最近は、連日「米」の話題で持ちきりになっています。「令和の米騒動」と言われるように、このところの米価の急激な上昇は異常というべきものでしょう。しかし、これまで「米価」が、低く抑えられ過ぎていたことは事実です。これまでは、30㎏の米が「8000円」程度で売られており、不作だと言われた年でも「12000円」が限界でした。この「米」は、いわゆる「銘柄米」ではありませんが、けっして「古米」と言われるものではありません。普通、お茶碗一杯の米が「150g」と言われていますから、30㎏の米を買うと「200杯」のご飯になります。「8000÷200=40」ですから、一杯「40円」でご飯が食べられます。食べ盛りの子供でも「2回お替わり」したとして「40×3=120」ですから、如何に米価が安かったかがわかります。これが、最近では、30㎏で「30000円」の値がつきますので、これまでの「6倍」に跳ね上がりました。そうすると、ご飯1杯が「40×6=240」になります。先ほどの食べ盛りの子供だと、「240×3=720」となり、これでは、おかず代が出ません。つまり、「そんなには、食べさせられない」ことになります。こうなると、日本人の「主食」としての問題が浮上してきて当然です。つまり、「米は、主食として相応しくない」という認識ができてしまうと、米の消費率が低下し「米離れ」が加速化するようになるのです。
今回の一連の事件は、日本人に「米とは何か?」という問題を突きつける結果になりました。「高くて儲けられる」のは、ほんの一時期のことです。消費者はばかではありません。そのときは、慌てて米を買おうと走りますが、少し落ち着けば、自分たちが、「ばかにされていた…」ことに気づきます。その怒りは、間違いなく国民を「ばかにしていた人たち」に向けられ、強烈なしっぺ返しが待っているものです。それが、「米離れ」につながらなければいいのですが、こんな状態が続けば、どうなるでしょう…。それに、この騒動の顛末を眺めている各企業は、そこに「新商品発売のチャンスが生まれて来る…」と考えているはずです。もし、「米に替わる新商品」が登場すれば、国民の多くは一気にそちらに向かうかも知れません。今は、「加工技術」も優れていますので、どんな商品でも製造は可能です。たとえば、「安くて美味しいパックご飯」とか、「どんな米も美味しく炊ける炊飯器」とか、「お米以上に美味しいパン」など、今ある商品をさらにグレードアップして売り出し、どんどん店頭に並べれば、「米」の購入で煮え湯を飲まされた国民は、どう動くでしょう。そうした商品なら、「国産米」に拘る必要もなくなり、大量の「外国産米」や「小麦」が国内に入ることになります。既に担当大臣が、そうした発言をしています。「国産米」も、いよいよ「市場原理」の中で外国との競争に勝たなければならなくなりました。そうなると、やはり米の「適正価格」という問題が出てきます。一度、「ばかにされた恨み」を解消するには、だれもが「納得する」形を示さなければなりません。さて、今回の騒動の原因を作った人たちは、それができるのでしょうか。
消費者感覚でいえば、ご飯一杯「40円」は安いにしても、コンビニの「おにぎり」を見てもわかるように、「海苔付き、具材付」で「200円」なら、昼食として買うでしょう。それなら、「海苔なし、具材なし」の「塩むすび」なら、「100円」でどうでしょう。消費者感覚からすれば、「それなら、買う!」という選択ができます。これを各家庭で考えると、「一杯80円」なら、適正なのではないでしょうか。そうなると、米価は「30㎏=16000円」「5㎏」だと、「2600円程度」という数字が見えて来ます。つまり、今の米価の半値がいいところなんだと思います。今や、米は、日本人にとって「聖域」ではなくなりました。もし、「聖域」のままにしておきたければ、政府は、今回の米騒動が起こるや否や、早急に市場に介入して米価の抑制に当たるべきでした。それを「市場経済の論理」に任せたことで、米価は著しく高騰し、今回の騒動を引き起こしたのです。つまり、政府自体が「米の聖域化を止めた」と宣言したようなものなのです。そこで、いい機会ですので、「日本人にとっての米とは何なのか…?」という問題を考えてみたいと思います。
1 「豊葦原の瑞穂の国」神話
