架空戦記 零戦改「白虎隊」戦記

架空戦記 零戦改「白虎隊」戦記
矢吹直彦
序章 白虎隊誕生

「こちら、白虎一番!」
「敵B29一機、発見!直ちに、攻撃に入る!」
真っ赤な日の丸を付けた銀色の新型零戦4機編隊が太陽を背にして、高度7000mを悠々と飛行している敵の大型爆撃機B29に照準を合わせた。
おそらくは、偵察型のB29に違いない…。高高度から写真でも撮った帰りなのだろう。
「ちぇっ、何をのんびりと飛んでいるんだ…。ばかめ!」
「いくら性能がよくても、パイロットの腕がものを言うんだよ!」
昭和20年1月。
太平洋の日米戦争は、昨年10月のレイテ沖海戦以降、膠着状態に陥り、こうしてB29が一機若しくは数機の編隊で現れ、偵察をすることが多くなっていた。
アメリカ軍が本気で日本を叩こうと思えば、いつでも攻撃できるはずだが、その静けさは、如何にも不気味で、この後の大規模な空襲が予想されていた。
アメリカ軍は、昭和18年にソロモン諸島のガダルカナル島を落とすと、それからは、太平洋の島伝いに日本本土を目指して侵攻を早めていた。
パラオ、トラック、サイパンと南洋の島々を攻略し、ついにマリアナの各島々を占領すると、テニアン島に大規模な航空基地を造成した。
それは、当然、日本本土への空襲を意図した占領であったことは間違いない。
テニアン島は、サイパン島の隣に位置する小島で、日本本土から2400㎞の距離にあり、大型爆撃機B29の航続距離でもギリギリの飛行距離だった。
もちろん、アメリカの戦闘機が護衛に付ける距離ではなく、B29は、爆撃機のみで日本本土に向かうのだ。
そのため、日本軍は夜間爆撃を想定し、双発夜間戦闘機の屠龍や月光を迎撃機として使用する計画を進めていた。
後の302航空隊司令を務めた小園安名大佐が発明した斜銃(陸軍は「上向き砲」と称した)は、ラバウルで初めて実戦に使用され、ヨーロッパ戦線で活躍したB17爆撃機の攻撃で有名になった。
この大型爆撃機の攻撃に使用されたのが、陸軍の屠龍や海軍の月光という双発の戦闘機だった。
当然、日本本土にも大型爆撃機が使われることは想定されていたので、この屠龍や月光は改造を加え、さらに精度の高い斜銃を装備して敵の来襲に備えていたのだ。
それに、アメリカは、2000馬力を超える高速戦闘機を次々と登場させており、日本の従来の零戦では、性能そのもので太刀打ちできないようになっていた。
近いうちに、新型戦闘機が日本の空に現れるようになれば、国民の生命が危ぶまれた。
大本営としても、本土への空襲だけは避けたかったが、敵の物量は日本の予想を遥かに超え、日本の工業力では太刀打ちできない状況になることがわかっていたのだ。
それに、アメリカは、日本人を抹殺するまで戦いを止める気はないようだ。

だが、おいそれと貴様らの好きにさせておくわけにはいかんのだ…。
胴体に紅い帯を一本巻いた銀色の戦闘機と列機3機が、ダイブのように真っ逆さまに急降下すると、エンジンのカウリングに装備されている13粍機銃と翼に装備された20粍機銃二門を同時に連射した。角度が付いているので、弾丸はさらに貫通力が高まっている。
ガガガガ…! ドドドドド…!
猛烈な発射音が響いたかと思うや否や、大型爆撃機B29は、右翼から火を噴いてそのまま太平洋の波間に墜ちていった。
この新型戦闘機の連携の取れた波状攻撃に耐えられる爆撃機はないだろう。一番機の男は、隊内無線を使い、
「ようし!全機、編隊に戻れ!」
そう、静かに飛行帽に内蔵されたマイクに声をかけると、列機から、「了解!」の応答が明瞭に聞こえてきた。
一年前なら、戦闘機に搭載される通信機は、故障続きで、ものの役に立たなかったが、加藤機械工業という千葉の会社が、ドイツの通信機を参考に改良を加え、昨年末から実戦に配備されたものだった。
それは、非常に優秀な通信機で、これまでの物と比べても軽量になり、コンパクトサイズの上、故障知らずの優れ物だった。
この通信機「KT-2601」は、既に昭和17年末には完成していたが、陸軍や海軍の面子のために認可が下りなかったのを、連合艦隊司令長官になった小沢治三郎中将の鶴の一声で許可が下りたものだった。
小沢中将は、山本五十六大将、古賀峯一大将が相次いで戦死したことで、危機感を覚えた大本営が、航空戦の専門家を…との抜擢人事で実現したものだった。
小沢中将は、連合艦隊の司令長官の命令を受けると、直ちに、これまでの既成概念を撤廃し、次々と中小メーカーの製品を自分の眼で確かめ、実戦配備するように努めたのだ。
アメリカ軍も小規模ながらB29をテニアン島から出撃させ、大規模工場を狙って爆弾を落としていったが、意外と中小工場は、攻撃目標から外され、国内で密かに生産が進められていたのだ。
陸海軍は、昭和19年には、中小企業の軍需工場に大規模な予算を投入し、岩盤の固い地層に地下壕を掘り、そこで新兵器の開発を続けさせることにしていた。
当然、大規模工場も主要生産を地下工場に移し、日本全体が地下都市になったような状況になっていった。
また、杉山元陸軍大臣の後を継いだ今村均中将は、招集した熟練工を戦場から元の工場に戻し、生産性の質の向上に努めたので、各種兵器の故障も少なくなり、各工場にも活気が戻ってきた。
それに、中小企業の兵器製造メーカーでは、それぞれの得意分野に力を入れ、陸軍でも高性能の戦車や装甲車、対戦車砲などが開発されていたのである。特に、飛行機分野では、飛行機のエンジンや計器類、小型レーダーなどの開発は、中小企業の独壇場にあり、大企業のメーカーは、中小企業と協力して飛行機の改造に乗り出したため、「〇〇改」と呼ばれるような改良機が次々と生み出されていた。
開戦以来の軍令部次長を務めていた伊藤整一中将は、山本五十六連合艦隊司令長官戦死後、作戦の主導権を軍令部に取り戻し、現役復帰した海軍省の掘悌吉大臣の協力を得て地道な研究開発を推奨していたのだった。
その結果、兵庫県姫路の川西航空機では、零戦を凌ぐ戦闘機「紫電改」の開発に成功し、群馬県太田の中島飛行機の子会社である太田航空機では、二式戦闘機鍾馗の改良型「鍾馗改」を誕生させていた。
また、川崎航空機では、陸軍の三式戦のエンジンを液冷から空冷1500馬力に換えたところ、三式戦飛燕を凌ぐ戦闘機が誕生し、「五式戦・飛燕改」として本土防空部隊に送られるようになっていた。
実は、海軍の零式艦上戦闘機も数度の改良を加えて、52型丙まで誕生していたが、三菱航空機では、堀越二郎技師の指揮の下に、思い切って新型の1500馬力の「金星誉エンジン」を搭載したところ、時速600㎞を超える高速機として生まれ変わり、従来の「〇〇型」ではなく、「零戦改」として量産されることになった。
零戦改は、エンジンが大きくなった分、機体にこれまで以上の強度を持たせ、全体的にやや大きくはなったが、基本設計が変わらず、その工作手順が大幅に単純化されたために勤労動員で集められた少年たちにも扱えるようになり、新型零戦改は、昭和20年2月には、実戦配備されることになったのだ。
そして、新型零戦改が生産ラインに乗ると、その配備先として白羽の矢が立ったのが、海軍302航空隊だった。司令は、だれもが知る、海軍大佐小園安名である。
小園は、大東亜戦争開戦時から、第一線の指揮官として勇名を馳せた海軍航空隊の名物男で、軍歌にもなった「ラバウル航空隊」の副長として、坂井三郎や西沢広義、笹井醇一などの名パイロットを擁し、一時期は、南太平洋の空を制圧した男だった。だから、肩書きは海軍大佐であっても、その発言力は、陸海軍ともに、どんな将官以上の力を持っていた。
この新型零戦改も、伊藤次長が厚木空を直々に訪問して実現したものだった。無論、小園に異存はなく、逆に伊藤次長に尋ねたくらいだった。
「次長。大変有り難いお話ですが、これほど優秀な機体なら、松山の源田さんあたりが欲しいと言ってきているんじゃないんですか?」
すると、伊藤次長は、ふん、と言った顔つきで、
「ああ、早速、源田君が言ってきたよ。だが、私は、即座に断った…」
「私は、あの真珠湾攻撃で煮え湯を飲まされた人間だからね。いくら、源田が優秀な指揮官でも、最後の決戦には、この零戦改は欠かせない戦力だ。それに、彼には、川西の紫電改を優先的に回している…」
そう言うと、スクッと立って、小園大佐の手を握り、
「ここは、ラバウル航空隊仕込みの大佐の手腕に任せる。頼んだぞ、小園さん…」
そう言って、生産された零戦改のほとんどは、302航空隊に引き渡されたのだった。
これにより302航空隊は、零戦改と雷電、そして雷電改を擁する正式な帝都防衛部隊として、大いなる活躍を期待されたのだった。
小園は、零戦改を受け取ると、本来の帝都防衛を預かる陸軍航空本部に出かけ、遠藤本部長と陸海関係なく、お互いに協力体制を敷くことで合意してきた。
本当は、航空部隊が空軍化されればいいのだが、それをやる時間もない中で、小園は、昔の誼を通じて陸軍の協力を要請したのだった。それは、主に、通信や情報の共有化がねらいでもあった。
やはり、陸軍では新型レーダーや情報システムの体制作りにいち早く取り組んでおり、敵の発見も海軍のそれより早かった。しかし、陸軍が敵の動向を把握したとしても、そのすべてが海軍に報されるわけではない。
担当部門の指揮官が、「海軍にも伝えてやれ…」といった判断で情報伝達が左右されるのだ。それでは、情報の分析もできない。そこで、小園は、お互いが得た情報は、包み隠さず伝え合うことに合意させたのだ。それができたのも、小園安名という男の力だった。
小園は、昔から、陸軍の航空部隊とも肝胆相照らす仲で、ラバウル航空隊があれほどの活躍ができたのも、当時の小園中佐が、常に陸軍部隊と連携した作戦を採っていたからなのだが、それを知る海軍の上層部は、ほとんどいなかった。
ラバウルには、海軍の方が先に航空基地を造ったが、台南航空隊がその主力となると、小園は早速、一升瓶を抱えて陸軍基地に向かい、酒を飲み交わしながら、海軍の情報を全部陸軍側に伝えていたのだ。そして、必要な物資から宿舎の建設まで手伝い、アメリカ軍の動向と合わせて詳しく説明してきたお陰で陸軍の航空部隊は、大きな混乱もなく、ラバウル方面での作戦に従事できたのだった。
あの「斜銃」も、小園は、図面を陸軍基地に持っていき、そこの幹部たちに説明したことで、陸軍の方が先に正式採用になったものだった。
そんなこともあり、陸軍航空本部長の遠藤中将も、快く、小園の申し出を受け入れたのだ。
もし、同じ案を他の人間が持っていったら、体よくあしらわれたに違いない。どんなに強固な組織でも、動かしているのが人である以上、人間関係が一番重要になってくるのは間違いないのだ。
海軍でそれができたのは、連合艦隊司令長官になった小沢治三郎、軍令部次長の伊藤整一、そして、現場指揮官では小園安名中佐くらいのものだろう。
このトリオが、昭和20年になって初めてチームとして力を発揮できるような体制になったのだ。
結局、軍隊という組織も、所詮は「人」で動く組織だということか…。

新型零戦改は、新しいエンジンと機体を手に入れて、外見上は、零戦には違いなかったが、まったく別次元の戦闘機となっていた。
この生産は、三菱や中島といった大規模な工場を持つメーカーだけでなく、明誠工業という福島に拠点を置く小さな航空機メーカーが主力工場となり、手始めに二十機が生産ラインに乗せられた。
この最初の機体は、戦地から戻された熟練工が、その再訓練のために行われた実験機だったが、戻ってきた50人の熟練工たちは、ある者は中国大陸から、ある者は、南海の孤島から、そして、ある者は、小さな輸送船から引き戻されていた。
全員が突然の命令を受けて戸惑ったが、身分は、その当時の肩書きを持ったままだったことから、原隊は陸海軍部隊にあった。そして、伊藤軍令部次長の計らいで、全員を下士官以上の階級とし、指導するベテラン工員は、兵曹長か准尉の位が与えられた。そのため、現場に戻っても、直接の指揮命令は大本営陸海軍部となり、彼らは、思う存分働ける環境を用意したのだった。
小園の302航空隊にも、5人の熟練工が配置された。そのうち4人は、飛行機メーカーの技術者たちで、新型零戦改や雷電改の整備分隊に配属された。そして、一人は無線機の製造メーカーの元技術者で、彼は、新しいレーダーシステムの担当下士官で採用された者だった。
こうした適材適所に応じた体制が整うに連れ、遅まきながら、日本の戦局の挽回に向けて着々と体制が整えられたのも、伊藤次長や小沢長官の働きが大きかった。
そして、302航空隊の中で秘密裏に誕生したのが、新型零戦改を擁する戦闘201飛行隊、別名「白虎隊」だった。
既に、愛媛県松山に本拠地を置く源田実大佐の343航空隊では、紫電改部隊を「新選組」と称していたが、こちらは、それに対抗するかのように白虎隊を名乗り、取り敢えず伊東禎二郎少尉を隊長に、10名の下士官搭乗員で秘密部隊を編成させていた。
この伊東少尉は、海軍甲種飛行予科練習生2期出身の搭乗員だったが、その出自が面白い。
伊東は、小学校すら満足に学校に通わなかった男だが、田舎の中学で給仕として働くと夜間部で学び、中学4年修了と同時に甲種予科練に志願して飛行機乗りになった男だった。そして、入隊する最後の日まで給仕の仕事を続けていたという変わり種である。
実は、伊東は、子供のころから、福島県の磐梯山の山中でマタギとして暮らし、剣術、柔道、鉄砲など、マタギとして必要な訓練を祖父や父親から受け、学業は、ラジオの通信講座と女学校出の母親から教わっていたという。
当時の日本のラジオ講座は、意外と利用する者が多く、ラジオとテキストさえあれば、能力と意欲さえあれば中学校程度の学習は十分に補うことができたのだ。
やはり小学校卒業程度で奉公に出たような者は、その店や工場の計らいで、それらを受講する者がおり、彼らの多くは、そこで学んだことを基にして陸海軍に志願して行ったのだ。
伊東少尉もその一人だった。
磐梯山の山奥に暮らす少年が、毎日、麓の学校に通うことはできない。それでも高い能力に恵まれ、その機会と向上心さえあれば、学習は十分可能だった。
幸い、伊東の家は、マタギを仕事にはしていたが、祖父も父母も姉も教養人であり、だれもが少年の成長を心から願っていたのだ。
伊東は、昭和12年4月1日、霞が浦航空隊に合格者200名の首席として入隊した。中学では、海軍兵学校の志願を進められたが、そんなエリート軍人より、飛行機乗りの方が性に合っているとの理由で、予科練を志願したのだ。
伊東は、予科練入隊当初から、その体技、頭脳において、抜群の能力を発揮していた。
予科練では、柔剣道、相撲、体操、水泳、ラグビー、棒倒し、カッター漕走などの訓練があったが、伊東は、1年時から抜群の能力を発揮した上に、乗馬や小銃訓練も難なくこなした。特に、小銃の扱いは、すべてにおいて完璧にこなし、その命中率は、歴代最高得点を叩き出していた。そして、学力も高く、一年間の訓練期間中、ずっと首席をとおした。
入隊直後から、教員や航空隊幹部の度肝を抜く行為が度々あり、だれもがその能力を認め、卒業式では、特に臨席した山本五十六航空本部長から訓示の中でお誉めの言葉をいただいたくらいだった。
その男を小園大佐は見つけ、フィリピンの戦場からここに引き抜いてきたのだ。
既に、これまでに100機近い敵機を撃墜しており、その能力はラバウル航空隊時代の西沢広義兵曹長と比べられるまでになっていた。西沢兵曹長戦死後は、下士官出身搭乗員の目標ともなっていた。
因みに階級は違うが、西沢兵曹長と伊東少尉は、同い年である。
小園は、潜在能力で競えば、間違いなく西沢より伊東の方が上だ…と高く評価しており、その物事に動じない性格は、西沢と共通するものがあった。
伊東少尉は、302空零戦改戦闘隊「白虎隊」の創設にあたり、最初に集められた10人の部下を前にこう訓示した。
「俺は、会津の山中で生まれ育った。戊辰の戦において、俺たちの先祖の少年たちは、戦に敗れ潔く腹を斬った。しかし、今回ばかりは、そうはいかない。この新型零戦改を駆使して、アメリカとの決戦に備えたい…」
「既に、陸軍では、二式戦を改良した鍾馗改が、その出番を遅しと待っている。海軍でも、西に紫電改、東に雷電改と、そしてこの零戦改が揃いつつある」
「それに、今、日本のメーカーが総力を挙げて新兵器の開発に努めているところだ。それが揃えば、間違いなく、アメリカの戦闘機に勝てる!」
「それまで、命を大切にして戦おうではないか!」
そう言うと、昨晩、書き上げた大きな隊旗を広げた。
そこには、達筆な筆文字で「白虎隊」と記されていた。ここに、302空「白虎隊」が誕生したのだった。
小園大佐は、零戦改の部隊には特別に「白虎隊」と名付け、伊東少尉の故郷である会津に敬意を表したのだ。
この物語は、零戦改という新型戦闘機を駆使して戦った「白虎隊」の活躍を伊東禎二郎という男の眼を通して見た姿である。

第一章 会津のマタギ 伊東禎二郎

その少年の名を伊東禎二郎という。12歳になった。
禎二郎の家は、祖父の代から磐梯山の山中でマタギとして暮らしている。
祖父は、伊藤弦斎(本名・弦)親父は弦一郎という。
家のことは、母の咲と姉の千恵が行っている。姉は、禎二郎の5つ上だ。
祖父の弦斎も父の弦一郎も滅多に里に下りることはないが、磐梯山の山中で獣を狩り、その毛皮や肉を里に下りて売るのを生業としてきた。それ以外にも春の山菜、夏の薬草、秋のキノコと、磐梯山は宝の山そのものだった。
山菜や野草、キノコ類は、母や姉、そして禎二郎が里に下りたところにある山吹荘に卸して売っていた。
山吹荘は、猪苗代湖に近い中ノ沢という温泉場の外れにあり、小さな宿と湯治場を営んでいた。ここには、禎二郎の同級生にあたる中沢武がいた。
武は、中ノ沢尋常小学校のガキ大将で、体も大きく喧嘩も強いが、禎二郎が顔を出すと、喜んで禎二郎について来る。自分では、「俺は、禎二郎の兄弟分だ!」と粋がっているが、それにはわけがあった。
禎二郎と武は、小さいころからの遊び友だちで、中ノ沢に下りると真っ先に山吹荘に顔を出し、母や姉が店に出す荷物を下ろしている間に、子供同士で遊んでいた。しかし、小学校に上がるころになると、それも次第に疎遠になり、禎二郎もマタギの修行が始まったこともあって、武と話す機会もなくなっていた。
そうして数年が過ぎたころ、たまたま山菜や猪の肉などを山吹荘に運んでいったときである。珍しく武が、禎二郎に声をかけてきた。
「おい、禎二郎。ちょっと来い!」
禎二郎は、まだ作業中だったから、「後でな…」と言うと、武は、怒ったように、
「いいから、来い!」と袖を引っ張るではないか。
「おまえに話がある!」
その顔には、何か苛立ちのような険しさが見えたので、禎二郎は、仕方なく武について行った。
中ノ沢の山の方には、高台に温泉神社があり、オオヤマツミの神を祀っていた。ここは、180段の急な石の階段があり、その上の境内が悪童たちの遊び場になっていた。
そこには、5、6人の武の仲間がいたが、どれも眉間に皺を寄せ、禎二郎を睨み付けているのだ。
中には、知った顔もあり、「おい、守じゃないか…。どうした?」と声をかけるが、あの気のいい守まで、唇をとんがらしている。
へんな奴だなあ…、などと考えていると、武が、言い放った。
「おい、禎二郎。今日は、親しく声をかけるんじゃねえ!」
と言うのだ。
何が起きたかは知らないが、その険しい声に、禎二郎もむっとして、少し身構えた。
武は、禎二郎の方を向くと、
「おい、禎二郎。ここで俺とどっちが強えか勝負しろ!」
いきなり挑戦的な物言いに、禎二郎はさらにむっとして言い返した。
「なんだ、武。俺とやるのか?」
「おまえが、俺に勝てるわけないじゃねえか?」
「やめとけ…」
小さいころから遊び仲間である。
武の弱点も気の弱さも禎二郎は知っていた。
体が大きいので虚勢を張ってはいるが、やはり山吹荘の跡取り息子だ。根はおっとりしていて、人がいい。
こんな虚勢を張ったところで、山暮らしの禎二郎とは違う。
そんなこと、こいつは、わかっているはずなのに…。
そう思ったが、周囲には、それぞれが棒きれなどを持った仲間が有無を言わせない…とばかりに禎二郎を取り囲んでいる。
すると武は、
「なんだと! おまえみたいな小さい奴に、この俺が負けるわけねえだろ…」
何だか、声はうわずって聞こえた。
すると、そう言うなり、武は、大きな体で禎二郎に体当たりをしてきた。まさに、奇襲攻撃だった。
体当たりをされた禎二郎は、一度、その勢いで後ずさりをしたが、
「ようし、相撲で決着をつけてやる!」
そう言うと、禎二郎は、武の二度目の攻撃をがっちりと受け止めた。
さすがに、武も大きくなり、かなりの圧力は感じたが、今の禎二郎に勝てるほどの力はなかった。そもそも、足腰が違う。
毎日、山野を一日中駆け巡っている禎二郎の足腰は、強靱で、疲れというものを知らない。武のように、平地の暮らしとは違うのだ。
体はまだ子供のそれだが、足と腰の筋肉は半端じゃない。
禎二郎は、武の懐に跳び込み、腰に手を回すと、そのまま体を開き、腰車の要領で勢いよく投げ飛ばした。
武の体は、一瞬宙を舞ったかと思うと、ドスン!という音と共に、境内の土の上に叩きつけられた。
これは、相当に痛い。それでも、武は、音を上げず、もう一度起きると、
「なにお!まだまだだ…!」
そう言って、もう一度向かってきたが、それは同じことの繰り返しだった。
武は、三度ほど禎二郎に投げ飛ばされると、ウーン…という呻き声を上げ、そのまま立ち上がれなかった。
「どうだ、武!」
禎二郎が、仁王立ちになって、武を睨み付けると、周囲の仲間の数人が、棒を振り回して禎二郎に向かってきた。
「う、うおうーっ!」
叫び声は大きかったが、武に比べてのひ弱な体では、禎二郎に敵う相手ではない。
武が、苦しい声で、「やめろ…!」と叫んだが、その声は、空しく境内に響くだけだった。
禎二郎は、一人の棒を簡単に奪うと、数人を祖父の弦斎から習った剣さばきで小手を打ち、奴らを地べたに転がすことになった。
数人の悪童共は、手首を抑え、痛い、痛い…と泣いた。
どんなに悪態を吐いても、子供は所詮子供だ。泣き出したら、もう止まらない。オンオンと声を上げて泣く姿からは、さっきの勢いなどどこにもない。情けないが、子供は、そんなもんだろう…。
禎二郎得意の小手打ちは、山に自生している蔓を何度も振って鍛えた鞭だ。いくら棒きれといっても、手首に当たれば、その痛みは脳天に突き刺さり、悶絶するくらいの痛みを伴った。そして、そこがミミズ腫れになるのだ。
奴らの細い手首では、しばらく箸も持てないだろう…。
すると、残りの数人は、恐れを為したか、持っていた棒きれを放り投げると慌てて階段を転げるように逃げていった。
守は、何もせずに、その場に呆然と立っていたので、
「なんだ、守は逃げないのか?」
と禎二郎が聞くと、いつもの笑顔に戻り、
「へへへへっ…」と頭を掻いた。
禎二郎は、武を抱き起こすと、武は、いつもの穏やかな顔に戻り、ひと言「すまない…」と頭を下げた。
側に来た守は、
「武…。だから、言ったじゃないか。禎二郎は、滅茶苦茶強いって…」
すると、武も守の顔を見て、コクリと頷いた。
これは、後で武に聞いた話だが、武は、学校で禎二郎のことを話したらしい。
小学校5年生になった時、武は、6年生の大将にも勝つくらいの暴れん坊で、村の中では、一番のガキ大将だ…ということで通っていた。
村と言っても小さな集落があるだけで、同級生も男女合わせて10人くらいだったから、たかが知れている。それに、山吹荘の跡取り息子だ…ということもあって、周りの大人たちも多少は気を遣うのだ。
その武が、
「山の奥に、禎二郎って言う男がいるんだ…」
「そいつは、マタギでな、滅法強い男なんだ」
と自慢したところ、禎二郎を知らない仲間から、
「へえ、じゃあ、武も勝てないんか?」
と言われたことに腹を立て、
「ふざけんな。今度、奴が山から下りてきたら、勝負をつけてやるから見てろ!」
と粋がって見せたそうだ。
本当は、禎二郎の実力は知っていたから、本気でやる気はなかったが、成り行き上、こういうことになった…と言い訳をしていたが、この喧嘩以来、悪童共は、禎二郎のことを「山の神」と呼んで、怖れるようになったらしい。
守は、武が謝ると一緒になって、すまない、すまない…と言い続けていた。
それ以降、小学校の教師たちも、この喧嘩のことを聞いたらしく、悪童共が何か悪さをすると、
「じゃあ、おまえたちの山の神に言うしかないな!」
と言うものだから、武を始め、悪童共は少しはおとなしくなったようだった。そんなこともあって、武とその仲間たちは、禎二郎の子分のようになり、それ以来、禎二郎が山から下りると、すぐに集まって来ては、禎二郎から山の話を聞きたがった。
禎二郎は、猪や熊に出会った話や、夜、山中で幽霊を見た話などをしてやると、余程珍しいようで、喜んで、禎二郎の周りに輪を作った。
中には、剣や相撲を教えてくれ…という者もいて、チャンバラごっこがいつの間にか、剣術の稽古のようになったりして、友人のいない禎二郎には楽しいひとときだった。
そんな仲間たちも、10年後に生き残った者は、何人もいなかった。
無論、武も会津連隊の軍曹として出征し、ガダルカナルの戦いで戦死したと聞いた。
仲間の多くは、会津連隊に召集され、激戦地に送られたのだ。
禎二郎は、一人早く海軍に入ったので、一緒に戦うことはなかったが、どちらにしても、禎二郎たちのような大正時代後期の生まれの者は、いいことがない。

会津磐梯山周辺の山々は、獣も豊富で、祖父や親父の獲る熊や猪の肉は、常に高値で取引きされた。特に祖父弦斎の鉄砲は、命中率が高く、一発で仕留めることが多かった。そのために熊や猪に傷が少なく、捕らえた後の血抜きや毛皮の処理なども丁寧に行うので、山の衆だけでなく、街の好事家も毛皮や肉を喜んで買っていくのだ。
弦斎は、自分の獲物の皮には、伊東家の家紋である「丸に横木瓜」の焼き印を押した。巷では「弦斎紋」と呼ばれ、貴重品扱いになっていたくらいだった。
そんな禎二郎たちの暮らしは、常に質素だった。
そもそも、マタギに贅沢な暮らしは似合わないし、贅沢をしようにも、金を遣う所もなかった。精々、麓に下りたときに山吹荘から米や麦を買ってくるくらいで、山でも粟や稗などの雑穀なら収穫できたので、米や麦は、贅沢品だった。
濁酒や味噌、醤油、塩などは自家製で、この辺りは岩塩が多く採れ、温泉の湯も塩分をかなり含んでいたので、切り傷や打ち身には効果的な薬となっていた。
禎二郎たちは、何日も山に籠もっていると、塩が欲しくなる。それで、腰に入れた袋に岩塩の塊を入れて、時々舐めるのだ。それは、煮炊きの調味料にもなるし、温泉が湧いていれば、その湯を使えば、大抵の料理はできた。
こうして、禎二郎たちは、山の恵みに感謝しながら、一年中山に入り、マタギとしての暮らしを続けていたのだ。
山の奥に入ると、一週間くらい家に戻らないことはよくあった。
禎二郎も10歳になると、弦斎や弦一郎たちと一緒に山に入った。時には、仲間のマタギと共に狩りをすることもあったが、子供連れは、禎二郎の家くらいだった。
それでも、小刀を背負い、いっぱしに行動を共にするので、他のマタギ仲間からも感心されたものだった。
そんな中で、禎二郎は生きる知恵を学んだ。そして、様々な感覚が研ぎ澄まされたのも事実だった。
後に、航空兵として戦場に出たとき、禎二郎に恐怖心が湧かなかったのも、そんな生活が体に馴染んでいたからかも知れない。
そんなわけで、会津の山中で暮らしていたために、禎二郎も姉の千恵も、学校には通わなかった。
禎二郎が小学校に入学する年齢の春に、一度、麓の中ノ沢尋常小学校の校長が、禎二郎の家を訪ねて来たことがあった。三時間近くもかけて山道を登って来たらしく、着くなり息も絶え絶えで、
「これでは、通学は無理ですな…」
と、早々に禎二郎と姉の千恵の通学を断念した。
その代わり、禎二郎に勉強をするように…と教科書と少年雑誌を数冊置いていった。それは、この校長の時から恒例となったらしく、毎年、進級すると校長や教頭が教科書などを年に数回、届けてくれるようになった。
それまでは、千恵の担任になった教師が、年に一度くらい家庭訪問と称して訪ねて来たが、小一時間くらいの話で帰っていった。
校長が直々に訪ねて来たのは、この神保という校長が初めてだった。それは、禎二郎たち家族にとっても大変有り難いことではあったが、禎二郎が4年生の年、弦一郎が、校長に、
「先生、申し訳ないから、下の山吹荘にでも置いておいてくれれば、いいですから…」
と申し出たが、神保校長は、
「何を言われます。聞くところによると、伊東家は、あの白虎隊で有名な伊東悌次郎の子孫ということではありませんか。伊東家が白虎隊ゆかりの家なら、我が神保家も松平家家老職を務めた神保内蔵助に連なる家でございます」
「それに、会津には、ならぬものはならぬ。という掟があります」
「私は、由緒ある伊東家の子孫を蔑ろにしては、会津武士の名折れと思い、こうして参っているのです。これは、私の務め故、最後まで務めさせていただきます…」
そう言って、教科書だけでなく、鉛筆やノート、ときには参考書などを置いていくのだった。
禎二郎と千恵が、ラジオによる通信講座を聴くようになったのも、この校長のお陰かも知れなかった。だから、学校には通えなかったが、勉強をしなかった…というわけではない。それに、学問は、弦斎や弦一郎、そして母の咲から教わった。咲には、生活全般の基本から、読み書き計算の初歩を教わった。
咲は、弦斎や弦一郎の手前、あまり勉強や将来の話はしなかったが、実は、学問にも秀で、咲の裁縫用の机の上には、古びた国語の辞書が置いてあったくらいだ。
咲自身が、どんな家庭で育ち、どんな学校を出たかは知らないが、並の知識でないことは、子供にもわかった。
祖父は、弦斎を名乗っているが、本来なら伊東家を相続する立場にあった。だが、戊辰の戦で一族はちりぢりになった。
弦斎も一度は北海道に移り住んだが、兵隊から帰ってくると会津に戻り、この山中に居を構えてマタギとなったのだ。
弦斎は、日露戦争に出征し、奉天の大会戦でも陸軍伍長として戦っている。そして、多くの戦死者の姿を見て、何かを悟り、この山の中に暮らし始めたのだ。
弦斎には漢学の素養があり、禎二郎や千恵に四書五経の素読をとおして、漢学を教えた。小さいころから学んだ漢詩は、禎二郎の心に強く刻まれている。だから、禎二郎は、大抵の漢字は読めたし文章も書けた。それに、板葺きの粗末な家ではあったが、書物は多く、新しくラジオが出ると、大枚をはたいて早々に手に入れていた。
このラジオは、弦一郎が電波を拾えるようにと、大きな杉の木のてっぺんにアンテナを取り付けたお陰で、その音声は明瞭に聞こえてきた。
ラジオを通した情報は、禎二郎たち家族には、なくてはならない貴重なものだったが、それが、子供らの勉強にも大いに役立っていたのだ。

