井上成美の海軍兵学校長時代の「教育漫語」については、既に書きましたので、読んでいただけた方も多いと思います。井上の軍人としての評価は分かれるところですが、教育という分野に於いては、やはり突出した理論家であり実践家だったと思います。軍隊経験しかない人間が、軍の「養成機関」とはいえ、「学校」の名がつく場所で「新しい教育」を実践することは、なかなか難しいことなのです。組織というものは、一度出来上がると、それが大きければ大きいほど変革を嫌います。今の学校制度が、戦後、「GHQ」(連合国軍総司令部)の指令によって作られたとしても、そこに80年近く安住してきた人々にとって、それが「当たり前」であり、違う世界を想像することを拒みます。まして、その世界で「権利」を得た人や、権利を得ようとする人にとっては、変革こそが「害悪」なのです。そして、それに挑戦しようとする人間を拒み、いじめ、組織から追い出そうとします。「組織」とは、そういう性質を持つものだという認識が必要です。井上成美は、対米英戦争中にそれを実践し、教育の成果を「未来」につなげようとしました。それが、井上のいう「教育漫語」であり「英語教育」でした。
教育の世界では、「不易と流行」という言葉がよく使われますが、今の日本の教育は「不易」を捨て「流行」にのみ偏った教育が行われています。文部科学省は、変革を嫌い、必死になって世間受けする「流行」に走ったがために、今の教育の混乱を招きました。兎角、役人というものは、変革を嫌い「例年どおり」が大好きな人たちです。「税金」という恒常的な資金に恵まれ、大過なく過ごすことが彼らの「生きる術」であり、変革は、それを阻害する「悪」でしかないのです。今も、よく財務省(旧大蔵省)が話題に昇りますが、財務省の官僚にとって「税収を上げる」ことは、任務であり、官僚として責任でもあると考えています。そのため、「減税」は、あってはあらない失策に見えるのです。その固い扉を押し開くのが「政治家」の役割なのですが、能力のない政治家は、論理に優れた官僚を説き伏せる力もなく、唯々諾々とそれに従って恥とも思っていません。それは、いつの時代でも同じだということです。たとえ、戦争に負けて悲惨な人生を歩もうとも「これまでどおり」が、通用する(して欲しい)と願うのが人間なのでしょう。
昭和20年8月の日本陸海軍も同じでした。敗戦が必至の状態にあるにも関わらず「本土決戦」「一億総特攻」を叫び、守るべき国民を死地に追いやっても「軍」という組織を守ろり、変革を拒否し続けました。それは、最早「国民の軍隊」でも「天皇の軍隊」でもありません。単なる私的な「武力集団」に成り下がったのです。それほどに「自分の身を守る」ことに対して、人間は醜いほどに抗うのです。今の日本も大きな「変革のとき」を迎えているのですが、大局観を持てない政治家や官僚たちでは、自分の身を削った変革はできるはずがありません。井上成美は、海軍次官として周囲の反対を押し切り「終戦工作」を行い、「敗戦」という未曾有の国難に際して抗うことなく自分の身を処した希有の人物です。戦後、井上は、多くの就職の誘いも断り、横須賀の丘の上に建つ小さな邸に暮らし、「英語塾」を開いて、村の子供たちを教えました。それも、金銭は受け取らず、親たちが持って来る野菜や魚などで糊口を凌いだと言います。生活は貧しく、栄養も十分に摂れないまま娘静子は結核で亡くなりました。孫の研一も見かねた父方の家に引き取られ、たった一人で粗末な家に暮らしました。これが、井上の戦争を指揮した人間の「責任の取り方」だったのでしょう。
それでも、井上を慕う多くの元部下や教え子たちは、晩年の井上を支援し「生きる力」を与えました。ある生徒は、金銭を絶対に受け取らない井上に対して「親を心配しない子がありますか!?」と叱りつけ、無理矢理、拒む井上を納得させたそうです。井上にしてみても「親子の情」を持ち出されては、断る理由がありませんでした。これも「教育」なのです。海軍の中では、井上を批判する人たちもいるようですが、それは、自分の欠点(欠陥)を指摘されて大恥を掻かされたからです。井上が軍務局長時代、後の機動部隊の指揮官を務めた「南雲忠一」が、何が何でも「三国軍事同盟に賛同しろ!」と井上に詰め寄ったことがありました。そのとき南雲は、「おまえなんぞ、殺してしまうぞ!」と脅迫したといいます。そのとき、井上は机の中から遺書を出し「殺せるものなら、殺して見ろ!」「もう遺書は書いた。どうする!?」と強い気迫で強面の南雲を黙らせたそうです。南雲忠一という男は、普段は強面で威勢がいい軍人でしたが、機動部隊を率いると常に自信なさそうで、航空参謀の「源田実中佐」の顔色ばかり見ていたそうです。部下の将兵たちからは「源田艦隊」と揶揄されても、その態度は変わりませんでした。人間が、平時と有事では、その態度も大きく変わるようです。
井上自身は、確かに大軍を率いるカリスマ性のある「武将」ではないでしょう。しかし、「将に仕える軍師」としてなら、戦国時代でも頭角を現したはずです。その点、山本五十六は「将」としてのカリスマ性を備えた軍人でした。しかし、その将には、適切な軍師が必要なのです。たとえば、豊臣秀吉には「竹中半兵衛」「黒田軍兵衛」がおり、織田信長には「明智光秀」「羽柴秀吉」がいました。また、徳川家康には「井伊直政」「本多忠勝」らがいて、重要な戦や政治に於いて貴重な助言をしています。しかし、山本五十六には軍師と呼べる側近がいませんでした。一人、有名なのが「黒島亀人」参謀ですが、黒島は、いわゆる「変人」でしかなく、単に頭の中で「計画」を立てることだけが趣味のような男でした。性格的にもかなり偏りのある人間で、自分の「思い込み」が激しく、人間の好き嫌いも激しかったようです。人間的には「唯我独尊」というタイプで、戦争末期には「特攻作戦計画」に没頭し、次々と新兵器なる代物を生み出し、若者を死地に追いやりました。戦後は、自分の身の安全を図ることに汲々とし、とても「軍師」と呼べる代物ではありませんでした。そんな変人を重用した山本五十六も同じ「変人」の仲間だったと思います。
海軍には、井上成美のような冷静で頭脳明晰、物事を合理的に思考できる軍人がときどき登場します。それは、海軍兵学校に入校してくる生徒の学力が並外れて高いことに起因していると考えられます。兵学校に入校して「海軍生徒」になるには、相当に難しい学力試験を突破しなければなりません。当時の「エリート」と呼ばれる人の大半は、高等学校(旧制)、帝国大学の卒業生であり、軍人であれば陸軍士官学校、海軍兵学校等の「士官養成機関」を出なければなりませんでした。特に兵学校は、学力試験が難しいだけでなく、体力面、健康面においても優れてる必要がありました。競争率も高く、一番人気があったころは、「100倍」近い倍率があったそうですから、その人気の高さがわかります。こうした学校に入ってくる生徒の中には、いわゆる「天才型」も多く、彼らにとって学力試験は、それほどの難関ではないのです。しかし、その他の生徒にとっては、中学校(旧制)の秀才であっても、必死に勉強して「合格」を勝ち取る最難関校ですから、一部のトップの天才型とは、その「質」が異なるようです。その一部のトップを競う生徒にとっては、座って学ぶ授業などは、教官の話を聞いているだけで理解し、その「本質」まで見抜いたといいますから、他の生徒とは見ている世界が違うのだと思います。
これは、今の学校制度でも同じような現象が見られます。必死に最難関大学に合格する者と、普段のままの生活で、特段の努力をしなくても合格する者がいます。「試験に合格する」というハードルは、彼らにとって左程大きな「壁」ではないということです。こうした、一部の優れた才能のある者が、自分の好きなことに没頭する環境さえ整えられれば、「世界の進歩」に役立つ仕事をするのでしょう。井上も、ものの本質を見抜く能力は高く、あの「三国軍事同盟」に反対を貫いたのも、そこに隠されている「本質」を見抜き、日本にとって「危険」であることを理論的にも感覚的にもわかっていたからです。井上は、ヒットラーの著書「マイン・カンプ(わが闘争)」を原書で読んでおり、ヒットラーという男が日本人を如何に差別的に見ているかを知っていました。但し、日本語訳では、その頁は削除されていたそうです。それだけに、南雲忠一のような眼に見える現象だけに囚われる人間には、到底理解できない世界観を持っていたのです。これは、山本五十六にもありませんでした。もし、山本に井上のような合理的な施行や洞察力があれば、日米戦争に断固反対の意思を貫き、まして、真珠湾攻撃などという無謀な作戦を立てなかったはずです。井上が、四手、五手先まで見通していても、山本は二手先までしか見えていなかったのです。航空主兵論や機動部隊編制などは、当時の海軍としても画期的な思考でしたが、それを「運用」する策が山本には乏しかったといえます。
