教育雑学27 アンパンマン「教育論」

毎朝、NHKで、連続テレビドラマ「あんぱん」が放映されています。昭和初期から令和までの長い物語だそうですが、あの、子供向け漫画・アニメ「アンパンマン」の原作者「やなせたかし」氏の人生がモチーフになっているそうで、とても楽しみに見ています。昭和初期は、私たちの父母の子供のころの時代で、主人公「たかし」は「大正中期」の生まれになります。私もアニメ「アンパンマン」は大好きで、大人になっても時々見ていました。パン屋の「ジャムおじさん」と「バタ子さん」愛犬の「チーズ」、そして、「しょくぱんマン」や「カレーパンマン」などのキャラクターの活躍は、とてもほのぼのとしていて、心が温かくなります。悪者になっているのが、「バイキンマン」と「ドキンちゃん」ですが、彼らも、悪者というよりは「いたずらっ子」という感じで、いつも「アンパンマン」に懲らしめられて逃げて行きます。それも、愛嬌たっぷりで憎めないキャラクターになっています。それにしても、原作者の「やなせ」氏の時代は、戦前、戦後の苦しい時代で、こんな「子供向け」の漫画が描ける時代ではなかったように思いますが、そこには、やなせ氏の強い「思い」があったのだろうと推測するしかありません。しかし、やなせ氏が作ったといわれる「アンパンマン」の主題歌の歌詞を見ると、その「やなせ」氏の思いがわかるような気がします。その歌詞を普通の文章にしてみました。その方が、言葉として意味が通じやすいと思います。歌ってみると、軽やかなリズムなので、つい、うきうきした気分で歌ってしまいますが、詩だけを見てみると、そこには、メロディとは違った「決意」のようなものが感じられて、心臓がドキッとします。子供向けを装いながら、その裏には、「やなせたかし」という人物の哲学のような強い心を感じました。みなさんは如何でしょうか?

1 何のために生まれて、何をして生きるのか。

「そうだ、嬉しいんだ、生きる喜び。例え、胸の傷が痛んでも。何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんて、そんなのは嫌だ!今を生きることで、熱い心燃える、だから、君は行くんだ微笑んで。そうだ、嬉しいんだ、生きる喜び。例え、胸の傷が痛んでも。ああ、アンパンマン、優しい君は、行け!みんなの夢守るため…」

ドラマの中でも台詞のひとつとして、「何のために生まれて、何をして生きるのか?」という問いが度々登場してきますが、私たち自身、この問いにどう答えるのでしょう。子供に質問されたら、親は教師は、納得のいく話をしてあげられるでしょうか?これは、作者自身の「問い」でもあるのでしょう。戦後、日本の学校でも家庭でも、社会においても、この、大切な「問題」を尋ねられたことはありません。それは、大人たちが、こうしたナイーブな問題に正面から取り組もうとしてこなかったからです。あの大東亜戦争の敗戦により「自信」を喪失した多くの日本人は、哲学的なことを考えることを忌避し続けました。たとえ、子供が聞いてきても、大人は常に話を逸らし「逃げる」のです。それは、現代においても続いており、大人は子供に「道徳」すら語らなくなりました。常に親や教師が、子供の「上位」に立たないように気をつけ、話す時は「子供目線」で話し、できるだけ「友だち同士」のような関係がいい…と思い込んでしまいました。そんなことは、子供は少しも望んではいないのに、大人の勝手な「思い込み」と「自信のなさ」が、今の日本人の習性となりました。

戦時中であれば、「御国のために生まれて、御国にご奉公することを生甲斐とする」よう教えたのかも知れません。常に「公」が「個」に優先してあることを価値観として認めていたからです。なぜなら、明治憲法下では、日本の主権者は「天皇」御一人であって、国民は天皇の下に働く「赤子」だからです。国民に主権がない以上、天皇の命令を代行する「政府」や「軍」の命令に従うのは、国民の義務でした。憲法で定めた「義務」である以上、それに異を唱える術はありません。しかし、「やなせ」氏の意図する「何のため…」という問いは、そんな法的なことではなく、人間としての「哲学」として尋ねているのです。そして、その答えは、ひとつではないはずです。現代においても、「国・国民のため」という答えは成り立ちます。日本国憲法においては、「主権」は天皇にあるのではなく「国民にある」と定義されました。ならば、日本国の主権者として、「国・国民のために生まれて、そのために生きる」は、答えとしてあり得ます。それは、明治憲法のような「公」が優先ではなく「個」を優先しても構わないからです。つまり、「個人」として考えるのなら、何を優先するかは、個人に委ねられているからです。実際、今でも、個より「公」を優先して働く人々はたくさんいます。職業としても、警察官や消防官、自衛官などは、国民という「公」の安全のために働く存在であり、だれも「個」を優先していないことはわかるでしょう。彼らは、自ら危険を顧みず、「国・国民」のために最善を尽くしているのです。しかし、だからと言って、彼らが「個」を大事にしていないかと言えば、それはありません。常に危険と隣り合わせの中で働くためには、「個」の安全に対する配慮は万全でなければなりません。「命」を尊び、最大限に生かしてこその「生甲斐」なのです。

目に見えない形であっても、何らかの仕事に従事して働いている人は、だれもが、「己一人のため」だけに働いているわけではありません。社会が円滑に運営されるためには、一人ひとりの不断の努力が必要であり、社会が発展するためには、一人ひとりが知恵を絞り、工夫を凝らして社会に貢献していく必要があります。長年、食堂を経営している高齢者の方は、こう話していました。「お客さの喜ぶ顔が見たくて、頑張っているんだよ…」と。「客」は、店の上位者ではありません。客と店は対等の関係です。「お客様は神様です…」という言葉が流行しましたが、それは、日本流の「もてなしの心」を諭した言葉であって、客がそれを使った時点で、その店に入り資格を失うのです。時々、それを勘違いする「愚か者」が話題になりますが、人間は、「自分の愚かさや弱さを隠す」人が「強い人」として賞賛されるのです。客から支払われる「金銭」は、正当な商品を売った「対価」であり、卑屈になっていただく「施し」ではないのですから…。それを差し出す人間も、もらう人間もお互いを敬い「お互い様」の心で接したいものです。

そして、「やなせ」氏は、「何のため…」という問いに「答えられないのは、嫌だ!」ときっぱりと自分の意思を示しています。それは、おそらくは、苦悩の中から出した答えのような気がします。現代人であれば、「無理して、答えなんか出さなくていいじゃないか…?」と答えそうですが、それは、曖昧さこそが現代には必要な資質だからでしょう。平和時代は、何をやったとしても「生き死に」に関わることは稀です。仕事を頼まれても、「できます!」と答えてしまえば、失敗は許されないと考えがちですが、「できるかなあ…?」と言えば、最初から失敗しても「OK」ですよね…と許可を取っているようなものです。従って、失敗の責任は「自分にはない。頼んだ人の責任だ」という言い訳が用意されているわけです。もし、「やなせ」氏のように戦場に出た者が、曖昧な作戦を採れば、それは、間違いなく「失敗」に終わります。時として「勝負を賭ける」ことも、人間、必要なのでしょう。だから、失敗の責任は「自分が負う覚悟」が必要だと「アンパンマン」に語らせているのでしょう。