さて、禎二郎の家は、中ノ沢から山に入って一時間程度登った先にあった。
目印となる不動滝からさらに急な坂道を通り、山奥に進む。
不動滝までは、人が通れる道が出来ていたが、そこから先は、細い獣道になる。だから、我が家を訪ねて来る者は少ないし、禎二郎たちもなかなか麓に下りてていくことは出来なかった。
ただ、不動滝まで下りれば、磐梯山系の中腹に中ノ沢の温泉があり、そこには、多くの湯治客が来ていた。
猪苗代からの山道は険しいが、それでも中ノ沢の湯は、万病に効くという噂があり、禎二郎たちの家族も年に十回程度は山を下っては湯に浸かることにしていた。
定宿は「山吹荘」だが、亭主は、弦斎や弦一郎が顔を出すと、
「伊東さんも、山を下りて、この中ノ沢で暮らせばよかっぺ…」
と言ってくれるのだが、弦斎も弦一郎も頷くばかりで、その気はないようだった。しかし、姉の千恵も、そろそろ嫁に行かねばならず、中ノ沢で一番の老舗旅館である「万葉」の跡取り息子の相楽真次郎との縁談が進んでいた。
千恵も母の咲に似て賢く、女として身につけるものは、すべて学んでいたし、そればかりか、剣の腕は、並の剣士では歯が立たないだろう。それくらい姉の小太刀の扱いは上手かった。

「万葉」の亭主、相楽正一郎が千恵を気に入り、縁談を持ち込んできたのは、千恵が19になった年の春のことだった。
最初のうち、千恵は、この縁談に乗り気はないような素振りを見せていたが、真次郎と何度か会ううちに、どういうわけか気持ちが動いたらしく、結婚という運びになった。
真次郎という人は、歳は、千恵より七つほど上だったが、既に落ち着いた風格があり、何より、彼は文学青年だった。その点が千恵が気に入った理由かも知れない。
旅館の若旦那ではあるが、会津商業を優秀な成績で卒業しており、勉強のためにと、父である正一郎が、真次郎を三年間、京都の老舗旅館で修行をさせたとかで、中ノ沢温泉の中で、この宿だけは、佇まいも料理も京都風だった。そのためか、客は都会の人間や軍人が多く、宿の中には、宿泊客用の図書館まで造られていたのだ。
蔵書数は、およそ500冊は超えており、真次郎が東京に出るたびに神保町の古書店を回って買い求めてくるのだ。どちらかというと歴史書が多いが、講談本や絵本、洋書などもあり、田舎にしてはなかなかのものだ。
おそらく、千恵は、この図書館が一番気に入ったのだと思う。
本人は、読書好きで、山奥の家にも弦斎や弦一郎が求めた書物はあったが、千恵が好むような本は少なかった。それに、碌に学校は出ていないが、並の女学生などでは太刀打ちできないほどの知識と教養を身につけた女なのだ。
それに、禎二郎にしてみれば、「我が姉ながら美形だ…」と心密かに憧れもしていた。
伊東家は、元々彫りの深い顔立ちをしていたが、母の咲も昔の女としては、上品でマタギの嫁とは思えないくらい凜とした美しさがあった。
千恵は、背も高く、手足も長い。その上色白で、よそ行きの着物を着て化粧でもすると、弟の禎二郎でさえ、見とれてしまうときがあるくらいだった。
千恵の縁談はトントン拍子に進み、その年の秋には、旅館万葉の大広間で、二人の結婚式が行われた。
化粧をした姉千恵を見たのは初めてだったが、その姿はまるで日本人形のように美しかった。
そういえば、禎二郎には、千恵に対して忘れられない思い出の出来事があった。そのときから、禎二郎は、姉を本気で「美しい…」と思っていたのかも知れない。

禎二郎たちが暮らす会津磐梯山という山は、活火山で、明治21年7月に大噴火を起こし、500人近い犠牲者を出した火の山だ。そのころは、弦斎も北海道にいて、まだ、会津には戻って来てはいなかった。
この大噴火は、その山の形状さえ変えてしまい、多くの火山灰が会津盆地に降り注いだといわれている。
近年、これほどの大噴火が起こったのは、この磐梯山しかない。そのために、地下のマグマの活動は活発で、各地に温泉が滾々と湧くのだ。
禎二郎たちは、今、その恩恵に与っているが、それは、多くの会津の人々の犠牲の上に成り立っている。
禎二郎の一家は、中ノ沢の湯に浸かれない時でも、温泉に浸かることはできた。
禎二郎の家の側の川にも温泉らしき湯が沸いており、弦一郎は、そこを掘り、天然の露天風呂を拵えていた。
禎二郎たちは、そこの湯に浸かるだけでなく、飲用にも利用していた。ここの湯は、不思議な湯で、天気によっていくつもの色に変化するのだ。
天気のいい日は、無色透明。曇りの日は、薄い緑色になる。冬場になると白濁し、舐めると強い酸と塩の味がした。年に数回は、桜色に変わり桃の香りがしたものだ。普段、匂いは、若干硫黄臭がしたが、それほど強いわけではない。だから、この湯を使えば、塩に不自由することはなかった。
中ノ沢やその周辺の人たちは、この湯を煮て塩を採った。
海でもないのに、その塩は良質で旨味が強かった。
その塩を猪苗代や若松に行って商売をする者もおり、都会では、飛ぶように売れるらしい。それも、昔から貴重な山の恵みになっていた。
中ノ沢の湯は、「美人の湯」とも呼ばれ、肌がつるつるになるだけでなく、汗疹や皮膚病、傷など、何にでも効いた。
弦一郎なんかは、夜、深酒をしても、朝、この湯を茶碗で一杯飲むとすっきりした…と言って元気に仕事に出て行った。
禎二郎や千恵も腹の調子が悪いときなんかは、必ず、この湯を飲んで治したものだ。
そんなわけで、千恵の肌はきめ細かく、益々白さに磨きがかかり、本当に美しかった。普段は、野良着を着ているから気づかなかっただけだ。その点、万葉の主人の正一郎は、抜け目がない。それを知っていたからこそ、跡取りの嫁にと所望したんだ。
それが化粧をすると、こんなに映えるのか…と、婚礼に出た人たち全員を驚かせた。それは、きっと婿の真次郎が一番驚いたに違いない。
実は、ここだけの話だが、禎二郎は、そんな姉の裸体を一度だけ見たことがあった。
いや、子供のころは、一緒に湯に浸かっていたので、始めてではないが、禎二郎11で、姉が16のときだった。
このころになると、禎二郎も千恵も一緒に湯に浸からなくなっていた。
まあ、恥ずかしいというのが正直な気持ちだったが、千恵を正面から見ることにも躊躇いを感じる年頃になっていた。
ある秋の夕暮れだった。
少し冷えてきたので、「そろそろ、雪が降るかなあ…」と、思いながら、弦一郎が掘ってくれた露店風呂に行こうと、川沿いの坂道を下っていると、すでに風呂にだれかが浸かっているのがわかった。
おそらく、弦斎が早めの風呂に入っているんだろう…。
「仕方ない、もう少し経ってから来るか?」
そう思い、引き返そうとしたが、そこに、美しい歌声が聞こえてきたのだ。
そう、それは千恵が歌う「朧月夜」だった。
この日は、確かに月に朧がかかったような夜空で、千恵が歌の一つも歌いたくなる気持ちは、無粋な禎二郎にもわかった。それに、千恵は、いつでも明るく歌いながら家事をこなしていて、うちの母と姉の存在は、不器用な男たちには家庭を温かくする役割を担っていた。
禎二郎は、千恵が歌っていると気づきながら、その声に導かれるように、そっと川に下りると、簡単な木の囲いが施された風呂に近づいていた。
この風呂は、毎年、春になると弦斎や弦一郎が造るのだが、今年は、禎二郎も手伝って竹と木の皮で囲いを回したのである。
声は、段々に近づき、千恵が湯に浸かる音も聞こえた。
周囲は、川のせせらぎが聞こえ、風の音や木の擦れるような音も聞こえ、人が外を通っても気がつくことはない。
禎二郎は、そっと風呂場に近づくと、囲いの隙間から中を覗いてみた。
そこは、ランプのオレンジ色の淡い光が幻想的な雰囲気を演出していた。
そして、その奥に、髪を洗う若い女の裸身が禎二郎の眼に映った。
それは、姉の千恵には違いないのだが、禎二郎が知る千恵ではなく、何か天女が湯浴みをしているかのような錯覚に陥っていた。
禎二郎は、体を固くしてその姿を網膜に焼き付けんばかりに、凝視していた。瞬きもせず、じっと眼を凝らした。その間、およそ5秒もあっただろうか。
不意に、
「こら!禎二郎!」
「ばか、覗くな!」
そう言うなり、風呂桶で湯を汲むと、禎二郎の目の前にザブッ…と投げて寄越したのだ。
し、しまった…、気づかれた?
そう思ったが、禎二郎は、そのまま背を向けると、
「な、なんだ…、姉ちゃんか?」
「入っているのはだれだ?…そう思って、少し見ただけだ…」
「それに、暗くて、何も見えやしないや…」
そう言うなり、禎二郎は、足早に家に戻っていった。
それでも、禎二郎の顔はほてり、心臓はバクバクと早鐘のように鳴っていた。
そして、禎二郎の網膜には、千恵の裸体が強く刻まれているのがわかった。
それは、少し罪悪感を伴ったが、姉に対する愛しい気持ちが高まるのと同時だった。
この姉弟は、こんな山中で11年間も一緒に暮らしてきたのだ。
男女の感情は湧かなかったとしても、姉を愛しいと思う気持ちは、肉親の情として断ちがたい感情だった。
千恵は、風呂から戻ると、禎二郎に向かって、
「はい、禎二郎、もういいよ…」
長い髪を拭きながら、禎二郎に声をかけたが、さっきの出来事を持ち出すことはなかった。
そういう細やかな気遣いのできる姉で、その上、働き者だった。
それでも禎二郎は、その美しい裸体を生涯忘れることはなかった。

禎二郎は、5歳になった頃から、弦斎と弦一郎から、マタギとしての基礎を叩き込まれた。
5歳も上の千恵は、既に様々なことを教わっていたが、女は家のこともあり、母の咲から習うことも多く、祖父と父の目は、禎二郎に多く注がれることになった。
二人は、この山中で生きていくために、朝から剣術や槍の稽古を行い、昼前からは、鉄砲を担いで山中に分け入った。
子供のころの禎二郎は、山中では足手纏いになるので、幼少期から朝の剣術の稽古に加えられた。朝の一時間ほど、子供の禎二郎には、少し重い木の棒を振り、庭の大木を叩きまくり、川までの坂道を十回ほども往復させられるのだ。
川沿いの道は、石が多く、草鞋ばきの足では、よくつまずき転んだ。それでも、自分で立ち上がり、同じことを繰り返すのだ。時には、川の中にまで入り、そこで木の棒を振った。
川底に足を取られて転ぶと、弦斎か弦一郎が、むんずと襟首を掴み上げ、また、同じことを命じた。
禎二郎は、びしょ濡れになりながらも木の棒を振り続けた。そして、禎二郎は涙を見せる子供ではなかった。そして、春から夏、秋から冬へと磐梯山の山は、その色とともに変化していくのだった。
冬場になると、それは、さらに過酷さを増した。
磐梯山に降る雪の量は多い。しかし、禎二郎の家は、南側の斜面に建ち、多くの木々が積雪を防いでくれたが、それでも、雪かきをしなければ庭に出ることも出来なかった。それでも、川は蕩々と流れ、露天風呂は雪に埋もれたが、そこからは、湯気が大量に出ているので、近くまで行けば、温かい温泉の湯を飲むことができた。
禎二郎が本格的に鉄砲を習い始めたのは、12歳になったばかりのころだった。そのころの禎二郎は、身長は160㎝近くになり、筋力も米俵を片手で担げるまでになっていた。
体は中肉中背だが、全身が鋼のように筋肉がつき始め、声変わりも始まっていた。弦斎や弦一郎は、それを待っていたらしい。
鉄砲は、日清、日露の戦いで使用した旧式の村田銃を使用したが、古い銃とはいえ、祖父や父が毎日手入れを怠らなかった小銃は、今でも新品のように輝いていた。
やはり、銃は、その衝撃が大きかった。
いくら照準を合わせても、引き金を引いた後の肩に食い込むような衝撃は、並の大人でも、手元を狂わせた。これを正確に撃つには、相当な体の鍛練が必要だったのだ。
兵隊になって、軍隊で連日鍛えられるのは、この銃を扱えるようになるのが基本だったからだ。
村田銃は、元込式だが、一発一発を銃に装填し、ねらいを込めて撃つ必要があった。そのため、連射ができない。もし、熊や猪に出会って、そいつらが突進してくれば、一撃で倒さなければ、こちらが食われる可能性があった。
マタギの持つ銃のほとんどは、陸軍から払い下げられた村田銃がほとんどだった。
逆に、この銃になれれば、今、陸軍が使っている三八式歩兵銃は、自由に操れるようになる。
禎二郎は、早速、山に出かけては、実弾を使って狩りをするようになった。
そんな毎日が続いたが、禎二郎は、自分の仕事に満足感を得ていた。
半年も過ぎると、剣も銃もいっぱしのマタギ…と言ってもいいくらいの技は習得できていた。
山にも詳しくなり、たとえ一人でも、磐梯山に入り猟ができるだろう。
また、家には、秋田犬のシロとクロの二匹がいた。
その前にも、小型の秋田犬のツンがいたのだが、年老いたので、弦一郎が里に下りた際に生まれたばかりの子犬を貰ってきたのだった。
この二匹は、マタギの家の猟犬らしく、勇敢で知恵もあった。とにかく、命じられない限り吠えるということがない。常にじっと主人の側にいて、命令が出されれば、忠実に従う忠犬だった。黒目がちな眼は愛らしく、一番可愛がってくれる咲には、殊の外従順だったが、禎二郎には、少しやんちゃな姿も見せた。
年が若いということもあるのだろう。邪険にしたり、甘えたり…とまるで男兄弟のようだった。
こうして山の暮らしをしている間に、世の中は大きく変わっていった。
禎二郎たち家族は、ラジオ放送で、社会の状況は把握していたが、昭和6年には、中国大陸で満州事変が起こり、満州国が出来た。戦争に征った経験のある弦斎や弦一郎は、
「こりゃあ、この戦、長くなるな…」
「中国に深入りすると、とんでもない目に遭う…」
と、眉を顰めたが、二人とも満州で戦った経験があるだけに、中国に深入りすることは危険だということを身を以て感じていたのだろう。
二人が心配していたとおり、満州事変以来、日本の状況は厳しさを増して行ったのだ。ラジオからは勇ましい軍歌と皇軍の活躍が連日放送されていたが、家族で、それを信じる者はいなかった。
特に弦一郎は、
「ラジオは適当なことを言いやがる。苦労させられるのは、いつも下っ端の兵隊だ…」
「あそこの馬賊は、始末が悪い。どうせ、日本も騙されて今に酷い目に遭うに違いない…」
そう言って、ラジオのスイッチを切ってしまうのだった。
また、弦斎は、
「大戦争の予感がする…。日本もただでは済むまい」
と、禎二郎の方を見て、
「そうなりゃ、禎二郎。おまえも覚悟をしておいた方がいいぞ…」
と呟くのだった。
母は、
「禎二郎は、まだ12ですよ。何を言ってるんですか?」
と不服そうに文句を言ったが、その顔にも不安の色が現れていた。
禎二郎のような子供には、そんな社会の情勢など、何の関係もなかったが、中ノ沢に下りていくと、年々、街の風景が変わっていくのがわかった。
旅館万葉に嫁いだ千恵は、腹に子供を抱え、いつも忙しく働いていたが、その顔は、いつも以上に溌剌としていた。
子も出来、将来の女将修行となれば、張り合いがあるのだろう…。それは、それで、姉を慕う禎二郎には少し寂しかった。
宿は、戦争景気で儲かっているようで、ひっきりなしに客が来るようだった。そんな中で、軍関係のポスターが貼られたり、出征兵士を送る幟旗が立てられたりと、こんな田舎の里にも戦争の色は、間違いなくやって来ていたのだった。

そんなある日、小学校の神保校長が禎二郎の家にやってきた。
それは、間もなく昭和7年の4月を迎えようとする春の穏やかな日だった。
会津の4月は、南国と違いまだまだ寒く、雪も残っていたが、よく見ると新しい芽が顔を出し、川のせせらぎも冬のものとは随分と違っていた。
寒くはあったが、それは、春を感じさせる寒さだった。
唐突にやってきた神保校長は、両親と禎二郎を呼び、四つ折りにした一枚の紙を手渡した。
なんと、それは中ノ沢尋常小学校の卒業証書だったのだ。
最初は、何かの間違いだろう…と両親も驚いていたが、神保校長は、禎二郎たちを前に卒業証書を広げると、こう言った。
「確かに、禎二郎君は、一度も学校には通わなかった。しかし、君は、私らが持ってきた宿題を最後までやり遂げたではないか。それに、ラジオ放送を聴きながら、学習していることも私は知っている。テストの成績も申し分ない。君は、十分に小学校卒業の資格があるんだよ…」
テスト…?
禎二郎には、試験を受けた覚えはなかったが、思い当たることはあった。
確かに、神保校長が持参してきた宿題は、毎日、きちんとやるようにしていた。その中には、自作のプリントや問題集もあり、テストのようになっている用紙もあった。
母の咲は、それを教師にでもなったかのように時間を計り、禎二郎に解かせるのだ。
咲はそれを用事で中ノ沢に下りたときに学校に届けていたのだ。
なるほど…、そう言うことか?
禎二郎は、母の咲の顔をちらっと見たが、咲は、知らんぷりをするばかりだった。
神保校長は、そう言うと、徐にその卒業証書を読み上げ、恭しく禎二郎に手渡すのだった。
咲は、そんな校長の配慮に感謝し、
「ほんでも、学校になんも通わなかった子に、いいんですか?」
と尋ねた。
父の弦一郎も、
「それじゃあ、学校や先生方に迷惑をかけんですかね…?」
すると、校長は、
「とんでもない。私は、何も特別なことはしとりません。この子が、きちんと私の課題をやったことに対する評価です…」
そう言いながら、ゴホンと咳払いをすると、不思議なことを言い出した。
「それで…、実は、条件があるんです…」
「条件?」
「な、なんですか?」
咲が尋ねると、神保は、
「小学校を出ると多くの子は、高等科に上がります。まあ、二年間ですが、中学校程度の学習ができます」
「それで、もし、よければ、禎二郎君を私に預からせて貰えませんか?」
校長からの急な申し出に、禎二郎も両親も驚いたが、校長は、
「いや、この子は、賢い。学校に通えば、さらに上級の学校に進学することだって夢じゃない…」
「もちろん、仕事はして貰います」
「実は、隣の中学校で給仕を一人募集しておるんです。用務員は一人おるにはおるんですが、なにせ年寄りで、手伝いが欲しいということなんです。そこで、禎二郎君が我が家に下宿する傍ら、中学校の給仕をお願いしたい…」
「そうすれば、後のことは我が家で面倒をみます」
「幸い、家には子供は外に出ているので、部屋も余っています。勉強も見てやれる…。伊東さん、どうか、御国のためだと思って考えてください」
「この子は、いつか、きっと立派に御国のために働く人間になりますよ」
そう言うと、膝を整え、頭を下げるのだった。
急な展開で、禎二郎もどうしていいか分からなかったが、「条件」と言われれば、受けるしかない。
弦一郎も咲も、禎二郎をマタギだけで終わらせたくはなかったのだろう。だから、校長と話をして、禎二郎が卒業できるように取り計らってくれたのかも知れない。
禎二郎は、そう考えることにした。
学校を終えたら、また、山に帰りマタギに戻ればいい…。そのときの禎二郎は、そんなふうに考え、新しい世界へ夢を膨らませていたのだった。

第二章 初恋

禎二郎が山を下りて、会津若松の神保修校長の自宅に世話になったのは、それから間もなくのことだった。
禎二郎は、神保宅に下宿させて貰う代わりに、県立会津中学校の給仕として働かせて貰うことになった。
取り敢えず、小学校を卒業した形になった禎二郎は、会津中学校の給仕として働きながら、会津中学の夜間部に入学した。これができたのも、神保校長が禎二郎の卒業を認め、進学を取り計らってくれたからだ。
試験は、昼間部の生徒と同じ問題が出され、禎二郎は満点に近い高得点を取った。これなら、昼間部でも上位の成績で入学できた…と言われたが、成績順位に興味のなかった禎二郎は、曲がりなりにも中学校の生徒になれただけで満足だった。
禎二郎自身は、祖父弦斎、父弦一郎と同じマタギとして磐梯山の山中で一生を終えるつもりでいたのだが、何の運命か、夜間と言いながらも中学校に通うことになった。
弦斎や弦一郎が反対することなく、神保校長の申し出を有り難く受けたのだった。
母咲は、禎二郎が家を出ることになって少し寂しそうではあったが、それでも、禎二郎のために着物と袴を誂え、見よう見まねで会津中学の制服まで拵え、街に出ても恥ずかしくないだけの準備をしてくれた。
家を出るとき、咲は、禎二郎をそっと抱き寄せ、頑張るように…と囁きながら、何度も禎二郎の頭を撫でた。そして、それが暫しの別れとなった。
禎二郎が家を出るときには、弦斎や弦一郎は既に山に入っており、昨夜の夕飯時に別れを告げた。
弦斎は、
「おまえが巣立つ日が来ただけのことじゃ。しっかりやれ…」
そう言った。
弦一郎は、
「まあ、こっちのことは気にせず、勉学に励め…」
そう言って、禎二郎に一振りの脇差しを手渡すのだった。
それは、会津兼定の名刀で、弦斎が大切にしている業物だったが、禎二郎が弦斎の顔を見ると、いいから、持って行け…というように頷いた。この刀は、その後も禎二郎の守り刀として肌身離さず持ち歩くことになる。
中ノ沢の武は、そのまま高等科に進み、卒業すれば、家の商売を継ぐために商業学校への進学を考えているようだった。
会津若松に出る前に、中ノ沢の万葉亭を訪ねた。姉の千恵に別れを言うためである。既に先月、娘の優を産んだ千恵は、禎二郎が訪ねると、
「禎二郎。頑張るんだよ…。そして、手紙だけはまめに出しな…。ここ宛てなら、間違いなく父さんや母さんに届けるからな…」
そう言って、こっそりと一円札を握らせてくれた。本当に優しい千恵であった。
そうして、禎二郎は一人山を下り、中学生となったのだった。

神保校長の家には、奥さんの幸子と校長の母の光子がいたが、12歳の禎二郎を見ると、二人とも「よろしくね…」と笑顔で歓迎してくれた。中学生と言っても、5年生と1年生では年齢も違い、その容貌も大きく変わる。
マタギをして暮らしていたという少年…という話だったが、禎二郎は礼儀正しく、咲が誂えてくれた着物と袴は新品で、そこに日本の刀でも挿していれば、間違いなく伊東禎二郎ではなく、白虎隊の伊東悌次郎そのものに見えただろう。
その凜とした姿に幸子と光子は驚き、自然と頭を下げるのだった。
そして、禎二郎には、一階の離れの六畳の和室が与えられた。
禎二郎にとって、初めての下宿生活だったが、特に家の用事を言いつけられることもなく、いつも丁寧で温かく接してくれることが救いだった。
中学校の給仕の仕事は、禎二郎にとっては、何と言うこともない楽な仕事ばかりだった。
学校の草刈りや校内の掃除、ストーブの用意や弁当配り…。
職員室の掃除や整頓は、本当は職員自らがやるべき仕事なのだが、どうも、下界の人間はズボラな奴が多いのだろう…。そのまま放置しておくので、掃除も行き届かず、常に職員室は乱雑としていた。
中学校の職員室は、男所帯だから、何にも出来ないのかも知れんが、山中に獣を追って命のやり取りを学んできた禎二郎にとって、「準備を整える」は、マタギの基本中の基本なのだ。
銃や小刀の手入れ、衣服の点検から草鞋の用意まで、マタギはだれかに任せると言うことはない。もちろん、それを忘れて遭難するマタギはいたが、用意周到なマタギほど用心深く、いちいち自分で準備し、点検をするものなのだ。
それに比べれば、下界での仕事など「優雅」なものである。
周囲では、みんなが「軍隊は厳しい…」と騒いでいたが、決められたことを淡々とするだけの社会が厳しいはずがない。訓練が終われば、何もしなくても飯が食えるんだから、文句はあるまい。
学校とやらに来てみて、数日間で、そんな緩い社会に気づいていた。
こんなの、山の暮らしからしてみれば軽作業に入ることばかりだった。
禎二郎の他に二人の給仕と一人の年寄りの用務員がいたが、動きが緩慢で筋肉と頭を使わない。いつも不平不満を口にして、仕事も雑でいい加減な人間たちだ。ただ、人はいい。
お人好しで、禎二郎が進んで面倒なことも引き受けると、「ありがとう…」と喜んでくれる。
禎二郎は、山の中で感謝の言葉を言われたことがない。弦斎や弦一郎からは、いつも叱責の言葉ばかりだった。時には、厳しく怒鳴られ、失敗すると殴られもした。
一人前のマタギになるための修行は厳しく、体中に傷は絶えなかった。それでも、頑張れたのは、二人が禎二郎の肉親だからだ。
二人とも、そうした形で禎二郎を可愛がり、愛していてくれた。それがわかるから、禎二郎は、傍から見たら辛いだろう…と思われる修行に耐えたのだ。
しかし、それもいつか習慣となり、体がそれに順応するものだ。
人間とは、鍛えれば鍛えるほど、強靱になるものだ…ということを禎二郎は既に悟っていた。だから、下界の人間は甘いのだ。
禎二郎は、朝から晩まで休みなく働き、便所掃除からゴミの焼却まで、大変そうな仕事は何でもこなした。
夕方7時になれば、夜学の教室が開くので、勤労少年たちと一緒に勉強もしたし、みんなと雑談して楽しいひとときを過ごした。勉強する時間こそが、禎二郎の休憩時間だった。
よく、教室の仲間からは、
「朝から晩まで働いて、大変じゃないのか?」
と尋ねられたが、こんな楽で楽しい時間はなかった。もし、この仕事がなかったら、禎二郎は、即刻、山に戻っていたことだろう。この体は、動かしていなければ、死んでしまうのだ。
禎二郎の筋肉は、片時も休むことを欲しなかった。寝ているときでさえ、神経は獣の出現を察知すべく目覚めていたし、筋肉は固く引き締まったままで弛緩することがない。マタギにとって油断こそが、命取りなのだ。だから、どんな雑用でも禎二郎は手を抜くことがない。それが、一人前のマタギになるための修行なのだ。

