現在、朝ドラで「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)」の妻を主人公にした物語が放映されて人気を博しています。私も「朝ドラファン」の一人として、毎朝楽しみに見ております。明治初年の混乱期の田舎町(島根県松江)が舞台ですが、日本中貧しかった時代のお話ですから、昭和の中期ころまでに産まれた人ならば、そんな人々の暮らしや風景も懐かしく思えるのではないでしょうか。この「松江」は、松平家16万8千石の城下町でした。島根、出雲地方を治めた大名で、今でも「茶人」として有名な「松平不昧(治郷)」が藩政改革を成し遂げた人物として地元では愛されています。私も松江は出雲大社にお参りする途中で寄りましたが、大きな「宍道湖」が広がっており、そこでは、「蜆漁」が盛んに行われていました。宍道湖に浮かぶ蜆漁の小舟は「如何にも蜆漁…」という風景で、時代を超えて郷愁を感じたものです。宿に入ると、蜆関係のお土産物が多く並び、食事には必ず大きな蜆を使った料理が並びました。あんな大きな「蜆」は、関東、東北では見られません。二日酔いには「蜆汁」が効くと言われますが、蜆エキスは健康の源なのだそうです。確かに、ドラマを見ていても蜆が登場しない日はありませんので、松江の人々の健康の秘訣は、やはり「蜆」なのでしょう。さて、そんな松江ですが、ラフカディオ・ハーンが松江にやって来るのは、明治中期のことです。ドラマにも描かれているように、明治半ばころまでは、「江戸時代」が新しい時代に混在している社会で、外国人の眼から見た日本は、とても不思議な国だったと思います。
ハーンが日本に憧れを持ったのは、その異国情緒もありますが、「源氏物語」や「古事記」などの古典文学だったと言われています。もちろん、当時「日本」は、「黄金の国ジパング」であったり、「ジャパニズム」であったりと、欧米では結構人気がありましたので、外国人であっても、日本文化に触れる機会はあったはずです。今でも、外国人が来日する目的として、日本の歴史や文化を挙げる人がたくさんいますので、ハーンが、日本に関心を持った気持ちも理解できます。欧米などの白人たちは、政治的な「人種差別」的な政策を採ることが多かった時代ですが、個人の趣味となると、「日本」は、いい意味で「高尚な趣味」ではなかったかと思います。私たち日本人が見ても、「浮世絵」や「茶道」「古典文学」などは、面白いと思うのですから、ハーンが興味を持って日本に来たことは間違いないでしょう。そして、「日本には、サムライがいる…」という噂は、外国でも有名で、幕末期の外交使節団や博覧会などで見る「サムライ」は、独特の装束を纏い、頭髪を結い、刀を腰に挿しているのですから、外国人には興味の対象になっても不思議ではありません。そんな日本に来たハーンが、遂には「日本人」となり、日本に骨を埋める決意をするには、それなりの理由があるはずです。そんな点を踏まえて、「ばけばけ」に描かれる武士や女性たち、そして、明治という時代を考えてみたいと思います。
1 武士の時代の終焉
ドラマでは、新しい世を迎えながら、未だに「武士の時代」の習慣を引き摺る「没落士族」の姿が描かれています。それは、「松江藩松平家」が、変革の時代に積極的に関わらなかったことが原因でもありました。江戸時代、島根・出雲地方の支配を任されていた松平家は、その名が示すとおり、徳川家一族(親藩)の大名です。禄高も「16万8千石」は親藩・譜代大名としては破格であり、親族だからこその禄高でした。立藩当初からの家老家ともなると7千石を領したと言いますから、その生活は大名クラスです。しかし、こうした大名家は、格式ばかりを重んじる傾向にあり、藩の財政を苦しくさせる原因ともなっていました。当時の武家は、何かと儀式を重んじるあまり、その家の「家格」によって、邸の造り、着る物、使う物、食べる物まで事細かく決められていたと言います。幕府においても、14代将軍徳川家茂が、若くして亡くなりますが、原因は「脚気」だと言われています。要するに「ビタミンBの不足」が原因ですが、本来、「麦」などに多く含まれるビタミンですが、「上級武家は、白米を食す」と常識があったらしく、下級武士や庶民のような「玄米食」や「麦飯」を食べなかったために、「脚気」になったと言いますから、妙な「格式」が、命を縮めることもあったのです。今の時代で考えれば、ばかな話ですが、当時の「格式」とは、そうしたものだということを理解しておくべきでしょう。
