今時の若者は、「赤穂事件」と言ってもピンと来ない人が多いと思います。おそらく、今の60代以降の高齢者たちならば、「赤穂事件=忠臣蔵」と連想できるはずです。そのくらい、昭和のころは、この「忠臣蔵」全盛の時代でした。今から300年も昔の事件が、江戸、明治、大正、昭和と時代が移っても、この「忠臣蔵」は、永遠不滅であるかのように庶民に受け入れられ、歌舞伎、映画、テレビドラマの中心的存在でした。最近では、さすがに時代劇自体が制作されなくなり、「忠臣蔵」のタイトルを聞くことも減ってきましたが、それでも映画や歌舞伎では、その存在は不滅のようです。やはり、「12月」の声を聴くと「忠臣蔵が見たい…」と思うのは、私だけではないでしょう。しかし、この芝居の「忠臣蔵」と事実の「赤穂事件」は、随分と違います。忠臣蔵は、一連の赤穂事件をモチーフにしていますが、かなり脚色されていますので、飽くまでも「芝居」なのですが、これが意外と上手くできているために、「演劇」としても大成功を収めました。いわゆる「赤穂浪士」は四十七人で、「イロハかるた」も47枚。上手くできていると言えばそれまでですが、この47枚の「札」には、それぞれの涙を誘うエピソードが隠されていて、芝居を飽きさせない工夫がされています。これまで、私も、まじめな「赤穂事件」は、何度も書きましたので、もっと「人間くさい」一面を想像しながら、「四方山話」として語ってみたいと思います。もちろん、見てきたわけではありませんので、ほとんどが私の「想像の世界」ですが、探偵と同じで、多くの資料を当たっていると、意外と「こうだったんじゃないの…?」という世界が見えて来ます。そんな「素人歴史探偵」の四方山話で余暇を楽しんでください。
1 浅野内匠頭長矩の「病」
「忠臣蔵」の芝居では、絶対に描かれませんが、浅野長矩は「心の病」を患っていました。それに、家臣や領民を思う「名君」などではなく、生まれながらの「坊ちゃん大名」で、それほど「世間」というものを知りません。これは、江戸時代の大名・旗本家などの問題で、産まれるとすぐに実の母親から離され「乳母」と呼ばれる家臣の女性に育てられるのが常でした。その上、父親は「子育て」に加わることがなく、我が子に接するのは、余程気の利いた殿様でなければ、儀式のときや親族が集まる場などで、それも実際に抱くわけでもなく、あやすわけでもない、それもほんの一瞬だけでした。父親として登場して来るのは、子供が「元服」を迎えて、武士として正式になったときからでしょう。逆に、女性は子供が元服するまでの存在でしかなく、大人になって乳母と会う殿様はいなかったと思います。私たちが産まれた昭和のころでも、「家事育児は、女の仕事」といった文化があり、父親は平気で「子育ては、お前に任せる…」と言って、育児には積極的に関わりませんでした。
今でも、男性が家事や育児を苦手としている人は多いと思います。男一人でスーパーに行って買い物をしている人は稀で、大方は女性が一人で買い物をしていて、夫は「荷物持ち」が精々でしょう。まあ、その極端な例が「殿様」と呼ばれた人たちでした。長矩も産まれるとすぐに乳母に預けられ、奥御殿(大奥)で女たちに囲まれて育ちました。まして、長矩は嫡男でしたから、将来は「赤穂浅野家5万3千石」を継ぐ御曹司の身分です。毎日毎日、「若様、若様…」と労られながら育つと、それが「世間」になります。中には、意図的に家臣の家で育てられた若様もいたようですが、長矩にそうした記録はありません。つまり、私たちが知る「世間」とは異なる「世間」で育ったと言うことです。それでも、性格が穏やかであれば育てやすいものですが、長矩は神経質で癇癪持ちでした。成人した後も、好き嫌いがはっきりしていて、家臣たちを怒鳴っていたそうですから、子供時代が穏やかなはずがありません。赤穂義士の中に「千馬三郎兵衛」という侍がいますが、彼は謹厳実直の「馬廻役」でした。浅野家の中では「上士」の地位にある侍です。この男、思ったことは黙っていられない質で、長矩にも手厳しい言葉を何度もぶつけました。それは、譜代の家臣の務めだと三郎兵衛は信じていたからです。
しかし、長矩は、「うるさい!」「おまえの顔など見たくもない!」と怒りまくり、禄を減らし謹慎すら命じたのです。三郎兵衛は、「最早為す術はない…」と長矩に見切りをつけ、浪人になるつもりで家の片付けをしていた矢先に、あの「江戸城での刃傷事件」が起こりました。すると、一旦は身を引く準備をしていた三郎兵衛は、大石内蔵助に訴えて同志に加わりました。三郎兵衛にしてみれば、「長矩様とは喧嘩になったが、御家の大事に譜代の家臣として知らぬふりはできぬ!」と、最期まで内蔵助と行動を共にして「武士の一分」を立てたのです。こうした真の「武士」の意見を受け入れず、我を通した長矩は、やはり、器の小さな殿様でした。大石内蔵助もきっと国家老として意見をしたはずですが、内蔵助も遠ざけてしまいました。だから、肝腎なところで大失敗をしでかしたのです。「耳の痛い小言」を言う「じい」がいてこそ、人生を誤らぬ教訓だと言うことです。
長矩は、こうした怒りっぽい性格は、元々の性格だけでなく、それまでの環境がそうしたとも言えます。それが、遂には「痞え」という「神経症」の一種を発症することになってしまいました。この病は、発作が起きると、気分が落ち込み、胸が痛くなったり苦しくなったりするそうです。今でいう「鬱」の症状でしょうか。天候にも左右され、低気圧のときなどは、頭痛も伴い、苛々が募ります。まさに、元禄14年3月14日は、そうした日でした。それが、「勅使饗応役」という緊張を強いられる仕事の最中に発作が起こりました。昨晩から気鬱の症状が出てきた長矩は、奥に入り、妻の阿久里の看病を受けていましたが、あまり眠ることもできず、鬱々としたまま登城し、じっと我慢していました。特に吉良上野介にいじめられていたわけではありません。ただ、長矩は、上野介のような「じいさん」は苦手でした。なぜなら、自分より年長で官位も高く、態度が横柄に見えましたから、頭を下げることが苦手な長矩は、上野介に小言を言われるたびに、(くそじじいめが…)と、恨みがましく思っていたのかも知れません。それが、刃傷沙汰の原因です。「小言」と言っても、役目柄の注意の範囲です。通常なら、「畏まりました…」で済む話です。
勅使が江戸城に到着し、将軍綱吉との面会に進めば、饗応役の仕事はほとんど終わりになります。一応、大名たちの総登城が命じられていましたので、自分だけ体調不良で下城することはできませんでしたが、後のことは上野介がやってくれるはずでした。しかし、今の長矩には、正装して控えているだけでも苦痛だったのです。できれば、家臣に「薬」を持って来させて飲みたかったのかも知れませんが、「松の大廊下」に控えている長矩にその術はありません。長矩は「痞え」の苦痛をじっと堪えていました。それは、相当にきつい時間だったろうと思います。そこに上役である上野介が現れました。長矩は、上野介に何か尋ねたかったのかも知れませんし、休ませてもらおうと歩み寄ったのかも知れません。しかし、時は迫っており、上野介にしても、長矩の病状まで察してやるゆとりはありませんでした。よろよろと寄って来る長矩を不審に思った上野介は、一瞬でも困った顔をして邪険にあしらったのでしょう。それが、長矩の「心の糸」を切りました。長矩は、その言葉を聞いたとき、頭が真っ白になってパニック状態になったのです。我を忘れて、腰の「小さ刀」と呼ばれる儀礼刀(短刀)を抜き、「この間の恨み…」と叫んで上野介に斬りかかってしまいました。
