忠臣蔵外伝「隠し目付 毛利小平太」

忠臣蔵外伝「隠し目付 毛利小平太」
矢吹直彦
序章 討ち入り前夜

江戸時代の冬は、現代とは比べもののならないほど寒い。
地球温暖化などと騒がれている現代とは大違いに気温は低い。
最近は、日本でも季節感がなくなり春や秋が極端に短くなってきた感覚がある。
四季の移ろいが日本人の感性に共鳴するのだが、夏と冬の繰り返しでは、日本人らしい情緒が育たないのも無理はない。
冬ともなれば、関東の江戸においても寒気は今以上に厳しく、深夜に出歩く者などいるはずがない。
木戸番の番人すら御用部屋に閉じこもり、暗闇の中の外の警戒など、怖ろしくて出来るはずもないのだ。それに、今ほどの気密性の高くない住宅に住み、暖房器具といえば火鉢か囲炉裏が精々の暮らしの中で、燃料となる炭の消費にも気を遣ううちに、江戸の庶民は知らず知らずのうちに、非常に高い「耐性」を備えることになった。
現代人などでは、到底我慢しようもない生活も、この時代の庶民にとっては、あたりまえの暮らしなのだ。
この耐性を理解しなければ、その時代に生きる人々を理解することはできない。
この物語の主人公、毛利小平太は、一応、武士階級に属する人間だが、それだけでなく、当時としても珍しい「忍」を生業としていた。そのために、平和な時代でありながら、小平太にとっては常に有事であり、その暮らしそのものが戦場での生活なのである。
忍といっても、今のようにアトラクションに出てくるような忍者ではない。小平太自身、特に手裏剣の名手でもなければ、超能力のような術に優れているわけではない。ただ、人並み以上に眼と鼻は利く。それに、体力も人並み以上だろう。だが、当時の武士であれば、武芸に秀でた侍もおり、それを超えるには、修行も並大抵ではないのだ。
そんな小平太は、見た目は平凡な侍であり、寡黙な青年に映った。
小平太は、江戸生まれの「御庭番」の子だと言われているが、親がだれであるかは定かではないのだ。
徳川家の御庭番は、元々は伊賀の里で「草の者」として忍稼業を生業とした集団であった。
簡単に言えば、戦国時代に各地方の豪族武将に頼まれて、諜報活動に従事する集団で、身分からいえば、最下級の者共である。
忍は、社会のどの階級にも属さない影の存在として知られていた。
普段はだれも立ち入らない山里に暮らし、マタギや百姓などの仕事に精を出していたが、戦となれば、有力武将に仕えて諜報活動に従事する。そのため、一般の百姓のように、どこぞの領主の支配下にはない。
だれも立ち入らないような山奥に暮らし、年貢を納めたりする義務もない替わりに、自分の身は自分で守るしかない存在で、江戸時代になっても「人別帳」にも書かれたことがない。だから、どこで死のうが生きようが、存在すらないのだから、人として扱われない存在なのだ。
別名、「乱破」とか「素破」若しくは「草の者」と呼ばれたが、何も忍術を使うだけが彼らの任務ではない。
諜報活動以外にも、後方の攪乱や要人の暗殺などにも暗躍し、各有力武将は、挙って優秀な忍衆を傭っては、謀略を用いていたのである。
織田信長や豊臣秀吉が、なぜ天下人になれたかといえば、こうした表に出ない裏の仕事に精通していたからに他ならない。
小平太は、徳川家康に仕えた服部半蔵を首領とする伊賀者の流れを汲む御庭番の家に生まれた。
伊賀者が有名になったのは、本能寺の変の直後、徳川家康を堺から逃すために伊賀越えを先導した忍衆としての活躍があったからである。もし、このとき、伊賀者が家康を先導していなければ、間違いなく家康は明智光秀の手の者に殺されたに違いない。
この逃避行で、伊賀者は何人もの犠牲者を出したが、家康を無事に本国である遠江の国まで守り切った功績で、徳川幕府の御庭番として召し抱えられた。
首領の服部半蔵は江戸城の門前に邸を貰い、常に二十四時間体制で江戸城を守ったのである。
今に残る「半蔵門」は、そのゆかりから名付けられている。
半蔵門から先は甲州街道に入り、真っ直ぐな登り道が続く。そして、そのまま多摩を抜けて甲府城に入るのだ。
さらに、その多摩には武田ゆかりの武士団が郷士となって土着しており、八王子千人同心となったことは有名である。
徳川家にとって御庭番は、武士以上に頼りになる存在であり、幕末に於いても、この御庭番衆を使えば、簡単に明治維新は迎えられなかっただろうと言われている。ところが、最後の将軍となった徳川慶喜は、これを嫌い、影の動きを封じたのだ。その意図するところはわからないが、後世に「汚点」を残すのを嫌ったのかも知れない。
もし、慶喜が戦国武将であれば、間違いなく御庭番衆を使って西郷や島津などの維新の中心人物を暗殺し、実権を握ろうとしただろうが、それをしなかった。
逆に岩倉具視などは、長州の根来衆を使って孝明天皇を毒殺している。
孝明天皇は、天然痘が悪化して亡くなったことになっているが、あれは間違いなく忍の者が使う毒を盛られたのだ。
要するに、明治維新はこうした謀略によって成し遂げられたものだが、それから数十年後に、米英の凄まじい謀略に嵌まって国が滅亡寸前まで追い込まれたのだから、謀略に於いては欧米諸国の方が一枚も二枚も上手であった。
まあ、小平太の活躍した元禄の時代には関係のない話だが、この忍の小平太を使って謀略の限りを尽くした赤穂浅野家の大石内蔵助ほどの策士はいまい。
そして、将軍家側用人として名を為した柳沢保明も、なかなかの策士であった。

御庭番衆は、公儀の諜報活動を一手に握り、裏の仕事を生業とした。
小平太のように子供のころから伊賀の里で鍛えられた「忍」は、伊賀者の御庭番として公儀に仕え、その一部は「隠し目付」として、各地に派遣されたのだった。
この「隠し目付」は、公儀大目付の配下として、その眼、耳となった。そのため、忍の中でも特に諜報能力に優れ、頭脳明晰な者が選ばれて各地に派遣されたのだ。
小平太も子供のころからその才能を発揮し、頭脳、俊敏性においては、同時期の仲間より頭一つ抜けた忍だった。その小平太が、赤穂浅野家の「隠し目付」として大目付より命を受けたのは、ちょうど、二十歳になったばかりの時だった。
既に伊賀での修行を終え、江戸に出て御庭番衆の一員として働いて二年が経過していた。
隠し目付が江戸に出るのは、いつでも「目付御用」ができるように準備するためだったが、実際、服部半蔵家で仕事を与え、その眼に適った者だけが、隠し目付として登用されるのだ。
中には、将軍直々の御庭番を務める者もいたが、それも三代様までのことで、現将軍である徳川綱吉は、その存在すら興味がなかったろう。だからこそ、側用人の柳沢保明が、御庭番を重宝に使うことができたのだ。
柳沢保明は、武田家遺臣の家に生まれ、武田の忍衆に縁があった。だからこそ、忍の活用をよく知っており、全国に「隠し目付」を派遣していたのである。
もちろん、御庭番の中から、「隠し目付」を命じるのは大目付の役目でだったが、元禄の時代に、柳沢の命に逆らえる者はいなかった。だからこそ、柳沢は、大名家の転封に合わせて「隠し目付」を派遣し、厳しく各大名家を見張らせていたのだ。
それ以外にも、伊賀者は、武士や町人、百姓になりすまして全国に派遣されており、現地で隠し目付と連絡を取り合い、その動静を幕府に届ける「草の者」がいた。
「草」と呼ばれた忍は、その土地から離れることは稀で、そこで生まれ、育ち、そのまま生涯をその土地で閉じるのが運命だった。それは、当時の百姓たちも同じことで、特別苦労した…ということではない。
それだけに、草の者から見た領主の採点は辛く、時には手厳しいコメントを公儀に送るのだった。
それによると、赤穂浅野家の採点は、
「国家老、大石内蔵助良欽あり。跡を継いだ内蔵助良雄はその器量は計り知れないが、大器であることは間違いない。藩財政は豊かで塩取引でかなりの蓄えあり。藩主浅野内匠頭長矩は凡庸な人物で短気。武芸には殊の外関心を示すが、色情が強く、家中の評判は頗る悪い…」
などと書かれていた。
今でいえば、いいところ「六十五点」程度だろう。
要するに、全国の大名家としてのランキングでいえば、浅野家そのものは、中の上ではあるが、殿様は中の下の評価である。
長矩は、若いころから短気で、すぐに家臣を怒鳴り散らす癖があった。その上、女好きで有名な御仁である。だからこそ、公儀では、この内匠頭に二度目の勅使饗応役を命じたとも言われている。その人選をしたのは、他ならぬ、側用人の柳沢出羽守保明である。
保明は、内匠頭の器量というよりは、浅野家の力量を試したかったのである。赤穂塩の取引で富裕な藩として知られていたが、草の者が「大器」と呼んだ大石内蔵助に興味があったのだ。内匠頭はともかく、この勅使饗応という大役を国家老の大石が、どう仕切るのか見てみたかった。
そんな下心が柳沢にあるとは露も知らずに、浅野内匠頭は、二度目の勅使饗応役に任じられたのだった。
それに、几帳面な性格の保明にとって「女にだらしない…」男は信用が置けなかった。この機会に内匠頭に公儀の重要な仕事をやらせて見て、その器量を確かめたいという下心があった。と言うより、端から内匠頭を懲らしめてやろう…という計算があったことは否めない。

各大名家では「隠し目付」の存在は、噂されることはあったが、公儀の影の仕事であることから、口に出すことは憚られた。そして、大名も家臣も、だれが「隠し目付」なのか、知ることは出来なかったのだ。
したがって、赤穂浅野家においても、毛利小平太が「隠し目付」であることを知る者は、筆頭家老の大石内蔵助しかいない。
こうした「隠し目付」の中には、各大名家で侍として出世する者もいたが、それでも、隠し目付としての任務は非情であった。
任務を果たせなければ死を以て購うほかはなく、素性を知られれば、その家臣たちから「裏切り者」として殺される危険性も併せ持っていた。
ただ、彼らは、侍として特別に優れた能力を持つことから、どの大名家においても重宝に用いられたのは事実である。
小平太も、一見凡庸に見せてはいるが、どの分野に於いても一般の武士以上の修行は積んでおり、それを見せないところに小平太の非凡さがあった。
そして、赤穂藩において、それを知る者は、筆頭家老で国家老の大石内蔵助良欽と内蔵助良雄しかいない。
それでも小平太は、自分の任務に誠実に生き、たとえ何があろうと後悔の言葉を残さず、人知れず死んで行くのを運命と心得ている若者だった。

時は元禄。
徳川家康が天下を収め、「元和偃武」と呼ばれて既に百年という時間が経過していた。
徳川家康は、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、名実共に天下人となった。
ある者は、家康を「卑怯者」「策士」「狸親父」と蔑んだが、天下安寧を目指す家康にとって、私情は禁物である。そのために、豊臣家の当主である秀頼に何度も「過去の権威を捨て、一大名になれ…」と勧めたが、秀頼自身がそれを了解しても、一度でも「栄耀栄華」を味わった周りの者たちには、その屈辱に耐えられなかった。特に母の淀は、聞く耳を持たなかった。
それはそうだろう。自分の父と母である浅井長政と市の方を秀吉に殺され、その仇と言うべき秀吉の妾となったのも、秀吉亡き後に天下を己の手に収めるためだったのだから…。
秀頼には、この母の屈辱的な日々を理解することはできなかった。
理屈では、秀頼の言う通りだろう。しかし、女としての感情がそれを許すことはできなかった。
蛇蝎の如く嫌った秀吉に肌を許し、その屈辱に耐えたのは、ひとえに天下を奪うためである。
女の身で天下人になるには、是が非でも秀吉の子を産み、母として政治の実権を握るしかない。そのための秀頼なのだが、秀頼も母の気づかぬうちに、ひとかどの武将に育っていた。
噂では、秀頼は秀吉の子ではなく、石田三成、若しくは大野治長の子ではないか…という話もあったが、そんなことはどちらでもよい。
「秀吉の子」という承認さえ得られれば、淀には関係なかったのだ。それに、若い淀の性欲を満たせるほど秀吉には体力は残されていなかった。だから、だれの子であっても、淀が産めば、それは「秀吉の子」になるのだ。
秀吉もそれには当然気づいていたが、今さら、他に手立てはなく、一子秀頼を後継者にするしかなかった。と言うより、秀吉自身が「我が子」と信じていたのだ。
そこまでして天下に君臨したかった母の淀が、易々と家康に天下を明け渡すことなど出来るはずもなかった。それを許すことは、自分の生涯、いや母の市や父長政の無念をも捨て去ることに他ならない。
淀は、心の中では、(秀頼、すまない…)と詫びたが、それを表に出すことは最期までなかった。だれの子であろうと、秀頼は間違いなく淀自身の子であるのだ。
秀頼は、夜になると何度も母に手を付いて懇願したが、それでも、淀の許しを得ることはできなかった。そうなれば、後は「滅びの美学」を生きるしかない。
秀頼も出生の秘密はどうあれ、秀吉の子である。
天下人としての誇りは持っていた。
「こうなれば、家康と最後まで戦うのみだ…」
そう決心した秀頼は、冬と夏の戦を大坂城を舞台に戦い抜き、そして最期の時を迎えたのだった。
結局、彼らは、戻ることのない過去の栄光にしがみつき、武士として最期の死に花を咲かせたのだ。
秀頼にとっても淀にとっても、それで本望だったに違いない。
時に人は、自分の生を全うすることよりも、意地や誇りを優先させることがある。
「生きるために、意地など捨てよ!」
という者もいるが、意地を捨てては生きられない者もいる。
そんな苦しみの中で、豊臣家の者共は、紅蓮の炎の中で焼き尽くされ、秀頼と淀は、一族と共に灰となって消えていった。
秀頼は、炎に囲まれた蔵の中で母の首筋に刃を当て、躊躇いもなく斬り裂くと、真っ赤な母の血飛沫が自分の体に降り注いだ。そして、その修羅場の中で、従容として腹を斬り、首を打たれたのだ。
もし、この秀頼が生きていたら、後に徳川家を脅かす武将となったであろうことは間違いない。それは、大坂城に潜り込んでいた伊賀者が家康に伝えている。
「秀頼公が立てば、天下はその威光にひれ伏すであろう…。秀頼公の出馬は、是が非でも阻止せねばならない」
これが、実際に秀頼を間近で見た者も言葉だった。
そう、豊臣秀頼こそが、生まれもった天下人だったのである。
家康は、秀頼のその「威光」を怖れたと言ってもいい。
それは、自分にも息子たちのだれにも備わっていない天下人の「魔力」なのだ。それが、秀頼にあるとすれば、その力が発揮されないうちに殺すしかない。
その決意は揺るぎないものとなり、家康は、高齢にも拘わらず、最後の大勝負に賭けた。

大坂城の落城と共に灰となった淀と秀頼であったが、その魂は意外に穏やかなものだった。
現世に生きる者は、この世に強い怨念を残して業火に焼かれた…と考えていたが、その燃えさかる炎が、二人の魂を昇華したのかも知れない。
家康は、戦国の世に死んでいった者たちを憂い、
「成仏せよ…とは言わん。それでも、死して尚、その方らが成し遂げられなかったこの世の安寧を祈るがよいぞ…」
そう言うと、ひたすら天に向かって手を合わせるのだった。
家康の陣には「厭離穢土欣求浄土」の旗指物が翻っていた。
「えんりえどごんぐじょうど」と読むが、要するに「穢れを浄化し、平和な世を創る」という家康なりの宣言文である。
織田信長が「天下布武」を旗印にしたように、家康の戦いは「世を平和にするための戦い」だという意思の現れだった。だからこそ、豊臣家という家が、天下の平和のためにならないと考えれば、滅ぼすしかないのだ。
それは、秀頼や淀もわかっていることだった。だからこそ、多くの不満分子を抱えて最期の一戦に臨んだのだ。
最後に家康は、自分をさらに神格化させることによって、その多くの怨霊を鎮め、死んで行った数多の御霊とともに、天下を治めようと誓うのだった。

家康は、戦の終わりを告げるために、「慶長」を「元和」と改元させ「偃武」を宣言した。すなわち、
「武を捨てよ!」
「武を鳴らす時代は終わった。さあ、皆で新しい世を創るのじゃ!」
と、すべての日の本の人間に命じた。
「すべて」とは、武士だけでなく、農民も商人も貴族にも…である。
「天下人」とは、この国の最高権力者であり、政治を司る最高決裁者である。しかし、家康は、それでも「絶対王者」になることを自分に戒めた。
絶対権力者でありながら、日本統治のために徳川家を頂点とした幕藩体制を整えた。そして、自分は「神」になることによって、戦国の世に屍を晒した者共の怨霊を鎮めようとしたのだ。
「東照大権現」となった家康は死して尚、天下に睨みを利かせ、
「武を以て争わんとする者は、家康が成敗する!」
という覚悟を天下に示して見せた。
そんな偃武の時代に、一人反旗を翻した侍が出た。
播州赤穂浅野家五万三千石の国家老大石内蔵助良雄である。
たった五万石の田舎の小藩の家老が、東照大権現家康公に刃を向けたのである。

第1章 大石内蔵助良雄

大石内蔵助良雄は、播州赤穂という山陽道の小藩にいながら、徳川家康という天下人の思想を知る一人だった。
内蔵助は、家老職を継ぐ前から赤穂に流されていた兵学者山鹿素行に学び、その真摯で研究熱心な態度は、素行をして「天下を治める才あり」と言わしめるほどだった。しかし、普段の内蔵助は「昼行灯」の如く、始終ぼんやりとしており、その姿はけっして才気溢れる若侍ではなかった。
内蔵助は、祖父である内蔵助良欽が亡くなると、その家督を相続して、やはり「内蔵助」を名乗った。
父の良昭が若くして亡くなっていることから、孫に当たる良雄が良欽の養子となっていたのだ。
内蔵助の容貌は、至って平凡である。
当時としても小男の部類に入り、体は東軍流の剣を学んでいたことから筋肉質ではあったが、顔が丸顔なので、やや肥満に見えた。
歩き方もがに股でのんびりと足を進める。
その姿は、譜代家老職という高い身分の家に生まれたこともあり、人のやっかみを買い、「昼行灯」と呼ばれるに相応しい男になっていた。
だが、今は亡き山鹿素行は、その内蔵助の内にある才能に気づき、生前は、殊の外内蔵助を愛し、己のすべてを注ぎ込むようにして内蔵助を育てたのだ。だが、それも遠い昔となり、その記憶がある者は、浅野家にはいくらも残っていなかった。
ただ、小平太だけは、内蔵助に会った瞬間に背筋が凍る思いがするほどの気迫を感じ、それ以降、常に畏れる存在となっていた。
小平太にしてみれば、長年の修行の中で会得した「観察眼」が、それを教えていた。
この感覚は、これまで、あの側用人柳沢保明以外に感じたことはなかった。その凄味というか、だれにも気づかせない気迫は、修練を重ねた忍の者以上であった。
若いころの内蔵助といえば、時間があれば歴史書を読み耽り、分からないところは、素行に尋ねるのを楽しみとしていた。そして、自然と「陽明学」に傾倒した内蔵助は、次第に「知行合一」の精神を身につけ、徳川家康という人物を知るに至ったのである。
「天下を治めるか…?」
それは、内蔵助にとって叶わぬ夢であったが、(もし、自分が天下の政に携われるのなら…)と空想を巡らし、自分が徳川家康になったような気分で、あれこれと頭の中で采配を振るうのだった。

そもそも、大石家の主家である赤穂浅野家は、豊臣秀吉恩顧の一大名だった浅野長政家の分家筋にあたる。それに、内蔵助の家である大石家は、豊臣時代に関白豊臣秀次に仕えた家臣で、秀次の自刃とともに家は没落…。浪人の末に浅野家に拾われ、大坂の陣での活躍で家老に抜擢された家柄であった。
人の世は、「天・地・人」といわれるように、この「天運・地運・人運」に恵まれなければ、何事も成功することはできない。
大石内蔵助は、後世に名を残したことからも「天運」に恵まれた人物であり、赤穂という地で生まれ育ち、多くに同志に助けられて生を全うしたことを考えれば、まさに「天地人」の一人だろう。
徳川家康に憧れ、山鹿素行から陽明学を学び、人として、いや武士としての思想を学んだことが、まさに、「人の運」に恵まれた証拠である。
それも「偃武」という神君家康公の掟がある時代に、天下に騒乱を起こしながらも「義士」とまで賞賛されたことは、歴史上の奇跡といってもいい。
家康は自ら望んで権現という「神」となったが、内蔵助は、社会が「義士」として祀り「大石神社」まで創建された。
徳川の世に、たった一人の武士が、家康という偉大な神に喧嘩を売り、結果として周りの人の手によって「神」と崇められる存在となり得たのは、大石内蔵助ただ一人である。
そんな男に導かれた赤穂の侍たちは、人生に恵まれた男たちなのだ。

「太夫、残念ながら小平太めは脱盟したようでございます…」
副将格の吉田忠左衛門が、如何にも無念そうに内蔵助に告げた。
内蔵助は、それを聞いても驚く風もなく、
「そうか…。小平太は来なんだか…?」
「よい、よい。小平太には、小平太の生きる縁が見つかったのだろうよ…」
そう言うと、徐に立ち上がり、
「では、皆の者、そろそろ参ろうぞ…」
本所回向院裏手のそば屋の二階に集まった同志二十人を前に大石内蔵助は、腰を上げた。
時刻は、元禄十五年十二月十五日の午前三時(八つ半)を回っていた。
「おう!」
ここに集まった男は内蔵助を入れて二十一人。
残りは、さらに二手に分かれ、もう十五人は、八丁堀の長江長左衛門を名乗る堀部安兵衛の剣術道場に集結し、残り十一人は、上野介の門前の美作屋という米屋の二階に集まっていた。
美作屋は、神崎与五郎と前原伊助が開いた店である。
神崎と前原は、軽輩だったが商才に長け、僅かな期間で相当の儲けを出すなど、そのまま商人として生きることも可能だったが、二人は、そこで蓄えた金子を惜しげもなく内蔵助に渡し、軍資金の一部としたのだった。
ただし、この店を紹介し商売を教えた者がいた。
それが、日本橋に支店を構える小間物問屋の瀬戸屋である。
本店は赤穂にあり、主人の瀬戸屋吾平と娘柚木は、内蔵助昵懇の間柄であった。

この三隊は、そこで「大名火消し」縁の火事装束に身を固め、完全武装を施すと、無言で本所回向院裏の吉良上野介邸の門前に集合した。
この夜は、不思議と底冷えがして、十四日の夜半から降り続いた雪は、十五日になっても降り止まず、既に足下は真っ白な雪の絨毯を敷いたようになっていた。
逆に、この雪が周囲から音を消し去り、さすがの江戸の人たちも戸締まりを固くして、その寒さを凌いでいたのだった。こんな夜に、平和な時代に夜回りをするような酔狂な人間がいるはずがない。
いたとしても、それは小平太のような「忍」を生業としている者たちで、何らかの目的がなければ、闇の中で働くことはないのだ。
十四日の夜には、本所の吉良上野介邸では茶会が催されており、多くの来客で賑わっていた。
何でも、「吉良様が、米沢に移られる…」との噂があり、その別れのための送別の意味もあったようだ。

そのころ仲間から小平太と呼ばれた「毛利小平太」は、密かに本所回向院裏の吉良上野介の邸内に潜んでいた。それは、首領である大石内蔵助の密命により、上野介や吉良家家臣の動きを見張るためである。そして、万が一、上野介を本隊が取り逃がすことがあれば、その暗殺を依頼されていた。
昨晩遅く、内蔵助は小平太を呼び、最後の密命を与えた。
「小平太…、おるか?」
「はっ…、こちらに…」
そう言うと、小平太は、内蔵助の座敷の廊下に影のように姿を現した。
「入れ!」
「はっ…」
音も立てずに障子を開けると、既に小平太は、内蔵助の枕元に座っていた。
内蔵助は、真っ暗闇の中で、小平太に囁いた。
「よいか。ここに二十五両ある…」
「おぬしは、これから吉良邸に潜み、我々の首尾を確かめよ…」
「そして、我らに手抜かりがあれば、それを補え!」
「万が一、我らが仕損じた場合は、おぬしが、密かに上野介をな…」
「だが、首尾よくすめば、おぬしの仕事はそれまでよ…」
「我らに肩入れする必要はないでな…」
「それと、保明殿にはよしなに…」
内蔵助は、ほとんど聞き取れない「闇言葉」で小平太にそう命じたのだった。
内蔵助が最後に発した「保明殿」とは、今をときめく将軍家側用人、柳沢保明のことである。このころは、保明と名乗り、この事件の後に美濃守吉保を名乗った。
それにしても、大石内蔵助が、柳沢の名を敢えて出したのにはわけがあったが、それは追々解き明かされるだろう。

小平太は、片膝を立てながら、畏まって下知を待ち、表情を一切表すことなく、
「はっ、畏まってござる…」
とだけ応じた。
最後に、内蔵助は、ひと言、人間らしい言葉で小平太を労った。
「小平太よ…。すまぬ…。苦労をかけるな…」
小平太は、表情を変えることなく、
「忍、故…」
そう言うと、内蔵助の枕元に置かれた二十五両の切り餅を懐に忍ばせ、内蔵助の寝所から音もなく消えていた。

毛利小平太は、表向きは、赤穂浅野家に仕える大納戸役二十石五人扶持という役目を仰せつかっていたが、元は公儀大目付配下の御庭番であった。
赤穂浅野家が、笠間から赤穂へ移封された折、公儀から良雄の祖父内蔵助良欽に内々の沙汰があり、幕府から付けられた「隠し目付」が毛利小平太なのである。
「隠し目付」とは、幕府大目付支配に属し、各大名家に監視役として付けられた忍のことである。
忍でも小平太は、武士の身分で「隠し目付」となった。しかし、この「隠し目付」の存在は、首席家老一人が知るのみで、その主君である大名がそれを知らされることはない。
万が一、首席家老が漏らせば、直ちに公儀より「謀反の疑いあり」として、厳しく詮議されることは必定だった。そのために、各大名家の首席家老は、その家の「秘密」として、その職を継ぐ者だけに口伝で伝えられるのだ。
幕府にしてみれば、首席家老だけに知らせることで、「常に監視されている」という状況を作り出すことができた。
これも、大名家が幕府に謀反を企てさせない統制手段の一つであった。
だが、身元が露見すれば、大名家もただではすまないが、当の本人もそこで生きることはできない。
隠し目付の役を全うできなかった者は、それが露見する前に、人知れず自害するのが定めである。そして、その罪は自身だけでなく、一族全員に及ぶのだ。そうした過酷な役目は、生ある限り、その地において全うしなければならなかった。
良欽は、それを承知の上で若い小平太を手元に置き、憮育金を与えて取り立ててきたのだった。
小平太は、二十歳で赤穂浅野家に仕えたが、今では三十半ばを過ぎた壮年になっていた。
既に赤穂で妻帯したが、子は為さなかった。
子を儲けてはならぬ…という掟はなかったが、自分の運命を考えたとき、子にまで累が及ぶのは忍びなかったのだ。それに、忍は、己でさえ年齢を知らず、その場に応じて誤魔化す術を知っていた。
小平太が嫁を貰ったのは、赤穂に来てしばらくしてからだったが、嫁の柚木も赤穂生まれ、赤穂育ちの商家の娘だった。
だが、この商家の主人の瀬戸屋吾平は「草の者」である。
小平太は、この赤穂で、同じ「忍」から嫁を迎えたのだ。
柚木の家は、何代にも渡って赤穂に住み着いた商家ということになっていたが、小間物から鍋、農具までも商い、赤穂領内であればどこにでも行商に出られるような商売をしていた。
柚木の父親は、親から草の使命を教えられ、忍の心得を会得した男だったが、武家ではないため、浅野家が赤穂に転封されるに伴い、小平太が「隠し目付」としてやってきたのである。
いわば、小平太の監視役兼相談役のような役目を仰せつかっており、柚木が小平太に嫁ぐのは、既に決まっていたことだった。

この赤穂は、元々は姫路の池田輝政が治めた土地ではあったが、江戸に幕府が開かれる前までは、静かな漁村でしかない。
徳川の天下になると同時に、柚木の先祖は「草の者」として、この地に送りこまれていたのだ。
柚木の父である瀬戸屋吾平はその四代目にあたり、店は中規模ではあるが、老舗の小間物屋「瀬戸屋」として繁盛していた。
池田時代から城に出入りが許されており、その如才のなさから、だれも吾平が忍と気づかれることはなかった。それ故に、小平太が赤穂に入ると同時に、この吾平につなぎをつけ、娘の柚木と夫婦約束をしたのだ。
それでも、小平太が二十歳になったばかりの若者で、雪がまだ十四だったことから、密かに交際を続け、柚木が十八になった時に、正式に嫁に迎えた。
そのころになると、新参者とはいえ、表の仕事にも慣れてきた小平太は、進藤源四郎を媒酌人に立てて小さな婚礼を挙げたのだった。
吾平にしてみれば、「忍」の身でありながら、立派な婚礼が出来たことを喜び、これを手配してくれた大石良雄に感謝するのだった。

