ、血で霞んだ眼を洗い流しました。そして、体は氷のように冷え、出血もあって、再び意識を失っていったのです。

そのころ、刃を交えながら庭に誘導された新八郎は、多くの浪士と戦いました。敵は剣の腕は未熟ながらも、その気迫は鬼気迫るものがありました。その上、鎖帷子や鉢金、鉄甲などで武装していたために、敵の胴を払っても傷ひとつ負わないのです。そのうち、新八郎も体中に傷を負い、最後は頭を割られて昏倒しました。相手は、同じ米沢出身の「原惣右衛門」だったと言われています。弥七郎も、必死になって抵抗しましたが、遂に敵に囲まれ、一方の敵の刃を防いでいるうちに、敵の槍を腹に真面に受けて「串刺し」のようになって死んで行きました。それでも、最後までその槍を離さなかったようで、槍は途中で折られていました。弥七郎は死んでも自分を刺した槍を離さず、最期の抵抗をみせたのです。まだ、二十歳を少し過ぎたばかりの若武者でした。そんな戦いは各所で起き、吉良邸内は修羅場と化しました。戦国の世ならいざ知らず、平和な時代にここまで戦った武士は、いなかったでしょう。まして、当主である義周までもが長刀を取って奮戦したのですから、誉められて然るべきでした。しかし、幕府は、そんな奮戦を無視するかのように義周に厳しい沙汰を下したのです。

義周は、上野介が長矩に襲われたことで、自宅療養を余儀なくされました。その上、あの刃傷事件以降、世間の評判は最悪になり、邸も江戸城下の「呉服橋」から下総の国境である「本所」に移されていたのです。本所といえば、すぐ側に隅田川が流れており、湿気の多い土地でした。武家地は少なく「町家」が多いところです。以前の呉服橋と比べては申し訳ないほどの寂しいところで、上野介の落胆は、周囲の者が気づくほどでした。上野介は、普段から物事に拘らない性格で、家臣が失敗しても咎めるのではなく、逆に慰め、「よいよい、そちも一生懸命尽くしてくれたのだから…」と言って、家老たちに「叱らぬよう…」と注意をするほどでした。そんな上野介が肩を落としているのが、家臣たちには残念だったのです。それに、上野介には浅野長矩の刃傷の理由が何もわからなかったことも落胆の原因でした。確かに、「浅野に特別な扱いをしたか…?」と言われれば、二度目ということもあり、それほど親切に指導した覚えはありませんでした。まして、もう一人の饗応役である「伊達左京亮」は初めてのことでもあり、特に眼を配ったつもりでした。それに、長矩も先輩らしく振る舞っていたように見えたのです。世間では、「賄賂が少なかった」だの「赤穂の製塩法を教えなかった」だのと、勝手な憶測で噂が飛び交っていましたが、そんなことで「いじめ」をするような狭い器量は持ち合わせていません。たしかに、長矩の態度には腹も立ちましたが、それだけのことです。それが、勅使到着の当日になって、急に刀を抜いて襲って来たのですから、何が何やらわからないままけがをさせられ、自宅療養となったのです。

この顛末を聞かされた義周は、普段接している「大殿」の性格からして、そんな些細なことで意地悪をするような人間ではないことを確信していました。確かに、高齢となり貫禄はついて来ましたが、吉良家の家臣にも殊の外優しく、吉良の庄の領民への気遣いも大変なものがあったのです。見た目は涼やかで、威厳に満ちてはいましたが、その口調は穏やかで、都での貴族相手の作法に粗相がないように日頃から気をつけていたのです。朝廷と多くの交渉事をこなしてきた上野介は、常に「冷静」で慌てることはありませんでした。そんな大殿が、勅使を迎える日の大事な場で声を荒げることなどあるはずもありません。それは、きっと浅野長矩の方に問題があったとしか考えようがなかったのです。それが、いつの間にか悪いのは「大殿」の方だと一方的に決めつけられ、碌な取り調べもなく「邸替え」まで行われたことに、義周は悔しさでいっぱいでした。それでも、大殿から「よいか、義周殿。世間とはそういうものじゃ。いずれ、ほとぼりは冷める。そして、そのうち、真実が明らかにされるものじゃよ。気にせぬことじゃ…」そう言われて、高家見習いとしての修行に励むのでした。

しかし、そんな義周の心配を他所に、世間は赤穂浪士の討ち入りを望むようになってきました。当時、「仇討ち」は幕府や各藩の許可を得れば、可能な復讐でしたが、赤穂の浪人たちが正式に仇討ちの許可を得てはいません。それは、当然のことです。あの刃傷事件は、浅野内匠頭の一方的な襲撃であり、吉良上野介には「非がない」と裁定されていたからです。よく「喧嘩両成敗」という言葉もありますが、上野介に「喧嘩」をした覚えもありませんから、これでは喧嘩にはなりません。したがって、「仇討ち」というのは、赤穂の浪人たちや世間の勝手な言い分なのです。義周にしてみれば、こんな理不尽な扱いを受ける理由がわかりません。まして、吉良家は、高家職として幕府を支え、綱吉の母である「桂昌院」の「従一位」叙位のために奔走したのです。その功績は幕府の中でも最大のものであったはずです。その吉良家を幕府から追い出すように、邸を本所に移させ、大殿を隠居させてしまったのです。それでは、恰も「やっぱり、吉良が浅野をいじめていたんだ…」と世間が思ってしまいます。「厄介払い」という言葉がありますが、まさに、幕府は吉良家を厄介払いしたのです。これでは、まるで「狂犬の前に差し出された猫」のようなものだと義周は考えていました。だからこそ、赤穂浪士の押し込みに対して強い抵抗を示して見せたのです。

