4月29日は、昔の「天皇誕生日」です。私たち昭和世代は、平成や令和の時代より、昭和の時代に郷愁を感じます。それは、自分が昭和30年代に前半に産まれ、少年期、青年期を昭和と共に過ごしたからでしょう。そのためか、「天皇陛下」といえば、「昭和天皇」をすぐに思い出します。少し猫背で、丸眼鏡をかけ、そのしゃべり方も訥々としており、最後に決まって「…を希望します」と締め括る独特の語り口は、子供時代にふざけて、けっこう真似をしていました。それだけ、親しみのある「陛下」でした。その「昭和」も、今年で「100年」になるのだそうで、自分が如何に年をとったのかがわかろうというものです。そのせいか、テレビ番組でも「昭和」を懐かしむような企画が多く放送されるようになっており、最近のNHKの朝ドラも、昭和が中心の物語が多いことに気づかされます。そんな「昭和」も、既に30年以上も昔の時代になりました。若い世代は、「昭和」と言われても、懐かしいというより「歴史」の1ページとして捉えているのかも知れません。それに、「昭和史」は政治、軍事面においては、たくさんの書籍が出版されており、語り尽くしたのではないかとさえ思えます。しかし、未だに「敗戦責任」を負っているかのような政治家やマスコミの発言には辟易としています。そろそろ、世代交代の時期になってまで「侵略国家日本」というレッテルを自分の顔に自分で貼っている姿は、愚かしくさえあります。二言目には「反省、反省…」と連呼する前世代の日本人は一体「何者」なのでしょう。早く、世界の国々と対等にものが言える国になりたいものです。「取り敢えず、そう言っておけばいいじゃん…」的な自己保身術は、若い世代には受けません。若い世代には関係のない話です。どこかで区切りをつけないと、300年後も同じでは、「ばかのひとつ覚え」になるのではないでしょうか。まあ、難しいことは置いておくとして、私は、私の眼で「見た・聞いた・調べた昭和」を解説してみたいと思います。
1 関東大震災から始まった「昭和」
「関東大震災」といえば、大正12年9月1日に起きた「大地震」ですが、日本に未曾有の混乱をもたらした自然災害でした。それ以降、「9月1日」といえば、「防災の日」と定められましたから、学校では必ず「避難訓練」が実施され、防災頭巾を被って教室から運動場に出るのが慣わしのようになっていました。もし…と言うのも仕方のない話ですが、「もし、大震災が起きなければ…」、「昭和」は、少しは違った形で推移していったのかも知れません。なにせ、首都「東京」が壊滅してしまったのですから、時代が大きく変わることを人々に印象づけました。歴史は「大きなうねりの繰り返し」と言いますが、大正時代が比較的穏やかで、第一次世界大戦終了後は、日本国内も平和的なムードだっただけに、震災後のギャップが大き過ぎたのです。今に残る大正時代の「東京」は、まさに現代の写真を「セピア色」に加工したようにさえ見えます。街には自動車が走り、高層ビルが建ち、素敵なワンピースに洒落た帽子、日傘をさしてヒールの高い靴で歩く「モダンガール」やパリッとしたダブルのスーツにソフト帽、ピカピカの革靴の「モダンボーイ」が写っています。歩く道路は、きれいに舗装されており、歩道の脇には多くの商店が建ち並んでいます。既に「喫茶店」や「レストラン」そして「西洋風のホテル」もあり、お金さえあれば、東京はまさに「夢のパラダイス、花の東京」だったでしょう。それが、たった一夜にして灰燼に帰したのが、あの「関東大震災」なのです。そして、「夢の街東京」は、それから20年後に再び灰燼に帰しました。今度は、戦争による「空襲」によってです。それも、殺戮だけを目的としたアメリカ軍の攻撃は、まさに「地獄絵図」でした。一晩で「10万人」の民間人が焼き殺されたのです。そして、戦後の怪獣映画「ゴジラ」によって、空想の世界でも首都東京は破壊されました。それでも、必ず復活するのですから、「東京」という街は、やはり、何かの因縁を背負っているような気がします。今でも大手町のビル街の中に、「平将門」が祭られていますが、そうした不思議な因縁によって「東京」は日本の首都であり続けるのでしょう。
昭和天皇は、大正天皇が体調が優れなかったことから、大正末期には「摂政」として政務を担当していました。それだけに、国の行く末をだれよりも心配されていた方です。アメリカの「株価の暴落」をきっかけとして世界は「大不況」になっていきました。最早、大正時代の「明るさ」や「自由さ」は失われ、社会全体がギスギスとした暗い雰囲気の中で、国民の不満も高まっていったのです。一時は、好景気で「成金」と呼ばれる富豪も誕生しましたが、関東大震災と大不況の「ダブルパンチ」を受けた日本は、益々、貧困の度合いを高めていったのです。このころに「大学」を卒業した若者も就職先がなく、仕方なく「軍隊」に入った者も多くいました。軍隊なら、取り敢えず腹を満たすことはできます。軍部は、この不景気にも関わらず、「軍備増強」を求め、国会でも、その予算取りのために「危機」を煽っていました。それは、欧米が進めた「帝国主義(植民地主義)」が世界を支配していたからです。したがって、日本にとって世界の列強といわれる国々は、どれも、日本を狙う脅威でもあったのです。ただ、海軍は仮想敵国を「アメリカ海軍」として作戦計画を練り、陸軍はそれを「ソビエト連邦」としました。どちらかと言うと、陸軍にはソ連を仮想敵国とする明確な根拠はありましたが、海軍は陸軍に対抗するため、仮想敵国を「アメリカ海軍」としただけのことでした。実際、日本海軍の実力では、アメリカ海軍を相手に戦争をしても国力が違い過ぎて戦いにならないことは、海軍の軍人であれば、だれもが承知していることです。ただし、アメリカにとっては、太平洋を挟んだ海の先には「日本列島」が横たわっているのです。
「大陸」に進出しようとするアメリカにとって、その「入口」を塞いでいる日本が邪魔にならないはずがありません。それは、「ソ連」にとっても同じことです。太平洋に出たいのに、それを日本列島が邪魔しているのですから、排除したいと考えるのが普通の思考でしょう。「帝国主義」とは、そういうものです。陸軍は、日露戦争に勝利したとはいえ、ロシアとの戦争が長引けば、最早、勝利は覚束ない状況に追い込まれていました。備蓄されていた「弾薬」も底をつき、兵隊も多くが死傷して戦力は保てなかったのです。それでも、何とか「満州」を抑え、朝鮮半島にロシア軍が侵入することを防ぎました。あのとき、アメリカが「講和の仲介」をしてくれなければ、日本はソ連に屈服していた可能性がありました。ただし、アメリカにとっても、日本列島をソ連に奪われれば、大陸に進出するためには、ソ連と戦争をする以外はありません。そんな、損得を計算した上でアメリカは、「仲介の労」を取ってくれたのです。それは、「人のいい日本人なら、きっと、この恩は返してくれるだろう…」という胸算用があったからです。「恩」とは、アメリカの大陸での商売を日本が支援してくれることでした。しかし、日本は、そのアメリカの申し出を素気なく断ってしまったのです。当然、アメリカが日本に「恨み」に似た感情を持ったとしてもやむを得なかったのです。