柚木は、小柄ではあったが色白で、評判の娘に育っていた。
瀬戸屋の看板娘として育てられたため、縁談は数多く持ち込まれたが、吾平は、小平太が来るまで、それを断り続けた。
柚木にしても、許嫁は小平太しかいないのだ。そして、小平太がいよいよ赤穂に現れると、柚木は顔を朱に染め、いそいそと小平太の世話を焼くのだった。
忍の定めとはいえ、子供の頃から教えられていた許嫁に会うことは、年頃の娘にとって、心躍らせる瞬間だったに違いない。
それに、小平太は江戸育ちのせいもあって、田舎侍と違って垢抜けて見えたのだろう。柚木には眩しい存在だった。
柚木は、小平太に会うなり「一目惚れ」してしまったのだ。
父親の吾平は、(やれやれ…)と先を案じたが、それ以外に選択肢がない以上、娘が気に入ってくれるのが一番だった。
忍とはいえ、吾平も人の親なのだ。
小平太は、赤穂では新参者として迎えられていたために、家族は奥州白河に郷士として暮らしている…と藩庁には届け出た。
確かに、奥州白河藩にも御庭番の「隠し目付」が派遣されており、問い合わせられても小平太に不都合はない。
家老の大石良欽は、当然、小平太の素性を知る唯一の人間だけに、その届け出を受け入れ、小平太を大納戸役に取り立てたのである。
小平太が仰せつかった大納戸役とは、殿様やその家族の身の回りの世話をする裏方である。
武士としては、もちろん、馬廻り役とか剣術方などの武官に取り立てられれば、面目は立つが、それだけでは御家は成り立たない。
納戸役、勘定方、普請方、右筆、台所方など、裏方の文官も必要なのだ。
これらの身分の者は、家禄も少なく表に出ることもあまりないが、武官以上の技を遣う者も多く、文官だからといって侮れない存在なのだ。
小平太自身も幼少期から忍修行が課せられ、ひとかどの武士以上の教育を叩き込まれていた。
彼ら忍の者は、どんな境遇や立場に置かれても目立つことなく、周囲に悟られないように、そつなくこなす技が必要だった。しかし、「草の者」となれば生涯そんな技を披露することもなく死んでいく者も多い。
無駄な努力になるかも知れないが、それが「忍の宿命」と割り切っているからこそ、草の任務が全うできるのだ。
小平太が就いた大納戸役は、調度品や武具などを取り扱い、その管理を任されていた。それ故、目利きが多いのが特徴だった。
小平太は、特に刀の鑑定には定評があり、自分でも刀を研ぎ、武具なども直してしまうので、家中でも知らぬ者はいなかった。
小平太の鑑定眼には、良欽も一目置いており、新しい刀を購入する際には、必ず小平太を供に連れて武具商人を回り、その店の逸品を求めるのだった。
良欽の刀剣好きは有名で、既に名刀が二十振りは所有していた。
普段は、「まあ、こんなもんでいいだろう…」と無銘の刀を使用していたが、小平太にしてみれば、これも意外と筋のしっかりとした名刀であることを見抜いていた。ただ、拵えが高価ではないので名刀に見えないだけで、その本身はなかなかのものである。
この良欽の趣味が後々、大いに役立つことになる。
新参者にも拘わらず、小平太が赤穂の土地に馴染んだのも、こうした特技と温厚実直な人柄が赤穂の人々に受け入れられたからだろう。

笠間から赤穂への移封にあたって、浅野家は、何人かの新参者を採用していた。
江戸時代の仕官は戦国時代と異なり、剣術で身を立てることは困難だった。
確かに、武芸は武士として当然身につけるべき表芸であったが、それよりも藩自体の運営を任せられる人材が不足していたのだ。
赤穂藩でいえば、大野九郎兵衛は、財政方家老として良欽が推挙したものだったが、算盤が上手く、浅野家の帳簿を一通り見ただけで、その欠陥を指摘して見せた。九郎兵衛は、どこで算術を学んだかは語らなかったが、浪人時代が長いことから、大方、大坂の商家で学んだのではないか…というのが、良欽の見立てだった。それに、そんな浪人時代の内職のような仕事を語るのは、九郎兵衛とて恥ずかしいに違いないのだ。そこは、周囲の者たちも忖度していた。しかし、そうなると、譜代の者たちでは歯が立たない。
小平太は、まだ若く、武芸を見込まれての採用ではなかった。それより、彼の鑑識眼は老練な骨董商より確かな目を持っており、それが採用の決め手となった。
もちろん、それが良欽の芝居であることは見え透いているが、実際、「隠し目付」でなくても、欲しい人材であった。
したがって、二十石五人扶持の軽輩者の新規召し抱えを疑う者はいなかった。しかし、良雄は、家老見習いの身でありながら、小平太の身のこなしと佇まいを気に入り、よく声をかけるようになっていた。
祖父良欽から小平太の身分を知らされたのは、良欽が亡くなった後のことである。
良欽の死は突然に訪れた。
還暦を迎えたとはいえ、矍鑠としていた良欽は、自分が元気なうちに家督を良雄に渡そうと考えていたが、まだ二十歳を過ぎたばかりの良雄では、心許なかった。
「まあ、後十年は、儂が見てやらねばな…」
そんなことを考えていた矢先のことだった。
前日の昼間に頭痛を訴えて城から下がってきていた良欽だったが、一晩も超すことが出来ずに逝ってしまったのである。
夜、医師から処方された薬で一時的に痛みが引いたとき、良欽は良雄を枕元に呼んで人払いを命じた。そして、
「よいか…、良雄。明日からは、その方が赤穂浅野家の筆頭国家老じゃ…」
「これまで、家老見習いとして、どう振る舞えばよいか分かったであろう…」
「浅野家の行く末を頼んだぞ…」
そうして、新しい筆頭家老との引き継ぎを終えた。
すると、最後に、
「良雄…。儂の書斎の戸棚に書き置きがある故、儂の死後、それを開くが良い…」
そして、
「小平太のこと、お主に託す故、よしなにな…」
と言うのである。
それは、謎かけのように聞こえたが、良雄は、
「小平太…ですか。あの男に何か…」
と言いかけたが、良欽は頭を振って、
「いいのじゃ、別にない…」
「お主とは同年故、いずれ、頼りにするときもあろう…」
そう言うと、自ら眼を閉じ、他の家族には何も言い残さず黄泉の世界に旅立って行ったのだった。

良雄は、家督を譲られて正式に「内蔵助」を名乗った。
したがって、ここからの内蔵助は、良雄のことである。
内蔵助は、祖父である良欽の跡を継ぎ、赤穂浅野家五万三千石の家老職筆頭となった。父良昭は、内蔵助が十四才の時に三十四才の若さで病気で亡くなったために、祖父である良欽の養子となっていたのである。
大石内蔵助という人間は、二十一才の若さで家老職を継いだ男だったが、筆頭家老という高位の身分であることから、平和な時代には特に何をするわけでもない。
どの大名家にも「家老職」は、五、六人程はいるものだった。
江戸にも当然、江戸家老を置かなければならないし、国元には、財政を扱う家老も必要であり、側用人のような役目をする家老職もあった。
内蔵助のような譜代の家老職は少なく、筆頭家老、国家老と呼ばれ、その大名家の家臣筆頭ということになる。
この職だけは世襲で、凡庸な跡取りであっても形だけは「筆頭家老」と呼ばれた。
もちろん、家禄も一番高く、赤穂浅野家では、大石家は千五百石を頂戴する家柄で、邸も大手門側に大きく構えていた。
他の家老たちは、その才能を買われてその職に就く者も多く、家禄は精々七百石程度だった。それに、跡継ぎが凡庸なら、家老職を継ぐことはできない。そこが、譜代の大石家との違いである。
そのためか、内蔵助は、常に目立たぬように「昼行灯」を演じていたが、いつの間にか、それが楽になり、若い頃の冴えた面影はなくなったといわれている。
どこまでが演技で、どこからが本気なのか掴めないのが内蔵助という男だった。

赤穂浅野家は瀬戸内海に面した山陽道の拠点にあり、宿場町としても栄えていた。それに、海産物も豊富に獲れることと、美しい塩田を持つことから財政的にも豊かで、実務的なことは、浅野家の家臣たちが滞りなく行っていた。
そして、それを取り仕切るのが、先代の内蔵助良欽が新規に召し抱えた大野九郎兵衛である。
九郎兵衛は、どこで修行をしたものか、財政方家老として辣腕を振るっていたのだ。
この九郎兵衛という男は、さすが良欽がその人物を見込んで浅野家に推挙しただけのことはあって、経済官僚としては申し分のない侍だった。
九郎兵衛が財政方家老に就いてからは、浅野家は無駄な出費がなくなり、「赤穂浅野家ほど、豊かな大名家はないであろう…」
と、その健全財政が評判になるくらいだった。
殿様である内匠頭長矩は、世襲の若様だが、昔からけちで有名だった。
先代長直から浅野家の跡を継ぐと、表から奥のことまで口を挟み、あれこれと指図をするのが仕事だと思っている様子が見られた。それに、性格が几帳面の上にけちときているから、食事にもうるさい。
「なんだ、今日の夕餉は…」
「贅沢に過ぎる。一汁一菜で構わん。飯も麦を混ぜよ!」
と、贅沢は敵であるかのように振る舞い、己は戦国武将の末裔であるかのように、武芸には殊の外熱心に励むのだった。
若いころから修行に励んだせいで、刀、槍、弓、馬などの武士としての嗜みは十分に備わっていたが、けちなことと女好きが欠点であった。
若く体力もある男が、溢れんばかりの精を持て余すのはよくあることである。
阿久里を嫁に貰うまでは、城中の若い腰元を呼んでは夜の伽をさせるだけでなく、初老の局にまで声をかけるので、奥ではかなり顰蹙を買っていた。
それで、内蔵助良欽が取り計らって、親戚の三好浅野家から阿久里姫を嫁に迎えたのだが、それでも、女好きは止まらなかった。
これは、内蔵助も同じことで、二人はその点はよく似ていた。
内匠頭は、算術や経営には性格的に向かないところがあり、大雑把なのだが、細かい小言を言う癖は生涯直らず、わかりもしない帳簿を持って来させては、勘定方を困らせていたが、大野九郎兵衛が財政方の家老に就いてからは、「大野に、任せよ!」というのが、口癖になった。
九郎兵衛は、それくらい殿様の覚えもめでたく、同じ家老でも年若い内蔵助などは、単に決裁印を押すためだけに、毎日登城しているようなものだった。
それに、女好きな内蔵助は、城内でも美しい女中が側を通ると、すぐに声をかけるので、益々、評判は落ちるばかりで、若いのに「女好きの昼行灯」とか、「殿様も殿様だが、筆頭家老もな…」と陰口まで言われる始末で、その上、ボーッとしている時間が多いので、有り難くないあだ名まで頂戴することになってしまった。
正直、内蔵助は女性にだけはマメだった。
内蔵助に尋ねても、それだけは我慢できないらしい。
気に入った娘がいると、内蔵助は後先も考えずに言い寄る癖があった。
内蔵助は、身長五尺ちょっとの小男で、体に似合わず頭が大きい。
顔立ちは、そう悪い方ではないが、少し小太りで手足も短い。
要するに容姿は人並みか、それ以下ででしかないのだ。
そんな男が、あちこちの綺麗な娘に声をかけるので、城内でも噂になっていた。
「大石様の跡取りは、少し足りないのではないか?」
などと言う者もおり、とにかく家老就任前より軽んじられていたことは間違いない。しかし、そんな噂を耳にしても気にしないのが内蔵助のいいところでもあった。
だが、こんな噂のある男でも、娘たちにはよくもてた。
内蔵助は、娘に声はかけるが、不実な男ではない。どれも本気なのだ。
あるときなどは、城下の両替商の娘に惚れて、武士を捨てるの捨てないのと大騒ぎになったことがあった。
祖父の良欽が怒って、
「こら、良雄。おぬしという奴は、勘当じゃ!」
とまで言い放ったが、良雄の兄貴分の進藤源四郎が良雄を説得して良欽に頭を下げさせ、その両替商の家にまで出向いて、不実を詫びたことがあった。
それでも良雄は、
「儂は、商人が向いておる。縫と一緒になって日本一の両替商になってみせるのだ!」
と息巻いたが、肝腎の縫が、
「良雄様、これ以上、父を悲しませることはできません…」
と身を引いてしまったので、良雄も泣く泣く別れることになった。
だが、このとき、縫は良雄の子を宿しており、良雄と別れた後、密かに女の子を出産したのだった。
もちろん、良雄はそれを知らずにいたが、その後始末をしたのも源四郎である。
進藤源四郎は、内蔵助より一回り年上で親戚筋の足軽頭だったが、良欽に頼まれて、内蔵助の幼少時から何かと面倒を看る関係だった。
そのために、文句を言いながらも、良雄の後始末をするのが常となった。
源四郎は、根っからのお人好しで、そんな内蔵助の面倒を看るのもけっして嫌ではないらしく、人から、
「あの、昼行灯殿の世話も大変でござろう…」
と言われても、
「何なに、出世するような人物は、ああいったところが皆あるものじゃ…」
「かの、信長公を見よ。あれほどの大人物でさえ、幼少期はうつけとよばれておった…。秀吉公を見よ。太閤殿下は猿じゃ…」
「女好きの昼行灯など、うつけや猿に比べれば、かわいいものよ…」
そう言って、笑い飛ばすのだった。
内蔵助は、自分の容姿もよく知っており、女を口説くのも「兵法だ!」と嘯くような強かさを持っていた。
内蔵助が言うには、
「よいか。女性にもてようと思えば、まずは相手の素性を探り、好きな物の一つや二つは用意をするものだ。そして、何度も声をかけ、マメに尽くすのが大切でな…」
「一度や二度振られても、こまめに尽くし、誠意を見せることが肝要だ。武士とか身分とか、金があるとか、そういうことをちらつかせると、女は逃げる…」
「とにかく、誠実に女の目を見詰め口説くのだ。そうこうしているうちに、相手も少しずつ心を開き、誘いの乗ってくるのもそう遠い話ではない」
「よいか。そのとき、けちはいかん。けちは嫌われるでな…」
「一両や二両くらい、どうということはない。好物を食わせ、簪や小物の一つも買ってやれ…。そのうち、体を寄せてくるものだわ」
「ははは…」
そう言って、若い者を相手に与太話をするのも内蔵助の面白さであった。だから、昼行灯と軽く見られても、内蔵助は嫌われることがない。寧ろ、だれにでも好かれる性格だった。
長矩のように、女好きのくせにけちでは、どうしようもない…ことを内蔵助は知っている。内蔵助は内心、
(殿様も、あれでけちじゃなければ、名君なのかも知れんが…。ああ、細かくて吝嗇では、女が寄って来るはずがないわ…)
そう言って、殿様の前ではやはり昼行灯で過ごし、いつも内匠頭に嫌味を言われるのだった。

内蔵助が小平太と親しくなったのは、ある出来事がきっかけだった。
内蔵助が、まだ良欽の跡を継がず幼名の喜内から良雄になったばかりのころだった。
小平太も赤穂に来てまだ間がないころだ。
当時、良欽は、公儀からつけられた小平太の扱いに苦慮しており、当座、自分の手元に置いて目付の役職としていた。
「目付」とは、簡単にいえば、武士たちを取り締まる警察官のような役目で、他の藩士たちから見れば、少し疎ましい存在である。
「隠し目付」として、浅野家に付けられた小平太をそのまま「目付」にするなど、良欽はなかなかの策士である。
その小平太を手元に置き、その性格や仕事ぶり、能力を測ろうとする魂胆が良欽にはあった。
小平太自身もそれには気づいていたが、
(筆頭家老の側に仕えられば、何かと好都合…)
とばかりに、半ば良欽の用人のような仕事もこなしていた。
そのために、大石家の邸には常に小平太がおり、小平太と同年の良雄が「家老見習い」として、やはり良欽の側で修行をしていたのである。しかし、元来の怠け者である良雄は、同年の気安さか、この小平太を便利に使っていたのは他でもない。
既に良雄は、家老見習いとして城中にも出仕し、但馬豊岡藩の家老の娘里玖との婚約も整っていたが、女遊びが抜けきれないでいた。
抜けきれない…というより、さらに激しくなったと言う方が正しい。
良雄にとって、里玖は好ましい許嫁ではあった。しかし、この女一人に操を捧げるつもりは毛頭ない。
里玖は、さすが京極家家老の娘だけに、器量も良く、その動きにも品があった。ただ、小男の良雄と比べても頭一つ背が高いのが難点だった。それでも良雄はこの里玖を可愛がり、どこにでも連れて歩くので、里玖の方が気にして、
「恥ずかしいでは、ありませんか…」
と言うのも気にしない様子で、
「近いうちに夫婦になるのじゃ。恥ずかしいことがあろうか…」
と無邪気に笑うのだった。
里玖は、自分の背が高いことがコンプレックスであったが、良雄は会うなり、
「ああ、よいよい。美しい姫でございますな…」
と大きな口を開けて言うので、見合いの席は、一瞬で和んだという。
里玖の父親である石塚毎公は、会うなり、我が娘を「美しい!」と叫んだくれた良雄を気に入り、トントン拍子に縁談が進んだのだった。
だが、夫婦となっても色里通いは相変わらずで、良雄にはそういう意味での分別はないらしい。
良雄にしてみれば、それが憚られることくらいは知っていたが、男の本能が疼いて仕方がないのだ。それは、良雄自身にもどうしようもない「癖」みたいなものなのかも知れない。
かと言って、妾を囲うには、家老見習いとしての面子もあり、なかなかできないが、遊里での遊びなら勘弁して貰おう…と自分勝手な言い訳を考えていた。
そう思うと、いても立ってもいられず、手近なところにいる小平太を誘うのだった。
小平太は、取り立てて目立つような男ではない。しかし、良雄は、そんな寡黙な小平太が好きだった。
年は同じに違いないのだが、その分別臭さは良雄にはない。
どちらかというと、十以上も上に見えるときがあった。それに、江戸者なので、遊びも粋に見えた。
小平太にしてみれば、どうしてよいかわからず、ひたすらじっとしていただけなのだが、良雄にはそれが格好良く見えるらしい。
それに、小平太の何気ない身のこなしから、(この男、只者ではないな…)と踏んでいた。
良雄の眼は節穴ではない。
山鹿流兵法の奥義を学んだ兵法者なのだ。
ぼんやりしていても、人を見る目はある。
小平太の自然な佇まい、刀の扱い方一つ見ても、一分の隙もないのだ。
既に師匠である山鹿素行は亡くなっていたが、赤穂には、良雄以上の高弟が数人はいた。彼らは、良雄のよき相談相手であり、兵法談義を交わす同志でもあった。
それに、剣は東軍流を学び、目録まで進んでいる。
実は、これも免許を…という話はあったが、将来の家老職としてあまり目立つことは避けたかった。
良雄の「昼行灯」は、自ら望んで、己の光を隠す役割をさせていた。だからこそ、女遊びも必要なのだ。
そんな理屈をこねては、小平太を供に夕刻になると、常連の「華ノ家」の奥座敷に上がり込むのだった。

この「華ノ家」は、赤穂でも格式の高い料亭で、あまり下級の武士は来ない。それに、町人も来るが、どれも遣り手の商人ばかりで、その遊び方も粋である。
良雄は、何につけても無粋な作法を嫌った。
そんなとき、事件は起きた。

ある秋の夜のことだった。
いつものように小平太をお供に「華ノ家」に上がり、馴染みの茜と過ごした良雄は、ふた刻ほどの間、若い茜のむせ返るような白粉と柔肌の香に酔い、快楽の余韻を楽しみ、深夜になってやっと店を出た。
本当なら、朝を待って出てもよかったのだが、翌日は、城中で評定が行われるのに家老見習いの分際で、不在というわけにもいかなかった。
赤穂の夜は暗い。
この時代、街灯などがあるはずもなく、夜の一人歩きは物騒だった。
外は「華ノ家」の華やかさと違って、魑魅魍魎の類いが現れる物の怪の世界なのだ。
良雄は、そんな妖怪話が好きで、松之丞の頃は、一人でこっそりと邸を抜け出しては闇の世界で戯れたものだった。もちろん、誘う女はいた。
だから、暗闇でもある程度目が利く。
小平太は、いつものように大石家の提灯を下げ、無言で良雄の数歩前を歩いていた。
遊里から離れると遠い灯りも失せ、漆黒の闇が訪れた。
そろそろ、秋風から冬の木枯らしが吹きそうな寒い晩だった。
大石邸は、筆頭家老の名門家であるから、赤穂城の大手門側に広大な邸を構えていた。家禄は一千五百石で家老見習いの良雄にも役料が百石出ていた。
僅か五万三千石の小藩で、一千五百石は高い。
新参家老の大野九郎兵衛は、七百石である。
いかに、大石家が赤穂浅野家で重きを置いていたかがわかるというものだ。
寺町を抜け、武家屋敷通りに入ろうかという、そのときである。
数名の黒装束の男共が、二人の前に立ち塞がったのである。
首領らしき男が、
「大石良雄だな…?」
と尋ねるので、良雄はムッとして言い返した。
「その大石だが、この夜更けに何用じゃ…?」
そう返すな否や、男たちは抜刀して身構えた。
(此奴ら、俺を斬るつもりか…?)
良雄は、腰を屈めるとスラリと大刀を抜いた。
この大刀は、無銘だが戦場で使用された業物である。それを事も無げにスラリと抜く技は、やはり大石良雄、只者ではない。
男たちは、ギョッとしたらしく、一歩、後ずさりをした。
提灯は、数歩前でゆらゆらと揺れている。
刺客は、四人と見た。
その刹那である。
一陣の風が吹いたかと思うと、襲ってきた刺客たちの体が傾き、
「グワッ!」
「し、しまった!」
「むむむ…」
というくぐもった声を発するや否や、その場にどっと倒れ込み、首領らしき男が、
「ひ、引けっ!」
と命じる声が聞こえるではないか。
良雄は、刀を抜いたまま、周囲に殺気がないか確かめたが、その一陣の風とともに、先ほどまでの鋭い殺気は嘘のように消えていた。
(だれだ…? 小平太か?)
すると、影のように小平太が近寄り、
「良雄様、おけがはありませぬか?」
と、いつもの口調で尋ねて来るではないか。
良雄が、
「あれ、提灯は?」
と見ると、大石家の提灯は灯りを灯したまま、道の真ん中で棒に立て掛けられて揺れているのだった。
(あやつ、いつの間に…)
小平太は、何事もなかったかのように提灯を持って良雄の前に来ると、
「何者かは、わかりませんが、このような物を落としていきました…」
そう言って、手に持っていた印籠を良雄に手渡すのだった。
提灯の灯りを近づけると、そこには、見たことのある家紋がくっきりと彫られているではないか…。
「ん?」
「これは、浅野本家筋の…紋所ではないか?」
「すると、今宵の曲者は、浅野家ゆかりの者共か?」
良雄は、それだけを発すると、その印籠を懐にしまい、ただひと言、
「小平太、すまなんだな…。夜道は怖ろしいわい」
そう言って、首を縮めながら家路に着くのだった。

大石にしてみれば、今宵、自分を襲ってきた連中に心当たりがないわけではなかった。
(あれは、浅野本家の者共だ。奴ら、どうも俺が邪魔らしい…)
それは、浅野本家では以前から、
「赤穂浅野家は、本家を本家と思わず。分家の分際で生意気である…」
と難癖をつけてくるところがあった。
それは、赤穂浅野家が塩商いを独占し、かなり儲けているという噂が発端だった。
浅野本家は、広島を拠点とする四十二万六千石の大大名である。
豊臣秀吉の妻おねが出た家で、豊臣恩顧の大名だったが、徳川家康に加勢し、安芸一国の支配を任されていた。しかし、内情は火の車で、分家にも内々で借金を申し込んでくるような状態だった。
当然、分家である赤穂浅野家にも借金の申し込みがあったが、その態度があまりにも本家風を吹かす横柄なものだったことから、内蔵助良欽が断ってしまったということがあった。
けちで有名な内匠頭長矩も、
「本家であろうと、金を借りるのにあの横柄な態度は無礼であろう。良欽、見事な采配である…」
と誉めたものだから、騒ぎは大きくなってしまった。
長矩は、生来がけちであるため、自分の財布から金を出すことを殊の外、渋る。
本家の態度も態度だが、この殿様では、たとえ本家から礼を尽くして頼まれたとしても、易々と受けることはなかっただろう。
それからは、本家は何かと赤穂の家に難癖をつけてくるのだ。
まあ、今回の者共も、良雄を暗殺するというよりは、次期筆頭家老の大石良雄を脅かしてやろう…程度の脅しだと思うが、逆に手傷を負わされたのでは、さらに面目を失うことになった。
それより、提灯の火を消すこともなく、一撃で四人の侍を倒した小平太に良雄は驚いた。
(この男、やはり只者ではないな…)
そう確信したが、それに拘る良雄ではない。
こういう男こそ、いざというときに役に立つのだ。
小平太にしてみれば、自分が出て行かなくても、あの刺客を前にしたときの良雄の構えを見ただけで、
(良雄様は、なかなかの遣い手であったか…)
と驚き、小平太が忍の技で刺客たちの腕や足に傷を負わせる瞬間も、こちらをじっと凝視していた眼が怖ろしくもあった。
(これが、赤穂の大石良雄か…)
そう思うと、隠し目付としての自分が、いつか大石に対峙しなければならない日が来ることを怖れた。
(いや、それだけは避けねばならぬ…。俺に、この人は斬れぬ)
それでも、小平太は、
(あの刺客たちは、命を落とすことはないが、腕や足に深い傷を負わせたので、傷が治るには、かなりの日数が必要になるだろうな…)
と考えた。
武士としては、そんな恥を掻かせられて、おめおめと生きているのも辛い人生だろうと思う小平太だった。

邸に戻った良雄は、何事もなかったように小平太と別れ、奥の寝室に入ると改めて、女中の咲の体を抱いた。
咲は、若いころから大石家に奉公している女で、奥向きのことは咲に聞けば、大抵のことはわかった。
だが、間もなく、里玖が輿入れすれば、咲は暇を貰うことになっていたのだ。と言うより、良雄の愛情を受けた女であり、新妻の里玖に仕えさせるのは、やはり憚りがあった。
咲は、内蔵助より十近く年上で、夜の手解きをしたのも、この咲である。
咲は、城下の呉服屋の娘で、若いころに一度、姫路の商家に嫁いだが、その姑との折り合いが悪く三年で離縁されていた。子がいなかったのも、離縁の原因かも知れなかったが、咲の夫は、離縁話が出ても、何も言わなかったそうだ。
実家に返されると、伝手を頼って大石家に女中として奉公していたのだ。
大石家は、筆頭家老の家柄でもあり、客も多い。
格式の高い武家や公家侍の出入りもあり、女中にもそれなりの教養が必要だったが、咲は、元々商家の娘なので、一通りの作法は身につけていた。
「見目麗しい…」という程ではないが、小柄で、実際よりも五つほどは若く見えた。
良雄との関係は、良雄が元服するとすぐに、祖父の良欽が頼んで、良雄の寝所に入って来たのだった。
当時としては、それが「しきたり」であり、上級の武家であれば、尚更、男子には一通りのことを教えるのが親の務めでもあった。
こうした男女のことを教えるのも大人の役目であり、けっして恥ずかしいことではない。
それは、女中をしていれば、咲も承知していることで、ましてや、一度嫁いだことのある女であれば、それを断る理由もなかった。寧ろ、咲は年下の良雄が好きであり、その役目は自分が果たしたいと願っていたのである。
十五の良雄にとって、大人の咲の体は魅力的で、良雄はすぐに咲に溺れた。しかし、咲はそれを仕事と心得ているらしく、そんな閨での熱い抱擁も、朝になればいつものように良雄に接する咲だった。
だから、今でも良雄が求めれば、咲が拒むことはない。
それも、良雄の咲に対する愛情だったのかも知れない。
その咲は、里玖が輿入れするひと月ほど前に、大石家に別れを告げて、岡山の農家に嫁いでいった。
別れる前の晩、良雄は咲を抱いた。そのとき咲は良雄に、
「良雄様。ようございました。咲はずっと幸せでございましたよ…」
「立派なご家老様におなりなさいませ…」
そう言って、静かに涙を零すのだった。
二人は、明け方まで睦み合い、そして静かに別れたのだった。
後に、大石内蔵助良雄が赤穂義士として有名になると、咲は昔の良雄を偲んで、岡山の家の脇に、慰霊碑を建てたという。それには、「赤穂義士 大石良雄顕彰碑」と刻んであった。
咲にしてみれば、内蔵助ではない「良雄」の時代を懐かしく思い出していたのかも知れない。そして、嫁ぎ先の子供らに愛情を注ぎ、亡くなる直前まで、「大石良雄」の昔話を語って聞かせていたそうだ。

それにしても、あれほど遊里で茜の若い体を堪能したはずなのに、それはそれとして、家に戻れば、別の顔を見せて女に愛情を注ぐことのできる大石良雄という男は、並大抵の侍ではない。だからこそ、歴史に名を刻むような大事を為せたのかも知れない。

この一件以来、小平太に益々信頼を寄せる良雄だったが、それから間もなくして内蔵助良欽が亡くなった。
長患いもなく、普段通りの生活を送っていたが、突然城中で倒れた。
おそらくは、頭の中の血管が切れたのかと思ったが、どちらにしても、武士としては見事な散り様としかいいようがない。
そして、初七日が過ぎた頃、遺言にしたがって、良雄が良欽の書棚を開けると、そこには何通かの遺言書が残されていた。
その中の一通に、小平太の素性が明かされていたのである。
それを読んだとき、良雄は、
(やはりな…)
(そういう者がいることは知ってはいたが、あの小平太であったか…)
だが、良雄は、それで動揺することはなかった。
小平太が「隠し目付」であろうが、なかろうが、こちらがどうする手立てもない。公儀が、内情を知りたいと思うのなら、いくらでも知るがいい。
こちらもそれなりの覚悟を持って対峙するのみだ…。
そう考える良雄だった。