そんな禎二郎にも、心を寄せる娘ができた。
それは、神保の隣家にある酒造家の一人娘の大木雪江だった。
雪江は、禎二郎が神保家に下宿したころは、会津女学校の2年生になっていた。
禎二郎とは二つ違いの上級生だったが、背は禎二郎の方が高く、彼女は、小作りの幼い顔立ちのためか、禎二郎の方が年上に見えるくらいだった。
彼女の家は、銘酒「八重桜」の老舗で、神保家に帰ると、すぐ側から清酒のいい香りがしたものだ。
磐梯山の我が家でも、時には、いただき物として、この「八重桜」の純米酒を弦斎や弦一郎が飲んでいることがあったが、酒にうるさい弦一郎も、
「いやあ、この八重桜の純米酒は、間違いなく銘酒だな…」
と、何杯もお替わりするので、よく弦斎と喧嘩になっていた。
「おい、弦一郎。そりゃあ、儂が貰った酒だ。そんなに飲むんでねえ!」
と、こちらも赤ら顔で怒るので、母の咲が、
「まあまあ、いい大人が、子供みたいに…」
そう言うと、半分ほどに減った一升瓶を抱えて持って行ってしまうのだ。
そのくらい「八重桜」は旨かったらしい。
雪江は、活発な娘で、女学校では長刀の選手として活躍していた。
禎二郎は、直接、試合を見たことはなかったが、時折、家の前で長刀の木刀を振っていることがあった。
この二人が、最初に知り合ったのも、春とはいえ、まだ寒い日の朝のことだった。
禎二郎は、給仕のために朝6時には、家を出なければならなかった。
まあ、早起きは昔からの習慣で苦ではないが、まだ、朝日が昇ったばかりの時刻に外に出る者などいない。それでも、身支度を調えると、学校に行く準備をして表に出た。
朝、中学校に行くときは袴を履いて行き、夜間の中学の教室に入るときは制服に着替えるのだ。
着物は会津木綿の丈夫な生地で咲が縫ってくれたもので、弦斎や弦一郎のお下がりも数枚あったので、困ることはなかった。また、制服は咲のお手製で、灰色が少しくすんでいたが、夜の教室なのでわからなかったし、必ずしも制服を着用しなくてもよかったようだ。
それでも、禎二郎は律儀に咲の手縫いの着物や制服を常に愛用していた。それに、針仕事も出来るように仕込まれていた禎二郎は、手先も器用に出来ていた。
確かに会津の春はまだ遠いが、磐梯山の山中に比べれば、会津若松の街中は、天国のような暖かさだった。
禎二郎は、さっさと着替え、一人台所で冷飯に冷汁で朝食を済ませると、いつも走って2㎞先の学校を目指すのだった。雨の日は、雨合羽を着て、それでも走る。
禎二郎の走りは、獣道を想定しているので、腰が低く、あまり腕を振ることはない。通常は、背に銃を背負っているし、腰にも鉈や小刀をぶら下げている。ときには、獲った獣を背負っていることもあり、とにかく、普通の走り方をしたことがない。それでも、禎二郎の体は身軽だったし、走力も並の中学生では、勝てないだろう。そんな毎日を送って、しばらく経ったころだった。
さあ、いくか…。と走り始めようとしたとき、声をかけられた。
「おはよう…。」
驚いて、後ろを振り返ると、そこには、稽古着を着た娘が立っていた。それが、雪江である。
「神保先生のところに下宿している伊東さんでしょ…。私、隣の酒屋の娘で大木雪江…。会津女学校の3年です」
「あなたが、神保先生のところに来たのは知ってるよ…。家の人が話していたもの」
「あなたって、何でもできるんですってね…。すごいなあ…」
「それに、あなた…、マタギなんでしょ。その上、頭もいいし、それで、神保先生が下宿させて面倒を看ているって話よ…」
禎二郎は、「何だ、年上の女か…」そう思いながら、適当にあしらおうと、
「はい。伊東禎二郎です。今は、会津中学夜間部の1年です」
「昼間は、学校の給仕をしているんで、忙しいのでこれで…」
そう言うと、禎二郎は、雪江の脇をすり抜け、とっとと学校に向かって走り出した。すると、後ろから、雪江の声が聞こえた。
「ねえ…。今度、一緒に稽古をしてよ…」
声を聞いて、後ろを振り向くと、雪江が長刀を持ちながら、こちらを見ているのがわかった。
最初は、何を言っているのかよくわからなかったが、後で、長刀の選手だ…と聞いて、その意味を理解した。
会津地方は、今でも戊辰戦争の影響を強く残していた。
会津のサムライたちは、戊辰戦争後、斗南藩という下北藩に移封されたので会津の地を去って行ったが、地元に帰農したサムライも多く、明治になると県の下級役人や警察官に採用された者が多かった。それに、自由民権運動に加わった者もおり、新政府に対して快く思わない者が多かったのだ。
だから、会津の人間は、会津松平家の士風を受け継ぎ、会津連隊は白虎連隊という呼称すらあったくらい精強な部隊だった。
そのためか、未だに剣の修行をする人間は多く、女も戊辰戦争由来の娘子隊に倣って長刀を身につけるのを嗜みにしていた。
だから、会津の女は軟弱な男を嫌い、強い男を求めているとも言える。雪江の血も、そんな会津の女の血が流れているのだろう。
マタギの世界から普通の人間の生活に入った禎二郎は、当初は戸惑いもあったが、次第に神保家の生活や学校の仕事にも慣れ、勉強の面白さも実感できるようになった。それでも、マタギの暮らしに戻ることを考えると、こののんびりとした生活で自分を甘やかすことだけは出来なかった。
ただ、これまで育ててきた野性の勘や動きを失いたくなかった禎二郎は、それを仕事でカバーするしかなかった。それは、逆に禎二郎自身を苦しめることになった。
これまで自然に会得していた技や勘を、ここでは、敢えて自分で意識しなければならないのだ。
こんな穏やかな生活に慣れてしまえば、それはそれで楽だろう。だが、それでは、二度とマタギには戻れない。マタギの暮らしを失えば、禎二郎には何もないのだ。それは、若い禎二郎にとっては恐怖以外の何ものでもなかった。
禎二郎は、神保家でも、家僕のように働き、そして給仕として学校の仕事もこなした。神保家の人たちは、そんなことまでしなくていい…と言ってくれたが、禎二郎には禎二郎の事情がある。
禎二郎は、頭を下げながら、神保家の仕事も進んでこなしていた。それに、こんなことで、毎日飯を食うことが出来、給金まで貰えるとあっては、申し訳なさの方が先に立った。
給仕の仕事を終え、夜学で勉強した後に神保家に帰ってからも、雑用を見つけてはせっせと働いた。そして、体を遊ばせることだけはしなかった。
それに、いつの間にか一回会っただけの雪江のことが、頭から離れなくなっていた。それは、あの夜の露天風呂で見た姉千恵の姿と重なって見えた。
こういう感情だけは、禎二郎は男として正常だったのかも知れない。そして、その雪江との約束も、そう遠くない時期に果たすことが出来ることになった。

雪江とあった日からひと月近く経った日曜日。
学校に行かない日も、禎二郎は、同じように起床し、表に出て体を動かすことにしていた。
もちろん、家の玄関前の掃除やゴミ出し等もあったが、あまり朝早いのも近所迷惑になる。だから、日曜日は、特に気をつけて、自分だけの時間に充てるのだ。
その日は、朝から快晴で、初夏の清々しい朝だった。
禎二郎が、稽古着を着て外に出ると、そこに雪江が待っているではないか。
「おはよう…」
その声は、屈託なく、彼女も長刀の稽古着を着て禎二郎を待っていたようだった。
「ほら、この間の約束よ…」
「ああ、…」
禎二郎は、体をほぐしながら、「俺について来るなら、いいですよ…」そう言うと、雪江はにこっと笑い、同じように体をほぐし始めた。
雪江の体は、武術を使う人間らしく、体は一見華奢に見えるが、細く引き締まり、すらっと伸びた白い裸足は、女っ気を知らない禎二郎には、あまりにも眩しすぎた。それに、腰回りや臀部は、やはり成人女性特有の丸味を帯び始めており、少し離れていても、マタギで鍛えた禎二郎の嗅覚は、女性特有の肌の香りを感じ取っていた。
雪江に気づかれるはずもないのだが、それだけでドギマギする自分がいることに禎二郎は戸惑っていた。それに、若い女をジロジロ見るわけにもいかず、空や遠くを見ながら、
「じゃあ、行くよ…」
そう言って、いつものように走り始めた。
すると、雪江が後ろから声をかけてきた。
「ねえ、伊東さん。ちょっと遠いけど、阿賀野川の堤防に行こうよ…」
「ああ、わかった…」
そこは、雪江の練習場所なのだそうだ。
禎二郎は、雪江に合わせるように前後に適当な距離を取りながら走り、何気なく話をし始めていた。
それによると、雪江は、女学校の長刀大会で県3位になった実績があり、今年は優勝を狙っているとのことだった。
禎二郎のことは、早朝から袴姿で走り始めるので、最初は驚いたが、すごく俊敏なので驚いたらしい。
早朝の若松は、静かで街道に出ても人の姿を見ることは稀だった。この日は、禎二郎も雪江も木刀を持っていた。
長刀の稽古には、実は木刀も使うのだ。
会津の女は、長刀を習う際に小太刀も学ぶのだ。男が、槍を学ぶためには、基本となる剣術を身につけなければならない。長刀は、遣いこなせば太刀以上の武器となるが、先端に重心がかかっているため、振り回すにもかなりの腕力が必要となるのだ。
禎二郎も咲や千恵との稽古で、長刀を使ったことがあるが、重心が先にあるために振った後に隙が生まれやすいのだ。
だから、長刀の遠心力に負けない腕力と常に態勢を整えるだけの体幹を鍛えなければならなかった。
女には骨盤を強くする働きがあるとかで、武家の娘には奨励されていた。しかし、いくら男とはいえ、油断すれば、その大きな刃で鎖骨ごと切断されることもある。
この雪江が、どのくらいの遣い手かはわからないが、男に挑んでくるだけに自信は相当にあるのだろう…。禎二郎は、そんなことを考えながら、雪江の走りを見ていた。
確かに、相当に修練を積んでいるらしく、体のぶれはないが、まだまだ筋力に課題があるように見えた。

堤防に着くと、先にある松並木の終わりが目標地点になった。
そこまで走ると、少々汗ばんできた。
雪江が側によると、初夏の香りなのか…と匂いの元を辿ると、それは、雪江の肌から流れる汗の匂いだった。ほのかに甘く、禎二郎の脳髄にまで届くような甘美な匂いは、あの夜の千恵の香りとは違う甘美さがあった…。
そんな妄想を浮かべていると、雪江が小さな手ぬぐいで汗を拭き取り、禎二郎に声をかけてきた。
「さ、伊東さん。一手、お手合わせを願います…」
「はい、いつでも…」
まさか、禎二郎もこんなに若い娘と稽古をしようとは思わなかったが、あちらは長刀の名手で、こちらはマタギ。おかしくはないが、まあ、稽古になるかな…と考えた禎二郎は、顔を近づけてくる雪江の要請に応じることにした。
それに、これ以上、側に寄って来られても困る。
禎二郎は理性で自分を保っているが、既に男としての機能は成人並みであり、男としての用は立つのだ。
それに、今日は袴なので、雪江に失礼はないだろう。
どうも、雪江は、禎二郎を男としてと言うよりも、年下の男子のように見ているのかも知れない。
禎二郎の姉の千恵も同じようなところがあった。
あの夜も風呂を覗かれたのに、「なんだ、禎二郎か?」くらいにしか見ておらず、その後もまったく気にも留めていなかったようだ。
禎二郎は、今でもあの裸身を思い出しては、男としての感情を昂ぶらせていると言うのに、女というものは、本当にしようがない。無神経というか、こればかりはどうしようもないことだった。
禎二郎は、
「はいはい、じゃあ、やってみましょう…」
なるべく、雪江に近づかないように、適当に返事をすると、林の中に入り、木刀を構えた。
雪江の構えは、やはり小太刀の構えである。
右手に木刀を出し、左手は腰に溜めてある。
林の中は、草地で学校の稽古場程度の広さはあった。
初夏の風が、一汗をかいた肌に心地よい。それに、風下に立つ禎二郎の鼻腔を雪江の肌の匂いが風とともに入ってくる。
禎二郎は正眼に構えると、少し腰を落とした。
禎二郎の剣は、マタギで鍛えた獣を仕留めるための剣である。獣はどこから襲ってくるかわからない。そのために、全身に神経を張り詰め、どうにでも動けるように待つのだ。だから、こちらから仕掛けることはない。
雪江は、ジリジリと間合いを詰め、禎二郎の懐を抉ろうと気持ちを集中しているのがわかる。これだけでも、並の遣い手ではない。
禎二郎が、「来る!」と読んだ瞬間、雪江が飛び込んで来た。
禎二郎は、咄嗟に木刀を小太刀目がけて跳ね上げると、カーンという音とともに、雪江の小太刀は宙に飛んだ。
その瞬間、禎二郎は雪江の体を地面に倒し、木刀の切っ先を雪江の首筋に突き刺した…かに見えた。
雪江は、声も上げることが出来ずに、その場に気を失っていた。
稽古着の胸元が開き、膨らみ始めた白い肌が禎二郎の目に飛び込んできた。
「まあ、こんなもんだろう…。それにしても無謀なことを…」
そう口にすると、雪江の体を起こし、気を入れた。
ん…という声を発して雪江は、意識を取り戻した。
その瞬間は、虚ろな眼をしていたが、次第に自分の置かれた状況がわかったらしく、眼を見開くと叫び声を上げた。
キャーッ!
そう言うなり、禎二郎を突き飛ばしたのだ。
それは、女にしてはもの凄い力で、さすがの禎二郎も強く胸を突かれ息が止まるほどだった。
雪江は、慌てて胸元を掻き合わせると、顔を真っ赤にして下を向いてしまった。
確かに、気を失った雪江に気を入れて確かめようとしたために、禎二郎の顔が雪江に近づいたことは事実だが、さほどに騒がれると、禎二郎も困惑してしまった。
「な、なにも、そこまで慌てなくても…」
禎二郎が文句を言おうとすると、雪江は、「ご、ごめんなさい…」と言ったまま、走り去ってしまったではないか。
禎二郎にしてみれば、頼まれて稽古をしただけなのに、この扱いはどういうことなんだ…? と不満だったが、まあ、仕方がない…と諦めるのも禎二郎らしかった。
山の狩りも同じようなことが起こる。
仕留めたと思った鹿が、意外にも気絶だけしただけで、気がつくなり後ろ足で蹴り上げ、逃げていく姿を何度も見たことがある。
意外と弱い動物は、鉄砲の音にさえ敏感で気を失うことが多いのだ。ウサギなどはそれだけで死ぬこともある。そう考えると、雪江もまるで会津の「雪ウサギ」のようだと思う禎二郎だった。
雪江との稽古は続かなかったが、いい稽古場を見つけた…と川沿いの林は、マタギの稽古をするには絶好の場所だった。
禎二郎は、そこで一時間ほど木刀を振り、下宿に戻っていった。

下宿に戻ると、神保の家に入る角で雪江が一人ポツンと待っているではないか。禎二郎が駆け寄ると、雪江が慌てて、
「伊東さん。ごめんなさい…」
「私、大変、失礼なことをしてしまいました…。お詫びのしようもありません」
そう言って涙ぐむではないか。
禎二郎は、慰めるように、
「いや、俺の方こそ…。申し訳なかったです」
「あなたが結構な遣い手なので、こちらも反射的に動いてしまいました。驚かせて申し訳ありませんでした…」
そう言って、素直に詫びたのだった。そして、禎二郎は、雪江が忘れていった木刀を手渡した。

それから、雪江は、休日になると禎二郎を待ち構え、ひとしきり禎二郎の朝稽古を眺め、それから一緒にあの林の中の稽古場で、長刀の稽古を行った。
時には、山から持ってきた太い樫を二人で振り、禎二郎は親身になって雪江の技の向上を助けたのだった。しかし、男女が二人きりで待ち合わせ、行動を共にすれば、男女の感情が湧くのも自然の道理でもあった。
本音を言えば、禎二郎もいつの間にか、雪江に会うことを楽しみにするようになっていた。そして、雪江の香しい匂いを嗅ぐのも、密かな楽しみになっていたのだ。
ただ、禎二郎が彼女に教えられるのは、正式な剣術ではない。
禎二郎が教えられるのは、しっかりと足腰を鍛え、体幹を鍛えることだけだった。これは、禎二郎が弦斎や弦一郎から教わったことで、寒い日でも足袋を履かず、重い木刀を振り、どんな険しい坂道や川の中でも動けるまでになっていた。そのためには、足腰を鍛え、足の指や手の指一本、一本まで鍛え上げるのだった。
そうしているうちに、どんな態勢になっても剣を振るうことが出来るようになるのだ。それは、長刀でも同じことだった。
その技を禎二郎は雪江に伝授した。しかし、それは、彼女のこれまでの技を一変させることになり、禎二郎にも「これでいいのか…?」という戸惑いはあったが、雪江は、それを素直に受け入れた。
雪江の技は、数ヶ月もすると変わり始め、体つきも細身ではあったが、全体の均整が取れ、腰が安定してきたために、しっかりと長刀を最後まで振り切ることができるようになっていた。
これなら、全国大会に出ても、上位入賞は間違いなしだ…。そんな自信が付き始めていた。

二人のそんな関係が半年近く続いたある日。二人の秘密の稽古は急に途切れた。
禎二郎と雪江のことが、近所の噂になり、雪江の両親が心配したからである。
ある秋の朝、雪江は、いつもの稽古着ではなく、普段着で表に出て来た。
禎二郎が声をかける前に、雪江は、
「禎二郎さん。ごめんなさい。もう、教えて貰うのは無理になった…」
その顔には、涙の跡が見えた。
散々泣いたのか、眼が赤く腫れ、いつもの可愛い雪江の顔ではなかった。
禎二郎は、そうか…、やっぱりな…と思ったが、口には出さず、
「ああ、いいよ。わかった…。稽古は俺自身のことだから…」
そう言うと、禎二郎は黙々と素振りを始めた。
心の中では、甘酸っぱい感情と心臓が締め付けられるような苦しい思いがあったが、それを知られまいとできるだけ平静を装い、重い樫の棒を振った。
そこには、何かを諦めなければならない悔しさと寂しさが込められていたが、雪江がそれをどう感じていたかは、若い禎二郎には分からなかった。
雪江は、それをしばらく見ていたが、家の中から雪江を呼ぶ声がすると、小さな声で「はい…」と返事をして家の中に戻っていった。
小さなコロンという雪江の履いた下駄の音が耳に残った。
きっと、雪江は、禎二郎とのことを咎められると、親に反論したに違いない。
「長刀の稽古をしていただけだ…」と。
だが、心のどこかで、禎二郎を慕う気持ちがなかったわけじゃない。
禎二郎がこれほどに思い、慕っているんだから…。雪江にその感情がなかったはずがないのだ。
いつ頃からか、彼女は、よく、朝食用にとおにぎりを握ってくれた。
堤防沿いの林の中の稽古場に行く前に、途中の神社の片隅で、そのおにぎりを頬張った。
彼女の小さな手で握ったわりに、それは大きく、中には、自家製の梅干しが入っていた。たまには、それがおかかに変わり、時には、ネギ味噌になった。
そして、水筒にお茶を詰めて来て、コップに注いでくれた。
何だか、ままごとをしているようだったが、そんな経験の乏しい禎二郎には嬉しい施しだった。だが、そんな風景もいつかは、人の目にとまる。
一度くらいなら噂にならなくても、二度、三度と続けば、噂にならない方がおかしい。
禎二郎には、よその土地でも彼女には地元なのだ。
そんな噂が、雪江の家族の耳に入るのも時間の問題だった。
雪江の母親は、出来た人だ。
禎二郎のことも知っており、時々、禎二郎に会うと、
「伊東さん、すみません。雪江の無理を聞いて下さって…」
と頭を下げた。時折、神保家を訪ねてきては、酒粕や甘酒、清酒の一升も置いていった。
あるとき、禎二郎に声をかけて、
「伊東さん。私の実家は、伊東さんと同じ白虎隊縁の飯沼貞吉の家なのです…」
「貞吉は、蘇生して先年亡くなりましたが、私は、貞吉の姪に当たります」
「伊東さん。娘をよろしくお願いします…」
と頭を下げられたことがある。
だから、雪江が禎二郎と仲良くすることも、あの母は、許していたのだろう。しかし、近所の噂になってしまった以上、どうすることもできない。
それに、噂が出れば、禎二郎自身もここに居づらくなることを考え、母親は雪江を説得したのだと思う。
雪江も分別のある娘だ。
この田舎の会津で、男女の噂は許されない。まだまだ、武家時代の風習が残っているのだ。
当時の禎二郎に、深い考えは浮かばなかったが、後で考えてみれば、きっとそうだったのだろう…と思う。
この後、禎二郎が雪江と直接話をする機会は、二度と訪れることはなかったが、禎二郎が海軍の予科練に合格して、会津を出る日の朝、雪江が禎二郎のところに来て土津神社のお守りをそっと手渡してくれた。
雪江は、そのとき尋常小学校の教師をしていて、間もなく結婚するという話を禎二郎は聞いていた。
雪江は、
「禎二郎さん。海軍に行くんだ…。さすがね。禎二郎さんなら、きっと立派な軍人さんになれるよ…」
そう言って、禎二郎にお守りを手渡した。
禎二郎は、
「なんだ、わざわざ、貰ってきてくれたんですか?」
そう言うと、雪江は、
「ううん。私の勤める学校が土津神社に近いから…。ついでに…」
「でも、死なないでね…」
そう言うと、一瞬、何かを思い詰めたような顔をして、禎二郎に抱きついてきた。泣いているようだった。それでも、雪江は、そのことだけを言うと、すぐに離れ、キリッと顔を上げた。眼には涙が光っていた。
禎二郎は、雪江に、
「ああ。簡単には死なんさ…」
「それより、雪江さん。幸せにね…」
「ええ、彼は東京師範の教師なの…。叔父の紹介でお見合いしたのよ…とっても、いい人よ」
「じゃあ、東京に行くんだ?」
「式を済ませたら、そうなる…」
「そうか…」
禎二郎は、それ以上何も言えなかった。
雪江が、胸に飛び込んで来たとき、昔嗅いだであろう雪江の髪の匂いを思い出していた。
本当は、「俺の嫁になってくれ…」と言いたかったが、これから軍人になろうとしている禎二郎に、そんな勇気はなかった。
雪江は、しばらく禎二郎をじっと見ていたが、ふっと息を漏らすとペコリと頭を下げ、家の中に静かに戻っていった。
禎二郎が、雪江を見たのは、それが最後になった。
後に、雪江の消息を知ったのは、それから数年が経ち、母からの手紙によってであった…。

第三章 予科練

禎二郎が100倍を超える難関の試験を突破して海軍甲種飛行予科練習生になったのは、昭和14年の春のことだった。
海軍ではこれまでの予科練習生を「乙種」として、従来どおり、小学校卒業程度の少年たちの飛行兵養成制度を維持したが、飛行機の需要の高まりとともに中堅指揮官の養成が急務となり、中学校4年生修了程度の者たちを飛行兵に養成する制度として「甲種」を設けた。
少年たちは、海軍兵学校を受験することも出来たが、「即、飛行機乗りになれる」という宣伝が功を奏し、全国から飛行機に憧れる年長の少年たちが志願してきたのだ。そして、禎二郎は、この甲種に志願して晴れて合格したのだった。
禎二郎たち第2期海軍甲種飛行予科練習生が入隊したのは、茨城県の霞が浦航空隊だった。入った瞬間に水兵が着るセーラー服を着せられ、「四等飛行兵」を命じられた。
同期は200名だったが、教員の話によると、
「200名全員が飛行機の操縦が出来ると思うな!」
「ここから、再度、適性を見極め、適性なしと判断された者は、その階級のまま他の隊に異動させる。また、操縦は、全体の3割程度だ。後は、偵察要員となるから、そのつもりでいろ!」
というお達しがあった。
禎二郎たちは、飛行機乗りになれる…と聞いて志願してきたのに、また、絞られるんじゃあ、何のために入隊したのかわからん…という者もいた。それに、兵学校の受験を見送って甲種に志願したのに、この水兵服の「ジョンベラ」では、田舎に帰れん…。と嘆く者もいて、ちょっとした騒動になっていた。
禎二郎にしてみれば、どちらでもいい話ではあったが、多くの者は、かなりの難関を潜って選ばれたのに四等水兵では、海軍兵学校との差がつきすぎると感じていた。
海軍兵学校は、やはり中学4年修了程度の試験が行われ、兵学校生徒に採用される制度だった。それに、階級は準士官待遇で、制服も七つボタンに短剣と格好がいい。それに比べて、学力は同程度なのに、こっちは四等水兵で一番下っ端の階級では、納得がいかない…と訓練初日から波乱含みだった。
それは、先輩の1期生も同じだったらしく、後々、海軍全体の問題にまで広がっていく大問題になるとは、そのときの禎二郎には考えも及ばなかった。そんなことより、操縦適性の方が気になって仕方がなかった。
予科練は、霞が浦航空隊の兵舎を使っており、訓練内容は海兵団と同じだった。海軍兵としての基礎を叩き込まれ、各10人ずつに分けられた「班」で生活を共にして、訓練に励むのだった。
禎二郎は、甲飛2期の期長と第1班の班長に指名された。
要するに、禎二郎が2期の首席で入隊したということになるのだそうだ。
禎二郎たちの上官は、間野という一等兵曹で、教班長と呼ぶことになっていた。間野教班長は、航空整備が専門の整備兵で、戦闘機や爆撃機のエンジンを担当してきたベテラン兵曹だった。それに、一等兵曹の上は兵曹長なので、間もなく進級すれば、准士官となり、海軍特務士官となるのだ。
そのせいか、練習生たちを鍛えるにも理路整然とした口調で、無闇に殴ることもなかったが、他の班では、連日のようにバッターと称する木の棒で尻を叩かれるのが常だった。
練習生の先任である禎二郎に特に眼をかけてくれて、他の教班長や教員に睨まれても、必ず、声をかけ、
「うちの先任練習生に、何か文句があるのか?」
「あるなら、俺を通して貰おう!」
と言うので、他の下士官では、ベテラン兵曹に文句も言えず、すごすごと引き下がるのだった。そのためか、禎二郎たち1班の班員は、非常に恵まれた立場にいたようだった。
だが、他の班では、連日のように「罰直」と称する体罰が横行し、曲がりなりにも中学校まで出た少年たちのプライドを酷く傷つけることになった。
今考えれば、あの教班長たちも、同じような目に遭って下士官まで昇進したという思いがあるのだろう。「軍隊というところは、こういうところだ…」という見せしめや学歴が高い少年たちへの嫉妬心が、体罰を常態化させたのかも知れない。
そんな予科練での基礎訓練が一年をかけて修了すると、いよいよ中間練習機を使用しての飛行訓練に入った。
禎二郎の指導教員は、工藤二等航空兵曹で、中国戦線から戻ってきたばかりの下士官だった。
工藤兵曹は、ベテラン搭乗員らしく、合理的な思考の持ち主で、禎二郎の操縦の癖をすぐに見抜き、
「おい、伊東練習生。貴様は、何をやってきたんだ?」
「腕っ節も相当に強いし、勘もいいが、普通の中学生じゃあるまい?」
最初の同乗飛行で、早速、そんな言葉をかけてきた。
禎二郎が正直に話をすると、
「やはりな…。貴様の操縦には、野性の勘のようなものが感じられる。上手くいけば、相当な飛行機乗りになれる…。頑張れ」
そう言って、励ましてくれた。
確かに、禎二郎は、操縦桿を握った瞬間から、「これは、面白い…」と感じたくらいだったから、やはり飛行適性があったのだろう。そして、半年ほどの訓練を受けると、いよいよ、予科練の「予科」が取れ、海軍飛行練習生として、実用機課程に進むことになった。
実用機課程は、隣の百里航空隊で行われた。
ここでは、主に96式戦闘機を使用しての訓練だった。
最初のうちは、単座戦闘機で、速度の速さに戸惑いもあったが、2回ほどの単独飛行をしてみると、その操縦のしやすさに驚いた。ここでの訓練は、主に、戦闘機の特殊飛行や射撃訓練に費やされた。
昭和15年の秋から冬にかけて、禎二郎たちは、操縦技術を磨いていったのだった。
中国との戦争は始まっていたが、国内は、まだまだのんびりムードで、禎二郎たちも、飛行兵長から三等航空兵曹に昇進していた。
この期間に、禎二郎の飛行時間も500時間を超え、ひと通りのスタントも覚え、射撃も格段に上手くなっていた。
飛行兵長になったころからは、予科練時代のように殴られることも減り、操縦技術も上達していった。
こうして禎二郎の練習生時代が終わり、いよいよ実施部隊へと配属されることになるのだった。

第四章 初撃墜

昭和16年1月。いよいよ、禎二郎の実施部隊への配置が決まった。それは、中国の漢口にいる鹿屋航空隊戦闘機隊だった。
ここは、日本でも一番古い航空隊として知られ、主に陸上攻撃機(いわゆる中攻)を主力とする爆撃機部隊だったが、禎二郎は、その中攻を護衛する戦闘機隊に配属された。
乗機は、日本海軍が世界に誇る96式艦上戦闘機である。
96式艦戦は、後から乗ることになる零式艦上戦闘機に比べて小型で、速度も時速400㎞、武装も7.7粍機銃二門という軽戦闘機だった。しかし、当時としては、すべて金属製の戦闘機で、蝶のように飛び回ることのできる飛行機として、既に中国空軍を圧倒していた。
禎二郎は、飛行機乗りとして、この戦闘機に魅了されていた。
どちらかというと、複葉機の中間練習機に似ていて、操縦がしやすいのだ。それに、風防がないので、風をもろに受けるのも飛行機乗っているという感じがして、禎二郎には、ぴったりした飛行機だった。
漢口に着任するなり、連日、禎二郎はこの96式艦戦に乗り、哨戒飛行などを買って出ては、飛行時間を稼いでいた。
隊長からは、
「おいおい、伊東。飛行機に乗るのが嬉しいからって毎日飛んでどうする?」
「まったく、しようがない奴だ…」
そんなことも言われたが、禎二郎は、早く一人前の操縦技術を身につけたくて仕方がなかったのだ。
その中で、黒岩という一空曹に出会った。
禎二郎の隊の熟練搭乗員だったが、ある日、禎二郎に声をかけてきた。
「おい、伊東。おまえ、甲種予科練の首席だそうだが、どうだ、一度、俺と模擬空戦をしてみるか?」
そう聞かれて、禎二郎は、
「はい。黒岩空曹…。でも、よろしいんですか?」
「ああ。ところで、おまえ、マタギだってな?」
「は、はい。磐梯山の山中で、家はマタギをやってます…」
そう言うと、黒岩空曹は、クスリと笑い、
「そうか、実は、俺の家も木曽の山中で、木樵兼マタギをやっとるんだよ…」
「一度、おまえと話がしたいと思ってな…」
自分以外に、マタギの出で飛行兵になった人間がいたことに驚いたが、それでも、同業者から教わるなんて、滅多にあることではない。
禎二郎は喜んで、模擬空戦をお願いしたのだった。