あれほど、普段から武芸好きで、剣術の鍛錬も怠らなかった長矩は、細身の上に碌に斬れない短刀を振り回し、子供のように上野介を襲ったのです。大紋長袴のため、足もよろめき、前のめりになって大きく刀を振り回す様は、まさに「狂気」でした。周囲でそれを見た者も(浅野が、狂って刀を振り回した…)と思ったはずです。それでも、長矩の刀は上野介の額と背中に傷を負わせました。これが、刃傷事件の真相です。後に治療を受けた上野介が「遺恨はない」「あれは、浅野の乱心である…」と申し開きをしたのは当然だったのです。長矩は、目付の尋問に対しても詳しい理由は話しませんでした。なぜなら、理由の多くが自分の「病」のせいだからです。まして、「乱心」と言われてしまえば、浅野家の面目が立ちません。そこで、「これまでの遺恨が…」と口走ってしまったのです。長矩がもう少し思慮深ければ、「乱心」でよかったのです。事実、目付の多門伝八郎などは、長矩に「乱心されたのであろう…?」と誘っているのに、長矩はムキになって「いや、遺恨で御座る!」と言い放ったそうですから、困ったものです。「乱心」なら、「正常な判断ができなかった」として、切腹はやむを得ないとしても「改易」だけは免れた可能性があったのです。まあ、遺恨があるとすれば、上野介の指導が厳しく思え、自分に家臣たちのような配慮をしてくれなかった「不満」があったということでしょう。若くして大名になり、我が儘放題にしてきた結果、自分の身を滅ぼし、赤穂浅野家まで滅ぼしてしまったのですから、「大名失格」と言われても仕方がないと思います。
2 大石内蔵助の遊里通い
「大石内蔵助良雄」は、当時40代半ばの中年真っ盛りでした。譜代国家老の家に生まれ、将来は「家老職」になることを期待されていました。よく、「江戸時代は、家柄で役職が決まっていた」という説がありますが、その見方は一方的です。確かに、家柄は重要視されましたが、その家柄だけで役職を充てていたわけではありません。やはり、「能力」を見極めた上で、役職に就かせたというのが正しい見方です。大石家は、1500石を食む「赤穂浅野家譜代筆頭」の家ですから、周囲の期待の大きさがわかります。しかし、良雄は、若いころからそんな期待に必ずしも応えてきたわけではありませんでした。忠臣蔵の芝居でも「昼行灯」と揶揄されていた話は有名ですが、これは、ほぼ正しいと思います。良雄が残した書や絵画などは、なかなかの逸品揃いで、やはり「風流」を理解した人物だったことがわかります。もし、長矩の事件がなければ、「瀬戸内の風流家老」として名前を残したかも知れません。しかし、運命は良雄にそんなのんびりとした時間は与えてくれませんでした。さらに、良雄には妻の「りく」との間に5人の子供がいました。その長男が「大石主税良金」です。良金は、16才で同盟に加わり一挙に参加していますので、あまり性格等はわかっていません。ただ、討ち入り児には「裏門隊の大将」を任されていますので、若いとは言え、何処か風格なりがあったのだと思います。やはり、討ち入りまでの一年半あまりを同志の浪士たちと寝食を共にしていますので、若いなりの「覚悟」があったのでしょう。
良雄には、りくとの間の子供たち以外に、女中の「かる」との間にも男子がいました。かるは、討ち入りを決断した良雄が妻のりくを里に帰した後に山科の家に入った女中で、親族の進藤源四郎が紹介した女性です。まだ、18、19の若い女中でした。やはり、男盛の中年やもめと若い女性が一緒に居れば情も湧きますし、「つい…」ということもあったでしょう。源四郎にしてみれば、独り身になった良雄が気の毒だったのかも知れません。因みに、この源四郎という侍は47士ではありません。良雄は、国家老時代から懇意にしていた京の「近衛家」に頼み、源四郎を近衛家に仕官させていたのです。いわゆる「公家侍」です。何故かと言うと、浅野家で浪人になった者たちの面倒を看て貰うために、源四郎は同志には加えませんでした。きっと、源四郎は、剣の腕よりも、そうした「面倒見のよさ」が買われたのだと思います。これも「国家老」としての務めだったのです。女中の「かる」は、良雄たちの討ち入り後に出産をしますが、「かる」の行く末を良雄に頼まれたのも源四郎だったはずです。
源四郎は、「かる」を良雄たちの支援者だった大坂の商人に頼み、そこで子を産んだようです。産まれたのは男子ですが、名は「石之助」と伝わっていますが、真偽のほどはわかりません。しかし、「大坂の某大店の居候」だったという噂があります。この人物もかなりの風流人で、日がな一日、離れの部屋で絵や書を描いて暮らしていたと言われています。おそらくは、良雄の支援者だった大坂商人の家に匿われて生涯を終えたのかも知れません。ただ、父の才覚が受け継がれていれば、「商売」に対してもそれなりの才能を発揮して、裏でこの店を支えていた可能性はあります。何十年もただの「居候」と言うのも、何処か無理があるような気がします。母親の「かる」は、この男子を産んで早く亡くなったと言われていますので、男子一人、いくら「義士の子」であっても、預かった以上、支援者たちもそれなりの教育を受けさせ、一廉の人物になるように努めたのではないかと思います。そうでなければ、「天野屋義平の男が廃る」というものでしょう。そして、この男の風貌は、良雄を思わせるような雰囲気を漂わせ、知る人は「さすが、大石はんの子や…」と感心していたそうです。ただし、この人物は、武士としては世に出ていません。
良雄と良金が切腹して亡くなった後、大石家の家督を相続したのは、「大三郎」という男子です。大三郎は、二人の切腹後に生まれたりくとの子で、良雄たちが「義士」と讃えられた後、浅野本家である「広島浅野家」に召し抱えられました。そして、父親と同じ「1500石」もの高禄をもらい、浅野家でもかなり上の役職(番頭)に就いたようです。しかし、周囲の期待が大き過ぎたのか、大三郎の素行はあまり宜しからず、あの時代には珍しく、再婚を何度も繰り返しています。(実際は、よくわかっていません)浅野家には、母と姉も同行しており、姉の「くう」は浅野家家臣に嫁ぎました。浅野本家への恩もあり、「りく」は、大三郎を立派に育てようとしたようですが、父親と兄が「義士」と崇められては、会ったこともない弟には、荷が重すぎたのでしょう。浅野家にその名を刻むことなく世を去りました。「大石家」は、さすがに途絶えさせることもできないため、何度も他家から養子を迎えて今でも存続しています。まあ、大三郎の身になってみれば、何かある度に「義士の子」と言われ、注目を集める存在にならざるを得なく、それはそれで重荷になっても仕方がありません。それでも、良雄とりくの子であれば、隠れた才能はあったと思います。それが埋もれたまま発揮できなかったのか、それとも、周囲の期待が大き過ぎて「いい仕事」をしても左程評価されなかったのか、それはわかりません。
「忠臣蔵」の芝居の中でも、京の伏見「橦木町」で良雄たちが遊興に耽った話が登場してきますが、当時の上級武士が遊んだからと言って咎められるものではないでしょう。有名になりすぎて「神格化」されていくと、どうも人間の「欲」というものは嫌われるようですが、良雄も男盛りの40男ですから、お金さえあれば、遊里で羽を伸ばすことはあったはずです。芝居では、事がトントン拍子に進んでいきますので、見ている客は展開の速さや場面の転換を面白がります。そして、「筋書き」がわかっているだけに、クドクドと説明調に演技されても興醒めしてしまいます。しかし、現実は「一寸先は闇」の中で、常に「手探り状態」で動いていました。良雄にとって、それはもの凄いプレッシャーとストレスとの戦いでもあったはずです。私たちも、どんなにやり甲斐のある仕事を任されても、そればかり考えていては息が詰まってしまいます。人間、何処かで「息を抜く瞬間」が必要なのです。良雄は、それを好きな「遊里」に求めました。当時の遊里は、身分も肩書きも関係のない「自由な世界」です。座敷では、そこの「仕来り」に合わせるのが礼儀なのです。逆に、遊里での出来事はすべて「夢の世界」として世間とは隔絶されていました。穿った見方をすれば、「秘密の会合」には打って付けの場所だったはずです。