だれもが、口にして言う話ではありませんが、心の中では(私は、これをして生きるんだ!)という決意を持つことが、実は、生きる上で一番必要なのかも知れません。それを、周囲の人間がとやかく言う必要はありません。ドラマは、若い青年が少年のころから夢見ていた「絵の世界で生きていきたい!」という願いを実現するために悪戦苦闘する物語ですが、その「これで生きていく!」という確固たるものを掴んだ人間は強いのです。周囲に流され、流行のままに生きることも「生き方」としては、あるのでしょうが、その結果、何を得られるのでしょう。「地位・名誉・賞賛・金銭…」があったとしても、自分の哲学として持っていなければ、流行は「流され」「崩れて」しまうものなのです。私も子供のころ、親や教師に夢を語ったところ「そんなことをして、なんになる…?」と、鼻で笑われました。子供心に「なりたい・やりたい」ことがあっても、「将来の糧にならなければ、意味がない」そうです。それでも、私は「本を読む」ことが好きで、「歴史(日本史)もの」が大好きでした。勉強をしているふりをして本を読んでいることは、しょっちゅうで、学校の成績は鳴かず飛ばずでした。それでも、仕事に就いて、その頭の中にある「引き出し」は多様で、子供に教えていると、次々と必要な「引き出し」が開いてくるのがわかりました。それは、大人にならなければわからない事実なのです。

先日も、日本のトップアイドルで有名司会者だった人が、人間として最も不道徳な問題を起こして、社会の表舞台から去って行きました。彼には「地位も名誉も、賞賛も金銭も…」あったはずです。しかし、それだけでは満足できない何かがあったのでしょう。「何のために生まれて、何のために生きるのか?」それを見失ったとき、人間はどうしようもなく迷うのかも知れません。現代人は、この「アンパンマンの問い」に答えているのでしょうか。戦後、日本人は「日本人としての道徳教育」を失いました。今でも「教育勅語はけしからん!」という政治家や国民はたくさんいますが、彼らは、その文章ひとつひとつを吟味して「けしからん!」と言っているのではなく、戦後、GHQの命令によって「破棄」されたものであって、国民の意思など無関係に捨てられました。もちろん、時代的にそぐわない部分はあったとしても、内容は近代国家に相応しい「国民道徳の指針」だったと思います。そうした「生きる指針」を失った日本人は、「バックボーン」のない国際人になってしまったのかも知れません。それでも、昭和の時代までは、占領軍である「GHQ」の指令の下に行われていた教育とは、別の世界の教育が存在していました。それは、庶民受け継がれてきた「伝統的な教育」です。日本人は、江戸時代ころから武士の教育で行われていた「論語」が庶民の生活に馴染んできていました。それは、日本が階級制度や身分制度はあっても、欧米に比べれば緩やかなもので、武士の中にも「元農民や商人階級の者」もいましたし、農民や商人の中にも「元武士」は多く存在していました。そのため、論語を学んだ人は多かったのです。また、檀家制度があり、菩提寺の住職は「仏の教え」をとおして庶民を教育していましたので、その理念は論語と共通する部分が多かったのです。

それが、明治時代になっても、政治を司ったのは「元武士階級の者」たちでしたので、やはり「論語」は、廃れることはありませんでした。一時期、「廃仏毀釈」なる宗教弾圧を行って国民の怒りを買いましたが、これなどは、政権を奪った下級武士たちの「驕り」の典型的な事例です。やはり、国民は、自分が子供のころから慣れ親しんだ「論語」を手放すことはしませんでした。論語は、簡単にその価値を言えば「仁義礼智忠信孝悌」に「勇」が加えられたものと考えてもいいでしょう。それに、仏教では「先祖への敬い」「利他の心」などを教え、日本古来の神道では「畏れ」を教えました。この道徳的、宗教的「人の道」は、数百年の間に日本人の心を形成し、「道徳的な振る舞い」のできる人が尊敬され、身分に関係なく「人間、そうありたい…」とだれもが思ったのです。「やなせたかし」氏も、この時代を生き抜いた一人として「自分の人生の意味」を考え、「そう、ありたい」と、実践してきたのでしょう。それは、簡単に辿り着く境地ではありません。何度も何度も自分に問いかけ、苦しくなって諦めようとしても、やはり諦めきれずに自分に問うことを重ねなければ「答え」に辿り着かないのです。しかし、その道徳教育も、戦後は、庶民の中にこそ息づいていましたが、GHQによって、その教育は否定され、新しい「アメリカ型民主教育」が強行されました。それは、占領期とはいえ、80年後の今も尚、日本の教育の原型を作っていることが残念でなりません。そして、平成、令和の時代になると、日本型の「伝統的価値観」や「日本型道徳」は廃れ、「人権重視」「ハラスメント禁止」「個人情報保護」といった、「心を育てる」こととはほど遠い、「目に見える価値」が重視されるようになり、「個人優先社会」が築かれたのです。

もちろん、人が人として「差別する」「見下し」などの卑怯な振る舞いが、許されていいはずがありません。それは、昔も今も同じです。しかし、真の道徳教育が浸透していれば、こうした破廉恥な行動を規制しなくても、人間としての「慎み」の中で対応できたように思います。道徳教育が廃れれば、立派な肩書きを持つ大人でさえ、自分をコントロール出来ず、欲望のままに手が口が動いてしまうのでしょう。それが、たとえ「犯罪行為」だと分かっていても、心と体は別の人格を持って動いてしまえば、それまでのことです。戦前も戦後も、日本は「学校での成績が優秀な者は立派な人だ」として、日本のリーダー的地位に就いていました。政治家、裁判官、弁護士、企業経営者、医師、教師…など、彼らは、難しい試験を何度も潜り抜けたエリートです。しかし、それでも、本能に勝てない人たちが世間のニュースの話題になっています。最早、「学力=人格」という神話は成り立ちません。エリートの中にも「困った人格」の持ち主はいるということです。そして、「国民道徳」が廃れれば、社会がどんなに規制をしても、歯止めが利かないことを知るべきなのです。

