最後の事件ファイル 伊藤整一長官の最期
昭和27年10月。
真一郎が勤める「小田切法律事務所」に一人の男が訪ねて来た。
男の名は、塚本学。年齢は25歳くらいだろうか…。
最初に応対に出たのは、事務員の祐子だったが、しばらくすると、首を傾げながら真一郎のところにやって来た。
「草野先生…。今来たお客さん、何か変なことを言ってるんですよ…。聞いてもらっていいですか?」
「戦艦大和がどうとか、こうとか…?」
(大和…?)
祐子は、まだ、20歳になったばかりの事務員で、戦後の商業高校を卒業してすぐに、所長の小田切猛が採用した女性である。どうも、遠縁の子らしい。
戦時中は、この事務所のある両国に住んでいたが、家族は戦災で亡くなっている。
祐子だけは集団疎開で福島の飯坂に居て無事だったが、家族は、みんな3月10日の大空襲で死んだと言うことだ。戦後は、ここの小田切弁護士夫婦に引き取られて育った。
小柄で、愛らしい顔立ちをしているので、みんなに可愛がられている。
苦労をしている割には、それを出さないのが彼女のいいところだろう。
商業高校卒なので、簿記ができる。
算盤の速さは、海軍経理学校首席の真一郎も舌を巻くほどだった。
その祐子が「戦艦大和…」という言葉を発したのだから、真一郎も心中穏やかではない。
真一郎にとっても「戦艦大和」は、思い出深い艦なのだ。
知人、友人も大勢いた。しかし、それも、みんな海の底に沈んでしまい、何も残されていないのだ。
終戦直後に呉の真一郎のところに来てくれた佐藤から話は聞いていたが、それから7年が経過している。
佐藤に会いたいと思いながら、終戦後の混乱で、なかなか佐藤のいる愛媛まで訪ねては行けなかった。その思いが、真一郎の頭を過った。
ふと、受付脇の応接テーブルには、まだ、若い男の姿があった。
身なりは、それなりで、貧しい暮らしをしているようには見えない。
頭髪も短く整えているし、来ている上着も古いが、質はよさそうだ。
それに、痩せてはいるが、栄養不足の顔色ではないし、背中の筋肉も十分にある。(昔の海軍には、こうした体格の兵隊が随分といたもんだがなあ…)
真一郎は、眼鏡の奥からこの男を観察していた。
この癖は、子供のころからのものだが、海軍に入ってから、かなり鍛えられたようだ。まあ、弁護士のような職業には、必須な「観察眼」とでも言うべきものだろう。
真一郎は、一見、茫洋として見えるが、その仕事ぶりは的確で、所長の小田切猛からの信頼も厚かった。
そして、この男との出会いが、真一郎を再びあの「大和」に引き戻すことになった。
祐子に代わって真一郎が、受付脇の応接用の席に顔を出した。
個人事務所なので、特別な部屋を用意できないのだ。それでも、昭和20年代は、どこもこんなものだった。
「お待たせしました。弁護士の草野真一郎です…」
そう挨拶して男に名刺を渡すと、若い男はスクッと立って、
「は、はい。私は、塚本学…と申します。よろしく願います!」
それは、まるで海軍の上官に申告するときのような固さだった。
「お願いします」と言わず「願います」と言うのは、海軍の伝統らしく、その言葉遣いだけで(元海軍の水兵か…?)と察しがついた。
下士官以上なら、もっと挨拶も手慣れている。この男は、海軍経験も短い…と真一郎は踏んだ。
(身長は、170㎝弱、体重63㎏…というところだろう。視力はいいようだ…)
しかし、さすがに、客が昔の軍隊のような挨拶をするのには驚いた。
こればかりは、真一郎も見抜けなかった。
真一郎も慌てて、
「ちょ、ちょっと。もう海軍がなくなって何年も経っているんですから、そんな堅苦しい挨拶は、不要にしてください…。それにあなたは、私の客ではありませんか!?」
そう言うと、塚本を名乗った男は、堅い顔を崩して真一郎に小さな笑顔を見せるのだった。
(あまり、笑顔を作るのが得意ではないようだ…。だとすると、職人でもやっているのかな…?)
商売人なら、笑顔が作れないようでは、仕事はできない。今時、会社員や役所の人間でも「笑顔」は必要な技術なのだ。
今の時代は、東京ではGHQが羽振りを利かせているので、アメリカ兵には愛想よくするのが、だんだん身についてきていた。しかし、この客は、そういう種類の人間ではなさそうだ。
そうなら、こういうときは、自分の昔話から入る方が相手の懐に入れることを真一郎は、経験から知っていた。
「塚本さん、実は、私も海軍にいたんですよ。まあ、主計科ですがね…?」
「あなたは…?」
塚本は、一瞬「えっ…?」という顔をしたが、すぐに、「私は、大和の高角砲分隊でした。でも、志願兵なので、終戦時は上等水兵です!」
そう言うと、おずおずと「で、先生のご階級は…?」
「はあ、私は、最後は法務少佐です。大和に乗っていたころは、主計大尉でしたがね…」
そう言うと、塚本は、また眼を丸くして、さらに体を強ばらせてしまった。
「えっ、大和ですか…?」
「じゃ、じゃあ…あの草野内務班長…?」
塚本は、もう一度渡された名刺をまじまじと見ると、眼をまん丸くして真一郎の顔を見詰めた。
「し、失礼いたしました。草野大尉とは知らず、申し訳ありません!」
そう言うと、最敬礼をするのだった。
軍隊では、上等水兵と少佐が直接口を聞くこともなかったので、驚いたのだろう。その上、同じ「戦艦大和乗組」となれば、こうなるのも仕方がない。
真一郎は、なるべく笑顔を見せたが、それはそれで、塚本の緊張を高めたようだった。
「でも、海軍がなくなった今、階級も何もありませんよ…」
真一郎は、昔から下級の者にも声を荒げたこともなければ、強い口調で話したこともなかった。
そのうち、祐子が茶を運んできた。
但し、貧乏所帯なので番茶だけで菓子はない。
それでも、茶を啜るうちに塚本も少しは気持ちが落ち着いて来たようで、依頼の趣旨を話し始めた。
それは、真一郎にとっても思いもしない「戦艦大和の最期」だった。
終戦時に、呉に来てくれた佐藤少尉が、大和が沈むときの様子を語ってくれたが、彼は駆逐艦「雪風」に乗っていたので、大和の艦内の様子はわからなかった。
それが、この塚本上水から聞くことになった。そして、それは、真一郎にとっても衝撃的な話だった。
「大和の最期」を語る塚本は、しんみりとした口調で訥々と話し始めた。
最後の沖縄へ出撃は、塚本上水が「大和」乗り組みになって1年が過ぎたころだった。
塚本学は、千葉県の勝浦の生まれだった。
父親は漁師で、兄二人も漁師をしていたが、兄たちは、相次いで召集されて大陸に渡っていた。
学は、小学校を終えて、漁師の手伝いをしながら青年学校で学んでいたが、
「漁師の息子だから、やっぱり、海軍がいい…」
と志願して、横須賀の海兵団に入隊した。
海兵団では、相当に鍛えられたが、水泳も短艇も得意だった学は、そこを優等で卒業して、戦艦「大和」の乗組員になった。
横須賀からは、3名の同年兵が大和に乗った。そして、配置されたのが「高角砲分隊」である。
「高角砲」は、航空機を艦から攻撃するための兵器で、大和には「12.7㎝連装高角砲」が前と後ろの甲板に装備されていたが、真一郎がいたころと特攻に出たころとでは、対空兵器の数も違っており、かなりの高角砲や機銃が設置されていたようだ。
塚本上水は、この高角砲の砲弾の運搬を担当していたようで、重さ約20㎏の砲弾を運び、装填する作業だけでも重労働だった。常設されたものは、下甲板からエレベーターで運ばれて来るが、増設されたものでは、それもままならず、おそらく、上甲板からは人力で運び、装填して射撃するもので、高速で飛行する敵攻撃機を撃ち落とすことはできなかっただろう。
真一郎のころでさえ、あまり航空機の攻撃は考えておらず、幹部たちは常に「艦隊決戦」を夢見ていた。そして、「主砲・副砲」が攻撃の主力になると信じていた。
もちろん、それができればベストだが、戦争が始まって以来、本格的な艦隊決戦は起きてはいないのだ。
それにしても、この塚本上水は、甲板上にいて、よく助かったものだ…。
実際、甲板上が戦闘配置だった兵隊で生き残った者は、戦後の調査でも僅かでしかない。
塚本上水は、2年兵になると、新兵の時のような懲罰を受けることも少なくなり、新しく乗り込んで来た少年兵の世話係のような役に就いた。
元々、大人しく優しい性格の塚本は、若い兵隊に親切で、慕われていたようだ。このころは、志願してくる兵隊も10代が中心になっており、年少兵だと15、16歳もいたという。
塚本自身、二十歳になったばかりの若い兵隊だったが、それでも、1年間みっちりに鍛えられたので、潮っ気のある海軍兵に変貌していた。
自分では「兄貴分」になったような気持ちで、無我夢中だったようだ。
それに、高角砲分隊の兵隊でもあるので、高角砲に砲弾を装填する任務もあり、訓練は猛烈を極めた。
20㎏を超えるような砲弾は、手で持てないこともないが、それが何度も繰り替えされると、腕も腰もパンパンになり、腕の感覚をなくした。
戦闘ともなれば、銃弾や爆弾が飛び交う中で、砲弾の運搬や装填作業をしなければならない。そのための猛烈な訓練なのだ。
塚本上水は、既に昭和19年10月の「レイテ沖海戦」を経験しており、連日、敵機動部隊の空襲に晒された。
そのときの艦長は、海軍きっての操艦の名手である「森下信衛大佐」である。
一水兵が艦長と話をする機会はないが、塚本は、何度も森下の声を聞いている。
訓練時に伝声管を通して耳にする森下の声は、低音で明瞭。命令は的確だった。
遠くからしか見かけないが、細身でスラッとしていて、部下への敬礼の仕種が格好良かった。
それに「操艦の神様」と聞いては、尊敬の念を抱かないわけがない。