江戸の中期から後期にかけては、各藩では「藩政改革」が行われました。そのころになると、どの藩でも年貢の徴収だけでは、藩経済が賄いきれず、抜本的な改革が必要になっていました。それは、武士政権は飽くまで「米本位政策」であり、商人たちのような「金銀貨幣経済」への移行が進んでいなかったからです。「商業行為は、卑賤の人間がやることだ…」という儒教原理主義のような思想は、全国の武士の思想になっており、これに凝り固まった人間ほど、どうにもならないところまで追い込まれて行ったのです。朝ドラの中でも、「働くと格が下がる」と言った演出がありましたが、高位の武家にとって、政治や軍事を司るのが武家の役割であって、「労働」は、下級武士か庶民が行うものという誤った認識があったようです。しかし、彼らは大きな勘違いをしています。たとえ、高位の武家であっても、それは江戸時代の「幕藩体制」が敷かれて以降のことであり、それまでは、農民の暮らしと左程の違いはなく、農民を「卑賤の者」といって蔑む思想はありませんでした。ところが、平和な時代が長く続くと人間は堕落するものです。武士たちは、いつの間にか戦を忘れ、平穏な日々がいつまでも続くものと勘違いをしたのです。それが、「家の格」といった歪んだ思想が生まれた原因でもありました。
そもそも、「幕藩体制」というものは、徳川幕府が全国を統治する上で都合のいいように創られた「体制」であって、武士本来の「形」ではありませんでした。鎌倉時代から武家政権は始まりますが、武士は「実力勝負」の世界が当たり前でした。要するに「戦場での働き」こそが、武名を挙げる唯一の道であり、それを誇りとするのが武士だったのです。事実、大坂の陣で活躍した「真田信繁(幸村)」などは、一介の浪人でしかありません。領地も官位も持たない浪人者が、大坂城の命運を賭けた戦いに一軍を率いて奮戦し、あの「徳川家康」を追い詰めたのですから痛快です。信繁は、この戦で命を落としますが、後の世まで「真田幸村と十勇士」として語られ、武士の憧れの存在となりました。また、「赤穂浪士四十七士」は、主君の仇を討った英雄として「忠臣蔵」の芝居となり、その英雄伝説は不滅です。彼らも、名もなき赤穂浅野家の旧臣であり「浪人者」なのです。ここには、高禄も官位もありません。「戦場での働き」のみが評価されるのが、本来の「武士」なのです。それを「格」などという意味のない肩書きに縛られた江戸後期の武士は、「真の武士」を名乗る資格があるのか疑問です。ラフカディオ・ハーンは、そういう意味では勘違いをしていたと言うことです。
今でも「帰農」という言葉が残っていますが、要するに「武士が農民に帰る」ことを意味します。江戸時代の身分制度は「士農工商」だったと言われていますが、「農」の身分が高いのは、「士農は一体」という意識があったからです。実際、身分は「農民」であっても、苗字帯刀が許された「名主」クラスの農民も多くいましたし、農民身分から「士分」に取り立てられた人も多くいましたから、武士が農民になって刀を置き、鍬や鋤を取って働くことは恥ずかしいことではありませんでした。実際、明治時代になり、士族であっても農業を営んで暮らした人は多かったのです。そういう意味では、「家の格」などというつまらないプライドに拘った松江藩の士族は、「武士の歴史」に対して疎い人が多かったとしか思えません。「武士がダメなら、農民に戻ればいい…」が、常識的な武士の考え方でした。それができないというのは、江戸時代に作られた「家の格」みたいな階級制度が問題だったのです。実際、「羽織の紐の色」で武士の階級を一目瞭然としたり、「絹服か綿服」といった着物の生地で差を付けたり、「下駄か草履」「白足袋か黒足袋」で階級を示したりと、同じ武家でも歴然とした「身分差」をつけていましたので、戊辰戦争で「どっちつかず」の松江藩などは、そうした「格の違い」が残っていたのでしょう。有名な坂本龍馬などは、「郷士身分」でしたから、半分農民身分です。土佐藩も身分制度が厳しく、戦国時代の「長宗我部家」の旧臣たちを極端に差別することで、支配者となった「山内家」の力を誇示するために、様々な「差別手段」を用いたようです。これが、明治維新の原動力となるのですから、「差別」が如何に人間の心を離反させるかわかるというものです。明治維新後、四民平等の世の中になってから、人々(平民)が、士族に対してよそよそしかった理由がよくわかります。