遊里でだれと会って、どんな話をしたかまではわかりませんが、「密談」というものは、そうした世界でするものでしょう。今の政治家は「高級料亭」だという噂ですが、昨今は、セキュリティのしっかりした「高級シティホテル」なんかが使われるようです。とにかく、良雄はこの遊里でとことん遊びました。普段の厳めしい「元国家老」などという肩書きを忘れて、遊び呆けたのです。芝居では「浮き様」などと呼ばれ、女性を何人も侍らせて遊んだ姿が描かれますが、間違いなく、それ以上に狂ったのかも知れません。そして、夜が明ければ、また、元の厳めしい武士姿に戻って去って行くのです。昭和のころの日本には、こうした「色里文化」がありました。今でも多少は残されていますが、今の時代は何か「淫靡な世界」であるかのようにイメージされているため、明るさがありません。昭和の大人たちは、それを会社内でも嬉々として語り、嬉しそうに誘い合って夜な夜な出かけたようです。それも「交際費・接待費」という名目の会社の予算で遊んだ話はたくさん聞いています。令和の今の時代にそんなことがバレれば、即刻「懲戒処分」が待っていることでしょう。どちらがいいかはわかりませんが、それが一つの「文化」として成り立っていた時代があったと言うことです。
良雄は、あの刃傷事件以降、本当に「孤独」でした。妻の「りく」を離縁して里に帰したのも、家族を騒動に巻き込みたくないという配慮でした。それに、常に秘密にしておかなければならない行動を知られては、計画に齟齬が生じます。だから、良雄は、だれにも自分の胸の内を明かさず、淡々と計画に従って行動し、本懐を遂げた後も自らが「切腹」するまで、すべて計画どおりの行動だったのです。こうした「孤独」を抱えながら生きるということは、非常に辛いものがあります。今の総理大臣も同じように「孤独」に苛まれながら、周りの声に惑わされぬよう毅然と振る舞っているはずです。何処かに「忖度」すれば、そこから亀裂が生じ、計画は破綻してしまいます。どんな「組織」でも、トップに立つ者は、常に懐に「刃」を忍ばせて置くものなのです。それは、もちろん「自害」するための刃です。良雄は、遊里で自分の欲をすべて吐き出すまで遊びました。しかし、それでも、「生への執着心」は消えません。「死」を前提にした計画を前に、どこかで怯む自分に気づいていたのかも知れません。いくら「武士」であるとはいえ、多くの同志を巻き込んで只管に「死」に向かう己に恐れ戦いても仕方がないのです。「遊里」という非日常の世界に身を置くことで、多くの命を奪う決意を固めたのです。
3 大石主税の涙のわけ
「大石主税良金」は、ご存知のとおり「大石内蔵助良雄」の長男です。長男と言えば、その「家」の跡を継ぐ大事な身なのですが、良雄は、良金を同盟に加えます。このあたりの経緯はわかりませんが、良金自身が望んだことだと思われます。しかし、未だ元服もすませていない「前髪」の少年が、「主君の仇討ち」に加わるには相当の決心が必要ですが、それを促したのは自分自身なのか、それとも父の良雄なのか、それとも第三者なのか、疑問が残るところです。「前髪」と言えば、もう一人の義士「矢頭右衛門七」を思い出します。歳は良金の一つ上でしょうか。父の長助が病で亡くなったことから、その意思を引き継いで同志に加わりました。父の長助は、財政方の侍で、大野九郎兵衛の部下になります。非常に計算が速く、几帳面な性格もあって下級武士ながら、良雄を大いに助けました。おそらく、良雄の「裏金」の管理もしていたのではないでしょうか。二人は同年で、少年のころからの知り合いでした。友人だったのかも知れません。その跡を継いだ右衛門七を同盟に加えないことは、良雄にはできなかったはずです。右衛門七は、父の遺品の「胴」を付けて討ち入りを果たしました。良金も右衛門七の存在は大きかっただろうと思います。
芝居などでは、良金は、意思の強い凜々しい若武者として描かれがちですが、父の良雄や弟の大三郎、そして、おかるが産んだ男子(石之助)の記録から見ると、そんなに周囲が期待するような人物だったようには思えません。なぜなら、良雄は「昼行灯」と呼ばれるくらい「ぼんやり」した人ですし、大三郎は周囲の期待に応えられない人物という評価しかもらえませんし、噂の男子は、「風流人」として過ごした人物だったと言われています。そう考えると、良金もどちらかというと、「のんびり型」の少年だったような気がします。周囲からは、「親父が親父なら、息子も息子でぼんやり…だなあ?」くらいは言われていたかも知れません。それでも、隠れた才能は持っていたはずです。そして、彼は、いくつかのエピソードを遺しています。良雄が母のりくを離縁するとき、良金にりくの故郷である「但馬豊岡」までの旅を命じています。身重の母と弟妹を連れての旅になります。良雄は、良金に(別れを惜しんでこい…)というつもりで、同行させたのでしょう。そして、その旅で心変わりをするのであれば、それでもいい…と思っていたのかも知れません。
しかし、良金は、父の命を忠実に果たすと、すぐに良雄のいる山科(京)に戻りました。きっと、良雄は、息子の決心を試したのでしょう。そのとき、良金は、こんな言葉(歌)を遺しています。「会うときは、語り尽くせと思えども、別れとなれば残る言の葉」。きっと、豊岡への旅をしている数日間で良金は、精一杯の親孝行をし、兄弟たちとも楽しく交わったのでしょう。たくさん話もし、「もう、思い残すことはない…」と思ったはずです。しかし、最後の別れの朝、母や兄弟たちと別れるとき、心は千々に乱れ、このままずっといたいと思ったのではないでしょうか。母のりくも、自分の胸に抱きしめ、「別れたくない」「死なせたくない」と強く思ったはずです。なぜなら、これが「今生の別れ」になることはわかっていたからです。まだ、16才(満15才)の我が子が死地に向かうのを見送る辛さは、日本も80年前に味わいました。それでも、お互い「武士の親」であり「武士の子」なのです。それが、良金の「別れとなれば残る言の葉」に表現されています。きっと、良金の顔立ちは、良雄に似て少しぽっちゃりした目元の優しい柔和なものだったに違いありません。それでも、心の中に、立派な「武士の魂」が宿っていたのです。
良金は、父良雄にしたがって江戸へ出ると、堀部安兵衛武庸たちに鍛えられました。安兵衛は、自分の長屋を簡単な道場として拵え、同志たちに実際の「剣」を教えたのです。同志の中で、真剣を抜いて人を斬ったことがあるのは、この安兵衛だけだったからです。安兵衛は、「いいか、鍔元で斬れ!」と、何度も繰り返しました。実際に真剣で立ち会うと、切っ先が怖ろしく見え、腰が引けることを安兵衛は知っていました。そのため、「鍔元で斬る」くらいの気持ちで踏み込む必要があったのです。そして、この訓練が役に立ったのです。良金や右衛門七の剣術の腕は、まだまだ未熟で「戦力」にはなりませんでしたが、良金は、裏門隊の大将を命じられ采配を振るいました。赤穂浅野家筆頭家老家の嫡男ですから、「副将」は当然の配置です。また、良金は、だれからも愛される性格だったようで、やはり、同志みんなで盛り立ててくれたのでしょう。