模擬空戦は、三日後の午後に行うことになった。
もちろん、分隊長にも許可を貰い、若い飛行兵の訓練という形で行われた。
漢口には、禎二郎以外にも3人の同期生がいたが、それぞれに模擬空戦が予定されており、禎二郎が、その一番目に行うことになった。
96式艦戦は、禎二郎たちのように既に飛行時間700時間を超えるような飛行兵には、扱いやすい機体だった。ただ、未だに実戦経験がない。
爆撃機の護衛任務に就くのが主務だったが、漢口は、ベテラン搭乗員が多く、禎二郎たちのような若年兵は、基地周辺の哨戒飛行が主で、まだ、同行させて貰えなかった。
おそらくは、この模擬空戦の結果で、搭乗割りに入れて貰えるのだろう…。そう、同期生の久保や大西と話をしていた。
久保や大西も相当な飛行時間を持ち、甲種2期でもトップクラスの成績で予科練を卒えた男たちだった。

ここ漢口の冬は寒い。
まして、風防のない96式艦戦は、余程の防寒をしていても、上空3000mは、まるで冷凍庫に入れられたようだった。それでも、戦争だから仕方がないのだが、この寒さだけは、会津育ちの禎二郎にも少し堪えた。
午後2時が過ぎたころ、2機の96式艦戦が滑走路に引き出され、整備員による飛行準備が整えられていた。
禎二郎の乗る「K-225」号機は、銀色に塗装された新しい機体である。それに比べて黒岩一空曹の機体は、既に実戦を何度も潜り抜けた機体であり、油汚れや補修箇所のある機体だったが、それが彼の愛機だった。
このころは、自分専用の機体というものがあり、壊れでもしない限り、その機体を大切に乗ったものだった。自分の機体には、みんな愛着があり、攻撃から戻ってきても、整備員と一緒に夜遅くまで機体を磨いている姿をよく見かけた。
禎二郎たちには、まだ、愛機と呼べる機体がなく、この「K-225」が、上手くすれば、禎二郎自身の愛機になるかも知れないという期待があった。
禎二郎は、「K-225」号機に近寄ると、目視で安全を確認し、そっと銀色の肌に触れた。それは、冬の寒さのせいでとても冷たく、可愛い彼女のようなわけにはいかなかったが、その流麗なフォルムからは、あの日の雪江を思い起こさせた。
既に「K-225」は、整備員による暖機運転を終え、禎二郎を静かに待っていた。禎二郎は、胴体部分の足かけに足を乗せると、身軽に操縦席に足を下ろした。
操縦席に乗ると、小さいながらも計器類がコンパクトに収まっており、既にどこに何があるかは熟知している禎二郎は、手際よく操縦準備を取りかかった。
新しい機体のせいか、油の匂いも新鮮で、あまり使い込んでいないことがよくわかる。ただ、新しい機体というのは、どこに故障が潜んでいるかがわからないという欠点があるのだ。
それは、10回の飛行でわかる場合もあるが、20回も飛ばないと気づかないこともある。航空エンジンは、そこが難しい。ただ、この96式艦戦に使用されているエンジンは、中島飛行機の「寿」という500馬力エンジンだった。このエンジンは、安定性が高く、陸軍の97式戦闘機にも使用され、中国やソ連の戦闘機を圧倒した実績を誇っていた。だから、滅多なことで故障は起こさない。
エンジン音を聞くと、特に異常は感じられず、機体の振動もいつも通りだった。後は、空戦で、黒岩機にどこまで迫れるかだけを考えていた。
彼もマタギなら、おそらく戦法も単純ではないはずだ。
事前の打ち合わせでは、高度を2000mに取り、そこから空戦に入るという申し合わせだった。
「よし!」
禎二郎は気合いを入れると、ゴーグルをかけ、純白の絹のマフラーを口元まで上げた。少しでも寒さ予防である。飛行帽の顎紐を留め、手袋をはめ直すと、両腕を上げて、整備員に車輪止めを外すように指示を出した。
禎二郎は、左手でスロットルを少しずつ前に押すと、プロペラの回転数が上がり、機体は、スルスル…と滑走をし始める。
軽い機体なので、50mもあれば、空中に浮かんでしまうような機体だった。元々が艦上戦闘機なので、狭い飛行甲板では、このくらいの軽さがちょうどいいのだろう。
禎二郎も、訓練で何度も離着陸は行ってきたが、海軍特有の三点着陸も、この機体ならストン…と落ちるような格好で、安定して行うことができた。
だから、実戦経験がないと言っても、禎二郎は操縦や射撃の腕に自信を持っていた。出来ることなら、ここで甲種2期出身の腕前を見せつけ、出撃の搭乗割りに名前を載せて欲しいと密かに願うのだった。
そんなことを考えている間に機体は、速度を上げ、離陸の態勢に入った。
操縦桿をクン…と前に倒すと、機体の尾輪が上がり加速がグングンとついてくる。
禎二郎は、訓練の要領で揚力がついたころを見計らって、操縦桿をグイッと手前に引いた。
こちらが思うとおり、「K-225」号は、蝶のように軽やかに宙に舞い、高度2000mを目指した。
今日は、少し雲は多いが、天候に問題はない。確かに、冷気は操縦席に入ってくるが、緊張のためか、それほど気にはならなかった。
数分後に高度2000mに達すると、遅れて黒岩機が上昇してくるのが見えた。
禎二郎機は、基地上空で旋回しながら、黒岩機を待った。
黒岩機は悠々と飛行し、禎二郎機の旋回する空域に入ってきた。
すると、黒岩機が徐にバンクを振った。これは、「こい!」という合図だった。
よし! 心の中でそう叫んだ禎二郎は、操縦桿をグイッと引くと、高度を上げ始めた。向こうが2000mなら、こっちは3000mから攻撃してやる!
禎二郎は、マタギ時代を思い出し、高いところから獲物を狙う猟師のように、集中力を高めていった。
高度をとれば、銃撃しても弾道は限りなく直進するのだ。
下から打てば、威力が低下し、水平ではいわゆる「しょんべん弾」になる。それを避けるには、高度からの射撃が一番いい。
今日は、模擬空戦なので銃弾は装填されていないが、96式艦戦の7.7粍機銃は直進性が高く、そういう意味でも、上空からの攻撃は理に適っていた。
こちらが高度をとったことは、黒岩一空曹にはお見通しだろうが、さて、どう躱すのか…見てみたいと思った。
禎二郎は、眼で黒岩機を追うと、さすがに黒岩機は、禎二郎機を追うような真似はしなかった。禎二郎機を追えば、戦闘機の操縦は自由にならないからだ。
急上昇するには、96式艦戦の500馬力エンジンでは、相当にきついことを禎二郎は訓練で知っていた。そうなれば、急激な操作は失速の危険があり、絶対に出来ない。それは、禎二郎の勝利を意味していた。
だが、黒岩機は、そのまま水平飛行を保ち、禎二郎機が来るのを待ち構えていた。「ちぇっ…、やっぱり無理か?」
そう思いながら、操縦桿とラダーペダルを操作しながら、背面になり、そのまま逆落としに突っ込んで行った。
風防がないので、エンジン音が耳元に響く。
ギューン! ゴーッ!
という音と共に、禎二郎は、照準器に眼を付けて黒岩機に突っ込むと、弾の入っていない7.7粍弾の発射レバーを押した。
「よし、勝った!」
そう思った瞬間、黒岩機が目の前から消えたのだ。
えっ!
一瞬、獲物を見失ったマタギの心境になった。
まずい!
獲物から眼を切れば、奴らの反撃を受けることは眼に見えている。
しまった、背後を取られる?
そう思い、禎二郎は、機体を滑らせると、水平飛行から急降下に入った。態勢を整えるためである。
そして、基地上空から離れて恐る恐る後ろを振り返ると、何と、黒岩機がピタリと禎二郎機の真後ろに付いているではないか…。
これで、万事休す。
禎二郎は、獲物に逆襲され、命を落とすことになるのだ。
ブーッ…と大きな息が漏れた。
真冬の寒さだというのに、防寒着を着込んだ下着の奥で、汗が流れているのがわかった。この急降下してからの時間、禎二郎は、呼吸が出来ずにいた。
そして、黒岩機を見失ってからの禎二郎は、見苦しく逃げ惑い、黒い大熊の餌食になったのだった。
これが、空戦なのか?
実際の空戦の場で、敵が黒岩機であったら、禎二郎は間違いなく初陣で戦死したことになる。
こうして禎二郎は、初めて自分が戦場にいることを実感するのだった。
諦めて、機体を水平飛行に戻すと、側に黒岩一空曹が近づいてきて、笑顔でこちらに手を振ってきたので、こちらもバンクを振るとそのまま、滑走路に滑り込むように着陸した。
周囲には、多くの見物客が俺たちの模擬空戦を眺めていたらしく、着陸後分隊長に報告すると、
「うん。まあ、あんなもんだろう…。さすが甲飛2期の首席だな…」
口の口角を上げて、そんなふうに言われたので、敬礼しながら、
「ちぇっ、ばかにしやがって…」
と心の中では、悪態を吐いていた。
そこに、着陸した黒岩一空曹が現れ、分隊長に報告を済ませると、禎二郎に、
「いやあ、あの逆落としには参ったよ。あんな攻撃は、これまで見たことがない。垂直降下で攻撃されて、俺も驚いたよ…」
「よく、機体がもったもんだな…?」
そう言うと、禎二郎の肩を叩き、分隊長に、
「さすがは甲飛の首席ですな。これなら、いつでも実戦に連れて行けそうです…」
そう言ってくれたので、同期の二人にも申し訳が立った。

その夜、禎二郎は久保と大西を誘って、自分たちとは別の下士官の兵舎に黒岩一空曹を尋ねた。黒岩空曹は待ち兼ねていたように、日本酒を取り出し、茶碗を四つ取り出して並べるのだった。
禎二郎が、
「いや、私たちは、まだ二十歳前なので、酒は飲めません…」
と断ったが、黒岩空曹は、
「何を言っとるか。儂は、12のころから飲んどるぞ。マタギの倅が、飲めんわけなかろう…」
そう言われると、禎二郎も、そのころには弦斎や弦一郎の酒をくすねて飲んだこともあるし、山の中では、寒さしのぎに飲む習慣はあった。
15のころには、田舎に帰るたびにチビチビと飲んでおり、母親の咲に、
「こら、未成年のくせに! 酒なんぞ飲んで!」
と叱られたこともある。
禎二郎は意外と飲める口で、ちびちびと舐めるだけなのだが、これがいつまでも舐めている。それを見た弦一郎は、
「ばか。いい加減にしておけ!」
と、酒瓶を隠してしまうのだった。
海軍に入ってからは、土産は霞が浦の「日本酒」二本と決めていたくらいだった。霞が浦の「霞」という酒も辛口で旨い。二本のうち一本は、もちろん、自分用であるが、ときどき、あの武を呼んではこっそり酒盛りをしていたのだ。
予科練のころも、休日には少しは飲んでいた。しかし、見つかれば、殴られることはわかっていたので、知らんぷりをしていたが、ここでは、うるさいことは言われないようだ。
そう思うと、禎二郎も二人も湯飲み茶碗を出して、なみなみと注がれた日本酒を飲み干した。まさに、一人前の飛行機乗りの味だった。
こうして、酒が適度に回ったころに、禎二郎は、一つの疑問を黒岩空曹にぶつけてみた。
「黒岩空曹、ひとついいですか?」
「ん…、なんだ?」
「今日の模擬空戦なんですが…。ひとつ、わからんことがあります…」
「わからんこと…?」
「はい…」
「まあ、いい、言って見ろ」
そう言われて、禎二郎は、疑問をぶつけてみた。
禎二郎の疑問というのは、逆落としで黒岩機に照準を定めたとき、一瞬、目の前から黒岩機が消え、気がつくと完全に後ろを取られていたことだった。
水平飛行で飛んでいた黒岩機に、高度を付けた禎二郎の機が真上から急降下してきたんだ。まあ、躱すことは出来たとしても、禎二郎の視界から消えることはない。
96式艦戦は、速度は300㎞程度だったろうから、余程の操作をしなければ、禎二郎は気がつくはずなのだ。
それが、一瞬にして目の前から消えたかと思ったら、どこにもいない…。
すると、突然後方に現れて禎二郎機は撃墜された。
禎二郎の今の技術では、どう考えても、そんな操作はできない。
すると、黒岩空曹は、いとも簡単に、
「ああ、あれか…。ありゃあ、捻り込みって操作だ…」
「捻り込み?」
三人は、聞いたことのない技を初めて耳にした。
すると、黒岩空曹は、
「そうだな…。捻り込みは、この隊の三分の一くらいのベテランなら身につけている技だ…。そんなに珍しくはないがな…」
「ええっ、そうなんですか?」
「一体、どうやるんです?」
すると、黒岩空曹は、スルメの足を戦闘機に見立てて説明をしてくれた。
「いいか。96式艦戦は、すこぶる操縦性に優れた飛行機だ。失速も少ない。それに、低速だ。この技は、高速では難しいんだ…」
「貴様が、上から被さるように攻撃してくることはわかっていたんで、まず、照準を外すために、おまえの機の射程に入った瞬間に俺の機体を横滑りさせたんだ…」
「そして、一瞬、貴様の視界から消えたところで、この右捻り込みで、貴様の機の後方に付けたのさ…」
「操作はだな、人それぞれだが、俺は、右のラダーペダルを蹴ると同時に操縦桿を右に倒し、一瞬だけ背面に入れるんだな…。そして、その頂点に入った瞬間に操縦桿を戻し左に倒す。そして、左のペダルを蹴る…」
「そうすると、機体は、急速に回り込み、通常の背面から戻す円の半分くらいで水平飛行に戻るんだよ…」
「まあ、頂点に達した瞬間に操縦桿を反対方向に倒すんで、そのときに失速状態になる。だが、96式艦戦なら、すぐに回復出来るのさ。だから、この戦闘機は、万能だって言うんだよ…」
禎二郎たち3人は、頭の中で黒岩空曹が言った操縦方法を描いていた。
酒の酔いもあり、頭の中は、クルクルと回っていたが、何となく理解出来たようだった。
「なるほど、捻り込みって技ですか?」
「早速、明日から訓練してみます…」
それからは、黒岩空曹とマタギ時代の苦労や熊や猪を獲った自慢話に花が咲いて、お開きになったのは、消灯後、2時間以上過ぎていた。
明日も黒岩空曹は、攻撃機を掩護しての出撃があり、禎二郎たちは、酔った足取りで、自分のベッドに戻っていったのだった。

早朝、黒岩一空曹は、夕べの酒もなんのその…という顔つきで、中攻の護衛任務に飛び立って行った。
禎二郎たちも早速、上空哨戒に飛び立つや否や、基地から離れた空域で、黒岩空曹直伝の捻り込みの技の訓練に余念がなかった。
実際に試してみると、確かに理屈はわかるのだが、何せ、操作を一瞬で行わなければならず、そのタイミングが難しかった。何度も繰り返しているうちに、何となく格好はついてきたような気がしたが、まだまだ、不格好な捻りでしかなく、相当に訓練を積まないと習得できそうになかった。
そんな日が数日続いたある日、いよいよ、禎二郎にも攻撃隊掩護の命令が出された。
久保や大西は、悔しそうな顔を見せたが、禎二郎は自分の初陣に有頂天になっていた。搭乗割りを見ると、小隊長は、黒岩一空曹で、二番機にやはりベテランの沖永二空曹、そして、伊東禎二郎三空曹である。
禎二郎たちの小隊は、最後尾の97式陸上攻撃機の左翼を守る配置だったが、小隊長が黒岩一空曹なので、何の心配もしていなかった。
黒岩空曹は、
「おい、伊東空曹。とにかく、今日は、俺の尻だけを見て飛べ!」
「余計なことをすると、敵に落とされるぞ!」
と脅かされたが、禎二郎は、元気よく「はい!」とだけ返事をした。
実は、もし、敵機が現れたら、訓練している「右捻り込み」をやってみたかったのだ。そして、運がよければ初撃墜もあるかも知れない…と思うと、わくわくしてくるのがわかった。
それでも、禎二郎は、マタギの習性として準備だけは怠りなかった。それに、ポケットには、秘薬「鬼熊丸」も持っている。
出撃前には、久保や大西が心配そうに声をかけてくれたが、
「なあに、3時間で戻ってくる作戦だ。まあ、土産話を楽しみにしていてくれ…」
そう言うと、正式に与えられた「k-225」号機に乗り込んだ。
先日、実際に乗ってみて、エンジンの調子がいい機体だった。とにかく、新品の機体で問題が起きるのは、エンジンだったから、この機体は「当たり」だ。
そう思い、機上の人になると、後は体が反応していた。
禎二郎の飛行時間は、間もなく800時間に達しようとしており、ベテラン搭乗員になると、既に3000時間を超える者も多くいて、当時の日本海軍航空隊の技量がわかるというもんだ。
ただ、数が少ない。
あまり航空作戦のない中国戦線だから、こんなもので済むのだろうが、万が一、ソ連と戦うことにでもなれば、陸軍もそうだが、搭乗員の数が問題になるのは明らかだった。
禎二郎も、もし、この初陣が300時間程度だったら、もっと不安になっていただろうと思う。禎二郎たちは、予科練を卒業してからは、毎日飛行機に乗り、訓練を重ねてきたのだ。
夜間飛行訓練や航空母艦への発着艦訓練、海上での航法訓練など、海軍の飛行兵として必要な訓練は、徹底的に指導されてきた。中には、荒天時に飛行し、大雨の中を基地に着陸したこともある。この間、たくさんの殉職者も出ている。それでも、強い飛行兵を造るために、海軍は膨大な予算を投じていたのだ。
そして、禎二郎たちは、その訓練に耐えてきた…という自負があった。
そんなことを考えながら、禎二郎は、漢口基地を飛び立った。
今日の爆撃の目標は、重慶の中国軍航空基地である。
昭和12年に上海事変が起きると国民党軍は、上海、南京、重慶という具合に奥地へ奥地へと逃げ込んでいき、そのたびに日本軍は大陸の奥へと誘われるように戦線が拡大していった。
禎二郎が、漢口に来た昭和15年の春ころは、中国との戦争も膠着状態になっており、重慶への爆撃もそれほど大規模なものではなくなっていた。
どちらかというと、日本も早く戦争を終わらせたかったのだが、敵将の蒋介石は、なかなかしぶとく、和平勧告に応じようとしないのだ。そのため、我々航空部隊が、拠点を次々と潰し、戦争終結を早めるように促されていた。
この日も、97式陸攻は5機ほどで、我々戦闘機隊も20機ほどが付いていた。それでも、96式艦上戦闘機は航続距離が短く、最後まで護衛に付けないのが難点だった。
噂では、新型の艦上戦闘機が完成したらしく、間もなく、この漢口基地に到着するようなことも耳にしたが、禎二郎は、愛機の96式艦戦が乗りやすくて大好きな機体だったので、あまり新型戦闘機には関心がなかった。
ただ、航続距離が3000㎞という話で、96式艦戦の1200㎞と比べれば、2.5倍の距離を飛べる。これなら、最後まで爆撃機の護衛任務が果たせることになる。そう考えると、中攻の連中は、待ち遠しいだろうな…と思った。
そんなことを考えながらも、黒岩小隊長に言われたように、周囲の見張りを怠らず、キョロキョロと首を回していたので、少し首と肩が疲れてしまった。
そろそろ、敵の戦闘機が出てくる空域である。
奴らも、禎二郎たち同様に、毎日10機程度の戦闘機を哨戒飛行に飛び立たせていたのだ。だから、哨戒に上がってくる搭乗員は、割合若年兵が多いはずだ。
だとすれば、禎二郎にも撃墜のチャンスはある。そう思うと、心が逸るのを抑えることは出来なかった。だが、今日の任務は、中攻の護衛任務である。だから、勝手に隊を離れて攻撃することは許されなかった。
そして、左手上空に眼をやったとき、何かしらキラリと光るものを見た。それは一瞬の輝きだったが、禎二郎は小隊長機に近づくと、バンクを振った。「敵発見!」の合図である。
禎二郎に自信があったわけではなかったが、マタギとしての勘のようなものが働いていた。
獣の狩りも実は、同じようなものなのだ。
獣は一瞬、目の前を横切ったりして、目の端に捉えることがある。それを「気のせいか?」と考えるのが素人であり、自分の勘を信じて、もう一度じっくり確認するのがプロである。
禎二郎は、その一瞬の光を「獣」と認識した。それだけのことである。
もし、これが敵でなくても、それはそれでいい。もし、敵がこちらを発見していれば、先制攻撃を受けるのはこちらである。
賢い熊になると、禎二郎たちマタギの背後から近づき、襲ってくる獰猛な奴もいるのだ。
黒岩小隊長は、「よし、先行せよ!」と手で禎二郎に合図を送ってきたので、禎二郎は、編隊の前に出て、戦闘機隊を誘導した。
バンクを振ると、中攻隊が、少しずつ高度を下げ、退避行動に移るのが見えた。
禎二郎は、左手30度の方向に全速力を上げた。
付いてくるのは10機ほどで、黒岩小隊長も沖永二空曹を連れて追いかけてきた。すると、10機の敵編隊がこちらに向かってくるではないか。
高度は同程度で、これは巴戦になる。
巴戦とは、戦闘機同士の空中戦で、一機対一機になることが多く、お互いの搭乗員の腕比べになるのだ。
中国機は、ソ連製のI-16型の新鋭機だった。
この戦闘機は、時速500㎞を超える高速機で、引き込み脚を装備した飛行機だった。
「よし、見てろ!」
禎二郎はそのまま加速すると、先頭の一機と巴戦に入った。

敵は優速を利用して、真っ正面から撃ってきた。
禎二郎は、それを緩横転で躱すと、そのまま急上昇に移った。
このまま同高度で撃ち合うのはこっちが不利だ。そこで、あの黒岩空曹に使った技を試してみることにした。
急上昇すると敵機は、何と、禎二郎機を追いかけるようにして上昇してくるではないか。これでは、逆落とし攻撃は出来ない。
高度が、3500mに達した。
そこで、禎二郎は敵機に追いつかれてしまったのだ。
このままでは、やられる。そう思った瞬間、あの「捻り込み」を思い出した。
「ようし! 敵が照準器に眼を移した瞬間がチャンスだ!」
そう思い、必死で機体を滑らしながら逃げるが、もう、時間がない。
敵機が自分の真後ろに付いた。
「来た!」
その瞬間に、禎二郎は特訓を重ねた「右捻り込み」の操作を行った。
左に機体を滑らせながら、急に右に上昇したように見せて、グイッと操縦桿を倒し、ラダーペダルを蹴った。
すると、96式艦戦は、背面になる瞬間に失速寸前となり、そのまま半円を描くようにして敵機の後ろに付いたのだ。
敵機は、つんのめるような格好で、禎二郎機の前に飛び出した。
その瞬間、禎二郎はスロットルレバーに付いている7.7粍機銃弾を敵の操縦席目がけて連射した。
ダダダダダダ…ッ! ダダダダダダ…ッ!
銃弾は、ものの見事に操縦席付近に集中した。
その銃弾は、敵の搭乗員の頭を粉砕したらしく、そのまま敵機は火を噴かないまま落下していった。
禎二郎は、無意識のまま操縦桿を倒すと、急降下して戦闘空域から離れた。
しばらくして機体を水平に戻すと、周囲を見渡した。
既に空中戦は終わり、中攻は、既に先行したようだった。
あちこちに、黒煙が見えたが、それを確認する余裕もなく、禎二郎は緊張でいっぱいだった。まるで、初めて狩りに行ったときのことを思い出していた。
そこに、黒岩小隊長と沖永二空曹機がフッと現れた。
禎二郎が黒岩小隊長に「一機やりました!」と手を振ると、小隊長は、やれやれ…という顔をして、ついて来い…という合図をして機首を翻した。
禎二郎は、敵機を撃墜した興奮で、速度が上がるのを抑えるのが大変になっていた。それだけ、初手柄が嬉しくてならなかったのだ。
これが、会津の山中であれば、早く母の咲に獲物を見せたくてはしゃぐ子供のようだった。
このときほど、漢口の基地が待ち遠しくてならなかった。

戻りは、いつもの三番機の位置に就き、ホッと一息吐いて、持ってきていた水筒の水をゴクリと飲み込むと、冷たい水が腹の中に沁みていった。冬の空だというのに、防寒着の下は汗まみれだった。
いそいそと着陸してみると、整備兵が、
「伊東三空曹。一体、今日はどんな飛び方をしたんですか?」
「機体が、ガタガタしてますよ。それに、弾痕が五発あります…」
禎二郎は慌てて、
「えっ、どこだ?」
そう言いながら、見てみると、操縦席付近に二発と尾翼の側に一発、そして、左翼に二発喰らっているではないか。危うく撃墜されそうだったのだ。
そこに、沖永二空曹がやってきて、
「やあ、一機撃墜。やったな。だけど、小隊長が心配しておったぞ。早く行って謝ってこい!」
そう言って、禎二郎の頭をゴシゴシと擦るのだった。
でも、顔は怒っていないから、禎二郎の初撃墜を喜んでくれているようだった。
禎二郎は、急いで黒岩小隊長にところに行き、
「伊東三空曹。敵イ-16一機撃墜しました!」
と報告すると、やはり、頭を小突かれ、
「そんなことは知っとる。それより、あまり無茶な操縦はするな!」
「こっちの方が、心配で見ておられん!」
そう言うが、やはり、顔は怒ってはいなかった。
栗岩小隊長は、分隊長に、
「黒岩小隊。三機撃墜。報告、終わり!」
そう告げると、いつもの飄々とした態度で宿舎に引き揚げるのだった。

夜になって、黒岩小隊長と沖永二空曹が、禎二郎たちの部屋にやって来て、初撃墜を祝ってくれた。
話を聞くと、やはり、禎二郎の操縦はかなり荒く、ヒヤヒヤしたということだった。自分では冷静でいたつもりでも、相当に緊張していたのだろう。それにしても、戦場は、生きるも死ぬも紙一重だということがわかった。
やはりマタギの世界と同じで、狩るか狩られるかの紙一重なのだ。
最後に黒岩小隊長は禎二郎に言った。
「伊東。おまえには勇気がある。そして勘もいい。それを大事にしろ!」
「そうすれば、おまえは少しは長生きが出来るだろう…」
「頼んだぞ!」
そう言って別れたが、この黒岩一空曹は、大東亜戦争が始まると艦隊勤務に就いて、ミッドウェイ海戦で眼をやられた。禎二郎と再会するのは、戦争も末期になってからである。
二番機の沖永二等空曹は、禎二郎と同じようにフィリピンで戦い、特攻隊の直掩隊の隊長として何度か出撃し、特攻機を護って戦死したと聞いた。
戦場は、もう、中国戦線のようなわけにかいかなくなっていたのだ。