昔、「我が国は神の国であるぞ…」と発言してマスコミに叩かれた総理大臣がいましたが、私は、あながち間違った発言だとは思いません。マスコミは、余程「左翼主義」に毒されているのか、それとも「GHQ」の洗脳が解けないのか、はたまた、「リベラル」の方が会社の経営にとって都合がいいのかわかりませんが、政治家が、ちょっとでも自分たちの思想とは違う発言をすると、これ見よがしに叩くのを常としています。喜ぶのは中国や韓国などの一部の政治家たちなのですが、日本の政治家の失言を殊更に取り上げ、報道することを「よし」とするマスコミ各社の姿勢に国民の多くは辟易としています。しかし、日本の歴史を紐解けば、当然ながら「天照大御神」「日本武尊」「天孫降臨」などの神話が登場してきます。もちろん、これが、当時の施政者による「創作」であることは、わかっています。しかし、それを否定して、だれが喜ぶと言うのでしょう。何処の国でも「建国の歴史」はあり、最近できた国はともかく、古代から連綿とつながってきた国は、そうした「神話」があるものです。その「神話」があることで、国家としての「尊厳」が保てるとしたら、何もムキになって否定しなくてもいいでしょう。それに、現代の感覚で神話を「否定」しても「歴史」はつながりません。国民感情からすれば、「日本は神の国」でいいのですが、それを政治利用の形で時の権力者が言うと、何となく「生臭く」感じるものだと言うことです。
神話によれば、高天原の「アマテラス」が、孫の「二ニギ」に命じて「地上界を治める」ために、数本の「稲穂」を持たせたということです。そして、地上界を「瑞穂の国」としました。それを由来として、神事には必ず「新米」が使われます。そして、その米から造られる「酒」は、「御神酒」と呼ばれ、やはり神聖な飲み物となっています。こうしたお国柄の日本で「米」以外の穀物が主食になることは、まず、あり得ません。米は、単なる「食糧」ではなく、日本人が生きるための「糧」であり、それを食することで、神と一体化することができると考えられているからです。こんな神話を聞くと、今のリベラルな人は「何を非科学的なことを言っているんだ…?」「そんなのは迷信じゃないか!!」と憤慨して相手を責めることでしょう。そして、「だから、おまえはダメなんだ!」と罵り、相手が「神話なんだから…」と説明しても聞く耳を持たないでしょう。彼らは、自分の信じる「思想」のみが絶対であり、それ以外のものは「邪教」なのです。しかし、多くのノーマルな国民は、「まあ、そういう風に思う人もいるよね…」と寛大に受け止めているはずです。なぜなら、日本の神社の神主さんは、お祭りなどの祭事では、そうした説話をするものだからです。要するに、賢い日本人は、科学を信用しながらも、「神話」や「伝説」などの「非科学的」なことも受け入れる素養があるのです。もし、すべてが「科学の証明」が必要だとなれば、生活に潤いがなくなり、日本人の大好きな「占い」もできなくなります。今でも若者は、神社や仏閣を「パワースポット」と呼んで、観光地化していますし、ヒットした映画やテレビドラマのロケ地を「聖地」と呼んで、巡る旅が流行っています。そんな若者を「非科学的」と言ってばかにしたりしません。逆に微笑ましい光景だと思います。それに、いつも「科学、科学…」と言って、相手を論破するような人は相手にしたくないし、だれもが「勘弁して…」と言いたくなるはずです。したがって、日本は永遠に「豊葦原の瑞穂の国」でいいのです。
2 「米」は、品種や銘柄ばかりではない
報道を見ていると、「古米」とか「古古米」だとかで騒いでいますが、本当に米のことがわかっているのでしょうか。確かに、同じ環境条件であれば、「新米」が「古米」に比べて美味しいことはわかります。それでは、「新米」とは、いつまでのものを言うのでしょう。たとえば、昨年の8月に収穫された米は、今年の夏までは「新米」でしょうか。味は、本当に昨年のままが保障されているのでしょうか。正直に言えば、新米が新米として美味しいのは、収穫から、その「年の内」までだと言われています。米は、秋に収穫される穀物ですから、普通に保存しても冬の寒冷期に入りますから、品質は左程落ちません。しかし、次第に乾燥していきますので、水分を多く含んだ「秋の米」のようなわけにはいかないのです。そして、「風味(米の香り)」も少しずつ落ちてきますので、精米をして、そのまま台所の隅に置いておけば、3ヶ月もすれば、「特段旨い米」ではなくなるものです。本当に旨い米を長く食べたければ、「玄米」のまま「冷温保存」をして、その都度「精米」して食べることです。まあ、普通は、そんな保存はできませんので、なるべく米は玄米で購入し、近くにある「精米スタンド」で10㎏ずつ精米して食べるのがベターでしょう。できれば、自宅にコンパクトな「精米器」を買っておき、少し古くなった米は、一度、精米器にかけると米粒の表面の「酸化」した部分が取れるので、美味しく食べることができます。
