歴史雑学25 「2.26事件」の思想

もう90年近く前になるのでしょうか。昭和11年(1936)2月26日の早朝、日本を震撼させた「陸軍青年将校」によるクーデター事件が起こりました。昭和の歴史を紐解くとき、絶対に欠かすことにできない大事件です。これにより、9年後の「日本の敗戦」が決まったとも言えます。しかし、一体どうしてこのような怖ろしい事件が起きてしまったのでしょうか。そして、どうして、天皇(昭和)は激怒し、首謀者たちを死刑に処したのでしょうか。今でも、この事件は作家たちの興味を惹くテーマであり、多くの著作が出されています。また、映画やドラマでも描かれ、様々な角度から評論が加えられており、未だに、明確な理由が語られていない不思議な事件なのです。しかし、わかっていることは、この事件をきっかけに「軍部」は大きな力を持ち、軍人に引き摺られるようにして日本は世界大戦へと引き寄せられて行きました。だれもが、さらに「日本を豊かな国にしよう」と願った結末が、未曾有の「敗戦」ですから、言葉もありません。「政治は結果だ!」という言葉がありますが、この時代の政治家は一体何をやっていたのでしょう。そして、この「判断の間違い」が、今の「日本」を創っているのですから、遠い昔の話で済ませることはできません。間もなく、今年もまた「2月26日」はやって来ます。「昭和100年」という節目の時代にこそ、昭和という時代を反省してみる必要がありそうです。

1 「昭和維新」を夢見た青年将校

この事件の中で、よく使われる言葉が「昭和維新」と「尊皇討奸」という言葉です。何処かで聞いたことがある言葉ですが、まさに「明治維新」と同じです。そして、維新の志士と呼ばれた武士たちが使ったのが「尊皇攘夷」でした。「攘夷」という言葉は「夷狄を排除する」という意味ですが、この場合は「外国勢力」を指します。鎖国政策を採っていた日本にとって「外国と交わる」ことは、国の危機を高めることであり、天皇にしてみれば「神国が穢される」といった是非もない考え方でした。そのため、世界情勢などお構いなしに「攘夷論」が高まったのです。しかし、当時としては、それにも同調する勢力はあり、頭では理解しても感情が受け入れられない性質のものだったのです。そのため、現実を見ざるを得ない徳川幕府を責める口実に使われ、倒幕にまで突き進むのですから、時代の変革は、何が災いするかわかりません。昭和の青年将校たちが掲げた「討奸」は、「奸賊を討つ」という意味になり、「奸(悪人)を討つ」のですから、正義は自分たちにあるという構図です。そして、「奸」は外国にいるのではなく「国内」にいる者を指します。そして、具体的には、日本の「特権階級」にある者たちをすべて「悪人」と呼んだのです。

この思考でいくと、「日本社会がよくならないのは、特権階級に居座る人間共が利益を独占し、一般国民に分け与えないからだ…」という理屈になり、共産主義が言う「格差のない平等社会」を実現することにつながるのです。これは、一見正論のように見えますが、事はそんなに単純な話ではなく、明治維新後の日本の急激な近代化による「歪み」が原因なのだろうと思いますが、そこに頭が回らないのが、当時の日本人の限界だったのかも知れません。事実、この事件の前に起きた海軍将校たちによる「5.15事件」は、犬養毅首相を殺しておきながら、だれも死刑になっていなのです。それも、国民は、テロ行為を犯した軍人たちを「世直し万歳!」と叫んで助命嘆願までしているのです。そして、彼らの多くは戦後も生き延び「左翼運動」に邁進したと言いますから、戦地に赴き、勇敢に戦って戦死した戦友になんと言って釈明するのでしょう。こうした「テロ行為」が容認される社会が、まず異常だったのです。だからこそ、第二、第三のテロ事件が起こり、社会は騒然として行きました。

明治維新が「暴力革命」だったことから、社会全体が「暴力」に対して鈍感になっていたのだと思います。今の時代感覚とは違い、江戸時代も刑罰は厳しいもので、「人の死」に対しても今ほど敏感ではなかったはずです。明治の世になってからも、多くの「士族の反乱」そして日清、日露の戦争、第一次大戦への参加など、「戦争と死」は国民生活に結びついていました。それに、平均寿命も短い時代ですから、還暦を迎えることでさえ難しかったでしょう。そんな時代だからこそ、戦争で肉親を失っても「御国のためだから、仕方がない…」と諦めることができたのです。戦時中も、空襲などで多くの人が亡くなりました。大東亜戦争では、民間人が約「200万人」もの人が死んでいるのです。余程、鈍感になっていなければ、それを受け止めることなどできるはずがありません。その点を考慮しておかないと、当時の人々の「気分」は分からないと思います。まして、軍人は「戦って死ぬことが名誉」だと教えられていましたから、自分の死も人の死も「意味」があれば、納得できるのです。そんな軍人たちが、貧しい社会を見ながら、「もう一度、革命を起こしみたい…」と思うのは、自然な発想なのかも知れません。