悪夢のような一夜が明けて、義周は生き残った家老の「左右田孫兵衛」によって救助され、麻布の別邸に移されました。もう一人の家老の松原多仲は何処に行ったのか見当たりません。それに、上杉家から「富子姫」付家老の「小林平八郎」は討ち死にをしていました。戦ってできた傷は、殊の外重傷で、その刀傷は何針も縫わなければなりませんでした。これでは、高家職はもう勤まりません。高家は、貴族との付き合いの多い仕事です。貴族たちは、血を嫌います。「赤穂の浪士と戦って傷を負った高家」など、傍にも寄せ付けないでしょう。(最早、これで吉良家も終わった…)と義周は感じていました。それでも、生き残った周囲の者たちは、本所の邸の後片付けや掃除に余念がありませんでした。大殿が愛でた美しい庭も荒れ果て、室内は滅茶苦茶でした。多くの家臣が死に傷つき、邸はいつまでたっても「死臭」が消えなかったといいます。ここには、必死に戦った侍の怨念が籠もっているのです。本所の邸に比べて「麻布」の邸は粗末で、簡単な掃除をして生活はできるようになりましたが、残った家臣は少なく、これまでのような生活はできませんでした。

自分の身は包帯で巻かれ、いつまでも傷が疼くのです。そんな義周には、もうなんの望みもありませんでした。数日が経過すると、家臣たちの安否がわかってきました。そして、自分の周りに仕えていた者たちの多くが亡くなっていることを報されたのです。義周は「そうか、そうか…。気の毒なことをしたな…」と言っては涙を流しました。義周の周りの者たちは、学問好きな者が多く、義周と一緒に学ぶ機会を設けていました。それは、「高家職」ともなれば、一般の武家が学ぶものの他に「有職故実」という平安時代から続く「貴族」の作法を学ばなければならないからです。義周が正式に「高家職」に取り立てられれば、家臣は一緒に都に上り、貴族との交渉に臨む必要があるからです。そのため、義周の側近は、眉目秀麗で優秀な者が多かったのです。その上、少年期から側に仕え、歳も近いことから、主従の関係はあっても、義周には「友人」に近い感情を持っていました。家老補佐の「鳥居理右衛門」が、ときどき、若い者たちに注意をしていましたが、義周が「理右衛門、そう叱るでない…」と言うものだから、理右衛門から「殿は、優し過ぎますぞ…」と小言をもらうことが多かったのです。それでも、そんな日常が義周は楽しかったのです。それが、たった数刻の間に暗転してしまいました。小言を言っていた鳥居理右衛門も義周を守って討ち死にしてしまいました。理右衛門は剣の腕も立つため、多くの赤穂浪士を相手に戦ったようです。その遺体は、他の者たちより多くの傷が見られました。生き残った家臣から、その最期を聞いた義周は、ショックで、もう流す涙もなくなっていました。

それからしばらくして、義周に評定所から呼び出しがありました。「評定所」というのは、幕府の裁判所のようなところで、大名や旗本の罪を問う機関です。家老の「左右田孫兵衛」に付き添われて評定所に出向くと、特に取り調べられることもなく、幕府からの命令が申し渡されました。それは、吉良家にとって受け入れがたいものでした。評定所の役人は、義周に向かって、「今回の騒動を起こしたこと、誠に不届きである。よって、吉良家は断絶、御身は流罪とする」と申し渡したのです。これには、義周も孫兵衛も驚くほかはありませんでした。「騒動」といわれても、起こしたのは「赤穂の浪人」であって、吉良家は、敵の襲撃を躱そうと必死に抵抗しただけなのですから、自ら起こしたわけではありません。しかし、「上意」は絶対です。既に裁決は下されたのです。義周は、何か言おうと思いましたが、孫兵衛がその袖を引き(殿、辛抱でござる…)と眼で訴えていました。義周は、傷が癒えず、包帯を体に巻いたまま平伏したのです。そして、外に出ると「迎えの駕籠」が待っていました。それは、吉良家の駕籠ではなく「諏訪高島藩」の駕籠でした。

それも、罪人を運ぶ「網」を被せたものです。義周は、評定所から自分の邸に戻ることすら許されず、罪人として諏訪に送られたのです。幕府は、当事者である「吉良家」の言い分も聞かず、世間の風評を追い風にして吉良を悪人に仕立て上げました。おそらく、柳沢吉保は「まあ、これで喧嘩両成敗であろう…」と呟いたことでしょう。真相は、単なる浅野長矩の性格と「病」が原因であったのに、ありもしない事実を勝手にでっち上げ、「吉良家」という戦国時代からの名家を取り潰したのです。そして、幕府の「落ち度」を上手に糊塗し、幕府にとって都合のよい「武士道」のあるべき姿を世間に見せつけました。それは、「武士は、主君への忠義を尽くしてこその武士道である」ということなのです。そして、その「忠義」には、理由は要りませんでした。「家臣」はひたすら主君に忠義を尽くせばいいのです。そんな生き方を全国の「武士」に求めたのが、この事件でした。そして、その「生け贄」にされたのが、吉良上野介・義周親子だったのです。

義周は、大石内蔵助たち46人が切腹をした日に「諏訪」に送られて行きました。お供を許されたのは、家老の左右田孫兵衛と付け人の「山吉新八郎」の二人だけでした。孫兵衛は、吉良家の家老ですから当然としても、新八郎がお供に加えられたのは、それだけ義周の信頼が厚かったからでしょう。新八郎は、元々は上杉家の家臣で、剣の腕前を見込まれて吉良家に仕えていました。義周の付け人として同僚の新貝弥七郎と共に奮戦し、無念にも顔面を斬られて昏倒しましたが、奇跡的に命を取り留めました。人間には、稀にこうした傷に強い体質の人がいるようです。大東亜戦争中も、敵弾を数発も受けながら奇跡的に生還した兵隊の話も伝わっていますので、「けがに強い体質」は、間違いなくあるようです。普通、厳寒の屋外で戦い、多量の出血をした人間が、治療もせずに数時間も放置されて助かることなどあり得ないと思いますが、新八郎は、その「奇跡」を起こした侍でした。それでも、体中に負った傷が癒えるのには相当の時間がかかりましたが、それでも、義周のお供を務めたのですから、立派な「忠義の侍」と言えます。