日露戦争に敗れた「ロシア」にしても、国内で「革命」の機運が高まってきており、日本との戦争に対しても厭戦気分が蔓延していました。さすがのロシア皇帝も、まずは、国内を安定させなければ、自分の身の安全すら図れない状況になっていたのです。日本もこの革命運動を陰で支援し、「ロシア帝国さえなくなれば、ロシアの脅威はなくなるだろう…」と期待しての行動でしたが、革命によって誕生した「ソビエト連邦」は、ロシア帝国以上に日本にとっての脅威となったことは皮肉な話です。そのソ連も「太平洋に出たい」という積年の野望はさらに強くなり、これまでの「南下政策」を推進したことで、日本は北方に、これまで以上の「強大な敵」を抱えることになったのです。これを防ぐためには「満州を防衛し、朝鮮を強くする他はない」というのが、当時の日本政府、軍部共通の認識でした。そうなると、仮想敵国を「アメリカ」にすることは大変危険なことでした。できれば、アメリカと同盟を結び、ソ連に対抗したかったのですが、「満州へのアメリカの進出」を日本が拒んだことで、アメリカを怒らせ、「同盟」どころか、アメリカ人に反日気分を煽る結果となってしまいました。それが、第一次世界大戦後に始まる「日本人移民排斥運動(黄禍論)」です。日本は、絶対に「敵」にしてはいけない国を敵としてしまったことは、日本外交の大失敗でした。そのため、海軍は仮想敵国を「アメリカ」にせざるを得ない面もあったのです。外交というものは、ひとつの「釦の掛け違い」でとんでもないことになる事例として覚えておきたいものです。
海軍は、アメリカを仮想敵国としたことで、自分で自分を追い込む結果になってしまいました。強大な「アメリカ合衆国」を敵と仮定することは、それに対抗する「軍備」が必要になります。アメリカには、太平洋艦隊の他に、大西洋にも大艦隊が控えていました。それに、その工業力は、日本の数十倍の規模の上に、国内で石油を始めとした「軍需資源」を賄う能力があるのです。そして、アメリカ軍には、日本上陸ができる戦力を持っていますが、日本がアメリカ本土に上陸するなど、あり得ない話です。そう考えると、戦ったとしても勝算は「限りなく0」でした。それが、国力の差なのです。したがって、海軍が想定した「アメリカ艦隊との決戦」は、余程のことがない限り起こり得ず、差し迫った脅威は「ソ連」にあることは明白でした。それに、ソ連は革命により「帝政」を破壊し、「共産主義国」となっていました。「共産主義」は、「王制打倒」が思想の中心にあり、日本のような「天皇」を国民の上に戴く「君主制」は許せない思想なのです。そして、「共産主義思想」は、武器を使わない戦争(思想侵略)でした。彼らは、「コミンテルン」と呼ばれる共産主義啓蒙組織を作り、世界中にその思想を広めるための「スパイ」を各国に放っていたのです。
万が一、日ソが激突した場合、海軍のできることは、日本海の制海権・制空権を確保し、兵員及び軍事物資の輸送路を確保するために軍艦を派遣するくらいでした。そして、ソ連海軍が南下してきたときに、これを殲滅するのが役割だったはずです。そうなると、主力は「陸軍」ということになり、海軍は脇役に甘んじざるを得ません。当然、海軍の主戦場は「日本海」であり、太平洋に海軍を展開する構想は、まったくありませんでした。元々、海軍の思想は「専守防衛」にあり、日露戦争も、飽くまで「防衛戦争」であり、敵国に侵攻していくような軍備を整えること自体に無理があったのです。ただ、陸軍への対抗と「予算確保」のためだけに軍備の増強を求めたというのが、正直なところでしょう。それに、大正時代になって世界が「軍縮」を求めるようになると、軍人はあまり活躍できる場がありませんでした。特に海軍は、国民の眼に触れる機会も少なく、そもそも「軍艦」ができなければ、それに乗せる兵隊もいらないのが現実です。陸軍にしてみれば、「ソ連軍が、いつ南下してくるかわからんのだから、海軍に回す予算をこっちによこせ!」という気分だったと思います。それを防ぐために、海軍は「アメリカ」を敵と想定した訓練に明け暮れ、「アメリカより大きな軍艦が必要である!」と、軍艦の建造のための予算を要求したのです。その結果、日米開戦必至の状況になっても、だれも、今更「アメリカとは戦争はできない!」と言えず、闇雲に戦争に突っ込んで行ったのが真実です。
2 「昭和」初期の人々の不満
大正時代に「モダンガール・ボーイ」として颯爽と街を闊歩した人たちも、昭和に入ると、そんな雰囲気は一変しました。事の発端は「関東大震災」でしたが、次いで起きたのが「大不況の嵐」でした。当時の日本は、やっと農業国から「工業国」へと社会が転換し、消費社会へと移って行ったばかりのころです。しかし、日本の工業は、まだまだ欧米の水準ではありませんでした。重工業は少なく、絹や綿花を利用した繊維産業、石炭産業、鉱山の発掘などで、自動車製造や造船、航空機製造などは、軍関係のものしかありません。民間などは、細々と研究をしているくらいのもので、やっと、全国に線路が敷かれ、人々が「汽車」の恩恵に与ったくらいのものです。江戸時代は、完全な「農業国」ですから、自給自足、リサイクルが当たり前で、「消費生活」ができたのは、一部の特権階級(貴族・大名・高級士族・豪商・豪農)の人たちだけの暮らしでした。武士でさえ、中級以下の家庭では、農民とさほど変わらない生活を送っていたのです。ところが、明治維新を迎えると、「それ、西洋化だ!」とばかりに国民に「文明開化」を求めました。そうなると、農村から都会に出て来る人が増えます。学校制度が整うと、「尋常小学校卒」の肩書きで、都会の工場などに出て、給料をもらって生活するようになりました。私の祖父も、片足が不自由なこともあって、女工(繊維工場)の斡旋業の仕事をしていました。農村では、耕す田畑もなく、農家の次男、三男、そして女性は早く家から出ていかなければならないのが運命だったのです。
この「昭和の大恐慌」は、日本にはまったく責任はありません。アメリカの株価がなぜか「大暴落」を起こし、それがきっかけとなって世界の経済が動かなくなってしまったのです。一説には、世界有数の資本家たちが、社会不安を煽り、「戦争」を引き起こすことによって儲けようとする企みだったとする意見もありますが、真相はわかりません。とにかく、これによって「第二次世界大戦」が誘発されたことだけは確かです。日本のような小さな工業国は、アメリカなどの大国との「貿易」なしには、経済が回りません。今でも、アメリカ大統領が「関税を上げるぞ!」と脅すだけで、政界や経済界、マスコミは大騒ぎになります。当時は、もっと経済力が弱かった時代ですから、国民生活は、窮乏の危機に晒されました。経済活動が鈍化し、社会不安が増大すると「事件」が多発するのは、今も昔も同じです。最近、動機不明な「自動車の暴走事故」や「凶悪殺人事件」「闇バイト事件」などが起きるのも社会不安が大きく影響しているのでしょう。この時代は、頻繁に起こる「暗殺事件」が社会をさらに不安に陥れていました。私たちも数年前の「安倍晋三元首相」の暗殺事件を忘れてはいません。あれほどの大事件でありながら、未だに裁判が行われないのも不思議な気がします。事件を起こした犯人は、きまって政治家や経済界の要人をねらい、「この男のせいで、みんんなが苦しい思いをしているんだ…」と信じて事件を起こすのです。私の記憶にあるだけでも、「原敬」「浜口雄幸」「団琢磨」「井上準之助」「犬養毅」「高橋是清」「斎藤実」「渡辺錠太郎」「鈴木貫太郎」等がいます。それ以外でも襲われて無事だった人もいますので、昭和初期は、本当に、国民の不満が「マグマ」のように溜まっていた時代でした。そして、本気で、もう一度「革命を起こしたい」という人間が大勢いたということです。
特に昭和11年に起きた「2.26事件」は、陸軍の正規将校たちが「昭和維新」を唱えて決起した事件で、武力を握った「軍隊」の怖さを国民に知らしめることになりました。ただ、当時の国民はこうしたテロ事件を容認する空気があったのも事実です。それは、昭和7年に起きた「5.15事件」の裁判中に起こりました。首相官邸に押し入った海軍将校たちは、犬養毅首相を拳銃で射殺し「軍事政権」を打ち立てようとしたのです。捕らえられた犯人たちは、軍事裁判所において日本の置かれている現状、そして、政治家や経済人たちを非難し「政治と経済の腐敗が、この国の混乱を招いた元凶だ!」と自分たちの主張を堂々と述べたのです。こうした発言は、新聞等をとおして報道されるや、国民から多くの「嘆願書」が裁判所に届きました。そして、裁判を司る軍人たちの心をも動かしたのです。原因は、そんなところにあるのではなく、「世界的大恐慌」がもたらした災厄なのですが、国際情勢に疎い国民は、本気で「政治家や経済人の腐敗が原因」だと思い込んでしまったのです。そして、時の総理大臣を暗殺した軍人たちは、死刑になることもなく禁固刑を受けて、数年で釈放されました。そして、二度と軍に召集されることもなく、戦後も生き延び「左翼運動」の指導者になりました。この世論の声と軍事裁判所の甘い判決を見た陸軍の青年将校たちが「昭和維新」を旗印に決起したのが、4年後の「2.26事件」でした。
