最近のニュースで「教師の働き方」が話題になりますが、他の業種の人は、一体どんな働き方をされているのでしょう。私も40年近く教師として働きましたが、それが「普通」だと思っていましたので、今ごろになって論評されるのが不思議でなりません。おそらくは、教師の仕事が「ブラック」だと言われ、志願者が激減したことと関係があるとは思いますが、単に「労働時間」だけの問題が、現状を表しているわけではないと思います。私も既に「66才」という年齢になり「自分だけの時間」を多く持てるようになりましたが、この炎天下の中でも屋外で働いている人はいくらでもいます。実際、日中、屋外で作業をしているような人は、常に「体力」を削られ、「エアコン」の効いた室内で働いている職種の人より、何倍もきついはずです。それは、「労働時間」などで単純に測れるものではなく、同じ「8時間労働」であっても、心身に及ぼす影響は計り知れません。しかし、また、最近の日本人の傾向でもある「ストレス」の問題もあるでしょう。もちろん、「ストレスゼロ」なんて職場があるはずはありませんが、それも過ぎると「心の病」を発症します。街を見ると、「精神科」と書かれたクリニックの看板をよく眼にします。それに、人間というものは、単純に「労働時間」だけを気にして働いているわけではありません。そこには、「やり甲斐」や「成果」といった自分の気持ちを高めてくれる「質」があるからこそ「働ける」のです。どんなに頑張って働いても、成果が見えづらかったり、「誹謗中傷」を受けるような仕事では、短期間で嫌になってしまいます。後から、「よく頑張ってくれた」というひと言があれば、人間は多少の無理はできるものです。今の「教師」の現状は、何か「大切なもの」を失ったからこそ起きてる問題のような気がします。せっかくの機会ですので、私自身の経験に基づいて、「教師の働き方」と「教師の気持ち」について述べたいと思います。
1 日本の教育は、厳しい「管理」には向かない
今の日本は、「管理」することで「質」が向上すると考えているようですが、それは、その仕事(作業)の本質を知らない人の妄言です。もちろん、「管理するな」と言っているわけではありません。「組織」が望ましい形で運営されるためには、だれもが納得する「管理」は必要です。昔、日本海軍は、「月月火水木金金」と歌われたように、1週間休まずに訓練することを「よし」として、それを社会に誇っていました。逆にアメリカ海軍は、戦争中であっても「日曜日」を設け、「休暇」を設けて「交代制」で戦っていました。さて、どちらが「強かった」でしょう。もちろん、戦争に勝った「アメリカ」です。日本人は兎角「休む」ことを「怠惰」と見て、あまりいい顔をしません。今、甲子園球場では「全国高校野球選手権大会」が開かれていますが、何故、猛暑の中で「野球の試合」をさせるのでしょう。それは、国民は望むからだそうです。「暑い中を汗と泥にまみれて白球を追う球児」の姿が、感動を呼ぶのだそうですが、よく考えてみれば「熱中症」のリスクが高く、教育の場として相応しい環境とは思えません。学校で考えれば、真夏に校庭で「運動会」をやっているようなものです。ファンは、「高校球児は、そんなヤワじゃないよ!」と言うのでしょうが、応援する在校生や保護者、地元の人は「暑いスタンド」でたまったものではありません。まったく「不合理」な話なのですが、これを「健康上よくないから止めよう…」という話にはならないようです。この「不合理さ」を内面に持っているのが「日本人」なのでしょう。
時代が変わり、「適切な管理」の重要性を認識していながら、できない日本人だからこそ、あちこちで問題が生じているのです。そして、一方では「管理することが重要」とばかりに、個々の「自由裁量」を奪い、恰も上から「監視」するかのように厳しく管理して満足している組織もあります。さて、それで「望ましい成果」は得られるのでしょうか。たとえば、「職人の世界」を考えてみてください。一人前の仕事ができるようになるためには、最低「10年」の経験が必要とされています。それは、「学歴の世界」などではなく、たとえ、高学歴な人間がその世界に飛び込んでも、必ずしも成功するとは限りません。現代のような「AI」万能な社会になったとしても、「職人の世界」は、存在し続けることでしょう。「職人」は、管理されて育つ職種ではありません。昔は「徒弟制度」のように、親方が「人の仕事を見て覚えろ!」と言われ、学校のように「教えられる」のではなく、「自分から覚えようとしなければ育たない」と言われました。確かに、強制的にでも教えられれば、ある程度までの技術は身につくと思いますが、さて、やる気のない人間が、そこまで「辛抱」できるでしょうか。今の「専門学校」でも、一年目での退学者が一番多いそうです。「これは、違う…」と早々に見切りをつけるのも賢い選択かも知れませんが、「わからないうちに」わかったふりをして「見切る」のは、現代人の甘さかも知れません。
