私は、昭和56年に採用された元小学校教師です。自称「風天」。昔から「風に靡き、運を天に委ねる人生」ですから、「風天」と勝手に言っています。「寅さん」の「フーテン」ではありません。悪しからず。最近のあまりにも理不尽な学校や教師に対する対応に我慢できず、このブログを介して本音をぶつけたいと考えました。「風天」も既に66才を超え、学校を退職してから6年以上が経過していますので、何を語ろうが私の自由でしょう。日本には、憲法に保障されているように「表現の自由」がありますので、本音を語ることは罪ではありませんし、人から咎められることでもありません。それにしても、ほんの僅かな期間で、よくも日本の教育をここまで壊してくれたものだと呆れてしまいます。何処の国でも「教育」の重要性はわかっており、特に義務教育は、その国の「行く末」に関わる「最重要課題」のはずです。しかし、それをここまで蔑ろにし、全国の学校が崩壊していくのを知らぬ顔で眺めている「政府(文部科学省)」に対して、本当に腹が立ちます。日本の政治家も権力闘争には熱心ですが、少しも国民の苦しみを理解しようともせず、相変わらず政界の中だけで騒いでる姿は、「ああ、日本人もここまで酷くなったか…」と頭を抱えたくなります。昭和のころは、それでも、「世界第2位の経済大国だ」と豪語していましたが、今や、先進国の中でも経済成長が見られないのは日本だけです。マスコミは、気取って「失われた30年(40年)」などと言って、自分たちには責任がないかのように報道していますが、「なんですか、失われた30年って…?」。要するに、先進国から置いて行かれたということでしょう。まったく情けない話です。
今、日本の産業で世界のトップを走っているのは、何があるのでしょう。「自動車」ですか?それも、大企業の「日産自動車」は、既に往年の力はなく、辛うじて生き残りを図っているだけの弱小企業になり果てました。テレビコマーシャルは盛んに流していますが、正直(電気かあ…?)と、あまり興味が湧きません。せっかくなら、昔の「スカイライン」や「フェラレディ」を復刻して欲しいくらいです。それでも、「トヨタ自動車」が、まだ、頑張っているようですが、それもいつまで続くかわかりません。その他は、もう、名前も挙がらなくなりました。物価は、ばかみたいに上がり続け、それに反するように労働者の賃金は上がらず、国民は疲弊しています。何でも、社員の賃金を上げると会社がもたないそうですから、日本の企業も足腰が弱ったみたいです。たとえ賃金が上がっても、税金や社会保険料は国に納めなければならず、いくら国民が望んでも「給付金の支給」も「一時減税」も行われません。政府は、「財布に金がない」というばかりで、真面な政策を打てないでいます。「金がなければ、知恵を出せ!」と思いますが、その「知恵」もないのでしょう。
そして、ついに来た「教育の崩壊」です。あれほど、子供に人気のあった「学校の先生」の志願者が、ここ数年で激減し、これから先の見通しもまったく立っていません。文部科学省は、大学生の受験を3年生から認めたり、履修する単位を軽減したりして「教員志願者」への優遇を図っているようですが、現場への梃子入れなくして、小手先だけの改善策では、焼け石に水です。こんな程度の改善策で人が集まると考える方がどうかしています。もう、学校は「ブラック企業」と化したのです。「ブラック企業」と言うのは、そもそも、「労働基準法」などの法律を守らず、社員を必要以上に働かせ、労働に見合った賃金も払わず、多くの休職者や退職者を出す企業のことを指します。それらの会社の多くは、経営者に「遵法精神」がなく、社員を「会社の奴隷」の如く扱う「ヤクザ」並の精神しか持ち合わせていません。そして、それらの行為によって人々の信頼を失い、遠からず「倒産」の憂き目を見るのです。つまり、「日本の学校は、合法的なブラック企業」と化したのです。したがって、早晩、崩壊し、学校に所属している教師も子供たちも「路頭に迷う」ことになるでしょう。たとえ「公的機関」であろうと、これまでも「国鉄」や「専売公社」はなくなりました。また、バブル崩壊時には「銀行」まで破綻しているのですから、「公教育」だけが無事と言うことはないでしょう。
それが、わかっていながら、小手先だけの「改善策」しか採れない文部科学省や各教育委員会は、既に、日本の「教育経営」を失敗し、取り返しのつかない状況に追い込まれているということです。欧米などでも、先進的な教育実践に走りすぎたために、学校が混乱し、結局は子供の教育に失敗した例を聞きます。以前、私の学校にオーストラリアの子供たちが数日間やって来ました。私が見ても、「挨拶もできない」「偏食多くて給食は食べられない」「菓子を常に口に入れている」…など、「自由」というより、「教育が行き届いていない」ことがよくわかりました。引率教師が言うには、「給食はないし、掃除は業者の仕事。日本のように制服もないし、規律も統一できないのよ…」と嘆いていました。彼らは、日本の学校に来ることが目的ではなく、「東京ディズニーランド」が目的なのだそうです。それでも、「ここは、中流の人たちの学校だから、まだ、ましなのよ…」とのことでした。それを聞いたとき、(いずれ、日本にも同じことが起きるのだろうな…)と思いましたが、僅か10年後には、それが現実になってきています。これが、日本が目指す「先進国の教育」だと政府はいうのでしょうか?