おそらく、このクーデターに加わった青年将校の中には、5.15事件の前例に倣い、たとえ逮捕されても「死刑はない」と考えていたのでしょう。そして、本来「首都東京」を守護する「第一師団」や天皇をお守りするはずの「近衛連隊」の一部が決起しました。当初は、陸軍の首脳がこれを機に「軍事政権」誕生を狙いましたが、天皇の怒りを買い早々に鎮圧されました。天皇は、さすがに二度目の軍人主体のクーデターに怒りを抑えきれなかったのでしょう。「朕、自ら兵を率いてこれを鎮圧する!」とまで言ったことで、陸軍の幹部たちは畏れおののき、あたふたと鎮圧に乗り出しました。そして、開かれた軍事裁判では、決起した将校の主張も聞かず、彼らを「死刑」に処して事件の早期解決を図ったのです。それほど、天皇の怒りは凄まじく、若い天皇を甘く見ていた軍人たちは、(この天皇を怒らせると、自分の身が危ない…)とでも感じたのでしょうか、結果、終戦の「御聖断」が下されたのも、このときの天皇の「強いイメージ」が、軍に残されていたからだと思います。以前、私も知り合いの高齢の女性から、この事件の話を聞いたことがあります。その方は東京の人で、「子供のころ、雪の降る中を多くの兵隊が隊列を作って行進して行くのを見ました。障子をそっと開けて外を覗いていましたら、母が来て、障子をピシャッと閉めてしまいました。何が起こったのだろうと不安になったことを覚えています…」と話されていました。その後、参加した将兵は、満州の北方警備のために「ソ満国境」の街「孫呉」に送られたそうです。そして、大東亜戦争が始まると、レイテ島に送られ全滅しました。映画「兵隊やくざ」を見ると、「孫呉」での兵隊の苦労がわかります。
3 戦時下の国民生活
日中戦争から大東亜戦争に入ると、国民の生活は益々苦しくなっていきました。税金のほとんどが「軍事費」となり、国民生活に税金が使われなくなっていくのです。そうなると、国民は「自給自足」の生活をするしかなくなりました。「配給」もだんだん滞ることが増え、自分たちで何とかしなければ、生きていくこともできません。「貴金属類」も拠出するように命じられ、どの家庭でも、指輪やネックレス、時計など、少しでも戦争に役立つような物は拠出の対象となったのです。また、着る物も男性は「国民服」、女性は着物に「モンペ」が奨励され、まるで、江戸時代に戻ったかのような生活を強いられました。その中で一番困ったのが「食糧」の確保です。当初は、計画どおりに「配給」が実施されましたが、次第にそれも滞りがちになり、どの家庭も自分で自活する以外にはなくなりました。それでも、耕す土地のある人は幸せですが、消費するばかりのサラリーマン家庭は、借家の庭に小さな畑を作り、細々と芋や南瓜を育てたのです。しかし、都会の痩せた土地では、収穫もままならず、食事も「一汁一菜」がいいところで、ご飯も「雑炊」か「大根飯」「芋粥」が普通になりました。こうした事態に陥ったのは、政府や軍が、すべてを「戦争優先」にしたからです。魚を捕ろうにも、漁船の大半は軍に「徴用」され、沿岸警備と監視に派遣されており、敵機や敵艦を発見すれば、即座に通報するよう「無線機」を積んでいました。
実際、昭和17年に「東京初空襲」が行われたとき、最初に発見した漁船は、その場で撃沈されています。ほとんど武装のない漁船を戦争に利用したために、魚も獲れなくなったのです。また、米や野菜も軍関係に「徴発」されました。働き手が兵隊に召集されている農村は、女性や老人、子供が食糧生産の担い手だったのです。こんな生活が4年以上も続けば、不満に思わない人はいません。そのために、政府は「憲兵」を各地方に派遣して国民を監視しました。たとえば、「方言」を使うことを禁じ、方言で会話をすれば「スパイ容疑」で連行されることもしばしば起こりました。方言のきつい「沖縄県」などは、なかなか「東京弁」が使えず、警察や憲兵に難癖をつけられ、いじめられたという話が残されています。「沖縄県」は、元々は「琉球王国」ですから、言葉が違って当然なのですが、警察官や憲兵は、職務に忠実であろうとし過ぎて、逆に「差別」的に扱う人もいたのでしょう。琉球王国の人々は、江戸時代に薩摩藩から厳しい「税」を課せられていましたので、心情的に本土の人間に反発する気持ちもよくわかります。今でも、コロナ騒動のとき、必要以上に反応し、「自警団」のような行動を採る人もいましたので、それと同じことが全国で行われていたのです。こうした国内での「いじめ」が、戦後、軍隊や警察が恨まれる原因になりました。私の田舎では、「元憲兵」だった人が、戦後、周囲の厳しい眼に晒され、村にはいられなくなったと聞いています。実際、「スパイ活動」に手を染めていたのは、そんな一庶民などではなく、政府の高官や高級軍人が多かったのですが、日本人は「肩書き」に弱く、そうしたいわゆる「偉い人」は、何の咎めも受けず、戦後は堂々と「共産主義運動」に参加し、中国共産党やソ連情報機関の手先として活動していますから、何とも不公平感は否めません。
そして、昭和20年になると、いよいよ、アメリカ軍による「本土空襲」が激しくなっていきました。特に東京は何度も襲われ、数十万人が空襲で亡くなったといわれています。特に「3月10日」の下町を中心とする市街地への空襲は、アメリカ人の「凶暴性」を剥き出しにした怖ろしい殺戮行為でした。このころのアメリカ人の「人種差別」は、酷くなる一方で、戦争への憎悪が、心の奥にあった「有色人種」への差別心を呼び起こし、特に酷い消耗戦となった「日米戦争」は、アメリカ人の理性を狂わせたのです。また、当時のアメリカ政府には、ソ連のスパイがかなりの人数で入り込んでおり、彼らが、「祖国ソ連」のために、日本人への憎悪を掻き立てたとも言われています。もし、後数年、アメリカ大統領がルーズベルトだったら、アメリカ自体が「共産主義国」になっていた可能性すらありました。ルーズベルトは「容共主義者」で、いち早く、ソ連と手を結び、世界が共産化する手助けをしています。当然、日本が「共産国」となって、ソ連の衛星国になったとしても関知しなかったでしょう。彼が、戦争終結前に病死したことは、日本にとっては幸いでした。しかし、次のトルーマン大統領も人種差別主義者で、日本への原爆投下に積極的な政治家でした。日本が滅んだとしても、自分の名誉が得られれば構わないという人物です。アメリカ政府や軍の中には、「日本を共産化してはならない」とする勢力もありましたが、この二人の大統領の下では、どうしようもありませんでした。結局、トルーマンは、「原爆投下を命じた男」としてのみ、世界史に名を残しています。