彼らにしてみれば、自分が産まれる半世紀ほど前に起きた「明治維新」は、まさに「英雄伝説」なのです。今の日本人が有名な芸能人やスポーツ選手に憧れるように、青年将校たちは「西郷隆盛」に憧れたのです。今でも西郷は、「西郷どん」と親しみを込めて呼ばれ、西南戦争で戦死した後も「西郷生存説」が流れ、「いつか、西郷どんが帰って来て日本を救ってくれる…」と信じる人もいたようです。そうした人気は衰えを知らず、何度も小説や映画、ドラマで描かれました。戦時中も軍の将軍たちは、西郷を気取って、大事な作戦を参謀に任せ、「よか、よか。おはんたちに任せもんそ…」などと言って、部下の人気を取っていたそうです。こうした「形」ばかりを真似ることで、気分は「大西郷」にでもなった気になっていたのでしょう。それを見た部下の多くは「ふん、バカな野郎だ…」と嘯いていたと言います。西郷や大久保利通、木戸孝允、坂本龍馬など、維新に活躍した武士の多くは、名もない地方の下級武士です。それを「志士」と呼んで、恰も立派なことをして「国を創った英雄」とされていましたから、武士に替わる「軍人」が「新しい時代の志士」として、自らも、彼らにあやかろうとしていたのでしょう。

それが、「陸軍士官学校」を出た若いエリート将校たちの本音でした。「陸軍士官学校」は、陸軍の「将校(指揮官)」を要請する教育機関であり、14、5歳から入学する「陸軍幼年学校」から始めると、本当に純粋培養で、陸軍の「指揮官・指導者」が創られていきました。これは、「海軍」も同じようなもので、欧米のように専門的な技能や知識のある者を「士官・指揮官・指導者」として優遇する制度とは異なります。そのために、どうしても「一緒の釜の飯を食った」という「仲間」ができやすく、陸軍の海軍も「軍閥」と呼ばれるような「派閥抗争」が頻りに行われていました。特に「日露戦争」が終わると、しばらく日本にも平和が訪れました。しかし、「平和」というものが、軍人には好まれないのです。ここで「徳川家康」を思い出してみてください。家康は、あれほど長く続いた戦乱の世を終わらせました。それは、時には強引とも言える手法で敵対する大名を陥れて滅ぼし、それでも「自分の眼の黒いうちに…」と、大坂の豊臣家を滅ぼして「徳川幕府」を打ち立てたのです。そして、家康は全国の武士を「軍人」から「事務官僚」へと変えていきました。

全国には、300を超える「大名家」が残りましたが、徳川家は、強大な「日本の支配者」となり、だれもが逆らえない存在となりました。家康自身は、ものわかりのいい好人物だったようですが、「天下安寧」のためには、鬼にも悪魔にもなれた人物でした。やはり、秩序を回復させるには、話し合いに終始するのではなく、一度は「強権」を発動して力で抑えることをしなければ、混乱が続くばかりで「秩序の回復」は見込めないという事例になります。今の日本は、何でも「話し合い」と言いますが、それを証明した「歴史はない」とだけは言っておきたいと思います。さて、徳川幕府は、全国の大名家を支配下に置き、武士の棟梁である「征夷大将軍」の位を得て、政治を司る権利を得ました。それは、全国に「大名」という「軍団」を置いてあるようなものです。それも、彼らは、いつ謀反を起こすかも知れない危険な「武力組織」でした。その「刃」を抜いてしまったのですから、家康という人物は只者ではありません。家康は、各大名に命じ、「武士」という「軍人」を「領地」を経営する「事務官僚」に仕立て上げたのです。そして、領地経営のできない武士は、名門であろうがなかろうが、お構いなしに「改易(断絶)」とし、武士に「立派な領地経営者」になるよう求めたのでした。当然、浪人となった元武士は不満に思いますが、彼らの「不満の芽」をその都度摘み取り、いつの間にか全国の武士を「借りて来た猫」状態にしてしまったのですから、その知恵には、「孫子」も驚いたことでしょう。そして、それまでの「下剋上」のあり方を「悪」となし、儒教の「朱子学」に基づいて「忠義心」を模範とするよう仕向けました。そして、それが完成したのが、元禄の「赤穂事件」によってでした。そのため、全国の武士はひたすら「公儀のため、御家のため」と「滅私奉公の精神」で主君に仕えたのです。それが、徳川幕府が「260年」も続いた理由です。

ところが、泰平の世に慣れた日本人は、それだけでは満足できなくなっていました。人間は、多くの「自由」を手に入れると、もっと大きな「自由」を欲しくなり、その欲望は果てしなくなるものです。特に「抑圧」された人々の鬱屈したエネルギーは、一旦放たれると、とんでもない力を持つものなのです。そこに現れたのが「外国船」でした。「黒船」と呼ばれた外国船は、まさに産業革命以降に起きた「帝国主義」の象徴でした。「啓蒙思想」という言葉があるように、「啓蒙」とは「蒙を啓く」つまり、「無知蒙昧な人間に眼を開かせる」という意味で使われ、産業革命に成功した国が、世界の非文明国の「眼を開かせる」ために、世界に船を漕ぎ出し「文明を広める」ことを使命としたのです。しかし、それは詭弁以外の何ものでもありませんでした。実際は、近代化できていない国を次々と侵略し、他国の物を奪い尽くす「植民地化政策」を「正義の行為」と偽ることだったのです。そして、産業革命に成功した国は、アフリカ、アメリカ、オーストラリア、アジアのそれぞれの大陸を飲み込んでいきました。そして、遂に「日本」にもその魔の手が伸びて来たのです。「明治維新」とは、本来、それらの「魔の手」から、日本の「独立」を守るための運動であって、それに乗じて「政権を奪う」ための国内闘争であってはいけなかったのです。その思想を説いた「吉田松陰」は、確かにそう考えていたはずです。しかし、その思想が「使える…」と考えた野心家たちは、松陰を「神」の如く崇め、周囲を煽動して「権力闘争」に持ち込んで行きました。