日本の場合は、一部の私立を除くと、全国の公立学校の大半は、そんな「混乱」の中で運営されています。本来であれば、まずは「経営陣」を刷新し、根本から立て直しを図るのが正道ですが、国の機関である「文部科学省」にメスを入れる政治家はいません。いや、文部科学省は、政治家たちの意向を汲んで施策を行っているだけの「役所」ですから、彼らにだけ責任を負わせることはできません。「それでいい…」と思っている政治家や学者、幹部がいると言うことです。あの先の大戦の敗戦後でさえ、日本の省庁や官僚組織が残ったくらいですから、官僚たちに「危機感」などあろうはずがないのです。例え、学校が潰れようが、教師がいなくなろうが、子供が荒れようが、国民が悲鳴を上げようが、自分たちの「会社」が存続できれば、別に関係ないのが、「潰れない会社」の論理です。「だれも責任を取らず」「だれも真剣に取り組まず」「いつも他人事」が、今の状況を招きました。そのことを覚えておこうと思います。そう言えば、日本の軍部のトップたちは、「敗戦」になることがわかっていながら、「一億総玉砕」「一億総特攻」などという危険極まりない言葉で国民を煽動し、敗戦後は、だれも責任を取ることなく、戦後を知らぬ顔で生きたといいます。もちろん、全員ではありませんが、「国民が一億人死のうと軍が残れば関係ない」という思考は、今でも残っていると言うことです。そして、何十年もの間、世界のトップを走ってきた「日本の教育」が、僅か10年足らずで崩壊していくのです。その責任は、すべて「日本政府にある」ということを歴史は忘れないはずです。
1 「夢」を持てない若者たち
いつから、日本はこんなに「夢のない国」になったのでしょう。政府は、国民が「個人主義」になることを教え、マスコミは、「自己責任」という言葉を教えました。言葉では、「夢を持て!」と子供たちに語りかけますが、今の日本の何処にどんな「夢」があるのでしょう。ここ数年は、猛暑以上の酷暑に耐え、必死に働いても生活は楽にならず、物価はどんどん上昇するばかりで、「苦しい」「辛い」と叫んでも、だれも親身になってはくれません。親も一人生きることに精一杯で、子供に援助することもできなくなりました。小学生は、過去最低の人数になったと言うのに、大学生は過去最多というのですから、お笑い種です。その大学生も「奨学金」という名の「借金まみれ」です。そして、今時、高い学費を払って「大卒」の資格を得ても、自分の希望する仕事には就けません。余程、運がいいか、親に資産でもない限り、成人してからの人生は真っ暗です。一口で「大学」と言いますが、学費が年間で「120万円以上」もかかるのです。理系なら「150万円以上」でしょう。平均世帯年収が「800万円」あっても、二人も子供がいれば、年収の半分が「子供の学費」にかかります。残りで、家や車のローン、食費、交際費などで消えて行きます。親は、「老後資金」も貯まりません。その上、子供がやっと「大学」を出ても、大企業や公務員は採用試験に受かる確率は低く、やっと入った会社も、いつ傾くかわかりません。
最近は、長年実績のある有名企業ですら、簡単に「リストラ」という言葉で、社員をクビにしてしまいます。「フジテレビ」「日産自動車」「東芝」…名だたる大企業が経営の失敗から、多くの社員を整理しました。「早期退職制度」なるものがあるようですが、今時、退職金に「1千万円」プラスされても「焼け石に水」です。そんなものは、ローンの一部を返済するか、子供の学費で消えて行きます。それより、リストラされた人が、40代や50代で、次にいい仕事が見つかるはずがありません。最近の企業は、これまでの「年功序列制度」を廃止し、「実力主義」を採り、能力の低いと思われる人には、高い報酬は支払わないそうです。それどころか、政府も積極的に「転職」を奨め、テレビでも四六時中「転職CM」を流しています。あれを見ていると、「日本って、そんなに優秀な人材ばかりだったっけ…?」と頭を傾げるばかりです。有名な俳優たちが、声高に「転職するなら…」と言われれば、本気にする人だっているはずです。まして、地方に暮らす人に「転職」などを奨めても、東京のような募集もありません。それに、そんなに簡単に「いい仕事」が見つかり、年収が上がるのであれば、こんな社会の閉塞感にはならないでしょう。
今や、社会は「能力主義」「実力主義」を求めています。学校は、その思想にはついていけません。ずっと、「平等主義」「協調性」を教えてきた学校は、「競争」することを「差別につながる」のではないかと怯えています。「転職を奨める」ということは、つまり、「能力があり、やる気のある人は、現状に甘んじないで挑戦しましょう」というメッセージになります。たとえ勘違いにしても、「自分の能力は、こんなもんじゃない…」と思う人は、どんどんと転職すればいいと思いますが、人間はそんな人たちばかりではありません。会社だってばかじゃありませんから、逆に社員に「転職を奨める」ことだってあるでしょう。「君なら、うちなんかより、もっといい仕事ができるはずだよ…」とか言って、体よく「追い払う」口実にだってなるのです。ちょっとでも会社が「こいつは、リスクだ」と思えば、今の社会体制は思う壺なのです。それで、泣くのは社員だったり、その家族だったりしても、会社は関係ありません。これって、もの凄い「競争社会」だと思います。これまでの日本は「雇用の安定」があったから、ローンが組めたり、子供に投資したりできたのですが、いつでも「転職」「リストラ」が待っているとしたら、それどころではないはずです。それを国を挙げて推進しているのですから、「グローバル主義」の人たちの考えがわかりません。随分と「人に冷たい国」になったものです。
しかし、学校で教えている「平等の思想」は、「能力に関係なく、みんな等しく同じ果実を味わわなければならない」ということに尽きます。その具体例が「学校給食」です。「学校給食」は、どんな子供も同じメニューの物を食べます。それも、作ることはできませんが、食卓の準備から会食までは、すべて「子供の手」で行います。そして、「みんな仲良く、協力しあって楽しく過ごしましょう」という「協調性のすばらしさ」を教えます。昔から「同じ釜の飯を食う仲」という言葉がありますが、その結びつきは「強い」と言われています。外国では、そもそも「給食」という制度がありませんから、食事は銘々で食べる「プライバシー」の場なのです。こうした「同じ・平等」という考え方が、学校の基本となりました。そして、今の学校は、昔のように「順位」をつけなくなりました。私のころであれば、校舎の廊下に成績の順位がデカデカと張り出され、だれが「優秀」かが一目瞭然にわかりました。それは、「成績のよい者が、社会の成功者となる権利がある」というメッセージでもあったのです。要するに「競争」することを奨励していたのです。この「競争」を学校だけでなく、社会全体が煽ることで、社会を発展させようと考えたのです。結果、猛烈な「学歴社会」が誕生しました。そして、「いい大学に入れば、いい人生が送れる」という神話が長く続いたために、日本人の多くはその思想に「洗脳」され、その「道」を外れないように進むことを「善」としたのです。それは、今も同じです。一回、だれもが理解しやすい「方程式」ができると、もう、他の理屈は眼に入らなくなるものです。全国の親や教師たちは、盲目的にそれを信じ、子供たちのお尻を叩きました。それが、「この子の幸せのためだ」と信じたからです。