この井上に似た海軍の軍人は、海軍の歴史上に度々登場してきます。それが、日本海軍の「良識」と言えるものでした。ところが、こうした優秀な頭脳を持った良識派が、昭和初期の海軍部内の派閥抗争の末に退役に追いやられ、肝腎な大東亜戦争時には、だれも海軍部内にいないという最悪の事態を招いてしまっていました。その親玉が、皇族である「伏見宮博恭王大将(元帥)」と「加藤寛治大将」です。この二人が東郷平八郎元帥を抱き込み、気弱な海軍大臣「大角岑生大将」に圧力をかけて無茶苦茶な人事を行ったのです。近現代史の中でも、このいわゆる「大角人事」と呼ばれる政変は、注目されることはありませんが、もし、伏見宮たちがこんな権力争いをしなければ、日米戦争は回避できたかも知れないと言われています。井上は、退役させられた先輩たちより年少だったために海軍に残りましたが、それでも、艦隊派の連中にはかなり眼をつけられていたといいます。一時は、左遷されて予備役編入寸前まで行きましたが、人事に介入し過ぎて、天皇に注意された伏見宮が「井上を然るべきポストに置いてやれ!」と言ったことで退役は免れました。しかし、こうした人事の私物化は、日本の将来を危うくするものだったのです。この「良識派」に属する軍人たちは、後に「条約派」と呼ばれ、国際協調を基軸とする政治を行い、海軍も世界の流れの中で「軍縮」に向かうことを支持する人たちでした。さて、それでは、ここで、その「良識派」の流れを見ていきたいと思います。
明治時代の海軍は、創設間もないころで、戦艦をイギリスなどから購入しなければなりませんでした。ロシアとの関係が怪しくなったころ、少ない予算の中でなんとかやりくりをして戦艦「三笠」や「春日」「朝日」を買い求め、ワンセットの「連合艦隊」を持てるようになりました。当時のロシアは、陸軍もさることながら、海軍もアジア方面だけでも「旅順」と「ウラジオストック」に艦隊を持ち、ヨーロッパにも「バルチック艦隊」が控えていました。日本海軍にしてみても、アジア方面の艦隊は抑えても、さすがにバルチック艦隊まで敵にすることはできませんでした。それに、ワンセットしかない艦隊では、五分五分の戦いは「負け」と同じなのです。そうした中で、猛訓練を重ねて戦闘能力を極限まで高め、バルチック艦隊を破ったのが、あの「日本海海戦」でした。このとき、東郷平八郎の下で参謀長を務めたのが、後の内閣総理大臣(第21代)「元帥加藤友三郎大将」です。加藤大将は、まさに、井上成美が尊敬する大先輩でした。日本海海戦も東郷平八郎と秋山真之ばかりが注目を浴びますが、この加藤友三郎のような緻密で合理的な指揮官がいたことで、東郷も秋山も安心して作戦を考えることができたのです。背が高く痩身なので、武将としては大人しく見えるのだろうと思いますが、その沈着冷静さと洞察力は、この時代随一の軍人だったと思います。
日露戦争後も海軍部内や政府内で活躍し、第一次世界大戦後の「ワシントン軍縮会議」に日本代表の首席委員として条約をまとめました。また、5つの内閣で「海軍大臣」を務め、海軍の統制に努めました。加藤大将は、ワシントン会議を妥結するに当たり、次の言葉を述べています。「国防は、軍人の専有物に非ず。戦争もまた軍人にて為し得べきものに非ず。国防は、国力に相応ずる武力を備えると同時に、国力を涵養し、一方、外交手段により戦争を避けることが、目下の時勢において、国防の本義なると信ずる」これを後世の軍人たちはどのような気持ちで聞いたのでしょうか。「国防を軍人に専有物かのように為し」「戦争を軍人だけで行うものと勘違いし」「国力にふわさしくない武力を蓄え」「国民を疲弊させ」「外交手段を軽んじて、戦争に訴え」た結果、「未曾有の被害をもたらす敗戦となし」「国を崩壊させた」のは、一体だれなのでしょう。加藤大将は、62歳の若さで亡くなりましたが、もし、昭和の10年くらいまで生きていたら、伏見宮などが艦隊派の後ろ盾になって条約派の人たちを陥れることなどできなかったでしょう。皮肉にも、日本の運命は、ここに決したのかも知れません。
そして、この加藤友三郎の後継として登場してきたのが、井上より5期上の「堀悌吉中将」です。堀中将は、ワシントン軍縮会議時に海軍側の代表の一人として現地に赴き、加藤全権委員の仕事を間近で見ていました。このときは、まだ「海軍中佐」ですから、代表を補佐する役割として出張を命じられていました。先の加藤大将の言葉を聞いたのが、この堀中佐なのです。堀は、山本五十六や古賀峯一と同期で、海軍兵学校第32期生徒のトップ(クラスヘッド)でした。その同期生たちが、堀を称して「神様が創り出した傑作が、堀の頭脳だ!」と言わしめたくらいです。その優秀さは、当時の兵学校でも評判になっていました。堀は、他の秀才とは異なり、一生懸命勉強をして「トップ」になった人間ではありません。元々備わっている才能によって頭角を現した人物で、たとえ、軍人でなくても、どんな世界でも立派な実績を挙げ有名になったことでしょう。だれもが、「いずれは、日本海軍を背負って立つ人物」と見ており、順調に出世の階段を昇っていました。ところが、加藤大将が亡くなると、これをチャンスと見た「艦隊派」の軍人たちは、条約派の人たちを海軍から追い落としたのです。それも、伏見宮という皇族と東郷平八郎というカリスマ将軍をバックにつけた強行人事でした。年老いた東郷は、このころ、昔のような合理性をなくしていたのかも知れません。「世界の名将」と謳われた人物としては、残念な晩年です。艦隊派の策謀により明治以来の「帝国海軍」は、変質してしまったのです。その予備役にする将官の名簿に、未来の海軍大臣と目された「堀悌吉」の名もありました。理由は、「堀がそのまま現役でいたら、近い将来、海軍大臣となり艦隊派は報復を受けるから…」だったそうです。なんともはや、情けない男たちです。
世界の軍縮の流れは、第一次世界大戦後から始まり、大正11年の「ワシントン会議」、昭和2年の「ジュネーブ会議」そして、昭和5年の「ロンドン会議」と続きました。日本は、加藤友三郎大将が全権となった「ワシントン会議」で、対米英比率「6割」で妥協しましたが、これが、艦隊派を作るきっかけになったのです。要するに、艦隊派としては「対米英6割では、米英には勝てない!」とするものでした。しかし、加藤大将は「専守防衛の日本が、国力として持てる戦力は対米英6割で十分である!」としたのです。これは、太平洋と大西洋の両面を防衛するアメリカや世界に植民地を持つイギリスを考えれば、至極当然の意見でした。それでも、何でも欲しがる艦隊派は、「これでは、アメリカには勝てぬ!」と言い張り、次のロンドン会議では日本国内は荒れに荒れました。残念なことに、ワシントン会議後に加藤友三郎大将は病で亡くなっていたのです。取り敢えず「ロンドン会議」は、日本政府の考えで批准しましたが、次のジュネーブ会議は決裂、第二次ロンドン会議では、日本は脱退してしまい、欧米からの眼は益々厳しくなっていったのです。そして、翌、昭和6年には「満州事変」が起こり、次いで満州国建国、国際連盟脱退と日本は世界の「孤児」となっていくのです。こうして、艦隊派が海軍の実権を掌握しましたが「我が世の春」の夢は一瞬で終わり、それから10数年後には、海軍どころか、日本が崩壊するのですから、人間の欲深さ、業の深さを思い知らされる出来事になりました。
堀は、山本五十六大将の盟友と言われ、山本は退役した堀の家を訪ねては「海軍の未来」について、語り合ったといわれています。しかし、山本は、連合艦隊司令長官になると作戦に前のめりになり堀に自分の胸の内を明かすことはなくなりました。もし、「ハワイ攻撃」を堀に相談していたら、堀は何と答えたのでしょう。井上は、部下から「ハワイ攻撃の成功!」の報せを受けると、「バカヤロー!」と怒鳴ったそうです。おそらくは、堀もニュースで聞かされて井上と同じ反応を示したはずです。ワシントン会議の後、加藤大将が言っていたように「戦争で問題を解決するのではなく、外交でやらねばならぬ!」というのが、条約派の軍人たち共通の願いだったのです。しかし、「対米英戦争」のために軍備を増強してきた艦隊派中心の海軍の幹部たちは、実際、対米英戦争を想定しなければならなくなったとき、口が裂けても「できぬ!」とは言えませんでした。大東亜戦争の開戦は、本来、対米英戦争の中心となる「海軍」に実質的な決定権がありました。そのために、近衛文麿総理大臣が、わざわざ連合艦隊司令長官の山本五十六を呼んで真意を尋ねたのです。そのとき、山本は「一年や一年半は存分に暴れてご覧に入れる。しかし、その後は、約束できません!」と答えたといいます。これを井上は、「そんなことを言えば、公家の総理は、一年半はできる…と思うじゃないか!?」「できないのなら、できないとなぜ言わない!」と強く批判しています。