東京への空襲を指揮したのは、アメリカ空軍の「カーチス・ルメイ」という将軍ですが、彼の指揮の下、アメリカの爆撃機は「油脂焼夷弾」を大量に市街地にばらまき、軍需施設などではなく、日本人を抹殺するための作戦を実行したのです。使用した焼夷弾は、わざわざ、日本人を大量に虐殺するために開発された「殺戮兵器」で、「原子爆弾」以上に非難されて然るべき兵器でした。アメリカは、この後、ベトナム戦争でも同じような爆弾を使用し、世界中から非難される結果となりました。こうした「人種差別心」の強い人間がアメリカには、相当数いたという事実を日本人(有色人種)は忘れてはならないと思います。本来「国際法」では、戦争は軍隊同士で争うことを規程していましたが、実際は、敵国人を多く殺すことを目標にするようになっていきました。第二次世界大戦後の「朝鮮戦争」や「ベトナム戦争」でも、酷い殺戮が行われ、戦後、問題になりました。今の中東やウクライナでも「無差別攻撃」が行われ、一般市民が多く巻き込まれています。特に「原爆投下」ほど、酷い作戦はありませんでした。いくら敵が憎いとは言っても、超高温の「火球」を爆発させて、10万人以上の一般市民を一瞬で「焼き殺す」戦争など、これまでは、だれも考えつくものではありませんでした。トルーマンというアメリカ大統領も、その部下の将軍たち、そして、開発した「オッペンハイマー」という物理学者には「人間の心」より優先すべきものがあったということです。最近、映画「オッペンハイマー」が日本でも公開されましたが、悲劇の描き方が中途半端で、つまらない駄作でした。それでも、アメリカ人には、それが精一杯だったのでしょう。広島の「原爆資料館」に行く度に、もの凄く怒りが湧きます。本当は、アメリカ人すべてに、この悲劇を見せてやりたいものです。
4 戦後の混乱と窮乏
昭和20年8月15日の天皇陛下の「玉音放送」によって、日本は、昭和6年の満州事変から続く戦争を終えました。長い14年間でした。この間に、戦争で亡くなった日本人は、軍人100万、民間人200万と言われています。現代の戦争は、民間人の犠牲の方が大きいのです。よく、戦争中は「銃後」などと言って、「前線で戦う兵隊の気持ちになれ!」と叱咤していたようですが、この数字を見れば、どこも「最前線」で「銃後」などなかったことがわかります。こんな無茶苦茶な戦争を強いられながら、よく日本人は耐えたものだと思います。ましてや、軍部は、それでも「本土決戦」を叫び、国民すべてが「玉砕」するまで戦う気でいたのですから、まさに「狂気の沙汰」でした。そんな狂った人間が、国を動かしていたのですから、あの「終戦の詔」を発することが如何に困難だったか、想像がつくはずです。もし、あのとき「昭和天皇」が決断されなかったら、日本はドイツ以上に国を破壊されたことでしょう。多くの人が亡くなりましたが、「終戦」は、本当に奇跡の中で行われたのだと思います。日本は「試験の上位者」に国の行く末を委ねる制度で成り立っていますが、本当にそれでいいのでしょうか。「勉強ができる=立派な人」という方程式は成り立たないような気がします。
「昭和天皇」の御聖断によって戦争は終わりましたが、戦争が終わったからと言って、国民の生活が、すぐに元に戻るわけではありません。終戦直後の方が、配給も止まり、餓死者が多く出たと言われています。それでも、日本政府は存在し、各自治体にも役所は残っていましたので、少しずつ戦争で失われた機能が回復していきました。それでも、戦後しばらくは、満足にご飯も食べられない状態が続きました。私の田舎は農家なので、取り敢えずの食事には困らなかったようですが、都会のサラリーマン家庭は、本当に苦労をしたと思います。実家の納屋にも、戦後も、しばらくは、「疎開者」が暮らしていたと言いますから、生活を取り戻すための苦労は大変だったはずです。私の知人も「東京の空襲で、祖父母、両親、産まれたばかりの妹と、一家全員が亡くなってしまい、学童疎開に行っていた自分だけが生き残った…」「東京に帰ると、家のあった場所は一面焼け野原で、遠くに国会議事堂がポツンと見えた。生き残った近所の人に話を聞くと、リヤカーに家財道具を乗せて、川の方にみんなで走って行ったのを見た…と言うだけで、その後のことは、何もわからなかった」という話を聞きました。戦後は、伯父の家で世話になり、学校を終えると、早く社会に出たそうです。この時代、これは「特別な話」ではないのです。そうした子供たちが日本中に溢れており、だれもが「生きること」に必死でした。私の知人も、この話をしてくれたのは、一回きりでした。いつも明るく、気さくな人でしたが、淡々と語るその表情を見ると、眼の奥に少しだけ「光るもの」がありました。やはり、「辛い」思い出なのです。そんな日本が再び国際社会に復帰してくることなど、世界の人々は考えもしませんでした。それは、そうでしょう。どんな国でも、あれほどまでに痛めつけられれば、最早「国」としては終わりです。第一次世界大戦後も、負けた国は「王制」が崩壊し、占領国軍の意のままに操られていることを知っていたからです。
ただ、日本に「幸運」が訪れたことも事実です。それは、戦後、5年もすると、アメリカで「レッド・パージ運動」が起こったのです。これは、政府や軍内部に巣くう「共産主義者」を見つけ出し「罪に問う」保守政治家たちのクーデターでした。アメリカでは、第二次世界大戦が終わると、その実状が少しずつ明らかにされていったのです。そして、政府や軍内部に多くのソ連の「スパイ」が入り込んでいて、政府を操っていたことがわかりました。そして、日本を戦争に追い込んだ「ハル・ノート」も大統領が国会の審議なしに日本に送っていたことも判明したのです。「こんなものを送りつけられれば、戦争になるに決まってるじゃないか!」という怒りは、保守政治家を中心に政府や議会にも広がり、彼らは「ルーズベルト一派」に騙されていたことに気づかされたのです。そして、あらゆる機関を使って「共産主義者」を洗い出してみると、とんでもない数の人間が政府や軍に入り込んでいることがわかりました。「自由と民主主義」を標榜するアメリカにとって、共産主義は、それを真っ向から否定する思想であり、絶対に許されない「反国家主義」なのです。それを大統領自身が利用し、第二次世界大戦に参戦したことがわかると、だれもが頭を抱えました。しかし、これまで「アメリカの英雄」と宣伝してきた「ルーズベルト」を今更、「売国奴」として国民に知らせることもできませんでした。そこで、「レッド・パージ」だけを実施したのです。したがって、「フランクリン・ルーズベルト」は、今でも、アメリカの英雄として知られています。
もちろん、日本の連合国軍総司令部(GHQ)内部にも共産主義者若しくは、シンパは多数入り込んでおり、日本の「共産革命」を狙って暗躍していましたが、本国の調査が入り、そのほとんどが、役職を解かれ本国へ強制送還されました。もし、このクーデターが起きなければ、日本は、間違いなく、東ヨーロッパや中国、朝鮮のようにソ連の衛星国(属国)になっていたはずです。それでも、既にGHQの指令によって、これまで、日本を動かしてきた政治家、学者、軍人(将校)、経済人などが「公職追放」されており、その空いた席には、多くの共産主義者やそのシンパが入り込み、各界を牛耳るようになっていました。特に「マスコミ」や「教育界」「労働組合」は、その度合いが顕著で、GHQの指令を忠実に実行する機関として、その後も国民に「左翼思想」を広める重要な役割を担いました。昭和期の新聞等は、戦前からの幹部がいなくなり、GHQの命令に忠実な者は幹部になっていましたので、戦前とは真逆な記事を書くようになっていました。そして、日本共産党や日本社会党を支援し、国民を煽動していったのです。また、教育界は、戦前までの保守系教育学者がいなくなり、マスコミに同調するような教育が行われるようになりました。「日本教職員組合」が組織され、学校の教職員を動員して左翼政治家を応援したり、学校内で「オルグ活動」を行い、若い教師を「組合員」なるよう勧誘し、一時は大きな全国組織になりました。その活動が問題視されるようになったのは、平成の時代になってからのことです。
