芝居の「忠臣蔵」ファンの中で「菅谷半之丞」を覚えている人がいたら、その人は間違いなく「忠臣蔵好き」と言えるはずです。この人物は、赤穂浪士47士の中でも、その姿がまったく見えない浪士なのです。もちろん、経歴は立派な「武士」であり、赤穂浅野家の譜代であり、100石取りの「馬廻役」ですから、浅野家家中では「番方」と呼ばれるエリートだったはずです。赤穂事件が起きて、吉良邸討ち入りが成功すると、江戸の町の人々は挙ってこの快挙を悦び、赤穂浪士一人一人の「物語」を知ろうと大騒ぎになりました。今でも、芸能人やスポーツ選手が活躍すると、国内が大騒ぎになるのは、昔も今も同じです。そして、その人物の逸話が掘り起こされ、次々と報道されて行くのです。今の「大谷翔平選手」の例を見てもわかるでしょう。彼の言動は、くしゃみをしてもニュースになるくらいで、何でも知りたがるのが人間の「好奇心」というものです。江戸前期に於いて「赤穂浪士」ほど、人気になった人物はいません。したがって、「赤穂義士」となった46人については、徹底的に調べ上げられ「瓦版」や「忠臣蔵」の芝居のモチーフになっていきました。その中で、ただ一人、よくわからない男がいたのです。それが「菅谷半之丞」なのです。
もちろん、主だった経歴はわかっていますが、浅野内匠頭切腹後、吉良邸討ち入りまでの「足取り」が掴めないのです。したがって、その姿を知る者も少なく「容貌」すら曖昧なままなのです。つまり、赤穂浪士のスターでないことだけは確かなようです。赤穂浪士の中で、一番有名なのが、大石内蔵助を除けば「堀部安兵衛」でしょう。現代劇に於いても多くの二枚目俳優が演じる忠臣蔵の大スターです。あの時代に於いて二回もの「仇討ち」を行った男で、吉良邸での壮絶な戦いは、江戸庶民の心を鷲掴みにしました。そして、弱冠16、17歳で討ち入りに加わった「大石主税」や「矢頭右衛門七」なども、赤ら顔の少年浪士でしたから、その最期は涙を誘いました。他にも、「神崎与五郎の馬子の又潜り」や「赤埴源蔵の別れの徳利」「岡野金右衛門の恋の絵図面取り」など、脚本家が描いた「物語」は、どれも秀逸で、人々の涙と感動を彩る話になっています。しかし、半之丞には、そんな人の感動を呼ぶような逸話は一切残されていません。それより、父親の後妻と折り合いが悪かったとか、兄が出奔しただとか、どうも芝居にはならないような話しか残されていないのです。
しかし、一方で「軍師」としての噂が密かに囁かれていました。ただ、半之丞は内蔵助と同年で「山鹿素行の弟子」を名乗るには若すぎます。しかし、父親ならどうでしょう。父親の「菅谷平兵衛」ならば、山鹿素行が赤穂に流罪になっていたときには、知行100石取りの若侍として将来を約束された身であったはずです。当時の藩主「長直」は、殊の外「武芸」に熱心な殿様であり、山鹿素行に1000石を与えて遇したことからも、赤穂浅野家を「武門の家」にしたかったことは間違いありません。そうであるならば、番方の筆頭である「馬廻役」は、いの一番に「素行塾」に入門させ、「山鹿流軍学」を学ばせたはずです。そこに半之丞の父である平兵衛がいても不思議ではありません。そもそも、山鹿流は「甲州軍学」を基礎としており、武田信玄を崇拝していました。武田信玄と言えば「風林火山」が有名ですが、これは、単なる「激しさ」ばかりを求めているのではなく、「静かなること林の如く」そして、「動かざること山の如く」とあります。つまり、「林・山」には、「隠す・隠れる」ことも意味しているのです。ならば、菅谷平兵衛の役目は「隠密働き」と考えてもおかしくはありません。そして、それは、菅谷家の仕事となり、「出奔した」とされていた兄「松之助」は、身を隠して他国の情勢を探っていたのかも知れません。そして、菅谷家の跡を継いだ半之丞は、父平兵衛から直に「山鹿流兵法」を学び、「御家の大事」に備えるよう育てられたと考えることができるのです。他にも弟がいたようですが、詳細はわかってはいません。ただし、半之丞が、赤穂城開城後、兄や弟たちを頼って他国を転々を動いていることはわかっていますので、半之丞には「赤穂」にいては困る「密命」が与えられた可能性があります。そうした「忍」のような動きをしていたのであれば、余計な逸話を残さなかった理由もわかります。
藩主「長直」は、けっして気紛れな人物ではありません。赤穂城の築城に当たっても「戦国の城」を研究し、かなり堅牢な城を築きました。また、その「城下」には、塩害を防ぐために「上水道」を引き、浅瀬を埋め立て、かなりの「塩田」を開いています。塩田は、浅野家が赤穂に入る前から地元で行われていた産業ですが、これを「資産価値」として認め、藩の経営に生かすなどとは、「米本位」の並の大名たちでは考えもつかなかったでしょう。それを示唆したのも山鹿素行しかいません。そして、関西地方出身の武士であれば、その意味を即座に理解したはずです。それは「大坂」という一大商業都市を見ている人間なら気づくことなのです。幕末になって「倒幕」が成功したのは、幕府が常に「米本位制」でしか経済を見ることができなかったのに反して、西国の雄藩では、大坂の商人と組んで「物の売り買い」で経済を回していたからに他なりません。もし、田沼意次時代のように「貨幣経済」の意味がわかっていれば、幕府も簡単には倒れなかったはずです。赤穂浅野家は、わずか「五万石」の小藩ですが、それは「米の取れ高」でしかなく、「赤穂塩」による利益は計算されていません。普通に考えれば、五万石の小藩が、戦国時代さながらの「城郭」と「城下町」を開くことが可能なはずがありません。おそらくは、その数倍の資産が赤穂浅野家にはあったことになるのです。
菅谷平兵衛一族は、赤穂浅野家譜代の家臣として、長直の命により「馬廻役」の他に「探索方」のような役目を与えられていたのでしょう。浅野長矩が吉良上野介に刃傷に及んだ事件後も、その役目は大石内蔵助から命じられており、浅野本家や親戚方の動向などを探っていたはずです。また、江戸にも同じ役目の者が派遣されていたはずで、その「動き」は逐一、内蔵助に届けられていました。そうした判断があって初めて、内蔵助は「御家再興運動」から始めて、それが頓挫するや否や「吉良邸討ち入り」に計画を変更したのです。そして、その探索方の中で実際に討ち入りに参加した者は、菅谷半之丞だけでした。その他の侍が浪士の中にいたのか、それとも参加しなかった(できなかった)のかは、不明です。当時、徳川幕府は西国大名に殊の外眼を光らせていました。あの「関ヶ原の戦」から100年、幕府の基礎は固まったとはいえ、三代家光のころまでは外様大名の「改易」は続き、特に豊臣恩顧の「福島家」や「加藤家」が潰されたことで、薩摩の島津や長州の毛利などは、戦々恐々としていたのです。当然、広島の「浅野家」も同様でした。そんな中で起きた「赤穂浅野家」の不祥事は、幕府の眼を一層厳しいものにしていたのです。