そして、夏場を迎える時期は、できるだけ「冷蔵庫」に保管しておくことです。夏場に通常保存しておくと、たとえ玄米であっても「虫」が湧きます。米粒の間に卵を産み付け、そのうち成虫になって飛び回るようになると、どんな高級な銘柄米でも食べる気が失せてしまいます。米が酸化すると、炊いたときに嫌な臭いが鼻につきます。そして、食感も悪く、米本来の甘味もなくなってしまうのです。そんな米、いくら「古米」でなくても、御免被りたいと思います。それでも、一年の間は「新米」と言うのでしょうか。この米は、もちろん、しっかり水洗いをして虫を取り除けば、一応「ご飯」として食べられます。ただ、保管が不十分なことを棚に上げて「買った米がまずい!」と言うのはやめて下さい。「米」は、生鮮食品と同じ生ものなのですから、冷蔵庫保管は当然です。酸化した米は、わかった上で言えば、「しかたない…」という味です。せめて、精米器にかけて酸化した表面を削れば、まだ、美味しく食べられますが、とにかく、「虫が湧く」のは、見た目にもよくありませんし、衛生的にも勘弁してほしいものです。噂では、「唐辛子がいい…」と言われていますが、それも限度があります。要は、「保存方法」にあるのであって、どんな銘柄でも、ブレンド米でも、古古米でも、保存方法がよければ、美味しく食べられるのが「日本のお米」なのです。そもそも、神様に捧げる「米」を粗末にして、虫を湧かせるだけでも、日本人として恥ずかしいことだと思います。
私の田舎の多くの農家では、米は倉庫(蔵)にしまってありますが、その蔵は栃木県の「大谷石」でできており、真夏でも中はひんやりとしており、温度は年中一定なのだそうです。大谷石は、軽石に近く、石なのに通気性があります。雨でも降って石に当たれば、適度な湿気を含み、石は自然と冷たくなります。触ってみると、夏場でも「おっ…」と、手を離すくらいひんやりとしていて気持ちがいいものです。大谷石そのものは、加工もしやすく、「米蔵」には最適なのでしょう。ここなら、適度な湿気もありますので、冷蔵庫にしまうよりも、もっと「新米状態」が長続きすると思います。蔵の中では、虫などを見たこともありませんでした。そして、天井は高く、床は「土」のままですから、そこにいるだけで自然のクーラーを味わえるのです。やはり、農家の人は、昔から工夫をして「米」を大事にしてきたことがわかります。その蔵には、翌年撒く「種籾」も大事に保管してありました。私たちは、「米」というと、すぐに「食べる」方にばかり気が行きますが、農家にしてみれば、食べることより「作る」ことの方が大事ですので、「種籾」は、貴重なものなのです。そういう意味でも「大谷石蔵」は、米には最適な居場所なのでしょう。最近では、倉庫自体を「冷温庫」にして、温度管理をしている所もあるようです。政府の「備蓄米」は、「冷温管理」だと言うことですから、家庭の台所に放置されている米袋とは、保存方法が違い過ぎます。本来、「備蓄米」というものは、災害等で米の供給ができない場合に備えて保管されているものですから、今回のような提供方法は例外なのでしょう。それでも、実態がわかってよかったと思います。
3 「米」は気候や自然環境、土壌で決まる
よく世間では、「新潟の米は旨い…」とか、「最近は、北海道米も旨い…」などと評論しますが、確かに気候の問題がありますので、そう言った「地域」を限定するのは意味があります。昔から「名酒が生まれるところの米は旨い」に決まっているからです。「酒造り」には、「良質の米」と「豊かな水」が必要とされていますが、良質の米を作るには、「良質の水田」が必要になります。日本は、世界でも有数の「水の国」ですから、私たちの飲料水も比較的安価な料金で「水道」が敷かれています。富士山の周辺には、「精密機械」の工場がたくさんあるのは、精密機械には、きれいな水を大量に使うからなのだそうです。富士山の伏流水は、途切れることなく滾々と湧いて来ます。これまでに何度か「忍野八海」に行ったことがありますが、いつでも「冷たくてきれいな水」が湧き出ているので、観光の外国人が眼を見開いて驚いていました。その水は、単にきれいなだけでなく「美味しい水」なのです。原因は、富士山に積もった雪が、春に溶けて地下水となり、川に流れ込むからだそうです。そんな地下から「ボコボコ…」と水が湧いている姿は、少し不思議な気がしますが、それも、日本人が得られる貴重な「資源」なのですから、大切にしたいと思います。