「2.26事件」の青年将校たちも同じ轍を踏もうとしていたのです。本来は、多くの貧困に喘ぐ国民の為に、身を捨てて立ち上がった崇高な使命に基づくものだったはずが、いつの間にか派閥の権力闘争に利用され、彼らは自滅していきました。そういう意味では、吉田松陰と共通する部分があるように思います。但し、2.26事件を利用して「軍部独裁政権」を立てても、幸福の時間はあまりにも短く、数年後には「国家」が滅亡する寸前まで追い込まれてしまったのですから、明治維新のようなわけにはいかなかったのです。あの「明治維新」は、「尊皇攘夷」を「倒幕運動」にすり替えた薩摩や長州の革命家たちの政治力によって、徳川幕府は倒され「明治新政府」が誕生しました。しかし、中味が「権力闘争」によって奪った政権であったために、それを学んだ人たちに誤った「政治思想」を植え付けることになりました。最近、作家「司馬遼太郎」の小説「坂の上の雲」がドラマ化され、再放送されましたが、あの「歴史観」は、まさに「そうであればいいのに…」という作家の理想像を描いたものです。冒頭のナレーションに、「まことに小さな国が開花期を迎えようとしている。…登っていく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を登ってゆくであろう…」というものですが、これほど、明治維新を肯定的に捉えている作品はありません。おそらく、青年将校たちも士官学校の教育の中で、そんな「理想に燃える国づくり」のような夢物語を聞かされて育ったのでしょう。だからこそ、純粋に「国を憂える」ことができたのです。しかし、現実は、自分たちの頭の上に覆い被さる多くの「権力者」たちによって利用され、無念の涙を呑んで消えて行きました。彼らの見た「昭和維新の夢」は、幻だったのです。今でも、彼らの「純粋な心」を高く評価する風潮がありますが、常にそれを「利用」しようとする権力者たちが蠢いていることを忘れてはなりません。だからこそ、彼らは余計に純粋で幼く見えるのでしょう。

2 「無理に無理」を重ねた近代化

日本の近代化は、まるで突貫工事で巨大ビルを建てるようなものでした。学校では明治政府の方針を「富国強兵政策」と教えますが、国民生活が「豊か」になるための政治でなかったことだけは確かです。「富国」とは、「経済的な力」をつけることであり、その経済力で「軍備」を増強しようとするものであって「国民生活がどうなる…?」という視点はまったくありません。そして、その考えは「大東亜戦争」の敗戦まで続きました。これを「自存自衛のためにはやむを得なかった」とする意見がありますが、国民が飢えたままで、いくら「近代化」が進んだとしても、それは「真の近代化」を成し遂げたとは言わないでしょう。今の中国や北朝鮮などを見ても、経済の多くを「軍事力強化」に充て、大国「アメリカ」に対抗しようとしていますが、それで国民が幸せを享受できるわけではありません。それを命じる一部の「特権階級」の人たちは「豊か」なのかも知れませんが、重い「税」に喘ぎ、若者を兵隊に取られる一般国民は、「働けど、働けど我が暮らし楽にならず」、ずっと「貧しい」暮らしを強いられているのです。国の指導者が、国民に眼を向けなければ真の「豊かさ」は得られないことは自明の理です。そして、国が行う「無理」は、必ず国民生活を脅かすことになるのです。単純に「江戸時代」と比べることはできませんが、明治維新以降の国民感情としては、「徳川さんの頃の方が、ましだったんじゃねえか…?」という疑問は、ずっと続いていたと思います。

おそらく、政治家たち指導者は、「一般国民は、何もわかっておらん!」「軍備を増強しなければ、列強の餌食になるのは眼に見えておるんだ!」と言うと思います。そんなことは、国民にはあまり知らされていませんので実感は湧きませんが、生活の窮乏だけは、肌で感じることですので、それが、政府への不満に転嫁されるのも当然です。おそらく、これは青年将校たちも同じだったと思います。要するに「国民の忍耐」に甘える形で日本の近代化は進められて行ったのです。明治時代に入ると、日本は軽工業から重工業へとシフトし、自前で「軍鑑」を建造できるまでになりました。そのうち、無理だと思われた「飛行機」も製造し、一部の機体は欧米の一流機と肩を並べるまでになったのです。しかし、いくら高性能の「軍鑑」や「飛行機」を製造しても、それで欧米軍に勝てるわけではありません。日露戦争後に起きた「第一次世界大戦」を見れば、一目瞭然でした。既に戦争は「総力戦の時代」に突入しており、個々の兵器の性能や一会戦で決着がつくような戦争ではなくなり、「その国が滅びるまで戦い続ける」形態になっていったのです。これは、日本にとって考えもしない事態でもありました。あの「日露戦争」だって、日本はロシア領には一歩も兵を進めてはいません。満州の荒野や日本海で戦っただけで、日本国内でもロシア国内でも戦争は行われてはいないのです。