「例え、胸の傷が痛んでも、ああ、アンパンマン、優しい君は、行け!みんなの夢守るため」の歌詞を見ればわかるように、アンパンマンというヒーローは、「例え、自分が傷ついても、みんなの夢を守るために行く!」という使命を帯びています。今の日本人に、理解できるでしょうか?「傷つくのなんか嫌だよ!」「何で、人の為に傷つかなきゃいけないの?」「そんなの損じゃん?」「人の夢を守るために傷つくって、ばかじゃないの?」おそらく、そんな声がネット上に溢れそうです。これが、現代の「正義」なのです。こうして一度出来上がった「価値観」は、なかなか消えるものではありません。もし、このアンパンマンが、公然と否定されるような社会が訪れれば、間違いなく日本は「国」としての役割を終え、日本人は、世界に流浪していくことになるでしょう。例え、日本列島に暮らしていたとしても、そこに暮らす人々は、何処かの強国(他民族)の支配を受けるだけのことです。「国を守るため」には、自己優先の論理を一旦捨てなければならないことは明らかです。それが、今の日本人にできるのか…という問いが必要なのです。「国」と考えるのが苦手であれば、「家族」や「親しい仲間」と考えては如何でしょう。それすらも否定される社会は、最早、人間として生きていくことにも不都合を感じるはずです。人は、自分と違う人間と一緒に暮らすことは得意ではありません。例え、家族であっても「生き方」「考え方」は同じであるはずもなく、無理につながっているのも苦痛でしょう。「つながり」があるとすれば、それは「肉親の情愛」によるものなのです。しかし、肉親の情愛もない家族は、既に崩壊しています。それすらも「面倒だ…」と言って捨ててしまえば、人間はこの世界でたった一人の存在になってしまいます。それでは、生きられないことを人間は本能的に知っています。ても、目先の「煩わしさ」から逃げてしまうのも人間の弱さなのでしょう。

2 愛と勇気だけが友だちさ。

「何が、君の幸せ、何をして喜ぶ。分からないまま終わる、そんなのは嫌だ!忘れないで、夢を、溢さないで涙。だから、君は、飛ぶんだどこまでも。そうだ、怖れないでみんなのために、愛と勇気だけが、友だちさ。ああ、アンパンマン、優しい君は、行け!みんなの夢守るため…」

今の人は、「何が君の幸せ?」と問われて、何と答えるのでしょう。「幸福感」というものは、社会統一の「基準」があるわけではありません。その人が「幸せだ…」と感じれば、それが幸せの基準になるのが道理です。アンパンマンは、自分の幸せを語る前に「君の幸せは何か?」と問うています。自分のことより先に相手を思い遣る心から、「君」を優先させているのでしょう。そして、この「君が喜ぶようなことをしたい」と願っているのです。これぞ、仏教の教えである「利他の心」に他なりません。自分だけの幸福を追究するのではなく、愛する者の幸せを先に考えることこそ、人間の道徳心に適う行動だと思います。そして、「君」に対して「夢を忘れないで(諦めないで)…」「辛い涙を溢さないで…」と願っています。そして、「みんなのために、怖れないで戦って欲しい!」「愛と勇気だけが、友だちなんだ!」と言うのです。「友だち」と言うとき、人は何と答えるのでしょう。「仲の良い友だち」「親友」「学級の友だち」…。この「友だち」を定義することも難題です。そして、「アンパンマン」は、「愛と勇気だけ」が友だちなのです。アンパンマンには、多くの愛と勇気を持った「友だち」が登場してきます。つまり、一人の「愛」や「勇気」は小さくて弱々しくても、多くの「愛や勇気」が集まれば、「大きな力」になると言っているのかも知れません。そして、「怖れないで…」は、最初は小さな力でも、「愛と勇気」を信じて立ち向かえば、きっと、多くの仲間が現れて、自分に力を貸してくれると信じている言葉なのでしょう。

アンパンマンは、けっして強いヒーローではありません。そもそも、「あんぱん」といった食べ物に強さなど求める人はいません。パン屋の商品の中でも「あんぱん」は、一番古くから存在するローカル的なパンで、だれもが欲しがるような「メロンパン」でも「カレーパン」でもありません。食事代わりになる惣菜パンでもありません。しかし、昔からパン屋の商品棚の片隅にひっそりと存在する「定番パン」なのです。丸くふっくらと焼かれたパン生地の中に、和菓子の定番である「あずき餡」が入れられ、西洋のパンと和食の「あんこ」が融合した日本人的な菓子パンです。丸いパンの中央には、塩漬けの「櫻」が添えられていて、「甘いけど、ちょっとしょっぱい」感覚がたまりません。それでも、彼はヒーローではありません。人間で言えば、教室の片隅で、そっと本でも読んでいそうな少年のようで、元気に外で跳ね回る「優良児」ではないからです。それでも、周りのみんなが困ったときに、ぼそっと正論を言い、一人ぼっちの子がいれば、そっと近づいて声をかけるような子供かも知れません。その何気ない「優しさ」が、アンパンマンの信条なのでしょう。

しかし、今の時代「愛と勇気」を持っている人って本当にいるのでしょうか。いや、きっといるはずです。私たちの眼の前には現れては来ませんが、心の中では、深い愛を持ち、その人のためなら何でもやってやろう…という勇気を持っている人は必ずいるはずです。ただ、今の時代、それを表現することは本当に憚られると思います。「セクハラ」「人権」「個人尊重」の時代、自分の好きな人と親しくなろうにも、気安く声をかけるのも憚られる時代です。常に周囲の眼を気にして、当たり障りのない言葉で会話をし、食事をするにも、個人として誘うには勇気が要ります。もし、相手にとって好ましくない自分であれば、それは「セクハラ」「パワハラ」にだって受け取られる可能性があるからです。学校では、「今の子供は、コンピュータゲームばかりやっていて、人間関係を築くことができない…」として、「人間関係力の向上」などをプログラムに入れて指導しているようですが、それだって、相当に相手に気を遣った言動で対応するだけのことで、自分の「本音」をぶつけるような言い方は避けなければなりません。相手に自分の気持ちをぶつけなくて、どうして、親しくなれると言うのでしょう。昔なら、「喧嘩するくらいがちょうどいい…」などと言われ、本音で言い合い、手を出す、足を出すくらいに自分の気持ちを相手にぶつけました。「親友」って、そうやってなるものだと思っていましたが、今は、どうも違うようです。いつも、相手を思い遣り、丁重で優しく、できる限り相手を傷つけないようにして接するのが、現代の「極意」なのです。これでは、若者たちが交際や結婚を躊躇うのは当然です。結婚しても、本音で話もできない夫婦関係が長続きするはずがありません。しかし、人間には、「愛と勇気」は絶対に必要だと私は思います。