今でもそうですが、「情報戦」は、けっして表には出してはいけない「忍」の戦いでした。「先手必勝」という言葉があるとおり、戦は「先手」を取ったものが九分九厘勝ちます。もし、赤穂浅野家旧臣に「謀反」の疑いがあれば、即刻、捕縛しなければなりません。「謀反の芽」は小さいうちに摘むに限るのです。大石内蔵助は、赤穂城の開城後に「旧探索方」の元家臣に命じて、その動きを探らせていました。中には、身元がばれて密かに始末された者もいたでしょう。特に「浅野本家」や「江戸府内」は、そうした「隠密」が入り込むことを怖れ、警戒を厳重にしていたのです。有名なのが、薩摩島津家で、「鹿児島」一国を恰も独立国のように支配し、遣う言葉を難しい「薩摩言葉」に変えさせ、他国の者の侵入を厳重に取り締まりました。また、他藩や幕府の隠密を「薩摩飛脚」と称して、「生きては帰さぬ」ことを藩士に命じていたのです。幕府にとっても、薩摩の動向は気になりましたが、まずは懐柔策として、島津家の姫を将軍の「御台所」として何人も迎えています。島津家では、朝廷で一番権力のある「近衛家」と縁戚関係を結び、朝廷から幕府の情報を得ていたという話は有名です。そうした隠れた「情報戦」が、幕末の「倒幕運動」につながって行くのです。「スパイ」というと映画やドラマを想像する人も多いと思いますが、実際、世界中何処にでも、そうした仕事をする人間はいるもので、「見たことがない・知らない」から「いない」は、あり得ません。
内蔵助は、同年の半之丞のことはだれよりもよく知っていました。赤穂では、勘定方の「矢頭長助」、馬廻役の「菅谷半之丞」そして、国家老の「大石内蔵助」の三人は竹馬の友という関係にありました。身分は違っていても、山鹿素行の教えを受けた「菅谷平兵衛塾」では、同門です。そこで、並外れた洞察力、分析力、そして胆力を示したのが半之丞でした。平兵衛は、菅谷家の家督を兄松之助には継がせず、弟の半之丞に継がせます。本来であれば、兄が継ぐものですが、この兄には既に「隠密働き」が命じられており、形上は「勘当」を言い渡してあったのです。もちろん、それも山鹿流の軍略のひとつでしたから、松之助にも不満はありません。松之助は、半之丞以上に優れた「隠密」としての資質を備えていたようです。赤穂城開城後も、半之丞が、この兄を頼って移動を繰り返したのも、内蔵助への「つなぎ」の役を務めるためでした。そして、討ち入り成功後、松之助の消息は杳として知れません。仕事を全うした弟の冥福を何処かで祈っていたことでしょう。それが「隠密」としての使命なのです。
赤穂城の開城を済ませると、内蔵助は二人の友を邸に呼びました。すると、そこに居たのは内蔵助に最後まで反対した「大野九郎兵衛」でした。九郎兵衛は、既に赤穂を息子の群右衛門と共に退去しており、多くの者は「大野め、逐電しおって!」と、その裏切り行為を責め立て、今にも追いかける勢いだったものを「よいよい、逃げる者は追わずじゃ…」と制止したのは、内蔵助本人なのです。その経緯を知っているだけに、さすがの半兵衛も長助も、呆気にとられてしまいました。(まさか、あの大評定の場での二人の厳しいやり取りが、芝居だったとは…)そこまで見抜けなかった二人でした。内蔵助は、二人にそのことを詫びると、改めて、三人に「密命」を与えたのです。既に九郎兵衛は、内蔵助の指示を受けて、早々に赤穂を退去し「大坂」に群右衛門を伴って出向き、浅野家と取引のあった「問屋」を回って、用立てていた資金を回収していました。当時、大坂は日本全国から「米」が送られてきており、そこで、その年の「米価」が決まります。どの大名家でも「年貢米」を金に換えなければなりません。大坂には大きな「蔵屋敷」があり、そこで相場が張られていたのです。
関東や東北の大名は経済的なことに疎く、多くは「家老任せ」のところがありました。その家老も大坂商人の接待攻勢で骨抜きにされ、「相場」が操作されていることなど気づきもしないのです。したがって、頼った商人の「言い値」で米を売り金銭に替えていました。ところが、西日本の大名は違います。自ら相場を勉強する者もいましたが、実際を取り扱う家老ともなれば、この「相場」によって、米の価値が大きく変わることを知っているのです。したがって、商人の「言い値」では買いません。ここに「交渉」が生まれるのです。この「交渉事」の上手い家老が、西日本の大名家では出世するのです。当然、浅野家も同じです。未だに「換金」されていない米や塩もあり、その金額は「数千両」にも昇りました。しかし、大名家が取り潰されてしまえば、そんな米の換金など忘れてしまう者も多かったのですが、浅野家の財政を担っていた九郎兵衛には、「今、何処に、どれくらい」の「米」や「塩」が換金されていないかを知っていました。時間が経てば、大坂の商人たちに安く売られてしまうか、ちょろまかされてしまいます。そうならないうちに内蔵助は、九郎兵衛親子を大坂に走らせていたのです。そして、九郎兵衛は、大坂の商人が安く売り捌く寸前に、その在庫の米と塩を「八掛け」で売り、現金を手にしていました。もう少し遅ければ、商人たちに誤魔化され半分も回収できなかったでしょう。その資金は表に出さない「帳簿」に記載され、矢頭長助が管理することになりました。それが、討ち入りの「軍資金」になったのです。「表の金と裏の金」を上手く使い分ける手腕は、さすが「ご家老様」というところでしょう。そして、それを知る者は、この「密談の場」にいた者以外は、だれも知ることはありませんでした。
そして、内蔵助は、半之丞に向き直ると「よいか、半之丞。お主は、山鹿素行先生の軍学塾の正統な後継者じゃ。もし、この先、浅野家再興が叶わぬやも知れぬ。そのときは、吉良邸に討ち入り、殿様の仇敵である上野介を討たねばならぬ。半之丞は、これから身を隠し、密かにその計画を練ってもらいたい。今、ここに、儂に命を預けると申して誓紙を差し出した者100名の名がある。しかし、実際、討ち入るとなると、この半分になるやも知れぬ。それでも、これを成功せしむるには、お主の軍略が必要なのじゃ。わかるな…」そう言うと、内蔵助は半之丞の眼を食い入るように見詰めるのでした。半之丞は、それに対して、ひと言「承知…」そう言うと、「では、急ぎまする故、これにて…御免」と言い残して夜の闇に消えていきました。内蔵助も、子供のころから親しんだ友にくどくど言う言葉はありませんでした。その眼と眼で十分に意思は通じ合ったのです。この後、半之丞は、山科に隠棲した内蔵助の下を夜陰に紛れて尋ね、計画の細かな部分を確認すると、その足で大阪に向かうのでした。その大坂は、内蔵助の意を汲んだ商人の「天川屋義平」がいたからです。「天川屋」は、浅野家に縁のある塩問屋仲間と共に「討ち入り道具」を密かに集めたり、大阪に入ってくる西国大名や幕府の情報を内蔵助に伝えたりしていました。芝居では「天野屋儀平」として登場してきますが、実際は、討ち入り後に「天川屋」なる商人は大坂にはおらず、「架空の人物」として取り扱われています。その方が、幕府にとっても都合がよかったのでしょう。敢えて、咎人を増やす必要はないのです。したがって、便宜上は、「天川屋」としていますが、実態は今でも不明なのです。それでも、泉岳寺には、天川屋の義侠心を顕彰する立派な石碑が建てられています。