ところが、ヨーロッパでの戦争は、欧州全土を巻き込むような戦争になり、軍人だけでなく一般市民にまで犠牲が出るようになりました。そして、敵が「降伏」するまで戦争は続いたのです。そして、敗れた国は、多額の賠償金を払わされ、領土まで奪われる始末です。もし、日本で同じことが起きれば、明治維新後の近代化は、すべて水泡となって消えてしまうのです。もちろん、これまでの「天皇を中心とする日本」という「お国柄」は消滅するでしょう。それは、政治家や国防を司る軍人には「恐怖」以外の何ものでもありませんでした。そのために、この所謂「欧州大戦」を知った軍人の多くは、「これからの戦争は、総力戦になる!」「それなら、強力な内閣を組織して国民を軍が指導するような体制にせねばならぬ!」と考えるようになったのです。陸軍は、その方法を模索するうちに派閥が作られ、「国民経済すべてを国家の統制下に置いた総力戦体制を敷く」と主張したのが「統制派」と呼ばれる軍人たちでした。ここには、当時の軍務局長だった「永田鉄山少将」や戦時中の総理大臣を務めた「東條英機大佐」たちが中心となって「統制派」を形成していたのです。そして、考え方は同じですが、それを「天皇親政による政治」に求めたのが「皇道派」で、2.26事件を起こしたのは、この「皇道派」に属する青年将校たちでした。しかし、どちらの「派閥」にせよ「天皇」を政治利用したことに違いはありません。明治維新のときに、新政府を創った武士たちは、天皇を「玉」と呼び、「玉を手に入れた方が勝つ」と言い放った連中は、天皇の意思など考えようともしませんでした。それが、2.26事件で昭和天皇が激怒した理由でもあったのです。事実、昭和16年12月8日に始まった「大東亜戦争」は、まさに国を挙げての「総力戦」になり、国民は、軍や政府の命じるままに行動し、最後には「一億玉砕」寸前まで追い詰められました。

海軍でも同じように、加藤友三郎や堀悌吉たち常識的軍人は「条約派」と呼ばれ、国際軍縮条約を批准して「国際協調を重視した国力に見合う軍備でよい」としていましたが、仮想敵国を「アメリカ海軍」と考える軍人たちは、「艦隊派」を名乗り、「軍縮などに応じれば、アメリカには到底勝てぬ!」と主張して、強力な海軍を造ることに固執しました。そのために、老齢の東郷平八郎元帥を抱き込み、東郷の声を「神の声」の如く扱い、条約派の一掃を図ったのです。山本五十六などは、どっちつかずの「日和見」を決め込んでいたために、海軍に残ることができましたが、多くの仲間を失った「恨み」は、自分が戦死する直前まで持ち続けていたと言います。そして、条約派の将官たちは、艦隊派の陰謀によって次々と「退役」に追い込まれていったのです。そのために、大東亜戦争が始まると中将、大将クラスの人材が不足し、「艦隊派」に属する能力不足の軍人たちが指揮官となり「アメリカ海軍」に大敗したのです。日露戦争のころまでは、陸軍も海軍もこうした醜い「派閥争い」などは起こりませんでした。それだけ、軍人といえども「国を憂える誠の心」を持っていたのです。

結局、陸軍は、総力戦のための「国家総動員体制」に固執し、戦前から「軍人(陸軍)内閣」を望み、いくつかの「クーデター未遂事件」を起こしました。何も「2.26事件」が最初ではないのです。そして、航空機には力を入れましたが、陸上の戦いは、日露戦争から何も学ばなかったのか、終戦のその日まで「白兵主義」を貫きました。「白兵主義」とは、戦車や大砲などの機械化された部隊を中心に据えるのではなく、飽くまで「人による突撃」を繰り返すことで勝利を得ようとする戦法です。そのためには、人間を「肉弾」にしなければなりません。軍の幹部たちは、兵隊を「赤紙一枚で召集できる駒」としか考えていなかったのです。だれも、日露戦争での膨大な戦死者に眼を向ける者はいませんでした。海軍は、艦隊派が主流になると、次々と軍艦の建造を要求し始めました。「ロンドン軍縮会議」の第2回目をボイコットした日本政府は、会が流会となったことで、「無制限建艦競争」に自ら突入してしまったのです。そして、艦艇の数では、アメリカに勝てないと知った海軍首脳は、今度は「大艦巨砲主義」に乗り、欧米の戦艦より大きな大砲を備えた「超弩級戦艦」を要望し、戦艦「大和」「武蔵」、そして航空母艦「信濃」を建造しました。海軍は、軍艦を造ることが「近代化」だと思い込んだのです。しかし、「レーダー」や「ソナー」などの電波を使った防衛兵器は立ち遅れ、大東亜戦争の敗因となりました。

明治初年度から、あれほど「近代化、近代化…」と騒いで軍備を整えて来たはずが、見かけは近代化したような錯覚に陥りましたが、それを運用する人間が、まったく近代化されていなかったのです。そのため、陸海軍の「見た目」は整っても、欧米のような「合理主義」的な思想は採用されず、常に「精神論」が優先されるような社会を創り上げていったのです。陸軍の青年将校たちも「兵を鍛える」ことには、殊の外熱心でしたが、それは飽くまで「上官に従順な兵隊」を創り上げるだけのことで、「日本人らしい知恵」を働かせるような教育は行われませんでした。日本には、「資源」と呼ばれるような石油や鉱物は採れません。必要な物資は、外国からの輸入に頼るしかないのです。それなら、「知恵」を働かせればいいのですが、江戸時代からの身分制度のために、人の意見を聞くことが苦手な日本人は、多くの知恵を結集することを怠りました。そのため、「難しい試験」を課して合格した者を「優秀者」として認め、国や軍の指導者としていったのです。そもそも、日本の試験は「記憶力」と「努力」によって、ほぼ8割は決定します。所謂「ガリ勉型」の人間が優秀なのです。したがって、事件を起こした青年将校のほとんどは、この「ガリ勉型」の秀才ばかりで、深い「洞察力」を持つ者はいなかったようです。