塚本にとっても憧れの艦長だった。そして、その部下でいることが誇りだった。
だからこそ、実戦で、爆弾や魚雷が交錯する中を必死になって砲弾を運ぶことができたのだ。
それに、艦長の操艦は見事で、艦は右へ左へと絶え間なく転舵したために、
塚本たちの足下は覚束なかったが、(だめだ…!?)と思った爆弾が、わずかに逸れて舷側に落ちるのを何度も見た。
もし、あのときの爆弾が大和に当たっていれば、塚本は、間違いなく死んでいただろう。
その森下艦長でさえ、数発の爆弾と魚雷を受けたが、大和は健在だった。
その間にも、多くの兵隊が倒れ、断末魔の叫び声を聞いた。兵隊の血で染まった甲板を滑りながら何度も走った。
もの凄い機銃の撃つ音と艦が撓る音、爆弾や魚雷の破裂音。そして、兵隊の叫び声と呻き声。戦場は、まさに地獄だった。
そして、戦闘が終わった後、多くの遺体を片付け、負傷兵を臨時医務室に背負って送った。そのとき嗅いだ血の匂いは、今も体に染みついている。
そのことが、兵隊としての性根を鍛えたのかも知れなかった。
新兵たちからしてみれば、塚本上水は、硝煙の中を生死を賭けて戦った一人前の兵隊であり、たとえ19歳であっても、下士官たちも塚本には一目置くようになっていた。
塚本の分隊は、呉に帰還すると、分隊員の半数は入れ替えになり、塚本は二年目で既に「古参兵」となっていた。やはり、苛烈な戦場を経験した者は、袖の階級章より権威があったのだ。
おそらく、一年前とは風貌も様変わりし、目つきも鋭く動きも俊敏になっていたのだろう。下士官に意見を述べても聞いてもらえるようになった。
戦場は、平時の10倍も人間を強くする。それは、主計科の真一郎にもわかる。それが「兵隊」というものだろう。
真一郎の時代でさえ、古参兵は新兵たちに威張っていたが、それは空威張りではなく、彼らに見本を見せると、だれもが舌を巻くような動きで確実に仕事をこなす技術を身に付けていた。それだけに、彼らは階級は低くても下士官たちからも一目置かれ、ベテラン兵曹長ともなると、副長や分隊長クラスが直々に部屋まで来て、相談することも屡々だった。それくらい「実戦経験」は、人間を大きく見せるのだ。
塚本上水は、そんな修羅場を二度も経験した強者だったが、事務所を訪ねて来たときは、そんな雰囲気は一切なく、普通の若者に戻っていた。
その塚本が依頼してきたのは、「人捜し」だった。
それは、大和の沈没時の話になる。
戦艦大和が沈んだのは、昭和20年4月7日である。
この日は、朝から曇天で視界がよくなかった。
大和は、第二艦隊の旗艦として、軽巡洋艦矢矧他駆逐艦数隻を率いて、4月6日の午後3時過ぎに山口県徳山沖を出港、敵を欺くために進路を直接沖縄に向けず、西へと取った。
しかし、出撃以来、ずっと敵潜水艦のスクリュー音を感知しており、駆逐艦が常に監視体制を敷いていた。
そして、翌7日になると欺瞞航路を取る意味がなくなったため、午前8時ころには、進路を沖縄に向けて南下した。
この日も、空は曇天で、視界があまり開けなかった。
大和には、優秀な見張員が双眼鏡に張り付いて空を監視していたが、やはり電波探知機(レーダー)の威力には敵わなかった。
日本の「電探」は、そのころになると、かなりの距離でも把握できるまでになっていたが、採用が遅く、欧米の技術にはかなり遅れをとっていたのだ。
元々は、日本の八木博士が発明した装置であったが、当時の海軍の幹部たちは、「我が軍には優秀な見張員の眼がある!」と豪語し、採用を見送った経緯があった。
それを欧米が眼をつけ、日米開戦時にはかなりの差をつけられていたのだ。もし、日本軍が「防禦兵器」として欧米に先んじて研究を進めていたら、日本軍の戦いは、もう少しましだったのではないかと真一郎は思っていた。
兵科将校と違い、主計科は数理ができなければ仕事ができない。それに、戦闘任務ではないので、彼らより、冷静な眼を持っていたのである。
大和が出撃すると、鹿屋基地から数機の零戦が護衛を兼ねて飛来してくれた。しかし、大和の出撃と呼応する形で空からの「特別攻撃」が計画されており、大和に護衛をつける余裕が、連合艦隊にはなかった。
いや、実際、その気になれば、陸軍の応援をもらってでも100機程度は揃えられただろうが、だれもが「沈む大和に護衛はもったいない…」と考えており、連合艦隊は、端から大和を海に沈めてしまうつもりだったのだ。
敵の攻撃が始まったのが、11時30分を過ぎたころだった。それは、空からの攻撃だった。
当初、沖縄のアメリカ軍内部では、戦艦部隊の指揮官たちが、
「大和が出て来るなら、我が戦艦部隊でやらせてもらいたい。最後の主力艦同士の海戦をさせてくれないか…?」
と、強行に司令部に申し出たそうだが、ハワイにある太平洋艦隊司令部では、ニミッツ司令官が、これを退けた。
ニミッツは、ひと言、
「もう、時代は変わったのだ…」
そう言うだけだったそうだ。
敵機の数、およそ400機。
これが、第一波と二波に別れて攻撃してきた。
塚本上水は、高角砲分隊員として下甲板にある弾薬庫からリフトで砲弾を上げる作業に就いていた。
ところが、空襲早々に塚本たちがいた後部高角砲塔に爆弾が直撃し、下甲板は危険とのことで、急いで上甲板に上がった。後部高角砲は酷く破壊され、その周辺にはたくさんの戦死者が転がっていた。
中には、塚本の戦友もいたし、すぐの上官もいたが、どれも手の施しようもなかった。その間にも敵機は次々と襲撃して来る。
そこで、塚本たちに命じられたのは、機銃分隊への弾薬の運搬だった。
機銃分隊員も露天で戦っていたために、多くが戦死か負傷しており、とにかく弾薬が足りないのだ。あちこちから「弾、持ってこい!」「弾はまだか!」という叫び声が響いていた。
それでも、敵機の爆音と爆弾の破裂音、そして、味方の射撃する轟音が響き合い、隣同士であっても声が聞こえない有様だった。
塚本上水は、生き残っていた数人の兵を連れて弾薬庫に走った。
そのとき、敵機が機銃弾を放った。
ドドドドドド…!!
凄まじい射撃音が響き、甲板上に煙の筋が並行に刻まれた。と同時に何人かの兵が、弾かれるように跳び、真っ赤な鮮血を迸らせながら、甲板上に倒れ込んだ。
周囲の兵たちは、その場に伏し、じっと惨劇が終わるのを待った。
敵機が轟音を残して去った跡には、最早、弾薬を運搬できる兵も台車も残ってはいなかった。
塚本上水は、一瞬気を失ったが、側にいた下士官に殴られ眼を覚ました。しかし、あれほど酷い戦闘の中で、塚本はあちこちに軽い傷を負ったが、致命傷には至らなかった。
それでも、塚本は必死になって弾薬を手で運び、何往復もする間に倒れ意識を失った。
そのうち、気がつくと、大和の傾斜が酷くなり、遂に「総員退去!」の命令が下されたのだ。
塚本は、左舷甲板から滑り落ちるようにして海に投げ出された。
元々、泳ぎは達者な方で、海兵団でも相当に塩辛い水を飲まされたので、海自体は怖ろしくはなかったが、先輩から「いいか、海に入ったら、できる限り艦から離れろ。近くにいると、艦が沈む時の渦に巻き込まれてしまうぞ…」と言い聞かされていたので、すぐに無我夢中で泳いだ。
200mほども離れただろうか…。
塚本は、近くを浮遊していた木の板を見つけ、それを掴んでしばらく大和を見詰めていた。
その間にも大和は傾斜を深め、甲板上から多くの兵が海に飛び込むのが見えた。
中には、舳先によじ登り大きく手を振っている者もいた。
塚本は、大和の方を見ながらも、足だけは小刻みに動かし続けていた。波の動きに逆らわず、ゆっくり泳ぐことが海では大切だということを海育ちの塚本は知っていた。
すると、大和は急に左舷を下にして沈み始めた。
それは、勢いを増し、遠く離れていてもギシッ、ギシッ…という不気味な音が耳に響いた。
海は、大和から流れ出す重油で真っ黒で、周囲を泳いでいる兵隊たちも真っ黒だった。
そろそろ、体力を使い果たした塚本は、しばらく、呆然と浮いていたが、大和は、さらに、ギイギイ…という不気味な音を海底から響かせると、急速に沈み始めた。それが、大和の最期だった。
大きな渦が大和を中心に回り始めた。
慌てた塚本は、最後の力を振り絞って抜き手を切った。
少しでも、大和の渦から逃れなければ、命はない。
そして、その数秒後、地の底から、もの凄い力で海全体を押し返すようなエネルギーを感じたそのときである。
大和は海底に沈む途中で大爆発を起こしたのだ。弾薬庫に火が回ったのだろう。
海の底から、もの凄い大きなエネルギーの塊が、塚本たちを海の上に押し上げた。と同時に、また、多くの兵隊が吹き飛び、海面に叩きつけられると、そのまま、海底に静かに沈んで行くのだった。
塚本も、海底深く沈んで、藻掻いても藻掻いても海面に浮上することができなかった。それでも、塚本は死ななかった。日頃から鍛えられた肺が、多くの酸素を溜めておくタンクになっていたお陰だった。
しかし、新兵や中年の補充兵はもたなかった。
彼らは、海面に到達する前に耐えきれず、海水をしこたま飲んだ。そして、胃を海水で満たすと、次は器官を通って海水が肺に入る。
肺に海水が入れば、それまでである。
そのまま、意識を失うと、その海水の重さで深い海の奥へと沈んで行った。
塚本は、最後の力を振り絞って、何とか海面に出たが、そこには、もう浮かんでいる兵は何人も残されていなかった。
少しでも気を緩めると、体が海の底の方に引き摺り込まれるのだ。
次第に闇が迫って来ていた。
このまま、後10分もすれば、塚本はその体力のすべてを使い切り、意識を失うだろう。周囲を見ると、それまで浮いていた頭が、ポコン、ポコン…と沈んで行くのがわかる。
(ああ、いいなあ。きっと楽になったんだろうな…?)