第五章 零戦改

昭和19年12月。
昭和16年12月8日に始まった大東亜戦争は、既に3年が経過し、日本軍は、強大なアメリカという化け物のような国を相手にして、どうにもならないところまで追い詰められていた。
禎二郎は、満身創痍の中、地獄のフィリピン戦線から日本に戻されることになった。既に階級も特務少尉になっており、残り少ないベテラン搭乗員になっていた。もう、墜とした敵機の数も100機ほどにはなっただろうか。
禎二郎は、中国戦線から戻ると、少しの間、内地で教員任務に就き、後輩の甲種予科練生を教えた。それもわずか半年足らずで開戦となり、フィリピン、ラバウル、パラオ、またフィリピンと常に最前線で戦い続けた。
その間に、多くの戦友を失った。同期も、もう何人生き残っているのかもわからない。あの久保も大西も今はいない。
中国戦線で乗っていた96式艦上戦闘機も開戦と同時に零式艦上戦闘機になった。
禎二郎の愛機「K-225」号機は、中国から内地に戻ったとき、漢口基地に置いてきた。
最初のころは、勢いもあり、新しく乗ることになった零式艦上戦闘機も96式艦戦よりは大きくなったが、乗り心地はよく、慣れるのにそんなに時間はかからなかったが、もう「愛機」と呼べる戦闘機は支給されなかった。
そもそも、対米英戦争が始まると、常に機材が不足し、搭乗員も次々と養成しなければ間に合わないのだ。
後輩の予科練を教えていたときも、
「えっ、こんな技術で実用機に乗せるのか?」
と思ったくらいだった。
禎二郎たちが、200時間以上も中間練習機で訓練をしてから実用機に乗ったのに、今では、50時間も練習機で訓練を行えば、すぐに実用機に乗せてしまうのだ。だから、事故も多く、殉職者も多く出していた。
禎二郎は、上官に何度も意見を具申したが、分隊長は、
「仕方がないんだ。搭乗員が足らんのだ。貴様らも、すぐに行って貰わねばならん…」
そう言って眉を顰めたが、それくらい戦局は逼迫していった。
だから、零戦もその場にあった飛行機に乗って飛び上がる…ということばかりで、その飛行機の癖を掴むようなことは出来なかった。
それでも、ラバウルにいたころまでは、何となく「俺の愛機」と称する機体はあったが、それも、敵の空襲で破壊され、それからは、取り敢えずあてがわれた飛行機で飛んでいた。
ラバウルでも大勢の先輩や後輩の搭乗員が空に散っていった。
昭和19年になると、もう、零戦ではアメリカ軍の新型戦闘機には勝てなくなっていた。
禎二郎は、一人、あの「右捻り込み」の技を駆使して、撃墜数を増やしていったが、とにかく、目標を「一日一機」と決めており、多くても二機以上を撃墜することはなかった。それより、自分の体力の温存に力を入れ、
「俺は、無理、無駄、無茶はしない!」
と宣言して戦っていた。
周囲からは、「伊東一飛曹は、横着者だ…」という陰口も耳にしたが、禎二郎は、少しでも生き長らえて戦うことが、ベテラン搭乗員の使命だと思っていた。それに、また、チャンスが巡ってきたときに、生きていなければ、そのチャンスも掴めない。
マタギも欲を掻いて死んだ者は多い。
一頭の猪でよいものを二頭目、三頭目と深追いしたために崖下に転落したり、道に迷って遭難したりと、あまりいいことはないのだ。
それより、「一日一頭」と決めて、山の恵みに感謝するマタギこそが、本物の狩人として周囲の尊敬を集めるものだ。だからこそ、自分の腕に驕らず謙虚でいなければならない。
禎二郎は、部下の若い兵たちにも常に戒めていた。
だが、奴らは若い…。
戦場に出れば、何機でも墜としたいと思うものだ。だから、無理な操作をして墓穴を掘る…。それでは、一体、何のために訓練してきたというのだ。
禎二郎は、いつも、
「いいか、絶対にこの3機編隊を崩してはならん!」
と厳命していた。そして、墜とすのは一機。それ以上は、小隊長である禎二郎の命令を待つこと…というのが、約束だった。
それでも、若い奴らが、一機でも墜とせればいいが、敵の戦闘機が強力になった今、そのチャンスは、巡っては来ないのだ。
逆に、墜とされる危険は常にあった。だからこそ、三人の眼が必要なのだ。そうして、禎二郎はこれまで生き延びてきた。
子供のころからマタギの生活で培った知恵は、空の戦いにおいても有効だったのだ。
弦斎や弦一郎は、決して欲張った狩りはしなかった。たとえ、獲物がたくさんいた日でも、一頭か二頭仕留めると、
「さあ、今日はこれくらいで引き揚げるべ…」
そう言って、さっさと獲物を担ぐと山を下りていった。仲間の何人かは、
「俺は、もう少し、やってくわ…」
そう言って奥に入り込み、帰ってこなかった者も多い…。しかし、マタギは、戻って来ないからといって捜索隊は出ない。
マタギにとって山は、自分の戦場であり墓場でもあるのだ。
そういうところの家の者は、一週間も待ち続けた後、簡単な弔いをするのが習わしだった。だから、禎二郎の家でも、よく弦斎が、
「まあ、俺たちが帰って来なかったら、10日後には弔いをしておくれ…」
そう言い残して、山に入っていった。
家では咲が神棚に御神酒を上げ、男たちが山に入っている間中、詔を捧げたものだ。
だからこそ、山の神に恵みを感謝し、必要以上の殺生を禁じてきたのだ。
空中戦においても、禎二郎は、そう考えていた。
敵は正直、獲物ではない。人間だ。マタギのように「山の恵み」でもない。本当は殺生などしてはならない存在だということは、禎二郎でもわかる。だから、いずれ禎二郎には、神の罰が下るだろう。
だが、それまでは必死に戦うのが飛行兵の使命なのだ。

昭和19年の秋から始まった特攻作戦は、禎二郎には納得の出来ない戦い方ではあったが、実際の搭乗員の技量の低下を知る者としては、やむを得ない選択のように感じていた。
「何もせず、むざむざと敵機に蜂の巣にされて死んでいくよりは、敵艦に体当たりできる可能性に賭ける方が、ましというものかも知れん…」
やるせない思いを感じながら、禎二郎はそう考えていた。
それくらい、若い搭乗員の技量は、間違っても戦場に出していい技量ではなく、少なくても後100時間以上は、訓練を必要としていたのだ。
禎二郎は、フィリピンでは、常に特攻隊の直掩任務に就き、多くの特攻隊員を見送った。禎二郎ほどの熟練搭乗員は、もう日本にはあまり残っていなかった。そのために、特攻隊員に指名されることはなかったが、特攻機の護衛任務は、それなりに苦しい任務だった。
直掩隊は、特攻機の護衛任務もあったが、特攻機の戦果を見届ける役割も担っていた。そのため、敵艦に近づきすぎて対空砲火で撃墜された者も多かったのだ。
敵機が攻撃してくれば、僅かな直掩機でこれを迎え撃ったが、既に敵機の方が零戦より性能がよくなっており、こちらの犠牲ばかりが増える。
禎二郎も、既に三度の負傷を負い、体は満身創痍の状態だった。
若いころは、鋼のような肉体で顔はふっくらとしていたが、今では、頬もこけ眼だけがギラギラとしているのだ。まるで、野性の狼のようだった。
一度は、特攻機とともに突っ込みすぎて、敵艦の対空砲火を浴び、破裂弾を全身に浴びて、血だらけになって還ってきたこともある。それでも戦死しなかったのは、マタギとして鍛えた禎二郎の強い肉体と、生きようとする精神力の結果だと思っている。
西マバラカット基地に辿りついた時は、機体全面に砲撃弾を浴び、禎二郎の乗った零戦は、そのままスクラップになってしまった。
それでも傷が癒えれば、また、直掩任務に就く毎日だった。
そのときまでに禎二郎は、撃墜数50機を数え、航空隊のエースとして下士官兵をまとめる貴重な指揮官になっていた。
ただ、このまま特攻攻撃が続けば、志願をするもしないも、禎二郎にも特攻指名がかかるだろうと予想していた。もう、直掩もなにもない。ただ、闇雲に敵艦に突っ込ませるだけの作戦しか、参謀たちの頭にはないようだった。
そんな禎二郎を日本に引き戻したのは、首都防衛の任務に就くことになった小園安名大佐だった。
小園大佐とは、一時期、ラバウルの航空隊でその指揮下に入ったことがあった。
禎二郎は、坂井一飛曹や西沢一飛曹の所属していた台南航空隊ではなかったが、ガダルカナルの攻防戦が激しくなると、その指揮下に入り、何度か出撃することがあった。
そのとき、禎二郎のことを知ったのだろう。そして、日本に戻ってからも、フィリピンにいた禎二郎の活躍を耳にしていたらしい。
フィリピンで戦死した西沢広義飛曹長は、同年で、乙種予科練の出身だった。だから、禎二郎より海軍に入った年数は長い。しかし、飛行練習生当時は、同じ百里基地で訓練を受けていた。乙種と甲種という違いもあり、同じ班になったことはないが、訓練中に顔を合わせることがあった。  背の高い精悍な風貌を禎二郎は忘れてはいなかった。
その西沢とは、ラバウルで再会したことから、数週間にわたってお互いの飛行術を交換し合う間柄になった。
当時は、同じ階級の飛行兵曹長で、禎二郎が先任だった。
西沢は、禎二郎の経歴を知ると、興味を示し、
「伊東さん、マタギの話をもっと聞かせてくださいよ。空戦の参考になりますから…」
そう言っては、准士官室で、よく話をした。
禎二郎と西沢飛曹長は甲と乙の違いはあっても、同時期に訓練を受けたこともあり、西沢の技術と勘は、天才的だった。
禎二郎は、弦斎や弦一郎から学んだ猪や熊狩りのコツを伝授したが、それでも、禎二郎のは、飽くまでもマタギとしての基本であり、親熊を撃ったときも弦一郎が側にいて仕留めたようなものだった。それでも、西沢飛曹長には、面白い視点があるようで、興味深く、ウンウンと頷きながら聞いてくれたものだ。
彼の空戦の特徴は、抜群の見張力と射撃能力にあった。
見張りは、戦闘機の搭乗員である以上、必須の能力だったが、単に視力がいいというだけではない。動物的な勘というか、何となく敵が潜んでいそうな場所が分かる…とでもいうような第六感がものをいうのだ。
これは、禎二郎も同じだった。
マタギをしていた禎二郎だからこそ、この野性的な勘が空戦には不可欠だったのだ。
たとえば、クマザサに覆われた獣道を辿り、熊のいそうな繁みを探すのだが、近くまで来ると、必ず弦斎が、
「おい、静かにしろ…。近くにいる…」
そう言って、腰をさらに屈め、周囲や空を見るのだ。そして、ある方向をじっと見詰めていると、そこに間違いなく獲物の影を見た。
この技は、だれでも習得しているわけではなく、やはり、長年の勘というものが大きいらしい。
空戦も同じで、周囲を見渡し、敵が潜んでいそうな雲や島影などに眼を配るのだ。そして、ある一点を凝視すると、敵機の影を見つけることが多かった。特に分厚い雲ほど、要注意である。
その雲の上に敵がいて、その下を飛ぶ味方機が急降下攻撃で、何機も食われた。
ある日、中攻の護衛で、西沢飛曹長と一緒に飛んだとき、禎二郎は、左後方に何かの気配を感じて、後方を振り返り眼を凝らすと、数機の敵戦闘機が編隊を組んでこちらに向かって来るのがわかった。
無線で連絡している時間がないと感じた禎二郎は、翼を翻すと、列機とともに、その編隊の後方に回り込むように高度を上げていった。そのときである、何の連絡もしなかったのに、同じような行動をする小隊があった。それが、西沢飛曹長の小隊である。
禎二郎は、西沢飛曹長に目配せをすると、敵の後方に回り込み、禎二郎の小隊は右から、西沢の小隊は左から攻撃をかけ、10機の編隊を悉く撃墜したことがあった。
特に西沢の射撃は、非常に正確で、グングンと加速すると敵機に近づき、20粍機関砲と7.7粍機銃弾を敵の操縦席から主翼目がけて一連射しただけで、墜としてしまうのだ。それに、敵機の動きを予測して、あらぬ方向に射撃するのを得意としていた。すると、どういうわけか、敵機は自ら西沢の撃った弾丸に当たりに行くかのように飛行し、命中するのである。こうなると、西沢の技術は神の領域だった。
基地に戻ると、西沢飛曹長が、禎二郎のところに駆け寄ってきて、
「伊東兵曹長。すごい視力ですね…」
「あんなに早く、敵機の編隊を見つけるとは、恐れ入りました…」
そう言って、頭を下げたが、それより、禎二郎は、その西沢の神業のような射撃術の方が吃驚した。
「それより、今日の空戦は凄いな…。おまえだけで3機は墜としたじゃないか?」
「こっちは、一機を墜とすのに精一杯なのに、どういう技を使ったんだ?」
素直にそう尋ねると、
「いやあ、まぐれですよ。そんなに上手くいくことは稀ですから…」
そう言って、西沢は、頭を掻くばかりだった。
隊員の噂では、既に100機以上は墜としているということで、これまた、吃驚である。
それからは、これまで以上に親しくなり、西沢飛曹長が戦死するまで、禎二郎は西沢と行動を共にすることが多かったのだ。
最後に、その西沢が、戦死した日のことを書かないわけにはいかない。

フィリピンでは、日本海軍最後の決戦といわれた「捷一号作戦」が発令されており、基地航空隊にも連合艦隊に呼応して敵機動部隊への攻撃命令が出されていた。しかし、その基地航空隊もアメリカ海軍機動部隊の再三の空襲によって大きな損害を受け、稼働機が激減していたのだ。
それでも、修理の終えた零戦に飛び乗り、連日、空襲に現れる敵の艦載機と渡り合う日が続いていた。
禎二郎の小隊は、禎二郎を小隊長に、矢吹直上飛曹、千葉一二三一飛曹、福島茂二飛曹の4機で編制され、敵機動部隊の攻撃に向かう彗星艦上爆撃機や一式陸攻の護衛任務に就いていた。
当然、西沢飛曹長の小隊も同様で、禎二郎たちの202航空隊は、連日、敵艦隊に向かって攻撃を続けていたのだが、こちらの被害も多く、保有戦力が激減していた。
大本営では、昭和19年10月12日から続いた台湾沖航空戦で大勝利を収めたかのような報道をしていたが、もし、そんなに敵艦を撃沈できていれば、こんなに激しい空襲が連日続くはずがないのだ。
禎二郎たち搭乗員は、
「空母を10隻以上沈めたというなら、この艦載機の数は何だ?」
「参謀の連中は、一体何を見ていやがるんだ!」
と、上官に聞こえるように怒鳴る有様だった。
そのことは、禎二郎の隊でも噂になり、幹部の将校たちも眉間に皺を寄せて考える日々が続いていた。それでも、敵が来る以上、戦うしか道はない。
もし、台湾沖航空戦の戦果が眉唾物であれば、フィリピン決戦など出来るはずもないのだ。
禎二郎たちを指揮する大西瀧治郎中将の第一航空艦隊の作戦計画もまずく、思うような戦果が出ないばかりか、優秀な搭乗員を次々と失うような戦いが続いた。そして、間もなく連合艦隊がフィリピン支援に向かって来るという情報がもたらされた。
しかし、こんな有様では、基地航空隊として、連合艦隊への支援が十分に出来ないことは明らかだった。
禎二郎の小隊も、既に千葉と福島が負傷し、乗機の零戦22型もエンジントラブルで、禎二郎の小隊は、攻撃編制から外されることになってしまった。
禎二郎は、そんな状態の中で為す術なく呆然としていると、西沢飛曹長が禎二郎を訪ねてきた。
「伊東さん。何か上の方で、妙な作戦計画が立てられたらしく、私の隊がその直掩に出てくれって、命令を受けました…」
「妙な作戦…?」
禎二郎は、しばらく前に、士官たちが指揮所で噂している声を聞いたことがあり、西沢にも話したが、あれかも知れない…。
「なあ、西沢…。例のあれじゃないのか?」
西沢は、眉間に皺を寄せると、
「じゃあ、いよいよ、体当たりをかけるんですかね…?」
「でも、うちの司令や飛行長は、だめですよ…」
「日頃から、搭乗員は、生きて生き抜いて敵機を墜とすのが任務だ…って言っているじゃないですか?」
「ああ、そうだけど…。うちに依頼があったのは、直掩だろ…。体当たり任務じゃない」
西沢は、「あ、そうか…」と、何かを考えているふうだったが、まあ、仕方ない…という顔をして、禎二郎を見ると、
「それでも、やることになったら、やる人間は大変ですね…」
禎二郎も、マタギとして、熊や猪と戦うことはあっても、生きるために戦うのであって、死ぬための戦いなどしたことがない。だから、どういう気持ちになれば、そんな覚悟が出来るのか、わからなかった。
すると、西沢飛曹長は、
「伊東さん。でも、命令ですから、明日は直掩任務を果たして、すぐに戻ってきますよ…」
「そろそろ、機材も届くでしょうし…」
「また、伊東さんと一緒に飛びたいもんですね…」
そう言って別れたが、それが、今生の別れとなってしまったのだ。

西沢飛曹長は、列機3機を連れて新しく編成された「特別攻撃隊」の直掩隊として、その任務に当たることになった。
もし、禎二郎の小隊が使えるようであれば、先任兵曹長である禎二郎が、いの一番に指名されたと思うが、如何せん、機材もなく負傷者も出ていることから、ベテラン搭乗員の西沢に白羽の矢が立ったのだ。
それも、特攻部隊の飛行長は、西沢飛曹長とは縁の深い、中島正少佐だったから無理を言ってきたのだろう。
禎二郎は、ラバウル時代から、あの中島少佐とは反りが合わず、台南航空隊生粋の人間ではない禎二郎たちよそ者の兵隊には、過酷な命令を平気で出すので、一度、文句を言ったことがあった。
「飛行長。我々にも体を休める時間は必要です。そんなに行きたいなら、飛行長が行けばいい。我々がよそ者だからって、消耗品のように扱うのは止めていただきたい!」
当時、一等飛行兵曹の分際で、佐官への反抗的な態度は、軍規違反に問われても仕方がないが、それを聞いていた小園副長が中に入り、
「まあ、伊東一飛曹の言うこともわかる。確かに、伊東たちには、連日出撃させているんだから、少しは考えてやらんとな…」
そう言われて、中島少佐は不服そうだったが、
「貴様、上官に楯突いてすむと思うなよ…。今回は、副長の顔に免じて許してやるが、今度、反抗したら、懲罰だからな!」
と凄むので、睨み返してやった。
このフィリピンでも、兵学校出の後輩の菅野直大尉が、中島少佐に反抗して拳銃で床を撃ち抜いたという話が伝わってきた。
そんな男だから、西沢も嫌だったのだろうが、直掩隊を出せ…と言われれば、反抗も出来ない。それに、禎二郎とは、反りが合わないから、ラバウルで可愛がっていた西沢に白羽の矢を立てたのだろう。

特別攻撃隊は、零戦に250㎏爆弾を搭載して、そのまま敵艦に体当たりをするという戦法で、第一航空艦隊司令長官に着任したばかりの大西瀧治郎中将が発案したと聞いたが、どうやら、軍令部が大西中将にやらせた…というのが真相らしい。
特別攻撃隊は、敷島、大和、朝日、山桜の四隊と菊水隊が編成されたが、西沢飛曹長は、敷島隊の直掩任務となった。
そして、敷島隊の戦果を見届けた西沢小隊は、基地に戻るや否や飛行長の中島少佐に乗機を置いていくように命じられたのだ。
「おい、西沢。悪いがおまえたちの零戦を置いていってくれ。特攻機が足りないんだ…」
「おまえたちには、輸送機を用意するから、それで戻ってくれないか…」
西沢は、
「ええっ、困りますよ。こっちも機材不足で零戦が不足しているんですから…」
と抵抗したが、少佐と兵曹長では勝負にならずに、結局、西沢たち四人は、同乗の陸軍将校二人と共に、ダグラス輸送機の人となった。
そして、禎二郎たちの基地に戻る途中、グラマン戦闘機の餌食となって為す術もなく、撃墜されてしまったのだった。
禎二郎たちは、西沢たちが乗った輸送機が到着しないので、粟を食ったが、撃墜された事実を知らされると、
「くそっ、中島の野郎!」
「あの野郎、絶対に許さねえぞ!」
そんな怨嗟の声が、基地内に谺したが、死んでしまった者は仕方がない。
岡村司令も中島少佐を名指しで憤りを表したが、それでも、直掩の命令を出した自分に責任があると…涙を零すのだった。
中島少佐は、台南航空隊の飛行隊長を務め、ラバウル航空隊の最強時に何度も先頭で出撃した名飛行隊長だった。
よそ者の兵隊たちとは反りが合わず、反目したまま別れたが、西沢たちのように昔からの仲間からは慕われていたという。それが、特攻が始まると、鬼のように隊員たちを次々と特攻に送り込むことから、「死神少佐」と揶揄される始末で、戦後も搭乗員の間では、蛇蝎のように嫌われる存在となっていた。
西沢たちの零戦4機も特攻機として使用されてしまったが、元々の所属が違うので、中島少佐が取り上げる権限はないのだ。
岡村司令にしてみれば、それが悔しくてならなかったのだ。
開戦初日から搭乗員として勤務し、100機を超える撃墜数を誇った西沢広義が、戦闘機ではなく、武装もない輸送機で戦死するとは、運命の皮肉としか言いようがなかった。
禎二郎は、還って来ない西沢機を追い求めて、夕暮れの空を呆然と見詰めるしかなかった。

数回にわたるフィリピンでの特攻作戦が終わると、禎二郎たちの直掩任務も終了した。禎二郎の小隊は解散となり、残された飛行兵のほとんどは日本に呼び戻され、飛行隊の再編成に取り組むことになった。
そして、禎二郎が配属されたのは、ラバウル航空隊の名将、小園安名大佐率いる第302航空隊だった。そして、そこで禎二郎は、運命の愛機「零戦改」に出会うのだった。
ところで、禎二郎たちのような下の者には何も知らされなかったが、日米戦争は、別の局面を見せ始めていたのだ。
当初、台湾沖航空戦の大勝利を信じて発令された「捷一号作戦」は、大本営の判断ミスによってアメリカ機動部隊に損傷はなく、フィリピンの各基地航空隊は、連日の空襲によって壊滅状態になってしまっていた。
やむを得ず、大本営は密かに大西瀧治郎中将に命じて「体当たり」による特攻作戦を発動し成功を収めたが、それは、搭乗員たちの士気を著しく低下させ、大本営や政府に対する不信感を募らせる原因ともなっていった。
このころになると、特攻に反対する指揮官や搭乗員は、その不満を口にするようになり、海軍内部にも綻びが出始めていた。
ところが、捷一号作戦は、思わぬところで賽の目が転び始めていた。
それは、連合艦隊が総力を挙げて出撃させていた艦隊が、レイテ湾への突入に成功したのである。
空軍力を持たない艦隊など、アメリカ機動部隊の攻撃によって悉く粉砕される…とだれもが考えていたが、栗田健男中将が率いる第1艦隊がレイテ湾に突入し、戦艦大和の主砲を以てアメリカ輸送船団と差し違えたのである。
アメリカ海軍のハルゼー提督を指揮官とするアメリカ機動部隊の主力は、貝塚武雄少将率いる日本の機動部隊の囮作戦に嵌まり、レイテ湾に少しの隙ができた瞬間に、戦艦大和を初めとする10隻の艦隊が、レイテ湾への侵入に成功したのだ。
貝塚艦隊を発見したハルゼー艦隊により、航空母艦瑞鶴は沈没、その兵力のすべてを失ったが、それは、貝塚少将自身が身を捨てて囮となった成果であった。
貝塚少将は、連合艦隊司令長官になった小沢治三郎中将を尊敬しており、この囮作戦自体、小沢中将が発案して実行されることになった無謀な作戦だった。小沢中将は、
「この機動部隊は、儂が率いて突っ込む!」
「こんな無茶な作戦を兵たちに強いるには、長官だろうがなんだろうが、率先垂範しかあるまい!」
そう言い張ったが、瑞鶴の艦長だった貝塚少将が、
「それなら、私が参ります!」
「私が自分の部下を率いて、この囮作戦を成功させますので、大和にはぜひ、レイテ湾に突入して貰いたい!」
この二人の関係があったからこそ、無謀と思われる作戦が可能になったのだった。そして、それは見事に成功し、貝塚少将は、瑞鶴とともにフィリピンの海に沈んだのである。
レイテ沖海戦は、そういう意味で、連合艦隊の最期を飾る戦闘となった。
数日にわたるアメリカ機動部隊の攻撃で、満身創痍になった第1艦隊ではあったが、これを率いる栗田中将は、敢然と戦艦大和を率いてレイテ湾に突入し、数百発の主砲弾をレイテ湾内に停泊する輸送船団に向けて発射し続けた。
これに気づいたアメリカ機動部隊は、護衛空母艦隊に残された艦載機全機に出動命令を出したが、時既に遅く、大和を初めとした日本艦隊は砲撃を開始していたのだった。
それは、30分以上も続いた。そして、航空機に発見された栗田艦隊は、主砲弾を全弾発射した後、アメリカの攻撃機によりレイテ湾に沈められたのである。この戦闘によって、生き残った者は、数十名といなかった。そして、フィリピン作戦を主導したマッカーサー太平洋方面司令官を戦死させ、数万人のアメリカ上陸部隊を粉砕し、大量の戦闘用物資を海の藻屑としたのである。
これにより、アメリカ軍の北上をフィリピンで止めることに成功した日本は、航空部隊を柱に、陸海軍共に再編成に取りかかる時間を得たのである。
日本は、基地航空隊と連合艦隊のほとんどを失ったが、「時間」という貴重な戦果を得ることが出来た。なぜなら、この海戦によりアメリカ本国では、とんでもない事態が起きていたのである。それは、日本のだれもが予想しない事態だった。

アメリカ軍だけでなく、アメリカ政府やアメリカ国民にしてみても、レイテ島上陸部隊の全滅は予期せぬ出来事で、これが報道されると、アメリカ世論は沸騰した。まして、太平洋戦線の英雄であるダグラス・マッカーサー大将までもが戦死してしまうという大惨事が起きてしまったのだ。
「もう、我慢ができない!」
「これ以上、息子たちが死ぬのを見るのは嫌だ!」
「戦争を止めろ!」
真珠湾攻撃で対日戦争に突き進んだアメリカ世論も、ヨーロッパ戦線での死傷者や太平洋戦線での死傷者の数に驚き、まして、ここに来て、一万人以上のアメリカ兵がフィリピンへの上陸を果たせず全滅させられたと聞いて、特にアメリカ女性は、悲鳴を上げた。
各家庭には、次々と戦死の公報が入るようになると、「戦争反対運動」は、アメリカ全土に広がっていった。
こうなると、民主主義国アメリカは弱い。
連邦議会でも、この作戦の指揮官の責任問題やアメリカ政府の戦争指導能力が問われるようになった。
そのうち、真珠湾攻撃の発表も議会が注目するようになり、ルーズベルト大統領やハル国務長官は、その問題の追及に戦争指導どころではなくなっていたのだ。
「ハル・ノートとは何だ?」
「最後通牒を突きつけたのは、アメリカ政府の方じゃないのか?」
「本当に真珠湾は、日本に騙されていただけなのか?」
「詳しく、説明しろ!」
このころになると、アメリカの新聞記者たちもハワイやワシントンだけでなく、様々な方法で取材を始め、アメリカ政府自身の問題点を抉るような記事が掲載されるようになった。
アメリカの青年たちの志願者数も激減し、アメリカ全土に厭戦気分が広がっていった。しかし、そのことに禎二郎たちが気づくまでには、まだ、しばらくの時間が必要だった。

捷一号作戦が終わると、日本海軍は航空機を除いてほぼ壊滅しており、超弩弓戦艦として日本海軍の象徴だった戦艦大和も武蔵もフィリピンの海の底に沈んでいた。
残るは、内地にあった航空基地の戦闘機や攻撃機だけであり、いくら突貫工事をしたところで、数隻の軍艦を建造するのがやっとという有様だった。それに、いくら輸送船団を壊滅させたといっても、アメリカ機動部隊が健在である以上、日本への大空襲は避けられないと考えていた。
ところが、日本が防備態勢にやっきになっていたにも関わらず、日本本土への空襲がピタッと止まってしまったのだ。
大本営は、狐につままれたように呆然となったが、この間に、陸海軍の体制を立て直し始めたのである。
こうして、昭和20年の正月を迎えた。
この間、アメリカ軍の本格的な攻勢は鳴りを潜め、膠着状態が続いている間に、日本でも大きな改革が進められた。
レイテ突入に成功した連合艦隊だったが、指揮官の栗田健男中将や宇垣纏中将は戦死し、生き残った参謀たちの証言により、栗田長官は、艦隊を反転しようとしたことが暴露されたのだ。
戦艦大和内部では、宇垣中将の命を受けた乗組員が栗田長官を始め、その司令部員を「抗命罪」で逮捕監禁し、レイテ突入を成功させたことがわかった。
宇垣中将は、軍律違反を覚悟の上で艦内クーデターを起こし、計画どおりレイテ湾の突入を図った。
栗田司令部で抵抗する者は射殺し、栗田長官やその幕僚は、司令長官室で軟禁状態に置かれ、戦艦大和とともに沈んでいった。
当時、宇垣纏中将は、第一戦隊司令官として戦艦大和と武蔵を率いてレイテ湾に向かっていたが、栗田健男中将の指揮下にあった。栗田長官の座乗した旗艦愛宕が敵潜水艦の攻撃を受けて沈むと、司令部ごと大和に移ってきていた。しかし、作戦の指揮権は栗田中将にある。
宇垣中将は、レイテ湾突入を命じられて第1戦隊を率いていたが、何も知らされないままレイテ湾突入を目前にして、反転命令を出した栗田中将に激しく詰め寄ると、栗田は、
「北方に敵の有力な艦隊が発見されたんだ。これを攻撃する!」
と反論されたが、それでも「それは、命令違反だ!」と食い下がり、大和の森下艦長に命じて、栗田司令部全員を拘束し、宇垣自身が「レイテ湾突入!」を命じたという。
幸い、森下信衛艦長が生き残り、すべてを軍令部の伊藤整一次長に報告したことで、すべてが明らかにされた。また、囮部隊を率いた貝塚武雄少将は戦死したが、その発案者である小沢中将は、彼らの意思を継ぎ、海軍と大本営の大改革を元軍令部総長の職にあった伏見宮大将の協力を得て断行された。
現職の軍令部総長だった永野修身大将は、その曖昧な作戦計画による数々の齟齬を指摘され、一人静かに身を引き予備役となった。そして、伊藤整一中将が大将に昇任し、軍令部総長を引き継いだのだ。
連合艦隊は、小沢治三郎中将指揮の下、航空機優先の海軍へと変貌を遂げることになった。
この大規模な人事が断行できたのも、レイテ沖海戦成功の実績を作った宇垣中将や貝塚少将他の戦死した将兵の奮闘の賜物だった。だからこそ、伊藤軍令部総長も小沢長官も大本営内の権力を掌握できたとも言える。
大本営では、レイテ沖海戦前の台湾沖航空戦の誤報問題も問われることになり、それまでの陸海軍部の参謀たちのほとんどが更迭され、海軍では、小艦艇の艦長や海岸防備の指揮官などに異動させられ、彼らが中枢に戻ることは二度となかった。
陸軍でも台湾沖航空戦の誤報を握り潰したといわれる瀬島龍三中佐をはじめ、全員が地方に飛ばされた。
軍令に背いた栗田中将や指揮権を奪った宇垣中将は、戦死していることから、問題は問われることなく処理されたが、栗田司令部で生き残った僅かな参謀や司令部員は、すべて処分の上、予備役に回され職を解かれた。そして、彼らの多くは再招集され、階級を下げられて海兵団や防備隊に配属された。
中には、上からの命令とはいえ、自分の行動を恥じて自決した参謀もいた。
こうして体制を整えた海軍は、航空部隊を中心に再編成を行い、中小企業にも積極的に声をかけ、新しい航空機の開発に努めることになったのだった。