全国の武士にとって「明治維新」は、何も「西洋化・近代化」することが目的だとは思っていませんでした。彼らは、明治維新を「関ヶ原の戦い」だと思っていたのです。それは、昔、豊臣家から徳川家に政権が移ったように、今度は、「徳川家から島津家・毛利家」に政権が移っただけだと思って戊辰戦争に参加していました。そして、「勝ち組」は、領地が増え、殿様は高い官職に就いて、これまで以上の暮らしが待っていると思っていたのです。「勝てば…」戦争で借りた金など、負けて潰された大名家から分捕ればいいだけの話です。そして、領地が増えれば「年貢」が増えるわけですから、だれもが「勝ち組に乗ろう」とするのは当然です。そして、事実、松江藩はその「勝ち組」に入り、明治維新を迎えました。ところが、明治政府は、「王政復古の大号令」を発し、時代を一気に「平安時代」まで戻してしまいました。それは、「武家政権」が「貴族政権」に移ったということを意味します。つまり、もう「幕府」を開く武士はおらず、武士の時代は終わりを告げたのです。「新しい幕府ができる」つもりで戦った武士たちは、完全に梯子を外されました。そして、武士から「貴族」へと変わった新政府の役人たちは、武士からその特権をすべて奪い、「これからは、身分に関係なく勝手に生きろ!」と突き放したのです。こうして「武士の世の中」は呆気なく終わりを迎えたのでした。
2 「勝ち組」になってしまった不幸
松江藩松平家にとって、忠誠を誓うべきは徳川家以外にはありません。当然、幕末時において松江藩は幕府方として動いていました。しかし、何と言っても地理的に江戸には遠く、すぐ隣が過激な長州藩毛利家ですから、常に「最前線」に立たされていたことになります。こうなると、気持ちは「佐幕」でも、実際は長州藩の武力に屈して「倒幕方」につくしか道はありませんでした。既に長州藩は、薩摩藩からの援助もあって、「英国」からの武器弾薬、食糧が確保できていたのです。その銃器や大砲の威力は、「第二次長州征伐」で実証済みで、その威力を見た松江藩は、急速に戦意をなくしたはずです。松江藩は、大藩とはいえ、その軍備といえば戦国時代さながらの武装で、新式銃も十分揃えられませんし、周囲の徳川勢が次々と倒幕方に降れば、もう、どうしようもありませんでした。長州藩にしてみても、松江藩の兵力では、前線に投入する力はありません。従来の戦法では、味方の足手纏いになってしまいます。それに、いつ「裏切る」かも知れません。信用などするはずがないのです。そこで、長州藩などは「軍資金」を供出させました。松江藩の詳細はわかりませんが、かなりの借金をして新政府軍に金品を渡したことは間違いないでしょう。こうして、何とか「御家」の存続を図ったのが西国の徳川方の実情です。これは、江戸から遠く離れた西国の親藩や譜代藩には、やむを得ない判断でした。その代わり、松江藩の兵が最前線に行くことはありませんでした。前線に立つのは、早くから近代装備を施した薩摩・長州・土佐・佐賀などの兵で、後は最後まで抵抗した藩の兵たちを「懲罰」の意味で最前線に立たせたと言います。
あまり戦力にならない松江藩は、後方支援と国境警備などが主な仕事で、最前線で戦った藩のように多くの戦死傷者を出しませんでした。それは、当時としてはラッキーだったと思いますが、その分、「時代の流れ」が掴みにくかったとも言えます。会津藩や長岡藩などのように郷土が焦土化され、兵だけでなく多くの領民が亡くなるような戦を経験した者は、否応なく「無慈悲な時代」が来たことを思い知らされますが、松江藩のように、戦争が終われば元の暮らしが待っているような地域(国)では、明治になっても依然と変わらぬ「普通の暮らし」が待っていたのです。そこに来て、明治新政府は次々と新しい政策を打ち出しました。「廃藩置県」「版籍奉還」「四民平等」「廃刀令」…と続く命令は、松江の「武家の人々(士族)」を驚かせました。そのうち、「殿様」が松江を離れ東京に行くことが決まり、関係者たちがみんなで盛大に見送ったと言います。それは、嬉しい出来事ではなく、失望と落胆、将来への不安の入り交じった見送りでした。それまで、「城に殿様がいない」などという事態は、考えもしなかったのですから無理もありません。まして、江戸は「東京」と名を変え、「お上(天皇)」までが、東京に行ってしまわれては、日本の「伝統の破壊」のように見えたはずです。ここから、武士たちの本当の混乱が始まりました。
松江藩士にしてみれば、「我々は、戦に勝ったんだよな…?」という思いは、武士であればだれにでもあったはずです。徳川本家に対しては、少し後ろめたい気持ちはあったにしても、松江が戦乱に巻き込まれず、御家も家族も無事なことを喜び合いました。それに、取り敢えず「勝ち組」に加わったのですから、「御家安泰」は確実だと思っていました。ところが、いつの間にか、自分たちが「敗残兵」のような扱いを受けるのですから理不尽でないはずがありません。そして、そんな武士たちの怒りと困惑の中で「士族の反乱」が各所で起きました。特に隣国「長州」で起きた「萩の乱」は、松江のサムライ心を奮い立たせるものだったはずです。新政府軍の主力となり、朝敵「会津」を討った長州の兵たちが挙兵したのですから、徴兵で集められた「素人兵」に負けるはずがありません。萩での蜂起が成功すれば、それに呼応して全国の「士族」が味方に加わり、再度の「御一新がなる」と思ったはずです。しかし、そんな期待も空しく、新政府軍の素人兵によって「萩の乱」は、あっという間に鎮圧されてしまいました。動くことを期待していた薩摩も動きません。それでも、各所で「士族の反乱」は起きましたが、悉く鎮圧され、首謀者はさらし首になりました。