一流の職人になりたければ、どうしても、「修行」をする期間が必要です。若者の中には、日本を飛び出して本場の世界で修行をする強者もいるようですが、その期間は、辛いこともぐっと堪えて頑張っているのだと思います。たとえ、「AI」があるからといって、何でも「機械頼み」では、一流の職人にはなれません。実は、「教育」にも同じことが言えると思います。日本政府は、教育を司る人たちが「公務員」であるが故に、国が「一元管理」をしようとしました。それは、全国一律に同程度の教育を施そうとした結果です。私は、これを「金太郎飴教育」と呼んでいますが、「何処を切っても同じ顔が出て来る教育」のことです。同じ教科書を使い、同じカリキュラムと指導方法で授業を行い、同じような採用試験で登用し、同じ「肩書き」をつける…。こうすれば、国は、「通達」一本で、全国の教職員を支配することができます。それは、昭和、平成と続くうちに年々厳しくなり、教師から「個性」が失われて行きました。まさに「金太郎飴教師」の誕生です。しかし、世の中が、「個性尊重の時代」に進む中で、教師だけが「金太郎飴」でいいのでしょうか。政府が頑張って良質な「金太郎飴」を大量生産しても、他に美味しい「菓子」はいくらでもあります。文部科学省は、二言目には「公教育のあり方」を説きますが、その「公教育」が変わらなければならない時期に来ていると思わないのでしょうか。
そもそも、政府は、「教育なんてだれにでもできる仕事だ…」と思っている節があります。これは、「教育」だけでなく「福祉」に携わる仕事も同じです。だからこそ、「低賃金」で働かせることができるのです。しかし、実際、「人」を扱う仕事は、そう容易いものではありません。ものごとを「理屈」で考えがちな人たちは、人の「感情」を考慮することがありません。なぜなら、人の感情を理屈で「説明」することができないからです。「説明できない」ことは考慮しなくてもいいのです。たとえば、教師の指導の指針である「学習指導要領」には、ありとあらゆる「理想」が盛り込まれています。そして、それを基に「教科書」が作られ「学校で子供に教えるように!」と、全国の教師に命令が出されます。そのため、日本の学校では、「教科書」を使わない授業は「違法」なのです。しかし、その教科書には「使用義務」がありますが、「教科書を教える」のではなく、「教科書を使って教える」と解釈されています。つまり、「教科書」は、教材の一つなのですが、国の管理が厳しくなってくると、教師たちは、教材研究をする時間が取れなくなり、「教科書を教える」ことで精一杯になってしまいました。こうして、日本の「金太郎飴教育」は完成したのです。以前のように、教師にゆとりがあったころは、じっくり「教材研究」をすることができました。そこでは、教科書は「一教材」であり、教師は、様々な資料を駆使して授業を展開していたのです。それが、いつの間にか、文部科学省が示した「課題」に追われるようになると、教材研究などをしている時間がないのです。本務である「授業」が疎かになる事態は異常としか言いようがありません。しかし、文部科学省にとっては、教師の「授業」など、どうでもいいことだったのです。
確かに、戦後間もなくのころは、教科書すら用意できない地方はいくつもありましたから、国が学校施設を用意し、教師を派遣し、教科書が無償で配られ、子供たちが学校に通えるだけで「幸福」でした。そして、それは、「国の復興」という大目的に合致したのです。それでも、学校の教師たちは、大正時代の「自由教育」に憧れ、「授業こそが、教師の命だ!」とばかりに、それぞれが、切磋琢磨するようにして「研究」を進めていました。一般の人には、「教師が何の研究をするんだ…?」と思うかも知れませんが、日本人は本当に「研究(勉強)熱心」なのです。これは、日本人の特性かも知れませんが、先ほど述べた「職人文化」が世界をリードしているように、一つの仕事を始めると、とことん追究しなければ気が済まない「職人気質」が目覚めるのかも知れません。考えてみれば、現代においても外食の「チェーン店」はたくさんできましたが、「個人経営の店」が廃れたわけではありません。どんな不便なところに店を開いても、客が「旨い!」となれば、SNSで情報が拡散され、客が集まってきます。今では、日本人より外国人観光客の方が多い店もあります。しかし、「チェーン店」に行列ができた話は聞きません。この「切磋琢磨」する「克己心」こそが、日本人が持つ「特性」なのだと思います。