私は、このブログに「泣き虫主税」という一遍を書きましたが、良金は、同志たちの「旗印」として担がれるだけの器量を備えていたと思います。安兵衛は、切腹の際には、常日頃の様子と違い「そわそわ」と落ち着きがなかったと言われています。そして、「大石主税殿、お仕舞いなされました!」との声を聞くとほっとしたのか、顔色もよくなり、いつもの剣豪らしい落ち着いた雰囲気で、切腹の順番を待っていたそうです。それだけ、若い良金の最期が心配だったのでしょう。だれからも愛される「主税良金」でした。そして、良金は、切腹の座に就くと、声を殺して、「さめざめ」と泣いたそうです。それは、決して見苦しい姿ではなく、心ならずも涙が溢れてきたという表現が正しいかも知れません。そして、その健気な姿を見た松平家家中の侍や幕府の目付衆なども涙を誘われたそうです。きっと、最期の最期に母「りく」との別れの瞬間が走馬灯のように頭を過ったのだと思います。まだ、僅か16才の少年です。だれもが、心の中で「立派に腹を斬れよ…」と願っていたはずです。介錯人の一刀で落ちた良金の首を検死すると、顔には、二筋の「涙の跡」がくっきりと刻まれており、だれもが「見事!」と賞賛の心の声を挙げました。
4 「討ち入り」と山吉新八郎
元禄15年12月14日。この日は、赤穂浪士による「吉良邸討ち入りの日」です。赤穂浪士47名は、三手に別れ、15日の午前3時過ぎに吉良邸前に集まりました。このころの暦は「旧暦(太陰暦)」ですから、今でいえば2月ころの時期に当たります。まさに「厳寒」と呼ばれる季節です。この江戸時代中期ころは、今と比べても非常に気温も低く、碌な暖房もない時代ですから、人々は油代の節約もあって早々に寝床に就いていました。深夜3時と言えば、もう木戸番の番人も番小屋でうたた寝をしている時刻です。まして、14日の夜は雪が降ってきていて、寒さと共に雪が「足音」を消してくれました。吉良邸では、14日に「年忘れの茶会」が催されており、家臣たちはだれもが、その対応で働いていたのです。この日の茶会は、大殿である「吉良上野介義央」が隠居したお披露目の会でもあり、江戸中から親しい茶人、俳人、友人が招かれていました。「茶会」と言っても、茶席の後は「宴会」になるのが通例ですから、時間はかなり要します。吉良邸の人々が後片付け、そして火の始末まですると、時刻は翌15日になっていました。そして、寒い寝床に潜り込むわけですから、深夜3時ころは、眠りが一番深い時刻だったと思います。
そこに、雪を踏んで47人の重武装の集団が現れました。赤穂浪士たちは、敢えてこの厳寒の深夜を選んだのです。その理由は「重武装」ができるメリットがあったからです。今でも泉岳寺の宝物館には、赤穂浪士たちが置いていった武器や道具が展示されていますが、やはり、眼につくのは「鎖帷子」「鉄甲・鉄籠手・鉄脚絆」「鉢金」などの防具品です。鎖帷子は、鎖を編んで作った「着込み」で、これなら、刀で斬られても大きな傷を負うことはありません。鉄の甲や籠手、脚絆は、刀を防ぐ道具です。頭には鉄の鉢金(簡易兜)を付けていますので、頭部を守ることができます。首の周りも鎖や鉄を仕込んだ「襟付き」の着込みを着ていました。そして、その上には「火事場」用の分厚い「小袖」を着た上で、揃いの黒の羽織を着ていますから、何処から見ても、「火事装束」を着た集団に見えました。まして、赤穂浅野家は、「大名火消し」として江戸でも有名な存在でしたから、火事場を想定した行動は得意でもあったのです。それに、これだけの着込みの上からいくら鋭利な刀を振り下ろしても体までは到達しないでしょう。後は、「突く」ことくらいしかできないはずです。しかし、それも「鎖帷子」が防ぎますから、吉良の侍に多少の腕があっても、不利なことは明白でした。まして、吉良方の侍の多くは「寝間着」一枚を羽織っているだけの有様です。
「討ち入り」は、正門と裏門同時攻撃で始まりました。このときの攻撃の巧みさは、さすが、軍師「菅谷半之丞」です。攻撃隊は「三位一体」を基本とした小隊を作り、敵に「裏」を取られない戦い方に徹しました。また、屋根からは半弓を射かけ、敵の動きを封じ込めます。そして、正面に長く伸びた「長屋」の雨戸には「鎹」を打って回りました。こうすれば、雨戸はすぐには開けません。吉良の侍たちが飛び出して来ようにも、戸が開かないのですからそこで時間が稼げます。なぜ、そんなことをしたかと言えば、それは「心理的恐怖」を煽るためでした。熟睡していた人間が、外の物音で眼を覚ましても、すぐに対応できるものではありません。慌てて、刀を取り戸を開けようとすると、雨戸はギシギシと言って動かないのです。この瞬間、興奮した心が一瞬冷めます。すると、そこから一気に恐怖が襲ってくると言う仕掛けなのです。そのため、怯んだ吉良侍は、半数近くが戦いに遅れたと言われています。それに、あの寒さでは、寝床を出た塗炭に体は冷え、刀を握る手にも力が入らなかったかも知れません。いくら興奮状態だったとしても、赤穂浪士と吉良侍の差は歴然です。いくら、剣術の差が多少あったとしても、「10対0」で赤穂浪士が完勝した理由がわかります。
その中で、奮戦したのが上杉家家臣であった「山𠮷新八郎」でした。新八郎は、その腕を見込まれて米沢上杉家から吉良邸に「付け人」として一時派遣された侍です。新八郎は、現当主となった「吉良左兵衛義周」付の侍でした。実は、赤穂浪士たちは、吉良上野介の首だけでなく、当主である義周をも討ち取ろうと考えていました。そうすれば、「吉良家」を断絶に追いやることができるからです。赤穂浅野家も「断絶」となった以上、吉良家が「断絶」になるのは当然という考えでした。内蔵助は、この「仇討ち」を「長矩と義央の喧嘩が原因」と考えていたからです。実際は、長矩の「痞え」という病からくる「乱心」だったと思いますが、主君が「恨みがあった…」と言い残している以上、浅野方は「喧嘩」を主張するのが筋だったのです。江戸時代にも「喧嘩両成敗」という言葉はあり、刃傷事件の幕府の裁定に納得できない家臣たちの行動というのが、内蔵助の主張でした。そして、その考えを武士の多くは支持をしたのです。
「討ち入り」に備えていた新八郎は、表門での騒ぎを耳にすると、すぐに奥の寝所に入り義周の護衛に付きました。しかし、押し入って来た者たちの人数もわからず、暗い闇の中で十分な作戦を練ることができないまま、乱戦になったようです。義周の供回り数人も敵の侵入を見ると、矢継ぎ早に向かって行きました。そうなると、義周の側には、二三人の者しかいません。すると、義周は、鴨居に掛けてあった長刀を手にすると、戦う意思を示したのです。義周という若殿は、一見、優男に見えますが、なかなか、意思のはっきりした勇気ある若者でした。「儂も戦うぞ!」そう言って、長刀を構えたとき、どうやら、そこに三位一体の赤穂浪士数隊が飛び込んで来たようです。義周も奮戦しましたが、いくら手応えを感じても、敵は一向に怯みません。それ以上にもの凄い勢いで飛び込んで来ます。義周も体にいくつもの傷を負い、昏倒してしまいました。もし、倒れている若者が義周であると気づかれれば、殺されてしまいます。これは、だれかはわかりませんが、義周の体は、屏風の裏に隠されていたそうです。次から次へと襲ってくる浪士たちに防戦一方になり、最早、義周を守っての戦いはできなくなりました。
新八郎は赤穂浪士たちに誘われるように庭先に出ました。屋内より庭の方が月明かりで敵が見えます。顔ははっきりしませんが、黒い小袖には目印の「白布」が巻かれていました。新八郎は、それを目がけて刀を振り下ろしますが、なかなか、敵を斃すには至りません。こちらの切っ先が当たっても、何故か、刀が跳ね返されてしまうのです。そうして、数人を相手に戦ううちに手や足に傷を負いました。そこに、だれかはわかりませんが、手練れの浪士が現れます。数手斬り結ぶうちに新八郎は眉間を割られ、血が噴き出しました。そして、昏倒して汚された雪と泥の中で意識を喪ったのです。刀は曲がり、刃毀れも数カ所にありました。その奮戦ぶりは、浪士たちの記録にも残されています。新八郎は意識を喪っている間に、赤穂浪士たちは宿願を果たし、荒れ果てた吉良邸を片付け、火の始末をして「泉岳寺」に堂々と引き揚げて行きました。まるで「骸」と化した新八郎に手を合わせる浪士たちもいました。それくらい、酷い傷を負い、だれが見ても「生きている」とは思えなかったのです。しかし、新八郎の生命の灯火は消えてはいませんでした。数刻の間、新八郎は仮死状態のまま土の上に横たわっていたのです。