そんな誘惑が、自分にも襲ってくるのがわかる。
(この誘いに乗れば、それで楽になれるんだ…)
そう思いながらも、本能は生へ執着していたのかも知れない。
心は、(もう、楽になりたい…)と思っているのに、体は(生きよう)とでもしているかのように足をばたつかせている。
それとも、子供のころから体に染みついた漁師の本能なのだろうか…?
周囲を見渡しても、もう、何も見えなくなっていた。
(他の艦は、残った艦を集めて沖縄に向かったんだろうな…?)
薄れ行く意識の中で、ぼんやりとそんなことを考えていた。
塚本が掴んでいるのは、大和から投げ出された救助用の木材のようだった。しかし、既に握力がない。全身に力が入らないのだ。
気を緩めると、そのまま海の中に引き込まれそうになる。
「ふっ…」と気づいて、また、浮輪を掴む。そんなことを何度も繰り返していた。
(ああ、眠い。朝から、ずっと動きっぱなしだったもんなあ…)
(高木も吉岡も、伊藤兵曹も、みんな死んだんだろうな…?)
(伊藤兵曹は、おっかなかったなあ…)
取り留めもないことが、走馬灯のように、グルグルと頭に浮かんでは消えて行った。
(もう、いいや…)
と、浮輪から手を離そうとしたとき、後ろからムンズと襟首を掴む力に気がついた。
その力は、信じられない強さで、塚本の体を木材の上に押し上げた。そして、「ばかやろう…。生きろ、生きるんだ!」
「若い者が、死んでどうする…!」
そんな野太い声が聞こえたような気がした。
そして、「は、はい…」と応えて、塚本が、ゆっくりと後ろを振り向いたとき、その答えた相手は、こちらを見ていたようだが、薄れて行く意識の中では、視力も弱く、ぼんやりとした影にしか見えなかった。
最後に、その影は、「よくやった。生きろよ…」
そう言うと、塚本から手を離し、スーッと離れて行くのがわかった。
「黒い影」だけが、塚本の網膜に残像のように残った。
塚本が向き直ると、眼の前に大きな壁が立ち塞がった。
それは、救助に駆けつけた駆逐艦だった。
意識が朦朧としていた塚本には、駆逐艦が見えていなかったのだ。
甲板上から多くのロープが海に投げ込まれ、その下にはたくさんの兵隊が声を上げて蠢いていた。
声も出せず、ただ、ぼうっと上を見ていた塚本の下に、一本のロープが投げられた。それは、駆逐艦から投げられた救いの一本だった。
塚本は、このロープを手放せば、もう、それを掴む力は残されていなかった。そこで、やっとの思いで、ロープを体に巻き付けた。
すると、遥か上の方から、
「大丈夫だ!」
「いいか、ロープを放すなよ!」
「いくぞ!」
塚本は、力の入らなくなった両手でロープを掴み、体と手首に絡めると合図を送った。
上の方から、「よいしょ、よいしょ!」というかけ声が聞こえてきた。
こうして、塚本上水は、辛うじて甲板上に引き揚げられたのだ。
「あ、ありがとう…」
そう言うや否や、数発の往復ビンタが頬を打った。
「ばかやろう、眠るな、眼を開けろ。死んじまうぞ!」
「は、はい…」
往復ビンタの衝撃で、塚本は一瞬、眼から火花が出た。
辛うじて意識を戻すと、塚本は、甲板上で重油で真っ黒に汚れた服を脱がされ、強引に水を飲まされて胃の中の海水を吐かされた。
黒い水が、胃から溢れ出た。それから、「気付け薬だ…」と言われて、アルコールを飲まされ、甲板上に横たわった。
だれかが、毛布を掛けてくれたことまでは覚えているが、それからの記憶はない。
佐世保に戻った第二艦隊の残存艦艇は、救助者を陸に揚げると、また、何処かに向かって出港していった。
塚本が助けられたのは、駆逐艦「雪風」だったことは、塚本も覚えていた。
彼の同年兵が彼を介抱してくれたからである。
この上水の名を「星」と言った。
その後、塚本は佐世保の海軍病院に入院したが、打撲と衰弱だけで、体に大きなけががなかったために、1週間ほどで退院すると、呉の基地防備隊に配属になり、そこで終戦を迎えたのだ。
その塚本が真一郎の事務所を訪ねて来た趣旨は「人捜し」だった。
塚本が言うには、
「最近、やっと仕事が順調にいくようになり、心に余裕が持てるようになってきました」
「それでも、夜中に度々、昔の夢を見て飛び起きます。それは、やはり、あの大和沈没の時の夢でした…」
「夢の中で、私は暗い海の底に沈んでいくのです。そして、もうだめだ…と思った瞬間に、だれかに襟首を掴まれて海面に放り出されて眼が覚めるのです」「それを、何度も何度も…見るのです」
「でも、私を助けてくれたその人の名がわかりません。無論、それが大和の乗組員だということは確かですが、だれだったのでしょう…?」
「あのとき、生きろ、生きるんだ!と言ってくれた声が忘れられんのです」
「どうか、お願いします。生きておれば、御礼も言わなければなりませんし、もし、亡くなっていれば、お墓に参ってお線香のひとつも上げさせていただかないと、私の戦争は終わりません…」
そう言って、深々と頭を下げるのだった。
その晩、所長の小田切正直が、真一郎に声をかけてきた。
事務員の祐子から、今日の依頼の件を聞いたのだろう。仕事が終わったら、所長にお願いして、この問題に対処するつもりでいた真一郎だったが、何処から手をつけていいやら、悩んでいたところだった。
小田切所長は、戦前からの弁護士で、既に60歳は超えていた。
白髪、無精髭で髭もかなり白い物が混じり、いつも頭髪を整え、髭もあまり生えない真一郎とは、好対照だった。
但し、小田切は、刑事事件の国選弁護士を引き受けることが多く、弁護士事務所としての経営は苦しかった。
それに、真一郎は、弁護士とは言っても、資格を得て数年しか経っておらず、いわゆる、軒先を借りる「居候弁護士」なのだ。
そして、真一郎も法律と言うよりは、刑事のように「足で稼ぐ」方が性に合っているらしく、これも大して金にはならなかった。
ただ、家業である「草野酒造」の顧問弁護士をしている関係上、顧問料の代わりに、家での飲食代や家賃はない。たまに、妹の咲子がやっている帳簿の点検をしてやるくらいだった。
忙しいときは、世田谷の家にも帰らず、両国のこの事務所で寝泊まりしているため、気楽な商売になっている。
それでも、普段から整理整頓に心がけ、清潔をモットーにしているので、祐子や客からは信頼されていた。
所長に言わせれば、
「なあに、草野さんは、元法務少佐殿で、東京育ちのモダンボーイだからな、洒落てるんだよ…」
と苦笑いをしている。
小田切は、千葉の房総の生まれらしく、ちょっと「東京もん」は、苦手らしい。
ただ、真一郎のことは、何処かで聞いたらしく、祐子には、
「あの草野さんは、山本五十六元帥のお気に入りだったらしいぞ…」
とこっそり教えていた。
だけど、お喋りの祐子は、すぐに真一郎に、
「ねえねえ、草野先生って、あの山本元帥のお友達だったの…?」
と尋ねるものだから、あっと言う間に周りの人間に広まってしまった。
戦後、しばらくは、巷では、
「あの山本五十六元帥が生きていたら、この戦争だって勝ったかもしれんなあ…」
何て言う噂もあったくらい、山本五十六は人気があった。しかし、真一郎は知っていた。
(山本さんも所詮は、男なのだ。恋する愛人のためなら、戦場からでも贈り物をするんだから…)
(それに、山本さんの苦悩は、深かった。もう、どうしようもなかったんだと思う…)
しかし、それを今更言っても仕方がない。
それより、亡くなった多くの人々の魂が安らかであることを祈るのみである。
真一郎は。祐子に、
「昔、乗っていた軍艦で、たまたま、山本元帥に会ったことがある…という程度ですよ」
そう言って、誤魔化したが、祐子はそんな真一郎に興味を持ったようだった。
余計なことだが、後にこの祐子は、真一郎の妻となり、二人の男子を産むことになる。
塚本の依頼を正式に受けた真一郎は、塚本が駆逐艦「雪風」に救助されていることから、元雪風の主計長だった佐藤元主計少尉を訪ねることにした。
彼とは、呉の鎮守府で、最後の別れをして以来ご無沙汰だったが、それでも年賀状のやり取りはしていて、松山市の校外で奥さんの実家の鉄工業の手伝い
をしていることは知っていた。
最初は経理を見てくれ…という依頼だったそうだが、そのうち見込まれて鉄の工作までやるようになったと年賀状に書いていた。
佐藤の専門は経理だが、手先も器用だったので、鉄工業の会社であれば、彼は重宝するだろう…と真一郎は思った。
佐藤も、もう40は過ぎたころだろう。
彼ならば、塚本上水を助けた同年兵の星上水のことも知っているだろうし、そこから、何か手がかりが掴めるかも知れない…と考えていた。
もうすぐ冬になるので、寒くなる前に四国に渡るつもりだった。
世田谷の家に戻ると、咲子が事務所の中で、何かと悪戦苦闘している姿があった。咲子は、どちらかというと芸術肌で、事務的なことはあまり得意ではない。しかし、会社の宣伝などは上手く、新商品のポスターなども自分で描き、その評判も上々だった。
戦後すぐから家の手伝いに入り、もう7年近くになる。
仕事も覚え、来春には、復員してきた杜氏の健一と所帯を持って家業の酒蔵を守るのだそうだ。
これで、真一郎も思い残すことは何もなかった。
真一郎も小田切所長から、この弁護士事務所を頼まれているので、いずれは、「刑事事件専門」の弁護士になるつもりだった。
それから、2週間後、真一郎は今やっている仕事を片付け、塚本上水から依頼された仕事に取りかかることにした。
真一郎が、東京を離れたのは、既に師走に入ったばかりのころである。
最初は、塚本上水も同行する予定だったが、家業の自動車工場も師走で立て込み、取り敢えず、真一郎だけで調査に行くことになった。
真一郎としては、どちらでもよかったが、従業員5人の会社では、社長の手を借りなくては回らないとのことで、それは、別の意味で喜ばしいことだと考えていた。
当時、日本は朝鮮戦争の勃発により、急激に経済が回復し、塚本のような「自動車修理工場」は、トラック等の修理や改造が次々と舞い込んだ。
空襲で寸断された日本の道路網も順次補修・整備が進み、町には物資を運ぶトラックが、ひっきりなしに走るようになっていたのだ。
東海道線で西に向かうのは、終戦後、呉から東京に戻ってきて以来のことだった。
あのとき、呉の隣の広島市は原爆で焼かれ、多くの人が犠牲になった。
今でも放射能が残るらしく、アメリカの研究所もできたそうだが、街は、確実に復興に向かっていた。
汽車もあのときほどの混雑はなく、席を確保してのんびりと旅行することにした。しかし、汽車の窓から見る風景は、長閑な田園ばかりでなく、町々の惨状と復興の姿が、二重に映し出され、楽しい気分にはなれなかった。