初七日が過ぎると、良雄は内匠頭に呼び出された。そして、
「大石良雄。おぬしを筆頭家老に任ずる。合わせて国家老を命ずる。内蔵助を名乗るが良い」
という下知がなされた。
これで、大石良雄は名実共に赤穂浅野家五万三千石の筆頭家老となり、内蔵助良雄となった。
小平太は、大納戸役となり、大石家に来ることも少なくなっていた。それでも、筆頭家老と「隠し目付」という関係は重い。
内蔵助は、祖父良欽同様に小平太を重用し、大納戸役でありながら筆頭家老付の用人を命じるのだった。
大石家には、瀬尾孫左衛門という良欽時代からの用人がいたが、孫左衛門は浅野家からしてみれば陪臣であり、内蔵助の家来ではあったが、城内に入ることは許されていなかった。そこで、城内の秘書役として小平太を抜擢したのだった。
これで、公の仕事では小平太を用人として使い、私では孫左衛門を使ったことで、筆頭家老としての職務に支障が出ることはなくなっていた。
それに、大石家には、但馬石束家から里玖が嫁いできており、新たな大石内蔵助家が誕生したのである。
そして、その幸せな日々は、永遠に続くような気がしていたが、運命はそれを許さなかった。
間もなく、元禄十四年を迎えようとしていた。

第2章 毛利小平太と柚木

内蔵助は、亡くなった祖父良欽の家督を継ぐと、すぐに若い者を集めた「山鹿塾」を再開させた。
山鹿素行が亡くなって既に十年という年月が過ぎていた。
内蔵助にしてみれば、自分が曲がりなりにも成人し、内蔵助を名乗ることが出来たのも、若い頃に教えを請うた山鹿素行先生のお陰だと感謝していた。
素行は、陽明学者として日本中にその名を知られた儒学者だったが、公儀の政治を批判したことによって赤穂へ流された、いわゆる「流人」である。しかし、先代浅野長直は、笠間から赤穂へ転封された折、「山陽道の要といたします」と称して、五万石の小藩でありながら、街道沿いに天守を持つ城を築城した豪傑だった。
時は既に三代徳川家光の時代になっており、外様大名に自前の城を築城させるなど、あり得ない話ではあったが、将軍家光の承認を得て、借財なしに城を築いて見せた。
それだけでなく、城下の整備を進め、当時としては画期的な上水道まで整えたのだから驚きである。
赤穂の城は海に近く、城下も井戸水に海水が混じるために上水道を敷いたのだが、そのために石の管を城下に張り巡らせ、いつでも新鮮な真水が飲めるとあって、近隣の者たちも赤穂の城下に住みたいと集まって来るほどだった。
また、赤穂が豊かになるきっかけとなった「塩田」は、入浜式塩田法と呼ばれ、白くて良質な塩を生み出すことになった。これが、赤穂浅野家を豊かにした原因なのだ。
この赤穂浅野家の土台を築いたのが、筆頭家老大石内蔵助良欽であることは、関西地方の各大名家なら知らない者はいなかった。それだけに、浅野家にとって大石家は、大事な御家の柱石なのだ。
そこに、江戸から流人が送られてくると聞いて、藩庁ではその処遇に頭を悩ませたが、それをキッパリと決断したのが、主君長直である。
長直は、
「山鹿素行先生といえば、当代随一の儒学者であり兵学者である。歯に衣を着せぬ御仁ではあるが、先生の申し分は、まさに正論!」
「これこそ、陽明学徒としての神髄である!」
「我が藩に流人として送られてくるというが、浅野家としては、これを粗略にに扱うことは許さぬ。客人として迎え、我が師といたす!」
そう宣言して見せたのだった。
内蔵助良欽に異論があるはずもなく、
「赤穂浅野家は、有事を忘れず、ご公儀のために働く所存」
と称して、家臣たちに武芸や学問を奨励したのだった。
そこで学んだのが、良雄や菅谷半之丞たちということになる。

そもそも陽明学は、儒学の一派ではあったが、ものの道理を尽くす学問を本旨とし、常に正義を貫くことをよしとした。そこには、余計な忖度はない。
「武士道とは、道を極めることにある」という精神が貫かれており、「知行合一」がその思想を体現している。
要するに、
「学んで知識を得た者は、それを使い、行動に移してこその学問」
と定義していた。
江戸末期に大坂で乱を起こした大塩平八郎や維新の革命児西郷隆盛、戊辰の英傑河井継之助などは、この陽明学を学んだ志士たちだった。
ただ、長直の子である長矩は、その陽明学を表面上でしか捉えることができなかった。
生まれ持っての「若様気分」は生涯直らず、山鹿素行の教えの深さに気づかず、ただ、単純にしか物事を捉えることができなかった。
今でも、こういう種類の人間はいる。
己が信じた思想のためだけに生きようとするあまり、周りが見えなくなり、破滅の道へと突き進んでしまうのだ。
現代であれば、某宗教団体の毒物によるテロ事件が思い出される。
高学歴で理解力も判断力もある連中が、愚かな教祖の思想に共鳴し、無差別テロを起こし、いずれも破滅していった。
思想は尊いものではあるが、純粋であればあるほど、周りが見えなくなり、独善的になるのかも知れない。
浅野内匠頭長矩とは、そういった種類の男だった。
同じ山鹿素行門下でありながら、大石内蔵助良雄は、真逆の男である。
良雄は、世の中を俯瞰して眺め、人の強さも弱さも理解していた。そして、ここぞという一点にのみ突き進む強さとしなやかさを持っていた。
それは、その人間の置かれた環境や人としての経験の深さが、大きな差を生むのかも知れない。
したがって、長矩は短慮のために身を滅ぼし家を滅ぼしたが、良雄は、深謀遠慮の末、身は死すとも「義士・神」と崇められ、大恩ある主家を再興して見せたのだった。

内蔵助にしてみれば、自分が筆頭家老となったことで、この「陽明学」を再び赤穂に根付かせ、真に強い「赤穂武士道」を創りたいと願っていた。
そのために、同門だった菅谷半之丞と木村岡右衛門を師範とし、若い連中を育てようと取り組み始めた。
これまでも、祖父の良欽は、撫育金を与えて将来性のある若い藩士を援助していたが、内蔵助は、金銭だけでなく学問を身につけさせ、将来に生かそうと考えていた。そして、その教育費を藩庫から戴くのではなく、自前で用意することにしたのだ。それならば、財政方の大野九郎兵衛の手を患わせることもない。
内蔵助と九郎兵衛は、九郎兵衛の方が一回り年上だったが、良欽の推挙によって赤穂浅野家に仕えた恩義もあり、内蔵助に対しても「太夫…」という言い方で、自分の方が下位にあることを自覚していた。そして、派閥を作ることもなかった。
それに、良欽が存命の頃は、よく大石家に出入りし、良欽と談合をしている姿を良雄は見ていた。
邸に来るときには、良雄たち兄弟や、母たちが好物の品を持参し、如才のないところを見せる男だった。
おそらく、良欽は、その算術や教養だけで選んだのではなく、その人柄を見込んで殿様に推挙したのだと思われた。
確かに、九郎兵衛は、この後の大事に際しても、卑怯者の汚名まで着て、内蔵助の意を汲んだ行動に終始し、けっして表には出ず、裏の仕事を全うしてくれたのだった。
後の世に、大野九郎兵衛は「不義士」と蔑まれ、忠臣蔵の芝居でも悪役の筆頭になった。
だが、真実はまったく異なる。
九郎兵衛がいなければ藩論はまとまらず、赤穂浅野家は、仇討ちどころか、開城前に空中分解をしていただろう。
改易にあった大名家の多くは、まさにそうであった。
当初は「公儀と戦おう!」という強い意見に終始するが、会議が終わると皆、逃げ出す算段をするものなのだ。そして、残された僅かな軍勢が一時的な抵抗を見せるが、城受け取りの軍勢によって鎮圧され、首謀者の首が晒されて終わるのである。
内蔵助は、備中松山の水谷家が跡目がなく改易となったとき、城受け取りに出向いた内蔵助は、最後の抵抗を試みた筆頭家老、鶴見内蔵助と談判し、抵抗を止めさせたことがあった。
内蔵助は、単身で松山城に乗り込み、鶴見内蔵助に面会を申し込むと、
「内蔵助殿。松山武士の意地を見せていただき申した…」
「もう、十分でござろう。これから先は、皆の生きる道を見つけてやるのが、筆頭家老の務めと存ずる…」
と、年上の鶴見内蔵助を説得したのだった。
この話は、「両内蔵助の会談」として有名になったくらいだった。
だからこそ、後に鶴見内蔵助と同じ立場に立たされた内蔵助は、それを教訓として策を講じたのだ。これこそが、「知行合一」を説く陽明学の体現である。陽明学とは、けっして破滅の学問ではない。

よく、内蔵助の軍資金の話が出るが、内蔵助は武士でありながら商才に長けた相場師の一面があったように思う。それは「塩相場」である。
内蔵助は、若い頃から各所で遊び、百姓、町人まで知り合いが多い。その上、遊里での遊びをとおして大阪や京の商人たちとも懇意になっていた。
原則として、遊里の客に身分差はない。
お金を払う客が偉いのであって、制度に基づく身分は、この世界では関係がないのが当時の常識だった。それ故に、遊里はその区域に高い塀を回し、出入り口には大門を設けた。
中は基本的には治外法権で、中の治安維持も各店の合議で行われていた。
それでも、内蔵助の身分を知ると、商人たちは「畏れ多い…」とひれ伏したが、内蔵助は、いつも「浮世」と名乗り、
「気にするな。ここでは、浮世で通っておるわ…」
と、酒席を一緒にすることも度々だった。
店の者たちは、常連の内蔵助を「浮様」と呼び、随分と親しげに振る舞うのだった。
最初のころは、小平太もそんな内蔵助に面食らう思いがしたが、慣れてくると、「これも、内蔵助殿の顔なのだ…」と理解するようになっていた。
ここでの商人たちは、用心深さが消え、単純に遊びだけを求めているように見えた。そこで、内蔵助が、商売の話を持ち出すと、意外と早く商談がまとまることが多いのだ。
特に、赤穂の塩はこの土地の名産品であり、高い値がつく。
先代の内蔵助良欽は、この良質の塩に眼をつけて、藩から補助金を出して、さらに品種改良に努めたのだった。そのお陰で、京の朝廷や公家にも献上できるまでになり、その品質のよさは、貴族階級や富裕層から広まったと言っても間違いではない。
内蔵助も良雄の代になると、藩が補助金を出す代わりに藩庁に「塩奉行」職を置いた。それは、統制するというよりは、「管理」に重きを置く役所だった。
塩奉行には、若手の百石取りクラスの上士を置き、下士に命じて常に塩田を巡回させ、塩田で働く者から意見を聴取し、塩田の改良に努めさせたのだ。
当初は、「役人が来た…」と本音を話さない者たちも、親しくなるにつれて、様々な要望を出すようになっていった。
長く使えば、塩竃も道具も古くなり、交換が必要になるし、塩田が増えれば熟練の技術者も必要になる。そういう生の声を聞きながら、赤穂塩の量産に勤しんだのであった。
その結果、内蔵助の代になると、これまでの倍の赤穂塩が採れるようになったが、内蔵助は、その余った塩を蓄え、相場を張ったのである。
塩相場の商いに武士は関わることが出来ない。それは、神君家康公からの遺訓でそう決まっており、商人の領域に武士が立ち入ることは許されなかったのだ。
それは、一見理不尽のように見えるが、商いを商人の手にのみ委ねることで、経済力をつけた大名家が出るのを怖れたからでもあった。
武士は、「質素倹約を旨とすべし」という儒教的な教えの中で、清廉潔白さが求められたのだった。
だが、内蔵助はそこにいち早く眼をつけた。
もちろん、内々ではあるが、これほど質の良い貴重な塩を持っていて、そのすべてを商人に委ねる法はない…。そう考えた内蔵助は、遊里で知り合った商人をとおして、高値がつく時期を見て、藩に蓄えた余剰の塩を売ったのである。そして、その差額を手に入れることで、浅野家の財政事情は著しく好転していったのだった。
赤穂の財政が豊かだったのはそれだけではない。
藩主長矩が、陽明学の教えに沿って「質素倹約」の権化みたいなものだったことから、贅沢をする者を厳しく処断したこともあった。さらに、財政方家老の大野九郎兵衛は、長矩以上の倹約家で、「無駄を省け!」の大号令で、各部署の無駄な出費を抑えるために、勘定方に命じて、その帳簿の徹底した見直しを行ったのである。
その中には「賄賂」と思われるような証拠も見つかり、不正を働いた者は、たとえ高禄の者であろうと厳しく罰せられたために、赤穂の侍は、他藩の者と比べて非常に生真面目であり、その余ったエネルギーを武芸や学問に費やすのだった。
その反面、融通が利かず、相手とトラブルになることも多かったが、そのたびに九郎兵衛は内蔵助の助けを借りて穏便に済ませるのだった。
そういう意味で、九郎兵衛と内蔵助は、赤穂藩の車の両輪だった。
長矩が江戸で刃傷事件を起こした遠因には、江戸家老の藤井又左衛門や安井彦右衛門が長矩の叱責を怖れ、内蔵助の指示を守らなかったことにある。
もし、このとき、江戸に内蔵助か九郎兵衛がおれば、この事件はなかったとも言われている。

話を赤穂に戻そう。
こうした塩相場で儲けた金を内蔵助は九郎兵衛に預け、自分の持ち金で相場を張った分が、内蔵助個人の蓄えになった…というわけである。
小遣いと言っても、その儲けは大きく、内蔵助は塩相場に百両、二百両と惜しげもなく金を遣ったので、赤穂改易後も持ち金が数千両はあったと言われている。そのためか、内蔵助は筆頭家老でありながら、藩からの分配金を一銭も受け取っていない。
内蔵助には、商才があったようで、その相場勘は、商人が舌を巻くほどだった。そして、その相場で得た金が、若い藩士への撫育金となったのだ。
その「山鹿塾」で学んだ若い者たちの中に、岡野金右衛門、小野寺幸右衛門、間十次郎、杉野十平次、三村次郎左衛門、矢頭右衛門七たち、後の赤穂義士と呼ばれる面々がいた。
もちろん、小平太もこの仲間に入り、山鹿流や陽明学を学ぶことになった。
ただ、内蔵助は、小平太には「刀剣の鑑定と手入れ」について塾生たちに教える役目を与えていた。
それに、内蔵助と同年であれば、若侍ではない。
師範の菅谷半之丞が四十、木村岡右衛門が四十二と、皆ほぼ同年であり小平太は、彼らを補佐をする師範代としたのだった。
小平太の学識は、そのとき周りの者たちが知るところとなり、また、刀剣に対する知識の豊富さもあって、若い侍たちは、小平太を厚く信頼するまでになっていた。ここにも、内蔵助の深謀遠慮が見て取れる。
内蔵助は、小平太が「隠し目付」であるという以上に、その人柄を愛していた。だからこそ、自分の味方として助けて貰いたいと考えていたのだった。
それに「隠し目付」とは、各大名家が不正を働かないための監視役なのだ。
正々堂々としておれば、何も怖れるものではない。まして、赤穂浅野家は、かの山鹿素行に薫陶を受けた家柄ではないか。
もし、城内に不正があれば、内蔵助自らが筆頭家老として、事を明らかにし、公儀の処分を待つまでもなく、藩内で断固たる処分を下すつもりだった。
主君の内匠頭も極端なところはあったが、上手く扱えば、名君となれる可能性も秘めていたのである。

小平太は、当初、浅野家家臣たちと深い付き合いになることを怖れたが、内蔵助と付き合ううちに、次第にその懐の深さに尊敬の念を抱くようになっていた。
(俺は、この方のためなら、この命を捨てても構わぬ…)
そう思わせる魅力が内蔵助にはあった。
小平太という男は、体は筋肉質だが見た目は細い。
背も高くなく、顔の造作も優しげで、日頃から目立つ素振りはなかった。
だが、どこか人を寄せ付けない厳しさのようなものを周囲は感じていた。
嫁になった柚木は、そんな、どこか寂しげな小平太の姿に惚れたのかも知れない。
なるほど、結婚してからの小平太は、柚木への配慮もあってか、山鹿塾にも足繁く通い、内蔵助を通じて友と呼べる仲間も増えてきたようだった。
それでも、何となく一歩距離を置いているようで、これも忍の習性なのかも知れない…と柚木は思っていた。
柚木も「草の者」である瀬戸屋吾平の娘として育ったことから、表には見えない忍の心得は身につけていた。それでなければ、「隠し目付」の嫁は務まらないのだ。
ただ、一人の女として、何事もなく生涯を終えたい…と願う柚木であった。

小平太は、大納戸役として何でも器用にこなし、奥の調度品や殿の身の回りの手配りなど、行き届いた仕事ぶりに、上役たちからの評価も高かった。
「いやあ、毛利は、よく気の利く男だ…」
そう言って、小平太を便利に使うのだが、小平太も、
「何なりとお申しつけくだされ…」
と頭を低くするので、城内でも重宝に使われるようになっていた。
小平太にしてみれば、それだけ周囲の信頼を得たことになり、城内での行動もかなり自由になっていた。
それに、筆頭家老の用務も把握しておく必要もあり、なかなか多忙な日々を送っていた。
それにしても、「隠し目付」として、様々な情報を得るのに、この立場は有り難かった。
同じ「隠し目付」の中には、碌な仕事も与えられず、飼い殺しになる者もいたようだが、それも上に立つ者の器量といえた。
小平太は、大納戸役としての職務を誠実に行うことで、「隠し目付」としての任務を全うしたいと考えていたのである。
そして、赤穂浅野家に何事も起こらなければ、一軽輩者として、その地で生涯を全うするだけのことなのだ。
公儀配下の「隠し目付」だからといって、皆が皆、不遇であるわけではない。
まして、今は太平の世であり、幕府開闢当時の様相とは異なり、藩主も代替わりを重ねた。平和な時代が続けば、人は穏やかになる。各大名家でも温厚な人柄の藩主が多くなり、武張ったことは、公儀の眼につきやすい…と武芸よりも文を重んじる家風も出来てきていた。
ただ、この赤穂浅野家は、全国屈指の武を貴ぶ家柄であり、いつ何が起こるかわからない危険性を常に孕んでいた。

小平太が所帯を持って柚木と二人が暮らす侍屋敷は、軽輩者の家族が暮らす庶民的な一角であり、屋敷の中には小さな畑があり、実のなる植木も数本あった。
嫁に来た柚木は、さすがに商家の娘だけあって如才がない。
無口な小平太では、近所の奥方との付き合いは上手くできないが、柚木は、屋敷に移り住むなり近所中を周り、実家から貰った手ぬぐいを配って歩いた。この時代、武士と言っても軽輩の家では、家族で内職に勤しむのが普通だったし、浅野家は裕福だといっても、下級武士の給金は決まっている。
小平太の家も二十石五人扶持でしかない。
夫婦二人なら何とか暮らせるが、これで子供でもできれば、生活は楽ではないのだ。
ただ、柚木の家からの援助もあって、並の生活ができているのだった。
だから、「手ぬぐい」一本であろうと、下級武士の家には有り難い品である。それに、瀬戸屋が扱う品物は上物が多く、この手ぬぐいも評判がよかった。
こうして、小平太は内蔵助や柚木のお陰で、正真正銘の赤穂侍になっていったのだった。
ただ、この夫婦には秘密がある。
それが、「隠し目付」としての「草の者」としての使命である。
二人は、時折、小さな小舟で沖に出て漁をした。
二人にとって、櫓を漕ぐことも海で投網をすることや潜って様々な貝を獲ることも忍の技を磨く鍛錬の一つだった。
だが、二人はそれを周囲には知られまいと工夫し、どんなに収穫できても、二人が一日に食べる分しか持ち帰ることはなかった。
そんな二人の姿を陰ながら見ていたのが内蔵助である。
内蔵助は、この夫婦をこの赤穂の地で幸せに暮らさせてやりたかった。
子も作らせてやりたかった。
だが、小平太は頑なにそれを拒んだ。それは、我が子を「草の者」にしたくはなかったからである。
小平太は、柚木に言った。
「俺たちは、いつでも使命を果たすために、この命を捨てねばならぬのだ…」
「子が生まれれば、いずれ忍となり、どこかで草になる」
「そんな人生は、俺はさせたくはない。だから、子は持たぬ…」
「すまぬ。柚木…」
柚木は、自分がそうであったように、我が子を持てば「草」の運命から逃れられぬことを知っていた。だから、小平太の言葉に静かに頷くのみだった。

柚木は、そんなことをおくびにも出さず、いつも明るい妻だった。
内蔵助邸の奥の者たちともすぐに仲良くなり、自分たちで獲った物や育てた野菜などを持って行っては、お喋りに花を咲かせるのだ。
大石家の奥を取り仕切る里玖は、そんな柚木をかわいがり、
「柚木殿は、本当に働き者ですね…」
「また、いつでもお出でなさい。柚木殿がまいられると、我が家も賑やかで楽しくなります」
と、優しく声をかけてくれるので、柚木も、
「ご家老様の奥方様にお声をかけて戴きました…」
と嬉しそうに小平太に報告するのだった。
それでも、小平太は、裏の土間で刀を研ぎながら、
「ああ、それはいいが、里玖様は内蔵助様と違って、俺たちの素性は知らないのだ…。柚木も用心することだ」
と忍の心得を諭すのだった。
しかし、柚木は、大石邸の様子をしっかりと書き留め、「草の者」としての使命を忘れたわけではなかった。
内蔵助は、そんなことは百も承知の上で、だれとでも邸で気楽に会うのだった。

小平太や柚木の調べによると、大石邸への人の出入りは、先代の良欽の頃と比べても格段に増えていた。
もちろん、筆頭家老であるから、他藩も含めて武士の訪問は多いが、それ以外にも百姓、漁師、商人、行商人と、あまりにもたくさんの人間が訪ねて来るのだ。
中には、有名な京都の僧や公家の使者まで訪ねて来た。
(内蔵助殿は、いったい、どういうお人なのだ…?)
と訝しんだが、内蔵助はいつも飄々としていて、そんな人たちに会うにも、いつもと変わらぬ風情で応対している。
身分のある人は、大石邸の離れに通されるので、小平太も一度忍んで盗み聞きをしたが、どうにも他愛もない話ばかりで、密談にもならない。
さすがに書状のやり取りまでは確認できなかったが、内蔵助という男の用心深さは、忍以上かも知れなかった。
そのうち、訪問者の真の意味が分かってきた。
それは、彼らのお国訛りからである。
それは、九州、四国、関東、東北に至るまで、全国各地から出て来た者たちなのだ。そして、その都度、土産を持参してきたが、肝腎な土産は、土地の名物ではない。その確かな「情報」だった。
内蔵助は、自分のネットワークを使い、各地の情報を収集していたのだ。
それは、政治だけでなく、人々の暮らしや衣食住に関わることから、何でも興味を持った内容は、大金を払ってでも手に入れようとしていた。
だから、内蔵助の書庫には、全国から集めた書物がうずたかく積まれていたのだ。
これほどの情報収集している侍は、江戸にもそうはいまい。
そして、儲け話になるとさらに身を乗り出し、自分で買い付けまで行うようだった。そして、その目利きは商売人以上で、内蔵助は相場で負けたことがない。だから、千五百石の大身国家老でありながら、その何倍もの収入を副業から得ていたのだ。
それに気づいた小平太は、
「だから、内蔵助様は自由なのか…」
と感心するしかなかった。
当時、「自由」という言葉はなかったに違いないが、武士としての身分があり、大商人以上の蓄財があれば、怖れるものは神仏以外にはない。そんな心境だから、「昼行灯」が演じられるのだろう。
かと言って、大石家が贅沢をしている様子もない。
食事も皆、同じような物を食べている。
当主の内蔵助の好物は、赤穂の浜に上がる小鯛の干物なのだ。
小平太や柚木も、ときどきご馳走になるが、主人の内蔵助と柚木の献立の違いは何もない。ただ、食器と膳が違うだけで中味は一緒である。
常に「一汁二菜」。それに、時折、菓子を戴くが、それもほとんどが貰い物である。
これなら、瀬戸屋の食事の方が贅沢である。
柚木は、初めてご馳走になったとき、その粗末さに驚いたが、それを「うまい、うまい…」と言って何杯もお替わりをする松之丞や久佑、瑠理が可愛くて仕方がなかった。
だからこそ、柚木は、少しでも子供たちの笑顔が見たいと、新鮮な野菜や魚などを大石邸に運ぶのかも知れなかった。
小平太は、そんな大石家の用人としての立場で出入りしていたが、時には、内蔵助に頼まれてて、松之丞の勉強を見てやったりしていたが、柚木は柚木で、幼い久佑や瑠理に懐かれ、自分に子供がいない分、二人を可愛がるのだった。
内蔵助は、二人の覚悟を知るだけに、そんな姿がいじらしくて仕方がなかったが、心の中では、いつも「許せ…」と詫びていたのである。

第3章 凶報

そんな平凡な幸せは、長くは続かなかった。
赤穂に凶報が伝えられたのは、元禄十四年三月十九日の早朝のことだった。
去る十四日、江戸城松の廊下において、主君浅野内匠頭長矩が高家筆頭吉良上野介に刃傷に及び、即日切腹させられたのである。
当然、赤穂藩江戸下屋敷から早馬と早駕籠が仕立てられ、不眠不休で報せが大石邸にもたらされたが、内蔵助は、
「そうか…。ご苦労、体を休めよ…」
そう言って、夜通し駆けてきた江戸からの使者を労うのだった。
実は、その数日程前に、この凶報は小平太から内蔵助に伝えられていた。
元禄十四年三月十五日の深夜のことである。
小平太は、内蔵助の寝所に忍び込み、障子の外から声をかけた。
「ご家老、お耳に入れたき議が…」
そう言うと、内蔵助は、
「小平太か…。入れ」
と、さっきまで寝ていたとは思えない冷静な声で、小平太を寝所に招き入れた。驚くべきことに、内蔵助は「闇言葉」を遣った。
「どうせ、長矩様のことであろうよ…」
小平太は、(ご明察の通り…)と頭を下げ、ことの子細を語った。
すると、内蔵助は、
「ふん。さもありなん…」
「いつか、こういう日が来るとは思っておった。わかった…」
それだけ言うと、小平太はだれにも気づかれぬように去って行った。
小平太は、
(おそらく、赤穂に凶報が届くのは、早くて十九日。これだけ日数があれば、ご家老の考えもまとまるであろう…)
そう考え、来たるべき仕事に備え、緊張した面持ちで静かに自分の侍屋敷に戻っていった。
起きていた柚木には、
「柚木、来るべきときがまいった。覚悟いたせ…」
それだけ伝えると、この屋敷に入ってすぐに庭に拵えた作業場に入っていった。
ここは一見、農具などを置く物置に見えるが、小平太が「隠し目付」としての仕事をする場所なのだ。
妻の柚木でさえ、この作業場に入ることは許されていなかった。

小平太が作業場から出て来たのは、それから丸一日経った夜のことだった。
既に旅装束に身を固めた小平太は、柚木にひと言、
「これより、しばらく家には戻らぬ故、そなたは実家に戻れ…」
そう言うと、柚木に背中を見せて暗い闇の中に消えていった。
柚木は、
(これが、最期かも知れぬ…)
と覚悟を決めるしかなかった。
柚木も忍である。
小平太のいう「来るべきとき…」とは、間違いなく、赤穂にとっての「凶報」なのだ。そして、それは、夫が命を懸けなければならないほどの重大事なのだ…と、自分に言い聞かせるのだった。

小平太がいなくなって三日目に、赤穂浅野家は大騒ぎになった。
周囲の者たちも小平太がいなくなったことに気づかないくらい混乱し、女たちは不安な日々を送ることになった。そして、口々に、
「殿様が、城中で刃傷に及んだんだって…」
「即日、切腹になったんだって…」
「赤穂は、お取り潰しだそうな…」
と噂し合った。
その騒ぎの中で、柚木は、一人静かに荷物を整理し、父である瀬戸屋吾平の実家に戻るのだった。しかし、それも世を忍ぶ仮の姿であり、吾平も柚木も「草の者」としての使命があった。それは、赤穂での動きを逐一公儀に知らせることである。
草の者は、全国にネットワークを持っていた。
吾平の周りには、周辺の地域に派遣されていた「草の者」がいた。その草の者共のネットワークで、いち早く、江戸表に報告が入る仕組みを公儀は幕府を開いたころから整えていた。それは、早ければ、僅か一日で御庭番衆を取り仕切る、総元締めの服部半蔵家に知らされたのだ。
服部半蔵家では、その情報を逐一、側用人柳沢保明の耳に入れていた。
「赤穂の動静だけは、大目付ではなく側用人に直接報告せよ!」
との厳命が届き、草の者たちにも動揺が走ったが、この事件がそれだけ公儀にとって重大なものであることを示唆していた。
柳沢は、自分が側用人職に就くと、すぐに服部半蔵を呼び出し、これまでの功労に対して多額の金子を与えるとともに、草の者からの情報を逐一、自分にも報せるよう命じていたのだった。そして、併せて「公儀御庭番頭取」の役職を正式に与えたのだ。
これまでは、影の存在としてあった御庭番が、正式に「幕府の役職」として位置づけられ、これで、服部半蔵家も御庭番の伊賀者も正式に幕臣になった。
これまで日陰者で生きてきた忍にとって、それは、画期的な出来事となった。
後に、柳沢が将軍綱吉の死去に伴い隠居するが、その後も一大名として命脈を保ち得たのは、一重にこの伊賀者の働きが大きかった。
なぜなら、柳沢が各地に放った「隠し目付」や「草の者」からもたらされた各大名家の極秘情報は、その大名家にとっては公にできない事実が多く隠されており、それを握る柳沢を追い詰めれば、いずれ、己の身の破綻になることを知っていたからである。
吉保は、隠居後は領地である甲府に暮らしたが、服部半蔵家のある半蔵門からは、甲州街道一本で連絡を取ることができた。
服部半蔵家や御庭番の制度は、その後も長く続いたが、柳沢吉保の恩は終生忘れることがなかったといわれている。