「年功序列」「年齢昇給・昇格」「終身雇用」「退職金制度」…は、高学歴者に有利に働き、まさに「夢は、高学歴を得ること」になったのです。その洗脳は、学力の低い者でも「せめて、大学を出れば、幸福の欠片が掴める」という「夢」が生まれました。そのために、親は必死に働き、子供に「高学歴による幸福」という「夢」を実現させるために「高額な授業料」を払い続けたのです。それが手に入らなければ「幸福はない」と信じ込んだ結果です。それが、政治家や日本政府に利用され、「教育産業」は発展し続けました。今でも駅前に出ると、大きな「学習塾・予備校」の看板が出ています。駅前は、土地代も高く、ビルの一室を借りても「賃料」はばかになりません。それでも、何社も「看板」をかけられるのは、それだけ「おいしい産業」だからです。「我が子の教育に金をかける」のは、どの国でも同じようなものみたいです。そもそも、「教育産業」なるものは、何一つ「製品」を作るでもなく、外国との苛烈な競争に晒されるわけでもなく、単に「高学歴が幸福の種」という神話によって作られた「まやかし」でした。「あの塾がいい」とか、「あの予備校がいい」と言うのも、単に「受験対策が上手い」だけの企業であり、何の生産性もありません。そこで教える「講師」は、取り敢えず「先生」と呼びますが、彼らが「教育者」と呼ばれることはないでしょう。江戸時代であれば、「塾」は、専門教育を施す教育機関であり、公認、非公認を問わず、優秀な「学者」が指導していました。蘭学の緒方洪庵、医学の佐藤泰然、兵学の佐久間象山など、数多の高名な学者が、「その道」を教えたのです。それは、単に「受験」などという些末な技術ではなく、いずれは「国家に貢献できる人材」になるだろうと信じて教育を行ったのです。今の「塾・予備校」とは大違いです。
今、若者たちは、正直「路頭」に迷っています。親や教師の教えのとおり生きてきたのに、自分が成人すると、社会は一変していました。「せっかく、有名大学を出たのに、希望の会社の採用試験に落ちたぞ!」「どうすればいいんだ!?」という叫び声が巷に谺しています。運良く「一流企業」に入っても、「ハラスメント注意」とやらで、上司や先輩は、あまり声をかけてくれません。(いい大学出ているんだから、それくらいの仕事できるだろ…?)と、冷ややかに見ているだけです。最近では、「AI」に頼って仕事をしている始末です。これでは、コミュニケーション能力は育ちません。昔なら、「飲み二ケーション」なる集まりがありましたが、それも「ハラスメントの温床」とやらで、やらなくなった会社が多くなりました。そのうち、仕事に嫌気がさして「転職」のサイトを見るか、転職雑誌を眺めて思案し始めることになります。そして、何も言わなくてもできる社員は、どんどん出世し、給料も上がり、その実績を持って堂々と転職して行きます。残った若者は、そんな会社と自分が嫌になって転職して行きます。同じ「転職」でも、まったく違う意味を持つのです。それに、しがみついたとしても、いずれ「リストラの対象」になることは間違いありません。親たちからは、「有名大学を出したのだから、出世しろよ!」と言われますが、現実はそんなに甘くありません。
世間では、大リーグで活躍する「大谷翔平選手」を盛んに持ち上げ、「夢を実現した日本人」と賞賛していますが、彼は、まったく、日本的な思考の持ち主ではありません。高学歴ではないし、特段、野球エリート校の出身でもないし、大企業に所属したこともありません。日本でもアメリカでも同じですが、「プロ」と呼ばれる野球選手には「補償」というシステムがないのです。例え、実力があっても、「けがや病気」で選手生命が絶たれれば、即リストラが待っています。全然日本的でない若者を「夢を実現した」として持ち上げるマスコミの不思議さがここにあります。マスコミは、単に「注目」される話題であればいいのであって、それが、日本的であろうがなかろうが、そんなことに忖度しません。販売実績、視聴率、評判が「ものを言う」世界ですから、二枚舌どころか三枚でも四枚でも使って儲ければいいのです。要するに、そういう「商業主義」を真面に信じるのは、「信じる方がばか」なのです。そう考えると、大谷翔平という日本人は、「日本の教育で育った人ではない」と言うことです。もちろん、家庭では親や家族の影響は受けたでしょうが、元々プロを目指すような人には、「日本型教育」は無用だったのでしょう。
そもそも、「夢」とは、一体何なのでしょう。大谷選手のように「大リーガーになる」と言えば、まさしく「夢」でしょうが、普通は「ばか言うなよ。そんな雲を掴むような夢が叶うはずないじゃないか…?」と言われてお終いです。せいぜい、7才くらいまでの「夢」で語るぶんには笑い話ですみますが、中学生くらいになって同じことを言っていたとしたら、笑い話どころか、親や教師から「いい加減、眼を覚ませ!」と怒られるのではないでしょうか。この国は、常に「本音と建前」が交錯していますので、どれが「本音」なのか、理解するのに苦労するものです。これを今では、学校の教師も行っています。せめて、学級担任くらいは「本音」で話してくれてもよさそうなものですが、それを言うと、親から苦情を言われるかも知れません。「子供の心に傷をつけた」と言われれば、これは最早「暴力」なのですから、教師たちも余計なことは言わなくなりました。つまり、教育という仕事も「建前」で行っているのです。これでは、子供が教師にまじめに「相談」に行くはずがありません。学校や教師が、国民から「信頼を失っている」原因は、ここにあります。
実は、大人たちが期待する子供の「夢」とは、大人が納得する「将来像」であり、実現可能な「目標」のことを指します。「大リーガー」なんて夢は、物心がつけば、消えてなくなる儚い「泡」みたいなものなのです。つまり、日本の大人たちが言う「夢」とは、自分たちの想定内にある「望ましい人生」になることを期待しているだけのものなのです。正直言って、昭和後期に学校の教師になった私に、今の人が言うような「夢」などありませんでした。ただ、「大学を出たら、一人で飯を食わなければならない…」という現実だけがあったのです。当時は、親だってそんなに生活にゆとりがあったわけではありません。繊維工場に勤める会社員が、得られる収入などたかが知れています。それでも、当時の大人たちは、ささやかな「夢」を持っていました。まずは、「三種の神器を揃えること」です。「テレビ、洗濯機、冷蔵庫」から始まり、「自動車、クーラー、電子レンジ」と進み、そのうち、貯金をして「注文住宅で家を建て、子供を大学に進学させて一流企業に勤めさせ、退職金と年金で悠々自適に老後を送る」ことが、大人たちの「夢」となりました。まあ、田舎から出てきた学歴のない会社員が、嫁をもらい、会社に定年まで勤めて、自分の描いた人生が送れれば、それ以上の幸せはありません。「家」だって、小さな「箱庭」程度で十分なのです。私の親も、私にそれを望み、何度も語って聞かせました。それが、「幸せの方程式」でした。そして、そう教え込まれた私は、まず、「飯を食う算段」として選んだのが、「小学校の教師」でした。それが、昭和世代の現実なのです。
そんなことを言うと、「子供の夢を壊すな!」と叱られるでしょう。しかし、何処かで、誰かが「現実」を教えてやらないと困るのは、子供本人なのです。我が家では、長男が6年生、次男が4年生のとき、二人を呼んで私の「給料明細」を見せました。そして、事細かく説明をして上げたのです。二人は、真剣に私の話を聞いていました。そして、電卓を持ち出して、「収入と支出の話」をしました。すると、私と妻の給料を合計しても「黒字」にならないのです。これには、子供たちもショックを受けたようでした。すると、子供たちはやたらに物を欲しがらなくなりました。下の子は、祖父母に「うちは、貧乏だから…」と呟いていたそうです。少し可哀想な気もしますが、こうした現実を教えるのも「親の役目」だと私は信じています。それから、必要な物は買ってあげたし、人並みに教育費もかけましたが、二人ともよく「倹約」してくれました。今でも「無駄な出費」をすることを嫌います。こうした「家庭教育」については、賛否分かれるところだと思いますが、私は、「現実を知らせて、一緒に頑張るのが家族」だと信じています。
2 「教育」は、何のためにあるのか?