さて、ここからは、菅谷半之丞がどのような「作戦」を考えたのか検証してみたいと思います。実際の記録上には、半之丞の「軍師説」は一切書かれておらず、この作戦を計画した者の名が見当たりません。そのため、芝居の「忠臣蔵」などに於いても曖昧で、すべてを内蔵助自身がやったかのように描かれますが、あれほどに多忙だった内蔵助が、密かに「討ち入り計画」まで一人で作ったとは考えられません。確かに、内蔵助は若いころから「東軍流」の剣を学び、山鹿素行の教えも、その門下生から学んでいたはずですが、大将自らが「参謀」の役目まで引き受けていたとは考えられません。内蔵助は、赤穂浅野家の国家老の家柄です。「戦の仕方」を知らないはずがないのです。もちろん、最終決裁者ですから、作戦の詳細は知っていたはずですが、内蔵助の下には、数人の「参謀」がいなければ、軍として成り立たないのです。因みに、この「浅野軍」は、大将が「大石内蔵助」で、参謀長が「吉田忠左衛門」であることはわかっています。そして、副将(裏門隊長)に「大石主税」が就きました。通常の軍隊では、参謀職として「参謀長」の下に「作戦担当」「情報担当」「兵站担当」「経理担当」が必要になります。おそらく、その作戦参謀が「菅谷半之丞」なのでしょう。そして、情報担当は俳人の「大高源吾」、兵站担当は「天川屋義平+浪士数名」、経理担当が「大野九郎兵衛・矢頭長助」ではなかったか…と思います。実際の戦闘になれば、最早「参謀」に仕事はありません。あるとすれば、兵站担当の「天川屋」くらいなものでしょう。そして、攻撃隊長が「堀部安兵衛・奥田孫太夫」といったところかと思います。
1 戦機を逃すべからず!
菅谷半之丞にとって、もし「吉良邸討ち入り」となれば、失敗は絶対に許されない。そうなると、決行日を決めて「逆算」して考える他はありません。この「決行日」は、単に準備が整ったから行うのではなく、「その日でしか行えない」といった「一点」にすべての力を注がなければ成功は覚束ないであろうことは、半之丞にはよくわかっていました。旗本四千石ともなれば、通常、邸に詰める侍はざっと「50」。しかし、浅野の旧臣の襲撃に備えるとなると、その倍の「100」いや、上杉家からの応援も考えれば「150~200」と見積もってもいいと考えられます。しかし、それも、決行の時期が早ければ、警戒は強く、余程の準備をしても上野介に逃げられる可能性は高くなります。それに、今は、それほどの準備がこちらにもできていません。この「作戦計画」が完成するのは、おそらく「半年後」が妥当で、内蔵助の決裁を受けた後の準備期間として、やはり「半年~1年」が必要になります。しかし、これだけの大事を成し遂げるには、様々な障害もあり、実際のところ、今から「一年半後」と半之丞は決行日の目算を立てたはずです。
それに、決行日は「真冬」でなければなりません。日の長い「夏場」では、暗くなる時間が少なく、討ち入りには不適でした。一番早い冬は、元禄14年の12月ですが、それでは猶予が「半年」しかなく、浅野家の再興もどうなるかも不明のまま決行することになります。それに、天川屋に頼んだ武具等の調達ができません。そうなると、次は翌年15年の12月ということになります。この「一年半」という時間があれば、「御家再興」の可否も明らかになるでしょうし「武具」等の調達も無理なく行うことができます。問題は、この間に吉良上野介が亡くなったり、他所の土地へ動いたりすれば、すべての計算が狂ってきますが、半之丞は、「上野介がいなければ、当主の吉良左兵衛義周の首を挙げるのみ!」と考えていました。これは、上野介と浅野の旧臣の戦ではなく、「吉良家対赤穂浅野家」の戦いなのだと考えたのです。そうすることで、この戦は「私怨」ではないことを公に知らしめることができると考えていました。そして、浅野家が改易となったのであれば、「喧嘩両成敗」の原則に基づき、吉良家も「改易」に処されることが「正統な裁き」だと天下に訴えるつもりでいたのです。もちろん、この理屈が同志全員の意思でないことは半之丞もわかっていました。江戸表の長矩の側近や急進派の堀部たちは、「殿とお恨みを少しでも早く晴らさねば、赤穂は、世間の笑いものぞ!」と内蔵助の前でも強い口調で主張していましたから、半之丞は、(いずれ、あの者共とは袂を分けることになるやむ知れぬ…)と考えていました。そこに、大将である内蔵助の苦しさもあったのです。
そして、もうひとつ問題がありました。それは、討ち入りに加わる「同志」の数です。内蔵助が赤穂城開城にあたり、藩士一同に「含みがある…」として誓紙(大石内蔵助に従う)を内蔵助に出した藩士は、約100名。全浅野家家臣の半分でした。しかし、そこには「御家再興」への希望があり、それが消滅した後で、内蔵助に命を預ける者がどのくらい残るか不明でした。まして、一年半以上の間、吉良への復讐の念を持ち続けられる侍が、どれほど残るのかは、まさしく不明なのです。しかし、半之丞は、山鹿素行の教えを反芻していました。「人の心は移ろい安いもの。もし、その者の覚悟を試したければ、時を与えよ…。さすれば、自ずと見えてくるものである」。素行は、そう教えていました。まさに、この「一年半」という時こそが、その「覚悟」を知る時間だったのです。そして、半之丞も内蔵助も、それを「50」と読んでいました。主君の仇を討つために命を捨てる覚悟のある侍が50人集まれば、それは「鉄の心」を持つ強者でしょう。それなら、吉良方の、未だ覚悟の定まらぬ「200」なら、対等に戦える…と考えたのです。しかし、その50という数には、「戦闘能力」は含まれていません。そこは、何としても「武具」と「装備」でカバーしなければなりませんでした。
山鹿素行は、戦国時代の武将を指して「彼らは、皆、臆病なのです。臆病でなければ、生き長らえて天下を奪うことなどできるはずもありません。臆病だからこそ、勝つための方策を考え抜き、敵を欺き、調略を以て敵を堕とそうと考えるのです。そして、弓、長槍、鉄砲、大砲を多く買い集め、少しでも白兵戦にならぬように工夫するのです。あの鎧兜をご覧なさい。あれだけの武装を施す故、覚悟を決めて戦場に出て行けるのです。臆病こそが、勝利の道と心得よ!」と常々述べていました。何もないときには、「死ぬ覚悟」だの「臆したか…?」だのと周囲を焚きつける侍に限って、いざとなればものの役に立たぬのが戦場なのです。敵の強い殺気を浴びて、白刃に身を晒す恐怖がどのようなものか…は、経験した人間にしかわからぬものなのです。赤穂浅野家で、実戦を経験した侍は、新参の「堀部安兵衛」しかいませんでした。後の者は、道場では強いかも知れませんが、実戦の場で役に立つかは未知数なのです。だからこそ、戦国武将のように「鉄壁の装備」をさせなければ、勝利は覚束ないと考えていました。
2 弱者を侮るべからず!