そのころ、赤穂の城では、大石内蔵助が全藩士を大広間に集めた。
だれもが殺気立っており、通常なら声を荒げて上役に意見をする者などいなかったが、このときばかりは、上も下もなく、激しい議論が行われていた。
内蔵助は、筆頭家老として中央に座り、ずっと下を向いたまま議論の間中、無言を通すのだった。
そして、これに対応したのが次席家老の大野九郎兵衛である。
九郎兵衛は、終始「非戦論」を展開し、穏やかな城明け渡しを主張したが、若い藩士たちは、激高したまま「主戦論」を叫んだ。
浅野家でも家禄の高い者たちは、だれもが「非戦」の構えだったが、この熱く燃えたぎった議論の中で、非戦を口にするのは憚られ、多くは下を向いた。
武士とはいえ、所詮は人間である。
家禄の高い者は、しばらく生きるだけの蓄えがあり、家財を整理すれば、親戚縁者を頼ることも出来た。それに、他家への仕官の道もないわけではない。まして、御家断絶となれば、浅野家の財産を整理し、退職金替わりの分配金を手にしたい…と考えるのも分からないでもない。
その点、九郎兵衛は、財政担当家老である。
内蔵助が何も言葉を発しない以上、理を通して藩士たちを説得するのだった。
「ええい、鎮まれ、鎮まらぬか!」
大声でそう恫喝すると、叫んでいた藩士たちは気まずそうに、その場に座り、言葉を発することはしなかった。それを見届けると、九郎兵衛は、普段の口調に戻り、諭すように話し始めた。
「よいか…。よく考えてもみよ!」
「今回のご処分は、主君内匠頭様が起こした不始末の結果でござろう。確かに、吉良様との喧嘩と考えれば、この裁定には不服はある。しかし、公儀の命令は絶対である以上、ここで一戦を交えれば、死んで行く我らはそれでよいとして、生き残る者たちは、どうなるのだ?」
「おまえたちの家族はどうなる?」
「父や母、妻や子、親類縁者はどうなるというのじゃ!」
「皆、お主らの一存で、人生が変わるのだぞ…」
「悪いことは言わん。ここは、公儀の処分を甘んじて受け、粛々と赤穂浅野家の後始末をしようではないか?」
「城内を隅々まで清め、全員うち揃って、大手門で公儀の使者を迎えるのじゃ」
「そうすれば、赤穂の侍は、道理を弁えた者たち…と評判になるのは必定…」
「それが、長矩様だけでなく、先代長直様、そして筆頭家老であった大石内蔵助良欽様の恩義に報いる道ではないのか?」
「儂は、事を荒立てて大切に守り育てた赤穂の町を戦乱に巻き込むことだけは、絶対に反対じゃ!」
その切々と訴える九郎兵衛の言葉に心を動かす者もあった。
この九郎兵衛の言葉に、前列に控える高禄の者たちは、小さく頷くことで自分の意思を示したが、後ろに控える若侍たちは、九郎兵衛の言葉が終わるや否や、口々に叫ぶのだった。
「我らとて赤穂の武士じゃ。山鹿素行先生が仰ったではないか?」
「武士とは、正義を貫く者だ…と」
「こんなデタラメな処分に納得して、何が武士じゃ。赤穂侍の名が廃るわ!」
そんな議論が一刻も経過した頃、初めて内蔵助が口を開いた。

「皆の存念、ようくわかり申した!」
「それでは、儂の考えを申す!」
やっと筆頭国家老の言葉か聞けると、今までの騒ぎが嘘のように静まりかえり、内蔵助の言葉を待った。
内蔵助は、スクッとその場に立ち上がると、厳しい眼で、家臣たちを見渡し、こう告げたのだった。
「儂の存念は、主戦論でも非戦論でもない。抗議のための殉死、追い腹を斬ることといたしたい!」
「確かに、大野殿の言い分は尤もである。されど、皆の者の言い分をわかる」          「なれど、この赤穂のふるさとを血で汚して、何の赤穂侍じゃ…」
「よいか、この赤穂の地は、我ら武士だけのものではないのだ!」
「我らとて、元は笠間からここに移封された来たよそ者ではないか…」
「その我らが立ち去るに当たって城下を焼き尽くし、血で穢せば、ここに残る百姓や町人は何と思う」
「我らが武士としての意地を見せるのなら、すべて整然と後始末を行い、その後、城受け取りの使者が来る大手門にて、武士らしく切腹するのが作法であろう」
「これ、如何に!」
ここに来て、筆頭家老から「切腹」の話が出るとは思わなかった。
前にいる大人たちは、困惑した顔を見せ、九郎兵衛の顔をチラチラと覗き見るのみで、言葉を飲み込んでしまっていた。
静寂が、しばらく続いたが、言葉を発したのは、その大野九郎兵衛だった。         「それがしは、追い腹などご免被る!」
「それでは、無駄死にではないか?」
「そんな武士の意地みたいなもので、大切な命を捨てられるか?」
「武士は、死に場所を選ぶものぞ!」
「ご免!」
そう言うと、息子の群右衛門共々席を立ってしまった。
それに合わせて数名の藩士が席を立ち、「ご免!」と退出していくのだった。
すると、内蔵助は、またもやだんまりを決め込み、眼を閉じて座り込んでしまった。
それを見て、また、数名が、そろそろと退出していく気配がしたが、だれもそれを咎める者もいなかった。
痺れを切らした進藤源四郎が、内蔵助に声をかけたのは、そんな様子が途切れたころだった。
「おい、内蔵助殿。本当に、そうなさるのか?」
「どうなのじゃ…?」
その声を聞いた内蔵助は、再度、その眼を開いた。そして、
「反対の者は、皆、出て行ったと見える…」
「儂の存念は変わらぬ故、賛同する者は、明日の辰の刻、再度、こちらに集まっていただきたい」
「今日は、これまで!」
と解散宣言をしてしまったので、大人たちも取り付く島がなく、オロオロとするばかりだった。
内蔵助は内蔵助で、さっさと奥に引っ込んでしまい、とにかく、話は明朝に持ち越されることになった。そして、藩士たちが立ち去ると、さほどの時間がかからないまま、大広間は、元の静かさを取り戻していた。
そして、最後尾で、じっとそれを聞いていたのが小平太だった。
小平太は、ことの成り行きを見守っていたが、
「さすが、内蔵助様じゃ。武士の面目を立てられるようにして、篩いにかけておられるわ…」
そう呟くと、最後の一人となった時点で徐に大広間を後にするのだった。

小平太の読みどおり、翌朝、集まった者は、昨日と打って変わり六十人程度まで少なくなっていた。
いわば、半数を篩いにかけたことになる。
小平太が聞いたところによれば、夜のうちに荷造りをして早々に立ち去る者が後を絶たなかったようだ。
彼らは、分配金を捨てても、命惜しさに逐電したのだろう。
家財道具を荷車に載せ、夜逃げ同然にあたふたと夜道を走る影が後を断たなかった。
小平太は、それを確認すると、「忍文字」で記録し、伝令用の「草の者」に手渡した。これで、早ければ、明後日には柳沢の下に届くことになる。
それに「忍文字」は、伊賀者でしか判読は出来ない。それも、上忍と呼ばれる修行を積んだ者たちだけが判読する文字だと言われていた。
故に、万が一、敵の手に渡ったとしても、解読には相当の時間がかかるのだ。

翌日の会議では、内蔵助がすべてを取り仕切った。
既に大野九郎兵衛一族は、昨晩のうちに逐電しており、同じ勘定方の岡島八十右衛門が、
「大野の野郎。逃げたな!」
と、その後を追いかけたらしいが、どうやら船で四国方面に逃亡したらしく、だれもが、九郎兵衛を「卑怯者!」と蔑むようになっていた。
内蔵助は、大野をよく知る一人だった故に、それが気の毒でならなかった。
と言うのも、これは、内蔵助と九郎兵衛の謀だったからである。
内蔵助は、小平太から一報を聞かされると、すぐに九郎兵衛を呼んだ。
そして、夜の内に二人で策略を練ったのである。
九郎兵衛は、
「内匠頭様がお亡くなりになった以上、赤穂浅野家をまとめられるのは、内蔵助殿以外にはございませぬ」
「ここは、私にひとつ策がございます…。お耳を…」
そう言って、自分が悪者、敵役になることを進言したのだった。
九郎兵衛は、
「古来、善と悪は並び立つことは出来ませぬ」
「内匠頭様を善とするならば、悪は、吉良上野介殿と公儀」
「筆頭家老大石内蔵助様を善とするなら、悪は、この末席家老大野九郎兵衛にございます」
「善と悪は、必ずしも別々に存在するものではなく、表裏一体のものにございます。故に、私めを悪と為されれば、自ずと、赤穂はまとまりましょう…」
「私は、明日の会議が終わり次第、赤穂を立ち去ります。そして、なるべく早いうちに、金子を貸し付けておりました各商人や名主などを回り、回収してまいります」
「これは、早いうちに始末をつけねば、足下を見られ、半分も回収することはできませぬ。故に、お許し願います…」
「回収が済み次第、為替にて、内蔵助殿にお返しいたしますので、それを、どうか今後の御家再興にお遣い下され!」
そう言うと、深々と頭を下げるのだった。そして、
「内蔵助良欽様には、これまでひとかどならぬお世話になり、恩返しの出来ぬまま、ここまでまいりましたが、こうして、良雄様に恩返しができれば、大野九郎兵衛の武士の一分が立ちまする…」
そう言うと、九郎兵衛の眼から涙の粒が零れるのを内蔵助は、行灯の光の中で見たのである。
大野九郎兵衛は、こうして後世に悪名を残したが、誠に生きた真の武士であったことを内蔵助だけが知っていた。

さて、再度集まった六十人足らずの赤穂侍の多くは、若い下級武士たちがほとんどだった。それを見た進藤源四郎や奥野将監らは、
「なんだ、若い軽輩者ばかりではないか。譜代の者共は如何した…?」
と立腹していたが、内蔵助が、
「いやいや、皆、それなりに事情もあり、なかなか、武士という肩書きだけで腹は斬れまい…」
そう言うと、ムスッと黙ってしまった。
この二人も、多くの事情を抱えており、内蔵助の親戚であるばかりでなく、赤穂浅野家の重臣の一人として、顔を出したに過ぎない。まして、大手門での切腹など考えにも及ばなかった。
それでも、内蔵助の面倒を看てきた源四郎は、内蔵助を見捨てて逃げるわけにもいかず、何とか力になってやろうという純粋な気持ちで席を温めていたのだった。

今日は、昨日の内に心が決まっているらしく、だれもが黙ったまま、内蔵助を見詰めていた。
すると、内蔵助は、
「皆の者。よくぞ、死を覚悟してここにまいられた。内蔵助、心より礼を申す」
「主君の過ちとは申せ、我らが付いていながら、十分補佐できなかった過ちは、我々にある。長矩様には、あの世で会う折りに詫びるといたそう…」
そこまで言うと、
「皆の者、もそっと近くに集まって貰えぬか?」
そう言うと、後ろにいた者たちもぞろぞろと前に出て来た。
六十人の侍は、体を密着するくらいに近寄ると、内蔵助が腹の底から絞り出すように、重々しい声で、とんでもないことを言い出した。
「実は…儂には、別の存念がある!」
「もし、儂の話を聞いて承服できぬ者は、すぐにこの場を立ち去っていただきたい。そして、賛同する者だけ、残られよ…」
そう言われて、六十人の侍は固唾を呑んで、内蔵助の言葉を待った。

「儂の存念は、亡くなられた内匠頭様の無念を晴らすべく、吉良上野介を討つことにある。そして、公儀に対して、このたびのご裁定が誤りであったことを認めさせたいのだ…」
「その上で、浅野家再興を願う所存である!」
「儂は寝ずに考えた。内匠頭様が何故に吉良に刃傷に及んだのか…を」
「吉良は、高家筆頭を鼻にかけ、その権柄ずくの態度は、どの大名家でも噂になっておった」
「その上、何かと賄賂を要求し、潔癖であられた我が殿は、これを了とはせず、礼はすべてが終わった後にせよ…と江戸家老に申しつけておったのじゃ」                  「それを、田舎侍、けち侍と内匠頭様をいじめ抜き、さすがの内匠頭様もついに堪忍袋の緒が切れ、刃傷に及んだというのが真実じゃ…」
「これは、儂が放った忍からの報告である」
「これを知った以上、儂は、殿のご無念を是が非でも晴らしたい。いや、一人になろうと、儂は吉良の首を獲る!」
「よって、大手門での殉死、切腹は中止。改めて、ご賛同いだだける同志を募りたい…」
「志を同じくする者は、これより神文を渡す故、署名、血判の上、明日もう一度ここに集まり、儂に提出して貰いたい…」
この話は、全員に衝撃を持って受け止められた。
(殿が、吉良に執拗に虐められていた…?)
まさか…と思いながらも、内蔵助の眼を見ると、そこには憎しみで燃えさかる炎を見たのだ。
内蔵助の言葉は冷静であったが、冷静であればあるほど、その言葉は真実に思えるのだった。
(そうだ。だったら話は違う…)
(殿のご無念を晴らさずに、このままおめおめと引き下がっていいのか?)
それは、身分の上下を問わず、武士であれば、だれもが考える侍の誇りだった。
集まった六十人は、声も出せず、固まったまま生唾を飲み込んだ。
すると、一番後ろに控えていた小平太が声を上げた。
「私は、軽輩者でありますが、浅野家より頂戴した恩義は、片時も忘れたことはございません。ぜひ、同志に加えて戴きとうございます!」
と叫んだ。
すると、多くの若い侍が「おうっ!」と声を上げ、我も我もと神文を求めるのだった。
これに慌てたのが高禄の者たちだった。
「待て、待て…。慌てるでない…」
「ようく考えてから、神文を出すのじゃぞ…。軽挙妄動はならぬ!」
そう言うのが精一杯だった。
小平太は、内蔵助の顔も見ずに神文を懐に入れると、さっと席を立ち、振り返りもせずに消えていくのだった。
それを見た内蔵助は、
(小平太の奴、一芝居打ちおって…)
と苦笑いを見せるのだった。
内蔵助にしてみれば、先ほどの台詞の半分以上は、自分が勝手に創作したものであることが露見する前に手を打ちたかった。
真相が分かれば、感情で動きやすい若い連中の賛同が得にくくなることはわかりきっていた。
あの殿様が、吉良上野介に気に入られるはずがない。
吉良上野介という人物は、吝嗇でもなければ横柄でもない立派な教養人だということを内蔵助は以前より知っていた。
と言うより、家老見習いのときに内蔵助良欽と共に江戸に出府した折、吉良家に挨拶に出向いたことがあったのだ。
江戸城外堀の呉服橋門内にあった邸は広大ではあったが、それほど華美たところもなく、さすがに有識故実に精通した教養人の邸であった。
祖父良欽と一緒に奥座敷に通されると、良欽は、手土産として赤穂の塩に大判三枚を添えて用人に渡した。
用人は、それを小声で、「かたじけない、内蔵助殿…」と頭を下げて受け取るのだった。
それは、当然…と言うような傲慢な態度ではなく、本当にすまなそうに受け取る姿に、内蔵助は感心していた。
(こんな小藩の家老に対しても、随分、礼儀正しいものだ…)
そう思い、その初老の用人を顔を見た。
髪にはかなり白い物が混じり、その物腰は柔らかく、人を不快にさせる態度は、微塵も感じさせなかった。
その用人の名は、鳥居理右衛門と言った。鳥居理右衛門は、あの討ち入りの際にも主人上野介を守り、老齢の身ながらも必死の抵抗を続け、若い潮田又之丞と剣を交えたと聞く。最期まで立派な忠義の士であった。                                       しばらくして、座敷に姿を現した上野介は、武家とは思えぬほどに端正な顔立ちの人物で、挨拶をすると、
「おお、内蔵助殿。いつもお気遣い申し訳なく存じます…」
「その御方は…?」
そう尋ねられたので、良雄は、
「はっ、大石良雄にござりまする…」
と平伏した。
上野介は、
「おう、良欽どののお孫殿でござるな…」
「これは、頼もしい。まさに、よい跡継ぎになられましたのう…」
そう言って、良雄を労ってくれたのだった。上野介も良欽同様に、一人息子を上杉家の跡継ぎとして養子に出し、今は、跡を継ぐ者のいない寂しい家となっていたことから、           「養子に出した綱憲が、子を産んでくれれば助かるのだが…」                     と良欽に愚痴を溢すのだった。二人は、それくらいの親しい仲だったのである。
その上に、わざわざ、茶室で茶を振る舞ってもらい、帰る際にも、手土産をひとつ下された上に、玄関まで見送りに来てくれたのだった。
そんな御仁が、意地悪な虐めや賄賂などをせびるはずがない。
だが、今は、それよりも赤穂侍が一つにまとまらねばならなかった。そのための小芝居なのだ。
(大野殿が申されたように、赤穂にとって吉良は、悪でなければならぬ。それを覆しては、赤穂の戦は負けなのだ…)
そう思う内蔵助の眼の奥には、メラメラと武将の炎が燃えさかっていた。

翌日、神文に署名、血判を押して内蔵助の邸に届けたのは小平太だった。
小平太は、案内も請わずに内蔵助の書斎の廊下に忍び込むと、内蔵助に伝えた。
「太夫。小平太めにございます…」
書き物をしていた内蔵助は、小平太に、
「間もなく書き上がる。しばし待て…」
そう言うと、サラサラと宛名を書き、障子越しにその一通を小平太に渡した。
小平太は、その手紙を受け取ると、
「では、これより江戸にまいります。これは間違いなく、柳沢の殿にお渡しいたすます故…」
そう言うと、頭を下げた。
すると、内蔵助は、
障子の隙間から「切り餅」二十五両を差し出した。
「持ってまいれ、小平太。大事な遣いじゃ、くれぐれも頼んだぞ…」
「はっ…」
そう応え、金子を懐にしまうと、小平太は風のようにその場から消えていた。
この邸で、そのことの気づいた者はだれもいなかった。
内蔵助が障子を開け、ふと見ると、小平太の置いていった神文がひらりと宙に舞った。

第4章 謀略

世に赤穂浪士の討ち入りは名高いが、表に現れた数々の出来事より、内蔵助が裏で謀略の限りを尽くしたことに気づく者は少ない。
小平太が討ち入り当日に脱盟したのも、内蔵助の深謀遠慮から来る策のひとつだった。

小平太の神文を預かった内蔵助は、最後の登城で同志を絞り込んだのである。
実際、内蔵助に神文を提出したのは、僅か四十名を欠ける数になっていた。元々二百人ほどいた赤穂の侍が、最後の最後には四十名に減っていた。
これに江戸在府の藩士の中から同志を募っても十名がいいところだろう。考えられるのは、剣豪で名高い堀部安兵衛や奥田孫太夫。側近の片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門など、たかが知れている。
それでも、内蔵助は満足だった。
なぜなら、山鹿塾で学んでいた若い藩士たちや師範の菅谷、木村の両名も同志に加わっていたからである。
要は、数だけを頼む烏合の衆では勝利は覚束ない。
数は少なくても、「一向二裏」の戦法を理解し、組織で戦える武士でなければ足手纏いになる…と考えていたからである。それでも数人は、老人や若年の者が混じることは想定していたが、それもできる限り少ない方がいい。
この同盟の資金繰りを担ってくれるのは、岡島八十右衛門と矢頭長助である。
この二人は、勘定方として有能な者共で、大野九郎兵衛がいない以上、この二人に頼むしかない。
その九郎兵衛は、あの日以来、各地を回り、約束通り、貸付金をできる限り回収して、密かに内蔵助宛てに届けてくれた。その回収金は千両近くに及び、およそ七割は回収出来たことになる。これは、恐るべき回収率だった。
普通、改易の噂が流れただけで、貸付金など簡単に踏み倒されてしまうものなのだ。
借りている方にしてみれば、たとえ証文があろうと、その足下を見て三割程度でも回収出来れば「御の字」なのだ。それを九郎兵衛は七割もの回収に成功していた。
これは、改易の噂が流れる前に動いた九郎兵衛の功績だったが、それを知る者はだれもいなかった。ただ唯一、内蔵助だけが九郎兵衛の苦労を思い、密かに感謝するのだった。
その金が、藩札の交換や藩士たちへの分配金の一部に回されたのは当然のことだった。
「藩札」とは、赤穂浅野家が発行した紙幣のことだが、これは飽くまで浅野家領だけで通用する兌換紙幣である。
改易ともなれば、その紙幣は使えなくなり、大名家によっては、一切交換に応じることなく、一家離散することも多かったが、内蔵助は、それを七割での交換に応じたのだ。
藩札を持つ領民にしてみれば、その交換比率は驚きの数字だった。
そのため、藩庫はほとんど空になってしまったが、内蔵助は、他の重臣たちの声を無視して七割交換を押し通したのだ。
伯父の小山源五右衛門などが、
「そんなに高い比率で藩札を交換した藩は、聞いたことがない」
「よくて三割が精一杯じゃ…。残りは、早く分配金にいたせ!」
と内蔵助に文句を言ってきたが、内蔵助はそれには一切応じず、
「伯父上は、赤穂浅野の名を辱める所存か…?」
「立つ鳥、後を濁さず…の例えがあるように、後世、浅野家の後始末は見事だったと言われようではありませぬか?」
「如何…?」
勢い込んで、内蔵助に直談判に及んだ者共も、昼行灯と侮っていた内蔵助が、一夜にして変貌を遂げた姿におののき、早々に立ち去るのだった。そして、九郎兵衛の苦労に応えるように、分配金も下の者に手厚くしたのだった。

実際、塩相場で儲けた金は、九郎兵衛に預けてあったが、その金はすべてが藩庫に納めてあり、それ専用の帳簿さえ整えられていたのだ。
逃亡した九郎兵衛を追いかけて斬ろうとした岡島八十右衛門でさえ、その帳簿の正確さに驚き、
「この帳簿をつけていたのは、ひょっとして、あの大野殿か…?」
と、その仕事ぶりに感嘆の声を漏らすのだった。
その金は、二千両にも及び、内蔵助はそれを「吉良邸討ち入り」のための軍資金としたのだった。
内蔵助は、幼馴染みの矢頭長助を呼び、その二千両を長助と八十右衛門に預けた。
「長助よ。すまんな、おぬしには子供の頃から迷惑をかける…」
そう言って、いくつかの箱を長助の前に積み上げた。
そこには、小判だけでなく小銭類も多く混じっており、長年、密かに貯めていたことがわかる金子だった。
そして、
「長助、八十右衛門。これを、当座の軍資金に充てたい…」
二人は驚いて内蔵助を見たが、内蔵助は、
「何、元はと言えば、赤穂の塩で儲けさせてもらった金よ…」
「万が一のために貯めていた金だが、どうやら、これを使うときが来たようだな…」
「心配いたすな、これは正式な帳簿外の金じゃ…」
「実を申せば、お主らが既に気づいておったように、あの九郎兵衛殿に預けてあったものなのだ」
「八十右衛門。お主の怒りは尤もなれど、九郎兵衛殿は、我らとは主義主張は違えども、公金を持ち逃げするような卑劣な男ではない」
「許してやれ、八十右衛門…」
内蔵助の言葉に、八十右衛門も下を向き、
「太夫。拙者が浅はかでござった…」
と、自分の不明を恥じるのだった。
内蔵助は、長助と八十右衛門の顔を見ると、
「のう、二人とも。我らが本懐を遂げるまでには、まだ、何年もかかるであろう。これだけの金子も時が経てば減る一方じゃ」
「儂はな…。この金が尽きるまでには決行しようと考えておる…。人間、そう長い時間待てるものではない」
「故に、時間には限りがある。そのつもりで、十分管理して貰いたい…」
「同志には、軽輩の者も多い。分配金もすぐに底をつくことだろう…。儂が指図する故、よろしく頼む…」
そう言って、二人に頭を下げるのだった。

内蔵助は、時間が経てば経つほど、たとえ神文があろうと、この「同志の誓い」が崩れることを知っていた。
最初のうちは、武士の意地だ、誇りだ…と気持ちも熱いが、時間が経てば生活が見えてくる。たとえ禄は小さくても、入ってくるものがあるうちは生きられるが、出て行くばかりでは不安が募る。まして、仇討ちともなれば、最後に残るのは、己の死でしかないのだ。
それも、罪人として裁かれる死か、自ら腹を斬る死か…の違いだけなのだ。
それでも、仇討ちをするのは、所詮、武士の一分を立てんがためである。
金が切れれば、心も荒む。
生活が荒めば、最初の志も失せ、武士としての覚悟も薄れるものなのだ。
内蔵助は、そう読んだ上で「二年」という期間を自分に課した。
元禄十四年三月十四日から数えれば、元禄十六年三月までには決行しなければ成功は覚束なくなる。
(二千両で足りるのか?)
その不安はあったが、今でも九郎兵衛は、浅野家が貸した金を取り立てに回っているはずだが、改易が知られた以上、回収出来る金は、これ以上あてには出来ない。
だが、そんな苦労を敢えてしてくれている九郎兵衛の努力に報いなければ、それこそ、内蔵助の武士としての一分が立たないのだ。
(すまない、九郎兵衛殿…)
そう言って、九郎兵衛の去った南の方に手を合わせるのだった。

小平太は、内蔵助の密書を携えて、飛ぶようにして江戸に向かった。
内蔵助から預かった金子は、余程のことがない限り遣うつもりはなかった。そして、この金子は、内蔵助たちの悲願達成のために遣おうと考えていたのだった。
小平太が江戸に入ると、大目付や服部半蔵の元にも立ち寄ることなく、真っ直ぐに柳沢保明邸へと急いだ。
暗くなるのを待って柳沢邸に入ると、離れに保明が来るのを待った。
柳沢は、こうした全国からの忍の使いが来ることを想定して、日に一度は、離れで休息を取るのである。
夜もかなり更けた時刻に、保明本人が離れに現れた。
小平太は、それを確かめると、忍独特の合図を送り、柳沢に無言で内蔵助の密書を手渡すのだった。
まあ、手渡すと言っても、直接渡すわけではない。
そっと、離れの戸口に手紙を置くだけのことである。
役目を終えた小平太が、その場を立ち去ろうとすると、珍しく柳沢が小平太を呼び止めた。
「待て…!」
「はっ!」
と、庭先で片膝立ちでその場に控えると、柳沢は内蔵助の密書を開き、眼を通しているのがわかった。
「ふむ…」
「なるほど、さすが大石殿よ…。抜かりないわ」
そう言うと、小平太を見てこう申しつけた。
「その方、名は何と申す…」                               本来、忍は名を名乗らないのが掟ではあったが、相手が柳沢では、名乗らないわけにもいかず、ひと言、「毛利小平太…でございます」とだけ言うと、                   「うむ、ご苦労であった」                               「大石殿に伝えよ…」
「貴公の存念、よう分かった故、慎重にな…と、この柳沢が申していたと言えばわかる」
「行け!」
会話はそれだけである。
小平太は、返事もしないまま、それに頷くと、影のように消えるのだった。

小平太は、ひとつ腑に落ちないことがあって、首を傾げていた。
内蔵助から柳沢に密書が送られたこともその一つだったが、それより、あの権力を恣にする側用人柳沢出羽守が、内蔵助を「大石殿」と呼んだことである。
いくら他家の家老とはいえ、改易になった家の者に、公儀の権力者が敬称をつけて呼ぶとは、あり得ぬ話なのだ。
本来なら、「大石…」と呼び捨てにする存在だろうに…。
敬称をつけるには、つける理由があるはずなのだが、それは今の小平太には、わからなかった。それに、あの密書を柳沢が素直に受け取り、小平太に伝言まで託したのだ。
小平太には、まだまだ、政の奥深さに驚くしかなかった。
それでも、小平太は、柳沢の意図をこう解釈していた。
要は、公儀にとって、このたびの裁定には不備がある…と内々では、認めたのである。しかし、それを公には出来ぬ。
後は、内蔵助が申すように、赤穂武士の意地を示すだけのことである。
公儀を預かる柳沢にとって、裁定の不備を認めることは、将軍のみならず公儀の権威を貶めることになる…と考えていた。しかし、それでは浅野家の面目が立たない。
まして、浅野家本家は安芸一国を領する大大名である。浅野本家のみならず、浅野一門が騒ぎ立てれば、公儀としても放っておくわけにもいかなくなり、事は公の場に引き出されるは必定。
もし、そうなれば、たとえ将軍家の命令とはいえ、形式的であったにせよ、指示を出したのは側用人の柳沢ということになる。
自分の身に降りかかる火の粉は払わねばならぬ。
ならば、このたびの事件は、善は「浅野」にあり、悪は「吉良」でなければならない。
事件処理の一歩を誤ったからこそ、その過ちを飽くまで糊塗しなければ、公儀の面目は立たないのだ。だからこそ、内蔵助は小平太を使い、柳沢の意思を確かめるために、あの密書を送ったのであろう。
読む、読まないは、すべて柳沢次第なのだ。そして、その賭けに内蔵助は勝った。
小平太は、そう推察すると、
(そちの存念、よう分かった故、慎重にな…)
の言葉を反復していた。
この言葉こそが、これからの内蔵助と同志たちの支えになるはずだった。