それと同じように、「米どころ」の周囲は、高い山に囲まれており、その雪解け水が地下水となり、水田を潤すのです。そんな水が、美味しくないわけがありません。その水も涸れることなく、自由に使えますので、日本の米は美味しくできるのです。これを私たちは、「当たり前」と思うのではなく、「感謝」の気持ちを持って「ご飯」をいただきたいと思います。さて、私は、福島の生まれですので、生まれた時から周囲は「水田」でした。春には、村中総出で「田植え」が始まり、両親は、水の管理、草取り、稲の病気、天候、台風…と、休む暇もなく、田んぼに入っては稲穂一本一本をチェックし、「美味しい米ができますように…」と祈っていました。私は子供でしたので、その裏の苦労は何も知りません。耕運機で田を耕す姿は見ていますが、それは、大人が働く姿として見ていただけで、その心までは推し量ることはできませんでした。それに、私自身が農業とは無縁の職業を選びましたので、実際の苦労を知っているわけではありません。それでも、秋になると収穫前によく「蝗取り」をしたことは覚えています。まさか、稲の「害虫」だとは思わず、「後で美味しい佃煮になる虫」だと思って、夢中で袋いっぱいになるまで蝗取りをしました。当時は、農薬もあまり使わなかったので、「蝗」がたくさん発生したのでしょう。因みに「蝗の佃煮」は、甘辛く煮るので、乾燥させた後は、ずっと「子供のおやつ」として食べていました。私の骨が丈夫だったのも、蝗のお陰かも知れません。
秋になると「黄金の稲穂」が村全体を覆うようになります。緑色の穂が少しずつ色づき、秋が深まるころに「黄金色」に染まるのです。その美しさと言ったら、まるで「黄金郷」に居るかのような錯覚に襲われます。それが、風が吹くと、稲穂が一斉に靡くのですから、まさに「金色の絨毯」です。こればかりは、実際に見た人でなければ、その美しさはわからないでしょう。マルコポーロが、日本を「黄金の国」と書いたのは、こうした風景を見た中国人(若しくは日本人)の話を聞いたのではないでしょうか。ある作家は、「平泉の金色堂を見たのではないか…?」と何かで書いていましたが、そんなものより「黄金色の稲穂の波」の方が、ずっと「黄金の国」に相応しいと思います。そして、数日後には、その稲穂が刈り取られ「米」になっていくのです。その収穫された「福島の米」は、粒も大きく、炊いたときもしっかりと粒が立ち、甘くて香りのいい「ご飯」になります。この「ご飯」が食べられるのは、本当に幸せなことです。私の家では、そのために、高い「電気釜」を買いました。「土鍋で炊くと旨い」という人もいますが、あれは「水加減」が難しく、なかなか、一回で旨い飯が炊けるものではありません。それに、最近の「電気釜」は、「〇〇炊き」というネーミングにまで凝っていて、テレビCMでもよく放映されています。だいたい、「電気釜」にこんなに力を入れている国は、おそらく、日本が一番だろうと思います。それだけ、日本人の「米」への拘りは、半端ではない証拠でもあります。
今の日本の「米」は、江戸時代や明治時代に作られていたような「米」ではありません。日本の農業技術者は、常に新しい「米」を探して「品種改良」に取り組んできました。まして、江戸や明治のころの気候と今では、まったく違っているのです。最近は、「夏」がやたら長く、秋と春は何処に行ってしまったのか…と思うくらい、さっさと過ぎて行きます。夏が過ぎるとさわやかな秋風が吹くものですが、ここ10年くらいは、秋になっても「むっ」とした温い風が吹き、夏物の半袖が箪笥に仕舞えないまま11月を迎える始末です。まさに、今の秋は「夏の延長上」にあります。こうした気候だと昔のような米は作れません。江戸時代に、気候変動で「飢饉」が何度も起きたのは、米の力が弱く、気候変動に対応できなかったからです。