山本にしてみれば、これまで海軍が莫大な国家予算を費やして軍備を整えてきたことは百も承知しています。そして、艦隊派の連中が、堀や条約派の先輩たちを追い落として実権を握ったのも知っています。そんな連中が、「対米英戦争はできない!」などと言えるはずがないのです。山本にしても、「自分が艦隊派が言えぬことを、俺が代わって言うのか?ふざけるな!」とでも言いたかったのでしょう。その証拠に、開戦に責任を持つはずの「及川古志郎」海軍大臣も、後を継いだ「嶋田繁太郎」大臣も何も言わず、ただ「やむを得ない…」としか言わず、積極的な意見を述べないまま時間ばかりが経過していきました。伏見宮の後を継いだ軍令部総長の永野修身に至っては、天皇の前で「戦うも亡国、戦わざるもまた亡国…」などと訳のわからない説法をする始末で、だれも「勝算がある!」と名言できないのです。困った、近衛が山本に相談したのは、こうした経緯がありました。おそらく、艦隊派の軍人たちは、だれも、これまでの責任を取りたくなかったのでしょう。そのために、条約派の生き残りである山本五十六に直接責任を負わせようと企んだのです。永野修身が、山本が「ハワイ攻撃案」を軍令部に持ってきたとき、他の部員全員が反対するにも拘わらず、総長の永野だけが「山本君が、やると言うのだからやらせてみればいい…」と消極的賛成で決裁印を押しました。敗戦後、永野は「山本さんの代わりがいなかったんだ…」と本音を吐露しています。要するに、艦隊派の将官の中で、連合艦隊の指揮を執る人間(執れる人間)がだれもいなかったということです。結局、海軍の軍備増強は、艦隊派の人間の「出世欲・名誉欲」でしかなかったのです。
だから、井上は、海軍兵学校長に着任すると、教育参考館に掲げられていた歴代海軍大将の肖像画の「額」を取り外させ、「この中には、何人も国賊がいる。そんな奴らを生徒の目標にさせられるか!?」と怒鳴ったそうです。井上には、これまで艦隊派の連中が、日本という国を如何に私物化し、国難に晒したかをよくわかっていたのです。さすがに、皇族の「伏見宮」を国賊呼ばわりしませんでしたが、兵学校に掲げられた肖像画を見た井上の眼は、怒りに燃えていたはずです。昭和の初めに軍令部総長に就任し、海軍を自分の恣に動かした伏見宮は、条約派に反対する「加藤寛治大将」や「高橋三吉大将」の意を汲んで条約派の将官を一掃しました。しかし、皇族の力を私した結果、海軍に人材がいなくなったことに驚きました。そんな無理な圧力を加えたことが天皇に知られると、天皇は、この長老と呼ばれた伏見宮を呼び厳しく注意をしたそうです。しかし、皇族の最長老でもあり、天皇にも遠慮がありました。本来であれば、厳しく罰してもいいような問題でしたが、それが有耶無耶にされたことで、海軍から艦隊派を一掃することはできませんでした。伏見宮という人は、海軍軍人であることを誇りとした人物ですが、どうも言動が軽く、神輿に乗りやすい人だったようです。日露戦争にも参加し負傷したことを誇りとしており、戦艦の艦長を務めるなど「海の男」として活躍しました。しかし、ご自身の立場を逸脱した言動が多く、大東亜戦争開戦前もどっちつかずの態度で、どちらかというと「強い方に靡くタイプ」のようです。敗戦後は、息子たちの多くも戦死し、邸も空襲で焼かれ、間もなく病を得て亡くなりました。
そうした動き方をする伏見宮を井上は、言葉にこそ出しませんが、心の中では(国賊…)と思っていたはずです。こうして見ると、日本海軍の対米英戦略は、どうも怪しい部分が多く見えて来ます。山本五十六がハワイ攻撃に固執したのは、(こんな無謀な戦争は、俺はできない!)というのが本音で、(もし、俺にやれと言われるのなら、古臭い漸減邀撃など俺は死んでもやらんぞ!)と思っていたのかも知れません。もし、堀悌吉中将や山梨勝之進大将などが現役で海軍におられたら、どんなことをしても、対米英戦争は回避したと思います。実際、艦隊派の面々は、心の中では(やれば、負けるだろう…)と思っていたわけですから、だれかが「無理だ!」と命をかけて発言してくれれば、止める口実はできたのです。そのときになって、まさか、伏見宮が天皇の意に背いてまで「戦争賛成!」はしなかったでしょう。条約派の人たちがいれば、山本五十六も井上成美も同一歩調で、「海軍は、対米英戦争など不可能だ!」と言えたはずです。艦隊派が、「対米英戦争を想定して軍備を整えた」というのが、詭弁であれば、その戦略も実施可能なのか怪しくなってきます。つまり、「予算獲得」「権力を握る」のための戦略であり、実際は不可能な戦略だったとしたら、日本が米英に勝てるはずがありません。井上は、そのことを十分に承知の上で、新しい「戦略構想」を示したのです。
1 井上成美の「新軍備計画」論(昭和15年)
(1)航空機の発達した今日、之からの戦争では、主力艦隊と主力艦隊の決戦は絶対に起らない。
日露戦争に勝利した日本海軍は、あの「日本海海戦」を手本とした対米英戦略を改めて立てました。それが、「漸減邀撃論」です。「漸減」とは、「少しずつ減らす」ことを指す言葉で、「邀撃」とは「迎え撃つ」という意味です。つまり、太平洋を渡ってくる敵艦隊(アメリカ海軍)を日本列島に近づく前に、潜水艦や南太平洋の島々に配置した航空部隊が叩き、その後で巨砲を揃えた戦艦群が決戦に及ぶというものでした。日本側からしてみれば、すべて、自分の土俵で相撲を取るようなもので、非常に有利に戦いを進めることができるはずでした。そして、そのために、艦隊派の軍人たちは、議会に無理な要求をして戦艦や巡洋艦などを整えたのです。しかし、その発想が正しかったのは、昭和初頭のころまででした。井上が述べたように、「航空機の発達」は目まぐるしいものがあり、たとえ、その年の新鋭機でも翌々年には旧式機と見做されるほどの速さで開発が進んでいたのです。当時、「海軍航空本部長」の要職にあった井上は、そのことに気づいていました。
日本でも、昭和に入ると「航空母艦」の必要性を感じ、軍縮条約の関係から、戦艦を航空母艦に改装するなどして、航空戦に備えるようになっていました。真珠湾やミッドウェイで使用した「赤城」「加賀」は、元々は戦艦だったものを改装して大型航空母艦としました。こうした航空母艦が完成すると、海上であれば何処にでも航空機を運ぶことができます。戦艦であれば、常に「大砲の弾が届く距離」が戦闘範囲になりますが、航空母艦を使えば、艦の航続距離+航空機の航続距離が「戦闘範囲」になりますので、それは「無限大」に広がります。現在であれば、「大陸弾道ミサイル」を使えば、その飛行距離は地球一周だってしてしまうでしょう。そうなると、「戦場」は、私たちの住む町すらも想定されることになるのです。結局、井上の言うように「漸減邀撃作戦」のいう、主力艦同士の最終決戦などは起こらず、航空機による「殲滅戦」になると言うことなのです。事実、昭和20年になると、アメリカ軍は長距離爆撃機「B29」を使用して、サイパン島やテニアン島から日本本土への爆撃を行いました。また、航空母艦を日本列島近海まで進め、その艦載機が日本全国各地を空襲して回りました。こうなると、最早、日本全土が「戦場」であり「最前線」となったのです。
(2)巨額の金を食う戦艦など建造する必要なし。敵の戦艦など何程あろうと、我に充分な航空兵 力あれば皆沈めることが出来る。
昭和初頭まで、世界は「大艦巨砲主義」の時代で、航空機は、第一次世界大戦のような補助兵器としか見做されていませんでした。しかし、第一次世界大戦の終わりころには、金属製の単葉機が造られるようになってきており、魚雷や爆弾を搭載した「攻撃機」も誕生してきました。それでも、やはり、戦艦の巨砲は一発で敵戦艦を撃沈する能力があり、海上を動き回る艦船を航空機で沈めるのは至難だとされていました。しかし、それを「可能である」と実証したのが日本海軍だったことは、運命の皮肉としか言いようがありません。山本五十六は、「対米英戦争をすれば、必ず負ける!」という考えで一貫していましたが、艦隊派から「連合艦隊司令長官」を引き受ける者がいない以上、山本自身が指揮を執るしかなくなったのです。ただ、山本の悪い点は、「できない」と言えない代わりに、突拍子もない案を出して、相手を煙に巻く戦術を使うことです。この場合は、「ハワイ攻撃」でした。これまで、航空母艦で基地攻撃をするなどあり得ない話でしたが、それを山本は「やる!」と言い張ったのです。だれもが、そんな投機的な作戦に勝算などあろうはずがありません。軍令部の参謀たちが、挙って反対するのは当然でした。それでも、山本は「ハワイ攻撃は、自分の信念である!」と述べ、「承知されないのなら、自分を罷免すればいい!」とまで告げて軍令部を揺さぶりました。これも条約派の仲間を退役させた艦隊派への「嫌がらせ」だったのかも知れません。