そして、学校の教師たちも「公務員」とは言いながら、一つの「学級」を預かるリーダーであり、毎日5時間以上の授業を行う「教育専門職」なのです。それは、単に上司の命を受けて仕事の一部を行う作業とは異なり、最初から最後まで完結させる「職人仕事」だと言うことです。それは、多くの「職人」を見ればわかります。授業というものは、一応の計画は年度当初に立て、毎週の「授業計画」を管理職に提出しますが、細かな内容は担任(担当)教師に任されています。そこには、上司の指示も命令も助言もありません。その「授業の時間」だけは、一教師の「腕」が試される場なのです。そして、「授業の上手な教師」は尊敬され、子供や保護者からの信頼を得ることができます。管理職が認め、教育委員会が認めれば、教育委員会の「指導主事」に抜擢され、今度は、教師たちの指導者になっていく道もあります。小さな世界かも知れませんが、「授業が上手い!」は、教師への「最高の評価」だということです。これがわかっていないと、「日本の教育」を語ることはできません。そうした「授業」に拘りを持つ教師は、給料や勤務時間にはあまり関心を持ちません。「生活できる給料」がいただければ、後は「研究(勉強)のためなら、自分の時間を使っても構わない」という思想がありました。それを悉く破壊したのは、間違いなく「日本政府(文部科学省)」なのです。要するに政府は、もっと教師を信頼して「自由裁量」を認めてやれば、日本の教師のほとんどは、黙って「いい教育」を行うのです。
2 「組合活動」を潰すために躍起になった日本政府
元々、日本人が教師を目指すのは、「教育が崇高な使命を担っている」と思っていたからです。「未来を担う子供の将来」に関われる仕事は、教師しかありません。確かに、戦後、GHQの指令の下に日本では「労働組合」が作られました。それは、単に「労働者の権利を守り、待遇を改善するための活動」だけでなく、政治的な色彩の強いものでした。GHQは、敗戦直後は、日本に「共産革命」を起こさせ、ソ連と同じような国になることを意図していたようです。それが、アメリカの議会が中心となって、「レッドパージ(共産主義者追放運動)」が起きると、アメリカ自身の方針が大転換されました。それは、「冷戦」が始まったからです。それまでのアメリカの「容共主義」は、危険な思想だと認知され、アメリカ政府から「共産主義者」を排除していったのです。その影響は、占領下の日本にも及び、GHQから「共産主義者」が排除されました。このことがきっかけになり、日本での占領政策が大きく変わりました。日本国内の「保守主義者」が力を持つと、アメリカの支援を受けて「経済活動」が活発になり、朝鮮戦争でのアメリカ支援を明確にしました。アメリカにとっても、戦前に考えていたように「日本を排除すれば、アメリカはアジアに進出できる」といった夢は幻想であったことがわかり、「日本こそが、アジアにおける共産主義拡大の防波堤だ」という認識が生まれたのです。
しかし、GHQが日本の占領期に置いていった「革命の種」は、各所に残りました。GHQは、戦前の日本の「保守的な指導者」を根こそぎ「公職追放」しており、占領政策に都合の悪い「書籍」もすべて廃棄させていました。その上、国民には「贖罪意識」を植え付け、「日本は悪い侵略国家だったのだ」という教育を徹底的に行っていましたので、今更、修正もできません。占領が終わると、「後のことは日本で考えろ!」とばかりに、あらゆる「革命の種」を放置したまま、「占領」は終わったのです。教育においては、「教職員組合」が結成され、日本の左翼政党と連携してGHQの残した教育をそのまま実践していました。今でも各地に残る「平和教育」には、かなり左翼的思想なものが多く、戦争中に日本軍が行ったとされる「南京大虐殺事件」や「従軍慰安婦事件」を殊更に取り上げ、教育の場で教えていました。今では、この二つの事件共に「正確ではない…」といった理由から教科書会社も少し控えるところが出てきましたが、それでも、そんな教科書を使って教えられた子供たちが、それを信じるのは当然です。教科書自体が「検定」と言いながら、かなり左翼的な色合いの強いものがあり、日本政府もコントロールできなくなっていたのです。特に戦後の政治を主に委ねられた「自由民主党」の保守派の議員たちにしてみれば、そんな教育をしている教職員が憎くてなりませんでした。そこで、組合派の教職員を排除するために「教員免許更新制」を設けたり、文部科学省に命じて教職員の「管理」を厳しくしていったのです。