そこで、明治以降、何度も何度も品種改良を重ね、「夏の暑さにも強く、冬の寒さにも強い…」といった品種の研究が進みました。このあたりのしつこさも、日本人らしい「探究心」の為せる業です。そのため、全国には多くの「銘柄米」が誕生するようになりました。そして、昔であれば、「米は東北・北陸地方が一番!」と言われていたものが、今では、「北海道産が一番旨い!」とまで言われるようになりました。それに、いくら機械化がされたと言っても、日本の稲作は、昔のような丁寧な方法で作られています。先日、アメリカの稲作をテレビで見ましたが、広大な土地に水を張った水田に飛行機で種を撒き、肥料を撒き、一気に作業を進めていくのです。言葉は悪いのですが、「ガーッ!」という勢いで作られていました。刈り取り作業も大きなコンバインで「ガシャン、ガシャン…!」という感じで進んで行きます。「苗」を育てて、「等間隔で苗の束を植えていく」といった手法は採らないようです。「さすが、アメリカの農業はダイナミックだな…」と感心しましたが、正直「これで、旨い米は作れるのかな?」と感じたことも事実です。
日本の稲作は、機械化されたとはいえ「夏も近づく八十八夜…」と歌われたように、たくさんの手間をかけて作られます。「米」という漢字にもそれは表されています。それに、日本は台風の通過も多く「背の高い稲」より、「背が低く幹の太い稲」が求められるようになりました。さらに、食感も「サラッ」とした米より「ネットリ」した米が好まれます。やはり、「おにぎり文化」がありますので、米粒同士がくっつく粘り気のある品種が日本人は好きなのです。農家にしてみても、「日本政府は、主食の米を特別扱いしてくれる」と思うからこそ、多少、採算が取れなくても、稲作を放棄しようとはしません。それに、政府の「補助金」は魅力的ですし、経営能力のない農家にしてみれば、「日本政府」と「農協」の後ろ盾があることは、何よりも心強いものなのです。国民は、それに対して批判する向きもありますが、日本のような小さな耕作地しか持たない農家が、農業を行って行くには、今のところ他に方法がありません。もちろん、若い人の中には、「SNS」を駆使して、日本、いや世界を相手に「日本米」をアピールしている経営者もいることでしょう。しかし、それには、大きな規模の「耕作地」が必要ですし、補助金や農協の助けを借りないとなると、資金力も必要になります。また、日本では、「農民=稲作」というイメージが根付いており、そう簡単に稲作を手放すことはしないでしょう。まして、「神事」に使われる大切な「米」を作っているという誇りは、「神様に仕える者」として、粗末に扱うことなどできようもありません。つまり、「日本=神の国=米」なのです。今の若い人にこんな話をしても「?」なのかも知れませんが、そうした「文化」が歴史と共に受け継がれてきたことを忘れてはなりません。
最後に、「土」について述べたいと思います。これも、私の田舎の話ですが、私の伯父の家では、一部ですが、稲を作る「水田」ごと、ある飲食店と契約したそうです。飲食店とは、東京の有名な「寿司店」でした。ここでは、主に「コシヒカリ」を栽培しているのですが、私たちが食べても非常に美味しい「お米」だと思っていました。ある日、その店の主人が訪れて、「米を見せてくれないか…?」と言ってきたそうです。「欲しいのか?」と聞くと、頷くので、実際の米(玄米)を見せたそうです。その主人は、何㎏かを買っていきました。そのうち、またやって来て、今度は「田んぼを見せてくれないか?」と言って来たそうです。親戚の伯父は、大切な客だと考えて水田に案内すると、「土を見てもいいか?」と言うので許可をすると、田んぼの土を掘って触ったり、捏ねたり、匂いを嗅いだりしていたそうです。そして、納得したように頷くと「この米はいい…。ぜひ、田んぼごと売ってくれないか?」という話になったということです。実は、この伯父の水田は、近隣でも評判の田んぼで、「不思議とあそこの米は旨いんだ…」とだれもが言っていることを私は知っていました。どうやら、その噂を聞きつけて、その店の主人がやって来たようなのです。要するに、「田んぼ」と言っても、どうやら、それぞれの「個性」があるようなのです。それはそうでしょう。「人間」だって、様々な人がいるのですから、「田んぼ」や「米」だって、「人それぞれ」であるのが普通です。