それでも、一般国民は、「その日をどう暮らすか…」で精一杯の状況で、政治や教育にそれほど関心を持つ余裕はありませんでした。新聞やラジオでは、盛んにこれまでとは真逆な論調で世論を動かそうとしていましたが、実際は、戦前に受けた教育は根強く残り、男性優位社会は変わらず、女性は「良妻賢母」を模範とする「主婦」が望まれました。私の家でも父親などは、母親が外で働くのをいやがり、「女は、家事を行い、子供を育て、家を守るのが仕事だ…」と常々言っていました。世の中が変わっても、小さいころから教えられてきた考えは、変えられなかったようです。日本の男性には、「男は外で働いて稼ぐのが仕事」という文化があるせいか、戦後、復員してきた男たちは、日本の復興と自分の暮らしのために必死になって働きました。各地に残された軍用地は、国や自治体の所有となり、広大な滑走路跡や演習場などは、恰好の開墾場となり、全国では多くの土地が開かれ、農地や住宅地に変貌しました。また、空襲によって破壊された「線路」の復旧は喫緊の課題であり、これも復員してきた男たちの力で早期に修復を終えて、鉄道輸送が復活したのです。さらに、エネルギー問題解決のために、戦前からの「炭鉱」は、やはり、元兵隊の力を借りて採掘が加速度的に進みました。映画「フラガール」で有名になった「磐城炭鉱」もそのひとつです。国民には、政府もGHQも、所詮は「お上」ですから、それほど信用していたわけではありませんでした。
5 戦後の復興
戦争によって、日本は焼土と化し、二度と復活できないかに見えましたが、日本民族が根絶やしにされたわけではありません。昭和天皇が終戦を決意した理由がここにあります。天皇は、「これ以上戦争が続けば、日本民族が滅んでしまう。私は、この国を次の世に伝える義務がある…」そう述べられて終戦を決断されたのです。軍部にしてみれば、「まだ、数百万の将兵がいる!」と終戦を拒みましたが、天皇は、日本の未来を考えて決断されたのです。そして、日本人に大きな期待をかけていました。そして、日本全国の国民、そして、海外で展開中の将兵は、「終戦の詔」を知らされると、黙って武器を置きました。やはり、日本は「天皇が治める国」だったのです。そして、敵軍に降伏すると、その指示にしたがい粛々と復員してきました。もちろん、ソ連が中立条約を破って満州や樺太で蛮行を働いたことは悲劇でしたが、アメリカやイギリス、中国などの国は、投降してきた日本軍に対して乱暴を働くようなことはありませんでした。ソ連だけが、ソ連軍と戦った日本将兵を「シベリア」や「東ヨーロッパ」などに送り「強制労働」に従事させました。これなどは、明確な「国際法違反」ですが、ソ連にはそんな常識は通用しませんでした。私の伯父は、千島列島「占守島」守備隊の戦車兵として終戦後に侵攻してきたソ連軍と戦い、北海道を守り抜きました。そして、「シベリア」に抑留された兵隊の一人です。復員は、終戦から3年後のことだったそうです。家では、だれもが戦死したものと考えていましたが、政府からの「公報」も届かず、心配していたそうです。そして、終戦3年目の夏、ボロボロの兵隊姿で帰って来ました。すると、厳格な父親が、息子を抱いて泣いたと言います。その伯父は、その後は農業に従事し、戦争については何も語らず亡くなりました。
戦後の日本復興のチャンスは、先に述べたアメリカ本国の「レッド・パージ」により、日本の「共産革命計画」が鈍化したこともありますが、昭和25年に起きた「朝鮮戦争」の勃発が大きな要因でもありました。これも、やはり起こるべくして起きた戦争です。戦前にアメリカのルーズベルト大統領が、だれに唆されたのかはわかりませんが、いち早く「ソ連」と「共産主義」を容認してしまったために、ヨーロッパでソ連がポーランドなどに行っていた侵略行為も有耶無耶にされ、「敵はドイツだ!」とばかりに、アメリカはソ連を「連合国軍」に組み入れました。そのため、アメリカは軍事的にソ連を支援し、ドイツを叩き潰したのです。しかし、そのことで感謝するようなソ連ではありませんでした。指導者の「スターリン」は、昭和20年2月に、米(ルーズベルト)英(チャーチル)とソ連領内の「ヤルタ」で会談を開き、戦後の「世界」を三人の首脳だけで決めてしまったのです。現在も続く紛争の種は、すべて、この三人の勝手な話し合いが原因です。後に、アメリカのブッシュ大統領は、この会談を「アメリカ最大の失敗」とルーズベルトを非難しています。そして、この二ヶ月後、ルーズベルトは、高血圧症が酷くなり執務中に昏倒し、そのまま亡くなりました。ヤルタ会談時には体調も悪く、何も話せない状態だったと言われています。そして、チャーチルは、両国に助けてもらった手前、何も言えず、会談はスターリンの独断場でした。アメリカもよくこんな国を支援したものです。後に判明することですが、スターリンは自分の政権を強固なものにするために、同志を次々と粛正し、国民を最前線に立たせてドイツ軍の侵攻を防いでいたのです。「共産主義」のイデオロギーを「己の野望」に使った典型的な男です。
結局、第二次世界大戦後、ソ連は平気でアメリカを裏切り、中国も「国共内戦」の末、「蔣介石」を台湾に追い払ってしまいました。そして、できたのが、「毛沢東」率いる中華人民共和国です。その中国も日中戦争時には、アメリカから膨大な支援を受け、日本が敗れると、今度は、さっさとアメリカを裏切りました。最初は、ソ連陣営につき、朝鮮戦争では「義勇兵」を北朝鮮に送りアメリカとの対決を宣言しました。そして、戦争を拡大していったのです。あれほど、中国に肩入れし、日本を叩き潰したアメリカでしたが、戦争が終わってみれば、あれほど大きな戦費を使い、数十万のアメリカ青年を犠牲にしながら「冷戦」というソ連との長い戦いを始めることになっただけでした。そして、中国への進出も阻まれ、アメリカが得た利益は何もなく、「資本家」たちの懐を潤しただけでした。これでは、死んでいったアメリカ兵が浮かばれません。やはり、アメリカも眼に見えない大きな力によって操られていたのです。それは、きっと「戦争によって莫大な利益を得た人間」に聞けばわかることだと思います。アメリカにしてみれば、世界侵略の野望に燃えた「ドイツ」を葬り、アジアの盟主になろうとした「日本」を叩き潰し、「原子爆弾」という世界がおののく新型爆弾の威力を見せつけたことで、「世界の覇者」になったつもりでいました。占領国軍最高司令官「マッカーサー元帥」が日本に乗り込んで来たときは、まさに、アメリカの絶頂期だったはずです。ところが、数年も経たないうちに「ソ連」が東ヨーロッパの国々を自分の衛星国としてしまい、アメリカと対立するまでに成長してしまったのです。
日本でも、占領国軍のGHQは、最初は、日本国内で「共産革命」でも起こさせて、二度と世界に刃向かえないような「弱小国」にするつもりでしたが、ソ連と中国の裏切りによって、計画が狂ってしまいました。マッカーサーも日本政府を自由に操り、自分が「日本の皇帝」になろうと企みましたが、朝鮮戦争の最高司令官に任じられると「話が違う…」と困惑してしまいました。そして、実際に戦争の指揮を執ってみると、ソ連・中国の支援を受けた「北朝鮮軍」が思いのほか強く、「国連軍」を名乗るアメリカ軍を窮地に追い込みました。遂には、アメリカ本国に「中国・北朝鮮国境に原爆を使用させてほしい」と懇願しましたが、アメリカ政府はこれを拒絶しました。結局、アメリカ軍は朝鮮半島で一進一退を続け、辛うじて「38度線」を死守するだけになりました。この戦争をとおしてマッカーサーは、「日本も今の自分と同じように、ソ連や中国との戦いに明け暮れ、共産主義拡大の防波堤になっていたんだ…」ということに気づいたのです。そして、「日本を潰してしまったために、その代わりを今度は、アメリカがやるのか…?」と唖然として言葉も出ませんでした。後に、マッカーサーは、アメリカ上院議院で引退のスピーチをしたとき、「日本は、侵略戦争を起こす気などなく、自存自衛のために戦っていただけだったのです…」と真実を語りました。しかし、それを取り上げる日本のマスコミは一社もなかったということです。