3 「共産主義」の影響を受けた軍人たち

この「2.26事件」では、陸軍の青年将校の他に「首謀者」として「北一輝」と「西田税」の二人の民間人が死刑になっています。この二人が、革命の思想的支柱といわれ、青年将校たちを煽動した人物なのです。同じ維新でも「明治」と「昭和」の違いは、「明治維新」が帝国主義から国を守る「防衛」という問題が大きかったのですが、「昭和維新」は、昭和大恐慌から始まる国民生活の疲弊が大きな問題でした。当時の日本は、大正末期の「関東大震災」、そして、昭和初期の「世界大恐慌」と、運に見放されたかのような不運続きでした。大正前期が「好景気」だっただけに、昭和になってからの日本は、あまりにも酷い有様に見えたのです。この「大恐慌」は、アメリカに始まった株価の大暴落が原因だと言われていますが、どうやら、それを仕組んだ勢力があったようです。そのために、日本のような自力のない「小国」は、蓄えがないために、アメリカが風邪を引けば、一気に重病になってしまうのです。その上、軍部は「軍備の増強」に拍車をかけるために、「統帥権問題」を国会で取り上げ、「軍備は、統帥権に属する問題である。したがって、管轄外の政府の介入は罷り成らん!」と言い出したのです。確かに、憲法上、「統帥権」は天皇に直結する「軍事」ですので、政府が勝手に「予算」を決める権限はないというのです。つまり、「軍事費は、天皇がお決めになる権利だ!」という理屈です。そして、「これをお助けするために、陸海軍大臣がいる」というのが、軍部やそれを応援する政治家の屁理屈でした。しかし、明治時代は、そんなことは百も承知の上で、「統帥権の独立」を認めていました。なぜなら、政府も軍部も、中心になった人間は、あの「戊辰戦争」を戦い抜いた仲間だからです。初代総理大臣の伊藤博文に文句の言える軍人なんているはずがないのです。したがって、「話し合い」でどうにでもなったのです。

ところが、明治の元勲と呼ばれるような人たちがいなくなると、試験で優秀と認められた人間が政府や軍の要職を占めるようになりました。こうなると、政府も軍部も「対等」です。この「統帥権問題」は、ある国会議員が、政府を追い詰めるために見つけ出した策だったようですが、これを軍が利用したのです。大日本憲法の欠点を突いた策でしたが、それが、国を滅ぼすことになろうとは、このときは、だれも考えなかったのでしょう。やはり、試験の優秀者は、深い「洞察力」は身についていないようです。こうなると、日本は「政府と軍」の二重構造で政治が行われることになります。なぜなら、「統帥権がある以上、軍の行動に、政府は一切介入できないことになる」からです。たとえば、満州事変が起きたとき、日本政府は驚き、直ちに中止するよう要請しましたが、陸軍は、これを承認し「満州国」建国を支援してしまいました。いくら、内閣総理大臣が「やめろ!」と命じても、陸軍大臣が「統帥権干犯だ!」と叫んで辞表を出せば、内閣は瓦解するのです。そんな致命的な弱点を抱えていた「大日本帝国憲法」ですが、「欽定憲法」といわれる天皇の名で出された「憲法」でしたので、改正もできませんでした。今でもよく言われる「不磨の大典」とは、これを指します。おかしな点があるのに改正もできない憲法など、本来危なくて使えたものではありませんが、自分たちが作った「憲法」だっただけに、「何とか、話し合いで決めればいいだろう…」的な発想で、昭和の時代まで引き継がれてしまったのです。それだけでも、如何に「明治政府以降の日本政府」が、危うい政府だったかわかると言うものです。

こうして「統帥権」が政治利用され、表面化するようになると、軍人は急に強気になり「自分こそは、天皇直属の臣下である!」という「特権」意識を持ち始めました。若者は思考が単純ですから、上官から唆されると、知らず知らずに疑いを持たずに信じてしまう傾向があります。そんな中で「我々の先輩は、明治維新を断行して世の中を変えたのだ!」とアジられれば、青年将校たちが、「今度は、自分たちが、新しい国を作り変えるんだ!」という気分になっても不思議ではありません。おそらく、一般国民など、自分たちに従う「下僕」のような気持ちで見ていたのでしょう。軍隊では、一般社会を「娑婆」と呼んで、自分たちの住む世界こそが中心なんだという気分で国民を上から見下ろしていたのです。大正時代の「軍縮」のころは、「軍服を着て町を歩けない」と言われていたものが、特権意識を持ってからは、軍人は、颯爽と軍服に軍刀を下げて町を闊歩していたそうですから、人間の意識というものは、そんな単純なところがあるのです。子供たちの中でも「軍人」は憧れの職業になり、エリート校と呼ばれた「陸軍士官学校」や「海軍兵学校」は、雑誌や映画などにも取り上げられ、倍率は、毎年「数十倍」の狭き門になっていました。合格した者は、「郷里の星」と呼ばれ、エリート軍人になるべく「純粋培養」の如く育てられていったのです。

そこに付け込んだのが、北一輝や西田税、大川周明などの「社会主義者」たちでした。大正時代になると、ロシア革命が起こり、北には「ソビエト連邦」という強大な「共産主義国家」が誕生していました。日本もロシア革命には、陰ながら援助していたこともあり、この「ソビエト」に対して比較的好意的に見ていたところがあります。ところが、ソビエトが「コミンテルン」という共産主義を世界に広めるための「国際組織」を作り活動し始めると、そんな暢気なことは言っていられなくなりました。なぜなら、共産主義では「王制」は打倒の対象であり、特権階級そのものだったからです。したがって、日本の「天皇」は、忌み嫌われる「特権階級」の象徴のような存在に見えていました。「ロシア帝国」の崩壊に際しては、革命派はロシア皇帝一家を惨殺したという噂が日本にも入ってきており、「天皇中心の国家体制」を採る日本とは、相容れないものがあることに気づいたのです。しかし、社会主義者たちは、究極的には「天皇制打倒」があったかも知れませんが、当座の方便として、「天皇を戴いた社会主義体制」を創ることを軍人たちに説いたのです。この時代、「社会主義」と「共産主義」は同義語です。