半之丞は、同志個々の「戦闘能力」をそれほど重視してはいませんでした。兎角、武芸に秀でた者は粗野で、いたずらに攻めたがる傾向にありますが、この者たちは正直「戦」には向かないのです。「戦」というものは、個人が個人に勝つことを求めているのではなく、個人を捨てて「公」のために尽くす「奉公」の精神が必要なのですが、どうしても自己顕示欲の強い侍は「一番槍」に拘り、墓穴を掘ることが多いのです。したがって、山鹿素行の塾には、そうした侍は一人もいませんでした。実は、戦国の世が終わり、天下に平和が訪れると、多くの大名が「武芸」に秀でた者を欲しがるようになりました。赤穂浅野家も同様です。しかし、長直、長友の時代までは、個人の好みで新規に召し抱えるようなことはしませんでした。それが、長矩の時代になると、長矩自身が武芸を好む殿様でしたから、「強い侍」に憧れていたのでしょう。長矩は、赤穂にいる間は、よく家臣の腕の立つ者と手合わせをして剣技を磨いていたといいます。そして、譜代の家臣である江戸留守居役を務めていた「堀部弥兵衛」の推薦で「高田の馬場の仇討ち」で有名になった「中山安兵衛」を新規で召し抱えたりしました。弥兵衛は、どうしても安兵衛が欲しくなり、「自分が隠居する代わりに安兵衛を召し抱えて欲しい」と長矩に頼んだそうです。安兵衛は、それに応えて「堀部家」に婿養子に入りました。
しかし、先々代の長直も山鹿素行も「武芸達者の者」を望んだことはありませんでした。もちろん、武士の表芸である「武芸」を疎かにはしませんでしたが、それによって家中で出世した者はいません。それは、個々の力が優れていても、戦に勝てないことを知っていたからです。戦国時代に初めて「天下」を奪ったのは、尾張の織田信長です。しかし、信長の家臣に有名な武芸者はいません。それより、明智光秀や木下藤吉郎、柴田勝家などの「戦上手」がいたことの方が有名です。信長は、日本で初めて「傭兵部隊」を作った武将で、彼らは「戦闘員」として信長に仕えた兵隊(足軽 )なのです。そして、そんな兵隊(足軽)に銃を持たせ、当時「日本一の強者」といわれた「武田騎馬隊」を長篠原で打ち破った話は有名です。そこには、だれも「剣豪」は出てきません。武田の猛将たちも「足軽風情」に打ち負かされたのです。要するに、近代兵器を多く持ち、それを運用した者が勝利者となったのです。そのために必要なのは「資金力」でした。要するに「経済」のわからない者には、戦はわからないということです。ところが、長矩の時代になって、安兵衛のような「腕の立つ侍」を召し抱え、「武門の家柄」を誇るようになりました。これは、一種の「趣味」の世界でしかありません。侍が、本能的に「名刀」を欲したり、強い「力士」を贔屓にしたりするのと同じなのです。既に戦う場を失った「武士」が、本来の姿である「戦場働き」を夢見るのは仕方がないのかも知れませんが、それは、元禄の世の武士の姿ではありません。武士とは、「戦乱の世を終わらせる」のが、本来の任務であり、それを成し遂げた今、二度と戦乱の世を造らないための「経営」をしなければならないのです。それが、「山鹿素行の教え」でした。
素行は、「弱者こそが真の強者である」と教えていました。それは、身体の強さではなく「心の強さ」を諭したものでした。身体が強く、武芸に秀でた者は、己を「強く」見せるために虚勢を張りたがるものです。本来、人間の「心」は、外見に関係なく、たとえ女性であっても男性より強い「心」を持つ者はいます。そして、「心の強い者」こそが、最後の勝利を得ると考えているのです。浅野家には、軽い身分の者まで合わせれば、およそ「200」程度の戦闘員がいました。しかし、内蔵助に誓紙を出した者は、その中の「100人」程度であり、半数はそれぞれの道を進む決心をしたのです。その中には、上士と呼ばれる身分の者もおり、親戚筋を頼って他家へ仕官した者もいました。刀を捨て農民や商人になった者もいました。もし、「仇討ち」を最初から考えていたのであれば、腕の立つ者を残す算段もできたはずですが、内蔵助はそれをしませんでした。内蔵助は半之丞に、「だれしも、身の振り方は己で決めねばならぬ。たとえ、豪の者であっても、心の決まらぬ者には何ほどのことができよう…」そう言って、最初から同志を募るようなことはしなかったのです。
その「100人」も、時が経過するにつれて欠けていくことは想定されていました。人間の心は、それほど強いものではありません。御家再興がなくなった後、どれほどの者が残るかは未知数でしたが、半之丞は「半分」と予測しました。それは内蔵助も同じでした。それほど、人の心は移ろい易いということなのでしょう。そして、「一年半、殿の仇を討たんと苦難を乗り越えた者たちならば、たとえ、数は少なくても、その心は鉄のように堅かろう…」と考えていたのです。そして、その者たちを「戦力」として使うために、大坂の塩問屋である「天川屋」を頼ったのでした。武士階級の者が、身分としては最下級の「商人」を頼るというのも面白いものです。ここに、日本人ならではの柔軟性が見て取れます。日本人は、同じ階層にいる人間には厳しく「階級」を咎めますが、そうでない階層にいる人間には、あまり、強く「身分差」を求めません。それより、同じ階層の者とは違う「力」をあてにするところがありました。それは、やはり西日本の人間に多い特徴かも知れません。この場合、内蔵助や半之丞は、自分たちにはできない「仕事」を商人である「天川屋」に依頼したのです。もちろん、ただで依頼するはずがありませんので、それなりの報酬が得られる算段はあったはずです。ただ、それを「天川屋」は、損得抜きの「義侠心」で請け負ってくれたのでしょう。それこそが、身分を離れた「信頼関係」というものなのです。
3 万全の「備え」あれば憂いなし!