高島藩は、現在も復元された城が残されていますが、まさに「諏訪湖」を中心とした小藩でした。禄高三万石ですが、「諏訪家」といえば、かの武田信玄、そして勝頼親子に縁の深い家柄で、領内には「諏訪大社」が鎮座しています。しかし、冬になると厳寒の土地となり、諏訪湖では有名な「御神渡」現象が起きるのです。そんな高島城内の奥に義周は邸を与えられ、罪人として暮らすことを余儀なくされました。討ち入り時に受けた傷は、若さのためか治りは早かったようですが、心に受けた傷は、思いのほか深く、彼を蝕んでいったのです。当時の高島藩主は「諏訪忠虎」ですが、諏訪家は、先の上野介の恩を受けた大名家であったために、義周へは、かなり配慮がなされたといわれています。もちろん、幕府への届けなどには「罪人として扱う」ことが定められていますので、鋏やカミソリなどは「自殺予防」のために使用させなかったり、城内以外の外出は禁止、必要なことは幕府の指示を受ける…などの規則は守られたようですが、それでも、忠虎の配慮により、建前と実際は、かなり違った対応があったようです。しかし、それでも、義周の体調は優れず、床に伏すことが多くなってきました。食事も碌に摂れず、衰弱するばかりです。そのうち、江戸表から「祖母の富子」「父の綱憲」の死の報せが舞い込んでくると、最早、気力を失い二十歳を少し過ぎたころには、手の施しようもなくなりました。そして、吉良家の無念を晴らすことなく諏訪の地で亡くなりました。こうして、名門「吉良家」は、滅亡したのです。

今でも諏訪大社の社内にある「法華寺」の奥に「吉良義周の墓」が残されています。そして、その墓を守っているのが、「三州吉良の庄」の子孫の方々なのです。そして、法華寺には、義周を気の毒に思う人々の手によって立派な「木像」が安置され祀られていることが、せめてもの慰めになっています。「歴史」というものは、時に人間に非情さをもたらすことがあります。単に紙上だけでその人物を眺めていると、「ああ、気の毒な人だ…」くらいにしか思わないものですが、少しリアルに考えてみれば、これほど非情で理不尽な扱いを受けなければならないのか…という疑問が湧いてきます。それも、あれから400年以上の月日が流れても、吉良家の評価は地に墜ちたままなのです。「忠臣蔵」という芝居は、本当によくできた演劇です。善人と悪人がきちんと対比できるようになっており、観劇した人の心を揺さぶる演出がタイムリーに出てきます。そして、最後は「成功」かと思いきや、主役の「死」という形で結末を迎えるのですから、単なる「勧善懲悪」ではありません。しかし、この物語とは別な世界に「吉良義周」は存在しているのです。芝居の中では、内蔵助たちに切腹の沙汰が下されるとき、目付が内蔵助ににじり寄り「儂の一存で申す…。吉良家は、断絶とあいなった…」と、耳打ちするのです。それを聞いて内蔵助は、「ありがとうございまする。これで、泉下の殿によいお土産ができ申した…」と言って平伏するという形です。

実際、内蔵助は、ここまでを期待してはいなかったと思います。幕府が「公儀」を名乗る以上、一度下した裁定に「誤り」があろうはずがないからです。それを、赤穂の浪士が討ち入ったとして、なぜ、吉良家に咎めがあるのか納得できなかったはずです。咎めを受けるのは「大石」であって、「義周」ではないはずです。そんな理屈がわからない内蔵助ではありません。そうなると、この「吉良家断絶」は、幕府の都合で行われたことになります。これは、「法が国を治める仕組み」になっていない証拠です。おそらく、平伏しながら内蔵助は(柳沢殿もまだまだ甘もうござるな…)と笑っていたことでしょう。そんな内蔵助の気持ちに気づかない浪士たちや世間の人々は、悪役の「吉良」が酷い目に遭って大喜びをしました。しかし、この後、新しい時代の武士たちは、「忠義」を逆手に取って「天皇への忠誠」にすり替えてしまいました。そして、自分たちを「赤穂浪士」に準え、「徳川」を「吉良」に見立てた物語を編みだし、倒幕を成し遂げたのです。もし、大石内蔵助ならば、たとえ赤穂浪士を切腹という形で断罪しても、吉良家は、義周を当主として高家職を引き継がせたでしょう。それは、吉良家の人々も立派な「忠義の士」だったからです。知らず知らずに、己の失敗を糊塗するあまり、吉良を悪役に仕立て、断罪して誤魔化したつけは、150年後に払わされることになるのです。

義周を看とった家老の左右田孫兵衛は、法華寺に義周の永代供養を頼み、新八郎と共に諏訪を去りました。そして、孫兵衛は故郷の「吉良の庄」に帰り、そのまま農民として暮らしたそうです。今でも吉良の「華蔵寺」には、吉良上野介の墓があります。そこには、上野介の木像が安置されており、ここも「吉良の庄」の人々が大切に祀っています。孫兵衛は、そんな故郷で親しい仲間たちと共に余生を送ったのでしょう。それは、上野介、義周、吉良の家臣たちの供養のためでした。新八郎は、諏訪で孫兵衛と別れると、その足で江戸に戻り上杉家に帰参しました。そして、綱憲から労いの言葉をもらい、やはり故郷の米沢に帰りました。そして、米沢の地で若い者に剣を教え、あの「吉良邸での出来事」を話して聞かせたそうです。実際の戦場を経験した新八郎の話は上杉の侍たちの「魂」を強く揺さぶりました。新八郎の家は、その後も上杉家で大切にされ、明治の世を迎えています。新八郎の胸には、ずっと「義周」の無念が残されていたはずです。