顔も体も血塗れで、衣服は切り刻まれていました。新八郎の眼は薄く開き、顔面は真っ白です。その姿にだれもが、「凄惨な遺体だ…」と思って黙礼したのです。そして、大目付仙石伯耆守の家来たちが片付けをするために、戦場跡と化した吉良邸に足を踏み入れました。そこは、真冬だというのに血の匂いが漂い、雪は踏み荒らされ、あちこちに折れた刀と遺体が転がっていました。まだ、息のある侍もいましたが、だれもが重傷を負っていました。新八郎を見つけた侍も「こりゃあ、だめだ…」と戸板に乗せて運ぼうとしたとき、戸板の遺体が呻き声を上げました。「すまぬ…」そう言葉を発して新八郎は蘇生したのです。まさに奇跡の出来事でした。彼は、稀に見るくらい「傷の治りが早い」人間だったようです。100人か1000人に一人くらいの割合で、こうした「自然治癒力」を持つ人間がいるそうですが、新八郎は、そうした種類の人間だったのです。しかし、さすがに眉間から口元まで斬られた傷は跡に残り、元々は優しい顔の男でしたが、その傷が、彼を無口にしました。新八郎の脳裏には、吉良家と義周を守り抜けなかった無念さがそうさせたのです。しかし、周囲の人々は、そんな新八郎の姿に感動し、生涯、「あれが、赤穂浪士と戦った山吉殿だ…」と、米沢で讃えられたそうです。その恩恵なのか、新八郎の子孫には、後に明治新政府に仕え、福島県令を務めた「山吉盛典」がいます。さすがに、西郷や大久保たち赤穂義士の信奉者たちも、山吉新八郎の末裔を疎かにすることはできなかったのでしょう。
新八郎は、深手を負いましたが、奇跡的に蘇生すると、生き残った「吉良義周」の諏訪高島藩への配流にまで従い、義周の最期を看取りました。そして、その後は、上杉家へ復帰し、米沢で過ごしたと言われています。米沢の侍たちは、そんな新八郎を心から尊敬し、赤穂浪士の討ち入り時の話を聞いたのでしょう。米沢の侍にとって、「赤穂事件」は決して他人事ではありませんでした。当時の当主「綱憲」は、上野介の子であり、上杉家と吉良家は何重の縁で結ばれていたからです。それに、吉良邸には、多くの上杉侍が「付け人」として派遣されており、何人もがそこで命を落としました。また、負傷して帰還した者も多く、この事件が、後々まで米沢藩上杉家にとって尾を引いたことは間違いありません。「赤穂浪士」が賞賛されればされるほど、上杉家の人々は、辛い事件として思い出すのでした。
5 最後の脱盟者「毛利小平太」
「赤穂浪士」の事件で、この「毛利小平太」ほど、不思議な人物はいません。有名になったのは、あれほど準備して待っていた「討ち入りの日」になって、集合場所に来なかった「最後の脱盟者」になったことにあります。もし、小平太に脱盟する気があれば、もっと早く抜ける機会はあったはずです。この盟約は、確かに内蔵助に「誓紙」を出してはいますが、それによる咎めや罰はありません。内蔵助にしても「抜けようとする者を追っても詮ないこと…」という気持ちがありました。特に「浅野家再興問題」が失敗に終わったとき、多くの譜代の家臣や内蔵助の親族などが抜けています。やはり、だれもが「御家の再興」を待ち望んでいたのです。また、貧しさに耐えかねた者や身を持ち崩した者、親戚縁者に止められた者など、その理由は様々ありました。彼らの中には「卑怯者」と誹られた者もいましたが、それでも、苦節「一年半」の間に50人近くが残ったのは、奇跡というものでしょう。それだけ、「大石内蔵助」というリーダーに信頼を置いていたことがわかります。47士の中でも、吉田忠左衛門、小野寺十内などの年長者たちは、常に内蔵助の側近として働き、内蔵助の意を汲んだ行動に徹したことが、分裂を防いだとも言えます。また、最初から悪役として登場する「大野九郎兵衛」親子などは、言動が芝居がかっており、私は「陰の功労者」ではなかったかと思っています。
小平太は、植木職人に変装して吉良邸を探索し、邸の様子を確認したという功績がありました。邸の絵図面自体は、その邸の元の住人だった旗本「松平登之助」の図面を手に入れましたが、吉良邸になってから、かなり手を入れたという噂がり、それを確認するために小平太が潜り込んだものです。しかし、吉良邸では、出入りの職人なども厳しい「人別改め」が行われており、易々と赤穂の浪人が入り込む余地はなかったのです。吉良邸では、「吉良庄」や「米沢」からの人間しか邸に入れないようにしていましたので、小平太がどうやって潜り込んだのかは不明です。この小平太の確認によって、新たに図面に手を加え、上野介や義周の寝所が判明しました。この功績は、赤穂の中では「勲一等」の働きと言われました。その小平太が、当日になって集合場所に現れず、そのまま逐電してしまいました。おそらくは、何らかののっぴきならない事情があったのだと思いますが、それまでの活躍を考えれば、如何にも残念と惜しまれます。そこで、私は勝手な妄想として「毛利小平太隠し目付説」を考えました。そして、小平太が「隠密」だったとしたらどうでしょう。
実際の記録には残りませんが、幕府が「隠し目付」や「隠密」を全国の大名家に派遣していたことは事実です。たとえば、薩摩藩島津家などは、隠密が領内に入ることを防ぐために、国境の警備を厳重にし、「隠密が侵入した」という報せが入れば、直ちに探索して、「生きては帰さぬ」という非情命令を出していました。また、方言を奨励し、「薩摩弁を使えぬ者は、疑え!」と、領民にまでお達しがあったことからも、領内に「隠密」が忍び込むことを怖れたと言います。今でも、薩摩弁と津軽弁(青森県)は難解な方言として有名です。さらには、幕府には各大名の「評価表」というものがあったようで、地方に派遣した隠密や、江戸の目付などから報告された大名家の「評価」が事細かく記録されていました。浅野長矩などは、「中の下」がいいところで、「武芸は好むが、けちで好色である」などという評価がされていたようです。老中などは、こうした記録を閲覧した上で、幕府の仕事を命じたのです。長矩の二度目の「勅使饗応」の役目も、何らかと意図があって命じたもので、そういう意味では、満足に職務を果たせなかった罪は重く、「切腹・改易」は、裁定としてはやむを得なかったと思います。とにかく、忽然と消えた小平太でしたが、行方知れずである以上、その後、名を変え、また、新たな任務に就いたと思いたいものです。
6 悪名高き「大野九郎兵衛」の噂
「大野九郎兵衛」は、赤穂浅野家でも大石内蔵助とは違い、一代限りの「末席家老」でしかありません。譜代筆頭「国家老」の内蔵助と対等に話のできる立場ではありませんでした。石高も九郎兵衛は450石、内蔵助は1500石ですから、その身分差は大きいことがわかります。芝居のように、全藩士のいる前で、堂々と論陣を張って対等以上に話ができたものでしょうか。いくら年齢が上だからと言って、その立場を弁えぬ振る舞いは、周囲の者たちが納得しなかったと思います。したがって、「大評定」の席で、九郎兵衛が内蔵助を批判することはあり得ないのです。これが、二人きりであれば、年長者として助言することはあったでしょう。それに、九郎兵衛は新規召し抱えの新参者でしかなく、それほど、浅野家に縁はありません。ただし、九郎兵衛が、浅野家に仕官できたのは、内蔵助の祖父「内蔵助良欽」のお陰でもありました。実は、この九郎兵衛という侍は、出自があまりよくわかっていません。ただ、良欽が大坂の商家で働いていた九郎兵衛を見つけ、浅野家に誘ったという話が残されています。