本当は、この時点で「連合艦隊司令長官」を交代するのがよかったと思います。そして、たとえ時代遅れであろうと「漸減邀撃戦」に持ち込み、それで敗れれば、海軍のだれもが納得したはずです。なぜなら、海軍の将兵は、だれもが「漸減邀撃戦」のために「月月火水木金金」といわれた猛訓練に耐えて腕を磨いてきたのですから。私的に言えば、井上の理屈は十分理解できますが、彼は、海軍将兵の技術の高さを計算に入れていないように思います。実際は、主力艦同士の決戦は行われないとしても、太平洋上での多くの「海戦」は行われたはずです。そして、アメリカ軍に「レーダー射撃」ができないうちであれば、その海戦に勝利したのは、日本海軍だったはずです。その証拠に、大東亜戦争開戦当初に行われた海戦は、日本軍の勝利に終わっているからです。当時の駆逐艦や巡洋艦、潜水艦が装備した「酸素魚雷」は、世界一の航続距離を持ち、航跡の見えにくい最新兵器でした。そして、駆逐艦隊の敵艦攻撃運動は、猛訓練の甲斐があって世界一のレベルに達していました。また、大砲等の射撃技術も世界のトップ水準にあり、もし、日本海軍がいち早く「レーダー」を装備していたら、戦争末期のような悲惨な運命にはならなかったと思います。
それを「ハワイ攻撃」に山本が固執したために、これまで培ってきた「漸減邀撃作戦」は採れなくなり、機動部隊による奇襲作戦が本格化していったのです。確かに、日本海軍の機動部隊は、ミッドウェイ海戦で悲劇的な敗戦を迎えるまでは、世界一の「機動部隊」でした。そして、ミッドウェイ海戦は、計画した黒島参謀の案が複雑過ぎて、全将兵に徹底されなかったことが失敗の要因でした。もし、「敵機動部隊撃滅」にのみ絞って戦闘を行えば、日本海軍が敗れることはありませんでした。人間は、複雑な計画を見ると「すごいなあ…」と感心しがちですが、実際に行う段になると戦場でのミスが度々起こり、混乱を招く原因になるものです。まして、戦場では、人間は冷静でいられるものではありません。自分の命を狙っている敵が眼の前に現れて平気な人間はいないでしょう。怯まないにしても、気持ちが昂ぶってミスを犯しがちなのです。だからこそ、計画は「単純明快」なのが最適なのです。黒島という参謀は、変わり者で有名ですが、人を人とも思わない傲慢なところがある人間でした。そのため、独り善がりの計画に満足してしまい、「人は間違いを犯すもの」という事実を見逃したように思います。そのあたりが、戦いになれた戦国武将の「知略」との違いなのでしょう。
しかし、井上のいう航空兵力も日本の場合、陸軍と海軍が予算を分け合い、それぞれに異なる要求を航空機メーカーに出したことで、少ない予算の中で多くの「機種」が誕生することになりました。アメリカの航空機といえば「グラマン」「ロッキード」「ボーイング」などが有名ですが、共通点は「高出力」「高い防御性」「簡単な構造」「同一品質」などが挙げられます。そして、どれも「大量生産」に向いているのです。日本の零戦のライバルだった「グランマンF4F」も「F6F」も形状はそっくりで、F6Fの方が一回り大きいくらいです。アメリカも日米戦争になると各工場には多くの女性が作業員として働き、それでも「高品質」の航空機を造り続けたのです。日本の場合は、その工作が難しく、また、部品の種類が多いために、なかなか熟練工が育たないといった問題を抱えていました。それに、多くの熟練工が国から配慮もされず、兵隊に召集されてしまったことで、せっかくの高性能機でさえ、完成しても欠陥が多く廃棄される機体も多かったそうです。極端なことを言えば、陸海軍が同じ戦場で戦っているのに、部品の譲り合いができないということもあったそうで、整備兵泣かせでした。要するに「規格」が統一されていないのです。そんな状態では、稼働率が下がるばかりで、数を持たない日本軍にとって致命的な欠陥でした。井上は「十分な航空兵力」と述べていますが、この点もアメリカの方がすべてにおいて優れていたとしか言いようがありません。
敗戦間近になって、陸軍と海軍の統一指揮が執れるようになりましたが、既に時機を失しており、効果的な運用はできませんでした。また、航空部門を統一して「空軍」を創ろうという話も出たようですが、それは、戦後の「航空自衛隊」の創設まで待たなければなりません。結局は、だれも本気で「アメリカ」と戦争ができると考えていなかった証拠です。単純思考の艦隊派の軍人たちが、自分の出世と予算の獲得のために「仮想敵国」をアメリカ海軍にしただけのことで、具体的な方策が、「巨艦を建造する」だけなのですから、まるで子供じみています。戦艦大和が就役したとき、多くの将兵が「これで、戦争に勝てる!」と思ったそうです。当時の日本人の感覚は、今の子供以下だということがわかります。まあ、下級兵士がそう思ったとしても、上級将校や海軍省・軍令部の将校たちまでそう考えていたとしたら、日本の秀才も程度が知れています。一度、数学の専門家に計算してもらえばいいのですが、「戦艦大和一艦で、攻撃機100機に勝てるか?」という問題を解いてみればわかることです。
確かに、航空機自体は脆弱な造りで、対空放火ですぐにでも墜とせそうな気がします。しかし、私たちが「蠅一匹」落とせないように、自由に高速で飛び回る航空機を撃ち落とすことは至難です。それが、まとめて100機が、3次元空間を縦横無尽に飛び回った上に、爆弾や魚雷で攻撃してくるわけですから、いくら海上を動き回っても「平面運動」しかできない戦艦が敵うはずがないのです。事実、昭和20年4月7日、大和は航空機の護衛もなく沖縄に向けて出撃しましたが、沖縄どころか、鹿児島を少し過ぎたところでアメリカ軍の空襲を受け、沈んでしまいました。本当に呆気ない戦闘だったと思います。井上が予言するまでもなく、昭和15年時点では「想定」できていたのことなのです。それでも、平和な時代に安穏と暮らしていた軍人たちは、それ以上に考えることはしませんでした。もし、戦艦が航空機に勝てるとすれば、現代のように「コンピュータ」を駆使した「精密レーダー射撃」ができるようになるまで待たねばなりません。つまり、人間の能力では「不可能」だと言うことです。そんなことも考えず、安易に「対米英戦争」を選んだ大将たちを井上は、「国賊」と呼んだのです。
(3)陸上航空基地は絶対に沈まない航空母艦である。航空母艦は運動力を有するから使用上便利ではあるが、極めて脆弱である。故に海軍航空兵力の主力は基地航空兵力であるべきである。
この考え方は、基本的に条約派の軍人たちが唱えていた「専守防衛論」に基づくものです。そもそも、機動部隊は「攻撃・侵攻型」の戦争を意図したもので、専守防衛には馴染まない考え方です。山本五十六は、堀悌吉と同じ条約派に属する軍人でしたが、「漸減邀撃論」に与するものではありませんでした。要するに、「航空機の発達した今、漸減邀撃論は成り立たない!」という井上の意見と同じものでした。そのために、「もし、日米戦争になれば、積極的に敵を攻撃し、先手必勝で戦わなければ勝ち目はない!」と考えていたのです。そして、そのための「機動部隊」でした。しかし、勝敗は、こちらの思うようにだけ進むわけではありません。確かに、機動部隊での先制攻撃は効果があるでしょう。しかし、既に第一次世界大戦を見ればわかるように、これからの戦争は「総力戦」になることは間違いありません。そうなれば、日本が一時的に勝利を収めたとしても、すぐに「講和」となるかは疑問です。寧ろ、「国の総力を挙げて戦いに向かう」と考えた方が常識的でしょう。山本は、「ハワイを奇襲攻撃して太平洋艦隊を撃滅し、アメリカ国民の戦意を失わせる!」と豪語しましたが、「総力戦」の今、そんなことで国民の戦意が喪失などするはずがないのです。もし、日本が同じようなことをされれば、すぐに「挙国一致体制」で敵に向かうはずです。これが「専守防衛論」なのですから、山本の意見は最初から破綻しているのです。それでも山本を罷免できなかったのですから、海軍には対米英戦争を指揮できる軍人はいなかったのです。(どうなってもいいから、山本にやらせる他はない…。責任は、山本に取ってもらおう…)とでも考えたのでしょうか。
確かに、日本海軍は開戦と同時に太平洋上の各島々を確保するために陸軍部隊を送り込みました。特に、ニューギニアの「ラバウル」には、陸海軍共に大規模な航空基地を造りオーストラリアとアメリカの交通を遮断する作戦に出ました。オーストラリアのダーウィンが空襲されたのも、このラバウル基地があったからです。しかし、そのラバウルも、熾烈なガダルカナル島の攻防戦によって弱体化し、制空権を失うことになりました。日本も「制空権」の重要性がわかっており、山本五十六自身がラバウルで実際に指揮を執りましたから、如何に日本にとって「重要拠点」だったかがわかります。しかし、日本軍を凌ぐ大量の航空機をガダルカナルに派遣し、度重なる航空戦と海戦によって「ガダルカナル島」を占領したのはアメリカ軍でした。南太平洋の拠点を失った日本軍は、少しずつ後退を余儀なくされ、そのうち補給路が断たれると島は孤立し、アメリカ海兵隊の上陸を許し陥落していったのです。確かに、島自体は「不沈空母」かも知れませんが、それは、飽くまで「補給」が十分に為されて言えることで、日本から物資を運んだ輸送船が、アメリカ海軍の潜水艦によって次々と沈められると、補給はままならなくなり自滅の道を選ぶしかなかったのです。そういう意味では、井上の言う「基地航空兵力の充実」は、「補給が可能」であることが大前提であることを忘れてはなりません。
(4)対アメリカ戦に於ては陸上基地は国防兵力の主力であって、太平洋に散在する島々は天与の宝で非常に大切なものである。