日本政府が、国の政策の方針として採用している「グローバリズム」という思想が、端から間違っていることに早く気づくべきです。おそらく、「世界の先進国の多くがグローバリズムを採っている以上、日本だけ参加しないわけにはいかない」と言うのでしょうが、そんなものは「建前」でやっていけばいいだけのことで、何も世界をリードするような真似までしなくてもいいでしょう。日本人は、不思議と「兵法」を嫌い、何でも「真っ正直」にやりたいとでも思っているのか、何も考えずに「時流に乗り」失敗を繰り返すのです。先の大戦でも、「ドイツのバスに乗り遅れるな!」とばかりに、慌てて「三国軍事同盟」を結び、世界大戦に巻き込まれました。結局、「ドイツのバス」は、途中でエンストを起こし、そのバスに乗った日本人は、米英に酷い目にあわされました。そんな教訓があるのに、今でも「グローバリズムのバス」に必死になってしがみついています。お陰で、日本社会はおかしくなってしまいました。大体、日本人に「会社は株主様の物」だとか、「貧富の二極化」などという思想は、馴染むはずがありません。こんな小さな島国の日本が「和の精神」を忘れて競争しあっても、得られる物は僅かで、一部の「富裕層」が独り占めをしてしまえば、残る物はないのです。それを堂々と宣う経済界のトップは、「グローバリスト」の走狗と言っていいでしょう。失礼ながら、そういった人たちの「面相」は、あまりにも醜く卑屈にさえ見えます。そんなリーダーなら、国民は最初から願い下げです。
そもそも、「グローバリズム」の旗を掲げているのは、何処の国なのでしょう?中心は、お隣の「中国」ではないですか?「国境をなくしましょう!」「関税を悪しましょう!」「何処の国の人も受け入れてあげましょう!」「日本の海を友愛の海にしましょう!」と叫ぶのは、いわゆる「グローバリスト」たちです。日本の代表は「鳩山由起夫元首相」ですが、彼などは今でも中国に対して謝罪することが「国益に叶う」と信じている「グローバリスト」ですが、国民の支持を失ったまま政治家を辞めてしまいました。その鳩山元首相は、最近も中国の「対日戦争勝利軍事パレード」に嬉々として参加し、中国国民の前で手を振っていました。だから、ロシアや中国では大人気なのだそうです。れを聞いて、「さすがは、日本を代表するグローバリストですね!」と拍手する日本人は、どのくらいいるのでしょう?そして、日本人は何故か「国際連合」が大好きです。昔、政府与党の政治家が、「国連中心主義」を唱えましたが、今になってみれば、そうしなくて本当によかったと思います。今の「ロシア・ウクライナ戦争」の当事者である「ロシア」は、国連の常任理事国で、国連決議を拒否する権限を持っています。そもそも、「国際連合」という組織は、第二次世界大戦の戦勝国のための組織であって、日本やドイツのような敗戦国は、国連から見れば、いつまでも「敵国」なのです。それに、最近では中国などの圧力で、「グローバリズム」が浸透し、日本人から見れば驚くような考えを示したりしています。アメリカでさえ、最近では国連に距離を置くような姿勢を見せていることから見ても、「国際連合」という組織が、常に「戦勝国」と「強国の圧力」によって運営されていることがわかります。日本人は、昔から「本音」より「建前」が好きで、常に「理想論」に靡きがちです。しかし、欧米や中国は、「理想論」を振りかざして、自分たちに有利に計らうことが正義だと考えていますので、「グローバリズム」も、そうした政治に利用されていると考えて間違いありません。それをわざわざ日本政府は、「教科書」を改訂してまで、その理想論に与するわけですから、日本や日本人が「おかしく」なって当然なのです。
日本の教育は、一体、だれのために行われているのでしょう。国民は、何も、子供が「グローバリスト」になるために学校教育を受けさせているわけではありません。高い学費をかけて、大学に行かせているわけでもないのです。最近の「不登校問題」や「登校拒否問題」の背景には、子供だけの問題ではなく、「変な思想で洗脳される学校は危険だから、行かせたくない!」と考える親もいるのではないでしょうか。確かに、最近報道される「教師のわいせつ・盗撮事件」や「部活動における指導者の圧力・暴力事件」「学校の隠蔽体質」などを見ていると、親たちが「あんな怖い学校に子供は預けられない!」と考えても無理はありません。それに、「教師志願者の激減・不足問題」や「教員ブラック問題」など、国民から見れば、どれも「ええ…っ、そうなの?」と思わせる問題ばかりです。きっと、地域や保護者間では、そんな噂話で持ちきりだろうと想像できます。親が子供を「安心」して通わせる保障が何処にもないのに、政府が上から目線で、「義務教育なんだから、国民は義務を果たせ!」では、心配する親たちを納得させる理由にはならないでしょう。戦争中でもあるまいし、だれもが「納得」できる話にならない限り、今の国民は動きません。火中にいる教員たちですら、「もっと、人員を増やして欲しい!」「授業時間が長すぎる!」「教える内容が多すぎる!」「授業に専念できない!」…など、課題山積であることを訴えていながら、日本政府は、有効な手を講じていません。あれこれと小手先の施策は打ちますが、それは、官僚がよく遣う「手」で、「やってる感」を出す手法として昔から用いられています。要するに「日本には、国民の教育に使う金はもうない!」と言うことなのです。国の未来を担う子供の教育に「使う金はない!」では、国が衰退して当然です。だから、「グローバリスト」は信用されないのです。
国の政治も、平成のころから「成果の出ない事業に予算はつけない!」という方針に変わり、学問の世界でも「基礎研究」ができなくなったそうです。だから、優秀な研究者は、どんどんと外国に流れて行きました。アメリカや中国では、諸手を挙げて優秀な研究者や技術者を招聘し、ふんだんに資金を与えて研究を支援しています。お陰で、外国在住の日本人が「ノーベル賞」を受賞するようになりました。ノーベル賞は、「外国在住の…研究者」が、もらった賞です。つまり、研究の成果は、日本にではなく、その外国の手に渡るということを意味しています。それを喜んでいるのは、記事ネタができるマスコミと政治家くらいなものでしょう。これは、ちょっと「脳天気」ではありませんか?せっかく、優秀な頭脳が「日本」にあるのに、みすみす、条件を悪くして外国に持って行かれてしまうくらいなら、予算をつけて「日本国内」で研究をしてもらえばいいのです。そして、逆に好条件を付けて「外国人研究者」を日本に招聘して、日本の研究を助けてもらえば一石二鳥でしょう。しかし、政府は絶対にそれをしません。これによって、大学は益々疲弊し、国から予算が下りないために仕方なく「授業の値上げ」という手段に出ました。もう、大学生もその親たちも、大学進学を諦めるしかありません。そして、日本の研究は廃れ、国力は益々低下していくのです。これが、「グローバル」の正体です。要するに「世界は一つなんだから、何処で研究しても地球のために役立っているんだ。すばらしいじゃないか…!」という理屈です。それで、日本人が貧しくなっても「世界のため」なら、国など関係ないのが「グローバリスト」の思考なのです。