総力戦を勝ち抜くために「国家総動員体制」を敷きたい軍人にしてみれば、「天皇の地位」さえ安泰であれば、政治体制は社会主義でも何でも構わないのです。寧ろ、その方が、面倒な手続きが不要になる分、軍人には好都合な政治体制に見えました。もし、実現すれば「軍主導内閣」を作り、たとえ、アメリカやソビエトと戦争になっても戦える体制を作ることができます。議会の承認を得なくても「予算」が獲得できれば、こんなに都合のいい話はありません。それに、「天皇の名(勅命)」で、軍の思うままに、国民に動員を命じることもできるのです。そうなれば、天下は「軍」のものとなり、さらなる強力な軍隊を持つ「強国」へと発展させることができると考えていました。それに、国民にしてみても、財閥や資本家、地主、学者などの所謂「ブルジョワ階級」がいなくなれば、小作人もすべて「自作農」になれるのですから、それは、貧しい農村出身の兵隊を救うことにもなるのです。農村は、国が「徴兵令」を施行してから後、働き手が軍に取られて貧困は益々進んでいました。そこに来ての「大恐慌」ですから、だれもが生きることすら困難になっていたのです。青年将校は、陸軍士官学校を出たばかりの少尉から中尉、そして年長者でも「大尉」の階級で、30歳前後の若者です。隊では、小隊長か中隊長勤務で、直接、兵隊と寝食を共にする「隊長」なのですから尚更です。優しい人間であればあるほど、贅沢を貪る「特権階級」の人間が憎くて仕方がありませんでした。そして、何の解決策を打ち出せない政府を憎み、どれもこれも「天皇の側に仕える者共が、企んだことに違いない」として「君側の奸を排除するために維新を断行する!」と誓ったのでした。

当時の「共産主義思想」は、日本の多くの国民の中に入り込んで行きました。日露戦争は「帝政ロシア軍」との戦いでしたので、その怖ろしさは国民に十分に伝わっていました。「おそロシヤ」という言い方が流行したくらいです。そのため、帝政ロシアが崩壊したことは、日本人のだれもが喜んだのです。しかし、実際には多くの血が流れ、皇帝ニコライ二世一家も酷い最期を迎えることになったのです。そして、ソビエト連邦になってからは、内部抗争が激化し、第二次世界大戦後まで「粛正」が行われていた事実が、最近、明らかになってきました。戦後の日本でも、同じ「共産主義革命」を企み、数多くの犯罪に手を染めた「日本赤軍」内部では、やはり仲間が次々と殺され、とんでもない内部抗争が起きていました。私たちも昭和40年代になると、その実情を知ることになり、親世代は、東大や京大の優秀な学生が起こした凄惨な事件を知り、「あんな優秀な人たちが、どうしてこんなことをしたんだろう…?」と不思議がっていました。どんな酷い犯罪者でも「東大、京大…」と聞いただけで、「優秀な人間」と断定してしまうのですから「価値の刷り込み」はおそろしいものです。彼らも、「自分の故郷は、ソビエトだ!」と豪語していました。しかし、実際、ソビエトに入国した日本人の多くは、いつのまにかその消息を絶っています。やはり、何処かで粛正されたのでしょう。「甘い!」と言えば、これほど認識の甘い国民はいないと思います。

ソビエト連邦が世界中に拡散させた「共産主義思想」は、多くの国民の支持を受けました。それは、彼らの唱える思想が「平等」であり、「特権階級の打倒」だったからです。そして、ロシア革命は「市民革命」として宣伝され、封建社会の中で喘いでいた人々の共感を得ることに成功しました。それは、日本でも同じです。明治政府は、「四民平等」を謳いながら、実際は「華族・士族・平民・新平民」という身分差を設け、平民の中にも「地主・自作農・小作農」という差別がありました。全国にいた多くの「小作農民」は、明治時代になっても「年貢」を地主に収める姿は変わらず、相変わらず「水呑み百姓」と揶揄されるほど貧しかったのです。そこに「徴兵令」が定められ、これまで免除されていた「兵役」が、国民男子の義務となり、さらに貧しさに拍車をかけることになったのです。これで、一揆が起こらないはずがありません。最早、日本の農民は限界点に達していたのです。青年将校たちは、それが痛いほどわかっていたために「共産主義」に傾倒し、「昭和維新」を目指したのです。しかし、それが如何に危ない思想であったかは、戦後になって明らかになるのですが、昭和初期の段階で「共産主義」の怖ろしさに気づいた者はほとんどいませんでした。

4 「昭和維新」の決行

「統帥権の独立」に味をしめた軍部は、一気に日本を「戦争のできる国」に変えるために「国民総動員体制」を目論見ました。そして、陸軍は「統制派」と「皇道派」に別れて権力を握ろうと躍起になっていたのです。そして、事件は起こりました。昭和10年8月の「相沢事件」です。皇道派の「相沢三郎中佐」が、赴任先である台湾に向かう途中、陸軍省軍務局長の「永田鉄山少将」を斬殺したのです。この永田少将は、統制派の中心人物であり、将来の日本陸軍を背負うと言われた逸材でした。これにより、統制派と皇道派は決定的な対立構図を生み、それが「2.26事件」の引き金になったと言われています。そして、翌、昭和11年2月26日、遂に青年将校たちは決起し、歩兵第三連隊を主力とする決起部隊が、岡田啓介首相、鈴木貫太郎侍従長、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監を官邸に襲い、牧野伸顕元内大臣を湯河原に襲いました。そして、鈴木侍従長に重傷を負わせ、高橋蔵相、斎藤内相、渡辺教育総監を殺害したのです。この重臣たちこそが、青年将校たちが言う「君側の奸」なのです。