「太平洋に散在する島々は天与の宝」とう認識が、昭和の海軍にあったのでしょうか。明治海軍が定めた「漸減邀撃戦」には、確かに太平洋の島々に造られるであろう「航空基地」から発進した攻撃隊が、太平洋を北上してくる「アメリカ艦隊」を迎え撃ち、敵兵力を削ぐことを目的としていました。しかし、ラバウルもトラックも、他の島の航空基地はあまりにも無防備だと言わざるを得ません。たとえば、ラバウル基地を見ても「滑走路」は空から見れば一目瞭然の場所にあり、今に残る映像にも広々とした滑走路を疾走する零戦が見えます。そして、実際にラバウルに派遣された将兵の記録を見ても、堅牢な造りの基地という印象はなく、爆弾を落とされれば吹き飛んでしまうような兵舎や滑走路があるだけで、飛行機の離陸時には土埃が濛々と巻き上がり、アメリカのようにコンクリートで固めたり、鉄板を敷いたりする工夫もありません。これでは、残念ながら長期戦には向かない構造になっていました。当時の日本には、土木作業用の機械が少なく、どうしても人力でやらなければならないのが実状でした。こうした脆弱性が、日本軍の「弱点」として現れた戦争でした。
(5)対アメリカ戦では之等の基地争奪戦が必ず主作戦になることを断言する。換言すれば上陸作戦並びにその防禦戦が主作戦になる。
まさしく、井上の予想どおりの展開になりました。しかし、日本の太平洋の島々の防衛戦略は、あまりにもお粗末で、次々とアメリカ海兵隊によって攻略されていったことは、歴史の事実として残されています。唯一、パラオ諸島の「ペリリュー島」と小笠原諸島の「硫黄島」の戦いのみが防御にある程度成功した例として残りました。しかし、この二つ共に軍の作戦計画にあったものではありませんでした。ペリリュー島の戦いでは、陸軍大佐の「中川洲男」が自ら立てた計画によって抵抗し、アメリカ軍に多大な犠牲を強いることに成功しました。そして、硫黄島の戦いでは、陸軍中将の「栗林忠道」が、それまで進めていた準備を覆して成功した事例です。他の島々の防禦戦は、どれも「水際作戦」を採り、敵の上陸を予想して海岸線に防衛戦を張るというものでした。これは、まるで鎌倉時代の「元寇」のときと同じ戦い方で、「敵は海から来る!」という発想に他なりません。実際は、アメリカ軍は、まず、何十隻の戦艦を現地に派遣し、兵員を上陸させる前にその巨砲で砲弾を日本軍陣地に向けて放ちました。戦艦の放つ「巨弾」は、一発で戦艦を轟沈できる破壊力がありましたので、手造りの陣地などひとたまりもありません。
「艦砲射撃」が済むと、航空母艦から攻撃機が飛来して爆弾の雨を降らせました。これで、地上にある生物を悉く死滅させることができます。こうして、その島を「焼け野原」にしてから、やっと上陸軍が現れるのです。つまり、水際で陣地などを構築したところで、艦砲射撃か空爆でほとんどの守備兵が死ぬか負傷することになります。こうなれば、わずか数時間で島はアメリカ軍に制圧され、占領されてしまうのです。これは、当時の日本軍では考えも及ばない「物量作戦」によるものでした。砲弾の中には「コンクリート弾」まであったということですから、如何に大量の砲弾を撃ち込んだかがわかります。日本軍には、この「物量作戦」という現実が、よくわかっていませんでした。それは、日本の「貧しさ」が原因しています。日本の近代化は、日本人が望んで行ったものではなく、外圧によってやむを得ず近代化を図ったのが現実でした。そのため、国民の多くは政府や軍のやることに不満を持ち、常に「徳川時代」と比べながら従っていたのです。しかし、帝国主義の波が日本にまで押し寄せると、政府はなりふり構わず日本を「農業国」から「工業国」へと転換させました。しかし、こうした無理を行うには、莫大な資金が必要です。国民は、これまでの「五公五民」から「六公四民」そして「七公三民」という具合に、税を取り立てられていったのです。その上に「徴兵令」で、家庭の一番の働き手になる「若者」を兵隊に取られては、どうしようもありません。「近代化=貧困」が日本の現実でした。
そうなると、自ずと税収は減り、すべてが税金で賄われる「軍隊」は、逆に近代化することができません。日本の近代化は、こうした「貧しさ」との戦いでもあったのです。それでも、日本は重工業化を目指して突き進みました。しかし、元々資源の少ない日本で「重工業化」を成し遂げるには、外国からの「原材料」の「輸入」が不可欠です。しかし、その外国が帝国主義に冒されているのですから、問題は簡単ではありません。結局、兵器の近代化を図ることを諦め、人に頼ることになったのが近代日本でした。外国では、昭和初期になると、小銃は「自動化」されてきており、「銃弾」は単なる消耗品でしかなくなりました。既に日露戦争では、「機関銃」が登場しており、有名な「203高地の戦い」では、多くの日本兵が雨霰と撃ってくる銃弾に倒れました。それが、各兵が持つ「小銃」も自動で連射することができるようになっていました。しかし、日本軍は、それを造る技術を持ちながら、「そんなに大量の銃弾を造る予算が取れない」という理由で断念し、明治30年、そして38年製の「小銃」を後生大事に使うしかありませんでした。これが、終戦まで使用された「三八式歩兵銃」です。そんな軍隊が、「物量作戦」など採れるはずがありません。従って、研究すらしてこなかったのです。
「小銃弾がなくても、人間がいる…」といった錯綜した思考は、日本独特の考え方だったと思います。どうやら、日清・日露戦争時の「人海戦術」が成功したことでそんな発想になったようですが、それは、飽くまでも兵器が進歩しないことが前提にあります。たとえ、日本が進歩しなくても、諸外国は、日進月歩で研究を進めているわけですから、そんな発想は愚かだということに早く気づくべきなのですが、気づいても保身のために「気づかぬふり」をするのも日本人らしいと言えるでしょう。つまり、明治時代は、社会が進歩するといった「坂の上の雲」などではなく、国民にとって江戸時代以上の辛くて厳しい「人命軽視」の時代でした。それが、一般化すると、「人は貴重な人材」と見做す価値観が薄れ、人間の「差別化」が進むのは当然です。要するに「社会の役に立たない者は不要!」という考え方です。これだと、兵隊に向かないような人間は社会から「差別」されても仕方がないという発想になります。これが、社会の進歩を遅らせた原因なのです。欧米などでは、人種差別はありましたが、仲間と認めた人間同士の中では、お互いを尊重する習慣があり、たとえ軍隊であっても、単に階級による差別はありませんでした。階級の上位者に対して下級の者でも意見が言えるといった習慣は、やはり、社会を進歩させる基本なのです。
日本軍は、徴兵で集めた兵隊を「いつでも代替ができる消耗品」として扱い、食事も粗末な上に過酷な訓練を施し、簡素な兵器で戦うことを命じました。これを「日本は貧乏だから仕方がない…」とする意見はありますが、武士道にある「惻隠の情」や「慮る」文化は、一体どこにいったのでしょう。井上は、「防禦戦」の重要性を説いていますが、その防禦戦を行うには、大量の「武器・弾薬」が必要であり、貴重な戦力である「兵隊を守る」思想が必要だったのです。しかし、陸軍にも海軍にも、そうした思想は、最後まで生まれませんでした。やはり、江戸時代の「侍」感覚が残っていた軍隊では、「死」を殊更に賞賛し、「華と散る」「玉と砕ける」といった言葉で誤魔化し、「名誉の戦死」と美化し過ぎたために、近代の軍隊として備えなければならない「医療制度」の分野が疎かになってしまいました。さらに、「捕虜」の扱いについても研究不足であり、国際法に則った対応を求められていながら、それを無視し、「虜囚の辱めを受けることなかれ!」と諭したことは、日本が世界の一流国でないことを内外に示す結果となってしまいました。近代の軍隊では、「戦った結果としての捕虜は、名誉である」と教えています。「捕虜=恥」というのも、「貧しさ」と深い関係があるのかも知れません。
(6)右の意味から基地の戦力の持続が何より大切なる故、何をさておいても、基地の要塞化を急速に実施すべきである。
「基地の要塞化」については、まさに的を得た戦略です。戦国時代の日本人なら、「城」というイメージがすぐに浮かぶはずで、日本の城がどのように要塞化されているのか、日本軍は調査していたのでしょうか。たとえば、太平洋の島々を「城」と考えたとき、必要なのは「兵隊の数」ばかりでなく、「兵糧」「水」「弾薬」「兵器」そして「援軍」が必要になります。それは、戦国時代の何処の城攻めでも同じです。「援軍」のない城は、やがては兵糧や弾薬が尽き、最後は降伏するしかありませんでした。対米戦争も、この条件がすべてクリアされて初めて「アメリカ軍」に勝利することができるのです。しかし、実際に援軍が出たのは、最初の「ガダルカナル島の戦い」くらいなもので、後は、兵糧も弾薬も尽きて「バンザイ突撃」をする他はありませんでした。対米戦争で、この「要塞化」によって戦うことができたのは、中川大佐率いる「ペリリュー島守備隊」と栗林中将が率いる「硫黄島守備隊」だけでしょう。そして、この両者共に「援軍」は来ませんでした。「行かなかった」というより、それまでの「海戦」において、海軍の機動部隊が悉く敗れ去ったことで「いくことができなかった」というのが真相です。しかし、多くの高い戦力を持つ機動部隊を持たない日本海軍にとって、開戦当初のような戦力は既になく、「必死の抵抗」を示したに止まったことはやむを得なかったと思います。