その結果、日本の教育は「自由度」がなくなり、教職員自体が文部科学省の指示によって厳しく「管理」されるようになりました。そして、個性のある教師は、現場から排除されるような動きになっていったのです。「服装がだらしない」「上司の命令を聞こうとしない」「反抗的だ」「言葉遣いが横柄だ」「生意気に見える」…など、それまでの「自由な雰囲気」はなくなり、だれもがリクルートスーツを着て、丁寧な言葉遣いをするように指導されました。それは、外見的には「見栄え」はいいのでしょうが、それができない教師は改善を要求されるか、左遷される憂き目を見たのです。それが、教師の「評価」となり、「上司にものを言うような人間」は、「問題教師」というレッテルが貼られ、現場から遠ざけられました。結果、組合活動も下火になり、採用試験の面接官から志願者が、「あなたは、組合活動をどう思いますか?」と尋ねられて「加入して頑張ります」と答えられるはずがありません。したがって、組織率は低下し続けました。しかし、本当に組合活動に熱心な教師は、全体の「数%」に過ぎませんでした。ほとんどの教師は、そんな政治活動より、子供の教育を真剣にやりたかったのです。そして、最後は「免許更新制」です。さすがに、廃止になりましたが、これが、どれだけ教師のやる気を削ぐことになったか、国民は知らなかったと思います。
だれが見ても、教員だけに課せられた「教員免許更新制」は、「教員いじめ」の最たるものでした。免許の更新手続きをしなければ、免許は「失効」となり、その時点で「失職」するのです。何も悪いこともせず、一生懸命教育に尽くしてきた教師を、単なる「事務手続き」の齟齬だけで「失職」させるのですから、日本政府が如何に教師を嫌っていたかがわかります。一般国民の中にも「教員免許」を持っている人はたくさんいましたが、更新の手続きを怠れば、自動的にその免許状は「失効」してしまうのです。こんなばかな話はありません。日本政府は、「教員なんてだれでもできる…」程度にしか考えていないことが、この一例でもわかります。この「免許更新制」は、夏季休業中に大学等で講習を受けて「合格」しなければなりませんが、その費用はすべて「教師の自腹」です。教師たちは、夏休み中などは、各教育委員会等が主催する「研修会」に参加していますので、特段「大学」で、改めて大学の教師から学ぶ必要がありませんでした。私の地元の短期大学の准教授と話をしていたとき、「私が、免許更新の講師をやっているのですが、参加者の皆さんの厳しい眼に晒され、本当に嫌でした。後で、アンケートを書いてもらうのですが、結構辛辣な言葉が並び、本当に困っています。私なんかより、すごい先生は一杯いらっしゃるのに…ですよ…?」と嘆いていました。大学の「教授」たちは、そんな参加者を怖れて、准教授たちに講師を振っていたようです。実態は、こんなものだったのです。
国の建前では、「教師の力量を下げないための方策である」と言っていましたが、それなら、他の「免許」も同じようにすれば公平だと思いますが、医師も弁護士も看護師も、他の国家資格の免許を保持した者に「更新制」はありませんでした。そんなことをすれば、その業界から猛反発が起きるのは眼に見えているからです。本当は、裁判官や検事、弁護士などの「法曹界」のエリートたちからやって欲しかったと思います。本音は、まさに、教師だけを狙い撃ちした「意地悪な悪法」だったのです。これは、安倍晋三内閣で実施され、次の民主党政権になっても引き継がれ、教師の多くは、「自分たちが、政治家や官僚たちから差別されている」ことを思い知るのです。残念ながら、安倍晋三元総理は、保守派の実力者でしたが、こと「教育」には素人だったようで、政府与党の有力政治家から「学校の教師は、本当に仕方がない。左翼活動ばかりしおって、あれじゃ、日本の教育は悪くなる一方だ!」などと、散々、教師の悪口を聞いていたのでしょう。そして、それを否定する政治家もいませんでした。当時は、与党も衆参両議院で過半数を取る時代でしたから、こんな悪法でも易々と通ってしまうのです。今になって、大した理由も述べずに「終わる」くらいなら、「最初から、やるんじゃない!」と、全国の教師たちは怒っています。
3 次々と繰り出される「教員いじめ」