小平太が赤穂に立ち戻ると、早速、大石邸を訪ねた。
今回は、昼間、邸の正門から堂々と案内を請うた。
これは、小平太の存在を同志たちに知らせる目的もあった。
小平太は、なかなか同志たちの集まりに顔を出すことはなかった。
あの盟約を結んだ後も、時々、同志たちは会合を開き、意見を戦わせたが、この者たちの意見でことが進むことはあり得ないのだ。
こんな意味のない会合に出るより、重要な役目が小平太にはあったのだが、勘の鋭い者たちは、なかなか顔を出さない小平太に疑念を抱かせないとも限らない。
そう考えた小平太は、昼日中に大石邸を訪れ、未だに首領の内蔵助とつながっていることを証明する必要があったのだ。
それを理解している内蔵助は、小平太の訪問を大袈裟に喜んだ。
「いやあ、小平太。随分とご苦労だったな。まあ、入れ!」
そう言うと、自分の書斎に自ら小平太を案内し、その間に、
「おい、小平太殿に風呂と飯の用意をな…」
と、里玖に申しつけるのだった。
里玖は、「はいっ…」と返事をすると、用人の瀬尾孫左衛門に命じて、瀬戸屋にいる柚木を呼んでくるように手配をするのだった。

書斎に入ると、内蔵助は障子を閉めて柳沢の返事を待った。
小平太は言葉を短く切り、
「そちの存念、よう分かった故、慎重にな…でございます」
「この言葉、一言一句、そのままにて、他の言葉は一切ございません」
そう言うと、内蔵助に頭を下げた。
すると、内蔵助は、
「さすが小平太じゃ。見事、使命を果たしてくれたな、ご苦労だった」
「これが成功した暁には、この件が殊勲一番であろう…」
と、賭けに勝ったことを密かに喜ぶのだった。しかし、次の瞬間。内蔵助は厳しい顔に戻り、
「すまんが小平太。この後、明日にでもまた江戸に立ち戻り、吉良の悪評を町中に撒いて欲しいのじゃ…」
「その方法は、小平太に任せる」
「これは、その旅費と軍資金じゃ…」
そう言って、また、切り餅一つを小平太に手渡すのだった。そして、
「今宵は、久々に愛する妻に会い、体を休めるのだぞ…」
と労うのだが、
(明日にでも、江戸に戻れ…)
と命じておきながら、
(体を休めよ…)
とは、内蔵助という男は、なかなか人使いの荒い男だ…と小平太はため息を吐くのだった。

この夜、小平太は瀬戸屋の奥座敷で、しばらく振りに柚木の体を抱いた。
命の保証もなく、どこかで骸になっていたとしても探さないのが草の掟ではあったが、それでも一緒になって生活を共にした妻が愛おしくないはずがない。小平太にも人並みの感情はあった。
それは、柚木も同じである。
会ったその日から惚れて一緒になった小平太である。
会えぬものと諦めていたときに、里玖からの使者に柚木も瀬戸屋吾平を驚いたが、それは任務の成功を意味していた。
二人は、夜通しでお互いを貪りあい、会えなかった時間を埋めようと濃密な時間を過ごした。しかし、朝になれば、また、使命のために江戸に戻らねばならないのだ。
「あなた、ご無事でいてください…」
柚木はそれを言うだけで精一杯だった。
同じ忍とはいえ、柚木もまだ若い。頭では理解していても、夫を想う愛情だけは止めようもなかったのである。

翌日、早朝。
まだ夜が明けきらぬうちに、小平太は瀬戸屋を辞去して、一人江戸に向かうのだった。
僅か一晩の逢瀬ではあったが、久しぶりに温かな湯に浸かり、瀬戸内の旨い魚を食べ、柚木と過ごした時間は、小平太の体を蘇らせていた。
「俺も、まだ、若いな…」
年は内蔵助と同年である。あの柳沢とも、そんなに離れてはいまい。
方や政を司る権力者で、自分は忍でしかない。
比べても詮ないことだが、権力の座に座ることも過酷な仕事であることを知っている小平太は、自分が忍でいることに満足するのだった。
それに、今度の使命は、あの吉良家を完全に敵に回すための謀である。
命の危険は、これまで以上に大きくなっているのがわかる。それでも、小平太は、ひたすら使命に忠実であろうとしていた。それが、自分を育ててくれた内蔵助良欽への恩返しであり、そして自分を信頼してくれる内蔵助良雄への答えなのだと、小平太は考えていた。
それに、柳沢からのお墨付きは、「隠し目付」としての自分の行為が、公儀への裏切りとはならない証でもあった。
もちろん、政治の世界は「一寸先は闇」といわれるように、今日の言葉が、明日には変節することがあることは承知している。しかし、それを疑っては忍の使命を果たすことはできないのだ。
たとえ裏切られ、自分の死が無駄になろうと恨みを残さないのが忍の掟であった。

江戸に向かう途中、小平太は自分をつけてくる影に気づいていた。
おそらく、同じ忍に違いない。
気づいたのは、京を過ぎたあたりだったが、赤穂を出るときからつけられていたのかも知れない。それにしても、その動きは素早い。
かなりの手練れであることがわかる。
それでも、小平太は歩く速度を変えることなく尾張、岡崎、吉田へと歩を進めたのであった。
そして、その道中、敵の意図を考えていた。
忍の者が俺の素性を知り、尾行するということは、おそらくは吉良方に通じる者かどうかは不明だが、明らかに敵であることは間違いない。だが、重要なのはその目的である。
たとえ、俺を殺したところで情報は得られない。忍びの者が死んだところで、その証拠を残さないからだ。
俺が死ねば、その役目は他の者が引き継ぐ。
柳沢も、内蔵助もそれは同じことなのだ。
そうなると、俺をつけるということは、江戸での俺の動きを封じることにあるに違いない。
要は「忍び返し」を使おうという魂胆か?
「忍び返し」とは、敵に嘘の情報を流し、それを敵に信じ込ませることで裏を掻くという古典的な手法である。
まあ、情報戦とは所詮「騙し合い」なのだが、その情報の信憑性が高ければ高いほど、忍び返しに嵌まるのだ。だが、それを怖れては決断は出来ない。
最後の最後は、首領の決断一つなのだが、古今の戦で、それで失敗した例はたくさんある。
かの織田信長の本能寺の変も、忍からの情報によって信長公は、明智光秀が暗殺計画を練っていることを承知の上で本能寺に宿泊したといわれている。
ただし、裏では「信長公に計画が漏れた…」という情報も流し、逆に実行を躊躇った光秀を夜のうちに暗殺するつもりだった。
ところが、光秀はこの忍び返しの情報がもたらされたにも拘わらず、本能寺に攻め込んだのである。
信長公が、最後に「是非もなし…」と言ったのは、このことを指す。
それは、光秀が信長に殺されるであろうことを覚悟して本能寺に攻め込んだことになるからだ。
「死を覚悟した人間は怖い」
よく、伊賀で修行をしていた折、師匠であった服部又蔵がよく言っていた言葉である。
いくら情報戦で勝ったとしても、戦いは人間の気合いでやるものだ。
どんなに防備を固めても怯んだ方が負けになる。
それは、「法則」であった。

小平太は、又蔵の言葉を思い出し、この吉田の宿で決着をつけることに決めた。
(どうせ、捨てる命。禍は早く消し去るだけのことだ…)
そう思うと、心は決まった。
夜、泊まっていた旅籠を抜けて、近くにあった豊川稲荷の神社の境内に入った。そして、忍が使う「梟の術」で、仲間に合図を送った。
これは、もちろん敵を欺くための謀である。
ホーッ、ホーッ…。
鳴き声が二回、闇の中に静かに谺した。
そのときである。背後に静かな殺気を感じた。
それは、気づいていなければ分からないほどの殺気であった。
小平太は、脇差しを逆手に持つと、その殺気のする闇に向かって刀身を突き刺した。
手応えがあった。
敵は思わず、
「ウグッ…!」
と声を漏らした。
脇差しの先端は、そのまま敵の脇腹を抉るように、内臓を破壊していった。
忍は、刀で敵を刺した後、静かに刀身を回し内臓を抉り取るようにして致命傷を与えるだ。
万が一仕損じれば、次は自分か仲間に死が訪れる。
そうならないために、敵を確実に仕留める技を仕込まれていた。
小平太の刀が静かに抜かれると、敵は、声も立てずにその場に転がった。
小平太は、フーッ…と息を吐くと、脇差しを敵の衣服で拭い鞘に収めた。
(もし、気づかなかったら、俺は殺られていた…)
暗闇の中で敵の面を改めると、まだ若い男だった。
懐の中には、素性を明かすような物は何も身につけてはいなかった。
この男も長い修行の末に、この使命を与えられたのであろう。そう思うと、気の毒ではあった。
ただ、一本の手裏剣が、それを物語っていた。
「此奴も、伊賀者か…?」
だれに頼まれた伊賀者かは分からなかったが、同じ伊賀者同士が、こうして闇の中で戦っているのである。それも厳しい掟なのだ。
小平太が、伊賀の忍を密かに葬った以上、いずれ、別の忍が現れることを覚悟しなければならなかった。
こちらの素性は知られていると思うしかない。
小平太は、宿には戻らず、その足で江戸に向かうのだった。
後で分かったことだが、この忍を放ったのは、柳沢そのひとである。
柳沢は、小平太という忍の力を試そうと考えたのだ。
自分の重大な秘密を握る忍である。
内蔵助に伝えた「言葉」が、他に漏れることがあれば、柳沢自身が事件に加担したことになる。それを怖れた柳沢は、小平太の素性を調べさせ、刺客を放ったのだ。
ただ、それは、
「殺される程度の忍なら、それまでの男だろう…」
「だが、あの大石内蔵助が遣わした忍であれば、なかなかの手練れであるに違いない」
「それほどの忍なら、死んでも秘密は漏らすまい…」
「どちらに転んでも、試してみる価値がある」
そう踏んで、刺客を放ったのだ。
案の定、若い忍は闇に葬られ、二度と柳沢の下に戻ることはなかった。
柳沢にとって、それも日常でしかないのだ。

江戸に出た小平太は、服部半蔵には「江戸にいる…」ことだけを伝え、本所回向院裏手に邸替えになった吉良邸を見張る日々が続いていた。
もちろん、夜間に邸に忍び込むことは難しくはなかったが、それよりも、江戸での吉良上野介や赤穂浅野に対する評判の方が気になっていた。
八丁堀に近い吾平長屋に部屋を借りたのも、ここが瀬戸屋ゆかりの長屋だったからである。
瀬戸屋吾平は商売柄、京や尾張、江戸、そして金沢にも支店を持ち、規模は小さいながらも地方雑貨を扱っていた。そのために、江戸に長屋をいくつか持ち、そこで働く者たちの住まいとしていたのだ。
この長屋は、いわゆる貧乏長屋ではない。
一応、身元のしっかりした商家の奉公人が借りていた。
小平太は、白河郷士の伊東小平太と名乗っていた。
仕事は、浅草の小間物屋「瀬戸屋」で「そろばん侍」として、傭われることになっていた。
これも当然、赤穂の瀬戸屋吾平の世話によるものである。
この店は、陰で草の者の「つなぎ」をする密会場となっており、奉公人の多くは、その関係者である。
だが、だれもそんなことはおくびにも出さず、律儀に仕事をする商人に徹していた。
瀬戸屋は、小間物屋だったが、地方との取引も多く、頼まれれば何でも調達するネットワークを持ち、江戸瀬戸屋の主人、平左衛門もなかなかの遣り手として信用も厚かった。

小平太が聞くところによると、江戸では、吉良に対して同情的で、浅野内匠頭の短慮が家を潰した…という評判が立っていた。
(内蔵助殿が気にされていたのは、これか…?)
確かに、上野介の評判はそれほど悪いものではなく、元の邸があった呉服橋周辺では、かなりいい評判が多かったのだ。
だが、吉良は、公儀の命令によって呉服橋の邸から本所へと邸替えを命じられ、移転したばかりだった。
あれほど「お咎めなし」として、隠居したはずの吉良が、急に辺鄙な本所への邸替えは、上野介やその家臣たちも不満であったが、公儀の命令とあれば致し方ない。
上野介も、「柳沢殿の差し金か…?」と訝ったが、それを口に出すことは憚られた。
小平太は、それを聞かされると、
(柳沢様が動いた…ということか?)
「これは、こちらも早く動かねば…」
そう呟くと、旅装を解く暇もなく、江戸の町に走り出すのだった。

調べて見ると、吉良上野介という男は、確かに職務に対しては厳しい物言いをして、大名たちの反感を買うことが多かったようだ。だが、よく考えてみると、高家は、朝廷との交渉を行う役目で、有職故実に精通し、常に京と江戸を往復しながら多忙な日々を送っていた。
それに、京の公家衆との関係を築くために、かなりの贈り物も欠かせないようなのだ。
上野介も、旗本四千石の大身ではあったが、たとえ役料があったにせよ、その身代ですべてを賄うことは困難である。
公儀は、何かにつけて「質素で良い…」と言うが、それを鵜呑みにしては恥を掻くことになるのだ。
あの柳沢邸には、連日、誰彼となく訪れ、様々な陳情が行われているが、その際、手ぶらで来る人間を見たことがない。
だから、上野介に手土産のひとつ、謝礼の金子を持って伺うのは常識というものなのだ。
内蔵助は、それを承知のうえで、上野介の悪評を立てよ…と言うのである。
小平太にしてみても、上野介が気の毒ではあったが、「善は浅野、悪は吉良」という構図が完成できなければ、仇討ちも覚束ないのだ。

小平太は、江戸に出てから一月ほど、上野介周辺の調査を行ったが、やはり、黒い噂になるような種は落ちてはいなかった。
確かに、上野介の指南を受けた旗本や大名の中には、文句を言う者もいたが、それは、ものを知らぬ坊ちゃん大名の繰り言でしかなく、碌に勉強をしてこなかった付けがここに来て露呈しただけのことだった。
自分が恥を掻いたことを、全部指南役のせいにされては、上野介の立つ瀬がない。それに、家臣共は、いたって生真面目な者が多く、よく上野介に仕えているという評判だった。その上、手練れの剣士の名前も数人に上り、吉良邸内にも立派な道場が設えてあるとのことだった。
また、上野介の女関係はまったくなく、妻の富子一筋という噂しかない。
金、女、仕事…と、どれをとっても清廉な男が、吉良上野介なのだ。
「これでは、内匠頭に分はあるまい…」
そう考える小平太だったが、しかし、それでもやらねばならない使命があった。
たとえ、非は浅野内匠頭にあったとしても、吉良上野介には、悪役になって貰い、汚名を着て死んで貰わなければ、赤穂浅野家の武士の一分が立たないのだ。
小平太は内蔵助から預かった金を遣い、江戸にいる「草の者」たちにつなぎをつけた。
翌日の晩には、五人の「忍」が、小平太の指定した茶屋に集まって来た。
大工の留三、質屋の絹、御家人の高井結之助、居酒屋の三次、そして、俳諧師の一葉である。
この五人とは、子供の頃から伊賀の里で共に修行を積んだ竹馬の友だった。
他に十人ほどいたが、その連中は、やはり全国に散らばっていた。しかし、草の者は、何処にいても必ずつなぎがつく手筈になっていたから、その絆は生涯続くのだ。
五人は、それぞれの恰好で、銘々に茶屋にやって来たが、表から入ってきたのは、高井結之助と俳諧師の一葉くらいのもので、他の三人は、どこからともなく離れの外に姿を現していた。
小平太が、
「ほう、なかなかのものだな…」
そう言うと、
「ふん、それで要件は…?」
仲間といっても、草の者に会話は必要ない。
小平太は、それぞれに十両ずつ手渡すと、
「これで、吉良上野介の悪評の噂を撒いて貰いたい…」
既に、浅野内匠頭の刃傷事件は、江戸でも評判になり、瓦版が何度も出ている。今、江戸の庶民が一番気になるホットなニュースなのだ。
だが、その論調は、赤穂贔屓ではあったが、吉良を貶める材料が乏しかったらしく、「江戸城中でのいじめ…」というネタで面白おかしく書いてはいたが、信憑性は薄かった。
江戸の庶民は、そんなものでは満足出来ず、瓦版屋も情報集めに苦労をしていたのだ。
小平太たちは、そこにありとあらゆるネタを創作し、江戸の街中に撒いた。          小平太が金を渡すと、五人は小声で打ち合わせを行い、「承知…」とひと言を残して、闇の中に姿を眩ますのだった。

大工の留三は現場に出ると、
「おい、知ってるか?」
「俺の大工仲間が、今度、邸替えになった吉良様の邸の改修工事に出てるんだがよ。何か、赤穂浪士の討ち入りを警戒して、隠し扉や地下道などを造っているって話だぜ…」
と持ちかけた。
すると、仲間は、
「へえ、それは面白いや…」
そう言って、口コミでこんなデマでも少しずつ広がって行くのだ。
一人が、いくつものネタを話せば、
「なんだ、そりゃ…。おまえの作り話だろ…?」
と疑われるが、大工が「改修工事でさ…」といえば、信憑性も増すというものだった。
そして、留三はこのネタを吹聴して回るのではなく、出し惜しみ的に話すので、周りの大工仲間は、少しずつ信じ込むようになっていったのである。
実際、本所回向院裏に邸替えになった吉良邸では、大規模な改修工事が行われており、それは、その建物が高家筆頭の邸に相応しくなかったからなのだが、それを「赤穂浪士」と結びつけるのが、忍の技である。
この邸替えは、柳沢の差し金であった。                          内蔵助たちの討ち入りを助ける…という意味もあったが、吉良家と上杉家に金を遣わせ、共倒れになることをねらったとも言われている。
この名門といわれる両家を潰せば、公儀の威光はさらに増し、徳川の治世の障害をまた一つ取り除くことが出来ると柳沢は考えていたのだ。
柳沢保明にとって、徳川家とは、それほどまでに守らなければならない存在なのだ。

質屋の絹は、両国で質屋の「下総家」を営む女主だった。
ここも両国界隈の庶民相手に小金を貸す商売をしているのだが、ここに来る客にちょっとした絵草紙を配ることで繁盛していた。
絹は、忍でも絵心のある「くノ一」で、好き者の客には「春画」を売って稼いでいたのだ。
絹は、小平太に貰った十両で、改めて顔料を買い、吉良上野介らしき侍の好色振りを描いては、こっそりと売っていたのである。
それは、高家らしき老人が、若い腰元を追いかけている絵だったり、寝間で女中を犯そうとしている絵だったりと、絵柄はそれほど過激ではないが、庶民には手が届かない世界の「閨遊び絵」に男たちは群がって来た。
もちろん、これは「闇」商売だったが、出所が分からないために、町方にはどうしようもなかった。
絹は、これを毎日三、四枚描いては、人知れず流すのである。
描かれている絵は、浮世絵のように細かくはなかったが、その体の線や艶めかしさは絶品…という評判を取っていた。

御家人の高井結之助は剣の才があり、貧乏御家人ではあったが、あちこちの道場で師範代として稼いでいた。もちろん、忍であることは隠しているが、そこで得た情報は、服部半蔵邸に報せる役目を担っていた。
呉服橋にあったころは吉良邸の道場にも通い、吉良家の清水一学や新貝弥七郎、鳥居理右衛門、山吉新八郎などとは、何度も手合わせをしていた。用人の理右衛門は、高齢ながらその剣は、一刀流皆伝の腕前で、若い吉良侍などでは、まったく歯が立たなかった。
吉良家の家臣たちの中には、師範代の高井を唸らせる遣い手もおり、それは、油断のならない相手だった。
新しい本所の吉良邸に道場が出来た暁には、また、指南を…と頼まれており、そこから得た情報を小平太に伝えることになっていた。
結之助は、特に吉良家の清水一学と親しく、何気ない会話から吉良邸の様子や人間関係などを探り、十両分は情報を入れてくれた。
「小平太よ。もっと貰えば、それなりの情報を取ってくるぞ…」
と嘯くのだが、忍としては、小平太の方が腕が立つ。

居酒屋の三次は、日本橋の外れで居酒屋「みよし」を開いていた。
みよしは、三次の別な言い方である。
三次は、忍びの名人で、どんな場所にも潜り込む天才だった。
以前にも地方の大名家の城に忍び込み、情報を何度ももたらしていた。
小平太も、この三次には敵わない。
普段は明るい三枚目を演じ、饒舌なので、店も繁盛していた。
日本橋は、河岸も近く新鮮な魚貝が入ることから、「旨い魚」を食わせる店として評判を取っていたのだ。
三次は、店で塩を扱うことから、
「いやあ、赤穂の塩はいいねえ…」
「うちの塩はな、そんじゃそこらの塩じゃねえよ…」
「ああ、江戸城でも使われている、あの赤穂の塩だ。この真っ白な色、香り、そして甘味は、他の塩にはない旨さだ…」
「この塩で干物を作りゃあ、そりゃあ、将軍様でも吃驚よ!」
そんなふうに、赤穂の塩を宣伝しながら、吉良の「饗庭塩」と比べて、
「実は、吉良様はよ。この赤穂の塩の作り方を浅野様にしつこく聞いていたらしいぜ…」
「だけど、内匠頭様は、それを絶対に教えなかったそうだ…」
「そりゃそうさ。赤穂の塩は、秘伝の製法があるって噂だ…」
「そんな藩の大切な秘密を、よそ様に教えられるわけがあるはずないじゃねえか!」
こんなふうに言われれば、江戸の庶民は、「なるほど…」と頷き、他で吹聴する…という寸法だった。
事実、そんなことはまったくない。
塩の製法は秘密でもなんでもなく、赤穂藩にも各地から視察が訪れたが、製法云々というよりは、その地域の気候だったり、海の違いだったり、塩田を開く浜辺の状況だったりと自然環境が大きく作用していて、赤穂藩自身でも、
「どうして、そんなに良質な塩が採れるのか?」
と尋ねられても、
「まあ、強いて言えば、丁寧に時間をかけるしかない…」
と答えるのが精々だったのだ。
だから、そんな話を殿様が知るはずがないのだ。

最後に俳諧師の一葉は、茶の湯にも精通した忍で、年齢は、まだ五十に届かないのだが、随分と老成して見えた。
句会や茶会をとおしての人脈は広く、吉良上野介とも昵懇の間柄だった。
個人としては、吉良に同情はしていたが、その役目上、心を無にする必要があった。
一葉は、吉良上野介の心情を知る機会が多く、また、吉良家の財政的な内情も耳に入っていた。
そうした情報も小平太にもたらされていたのである。
吉良邸の茶会の日取りを掴んで報せたのも、この一葉だった。

第5章 戦略家 大石内蔵助

内蔵助は、小平太を江戸に送ると、赤穂の問題を片付けなければならなかった。
赤穂城の明け渡しに向けて準備を進める内蔵助だったが、実際の采配は、やはり進藤源四郎が行うことになった。
親戚連中から見ても、内蔵助は「昼行灯」に違いなく、細々とした作業は、親戚で面倒見てやるしかないのだ。
源四郎は、残った家来たちやその家族までも使って、城内の清掃を徹底的に行わせた。源四郎の下で働いていたのが、台所役人の三村次郎左衛門である。
次郎左衛門は、七石二人扶持という軽輩ではあったが、元々は戦国武将の末裔である。     浪人した末、浅野家に拾われた新参者だった。しかし、志操堅固で、当初から同志に加わり、最後まで自分の節を曲げない頑固さがあった。
源四郎は、働き者の次郎左衛門を使って、城内をくまなく掃除させたので、赤穂城開城においては、面目を施したのである。
また、収城使には、城にあるすべての武具、弾薬、馬、その他諸々の諸道具まで目録に書いておく必要があり、源四郎は休む暇もないくらい、城内をぐるぐると動き回っていた。
「忙しい、忙しい…」
と大声で騒いではいるが、それが、あまり苦にしないのが源四郎という男だった。
源四郎が面白いのは、それを人に任せることはせずに、自分で目録に記帳しながら歩き回るのだった。そして、金目の古道具などを見つけると、それらを別室に集めていた。
内蔵助が、
「源四郎殿、何をされておるのですか?」
と尋ねると、
「いやあ、別に大したことではござらぬ…」
そう言って、何かを隠しているようだったが、後で分かったことによると、源四郎は、それらの道具を密かに、城下の古道具屋に売り捌いていたのである。そして、それらを売って得た金はすべて勘定を取り仕切る岡島八十右衛門と矢頭長助に手渡したのだった。
それは、五百両にもなり、やはり軍資金として使われることになった。
この進藤源四郎という男は、けっして切れ者ではないが、真面目と誠実さでは、右に出る者がいないほどの「お人好し」な人物で、少年のころから、内蔵助の遊び相手となり、内蔵助に振り回されてきたのだ。
それでも、内蔵助の人柄を愛し、けっして裏切るようなことのない男なのだ。
本当は、最後の最後まで「同志でいたい…」と粘ったが、浅野家再興運動のために、浅野家と縁の深い京の近衛家に仕えることになった。
近衛の用人という職を得た源四郎は、内蔵助の死後も大石家存続のために働き、内蔵助の忘れ形見である「大三郎」を本家広島浅野家に一千五百石という高禄で召し抱えさせたのも、近衛家をバックとする源四郎の働きによるものだった。                         少し、進藤源四郎について触れておきたい。これまでも度々登場してきたが、源四郎は後に脱盟したとはいえ、変節したわけでも裏切ったわけでもない。内蔵助の命によって、討ち入りとは異なる使命を果たすために、脱盟して貰った同志なのだ。 源四郎は、近衛家の用人となることで、内蔵助と同志を最後まで支え続けた男だった。話は先のことになるが、赤穂城明け渡しがすむと、源四郎は、京の山科に内蔵助家族の邸を用意した。江戸と赤穂の中間点として土地勘のある京の田舎に、その拠点を置くためだった。その上、内蔵助の愛人になる「軽」を連れてきたのも源四郎だった。当時、軽は十六歳の少女だったが、内蔵助が討ち入りを決意すると、長男の主税良金を残して、里玖と子供三人を豊岡の実家に帰らせた。そして、密かに、里玖を離縁し、討ち入り後に類が及ばぬように配慮したのだった。                             里玖は豊岡の里で、父の石束毎公からその話を聞くと、「山科に戻る」と若い娘のように駄々を捏ねたが、                                       「内蔵助殿の存念、分かってやれ…」                           と諭され、泣く泣く離縁を承知したのだ。それでも、里玖は、書く文の末尾には、必ず「大石内蔵助良雄 室」と書くのを忘れなかった。                          源四郎が軽を連れてきたのは、里玖を離縁した直後のことだった。              表面上は、「家のことをやる者はいなくては困るだろう…」という理由ではあったが、内蔵助の色里遊びが酷くならないようにと、親戚中で相談し、用心のために送りこんだ娘だった。              軽は、伏見の一文字屋という提灯屋の養女という触れ込みだったが、養女とは名ばかりで、体のいい女中働きをさせられていた。それを源四郎が憐れに思い、内蔵助邸の住み込みにしてやったのである。軽は、年は十六ということだったが、既に十分、女としての体になっており、内蔵助の好みであることは、分かった上で住み込ませたのだ。案の定、内蔵助は、この軽にぞっこんとなり、しばらくは遊里通いはしなくなったのである。                            後に軽は、やはり源四郎の世話で、倉敷の商家に嫁がせた。そこで男の子を産んだが、その顔は、大石主税にそっくりだったという。                             こうして、源四郎は、最後の最後まで内蔵助の面倒を看続けるのだった。           それに、源四郎は、内蔵助の裏の顔は知らない。
裏で、謀略の限りを尽くして、公儀に刃向かおうとしていることも知らず、討ち入りの計画すらも、何も聞かされていなかった。
京にいるとき、それを内蔵助に尋ねると、
「ああ、やるよ。いつかはな…」
そんな暢気なことばかりで、真面目に話したこともない。ただ、京でも伏見町の色里に出かけるときは、必ず源四郎を誘い、朝まで遊び呆けるのだった。源四郎は、この点だけは、内蔵助とよく気が合った。それに、源四郎には、商売の才覚がない。金を用意するのは、いつも内蔵助で、内蔵助は、
「源四郎兄よ。金はいくらでも稼げる…」
「儂は、これでも、全国の物産を商い、塩相場もやっておるんじゃ」
「金に心配などせずに、遊べばいいではないか…」
と、いつも懐には、百両以上の金を持ち歩いていた。
ただ、内蔵助は、赤穂城を整理した際、「城の調度品を売り捌け…」と命じたことはなかった。これだけは源四郎の才覚で行ったことであり、その機転に、内蔵助も舌を巻いたが、これは、源四郎が普段の内蔵助を見ていて覚えた知恵だったのかも知れない。
こうして、源四郎や藩士たちの力を借りて、何とか穏便に赤穂城の引き渡しを済ませると、内蔵助は、家族を京の山科に旅立たせたのだった。
内蔵助は里玖に、
「間もなく、後始末を終える。我が邸も公儀に引き渡さねばならぬでな…」
「京の山科に、源四郎兄が住まいを用意してくれておる。源四郎兄は、近衛家の用人になるのだ…」
「これからは、何かと頼るが良い…」
そう言って家族を見送ると、内蔵助は浜に近い瀬戸屋の別邸に居を移すのだった。          確かに、源四郎はマメな男で、近衛家の用人としても、気が利く点では、公家侍の中でも一番ではなかったか…と誉められている。そういう男が側にいたことは、やはり大石内蔵助は「人の運」を持つ男なのだ。                                     瀬戸屋の別邸は、赤穂の浜に近く、まだ新築して間もないことから、家の中に木のいい香りが漂っていた。内蔵助は、                                   「吾平殿、これは勿体ない…」                              と固辞したが、瀬戸屋は、「少しでも、内蔵助様のお役に立てれば…」と頭を下げたこともあって、その有り難い申し出を受けるのだった。内蔵助もそれぞれの身の振り方が定まらない以上、赤穂を離れるわけにはいかなかったのである。
内蔵助は、吾平に五百両という大金を預けると、
「すまんが、しばらくこれを預かっていただきたい…」
「吾平殿が、何か儲け話があれば、これを軍資金として使ってくれ…。儂がその方が有り難い」
「金は、使ってこその金であり、寝かせておけば、それは死に金じゃ…」
そう言って、ポンと吾平に渡すのだった。
瀬戸屋は、これまでも、内蔵助に頼まれて全国の物産を商い、結構、儲けさせて貰っていたが、さすがに五百両と聞いて、吾平は、
「いやはや、ご家老様は、昔から大胆でございますな…」
と驚いたが、
「はい。分かりました。それでは、こちらで上手に運用し、その儲けは折半ということで如何でしょう?」
そう言うので内蔵助も、
「あい、わかった。それでまいろう…」
「あ、吾平殿。ついでで申し訳ないが、儂の面倒を看る…何をな…頼む」
そう言うと、
「はい。もう、今晩にもご挨拶に伺うことになっております…」
そこは、蛇の道は蛇。
内蔵助も吾平も、女の道は、よく知っているようだった。
しかし、内蔵助は、猛烈に忙しい仕事の合間にも、そんな密かな楽しみを目論んでいたが、残念ながら、そこでひと月ほど患うことになってしまうのだった。
別邸に移って数日後、内蔵助は何やら体にだるさを感じていた。
手伝いに来た「加代」は、若い後家で、女盛りを持て余しているようだった。
内蔵助にしてみれば、暫くぶりに女に溺れるつもりでいたのだが、頑張ろうにも体が動かないのだ。
暑い季節でもないのに、脂汗がじとっと体の表面を覆い、拭いても拭いても汗が滲み出てくる。
(これは、どうしたことだ…?)
内蔵助は、これまで経験したことのない体の変調を感じていた。
それは、場合によっては「死」も考えねばならない違和感だった。
最初のうちは、
「まあ、一日寝ていれば収まるだろう…」
と考えていた内蔵助だが、意外に症状は軽くはならなかった。
その晩から、内蔵助は高熱を発した。
一緒にいた加代が、慌てて瀬戸屋に走って急を知らせたのだった。
吾平と柚木が別邸に入ると、柚木は、何か空気が澱んでいることに気がついた。これは、何かしらの危機の前触れなのだ。
柚木は、子供の頃から勘の鋭い体質で、霊気とか妖気を感じることが出来た。お陰で、吾平も小平太は幾度も危機を回避することが出来たのだ。
忍の技術は高くはなかったが、くノ一として、そうした技で使命を果たす者もいた。
だが、柚木は、それが何なのかを突き止めることは出来なかった。
「父様。何か、妖気を感じます…。お気をつけください」
吾平の耳元でそう囁くと、眼を庭の方に向けるのだった。
内蔵助の表情を見ると、脂汗をかき、如何にも具合が悪そうである。
吾平は、忍なので、一通りの医術の技も会得しており、
「失礼…」
と内蔵助の体を見ると、既にかなりの熱を持っていた。そして、体全体を見て、吾平は驚いた。
内蔵助の背中には大きな腫れ物ができ、それが既に真っ赤に腫れ上がり、かなり化膿しているではないか…。
吾平は、
「これほど大きな腫れ物は、儂の薬ではどうにもならぬ…」
と、柚木に医者をを呼びに行かせたのだった。
柚木は、一刻もかからぬうちに、瀬戸屋がいつも世話になっている鏑木仙庵を連れて戻って来た。
仙庵は、
「おう、これは、大石様ではございませぬか?」
「如何いたしました?」
と、尋ねる間もなく、その背中を見るなり、難しい顔をして、
「これは、疔でござるな…」
「それにしても、ここまで腫れ上がるとは…」
「すぐに処置しませんと、お命にかかわります」
そう言うと、すぐに真っ赤に腫れたできものを焼酎で消毒すると、小刀を蝋燭の火で炙り、その腫れた患部に刺すと、スッと手前に引いた。
ブシュ…という音と共に、黄色い膿が流れ出すのを加代と柚木が一生懸命に拭き取り、そこに再度、焼酎をかけるのだった。
それを三度も繰り返すと、膿は収まったが、その傷口はあまりにも痛々しく、赤身は背中全体に広がっているようだった。
膿を出すために、小刀を患部に当てるたびに、内蔵助は悲鳴を上げそうになったが、グッと堪えて耐えた。
仙庵が、腫れ物の周辺をグッと押すと、さらに膿は流れ出したが、完全ではないようだった。
仙庵は、薬箱から軟膏を取り出すと、患部に擦りつけるように塗り、その上に油紙を被せ、包帯を厳重に巻くのだった。
吾平が仙庵に病状を尋ねると、
「うむ…。これは、疔創と言って、厄介な吹き出物の一種ですな。大石様は、赤穂城の後始末のために、相当に無理をされていたからじゃ。お気の毒に…」
「その疲れた体の中に溜まった毒素がここに集まり、このような悪さをしておるのじゃ…」
「まあ、とにかく、一日に二度消毒をして、また、腫れ物が大きくなったら、今のように切っては膿を出すことを繰り返すしかない」                            「後は、常に清潔に保つことじゃ。日に三度は、患部を丁寧に拭き、軟膏を塗り、油紙と包帯を取り替えるのじゃ」
「この腫れが、引かぬようなら命の保証は出来ぬぞ…」
そう言うのだった。