5 柳沢吉保

この「赤穂事件」は、一面では「赤穂浪士」対「吉良・上杉」という構図のように見えますが、実は、「大石内蔵助」対「柳沢吉保」という面を併せ持つ事件だと考えられます。五代将軍徳川綱吉の時代、側用人の「柳沢吉保」の権力は絶大でした。今の歴史教科書では、綱吉を「犬公方」と呼び、特に「生類憐れみの令」を批判する方向で評価していますが、どうも、歴史の見方が偏っているように見えて仕方ありません。よく考えてみると、三代家光の時代までは、大名たちが戦国時代を生き抜いた武将ばかりでした。有名な伊達政宗なども生きており、徳川幕府は盤石ではなかったのです。私たちの時代でも、祖父の時代までのことは記憶に残っており、家族から「家の物語」は、よく聞かされました。もちろん、毎日のことではないですが、葬式や法事などで話題になることは普通だと思います。そうなると、「100年」くらいの歴史は、受け継がれることになります。現在は、「昭和100年」だそうですが、昭和の中期生まれの60代の私には、産まれる前の「30年」くらいは、父母や祖父母、伯父伯母、学校の教師などから聞かされて育った世代なのです。したがって、先の大戦は身近な人々の経験としてよく承知しています。

赤穂浪士の「事件」から100年遡ると、ちょうど「関ヶ原の戦い」のころになります。「100年」という年月は、確かに長い年月に見えますが、現代のような「科学発展の著しい時代」と異なり、当時の時間はもっとゆっくりと流れています。人々の気風もなかなか「平和」に馴染まないのも事実でしょう。戦国時代末期に登場してくる「宮本武蔵」などの武芸者が「剣の腕」で世に出ようとしたのも家光のころまで続きました。そんな気風は、浅野家にも伝わり、赤穂浅野家の祖である「長直」は、武芸を奨励して「山鹿素行」を赤穂に招いたり、「赤穂城」を新築したりと「武門の家」と呼ばれることを誇りとしていたのです。そんな「戦国体質」に楔を打ったのが、五代将軍「徳川綱吉」でした。綱吉は、性格的に「争いごと」を好まず、本を読んだり芸能を楽しんだりすることが好きな人間でした。前任者の実兄である四代将軍「徳川家綱」も優しい性格であったことが伝わっていますので、この兄弟は穏やかな人物だったように思います。父親は、三代将軍「徳川家光」ですが、家康、秀忠、家光、家綱、綱吉…と見る限り、信長や秀吉とは異なる「穏やかさ」が見えて来ますので、これも、徳川の「血筋」なのかも知れません。

先年、大河ドラマで、いつも迷っている「徳川家康像」が描かれましたが、意外とそうした優柔不断な面があったのかも知れません。私たちは、どうしても晩年の豊臣家を滅ぼしたような「謀略好き」なイメージ(狸親父)を持っていますが、それは、元々の性格というよりは、多くの修羅場を潜ってきた経験から身についた「第二の性格」なのでしょう。その証拠に、家康は「元和偃武」を説き、全国の武士に「武器を収めよ!」と命じています。そう考えると、歴代将軍が、その家康の祖法に忠実だったこともわかります。つまり、綱吉は、やはり家康の後継者なのです。綱吉の時代は、大名家の「改易」が多く、浪人者が巷に溢れたと言われていますが、これも幕府の方針に間違いありません。大名家にしてみれば、「難癖をつけられて、取り潰された…」と言い訳をしたくなりますが、実際、江戸時代の初期は「御家騒動」も多く発生しており、幕府内でも非常に醜い権力闘争が起きていました。そうした「争う気風」は、戦国時代の流れを汲んだもので、江戸後期の大名家とは随分違うことがわかります。後期になると「算盤勘定」ができない武士は疎まれ、軽い刀が好まれたと言いますから、武士同士の争いなどは、なかなか起きませんでした。また、武士に対する刑罰も厳しくなり、時代劇のような「無礼打ち」などを行えば、町人や農民も黙っていることはなく、その武士は切腹を申し渡されたそうです。幕末の「新選組」が「武士らしくあらねばならぬ」と「局中法度」を定めますが、あれなどは、「武士としてあるまじき振る舞い」を起こせば、即「切腹」でしたから、当時の正式な武士は、そんな規律に縛られていたのです。

綱吉の「生類憐れみの令」が、殊の外、歴史上で叩かれますが、それほど酷い法律とは思えません。実際、それまでの江戸の町は「死臭」が漂うような不潔な町だったと言われています。それは、犬猫が簡単に殺されてしまうからです。当時、野犬はどの界隈にも棲み着き悪さをしていました。それを浪人などが面白いように斬り捨てて放置してしまうのです。町の人間も殺生には無頓着で、道端に犬や猫、烏などの死骸があっても、みんな知らぬふりをしていました。それが原因で「疫病」が流行ることもあるのです。確かに、綱吉は「戌年」の生まれで、特に「犬を大事にせよ!」と命じ、町場には大規模な「犬小屋」まで設置し、野犬をそこで保護するようなことまでしていました。こうして、江戸の町の人に「生き物」を大切し、町を「清潔」に保とうとする心を養おうとしたのです。それは、「人間が人間性を取り戻すきっかけ」になりました。そして、「野生化」する犬猫を保護することで「治安」を守ろうとしたのです。実際、綱吉の時代は「元禄文化」なる華やかな文化が栄えた時代ですから、その功績を忘れてはなりません。