長州の前原一誠、佐賀の江藤新平などは、新政府の大幹部です。そして、最後には「西郷隆盛」陸軍大将が、薩摩隼人を主力に叛乱を起こしましたが、敢えなく自刃する結果に終わりました。これで、だれも新政府に抗う者はいなくなりました。こうして「士族の時代」は終わりを告げたのです。結局、「俺たちが、勝ち組だ!!」と喜んでいた武士たちは、自分たちの味方だと思っていた新政府によって、その身分を剥奪され、職を追われ、「四民平等」の名の下に社会に放り出されたのです。「明治維新」という改革は、このように厳しく無慈悲なものでした。「武士」は「士族」と区分され、姿形も平民と同じ扱いになりました。「武士の魂」とまで言われた「二本の刀」も帯びることができません。「元武士」たちには、議論する余地さえ与えれず、次々と自分たちを社会に放り出す政策が打ち出され、「えっ…。そんなばかな!」と思っているうちに身ぐるみを剥がされたわけです。もちろん、「債権」は家禄に応じて配られたとそうですが、そんな「退職金」など、これまで得ていた知行や禄から見れば「雀の涙」にもなりません。彼らは一度は「勝利の美酒」を味わっていただけに、その幸福から突き落とされる悲しみは、味わった者だけにしかわからないでしょう。
まさに「勝ち組になってしまった故の不幸」を味わったのです。おそらく、松江藩の中にも長州や薩摩の蜂起に加わった者がいたかも知れません。しかし、彼らは所詮は「徳川家の者」なのです。将軍であった慶喜公が水戸に謹慎したとなれば、いくら新政府軍に与したと言っても新政府内で登用されるはずがありません。余程、器量があり有能な人であれば、その人脈を使って出世した人もいたかも知れませんが、政府や軍の中枢に入ることはできませんでした。藩が廃止され、「島根県」になっても、上級役人は薩摩や長州など、戊辰戦争の主力となった藩の出身者ばかりでした。結局、殿様のいない「藩」など、自然消滅して当然だったのです。それでも、「平民」となった人々は、世の中の移り変わりを横目で見ながら、淡々と暮らしていました。心の中では、武士の没落を「いい気味だ…」と思って見ていたことでしょう。街や風景は、以前のままでも、そこでの人々の営みは大きく変化していったのです。
3 一人安堵した「殿様」たち
明治維新は、それまでの「社会秩序」を徹底的に破壊し、新しい国造りを目指した革命でした。そうとは気づかずに、乗せられた「武士」たちこそ、いい迷惑です。それでも、「士族の叛乱」は一部の地域だけで収まり、全国に拡大することはありませんでした。あれほど「武士階級」を騙しておきながら、社会に放り出し、倒幕戦争の中心を担った者たちだけが旨い汁を啜った「明治政府」が、再度、武士たちによって倒されなかったのは、藩の「殿様」たちが、動かなかったからです。そのとき、「殿様」は、全員「東京」に集められていました。そのために、決起しようにも「旗頭」となるべき「殿様」がいなくては、武士たちは動きようがありません。しかし、その殿様たちが、東京で幽閉されて身動きできなかったのか…と言えば、そんなことはありませんでした。実は殿様たちは、新政府からの要請を受けると、自ら望んで領地を離れ、東京に向かったのが真相なのです。それは、当時、どこの「藩」も莫大な借金を抱え、身動きできない状態に陥っていました。江戸時代の後期は物価が高騰し、年貢米を金銭に交換するだけの暮らしでは成り立たなくなっていました。全国の大商人たちは、「大名貸し」が普通に行われており、その利子だけでも大変な額になっていました。大名家は「借金に次ぐ借金」で首が回らなくなっていたのです。それでも、「藩」として存続し得たのは、徳川幕府という強い後ろ盾があったからです。それが、崩壊してしまえば、残るのは「莫大な借金の山」だったのです。
特に松江藩のように、大きな特産品がなく年貢に頼っていた藩は、元々財政的に厳しく、その上「戊辰戦争」が始まると、商人たちに借金をして軍費を賄わなければなりませんでした。既に藩士たちからは禄の一部を召し上げていたわけですから、たとえ、「徳川家ご親戚」と言っても、そんな威光は通用しなくなっていたのです。殿様にしてみれば、明治政府が今までどおりの「幕藩体制」のままで政治が行われれば、「藩そのもの」を政府に返上しなければならない事態に陥ることは必定でした。そこで、明治政府は、「中央集権」を実現するために「版籍奉還」を行い、大名家が全国で領地して持っていた財産すべてを朝廷に返させたのです。明治維新は、「王政復古」を宣言していますので、全国の土地も人民もすべて「天皇のもの」だという理屈が成り立ちます。