よく、「自分のために頑張れ…」とか、「自分のために生きろ…」と言いますが、そんなに「自分のため」って、すばらしい言葉なのでしょうか。以前、オリンピック選手が「自分のことを誉めてあげたい」と言って話題になりましたが、それは、既に多くの「他人」が誉めた後の言葉だと解釈しています。たとえば、自分の頑張ったからって、自分で自分のことを「おまえは、よくやった…」と誉めても、嬉しくも何ともありません。所詮、そんなものは、可哀想な自分を慰めているだけのことで、それが力になるはずがないのです。もちろん、他人から「国ために働け」とか、「家族のために頑張れ」と言われても腹が立つだけですが、もし、自分のしたことで、「みんな、喜んでいるぞ」とか、「よく、みんなのために頑張ってくれたな…」と言われたら、すごく嬉しい気持ちになれます。「感謝の言葉」を言ってもらっただけで、それまでの苦労や不満が一気に吹き飛ぶような嬉しさがあります。それは、「人の役に立った」という実感があるからです。自分に「ありがとう」なんて言葉は発しませが、ちょっとしたことでも、「ありがとう」なんて言われたら、「また、頑張ろう…」という気持ちになるのではないでしょうか。

それと同じで、 人間は「自分のため」に生きるのが辛くても、「愛する者のために」なら生きられるのです。私も親になって子を持ち、幼子の可愛い寝顔を見て(この子のために、頑張らなくちゃ…)思ったものです。大好きな彼女や妻のためなら、「よし、やってるか…」と強く思うはずです。それが、「愛する者のために」というアンパンマンの心と同じなのです。戦争中、国は「愛国心」を殊更に煽り、戦争に勝つことだけを国民に求めましたが、戦場で戦う兵士たちは、「国を愛する」と言いながら、頭に浮かべていたのは、自分の親兄弟、愛する人の顔だったのです。それが、「国を愛する」意味そのものでした。そして、自分の愛する人を守るために銃を執り、自分に襲ってくる恐怖心を克服して戦ったのです。それを、後世の人は「戦争の犠牲者」として、国の命令に逆らえずに死んでいった「可哀想な人々」という扱いをしますが、彼らはけっして、「犠牲者」でも「可哀想な人」でもありません。「愛する者を守るために戦った勇敢な日本人」だったのです。彼らは、大きな戦果を挙げることはできなかったかも知れませんが、残された「愛された者」たちにとっては、今も尚、彼らの「大きな愛」に包まれて暮らしているのです。そして、自分の生涯が終わろうとするとき、先に旅立った「愛する人」に感謝の言葉を伝えたはずです。「ありがとう…。私は、自分の人生を全うすることができました。あなたのお陰です…」と。そう考えることは間違っているのでしょうか。

3 時は速く過ぎる。光る星は消える。

「時は、速く過ぎる。光る星は、消える。だから、君は、行くんだ微笑で。そうだ、嬉しいんだ、 生きる喜び。例え、どんな敵が相手でも。ああ、アンパンマン、優しい君は、行け!みんなの夢 守るため…」

「人生100年時代」になったそうですが、だれもが、100年生きられるわけではありません。60歳も超えれば、眼は見えなくなるし、記憶力も衰え、足腰にもがたが来るものです。それでも、働かなければならないのは、現代人の辛さです。それでも、自分の人生を振り返ると「100年」であっても、振り返れば、「あっ」と言う間の速さだろうと思います。そして、自分の人生も終わりを迎えるのです。それを「微笑んで行く…」というアンパンマンに自分を重ね合わせます。それって、人生を悔いなく生きた人だけに与えられた「特権」みたいなものでしょう。それには、どんな「敵」が現れようと、怯まず、「愛」のために戦う勇気が必要なのです。今、健康で元気に生きている人たちにとって、死は身近なものではありません。まして、子供なら尚更です。しかし、けがや病気で苦しんでいる人、高齢になって体調を崩している人、生活が苦しく、今日の糧を得るのに苦労をしている人…など、人生は様々です。現代人は、敢えて「死」というものを考えないようにして生きていると思います。「戦争」などは、既に歴史の1ページでしかなく、自分の生活には何の関係もありません。しかし、本当にそうなのでしょうか。80年前、日本は、世界を相手にとんでもない戦争の最中にありました。銃を執ったこともない若者が、国の命令で次々と召集され、家業を捨て、学問を捨て、戦場へと赴いたのです。そして、「天皇陛下のご命令」の名の下に「突撃」を命じられ、死んでいきました。長い者でも「40年」足らずの人生です。

それでも、彼らは黙々と命令に従い「愛する者を守る」ために命を散らしたのです。人生100年と言われる時代でさえ、その一生は「速い」とさえ思えるのに、僅か20年、いやもっと速く死んで行く若者たちが大勢いました。それを、平和な時代の人間が、あれこれ「評論」することを私は好みません。現代においても、多くの人が「不慮の事故」で命を落としています。自然災害の多い日本では、毎年のように大きな災害が起こり、地震、台風、水害、山火事…と、思いもしない災害に巻き込まれます。また、日常生活の中でさえ、交通事故や家屋火災、犯罪に関わる事件など、人生を全うできない人は多いのが現実です。「平和な時代」と呼ばれた80年の間にさえ、数百万人が人生を全う出来ないで死んでいるのです。そう考えると、「時は、速く過ぎる。光る星は消える。だから、君は、行くんだ微笑で」の意味がわかります。

きっと、アンパンマンは、原作者の「やなせたかし」氏そのものなのでしょう。ジャムおじさんのパン工場で焼かれたあんパンが、生を受けて「アンパンマン」となり、愛する者のために悪と戦うという物語ですが、その「悪」でさえ、愛嬌のある「バイキンマン」と「ドキンちゃん」では、だれも心から憎むことはできません。「やなせたかし」氏の小説を読むと、「ドキンちゃん」は、愛する奥様がモデルだそうですから、憎いはずがありません。自分の性格とは違う妻だからこそ、頼りにもしていたし、心の中の優しさを見抜いたからこそ、心の底から愛することができたのでしょう。そういう意味では、「ドキンちゃん」が、一番愛すべきキャラクターかも知れません。また、「バイキンマン」は、やなせ氏の子供のころのいじめっ子、いたずらっ子のような存在です。こうした子供は何処の世界にもいるもので、気になる子供がいると、すぐにちょっかいを出しては小突いたり、悪口を言ったりするのです。気の弱い子供は、すぐに泣くので、それを面白がるといった「いじめ」をして遊びます。人間には、こうした残酷な一面があることを忘れては成りません。いじめっ子も、好きでいじめている…というわけではなく、なんとなく、自分のストレスの捌け口になっているのかも知れません。「やきもち」に似た感情が、いじめにつながることもあるものです。ただし、親や教師にばれるような酷いいじめはしませんでしたので、子供の中の「遊び感覚」で終わりました。いずれ、その立場が逆転することもあり、まあ、あまり目くじらを立てることもなかったようです。そういう意味では、「バイキンマン」も可愛らしい愛すべきキャラクターなのです。