柳沢吉保は、そうした綱吉の側近として辣腕を振るった人物です。しかし、彼の晩年はけっして不遇なものではありませんでした。権力者というものは、往々にして、その座から退くと次の権力者によって酷い仕打ちを受けるものですが、吉保や柳沢家がそうした扱いを受けなかったということは、周囲のだれもが彼の功績を認めていたことになります。柳沢家は、吉保の跡を子の「吉里」が継ぎ、甲斐15万石から紀州郡山15万石に移封され明治維新を迎えています。そして、現代もその子孫が活躍されていますので、如何に「柳沢家」がしっかりと家を守ったか…ということがわかります。そう考えると、「赤穂事件」における柳沢吉保は、けっしてドラマに出て来るような「策謀家」ではなく、常に情勢を見ながら冷静に判断していたことが想像できます。もし、傍から見て「汚い策謀家」であれば、周囲の者たちから嫌われ、綱吉という後ろ盾がなくなった時点で、厳しい処断を受けたはずです。実際、そうした権力者は世界には数多存在しています。但し、「冷徹な眼」で赤穂の顛末を見ていたはずで、主将の「大石内蔵助」という男にも相当に興味を持ったはずです。なぜなら、彼らは「同年齢」なのですから、立場こそ違え「ライバル心」があったと思います。考えてみれば、内蔵助は元々の上級武家の出身ですが、吉保は館林の下級武士の倅です。「たまたま」の巡り合わせによって、方や改易された大名家の家老で、もう一方が幕府の権力者になっただけで、能力によって違いが出たわけではありません。したがって、吉保にしてみれば、内蔵助の評判を聞けば聞くほど、嫉妬心に似た「ライバル感情」が出たとしても不思議ではないのです。

そもそも、浅野内匠頭の切腹は、吉保の主導ではなく、将軍綱吉の瞬間的な決断だったと考えるべきでしょう。そして、その裁定後、吉保は赤穂の出方をじっくりと見定め、幕府としての方針を決めたはずです。そして、その基準は「武士道」に則るものかどうかでした。もし、何処かに落ち度があれば、即座に「赤穂浪人」を捕縛し、処断するつもりでした。理由はいくらでも考えつきます。まして、元武士とはいえ「浪人者」を取り締まるのは、そんなに難しいことではありません。京都であれば、京都所司代に命じて内蔵助が住む「山科」を急襲すれば、幹部を一網打尽にすることができるのです。しかし、吉保は、それをしませんでした。なぜなら、内蔵助は、幕府に対して「隙」を見せなかったからです。確かに、京都在住の浪士とは何度も逢っていますが、これは、名目上は「仕官先を探す」ことであり、「御家再興を願う」ことでもありました。その上、都の色里に出かけては、遊び呆けているのですから、「取り締まる」口実を見つけることはできませんでした。

そのうち、江戸城内や江戸町内で「討ち入り」を期待する声が高まっていることに気がつきます。そして、吉良と浅野が「喧嘩」したことになっているのですから、吉保も驚いたことでしょう。吉保にしてみれば、世間が勝手に「喧嘩」と解釈してくれるのであれば、これを利用しない手はありません。なぜなら、喧嘩であれば「両成敗」が原則だからです。当初、吉保は吉良上野介が刀も抜かず、神妙だったことから、浅野の「乱心」と判断しました。だからと言って、「即日切腹」は横暴というものです。それは、吉保もよくわかっていました。これは、間違いなく綱吉の「勇み足」なのです。しかし、将軍に非があることを認めることは徳川家、そして、幕府の威信に関わりますので、知らぬ顔を決め込み、ほとぼりが冷めるのを待つしかありません。いたずらに幕府が声明でも出せば、さらに幕府の裁定への不満は高まるでしょう。吉保は、しばらく様子を見ることにしました。すると、世間では、この「喧嘩」の理由を勝手に創り上げ、上野介を完全な「悪者」に仕立ててくれたのです。浅野は乱心ではなく、上野介の理不尽な「いじめ」に、我慢に我慢を重ねた結果、堪忍ならず「場所柄も弁えず刃傷に及んだ」気の毒な殿様になっていました。まさに、長矩は乱心者ではなく「悲劇のヒーロー」扱いなのです。こうなると、吉保も簡単に赤穂浪人を捕縛することができなくなりました。

吉保が、内蔵助たちに「討ち入り」をさせようと決断したのは、赤穂城の開城から一年も過ぎたころだと思います。内蔵助には、開城からずっと吉保の命を受けた「間者」が、見張りを続けていました。そして、逐一報告を吉保にもたらしていたのです。それは、内蔵助の些細な事柄まで網羅されており、吉保は「大石内蔵助」という男を徹底的に知ろうと考えていました。もし、自分の期待に応えられないようなら、即座に捕縛して首を刎ねるだけのことです。逆に「使える男」であれば、世間の期待どおり、吉良邸に討ち入らせ、上野介の首を挙げさせようと考えました。吉保は、心の中で(儂の期待に応えてみよ!大石!)と呼びかけていました。吉保にとって、この「赤穂事件」は、実は千載一遇の好機でもあったのです。徳川家康が「元和偃武」を掲げ、平和な国づくりを目指して100年。それなりに幕藩体制も整い、社会に「秩序」が生まれるようになってきていました。しかし、武士の中には未だに「武芸」を貴び、軍備を整えようとする大名もいる始末です。江戸の町でも「殺人」は日常茶飯に起こり、風紀が乱れていました。これを改善しなければ、「偃武」は訪れないのです。

しかし、もし、大石内蔵助たち赤穂浪士が、粛々と行動し「主君の仇」を討てば、それを期待していた世間は、大石たちを「英雄」と讃えるでしょう。そして、だれもが「赤穂浪士にあやかりたい」と願うはずです。そして、それが「武士道」に叶うものであれば、全国の武士は、だれもが「武士道」の信奉者になるのです。それこそが、家康が望んでいた「平和な時代の武士のあり方」に他なりません。そう考えた吉保は、内蔵助に幕府の行く末を賭けてみたのです。そして、実際、一年半以上が経ち、内蔵助が動き始めました。それを察知した江戸町奉行からも吉保に問い合わせがありました。それは、「大石一党が、動き出しておりまする。如何いたしましょうか?」というものでした。吉保は、「うむ、儂も承知しておる。このまま捨て置け!」と命じました。実際、町奉行としても、探索方によってもたらされた情報のみで動くには、無理があります。明らかに「徒党」を組むか、「武装」して街中に出てくれば捕縛が可能ですが、情報だけでは動けません。まして、世間は赤穂浪士に同情的で、吉良邸への討ち入りを期待している始末です。それは、町奉行所内の役人にも大勢いました。要するに、町奉行としては、あまり角が立つような真似はしたくなかったのです。それに、将軍家お側用人の柳沢吉保からは「勝手に動くな!」と厳命されているのですから尚更です。町奉行としても赤穂浪士には同情的でした。吉保が、「捕縛せよ!」と命じればやむを得ませんが、そうでない以上、吉良邸討ち入りが「成功」するようにと、だれもが期待をしていたのです。