柚木は、仙庵の話を聞きながらも、庭の方に眼を配るのを忘れなかった。
その妖気は、まだ消えてはいないのだ。
しばらく唸っていた内蔵助だったが、仙庵の処方した痛み止めと睡眠薬が効いたのか、その声が聞かれなくなり、吾平と柚木は、看病を加代に頼むと家を出た。
玄関まで見送りに来た加代に、吾平は金を渡し、
「こんなことをさせるために、呼んだのではないが、すまないねえ…」
と言うと、加代は大して気にしていない様子で、
「いえいえ、私も亭主に死なれて三年。寂しくしていたところに、有り難い話だったんですから…」
「それに、殿方の看病も悪くないしね…。この方、立派なお武家ですけど、とっても優しくてね。私は、惚れてしまいましたよ」
そう言って、笑顔を見せるのだった。
吾平もそれを聞いて安心したようだったが、
「では、お加代さん、頼みましたよ…」
そう言って街道まで出ると、吾平は暗闇の中で「闇笛」を鳴らすのだった。

すると、そこに五人の黒装束の者が現れ、吾平と柚木の二人もあっという間に衣装を替えたのだった。
「いいか。敵はおそらく五人。明日の朝までに内蔵助殿を襲うつもりらしい…」
「内蔵助殿やお加代には気づかれぬよう、あの大杉の前で始末をつける」
「我らが、邸を出たことで、奴らの眼は内蔵助と加代に向いているはずだ…」
「だから、先手を打って、倒す!」
「柚木は、与吉と又八を連れて表の杉の木の下で待て!」
「儂と友、平蔵と熊七は裏手に回る…。抜かるなよ!」
そう言うと、吾平とその手の者は、闇の中に消えていくのだった。
この者たちは、瀬戸屋の手代や女中たちなのだ。
吾平の営む瀬戸屋は、山陽道の「草の者」の拠点のひとつで、ここから多くの指令が発せられていた。
広島や姫路では街が大きすぎるが、この赤穂なら街も小ぶりで、領主の浅野家も僅か五万三千石の小藩である。
商いをするにしても、情報を集めるにしても好都合の場所なのだ。
瀬戸屋は、前の領主である池田輝政の時代から、ここに店を構えていたので、今では、老舗の主人として界隈で知らぬ者はいなかった。

友は、吾平の姪として二年前に入店した二十歳の娘だった。
計算が得意で、よく吾平の手伝いとして伝票の管理を任されていた。
忍としての腕は手裏剣が得意で、友の使う「小刀」は、掌サイズしかなく、友は、十m以内ならば、百発百中の腕を誇っていた。
吾平は、友と共に裏庭から入ろうとする賊を背後から襲う手筈になっていた。平蔵と熊七は、それを掩護する役目を仰せつかった。表には、柚木たち三人が待機しており、どちらにしても屋敷内に入れるのを阻止する必要があるのだ。
しばらく待つと、やはり五人組の男たちが忍んできた。
動きからして忍ではない。
(これは、忍ではないな…?)
吾平は、その動きから賊が侍であることを見抜くと、「闇笛」で敵が現れたことを裏手にいる柚木たちに報せたのだ。
柚木も、既に三人の賊が裏木戸に近づくのを確認していた。
(忍でないなら、それほど難しくはない…)
すると、空に合図の花火が上がった。
これは、賊の眼を眩ますために吾平が上げたものである。
賊の侍たちは、ギョッとしたように上空を見た瞬間だった。
表と裏から一斉に賊を襲う影が見えた。そして、一瞬の間に、五人の賊は、その場に倒れていたのであった。
その必殺の技は、眼にも見えないくらいの早業で、賊たちがだれに殺られたかもわからないまま、急所を寸分違わず斬り裂かれていたのだ。賊の男たちは、断末魔の声を上げることもできずに、喉笛を掻き斬られて絶命していた。
吾平たちは、その男共を担ぐと、近くの林の中に放り込んだ。
こうしておけば、後は、野犬や狸が死体を処理してくれる。
だが、この男たちは、身元が分かる物は一切身につけていなかった。
吾平は柚木に、
「この者共は、忍ではない。侍共だ…」
「その侍が、こうして賊に身をやつして刺客を命じられるとは…」
「主命とはいえ、気の毒な…」
そう言うと、手を合わせるのだった。
(草の者なら、手を合わせることもないが、堅気の侍では、そうもいくまい…)
そう思う吾平だった。
ただ、吾平には、この賊の正体に心当たりがあった。それは、以前、小平太から遊里の帰りに内蔵助が襲われた話を聞いていたからである。
(あれは、広島浅野家本家の者共のようだ…と小平太は話していた。だとすれば、この侍共も、やはり本家の者共か…?)
(本家にしてみれば、御身かわいさに、内蔵助の病を幸いに始末をつけよう…という腹だったのだろう…)
そう思うと、侍も「忍」以上に非常な世界に生きているのだ…と、虚しささえ覚えるのだった。
吾平たちは、遺体の始末を終えると、また無言でその場から煙のように消え去っていった。
こうして、内蔵助は、自分の知らぬ間に、また命を救われたのだ。

その後も内蔵助の病は一進一退を繰り返したが、十日ほど経つとようやく熱を収まり、患部の腫れも引いてきた。
二日に一度は、仙庵が訪ねて来て、傷の治り具合を診ていったが、余程、介抱がいいのか、腫れは確実に引いていくのだった。
仙庵の薬もさることながら、その間、内蔵助の側で看病をし続けた加代のお陰でもある。
加代は、自分の愛する亭主を看病する如く、親身になって世話を続けていた。
食事は柔らかい粥を作り、内蔵助が熱で食べられないときは、口移しでそれを食べさせ、水も飲ませた。
日に五度も六度も着替えをさせ、下の始末も厭わず行ったために、内蔵助の容態は日に日に良くなっていった。
それを見た吾平や柚木は、
「いやあ、お加代さん。ありがたい…。この御方は、絶対に死なせてはならぬ大事な御方なのだ…」
「ほんとうに、有り難いことだ…」
と頭を下げるのだった。
数日後に意識を取り戻した内蔵助は、いつも側にだれかがいてくれるのを感じてはいたが、それが加代だと分かると、加代の細い手を取り、
「かたじけない。加代殿…」
「この恩は、生涯忘れぬぞ…」
そう言って、加代に優しい笑顔を見せるのだった。

そのころ、江戸では、小平太の策が功を奏し、吉良上野介の悪評は江戸の街に広がり、連日、瓦版屋がそれを書き立てていた。
「おい、吉良って殿様は、相当に阿漕な男だったようだな…」
「何でも、製塩の秘密を教えろと、内匠頭を相当いじめ抜いたらしいぜ…」
「他にもよ。内匠頭の恋女房の阿久里って姫に横恋慕したって話じゃねえか?」
こうなると、吉良家でも放っておけなくなったが、かといって、町奉行でもどうしようもなかった。
それを聞いた柳沢は、
「そんなもん、放っておけ。身から出た錆びよ…」
と鼻で笑い飛ばす始末だった。
町中では、吉良家の家来だと分かると、露骨に嫌な顔を見せる町人もいて、家臣共の憤懣は、次第に赤穂の侍たちに向けられるようになっていった。
江戸に出ていた同志たちからそれを聞いた内蔵助は、
(小平太の奴め、なかなかやりおるわ…)
と、ほくそ笑むのだった。

第6章 討ち入り前夜

内蔵助が無事に本復し、起き上がるようになれたのは、賊が襲った日から半月近くが経っていた。
背中の腫れも引き、赤身もすっかりなくなったころ、内蔵助は、これまでの疲れが取れたように、晴れやかな顔つきになっていた。
加代とは、既に深い関係になっていたようで、加代は、女房のように甲斐甲斐しく内蔵助の世話をするのだった。
やっと、食事も普通に摂れるようになり、食欲は、今まで以上に旺盛になると、男としての機能も完全に回復したようだった。
内蔵助は、これまでにない優しい加代が愛おしくてならなかったのだ。
それは傍で見ている吾平や柚木から見ても、恥ずかしくなるくらい仲睦まじく、内蔵助は自分の妻子がいることすら忘れたかのように、加代を離そうとはしないのだ。
ある日、吾平は内蔵助に、
「ご家老様。そろそろ、江戸に発ちませぬと…」
と声をかけるのだが、内蔵助は、
「吾平、慌てるでない…。まだじゃ、まあ、待て!」
そう言うばかりで、一向に腰を上げようとはしなかった。
それでも内蔵助は、この隠れ家にいながら、手の者を使って各地の情報を入手し、討ち入りの準備と御家再興の両面で動いていたのである。
京の源四郎からも文が度々届き、源四郎が中心になって行っている「浅野家再興運動」は、特に進展はないようだった。
内蔵助にしてみれば、柳沢があの密書を了解した時点で、浅野家の再興は取り敢えず断念しなければならないのだが、それは口が裂けても言えない秘密なのだ。
内蔵助は、頑張って運動している源四郎にはすまない…と思ったが、返事には、感謝の言葉を綴るのだった。
各地に放った者たちからの情報によれば、吉良家も上杉家もかなりの借財があり、赤穂の家来共がいつ討ち入ってくるかも分からず、その警備費用だけでもばかにならない…ということだった。
それは、上野介が江戸を引き払う可能性を示唆していた。
「あの老人が、米沢に引き籠もられては、討ち入りは難しくなるな…」
「そろそろ、腰を上げる時期かの…?」
既に刃傷事件から一年以上が経過しており、同志たちの生活が困窮してきた旨の報せも届いていたのだ。
内蔵助は、蓄えた金銀を惜しげもなく情報をもたらしてくれた者共に与え、辺鄙な赤穂の地で、謀を考えていたのだった。
傍から見ていると、内蔵助は、四六時中のんびりと過ごし、天気がよければ、赤穂の四季を愛でながら散歩をしたり、海岸に出て釣りをするなど、まさに隠居生活そのものに見えた。その上、若く艶のある美女を側に侍らせ、笑みを絶やさない姿からは、大それた謀が進められているとは、だれも思わなかったに違いない。
周囲の者たちは、そんな内蔵助の姿に、
「これでは、太夫はこの女に骨抜きにされておるわ…」
「やはり、昼行灯殿は、昼行灯殿じゃ!」
と憤慨したり、心配したりと、同志たちの間で、かなりの動揺が走ったが、これを聞いた小平太は、
「あれは、内蔵助様の一流の芝居よ…」
「女にうつつを抜かしていると見せて、裏で着々と準備をしているのが、策士というものじゃ…」
と、周囲の雑音に耳を貸すことはなかった。それに、内蔵助から女を奪ってしまうことは、それこそ昔の「昼行灯」に戻すことでしかないことを、この小平太はよく知っていた。

そのころ、小平太は江戸にいた堀部安兵衛などと頻繁に連絡を取り合う関係になっていた。
赤穂から先に江戸に出て来ていた小平太は、内蔵助の命で、安兵衛に近づいたのだ。
堀部安兵衛といえば、「高田の馬場の敵討ち」の主人公として有名な剣豪で、江戸の人間なら、その名を一度は聞いたことがあるはずだった。
この仇討ち事件は、瓦版だけでなく芝居小屋にもかかり、「やすべえ」という名の居酒屋があちこちに出来たと言われている。
安兵衛は、元々は新潟の溝口家の家来で、浪人していたときに叔父、甥の約束を交わした菅野六郎左衛門の助太刀を頼まれ、多くの見物客の前で敵である村上庄左衛門を討ったという事件だった。
果たし合いとしては、この二人の口論が原因だったようだが、その内容はともかく、安兵衛は敵の三人を討ち取り、江戸の庶民から拍手喝采を浴びたことは間違いない。
この安兵衛を家の婿に…と望んだのが、義父の堀部弥兵衛である。
当時、安兵衛は「中山姓」を名乗っていたが、弥兵衛の心意気に感じて中山姓を捨てたとも言われてる。そして、江戸詰め二百石、馬廻役の武官に取り立てられたのだった。
当時、二百石といえば身分も高く、なかなか得られない待遇だったが、武芸好きの内匠頭は、喜んで安兵衛の仕官を認めたのだ。それ故に、小平太よりもずっと後から浅野家に召し抱えられた新参者だったにも関わらず、その発言力は大きかった。
安兵衛が、江戸急進派の旗頭として常に強硬意見を吐き続けたのは、新参者というコンプレックスの他に、「高田の馬場の英雄」という肩書きが、そうさせたのかも知れない。それだけに、安兵衛は、他の藩士たちより「吉良を討つ」ことについては、殊の外熱心だったのである。
安兵衛は、江戸詰の奥田孫太夫や高田郡兵衛など、堀内道場の仲間とつるんでは、江戸に出府してくる浪士たちを次々と煽り、過激な急進派一派を形成していったのである。
内蔵助は、こういう血の気の多い単細胞頭には辟易していたが、これを抑えぬことには、内蔵助の計画は水泡に帰さぬとも限らないのだ。
要するに、同志の中の「爆弾」のような男なのだ。だが、一旦、戦となれば、これほど心強い味方であることは疑う余地がない。だからこそ、小平太を安兵衛に張り付かせ、その動静を逐一知る必要があったのだ。

小平太は、長江長左衛門と名を変えた安兵衛の長屋に入ると、吉良邸の動きを逐一報告することを怠らなかった。それは、多少の誤魔化しや嘘も混じっていたが、「安兵衛殿にだけお伝え申す…」と囁くと、単純な安兵衛は、小平太を全面的に信頼し、いつも「頼りにしておるぞ…」と、まるで首領になったような言い方をするのだった。
安兵衛は、十人以上の若い者たちの支持を得ており、若い同志の中には、
「大石様の遣り方は、我慢ならん。あれでは、御家再興もならず、仇討ちもできず、このまま時が経てば、皆、干上がってしまうわ!」
「堀部殿を頭に、我らだけで吉良を討とうではないか?」
とまで言う浪士も出始めていた。
既に赤穂の城を明け渡してから一年以上の月日が流れていた。
仕官もせず、ただ討ち入りだけを楽しみに待っている同志たちにしてみれば、我慢の限界が近づいていたのだ。
そして、そんな安兵衛たちに反目するように、殿様のお側衆であった片岡源五右衛門や磯貝十郎左衛門たちの一派があった。これには五人ほどの同志がいたが、剣の腕は、安兵衛たちほどではない。
どちらかというと側近であったことを鼻にかけるようなエリート組である。
この一派は、国家老の内蔵助すらも蔑ろにするところがあり、やはり、自分たちだけで吉良を討とうと考えていたが、剣術に自信のない片岡は、決断が出来ずにいたのだ。
そして、僅か五人では如何ともし難く、安兵衛たちに近づいてきていた。
源五右衛門は能吏であり、行く行くは家老職も夢ではない…といわれた男で、頭は切れる。
内匠頭も、この源五右衛門の忠告だけは聞き入れ、何かといえば、
「源五を呼べ…」
と告げるので、江戸家老の二人は、面白いはずがない。
また、源五右衛門は、内匠頭の切腹の場に居合わせた唯一の赤穂藩士で、そのことが、源五右衛門の自慢でもあった。
いつもそのことを鼻にかけ、何かといえば、
「私は、長矩様の最期を見届けた男故…」
などと、いつまでも側近気取りが、安兵衛には気に入らなかったのだ。だから、同じ江戸にいても、安兵衛と源五右衛門は意見が合わず、いつも反目ばかりしていた。
小平太は、この片岡一派は何も出来ない…と判断して、その旨を内蔵助に伝えていた。事実、この五人の中から、田中、小山田の両名が脱盟したため、源五右衛門が内蔵助に頭を下げて同志に加わったのは、討ち入りの僅かひと月前のことだったのだ。
他にも、徒党を組むことを嫌った千馬三郎兵衛や間喜兵衛らがいたが、彼らは、内蔵助が呼びかければ、必ず馳せ参じる真の武士たちだった。
三郎兵衛は、硬骨漢として知られた寡黙な武士で、赤穂藩では馬廻役百石取りの譜代の家臣だった。
学問にも秀でた三郎兵衛は、有職故実にも詳しく、武家の礼法や文書にも精通し、昔、内蔵助が祖父良欽と一緒に吉良邸を訪問した折、挨拶状を認めて持参したが、その文字や内容は、まさにこの三郎兵衛が書いたものだった。
高家筆頭として有職故実に詳しい吉良への文ともなれば、その形式、書体まで含めて正式なものでなければ、大名家重臣として恥を掻くことになる。その点、三郎兵衛の手になるものであれば、何処に出しても恥ずかしくないものだった。
その三郎兵衛は、馬廻役として、内匠頭に度々諫言することがあり、二言目には、「先代長直公は…」と耳が痛い話ばかりするので、短気な内匠頭は、「ええい、うるさい!」と、すぐに離れて行ってしまうのだった。それに、剣術や馬術の稽古をしても、この三郎兵衛だけは、一切手加減をしないので、自信満々で向かって来る内匠頭は、恥のかき通しだった。それだけではない。内匠頭は、怒りにまかせて三郎兵衛の家禄を、百石から三十石にまで減らしてしまったのだ。さすがの内蔵助も、これには我慢ならず、内匠頭に、                           「殿のなさりようは、主君にあるまじき行為でありますぞ!」                と諫言したが、それでも内匠頭は、それを撤回せず意固地になってしまったのだ。こういうところが、内匠頭の幼さであり、江戸にいる正室の阿久里がいたならば、上手く取りなしてくれることも期待できたが、内匠頭が赤穂にいる間は、ずっとこんな調子で、重臣たちもそんな内匠頭を怖れて、意見を言う者もいなくなっていた。この性格が禍して、あの刃傷事件につながるのだ。
譜代の家臣として、いくら嫌われるようとも筋を通そうとした三郎兵衛だったが、首席家老の意見さえも蔑ろにする主君の姿を見て、さすがに堪忍袋の緒が切れたのだろう。           「殿のご機嫌を損なう責任が、私にあると申すならば、潔く、お暇いたします…」
そう言って、赤穂を退去しようとしていたところへ、内匠頭の刃傷事件が起きたのだった。
三郎兵衛は、
「我が浅野家への恩は、先祖代々のものである故、私は、義盟に加わりたく存じます」
と、内蔵助に神文を提出したのだった。
三郎兵衛は、江戸に出ても安兵衛や源五右衛門に同調することなく、じっとその日が来るのを待ち、内蔵助の呼び出しを受けると、敢然と立ち上がったのだった。
安兵衛は、心の中ではそんな三郎兵衛を尊敬しており、稽古で剣を交えることがあったが、五十過ぎにも拘わらず、その剛剣は、空気を斬り裂くほどだ…と、いつも感心していたそうだ。
もう一人、間喜兵衛は六十を過ぎた高齢であったが、やはり孤高の人で、息子の十次郎、新六と共に神文を提出し、義盟に参加した。
この親子も最期まで内蔵助を信じてついてきた一人だった。
喜兵衛は、若いころは各流派を学んだ剣豪で、その槍は一度振れば、若い侍でも近寄ることは出来なかったといわれている。
江戸には、こうした同志たちもおり、大石内蔵助という首領がいなければ、まさに空中分解するところだったのである。

小平太は、その年の秋になると、仲間の「草の者」を使って内蔵助に出府を促す密書を送った。それには、江戸の吉良に対する評判や同志たちの動向、柳沢保明の思惑、吉良邸の準備、上杉家の動きなどが詳細に書かれていた。
それを赤穂の瀬戸屋別邸で受け取った内蔵助は、スクッと立ち上がると加代を呼んだ。そして、
「加代、世話になった…」
「そなたのことは、瀬戸屋に頼んである故、達者で暮らせ!」
「儂は、明日、山科に向かうでな…」
そう言うと、吾平と呼んで邸を引き払うことを告げるのだった。
加代は、それを淡々と受け止めた。
「はい、承知いたしました。こちらこそ、お世話になりました…」
と挨拶をすると、翌日、早々に瀬戸屋に戻っていくのだった。
この加代が内蔵助の娘を出産したのは、内蔵助が切腹をした年の初夏のころだった。
吾平は柚木と相談して、この娘に「柚」と名付けた。
もちろん「柚」は、柚木からそのひと文字を戴いてつけたものである。
柚の木は、この赤穂にも多く自生しており、柑橘系の果実として庶民に親しまれていたが、その可憐な小さな実に似合わず、海風にも耐える強い樹木であった。そして、内蔵助は、この柚が大好きで、豆腐には必ず柚粉をかけてその香りを楽しんだし、汁物にも柚の皮を入れ、
「柚はいい…。この香りを嗅ぐと儂はいつも、この赤穂の浜を思い出すのだ…」
と、その味を楽しんでいた。赤穂の柚と赤穂塩は、内蔵助の故郷そのものだったのである。
加代は、内蔵助の子を授かるや、この「可憐でありながら強さ」を秘めたゆずと世話になった瀬戸屋の「柚木」にあやかり、内蔵助の大好きだった名を娘に付けたのである。
柚木は、小平太という夫と別れて暮らしているにも関わらず、父親である瀬戸屋を助け、その店の店子たちの面倒をよく見るしっかり者だった。
加代は、吾平の紹介で内蔵助の下で暮らしたが、短い時間ではあったが、女としてこれ以上の幸せな時間はなかった。
それから五年後、加代と柚は、瀬戸屋の世話で四国松山に暮らす男に預けることになった。
その年の春。加代と柚は、吾平と柚木、そして、瀬戸屋の店の者に見送られて赤穂に迎えに来た男と共に伊予の松山に旅立つのだった。
男は、五十半ば過ぎの初老の男で、庄屋風の出で立ちで、店の前に立つと、
「久しぶりに、赤穂の塩の匂いを嗅ぎましたわ…」
「いやあ、お加代殿。何も心配は要りませんぞ…」
「おうおう、柚様も可愛い盛りで、この爺と一緒にまいりましょうぞ」
「伊予は、温暖で蜜柑畑が柚様をお待ちしております…」
そう言うと、吾平や店の者に深々と頭を下げると、二人を連れて伊予に向かうのだった。
店の者は、その農民らしからぬ言葉遣いや佇まいから、
「あの御方は、…?」
と訝しんだが、吾平と柚木は、
「あの御方は、亡き大石内蔵助殿が大変お世話になった御方だ…」
と言うばかりだった。
実は、その男こそ、裏切り者の汚名を着てまで赤穂を出奔し、資金面で内蔵助を最後まで支えたあの大野九郎兵衛その人であった。
九郎兵衛は、加代を息子の群右衛門の嫁に迎えると、内蔵助の娘の柚を自分の孫として大切に育て、柚が成人して嫁ぐ日まで温かく見守るのだった。
そして、柚が伊予の青果問屋の跡取り息子に嫁いだ次の日、畑の真ん中で静かに息を引き取るのだった。
九郎兵衛にしてみれば、内蔵助の忘れ形見を大切に育て上げることが、次の自分の使命となり、それを果たしたことで、精も根も使い果たしたのかも知れない。
加代と群右衛門夫婦は、九郎兵衛の笑みを湛えた死に顔を見て、静かに手を合わせたという。

あの刃傷の日から既に一年と半年以上が過ぎた。
一旦、山科の家族の下に戻った内蔵助だったが、公儀から「浅野大学の浅野本家お預け」の処分が下ると、いよいよ「討ち入り」一本に目的は絞られていった。
柳沢保明は、内蔵助の動向を小平太から聞くと、赤穂浅野家の再興を断念するような処置を下したのだった。
幕閣の中には、浅野内匠頭への同情が集まっていることから、浅野家再興を許してもいいのではないか…という意見に傾きそうだったが、それを断固拒否したのが、保明である。
保明は、小平太からの報告により、内蔵助自身が「仇討ち」を望んでいることを承知していた。
それに、ここで赤穂浅野家を再興させれば、それは、公儀が、浅野内匠頭に切腹を申し渡したことが誤りであることを天下に知らしめることだった。まして、あの裁定が将軍綱吉の判断だったことからも、それを覆すようなことがあっては、政道の乱れにつながる危険性がある…と保明は考えていたのだ。
徳川の天下となって百年。
世は治まり、人々は平和な時代を謳歌しているように見えるが、未だ、昔の戦国の世を夢見る大名や侍は大勢いるのだ。