収穫された米は、米屋やスーパーで販売されるときは「〇〇産の米」として売られますが、「〇〇産・〇〇さんが作った米」としては売られるわけではありません。つまり、「地域」がわかっても、「だれの田んぼの米」か、までは、わからないで購入しているのです。もちろん、各家庭で食べる米は、それで十分だと思いますが、本職のプロが提供する「米」は、そこまで「こだわる」ものなのでしょう。おそらく、伯父の家の米は、たとえ「一等米」であっても、値段では、「新潟魚沼産一等米」には敵わないはずです。「ブランド」が違うのですから、1㎏あたりの値段には大きな差があります。しかし、たとえ「米の産地」であっても、その「水田」によって「土の質」が違って当然です。寿司店の主人にしてみれば、「うちの寿司に合う米は、ここの米だ!」と確信したからこそ、契約したのであって、「名前」で決めたわけではないのです。それに、米の値段も採算に合うと考えたのでしょう。それでこそ、「賢い選択」と言えるのです。千葉県にも「多古米」という「皇室献上米」がありますが、同じ「多古地域」の水田でも、より海に近い水田の土は「砂」が混じり、水はけがよいと聞きます。作物によっては、その方が適している物もありますが、さて、米の場合はどうでしょう。それが、少しだけ「内陸側」の水田は、土に粘り気があり、稲作には最適だといいます。実は、素人にはわからない「差」が、米の品質の差を生んでいるのです。そんな良質な土壌を持つ水田の土は、「粘土層」が下に広がっており、その土は「焼き物」にも適しているそうです。見た目では、わからないことも「プロの目」をとおせば、誤魔化しようもないのが「米」なのかも知れません。
4 日本の「稲作文化」を受け継ぐ力
この「令和の米騒動」も、8月後半から始まる「新米の季節」が訪れれば、自ずと収束に向かうはずです。この「騒動」を利用して儲けようと企んだ業者は、自ずと在庫の「古米」を市場に出すしかなくなります。「5㎏・5000円」という高値をつけた米も「古米」になれば、せいぜい「3000円」が妥当なところでしょう。それでも、国民が「新米」を求めれば、いくら「銘柄米」であっても、それほど売れないのが世の常です。それに、米騒動に呆れた国民の多くは、「米が高いのなら、安いうどんやパスタでいいか…」となっても不思議ではありません。事実、これまでは、国内では「米離れ」が進み、「米粉」にしたり、学校給食に利用したりと、米の消費拡大に苦慮していたのですから、今の日本人が急に「米しか食べない」状況になるはずがありません。まして、米が以前ほど安価でなくなれば、「米離れ」はさらに進む可能性があるのです。ここに来て、政府は倉庫に保管していた「備蓄米」を放出し、米価の安定を図りました。「5㎏=2000円」で「古古米・古古古米」が買えるのだとしたら、新米は「5㎏=3000円」が相場でしょう。たとえ「銘柄米」であっても、「5㎏=4000円」程度で落ち着くように思います。それ以上高い米は、主食と言うよりは、「贈答品」になるはずです。それにしても、今回の騒動は、政府や農協にしても「米を見直させる一大好機」だったはずですが、従来の流通に固執したために、若い人気者大臣に「油揚」をさらわれてしまいました。勘が鈍いというか、間抜けというか…。経営者としての資質に欠ける人たちでした。
もし、米の「人気回復」をしたいのなら、農協も「米価高値の弁明などをしていないで、思い切って抱えている「在庫米」を安く放出したらよかったのです。農協のトップが独断で動いてもいいでしょう。グズグズと話し合いばかりしているから、農協はさらに国民に疎まれるのです。「米価が高いのは農協のせいだ!」という声は、たとえ誤解であったとしても、「動きの鈍さ」だけはどうしようもありません。日本政府も危機に「鈍感」なのは一緒です。内政も下手、外交も下手、序でに話も下手では、ついて行く国民はいないのではないでしょうか。次の国政選挙が心配になります。