「良欽」と言えば、赤穂浅野家の興隆の元を築いた「浅野長直」の国家老として活躍した人物です。長直は、笠間から赤穂へ転封されると、赤穂城を自力で築きました。幕府の信頼も厚かった長直は、「山陽道の要」として、城の新築を認めてもらったのです。これは、江戸時代としては異例のことで、外様でありながら、浅野長直の力量を示すものでした。また、長直は城下町の整備にも力を注ぎ、城下に「上下水道」を敷きました。これは、赤穂城が海に面しているため、良質な「水」が手に入らなかったためです。これは、江戸城と城下を参考にしたもので、安易に山の方に城を築かず、防禦を考えて海側に城を築いたのも、長直の慧眼でした。そして、海岸では「赤穂塩の開発」を行い、赤穂浅野家の財政基盤を米に頼らない工夫をしたのです。その補佐役が内蔵助良雄の祖父「良欽」ですから、この主従は只者ではありません。その良欽が見出したのが、「大野九郎兵衛」ですから、九郎兵衛は、浅野家と大石家には大恩があるのです。まして、「財政方家老」であり、藩財政を知り尽くしていた九郎兵衛が、己の保身だけのために良雄に異を唱えるはずがありません。九郎兵衛は九郎兵衛なりに浅野家を思い、良雄に協力を申し出たと考えるのが妥当でしょう。そして、敢えて「憎まれ役」に徹したとすれば、九郎兵衛も立派な「赤穂義士」だったのです。
九郎兵衛は、浪人時代は大坂の商家で手伝いをして暮らしていました。出自は「四国松山の人」という噂はありますが、よくわかりません。良欽は、「赤穂塩」の相場を張るために大坂への出張は頻繁に行っていたはずです。ひょっとしたら、笠間から赤穂への「転封」も、浅野本家(広島)に近いということだけでなく、あの辺りの環境を熟知し、良質な「塩」が採れることを目論んでいたのかも知れません。良雄の経済感覚は、この良欽から受け継いだものでしょう。そして、大坂には顔見知りの大坂商人も多く、その中でも一番信頼できる男に「赤穂塩」を託したと考えるべきです。そして、そこで働いていた「算盤の上手い浪人」こそが、「大野九郎兵衛」でした。関ヶ原から100年、未だに無骨な武士が多い中で、算術に長け、経営能力のある武士はそう多くはありません。まして、長直に申し出て、九郎兵衛を浅野家に仕官させたのですから、「有能者」でないはずがないのです。江戸時代の初期は、幕府の安定を図る目的で、多くの大名家を「改易」にしています。有名な福島正則や加藤清正の家も取り潰されており、社会には浪人者が溢れていました。浪人たちは、早く「仕官」をしたいと運動していましたが、どこの大名家も本当は「人員整理」で頭を抱えていたのです。
そんなときに、「新規召し抱え」が、どれだけ大変なことか、わかると思います。あの「堀部安兵衛」ですら、長い浪人暮らしを経て、「高田の馬場の仇討ち」で有名になり、浅野家江戸留守居役「堀部弥兵衛」の家に養子に入ることで仕官が叶いました。それほど、当時の武士が「仕官」に強く拘る気持ちがあったのです。そして、九郎兵衛は本当に優秀な経済官僚でした。芝居では、赤穂塩が有名になったのも、すべて良雄の功績にされていますが、そんなことはないでしょう。やはり、長直の命を受けた九郎兵衛たちが大坂の商人と組んで、高値のときに塩を売り捌くといった判断が軌道に乗ったからこそ、「赤穂塩」は全国ブランドになったのです。そう考えると、大坂の店には、赤穂の塩や「預け金」が相当にあったはずです。大名家が「改易」になった以上、その塩や金は、早急に回収しなければなりません。しかし、赤穂浪士関係の書籍には、その辺りの詳細が書かれていないのです。良雄であれば、自分が動けない代わりに、その仕事を頼んだのは間違いなく九郎兵衛だったはずです。そう考えると、大評定の席で良雄に反論し、そうそうに「逐電」してみせたのは、このためだったのかも知れません。そして、その回収した資金は、当然、「御家再興」に使われたはずです。その点では、良雄と九郎兵衛の考えに違いはなかったと思います。
良雄は、財政方の「岡嶋八十右衛門」たちの力を借りて、赤穂城引き渡しからの「収支報告書」を残しています。その中には、長矩の奥方である「阿久里(瑤泉院)」の化粧料なども含まれています。そして、討ち入り時点で「収支」がほとんど「ゼロ」になっていたのです。これを「ぎりぎりのところで、討ち入りが行われた証拠だ…」という論評もありますが、それは飽くまで「表帳簿」であって、実際は「裏帳簿」が存在していたはずです。と言うのは、この「城明け渡し」から「御家再興運動」へと続き、最後の「吉良邸討ち入り」までが、非常によくできた計画だからです。そして、良雄の遊興費は、すべて良雄自身の「蓄え」となっていますが、たとえそうであっても、軍資金としては、かなりの額が用意されていたはずです。とにかく、何でも金のかかる世の中です。最初に「誓紙」を提出した赤穂藩士は、約100人ほどいました。時間が経過するにつれ、彼らへの資金援助もあったはずです。それに「御家再興」ともなれば、「数千両」を用意しなければなりません。この時代は、「お願い=謝礼金」が付きものの時代です。あちこちの有力者に依頼をする以上、相応の金子を用意しなければなりませんでした。まして、改易された家を再興させるには、幕府の上層部を動かす必要があります。事実、良雄は、将軍綱吉の生母「桂昌院」まで動かそうとしていました。
それが、約1年後に失敗し、赤穂浅野家を継ぐ立場の「浅野大学長広」は、浅野本家にお預けという処分が下されたのです。これで、御家再興の夢は潰えました。しかし、これは想定できる範囲であり、万が一再興がなったとしても、それは、10年以上が経過した後の話であって、即座に再興などあり得るはずもないのです。良雄や九郎兵衛にとって、そんなことは百も承知の事であり、一応の「手続き」を踏んだだけだと思います。そして、「いずれ、再興できる手は打った」というところでしょう。そして、いよいよ、「吉良邸討ち入り」に動き出しました。そこで必要なのが「武器」や「道具」を揃えることです。これまでの資料では、それは「各々が用意した…」とされていますが、その日暮らしで食うや食わずの浪人たちが、「戦争に使う武器・道具」を十分用意できるとは思えません。それでは、行き当たりばったりの討ち入りになってしまい、成功する見込みは限りなくゼロになります。既に「吉良邸」では、上杉家からの「付け人」が何人も派遣されてきており、防御体制も整えていたはずです。赤穂方は必ずしも屈強な剣士ばかりではありません。少年もいれば、老人もいます。それに対して吉良方は、そのほとんどが剣に自信のある侍ばかりです。統制が取れていたかどうかはわかりませんが、対等に戦えば、負けることはないと考えていたはずです。
そんな戦に勝利するためには、敵と戦えるだけの備えをする必要があります。その策を考えたのは、山鹿素行門下の「菅谷半之丞」です。赤穂藩には、長直の時代に幕府の政治を批判した「山鹿素行」が流されていました。しかし、長直は、素行を客分として迎え、1000石の待遇で藩士たちに「山鹿流兵法」を教えるよう要請しました。素行の教えは、多くの藩士に影響を与え、その直系の弟子となったのが、菅谷半之丞でした。良雄たちは、その半之丞の計画に基づき、武器を揃え、その日を待ったのです。そして、それには、大坂の商人たちが協力しました。「大坂」は、幕府の直轄地ですが、江戸ほど警戒が厳重ではありません。なぜなら、江戸が「武士の町」なら、大坂は「商人の町」だからです。大坂には、全国各藩の蔵屋敷があり、そこに各地の「年貢」が運び込まれます。そして、そこで「値」をつけるのは、幕府ではありません。大坂の商人たちなのです。商人たちは、この大坂で「米」「塩」「大豆」「小豆」などの相場を操り、全国に卸しました。幕府にとって、「相場を扱う」などというのは、恥ずべき行為だったのです。儒教に基づく「武士道」に「商い」はありません。そこが、商人たちが強くなった原因です。しかし、良雄や九郎兵衛は違います。日本でも西国諸藩の武士たちは、東国の武士たちより経済がわかっていました。幕末に、薩摩や長州の武士たちが、軍資金集めをするのに、商人たちを誘ったことは有名な話です。あの「坂本龍馬」が「会社(カンパニー)」を起こすことができたのも、彼らには、「商い」の意味がわかっていたからです。