中川大佐も栗林中将も、従来からの「水際作戦」を捨て、地下要塞を造り「持久戦」に持ち込んだことが成功の原因でした。地下深く潜ってしまえば、島が焼け野原になろうが、戦力を温存しておくことができます。しかし、その作業は碌に水も食糧もない中で働く将兵にとっては、戦闘とは違う苦しみがありました。それでも、歯を食いしばり、最後はゲリラ戦のような戦いになりましたが、アメリカ軍を最後まで苦しめ、日本軍の強さを知らしめました。ある記録によると「最早、兵の多くは痩せ衰え体力も気力も失ったように見えたものが、いざ、斬り込みとなると、眼が爛々と光り、何処にあったのかと思うくらいの俊敏さで敵を襲った…」と、ありました。これは、人間の「執念」と言うべきものでしょう。また、当時の日本兵は「愛」が強かったのだと思います。それは、現代のように簡単に言葉にできないだけに、心に秘めた愛は、現代人より深かったのでしょう。死ぬことはわかっていても、敵に一太刀でも浴びせなければ、死んでも死にきれない思いが、最期まで抵抗を見せたのだと思います。アメリカ軍は、そんな日本兵を見て、言葉では「クレイジー!」などと叫んでいますが、実際は怖ろしくて震えていたといいます。戦場も知らず、安全な場所で政治や作戦を練っている官僚たちには、わからない現実がありました。
(7)従って又基地航空兵力第一主義で航空兵力を整備充実すべきである。之が為戦艦、巡洋艦の如きは犠牲にしてよろし。
近代兵器の進歩というものは、人が考えるより数倍速く進むもののようです。明治時代は、まさに鋼鉄の「軍艦」の時代でした。軍縮といえば、その軍艦の量を如何に減らすかにかかっており、「航空機」など話題にもなっていなかったのです。それが、著しく進歩したのは、昭和という時代を迎えてからのことでした。日本軍が世界に肩を並べることになった「航空機」といえば、陸軍では、「九七式戦闘機」であり、海軍では「九六式艦上戦闘機」だろうと思います。両者とも、「脚」は出たままの単座戦闘機でしたが、オール金属製で、翼も「単葉翼」という画期的なものでした。機体は後の「一式戦闘機」や「零式艦上戦闘機」と比べても小型で、その速度といい戦闘能力といい、欧米の戦闘機を凌駕する航空機になっていました。ただ、攻撃力は貧弱で、エンジンの上に7.7粍機銃が2丁あるだけで、後の戦闘機に比べれば、まだ、玩具のような航空機です。「九六」というのは、天皇暦(皇紀1996年)に正式に承認された機体という意味です。昭和11年のことです。それから、僅か5年後に日本は大東亜戦争に突入し、9年後には「大日本帝国」と呼ばれた国は崩壊するのですから、航空機の進歩がわかるというものです。実際、九七式戦闘機は、ノモンハン事件等で活躍し、その4年後には「一式戦闘機・隼」に主力戦闘機の地位を譲りました。たった4年で新鋭機は「旧式戦闘機」になったのです。海軍の九六式艦上戦闘機も、やはり4年後には「零式艦上戦闘機」に主役の座を譲り、昭和20年には練習用にしか使われなくなりました。
航空機メーカーが鎬を削って造り上げた航空機が、たった4年しか保たない現実を考えると、軍艦の時代がそう長くないことはわかりそうなものです。井上が言うように、たとえば、昭和16年の時点で戦艦・巡洋艦の建造を止め、旧式戦艦等をスクラップに回して、その材料で航空機を造ることはできたでしょう。しかし、海軍の主流を占める「艦隊派」の軍人たちがそれを認めるとは到底考えられません。昭和16年の末には、戦艦大和と武蔵が就役し戦列に加わっています。その後、航空機製造のために、軍艦がスクラップになった話は聞きませんので、海軍としては最後まで「海戦」に拘った戦い方しかできなかったのです。そして、その航空機も日本ほど多種多様な機体を誕生させた国はありません。海軍の戦闘機だけを見ても、「九六式艦戦」「零式艦戦」「紫電」「紫電改」「雷電」と完成させ、続いて「烈風」「震電」「秋水」「橘花」が開発途上にありました。陸軍も「九七式戦」「一式戦・隼」「二式戦・鍾馗」「三式戦・飛燕」「四式戦・疾風」「五式戦」と完成させています。僅か5年ほどの間に、これほど多くの戦闘機を造らなければならなかった理由は、航空機という存在が、当時の「科学」の最先端を行っていたからです。そのために、開発する余地は大きく、終戦年には、ドイツではロケット戦闘機である「メッサーシュミットMe262」が実戦配備されました。そして、続いて「ジェット戦闘機」が誕生し、朝鮮戦争では使用されているわけですから、日本も軍艦より「航空機優先」で「空軍化」を図っていたら、戦争の様相も違うものになっていたかも知れません。
(8)次に日本が生存し、且、戦を続ける為には、海上交通の確保は極めて大切であるから之に要する兵力は第二に充実するの要あり。
大東亜戦争開戦前後で、「海上交通確保」について、その重要性をしっかり認識できていた軍人がどのくらいいたのでしょう。残念ながら、井上が言うように「兵力の充実」どころか、このために力を入れ始めたのは、昭和19年以降の話です。日本の海上輸送の多くは、民間船を徴用して使用しており、それに従事する者は軍人より軍属となった民間の船員たちでした。彼らは、碌な護衛も付けてもらえずに輸送任務に就き、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃の餌食になっていきました。護衛を担ったのは、旧式の駆逐艦や駆潜艇と呼ばれる小型艦で、碌な電波探知機も持たず、目視で確認出来た潜水艦に爆雷攻撃をするしか方法がありませんでした。ここに「レーダー」を装備できなかったことが悔やまれます。もし、戦艦や巡洋艦が不要と言うのであれば、旧式の戦艦や巡洋艦を輸送船の護衛に付け、敵潜水艦の「囮」にでもなればよかったと思います。アメリカ海軍では、たとえ武装のない輸送船でも撃沈すれば、勲章の対象になりました。それでも、艦長たちは、できれば大型戦闘艦を沈めたいと願っていたのです。
もちろん、戦艦や巡洋艦が沈んでも構わないとは言いませんが、大型艦であれば、ソナーなどの音波探知機やレーダー、そして、積んである爆雷の数も多く、潜水艦を一定時間制圧することができます。そして、魚雷が当たっても、すぐに沈むことはありません。輸送船は、戦闘艦とは違い、その造りは脆弱です。しかし、船倉は広く、数百名の兵隊や戦車、大砲、武器弾薬、医薬品、食糧などを満載にして戦場まで運んでいくのですから、それが一発の魚雷で沈んでしまえば、その損失は戦闘艦より大きいものがあります。きちんと計算をしてみればわかることですが、日本海軍は、輸送船での海上輸送を軽んじ、戦闘艦を護衛に回してくれることはありませんでした。それに、戦艦や巡洋艦の将兵は、プライドが高く、「輸送船の護衛なんか…」といった雰囲気がありました。海上輸送では、輸送船は「船団」を組み、その周囲を駆逐艦や駆潜艇が守るといった形で進みますが、護衛艦艇が少なければ、潜水艦に隙をつかれてしまいます。多くの輸送船が沈められているという事実を突きつけられても、艦隊司令部などでは「輸送船の護衛などに回す艦はない!」と言って改善が図られなかったそうです。そのために、日本は東南アジアを占領しても、肝腎の「石油」を運べなくなり、作戦に支障を来す結果になりました。
海軍では、勲章をもらうには「第一に戦艦か空母、第二に大型巡洋艦…」と言うように、敵の戦闘艦を沈めることが「名誉」とされ、小型艦艇や輸送船などは、特に「手柄」扱いされなかったようです。そのため、輸送船攻撃などが見逃される結果となりました。有名なのが「真珠湾攻撃」ですが、最初に攻撃したのが、停泊中の戦艦群です。しかし、山本五十六の戦略眼が冴えていれば、太平洋の一大軍港だった「真珠湾」なのですから、港の周辺には多くの工場、石油貯蔵タンク、ドッグなどがありました。それらを破壊してしまえば、たとえ、巨大戦艦といえども太平洋での作戦に参加することは難しくなり、アメリカ本国に戻らざるを得なかったでしょう。撃ち漏らした「航空母艦」も還る「母港」を失えば、やはり、太平洋での戦いに即応できません。これなら、たとえ撃沈しなくても「いない」ことと同じです。やはり、軍人というものは、眼の前の巨大な兵器に眼が向くものかも知れません。もし、この習性が万国共通のものなら、輸送船の任務に戦艦を当てれば、敵の眼は、必ずその戦艦に向き、輸送船が逃げ切れる可能性が大きくなります。そうした運用ができれば、もう少しましな戦いができたように思います。