しかし、今になってみれば、どの人にもそんな証拠は何もありませんでした。単なる彼らの「思い込み」や皇道派幹部による「刷り込み」が、そう思い込ませただけのことだったのです。岡田首相は無事でしたが、彼は海軍の重鎮で、いわゆる条約派の軍人でした。艦隊派の軍人からしてみれば、憎い政敵かも知れませんが、特段、特権階級を代表する人物でもありません。ただ、時の「総理大臣」を担っていただけのことで襲われたのです。鈴木侍従長は、やはり元海軍大将で、昭和天皇の一番信頼の厚い重臣でした。軍人時代は「鬼貫太郎」と呼ばれた猛将です。生き残ってくれたお陰で大東亜戦争を「終戦」に持ち込むことができました。高橋蔵相は、日露戦争時に外債募集に走り回った日本勝利の立役者で「財政の神様」と呼ばれた大物です。日露戦争勝利の陰の立て役者で、日本にはなくてはならない人でした。斎藤内大臣は元海軍大将で、良識派の温厚な軍人でした。陸軍の現役将官だった渡辺教育総監は、統制派に属する軍人で、皇道派の幹部たちと意見の対立があったようです。また、牧野伸顕元内大臣は、大久保利通の子で昭和天皇の信頼の厚い重臣でした。「天皇親政」を叫んでいながら、天皇が一番信頼する人たちを「問答無用」で殺してしまったわけです。青年将校たちは、よく調べもせず、皇道派の幹部たちの口車に乗って襲撃したようです。それで、「自分たちの行動を認めろ!」とは、あまりにも身勝手な言い分でしかありません。そして、やっぱり天皇の怒りを買い「賊徒」の汚名を着ることになったのです。天皇は、この事件の一報を聴くや「この者共は、逆徒である。直ちに鎮圧せよ!」と強く命じました。

しかし、皇道派の幹部たちは、これを機会に一気に「軍人内閣」を作り「国家総動員体制」を敷こうと考えていましたので、天皇の激怒は想定外だったようです。彼らの頭には、天皇は「玉」でしかないのですから、自分の意見を強く主張する「天皇」を見て仰天したはずです。いつもなら、「玉は軽い方がいい…」と嘯いていた連中ですから、本気で怒った天皇に逆らえる者などいるはずもありません。対応が鈍い陸軍首脳に向かって天皇は、「ならば、私が近衛を率いて自ら鎮圧に当たる!」と宣言したのですから、最早、どうしようもありませんでした。このことを知った青年将校たちは、愕然として「こんなはずではなかった…」と呟いたそうです。彼らの中には、これを機会に陸軍の出世街道を走り、将来を夢見ていた者もいたそうです。そのときだけの熱い感情と上の人間の「口車」に乗せられた自分を恥じたことでしょう。青年将校たちは、最後の戦いとして「軍法会議」の場で自分たちの意見を述べるつもりでいましたが、陸軍は、既に統制派が主流となっており、弁明の機会のないままに処刑されました。大東亜戦争が始まる僅か5年前の出来事です。

5 「2.26事件」が残したもの

結局、この事件の後、若き天皇は自分の感情を顕わにしたことを恥じ、自分の意思を強く出すことを戒めるようになりました。それは、英国王室のような「立憲君主制」で、「君臨すれど、統治せずがよい」と考えたからだそうです。やはり、青年将校たちが「天皇親政」を叫び、自分が政治利用されることを避けようとしたのでしょう。この後、天皇は、大東亜戦争開戦時においても強い「懸念」は伝えましたが、「開戦はならぬ!」とは言いませんでした。それに、側近の者たちも天皇に「戦争責任」が及ばぬよう「発言は慎重にされるよう…」注意をしていたようです。それでも、さすがに敗戦時においては、だれも結論を出せない状況が見られ、やむを得ず「御聖断」を下されました。天皇は、自分の意思を示したことで、この戦争の「責任」を自らが取る覚悟を示されたのです。それは、戦後、GHQの最高司令官だった「マッカーサー元帥」に会われたとき、マッカーサーの前で「責任は、すべて自分にある」と仰せになられたという記録が残されていますので、やはり、相当の覚悟で会談に臨まれたことがわかります。本当は、一番責任の重い軍部が、日本の方向性を誤らせたのですが、それも「自分の責任である」とされたのでしょう。敗戦によって、多くの国が「王制」を廃止し、国王などが亡命する例が多いのに、日本だけが皇室が残ったのは、昭和天皇の「覚悟」が国民にも伝わったからだろうと思います。