大坂の「天川屋」につなぎをとり、協力を仰いだのは大野九郎兵衛でした。九郎兵衛は、内蔵助から天川屋への書状を受け取ると、早速、大坂に走り「天川屋」に真意を明かし、その書状を手渡しました。もし、天川屋が断れば、九郎兵衛は切腹して内蔵助に詫びるつもりでいました。しかし、「天川屋義平」は、その書状を読むと「確かに、大石様の真意、受け取りました。この天川屋義平、お引き受けした以上、全力で後本懐を遂げられるその日まで、ご支援申し上げます…」そう言って頭を下げたのでした。そして、九郎兵衛からの報告を受けた半之丞は、自らが大坂に出向き天川屋と相談の上で、討ち入りのための準備を進めて行ったのです。ただし、これは飽くまで「御家再興ならず」の際の備えであり、無駄になることも覚悟していましたが、それでも天川屋は、「なんの、大恩ある浅野家と大石様のご依頼。男天川屋、そんなことなど何も気にしておりませぬ」と着々と準備を進めてくれていました。天川屋は番頭以外の店の者には、「江戸で、古物が高値で取引されておる故、内々で集めておくれ…」と伝えて、道具を買い揃えていったのです。さすがに、刀剣だけは素人では扱えないために、天川屋に協力してくれる懇意の商人に頼み、集められて行ったのです。
「商人」と言っても、大坂の商人の多くは、先祖が武家だった者が多いことは、あまり知られてはいません。この天川屋義平自身、先祖は、あの「大坂の陣」で敗れた大坂方の侍であり、塙団右衛門配下として戦ったという話が伝わっていました。そのため、義平自身にも武芸の嗜みがあり、刀剣類にも精通した眼を持っていました。そして、「いざ、大坂!」というときには、江戸(幕府)に刃向かう覚悟を持っていたのです。その「大坂の陣」から、まだ85年しか経っていないのですから、大坂方の残党の子孫が、大坂周辺に身分を変えて暮らしていたことは、紛れもない事実なのです。そのために、幕府は、大坂城に譜代の大名を置いて、監視の眼を光らせていました。大坂の商人にとって、江戸は「身内の仇」みたいなものですから、幕府に反抗しようとする人間には、殊の外力を入れたがるものです。「天川屋」やそれに連なる商人たちが、「浅野家」の旧臣たちに肩入れしたのは、「大坂人の血」なのかも知れません。今でも「大阪府知事」が「都構想」なるものを企てたり、「東京オリンピック」に対抗して「大阪万博」を開催しようとするのも、そうした「大坂人の血」が騒ぐからでしょう。
天川屋では、様々な「合戦用」の武具や装備品を集めては、江戸に送っていました。今でも泉岳寺を訪ねると宝物館に、いくつかの装備品を見ることができます。それは、半之丞の指示によるもので、肝腎なのは「刀剣類」でした。今の人は、時代劇などの影響か、「日本刀なら何でも斬れる」かのように錯覚しますが、そもそも「日本刀」は、鋭利な刃物ではありますが、長時間の戦いに絶えられる代物ではありません。台所で包丁を使ってみればわかりますが、肉などを切ると、すぐに脂が刃について切れ味が悪くなります。また、魚の骨なども大きな魚になると「出刃包丁」が必要になります。そして、無理をすると「刃毀れ」の原因になりますので、注意が必要です。また、日本刀は長さがありますので、刃を立てないとすぐに曲がってしまいます。曲がったままの刀では、人を斬ることはできません。本来、日本刀は、その「反りを使って斬る」と言われますが、実戦では、「斬る」というより「刺す」方が効果的なのです。そして、人間は、興奮すると、その「斬る」動作ができずに「叩く」といった動きになり、日本刀は早々に使えなくなります。
芝居の中では、浪士たちは自分の刀でずっと戦っていたかのように描かれていますが、余程の名刀であっても、2時間近くを同じ刀で戦うのには無理があったはずですので、天川屋は、その「予備の刀」を調達したはずです。もちろん、赤穂城が開城した折りに数本は持ち出したかも知れませんが、幕府の「収城使」の眼が光っており、「目録」も差し出していることから、あまり多くの刀をは、持ち出せませんでした。それでも、長直時代から集めた「名刀」の数本は、内蔵助の手に渡っていたはずです。それに内蔵助が所蔵していた刀があります。それでも、50人分の名刀を用意するのは簡単ではありません。そこで、天川屋が100年近く前の「大坂の陣」そして「関ヶ原の戦い」で、戦場の片付けをした際に「古道具屋(質屋)」に持ち込まれた「武具類」を買い集めました。
大坂は「商人の町」ですから、商いになる物であれば何でも取引がされていました。武器類を厳しく取り締まった「江戸」とは違って、かなり大らかな雰囲気があったようです。幕末になると、やはり武士たちは、名刀を求めて大坂周辺の古道具屋を当たったようです。有名な新選組の「近藤勇」は「虎徹」を手に入れたと喜んでいますし、「土方歳三」の「和泉守兼定」は有名です。こうした刀は、100両ほどで取引されたようですから、元禄の時代は、もっと安く手に入ったことでしょう。実際の討ち入りの際には、全員の刀を点検して、斬れ味の鋭い物と交換させました。さらに、予備の刀を「美作屋」に用意し、折れた刀や曲がった刀を随時取り替えもしていたのです。しかし、それらの刀剣類は、すべて大目付が没収したために、未だに在処は不明のままです。
「赤穂浪士」といえば、揃いの「黒小袖」が有名ですが、あれは、浅野家の江戸藩邸に保管されていた物を江戸家老たちが、邸を退去する際に持ち出していた物だと言われています。「赤穂浅野家」といえば、「大名火消し」として江戸では評判の侍でした。当時は、まだ「町火消し」が整備されておらず、「火事」となれば、大名家がその消火や避難誘導に当たったのです。浅野家は「武門」を誇りとする家柄でしたから、浅野家の「火消し」が到着すると、町の人たちは「やあ、これで大丈夫だあ…」と拍手で迎えたそうです。その時に着用するのが「黒小袖」ですが、これは、「刺子」で作られており、これに水をかけるとさらに布地が引き締まり、丈夫になるのです。多少の火では燃えることもなく、体を守る上でも重要な働きをしました。その経験があったからこそ、「討ち入り」も「火事場」と同じように考えて対処することができたのでしょう。その黒小袖の「袖」に白い布を縫い付け、それぞれの名を記しました。要するに「認識票」替わりです。芝居のように胸元に大きく名を書くことはありませんでした。
4 「寅の一点」に賭けよ!