未だに後片付けが終わらず、瓦礫がそのまま朽ち果てているところもある。あれは、家の屋根だろうか…。
あそこに暮らしていた人たちは、どうなったのだろう…。
そして、少し走ると、線路脇に多くの新築の家が建ち並んでいる。
質素な家ではあるが、ここでは、もう戦後の日常があるのだ。
こうしたアンバランスな風景が東海道線を走る車内から見ることができる。
(完全に、昔のような姿を取り戻すには、もう少し時間が必要なんだろうな…)
そう思うしかなかった。それでも、生きている人は、まだ幸せなのだ。
GHQによる占領も、この春には終わっていた。
それでも、街中にはアメリカ兵が屯しているし、完全に日本に主権が戻されたわけではない。
それも、遠からず実現するだろう。それが、現実というものだ。
結局、(あの戦争は、一体何だったのだろう…)と、真一郎は思うのだった。
アメリカも日本憎しで原爆まで落としたが、その後は、自ら朝鮮半島に出兵し中共軍やソ連軍と戦う嵌めに陥った。
頼りになるはずの「日本軍」がいない今、共産主義の防波堤になる国はいないのだ。
真一郎は、名古屋で一泊すると、翌朝、懐かしい呉に立ち寄ってから四国に渡ることにした。
どこの駅でも、駅周辺は妙な活気があり、名古屋でも広島でも、ここ呉でも、たくさんの露天商が朝早くから店を出し、その土地の産物を商っている。 呉は、やはり軍港があった港町だから魚介類の店が多かった。
中には、米軍の払い下げの衣類や鞄、靴なども売っている。
最近では、闇で商売をする者も減り、多くの物資が街中で出回って来たのがわかる。それに、浮浪者も少なくなっているようだ。
朝鮮での戦争が続く限り、日本の産業は回復していくだろう。しかし、朝鮮の人たちにとっては、また始まった戦争なのだ。
それも、国内を二分する戦争をしているのだ。それは、日本の戦争よりも悲劇かも知れなかった。
呉の町は、軍港の町であり「海軍の町」であったために、何度も空襲に見舞われ、大きな被害を被っていた。それでも、呉の復興は早かった。
広島県にしても、県庁所在地である広島市が壊滅させられたとなれば、近くで港を持つ「呉」は、重要都市である。
それに、呉の場合、被害の多くは軍用施設であり、海軍がなくなった以上、それを民間に転用することで早期の復興を目指していたのである。
呉駅から港に出ると、真一郎は、数年前の自分を思い出していた。
大和を降りてから、呉にある鎮守府の法務官として勤務したため、呉の街には詳しくなっていた。
空襲で被害を受けたとはいえ、呉の街の面影は色濃く残っている。
数年前までは、ここに多くの海軍関係者が働き、街は活気づいていた。
それが、今では、海軍の関係者がいなくなり、普通の港町に戻っている。
(しかし、ここは、きっとこれまで以上に賑やかな街になるだろう…)
そんなことを考えながら、瀬戸内の潮風を懐かしく感じるのだった。
呉の港の桟橋からは、松山行きの船も出ていて、真一郎もそれに乗り込むことができた。
漁船を改造したような小さな船ではあったが、仕事で向かうのだろうか、多くの客が乗船していた。
船の操船は、なかなか見事なもので、一緒に乗った客の男の話によると、
「ここは、未だに呉の空襲で沈んだ軍艦が、あちこちにあるんだそうだ…」
「この船の船長は、海軍の下士官だった男で、こいつにかかれば、そんな沈没船を避けてすいすいと瀬戸の海で出るんだとよ…」
と、自分事のように自慢するのがおかしかった。
確かに、海軍のベテラン下士官ともなると、小型船の操船など簡単に行える者が多かった。
それに、大型艦であっても艦長の命令で舵を回すのは、航海科のベテラン下士官と決まっていて、艦長の命令が遅くても、舵を取る下士官の裁量で操艦したものだった。それも、下士官の誇りだと聞いたことがある。
この船の船長は、そうした男なのだろう…。
露天に近い船の後部座席から、船長の頭だけが見えた。
短く刈った頭には、ちらほらと白いものが混じっている。
海軍では、相当苦労をしたんだろう。そう思うと、その船に乗せてもらっていることが有り難かった。
この海は、真一郎もよく眺めた海だった。
特に呉の鎮守府時代は、この海はまさに戦場だったのだ。
終戦後、大型艦は引き揚げ作業をしたようだが、小型船舶は、まだ沈んだままになっている。そして、多くの乗組員もその船と共に沈んでいるんだろう。
そう思うと、申し訳ない気持ちになる。
真一郎は、心の中で静かに手を合わせる他はなかった。
船は、3時間ほどで松山港に着いた。
降りる際、船長の男に会釈をすると、何故か、船長の男がこちらを向いて海軍式の敬礼をするではないか…。
真一郎が、驚いて顔を上げると、男は、
「ご苦労様です。失礼ながら、海軍の方とお見受けいたしました。矢野兵曹長と申します!航海科であります!」
その言葉に、真一郎は、
「こちらこそ、お世話になりました。海軍主計大尉の草野です!」
と敬礼で返した。
真一郎は、敢えて、主計大尉の肩書きで敬礼をしたのである。
それは、軍艦に乗っていたことの証でもあった。
男は、さらに体を固くして、
「は、ありがとうございます! 大尉もお気をつけて!」
そう言うと、真一郎が手を下ろすまで堅い姿勢を崩そうとはしなかった。
やはり、海軍時代に身についた習慣なのだろう。
真一郎はそう思い、静かに手を下ろし、会釈しながら桟橋を渡った。
たとえ、海軍がなくなっても、そこで戦った男たちには、心の中に「海軍魂」が残っているのだ。
それは、新しい時代にどうなんだろう…と思うが、人は、そうした「魂」を持っていなければ、生きられないのも事実なのだ。
真一郎自身、やはり、自分が「主計大尉」だったことを捨て切れないからこそ、この元兵曹長にそう名乗ったのである。
松山の桟橋を歩いて行くと、向こうから懐かしそうに手を振る男がいた。
佐藤正少尉である。
佐藤少尉は、大和を降りた後は、海軍経理学校の専科学生として1年間、学び直した後、少尉に任官し、駆逐艦涼月と雪風の主計長として戦場を駆け巡っていた。そして、昭和20年4月16日の「沖縄特攻艦隊」の一員として、駆逐艦雪風の主計長として参加している。
このとき、一緒に出撃した「大和」「涼月」「雪風」は、佐藤が乗艦していた艦だった。
そして、涼月と雪風は生き残り、水上特攻で沈められた大和や矢矧の乗組員を救助したのだ。
顔を合わせると、佐藤は少し皺が増えたようだったが、相撲で鍛えた体は今でも頑健そうに見えた。
「分隊長、お久しぶりです。ご連絡いただきありがとうございました!」
そう言うと、自分の会社の軽トラックに案内してくれた。
「いやあ、できれば乗用車とも考えたのですが、このあたりには、そんな高級車はありませんので、申し訳ないですが、うちの会社のトラックで勘弁してください…」
そう言うと、頻りに白ごまを振ったような頭を掻いた。
「とんでもない。今のご時世、トラックを持っているだけだって、なかなか、いないですよ…」
「よかったです、佐藤さんがお元気で。こちらの方こそ、無理なお願いをしてすみません…」
佐藤の運転する小型トラックは、高いエンジン音を響かせながら、松山の海岸沿いを走り、高台にある民宿に到着した。
そこは、佐藤たちもよく利用する民宿だそうで、なかなか旨い魚を食べさせるらしい…。
民宿の名を「青葉荘」という。
何でも、軽巡洋艦の「青葉」に乗っていた兵隊が営んでいる宿だと言うことだった。同じ海軍仲間なので気安いのだろう。
道々、佐藤の家族の話になり、奥さんもお子さんも無事に元気に過ごしているとのことだった。
多くの兵隊が戦死した中で、奇跡的に助かった父親が帰還したときは、さぞや嬉しかっただろう。その小さかった子供も小学校高学年になるそうだ。
本当は、佐藤の家にも寄りたがったが、このご時世、手ぶらでの訪問は気が引ける。生活は戻って来たと言っても、まだまだ、どの家庭も貧しいのだ。
何度も誘う佐藤に丁重に断りを入れ、真一郎は、佐藤が用意してくれた「青葉荘」で塚本の話を聞くことにした。
一応、手紙では知らせてはおいたが、佐藤がどこまで記憶しているかはわからない。やはり、直接会って尋ねるしか方法がないのだ。
夜7時ころに佐藤は、改めて民宿「青葉」にやってきた。
佐藤は、何処で手に入れたのか、松山の銘酒「梅錦」を持って来た。
「分隊長、じゃあ、松山の銘酒を飲んでいってくださいよ…」
そう言って、嬉しそうに座敷に腰を下ろした。
そこで、佐藤から聞いた話はこんな内容だった。
「雪風の星上水ですね…」
「はい。よく覚えている男です」
「星は、見張員でよく夜目が利く兵隊でした」
「雪風が呉に戻ってしばらくすると、転属になって木更津の航空隊に行ったはずです…」
「眼の細い精悍な顔つきをしとりました。それでも、笑うと、まだ少年のようで、周囲の兵隊たちからも可愛がられていたと思います」
「田舎は福島の会津で、山育ちがよく海軍にきたな…と聞いたら、猪苗代湖で泳いでいたから、泳ぎは得意だって言っていましたね…」
「体は案外大きく、背も私より少し高かったはずです」
「写真を持って来ました。乗組員全員で撮った写真ですから、小さいですが、この一番後列のこの男が星勇です」
「あのときは、とにかく、少しでも助けようと、みんなで必死になって泳いでいる兵隊を甲板に引っ張り上げていましたんで、私も塚本某は覚えておりません」
「そうですか…、星の同期生だったんですか…?」
佐藤は、しばらく考えていたが、ふと、ある話を思い出した。
「実は、分隊長。これは、噂なのですが、こんな話があるんです…」
「ん…?」
「どんな噂ですか…?」
酒を酌み交わしではあったが、佐藤が語ったのは、こんな話だった。
「実は、大和と一緒に沈んだはずの伊藤整一第二艦隊司令長官が、あの海を泳いでいたというものだったんです。
伊藤長官は、森下参謀長に促されると、有賀艦長に「総員退去命令」を出すよう促しました。そして、後を有賀艦長に委ねて長官室に入って行ったそうです。
おそらく、そこで自決されたんだろうと思いますが、だれも見た者はおりません。まあ。昔っから、戦に敗れた大将は腹を切ると言いますからね…。
しかし、あの海で「伊藤長官を見た…」という者が、何人もおるんですよ…。そして、泳ぎながら、兵たちを励ましていた…と言うんです。
私は、だれかの見間違いだと思うんですが、こればっかりはわかりません。
とにかく、伊藤長官が助かったという話はありませんし、あの海で亡くなったことだけは間違いないと思いますが…。
まあ、伊藤長官は優しい人で、兵隊にも結構人気があったんですよ。
第二艦隊司令長官に着任されると、各艦を周り、兵たちにもよく声をかけていたそうですから。そんな長官は、あまりおられんでしょう?