「グローバリズム・リスト」がやりたいことは、世界の国境をなくし「地球市民」を作り、自由な経済圏を作ることです。そして、それを操作するのは、少数の「資本家」になります。今でも、世界にはとんでもない資産を築いた「大金持ち」がいますが、彼らが世界の支配者となり、自分たちの利益のために自由に経済活動をしていくのです。そして、利益のほとんどは、「株主」という「富裕層」が独占し、9割以上の一般市民は、単なる「労働者」として資本家たちにこき使われて一生を終えるのです。そう考えると、「教育」なんてものは必要なくなります。なぜなら、「人」は「AI」に取って代われるからです。これまでの仕事のほとんどは、「AI内蔵ロボット」で賄えるはずです。それなら、「人間」すら不要になります。これは、極論だと思いますが、今の「AI」の進化を見ていると、あまりにも急速に開発が進み、人間が「AI頼み」で仕事をする時代が来ているのです。こんなことを考えていると、気持ちが落ち込みますが、「悪い想像」をすると、それが一番合理的に思えるのです。きっと、戦前も人々は、同じことを考えたかも知れません。何か「焦臭いなあ…?」と思っていたら、あっという間に戦争になり、それが収まるどころか世界中を相手に戦うまでになり、あれよあれよと言う間に日本は坂道を転がり始めました。そして、行き着いた先は「敗戦」です。今も同じです。「まさか…?」と思っているうちにとんでもない時代が来るような気がします。
「グローバリスト」たちは、「日本の伝統的な教育」が嫌いなのです。「日本・日本人のための教育」など、さらさらやる気はなく、「世界・地球人のための教育」をしたくてしょうがないのです。それは、突き詰めれば「金持ちが、さらに金持ちになる教育」「貧乏人が、ずっと貧乏のままでいる教育」とでも言えばいいのでしょうか。こんなことを言うと、常識的な人たちには笑われると思いますが、今、世界の人々の「二極化」はどんどんと進んでいます。もの凄い富を持つ「富裕層」と、その日の食事もままならない「貧困層」です。そして、「中間層」が激減しています。それはなぜでしょうか。昭和のころまでは、日本は「できるだけ平等な社会を築こう」と官民が一緒になって働いて来ました。日本人の「格差」は少なく、大企業のトップとそこの平社員の給料差は、10倍もありませんでした。ところが、今では、企業の役員報酬は、平社員の数十倍に跳ね上がっています。最近でも、会社経営が上手く行かない企業の役員報酬が話題になりました。「社員はリストラするのに、役員は、億単位の報酬を受け取っている」からです。これでは、社員が必死になって会社再建に働くはずがありません。「沈みかけた泥船は、逃げるが勝ち」なのです。最早、この国のサラリーマンに「愛社精神」はありません。経営者にも「社員は家族意識」もありません。単に「使われる人間と使う人間」がいるだけです。こんな「企業」に国民が驚くような新製品が造れるはずがないのです。
平成に入ったころから、グローバリストたちは、日本政府に蔓延り、「会社は、株主様の物」という思想を国民に植え付けました。そして、「労働者は、使い捨て」の論理を実行し、「派遣・契約社員」を増やし、制度的にも「使い捨て労働者体制」を敷いたのです。結果、企業は、儲けた金を「貯め込み」、社員への還元はなくなりました。もう、「正社員」など、何処の会社も不要なのです。政府や企業が、「転職」を奨めるのはそういう理由です。「使えなくなったら捨てる」のが、一番効率的だからです。そして、そのうち、「俺は関係ない」と思っていた役員たちも、会社が外資に買収されるようになると、まったく同じ目に遭うことでしょう。力を失った企業を買うのは、「外国資本」しかりません。日本の有名「スーパーマーケット」も外資に買われ、「コンビニ」を主力にするというニュースが流れました。スーパーマーケットの社長や役員たちは、多額の報酬を受け取って、さっさと逃げるのでしょうが、社員のほとんどは「リストラ」の対象になるはずです。これが、日本政府が言い続けてきた「グローバリズム」の正体なのです。
3 社会と学校の価値観の「乖離」
「社会は流行で動き、学校は不易で動く」という真理があります。「えっ、そうなの?」と首を傾げる人がいるかも知れませんが、そうでなければ、国も学校も崩壊するでしょう。今の日本は、「社会も学校も流行で動く」ようになってしまいました。「流行」とは、簡単に言えば「はやり」です。「流行性感冒」と言うように、「一時、流行ってすぐに廃れていく様」を表します。それに反して「不易」は、「変わらない価値」のことです。平成の初め頃に文部科学省が「不易と流行」という言葉を用いて、「教育の価値は変わらない・変えてはいけない」と説きました。そのころは、政府も「日本語」の価値を認め、「伝統と文化の尊重」や「古典の大切さ」を説いて、歴史教育にも力を入れるのかと思いましたが、「ゆとり教育」が、政治利用されて崩壊すると、最早、だれもそんなことは言わなくなりました。遂に「流行り教育」に邁進し始めたのです。「道徳」の教科化までは一教師として納得できましたが、「英語教育」「コンピュータ教育」「開かれた学校づくり」「学校評価」と矢継ぎ早に続く政府の「新しい教育課題」に振り舞わされるようになると、もう、「不易」どころではなくなりました。そして、最後のダメ押しが「教師はサービス業」と定義した文部科学省の言葉でした。これによって、全国の学校教師は、「聖職・教育者の梯子」を国によって外されたのです。