保明は、けっして冷徹な男ではない。
元々は、館林で百六十石の禄を食む柳沢家の長男として生まれた。しかし、庶子であり、長男といっても大事にされて育ったわけではない。
生まれは江戸だが、妾の子は所詮妾の子である。
本妻に子が生まれなかったために、家督を譲られたが、家の中で保明の居場所はなかった。それでも、保明は、母親の優しい血を受け継いだのか、子供の頃から争い事を好まない子供だった。ただ、学問所での成績は良く、その利発さが買われて、綱吉の小姓になったようなものだった。
その綱吉が、たまたま運良く将軍職に推挙されたことで、出世の道が開けたが、「側用人」として、老中以上の権力を持とうと考えていたわけではないのだ。
どうも、世間は保明に対して良からぬ噂をするものだが、保明という人間は至って平凡な男で、それは自分で自覚できる冷静さがあった。
ただ、将軍の側用人という肩書きは、自分が望んだものではなく、綱吉と共に育ってきたという関係から、気弱な綱吉が相談できる唯一の友として、側にいるに過ぎないのだ。
あの浅野内匠頭の吉良への刃傷事件が起きたときも、綱吉があれほど取り乱さなければ、穏便に済ませる話だったのだ。
あれは、事件が起きた後、老中の一人が何を慌てたのか、勅使を迎える準備をしている綱吉に直接報告したことから始まった。
綱吉は、大人になった今でも母親の側で寝るくらいの男で、女を侍らせるより、母と一緒に和歌を詠んだり、歌留多をしたりする方が楽しい人なのだ。
血縁の関係から将軍職に就いたが、綱吉は保明を見ると、
「保明、困ったのう…」
「儂に将軍職は無理じゃ。何も分からぬ故、おぬしが良いように計らえ…」
と言うものだから、仕方なく、家臣たちには威厳があるように振る舞い、将軍の名を借りて指示をしていただけなのだ。
もちろん、その後、綱吉にはすべてを報告するのだが、綱吉は、いい加減に話を聞くと、「保明、それでよい…」で終わりである。
だから、この刃傷事件も自分に報告してくれれば、如何様にも取り計らうことができたのに、あの秋元めが余計なことをしおって…と保明は正直、老中の要らざる忠義面に怒っていたのだった。
綱吉は、普段は温厚で優しい性格ではあったが、自分の感情を操ることが苦手で、子供のころはよく癇癪を起こしては、母親の玉に叱られていた。
後に桂昌院となる「玉」は、日本橋で青果物を取り扱う商人の一人娘だった。それが、行儀見習いで大奥に入ったために、三代将軍家光のお手がついたのだ。
玉は、まさにちゃきちゃきの江戸娘で、食事でも、いつまでも口の中でモグモグと咀嚼しているものなら、
「サッサと食べてお仕舞いなさい!」
と叱られるのだ。
保明も綱吉と一緒に食事をしていると叱られるものだから、今でも食べるのが速い。食べるというより「飲み込む」という食べ方なのだ。
綱吉は、祖父の秀忠に似たのか、おっとり型で、いつも本を読んだり、草花の絵を描いたりしている方が楽しいらしく、剣術は熱心ではなかった。
それでも、正義感だけは強く、少しでも理不尽なことがあると、
「なに! 貴様、卑怯であろう!」
「成敗してくれるわ!」
などと、仲間の少年を追い回すようなことがあった。
それを宥めて、落ち着けるのが保明の役割なのだ。
それが、将軍職に就いても同じだった。だから、滅多なことで怒らせないように、保明が先に聞き、それを綱吉に伝えていたのだ。
ところが、老中になって日が浅い秋元但馬守が先例を忘れて先走ってしまったために、綱吉は、
「何を! 内匠頭!」
「勅使の来ている前で、この不調法者めが!」
そう怒りまくって切腹を命じてしまったのだった。
訳のわからない怒りに触れた秋元但馬守は、それをそのまま伝達してしまったので、保明も取り消す暇がなかった。
もし、保明が先に聞いておれば、浅野内匠頭と上野介の騒動は、喧嘩両成敗にすることも出来たし、二人とも「急の病」で処理することもできたのだ。
既に勅使饗応役の仕事は、ほとんど終わっており、後は、だれがやっても務まる話だった。
そして、後からじっくり吟味すれば、赤穂浅野家を取り潰さずとも、三万石程度で残すことも出来たのに…と思う保明であった。
それにしても、この事件が、これほど後々まで尾を引くとは思わなかった。
江戸の城下では、吉良上野介の悪評が立ち、赤穂浅野家家来共の仇討ちを待ちわびるような雰囲気が醸し出され、それと合わせて、公儀に対する裁定の不満さえ声高に言われるようになっていた。
保明は、各所に放った忍から、そんな噂を耳にするたびに苦虫を噛み潰したような顔をするのだった。

十二月に入ると、各地に散っていた同志が、江戸に集まって来た。
それは三々五々、目立たぬようにして自分の獲物だけを抱えての出府だった。
内蔵助は、品川宿の馴染みの旅籠に入ると、そこに小平太が現れた。
内蔵助に同道してきたのは、赤穂や京に在住の五人だった。
小平太は、内蔵助に面会を求めると、その五人の前で絵図面を広げた。それは、あの吉良上野介の本所邸の図面であった。
「お、これは…?」
すぐに声を上げたのは、副将格の吉田忠左衛門である。
忠左衛門は百五十石取りの足軽頭で、自分の家来の寺坂吉右衛門を連れて来ていた。
この吉右衛門は、小平太と同じ「忍」で、瀬戸屋につながる「草の者」だった。
吉右衛門の役割は、この大仕事を最後まで見届け、すべてを明らかにするための「伝令」を務めることにあった。
どうやら忠左衛門は、最期までこの吉右衛門が「草の者」だということには気づかなかったらしい。
内蔵助は、瀬戸屋から聞かされており、生き残る役目を吉右衛門に与えたのだ。
絵図面は、小平太が江戸にいる間に、度々吉良邸に忍び込み自分で描いたものである。
吉良邸は、元の邸に相当に手を入れ、邸内も庭もかなり入り組んだ構造になっていた。
忠左衛門や小野寺十内は、それを見ると、
「いやはや、内部が複雑になっていて、夜間では、少し厄介でござるな…」
そう言うと、眼を皿のようにして、それをじっと眺めていた。
小平太は、
「吉良の寝所は、奥のここ。ここからは、裏庭に通じます…」
「もし、吉良が逃げようとするなら、この寝所から外廊下を伝って、物置に出るしか方法がありません」
「物置はかなり大きな物で、半分は調度品などが入っておりますが、仕切られた半分には、今の季節なら炭俵かと思われます」
「吉良家で使用する炭は、米沢から運ばれているようで、それに合わせて上杉の付き人も十人は吉良邸に入りました」
「したがって、吉良が潜むとすれば、いずれにせよ、物置が一番怪しいことになります…」
「お、何じゃ、この物置の裏にある扉は…?」
「はい。これが、今回新設された隠し戸ではないか…と思われます」
「一見、用水が前にありますので目立ちませんが、間違いなく、この用水の裏に扉があります」
「ここには、何本かの樹木がありますので、傍から見ても気がつきません」
「そして、この扉を出れば、回向院の裏手です」
「もし、舟でも用意して隅田川を下れば、もう追いつくことは不可能でしょう…」
そう言って、ひとつひとつ丁寧に説明をするのだった。
忠左衛門は、それを聞くと感心したように頷き、
「いや、小平太。これは、功労一番じゃな!」
そう言って、小平太を労うのだった。
内蔵助も、
「うむ、小平太、ご苦労であった…」
そう労い、(後を頼む…)と眼で小平太に合図を送るのだった。

そのころ、一時は分裂しかけていた赤穂の浪士たちも内蔵助が江戸に出府してきたことで、ひとつにまとまろうとしていた。
それは、内蔵助と一緒に絵図面を見た五人から、「小平太が絵図面を手に入れた…」という話が広がったからである。だからこそ、小平太は、内蔵助だけでなく他の者のいる前で、吉良邸の絵図面を披露したのだった。
長年、江戸で暮らし忍としての修行を重ねてきた小平太にとって、旗本邸に忍び込むくらい何でもないことだった。
地理すら不案内な赤穂の浪人たちが、吉良邸の絵図面などが易々と手に入る筈もない。それどころか、実際に、吉良邸前をウロウロと徘徊し、吉良家の家臣共に気づかれ、追われることが何度も起きていた。
そのたびに、同志たちは、
「吉良邸の警戒が厳重で、蟻の這い出る隙間もありません!」
と報告するのだが、内蔵助には、そんなことはとうにお見通しだった。
赤穂にいたころ、瀬戸屋の吾平に、
「あの者たちがいくら束になっても、何も出来はしまい…」
「あれでは、吉良の門前で太鼓や鉦を鳴らして騒いでいるようなもんだからな…」
とせせら笑うのだった。
江戸にいる安兵衛や源五右衛門にしても、武芸はまあまあだが、声は大きく、態度もでかい。いくら町人に身なりを変えていても、まるで大道芸人そのものなのだ。
本人たちは、至極真面目なのだが、武士だ侍だ…と育ってきた身には、隠密行動など出来るはずもない。
要するに江戸の連中は、討ち入りのときだけの戦闘員でしかないのだ。
内蔵助の冷徹な頭は、安兵衛たちをそう見ていた。

内蔵助が、江戸に入って間もなく、日本橋にある瀬戸屋の支店に少しずつ荷が届くようになっていた。
瀬戸屋の日本橋支店は、江戸城の堀割運河が店の裏を流れており、日常的に荷物の運搬に利用していた。
舟は荷車に比べて運べる量も多く、人目にもつきにくいという利点があった。
瀬戸屋に運ばれて来る荷の多くは、各地方の小間物や織物などが主だったが、蝦夷地や津軽で採れた魚介類の乾物なども含まれていた。
当然、赤穂の塩も、一番早く江戸に運ばれ高値で売られていたのだ。
そして、その舟を利用して、古道具として扱う刀や槍、鎖帷子、火事装束などが混じっていた。
一回に大量に運んでは怪しまれるので、それは数回にわたり、少しずつ運び込まれていたのだ。
それを運搬しているのは、吾平の手の者である。
瀬戸屋は、小間物屋を自称していたが、赤穂本店でも何でも扱う雑貨商で儲けており、刀剣類も「古美術」の品として公儀の許可も得ていたのだ。
その運び込まれた刀の多くは、先代良欽と内蔵助が収集していた物が大半であった。
もちろん、武士である以上、同志たちも刀は持っていたが、小平太や内蔵助が見たところ、安いなまくら刀を差している者がほとんどで、数名だけが、多少ましな刀を差していた。
小平太は、大納戸役のころから刀の目利きに定評があり、刀の研ぎから修理まで行うので、赤穂でも重宝にされていた経緯がある。
江戸でも、同志たちの刀を研いだが、どれもこれも刃毀れや傷があり、実戦で使える物は十振りにも満たなかった。そこで、内蔵助が動いたのである。
内蔵助の家で収集していた刀は二十振りにも及び、どれも買えば一振り十両は下らない名刀ばかりで、たとえ無銘であっても、二十両はするだろう…という鎌倉時代の古刀もあった。
それに内蔵助は、その拵えよりも本身の出来に拘り、身幅のある厚手の実戦用の刀を好んだ。だが、これらの刀は重く、普段、江戸の侍たちが佩用する刀より、ずっと扱いが難しいのだ。
その点、安兵衛や奥田孫太夫らの江戸急進派の多くは、それらを扱うだけの腕を持っていた。しかし、それも十名がいいところである。
同じ、江戸急進派でも片岡源五右衛門や磯貝十郎左衛門などの側近の連中は、刀を満足に振ることも出来ず、よほど軽い刀でなければ扱えないのだ。
いくら気持ちはあっても、腕がなくては、吉良家の侍と対等に渡り合うのは難しい…というのが、小平太の見立てであった。
まして、実戦となれば、火事場のばか力ではないが、興奮している侍たちは、日頃出したこともない力を発揮するものだが、刀を操る者として、それは肩に力ばかり入って、相手を叩くことは出来ても、斬ることはできないのだ。
それに、真剣を向けられると、これまで経験したことのない恐怖心が走り、腰が引け手しまうのが常だった。
だからこそ、内蔵助や菅谷半之丞は、鎖帷子や鉄脚絆、鉄籠手、鉢金などが必要だと考えていた。
それらを調達するのは、なかなか難しいことではあったが、吾平の手の者が大坂中の古道具屋を回り、必要分を調達していた。
半之丞は、軍師らしく、特に江戸にいる者たちには、安兵衛を通じて「体をいじめ抜け!」と命じてあった。
安兵衛は、長江長左衛門と称して、自ら道場を開き、そこで徹底して江戸の同志たちを鍛え上げていた。そのお陰で、同志たちの戦闘力は数段あがったといわれているが、その稽古の厳しさに嫌気が差したのか、そこから四、五名の同志がいつの間にか脱盟していくのだった。
あの高田郡兵衛までが、親戚の旗本に説得されて脱盟していた。
安兵衛は、
「あの、裏切り者めが…!」
と嘆いたが、江戸で「槍の郡兵衛」とまで称された郡兵衛がいなくなるのは痛かったが、それを嘆いていても仕方がなかった。
こうして、江戸では着々と吉良邸討ち入りの準備が整えられていったのだった。

第7章 吉良邸襲撃

柳沢保明は、赤穂の浪人たちの吉良邸襲撃が間近に迫っていることを知っていた。それは、小平太からの報告もあったが、自らの手の者による探索でも、同様の報告があった。
「そうか、大石が江戸に出て来たか?」
小平太からそう聞かされた保明は、ほくそ笑むと、
「のう、小平太。その大石殿に一度、会ってみたいものだな…」
と呟くではないか。
小平太が驚いていると、保明はすかさず、
「よいよい、小平太。儂が瀬戸屋にまいろう。そこに大石殿に来るように伝えよ…」
「そうだな、明日はどうじゃ。あすの晩なら、時間は空けられる…」
「心配するな。殺しはせぬ…。儂にとっても大切な御仁じゃからな」
小平太は、
「はっ…」
そう言うと、やはり物音も立てずに柳沢邸から消えるのだった。

小平太が、瀬戸屋ゆかりの旅籠「品川屋」に内蔵助を訪ねたのは、その夜もかなり遅くなってのことだった。
内蔵助の寝所の廊下の障子越しに、「闇言葉」で内蔵助に柳沢からの伝言を伝えた。すると、内蔵助はひと言、
「承知…」
とだけ答えると、小平太は無言のまま、その場を立ち去るのだった。
内蔵助は、
(あの、柳沢という男、なかなか出来るな…?)
それは、怖れというよりは、柳沢という権力者の顔を見てみたい…という好奇心の方が強かったのだ。
もし、この男が謀略をもって自分を殺すのであれば、それはそれで面白いと思った。どちらにしても、腹は読める。それは、お互い家を守る者たちの宿命みたいなものだ…と内蔵助は考えていた。

その晩、内蔵助は小平太を伴って瀬戸屋に向かった。
仲間には、
「少し、瀬戸屋に用があるので、小平太を連れてまいる…」
とだけ伝えたが、小平太は、絵図面を手に入れたこともあり、同志たちからは強い信頼を得ていたのだ。
「小平太よ。太夫は、大事な体故、よくお守りいたせ…」
そう言って送り出したのは、吉田忠左衛門だった。
忠左衛門にしてみれば、内蔵助を若いころより知るだけに、今でも気がかりなのだろう。

瀬戸屋では、既に離れに座を設けてあり、内蔵助は約束の刻限より半刻ほど前に到着して待っていた。
小平太は、廊下にて控えている。
そして、柳沢保明がたった一人の供だけを連れて、離れに入ってきた。
供の者とは、やはり小平太と共に伊賀の里で修行した真蔵であった。姓は、宗像という。
真蔵は、小平太を見るなり、コクリと頷くと、小平太とは反対側の廊下の端に控えた。
忍は、どんなときでも最低限の言葉しか交わさないのが掟であった。しかし、眼を合わせただけで、仲間の声を読み取ることはできた。
真蔵は、
(お互い、気苦労だな…)
と言っているような気がして、小平太も、
(なに、これもお勤めよ…)
と返すのだった。
保明にしてみれば、並の侍を十人引き連れるより、この宗像真蔵一人いれば、十分だということはよく知っていた。そして、内蔵助にも、小平太が一人いれば、赤穂侍十人以上の働きをするだろうことは、よく分かっていたのだ。

二人は、顔を見合わせると、何かしら波長が合うらしく、形式通りの挨拶がすむと、酒を酌み交わし、他愛もない雑談に終始した。
年は、まったく同い年であることに二人は驚いた。
「何だ、内蔵助殿は、儂と同年であったか…」
それは、情報通の保明も知らぬことだった。
二人は、それをきっかけに子供のころの話から、女の話まで、酒を酌み交わしながら一刻ほどを過ごした。一刻とは、今でいう二時間を指す。
それは、あまりにも和やかな時間で、小平太も真蔵も、こんな二人を見たことがなかった。
もし、公儀の側用人、改易された赤穂の国家老という立場でなければ、本当に仲の良い友になれただろう…とさえ思えた。
刻限が迫ると、保明が、
「では、内蔵助殿。また、いずれ…」
そう言って、頭を下げるのだった。
内蔵助も、
「ははっ、有り難き幸せに存じます…」
そう言うと、保明は内蔵助に耳打ちするように、何かを囁いた。その瞬間、内蔵助の肩が一瞬、ビクッと動くのがわかった。
それは、二人にしか聞こえない会話だったが、小平太と真蔵には聞こえていた。
(十四日が、楽しみでござるな…)
二人には、そう聞こえたような気がしたが、小平太は何も言わなかった。

十四日とは、今月の十四日のことである。
同志の大高源吾と俳諧師の一葉の働きにより、吉良邸の茶会が十四日に開かれるとの情報を得ていたが、未だに確証は掴めていなかった。
大高源吾は、若いながらも俳句を楽しむ風流人で、子葉の号を持っていた。
江戸に来てからも、俳句仲間は多く、一葉とも顔見知りだったようだ。
小平太も、十四日が一番確率が高いと思っていたが、こうして柳沢から聞かされると、それは確信となった。
それに、柳沢がそう告げたということは、
「十四日に決行せよ…」
という暗示に他ならない。
内蔵助にしてみれば、(公儀はこの件では動かない…)という暗示に聞こえていた。
柳沢は、それを伝えるために、わざわざ、自ら足を運んだに違いないのだ。
それは、単なる親切心などではなく、いうなれば、吉良家を葬り去るための謀略と考えて間違いない。
吉良にしてみれば、まったく理不尽でしかないのだが、徳川の世を盤石なものにしたい…という野望を持つ保明にしてみれば、あの刃傷事件と大石内蔵助という男が現れたことは、千載一遇の好機なのだ。

保明は、元々は甲斐源氏の流れを汲む一族に産まれた。
甲斐の国といえば、武田氏である。
その武田は、織田信長の手によって滅ぼされ、その家臣団の多くは徳川家康に拾われ命脈を保ったのだ。その恩は海よりも深く、幕府開闢以来、甲州街道沿いの武士は、徳川家を守るための武士団となった。
伊賀者の服部半蔵も同じである。
あの本能寺の変の後、家康を守って伊賀を超えられたのは、服部半蔵とその手の者の力によるものであった。
家康は、半蔵に「貴公は、儂の命の恩人じゃ!」と褒め称え、正式に服部半蔵配下の伊賀者を公儀御庭番としたことは、先にも書いた。
それ故に、伊賀者も徳川家に対して忠誠を誓い、その忠誠心は、幕府が倒れるまで続くのだった。よって、服部半蔵は、甲州街道の入口に邸を貰い、常に甲州街道を守っていたのだ。
保明もその流れを汲む武士である以上、徳川家を脅かす存在は、どんな手を使ってでも潰さなければならないと考えるのだった。
今回の刃傷事件は、赤穂浅野家は改易となったが、本当の標的は吉良上野介と吉良家なのだ。
吉良家は、元々は足利将軍家に連なる名門で、徳川家康の温情によって旗本に取り立てられた。
そもそも、源氏一門につながる名家であるため、朝廷との交渉を担う「高家職」に任命し、京の天皇や公家との交渉担当としたのだった。しかし、高い官位を貰ったせいか、その名門意識は益々強まり、僅か四千石の旗本でありながら、江戸城内でも全国の大名たちに道を譲らせる程の権威を示すようになっていた。
もちろん、位は大名家にも劣らない従四位上左近衛少将なのだから、それも仕方のないことではあったが、大名たちにしてみれば、戦も知らない高家風情の風下に置かれることを屈辱だ…と考える者が多いのが現実だった。
やはり、太平の世になったと言っても、武士たちの間で幅を利かせるのは、
今の文官や経済官僚ではなく、野戦を知る者たちなのだ。
江戸城を見ていても、外様の島津や毛利、伊達、前田などの戦国武将の子孫大名たちの鼻息は荒かった。
それに比べて保明は、この段階では従五位下出羽守でしかない。
先祖は、大坂の陣に出陣しているが、大大名家と比べれば、語るほどでもないのだ。
それは、吉良も同じだったが、官位ばかりが高いだけに、上野介の物言いも、側用人の保明に対して、対等な口を利こうとするのだ。
この刃傷事件も、非は浅野内匠頭にあるのかも知れないが、上野介が、
「所詮は、浅野の分家。官位も従五位下内匠頭の分際でしかない…」
と侮っていたとしたら、同じ従五位下である保明は面白いはずがない。それに、保明は館林藩の中級武士の生まれで、上野介から見れば浅野と同じ「田舎侍」である。
噂では、上野介は、浅野に対して陰では、「あの田舎侍には、ほとほと困り申した…」と愚痴を聞いていたというではないか。
保明は、同じ田舎侍として、その言葉は、自分に向けられているような気がしてならなかった。
自分の前では、慇懃に振る舞うが、その言い方の端々には、対等に振る舞おうとする態度が目についた。いや、年齢ととともに、それは、露骨になってきたとも言えるのだ。
もし、このまま吉良を放置すれば、益々つけあがり、側用人どころか上様にまでも蔑ろにするとなれば、そのままでは捨て置けない。
それに、京に放ってある「忍」の報告によれば、京の実力者である近衛家とは昵懇の間柄であり、公儀の内情を漏らしている危険性があった。
となると、これを実力で潰してくれるのは、大石内蔵助ということになる。
それ故に、保明は、小平太たちを使って内蔵助を内々に動きやすいように仕向けていたのだった。
それが、内蔵助と会った理由でもある。
保明は、内蔵助と会談してみて、心の底から波長が合うことに気がついた。
(こ、これは…?)
保明は、子供のころから聡明で、人の心を読むことに長けていた。
だから、難しい性格の綱吉や母である玉の気質を知った上で、自分の感情をコントロールしていたのだ。
それが出来たからこそ、綱吉が将軍職に就いて以降も「側用人」という職を全うすることが出来るのだ…と信じていた。
その保明が、「これは、俺だ…」と感じたのが、大石内蔵助という男だった。それは、保明にしてみれば、まさに、自分の分身を見ているかのような気がしていた。
だが、年は同じであっても、保明が「昼行灯」だったことは一度もない。
女は、妻とした染子の他は、数人の側室がいるだけで、男女の営みも、どちらかというと淡泊な方である。
内蔵助には、無骨な武士の一面もあるが、保明には、それはない。
剣術も一応の嗜みはあるが、どちらかというと綱吉のように、一人で本を読んでいるような人間なのだ。だが、それでも、心の奥底には戦国武将のような荒々しさが迸る瞬間があった。
それを知る者は、妻の染子しかいないが、どうもこの大石内蔵助という男も、そういう激しさを持っているのではないか…と感じていた。
そう思うと、この吉良邸討ち入りは、是が非でも成功させねばならなかった。
保明に成り代わって、吉良を成敗できれば、徳川家を蔑ろにする勢力はなくなるのだ。
そう思うと、心が躍るような興奮を覚える保明だった。

内蔵助は、当初、吉良邸襲撃は六十人を想定していたが、十二月に入ると、次々と脱盟する者が出た。
早々に抜けたのは、江戸詰二百石取りの高田郡兵衛である。
堀部安兵衛、奥田孫太夫と三人で、急進派の一派を作った。                 彼らは、堀内道場の高弟として同志たちからも一目置かれる存在だった。特に「槍の郡兵衛」の名は江戸中に轟き、急進派の中心として、内蔵助を困らせていたが、突如、安兵衛に事の子細を申し開きして、旗本の養子になった男である。
あれほど周囲の同志たちに、「太夫は、甘い!」と散々悪口雑言を言っていた本人が、条件のいい仕官口が見つかると、言い訳がましく頭を下げて脱盟したのだ。
これ以降、安兵衛たちが、少し大人しくなったのは言うまでもない。
郡兵衛は、討ち入りが成功したことを知ると、泉岳寺に祝酒を持って現れたが、だれも、この変節漢と眼を合わせる者はいなかった。

橋本平左衛門は、馬廻役百石の歴とした武官であった。
当初から「吉良を討つべし!」と威勢のいいことばかりを叫んでいたが、酒と女に溺れ、何度も内蔵助に無心をする男だった。
勘定方の岡島八十右衛門が、何度も平左衛門に注意をしたのだが、生来の坊ちゃん育ちが祟って、身を持ち崩し、十一月に大坂の遊女「初」と無理心中を遂げてしまった。
その遺体には、女物の襦袢が着せられており、大坂にいた同志たちは、その遺体を引き取りに行くにも、恥ずかしい思いをしなければならなかった。

内蔵助の親戚の奥野将監。組頭千石の大身である。
将監は浅野家譜代として、最初から最後まで「浅野家再興」だけを主張し、多くの同志と意見を異にすることになった。
「討ち入り」を決定した七月の円山会議で、内蔵助に最後まで食い下がったが却下されると、そのまま「儂は、脱ける!」とその場から足早に出て行ってしまった。
同志内では、
「将監殿は、最初から吉良を討つつもりはなく、浅野家再興になれば、また、自分が仕官できると踏んで、同志になっただけの男だ…」
と噂されていた。

親戚の中でも、食えないのがこの小山源五左衛門であろう。
小山は、足軽頭三百石の上士であり、内蔵助の叔父にあたる男だ。
やはり、円山会議後に脱盟したが、この男は終始内蔵助に批判的だった。
親戚筋の長老だが、当初、社会の様子を静かに睨んでいた内蔵助を「腰抜けめ…!」と仲間内で罵った挙げ句、江戸の急進派に「内蔵助に替わる首領に…」と祭り上げられるや、すぐに首を引っ込めて脱盟したのだった。
日和見主義の典型で、安兵衛たちは、高田郡兵衛や源五左衛門らの脱盟が相当に堪えたのか、それ以降は、内蔵助の下を訪れると謝罪して、その命令に服したのだった。人を見る目は、内蔵助の方が安兵衛たちより何倍も上だった。

やはり親戚の大石孫四郎は、三百石取りの上士で、家督を譲られたとき、弟の瀬左衛門に百五十石を分けている。最初から同志として盟約を結んだが、何故か、円山会議の後に脱盟した。その理由として、「年老いた母の世話をしなければならぬ…」としたが、弟の大石瀬左衛門は、「そんな話はしていない!」と、この兄を義絶した。
但し、生涯にわたって母の面倒を看たのは事実であり、討ち入り後は、進藤源四郎を頼って近衛家の家臣となった。
瀬左衛門とどのような話になっていたかは分からないが、母もこの孫四郎を頼っていることから、瀬左衛門が兄に類が及ばぬように計らった可能性がある。

岡本次郎左衛門は、大阪留守居役四百石の上士である。
やはり、討ち入りが決定した円山会議の後に脱盟した。
この男も、浅野家再興を目指していた当初は、内蔵助に積極的に協力する姿勢を見せていたが、それが頓挫すると、掌を返すように脱盟していった。
やはり、仕官が目的だったらしく、自分の命を懸けてまで殿様に尽くせるほどの忠義心はなかったのだ。

多川九左衛門も四百石の足軽頭である。
内蔵助に頼まれて、開城にあたって内蔵助の「嘆願状」を「幕府目付」に届けるよう言い遣ったが、途中でそれを盗み見し、書いてある内容が過激なために怖れて、その嘆願状を届けぬまま、赤穂に戻るという失態を犯した。この男も日和見で、円山会議後に脱盟した。
内蔵助は、赤穂の体面上、九左衛門の性格を知った上で、嘆願状を持たせたのだった。そして、予想どおり、悄々と赤穂に戻り、内蔵助に、「間に合いませなんだ…」と嘘を吐いて誤魔化したが、内蔵助にはすべてお見通しだったのである。
小平太に言わせれば、当時、そんなことをする必要もなく、内蔵助に注進していたが、内蔵助によれば、
「よいよい。これも方便じゃ…」
と笑っていたという。

田中貞四郎は、百五十石取りの近習である。
片岡源五右衛門たちと切腹した浅野内匠頭の遺骸を引き取り埋葬した一人である。当初は、髻を切って「主君の仇を討つ!」と過激な論を吐く急進派と見られていたが、剣の腕はない。しばらくすると、命が惜しくなったのか、書き置き一通を残して、そのまま逐電した。
声はでかく調子はいいが、生来のだらしなさが禍したのか、梅毒を患い醜い面相となって落ちぶれたということだった。