半之丞は、最初の段階から、「討ち入りは、真冬でしか成功しない」と考えていました。内蔵助は、「浅野家再興」を運動の第一目標とし、それが叶わない場合に「吉良邸に討ち入り、上野介を討つ」ことを第二の目標としていました。同志の中には、第一目標こそが「吉良上野介の首」と叫ぶ者もいましたが、内蔵助は、それでは「武士の道に反する」として退けました。内蔵助が、そこまで「武士道」に拘ったのは、将軍家である徳川綱吉と側用人の「柳沢吉保」との戦いを想定していたからでした。上野介を討ち取るだけなら、少人数で上杉家に向かう路上で攻撃を仕掛けることも可能です。それなら、特に季節を考える必要もありません。後に、「大老井伊直弼」を討ち取った水戸脱藩浪士が起こした「桜田門外の変」を見れば明らかです。しかし、それを「仇討ち」と呼ぶことはできず、単に「暗殺」でしかないのです。暗殺は、武士道に悖る殺人でしかなく「赤穂浅野家」の名を汚すものと考えていました。それに、それでは、喧嘩両成敗に則った「吉良家改易」にまで追い込むことはできません。そして、攻撃に加わった者共は、町奉行の手で裁かれ、「打ち首・獄門」となります。それに仲間がおれば、全国に手配書が回り、いずれ同じ運命が待っているだけなのです。実際、井伊大老を暗殺した水戸浪士のほとんどは、捕縛され斬首されています。もちろん、同志の中には「それで本望」と言う者もいましたが、それでは「武士の道」から外れ、内蔵助の「武士としての一分」が立ちません。やる以上は、「武士道」に則るというのが最低条件だったのです。
「武士の道」を貫くのであれば、討ち入りは正々堂々と「吉良邸」表門から突入しなければなりません。そして、「これは、仇討ちでござる」という「趣意書」を高々と掲げ、正々堂々と戦国の世に倣った戦を仕掛けるのです。江戸では、赤穂浪士の討ち入りを期待する声も大きく、吉良邸内の警備も厳重でした。上野介は、高家筆頭の役職を解かれ、邸内に引き籠もっていました。その上、役宅のあった江戸城呉服橋から両国の本所に「邸替え」を命じられていました。それでも、新しい邸は広大で、時間をかけて修繕を施した邸はまるで迷路のようでした。そして、その吉良邸を守る者は、小者を合わせておよそ200人。元々の吉良家の家臣は50人ほどでしたが、新規に召し抱えた者もおり、他に親戚の上杉家からも100人ほどの「付け人」が交替で邸に張り付いているのです。この敵に対して、赤穂の手勢は「50」がいいところでしょう。そうなれば、いくら奇襲が成功しても戦いは「五分と五分」になってしまいます。そうなれば、上野介に逃げる時間を与え、結局はこちらの負けとなります。そこを「逆転」させるのが、軍師としての重要な役目なのです。そこで半之丞が考えたのが、山鹿流の戦い方の極意である「一向二裏」でした。これは、まず、三人で一組になります。剣術の腕の立つ者を小隊長とし、そこに若者と年長者を入れます。そうすれば、小隊長が敵と正面で戦っている間に、二人は掩護に回ることができるという戦い方で、敵を殺さなくても、傷つけることは十分にできる戦い方なのです。内蔵助にしてみれば、敵は上野介一人であって、それ以外の侍を何人殺しても「無益な殺生」でしかありません。排除することが目的なら、傷をつけて戦闘力を失わせればいいのです。それが「一向二裏」なのです。
もちろん、同じ「一向二裏」でも「遊撃隊」に指名された組は、三人とも「手練れの者」を用い、吉良邸を縦横無尽に走り回り、敵を斃すだけでなく「上野介」の探索を主に行う小隊としました。ここで活躍したのが、堀部安兵衛や不破数右衛門たちです。彼らの活躍が、敵の目を欺き、より多くの「手練れ」がいると勘違いさせる効果がありました。実際、安兵衛たちは大声で「十人は、裏に回れ!」とか「二十人組は、表で戦え!」などとデマを飛ばし、吉良方を攪乱させたと言われています。人間は、いくら手練れの強者でも、背後に殺気を感じれば、なかなか思い切った行動に出ることはできません。前の手練れの浪士と戦っている間にも、後ろから斬り付けられる危険性があるからです。実際、背中や足を斬られ、戦闘力を失った吉良方の侍は多かったのです。かなりの死者は出ていますが、その多くは、戦いによる刀創が元で出血が止まらず、そのまま意識を失い「凍死」したのです。これが、暖かい季節であれば、助かった命かも知れません。そういう意味でも「真冬」の季節に「討ち入り」を決行したのは、大正解でした。
「討ち入り」が行われた時刻にも半之丞の策が生きました。それは、決行時刻が「寅の刻」だったことです。「寅の刻」とは、今でいう「午前4時」を指します。旧暦の12月中旬は、新暦では2月初旬のころです。この時期だと夜明けは、午前6時を過ぎたあたりでしょう。つまり、戦いは「2時間勝負」と最初から決めていたことがわかります。それは、「2時間以上もかかってしまえば、上野介が逃げてしまう可能性が高まる…」「重たい重武装で戦うのは、2時間が限度である…」「人間の集中力は、2時間以上はもたない…」「夜中まで立ち働いた人間が、深い眠りにつくまで待たねばならぬ…」などが理由でした。吉良邸では、12月14日の夜は「年忘れの茶会」が開かれており、最後の客を見送り、後片付けなどをしていると、全員が寝付くのは「日を跨いだ15日の深夜になる」という計算がありました。討ち入りが午前1時や2時では、まだ、起きている者がいる可能性があったのです。もちろん「不寝番」はいますが、それは「門番」の二三人がせいぜいでしょう。実際、門番はすぐに倒され、上杉家に急を知らせたのは「豆腐売り」だそうですから、おそらく午前5時を回っていたはずです。
赤穂浪士たちの装備は、当時のものとしては完璧に近いものでした。さすがに江戸市中で「鎧兜」では、だれかに見つかれば咎められますので、「火事場装束」で統一しました。外見は、「大名火消し」の一隊が行進しているように見えたはずです。当日は、幸いなことに前日からの「雪」で、かなり冷え込んでいました。そのため、夜中に外出するような物好きもおらず、深夜3時過ぎでは、だれもが厳重に戸締まりをして布団にくるまっていたはずです。浪士たちは、一旦、吉良邸界隈に住む三箇所の同志の借家に集まり、身支度を調えました。それを用意したのは、当然「天川屋」の者たちです。浪士は、体ひとつに刀だけを挿して各所から指定場所に集まって来ました。集まる時刻は、夜間とは言っても人の眼がありますから、大きな荷物を持って歩くことはできません。おそらくは、普段どおりの恰好で歩いて来たはずです。まして、雪が降っていますから、だれもが前だけを見て、周囲に気を配る者もいなかったでしょう。それも、浪士たちには幸いでした。もし、ここでだれかが町役人などに咎められれば、計画が破綻する可能性があります。さすがの半之丞も「気象」だけはどうにもなりませんが、「雪」というのは、本当に天佑でした。