「サービス業」という言葉は、強烈でした。流行に敏感な国民は、それまでは「学校は、普通の役所ではない」という認識を持っていました。役所に行って職員に「ため口」で騒ぐ市民も、子供を学校に預けている以上、そんな横柄な態度を取ることはありませんでした。マスコミは、それを「子供を人質に取られているから…」と揶揄しますが、肝腎な「教育を施している」という意識が何処かに飛んでしまっているのです。国民であれば、だれもが「学校教育」の世話になっておきながら、それを声高に非難し、粗を探し、「学校不要論」的な報道を流し続けました。そして、政府が「学校は、サービス業ですから、どんどん気楽に注文してください…」と言うや否や、一部の市民は、それを真に受けて学校や教師に対して、言いたいことを言うようになりました。まさに「流行」です。どんなに文句を言っても、横柄な態度を取っても、学校に行けば「校長室」に通され、お茶の接待を受け、校長や教師に頭を下げさせることができるのです。こんな面白い様はありません。今まで「偉い」と思っていた教師が、自分にペコペコするのです。逆に偉そうに言われれば、早速、教育委員会や文部科学省に苦情電話を入れればいいのです。それでも、市民様・保護者様は何の「ペナルティ」もありません。それは、何処の役所も同じです。
今、北海道などで盛んに熊の出没が話題になっていますが、「凶暴な熊」を駆除すると、もの凄い数の「苦情電話・メール」が殺到するのだそうです。それもみんな「匿名」です。そして、各役所の職員は、業務を妨害されてもひたすら低姿勢を貫き、何時間でも応対します。反論しようものなら、市民様は必ず「お前はだれだ?」「名を名乗れ!」と凄みます。そして、「おまえなんか、辞めさせてやるからな!」と、何処かの「独裁者」のように振る舞うのです。それでも、市民様は罰せられません。こうなると、その役所は、善良な市民が熊の餌食になっても「害獣」を退治できません。本当に怖ろしいのは、「凶暴な熊」ではなく、見境なく匿名でクレームを付ける「市民様」の方なのです。これと似たことが学校で起こり始め、教師たちは萎縮し「もの」を言わなくなりました。教師が言葉を発すれば、すぐに教育委員会や文部科学省が反応し、その教師を現場から排除するからです。「お宅の〇〇教諭に苦情が来ている!」「〇〇教諭は、どんな人間なんだ?」…と調べられて、いずれ「謝罪」するしかなくなるのです。偉いのは「市民様」「保護者様」「お子様」です。もうひとつ、「教育委員会様」が加わります。だから、教師たちは、もう「何も」言いません。だれが悪いかと言えば、それは、間違いなく「日本政府」です。おそらくは、政府内に蠢く「グローバリスト」たちが、そうした体制を望んだのでしょう。「教育を崩壊させれば、国は壊れる」例えがあるとおり、日本は戦争以外で「破滅の道」を進み始めたのです。
ここに「民主主義」の欠陥があります。と言うより、「民主主義を勝手に解釈した結果」とも言えます。日本は聖徳太子の時代から「和を以て貴しとなす」文化がありますから、とにかく、問題が生じれば「話し合い(会議)」を開いて決めて来た歴史があります。しかし、そこには、国の将来を憂える国民がいて初めて成立する「話し合い」であり、「私」が優先される「話し合い」ではありません。しかし、今の政治家は、国の将来を憂える人は少なく、所属する「組織(政党)の一員」として動くことが大事で、自分の意見より「組織の意見」の方が優先されてしまいます。いくら、国民が選んだ「代議士」であっても、国民の意思より「組織の意思」が優先されれば、それは「私」です。今の国の政治を見てください。政府与党は、何度国政選挙に敗れても、「党の総裁」を辞めさせることもできません。選挙で、何度も「民意はNo!」を突きつけているのに、「組織の論理」が優先して、国民の意思は政治に反映されません。これのどこが、「民主的な話し合い」ですか?今、まさに、日本の教育が崩壊しようとしているのに、政府は「平時の論理」で思考し、言い訳がましい施策を行い、学校には、今までどおり「国民に奉仕せよ!」と命じているわけです。本当なら、「国の危機」と認識し、「日本の未来を担う教育」を真剣に考え、国全体で議論するような機会を設けるべきなのです。その上で「特別予算」を編成し、徹底的な「改革」を行うべきでしょう。しかし、その兆候はまったくありません。なぜなら、日本人が「危機意識」を喪失してしまっているからです。だから、「私の責任で行う!」という政治家も出て来ないのです。
「民主主義」は、一種の「大衆主義」とも言える思想です。確かに、「共産主義」のような「独裁政治」が普通の国では、国民の意思は尊重されません。今の北朝鮮や中国では、国民は独裁者か政権政党の「駒」でしかなく、その言論や行動も強い規制がかけられています。それよりは、幾分かは「マシ」ですが、これも一歩間違うと、噂やデマに惑わされることになります。先の大戦中を見てください。日本は、曲がりなりにも「議会」があり、「政党」があり、「内閣」がありました。しかし、軍部が力を持つようになると、強い勢力に靡く政治家も現れ、政治は機能しなくなりました。そして、終戦に際しても、議会も内閣も存在しながら「敗戦」を認められず、敵の攻撃により、多くの国民が死んでいく中でさえ、政治は何も決められなかったのです。そして、最後の最後に日本の国家元首である「天皇」の決断によって「終戦」となりました。確かに「話し合い政治」は、多くの国民の声を拾うことができます。しかし、政治家に「責任を取る者」がいなければ、政治は混乱し、国民は進むべき道を見失うことになります。今の「教育」は、どうでしょう。文部科学省も政治家も、自分たちが進めて来た「教育政策」が大失敗したにも拘わらず、無責任な態度で学校にだけ責任を押し付けています。教師を「サービス業」だと言った人間は、一体どこで何をしているのでしょう?「教育の悪法」と言われた「教員免許更新制」を推進した人間は、一体どこにいるのでしょう?次々と「新しい教育課題」を押し付けてきた責任者は、一体だれなのでしょう?おそらく、それは「みんな」としか言いようがないはずです。「みんな」という得体の知れない謎の集団によって、日本の教育は歪められたのです。
学校は、今の日本社会とは、その「思想」においてまったく乖離してしまいました。社会は、常に「個人の自由」を謳い、「自己責任社会」を作ろうとしています。そして、「公」より「私」が優先され、常に「損」をすることを嫌います。どんなものも「損得」で測り、たとえ、それが「教育」であろうと、「損はしたくない・させたくない」のが、今の日本社会です。親も子供も、少しでも自分に不利益になることを嫌います。いじめをしても、「俺だけ叱るのかよ?」「うちの子だけが叱られた!」「悪いのはあいつだ!」「証拠があるのですか?」等々。昔であれば、「先生、うちの子を叱ってもらってありがとうございました。よく反省させます…」と頭を下げたものです。「叱られる」ことは、子供の成長にとって欠かせない大人の「指導」なのです。それを「俺だけ…」「うちの子だけ…」は、簡単に言えば「損をさせられた」という意味になります。いつも、「自分だけは、得したい」人たちは、何処に行ってもクレームを付けます。それも堂々とクレームをつけて、相手をやり込めて楽しむのです。その思想だと、学校での生活は成り立ちません。集団生活は、必ずしも「平等」は保障されないからです。たとえ「機会」は平等に与えても、「結果の平等」までは、保障できません。運動の得意な子は、運動会の花形です。勉強の得意な子は「頭のいい子」として誉められます。自己主張の強い子は、みんなのリーダーになれるかも知れません。しかし、その逆の子供もいます。平凡で大人しく、これといった特長のない子供は、「華々しい結果」という果実を手にすることはできません。