この「教員免許更新制」が行われるようになったころから、文部科学省は、次々と学校に対して「無理難題」を押し付けてくるようになりました。おそらくは、「教師なんて、こき使って忙しくさせておけば、悪さはしないだろう…」くらいに考えていたのだと思います。与党の政治家が教師を憎み、その下で働く官僚たちが、教師を軽く見るようになると、彼らは、教師に対して好きなことを言うようになりました。その典型が「教師サービス論」です。政府自身が積極的に発信した「教師サービス論」は、瞬く間に国全体に広がり、国民が教師を軽く見るようになりました。「公務員下僕論」と同じです。国民は「俺たちの税金で飯を食わせてやっているんだから、お前等は俺たちの下僕だ。俺たちが気に入るようにもっと働け!」という思想です。今でもそうだと思いますが、役所に市民から電話が鳴ると、公務員は必要以上に謙り、丁寧な言葉遣いで応対します。相手は、横柄な態度でどんなに偉そうな口ぶりであっても、職員はひたすら電話を耳に当てながら頭をペコペコ下げて対応するのです。それが、国の言う「質のいいサービス」なのだそうですが、だれが見ても、「偉いご主人様」は市民・国民の皆様ということになります。一度でもこれに味をしめた人間は、相手が反論しないと見るや、本当に人が傷つく言葉をぶつけてきます。内心では(このやろう、訴えてやろうか…?)と思いますが、それを言っても上司は「まあまあ、役所だから仕方ないんだよ…」と頭を掻くばかりです。こんなことが、全国の役所で起きていますが、それが今や日本の「常識」になったようで、それが、学校にまで広がってしまいました。
最近の教育の現場で「質のいいサービス」とは、(1)叱らない指導、(2)誉める指導、(3)丁寧な指導、(4)説明責任を果たす、(5)時間無制限で対応する、(6)常に要望を聞く、(7)クレームを受けたら、ひたすら謝罪する、(8)親や子供に嫌われたら担任は替わる、(9)いじめ問題は、教師の責任で解決する、(10)子供は絶対に(心に…)傷をつけてはいけない、(11)悪いのは指導ができない教師にある…等々。「こんなことが人間にできるのか…?」というくらいの「サービス」を提供して「評価B」なのですから、やってられません。これで、教員志願者が集まる方は不思議です。文部科学省は、わざと志願者が集まらないように意図しているとしか思えません。今の志願者の学生は、実態を何も知らない暢気な人だけだと思います。学校では、「中途退職」が急増しているそうですが、それは人として「真面」な証拠だと思います。それだけでも無茶苦茶なのに、ここ20年くらいの間に文部科学省が、学校に出してきた「教育課題」は山ほどあります。(1)学力向上のための授業時間増、(2)あれもこれもと盛り込んだ分厚い教科書、(3)全国学力テストによる地域の序列化、(4)開かれた学校づくりのための学校コミュニティ化、(5)英語科の必修、(6)道徳科の必修、(7)コンピュータ・プログラミングの必修、(8)いじめ防止対策の徹底、(9)不登校児童生徒の解消、(10)コロナ感染症時の子供対応…等々、課題は毎年積み重ねられ、教師は毎日「6時間授業」を担当し、教材研究をする時間もありません。その上、子供の下校が小学校で「午後4時」(中学校で午後6時)です。勤務時間終了まで約1時間(中学校は、既に超過)。そこに職員会議、研修会議、学年会議、各打ち合わせ…等々が入ると、帰宅時間は、早くて午後7時。テストの採点やノートの点検をすれば、午後9時は当たり前です。
翌朝は、親の仕事の関係上「早朝7時」には、校門を開けないと子供が門の前で待つことになります。雨でも降れば、早速、クレームが来ますので「早朝7時」には、出勤しなければなりません。「朝7時に出勤して、夜7時に退勤」すれば、勤務時間は「12時間」です。何も問題が発生しないと想定して「最低12時間勤務」なのですから、「12時間以上」は、別に取り立てて長いことにはならないでしょう。ここに問題が発生すれば、「+2~3時間」が加わるだけのことです。そして、その時間外勤務に対する対価はありません。そもそも、これを「残業時間」と見做すシステムが、学校にはないのですから、校長がいくら命じても意味がないのです。これを日本政府は、「サービス」と呼んでいます。「サービス」って便利な言葉なのです…。日本人は、よく働く民族なので、「働く」ことを厭いません。昔、親から「働くは、傍が楽になることだ…」と教わりました。要するに「みんなのため…」なのです。こうした考えは、「滅私奉公」という言葉につながります。「私を優先せずに、みんなのために尽くす」という考えですから、一見、立派な考え方に見えますが、これを教師に当て嵌めたのが、日本政府であり「世間」という社会でした。「ただで、自分を捨てて働いてくれる教師」がいてくれたら、どれだけ親は助かるでしょう。但し、その教師は潰れますが、政府も国民も関係ありません。ここに便利な「自己責任」という言葉が出てきます。