それに、戊辰戦争は、「尊皇」が旗印であり、「天皇中心の国家」を取り戻すのが目標でしたから、「版籍奉還」は、当然でした。これにより、大名たちの「借金」もすべて政府が管理することになり、大名たちは、「借金返済」の苦悩から逃れることができたのです。政府はこれを「公債」という形にして商人たちには、「これからは、政府が返す」と言って「債券」を配ったといいます。さて、それが、どれほど効果的な代物かはよくわかりません。江戸時代には、何度も「徳政令(江戸版)」が出され、大名たちの借金が棒引きにされていましたので、商人たちも諦めていたと思います。それでも、ちゃんと「儲け」を計算しているのが優秀な「商人」というものです。
商人たちが、そんな理不尽と思われる命令に従ったのは、これまで、彼らが「無税」で商売をすることができたからです。江戸時代の「士農工商」という身分制度は、商人たちにとって非常に都合のいい制度でした。徳川家康は、「商いによって利益を得ることは、武士のすることではない」という儒教の考えに基づいて国の統制を行ったために、日本は、「米本位制」から、なかなか抜け出すことができませんでした。しかし、「貨幣経済」が進むと、否応なしに「米本位制」は崩れ、「貨幣経済・金銀本位制」に移行するしかありませんでした。米は、米そのままでは物の売り買いはできません。米を「金銭」に替える「両替」が必要です。しかし、それを武士が行うことは倫理上許されないとあると、そんな「不浄なもの」は、商人が扱う他はないのです。それに、「米」は普遍的な価値を持ちません。常に豊作、不作があって流動的です。そのため、その年の米の価値を決めるのは、「相場」になります。その相場の状況によって、米の値段が決められ、武士に還元されるという仕組みが生まれました。そして、その「相場」を扱うのも商人たちなのです。江戸時代は、実は、武士の時代ではなく、「商人(町人)の時代」とも言えるのです。
結局、「幕藩体制」は、こうした社会の動きに敏感になれず、イデオロギーに囚われ過ぎたために、身を滅ぼす結果となったのは仕方がないことでした。もし、「武士」が「貨幣経済本位制」を推進すれば、祖法である「身分制度」の崩壊を招くことになり、「徳川幕府」の根幹を揺るがす事態になったでしょうから、それは、絶対にやってはならない「禁じ手」だったはずです。有名な「田沼意次」が、財政が逼迫した幕府の立て直しのために、この「貨幣経済」を幕府の政策に導入しようとして、周囲に敵を作り、失脚したことから見ても、幕府そのものが時代に取り残された体制だったことがわかります。それでも、300年近くも存続できたことは、それだけ政治体制としては、よく整っていたことがわかります。明治維新の功罪については、別に述べるとして、あのタイミングで、殿様たちを解放できたことは、明治政府の最大の功績だと思います。それも、殿様たちにしてみれば、背中に背負わされた「家」の重みや「家臣・領民」の期待や多額の「借金」から逃れられたことは、不幸中の幸いでした。まして、貴族制度に則って「爵位」をいただくことになれば、世間的な体面は保てます。さらに「殿様の私財」は保障されましたので、逆に幕末よりも裕福な生活を送ることができた殿様も多かったようです。旧領地では、旧家臣たちが貧困に喘いでいても、遠く離れた「東京」では、訴える術もありませんし、旧殿様に責任はありません。こうして、「版籍奉還・廃藩置県・四民平等」等は大きな混乱もなく着実に行われたのです。
4 「能力」が問われた近代
明治維新後の日本は、やむを得ずにしても「開国」に踏み切りました。「開国」は、「近代化・西洋化」を意味します。そのことを全国の士族は理解していませんでした。単に「文明開化」といった形だけの西洋化とは話が違います。見た目は、「ざんぎり頭に洋装」ですが、その中味は、徹底した「能力主義の時代」を迎えたのです。松江藩は、徳川家の一族だったために西洋化に遅れ、「近代」というものを理解できないまま、明治という時代を迎えてしまいました。彼らは、常に「受身」でしかなく、長州や薩摩のように、積極的に西洋を学ぼうとする気概はありませんでした。16万8千石という大藩だったために、時代を見る眼が養われなかったのでしょう。それに、これほどの大藩でありながら、幕末期に活躍した人物が見当たらないのです。つまり、この藩は、ずっと「日和見」に終始し、時代を読む力に欠けていたことになります。もちろん、藩内には、優秀な人材がおり、意見を具申する者もいたでしょうが、上に立つ幹部たちが煮え切らず、時代の流れに身を任せたというのが正直なところだと思います。明治になると、松江藩の武士階級は、これと言った活躍ができぬまま「没落」していった家が多かったそうです。「ばけばけ」に登場する家もそうした例に違わず、「物乞い」にまで落ちぶれる姿が描かれていますが、これほどまでに「生活能力」に乏しい武士たちも珍しいと思います。平穏な暮らしに安穏としていたせいで、本来の武士道にはない「格」とやらに拘り、それしか価値観を持たないために「野垂れ死ぬ運命」を甘んじて受け入れるとすれば、それは、あまりにも偏った人生観でした。