今の社会のように「自己責任」で完結してしまえば、「やっても無駄だと思うこと」は、意味を持たないのです。それでは、「努力する」ということが無意味になってしまいます。昔なら、「無駄かどうかは、やってからにしろ!」と教師や親に叱られたでしょう。子供の可能性は無限大です。今はパッとしない子供でも、10年後、20年後に大きく華開く人はたくさんいます。最初から、「どうせ、無駄だよ。できっこない…」と言ってしまえば、それでお終いです。「やるもやらないも自己責任」と突き放してしまえば、大人は楽かも知れませんが、「子供の可能性」を摘んでしまう結果になるかも知れないのです。たとえ、そんな「無駄だと思われること」でも、やってみようという意欲が湧くとしたら、それは、「損得論」では得られない「果実」があることを知っている人だけです。それは、「感謝」です。もし、自分の「私心」を脇に置き、「人の為に頑張る喜び」を味わうことができたら、それは、「金メダル」を取ることより嬉しいことかも知れません。昔、オリンピックでメダルを獲得した選手が、「自分で自分を褒めてあげたい…」という言葉を呟きました。これが、話題になり、マスコミが取り上げましたが、実は、その言葉の裏には別な意味が隠されています。それは、(あなたの頑張りを見て、私は、もう一度頑張ってみようと思います…)という、名もない一国民の声なのです。選手個人としては、「誰かのため」ではなかったかも知れませんが、その頑張りが人に「勇気」を与えることもあるのです。
「やっても無駄だったかも知れないこと」が、思わぬ所から「感謝」が伝えられたとしたら、どうでしょう?私の勤めた学校でも、時々、見知らぬ人から「感謝の電話」をもらいました。それは、思いがけないことでした。「雨が降ってきたとき、子供が傘を貸してくれた…」とか、「道を親切に教えてくれた…」などの他愛のないエピソードですが、その人にとっては、とても有り難い行為だったのでしょう。損得で言えば、見知らぬ人に傘を貸してあげても傘が戻ってくるかもわからず、損をするかも知れません。見知らぬ人に道を教えてあげても、自分の時間が取られて損をした気分になるかも知れません。しかし、そんな姑息なことを考えずに「どうぞ…」「どうしました…?」という声かけができる子供がいるのです。私は、嬉しくなり早速「校内放送」で、そのエピソードを子供たちに伝えました。だって、嬉しいじゃありませんか?親なら、教師なら、いつも「損得勘定」ばかりしている子供より、「人に優しい子」になって欲しいと常に願っているからです。それを諭し導くことができるのは、親と教師だけだとは思いませんか?
4 だれが、今の社会に「満足」しているのか?
「流行」というものは不思議なもので、人々の心を惑わします。それが「よくないこと」だとわかっていても、「流行っているんだから…」という言葉は、免罪符のように一人歩きを始めるのです。あれほど、当初、テレビゲームの危険性を騒いでいた人々も、それがパソコンゲームに進化し、携帯のスマートフォンでもできるようになって、もう、何も言わなくなりました。あれほど、電車内で新聞や雑誌を見ていた人たちが一斉にスマホに夢中になっています。「あれ、電磁波の危険はどうなったんだ?」「子供の脳には、よくないんじゃなかったっけ…?」「視力の低下は…?」と、当時騒がれていたことを思い出します。しかし、一旦、社会に定着し、それによって生活が進んで行くと、だれも昔のことなどさっさと忘れ、今では「スマホ」なしでは生活ができません。教育にも同じような「流行」が襲って来ます。平成になって文部科学省が示した「ゆとり教育」が、マスコミと政治家によって簡単に潰されると、政府は一気に「学力向上」に舵を切りました。それまでは、「過度な受験戦争」の弊害を指摘し、「日本は、最早、先進国なのだから、もっと生活にゆとりを持たせましょう…」として始まった「ゆとり教育」は、けっして間違った方針だったとは思いません。今では、「大きな失策」であったかのようにマスコミは言いますが、それは、彼らが「ゆとり教育」を潰すために放った「プロパガンダ(謀略宣伝)」です。
学習する内容が精選され、教科書が軽くなり、子供たちの下校時間も早まりました。学校にも「裁量の時間」が取れるようになり、学校独自で扱えたのです。教師たちにも「ゆとり」が生まれ、授業時間もそれほど厳しいことを言われなくなりました。正規の授業時間だけでは、理解できない子供には、余剰の時間を設けて「個別指導」もできましたし、学校で「復習」する時間も取ることができました。そのころは、「不登校」や「いじめ」といった問題も少なく、今のようにギスギスした雰囲気はありませんでした。しかし、「国際学力調査(PISA)」なる聞いたこともない調査結果が出ると、マスコミは大騒ぎを始めました。「日本の子供の学力が低下している」というニュースです。今考えれば、これは、「ゆとり教育」に反対する勢力の謀略だと思いますが、連日、テレビのニュースでは、この問題が採り上げられ、文部科学省は散々にマスコミから叩かれたのです。そして、それは、世論を動かし、「子供の学力が下がる」というデマは、一気に拡散し、またもや「学力向上」「高学歴信仰」という昔の価値観に戻ったのです。これも想像ですが、「ゆとり教育」が進めば、教育産業が廃れます。彼らにしてみれば「受験熱」を煽って、どんどん塾や予備校に通わせたいのです。「ゆとり教育」は、教育産業の「敵」でした。もう、この国は、正常な判断ができないくらい巨大化してしまったのかも知れません。