(9)潜水艦は基地防禦にも、通商保護にも、攻撃にも使える艦種なる故、第三位に考えて充実すべき兵種である。
まさに慧眼というべき意見です。日本は、外国に真似て、早くから「潜水艦」の建造に着手しました。そのため、大東亜戦争開戦前には多くの「潜水艦」を保有していました。井上の指摘のとおり、潜水艦は「基地防禦」にも「通商保護」にも、「攻撃」にも使える艦種でしたが、日本の場合は、専ら「攻撃用」に用いることを念頭に造られていました。これも、海軍の研究の甘さでしかありません。第一次世界大戦では、既にドイツ潜水艦「Uボート」が地中海、大西洋と暴れ回り、専ら「通商破壊作戦」に用いられました。つまり、戦艦などの戦闘艦を襲撃するのではなく、輸送船を攻撃し、各地から派遣されてくる「兵員」や「物資」を船ごと沈めてしまおうという作戦です。そのために、連合国軍は、常に食糧や弾薬、医薬品の不足に悩まされたそうです。こうした日常品がなければ、人間は動くことができないことを日本海軍は念頭に入れておかなかったのです。これは、明治以来の「漸減邀撃作戦」という専守防衛論から来る戦争思想に問題がありました。しかし、戦争は日露戦争のような「局地的」な戦闘ではなく、国全体の「総力戦」になることは、第一次世界大戦で証明されていたのですから、「真珠湾攻撃」のような侵攻型の戦争を行った以上、「専守防衛」は成り立たないことを覚らなければなりません。ところが、日本の「大本営」では、そんな基本的な戦略すら立てずに戦争に突入してしまったために、軍人の思考は明治のまま何も変わらず、ちぐはぐな作戦を立てることになったのです。
もし、井上の意見が上層部に採り入れられ、山本五十六や軍令部を動かしていれば、貴重な「潜水艦」を有効に使えたはずです。日本は、攻撃型の使い方しか研究をしてこなかったために、参謀は、常に「敵艦攻撃」を命じ、潜水艦の艦長は、その命令を忠実に実行しようと無理な攻撃を仕掛けては、敵駆逐艦隊の包囲網に捕まり、あえなく爆雷攻撃によって沈められていきました。日本の潜水艦作戦は、司令部から攻撃場所、日時が指定されるだけでなく、数隻で艦隊を組んで敵地に向かうため、アメリカ軍は、その無電等をキャッチして日本軍の動きをいち早く察知していました。そのため、艦隊で行動していた日本の潜水艦は、アメリカ軍の駆逐艦によって容易に捕まり海底深く沈められたのです。アメリカやドイツでは、潜水艦は艦長の判断で動くことを認め、神出鬼没に現れては、敵艦船を根こそぎ攻撃して回ったのです。昭和20年に入ると、太平洋だけでなく、日本近海まで敵の潜水艦は侵入し日本の艦船を攻撃しました。大和の三番艦として建造された航空母艦「信濃」が、空中特攻兵器「桜花」を積んだまま、就役して間もなく沈められたのも日本近海でのことです。多額の国民の血税を使って建造された巨大軍艦が、たった数本の「魚雷」で沈められたのでは、予算の無駄遣いにしかなりません。こうした悲劇が各地でいくつも起きたにも拘わらず、海軍がその戦法を変えることはありませんでした。
最後には、海中特攻兵器「回天」を潜水艦に搭載させ、沖縄や硫黄島海域に向かわせ、そのほとんどが回天を発進できないまま海の藻屑となっていきました。潜水艦の乗組員は如何にも無念だったことでしょう。もし、井上の言うように、開戦当初から潜水艦を自由に航行させ「艦長判断」で敵の交通路遮断のための作戦を採っていたら、もっと戦果が上がったことでしょう。日本の潜水艦には「酸素魚雷」という高性能魚雷が装備されており、敵艦の襲撃には最も適した兵器でした。そもそも、日本の潜水艦は大型ではありましたが、ドイツ軍のような近代装備が為されておらず、エンジン音も高かったと言いますから、駆逐艦がその存在を把握しやすいという欠点も持っていたのです。その上、レーダーがなく、見張員の眼だけが頼りの有様で、これでは、海上航行しなければ、敵艦隊を目視できないことになってしまいます。「音波探知機」はありましたが、それは、飽くまで「潜望鏡」とセットで使用するもので、肝腎の潜望鏡が発見されれば万事休止なのです。この欠点を補うには、やはり、専ら単艦で行動させ、「通商破壊」に専念させる他は効果的な使用方法はなかったでしょう。
その上で、井上は「対米英戦争」について、次のような意見を述べています。
1.海軍軍事計画の根本改定の必要性
「英米と建艦競争を行えば、日本の国力では、英米に屈服することになる。軍縮条約を破棄したのは、英米と建艦競争を行うのではなく、軍備の自主性を求める為のものだった。それ以来、3年経ったが、英米の7割の軍備を維持できず、その比率低下を防ごうと四苦八苦していて、軍備の自主性も、日本海軍の軍備の特徴も、何処かに置き忘れてしまっている。潜水艦、航空機の発達により、海防上の大革命が生じていて、旧時代の海戦思想のみをもっては、何事も律せざれなくなってきている。日米開戦の暁に、日米戦争は、いかなる形態をとるか、日本は、いかなる作戦を実施すべきだろうか、日本を不敗の地位に置く方策は、どれであろうか、等を根本的に考察して、独自の見解を立てて、新たなる着想の下に、新軍備計画を樹立することが必要である。今後、艦隊決戦本位の建艦は止めて、新形態の軍備に、邁進する必要がある。」
2.日米戦争の形態
(1)日本が、アメリカを屈服させることは、不可能である。 ①アメリカ全土、首都を攻略できない。②アメリカの作戦軍を殲滅できない。③アメリカ を、海上封鎖できない。
「総力戦になる」ということは、敵国の首都を攻略し「白旗」を掲げさせることを意味しています。しかし、日本は、戦前から陸軍を中心にして「総力戦」に備えた国家体制への転換を求めていました。そのために「2.26事件」などのテロ事件が起きたはずです。この事件の前に斬殺された陸軍の「永田鉄山少将」は、「統制派」を組織して、全国民を軍の「統制下」に置いて、命令ひとつで戦争に協力できる体制に国を作り変えようとしていました。そして、大東亜戦争が始まると、日本は、まさに永田少将の言うような国家体制になりました。「国家総動員法」などが施行され、議会も「大政翼賛会」として、軍に全面的に協力する体制を敷いたのです。開戦以降の税率は「八公二民」となり、国民は皆、窮乏に喘ぐような生活になりました。「欲しがりません勝つまでは」とか「撃ちてし止まん」などの標語は、国民から募集したものだそうです。しかし、それでも、アメリカを屈服させるどころか、そのアメリカに日本が屈服させられたのです。それは、アメリカも「総力戦体制」を敷いて戦ったからです。
(2)アメリカが、日本に勝利することは、可能である。 ①日本全土、首都の占領が可能。②日本の作戦軍の殲滅も可能。③日本の海上封鎖して海上交通を制圧し、物資窮乏に導くことも可能。
このすべてが、現実のものとなりました。さすがに「本土決戦」を前に天皇が降伏(ポツダム宣言の受託)を決断したために、戦闘による「首都の占領」という最悪な事態は免れましたが、敗戦後、GHQによって日本全土が「占領」され、外国の軍隊によって政治が行われたのですから、井上の予測通りになったということです。同盟国だったドイツは、首都ベルリンに連合国軍が侵攻したため、街は破壊され、ヒットラーは自殺し、ドイツ政府自体が消滅してしまいました。まさに「無条件降伏」しかなかったために、ドイツは東西に分断されたのです。日本も作戦可能な軍は弱体化し、国民総動員の「一億総特攻」しか、戦争を続ける方法がなくなっていました。昭和20年の夏には、日本列島周辺海域は、すべてアメリカ軍に制圧され、東南アジアや中国大陸からの物資の輸送が途絶しました。石油も底をつき、勤労動員の中学生が「松根油」を採取するために松の木を伐採した話は有名です。それでも、軍部は敗戦という現実を受け止められず、天皇の「終戦の詔」が録音されたレコード盤を奪おうと、一部将校がクーデター紛いの行動を起こしましたが、多くの将兵はそれに従わず、終戦を迎えたのです。
(3)日米戦の予測される荒筋 ①アメリカは、多数の潜水艦と航空機で日本の海上交通破壊戦を行って、物資封鎖の挙に出るであろう。海上交通確保戦は、日米作戦中重要な一作戦である。
「海上交通確保戦」は、最重要であると井上は述べていますが、日本軍が「交通確保戦」を真剣に戦った例はありません。特に海軍は常に「敵艦隊との決戦」を望み、重要な「交通路」に主要な軍艦を派遣すらしていないのです。この論文を書いた当時、井上は海軍中将であり「海軍航空本部長」の重職にありました。その意見すらまともに取り上げられていないことを考えると、やはり、日本海軍だけでなく「大本営」自身が、「総力戦」の意味がわかっていなかったことになります。
②太平洋上の領土(島)の基地攻略が、殆ど絶対に近い必要性を帯びてくる。この領土(島)の攻略戦が、日米戦争の主作戦で、日本の国運を分岐し、その重要性は、旧時代の主力艦隊の決戦に匹敵する。アメリカは、時機を見て太平洋の島からの日本本土空襲を企図するであろう。