私の艦にも来て、寺内艦長と大声で談笑しておりました。
来ると、決まって何本かの酒を持参されるんです。
兵や下士官にはそれが嬉しくて、雪風では、「長官からの差し入れだ!」と言って、その晩にはみんなに少しずつ配給されたもんです。
駆逐艦でも、乗員は200名もおりましたから、一人あたりにするといくらもないのですが、寺内艦長が身銭を切って、一人茶碗一杯ずつ飲ませていただきました。
たった一杯の酒でも「長官と艦長からだ…」となると、嬉しいもんですわ。
大和時代も、山本長官は、よく「長官賞」を出されて、我々も相撲でもらいましたっけ…。ありゃあ、嬉しかったなあ…。
そんな長官だから、兵たちも張り切っておりました。
あの暗い絶望的な海でも頑張れたのは、そんな長官の声が聞こえたからじゃないんですかね…。
たとえ、長官の体は大和と共に海の底に沈んでも、その魂は、海を泳ぐ兵たちと共にあったんですよ。そんな人でした…」
(そうか…?)
真一郎は、あの極限の状態の中で必死に藻掻いていた兵たちには、そう聞こえたのかも知れないと考えた。こればかりは、経験のない真一郎には想像がつかなかった。
(生き残った兵たちは、伊藤長官の幻を見たのか…?)
(それとも、本当に生きて兵たちを励ましていたのだろうか…?)
(しかし、まさか、伊藤長官が、沈む大和から離れていたはずは…?)
考えれば、考えるほどわからなくなってきた。
こればかりは、今からでは確かめようもないのだ。
もし、たとえ、そうであったとしても、今回の作戦は、伊藤長官に罪はない。あるとすれば、これを計画した軍令部と連合艦隊司令部である。
聞くところによると、軍令部内でも大和の使い方については、かなりの議論があったようだ。
真一郎から言わせれば、
(もっと早く、山本長官が言うように、護衛艦として石油輸送の護衛任務に就かせればよかったんだ…)
と言いたいところだが、連合艦隊の旗艦まで務めた世界最大の戦艦を「護衛艦」にするなどという発想は、海軍にはなかっただろう。
何でも「面子」ばかり重んじる体質は、敗戦間近になっても変わらないらしい…。
どうせ、「そこで死に花を咲かせてやろう…」などと言うくだらない浪花節で作戦が決められたに違いないのだ。
こういうとき、日本語は便利だ。
これまでも、惨たらしい死を「散華」と言い換え、全滅を「玉砕」、退却を「転進」と言い繕い、最後の無謀な作戦を「死に花」と言う。
その言葉に自分が酔って、現実の将兵の悲惨な最期を想像しようともしない。
上に立つ者が下の者を顧みず、己の面子にのみ拘るのは、いつの世も「滅びる組織」の末路だが、残念ながら、大日本帝国にもその時が来たということか…?
現実を考えれば、最早、艦隊決戦などあり得ない時代になり、大型戦艦などは、油を喰うだけの厄介者でしかないのだ。
だったら、その「油」のために、輸送船団の護衛艦となり、敵の襲撃を一手に引き受けて「輸送船」を守るのが彼らの言う「死に花を咲かせる作戦」だろう。
真一郎は、歯痒くてならなかった。
こんな一主計官が気づく程度のことを、雁首揃えて考えようともしない幹部たちが愚かしく、憐れでならなかった。
(冷静さを失うと、どんな優秀な頭脳も硬直し、あらぬ方向に向かっても、だれも、それを修正しようとしない…。そして、だれもが死に鈍感になっている…)
そう考えているうちに、伊藤長官の噂も満更「嘘」でもないことに気がついた。
それは、真一郎には思い当たることがあったからだ。
あれは、真一郎が南方から帰され、一度、東京の軍令部に出頭したときのことだった。
山本長官から託された「極秘資料」(というプレゼント)を相手に渡し終えた後、真一郎は広島基地から空路、東京に飛んだ。
これも軍令部からの命令だった。
羽田基地に着くと、そのまま海軍省の公用車に乗せられ、築地の赤煉瓦の建物に連れて行かれた。そこで、面会したのが、当時、軍令部次長だった伊藤整一中将だった。
海軍省の一室に招かれた真一郎は、驚いて伊藤中将に申告すると、
「やあ、君が噂の草野大尉か…?」
「山本さんから、手紙が届いていてね。君のことが書かれていたんで、一度会っておこうと思っていたんだよ…」
「山本長官も君には、かなり心を開いていたようだからね…」
そう言う伊藤中将の口元が少し歪んだ。
「ところで、君は、今夜は暇だろう…?」
「どうだ、私の行きつけの店に行かないか?」
「日本の風呂にでも入って、ゆっくり寛ぎ給え…。私も1900には、行けるから、待っていてくれ給え」
そう言うと、珍しく白い歯を見せた。
(多忙中の軍令部次長が、私に何の話があるんだ…?)
そう思うと、緊張してきたが、(まあ、主計士官の話など聞いても大したことないだろうに…)と思うことにした。
その晩、海軍省の建物からほど近い、旅館「富士」に案内されて時間を待った。まさか、風呂に入って一服しているわけにも行かず、軍服のまま座っていたが、ここの女将は、余程気のつく人らしく、
「そんな汚れた軍服で、閣下にお会いするつもりですか?」
「洗濯をしてすぐに乾かしますから、どうぞ、お風呂で汗を流してきてください」
「失礼ですが、南方からのお帰りですか?」
「少し、匂いますよ…」
さすがにそう言われては、返す言葉もなく、女将の言うとおりにすることにした。確かに、ここ数日間は、シャワーも浴びていたかった。
女将は、「さあ、こちらです…」と案内すると、真一郎の脱いだ衣類を一切合切抱えて何処かに行ってしまった。
後には、下帯と浴衣があるのみだった。
これでは、浴衣を着ている他はない。
湯は、少し熱めではあったが、体全体をほぐすように体に纏わり付いた。その感触は、まさに「夢心地」だった。
髪も洗い、体に石鹸をつけて洗うと、洗面器が汚れた。
(なるほど、これでは、匂うはずだ…)
確かに、この体では失礼だろう。だから、伊藤次長は、真一郎に風呂を勧めたのだ。(だから、あまりそばに寄って来なかったのかあ…?)
女将のお陰で、身も心もさっぱりとすることができた。
座敷に戻ると、冷たいサイダーが一本置かれていた。
これも、女将の心遣いだろう。
(さすが、ベテラン女将だ。このくらい気がつかなければ、戦争中に料亭などを切り盛りすることはできないだろうな…?)