マスコミに叩かれ、政治家に追及され、世間の批判を浴びた文部科学省は、大臣がテレビカメラの前で謝罪し、「学力向上」への転換を宣言しました。これは、日本の政治が、マスコミという巨大権力によって「負ける」という怖ろしい結果を招きました。これ以降、マスコミは、気に入らない政権ができると、徹底的に「ネガティブ情報」を流し続け、その政権が倒れるまで執拗に世間を煽ったのです。最早、日本という国は、「マスコミ」が動かしている国になったのです。そして、その胡散臭さに気づいた国民は、マスコミを信用しなくなり、コンピュータ社会が到来すると、だれも新聞を購読しなくなり、テレビも見なくなりました。雑誌も売れず、それまで良質な記事を載せていた出版社も「スクープ記事」ばかりを書く三流紙に落ちていったのです。それでも、政治家には強く、政治家を生かすも殺すも「マスコミ」だという図式は今も変わりません。これも「グローバリスト」たちの策略なのでしょう。
そして、一気に「学力向上」に転換した文部科学省は、だれからも文句が言われないように、学習内容を増やし、教科書を厚くし、子供を学校に長時間置くように授業時間数を増やしました。働いている親たちからしてみれば、子供が学校に行っていてくれれば、取り敢えず「安心」できます。子供の帰宅が遅ければ、それだけ「働ける」わけですから、だれも反対しませんでした。子供が疲れようが、教師が「長時間労働」になろうが、そんなことは知ったことではないのです。そのために、ランドセルは大きく重くなり、子供が悲鳴を上げると、文部科学省は「学校に教科書を置いていきなさい!」と「置き勉」を奨める始末です。学校では、「家に帰ったら予習・復習をするように…」と指導していたのに、国は「そんなことをしなくてもいい」「重い荷物は学校に置いていきなさい」と真逆の指示を出したのです。自分たちで勝手に学習内容を増やすから、ランドセルが重くなったのに、都合が悪くなると、「家で勉強しなくてもいい施策」に変えるのですから、二枚舌もいいところです。国にとっては、親たちの「労働力」が第一であって、子供のことなど「どうでもいい」案件なのです。その結果、親たちにも「ゆとり」がなくなり、少子化に拍車がかかりました。これも、すべて日本政府の「失策」です。マスコミや政治家は、何かあるとすぐに「戦前」を持ち出して、恰も、「現代は、戦前の反省に立ってすばらしい社会を築いている」かのような「プロパガンダ」を行いますが、これなどは、都合のいい「言い訳」に過ぎません。
こうした「流れ」ができると、国民は「そんなものだろう…」と思い込み、易々と国の失策に乗せられるのです。たとえば、学校での「いじめ」が盛んに報道されると、国はわざわざ法律まで作り「学校でいじめをしてはならない」と定めました。まるで、「いじめ」は学校でだけで起きるかのような言い方です。「大人は、そんなことはしないよ!」とでも言いたいのでしょうが、今では、裁判官だろうが、検事だろうが、会社の社長だろうが、「ハラスメント」で訴えられているではありませんか?そもそも、「ハラスメント」などと言う横文字で誤魔化していますが、日本語で言えば「虐め・いやがらせ」です。まして、分別のある大人の「虐め」ですから、それは「犯罪」なのです。自分の小さな「権力」を笠に着て、弱い立場の者を「いたぶる」のは、時代劇でいう「悪代官」に決まっていますが、そんな大人が偉そうに「子供は、いじめをしてはいけません!」とは、どの口が言うのでしょう。こんなことが起きるのは、日本人に「ゆとり」がないからです。大人は低賃金であくせく働かされ、企業は幹部だけが儲かる仕組みを作りました。「働いても働いても楽にならない」ために、子供は置き去りにされるのです。
一時、「保育所・保育園に入れない!」と大騒ぎになり、夜遅くまで「預かり保育」をする園も増え続けています。土日、祝日、深夜まで他人の子を預かるのは「正常」なのでしょうか?最近では、「子ども食堂」なる「無料食堂」が話題になっていますが、これも「正常」ですか?「親がいながら、地域の無料食堂に行かないとご飯が食べられない子供」が増えているということは、「親が子育てをしていない」ということです。以前なら、「せめて、食事くらいは親子で食べたい」と家庭の基本だけは死守しようと頑張っていましたが、今では、それも忘れ「子ども食堂に行って食べてきなさい!」では、子供は黙って「唇を嚙む」しかありません。そんな理不尽がとおる世の中に涙しない子供はいないのです。以前、ある選挙の候補者が「子供は社会全体で育てます!」と訴えた人がいましたが、まさにそのとおりの世の中になってきました。しかし、「親子関係」が築けずに良好な「家庭」が築けるはずがありません。「親子」は、血がつながっているだけに、簡単「縁」を切ることができないのです。大人になって関係の崩れた「親子」ほど、気の毒なケースはありません。今の殺人事件の多くは親族間で起こる確率が高いそうですが、子供のころからの「親子関係」に原因があるように思います。「私だって、働いていて忙しかったんだ。仕方ないだろう…」は、大人の理屈です。「子供は、親の愛情で育つ」ことを忘れては困ります。「仕方なかった…」は理解しますが、その結果、「親子関係」が築けず、大人になって修復しようと思っても、それは「虫がいい話」なのです。
日本も高齢化が進み、労働力不足になっていることはわかりますが、そのために、少子化に拍車がかかり、教育が崩壊していくことを考えれば、政治家の責任は重大です。こうなることがわかっていながら、目先の利益のために政治を行った結果が、今の姿なのです。「グローバル社会が幸福をもたらす」とでも考えているのでしょうが、それは、戦前の「ソ連を見習え」と一緒です。あのとき、世界は「共産主義思想」が蔓延し、だれもがその「平等思想」に憧れを持ちました。日本国内でも、政治家や官僚、高級貴族までもが共産主義に傾倒し、「天皇親政による共産化」を企んでいた結果が、大東亜戦争の敗戦でした。そして、敵として戦った「アメリカ」自体が、政府内部に共産主義者が入り込み、ソ連の意図したとおりの戦争になりました。そして、その結果がどうなったかは、歴史が物語っています。そして、ソ連が崩壊し、「共産主義」は「グローバル」と名を変えて、またもや、世界を乗っ取ろうとしています。それに、まんまと乗せられた日本の政治家や官僚、財界人たちは、闇雲に「グローバル化」を目指して突き進みましたが、日本は、急速に力を失い、今の状況を生み出しているのです。国民は、だれも、こんな社会を望んではいません。このまま進めば、間違いなく「教育」は崩壊するでしょう。教育が崩壊した先には、日本社会の崩壊が始まります。日本人の強い絆の元にあった「家族」が崩壊すれば、最早、「国」として存続する意味はありません。そして、それを喜んで眺めているのが、「核兵器を持つ隣国」だと言うことを覚えておきたいものです。
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