文部科学省の指示に基づいて、教職員への「管理」が厳しくなると、病に倒れる人が増えてきました。特に「精神疾患」と言われる「心の病」は深刻です。日本人は、「サービス」と言う言葉を正しく把握していません。欧米などでは、ホテルやレストランのスタッフなどに「サービス」を受けると、必ず「チップ」という少額の金銭を渡すことが「マナー」と言われています。初めての日本人は、このルールがわからず、戸惑いますが、それが「サービス」だと思えばわかりやすいと思います。日本では、マスコミも「ただで奉仕すること…」と解釈していますので、「無償奉仕」が当たり前ですが、それを強制されてはたまったものではありません。実は、昔から日本の教師は「24時間体制」が当たり前だったのです。しかし、そこには社会の圧力はなく、教師の自主的な思いから発生したものでした。教職が「聖職」と呼ばれたのは、こうした「利他の心」があったからです。「利他の心」とは、仏教用語ですが、「自分より他を優先する心」を表し、人間の「徳」を表した言葉です。それは、教師を「僧」に重ね合わせ、僧と同じ、「人を導く尊い仕事」だと、だれもが認識していたからです。それは、社会の「ルール」などではなく、「人間、そうありたい…」と願う心から発生しています。ところが、それを社会から期待されたらどうでしょう。今では「期待」どころか、「やって当たり前」になってしまいました。今、国民に尋ねてみてください。尋ねられた人は、「だって、教師ってサービス業でしょ…?」でお終いになるはずです。こうした「傲慢な社会」では、けっして使ってはいけない「言葉」なのです。
4 「潰れない大組織」の論理
日本人は、令和に入って大きく変わってきました。それは、「昭和」や「平成」の時代がよかったということではありません。それは、世界も同じです。だれもが「自己主張」が強くなり、自分の「権利」に対して敏感になりました。しかし、相手の「権利」に対しては何故か鈍感です。日本人は、世界の中でも「大人しい」と言われる特徴があります。子供のころから「自己主張」より「遠慮」を教えられてきた日本人は、無用なトラブルを避けようとします。そのために、「言っても仕方ないこと」は、口を噤む習性があります。欧米なら、声高に自分の置かれている立場を周囲に説明し、「おかしい!」「差別だ!」「権利の侵害だ!」と主張するでしょう。しかし、日本人は自分が「我慢」することで、トラブルを回避してきたのです。もし、欧米諸国で、今のような「教師の働き方」が問題視されたら、全国の教師が立ち上がって「授業ボイコット」でも「デモ」でも、「ストライキ」でもやっていたはずです。しかし、日本の社会では、そうした動きはありません。みんな、「黙って耐えている」だけなのです。マスコミも、黙っている教師に対しては、何も言いません。これが、日本の教師が「不当な扱い」を受けて来た原因です。政治家や官僚が、「教職員組合」を敵視し、少しでも組織率が下がるように企み、文部科学省に命じて「学習指導要領」で自由に教育ができないように縛り、「服務」を厳しくして教師から「個性」を奪いました。
そして、「お上には逆らえない」ようにしてしまった結果、官僚たちは「過剰な要求」を躊躇わずに行えるようになったのです。その結果、何故か、「教員志望者」が激減してしまいました。文部科学省の官僚にしてみれば、現場の教員の声など「あって、ないが如し」です。下々の声などを聴いたとしても、自分の官僚としての出世には何の足しにもなりません。それより、与党の有力政治家や省内の上司、有識者会議の重鎮たちの話の方が重大です。特に「政治家」は、「新しい教育」が大好きです。「コンピュータを全国の小中学校に入れろ!」と要望して実現すれば、政治家としては「俺様がやった仕事だ!」と地元で自慢ができます。幹部官僚たちも有力政治家の要望は無視できません。そして、自分たちが頼んで委嘱している「有識者」の皆様は、その「道」の権威者ばかりです。彼らは、外国の「最新の教育課題」を持って来ては、「日本も早く取り入れないと世界に遅れるぞ!」と発破をかけてきますので、官僚たちは「はい、はい、承知いたしました!」と、現場の声など無視して学習指導要領に盛り込みます。間に合わなければ、「通知」を一本出せばいいだけのことです。これで、文部科学省の仕事は終わりです。後は、都道府県の「教育委員会」がありますし、各自治体にも「教育委員会」がありますので、その一本の「通知文」は、「国→都道府県→市町村→学校→教師」へと徹底されていきます。そして、そのチェックは、すべて「教育委員会」が行い、報告だけが文部科学省に上げられる仕組みができているのです。