この大改革で、特に驚きなのが、旧式となった海軍の艦艇をスクラップにして、それを再利用する形で、飛行機の増産に乗り出したことだ。
沿岸に沈められていた昔の艦艇もできる限り引き揚げ、その鉄を再利用して航空機の増産に充てたのだ。
用途のなくなった大型艦信濃までも工事半ばで建造が中止され、その鋼材すべてが航空機に回されることになった。
このことは、日本海軍は、実質は「日本空軍」に再編されたことを意味していた。
こうして、アメリカ軍の攻撃のない3ヶ月間は、日本が息を吹き返すのに十分な時間となった。
当然、東南アジアからの原油の移送も順調に進んだ。
アメリカ軍の潜水艦も、国内の動きに敏感に反応し、ハワイのアメリカ太平洋艦隊司令部も、積極的な作戦命令を出せずにいたのだ。
ハワイでは、
「これは、終戦になるかも知れない…」
というムードになり、兵隊たちにも厭戦気分が広がっていった。もし、終戦になるなら、命を賭けてまで日本への遠征に行く必要もない。
たとえ命令を受けても、各艦の艦長たちは、攻撃に積極的ではなく、少しでも護衛が付いていると、リスクを冒してまで攻撃をしようとはしなかった。
もし、戦死者を出せば、アメリカのマスコミは挙って取材し、その作戦の合理性や正当性を暴き立て、無理な作戦行動を採れば、艦長の責任問題に発展する事態となり、アメリカ政府も軍部も、身動きが取れないでいたのだった。
そして、今は、一隻の輸送船の撃沈より、乗組員の命の方が大切だ…という世論に押される形で、各攻撃部隊の指揮官たちは、今後の情勢を静観する他はなかった。
そう考えるのも、アメリカ人の合理性だと言える。

昭和19年11月初旬。
禎二郎は、内地への帰還命令を受け取ると、それは内地の防空戦隊である302航空隊への転勤命令であった。
禎二郎は、フィリピンで共に戦った仲間と別れ、一機の零戦22型を貰うと、そのまま神奈川県の厚木にある302航空隊の基地を目指して飛び立ったのだ。
戦局は、レイテ湾突入の成功により膠着状態になってはいたが、アメリカ軍は、まだ戦争継続を諦めてはいないようだった。
日本海軍も連合艦隊が壊滅し、航空部隊もその主力のほとんどを失っていた。
もし、ここでアメリカ軍が再度、大規模な攻撃をかけてきたら、為す術なくフィリピンを失っていただろう。しかし、一万人にも及ぶアメリカ軍兵士と最高司令官であったマッカーサー大将の戦死は、アメリカ国民に大きな衝撃を与えたのは事実だった。
その無惨な姿が新聞の一面を飾ると、アメリカの女性たちは連日、各州都で大規模なデモを繰り広げた。
「息子を返せ!」
「恋人を返せ!」
「兄弟を返せ!」
という悲痛な叫び声は、アメリカ全土を多い、女性たちは動員されていた軍需工場で働くことをボイコットするのだった。
一時は、マッカーサー大将の生存説も流れたが、マッカーサーが生き残った形跡はなく、彼の司令部もその幕僚も戦艦大和の主砲弾を受け、跡形もなく消え去っていた。それくらい、30分ほどの間に撃ち込まれた戦艦大和他の艦砲射撃の巨弾は、もの凄い威力を見せた。
「戦艦など、恐るるに足らず!」
と嘯いていたアメリカ海軍の軍人たちも、未だに戦艦が怖ろしい決戦兵器であることをまざまざと見せつけられたのである。
10隻ほどになった栗田艦隊も砲撃の後、護衛空母部隊と、その後、引き返してきたハルゼー中将率いる機動部隊によって悉く沈められはしたが、その奮闘は、後世の海戦史に名を残すものだった。
生き残った者は、全艦艇で100名もいなかっただろう。駆逐艦の小艦艇ですら徹底的に攻撃され、海の上を漂う兵隊たちが、アメリカ軍の手によって捕虜とされただけである。
拘束された栗田艦隊司令部の幕僚たちも、大和の砲撃が始まると拘束を解かれ、最期まで戦った…といわれている。彼らも間違った命令に従っただけで、日本の軍人であることの誇りまで失ってはいなかったのだ。それが、せめてもの償いの気持ちで戦ったのだろう。
栗田中将と小柳参謀長は、砲撃が始めると司令長官室で自殺した。彼らも命令違反を犯しはしたが、やはり、軍人としての矜持は持っていたということになる。しかし、大和艦橋にいた者のほとんどは戦死してしまったので、詳細はわからない。

禎二郎たち基地航空隊の隊員たちが、大和の「レイテ突入成功!」の捷報を聞いたのは、実際の突入があった翌日のことだった。そして、それは連合艦隊の全滅をも意味していた。
そのとき、禎二郎は、作戦の成功を喜ぶとともに、連合艦隊という日本の象徴が失われたことに呆然とした。そして、この戦争が容易なものではないことに、改めて気づかされたのだった。
既に基地航空隊も壊滅状態で、その上、連合艦隊まで失った日本は、この先、どうやって戦争を続けていくというのか…。そして、いつまでこの戦争を続けるつもりなのか…。
いずれ自分は、近いうちに死ぬであろう…としても、日本の行く末が気がかりでならなかった。会津で別れた雪江も、東京でどんな暮らしをしているのか気がかりだったが、それを知る術もなかった。
そんな様々なことを思いながら、零戦に乗り込み、日本を目指して激戦の跡も生々しいフィリピン基地を飛び立つのだった。

禎二郎は、フィリピンの西マバラカット基地から一旦、日本の鹿屋基地に着陸した。
鹿屋は、海軍航空隊の前線基地で、戦前は97式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機を要した大型機の航空隊があった。禎二郎も、漢口では鹿屋航空隊の一員として96式艦上戦闘機を駆使して、中国大陸で護衛任務に就いていた。
その意味で、鹿屋は、懐かしい基地でもあった。
だが、今は、日本最南端の前線基地として使用されており、台湾沖航空戦でもこの基地が使われ、日本の攻撃隊が次々と出撃して行ったのだ。
着陸すると、整備科の下士官が、
「いやあ、なかなか歴戦の零戦ですね…」
「22型ですか…?」
「懐かしい機体です。それにしても、よく使い込んでいますね…」
そんなふうに声をかけてきたので、禎二郎も、
「ああ、よくわかるな…」
「こいつは、エンジンが抜群によくてな…。故障知らずなんだよ」
「フィリピンでも、よく戦ってくれた機体だ…」
そう言うと、
「私も昔、ラバウルで西沢一飛曹の機体を整備したことがありますが、あれも22型でした」
「西沢さんは、操縦が上手くて、機体の扱いが丁寧でしたね…」
禎二郎は、思わず西沢飛曹長の名前が出たので、
「おい、上等兵曹は、西沢を知っているのか?」
と尋ねると、
「はい。ラバウル時代は、まだこっちもひよっこでしたが、随分よくしてもらいました…」
禎二郎が、西沢との関係を話すと、青木…といった整備上等兵曹は、
「では、あなたが、撃墜王の伊東飛曹長ですか?」
「これは、大変失礼いたしました…」
「飛曹長のことは、新聞にも出ていて、こっちでは有名ですよ…」
こうして、この晩は、この青木兵曹の案内で鹿屋の旅館に一泊させて貰えることになった。
兵舎で食べる食事と違い、旅館の食事は戦時下とはいいながらも、地元で獲れた魚の刺身もあり、戦塵の垢を温泉で洗い流すことができた。

翌日、早朝から禎二郎の零戦22型を整備してくれていた青木上整曹は、禎二郎に「昼飯用に…」と笹の皮でくるんだ握り飯をとサイダーを手渡すと、
「では、伊東飛曹長。西沢飛曹長の分まで、願います!」
そう言って見送ってくれたのだった。

それから、禎二郎は、二時間ほどの飛行で、厚木飛行場に到着した。
12月の厚木基地は、冬の最中で寒かった。飛行場も造成中で、まだ殺風景だったが、多くの作業員が出ており、急ピッチで造成は進んでいるようだった。
一本だけ使える滑走路に着陸すると、それを見ていたのか、周囲の作業員から拍手が湧いて禎二郎は驚いたが、作業を指揮している島田という少尉が、
「やあ、すみません。作業をしているのが、甲種予科練の連中なもので、是非、零戦が着陸するのを見たいと言うので…」
「本当に、すみません」
話を聞くと、作業には土浦航空隊の甲種飛行予科練習生の14期が集められているとのことだった。
禎二郎は、その少尉に、
「いやあ、自分も甲種の2期です」
「伊東禎二郎飛行兵曹長です。よろしく願います」
すると、その少尉は、
「私は、予備学生13期の島田達夫少尉です。一応、ここの月光戦闘機隊の隊員ですが、まだ、出撃もしたことがありません」
「甲種2期ですか…。どうりで三点着陸が見事なはずです」
そんな会話を交わしていると、周囲から「甲種2期だって…」などと囁く声が聞こえた。
この少年たちは、禎二郎の10期以上下の予科練生ということになる…。
そんなことを思っていると、その島田少尉が、
「じゃあ、全員、甲種の先輩に対して敬礼!」
と号令をかけたので、禎二郎は驚いてしまった。
まさか、着任早々、こんなに手荒な祝福を受けることに驚いたが、どの顔も幼いが、弾けるような笑顔が眩しかった。
この少年たちには、こんな作業でも、第一線の戦闘機や搭乗員を間近に見られることが嬉しいのだろう…と考え、こちらも笑顔を見せることにした。
それは、自分の予科練時代を思い起こさせる出来事になった。
それに、内地は空襲もなく穏やかに見えるが、それは、ほんのひとときのことになるだろう。
アメリカ軍が、再び全力で向かってきたら、日本本土は焼け野原になることは間違いないのだ。
禎二郎は、機体を掩体壕のある付近まで移動させると、多くの整備兵が集まってきた。
禎二郎が、荷物を持ちながら零戦から降りると、一人の整備兵が、
「伊東少尉。お待ちしておりました!」
「早速、予科練の連中から歓迎を受けておりましたね…」
と元気に挨拶をするではないか。
禎二郎は、飛行兵曹長の階級なので、
「おいおい、俺は兵曹長だよ。少尉じゃない!」
「ほら、階級章も兵曹長だ!」
そう言って金筋一本の階級章を見せると、その整備兵は、「おかしいな?」という顔をするので、何か、連絡が間違っていたんだろうと思っていた。
よく見ると、その整備兵は、フィリピンの西マバラカット基地にいた吉永二等整備兵曹だった。
「なんだ、吉永じゃないか…?」
「元気だったか?」
禎二郎が思い出したように言うので、吉永兵曹は、
「なんだ…じゃないですよ。忘れたんですか、伊東さんの機体を整備したじゃないですか…」
と不服そうに言うので、禎二郎も、
「いやあ、すまん、すまん。内地に来てぼうっとしておった…」
そう言って笑い合うのだった。
吉永とは、おそらく、一年ぶりくらいだったろう。
あの激戦の最中、いつも目をつり上げて必死に戦っていたので、ゆっくり話をしたこともない。だが、内地では、ゆっくり顔を見る機会もあるのだ。そう思うと、生きている実感を持つ禎二郎だった。
そして、二人の会話に、周りの若い兵たちも、禎二郎に笑顔を見せていた。
フィリピンでは、みんな険しい顔をして、必死に戦っていたことを思えば、内地に来て、こんな温かい雰囲気を味わうことになるとは、思ってもみなかった。
すると、後方から、顔見知りの分隊長がやって来た。それは、今や302航空隊零戦隊の分隊長になっていた、あの黒岩中尉だった。
「おう、伊東少尉。元気だったか?」
「貴様が来ると聞いていたんで、みんなで待っていたんだよ…」
「まあ、こっちだ。司令がお待ちかねだぞ!」
そう言われて、禎二郎は、
「黒岩中尉。みんなが私のことを少尉、少尉って言うのですが、私はまだ兵曹長ですが…」
と尋ねると、
「いや、貴様は昇任しているはずだ。今度、戦闘機隊に伊東禎二郎少尉が着任するって、掲示板に紙が貼ってあったぞ!」
と言われ、禎二郎も「本当か…?」と思ったが、確かに、そろそろ昇任してもいいころではあった。
昭和14年に海軍に入って5年が過ぎ、兵曹長になってからでも1年は経っている。まあ、どちらでもいいことだが、准士官と士官では、発言力も違うから、昇任は有り難かった。
黒岩中尉に促されて司令部に向かう途中、広大な航空基地が着々と出来上がっていく様子が見えた。なんでも、小園司令が海軍省と交渉して優先的に資材や人を回して貰っているのだそうだ。
よく見ると、兵隊の他に一風変わった男たちや、どう見ても地域のおばさんのような人もいて、ワイワイと作業をしているのだ。しかし、どの顔も暗くはない。屈託のない笑顔を見せながら、作業をしている姿は、フィリピンでは考えられなかった。

禎二郎が、本部の建物に入り、司令室に挨拶に行くと、小園司令が出迎えてくれた。
小園大佐とは、ラバウル航空隊時代に少しだけ世話になったことがあり、顔見知りではあったが、それほど親しく話したこともなく、ここに呼ばれたことも不思議だった。
司令室に入るなり、
「おう、伊東飛曹長。いや、少尉。よく来てくれた…」
と、髭ダルマのような丸い顔に白い歯を見せて、まるで旧知の仲のように迎えてくれたので、こちらとしても正直、戸惑っていた。
禎二郎が、「はあ…?」という顔をすると、
「君は、この11月1日付けで少尉に昇任しておる…。これが、辞令だ」
そう言って、辞令の紙と階級章を手渡してくれた。
まあ、戦時下で禎二郎にとっては、兵曹長だろうが少尉だろうが、そんなものはどちらでもよかったが、くれるというのだから…と、いただいておくことにした。
小園大佐に椅子を勧められ、フィリピンでの話になると、司令は、
「そういえば、西沢…、残念だったな」
「ああいう男こそ、今の日本海軍には最も貴重な人間なのに、あのぼんくら共は、そんなこともお構いなしに扱うから、あんなことになるんだ…」
「生きておれば、俺たちの何倍もの働きをしてくれたものを…」
小園大佐という人は、激情家で人情味が厚いと評判だったが、まさに、西沢のことを思う姿は、ラバウルで見た小園副長そのものだった。
「ところでな伊東少尉。君のことはラバウル時代からよく知っておる。隊が違うんであまり声もかけられなかったが、あの西沢が、君のことを絶賛しておったんだ…」
「実は、何度も君の隊の司令に、君が欲しいって掛け合ったんだが、けんもほろろに断られたよ。何でも欲しがっちゃだめだ…ってね」
「だが、今度ばかりはそうはいかん。この隊は、アメリカとの最終決戦用に育成する隊だからね」
「君のような優秀な指揮官が、この戦争の勝敗を左右する…と私は確信しておる」
そこまで熱く語ると、顔を和らげ、
「ところで、少尉。着任早々で済まないが、至急、明朝にでも長野の諏訪に行ってくれんか…?」
これまた吃驚である。
「諏訪…ですか?」
「ああ、諏訪だ。そこで、ある秘密兵器を試して貰いたいんだ…」
小園司令の秘密兵器好きは海軍部内でも有名で、いろいろな意見を軍令部や海軍省に具申しては、騒動を起こす人物だった。ただ、夜間戦闘機「月光」に装備した「斜銃」は、ラバウル時代に大成功を収め、小園大佐の名は、天下に轟いたのだった。
その小園の「秘密兵器」話が、また出て来たというわけだ。
小園は、こちらの話を聞く暇を与えず、二人の部下を付けるから…と強引に申し渡すと、禎二郎に握手して、さっさと部屋を出て行ってしまった。
これが小園流の歓迎の仕方なのだろう。
黒岩中尉によると、ここまで歓迎された搭乗員は、雷電の赤松少尉以外にはいなかった…ということだった。
赤松貞明少尉といえば、禎二郎たちの大先輩で、操縦練習生出身の操縦の神様みたいな人だった。
性格が豪胆で、大酒飲み、女好き、喧嘩や博打なんでもござれ…の剛の者だったために、上官とも衝突し、そのためか同期と比べて昇任が遅いと言われている。
年も30を越えているはずだから、早い者は大尉になっているはずだった。
階級は禎二郎と同じでも、海軍のキャリアが違う。向こうは、10年は海軍で飯を食っている古参兵なのだ。
あの小園司令でも赤松少尉には敬語を遣い、扱いは佐官並だと噂される人物だった。
赤松少尉は、自称、撃墜数350機を数え、その巧みな操縦術があればこそ、あの難しい雷電、そして新型の雷電改を操縦できるのだ。
禎二郎にしてみても、到底追いつきそうもない卓越した技術の持ち主だった。その赤松少尉と同じ待遇を与えられたとすれば、光栄以外の何ものでもない。
禎二郎は、小園司令が密かに自分を高く評価してくれていたことが嬉しかった。
残された禎二郎は、小園司令の命令を考え、副長の菅原中佐と黒岩中尉に、
「副長、本当に明朝行った方がいいんですか?」
「うん、悪いが、朝飯を食ったら、そのまま行ってくれるか?」
「諏訪に海軍の諏訪飛行場がある。ちょうど、三座の彩雲偵察機がある。あれで、行ってくれ…」
そう言うので、仕方なく了解すると、副長は、
「その部下だが、今頃、第二士官室で待っているはずだから、打ち合わせをしてくれたまえ…」
そう言うと、敬礼をして、副長も司令室を出て行ってしまった。
黒岩中尉は、
「なあ、伊東。俺は、分隊長と言っても、このとおり眼をやられてな。昔のようにはいかんのだ…」
「それで、おまえに白羽の矢を立てたというわけさ…。もう、おまえのような熟練搭乗員は残っていないからな…。すまんが、頼むよ」
「じゃあ、また、ゆっくり話そうじゃないか?」
そう言うと、自分の隊の訓練に出て行ってしまった。
黒岩中尉は、大東亜戦争が始まると艦隊勤務が続いたが、ミッドウェイ海戦の後そのときのけがの後遺症なのか、白内障を患い、視力が著しく低下したそうだ。操縦はできるが、空戦は難しいとのことだった。ただし、その飛行技術は卓越しており、若い搭乗員の訓練を一人で担っていた。
それでも、
「いざとなれば、俺も空戦に参加するよ。俺たち搭乗員の死に場所は、地上じゃない。あの大空さ…」
そう言って、また、外の作業に戻っていった。
残された禎二郎は、従兵が出してくれた日本茶と厚切りの羊羹を頬張って、第二士官室に向かうのだった。
久しぶりに味わう米屋の羊羹と渋い日本茶は、旨かった。

禎二郎の部下に任命されたのは、佐藤尚上等飛行兵曹、高安輝一等飛行兵曹の二人だった。二人とも、フィリピンの前線から還ってきた連中で、禎二郎は、幸いにも二人と顔見知りだった。
第二士官室に入ると、二人は、直立不動の姿勢で立っているではないか。
禎二郎が、
「なんだ、佐藤と高安か…。まあ、とにかく無事でよかった…」
と、声をかけると、二人とも、
「いやあ、飛曹長、おっと少尉。ここは窮屈でいけません。下士官の集会室で話しませんか?」
と、禎二郎を促すので、そうすることにした。
そりゃあそうだ。
下士官の二人にとって、こんな幹部が使う第二士官室にいたら気詰まりに違いない。禎二郎だって、なりたての少尉が落ち着ける場所じゃない…と、さっさと下士官室に向かうのだった。
下士官用の集会室に入ると、雑談していた下士官たちが、ザッと立ったが、佐藤上飛曹が、「いいから…」と促すと、みんな、そそくさと出て行ってしまったので、禎二郎たちは、早速、打ち合わせに入った。
かれこれ、1時間以上話し合ったが、それは今後のことというより、フィリピンでの戦いが中心になった。
佐藤や高安は、中島少佐の指揮下ではなかったために、特攻要員に指名されずにすんだようだが、同期の中には、中島少佐から直接指名されて、泣く泣く特攻に出た者もいたようだった。
二人とも、易々と特攻作戦を命じた大西中将や山本司令などを詰っていたが、特に、飛行長だった中島少佐に対しては、余程、腹に据えかねたことがあるらしく、悔しさを滲ませていた。
その中島少佐は、フィリピンの特攻作戦が終わると内地に帰還し、新たな特攻隊の編成を主張したそうだが、新しく連合艦隊司令長官に着任した小沢治三郎中将や軍令部の伊藤整一大将に「特攻作戦中止!」を厳命されると、一人寂しく、遠く離れた朝鮮の元山航空隊に飛行長として転勤していった。
もう、内地では中島少佐の悪評は立ちすぎて、どの航空隊でも「来るな!」の大合唱だったそうだ。
それにしても、なぜ、中島少佐は、あれほど狂ったように特攻作戦を推し進めたのかわからない。戦争に魅入られたのか、とにかく不思議な人だった。
そんなことを話ながらも、明朝の打ち合わせを済ませ、出発は、〇八〇〇。操縦は佐藤、偵察席に禎二郎、そして、後席が高安ということになった。
彩雲は、操縦席と後席には機銃があり、敵機に遭遇しても戦えるが、禎二郎の偵察席には何もないので、運命を二人に預けるしかなかった。戦闘機乗りとしては、非常に心許ない。
あの西沢飛曹長が、輸送機に乗ったときも、そんな感じだったのかも知れない。やはり、戦闘機乗りは、自分で操縦桿を握っていたいものなのだ。しかし、階級上それも仕方のないことだったし、佐藤も2000時間近く飛んでいる搭乗員だ。何も心配はいらなかった。

年末の冬の朝は寒い。
あてがわれた第二士官室は、主に下士官上がりの兵曹長から中尉までの士官・准士官がいたが、禎二郎が挨拶をして部屋に入ると、さっき声をかけてくれた若い予備学生出の島田達夫少尉が挨拶に来てくれた。
どうも、禎二郎のことは隊内で、かなり広まっているらしく、食事に士官食堂に行くと、撃墜王で有名な赤松少尉が、声をかけてくれた。
「よう、伊東少尉、久しぶりですな…。中国の漢口基地以来じゃないですかね…」
笑顔でそう言うと、禎二郎に手を差し出し、そのごつい手で禎二郎の右手を握りしめた。握力は昔のままで、彼の腕っ節は昔から有名だった。
そこに黒岩中尉が現れ、三人で朝食を食べながら話をしたが、禎二郎は米の飯が久々だったために食べるのに夢中になっていた。
また、それを赤松少尉が茶化す。
「おう、伊東少尉は、昔からよく飯を食いますな…」
禎二郎は、飯を頬張りながら味噌汁を口に流し込むように食べるので、あまり言葉が出せず、ウンウン…と頷くばかりだった。
この大飯喰らいは、マタギ時代から変わらず、とにかく詰め込めるときに詰め込む…といった習慣は変わらなかった。
それに、3人ともにあまりゆっくりも出来ず、「また、後で…」と挨拶をして赤松少尉はライフジャケットを肩に担ぐと、外に飛び出していった。
赤松少尉や黒岩中尉は、禎二郎の先輩搭乗員で、彼らは予科練が出来る前の「操縦練習生」出身のベテラン搭乗員だった。
禎二郎が初めて着任した漢口基地では、二人は既に主力の搭乗員で、禎二郎が黒岩一空曹に教えて貰ったように、赤松一空曹も若い搭乗員を抱えて、熱心に指導している姿を見ている。
食堂や下士官室で一緒になることはあったが、こちらは着任早々の若年者で、向こうはベテランということもあり、小隊や分隊が異なると、あまり話をする機会もなかった。それでも、自分のことを覚えてくれていたことが嬉しかった。
赤松少尉は雷電隊の分隊士で、黒岩中尉は、零戦隊の分隊長を務めていた。
ただ、赤松少尉は今でも現役の搭乗員だが、黒岩中尉は、教官配置のような仕事に就いていた。眼を痛めている黒岩中尉は気の毒だったが、逆に言えば、それだけ赤松少尉が凄い飛行機乗りだということが言えるのだ。
彼らは、日本海軍の至宝とまで言われる搭乗員だったが、あの小園大佐が、その名声を知って、強引に他の隊から引き抜いてきたと言われている。
小園大佐は、軍令部や海軍省に出向くと、参謀を捉まえ、
「日本の帝都を守る防空戦隊を創るんだ。残っているベテラン搭乗員を全部よこせ!」
と、強気でガンガンと交渉したせいか、または、伊藤整一総長が配慮したのかはわからないが、多くのベテラン搭乗員が302航空隊に揃っていたことは間違いない。
本当は、ラバウルやフィリピンで活躍した菅野大尉や鴛淵大尉も欲しかったようだが、そちらは、松山基地に本拠地を置く343航空隊に取られてしまった。彼らは、海軍兵学校出のエリート搭乗員だから、小園司令とは少し肌が合わなかったのかも知れない。
そして、この松山の343航空隊こそが、紫電改を擁する源田実大佐の部隊である。
343空は、松山から長崎の大村基地に移動し、佐世保から呉までの海軍基地の防衛を担い、活躍し始めていた。
ただ、小園司令は、このエリート街道を走っている343空の源田実大佐が嫌いで、常にライバル視していた。そして、
「いいか、源田の343空なんかに負けるんじゃないぞ!」
と部下の搭乗員を叱咤することが多く、「東の302、西の343」とまで呼ばれるようになっていた。
実は、特攻作戦を大本営参謀時代に計画したのは、この源田実だといわれている。特攻に大反対だった小園大佐にしてみれば、獅子身中の虫というくらい、源田大佐を毛嫌いしていたらしい。
まあ、どちらもかなり癖のある人間だったので、好き嫌いは分かれるところだろう。

翌日は、冬晴れの快晴だったが、外の気温は既に2℃くらいまで下がっていて、禎二郎は、軍服の上に冬の飛行服を着用し、靴下も毛の物を二枚履いて寒さ対策をしていた。
幸い、マフラーは母と姉の千恵が田舎から送ってくれた純毛の白いマフラーに替えており、手袋も冬用の特注品だった。
この革の手袋は、鹿の革をなめした物で、父弦一郎が仕留めた鹿の革で作った聞いていた。
禎二郎が、中国大陸から日本に帰国し、霞が浦で予備学生や予科練の教員をしているときに、田舎から送ってくれたものだった。ただ、禎二郎はマメに手紙のやり取りをしていたが、日本に帰国してからも故郷に帰ることは一度もなかった。
それは、弦斎や弦一郎も望まなかったし、禎二郎も里心が付いて判断が鈍ることを怖れたのかも知れない。
それに、飛行機乗りとして戦闘機で戦う以上、戦死は日常の中にあった。そういう意味で、禎二郎は最後までマタギなのだ。

レイテ沖海戦以降、アメリカ軍の本格的な攻撃は鳴りを潜め、不気味ではあったが、日本国内も防空体制が着々と整えられていった。たまに、B29の偵察機型が飛来したが、おそらくは、サイパン島かテニアン島辺りから偵察に来るのだろう…とみんなで話していた。
小園司令によれば、アメリカ国内で反戦運動が広がり、議会でも戦争関連予算が通らないのだろう…と言うことだったが、このまま中途半端に終わるはずがない。
昨日の赤松少尉たちの話によれば、日本としては、硫黄島あたりに攻撃をかけてくるアメリカ機動部隊を徹底的に叩き、それを以て講和を働きかけたい意向だと聞いた。
硫黄島には、アメリカ通の栗林忠道中将が小笠原兵団長として着任しており、徹底的な防衛策を講じているらしい。そして、今日の禎二郎たちの長野行きは、そのための新型兵器の完成度を確認するねらいがあるのではないか…と言うことだった。
禎二郎は、「新型兵器か…?」と少し眉唾物ではないか…と感じたが、小園司令が言うのだから、案外、優れ物かも知れないと考え、「よし!」と、緩んだ気持ちを引き締めて、滑走路に出た。
そこには、既に佐藤と高安の姿があり、彼らは、慣れない「彩雲」偵察機の機内を確認し、暖機運転を整備兵と一緒に始めていた。
「おう、遅くなってすまん…」
そう言うと、二人は機上から敬礼をして、禎二郎を迎えてくれた。
偵察席に座ると、そこには、弁当の包みが載せられており、佐藤上飛曹が、
「何でも、主計科からの差し入れだそうです。昼飯にでもしてくれ…とのことでした」
よく見ると、いなり寿司に海苔巻き、そして、ゆで卵一個にサイダー一本が添えられていた。
「ほう、なかなか豪勢じゃないか。気の利く主計科だな…」
そう言うと、弁当の包みを脇に置き、禎二郎も機上の人となった。
この「彩雲」という偵察機は、昭和18年の終わりころから運用され始めた偵察専門の三座の飛行機で、2000馬力級の中島飛行機の「誉エンジン」を搭載していた。
最高速度は時速600㎞を優に超え、高速偵察機として期待されていた飛行機だった。
製造は中島飛行機で、誉エンジンが順調に動いてくれれば、文句はなかったが、このエンジンが、なかなか癖のあるエンジンで、整備兵泣かせだと聞いていた。しかし、今日は、頗る調子がいいようだ。
厚木から諏訪までは、200㎞程度だがら普通に飛べば1時間もかからずに着いてしまうのだが、久しぶりの日本なので、高度4000mを取り、一旦、偵察飛行の為に、太平洋に出てから諏訪を目指すことにした。
「じゃあ、佐藤兵曹頼んだぞ!」
と声をかけると、前席から「はあい!」という返事があり、後席の高安からも「こっちも準備OKです!」と返事があった。
禎二郎は、取り敢えず航空図を確認し、本部との無線通話を試みた。
「こちら、伊東少尉。通信室どうぞ…」
すると、即座に通信室が応答した。
「こちら厚木基地。彩雲発進よろし。準備整い次第発進を許可する!」
さすがに厚木基地の通信設備は抜群だった。
新しい通信システムとは聞いていたが、ラバウルやフィリピンの比じゃない。これなら、安心して飛行できる…と確信した。
高安は、備え付けの13粍機銃を取り出し、本気で撃つつもりらしい。
敵機もいないのにバリバリバリ…と撃たれては、禎二郎も機長として困るので、
「高安、勝手に機銃を撃つなよ!」
と命令しておいた。
これでは、まるでピクニックに行く学生みたいになってきた。
禎二郎が、
「よし、発進せよ!」
と命じると、佐藤上飛曹が、「了解!」と応えて、風防を開けて車輪止めを整備員に外させた。
間もなくエンジン音が高まり、機体がスルスルと滑走を始めると、厚木の整備兵たちが、一斉の帽振れで見送ってくれたので少し恥ずかしかった。
「何だよ…。出撃でもあるまいし…」
そう思ったが、早朝からの飛行だったので、みんなも少し物珍しさがあったのだろう。
空は冬晴れで断雲が少しあるだけで、絶好の飛行日和だった。それに、最近は、敵機の侵入もないので、気持ちものんびりしていた。こんな気持ちで飛行するのは、戦争が始まってからは初めてだった。
それでも、長年の習慣か、周囲を見張ることは忘れず、偵察席に座る機長として双眼鏡を取り出し、周囲360度の確認を怠ることはなかった。