確かに、明治政府の初期は「藩閥政治」が横行し、新政府軍側の人間だけが登用される偏った人事で運用されていました。しかし、西南戦争が終わり、新しい「国家像」を描く段になると、それだけではどうにもならない事態に陥りました。それが、役人たちの「汚職事件」です。政府に登用された元下級武士や下級貴族たちは、国内戦争に勝利したことで有頂天になり、「なんでもできる…」と勘違いをし始めるのです。それに便乗したのが、「商い」に長けた老練な商人たちでした。商人たちにしてみれば、たとえ、政府の偉い役人だと言っても、騙すことなど簡単です。旨い肴と女で釣り、「ここだけの話ですよ…」と言った手口で儲け話を持ちかければ、元は貧乏サムライですから、容易く手玉に取れます。そんな汚職があちこちで起き、政府内は収拾がつかなくなっていたのです。やはり、薩摩や長州の武士たちも、明治維新の本質は理解していませんでした。しかし、「国を治める」とは、そう容易いことではありません。まして、既に列強はすぐそこまで迫っているのです。このまま放置すれば、日本は内部から崩壊し、列強の植民地になることは明らかです。さすがにそれでは、幕府を倒した意味がありません。そこで、明治政府は、全国から優秀な人材を登用し始めました。特に「旧幕臣」は、昌平坂学問所等で学び、海外留学などをしてきた逸材が揃っていました。その代表が、「渋沢栄一」でしょう。彼は、農民の出身で徳川家(一橋)に使えた元幕臣です。しかし、既に外国を知り、世界の経済を学んだ人物です。
他にも多くの「幕府方」の人間が登用されました。特に、「西洋医学・西洋兵学・英学」などは、学んだ者が少なかったために、「藩閥」などと言っていられない状況がありました。今でも、西洋医学では、大坂の緒方洪庵「適々斎塾」、佐倉の佐藤泰然「順天堂」などが有名ですし、西洋兵学では、信州松代の佐久間象山、伊豆韮山の江川英龍などが知られていました。英学などは、未だ蘭学からなかなか進まず、津和野の西周や長州(脱藩)の手塚律蔵などがいます。しかし、残念ながら、松江藩はそういう意味での先進的な学問を身に付けていた者は少なく、日本の近代化に貢献できませんでした。しかし、明治の近代化に遅れた松江ではありますが、その後、多くの逸材が生まれたのは、明治以降に学んだ人々がたくさんいた証拠でもあります。特に芸術・スポーツ系に著名な人が多く、やはり、「松平不昧公」を生んだ土地柄ですから、「文化の香る神話の国」が出雲地方らしくて私は好きです。
やはり、日本の近代は「富国強兵」の時代ですから、芸術や文化は遅れてやって来る傾向にあります。しかし、「文化」というものは、経済的な豊かさや強力な軍隊があれば開花するというものではありません。今、大河ドラマで江戸後期の「庶民文化」である「出版・絵画の世界」が取り上げられていますが、いくら幕府が統制を強め「贅沢禁止」を叫んでも、庶民の欲する熱量を抑えることはできません。人間には、本能的に「知的欲求」というものがあります。「見たい・聴きたい・知りたい・確かめたい」等、未知なものに対する憧れは人間の「本能」です。それが、強い国ほど社会は発展していきます。昔、日本は「模倣の国」と揶揄されたことがありますが、日本人には、「模倣から始めて、自分の形(もの)にしてしまう」という特殊能力があります。たとえば、「漢字」は中国からもたらされたものですが、そこから「ひらがな・カタカナ」が発明され、中国語とは異なる言語文化圏を創り上げました。明治維新以降も、わずか30年ほどで日本は独自の軍艦を造り、70年ほどであの巨大戦艦「大和」を造ったのです。そして、今や日本の造船技術は世界一と言ってもいいでしょう。そして、日本の文化は、「JAPONISM」というブームをヨーロッパに巻き起こし、「焼き物・浮世絵」は、世界の芸術家たちの手本となりました。あれほど、幕府が「贅沢は罷り成らぬ!」と厳しく取り締まっても、人々の飽くなき好奇心を閉ざす力はなかったと言うことです。そういう意味で、島根・出雲地方は、「神話の世界」を含めて「日本の文化」そのものなのでしょう。
5 「ばけばけ」武士道