この「朝鮮戦争」は、幸か不幸か、日本に「特需」をもたらしました。日本のアメリカ軍基地からは次々と朝鮮半島に物資が運び込まれ、飛行機が連日飛び立って行きました。その「物資」をアメリカ軍の要請に応じて生産したのが、日本の各企業でした。これにより、日本は経済的に立ち直ることができたのです。そして、「日本には絶対に再軍備はさせない!」と言っていたGHQは、日本政府に「再軍備」を命じることになり、「警察予備隊」そして「保安隊」「自衛隊」と戦力を拡大した「防衛能力」を持たせることにしたのです。ただし、その前にGHQは、昭和21年に「日本国憲法」を作らせてしまっていたために、その「防衛力」を「戦力」と考えるのかどうかが、問題になってしまいました。これは、アメリカの「勇み足」でしかありません。そして、それが、その後の日本社会の大きな課題になっていることは、だれもが承知していることです。もし、日本国憲法が制定される前に「朝鮮戦争」が起きていれば、こんなどうしようもない「欠陥憲法」は、作らせなかったはずです。それでも、この憲法が「天皇の名」の下に公布されたことで、日本における「最高法規」として、80年後の今も改正されることなく日本人の行動を規制しています。特に「自衛隊」が形式上は「軍隊」のように見せても、実質は「警察」と同じような法律で規制されているため、現地の指揮官の判断で銃を撃つことさえできないのですから、「海外派遣」に赴く自衛官はどうやって身を守るのでしょうか。自衛官も立派な「国民」であり「主権者」なのですから、その身の安全を確保するために万全を期すのは、「国家」としての責務のはずです。
6 高度経済成長を成し遂げた日本
戦後の日本にとって、よかったことは、「軍事費」を計上しなくて済んだことです。警察予備隊や自衛隊はできましたが、戦前・戦中の「軍事費」を考えたら、その「額」は国家予算の中の僅かでしかありません。戦時中は税収の「8割」が軍事費だったという話もあり、そんなことが続けば、戦争に負けなくても、日本の「国家予算」は破綻していたはずです。たとえ、日本がアメリカと早々に「講和」をしたとしても、その後の国の立て直しには「敗戦後の復興」以上に大変だったことでしょう。膨れ上がった「軍隊」を縮小させるのも大仕事になります。焼け野原になった都市を復興するにも「金」は必要です。東京だけでも、とんでもない予算を必要としたはずです。そう考えると、軍隊が消滅したことで、国の経済が救われたことだけは確かです。そして、これまで軍隊に行くはずだった若者が、復興と経済発展のために働くことができたのです。その力は大きく、日本はみるみるうちに復興していきました。そして、その背景には、日本ならではの「技術力」が残されていたことが大きかったのです。私が知っているだけで、日本の戦後の産業として上げられるのは、「自動車産業」「鉄道」「石炭産業」「造船」「繊維産業」「金属加工」「精密機械」などが頭に浮かびます。「自動車産業」や「鉄道」が発達したのは、GHQの命令により、航空機の製造を禁止されたために、その技術者が自動車や鉄道に移ったことが要因です。
今も活躍している自動車企業「SUBARU」は、戦前から軍用飛行機を生産していた「中島飛行機」が発展した会社です。同じように「三菱」や「川崎」も重工業企業として健在です。また、日本の誇る鉄道車両の「新幹線」は、航空機技術者が設計しました。そして、車両の震動を抑える装置は、「零式艦上戦闘機」で使用した技術を転用したものなのです。また、「造船」は、世界最大の戦艦「大和」や「武蔵」などを設計した技術者が後に「大型タンカー」などを建造しました。このように、日本の戦前からの工業機械メーカーが、その技術を惜しみなく国の復興のために役立てたことが、日本に「奇跡」をもたらしたのです。こうした技術力は、さすがのGHQも止める手立てはなく、これまで「軍需産業」に向けていたエネルギーを「平和産業」へと転換できたことで、日本は瞬く間に世界の仲間入りを果たすことができました。そして、昭和32年には世界一の電波塔「東京タワー」が完成し、昭和39年の「新幹線の開通」・「東京オリンピックの開催」と続くのです。私も新幹線には、昭和39年に乗車しています。当時の「こだま号」でしたが、東京→豊橋間を「新幹線」に乗って旅をしました。東京駅では、コンパニオンの女性が、指定席の座席まで案内してくれたのを覚えています。あの敗戦から、僅か20年足らずで、こんな「夢のような世界」を味わうことができたのです。
最近ヒットした映画で「三丁目の夕日」という「昭和30年代」の東京下町を舞台にした作品がありました。漫画が原作の映画ですので、漫画も手に取ってもらえれば、昭和という時代がわかるのではないかと思います。映画にも描かれていますが、親世代はまさに「戦争世代」です。普段は明るく過ごしている大人たちも、ふとしたことがきっかけで、亡くなった戦友たちを思い出したり、空襲の夜を思い出したりします。子供たちも、いわゆる遊び盛りの「いたずら小僧」たちですが、そんな大人たちに反発しながらも、大人の苦労を見て育っています。「自分の夢」を追いかけながらも、周囲のことが気にかかり、みんなで何とかしようと頑張る姿からは、「昭和も悪くないなあ…」と思わせる映画でした。当時は、「戦友会」という親睦団体も数多くあり、年に一度、靖国神社などに集まって旧交を温めるグループがありました。今も「靖国神社」に行くと、境内の中に戦友会の名札のかかった「記念樹」をあちこちに見ることができます。やっとの思いで「生き残った」人たちにしかわからない「現実」があるのだと思います。今は、何処にでもいる「街のおやじ」たちが、10数年前は、「軍服を着た兵隊」として銃を持って戦っているのです。漫画では、お盆のころになると、亡くなった戦友が夢の中に現れ、昔を懐かしむ場面などが描かれていますが、戦場でのシーンは怖ろしく、だれもが必死の形相で銃を握って戦っています。そして、夢から覚めると、今の「平和」な日常の中にいる自分に気づいてほっとするのです。このギャップは、実際を経験した者しかわからない感情だと思います。私たちが中学生だった昭和40年代後半は、学校の教師にも「戦場帰り」の人が多く存在し、ときどき、昔話をしてくれました。当時は、今と違って「管理教育」の時代ですから、校則も厳しく、教師は「怖ろしい存在」でした。それでも、そんな先生が語る「戦争の話」は、真実だけに胸に迫るものがありました。ある教師は「中国戦線での戦い」について語り、ある教師は「船が撃沈されて海で泳いだ」話を語ってくれました。これは、「平和教育」というより、「戦争体験」を生徒に伝えたかったのかも知れません。しみじみと語る先生は、敢えて感情を出すまいと堪えているように見えました。普段は「おっかない先生」も、辛い体験をした一人の人間だったのです。
7 昭和(戦後)の子供たち
今の人は、いったい、「学校」に何を望むのでしょうか。「勉強」「生活習慣」「仲間作り」「道徳」…など、子供に期待することはたくさんあると思います。しかし、教育は、学校だけで行うものではありません。社会も家庭も、いや、むしろ「国全体」で考える「最重要課題」だと思います。そんなことを言うと「そんな、大袈裟なあ…?」と笑われそうですが、「教育」によって、人の人生が大きく変わることは十分考えられます。学校に教育を「依存」しているようでは、日本の子供たちの未来が心配になります。私たちが過ごした「昭和中期」の学校は、今から見れば「とんでもない」ことの連発ですが、だからと言って、私たち世代が今の子供より劣っているとは思いません。そして、その「とんでもない教育」でも、ちゃんと大人になって社会に尽くしましたから、教育としては、「とんでもなく」ても、「不合格」ではないと思います。今の時代の教育を受けた人たちは、これから、さぞや立派な社会を築いてくれるものと信じて止みません。私たちの時代、大人たちが学校に望んだことは、そんなに難しいことではなくて、「先生、うちの子を鍛えてやってくださいよ。こいつは、甘っちょろいんですよ。悪いことをしたら、遠慮なく殴ってください…」で、お終いです。面倒臭いことをゴチャゴチャ言う人は嫌われました。よくおやじたちは「だから、インテリは好かん!」って言っていました。