事件を起こした青年将校たちは、銃殺刑となり、この事件は終わりましたが、この後、陸軍は「統制派」が主流となり、彼らの思う「国家総動員体制」が作られていきました。それは、政府や議会が「軍」を怖れたからだと言われています。この事件は、たまたま、昭和天皇のご決断によって対応することができましたが、天皇が何も仰せにならなければ、このときに軍主導の内閣が誕生していたはずです。そして、陸軍と海軍の対立が深まり、国内が乱れたことは間違いありません。海軍は、事件の報を聞くと、軍鑑を東京湾に派遣しただけでなく、横須賀の陸戦隊にも出動命令を出していました。万が一のときは、叛乱軍を海軍が討伐する覚悟だったのです。そうなれば、首都東京は悲惨な内戦の場となったことでしょう。そうならなかったことは、不幸中の幸いでした。それでも、この事件の後遺症は残りました。アメリカやソ連は、日本のこうした動きを察知していたのか、翌年の昭和12年7月には「盧溝橋事件」が起こり、日本は、中国との泥沼の戦争に引き摺られて行きました。8月には「上海事変」となり、今度は海軍が陸軍の反対を押し切り「渡洋爆撃」を敢行し、中国軍(蔣介石軍)との全面戦争に入ってしまいました。こうなると、だれも戦争を止めることはできません。日本軍は、次々と兵隊を中国大陸に送り続けました。中国は、アメリカやドイツなどの支援を受けると、頑強に抵抗し日本軍の戦死傷者は増えるばかりで、何のために戦っているのかもわからないまま戦争は拡大して行くのです。この「目的のない戦い」ほど空しいものはありません。最初は、「上海にいる日本人の救出と保護」だったものが、いつの間にか「南京」にまで攻め入る始末です。ただ、「憎い敵を屈服させる」ことが目的になっていました。これでは、子供の喧嘩の方がまだ「マシ」というものでしょう。

中国との戦争が激しくなると、日本は「国民総動員法」が成立し、陸軍が念願としていた「総力戦体制」が出来上がりました。軍部は戦争と共に肥大化し、軍も民も関係なく戦争に組み込まれて行ったのです。最期には、国民の税金の「80%」が軍事費となり、それでも足らずに戦時国債、金属類の供出など、あらゆる手段を用いて戦費に充てられましたが、強大なアメリカ軍の力には到底及ばず、日本は滅亡の瀬戸際まで追い詰められたのです。あのとき、青年将校たちが望んだ国家体制も、強大な「アメリカ軍」の前には無力でした。そして、敗戦後、日本は連合国軍(GHQ)の手によって「国家改造」が実行されました。昭和初期の社会主義者や青年将校が望んだような改革が行われ、新しい日本が出来上がったのです。まず、特権階級が廃止され、身分制度は完全に否定されました。財閥や資本家も解体され、地主も「農地解放」によって、農民は全員が「自作農」になりました。国民にとって悪夢だった「徴兵令」も撤廃され、国軍もなくなったのです。まさに、青年将校たちの夢見た世界が「敗戦」という悪夢によって開かれました。戦争中、戦闘機搭乗員だった「角田和男」氏は、そんな戦後の姿を見て「昔、2.26事件の青年将校がやろうとしていたことじゃないか…」とため息を吐いたと自身の著作に記しました。

しかし、処刑された青年将校たちは、こんな日本を見て、どう思っているのでしょう。自分たちが夢見た「社会主義体制」は、戦後の世界の混乱に拍車をかけました。ソビエトでは、対ドイツ戦争で国民を楯にして戦い、一千万人を超える犠牲者を出しました。それでも、アメリカに対抗するために「軍拡競争」を繰り広げ、国民には重税を課し、遂に国そのものが滅びてしまいました。戦後誕生した「共産主義国家」で生き残っているのは、「中華人民共和国」と「北朝鮮」くらいなものでしょう。その両国も、身分差別は著しく、青年将校が夢見た「平等社会」は、何処にもないのです。あの「2.26事件」は、戦後の国民に「軍隊は怖ろしいところだ」ということを教えるきっかけになりました。一旦、クーデターを起こせば、強力な兵器を保持しているだけに、自由に殺戮を行うことができるのです。あのとき、もし、昭和天皇が鎮圧を命じなければ、青年将校たちの夢は実現したでしょう。そして、少しばかり早く「国家総動員体制」が敷かれ、対米英戦争への突入が早まったかも知れません。でも、それだけのことだったのです。結果は、同じ「敗戦」しかありません。

たまたま、明治維新が成功したために、もう一度「昭和維新」が成功すると思ってしまった勘違いが、日本の悲劇でした。もし、明治維新のクーデターが失敗し、徳川家が中心となった「新政府」ができていたら、日本はどうなったでしょう。やはり、同じように「近代化の道」を選ぶしかなかったはずです。それは、帝国主義の魔の手から国を守るには、それ以外の選択肢がないからです。そして、やはり、日清戦争、日露戦争が起こり、日本は「軍事強国」として国際社会に出て行ったはずです。ただ、あの忌まわしい「戊辰戦争」は起こらず、平和裡に新政権が発足していれば、二度目の「維新」を夢見る人間は現れなかったと思います。そして、江戸時代からの歴史は次の世代に受け継がれ、日本人としての「まとまり」は、明治維新より強固だったかも知れません。そして、大切なことは、天皇を「玉」と呼び、政治利用しようとする企みもなく、「尊皇・勤皇」は、紛れもなく、日本人全員に受け継がれたはずです。そうなれば、もう少し「マシ」な歴史になっていたかも知れません。少なくても、軍部が暴走することもなく、悪夢のような「対米戦争」だけは避けられたかも知れません。しかし、これを考えることは、まったく意味のないことであり、現実に起きたことを「if」で考えるのは、卑怯というものです。せめて、青年将校たちの「純粋さ」が、痛ましく、できれば、数年間自重して、本当の戦となる「対米英戦争」で、軍人らしい戦いを見せて欲しかったと思うばかりです。

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