吉保は、そんな世間の声に応えるように、赤穂の一党を監視しながらも自由に泳がせることにしたのです。もちろん、それは内蔵助も気づいていました。半之丞と密かに計画を練っているとき、半之丞が「太夫、幕府は我らの討ち入りを望んでいるやも知れませぬな…?」と囁きました。すると、内蔵助は「そうよのう。まあ、そうであるなら、それに乗ってみるのも一興ではあるな…」と、ぼそっと呟きました。内蔵助の頭に中には、既に吉保との戦いが始まっていたのです。吉保は、監視を始めて一年後には山科に放っていた間者を皆引き揚げさせました。そして、その者たちを今度は江戸の各所に潜ませたのです。(近々、内蔵助は江戸に入るであろう。さて、どのようにして討ち入るのやら見物じゃ…)そう思いながらも、吉保は内蔵助の手腕に感心していました。(もし、立場が逆であれば、儂はあの者のように上手く手配りができたであろうか…?)それは、吉保の内蔵助への嫉妬だったのかも知れません。しばらくすると、吉保の下に内蔵助たちの動きが入ってきました。「邸の図面を手に入れたこと」「天川屋という大坂の商人が援助していること」「吉良邸で年忘れの茶会が開かれること」「仲間が50人足らずであること」…など、内蔵助の情報を握りながら、吉保は何も動きませんでした。吉保が動くのは「討ち入り成功後」と決めていたからです。(この後始末次第で、幕府の行く末が決まるというものじゃ…)そう考える吉保でした。

「赤穂浪人が討ち入った!」との報告が吉保に入ったのは、赤穂浪士が吉良邸に押し入って間もなくのことでした。吉保は、即座に家臣を呼ぶと大目付の「仙石伯耆守久尚」の邸に走らせました。それは、上杉家の出兵を止めるためです。伯耆守は吉保からの書状を読むとすぐに家臣数名を米沢藩上屋敷に走らせました。「大目付、戦仙石伯耆守の命でござる!」と声高に叫んで門を開けさせるや否や「火急の用にて、罷り越しました!」と、伯耆守の書状を上杉家江戸家老「色部又四郎」に手渡しました。ここでも、「赤穂浪人が討ち入った!」の報せが既に入っており、当主上杉綱憲は、出兵の準備をしていたのです。そこに大目付からの使者が来たことで、上杉家は出兵を断念しました。芝居では、江戸家老の色部又四郎や千坂兵部が、一身を擲って上杉綱憲を押し止めたように描かれますが、実際は、大目付の命を受けて断念したのです。もし、吉保の指示が一歩遅れていれば、上杉家が出兵し、両国付近で赤穂浪士との戦いが行われていたはずです。これも、「討ち入り」を想定していた吉保の判断によるものだったのです。

もし、米沢藩兵が赤穂浪士と一戦交えることになれば、双方に多くの死傷者が出たばかりでなく、江戸府内において「大名家と浪人共」が私怨による戦いを行ったという罪で、双方を罰せなければなりません。そうなると、「主君の仇討ち」が「騒動」にすり替わり、吉保の目論見が潰えてしまうのです。その上、赤穂浪士は英雄どころか、「市中を騒がせた大罪人」として裁かれ、「斬首の上、獄門」は免れません。そうなれば、彼らの家族一同も酷い罰を受けなければならないのです。そして、吉良家、上杉家は騒動を起こした責任を問われ「御家取り潰し」となります。当然、吉良義周と上杉綱憲は切腹でしょう。それは、いずれ吉保の責任問題にまで発展し、失脚させられるかも知れないのです。それを防ぎ、「盤石な幕藩体制」を創るのが、吉保の使命なのですから、上杉家の出兵を止めたのは当然でした。こうして、吉保は一睡もせずに、じっと「事の成り行き」を見守っていたのです。

首尾良く上野介を討ち取った赤穂浪士一党は、回向院門前で上杉方を待つものの現れず、事前の計画にしたがって「高輪泉岳寺」へと向かいました。休憩中には、「美作屋」に陣取っていた「天川屋」の店の者たちが甲斐甲斐しく浪士たちの世話をしたはずです。曲がった刀を交換したり、衣服を整えさせたり、湯を飲ませたりと「次の戦い」に備えさせたはずです。それが、天川屋の役割でした。そんな姿は、騒ぎを聞きつけて集まった者たちも見ていたはずですが、天川屋がそのために罰を受けたという話はありません。「見て見ぬふりをする」とでも言うのでしょうか、だれもが、赤穂浪士を応援していたのです。実は、それをじっと見詰めていたのが、大目付仙石伯耆守とその家臣たちでした。大目付配下の侍たちは、騒ぎにならないよう武装して泉岳寺界隈に気を配っていたのです。上杉を止めると、吉保からは、「一人の不心得者を出さぬよう、厳重に警戒して泉岳寺に入れよ!」という指示が出されました。赤穂の一党が引き揚げる道筋には、既に噂を聞きつけた江戸の町人共が歓声をあげて待ち構えていました。しかし、その道々、大目付配下の侍が警戒していたために、大きな混乱はありませんでした。逆に、沿道では酒や果物、餅などが浪士たちに振る舞われましたが、浪士たちは、整然と隊列を整えたまま泉岳寺に向かったのです。これは、内蔵助と半之丞の指示によるものでした。とにかく、内蔵助も「事が成就した」からといって、すべてが終わったわけではありません。きちんと幕府の裁きを受けた後、処断されることを望んだのです。それが、内蔵助の考える「武士道」でした。