やなせ氏は、戦後生まれの人ではありません。大正生まれの、日本が一番辛かった時代に青年期を迎え、召集されて戦地に出征した人でもあります。大正時代は、15年という短い期間でしかなく、明治から昭和への「橋渡し」的な役割を担っていました。短い時代ではありますが、実は、近代日本にとって、大きな「転換期」だったことは間違いありません。「明治」という大変革期を経て、曲がりなりにも世界の一流国となり、国際的地位も築きました。しかし、本当の「近代国家」となれるかどうかの試金石のような時代でもあったのです。そして、日本は、そのチャレンジに失敗をしました。それは、いわゆる「人造り」に失敗したからです。欧米に倣って学校制度を作り、優秀な教師を招き、系統立てた西洋風の学問を国民に施せば、「優秀な人材が育つ」と考えた明治政府でしたが、「昭和」という新しい時代を迎え、日本の舵を取ったのは「維新の志士」ではなく、「学校を優秀な成績で卒業したエリートたち」でした。結果は、政治面においても軍事面においても失敗し、国を崩壊寸前にまで追い込んでしまったのです。もちろん、世界情勢等の問題があったことは承知していますが、だれも、この時代の指導者に「合格点」はあげられないでしょう。

それは、「平成・令和」の現代にも同じことが言えます。敗戦後の日本の急速な復興は、世界の人々にとって大きな驚きでした。それは、占領国軍(GHQ)の指導のお陰ではありません。ましてや、「戦後教育」が成功したからでもありません。「戦後」も明治以降の「エリート教育の失敗」にも関わらず、旧来型の「学校教育制度」によって「優秀な人材育成」を行えると信じていました。しかし、戦後の日本を復興させた主力となった国民は、戦前の教育を受けた人たちであり、あの戦争で生き残った人々なのです。要するに、「戦前の教育を受けた人たち」が、創り上げた国が、戦後日本なのです。そして、「戦後教育」で育った日本人が、「平成・令和」の日本を創りました。もちろん、社会情勢が違うわけですから比較しても意味はありません。それでも、「急速な復興」を成し遂げた日本人の原動力となった「力」の源は知りたいと思います。令和の時代の日本人に、そんな「力」が備わっているのでしょうか。「戦後80年」、今の時代を見ていると、私見ではありますが「戦後教育は失敗した」と思わざるを得ません。もし、「成功した」と考える人がいたら、その理由をお聞かせ願いたいと思います。「アンパンマン」は、昭和の時代に誕生して、平成、令和と続く中で、子供たちに愛されてきたマンガでありアニメーションです。しかし、「アンパンマン」の理想とする国は、未だ遥か遠くにあるような気がします。「アンパンマン」を生み出した背景には、そうした「時代」と「生活環境」があったことを知らなければなりません。そこで、「大正時代」と、その社会背景を見ていきたいと思います。

4 大正生まれの日本人

大正時代は、大正元年(1912)7月30日から大正15年(1926)12月25日までの期間になります。この時代は、大正3年(1914)から大正7年(1914)まで、欧州で「第一次世界大戦」が起きていたことから、これに連合国軍の一員として、僅かしか兵力を送らなかった日本は、いわゆる「漁夫の利」という形で、ドイツの植民地だった「南洋諸島」の島々を領土化(国際連盟委任統治)していました。大戦の被害を受けなかった日本は、戦争特需に沸き、一時期、急激な「高度経済成長」を成し遂げました。今に残る風刺画に「紙幣に火を点けて蝋燭代わりにする成金」の絵が有名ですが、多くの「成金」と呼ばれる資産家が増えたのも大正時代の特徴です。大戦後もしばらくは、欧州各国は「復興」のためにアメリカや日本を頼らざるを得ませんでした。膨大な戦費を使ったヨーロッパ各国は、「もう、戦争は懲り懲り…」という有様で、国民は「平和」を渇望していたと言います。しかし、戦禍が及ばなかった日本は、この戦争から「国家総力戦」の怖ろしさを実感することなく、単に「総力戦」への怖れから、軍部は「国家総動員体制」に移行しようと企んでいたのです。そして、世界が「軍縮」に向かおうとしているときに、日本だけが「軍備増強」に走って行くのです。しかし、一時は、日本にも「軍縮」の波はやって来ました。それが、第一次世界大戦後の数年間でした。軍人の中にも「国際協調が必要」と考える者も多く、国際条約を批准して、日本も「平和への道」を模索していました。

「やなせたかし」氏は、この日本が穏やかな時代に高知県で産まれています。ドラマでも描かれていますが、女性がパーマネントで髪をまとめ、色彩の艶やかな着物を着ていても咎められない時代です。銀座では、今も営業している「木村屋」が、「あんぱん」を製造販売して流行になりました。ところが、こんな「平和な時代」は、ほんの数年間で終わりを告げます。「やなせ」氏が青年期に入ったころは、まさに「第二次世界大戦」が勃発し、世界中が戦乱に巻き込まれました。子供のころは、平和で穏やかな暮らしをしていた若者が、戦争に借り出され戦場に出て行くわけですから、そのギャップの大きさは計り知れません。まさに、今の若者が銃を執って戦うようなものです。だれもが、健康であれば召集されて戦場に赴いた年代です。実際、やなせ氏は、陸軍に召集されて中国大陸に出征しています。

大正時代の生まれの人は、第一次世界大戦後に起きた「軍縮」ブームに乗った「自由主義運動」を見てきた世代です。当時は「民主主義」という言葉はありませんでしたが、「民本主義」と言って「国民主体の政治」が叫ばれていたのです。特に首都東京は発展し、高層ビルが建ち並び、モダンガール・ボーイと呼ばれるファッションリーダーが街を闊歩していました。映画や芝居、喫茶店やレストランなど、最近でいえば、昭和40年代の東京を思い起こさせるような華やかな数年間がありました。学校教育も「自由教育」が流行し、有名な黒柳徹子氏の「ともえ学園」などは、その時代だからこそ誕生した学校なのです。この時代は、軍人が目立たない時代で、軍人などは「軍服を着たままでは、街中に出られない」と言われていました。兵隊の数も減らされ、軍艦も軍縮条約で削減され、せっかく造った軍艦を処分しなければならない事態に陥っていたのです。軍人の人気も低く、軍関係の学校の募集人員も少数にならざるを得ませんでした。彼らにとっては、有事でなければ「手当」も付かず、本俸だけの安い給料では生活も貧しいままでした。そんな鬱積した時代背景があったからこそ、「軍人は戦争を望んだ」のかも知れません。それが「身の破滅」とも知らず、大正12年(1919)に関東大震災が起こると、あれほど発展した東京の街は、一夜にして廃墟と化し、社会に不景気の嵐が吹き始めました。そして、いよいよ、戦争の時代へと入って行くのです。