対米戦争は、実際に「太平洋上の基地攻略戦」が中心でした。日本海軍は、敵艦隊が北上してくる度に「決戦」を挑みました。しかし、一度や二度の海戦に勝利したとしても、それが最終決戦になることはありませんでした。特に、昭和19年秋に起きた「レイテ沖海戦」では、連合艦隊が総力を挙げてレイテ島に上陸するアメリカ軍を殲滅するために出撃しましたが、レイテ湾を目前にして主力の「戦艦大和」他数隻の戦艦が、突入するのを躊躇い、千載一遇の機会を逃すという大失態を犯しました。その理由が「敵艦隊との決戦ではない」からだそうです。レイテ湾には、アメリカ軍上陸部隊を乗せた輸送船団が数百隻規模でいたのです。しかし、突入部隊の司令長官である栗田健男中将は、「戦艦大和を輸送船攻撃などに使いたくない!」と考え、偽の電報を使って味方を欺きました。そして、「敵艦隊が北方にいる!」と嘘を吐き、突入部隊を「Uターン」させたのです。これが、日本海軍の艦隊派の軍人の正体でした。それでも、身内に甘い海軍は、栗田を軍法会議にかけることもできず、井上の後の「海軍兵学校長」に送りました。情けない話です。そして、フィリピンのレイテ島を攻略したアメリカ軍は、フィリピン全土を占領して、さらに北上し、沖縄の攻略に取りかかったのです。そして、沖縄の次は、当然「九州」への上陸を考えていました。さらに、サイパン島、テニアン島などを失った日本軍は、重爆撃機「B29」の日本本土への空襲を許したのです。
③以上により、日本は、多数の潜水艦を配置し、アメリカの海上交通破壊戦を行うと共に開戦前に
委任統治領の島の基地を整備しておいて、開戦後は、アメリカの太平洋上の領土(島)を攻略して、不敗の地位に置いて持久戦に耐えうるだけの準備をするべきである。速戦即決を目途とする
艦隊決戦兵力の整備のみを考えていても決戦兵力を用いる機会はないので、(艦隊決戦は、生じない ので)日本の最弱点を アメリカに突かれて敗北する危険 を認識する必要がある。
この井上の意見は、まったく無視され、潜水艦は飽くまでも「艦隊決戦の補助兵器」でしかなく、交通破壊戦に移るのは、最早、手遅れになった昭和20年になってからのことでした。そして、各島々の防禦体制はお粗末のままで、持久戦どころか、早々に水際の防衛陣地が破壊され、バンザイ突撃で玉砕してしまうのです。井上の指摘どおり「艦隊決戦」は行われず、海戦の多くは「航空戦」でした。要するに「制空権」を奪った方が勝利を得たのです。井上の言う「日本の最弱点」とは、「日本人」そのものだったのかも知れません。たとえ敗れるにしても、必死に戦った将兵たちが納得できる戦いであれば、敗戦も「やむを得ない」と受け入れることができたでしょう。しかし、大本営や日本陸海軍の幹部たちの無能ぶりは、後世の歴史家が指摘するまでもなく「お粗末」以外の何ものでもありません。井上も戦後、そんな悔しい思いをしながら「敗軍の将」として生きたのです。海軍の重職に就きながらも、主流派でなかったために井上が作戦の中枢に入ることはありませんでした。そう考えると、如何に海軍部内の派閥争いという内部抗争が、将来を誤る原因になったかがわかります。今も国の中では、様々な派閥争いが起きていますが、人間というものは、どんな痛い目を見ても、同じ過ちを繰り返す未熟な存在だということがわかります。だから、「歴史は繰り返す」のでしょう。
井上成美は、こうした戦略眼を持ちながら、当時の海軍部内では「井上は、学者だから、戦争に弱い…」という評価が下されていました。井上自身、加藤友三郎、山梨勝之進、堀悌吉に連なる「条約派」の将官でしたから、艦隊派からは疎まれていて当然でした。しかし、その先輩たちより、少し若かったために、退役を免れていただけのことです。そのために、こうした「戦略論」を海軍航空本部長として提案しながらも、それが取り上げられることはありませんでした。海軍省で一緒に「三国軍事同盟」に反対した山本五十六でさえ、珊瑚海海戦が不首尾に終わったことを見て、井上を「あいつは、学者だからなあ…」と周囲に漏らしていたぐらいです。こうした「派閥」の論理で、戦争が行われていたのです。しかし、井上の指揮した「珊瑚海海戦」は、歴史上初の機動部隊同士の海戦で、井上の指揮する「第五航空戦隊」は、アメリカ機動部隊に損害を与え、互角の勝負に持ち込みました。しかし、戦いの目的であった「ポートモレスビー攻略作戦」が、延期せざるを得なくなったことで、連合艦隊内部から「井上がもっと粘れば勝てたものを…」と批判されたのです。しかし、井上の預かっていた「第四艦隊」というのは、南太平洋を守備する艦隊でありながら、旧式艦ばかりで精鋭部隊ではありませんでした。戦った「第五航空戦隊」は、井上の直属の航空戦隊ではなく、第四艦隊だけではアメリカ機動部隊に対抗できないために、急遽派遣された「借り物戦隊」だったのです。そして、新鋭空母の「翔鶴」「瑞鶴」を擁してはいましたが、搭乗員の練度も低く、第一航空艦隊の「赤城」や「加賀」の搭乗員からは、「2軍扱い」されていたほどです。
井上が指揮した「珊瑚海海戦」は、昭和17年5月に起きました。戦争が始まって間もない頃です。南雲忠一中将が指揮する「第一機動艦隊」は、真珠湾攻撃以降、破竹の勢いで進軍し、太平洋からインド洋に至るまで連戦連勝を続けていました。この当時の日本海軍機動部隊の実力は、名実ともに世界一でした。アメリカもイギリスも日本を戦争に引き込むことで、宿敵「ドイツ」を倒そうと考えていましたが、いざ、開戦してみると日本軍は思っていたよりも強く、防戦一方になっていたのです。この時点では、日本もアメリカも「総力戦」にはなってはおらず、それぞれの現有戦力で戦う「局地戦」での戦いでした。戦場も双方の国民には関係のない場所で行われ、軍人のみが戦う戦争です。しかし、その「局地戦争」が崩れたのが第一次世界大戦でした。ある人は、「この半年間の大勝利で得た領土を返還することで、講和条約を結べたのではないか…?」と言いますが、いくら日本がそれを望んでも、アメリカやイギリスは、間違いなく拒否したはずです。なぜなら、それを国民が望まないからです。日露戦争は、辛うじて国民を巻き込まない戦争で終結しましたが、もし、ロシア軍がさらに南下し、北海道に上陸したり、軍艦が日本列島沿岸に現れ艦砲射撃を行っていたら、多くの民間人の死傷者が出たはずです。そうなれば、戦争は収まりません。国民の「戦意」を背景にしたアメリカは、たとえ、局地戦で敗れても、次々と軍艦を建造し、航空機を増産して日本軍に向かって来たはずです。それを何度も繰り返すことで戦争は長期化していきます。そうなると、「資源」「人材」「科学力」「工業力」を持つ国が勝利するのは明白です。アメリカには、日本を占領できる「力」がありました。しかし、日本にはアメリカを占領する「力」はありません。そうなると、結果は自ずと見えていたのです。
「珊瑚海海戦」は、そんな局地戦の一会戦に過ぎません。日本側は、軽空母「翔鳳」が沈められ、「翔鶴」が大破しました。それでも、アメリカ空母「レキシントン」を撃沈し、「ヨークタウン」に損害を与えました。連合艦隊内部では、井上を「弱腰」と批判しましたが、実際、日本側の損害も大きく、燃料も十分ではなかったことから追撃を断念したのです。それに、井上に与えられた戦闘艦はどれも旧式のものばかりで速力が出ないという欠点がありました。開戦からの勢いに乗り、碌に分析をしないまま、必死に戦った現地指揮官と将兵を侮る態度は、如何にも「思い上がった人間」のすることです。そして、それに同調する「山本五十六」という大将も、けっして名将と呼ばれる器でないことは確かです。帰国すると、井上は「海軍兵学校」に異動になりました。本来は、海軍省に戻し「軍政面」で活躍すべき人材だったと思います。井上が、海軍省に「海軍次官」として戻るのは、終戦間際のことでした。そして、「終戦工作」に努力したことは周知の事実です。
「真珠湾攻撃成功!」の報告を受けたとき、さすがの井上も頭に血が上ったのか、思わず「バカヤロー!」と叫んでしまいました。周囲のだれもが「やった、やった!」と手を叩いて喜んでいる最中、怒りに震えている井上を見た人たちは不思議に思ったそうですが、この「感覚」こそが、当時の日本人の甘さなのです。まして、海軍省などに勤務するエリート将校が、そんな社会認識しかなかったことが怖ろしいと思います。結局、日本人は「空気」に流される性質を持っているということなのでしょうか。自分たちが、まんまと米英の罠に嵌められて戦争を始めたことで、次の将来どうなるか…を考えてみなければ「戦争」などできるはずがないのです。いつまでも、日露戦争勝利の余韻に浸り、敵国を侮ったつけが数年後に訪れました。そのとき、だれもあの開戦時の「喜び」など思い出す人はいなかったでしょう。一人、井上だけが横須賀の高台にある自宅から太平洋を眺め、脆くも消えて行った「日本海軍」の足跡を振り返っていたのかも知れません。
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