このドラマの「武士道」は、男性占有のものではなく、女性にもある「武士道」を描いています。有名な「葉隠」(佐賀藩鍋島家・山本常朝著)にもあるように、「武士道とは、死ぬことと見つけたり!」が、武士としての生き方を示しています。これは、「何かあればすぐに腹を斬れ」という話ではなく、「自分のできることを命をかけて精一杯やりなさい。そして、最後の最後まで頑張った先に死があっても、それも覚悟することが武士の道なのだ!」という解釈が妥当でしょう。それくらい「武士」という存在は、尊く、己に厳しいものなのです。この武士道の見本となったのが、元禄時代に起きた「赤穂事件」でした。そして、その首領だった「大石内蔵助」は、その後の武士たちの憧れの存在となりました。大石たちの「武士道」は、事件後に各大名家で話題になり、その生き方は、全国の武士たちによって後世まで語り継がれました。それは、庶民が娯楽として楽しんだ「忠臣蔵」とは、少し違います。徳川家康は、関ヶ原の戦い、大坂の陣に勝利した後、江戸幕府を開くに当たって「儒教」を武士の教えとして採用しました。簡単に言うと「忠孝の道」を説くことで、戦うことのみを追求してきた武士たちに生き方を諭し、「秩序」をもたらそうと考えたのです。「主君に仕え、親に仕え、君臣・親子がお互いを思い遣って生きることが武士の道」と諭すことで、荒々しい戦いと「下剋上」の雰囲気を消し去りました。しかし、それが急に実現できたわけではなく、それが全国の武士たちに浸透するまでに「100年」の月日を必要としました。
しかし、元禄15年12月14日に赤穂浪士47人が、「主君の仇を奉じる」という大義を掲げ、厳寒の12月に江戸府内の吉良上野介邸を襲い、守りを堅くしていた吉良方の侍と激しく切り結び、激戦の末、主君の仇である上野介を討ち取りました。この事件は、江戸府内という大都会の真ん中で起きた事件だっただけに目撃者も多く、その壮絶な戦いの跡を見た人々は、これまで話でしか知らなかった「戦場」を眼で見て、血の匂いを嗅ぎ、その勇者を肌で感じたのです。これで興奮しない人はいません。まさに「戦神が舞い降りた瞬間」に立ち会ったような気分でした。それは、江戸の庶民ばかりでなく、幕府方の人間も江戸にいた多くの武士たちも同じ「興奮」を味わったのです。その中で一番興奮していたのが、この事件のきっかけを作った「将軍徳川綱吉」だという話が伝わっています。そんな興奮状態の中で一人冷静に対処したのが、側用人「柳沢吉保」でした。彼は、この事件を徳川幕府のために役立てようと考えました。そして、これまでの慣例を無視し、将軍家の意向を踏まえた判断を下したのです。
幕府は、この仇討ち事件を「武士道の華」と褒め称え、吉良邸に討ち入った47人の浪人を丁重に扱うことにしました。そして、「武士道」に則り、作法通りの形で「切腹」に処したばかりでなく、主君の菩提寺である「泉岳寺」に葬ったのです。これは、徳川幕府が、この事件を単なる刑事事件として扱わず、「武士道に則った武士の作法」として認定した証でもありました。これを見た全国の武士たちは、「主君の仇を奉じんがために苦難を乗り越え、本懐の後は、潔く腹を斬って散ることこそ、本物の武士の生きる道だ!」と感激したのです。この扱いは、超法規的措置であり、「法治国家」を目指した幕府のこれまでの考えを無視した扱いでした。それは、「武士道」が鍵になります。「武士道に則りさえすれば、武士は、特別な扱いを受けることができる」という解釈は、全国の武士たちを震わせました。そして、益々、儒学を重んじ、忠孝を重んじる武士の「気風」が創られて行ったのです。そういう意味では、「柳沢、恐るべし!」なのです。そして、この物語は、各大名家の子弟たちに教え継がれ、幕末まで生き続けました。そして、それが皮肉なことに「尊皇攘夷」につながるとは、さすがの柳沢も気づきませんでした。当然、松江藩の武士たちにも、この武士道は伝えられ、日頃からの心構えとして「武士の心」にあったはずです。しかしながら、ドラマでは、その精神を受け継いだのは「女性たち」でした。
明治維新によって職を失った士族たちは、配られた「債権」とこれまでの「蓄え」を元に生きることを強いられました。ずっと、藩から領地や金銭を受け取っていた武士たちにとって、それは「浪人せよ!」と言うのと同じです。先祖からの俸禄によって賄われていた武士が、急に浪人となっては、路頭に迷うばかりです。しかし、激しい戦乱を経験しなかった松江の士族は、時代を甘く見ていたのかも知れません。同じ「松平家」でも、奥州の会津松平家は、新政府軍の標的とされ、恭順も許されず、理不尽な侵略を受けて滅びました。城下は灰燼と化し、多くの武士は戦死、そしてその家族は、潔く自刃して果てました。生き残った者たちも、一月に及ぶ籠城戦を戦い、敗戦後は、北の果て「下北」に流されました。そして、食べる物も満足に採れない荒涼とした酷寒の地で血の涙を流し、飢えと寒さで死んでいったのです。同じ「松平家」として、どちらが幸せだったかは一目瞭然でしょう。しかし、そんなこととは露も知らずにいた松江の士族は、為す術なく「没落士族」の悲哀を味わうことになりました。きっと、「こんな不幸は、自分たちだけに違いない…」と嘆いたに違いありません。