こうして、良雄と敵対関係にあるかのように装った「九郎兵衛親子」は、大坂での仕事を終えると、故郷である四国「松山」に帰って農業に従事したと言われています。子の「群右衛門」は、西国の他藩に仕え、やはり、経済の知識を以て、藩政の改革に努めたという話もあります。また、九郎兵衛は、万が一、良雄たちが失敗に終わったときの第二陣として、米沢近郊で待ち伏せをしていたという話もあり、今でも「伝説」として語られています。実際は、故郷で、子供たちに読み書き、算盤を教え、農民たちに経済を説き、商人の相談役になるなどして、生涯を終えたと思います。四国であれば、「忠臣蔵」の噂話も江戸ほど多くはなく、畑で鍬を手にする老人が、あの「大野九郎兵衛」だとは、だれも思わないでしょう。そして、一人静かに、47士の菩提を弔ったのではないかと思います。それが、大恩ある「赤穂浅野家」に対する御礼だったのではないでしょうか。敢えて「悪役」を引き受けることで、待望を成就させたとすれば、大野九郎兵衛親子も「赤穂義士」でした。
7 吉良上野介義央の武士道
元禄14年3月14日の刃傷事件は、「義央」にとって驚きの連続でした。まさか、自分が殿中で襲われるなど考えもしなかったことでしよう。仮にも「高家筆頭(肝煎り)」の自分に刃を向ける人間がいようとは、後から考えても不思議でなりませんでした。それも、自分が直接指導した「浅野内匠頭」から、あれほど憎まれていようとは思いもよらなかったのです。確かに、江戸城で「高家職」というものは、多くの大名たちからは疎ましく思われる存在でした。なぜなら、高家という武士が、貴族的な雰囲気を持っていたからです。この高家という職は、武家の中でも格式の高い家柄の者が命じられていました。それは、徳川幕府にとっての「金看板」でもあったのです。日本には、鎌倉時代より多くの武家が誕生しました。徳川家より先に大名として天下に名を馳せた武家も多く、そうした「名門」を幕府は、高家として遇し、朝廷との交渉役に充てたのです。有名なところでは、「今川家」、「上杉家」、「大友家」、「織田家」、「京極家」などがありました。「吉良家」は、源氏である足利氏の流れで4200石を領しました。この流れから言うと、源氏を称している「徳川家」より遥かに「源氏」の嫡流に近く、名門中の名門と言えます。高家職は「旗本」であり、禄高はそれほど高くはありません。しかし、官位は高く、義央は「従四位の上少将」という「国持ち大名」ほどの位でした。それに反して、長矩は「従五位下内匠頭」ですから、随分と差があります。これでは、義央が上位者として威張っていても仕方がありません。「官位」とは、そういうものなのです。
「忠臣蔵」では、義央が強欲で「賄賂」を要求したとされていますが、これは、「賄賂」ではなく「謝礼」と考えるべきでしょう。高家職は、武家でありながら、朝廷の貴族たちとの交渉役として存在していました。そのために官位も高く、家柄も特別な武士が選ばれていました。朝廷の公家たちにしてみれば、出自の卑しい者が、たとえ天下人になったと言っても、心の中では蔑んでいます。徳川将軍家も、元々は三河地方の一部族でしかなく、武力で天下を奪っても、それは未来永劫のものとはなり得ないのです。「権力者」とは、そういう存在なのです。しかし、「天皇(お上)」は、この国の創造主である「アマテラス」の子孫であり、正統な国の統治者ですから、権力によって天下を奪った者とは違います。朝廷は、権力ではなく「権威を以て国を統治している」のだという自負心がありました。実際、「天皇」が京に存在することで、幕府の統治が円滑に進んでいたことも事実です。なぜなら、「征夷大将軍」は、天皇が任命した職だからです。そして、大名のほとんどは、幕府をとおして朝廷から「位」をいただき、各領地(藩)を統治しているわけですから、「天皇」が絶対的価値に置かれていたことは間違いありません。そういう意味では、「権威を以て統治する」は、正しい認識なのです。
その朝廷と幕府の「橋渡し役」を担ったのが、高家であり、「高家筆頭」の義央は、幕府にとってもなくてはならない存在でした。官位の低い外様大名である「浅野長矩」が、自分の感情で殺めていい人間ではなかったと言うことです。それもあって、刃傷事件の直後、将軍綱吉は、義央に「お咎めなし」という裁定を下したのでしょう。そして、そのことは、浅野家の重臣たちならみんなわかっていることでした。したがって、浅野と吉良の間に「喧嘩」は成り立ちません。そもそも、喧嘩とは対等クラスの人間同士で争うことであり、あまりにも上位の者と喧嘩をすることなどあり得ません。もちろん、何かの行き違いで「恨み」や「憎しみ」を持つことはあるでしょう。だからこそ、長矩は城中も憚らず刃傷に及んだのですが、それを「喧嘩」と称して、「喧嘩両成敗が武士の掟」とか、「一方的な裁定」というのは、少し無理があるように思います。但し、将軍が直々に裁定を下したことは、「法治国家」を目指す日本にとっては失敗でした。同じ判断だとしても、しっかり手続きを踏んで処断するべきでした。そういう意味では、義央は気の毒な「被害者」なのです。
吉良上野介義央という人物は、その職務柄、自分の「感情」を顔に出すことはあまりありませんでした。父の「義冬」も同じ高家筆頭として活躍した人物ですが、我が子義央に対しては、幼いころより徹底した「高家教育」が行われていました。高家というのは、武士でありながら、実際は「貴族」として振る舞わなければなりません。それは、義央の官位である「従四位上少将」という位は、飾り物などではなく、京に赴いた際には非常に重要な意味を持つからです。朝廷は、この「位」で動いています。先年、大河ドラマで平安貴族の暮らしや政治を扱っていましたが、ひとつの会議に出るにも、「〇〇位以上の者」という定めがありました。貴族であれば、だれでも自由に他の貴族に会えたわけではありません。それは、武家も同じです。「従四位の上少将」だからこそ、朝廷の関白職の貴族にも会えるのです。まして、「徳川将軍家の名代」ともなれば、「天皇(お上)」に会って奏上しなければならないこともあるはずです。そのため、「顔に感情を出さない」という習慣は、身についていたはずです。「高家」の職を全うするためには、まずは「有職故実」という朝廷での貴族の習慣や儀式の意味、その作法など、細かく学ぶ必要がありました。
たとえ、名門の家柄だと言っても、朝廷に入れば、所詮は「武家」でしかありません。吉良家は、正式な「源氏」ですから、天皇の流れを汲む家柄として認知されていました。それでも、朝廷で軽んじられぬよう、父義冬は子の義央を厳しく育てました。それに、茶の湯、華道、書、香など、貴族が嗜む趣味も学んでおかなければなりません。さらには、武家として、恥ずかしくないだけの武芸も一通り学び、稽古も怠らなかったはずです。その中でも馬は上手に乗りこなしていたと言います。そして、「三州吉良庄」に領地がありましたので、その経営も見なければなりません。いくら「代官」を置くとしても、京に上る際には、必ず「吉良庄」を通ります。そこで、二、三泊して京に向かったのでしょう。そのためか、義央は、吉良の人々には大変慕われており、今でも「赤馬」が土産物として売られています。「赤馬」とは、農耕馬のことですが、義央は、領内を巡回する際は、常に赤馬に跨がって見回っていたそうです。そして、優秀な若者は、士分に取り立て江戸の吉良邸に呼び寄せました。剣豪で有名な「清水一学」などは、吉良庄の人です。