厚木飛行場を飛び立った禎二郎たちの「彩雲」は、30分ほど太平洋上を飛行し、何も発見できないことを確認すると、厚木基地にその旨を報告し、そのまま、諏訪方面に進路を変えて飛行を続けるのだった。
誉エンジンは、大型エンジンの割にエンジン音が静かで、高馬力だという感じが、その振動から伝わって来た。
高度が4000mにも達すると、日本が箱庭のように見え、それは美しい風景だった。この美しい景色を壊されてなるものか…。
禎二郎たち3人は、それぞれが思い思いに下界を眺め、心の中で誓うのだった。

のんびりとした飛行も、それから1時間もすると諏訪湖が見えてきた。諏訪湖上空は、少し雲が多くなってきたが、着陸できないというほどではない。しかし、諏訪上空に達しても、何と、飛行場が見つからないのだ。
佐藤上飛曹が、
「少尉、ここらのはずなんですが、飛行場が見えません…」
「確か、諏訪湖の北西にあるはずなんですが、おかしいですね…」
禎二郎は、航空図を見ながら、そう言えば、副長が別れ際に言った言葉を思い出した。
「あ、そうだ。副長が、到着したら諏訪基地に無線で連絡しろ…と言っていたな…」
「すまん。早速、基地を呼び出すから、上空で待機してくれ…」
禎二郎が無線で諏訪基地を呼び出すと、早速、基地から応答があった。
「こちら諏訪基地。厚木空の彩雲を確認しました…」
「302航空隊所属の彩雲一機、着陸を許可します」
「航空母艦に着艦する要領で着陸を願います。着艦フックを出してください」
許可する…と言っても、どこに滑走路があるのかわからないのだ。
それに、陸上基地になぜ着艦フックが必要なんだ?
疑問を持ちながら、上空で諏訪湖を二周すると、霧訪山の麓近くにカムフラージュされていた覆いが取り外され、一本の滑走路が見えてきたが、如何にもそれは短いものだった。
後席の高安が、
「えっ、こんな短い滑走路じゃ、着艦フックがなければ止まりませんよ…」
と驚きの声を上げた。
禎二郎は、佐藤に、
「着艦の要領で着陸しろ…とのことだ。佐藤、頼んだぞ!」
そう言うと、佐藤上飛曹が、
「はい。私は着艦が得意ですから、まかせて下さい…」
確かに、禎二郎が見ても、見えている滑走路部分は、航空母艦のそれに近い短いものだった。
ところが、よく見ると、山の奥の方につながっているのがわかった。それは、山のトンネルの奥が明るくなったからである。どうやら、山の奥はトンネルになっていて、照明が点灯したようだった。
ああ、あそこか…、それにしても用心深いものだ…。そう思いながら早速、
「直ちに、着陸態勢に入ります…」
基地にそう告げると、佐藤は、航空母艦に着艦するかのような態勢で飛行機を操り、その滑走路の上に三点着陸を行った。
機体は、トンという静かな音とともに着陸すると、三本張ってある一番奥のワイヤーにフックを引っかけて着陸したのだ。
トン!という音はしたが、さすがにスムーズな着陸に、
「さすが、ベテラン搭乗員…」
と声をかけたが、佐藤は、当然とばかりに反応はなかった。
機体は、スルスルとそのまま進み、トンネルの入り口付近で機体を停止することができた。
滑走路は、よく見ると鉄板が敷き詰められており、通常は土か草原なのに、ここは、まさに陸の航空母艦という不思議な基地であった。
この諏訪基地は、航空図には載っておらず、海軍の秘密基地として開戦と同時に建設され、市民にも知らされていないようだった。

基地の誘導員の指示で、そのまま10mほど奥に進むと、禎二郎たち三人は、そこで飛行機から地上に降り立った。
トンネルの奥は、まだ、ずっと続いており、この山自体が秘密基地のようになっているようだった。
彩雲から地上に降りると、迎えに来ていた下士官が、確かめるように禎二郎たちを眺め、
「302空の伊東少尉以下二名ですね…」
そう言うので、
「はい。302空の伊東少尉、佐藤上飛曹、高安一飛曹です」
と自己申告をして案内を請うた。
その下士官の案内で奥に進むと、中は、陸上基地というより、やはり軍艦の艦内のような雰囲気があり、禎二郎たちにとっても大きな違和感はなかった。
佐藤が、
「少尉。ここで新兵器を造っているんですかね…」
と聞いてくるので、
「ああ、おそらく、小園司令は、それを言っているんだろう…」
基地内には、兵隊ばかりでなく、ネクタイを締めた民間の技術者らしい人も見かけ、事務所らしき場所には、女性の事務員の姿も見えた。

滑走路を抜け、大きな鉄の扉を開けると、上の方に階段が続いていた。
すると、
「皆さんは、エレベーターをお使い下さい…」
そう言うので、奥に行ってみると、何と、軍艦と同じような鉄の箱があるではないか。
このころは、一般にはまだ普及されていなかったが、特に航空母艦には、自動昇降機、いわゆる「エレベーター」が必需品だった。艦内の格納庫から飛行機を上甲板に上げるのには、この機械が不可欠で、禎二郎も航空母艦に乗ったときに見せて貰っていた。だから、海軍の航空兵には珍しい代物ではなかったが、陸上基地にあるのは初めてだったので、少し驚いた。
下士官の話によると、この基地は、地下も合わせると12階建てのビルディングの高さに相当するそうだ。
基地の司令部等の施設は、山の中腹にあり、そこまで階段で上がるにはしんどい…ということらしい。
エレベーターは、意外と速いスピードでグングン上がり、途中の7階で停止した。
下士官の案内はここまでのようで、
「後は、このまま左手に進んでいただき、副長室にお入り下さい。副長の岩倉中佐がお待ちしております…」
禎二郎たちは、そう言われて、飛行服のまま副長室のドアをノックした。
中から、「入れ!」という声があり、中に入ってみると、副長らしき中佐とネクタイを締めた民間人が二人立っていた。
「伊東少尉以下三名、302航空隊より派遣されてまいりました」
そう申告して敬礼をすると、
眼鏡をかけた岩倉中佐が、温厚な顔を見せて、椅子を勧めてくれた。
「いやあ、厚木の航空隊の皆さん。わざわざご足労をおかけしました」
「えっと、こちらは、明誠工業の坂本技師と花島技師、二人とも民間の航空機技術者です」
「明誠工業…?」
明誠工業といえば、老舗の機械メーカーだが、どちらかというと技術者養成が専門の学校だったはずだ。それが、なぜ、この実戦部隊にいるんだ…?と不思議な気もしたが、そう紹介されたので、禎二郎たちも改めて自己紹介をした。そして、この二人の技師に伴われて向かったのが、新型兵器の置いてある格納庫だった。
この基地は、面白い造りになっていて、地下の滑走路からエレベーターで上に上がると、五階部分がちょうど外につながっている部分で、禎二郎たちは、階段で二階下まで下りると、そのまま外に出てみた。
冬晴れの天気のせいもあるが、そこからみる一面の諏訪湖は、絶景である。
思わず、「おーっ…!」と感嘆の声を漏らすほどだった。
それにしても、この諏訪基地は、大がかりな秘密基地になっていた。
確かに、霧訪山の麓から中腹にかけて山を掘削し、そこに滑走路や格納庫、本部や宿舎の建物等を建設しているのだが、周辺は山の木々に囲まれているためか、上空からこの基地を発見することは困難だった。それに、構造も鉄筋コンクリートをふんだんに使い、重要な格納庫などは、それ自体を厚い鉄板で覆っていた。いつ頃から、こんな基地を造っていたのかはわからないが、ここまでにするには、5年くらいの年数はかかっているだろう。
そうすると、戦争前の昭和12年くらいから工事が始まったことになる。あのころなら、海軍の力で資材の調達も出来たはずだ。
禎二郎たちは、舗装された道を10分ほど歩いて、格納庫群のあるところまで歩いた。この道も周囲が高い木々で覆われているため、日射しは入りにくく、冬場は寒かった。それでも、多くの木々のために雪が降っても、さほど積もらないそうだ。
冬枯れの木々を抜けると、そこに諏訪基地の格納庫群があった。それは、岩肌をくり抜いたような半円形の格納庫で、掩体壕を兼ねていた。
その最初の格納庫に禎二郎たちは、案内された。
前面のシャッターが自動でガラガラ…と動き出すと、内部に電灯が灯され、オレンジ色の光りが目の前に飛び込んで来た。すると、そこに1機の零戦が置かれているではないか。
まだ未塗装の銀色の機体は、太陽に照らされ眩しく光っていた。
「なんだ、零戦か…?」
「新型兵器は、どれですか?」
思わず、高安二飛曹が、二人の技師に声をかけた。すると、先任の坂本技師が、
「いやあ、よく見てください。これが、新型の零戦改です…」
禎二郎たちは、いつも見慣れている零戦だとばかり思っていたが、さらに近づいてよく見ると、機体のサイズは、零戦より少し大きかったかも知れない。だが、エンジンの構造が違っていた。それに、叩いてみると機体を覆うジュラルミンの音が重い。
零戦は、軽量化を図るために、気体の内部は穴だらけなのだ。強度は計算されているが、軽量にして、航続距離を稼ぐ手法を採っていたから、搭乗員からしてみると、最初は何となく頼りなく感じたものだった。
そのジュラルミンの板が厚いのだ。つまり、中の鋼材にあまり穴は空いていないことになる。だが、それでは零戦の機体は重くなり、あの軽快な性能は失われるではないか…。
ところが、エンジンを見ると、これまでの「栄エンジン」ではない。
禎二郎は、エンジンのカウリングを叩きながら、
「このエンジンは、なんですか?」
と尋ねると、坂本技師は、
「さすが、伊東少尉。よく気づかれましたね…」
「このエンジンが、私たち明誠工業が中島飛行機と共同開発した金星改1800馬力エンジンです」
「言うなれば、1000馬力の栄と2000馬力の誉、そして大型の金星のいいところ取りをしたエンジンです」
「基本は、金星エンジンを採用していますが、細かな部分は、栄や誉の技術を応用しました」
「結果、最高時速630㎞、武装は、新型20粍機銃2門に13粍機銃1門を搭載しています。携行する弾数もこれまでの1.5倍は積めます」
「後は、飛行性能ですが、機体が頑丈になった分、急降下速度や上昇性のは格段に向上しているはずです」
「確かに、これまでのような格闘性能は若干失われますが、アメリカ軍の新型戦闘機にも負けない戦闘機に仕上がっています…」
二人の技師は、その点はかなり自信があるようだった。そして、
「皆さんには、これのテスト飛行をお願いしたいのです…。ただし、これは、軍の最高機密ですので、この諏訪基地だけで行うことになっています」
そこからは、花島技師に零戦改の新しくなった部分を丁寧に説明して貰うことになった。
およそ1時間余りの説明だったが、どれも納得出来る話ばかりで、禎二郎は十分に理解し、テスト飛行を了解するのだった。
夜は、山の中の宿舎に案内されたが、ここも鉄筋コンクリート造りの建物で、風呂も近くの温泉を引いているとのことで、白濁した湯は、これまでの疲れを癒やしてくれるのに十分だった。それに、諏訪は空襲もないので山菜やきのこ、猪の肉など、禎二郎が食べ慣れた山の味が満載で、三人は、心ゆくまで長い夜を過ごすことが出来たのだった。

翌日からテスト飛行が始まった。
禎二郎たち3人は、それぞれ別の機体を使用してテスト飛行が行われることになった。
禎二郎は、主に巴戦に備えて特殊飛行の性能をテストするように言われていた。禎二郎にしても、得意の「右捻り込み」の技が使えるかどうかは、死活問題だった。
佐藤は、急降下から急上昇への無理な操作を要求されていたし、高安は、燃料や機銃、通信装置、その他の計器類のチェックなどをするようだった。
三人ともに、1500時間以上は飛んでいるベテラン搭乗員の生え抜きだったし、禎二郎は、既に3000時間を超え、どんな機体でも乗りこなす自信があった。ただ、ここの滑走路は、余りにも短い。
坂本技師によれば、
「まあ、見ててください。すぐにわかりますから、心配されないように…」
ニヤニヤとそう言うばかりだった。
禎二郎は、二人より先に格納庫から滑走路の下ろされた零戦改に乗り込んだ。
確かに、よく見るとエンジンが、これまでより少し大きいという気はしたが、乗ってみても視界を邪魔するほどではなかったし、操縦席の計器類の配置も零戦とほぼ同じだった。ただ、機銃の発射装置が、零戦はスロットルのところに付けられた把柄を握る形式が、操縦桿に前と上にあるノブを押す方式になっていた。
20粍機銃は前のノブ。13粍機銃は上のノブを押すことになっていた。
これであれば、一編に3基の機銃を同時に撃つことが出来、効果は絶大だろう。
それに、この機銃は新たに明誠工業が開発した新型の機関銃で、初速がこれまでの機銃の1.5倍の速さがあるという。初速が速いということは、弾道が限りなく直進するということなのだ。
照準器も、新しい型になっており、映像の映りもよく、シャープな印象を受けた。
エンジンも自動起動装置が付いていて、外からエンジンをかけなくても、手元のスイッチひとつでエンジンが始動した。
エンジン音は、栄エンジンより静かだったし、風防を閉めれば、音はほとんど気にならなかった。それより、無線の機材が新しくなっており、飛行帽の耳当てにコードをつなぐと、まさに明瞭に音が入ってきた。それに、飛行帽の顎付近にこちらのマイクが内蔵されていて、これなら、空戦の指揮を執るのも容易になる…と思った。
「へえ、細かいところまで行き届いた機体だな…」
後は、うまく離陸できるかどうかだった。
禎二郎は、いつもの要領で発進の合図を送ると、整備兵が車輪止めを外した。
スロットルを前に押すと、エンジンの回転数が上がり、一気に加速するのがわかる。しかし、滑走距離は短い。
航空母艦なら風に艦の舳先を向けるので、向かい風を作ることが出来るが、ここは山の中だ。向かい風は吹くとは限らない。
そう思っていると、前方に妙な物が見えるではないか。それは、大型の扇風機のようだった。それが、滑走路の端の左右に6基見える。どれもこちらを向いて、羽根が回転しているのだ。
「そうか、人工の風を下から送って揚力を付けるという装置か…?」
禎二郎は、躊躇わずにエンジンを全開にし、操縦桿を少しだけ前に倒すと尾輪が浮いたのがわかった。すると、その瞬間、機体はフワッと浮いて一気に上昇態勢の入るのだった。
なんと、100mも滑走しないうちに離陸するとは、まさに航空母艦と同じじゃないか…とさえ思った。実際、空母赤城の飛行甲板は200mくらいだったはずなのだ。
この諏訪基地の滑走路は、前方に200mほど出ており、山の中に100mほどが隠されている構造だった。
それにしても、前方から風を送るとは、よく考えたものだ。
禎二郎は、離陸するとそのまま諏訪湖上空でテスト飛行を行うことにした。高度は、3000m、時速は350㎞は出ているようだった。そこまでの操縦は零戦と遜色なくスムーズだった。
水平飛行から緩横転、背面飛行、垂直回転、そして、最後に右捻り込みに挑戦してみた。水平飛行状態から機体を滑らせ、後ろにつくであろう敵機に照準を合わせられないように、小刻みに滑らせるのがコツだった。そして、敵機が射撃した瞬間に右に滑らせた状態で捻り込みに入るのだが、零戦改は、この操作を難なく、こちらの意図通りに起動してみせた。
舵の効きといい、スムーズな操作といい、文句の付けようにない機体だった。それに、零戦より100㎞近く速いのだ。
時速500㎞と600㎞は、まるで世界が変わる。
たとえ、敵の後方に付けても、敵が全速力で急降下すれば、零戦では追いつかないのだ。しかし、この零戦改ならば、その急降下に負けず、間違いなく追いついて射撃をすることが出来る。
それに、防弾関係の装備も行われており、航続距離は、零戦の3分の2ほどになってしまったが、国内で戦う以上、これで十分だった。
レイテ沖海戦で連合艦隊の主力を全滅させてしまった以上、もう、機動部隊同士の決戦は出来ない。もし、敵が襲ってくるとすれば、硫黄島周辺の海域での航空戦になることは間違いない。
サイパンやテニアンでは、爆撃機は日本にやってこれるが、戦闘機では無理だ。
硫黄島の攻防戦が起きれば、間違いなく航空決戦になる。
この零戦改ならば、千葉の最南端の基地から戦闘機を向かわせることができる。そして、零戦では太刀打ちできなくなったアメリカ軍の艦載機に十分対抗できるだけでなく、こちらに制空権を奪うことが可能なのだ。
禎二郎は、そう確信すると翼を翻して基地に戻っていった。

諏訪基地に着陸すると、既に佐藤も高安も戻っており、二人とも、零戦改の性能に十分満足したようだった。
坂井技師と花島技師は、禎二郎たちに次々と質問すると機体を整備に回し、そこで、エンジンの不具合とか、無理な操作による機体の不具合とかを点検するのだそうだ。
零戦のときも、何人かのテストパイロットが無理な操作で殉職していた。
禎二郎たちもそうならないとは限らなかったが、それでも、この機体を完成させないことには、アメリカ軍に対抗することが出来ないのだ。そして、この試験飛行は、一週間ぶっ続けて行われた。
新しい機体でも、これくらいの頻度で使用してみなければ、安全性が確認出来ない。
確かに、最後の方になると、オイル漏れが出たり、エンジン音が高く響くようになったりと、小さな不具合が出始めていた。
特に急降下と急上昇を受け持った佐藤上飛曹は、最初のころにはなかった振動に気づき、再点検を要求するほどだった。こうしたチェックがなければ、機体は空中爆発を起こし、佐藤諸共四散してしまうだろう。
戦闘機とは、それくらい過酷な操作に耐えられなければ正式採用にはならない。
こうした作業は、その後も不具合が見つかるたびに調整と整備が行われ、禎二郎たちが解放されたのは、ちょうど、昭和20年の正月になっていた。
このころになると、やはりアメリカ軍も動き始めたようで、フィリピンへの上陸は断念し、そのまま硫黄島を狙う動きが見え始めていた。
情報によれば、アメリカ世論は「戦争を止めろ!」の大合唱が続いていたが、アメリカ政府は、連邦議会に「日本の降伏条件」を提示し、最後の硫黄島決戦を要求していた。
アメリカ海軍と海兵隊の大兵力を以て硫黄島を叩き、日本全土を空襲できる体制を整えることで、日本政府に「無条件降伏」を促すというものだった。
そして、もし、この硫黄島決戦にアメリカ軍が敗れるようなことがあれば、それを以て、日本に講和を持ちかけるというものだった。
ただし、そうなれば、アメリカ世論は政府を許さず、大統領は弾劾されるだろう。とにかく、アメリカ政府は、これ以上戦死者を出すことは、許されない状況に追い込まれていた。
日本の大本営もそのことに気づいており、ここに改めて「捷二号作戦」が発動されるのだった。

既に硫黄島は、最終決戦に備えて、栗林中将の指揮により、島内全域に地下壕と地下通路が完成し、摺鉢山から縦横に通路が走り北の端まで地下で連絡が出来るようになっていた。
日本としては、ここが最後の決戦場になることはわかっていた。なぜなら、硫黄島を奪われれば、アメリカ軍の爆撃機に護衛戦闘機が付けられるからだ。しかし、逆に考えれば、ここを死守できれば、間違いなく講和に持ち込める。アメリカ政府としても国内の反戦の高まりの中で、フィリピンに続く二度の大敗北は許されないのだ。
ヨーロッパ戦線も、やはり膠着状態にあり、日本とアメリカとの勝敗次第では、ドイツが息を吹き返す可能性もあった。
中国戦線でも、蒋介石の支援ルートが滞り、逆に日本陸軍が兵員を増員し、日本や満州からかなりの武器弾薬を運んでいるという情報があった。
満州国では、その工業力を生かして兵器の増産に努めており、いつでもソ連領内に侵攻できる態勢は整えられつつあった。もし、日米間に和平条約が締結されれば、今度こそ、ソ連を叩くチャンスが生まれる…。陸軍部内では、そうした機会を待ち望む声が高まってきていた。
そのためには、この零戦改をこの決戦に投入しなければならなかった。
そう考えると、禎二郎は逸る気持ちを抑えることができなかった。そして、零戦改のテスト飛行がすべて終えたのは、昭和20年の1月の終わりになっていた。
福島の磐城にある明誠工業の工場では、密かに、零戦改の生産に踏み切っており、テストの結果、次々と送られてくる改良点を直し、すぐにでも増産体制に入れる準備を進めていた。それは、中島飛行機の太田工場も同じだった。
そして、増産に入ったのは、2月に入ってからだった。
急ピッチで増産しても100機の零戦改が302航空隊に送られるのは、3月初旬ということになる。それまで、硫黄島決戦が待ってくれればいいのだが、アメリカ軍の襲来を2月末と予測していた軍令部は、とにかく、できる限りの戦闘機を用意し、決戦に臨むことを決意していたのだ。

第六章 硫黄島航空決戦

昭和20年3月1日。
いよいよ、アメリカ軍が本格的に動き出すのがわかった。
最初は、アメリカ海軍の潜水艦による輸送船の攻撃が再開された。
日本海軍は、残された駆逐艦や駆潜艇を総動員して、東南アジア地域からの石油の輸送に万全を期すことになった。
連合艦隊がなくなった以上、護衛するのは戦艦や航空母艦ではなく、虎の子の輸送船である。
1隻の輸送船に1隻の駆逐艦若しくは駆潜艇が付き、徹底的な爆雷攻撃を以てアメリカ潜水艦の侵入を阻むことに成功していた。
このころになると、日本軍もさすがにソナー探知機が各艦に装備されるようになっていた。
もちろん、アメリカ軍のような性能は望めなかったが、それでもぼんやりではあるが敵潜水艦の艦影は映る。音響探知機とこのソナーによって、これまでの数倍は敵潜水艦を発見出来るようになっていた。
こうなると、アメリカ潜水艦も簡単に日本の輸送船団に近づくこともできない。
アメリカ潜水艦の日本の輸送船の撃沈数が激減した理由は、こんなところにもあったのだ。逆に、ソナーの装備によって少なからずアメリカの潜水艦がハワイに戻らない数が増えていった。
それにしても日本の駆逐艦や駆潜艇は、これまで以上に生き生きと働き、場合によっては、輸送船の楯となって駆逐艦がアメリカ潜水艦の魚雷を受けるような戦闘もあり、着実に石油が日本に運び込まれるようになっていた。
昨年末からの3ヶ月は、日本軍にとって貴重な時間であり、アメリカ軍にとっては、みすみす勝利を得る時間を失ったことになった。
日本の輸送船を易々と攻撃できると思っていたアメリカ潜水艦部隊は、戦果が挙がらない代わりに犠牲だけが増え、またもや戦死者を増やすことになってしまっていたのだ。
日本の潜水艦部隊は、特攻作戦がなくなったお陰で、単艦による「自由攻撃」が大本営によって認められ、硫黄島周辺に集まってくるアメリカ海軍の艦艇や兵員を乗せた輸送船を攻撃し始めた。
アメリカ軍は、神出鬼没に出てくる日本の潜水艦に終始悩まされ、硫黄島への終結も予定通りには進まなかった。
それでも、指揮官のニミッツ大将は、硫黄島決戦に向けて、その職を賭す覚悟でアメリカ太平洋艦隊のすべてを硫黄島に投入しようとしていた。
全戦力が集まれば、艦艇約200隻、航空機約2000機、上陸部隊約1万という空前絶後の大部隊での大決戦となるはずだった。
これに対して日本軍は、海軍機1000機、陸軍機1000機を用意していた。それに潜水艦部隊30隻が海中から参加する予定だった。
潜水艦の中には、新型潜水艦「イ号400型」3隻が加わり、搭載された特殊攻撃機「青嵐」各3機が敵の背後から奇襲する準備が出来ていた。
日本の航空機の中には、零戦改や紫電改、新型流星改の海軍機、飛燕改や疾風などの新型機が300機ほど用意されていた。
大本営では、一週間にわたる航空戦で勝利を収め、敵の航空機がいなくなったところで、日本の爆撃機が敵の艦隊を襲う計画になっていた。そして、敵の硫黄島攻略部隊が上陸してきても、栗林中将は、「3ヶ月は頑張ってみせる!」と、自信のほどを覗かせていた。
確かに、硫黄島は過酷な戦場ではあったが、地下壕と地下通路が完成した今、1万を数える陸海軍の精鋭部隊に十分な兵器と食糧、水が送り込まれており、途中の補給がなくても、半年くらいは余裕で持ち堪えるはずだった。
そして、外務省では短波放送で、戦況を逐一世界中に発信し、アメリカ世論を揺さぶる計画になっていた。
こうして、日本は、その当時にできる限りの戦備を整えて敵の来襲に備えていた。そして、「Xデー」は、ついに訪れた。

3月15日。
硫黄島周辺海域に、およそ200隻のアメリカ海軍の艦艇が終結した。しかし、陣容は整ったように見えたが、ハワイから硫黄島までの途中で、日本の潜水艦部隊に翻弄され、既に20隻以上の艦艇が損害を被り、数隻が撃沈され、ハワイに戻った艦艇が続出していた。
それでも総指揮官のニミッツ大将は、硫黄島への終結を急いだのだった。

それは、突然に始まった。
数十隻のアメリカ海軍の戦艦による艦砲射撃の嵐である。
太平洋に浮かぶ小さな小島に向かって、三日間砲撃が止むことはなかった。連日数千発の砲弾が硫黄島に降り注ぎ、緑に覆われていた島は、すべてを焼き尽くされ、焦土と化した。
元々、硫黄の臭いが立ち籠める島だったので生き物は少なかったが、もし、地上にいたとしたら、この三日間ですべてが死滅しただろう。人間も、数秒と生きてはいられないほどの凄まじい攻撃を受けた。
それでも、硫黄島からは銃弾の一発も発射されることはなく、ついに四日目の早朝、上陸部隊1000名が上陸用舟艇に乗り込み、上陸を開始したのだった。
アメリカ海兵隊第1師団の1000名がオレンジビーチに取り付いたとき、海兵隊員たちは、猛烈な反撃を予想したが、それでも日本軍からの攻撃はなかった。それは、恰も恐怖の前触れのような静けさが島全体を覆っていた。
新兵の中には、
「なんだ。だれもいないじゃないか?」
「日本の奴ら、みんな死んじまったんじゃないのか?」
そんなふうに暢気に振る舞ったが、ベテランの軍曹は、
「しっ! 黙ってろ!」
「おまえらは、日本兵の怖ろしさを知らないんだ…」
「俺たちは、ガダルカナル、ペリリュー、マキン、サイパンでどんな眼にあったと思っているんだ?」
「奴らは、怖れを知らない獰猛な猿だ!」
「いいか、この静けさが奴らのねらいだ…。奴らは、こっちをじっと見詰めている」
「油断するなよ…」
そういう軍曹は、脂汗をかき、顔は青白く手も小刻みに震えていた。
静かに海岸から内陸部へと歩兵が進み、1000名が上陸を終えたそのときである。
摺鉢山から大砲の轟音が聞こえたのを合図のように、島全体が咆哮した。
ドドドドド…、ガガガガガ…!
ドーン! ガガーン! バキバキ! キーン!
という唸りが島全体を包んだ。
上陸した海兵隊員は、次々と日本軍の銃弾に倒れ、海岸は彼らの血で真っ赤に染まっていった。
「頭を上げるな!」
「動くな!」
命令が次々と発せられたが、新兵たちにその声は届かなかった。
猛烈な攻撃を受けた海兵隊員たちは、ついにパニックを起こし、立ち上がっては倒され、砲撃で体ごと吹き飛ばされた。
足を失った者、首が吹き飛ばされた者、はらわたが砂浜に置き去りにされ、海岸線は死屍累々という状態になった。
栗林中将は兵隊に命じて、それを写真に収めていった。いずれ、世界中にこの悲惨な戦場の様子を知らしめるためである。
日本軍の砲撃が始まると、アメリカの戦艦群からも猛烈な反撃を喰らうことになった。
発砲すれば、大砲の位置が割り出され、そこに戦艦からの艦砲射撃を受け、日本の大砲は、次々と粉砕されていった。そこに、敵艦載機からの攻撃である。
こうして、また三日間の壮絶な戦いが繰り広げられた。