今でも、碌に商売をしたことのない人が商売を始めて失敗することを「士族の商法」と言ってばかにしますが、明治維新後、武士という職を失った多くの士族が、「商売」に手を出しました。本来は、商いではなく「農業」に従事するのが武士の道に叶うはずなのですが、やはり、「汗して働く」ことを苦手とした士族たちは、政府より下された「債権」を元手に商売に手を出したようです。当時は、まだ、重工業がありませんので、軽工業として手っ取り早い「絹糸」の生産や「綿布」の生産など、手軽な工場経営を商いとする者も多かったようです。他にも、債券で「株」を買ったり、「鉱山」に投資したりと、まとまった資金を投入したようですが、やはり、上手く行く商売はほんの僅かでした。まして、昔からの老舗財閥がいましたから、三井、三菱、住友などが手を広げると、小規模経営の工場など、あっという間に淘汰されてしまいました。生き残るとすれば、地元の食品を扱ったり、旅館業などで細々と商いをした方が、自分の働き場所もあって長続きしたかも知れません。とにかく、「俄社長業」で成功した士族は皆無でしょう。これで失敗すると、もう入ってくる収入はありませんから、自分が汗して働くしか道はありません。それでも、頭を下げて商店の店員になったり、人力車の車夫になったりと、昔のプライドを捨てて(隠して)働けた人は、それでも何とか家族を養って行くことができました。ただ、それもできない人が、ドラマにもあるように「物乞い(乞食)」になったようです。当然、士族の娘が遊郭に売られた話などは山のようにありました。
それでも、「武士の妻・娘」たちは、「たとえ躰は売っても心は売らぬ!」といった精神で時代を乗り越えていったのです。本当であれば、武士であるはずの男共が、四の五の言わずに黙って働くべきでした。今の女性総理大臣が、「働いて、働いて、働きます!」と宣言して、日本を守る決意を述べたのに、それに反論して「ワークバランス」などと言っているのは、令和の男共です。総理は、「心の有り様」を訴えたのに、それを理解しようともせず小理屈で反論する男共こそ「腑抜け」なのです。明治の世でも、男共は、時代の流れに抗うこともできず、ただ、ブツブツと文句を言い、妻や娘を働かせることを恥とも思わず、のうのうと暮らしている様は、如何に男たちの「武士道」が、偽物だったかがわかります。それに引き換え、女性は強い。朝から晩まで働き、夜は夜で内職をした後、男の本能の欲求に応え、また、朝から晩まで働く毎日。そして、貧しさのあまり「物乞い」に落ちても、文句も言わず、ひたすら「死を待つ」覚悟は、男にはできないのでしょう。あれほど、「武士道とは、死ぬことと見つけたり!」と教えられながら、先祖の墓前に座り、腹を斬ることもできない臆病者なのです。もちろん、この意見に反対する人は多いと思いますが、後世に、そんなドラマを作られてしまう事実を何と評価すればいいのでしょうか。
戊辰戦争で滅ぼされた会津藩の女性たちは、戦争さえなければ、男に仕える慎ましやかな女性たちでした。男を立て、自分の考えは言葉にすることなく夫に従い、そして義父母に仕え、子を産み、家族の幸せだけを願って暮らすことができたのです。しかし、戦争は、そうしたささやかな幸せさえ奪いました。ある者は、男たちを戦場や城に送り出すと、年寄り子供を集め、「敵の手に落ちて辱めを受けてはなりませぬ!」と、潔く自分の喉を短刀で裂き、心の臓を抉りました。ある女性は、生まれたばかりの子を短刀で貫き、その屍を抱きながら自害したそうです。ある者は、日頃の武芸の鍛錬の腕を試す場だと信じ、短刀と長刀を携え、最前線へと向かいました。そして、堂々と敵軍と渡り合い、傷つくややにわに短刀で心の臓を貫きました。ある者は、城に籠もり、敵軍が放った大砲の弾を見つけるや否やそれに飛びつき、爆弾と共に破裂し四肢が吹き飛んだと言われています。そして、生き残った者たちは、百姓仕事を厭わず、飢えと寒さの中で耐え忍び、そして力尽きていきました。それが、会津の女たちの「武士道」だったのです。この凄まじい生き様、死に様を見たなら、松江の男共は何を語ると言うのでしょう。それに比べても、松江の女性の生き様は、まさに「武士道」に生きた姿でした。ドラマ「ばけばけ」に描かれたのは、そんな女性たちの真の強さであり、真の「武士道」だったのです。ラフカディオ・ハーンは、そんな日本女性の武士道に接し、心を打たれたからこそ、日本人女性を妻とし、日本人として生きる決意をしたのだと思います。

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