したがって、昭和(戦後)の大人たちは、「学校は、心身を鍛える場所」という認識が一番強かったように思います。それは、その当時の大人や教える教師が、戦前生まれの人が多かったせいでもあります。たとえば、「昭和元年」生まれの人が、まだ40代後半ですから、教師の中には「大正生まれ」の人もいました。戦後生まれの教師は、まだまだ「若手」で、それでも、今のように子供目線で話すこともなく、教室には「教壇」があった時代です。教師は常に「上から」見下ろす形で子供を教えたのです。このころは、大人に権威があった時代ですから、「子供は、大人の言うことを聞くもんだ!」が常識でした。だからと言って、子供は大人に洗脳されていたわけではありません。小さいながらもしっかりとした「批判の眼」は持っていました。仲間内では、大人の粗を探しては、ボソボソと呟いていましたし、学校の先生の「値踏み」もしっかりとしていました。「子供に聞かせたくない話」も当然知っていましたが、だからと言って、大人に失望したわけでもなく、(まあ、大人って言ったって、陰じゃ、何をしているやら…)なんて、生意気な口を利いていたものです。たまに、若い女性の先生にちょっかいを出す生徒がいると、後から数人の男性教師がやって来て、相当に「やられ」ましたから、教師に反抗するような「豪の者」はいませんでした。
このころの子供は、一人遊びをしている者は少なく、大抵は年齢差を超えた「子供社会」がありました。さすがに、小学校6年生以上は「大人扱い」だったので、それまでは、高学年の子が小さい子供まで引き連れて遊んでくれました。「鬼ごっこ」「陣取り」「秘密基地造り」「木登り」「探検ごっご」など、遊びは、上の子が決めるので、小さい者は従う子分のようなものでした。そのうち、「コマ回し」「メンコ」「ビー玉」など、小道具を使った遊びが主流になり、「取った、取られた」のヤクザな世界が子供にもあったのです。温かくなると、「ザリガニ釣り」「ドジョウ掴み」「かえる釣り」などもして遊んでいました。自然相手の遊びは、ズボンや服は汚れますが、元々、古着なので大して気にもせず、汚れれば汚れたで家に帰ってから、水で濯いで干せば終わりです。そんな「子供の世界」には、親や教師は介入しないもので、けがさえしなければ、「ああ、気をつけて遊べよ!」と言われるだけで、特に注意されたこともありませんでした。ただ、小さい子供にけがなどをさせると、親から叱られましたが、今のように相手の親が出てきて文句を言うことなどありません。そんなものは「お互い様」なのです。小遣いは、大体「10円」が相場で、たまにお年玉が入ると「50円玉」を持って行き、菓子やアイスを食べました。駄菓子屋のばあちゃんは、よく見ていて「今日は、10円までにしておけ!」と注意され、楽しみの「クジ」も何回も引くことはできませんでした。この時代は「お客様は神様」なんかじゃないのです。
学校では、ふざけていると先生からよく叱られ、「ビンタ」「げんこつ」「廊下に立たされる」「居残り掃除」「便所掃除」などの「罰」は日常茶飯で、家に帰って「先生に殴られた…」などと泣き言を言うと「おまえ、何やったんだ!?」と問い詰められ、さらに親から殴られることになりますので、だれもそんな話はしません。今の時代のように、親が学校に苦情を言うなんてことは、恥ずかしくてできなかったはずです。親にとっても、「学校」は敷居が高く、学校に行くときは「正装」が当たり前で、普段着のジャージで校門を潜る現代とは大違いです。先生が来れば、親から先に挨拶し「子供がいつもお世話になっております…」と深々と頭を下げました。それが、マナーというものなのです。今は、教師の方から先に親に頭を下げるのでしょう。「教師は、サービス業です」と言ったのは、文部科学省の偉い人だそうですから、今では親が偉そうにしています。だから、子供も教師より「偉い」のです。今の文部科学省には、偉い国民の皆様から「苦情電話」が四六時中かかってくるそうです。今の国民は偉いので、「おまえなんかじゃ、話にならん!大臣を呼べ、総理を呼べ!」なんて騒ぐ人もいるのでしょう。やはり「国民は、国の主権者様」ですから、どの役所も国民の皆様には「平身低頭」が基本のようです。
昭和のころの中学生は、全国どこに行っても「同じ」に見えたはずです。まず、中学生になると「制服」を着ます。今でもありますが、黒に金釦の詰め襟服が「標準服」と呼ばれていました。これは、昔の陸軍や海軍の軍服を模したもので、昭和初期の中学生も似たような服を着ていましたので、戦前も戦後も変わりません。おそらく、GHQも、さすがにそんなことまで気を回す余裕がなかったのでしょう。「軍隊」はなくなったのに、制服だけは中学校と高等学校に残されました。すると、今度は、頭髪も自由ではなく「丸刈り」が主流でした。最近は、高校野球でも「丸刈り」は、あまり見掛けません。制服の下には「白のカッターシャツ」がきまりで、当時は「私服」という物自体を持っていなかったと思います。この制服は便利で、冠婚葬祭等、何にでもこれ一着で済む便利なものでした。たとえば、休日なども「出かける時は、制服を着用すること」と注意され、友だちと飲食店に入ることも許されませんでした。もちろん、その「飲食店」は、街中にしかありませんでしたから、入る必要もありませんでしたが…。女子も髪は「三つ編みのおさげ」で、いわゆる「セーラー服」が標準服でした。これも、海軍の「水兵服」を真似た物です。スカートの丈も決められていて、校門で長さをチェックする先生もいて、学校に登校するだけで緊張を強いられました。子供にとって学校は、本当に「怖い場所」だったのです。
昭和も後期になると、教師もだんだん優しくなり、体罰も少なくなってきました。そうなると、やんちゃな生徒が、学校を荒らし回るような「荒れの時代」を迎えました。この時代は、警察官が学校内に入るのを極度に嫌い、「教育の場に、警察を入れるとは、教育を放棄するのか!?」と騒ぐ教師もいて、収集がつかなくなっても、自分たちの思想に拘るのです。しかし、学校のガラスは割るし、教師に対して暴力は振るうし、酷いいじめはするし…で、荒れた生徒を抑えるのは、それは大変なことでした。校舎内を自転車が走ったこともありました。これらすべてが、マスコミによれば「全部、学校が悪い!」ですから、たまったものではありません。余程、昔、教師に殴られたことを根に持っている人が多かったのでしょう。「自分のことを棚に上げる」とは、よく言ったものです。こんな「荒れ」は、平成のころもたくさんあったように記憶しています。思春期と言うのは、やはり、エネルギーが有り余っているのでしょう。しかし、令和になってからは、そんな「荒れ」は聞きませんので、あの子たちの「エネルギー」は、いったい何処に行ってしまったのでしょう。これまでの「管理教育」が批判され始めたのは、昭和の後期になってからのことでした。確かに、「行き過ぎ」の部分はありましたが、子供たちを学校がコントロールしてくれるお陰で、大人は「24時間働く」ことができたのです。そして、教師も「24時間」働かされました。これは、いい、悪い…ではなく、「現実」なのです。日本の「高度経済成長」と言うのは、こうした「超法規的労働」に支えられていたことを覚えておいてほしいと思います。
8 「昭和」の終わり
戦後、日本が「高度経済成長」をしたのには、いくつかの幸運と確かな日本人の「技術力」そして、「勤勉さ」がありました。日本人は、「興味の対象」ができると、多少の危険を冒してもそれを知ろうと挑戦する「進取性」があります。簡単に言えば「野次馬根性」とでも言うのか、「何なに…、どれどれ…」とやたら首を突っ込む習性です。そのために、新しい発見があるとそれを即座に受け入れ、自分なりに解釈しようとするのです。そのため、幕末の「黒船来航」に際しても、最初は驚きましたが、次には興味が膨らみ「俺にもできるんじゃないのか…?」と、試してみようとするのです。それが、結果として「模倣」となるのですが、日本人は単に真似るのではなく、それ以上の物に作り替える「創造力」と「技術力」が備わっていました。戦後、日本が高度経済成長したのには、「微かに残った戦前の技術力と創造力」があったことを忘れてはなりません。そこに、「朝鮮戦争」や「冷戦」という幸運が重なりました。この二つの戦争によって、自信満々で傲慢だった「アメリカ」が、急に狼狽えだし「日本改造計画」を断念したのです。そのため、しばらくの間、日本が経済発展することを容認していました。そして、日本をさらに「アメリカ側」から離さぬよう、強固な「日米同盟」を結んだのです。しかし、日本がアメリカを凌駕するような「経済大国」にのし上がると、アメリカも牙を剝き、日本を追い詰めて行くのです。