その「報告」は、「概ね作文」ですから、「マイナスになる話」は報告書には書けません。すべて「プラスになる話」だけになります。これなら、文部科学省は何をやっても「失敗しない組織」になるわけです。そして、現場では、教師たちが「ブーブー…」文句は言いますが、「寝た子と地頭には敵わない」の例えどおり、あきらめて「成果を出したふり」をするしかないのです。例え、現場から「生の声」が届いたとしても、そんなものは、省全体で共有されることもなく、一部署で対応して終わりです。もし、有力政治家や有識者様に「生の声」など聴かせたら、それこそ烈火の如く怒り、官僚たちは「おまえら、何を指導しているんだ!!」と責められるでしょう。そもそも、何をしても潰れることのない「大組織」というものは、得てしてこうしたものなのです。最近は、昔からの「大企業」で同じことが起きていますが、数年の「業績低下」程度では、だれも気がつかないものです。それが、10年、20年と経つうちに「内部」から腐り始め、気がついたときには手遅れになっています。しかし、「リストラ」されるのは幹部ではなく、中高年の社員というのが「お決まり」ですから、いわゆる「偉い人」は安泰な暮らしが保障されています。同じように、どんな無茶な策を行っても、「潰れない文部科学省」は、だれも責任を取らず、「学校改革」という名の「管理」を強化するだけで「やった気」になります。そして、志願者は、また減り続け、最後には「そして、だれもいなくなった…」で、お終いです。
これと同じことが、80年前にもありました。だれも潰れないと思っていた「帝国陸海軍」が、本来の任務である対外戦争において敗北を喫したために、あの「大組織」が、一晩で瓦解したのです。そもそも、最初から「潰れっこない」と思い込んでいるから、無謀な対米英戦争に突入できたのです。戦前、ある幹部は、「たまには、清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要だよ…」と、部下に話したそうですが、だれが考えたって「清水の舞台から飛び降りれば」、助かるはずがありません。「例え話」をするにしても、頭の中は「空っぽ」だったと言うことです。これなどは、最初から「潰れっこない」と思い込んでいるために、言葉が軽いのです。今の日本政府も同じです。「どうせ、潰れっこないのだから、国民は関係ないさ…」といった傲慢さが、今の政治不信の原因だと思います。しかし、「潰れるとき」は、意外と早いものです。今の日本の教育も、このまま志願者が減り続け、だれも対処できなくなれば、さすがに国民も黙ってはいないはずです。政治家という人間は、常に「風見鶏」ですから、矛先が自分に向いてきたとなると、すぐに「掌返し」をします。本当は、今こそ、国民が本気になって国を憂い、「日本の教育を取り戻せ!」といった行動を取るときが来ているように思います。
5 教師は、国民の「支援」で育つ
よく考えてみてください。人間が「がんばろう」と思うときは、どんなときでしょう。それは、自分以外の第三者に「応援」してもらえた時だと私は思います。無理難題を押し付けられ、やればやるほど苦しくなり、それでも「成果を出せ!」と尻を叩かれ、できないと「無能!」と蔑まれ、「無能な教師は、学校から去れ!」と言われて、喜ぶ人間がいるでしょうか。自分の時間を削り、睡眠を削り、食事も摂れず、必死に頑張っている人に、遠くの場所から「石を投げつけ」罵られては、もう、やる気も生きる気力もなくなります。まさに、今の教師が置かれている状況です。これは、東北地方や北海道で熊の被害に遭っている人たちと同じです。家族が傷つき、殺され、畑を荒らされ、生活を脅かされているにも拘わらず、「凶暴な熊」を駆除すると、匿名の電話やメールが次々と関係機関に届き、「熊を殺すな!」「無能!」といったクレーム寄せられるという報道があります。それも「匿名」ですから、どうしようもありません。住民や自治体では、こうしたクレームに怒り、「もう、そんな電話には出ない!」と知事自らが怒りを露わにしました。切実な現実を抱えている住民と、対岸から見ながら批評だけをしている人の違いです。「学校」や「教師」も同じです。そして、その「傍観者」が、直接の上司にあたる日本政府、文部科学省なのですから、問題は「熊」より大きいと言わざるを得ません。