今でも泉岳寺に残る浪士たちの遺品を見ると、刀槍こそありませんが、頭に被る「鉢金」、手足を守る「鉄脚絆」、胴体を守る「鎖帷子」などを見ることができます。最近の映画では、これらをかなり忠実に再現していますが、「泰平の世」といわれた元禄時代に、これだけの装備を用意するのは大変だったはずです。泉岳寺に残されたのは、討ち入り後、泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に報告した後、ここで「武装」を解いたからです。したがって、多くの武具類は、大目付の指示で没収されてしまいました。今でも、警察は、たとえ自首してきた容疑者であっても、武装を解くことを真っ先に行いますので、当然の処置です。しかし、その多くは未だに見つかっていませんので、浪士たちが切腹した後、密かに関係者が持ち去ったのかも知れません。それとも、「大目付」あたりが、職務として、まとめて処分した可能性もあります。もし、残されていれば、現代のことですから「お宝」として世に出てきてもおかしくないのですが、そういう話は残念ながらないようです。
半之丞の読みどおり、戦闘は1時間を超えるころになると、双方に膠着状態が生まれて来ました。吉良方の侍は、実際は、100名足らずで戦ったようです。半之丞は、裏門から入った小隊に命じて、侍長屋の雨戸の戸板を「鎹」で止めさせたのです。これによって、長屋に寝ていた侍の半数の動きを封じ込めることに成功しました。これは、敵の「勇気」を挫く作戦でした。吉良侍たちは、夜遅くまで働いたせいで、寅の刻には熟睡状態でした。深い眠りに入った人間が目覚めるのは大変なことです。多少の物音に気づいても、脳が動きません。それに、この寒さです。暖かい布団の中から氷点下まで下がった布団の外に出ることは至難です。まして、庭に出ることなど考えたくもなかったでしょう。そこに、不自然な物音が響きました。さすがに、吉良侍も屈強な男たちですから、「これは、赤穂の討ち入りだ…」ということに気づき、枕元の刀を取ると外に出ようとしますが、雨戸が固くて開けることができません。あちこちで、ガタガタ…という音が聞こえてきます。そのころになると、既に雨戸は「鎹」で止められており、思い切り蹴り飛ばさない限り、雨戸が外れないのです。ここで、奮い立った気持ちが萎えるのです。寒さで頭もすぐに冷えてきます。
そうなると、寒さのせいばかりでなく、心が冷え、体が硬直し始めます。そうなれば、命をかけた修羅場に出て行くことはできません。「くそ、戸が開かん…!」と叫んでみますが、それは端から開ける勇気がないのです。そうしているうちに自分の知らないところで戦いは佳境に入り、やっとの思いで表に出たときは、刻既に遅しの状態でした。戦後の後始末のために大目付の配下が、生き残った吉良の侍の刀を検分すると、敵と戦った刃毀れか、自分で作った刃毀れかの違いはすぐにわかったそうです。中には、倒れている味方の骸の血を自分の体になすりつけ、さも善戦したかのように誤魔化した侍もいたそうですから、「戦」というものは、それだけ難しいものなのでしょう。こうして、半之丞の策は当たりました。それに、赤穂浪士の重武装は、敵の刃を防ぎ、寒さから身を守る「楯」の役割も果たしてくれました。確かに、戦いが長くなるにつれて、汗が「刺子」の小袖に染みて、さらに重くなりました。やはり、2時間が精一杯だったのです。実際、上野介を見つけたときは、だれもがホッとため息を吐きました。もし、このとき、上杉家から軍勢が押し寄せれば、ひとたまりもなかったでしょう。計画では、「吉良邸門前にて上杉勢と一戦交える」となっていましたが、(それは、無理であろう…)と半之丞は考えていました。
5 知略を尽くした半之丞
「山鹿流」では、軍師を「影」と称し、表に出ることを禁じていました。なぜなら、軍師がだれであるかを覚られれば、それを密かに殺してしまえば、策を立てる者がいなくなり、計画は頓挫するからです。内蔵助は、それを知っていたからこそ半之丞の居場所が特定されないように、各所を転々と移動させていたのです。そして、一緒に山鹿流を学んだ内蔵助を信じた半之丞は、討ち入り以外は一切表に出ることなく、預け先の松平家で他の同志と共に静かに首を打たれました。預け先でも、何一つ語ることなく、切腹の直前まで黙って本を読んでいたそうです。それが、山鹿流の「軍師」の覚悟だったのです。幕府にしても、「だれか、策を講じている者がいるに違いない…」と感づいてはいても、内蔵助の身辺にはそのような者は見えず、時折姿を見せる半之丞も、一見、中年の冴えない同志にしか見えず、彼に疑いの目を向ける者はいませんでした。もし、幕府内でそうした動きがあれば、現在になっても尚、菅谷半之丞という侍の行動が明らかにされていないのは不思議なことです。その上、容貌すらも「不明」とあっては、如何に人に関心を向けられないように振る舞っていたかがわかります。
半之丞自身は、浅野家譜代の家柄で禄高100石の「馬廻役」というエリート階級の家柄ですから、本来であれば、もっと表に出て活躍してもいいはずの浪士です。そもそも、「馬廻役」は、殿様の護衛の任にあたる側近ですから、浅野家でもかなり重視されていたはずです。まして、同志の中では地位も高く、大石内蔵助に近い存在でもありました。逆に考えれば、内蔵助の側近は一番重要な役割を担い、派手な部分は新参の堀部安兵衛や、浪人の不破数右衛門あたりが似合いだったのかも知れません。確かに、大将が一番信用する者を重要な役に就けるのは道理です。だからこそ、半之丞のような、表に出ない浪士は、きっと他にもいたはずです。参謀長を務めた「吉田忠左衛門」配下の足軽「寺坂吉右衛門」も当初は「逃亡説」が流布され、「不義士」とまで蔑まれました。しかし、本人が大目付であった「仙石伯耆守」に自訴したこともあり、今では、内蔵助が「生き証人」として残した人物だといわれています。確かに、その行動を見ればすぐにわかることですが、庶民は、人の噂や伝聞に惑わされる傾向がありますので、仕方のないことですが、この討ち入りに参加しなかった「浅野の旧臣」は、ずっと多いのです。「不義士」の代表みたいに言われた「大野九郎兵衛」は、内蔵助と対峙する役目を担っていたために、今でも芝居では「悪者」みたいな扱いになっていますが、浅野家の財政を管理し続けた有能な「家老」がいたからこそ、浅野家の繁栄もあったはずです。それに、「討ち入り」となれば、それなりの「軍資金」が必要になります。