義央は、「赤穂浪士の討ち入り!」の報せを受けると、数人の供に守られて邸の外れにある「炭小屋」に身を潜ませました。邸内や庭での戦いは、2時間近くに及び、最初の騒ぎが段々と静かになり、最後の方になると、赤穂の者共らしい声しか聞こえなくなっていました。寒さは殊の外厳しく、寝間着一枚、裸足で逃げた義央に最期のときが迫っていました。体を震わせながら、炭俵の奥で体を固くしていると、外で大きな声がします。戸をガタガタと開けようとする音もします。すると、三人の供侍が義央を見るや否や、覚悟を決めて表に飛び出して行きました。何とか、義央を逃がそうとしたのでしょう。しかし、その叫び声も遂に聞こえなくなり、自分を探す声だけが炭小屋に谺します。そのとき、一本の槍が炭俵を突き始め、いよいよ、自分に向かって穂先が伸びてきました。義央は、それを自分の素手で受け止めました。しかし、敵の槍は鋭く、疲れ切った老人が素手で防げるようなものではありません。掌を削り、穂先は腹部を裂きました。義央の抵抗はここまででした。その槍が抜かれると、腹から血がドクドクと流れ出ます。もう、義央に気力は残されていませんでした。そのまま、ぐったりと項垂れたところを赤穂浪士らしき侍に襟首を掴まれ、小屋の外へと引き摺り出されたのです。そこで、「ピーっ!」という甲高い笛の音が静かな夜の空に響きました。義央は、出血と寒さで体が勝手に震えます。そこに現れたのが、良雄でした。(これが、大石か…?)義央は、そう思い眼を開けて良雄の顔を見詰めました。
良雄とは初対面でしたが、祖父の良欽とは、何度か顔を合わせています。なぜなら、長矩が若いころ、最初の勅使饗応役を務めるに当たって、良欽が出府し、吉良邸に挨拶に来たからです。その面影が、孫の良雄にありました。(あの良欽の孫が…)と思うと、覚悟が定まった気がしました。二人は、目と目で何かを語り合いました。良雄の眼は、(こういう仕儀となって申し訳ございません…)とでも言っているかのようでした。それに対して義央も小さく頷き返しました。そして、良雄は長矩の「小さ刀」を出すと、ひと言「ご免…」と言うなり、義央の心の臓を貫きました。義央にとって理不尽な「仇討ち」ではありましたが、良雄の顔を見たとき、この男の心と苦労が手に取るようにわかったのです。自分も人知れず苦労をして、高家職を勤めてきました。人には言えない涙を何度も流してきたのです。それが、武士であり、高家のプライドでした。それは、おそらく、赤穂浅野家国家老としても同じだったはずです。意識が薄れて行く中で、義央は妻の富子を思い出していました。名門上杉家と旗本吉良家では、家格は釣り合っても、禄高が違い過ぎます。それでも富子は、「私は義央様に嫁ぎたい…」と駄々を捏ね、粘り抜いて縁談をまとめたのです。あのとき、最初に折れたのは父義冬でした。それから、何十年経っただろうか。(もう、十分に生きた。富子よありがとう…。そして、すまなかった)。義央はいつまでも富子を愛していたのです。そして、眼を閉じた義央は、静かに黄泉の世界へと旅立ったのです。そこには、最早、怒りも言い訳もありませんでした。こうして、良雄たち赤穂義士の本懐は遂げられたのです。義央の気持ちがわかったのは、きっと「大石内蔵助良雄」一人だったのではないでしょうか。
8 「赤穂義士」が残したもの
人間は、自分の生き方をどのようにして決めていくのでしょうか。今、日本人の「生き方」は、少しずつ変化しているように思います。戦後、日本人は「復興」という大目標を立て、官民一体となって国の再建に取り組みました。戦争によって破壊された街、道路(鉄道)網、工業地帯、そして、日本の文化まで破壊され、日本人は途方に暮れたのです。そして、300万人を超える「人命」を喪ったことは、未来への「希望」さえも失ったような気がしました。しかし、当時の日本人には、「死んだ人の分まで生きよう…」とする強い思いがあったことも確かです。特に、あの戦争を直接体験した大人たちは、自分の家族だけでなく、友人、恋人までも喪い、失意のどん底にいました。それでも、立ち上がったのは、「日本人としての誇り」と「死んだ者への強い思い」があったからに他なりません。そんなとき、「忠臣蔵」の芝居が上演されるようになりました。敗戦後の占領期、GHQは、これらの時代劇や「仇討ち」物は、「武士道を思い出させる」として、上演の許可を出しませんでした。アメリカにとって、日本はそれだけ怖ろしい国だったのです。「日本を破壊しなければ、また、いつ復讐されるかわからない…」と言うのが、彼らの認識でした。そのために、日本人の「拠り所」である「武士道」や「道徳」を破壊し尽くしました。しかし、どんなに破壊し尽くしたと思っても、一人一人の日本人の心まで覗いて取り除くことはできませんでした。
占領期が終わり、自由に演劇が解禁になると、演劇人や映画人たちは挙って「忠臣蔵」を上演しました。今でもネットなどでは、戦後間もなく制作された「赤穂浪士」の映画を見ることができます。その当時の名優たちを使った映画や芝居、歌舞伎などは、どこも大入り満員の大盛況を博したと言います。そして、観客は、その物語に涙を流し、「くそっ、負けてなるものか!」という思いを強くしたのです。忠臣蔵の47士には、それぞれの人間模様がありました。苦節一年半、貧困に喘ぎ、町人からは「腰抜け侍」と罵られ、心ならずも忠孝の狭間で悩み死んでいった者もいました。好きな者同士が、世をはかなみ共に死を選んだ者もいました。御家のため、心ならずも仇討ちを諦めた者もいました。敢えて「悪役」に徹して、忠義を全うしようとする者もいました。どれもこれも、「武士としての一分を立てん」がための苦しみなのです。おそらく、この芝居の心がわかるのは、「日本人」だけだろうと思います。それは、江戸時代から育まれてきた「論語」の精神が、日本の「和の精神」と融合したとき、それは、人として納得できる「思想」に昇華できたからだと思います。
今でも、日本人は「人を思い遣る」「相手に謙る」「だれにでも優しくする」「卑怯な振る舞いは許さない」「勇気を持つ」「覚悟を決める」「遠慮、配慮を重んじる」などの道徳心を大切にしたいと考えています。それは、まさに、忠臣蔵の精神と何も違いはありません。確かに、たとえ理不尽な行為があっても、だれも「仇討ち」をしようとは思いませんが、社会に「訴えたい」と思うのは人情でしょう。そして、それが公に認められたとき、「理不尽な行為をした人間」は、社会から相応の罰を受けるのです。そこには、「権力」が介在することはありません。たとえ、あったとしても、それはいずれ暴かれ、社会は権力を行使した人間を許さないでしょう。これが、「正義」なのです。今でも、社会的地位にある者、だれもが知る著名人、部下を統括する上司など、弱い立場の者が声を挙げることが度々あります。そして、強い立ち場の者は、決してそれを認めようとはしません。まさに、忠臣蔵と同じ構図が見えてきます。日本語には、「勧善懲悪」という言葉がありますが、「悪人を許すまじ」という価値観は、今でも日本人共通の思いなのです。そういう意味で、「赤穂事件」は、日本人の「心」を創るきっかけになった事件でした。

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