泉岳寺では、早速、大目付配下の侍たちが待ち受け、取り調べを始めました。そして、赤穂浪士たちが使用した武器、武具の一切を没収しました。その扱いは丁重で、けっして罪人を取り調べるような態度ではなく、寧ろ、労いの言葉の方が多かったといいます。泉岳寺では、住職の計らいで温かい「粥」や「味噌汁」が出され、疲れた胃袋を温めました。そして、夕刻まで銘々で寛ぎ、一旦、仙石伯耆守邸に送られ、深夜になって「細川、松平、毛利、水野」の各大名屋敷に引き取られて行きました。夕刻からは、雨が降り始め、浪士たちは武家用の駕籠に網を被せた「罪人用」の駕籠に一人ずつ乗せられて泉岳寺を後にしたのです。吉保は、目付から「無事に四家のお預け先に到着した由にございます」との報告を受けると、これからのことを思案し始めました。それこそが、この事件の後始末で一番大事なところなのです。浪士たちは、その身分、石高に応じて四家に預けられました。大将の内蔵助は細川家に、副将の主税は松平家といった具合です。細川家では、深夜にも関わらず、藩主「綱利」が興奮した面持ちで内蔵助たちを迎えました。それは、吉保が期待していたとおり、赤穂浪士が行った行為が「武士道」に則った「義挙」であると大藩である熊本藩が認めたことを意味していました。

吉保は、聞こえてくる「細川家」の内蔵助たちの扱いに対して何も言いませんでした。細川家では、預かった17名の浪士に対して奥座敷を用意し、二汁五菜の料理でもてなしたと言われています。そのため、腹がおかしくなり、浪士たちの方から「普段、食べ付けない豪華な食事なので、腹がきつくて適いません。すまぬが、粗食でお願いしたい…」という申し出をする始末でした。それでも、「一汁三菜」は提供されたようです。また、着替えから寝間着、小袖まで用意し、まさに「英雄」を迎えるような厚遇ぶりでした。この話を聞いた他の三家も「罪人」としての扱いを止め、細川家に倣うようになりました。「罪人」の者をこんなに丁重な扱いをしたのは、歴史上初めてのことです。それに対して、幕府から何も注意されなかったということは、幕府自身が赤穂浪士の行動を暗黙のうちに「仇討ち」と認めたことになります。そして、それは「徳川幕府」への信頼を高める原因になりました。そこに吉保の真のねらいがあったのです。吉保から「赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、上野介の首を挙げた」と聞かされた綱吉は、珍しく興奮し「そうか、やったか…」と上機嫌だったそうです。自分の不始末で起きた事件なのに、綱吉はそんなことは忘れて、世間と同じように喜んだのです。その上、吉保に「彼らを助命してやりたい…」とまで、言うようになりました。そして、自ら上野の寛永寺に出向き、「皇族」である「公弁法親王」に相談を持ちかけました。それは、「赤穂浪士たちの助命」についてでした。

綱吉は、幕府の法として「助命」できないことは承知していました。しかし、武士の作法に則った形で「仇討ち」を成し遂げたことを殊の外喜んだのです。そのため、なんとか助命してやりたいと願うようになりました。しかし、どう考えても江戸府内で徒党を組み、騒動を起こした責任は免れません。幕府としては、やはり「罪を問う」以外に道はないのです。そこで、皇族である「法親王」の力を借りようと考えたのです。もし、「法親王殿下」からのお言葉をいただければ、それを口実に命を助け、幕臣に加えようと考えていました。しかし、「法親王」は、その質問には答えませんでした。と言うより、答えられなかった…と言うべきです。内心では、「助けるべきではない」と考えていたようです。実は、その背後には吉保の助言が働いていました。実は、当時も今も「皇族」に直に質問をすることは許されません。事前に質問が渡され、それに対しての答えを側近の者が用意するものなのです。この場合も、たとえ将軍と言えども、慣例を破ることはなかったはずです。つまり、幕府からの事前予告に対して、吉保が用意した答えは「答えないでいただきたい…」というものでした。それが、たとえ「死または助命」であったとしても、朝廷に責任を負わせることになります。それは、建前であっても「臣下の取るべき道」ではないのです。綱吉は、それほどまでに狼狽えていたということです。

それは、綱吉だけではありませんでした。幕府の中でも「助命論」が大半を占め、儒学者の「林鳳岡」までもが助命論を説いていたのです。また、武士の裁判を司る「評定所」も、まるで熱に浮かされたように赤穂浪士を讃え、吉良家に厳罰を求めていたといいます。吉保は、そんな姿を見て、ある憂いを感じていました。(人間とは、こんなにも愚かなものなのか?だれが見ても法を犯した者共を道徳論で賞賛し、法をねじ曲げようとしていることに気づかない。もし、それが許されるのであれば、今後、第二、第三の赤穂浪士が現れるであろう。道徳論として正しければ、法を破っても構わないとなれば、いずれ幕府は立ち行かなくなる…)吉保は、冷静にそんな熱病にでもかかったような世間を眺めていました。そして、自分の学問の師である「荻生徂徠」を呼んだのです。徂徠は、「異端の儒学者」であり、公に仕えることを拒否し続けた硬骨漢としても有名でした。町場に暮らし、吉保が招いたときだけ邸に現れるのです。そこで、自分の思想を語り、飯を食い、僅かな謝礼をもらって帰っていくという不思議な男でした。しかし、その舌鋒は鋭く、その理論の正確さは恐るべきものがありました。そのため、「人々を惑わす学者」として、何度「牢」に入れられても、己を曲げることはしませんでした。