確かに、今でも、内蔵助の残した「資金の明細」は残されていますが、記録があるからそれが「正しい」とするのは、「歴史学者」の手法であって、学者でもない一個人が、それに囚われる必要はありません。関係のない人たちは、芝居の結末を知っているので、だれも細かな資金の流れなどに眼を向ける人はいませんが、その「資金」なくして、あれほどの「戦」を仕掛けることはできないのです。そして、多くの人の「協力」なくして、成功もしなかったでしょう。テレビで「プロジェクト〇〇」というドキュメンタリー番組が放映されますが、ひとつのプロジェクトを成功させるには、責任者の決断、仲間の強い絆、一人一人の力、そして、それを支える支援者の存在があるものです。「赤穂浪士討ち入り事件」は、そうした、ひとつひとつのピースがジグソーパズルのようにはまったからこそ、為し得た希有の出来事なのです。そして、この事件は、日本にとって後世に大きな影響を及ぼしました。それは、幕末の日本に顕著に表れてきたのです。
元禄時代の幕府で一番大きな力を持っていたのが、将軍徳川綱吉の側近である「柳沢吉保」でした。吉保は、この事件を利用して「秩序の安定」を図ろうと考えたのです。関ヶ原の戦いから100年。世の中は平和になったといっても、武士は、未だに「戦国の気風」を誇りとしていました。赤穂浅野家は、小藩とはいえ、その気風を強く残していた大名家だったのです。そのため、殿様である浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ事件は、本来、慎重に扱うべきものでした。それを綱吉の怒りにまかせた裁定のために、後の混乱を招いたのです。吉保にしてみれば、世間が「仇討ち」を望む声に驚くと共に、これを利用しようと考えました。それは、「大石内蔵助が、幕府の薦める朱子学を基にした武士道に則った行動を取れば、吉良を討たせてもよい…」とするものでした。要するに、世間の望むような形で「仇討ち」が行われれば、赤穂の浪人共は「英雄」となるはずです。そして、それを咎めなかった幕府に対しても抗議の声は挙がらないと踏んだのです。ならば、大石たちに眼を光らせて置くにしても、すぐに捕縛して罰する必要はありません。但し、少しでも「道」に外れるような行動が見られれば、即座に「徒党を組んだ罪」として罰せればいいのです。
そして、この吉保の目論見は、まんまとあたり、大石たちは歴史に名を残す「武士の鑑」となりました。これこそ、武士道が求める「忠義」「滅私奉公」の精神なのです。そして、これ以降、武士は、ひたすら「御家」や「幕府」に忠義を尽くす「人の手本」となったのです。つまり、上に立つ者に器量がなくても、その存在に忠義を尽くすのが武士であれば、社会に混乱は起きません。そして「下剋上」なる秩序破壊もなくなるのですから、吉保は内心でほくそ笑んでいたことでしょう。そして、柳沢家は、幕末、明治と脈々とその血が絶えることなく繁栄しました。それもこれも、柳沢吉保という先祖が、「社会を安定させる」ことに大きな貢献をしたからです。ところが、この「忠義」が、幕末に別な形で現れました。それは、「武士の本来の主は、殿様でも将軍家でもなく、天皇お一人だ」という思想です。これは「尊皇思想」と呼ばれ、皮肉なことに徳川家の親藩である「水戸家」から産まれました。後に「水戸学」と呼ばれた思想は、瞬く間に全国に広がり、武士は「天皇のためにのみ働く」存在となってしまったのです。
この思想があればこそ、幕末の「尊皇」が「攘夷運動」と合体し、幕府批判が「倒幕運動」へと続くのですから、「思想」というものは怖ろしいものです。明治維新を迎えて、薩摩藩の西郷や大久保が自分の主家である「島津家」を裏切るようなことができたのも、「自分の本来の主人は、天皇である」という思想があったからです。つまり、徳川家も島津家も西郷家も、家格は違っても「同じ天皇に仕える武士」としては同格なのです。それに気づいた多くの下級武士たちは、眼から鱗が落ちたかのように目覚めます。それまで「身分」という固定された階層が当然だと考えていた人たちが、「それは、違う!」と知ったとき、もの凄いエネルギーとなって日本中に「尊皇思想」の竜巻が起こりました。しかし、幕府も各大名家も「天皇への忠義」の前には、何も反論することができませんでした。なぜなら、天下の副将軍である「水戸徳川家」が、水戸黄門(光圀)様の時代から編纂してきた「大日本史」が発信元なのですから、それに逆らう思想などありはしないのです。そのとき、西郷たちは、この「赤穂事件」を思い出しました。なぜなら、西郷たちの島津家でも、赤穂浪士を讃え、神のように崇拝していたからです。だからこそ、「忠義のためなら命を惜しまず、赤穂義士のように華と散ることこそが武士道!」という思想に行き着いたのです。
徳川幕府にとって、戦乱の世を終わらせ、社会に秩序をもたらすために利用した「忠義思想」が、100年以上の時を経て、自分たちに「仇」となって返って来たわけですから、まさに「因果応報」ということでしょう。結局、戊辰戦争が成功した裏には、菅谷半之丞に見習った後世の武士たちが、徹底した「近代装備」を整え、敵の「弱点」を突きながら進軍したことが成功の道だったのです。そして、行き着いた先が「大日本帝国」だったと言うことです。しかし、その大日本帝国は「天皇への忠義」を利用した軍閥によって滅びました。内蔵助や半之丞は、一度も「忠義」を利用しようとはしませんでした。主君「浅野内匠頭」と「赤穂浅野家」への忠義は本物でした。それと同じく、理不尽な切腹と御家断絶という「裁定」を下した幕府への抗議、そして、彼ら「武士としての一分」を立てるために決起したもので、後世の軍人のような「邪」な企みはなかったのです。形上は、似ていても、本物と偽物の違いが浮き彫りにされた「歴史」でした。今でも、「菅谷半之丞」は、泉岳寺の墓の下で静かに眠りについているはずです。そこには、毎日、訪れる参拝客の手によって多くの「線香」が手向けられ、その冥福が祈られていることを忘れてはなりません。
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