5 「自由」を知った大正世代

「やなせたかし」氏を初めとした、多くの大正生まれの若者たちは、たとえ一時であっても「自由」の空気に触れていました。特に金持ちでなくても、そんな空気は日本国中に溢れていましたので、戦時中のような軍国主義的な教育は行われていませんでした。だれもが、自分の「夢」を持って生きることが許されていたのです。もちろん、貧しい農村では、そんな雰囲気は感じられなかったかも知れませんが、それでも、兵役に就く者は少なく、徴兵検査で「甲種合格」の名誉を得た者の中から、選抜されたのです。そして、兵役期間も2年と定められており、軍隊の水に合っている兵隊は、志願して下士官から将校への道に進む者もいました。それに、「甲種合格」自体の数が少なく、それは本人のみならず、家族や村の名誉でもあったのです。軍に入れば、小学校卒業程度の勉強は訓練に組み込まれていました。それに、銃や大砲の扱いだけでなく、多くの機械についても触れて学ぶことができました。また、食事も質素ながらも体力をつける献立は考えられており、何よりも郷土の「精鋭部隊」という誇りは、兵隊を満足させるものでした。その中で成績が良ければ、「幹部候補生試験」を受けて下士官や士官への登用の道も開かれていたのです。

私の子供のころでさえ「健康優良児表彰」なる制度があり、その町の主催の審査会で選ばれれば、子供だけでなく親も誇らしげでした。また、夏になれば「日焼け」することが奨励され、肌の黒さは「優良児」の証でした。さらに、学校では「皆勤賞・精勤賞」があり、学校を休まないことは、立派なことだったのです。まして、大正時代ころは、だれもが身長も低く、痩せている人も多かったことから、昔でいう「身体壮健」と認められることは、嬉しいことだったのです。日本の学校で「給食」が誕生したのも、そもそも、子供が栄養不足で貧弱だったために考えられた制度で、今でも「完全給食」という言葉があり、「ごはん・おかず・知るもの・ミルク」が揃った給食のことを指します。今時、「食事に必ずミルクがつく」というのもおかしな話ですが、それだけ、「牛乳(ミルク)」は、大切な栄養源だったのです。それが、崩れて行くのは、昭和6年(1931)の満州事変以降のことになります。軍人が望んでいた戦争は、彼らが思っていた以上に過酷で辛いことでした。中国との戦争は、小競り合いをしているうちは、戦死者も少なく兵隊にとっても気楽な戦いでしたが、中国の支援にアメリカやイギリス、ソ連、ドイツなどが加わると、日本軍の戦死者は増大していきました。歴史の授業では、そのあたりを教えませんが、日中戦争が泥沼化した最大の原因は、「欧米ソ」の軍事支援にあったことは、明かなのです。

昭和11年(1936)になると、「盧溝橋事変」をきっかけに日本と中国は、全面戦争状態になります。これは、今では「中国共産党」の謀略という説が有力ですが、どちらにしても、日本の意思とは関係ない場所で、日中戦争を望む勢力がいたようです。それに気づかなかった日本は、(戦争を拡大したくない…)と思いながらも、ずるずると泥沼のような戦争に引き摺り込まれて行きました。そうなると、大正時代のような「自由」な雰囲気は、まったくなくなり、軍部が国内で力を持ち、政府を思うように動かすようになっていきました。その上、昭和初期は、アメリカの株価の大暴落に端を発した「大恐慌」が起こり、関東大震災(大正12年)以降、大不況の波が日本社会を襲い、大正時代の自由な空気など、跡形もなく消えていました。そして、僅かな「軍縮の時代」も終わり、一気に国際社会との「軍拡競争」に入って行くのです。そうなると、兵隊はいくらいても困りません。国内の若者は、甲種合格者だけでなく、次の乙種合格者まで召集され、次々と大陸の戦場へと送られて行きました。それでも、日中戦争のころまでは、大学生には「徴兵猶予措置」があり、教師には、「短期現役制度」で、1年で現場復帰ができました。「根こそぎ召集」になるのは、大東亜戦争が始まった昭和16年(1941)以降に起こります。

大正生まれの人は、少年時代に「自由教育」が施され、自分でものを考え、行動し、自分の夢に向かって努力するすばらしさを知っていました。それが、青年期に入ると、国はずっと戦争ばかりしている有様で、生活も苦しくなっていきました。自由に言葉を発することもできなくなり、好きな道に進むことも許されなくなりました。それは、「自由の味」を知っている者たちにとっては、本当に苦しいことだったと思います。彼らは「自由」を知っているだけに、社会に対して批判的で冷静に「戦争」を分析していました。当時の大学生の多くが、学生の「徴兵猶予撤廃」になると、陸軍の幹部候補生試験や海軍の予備学生試験を受けて、陸海軍の初級指揮官の道を選びました。そして、その多くが少尉から中尉までの階級で戦死しています。彼らは、この戦争の未来をほぼ正しく予測していました。それでも、戦場に赴くことを拒みませんでした。戦後出版された「きけわだつみの声」や全国の史料館等に残る「遺書」などを読むと、如何に冷静に出撃を待っていたかがわかります。海軍予備少尉吉田満氏(東京帝国大学卒)の「戦艦大和ノ最期」などは、冷静な筆致で描かれた「戦記小説の名著」とまで絶賛されています。それは、大学生として学問に勤しんできた人間だからこそ見える現実に、冷静に立ち向かう姿だったからです。おそらく、「やなせたかし」氏も同じだったはずです。そして、彼らは、20代の「大人」でもあったのです。

昭和生まれになると、既に日本国中に不景気の嵐が吹き荒れており、農村の疲弊は眼を覆うばかりでした。日中戦争が始まったころは「小学生高学年」で、大東亜戦争が始まったころは、今の「高校生」くらいの年齢です。社会の世相は暗く、毎日のように彼らの村や町から「出征兵士」を見送り、「遺骨」が凱旋帰国してきました。社会全体が色彩を失い「カーキ色」に染まったかのような社会は、彼らを盲目的にしていったのかも知れません。学校では、常時「軍事訓練」が行われ、「軍隊に志願」することが求められていたのです。全国の中学校(旧制)では、学校の要望に応えて生徒全員で「予科練」を志願した学校もあったようです。そして、各中学校は、軍学校への合格率を競い、それを自慢していたのです。周囲の大人たちは、政府や軍に睨まれるのを怖れ、国の方針に逆らうようなことはしませんでした。この時代は「御国のため」という言葉が、一人歩きをし始め、深く考えることもせずに「戦争に協力する」ことが、最大の「善行」だと信じていたのです。大正世代のように「自由教育」を受けた者とは違い、昭和世代の少年たちには、「愛国心=軍人志願」以外には考えられなかったのです。そして、その多くは陸海軍の「少年兵」に志願し、やはり、各戦場で一兵卒として命を落としました。昭和5年生まれの私の父親も、「陸軍少年飛行兵試験」に挑んだと話していました。それが、その時代の「普通の感覚」だったのです。