吉保は、そんな学者に興味を持ち「柳沢家の客分」として遇したのです。その日も、徂徠は一人でひょこひょこと柳沢邸にやってきました。一応羽織は着ていますが、そのなりは、町場にいるときと何も違いはありません。言葉遣いも改めるでもなく、吉保の前であっても「緊張する」ということがないようでした。吉保は、奥の座敷に徂徠を通すと人払いをして、挨拶も早々に尋ねました。「先生は、このたびの赤穂の者共の一件、どのように考えますか?」。徂徠は、(やはりか…?)とでも言うような顔をすると、「殿様。殿様の心は既に決まっておるのではないですか?」と前置きをした上で述べました。「彼の者共は、確かに一見、武士道に則ったように振る舞ってはおりますが、その真意は、公儀に対する物言いでありましょう?」。それは、吉保が思っていたことでした。徂徠は続けて「確かに、浅野様に早々に切腹させたことは、幕府の失策でございました。あのとき、きちんと取り調べ、ことの是非を明らかにしておけば、こうはならなんだと考えます…。それに対する赤穂浪人の物言いは当然と言えば当然。ならば、今回のことを幕府は、どう裁くおつもりか…。というのが彼の大石内蔵助の物言いでありましょう…」。吉保は、心の中で(やはりな…大石。小賢しい奴よ…)と思いながらも、(儂が同じ立場であれば、そうしたであろう…)と考えていました。

「ならば、先生は、赤穂の者共の処分をどうお考えか…?」。吉保の問いに徂徠は躊躇いも見せずに「まあ、切腹が妥当なところでござろう…。確かに、武士の世界は忠義の世界と申せましょう。忠義なくせば、世の秩序を保つことは叶いませぬ。それは、家康公以来の武士道に則った行為である故、だれも批判はできませぬ。しかし、忠義とは道徳でござる。飽くまで心の有り様の問題。それを以て法とすることは危険極まりない。法は法として厳格であらねば法とは呼べぬもの。したがって、武士道に則った死を賜れば、赤穂の者共は納得できましょう。そして、仇討ちと称して徒党を組み、幕府高官の邸に押し入り、先の高家筆頭職を殺めた罪は罪。情を理解しつつ法で裁く。これが最善の解決策にござりまする」。徂徠は、そこまで言うと「では、別室に下がらせていただき、飯など所望いたしまする…。御免」そう言うと、さっさと下がってしまいました。吉保は、(やはり、徂徠は名学者じゃ…)とほくそ笑みました。そして、家臣を呼ぶと「徂徠先生に飯をたらふく食わせてやれ!」「それと謝礼を忘れるでないぞ…」と、すっきりした顔で命じるのでした。

結局、議論を尽くしきったころに吉保が述べた「情理一体論」が周囲を納得させ、内蔵助たちは切腹を仰せつかったのです。そして、同時に「吉良家の断絶」が決まりました。当主義周は諏訪高島藩に流罪となったのです。これについては、吉保にも忸怩たる思いがありました。なぜなら、当初の将軍綱吉の誤りによって引き起こした事件を最後は、すべて「吉良家」に押し付けて幕引きを図ったからです。「喧嘩」でないものを世間の風潮に流されて「喧嘩」として「両成敗」に処するやり方は、幕府にとって都合のいい解釈でした。しかし、それが「嘘」であることは、吉保自身がわかっていたことです。(これで、よかったのであろうか…?)そう思う気持ちも吉保にはありました。本来、法を司る者に「嘘」があっていいはずがありません。その「嘘」を吐く自分に嫌悪感を抱く吉保でした。それでも、そうでもしなければ、将軍の過ちを幕府自身が認めざるを得なくなるのです。それは、幕府の「威信」としてできない相談でした。その代わり、吉保は高島藩主の諏訪忠虎を呼び、小声でこう告げたのです。「忠虎殿。此度は面倒を押し付けて相済まぬと思っておる。義周殿にも気の毒なことをしてしまった。流罪とはいえ形ばかりで良い。義周殿もお若い故、しばらくすれば罪も解かれよう。そうすれば、吉良家の再興もあり得る話じゃ。どうか、諏訪で無事に暮らせるようお取り計らいくだされ…」。それは、吉保のせめてもの謝罪の言葉でした。しかし、忠虎は、それを義周に告げることはありませんでした。それでも、忠虎は、吉保の命を守り、義周を罪人扱いすることなく、自分自身も何度も邸を訪ね慰めましたが、義周の受けた心の傷は深く、たとえ若い体であっても「心の傷」が癒えることはありませんでした。義周は、その後、僅か2年足らずでその生涯を終えたのです。吉保は、その後、吉良家を親戚筋の者を立て再興しました。

「人の噂」というものは、その人の生涯に大きな影響を与えるものです。芝居の柳沢は、権謀術数に長けた「悪人」として描かれますが、この「赤穂事件」の扱いを見ても、けっして悪人でないことがわかります。この事件は、日本中の大名が注目をして見ていました。また、江戸の人々の「話題」の中心となっていたのです。そうした中で、幕府が赤穂浪士を丁重に扱い、立派な切腹の座を設け、全員を泉岳寺に弔ったことで「おい、ご公儀も偉いじゃねえか…。赤穂の浪士を義士として認めたんだ…。俺は見直したぜ!」という声が高まり、社会は安定して行ったのです。もし、吉保が四角四面の人間で、単なる「浪人共の騒動」として扱っていれば、町衆ばかりでなく、各大名・旗本筋からも強い抗議の声が上がったことでしょう。そうなれば、事件は蒸し返され、綱吉の過ちを再度掘り起こされることになったはずです。それを未然に防ぎ、赤穂浪士を「義士」とすることで、「武士道」を確立させた功績は大きかったと言わざるを得ません。これにより、徳川幕府は100年の「寿命」を得たのです。それを知る幕府と大名たちは、綱吉が亡くなった後も、柳沢家の存続を許しました。吉保は有名な「六義園」を創り、そこで悠々自適な隠居生活を送ったそうです。そして、跡を継いだ「柳沢吉里」は、甲斐15万石を引継ぎ、その後紀州郡山15万石に移ってからも善政を行い領民に慕われたといいます。しかし、その「つけ」は、さらに150年後に訪れました。赤穂浪士によって「忠義」を学んだ武士たちは、その道徳を今度は、倒幕に結びつけたのです。これも「因果」というものでしょうか。

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