そんなことを考えているうちに旅の疲れが出たのか、畳の上で少し寝てしまったらしい。
気がつくと毛布が体に掛けられている…。
1900。
伊藤次長は時間どおりに私が待っている奥座敷に顔を出した。
さすがに、切れ者の軍令部次長である。
海軍の軍人は、この「時間感覚」で、その人間を推し量るのを常としていた。
大体、時間にルーズな人間に重要な作戦は任せられないというのが、海軍の伝統である。伊藤整一という軍人もさすがに生粋の海軍軍人なのだろう。
伊藤次長は、座敷に入るなり、
「なんだ、寛いでいればいいものを…」
と言ってくれた。
真一郎もばかではない。30分前には起きて女将が持って来てくれた軍服に袖を通し、正座して待っていたのだ。
洗濯も素早いが、それをアイロンで乾かすのも大変だったろう…。
中のシャツまで糊が利いている。
これなら、匂うことはない。
伊藤次長は、そんなことはおくびにも出さず、上座に座った。
それにしても、海軍軍令部次長の中将が、海軍大尉、それも主計科の士官を接待するなど前代未聞である。
(私は、皇族じゃないぞ…?)と思ったが、子細は聞くまではわからない。
真一郎は、内務班長時代の感覚が蘇るような気がしていた。
内務班時代は、相手の言葉だけでな、しぐさ一つからでも拾える情報はあった。それが、今、蘇るような感覚があった。
伊藤次長は、人払いをすると、懐から一通の封書を取り出した。
座卓に置かれたその封書を見ると、それは、伊藤次長宛のもので、正式な「海軍」の封筒が使われており、表には「親展」の朱文字が見えた。
手に取ると、その筆文字は間違いなく山本長官のものだった。
後ろを見ると、やはり、筆文字で「山本五十六」とあった。
今になれば、貴重なものだろうが、これを真一郎に見せる伊藤次長の真意が測りかねた。
真一郎が、封書を返すと、
「そうだ、これが先ほど話した山本長官からの手紙だ…」
「この後、長官は戦死されたので、これが、長官最後の手紙ということになるだろう…」
「取り敢えず、読んでみた前…」
手渡された手紙を封筒から取り出すと、そこには、何度も読み返したであろう痕跡が見えた。
(これほど、重要なものを私が読んでもいいのか…?)
筆で書かれた文字は、達筆でありながら、心が乱れているような箇所がいくつも見られた。しかし、細かく書かれたその文字は、便箋数枚にも及び、山本長官が何かを伝えたかった…ということだけはわかった。
真一郎は、内務班長のときと同じように、文字を一文字ずつ追った。
最初は、普通の時候の挨拶だが、文字の大きさに乱れがある。
多分、書こうか書くまいか迷っていたのではないか…。しかし、しばらくすると、小さいながらも、文字に乱れがなくなったようだ。
そして、最後にまた、書くことを躊躇うような乱れが出て来る。
人間が、感情をコントロールしようとすると、それはどうしても指先に出るのだ。
兵隊の手紙を何度も検閲していると、その手紙の内容が嘘か真かがわかるようになってくる。
それを「なんだこれは…?」と咎めることもできるのだが、真一郎は、手紙はなるべくそのまま送るようにしていた。
立派な文章であっても、実情を書くことはできない。
しかし、その指先の震えた文字は、家族、特に母親にならわかるだろう。
それが、最後の手紙になるとすれば、勇ましい文面の裏に隠された息子の気持ちを母親なら察するものだ。
この山本長官の手紙は、便箋を何度も折った跡があり、文字にも乱れがある。
(書き残したいが、それをすれば、自分の弱さを伝えることになる…)
そんな躊躇いが見える一文字一文字だった。
そして、数分間の沈黙が流れた。
真一郎は、無言のまま、それを読み進めていた。
いや、呼吸を意識できなかったという方が正確だろう。そして、その内容は、あのラバウルでの一夜を瞬時に蘇らせた。
山本長官は、真一郎にこう呟いていたのだ。
「草野大尉。恥ずかしいことだが、この戦に私は自信が持てないんだよ…」
「ここまで、軍を引っ張って来てしまったが、アメリカは強大だ。叩いても叩いても、アメリカは強くなって反撃して来る」
「その度に我が軍は、少しずつ戦力を削られ、いずれはすべてを失い灰になるだろう。もう、戦略を根本から考え直さねばならぬ。そのためには、軍令部の協力が必要だ…」
「この作戦が終わり次第、帰国し、伊藤整一次長に会うつもりだ。そして、強力な機動部隊を編成し直す。そのためには、大和も武蔵も、もう旗艦などと言ってはおられぬ。作戦の正面に押し出し、最後の決戦に勝負を賭ける。それでだめなら、降伏もやむを得ぬ!」
「そして、連合艦隊は、機動部隊と護衛艦隊だけでいい…」
「小型空母は、輸送船団を空から護衛し、巡洋艦部隊は輸送船の護衛に回すつもりだ…」
「そして、潜水艦部隊は、敵の交通路遮断作戦に従事させる!」
「きっと、上の連中は大反対だろうが、伊藤と組めば何とかなる。もし、君が帰国して伊藤次長に会う機会があったら、ぜひ、山本がこう言っていたと伝えてくれ給え…」
「但し、これは内密に頼む。万が一、私が帰らない場合は、君から伊藤次長に念を押してくれ…。頼んだよ!」
「それに、例の件も、くれぐれもな…」
「例の件」とは、真一郎にとっても(極秘中の極秘任務)だった。
その晩は、真一郎にとっても、忘れがたい夜になった。
その会話が、今、真一郎の脳裏に強く蘇ったのである。
手紙には、まさに、そのことが書かれていた。そして、最後に、
「草野真一郎主計大尉を帰国させますので、一度、お会いくださるようお願い申し上げます…」
と結んでいた。
(そうか、私は、このために帰国させられるのか…?)
(あの贈り物は、その序でなのか…。いや、こっちが序でかも知れない…)
そう思うと、あの山本長官の苦笑の意味がわかるような気がした。
伊藤次長は、私が手紙を読み終えると、
「草野大尉。残念だが、山本長官亡き今、この戦略構想を実現できる力は、私にはない…」
「もちろん、努力はするつもりだが、大和や武蔵を機動部隊の護衛に回す話も、輸送船団を空母や巡洋艦で守る話もすぐには無理だろう…」
そう呟くと、如何にも残念そうだった。そして、
「私も間もなく、次長職から離れる。そのうち、艦隊を率いることになるだろうが、山本長官の期待には応えられそうにない…」
「君には、わざわざ、呉に転属してもらったが、その力を十分に生かす場所ではないようだ。すまない…」
そう言って、頭をさげるのだった。
中将に頭を下げられては、どうしようもないのだが、所詮は一主計士官の身であれば、何処に配属になろうが気にもならなかった。
寧ろ、帰国できたことを感謝する他はない。
用件が済むと、伊藤次長は早々に退席して行った。
最後に、
「これで、君と会うのも最後かも知れんなあ…。君のような青年は、これからの日本必要だと思うよ…」
そう言うと、軽く敬礼をして去って行った。
真一郎も女将に礼を言うと、久しぶりに東京の実家に顔を出した。
これも、山本長官の優しさと感謝したのだった。
伊藤軍令部次長は、この後、海軍大学校に異動になり、終戦の年に戦艦大和を旗艦とする「第二艦隊司令長官」に補され、海上特攻をする役目を担わされることになる。
運命とはいえ、それは、辛い任務に違いない。
軍人として生死を賭けるのは本望としても、成功の見込みのない作戦ほど悔しいことはないのだ。
まして、軍令部で長い間指揮を執っていた身としては、やるせない思いに駆られたに違いない。しかし、それを表情にも出さず、淡々と出撃命令を受けたそうだ。
せめて、航空機の支援でもあれば…と思うが、それも許されなかったと聞く。
そう言えば、伊藤長官の長男も海軍飛行将校として、同じ日に特攻出撃したと聞いた。これも何かの因縁なのか…?
久しぶりに佐藤の言葉から、伊藤中将の顔や言葉が浮かんだ。
(そうか…、あの伊藤中将なら、多くの兵を見殺しにもできなかっただろう…)
まして、自分が生き残って泳いでいれば、自分が助かることより、兵を救う方が優先されるのが、伊藤中将という人だろう。それに、伊藤中将は、こんな作戦に賛同するはずがない。
軍令部と連合艦隊の意思を尊重して、「海上特攻」とやらに命を賭けることにしたのだろうが、それよりも己の無力さを感じての諦めかも知れない。
これは、最早、作戦と呼べないことも伊藤中将は百も承知していたはずだ。 それでも了解したのは、山本長官の意思を継げなかった自分の不甲斐なさと、無念さがあったからなのだ。
ここからは、真一郎の想像だが、真一郎の「想像」は、けっして根拠のない妄想ではない。
これまでも、多くの難事件を解決してきたのは、この類い希な「想像力」と「分析力」を駆使してきたからに他ならない。
他人にはわからなくても、真一郎は、自分の「勘」とも言うべき想像力を侮ってはいなかった。
それに、真実は、意外と思いも寄らない身近なところに潜んでいるものなのだ。
これまでの経験で、何度も「まさか…?」という事件に遭遇してきた真一郎には、「通説とは違う伊藤整一がいてもいい…」と思っていた。
それは、あの山本五十六長官がまさにそういう人だったからである。
真一郎が聞いていた伊藤長官の最期は次のようなものだった。
大和は敵機の攻撃を一手に引き受けて応戦していたが、雲が厚く垂れ込めていることもあって、見通しが利かず、主砲が使えなかった。さらに、敵機の速度に対応できる対空射撃装置もなく、機関砲で敵機を撃ち落とすのは至難だった。
それでも、大和は転舵を繰り返し、必死に抗ったが、結局は魚雷攻撃によって吃水線から下を破壊され、いくら注水を繰り返しても復元は直らず、最期はやむを得ず艦長による「退艦命令」が出されたのだ。
そのとき、艦橋では、第二艦隊参謀長の森下信衛少将が、伊藤長官を見据えて、
「長官、そろそろ、作戦中止命令を出してもよろしいのではないですか?」
と尋ねると、伊藤長官は、森下の眼を見ると、
「そうですね…。ここまでご苦労様でした…」