6 勇敢に戦った大正世代

大東亜戦争の主力は、まさに「やなせたかし」氏たち大正世代の若者でした。彼らの多くは20代で、戦争のために産まれてきた世代だとも言えます。それだけに、多くの戦死者を出し、生き残った人たちは、今度は「復興」のために必死に働き続けました。彼らは、少年期に自由教育を受けて来たために、考え方が柔軟で、アメリカ型経営もすんなりと受け入れられた人が多かったと思います。まあ、戦時中の社会が「異常」で、それまでの日本は、けっして偏った社会ではありませんでしたから、自由に行動できる社会が「戻って来た」ことで、自分の人生を取り戻そうと働いたのかも知れません。日本人は、「鍛える」というと、すぐに「軍隊」を思い出し、朝から晩まで怒鳴られ、殴られ、大人の命ずるままに行動させられることだと考えがちですが、それは間違いです。悔しいことですが、実際の戦場で、アメリカ兵は異常に強く、それは、彼らの持つ兵器だけの問題だけではありませんでした。戦前、戦中、日本軍では「アメリカ兵は、自由に暮らし、贅沢をしているから弱いんだ…」などというデタラメな神話を信じていたようですが、とんでもありません。彼らは、作戦に不満があれば、下級兵であっても上官に文句を言うし、普段から不平不満も口にします。理不尽な扱いを受ければ、抵抗もしますし、法的に訴えることもできるのです。要するに、彼らは、闇雲に上の立場の人間に従うのではなく「自分の頭で考え行動する力」を持っているということです。それは、アメリカという社会が造り上げたものでした。

大正世代も同じように、自由教育を受けて育った人たちですから、けっして盲目的に軍隊に従っていたわけではありませんでした。よく、「日本兵は、洗脳されていた」とか、「狂信的に天皇を崇拝していた」とか言いますが、それは、まったくの「嘘」です。確かに、日本の軍隊は、近代国家の持つ軍隊ではありませでした。それは、国民の軍隊ではなく「天皇の軍隊」という位置づけをしてしまったことが原因です。そのために、「上官の命令は天皇陛下のご命令」などといういい加減なまやかしが軍隊で横行し、「天皇」の名を勝手に利用して統率しようとしたのです。大正世代の兵隊は、上官に逆らうような真似はしませんでしたが、心の中では、そんな軍隊を批判し、冷静に分析もしていました。それは、彼らの残した遺書や日記を見ればわかります。やなせ氏の弟は、大学から「海軍予備学生」を志願して、海軍少尉として駆逐艦に乗って戦死したそうですが、旧制高等学校、帝国大学で学んだ学生が、愚かな兵隊であるはずがありません。国難に際して、若者ができる最善の道を探し、「愛する者を守る」ために軍人を志願し、戦場に出た人たちなのです。彼らは、最期までこの戦いを分析し、負けることがわかっていながら、一分一秒でも、愛する者を守りたい一心で銃を執ったのです。やなせ氏もアンパンマンも見かけは、けっして強い「勇者」ではありませんが、心の中に秘めている「熱い思い」は、だれにも負けない強さを持っていました。

7 「アンパンマン」に託した心

「やなせたかし」氏の青年期は、常に死と隣り合わせの過酷な毎日でした。戦地では、常に仲間が死に、大けがを負って運ばれて来ます。いつ、自分も同じ運命に遭うかわかりません。そんな日々が続く中で、日本にもいつか、自分の少年期のような「自由」な時代が来ることを願っていたのだと思います。そして、「何のために生まれ、何をして生きるのか?」という問いがずっと頭の中あったのでしょう。そして、終戦となり、生き延びたことに感謝すると共に、死んで行った仲間たちへ「生き残って、申し訳ない…」という気持ちもあったはずです。私の伯父も「少年戦車兵」として戦い、戦後は「シベリア抑留」という理不尽な辛酸を舐め、辛うじて生きて故郷に帰ってきました。しかし、常に死んだ仲間への気持ちを忘れず、毎日、北に向かって手を合わせていたそうです。そして、家族には何も語らず、亡くなりました。伯父の親友だった人が、葬儀のときに弔辞を読まれ、伯父がどれほど過酷な戦場で戦い、戦後も死んで行った仲間たちに「すまない。すまない…」と言っては、泣きながら詫びていた…という話をされました。寡黙で、酒好きな伯父でしたが、その柔和な表情の裏には、人には言えない苦悩があったのです。おそらく、やなせ氏にも同じ思いがあったはずです。それが、「アンパンマン」の世界観なのです。

そう思って「アンパンマン」を見ると、彼が、どうして自分の大切な「顔」をあげてまで、人を救おうとするのか、少しわかったような気がします。アニメでは、アンパンマンの「顔」は、ジャムおじさんの手によって再生されますが、当初は、再生されることは想定されていなかったと思います。それでも、「困っている人」に手を差し伸べないわけにはいかなかったのです。それが、たった一口の「あんパン」であっても、「アンパンマン」にとっては、自分の「体の一部」を切って与えるのですから、それは、余程の決意がなければできることではありません。それでも、それが「何のために生まれたのか?」という問いに対する答えなのでしょう。そして、「何をして生きるのか?」は、作者である「やなせたかし」氏、ご自身のことなのだと思います。「自分は、何の能力もない人間だけど、マンガだけは描ける…」そして、「マンガによって、自分は生かされてきた…」という思いが湧き出てきたとき、「これで、生きていこう!」と決意されたのだと思います。

現代は、一見「豊かな時代」に見えますが、昭和中期に生まれた私から見れば、これほど厳しい時代はないように思います。社会は、「人に優しい社会」を築いているかのように見えますが、子供には、「子供の個性・意思・人権の尊重」が重視され、学校が苦手な子供は「学校に行かない権利」を行使しています。高等教育も少子化の波には逆らえず、「大学全入時代」になってしまいました。いくら「大卒」の資格を得ても、それだけで将来を約束してくれる企業はありません。その企業も、いつの間にか「株主優先」で、社員への還元も少なく、派遣・契約といった「臨時採用」が当たり前になってしまいました。そのため、政府も「退職金制度の見直し」や「年功序列の廃止」など、企業の新しい体制を支援しています。昔は、「石の上にも3年」と言われたように、我慢してでも慣れるまで働く文化が廃れ、「自分に合わなければ、転職」を積極的に勧めます。若者の結婚率も下がり、逆に「嫌なら離婚」も普通になりました。そして、日本は「超高齢化・少子化社会」になっているのです。これにより、日本人の「孤立化」は加速度的に進み、子供も若者も、高齢者も「お一人様状態」で過ごしています。だれとも関わらず、何の目的もないまま、生活に追われて生きていくだけ…。そんなことが、本当に「幸福」なのでしょうか。確かに、一人でいれば、面倒な人間関係もなく、厳しい教師や上司もおらず、口やかましい親もいません。これが、戦後の日本人が描いてきた「理想の暮らし」の結果なのだと思うと「こんなはずじゃ、なかったのに…」と思ってしまいます。