昭和の終わりころになると、日本では「不動産投機」が盛んに行われ、土地の値段が急激に上昇していきました。これが、「バブル景気」の始まりでした。日本は国土が狭く、その上「平地」が少ないのが特徴です。そのため、昔から権力者は「領地を拡大することが、富を生む」と考えたのです。そして、その神話は現代になっても変わらず、人々は「土地」を欲しがりました。それも「都会の…」「駅に近い…」「広く…」といった願望は、だれも止められませんでした。そうなると、次に値上がりしそうな土地は、人々の「投機」の対象になったのです。そして、たった一坪が数千万円という高値をつける場所も現れると、今度は、田舎のどんな土地でも「いずれ、値上がりして儲かる話」となり、その勢いは止まりませんでした。人が狂ったように「土地投機」に走る姿は、今から見れば「異常」としか言いようがありませんでした。そして、日本経済は、実態がよくわからないまま上昇していったのです。銀行も気前よく「融資」をするので、だれもが気軽にローンを組み、常に「昇給する」ことを前提に土地を買い、家を建て、車を購入しました。まさに、戦後、夢に見たことが現実となったのです。ところが、その「景気」が、平成の時代と共に「あっ…」と言う間に弾け、土地の値段は鈍化し、それから急速に値下がりを始めました。人々に残されたのは、多額の「借金(ローン)」ばかりでした。これは、当時は「大蔵省(今の財務省)」の政策だったと言われていましたが、実際は、アメリカ政府が日本政府に命令して「バブルを弾けさせた戦略」だと言われています。こうして、日本の高度経済成長は終焉を迎え、日本経済は、長く続く「停滞期」そして「下降期」を迎えたのです。
バブル期は、何処も資金が潤沢にあったせいか、若者たちが毎日「浮かれ、踊り、消費」することが美徳であるかのようにお金を使いまくりました。だれの財布のヒモは緩み、デパートも毎日大盛況です。今は、だれも持ち歩かない有名ブランドのバッグや靴、洋服、貴金属が飛ぶように売れ、日本の女性は海外にまで出かけては、ブランド品を「買い漁り」ました。10年ほど前の日本人といえば、海外に出ても集団で歩き、「スーツに眼鏡、首からカメラ」という出で立ちで、通訳がなくては、日常会話もできませんでした。まさに「内弁慶」の特徴です。それが、最新ファッションに身を包み、颯爽と闊歩しながらハワイやニューヨーク、パリなどに現れると、あの「大和撫子」と謳われた「日本女性」なのですから、外国人もさぞや驚いたことでしょう。これが「バブル」なのです。しかし、バブルが弾けると、そうした派手派手しい若者もいなくなり「証券会社」や「大手銀行」の倒産のニュースが流れるようになりました。「山一証券」では、当時の社長が涙ながらに記者会見を行い「社員は悪くありませんから、悪いのは私たちですから…」と大泣きして話していたことが印象に残っています。証券会社や銀行は、「取りっぱぐれがないだろう…」と、どんどんと融資をしたために大失敗をしてしまったのです。これも、今の教訓になっています。そのため、現在は「担保」をしっかりとる堅い経営になっているようです。
そして、最後に「昭和天皇薨去」のニュースが流れ、長かった「昭和」という時代が終わりました。人間の寿命は、せいぜい100年足らずです。数十年前は「70年」で、100年前は「60年程度」ではなかったかと思います。まして、戦争が続いた時代は、寿命を全う出来る人の方が少なく、直接、戦争で亡くならなくても、栄養失調や重労働、病で亡くなる人も多かったはずです。ただでさえ医薬品が少ない中で、病気になれば、死を覚悟する時代だったのです。そんな「短い人生」の中でしか、その時代を語ることができません。それでも、歴史を見ていると、その「瞬間」にも人は生き、必死に足掻いてることがわかります。大正時代に「自由の空気」を味わった人たちが、戦争の時代になり「自分の命を国に捧げるのが当然」という空気の中で生きていく辛さは、味わったことがない人にはわからないでしょう。私たちのように、戦後の「高度経済成長期」の初期に産まれ、国の発展とともに生きてきた人間は、学校で相当に「鍛えられ」ました。教育とは、そういうものだと思っていたのです。それでも、曲がることなくまっとうな人生を歩んできました。確かに、大人や教師は理不尽でしたが、けっして「愛情がない」人たちだったわけではありません。
中学校以降は、「偏差値教育」の真っ只中で、「高偏差値=優秀=立派な人」であるかのような錯覚の中で青年期を過ごし、「高学歴=幸福の道」だと信じていた時代に、社会の第一線で働きました。しかし、バブルが弾け、コンピュータ時代に入り、「IT」から「AI」の時代になると、「実力がものを言う時代」になったことがわかるようになりました。昭和のころなら、「そんな測れない実力なんて、だれもわからないじゃないか?」と相手にもされなかったでしょう。そして「個性」のある人間は嫌われ、「協調性がない」などと非難され「出る杭は打たれる」の例えどおり、「没個性」であろうとしたのです。しかし、現代は、真逆の価値観の中で社会は推移しています。「学歴だけで、実力のない者は去れ!」「もっと、自分らしさを前面に出せ!」「おまえの個性は、おまえだけの特性だ!」と言われるまでになりました。大リーグで大活躍を続ける「大谷翔平選手」が、昭和のころなら、「我が儘を言うな!」「二刀流なんて、できるわけないじゃないか!」「大人の言うことを聞け!」と怒鳴られ、いじめられ、球界から追い出されていたことでしょう。それが、今や、世界のだれもが賞賛するビッグネームの一人となりました。これが、「令和」なのです。
今年は、「昭和100年」だそうですが、日本の歴史から見れば、「100年」くらいは、左程の長さではありません。しかし、現代は「5年」を経てば、もう古くなる時代です。そんな時代の速さについて行けず、ただ、ウロウロと社会の隅にしがみついているだけの余生ですが、生きている限り、その「時代」をゆっくり眺めていこうと思います。ただ、「今の時代が、昭和のころと比べて優れているか…?」と問われれば、はっきりと「いいえ!」と断言できます。平和な時代が続くと、「頭がよい」と自負している人たちは、必ず「理想論」や「べき論」を唱えます。昔の頭のいい人は、「共産主義」に靡きました。なぜなら、「理想主義」だからです。そして、現実は、「ソ連の崩壊」や「中国・北朝鮮の現状」を見れば答えは出ています。「令和」という時代は、一見、「だれにも優しい国」を作ったように見せて、「だれにも冷たい国」を作ったような気がします。個人が「嫌だなあ…」と思うことを排除し続けた結果、国民はバラバラになってしまいました。家族もバラバラなら、家族を作る必要もありません。そうなれば、「少子化」が進んで当然です。「昭和」は、煩わしいこともたくさんありましたが、狭い家でワイワイ騒ぎながら大勢で食事をする風景がありました。「おかずを取った、取られた…」と騒ぎながら、育ったのです。「一人ご飯」ばかりで過ごしていると、そんな時代が懐かしく思えるものです。なかなか、「いい塩梅」にするのは、難しいものなのでしょう。
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