今回の米騒動は、日本人に「米とは何か?」「主食とは何か?」という、当たり前の問題を考える契機になりました。おそらくは、政治家にとっても、考えてもみなかった「米問題」が、こんな形で表面化するとは思ってもみなかったことでしょう。今回の騒動は、特に昨年の米の収穫量が少なかったわけではなく、単に、日本の急な「物価高」が、米相場にまで影響を与えたものでした。これまで、据え置かれていた食品類が、ガソリン代、輸送費、食材料費等の値上がりにより、次から次へと、あらゆる商品の値上げを招きました。それも一度や二度ではなく、その年に数回にわたって値上げが行われ、これまで欧米諸国に比べて安い賃金で暮らしていた国民に大きな衝撃を与えました。それに伴い、地球温暖化の影響か、野菜類まで値上がりし、最後の最後に「米」の値段を上げざるを得ないところまで来てしまったのです。それまで、国民の多くはあまり考えもしなかった「米価」の問題が、急に家庭の一大事になったのです。それまで、「安く手に入るもの」「いつでも手に入るもの」だった「米」が、一気に商店から姿を消し、出て来る米袋の値段表示を見て、国民は驚きました。今までの「倍以上」の値札がついた「米袋」を見て、だれもが信じられない思いをしたのです。そして、日頃、碌に米を食べない人たちも「米が買えなくて困っている…」と騒ぎ出しました。
しかし、実際は、米は例年どおりの量が確保され市場に出ていたのです。まあ、人間の心理として「米がないそうだから、ストックしておこうか…?」となりますから、業者も各家庭も、普段より多目の「備蓄」をしていたのでしょう。それに、「ない…」となると欲しくなるのも人の常です。そうした連鎖が、今回の騒動の原因でした。何でもそうですが、「ある」うちはだれも騒ぎませんが、「ない」となって、初めて狼狽えるのです。そして、だれもが「日本の米政策は、どうなっているんだ?」「いったい、農協は何をやっているんだ?」と、今まで気にもしなかったことに注目が集まったのです。お陰で、多くの国民は「自分の生活に米は必要だ!」ということがわかったでしょう。あるときは、「今日は、パンがいいなあ…」とか、「ラーメンが食べたい!」などと言っていた人たちが、「米がないなら、麺類でいいや!」とは、なかなかならないのです。本当は、そのくらいの余裕を持っていた方が米価は落ち着いたと思いますが、マスコミがあれだけ連日報道すれば、ザワつくのは当然です。それも、政府が、重い腰を上げて「緊急特別措置」による「備蓄米の放出」で落ち着き始めました。こうした「騒動」が起きたときは、議論より先に「特別な措置」を行うことが大切なのです。暢気な政治家や官僚は、「通常運転」で、乗り切れると思っていたようですが、マスコミが煽っている以上、それで国民の気持ちが落ち着くはずがありません。「正論」よりも「行動」が優先されるべきでした。昔から「慎重に判断する=0点」だと言われています。それより、「完全じゃなくても即行動=100点」なのです。これまで、何度も大災害に見舞われてきたのに、「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」のが、日本人のいいところなのでしょう。
「米」は、日本人にとって他の食品とは違う神聖なものなのです。その「米」を疎かにするようなことがあれば、日本の「八百万の神々の怒りを買い、天罰が下る…」と感じている人が多いと思います。(今の若い人は、違うのでしょうか…?)日本の源が「豊葦原の瑞穂の国」にあるとすれば、それを蔑ろにすれば、それは最早、「日本」ではありません。アメリカのように合理的な手法で稲作を行えば、それは最早「日本の米づくり」ではなくなります。そんな「米」を神様に捧げても、日本の神様はお喜びには、なられないでしょう…。科学的根拠などは何もありませんが、そう考える日本人がいる限り、「米」は、これから先も神と人が一体となれる唯一の「食物」なのです。そう思えばこそ、日本人は、「米作り」を精魂込めて行ってきました。「文化」というものは、長い歴史をとおして培われるものですが、その「時代」が、文化の継承を怠れば、文化は一瞬にして滅んでしまいます。いや、「文明」そのものが消えてしまう可能性すらあります。「日本文明」として、世界に類を見ない「文明」を残すのは、私たち日本人の使命なのです。今の日本は、「主」を何処に置いてるかわかりません。特に政治と経済の「主」は、外国にあるように見えます。今回の「米騒動」は、不幸な出来事ではありましたが、日本人に「米」という文化を考えさせるよい機会になりました。「日本」という国は、今生きている私たちだけの国ではないのです。そのことをよくよく考えていただきたいと思います。
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