高度経済成長期に産まれた私たち「昭和中期世代」は、「戦争中」という過酷な暮らしからは無縁でしたが、大人たちの多くは「戦争世代」ですから、いくら学校で「民主主義」を勉強しても、生活は、以前の「厳しい規律」のままでした。学校でもよく叩かれましたし、「連帯責任」は当たり前、服装も髪型も学校の指示どおりにして登校しないと、厳しい体罰が待っていました。家庭でも父親の権力は強く、女性はやはり「良妻賢母型」が主流でした。それでも、学校は、中学、高校、大学と進学することができ、就職も、男性にとっては女性よりかなり優遇されていました。また、企業も景気がよいためか、福利厚生に力を入れ、安定した給料をもらい、定年まで働き、退職金を手に入れて悠々自適な老後生活を送るのが、大人たちの「夢」になったのです。女性は、「専業主婦」が当たり前で、どんな優秀あ大学を出ても「結婚=退職=専業主婦=子育て+親の面倒」みたいな枠が出来上がっていました。と言うより、これが昔からの日本の「伝統」だったのです。今から40年前に私が結婚するとき、今は亡き父母は、私の妻に向かって「家を守るのがあなたの務めだから、よろしくね…」と言ったことを覚えています。(おいおい、今、いつの時代だよ…?)と思いましたが、昭和末期になっても親世代の頭は、戦前のままでした。こういう時代に「やなせたかし」氏は、奥様と一緒に生きていたのです。今から見れば、これもかなり問題を含んでいますが、ただ、今尚「よかったなあ…」と思うこともたくさんありました。

それは、いくら「豊かになった」と言っても、まだまだ不便な時代です。隣近所の付き合いは濃密なものがあり、「助け合い」は「当たり前」の感覚で生活していました。今のような「大型スーパーマーケット」はない時代です。私もよく「ちょっと、お豆腐買ってきて…」とか、「お醤油切らしたから、お隣から借りてきて…」などと言われて、お手伝いをしていました。若夫婦に子供が産まれれば、周りのおばさんたちが、若奥さんを気遣い、随分と子育てに協力していましたし、「お裾分け」「お土産」は、お付き合いの基本でした。それに「困ったときは、お互い様」の文化があり、引っ越しなどは、近所みんなでお手伝いに出たものです。だから、個人情報など、あってないようなものでした。いいことも悪いことも「あっ…」と言う間に近所中に広まり、翌日の話題になっていました。この時代は、人権もハラスメントも個人情報も「まったく関係ない」時代だったのです。でも、それはそれで、悪いことばかりでもなく、我が家でも母がよく近所の小さな子供を預かって世話をしていました。用もないのに「ご飯食べにお出で…」などと誘い、我が家の食卓を大勢で囲んだことも日常茶飯事でした。もし、何かあっても「責任」なんて声は、上がらなかったのでしょう。子供は、その家の子だけでなく「近所の子供」でもあったのです。だから、少し「悪さ」をすると、近所の親父に怒鳴られたり、げんこつをもらったりしていましたので、「大人には気をつけろ!」と言うのが、私たち子供の「合言葉」でした。

その時代から見れば、今は、まさに「真逆な時代」です。あの時代、「嫌だなあ…」と思うことをすべて否定したのが、現代だと思うと、少し寂しい気がします。だれもが「孤立する社会」で本当にいいのでしょうか。こんな社会を見て「アンパンマン」なら、何と言うのでしょう?きっと、「嫌だと思うことも、少しは我慢をして頑張ってやってみようよ。ぼくも応援するからさ…」と言うのではないでしょうか。本当は、「一人がいい…」と思っている人も、心の中では「アンパンマン」に来て欲しいと思っているのだと思います。そして、「食パンマン」や「カレーパンマン」なんかと一緒に遊びたいと思っているはずです。でも、子供のころから「一人」で過ごし、周囲と関わらないように生きてくると、なかなか、友だちや仲間はできません。まして、社会が「応援」してくれないのですから、余計に孤独な生活は続きます。少子化で兄弟はいない。家族と言っても親とは疎遠。親戚も碌に知らない。社会は、使い捨て。学歴は何の役にも立たない。資格を持っていても実績がなければ使えない。中高年になれば、すぐ「リストラ」になる。高齢者になっても「年金」は少なく、ずっと働かなければ生きていけない。物価は高くなる一方。「介護が必要になったら、一人で大丈夫だろうか?」と不安が頭を過ります。

本当に、こういう時代だからこそ「アンパンマン」が必要なのだと思います。もし、困っているとき、ひとかけらの「パン」をそっと差し出してくれる人がいたら、それは、私の「ヒーロー」なのだと思います。作者の「やなせたかし」氏は、大正、昭和(戦前・戦中・戦後)・平成・令和と生きてきた人です。それは、私などより多くの時間をこの国で生活し、社会に貢献してきました。その人が、「何のために生まれて来たのか?」「何をして生きるのか?」という問いを、今も発信し続けています。人間は、常に欲望を持ち、それを叶えようと努力し続ける能力を持っています。だからこそ、社会は発展し続けることができるのです。しかし、社会は発展しても、人間はそれほど「発展」しているのでしょうか。「欲望」を叶えようと努力することはすばらしいのですが、それが「行き過ぎる」と、それに対応できなくなるのも人間のような気がします。そして、「我」を出し過ぎると、周囲との協調性をなくし、孤立の道を進んで行くのです。そして、「得る物が多くなり過ぎる」と、それを周囲に配ることができなくなります。日本企業も、バブルが弾けて以降、社員に利益を還元しなくなりました。そして、「株主優先主義」が主流になると、業績が右肩下がりになってきたのです。あれほど「利益を得たはずなのに…」、一旦、下がった業績を回復できずに足掻き、倒産していく大企業もありました。「一切れのパンを与える心」を失った経営者は、実は、人間にとって一番大切な「信頼」という「パン」を捨ててしまったのです。さあ、「アンパンマン」は、令和に生きる私たちに何を諭そうとしているのでしょうか。朝のドラマは、今後、どう展開していくのでしょう。このドラマが終わっても漫画「アンパンマン」は不滅です。きっと、令和の子供たちにも「何かを伝えてくれるはずだ…」と期待して、筆を置きます。

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