302航空隊に戻っていた禎二郎は、「硫黄島決戦が始まった!」という報せを受けると、すぐに白虎隊を率いて館山基地に進出するように命じられた。
いよいよ、決戦場に出るときが来たのだ。
禎二郎は、その晩、久しぶりに磐梯山に暮らす家族に宛てて手紙を書いた。
最初は書くつもりのない手紙だったが、ふと浮かんだ母の咲の顔が脳裏から消えなかった。
本来マタギは、山で死ねばそこが墓場になる。
山で死に、そこで朽ち果て、その土の一部になってその山を守る…というのが、マタギの掟だった。だから、禎二郎は、小笠原の美しい海が、自分の墓標となると決めていた。
それが一転、手紙を書く気持ちになったのは、やはり母を恋しいと慕う正直な気持ちからだろう。
禎二郎の母の咲は、普段は物静かな女性だった。教養がありながら、それをひけらかすこともなく黙々と家事をこなし、小さな畑を耕し、二人の子供を育てた。
海軍に志願するときも、何も言わず自分を見送ってくれた。
喜怒哀楽を表に出すことはなく、祖父の弦斎や父の弦一郎に順う優しい母だった。その母親に、そっと自分の覚悟を書こうと思ったのは、何故だかわからない。それでも、夜、集会室の大机に座るとペンを走らせた。
「前略、いよいよ決戦の時が近づいて参りました。
私は、9名の仲間と共に決戦場に旅立ちます。
海軍の飛行機乗りを志して、早、10年近い年月が経ってしまいました。
しかし、これまでに鍛え上げた技量を試すときが来たのです。
思い出は尽きませんが、ご家族の皆様の安寧を願い、必死に戦う所存ですのでご安心ください。
母上様、さようなら。ありがとうございました。
私の分まで、長生きして下さい。
海軍少尉 伊東禎二郎」
まるで遺書のようになってしまったが、おそらくは二度と還っては来られない戦いになるだろう…ということだけは禎二郎にもわかっていた。
しかし、破れかぶれの戦をするのではない。
小園司令が言うように、この決戦に勝利すれば、アメリカはもう世論を抑えることは出来ないのだ。
既に、硫黄島では多くのアメリカ兵が戦死し、その状況は短波放送に乗って世界中に広められていると聞く。アメリカの艦艇には多くの報道記者が乗り込み、随時、本国に戦況を報告しているという噂もあった。
今ごろ、アメリカ全土は、大騒ぎになっていることだろう。
だからこそ、最後の一撃が必要なのだ。
禎二郎は、寝床に潜り込んだが、いつまでも眠りに就くことが出来ないまま朝を迎えた。しかし、眠くはない。
「今日こそ、決戦の日になるはずだ。俺は、それだけを考えて飛べばいい…」
起床ラッパで起きると、いつものように淡々と身支度を調え、母と姉がくれた純毛の白いマフラーを首に巻いた。その温もりは、母や姉の手の温もりのように感じる禎二郎だった。

3月20日、午前7時を期して、各航空基地から戦闘機数百機が硫黄島に向かうことになった。
航空決戦の第一陣は、爆撃機や攻撃機を伴わない戦闘機のみの攻撃が計画された。これは、当然、迎撃してくる敵の艦載機を殲滅するためである。
敵の航空母艦に搭載されている艦載機は、無限にあるわけじゃない。戦闘機は、そのうちの半分ほどだとしても、全部で2000機程度だろう。
そのうち一会戦に使用できるのは半分の1000機として、この半分でも叩ければ、敵に大打撃を与えることができる。
それに、アメリカの輸送船団は、日本の潜水艦が待ち受け、相当の損害を与えるはずだった。そうなれば、補充はままならない。そこにこそ、勝機はあるのだ。
この3ヶ月間で、日本の決戦用の航空機は、どこの基地においても地下壕か固いコンクリートの掩体壕に格納され、B29の爆撃にも耐え得る態勢が整っていた。それに、硫黄島で苦戦を強いられていたアメリカ海軍は、それほど大規模な空襲ができないと言う弱味もある。
硫黄島を全力で攻撃するとなれば、他の部隊は、その支援に回らざるを得ず、多方面作戦は避けるはずだ。そうなれば、日本軍も戦いようはある。
それが、今度の航空決戦だった。
この決戦用に、航空燃料もオクタン価の高い品質の燃料が使用された。それに、連合艦隊が消えてしまった今、艦艇に回す燃料がすべて航空機に回されるのだ。
この徹底した考え方が、きっと大きな効果を生むに違いない。
禎二郎は、そう睨みながら、明けていく空を見詰めていた。

午前6時30分。3月中旬とはいえ、外はまだ寒い。しかし、冬と違い春の明るい朝は、気持ちまで清々しくしてくれる。禎二郎は、大きく深呼吸をすると、コップ一杯の冷たい水を胃の中に流し込んだ。その清涼感が、眠気の残った頭を覚醒させた。                   宿舎から館山基地の滑走路に出ると、既に暖気運転が始まっており、館山基地だけで陸海軍の戦闘機が100機ほど集まっていた。
禎二郎たちの零戦改30機、零戦52型丙20機、陸軍の飛燕改20機、疾風30機。そして百式司令部偵察機10機が先発して、硫黄島偵察に飛んでいった。
他の各基地からも同様の戦闘機群がプロペラを回しているに違いない。
あの赤松少尉や黒岩中尉も、第二陣の攻撃隊で出撃すると聞いていた。この戦いの先陣を切るのが、禎二郎たちなのだ。
さあ、間もなく集合がかかるだろう。
禎二郎は、9名の仲間を集めると、ひと言声をかけた。
「さあ、いよいよ決戦場だ。みんな頼んだぞ!」
「これで戦は終わる。有終の美を飾ろうじゃないか!」
そう言うと、どの顔も決戦を前にした悲壮感はなく、笑顔で禎二郎を見詰めていた。
あのフィリピンでの無慈悲な特攻作戦のころは、だれもが悲痛な顔をして、諦めの表情だったが、今は違う。同じ決戦でも、こうも違うものか…と禎二郎は思った。
そのとき、滑走路に館山航空隊の山本大二郎司令の声が拡声器を通して響いた。
「ただ今、連合艦隊司令長官小沢治三郎大将から激励電報が届いた…。読み上げるので、搭乗員はその場で聴くように!」
「皇国の興廃、この決戦にあり。帝国陸海軍将兵の健闘と必勝を祈る!」
それと同時に、掲揚台に日章旗とZ旗が揚がった。
これは、「直ちに発進せよ!」の合図だった。
そして、山本司令の「成功を祈る!」の声を聴いて、禎二郎は、9人の白虎隊員に命令した。
「さあ、行こう!」
「各小隊は、編隊を崩さず、最後まで戦え!」
そう言い終わると、全員が拳を空に突き上げた。
「おーっ!」
その雄叫びと同時に、それぞれが自分の愛機に向かって駆け出した。
禎二郎は、部下たちが各機に散るのを見届けると、手前にある自分の愛機に近づいた。
すると、館山空の整備兵が、
「隊長、お願いします。硫黄島を助けてやって下さい!」
「おう、任せておけ!」
禎二郎は、その整備兵の手を固く握り、操縦席に乗り込んだ。
操縦席は、綺麗に清掃されており、エンジンも十分暖まっていることを確認して、離陸準備に入るのだった。

まず、先発は零戦隊で次に零戦改が続き、海軍機の後に陸軍機が続くことになっていた。陸軍機は、航法が十分ではなく、海軍機の誘導が必要だったからだ。それでも、今は無線が十分に機能していることから、以前のようなことはなかったが、それでも、単独での海上飛行は経験のない者には難しい。
先頭を飛ぶのは、海軍の彩雲偵察機3機で、このまま島伝いに飛行すれば、1時間ほどで硫黄島上空に達することになる。
おそらく、その周辺には敵機動部隊の艦載機が網を張って待っているはずだが、こちらも百戦錬磨の搭乗員ばかりの編成だから、互角以上に戦えることは間違いない。
この3ヶ月の猶予期間は、陸海軍の搭乗員の練度も急速に上げる効果があったことをアメリカ軍は知らないだろう。
陸海軍共に航空燃料をふんだんに使い、連日、猛訓練を施していた。
302航空隊でも、赤松少尉や黒岩中尉が先頭に立って猛訓練を実施し、予備学生出身の士官たちもメキメキと腕を上げ、高等技術をマスターして決戦に備えていたのだ。
昭和19年末の搭乗員の練度が6くらいだとすれば、今の技量は8はある。ここまでくれば、易々と敵機に撃墜されることはない。アメリカの戦闘機と渡り合っても互角以上の戦いができると禎二郎は読んでいた。
そして、とにかく、敵の艦載機さえ使用不能にしてしまえば、アメリカ軍も補充がままならないのだ。つまり、この初戦こそが、硫黄島決戦を左右する戦いになるはずだった。

房総半島を出ると次第に雲が広がってきた。
雨にはならないようだが、小笠原諸島に近づくにつれて雲が厚くなり、視界が十分に利かなくなっていった。
こうなると、無線が頼りである。
雲の中を飛行することが多くなり、陸軍機は先導する偵察機が見えないので、難渋することだろう。禎二郎が少し不安を覚えていると、無線が入ってきた。
「こちら、彩雲1号機!」
「全機、予定高度を保ちつつ、無線誘導装置をオンにせよ!」
禎二郎は、「ん?」と思いつつ、計器板にある「無線誘導」のスイッチを入れた。
すると、計器板の「無線誘導器」のランプが点灯し、方角を示してくれているのだ。
これが、加藤機械工業が発明した「無線誘導装置」なのだ。
これにより、間違いなく偵察機の方向に機首を向けることができた。これなら、多少航法が苦手でも、間違いなく敵地に向かうことができる。
これで、陸軍機もひと安心だろう。
後は島伝いに小笠原諸島を目指せばいい。おそらく敵戦闘機は、小笠原諸島付近で迎撃態勢を取っていると思われた。
それに、この雲の状態では、高度を取った戦いは難しい。
戦闘は、中高度から低空での戦いが想定された。そうなれば、有利なのは日本軍機である。
アメリカの艦載機は、エンジンが大きいが小回りが利かない。だから、高高度の戦いを得意としたが、日本軍機はエンジンが小さいので、高度が上がれば上がるほど不利になるのだ。
ひょっとすると、この雲は、神の助けかも知れない。
敵も全力を挙げて向かって来れば、およそ1000機近くになる。
こちらも1000機が出撃しているはずだから、ぶつかれば大空中戦となることは間違いない。
中高度から低空度では、速力も出ないし、空中戦は巴戦になるだろう。それなら、これまで猛訓練を受けた若い搭乗員にも勝ち目がある。
禎二郎のマタギの勘が、そう読んでいた。
山の中で熊や猪を狩るときも、その日の天候が左右することが多いのだ。
晴天時では、熊や猪は姿を見せないが、今日のような曇天の日は、獣は気が荒くなり、動きが活発になる。
マタギたちは、「それは、低気圧のせいだろう…」と話し合ったが、人間と同じで、獣も気持ちが落ち込むとイライラするらしい。そこに、隙が生まれるのも事実だった。
今日の空戦を考えれば、アメリカ軍の戦闘機は、嫌が応にも雲の下に下りてくる他はない。それは、自ら不利な位置に立つことを意味する。
そうなると、今まで立てていた作戦が難しくなるのだ。
そのとき、向こうの搭乗員たちは、平静でいられるか…は、難しいところだろう。それに、アメリカ軍はこの一戦に完勝しなければならない…というプレッシャーがある。
例え、勝てる戦でも、人間の心理によって負けることだってあるのが戦いなのだ。
もちろん、日本軍にも、そういう意味でのプレッシャーはあるが、3ヶ月にわたって準備を整えてきた我が軍が、これまでの戦闘力だと考えていたとしたら大間違いだということに気づかせてやる。
禎二郎は、雲の切れ間を縫うように飛行しながら、自分の気持ちが戦闘態勢に入っていくのがわかった。
もし、この決戦に敗れれば、硫黄島周辺の制空権を奪われ、硫黄島は間違いなく陥落するだろう。しかし、こちらが敵の艦載機を制圧できれば、制空権は日本軍のものとなり、次は、爆撃機を投入することが出来るのだ。この第一戦こそが、天王山に違いない。

禎二郎は、打ち合わせどおりに陸軍の疾風隊とともに、高度を5000mに取った。4000mには、零戦隊と飛燕隊が進み、敵艦載機が零戦や飛燕と戦っている間に、高高度から襲撃する作戦だった。
それに雲が厚く垂れ込めているので、無線誘導に順わなければ危険なのだ。
禎二郎の白虎隊の他にも零戦改の青龍隊、玄武隊が続いた。この新型機こそが、この決戦用の秘密兵器になるはずだった。
八丈島を通過し、鳥島付近に来ると偵察機から無線が入った。
「敵の大編隊を高度3000mから3500mで確認!」
「接敵まで、後、10分!」
「健闘を祈る!」
先行していた陸軍の百式司令部偵察機からの報告だった。
禎二郎は、9機の零戦改を率いて高度を急いで6000mに上げた。
零戦改のターボチャージャーを使えば、一気に加速することができる。しかし、ここで使うのには躊躇いはあったが、とにかく、有利な体勢に持って行かねばならない。
禎二郎は、高度6000mから雲を伝って敵編隊の背後に回り込むつもりだった。もちろん、敵艦隊のレーダーに捕捉される可能性はあったが、敵も前衛の零戦隊に集中しているだろう。それに、戦闘機が待ち受ける高度は、今日は、4000mが限界のはずだった。
そして、いよいよ決戦のときを迎えた。

零戦隊の森岡大尉から無線が入った。
「敵編隊発見!」
「突っ込め!」
こうして硫黄島上空で、1000機同士の戦闘機の戦いが始まった。
中高度を飛んでいた零戦隊は、増槽を切り離すと、それぞれが4機編隊の小隊ごとに別れて敵戦闘機群に向かって行った。
日本軍機を待ち受けていたアメリカ軍のグラマンF7Fベアキャット他の戦闘機群は、一機に日本軍機を殲滅しようと正面から13粍弾を撃ってきた。
しかし、零戦隊は、これまでの零戦ではない。
中高度での戦いは、零戦52型にとって決して不利な戦いではない。零戦隊は、一気に低空にF7Fを誘い込むと、巴戦に持ち込んだ。
こうなると、2000馬力エンジンでは、操縦が難しくなるのだ。
零戦52型は、改良されたといっても1200馬力である。このエンジンだと時速300㎞程度が、一番舵が利きやすいのだ。
追ってくるF7Fは、ひらりひらりと躱すように飛行する零戦を持て余していた。いくら撃っても、横に滑られて命中弾が少ないのだ。
ここで、この3ヶ月間の猛訓練が生きた。
零戦は、低空に敵機を引き込むと、捻り込みに近い技で敵機の背後を取り、渾身の20粍弾をその巨体に撃ち込んだ。
そして、弱った敵機を他の零戦が叩き落とすのだ。
海面まで数百mでは、ダイブも出来ない。こうして、次々と敵の戦闘機は海面に墜ちて行くではないか。
航空戦の初戦は、こうして零戦隊に凱歌が揚がったのである。

それでも、中高度で戦っていた陸軍の飛燕改や疾風は、次第に敵の圧力に押され気味になっていた。
当初は互角の戦いを見せていたが、少しずつ日の丸を付けた戦闘機が煙を吐いて落下していくのが見えた。ただ、その海域には、日本の潜水艦が密かに待機しており、救助態勢が整っていたために、多くの搭乗員は、落下傘降下をして、次に備えることになっていたのだ。
昨晩の打ち合わせ時に、館山航空隊の山本司令から、
「いいか。今回の戦場は、日本近海である。大本営では、できる限り救助する方針で、既に複数の潜水艦が小笠原諸島海域に待機している。また、こちらからも飛行艇や水上機を派遣する予定である」
「たとえ被弾しても、生きることを諦めず、落下傘降下で退避せよ!」
「貴様たちの命は、貴様らだけのものではない。それを忘れぬように…」
この命令があって、禎二郎たちも最新の落下傘が支給され、同時に、救命グッズなる箱が操縦席のすぐ後ろに装備された。
不時着したら、機体が沈む前にその箱を取り出せ…と言うことらしい。
とにかく、日本軍で救助態勢の指示が出たのは、開戦以来初めてのことだったかも知れない。
数ヶ月前までは、「特攻、特攻!」と叫んで、搭乗員を消耗品のように扱っていたことが、まるで嘘のようだった。
中高度での戦いは、少しずつスピード勝負のようになってきており、雲の切れ目から次々と敵機が現れ、飛燕改や疾風を悩ませていた。
この高度では、高度を早く取った方が有利なのだ。それでも、陸軍機は、その高い操縦技術でこれを躱し、隙を突いて攻撃に転じていたが、煙を吐く味方機が増えてきたようだった。

禎二郎は、一旦、高度を取り雲の上に出た。
すると、そこには、また、新たな敵の編隊が見えるではないか。
敵も、密かに次の戦闘機群を発進させたらしく、今度は、雲の上から先行し、日本軍機の後方を取る作戦だと読めた。
さすがに視力のいい禎二郎だからこそ発見出来たもので、高度が少し高い白虎隊の10機を敵はまだ発見できないだろう。
この高度と10機という小部隊では、レーダーでの発見は難しいのだ。
禎二郎は、この敵戦闘機群の30機にねらいを定めた。
これを叩かなければ、日本軍機は後方を奪われ、一気に情勢は不利になる。
禎二郎は、無電が傍受されることを怖れて、手で列機に合図を送った。
「敵機発見!」
「我に続け!」
禎二郎機の合図を受けた9機の零戦改は、さらに高度を上げると、敵編隊の後方に付くことに成功した。
「よし、ここなら急降下で、敵を殲滅出来る…」
そう判断した禎二郎は、風防を開け、右手をサッと振ると、
4、3、3に別れた各小隊は、一気に加速し、後方から敵F7Fの編隊に襲いかかった。
禎二郎は、先頭機に照準を合わせると、20粍と13粍3門のノブを押した。
ガガガガ…!
一連射で、先頭を行くF7Fのエンジンカバーが吹き飛び、そのまま雲の下に墜ちていった。
後方を見ると、次々と敵機が火を噴くのがわかった。
当然、敵機は、禎二郎たちを追いかけてきた。
雲の下に出ると、高度が3000mを指しており、禎二郎は、後ろに付いた敵機の射撃を躱すように交互に横滑りをしたかと思うと、一気に右捻り込みの技を見せた。
こうなると、禎二郎に敵う敵はいない。
静かに20粍のノブを押した。
ガガガガ…!
敵機は、操縦席が粉砕され、煙も吐かずに墜落していくのだった。
落下傘も開かなかったので、パイロットは、操縦席で戦死したのだろう。
こうして、30機の敵戦闘機群は殲滅されたのだった。
敵を殲滅して確認を取ると、白虎隊全機が無事に禎二郎機の側に集まって来た。
「よし、これで30機だ!」
そう思い、空域を見渡すと、未だに中高度では熾烈な空中戦が展開されていた。
禎二郎は、無線で、
「陸軍機を支援する!」
「続け!」
禎二郎の命令で、白虎隊は、さらに高度を上げ、敵機に追いかけられている陸軍機を支援するため、高い位置から敵機を攻撃した。
この場合、撃墜できるかどうかは問題ではなく、陸軍機を守ることが使命である。
急に現れた零戦改を目の前にして、敵機は慌てたらしく、急加速で遁走していくのだった。
それでも、数機は煙を噴かせることができた。
敵機を撃墜できなくても、使用不能になれば次に出撃出来ない。こうして、敵の戦力を削ぐことが制空権を奪う第一歩だと考えた禎二郎は、部下たちに決して深追いをしないように戒めていた。
そして、零戦改は見かけが普通の零戦なので、挑戦してくる敵は多く、そのたびに白虎隊員によって撃退されていった。

低空に降りた禎二郎は、そこから、もう一度ターボチャージャーを使って急上昇に移った。この加速器は、最大で2度しか使えない。
本当は、敵から逃げるために使用する装置ではあったが、禎二郎にとって次はない…と考えていた。そして、さらに高度を4000mに戻すと、同じ要領で、終われている陸軍機を助け、1機を墜とした。
「よし、これで十分だ!」
「こちら白虎1番。全機集合せよ!」
時間としては、20分くらいのものだったろうか。
大空には多数の黒い煙の筋を残して、敵味方合わせて2000機の大空中戦は終了した。
禎二郎が機体の燃料計を見ると、もう、還るくらいの残量しかないことに気がついた。
硫黄島から少し距離を取り、小笠原の父島北方で集合をかけたそのときである。
左10時の方向にキラリと光るものを禎二郎の目が捉えた。
「しまった、敵機だ!」
敵機は、送り狼をしようと企んでいるのだ…。
近寄ってきた佐藤機は、まだ、気がついていないようだった。
禎二郎は、さっと翼を翻すと、その敵に向かってスロットルを全開にした。
もう無線で列機に伝えている時間はない。
禎二郎は、一気にスロットルを押すと単機で敵編隊に向かうのだった。
佐藤や高安は、それを見て、
「隊長に続け!」
と各機に伝えたが、禎二郎機はグングンと加速し、佐藤たちが追いかけてもなかなか追いつかないスピードで離れて行ってしまった。
佐藤は、「隊長…」と加速しながら、禎二郎機を追ったが、なぜか、不安な気持ちが胸いっぱいに広がるのを感じていた。
禎二郎が敵編隊に近づくと、さすがに敵も気づいたようで、先頭の一機がこちらに向かって直線的に飛んで来るではないか…。
高度は同じ。向こうは、新型のF7Fである。
白い帯を巻いていることから、隊長機に違いない。きっと腕に自信があるのだろう。
だが、敵は、こちらを通常の零戦だと思っている。そこが、付け目だ。
それに、こうなれば、正面攻撃しかない。
禎二郎は、大型のF7F戦闘機に正面から向き合った。
マタギの世界でも、熊を正面から撃つことは滅多にあるものではない。もし、熊の急所に銃弾を当てなければ、間違いなく、こっちが殺されるのだ。
暴れ回る獰猛な熊に立ち向かえる人間はいない。
「勝負だ!」
禎二郎は、もう戦闘機乗りではなく、一人のマタギとして、とてつもなく大きな熊「ベアキャット」に立ち向かおうとしていた。
それは、一瞬の出来事だった。
急速に敵機のプロペラが大きく膨らんできた。
敵機の6門の13粍機銃が火を噴くのが見えた。
こちらは、20粍と13粍機銃3門である。
眼を凝らした禎二郎は、無心で操縦桿の発射ノブを押した。
ドドドド…!
高速で撃ち合った両機は、そのまま同高度ですれ違った。
その瞬間、敵機は燃料タンクに20粍弾が当たったのだろう。もの凄い轟音を発して空中分解をして吹き飛んだ。
勝った…。熊に勝った。
禎二郎の目には、初めての大熊が断末魔の呻き声を上げてその場に倒れるのを確かに見た。
しかし、そのとき、禎二郎も、深手を負っていた。
敵の放った銃弾は、零戦改の正面の風防を突き破り、禎二郎の左腹部を抉っていたのである。
操縦席は、禎二郎の血で真っ赤に染まっていた。
エンジンに被弾はなかったが、その出血量で自分の死が近いことを禎二郎は悟った。
「なんだ…。ここが、俺の飯盛山か…?」
飯盛山とは、禎二郎の先祖の伊東悌次郎が白虎隊士として自刃した会津の山のことである。
悌次郎は、切腹を躊躇ったという。それは、怖じ気づいたのではなく、未だ城は落ちてはおらず、会津は負けていないことを瞬時に覚ったからだった。
だが、仲間が次々と自刃していく中で、悌次郎一人生き延びることは許されなかった。
腹を切る刹那、悌次郎はひと言、
「無念…!」
と声に出したそうだ。
それを自刃する前の飯沼貞吉が聞いていた。
貞吉は、運命に導かれるように、その後蘇生し明治まで生きたが、悌次郎の最期を聞かれると、
「伊東さんは、一番冷静でした。悌次郎さんは、全部を飲み込んで死んだのだと思います…」
そう言って涙を流したそうだ。
昭和の禎二郎も、同じだったのかも知れない。

禎二郎は、まだ残る意識で風防を開け、近づいてきた佐藤機に朦朧とした頭で、「ひきかえせ…」と命じていた。
本当は大きく手を振るつもりだったが、風防から伸びた禎二郎の右腕は、弱々しく振られるのみだった。
佐藤は、風防を開け、声を枯らして、
「隊長…、隊長…!」
と叫び続けたが、その声は、もう禎二郎には届かなかった。
そして、佐藤機に見守られながら、禎二郎機は小笠原諸島の北方海域に静かに墜ちていった。
「隊長! 隊長!」
無線機から佐藤の発する叫び声だけが、列機に届いた。
「第一次攻撃…成功しました……」
禎二郎は、厚木基地の小園司令に報告するように一人操縦席で呟くと、そのまま前のめりに倒れ、計器板に体を横たえた。
零戦改は、まるで自動操縦でもしているかのようにゆくりと低空を飛び、滑空したまま太平洋に着水して静かに波間に消えていった。
伊東禎二郎海軍少尉。22歳の若者だった。

最終章 講和

硫黄島決戦の初日に伊東禎二郎少尉は戦死したが、この戦闘で陸海軍機1000機中半数が還らなかった。それでも、そのうちの半数近くは落下傘降下をしたり、着水したりして救助を待った。
潜水艦部隊や水上機部隊は、敵の勢力下にも拘わらず全力で救助活動を行い、その多くを救助したといわれている。
白虎隊も佐藤機が残存機を集めて館山基地に戻ったが、隊長の伊東少尉を始め、4機が戻らなかった。そして、残った零戦改も第二陣に出撃出来たのは、佐藤と高安、そして水野の3名のみで、その3名も後の戦闘で佐藤を除いて戦死したのだった。
これだけの犠牲を払った代償として、アメリカ機動部隊は、その航空戦力のほとんどを消耗し尽くし、制空権は日本軍が奪ったのである。
第二陣の攻撃隊は、残された戦闘機に爆撃機を護衛させ、アメリカ艦隊を急襲し、その7割に損傷を与えることに成功した。そして、爆撃機も敵艦隊の対空砲火で、その8割を失ったが、爆撃隊の肉弾は功を奏し、アメリカ艦隊は硫黄島上陸をあきらめ、本国に撤退していったのだった。
こうして、硫黄島決戦は、日本軍の勝利で幕を閉じた。しかし、日本も保有航空機の6割を消耗したため、これ以上の戦いは事実上無理になっていた。

この硫黄島決戦が全世界に報道されると、アメリカ世論は、さらにヒートアップし、アメリカ政府は、さらに国民からの信頼を失った。
その心労からかルーズベルト大統領は、執務中に倒れてそのまま亡くなり、跡を継いだトルーマン大統領は、国民世論に押される形で、日本政府と和平交渉に入ったのだった。
アメリカ政府の中には、
「原子爆弾の完成が間近です。これで勝敗は逆転できます…」
と進言する者もいたようだが、それを支持する者もなく、アメリカ連邦議会もアメリカ国民も「戦争中止!」を訴え、連合国軍は、欧州でもアジアでも、和平交渉に入ったのだった。

日本政府が、停戦命令を出したのは、昭和20年5月15日のことだった。
その後、アメリカは、日本やドイツに対して厳しい講和条件を勧告をしてきたが、日本としては、貿易が再開されれば、それ以上臨むものは何もなかった。
満州国は独立国として承認されたが、日本人が政治に関与することは禁止され、対等な独立国として平等な条約を結ぶことになった。
中国は、蒋介石政権が承認され、日本は中国とも平和条約を結び、中国大陸から軍隊のすべてを日本に引き揚げさせた。それと同時に帰国する日本人も多く、中国大陸にも実質上の平和がもたらされた。
中国や満州の権益を手放してみると、日本は重荷を捨てることが出来たように身軽になり、国内の経済活動を再開させることができた。
権益、権益と騒いだ戦前がまるで嘘のようだった。

6月になって禎二郎の戦死の公報が磐梯山の家族の元にもたらされた。
その電報を母の咲が受け取ったが、咲も祖父の弦斎や父の弦一郎も、「そうか…」と言ったきり、それ以上何も言わなかった。
ただ、姉の千恵を呼んで、簡単な家族葬で禎二郎を見送ると、いつものマタギの生活が待っていた。
咲は、禎二郎の葬儀が終わると、毎日、山の上の伊東家の墓に詣でるようになった。麓の猪苗代町では、大きな墓を建てようと…という話も出たが、弦斎はそれを断った。そして、
「禎二郎は、山に戻っただけのことです。先祖の伊東悌次郎がそうであったように、禎二郎も国に殉じたんです。どうか、そっとしておいてやってください…」
そう言って、村人たちに頭を下げた。
伊東家の墓には、伊東悌次郎の分骨が納められていたが、禎二郎は遺髪ひとつ残さなかった。咲は、家を出るとき、刈ってあげた髪の毛を大事に取っておいた。それを骨壺に入れ、伊東家の墓に納めたという。
禎二郎の魂は、弦斎が言うように、遠い太平洋の海から磐梯山まで戻ってきたのだろう。年老いた弦斎も弦一郎も、何事もなかったかのように今日も山に入り、マタギの暮らしを続けた。
マタギは山に入れば、遭難することは覚悟の上のことだった。
戦いに勝つも負けるも時の運。二人は、そう考えるしかなかったのだ。

その後、日本は世界の国々と平和条約を結んで経済国家として発展していったが、ドイツは性懲りもなくソ連と国境紛争を度々起こし、国情は安定しなかった。
ドイツを率いたヒットラーのナチス政権は、敗戦の責任を負って瓦解し、そのヒットラーも内紛で殺された。
日本の戦争責任を問う声は、戦後、高まりを見せ、当時の指導者のほとんどは野に下り、新生日本という形で新しい世代が引き継ぐことになった。                      結婚して東京に出ていた雪江は、実家からの手紙で禎二郎の戦死を知った。戦争が終わった6月の空は梅雨空になっていた。それでも、雪江は禎二郎を思った。あの禎二郎が、もうこの世にはいないと思うと、涙が溢れてきた。雪江は、福島の磐梯山の方角を向くと一心に手を合わせた。そして、生涯、禎二郎と過ごした僅かな時間を大切に思うのだった。               伊東禎二郎と伊東悌次郎の物語は、戦後も郷里の猪苗代町に引き継がれ、絵本「会津の誉れ」に掲載され、学校の子供たちに読み継がれている。そのお話と絵を書いたのは、雪江だった。

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