と言い、有賀艦長に「総員退艦を…」と命じたと言われている。
そして、一人静かに長官室に入ると、中から鍵を掛けたそうだが、それを見た者は、だれもいない。
最早、だれもが「死」を意識しており、長官が先んじて自決しても、だれもおかしいと思う者もいなかっただろう。
それに、だれもが、戦闘中の慌ただしさで、長官の最期に注意を払う者はいなかった。ただ、(指揮官は、そうあるべきだ…)という海軍の伝統が頭に浮かんだに過ぎない。
つまり、見た者がいないのに、みんなの思い込みが一人歩きをして伝わったに過ぎないのだ。
そのとき、有賀艦長や森下参謀長は、最後まで艦橋に残っていたそうだが、大和が沈む時、森下参謀長他数名が海に投げ出された。
実際、副長の能村大佐も瀕死の状態で生き残っている。
副長も艦橋が配置だから、その状況は把握しているはずだが、伊藤長官について語った記録はない。
大和の戦闘記録は、本来、副長が書くものだが、副長の能村大佐は、人事不省だったために、生き残りの次席だった副砲長の清水少佐が戦闘記録を書いたと言うことだ。
ここで、すべての人は「伊藤長官は、長官室で自決した…」と思い込んでいるようだが、本当にそうなのだろうか…。
真一郎は、伊藤長官に「積極的な自決はない…」と考えていた。
本来であれば、この作戦の最高指揮官として軍令部に報告すべきであったろうが、多くの部下将兵を失った今、一人おめおめと生き残ることはできない。
だからと言って、まだ、作戦が終了したわけではない。
大和は沈んだが、第二艦隊が全滅したわけではない以上、残存艦艇を率いて沖縄に向かう選択肢は残されているのだ。
その確認をしないまま、一人自決することは、任務の放棄とも言えるのではないか。
あの生真面目な伊藤長官であれば、そう考えても不思議ではない。
もし、大和と共に死ぬことを選ぶことが許されるとすれば、それは、艦長の
「有賀幸作大佐」だけである。
日本海軍には、司令長官が艦と運命を共にする義務も責任もない。
日本の敗北のきっかけになったミッドウェイ海戦時でも、正規空母四隻を失った南雲機動部隊で、自ら死んだ指揮官は、空母の艦長を除けば第二航空戦隊の司令官だった山口多聞少将以外にはいない。
最高指揮官の南雲忠一中将は空母赤城から離れ、軽巡洋艦に移って指揮を執っている。その例を考えれば、伊藤整一中将も大和を離れ、他艦で指揮を執ることも可能なのだ。
そして、この作戦の目的が「沖縄突入」だとしたら、たとえ主力艦である大和を失ったとしても、駆逐艦が残されている。わずか一艦になろうと、作戦続行は可能なのだ。
しかし、主力艦の大和を失ってしまえば、効果的な作戦は不可能である。それでも、立ち向かおうとする意思さえあれば、戦える。
それは、最早、作戦の成否というより、男の意地なのだろう。
この作戦を引き受けたときから、伊藤長官には複雑な思いがあったに違いない。
自分が軍令部にいたら…、こんな作戦は絶対にさせなかった…とでも言うような悔しさはあったはずなのだ。
そんな伊藤長官が、「自殺」という一番安易な選択をするはずがない。
ここでは、「武士の潔さ」は無用なのだ。
それより、残された多くの将兵がいる限り、第二艦隊の最高指揮官は生きねばならなかったのだ。
事実、伊藤長官は、この特攻作戦には最後まで反対の姿勢を貫いていた。
もちろん、最後は軍令部と連合艦隊の顔を立てて、やむを得ず「了解」したが、それは、自分の意思にも山本五十六元帥の意思にもなかった。
こんな作戦で「大和」を無駄に使うことは、許されない。
したがって、運命が「死」を命じたとしても、伊藤長官は、最後まで戦うことを選んだに違いない。
伊藤長官は、だれもが望むような「自決」を拒否することで、この無謀な作戦への「抗議」を示したに違いない。
無論、それを証明できる者はいないが、自分の心にだけは嘘は吐きたくなかったのだ。そして、それは、自決を拒否し、自分の死をも「運命に委ねる」ことだったに違いない。
そして、運命は、伊藤長官にすぐに「死」を与えなかった。
長官室のドアに敢えて鍵を掛けなかった伊藤中将は、大和が沈む時に、外に吸い出されて浮上したのだろう。
あの森下参謀長も、艦橋の割れた窓から外に吸い出されるようにして浮上したと言うから、伊藤中将も開いたドアか、破れた舷窓から外に出たのかも知れない。
そこに、自分の意思が働いていたかどうかはわからないが、運命というものは、時にそんないたずらをするものなのだ。
実際、だれも伊藤長官が長官室に入ってからは、その姿を見ていないのだから、その場で自決したと思うのは勝手だが、それは「想像」でしかない。
真一郎は、伊藤長官の優しげな顔を思い出しながら、そんな想像を働かせていた。
翌日、佐藤が民宿まで軽トラックで迎えに来てくれた。
「分隊長、夕べはありがとうございました。あまりお役に立てずにすみませんでした。ところで、これからどうされますか…?」
真一郎は、少し考えてから、
「実は、森下参謀長のところに行ってみようと思うんだ…。確か、知多半島の村にいるという話は聞いていたんだが…」
真一郎は、夕べ一晩考えていて、森下信衛少将なら伊藤長官の行動が理解できるかも知れないと考えたからである。
まして、「操艦の神様」とまで呼ばれた人が、伊藤長官の考えを知らぬはずがない。それに、森下少将は、海軍の中でも「戦略家」としても知られた人物で、山本長官とも縁のある人なのだ。
森下少将も大和艦長としての経験があり、レイテ沖海戦での操艦の見事さは、海軍将兵の語り草になっている。
佐藤によれば、
「あのとき、森下参謀長が艦長として操艦しておれば、ひょっとして大和は沖縄に行けたかも知れませんなあ…」
と言うくらい、だれもが、森下少将を信頼していたのだ。
真一郎とは、乗り組んでいた時期が違うので面識はないが、同じ「大和乗組員」として親しみを感じていた。
それに、伊藤長官が信頼した参謀長であれば、あの手紙のことも知っているかも知れない。そんな期待も高まっていた。
真一郎は、佐藤に送られて松山港に戻り、またの再会を約束して船に乗った。
今度の船は、前日の船長の船ではなかった。
船長は、さらに年配の男で、あまり愛想のないことから見ても、この辺りの漁師なのだろう…? それなら、それで安心して乗れる。
船が出ると、佐藤は、いつまでも埠頭で手を振ってくれていた。
佐藤にしても、大和のことを話せる戦友は何人もいないはずなのだ。
一緒に働いた主計科の戦友たちの多くは戦死しており、大和と共に沈んでしまった者もいた。
まして、佐藤は、大和が沈んで行く様を雪風の甲板上から見ているのだ。
それは、辛いことだったに違いない。
昨晩は、飲みながら、多くの仲間たちを思い出したが、その思い出を語る仲間はもういない。
佐藤の寂しげな横顔が、真一郎にも辛かった。
真一郎は、その日のうちに名古屋に出て名鉄に乗り換え、知多半島の突端近くの漁村に向かった。
辺りに宿などはなく、行き当たりばったりの旅だったが、心の中のモヤモヤを解決してくれるのは、森下信衛少将しかいないと思った。
いつも慎重な真一郎にしては、珍しい行動だったが、自分の想像したことを一刻も早く確かめたかったのである。
真一郎が、知多半島の先端の村に着いたときは、既に陽が傾き始めていた。
冬の夕暮れは早い。
特に森下少将の住所を知っていたわけではないが、あてずっぽということもなかった。
戦争が終わって7年が経過したと言っても、人々の記憶は確かである。
まして、「村から出た海軍少将」となれば、知らぬ者はいないだろう。
そう考えて、到着した駅の駅員に尋ねると、やはり、すぐにわかった。
「ああ、提督さんね…?」
「森下さんだろ…。あの人なら、港の近くで釣り餌と手焼きせんべいの店をやってるよ…」
「近くで聞けば、みんな知ってるから…」
まだ若い駅員だったが、この辺りでは知らぬ者はいないらしい…。それはそうだろう。都会と違って、田舎で「少将」と言えば、村長だって頭を下げる偉い人だったのだ。
しかし、敗戦後は辛かったのではないだろうか…?
今では、元軍人は、差別の対象だからな…。
「公職追放」も、この春には解除になったようだが、一度職を離れた者に戻る席がないのは当然だった。それくらい肩身は狭いのだ。
東京でさえ、「昔海軍にいた…」と言っただけで帰っていく客もいるくらいだ。
だれもが、心と体に大きな傷を負って生きているのだから、仕方がないが、森下少将も、何も敢えて故郷に戻って来なくてもよかっただろうに…。
それとも、そんなことは百も承知で故郷に頭を下げに戻ったのかも知れない。そして、戦争の責任を一人で抱えているのだろう。
まじめと言えばまじめだが、そこまで責任を感じなくても…と思う真一郎だった。
その家は、すぐに見つかった。
小さなバラックのような家だが、屋根に大きく「森下煎餅」と看板が出ていたからである。
(お、ここか…?)
(それにしても、森下さんもご苦労されているんじゃないかな…?)
そんな思いが頭を過ったが、人はそれぞれの暮らしがある…と割り切って、店の戸を開けた。
奥から、女の声が聞こえた。
「いらっしゃい…。何にします…?」
そう言いながら、パタパタと走って出てきたのは、二十歳過ぎくらいの若い女だった。
「あ、失礼します。実は、私は客ではなく、こういう者なんです…」
そう言って、名刺を差し出した。
「はあ…?」
女は、細面で、背の高い人だった。美人と言っていい…。
「弁護士さん…?」
「はい。実は、森下信衛さんにお尋ねしたいことがありまして。東京から参りました…」
真一郎が、用件を伝えると、女は、
「はい、父は間もなく戻ってくると思いますので、店先ですみませんが、そちらに掛けてお待ちください」
そう言って、一度奥に下がると、お茶と煎餅を持って出てきた。
「売り物ですみませが…」
そう言って、ちょこんと頭を下げた。
(森下少将は、この娘さんと二人暮らしなのかな…?)