「悪事千里を走る」如く、教師の不祥事は瞬く間に報道され、全国に晒されます。「自業自得」と言えばそれまでですが、教師の「質」が下がったことは間違いありません。そして、これらの不祥事が起きる度に、文部科学省、各教育委員会から厳しい「綱紀粛正」の通達があり、教師たちは、研修を受けたり、作文を書いて提出したりと、「私は、十分反省していますので、どうかお許しください」といった態度を示すよう強制されているのです。もちろん、こうした研修等に参加するのは、不祥事など起こしたこともない「まっとうな教師たち」なのです。これを「連帯責任」と言うのです。確か、「連帯責任」を取らせるような指導は、体罰に次ぐ「教師がやってはいけない指導」の一つのはずですが、国(公)がやると関係がなくなるようです。まあ、不祥事続きで苛々する気持ちはわかりますが、こうした「連帯責任」の取らせ方は、全国の教師の反発を招くだけで、いい効果は生み出しません。そんなことより、「頑張っている教師」を報告させ、「誉める」ことも大事なのではないでしょうか。常に教師たちは見ているのです。自分たちは「熱中症には気をつけろ!」「真夏日は、外での活動を控えろ!」と散々指導しておきながら、「酷暑の甲子園大会」は、見て見ぬふりをするのですから、「二枚舌指導」が明らかです。
弱い者には「強く」出て、強い者には「靡く」姿勢が、文部科学省という上部機関なのですから、教師たちが呆れるのも当然です。もし、国に一貫性があるのなら、当然「酷暑のスポーツ大会は中止せよ!」という指導があるべきです。同じ「教育の場」を表明しておきながら、一貫した態度が見えないために、国の信頼が揺らいでいるのです。そう言えば、甲子園大会で広島代表の高校が、一旦は、大会に出場しておきながら、途中で「辞退」するといった出来事がありました。原因は同じ野球部の生徒への「いじめ」だったそうです。問題が解決していないにも関わらず、加害生徒まで試合に出場させ、被害生徒は泣く泣く「転校」したでは、だれも納得できません。その上、当該校長は、記者会見まで開いておきながら「被害生徒への謝罪と対応」すら述べなかったことには、同じ仕事をした人間として、これまた「納得」できませんでした。おそらく、地元の「力関係」があって、こうした対応を採ったのでしょう。以前にも同様の不祥事があった学校は、すべて「地区予選」すら出場できず、その学校すべてが「反省」を求められたのです。国民の中には、「関係のない選手がかわいそうだ…」という声もありましたが、一番気の毒なのは、理不尽な「いじめ」に遭って、人生を狂わされた生徒と保護者です。自分の眼に見える部分だけを見るのではなく、声を出せない生徒のことまで考えるのが、「よい教師」だと思うのですが、違うのでしょうか。
現場で頑張っている「先生」たちは、「給料なんて上がらなくてもいい…」「労働時間が、12時間でもいい…」「先生、頑張ってるね…」「応援してるよ…」「先生、ありがとう…」等。そんな優しい言葉を待っているのです。最近のテレビドラマで、「競技カルタ」に熱心に取り組む高校生の姿を描いたものがあります。今時の高校生が、一つのことに熱くなり、「仲間」の大切さを認識するドラマですが、かなり評判のいいドラマです。その中に出て来るメイン教師は、自分の経験してきた「熱い思い」を生徒たちにも味わってもらおうと奮闘しますが、いつも、立場や周囲を気にして「躊躇」します。「これは、余計なことではないか…?」「教師の自分が言っていいのか…?」「保護者は、どう思うだろう…?」という躊躇いが度々出てきます。これこそが、「今の教師」なのです。そして、ドラマと違い、多くの教師は、ここで「一歩」下がります。なぜなら、「そこは、本人の問題であり、家族の問題だから」です。以前であれば、「そんなことを言っていないで、いいから、やって見ろ!」と後押しをしたはずです。そして、「後ろで、先生が見てるから、大丈夫だ!」と励ましました。でも、今は、これが「余計なこと」なのです。
でも、よく考えてみてください。教師は「教育のプロ」です。長年蓄積してきた「経験」と、研修を重ねてきた結果、子供の前に立っているのです。私も「何千」という事例を見てきました。「何百」という子供を見てきました。それも、毎日「泣いたり、笑ったり、怒ったり、諭したり…」と、当事者として関わってきたのです。その辺の「素人」より、ずっと教育の大切さがわかっています。その教師が、発する言葉は「重い」のです。もう、こうした教師は少なくなってしまったかも知れませんが、それでも、各学校には一人二人残っているはずです。ならば、そうした教師をリーダーにして、経験を踏まえた「研修」に取り組めばいいのです。だれも読まないような「通知文」を出して満足している官僚たちには、わからないでしょう。官僚たちがやるべきことは、教師を自分の「下の人間」と見下すことではなく、「教育のプロ」として認識を改め、逆に「教えを請う」ては如何でしょう。「どうしたら、日本は、昔のように世界から賞賛される教育に戻すことができますか?」と尋ねてください。きっと、未来の日本が求めている「答え」が見つかるはずです。
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