と思ったが、余計な詮索はしないのが礼儀というものだ…と真一郎は、妄想を消した。
「あ、ありがとうございます…」
いくら初冬とはいえ、夕方になると風が冷たくなる。
特に海からの風は、特に冷たい。
そんな時間に温かいお茶は嬉しかった。
煎餅を一口かじると、薄くて歯触りのいい煎餅は、醤油と米の味が口いっぱいに広がった。
(ほう、これは旨い煎餅だ…)
パリパリ…と煎餅をかじりながら、真一郎は、何をするでもなく、ぼうっとガラス戸の外の風景を眺めていた。
今日は、冬晴れのいい日で、コートがいらないくらい暖かかったが、さすがにこの時間になると冷えて来る。
それでも、日がある内は、ガラス戸越しの太陽の熱が温かい。
(東京であくせく働くよりも、こうした田舎でのんびり暮らすのもいいかも知れないな…)
そんなことをぼんやりと考えていると、ガラス戸の外に人影が見えた。
その人影は、ガラス戸を過ぎると、どうやら裏口に回ったらしい。
裏から、声が聞こえる。
男の声だ…。
「今、帰った…。客か…?」
奥で何か会話をしているようだった。
少し経つと、店の奥から背の高い痩せた初老の男が顔を出した。
紛れもない、森下信衛その人である。
真一郎が、スクッと立って頭を下げると、森下は、
「おや、海軍の人かな…。最近、珍しいな…」
「名刺を見たよ。草野真一郎元少佐。森下です…」
そう言うと、真一郎を奥の座敷に案内してくれた。
座敷に通され、改めて挨拶をすると、森下は、思いがけない言葉を口にした。
「いや、いつか、君が訪ねてくるんじゃないか…と思っておったんだ…」
「どうせ、伊藤さんのことだろう…?」
森下は、海軍時代と同じような赤銅色の顔を少しだけ歪めると、座敷に腰を下ろし、座卓を挟んで対面するような形になった。
「どうして、私のことをご存知だったのですか?」
さすがの真一郎も、面識のない森下少将にすべてを読まれているようで、面食らっていた。
「いや、どうと言うこともないさ。伊藤さんから君のことは聞いておったんだよ…。大和内務班長!」
「別名、鬼の草野。または、仏の草野。大和じゃ、知らん者はおらんからな…」
そう言うと、大きな口を開けて笑った。
真一郎は、(俺は、そんなに有名なのか…?)と首を傾げたが、森下少将が言うのだから、そうなのだろう。
そして、しばらく雑談を交わした後で、肝腎の「噂話」を尋ねてみた。
すると、森下少将は、
「ああ、やはりな…?」
「そういうこともあったかも知れん…」
そう言うと、少し遠いところでも見るように、切れ長の眼を細めて何かを思い出しているようだった。
そして、森下少将の口から出てきた言葉が、真一郎には衝撃的だった。
「実は、私と伊藤長官は、大和が沖縄にたどり着けないことを想定して、その後のことを話し合っていたんだよ」
「今時、空からの護衛もなしに敵地に向かう艦隊など、どうぞ沈めてください…と言っているようなもんじゃないか?」
「マレー沖で、イギリス艦隊を沈めたのは、日本海軍航空隊だぞ!」
「だから、俺は、こんな作戦で死ぬのはご免だ!と伊藤さんに言ったんだ。そして、できれば、生き残って、我々の手で如何に愚かな作戦だったかを戦闘記録に残し、堂々と軍令部や連合艦隊に文句を言ってやるつもりだったんだ…」
「だから、伊藤さんが長官室で自決するはずがないんだよ…」
「もちろん、生き残る確率は万に一つもないだろう。しかし、それに賭ける意味はある…」
「だから、お互いに、簡単に自ら死を選ばず、生きる努力だけはしようと誓ったのだ!」
「そして、運良く私は生き残った。近くを泳いでいた山本という従兵が助けてくれた…」
「しかし、私は、その記憶があまりない。ただ、助けられた後、必死に長官を探したことは確かだ!」
「すると、生き残った多くの兵から、長官を見た、長官に声をかけてもらった…という声がいくつもあったんだ」
「私は、そのとき、長官は生きていると思った。そして、何度も長官の所在を見つけようとしたんだが、何処にも長官はいなかった…」
「やはり、伊藤さんは、多くの部下を失って、おめおめと生きることはできなかったんだろう…?」
真一郎は、(やはり、長官室に鍵は掛けられていなかったんだ…)と確信した。そして、塚本上水の話を森下少将に語った。
「そうか、その兵隊を助けたのは伊藤さんだったのかも知れんなあ…」
「そこで長官自身が力尽きたのか、それとも、また、兵を救おうと泳ぎだしたのか…はわからんが、生き残った兵を一人でも救うことに自分の生きる意味を見つけたのかも知れん…」
「それも伊藤さんらしい生き方だよ。草野君…」
二人は、その晩は、酒を酌み交わしながら、さらに夜が更けるまで大和と伊藤長官の話をし続けた。そして、あの山本長官の私への「言伝」の話を聞くと、森下少将は、
「はあ…、そこが山本さんらしいと言えばらしいなあ…」
「純粋と言えば純粋だが、子供みたいな恋愛が、山本さんなんだろう…」
「だから、しょっちゅうフラれるんだよ…、まったく」
「だけど、この話、だれにも言わん方がいいな…。彼の名誉に関わるからな…」
「今でも、山本五十六伝説は根強いからな…。山本さんが指揮を執ったって、あんな戦争に勝てるわけがない!」
「あのころは、みんな熱に浮かされていたみたいで、どうかしてたんだよ…」
「まあ、そういう俺も人のことは言えんがな…」
そう言う森下少将は、何処か寂しげで、やはり「海」に未練があるのだろうと思った。
今は、釣り餌と煎餅でなんとか暮らしているようだったが、漁協に頼まれることも多く、若い漁師相手に気象や操船などの講習もやっているらしい。
ここの漁協の組合長は、やはり元海軍の特務士官で森下少将とは同年配。 森下少将のことは、海軍で「操艦の神様」と呼ばれていたことも知っており、「提督、提督…」と呼んで慕っているらしい。
その配慮で、旧式の漁船を貸してもらえる算段がついたと喜んでいた。
「そうなりゃ、また、太平洋に出て一稼ぎさ!」
「私は、山本さんや伊藤さんの分まで生きてやるつもりだ!」
と言っていた。
結局、朝まで痛飲した二人だったが、さすがに海軍で鍛えた体は、翌日のあら汁で吹っ飛んでしまった。
森下少将の奥さんは、先年、病で亡くなっていた。
長男を東京の大学にやっており、今は、娘の洋子さんと一緒に暮らしているらしいが、いずれは一人で暮らすと言っていた。
それも、森下少将らしい生き方なんだろう。
翌朝、真一郎は、森下少将に礼を述べると、
「その塚本という上水に伝えてくれ」
「そりゃあ、伊藤さんだよって森下が言っていたとな…」
そう言って、別れた。
森下少将は、朝から煎餅を焼くのに忙しいらしい…。
その後、森下少将は、借りた漁船を操って太平洋に出た。
しかし、操船は上手かったが、漁師の腕はそれだけで決まる話ではない。
しばらくすると、やはり、煎餅屋に戻っていた。
それでも、たまに漁船に乗ると生き生きとしていたそうだ。そして、若い漁師たちに操船を教え、煎餅屋もそこそこに繁盛して生涯を閉じた。
65歳だった。
森下少将を訪ねた真一郎は、東京に戻ると早速塚本上水を呼び出し、わかったことの詳細を報告した。
愛媛の元部下である佐藤と愛知の森下少将を訪ねたことに加えて、真一郎自身が推理した伊藤長官の最期を語って聞かせた。
およそ一時間、塚本は真一郎の言葉を真剣に聞いていた。
真一郎が話し終えると、塚本は、思い出したかのように、こんなことを話した。
「そう言えば、私を助けてくれた兵隊は、長髪でした。今考えれば、丸刈りではない…。あのころは、士官でも中尉くらいまでは丸刈りが常識で、髪を伸ばしていたのは、古参の大尉以上だったはずです」
「それに、軍服が黒だったような気がします。陽が暮れていたし、海も重油で真っ黒でしたから、兵隊の着ている服の色まではわかるはずがないのですが、あのときは、全員が草色の三種軍装を着るように言われていましたので、私も草色の兵隊服を着ていました」
「でも、あの人の軍服は、草色ではなかった…」
「それに、私にかけてくれた言葉は、間違いなく(若いもんが…)と言っていました」
「じゃあ、あれが、伊藤長官だったのでしょうか…?」
それを聞くと、真一郎も(なるほど…)とは思ったが、飽くまで可能性の問題である。断定はできない。
それに、後でわかったことだが、大和高射長だった川崎少佐が、やはり、兵隊たちを助けようと泳ぎ回り、最後に大和の沈んだ方向に泳いでいったという目撃情報が入ってきた。
ただ、川崎少佐は髭がトレードマークで、海の上でも髭が垂れていたことから、川崎少佐が泳いで部下に声をかけたことを多くの兵が覚えていた。
それなら、塚本を助けたのは、川崎少佐だった可能性もある。しかし、髪は長いが、軍服は、草色だ。士官は、それにネクタイを巻いているので、外したとしても、開襟シャツも草色である。
それに、あの独特の長い髭は、間違いようがないだろう。
結局、この話は、結論の出ない話となった。
しかし、伊藤長官の無念を考えると、最後まで部下を助けようと泳ぎ回っていた方が、長官らしいとも言える…。
塚本には、最後に森下少将の伝言を伝えた。
「そりゃあ、森下さんだよ…」
真一郎が、その言葉を伝えると、塚本は顔を上げて嬉しそうに言った。
「そうですよね…。私は、長官に救われたんですね…?」
「わかりました。これで、私も納得できました。有り難いです…」
そう言って、涙を浮かべた。
真一郎にとって、この依頼は自分にとっての「大和」を振り返るいい機会となった。
戦艦大和は、その大きさ故に誇張をもって語られることが多く、「大和を有効に使っていれば…」という話も聞くが、真一郎はそうは思わない。
いくら巨大戦艦といえども、それを動かすのが人間である以上、その乗組員一人一人が機能しなければ、無用の長物と化すのだ。
真一郎が乗艦中も多くの人間くさい事件が起きた。
周りからは「神様」のように思われていた、あの山本五十六長官でも、やはり人間だった。
そして、大和の最期を看取ったのも、最も人間らしい伊藤整一という人だった。
大和には、約3000人の将兵が乗り込み、無謀な作戦に従事して、その8割を失った。しかし、だれもが伊藤長官を慕い、今尚、伊藤長官が生き残った部下を救っているとすれば、それはそれで本望なのではないかと思う。
真一郎は、祐子の淹れてくれたお茶を啜りながら、森下煎餅をパリパリと囓りながら、そんなことを考えていた。
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