小山田庄左衛門も江戸詰百石の上士である。
片岡源五右衛門たちに誘われて義盟に加わるが、優柔不断の男で、いてもいなくてもいい男だったが、浪人暮らしに嫌気がさしたのか、源五右衛門の金子と小袖を盗んで逃亡した。庄左衛門の父である一閑は、このことを知ると、息子の不義理を詫びると、壮絶な切腹をして果てた。

渡辺半右衛門は、同志の一人、武林唯七の兄である。
当初は、弟の唯七と共に盟約に加わり、仇討ちの一念で働いていたが、両親が共に病に倒れ、弟の唯七から説得されて脱盟した武士だった。そのため、討ち入り後は、広島本家に召し抱えられ、内蔵助の遺児大三郎が本家に召し抱えられる際には、里玖の実家である豊岡まで本家を代表して迎えに行った。
そして、赤穂義士と賞賛された弟の「武林」の姓を貰い、武林勘助と名乗ったという。

この他にも、中村清右衛門、瀬尾孫左衛門、矢野伊助たちがいたが、最後の脱盟者として有名になったのが、小平太だった。
小平太は、吉良邸の絵図面を手に入れた「功労一番の者」だっただけに、多くの同志は、それをなかなか信じることができなかった。しかし、最後まで待ったが、小平太が来る様子はなかったのだ。
内蔵助は、
「小平太には、小平太の生きる縁が見つかったのであろうよ…」
と淡泊に答えたが、その答えの奥には、小平太への感謝の気持ちで満ちていたのだった。    世間では、脱盟した赤穂浪士を「不義士」と呼んで蔑んだが、大野九郎兵衛親子のように、脱盟してでも為すべき使命に尽くした浪士もいたし、千馬三郎兵衛のように、武士の一分に懸けて同志に加わった者もいた。そして、小平太も、「隠し目付」としての使命があり、それぞれが単純には割り切れない事情を抱えながら、討ち入りの日を迎えたのだった。

吉良邸への襲撃は、菅谷半之丞の策に則って行われることになった。半之丞は、山鹿素行門下の俊英であり、この討ち入りの軍師であった。そして、結局、最後まで残った同志は四十七人。
当初の計画では、六十人は残るだろうと予想していたが、それより十三人も少なくなり、改めて表と裏の割り当てを変更したほどだった。
襲撃時刻は、寅の刻。今の午前四時である。
半之丞は、戦闘時間を「二時間」と見ていた。
おそらく、吉良邸に詰める家来共は約百人。そのほとんどが、戦闘員だと考えなければならなかった。
彼らには、上野介の息子で、上杉家に養子に行った綱憲がいた関係上、二十人くらいの上杉侍が吉良邸に入っていた。その中でも、山吉新八郎の名前は、同志たちにも知られており、上杉家でも五本の指に入る剣豪だった。それに、吉良家にも清水一学や小林平八郎らが有名だった。
それに対して、赤穂勢は、堀部安兵衛、奥田孫太夫、不破数右衛門らがいたが、老人や年若い同志もいるのだ。
老人組には、堀部安兵衛の舅である弥兵衛が七十七才、副将格の吉田忠左衛門六十六才、間瀬久太夫六十三才、小野寺十内六十一才、間喜兵衛六十九才を抱えていた。
それに五十代の者もおり、気力だけは充実していたが、如何せん、戦闘力としては「ない」に等しいのだ。
十代の少年も二人が参加していた。
特に裏門の大将となった内蔵助の嫡男大石主税は十六才で、元服したばかりだった。もう一人は、病のために亡くなった勘定方の矢頭長助の嫡男、矢頭右衛門七も十七才のなったばかりで、父に代わって加わっていた。
そうなると、四十七人の戦闘員の中で、既に七人は計算外になる。
残された四十人が百人を相手に戦うわけだから、一人で二人以上を倒さなければならないのだ。
これでは、正々堂々とぶつかれば、必ず負ける。
そこで、半之丞は、その不利な条件を克服するために、山鹿流兵法で立ち向かうことにしたのだった。

菅谷半之丞は、赤穂浪士の中でもけっして目立つ侍ではなかったが、それは、半之丞が「軍師」としての役割を担っていたためである。
内蔵助は、当初から「吉良邸討ち入り計画」のすべてをこの半之丞に委ねていたと言っても過言ではない。
半之丞は、内蔵助の一つ下だが、同年といって差し支えない刎頸の友である。少年期から山鹿素行塾で共に学び、内蔵助が一目も二目もおいた秀才だった。
内蔵助は、内匠頭の刃傷事件が起こると、すぐに半之丞を呼び、自分の存念を伝えたのだった。そして、それに賛同を示した半之丞は、一人で密かに「吉良邸討ち入り計画」を立てるために身を隠し、情報収集や分析を行っていた。
内蔵助は内蔵助で、小平太や瀬戸屋、各地に放った「忍」衆から情報を得ていたが、半之丞は、自分の足で見聞きしたことだけを内蔵助に伝えていたのだ。
そのために、半之丞の赤穂事件における行動は記録には残されていない。しかし、実際の指揮を執ったのは半之丞で間違いない。
半之丞の計画に書かれていたのは、次の八箇条である。

一 同志は、身分の上下に関係なく、志の高い者を選ぶべきこと
二 襲撃参加人数は五十人を基本とすること
三 襲撃は、表門、裏門から同時に行うこと
四 刀、槍等の武具は、吟味した物だけを使用すること
五 襲撃時の衣装は火事場装束とし、袖に袖章を付けること
六 一向二裏を基本とし、三位一体で戦うこと
七 手柄は全員のものとし、功を競うを厳禁とすること
八 襲撃成功後は、全員切腹とすること

内蔵助は、半之丞からこれを受け取ると、勘定方の岡島八十右衛門、矢頭長助に命じて、討ち入り決行までの予算書を作らせている。
軍資金に使える物は、これまで内蔵助が塩相場等で儲けた金が三千両ほどあった。当初、その金は、すべて瀬戸屋吾平に預けてあったが、落ち着くと、八十右衛門と長助が管理し、使った経費はすべて帳簿に書き残している。
討ち入り時には、そのほとんどが使われており、内蔵助たちもギリギリの戦いをしていたのであった。
また、逐電を装って大野九郎兵衛、群右衛門親子が回収してきた金が約千両。それに、分配金の残金三百両ほどがあったという。
内蔵助自身もそれ以外に、邸の家財道具や調度品、骨董品などを売り捌いた金が五百両ほどはあった。
山科に家族を送ったが、それらの資金はすべて里玖が蓄えていた金子で賄っていた。それに、里玖の里である豊岡藩京極家家老石束毎公からも援助があり、生活に困ることはなかったようだ。
そして、最後に内匠頭の室である阿久里から預かった化粧料が五百両ほどあったが、これは、討ち入り後、明細書と共に阿久里に返された。
阿久里は、内匠頭の正室として事件後、江戸藩邸の後始末を指揮すると、そのまま実家の三次浅野家下屋敷に引き取られ、瑤泉院を名乗った。
瑤泉院が、内匠頭の仇討ちを望んでいた…という説があるが、強大な公儀の力を考えれば、それを夢想したとしても、現実的でないことは、分かっていただろう。
一人生き残った寺坂吉右衛門が、「討ち入り成功」の報をもたらしたとき、瑤泉院は、吉右衛門に労いの言葉をかけ、自ら路銀を渡したと伝わっている。内蔵助たち四十六士の切腹後、その遺児たちの赦免に動いたのは本当のことである。
瑤泉院が亡くなったのは、それから僅か十年あまり後のことだった。
まだ、四十一才になったばかりだった。

さて、討ち入りの様子についても触れておきたい。
討ち入りに必要な武具等の調達は、瀬戸屋吾平とその一党が行った。
芝居や講談では、「天野屋利兵衛」なる商人が出てくるが、すべて借りの名であり、本当の名は明かされていない。
この「瀬戸屋吾平」も忍名であり、草の者が本名を明かすはずがないのだ。
彼らは、公儀が内々に派遣した忍であったが、内蔵助とは商売をとおして親しくなり、内蔵助という人物に惚れて助力を買って出たのだった。
もちろん、これは公儀が「黙認」したことにもよるが、柳沢保明が小平太に託した影の命令が功を奏したとも言える。
これらの準備なくして、あの「吉良邸討ち入り」の成功はなかった。
後世、赤穂浪士たちは、着の身着のまま、ボロボロの浪人スタイルで討ち入ったなどという論調も見られたが、そんな甘い状況判断で、防備を固めている大身旗本を殺せるはずがない。
準備をしていたのは、赤穂側だけではない。吉良側も、討ち入りの噂が流れれば流れるほど固く身を縮め、防衛体制を採るのは当然のことだった。

小平太は、討ち入りの刻限には、既に吉良邸の屋根裏に潜んでいた。
その装束は、完全に忍装束である。
小平太には、この恰好が肌に馴染んでおり、武家の姿より、随分と体が軽くなった気がしていた。
小平太は、ここで戦闘を見守り、万が一のときには吉良上野介本人を直接暗殺するよう…内蔵助に命じられていたのだ。そして、瀬戸屋の一党も吉良邸前の美作屋に陣取り、周辺警護や武具の交換、酒や水の差し入れなど、準備に余念がなかった。
一説では、この襲撃が人知れず隠密裏に行われたかのように言われているが、討ち入りが始まるや否や、吉良邸前には、多くの江戸の庶民が駆けつけ、成り行きを固唾を呑んで見守っていた…といわれている。
瀬戸屋一党もその人々に紛れるようにして眼を光らせ、支援体制を整えていたのである。

半之丞の計画どおり、襲撃は「寅」の刻限に合わせて開始された。
表門と裏門から突入した赤穂浪士四十七人は、三人ひと組となって戦った。彼らは半之丞の指示どおりに動き、その統制は見事としか言いようがない。
何組かの浪士は、鎹と金槌を持ち、侍の長屋の雨戸を次々と鎹で打ち付けていった。当然、蹴り破れば、簡単に破壊出来るのだが、山鹿流では、こうした障害があるだけで「人は怯む」と教えていた。
そして、そのとおりに、吉良の家来の三分の一は、浪士を怖れて長屋から出て来れなかったのだ。
母屋では、浪士たちが雨戸を蹴破って乱入し、大声を上げながら、出てくる吉良侍に鋼鉄の刃を振り下ろした。
刀は、瀬戸屋が調達した名刀で、研ぎも済ませ、斬れ味は抜群だった。
何度か実戦を経験している安兵衛は、自分の道場で同志たちの稽古をつけながら、
「いいか、実戦では刀は鍔元で斬るんだ!」
「鍔を敵の体にぶつけるつもりで斬れ!」
そう教え、出来ない者には自らが木刀で見本を見せた。
ただし、相手をした若い浪士は、その勢いで庭先まで弾き飛ばされたことは言うまでもない。
当初、真剣で向き合うと、その恐怖で腰が引けた浪士たちも、安兵衛や不破数右衛門らのもの凄い剣幕に押されるように、その鍔元を吉良の侍たちにぶつけたのだ。
すると、切っ先が敵の体に届き、血管を鋭い斬れ味の刀が断ち切った。
動脈を断たれた吉良侍は、天井まで届くような血飛沫を上げて昏倒するのだった。
深夜の惨劇のために、あまり色を感じることはなかったが、それは真っ赤な人間の血潮なのだ。
次第に生臭い血の匂いが立ち籠め、浪士たちの眼が、人間のそれから狂気の獣の眼になっていった。
小平太は、若い、右衛門七や主税が気がかりで、目配りをしていたが、彼らは、仲間と共に堂々と敵と渡り合っていた。
浪士たちが身につけた鉄甲、鉄脚絆、鎖帷子、鉢金は、吉良方の侍の刀を悉く跳ね返した。そして、こちらの刀は、間違いなく浴衣同然の敵の肉を斬り裂くのだった。
この戦闘は、開始から約一時間ほどで終了し、吉良邸は赤穂浪士たちによって制圧されたのだった。
そして、その後は、吉良上野介の探索に当てられた。しかし、絵図面の通りに探しても、なかなか上野介は見つけられずにいた。
戦闘は二時間近く経過し、浪士たちにも焦りの色が見え始めていた。
なぜなら、冬の朝とはいえ、空が少しずつ明け始めていたからである。
そのとき、武林唯七は、ふと、絵図面を見ていたときのことを思い出した。それは、小平太の言葉だった。
「おい、そう言えば、毛利が絵図面を見せてくれたとき、こう言っておったわ…」
「吉良の寝所からは、物置に通じておる…と」
「そうじゃ、物置じゃ。吉良は、物置にいるに違いない!」
唯七は、その言葉を頼りに、仲間の浪士を連れると吉良の寝所に戻り、そこから廊下伝いに物置に出た。
小平太の図面通り、この物置は比較的大きく、中は二つの部屋があるような造りになっていた。
だが、仲間に聞くと、
「いや、ここは何度も探索しておるが、子供の坊主が二人いただけで、後はだれもおらなんだがな…」
と答えるのだった。
唯七は、そこで、わざと大きな声を上げた。
「そうか、ここは、だれもおらぬわ…」
そう言って、その前を何度も往復し、騒いで見せたのだった。そして、次には、抜き足、忍び足でそっと物置に近づいて行った。
そこで、唯七は仲間に、「シーッ…」と合図をすると、扉の隙間に耳を当て眼を閉じた。中の様子を調べるためである。
唯七は、自慢ではないが、眼と耳は、子供のころからよく利く方なのだ。
すると、少しだけ人の息づかいが聞こえて来るではないか…。
唯七は、指で(ここに人がいる…)と仲間に報せた。
そして、もう少し、中の様子を伺うと、それは確信となった。
「おい、人がいる…」
唯七は、そう言うや、扉を一気に引き開けた。
その瞬間、二人の侍が飛び出してきた。
三人は、その吉良侍と斬り結ぶと、敵の腹と背中を割り、二人を昏倒させた。そして、そこに数人の浪士が集まってきた。
「よし、ここは俺に任せろ!」
そう言うが早く、間十次郎が物置小屋に踏み込み、手当たり次第、得意の槍を繰り出し、物置の各所に突き刺したのだ。
小平太が言っていたように、片方には食器や小道具などが収められていたが、もう一方には、冬場なので大量の炭が積み重ねられていた。
十次郎が奥まで進み、その炭俵に槍を突き刺して回ると、「ぐっ…」という呻き声が漏れ、一人の老人が表に引き摺り出されたのだった。
龕灯を向けると、その老人は眩しそうに手を翳して光を遮ろうとしたが、浪士たちには、着ている寝間着から、かなり身分の高い者だと察しがついた。
そして、額と背中の刀創の痕を確かめると、間違いなくこれが、吉良上野介であった。
その動きを影から見ていた小平太は、それを見届けると「よし…」と頷き、そのまま密かに吉良邸から姿を消したのだ。
小平太の行き先は、柳沢邸である。
「討ち入り成功」の報は、だれよりも先に、柳沢保明に伝えねばならなかったのだ。
今度ばかりは、抜かりがあってはならなかった。
保明が先に知ることで、内蔵助たちのその後が決まるのだ。
小平太は、討ち入り成功よりも、その後の「始末」の方が、気になってならなかった。
柳沢は、小平太が来たことを知ると、(やったか…)と思ったが、それを覚られないように静かに寝所の障子を開けた。
この日はかなりの底冷えがあったので、雨戸がしっかりと閉じられている。しかし、保明には外に小平太がいる気配をしっかりと感じていたのである。
「小平太か…。ご苦労であった」
そう言うと、小平太は静かに、
「今ごろは、吉良邸で勝ち鬨の声が上がっておりましょう…」
と答えるのだった。
小平太にしては、この言葉は長い。
それだけ、小平太にも喜びはあったのだ。
すると、柳沢は言葉をつないだ。
これも珍しいことで、保明が忍と言葉を交わすことなど、これまでなかったが、この日だけは違っていた。
「さて、その方はこれからどうする?」
小平太は、
「赤穂に戻ります…」
そう答えると、
「そうか、赤穂か…」
「だが、また働いて貰うぞ…。これは褒美じゃ…」
「世話をかけた」
そう言うと、静かに障子が閉じられた。
小平太が静かに雨戸を開けると、そこには五十両の金子が置かれていた。
小平太は、その金子を懐に収めると、静かに雨戸を閉め、足早に去って行くのだった。
これ以降、小平太は内蔵助にも同志にも会うことはなかった。
ただ、内蔵助に頼まれた最後の仕事を行うのみだった。

第8章 忠臣蔵伝説

小平太は、大目付の仙石伯耆守から、正式に赤穂藩の「隠し目付」の任を解かれた。本来なら大目付配下であるため伯耆守から命を受けるのだが、今回は、側用人柳沢保明直々の命を受けて、大石内蔵助の動向を探った。しかし、それ以上に、内蔵助を助け本懐を遂げさせるために力を尽くしたのだった。
それも、「脱盟者」「不義士」の汚名まで着るはめになったが、忍を生業とする伊賀者には、そもそも、裏切りや脱盟などという概念はない。
謀略によって敵を貶めるのが仕事であり、「信義」などという道徳的概念は、江戸時代に徳川家康が天下を治める上で持ち込んだ思想であり、小平太がそれに縛られることは何もなかった。
小平太自身、元々「姓」はない。
小平太という名を付けられたが、親の顔も知らず、忍の世界だけで暮らした人生で、今回は、「隠し目付」という侍仕事だったために、「毛利」を名乗ったに過ぎないのだ。
赤穂藩が消滅してしまった以上、「隠し目付」の任務が解かれるのは当然であり、いずれ、どこぞの地に派遣される日まで、草の者として生きるだけであった。

あの晩、吉良上野介の首を上げ、仇討ち本懐を遂げた内蔵助たち四十六名は、それぞれが大名家に預けられることになった。この処置も、柳沢保明が下したものであった。
小平太からいち早く「討ち入り成功」の報を聞いた保明は、その処置について考えを巡らし、この事件の最大の効果をねらったのだ。
「あれほど江戸の庶民が待ち望んだ吉良邸討ち入りが成功したとあっては、これからは、公儀の裁定が注目されるであろう…」
「ならば、赤穂の者共を真の忠義の士とせねばならぬ」
「真の忠義者をどう扱うかが、大事なことじゃな…」
柳沢邸の離れで、一人考えた保明は、あの内蔵助の屈託のない笑顔を思い出していた。
(儂と内蔵助は、ひょっとしたら、同じ星の下に生まれ落ちたのかも知れんな…)
だとすれば、答えは難しくない。
「そうか…。やはり、内蔵助はそう考えるか?」
「なるほどな…。儂も同じだ…」
結論が出るころには、元禄十五年十二月十五日の朝を迎えていた。
保明は、直ちに仙石伯耆守邸に使者を遣わしたのだった。

赤穂の一党は、吉良邸裏の回向院で上杉勢が乗り込んで来るのを待ったが、なぜか、それはなかった。
その間にも、瀬戸屋の店の者は目立たぬように水や飯を届け、けがの治療までやってのけたのだった。
さすがに忍の者たちによる手配である。
町の衆も遠巻きに赤穂浪士の一団を見守っていたが、その処置に気づく者はいなかった。
内蔵助は、既に(上杉は来ない…)ことを承知していたが、刻を見て、泉岳寺に向けて一党を出立させたのだった。
ここから先は、あの柳沢保明の指示どおりになることは、承知の上で、保明に身を委ねることにしていた。
あの日の柳沢保明は、信に足る人物に見えた。
世間では、権力の中枢に身を置く柳沢出羽守は、怖ろしい人物に映っているが、実際に会った柳沢は、自分にそっくりな男だった。
自分は「昼行灯」を演じることで政を行ったが、保明は「切れ者」を演じることで、天下の政を行おうとしているのだ。
中味は、同じ田舎の少年でしかない。
優しく生真面目な、どこにでもいる少年なのだ。
そう思うと、遠く離れていても、保明と心がつながっているような感覚に襲われていた。
(儂と、柳沢は、同じ星の下に生まれたのではないか…?)
とさえ、感じるほどの親しさを覚えたのだ。
そう思うと、内蔵助の心には、不安は微塵もなかった。

回向院から出発する際に、吉右衛門を呼び、路銀と何通かの文が入った箱を手渡すと、「行け!」と命じた。
吉右衛門は、そっと吉田忠左衛門だけに別れを告げると、出立の隙を見て、その場を立ち去ったのだった。
ただ一人、実際に現場で働いた寺坂吉右衛門だけが、生き証人なのだ。
吉右衛門は内蔵助から、
「討ち入り後は、瑤泉院様、浅野大学様を初めとした浅野家関係各所に赴き、仇討ち成功の報告をせよ!」
と命じられての行動だった。
内蔵助は菅谷半之丞と相談し、自分たちの「忠義の行動」が隠蔽されるのを防ぐために、関係各所に正確な情報をもたらしたのだった。
保明を信じないわけではなかったが、政治の世界は一寸先が闇である。
たとえ、保明が自分と同じ考えで動いたとしても、それに反対する勢力は必ずあるものなのだ。
こんな小さな赤穂浅野家という大名家でさえ、議論はまとまらず、この討ち入りに辿り着いた侍は、僅か四十七人でしかない。そのうちの半分以上は、軽輩と呼ばれた侍たちなのだ。まして、大公儀となれば、保明に反対する勢力は、自分など考えも及ばない数であり、こちらで打つべき一手は打っておかねばならない…と内蔵助は考えていた。
それに、討ち入りをした浪士が直接報告に出向けば、これ以上に正確なものはない。半之丞がそう内蔵助に進言すると、内蔵助は、
「おう、半之丞。まさにその通りじゃ…」
「討ち入りに参加した同志なら、だれも異論は挟めまい」
そうして、その任に当たれるのは、忍の小平太か吉右衛門しかいなかったが、小平太は「隠し目付」という立場上、それは無理があった。そこで、赤穂に「草の者」として、足軽勤めをしていた寺坂吉右衛門に白羽の矢を立てたのである。
吉右衛門は、当初は残念そうに、
「私も、最後まで皆様と一緒に…」
そこまで言うと、次の言葉を飲み込んだ。
「はっ…。わかりました」
それは、吉右衛門の忍としての矜持だったのかも知れない。
吉右衛門は、同志と一緒に討ち入りを終え、回向院門前に集合すると、だれにも気づかれぬうちに、その場から静かに立ち去るのだった。
上杉勢と一戦交えんと興奮している同志には、吉右衛門がいなくなったことに気づく者はだれもいなかった。
吉右衛門は、その足で南部坂の三好浅野家下屋敷にいる瑤泉院に「仇討ち成功」の報せを皮切りに、そのまま関西に足を運んだのだった。
京では、近衛家に仕えている進藤源四郎の世話になり、山科の内蔵助の家族にも会うことができた。そして、広島浅野本家に出向き、ここにいる浅野大学に報告を済ませると、大学から、
「このまま、ここにいてはどうか…?」
との誘いを受けたが、吉右衛門は、
「はっ、まだ、浪士の遺族を回る役目がござれば…」
と言い残し、何処かに立ち去って行くのだった。
一説によると、大坂や関西地方に暮らす同志の遺族に「討ち入り成功」の報告を行い、源四郎から預かった幾ばくかの金を遺族に渡して歩いたとのことだったが、真偽はわからない。
かなりの年数が過ぎてから江戸に出て、仙石伯耆守に自首したそうだが、伯耆守は、
「既に、あの事件の裁決は終わり、同志の方々の処分もすんでおる。今さら、お主の処罰をしたところで、詮ないことじゃ…」
「これからは、亡くなられた義士たちの冥福を祈られるがよかろう…」
そう言って、線香代だ…と、吉右衛門に金子を渡したと伝えられている。
吉右衛門は、そのとおりに、泉岳寺縁の寺に奉公し生涯を全うしたのだった。
小平太は、同じ忍を生業とする者として、こう考えていた。
吉右衛門は忍ではあったが、長い期間「草の者」として赤穂で足軽奉公をしているうちに、主人である吉田忠左衛門の情に甘えるようになったのだろう。
それは、忍としては失格だったのかも知れないが、一人の人間としての吉右衛門の行動は、羨ましくもあった。
そして、吉右衛門なりの忠義を尽くすために、主人と共にあの討ち入りに参加し、使命を全うしたのだと思う。
もし、自分もあのまま討ち入りに参加し、内蔵助殿と一緒に赤穂浪士として死ねれば、どんなにか幸せだったのではないか…と思うのだった。

小平太は、討ち入り後もしばらくは江戸に止まり、四十六人の浪士たちの死を見届けた。そして、密かに「赤穂浪士銘々伝」を書いて、泉岳寺に納めるのだった。それは、小平太だけが知る内容も含まれていたが、かなり脚色した内容になっていることは否めなかった。
小平太は、討ち入りの前夜、内蔵助から、
「よいか、小平太。これが、儂からの最後の願いだ…」
「それは、我ら全員が、死んだ後のことなのだ」
「この事実をどうか後世に伝えて欲しい…」
「それは、あの柳沢殿との約束でもある」
「あの日、我らは竹馬の友のような心境で語り合った。そして、儂も存念なくすべてを申し上げた」
「そして、そのすべてを柳沢殿は了としてくれたのだ」
「我らが名誉ある死を賜ることも、柳沢殿の計画のひとつであった」
「柳沢殿は吉良家を葬ることで、古い格式に縛られた風習を捨て去り、新しい徳川の世を創りたいと申された…」
「そして、そのために、我ら赤穂の浪士を使う…とまで話されたのだ」
「それは、儂にも驚くべき計画であった」
「だがな…、柳沢殿はこうも申されたのだ」
「戦国の世は、赤穂の義挙を以て終わらせたい…。そして、古い秩序も吉良家を潰すことで葬り、新しい時代を開きたい…とな」
「そして、赤穂浅野家は、大学様を以て再興しよう…とまで申された」
「赤穂の者共は、新しい世を生み出すための捨て石になられよ…。そう言われては、返す言葉がなかった」
「だから、小平太に頼むのだ…」
「いずれ、浪士たちの遺族が日の目を見る時が来るであろう。それは、それでよい。だが、我らの義挙が、新しい時代の魁にならなんだら、我らの面目はどうなる…」
「頼む、小平太。後のことはお主に任せる。どうか、我らの生きた証を、後世に伝えて貰いたい」
内蔵助の最後の言葉に、小平太は頷くしかなかった。そして、それは、柳沢保明の願いでもあるのだ。

内蔵助が予想していたとおり、この赤穂浪士の仇討ちは「義挙」と呼ばれ、江戸の町の評判になった。
江戸城内でも将軍綱吉自らが、赤穂浪士の行動を「真の忠義」と褒めそやし、自分が事件の発端を作ったことなど忘れたかのように興奮していた。
この熱い正義感は、綱吉の美徳ではあったが、物事を深く考えもせず言葉にするので、保明は、いつも冷や冷やするのだった。
しかし、今度ばかりは、保明が言わずとも、将軍自らが「義挙」と叫ぶ以上、これを利用しない手はなかった。
赤穂浪士たちは、保明の指示によって各大名家に預けられたが、評定所では、「助命か切腹か…」で、意見は対立するのだった。
保明は、それを見ながら、自らの発言を封印してしまった。
ここが、保明の賢さでもある。
江戸城内で議論が重ねられれば、赤穂浪士は既に「罪人」ではないことになる。一番怖れたのは、冷静に分析されることだった。それを抑えるために、保明は、町奉行所には一切手を出させず、大目付を動かしたのだった。
大目付とは、本来、大名を取り締まる役職であり、今回のような「浪人」が起こした争乱は、町奉行所の管轄になるのだ。
町奉行所が動けば、赤穂浪士一党は一般の牢につながれ、よくて「打ち首」になるだろう。
その罪状は簡単である。
「主人の仇と称して、元赤穂浅野家の浪人共が徒党を組んで、公儀の要職にある高家筆頭をその役宅に襲い、その家来共々誅殺した罪、並びに、江戸城下を騒乱に巻き込んだ罪は、天をも怖れぬ極悪非道の大罪である。よって、市中引き回しの上、磔獄門!」
が妥当なのだ。
当初、内蔵助はそれを予想していたために、小平太に命じて「善は浅野、悪は吉良にあり」の噂を江戸市中にばら撒いたのだった。
ところが、時の権力者柳沢保明の謀によって、展開が大きく変わったことは否めない。
内蔵助は、「これは天佑である…」と言葉にした。
そして、それは着実に実を結ぼうとしていたのである。

保明がなにも言わないために、議論は決着することなく、時間ばかりが過ぎていった。そして、元禄十四年が明けた十五年正月、遂に保明が動いた。
側用人として、将軍綱吉に助言したのである。
「上様、このたびの一件でござりますが、私に考えがございます」
綱吉の前に進み出た保明を見て、正直、綱吉はホッとしていた。
これまでも、綱吉は保明に何度も意見を求めたが、そのたびに、
「今は、静観するのが賢明に存じまする…」
「江戸城内や評定所においても、様々な意見がござれば、その者共が困り果てた末に、上様のご意見を申し上げるのが得策か…と存じます」
そう言われて、綱吉は、黙っているしかなかったのである。
本音では、「幕臣に取り立てようではないか…」くらいの気持ちを持っていたが、さすがに賢い綱吉は、いくら何でも罪人を取り立てるわけにも行かず、せめて、命だけは助けてやりたい…と思っていたのである。
心が定まらない綱吉にとって、保明の言葉だけが唯一の救いだったのだ。
保明は、
「この一件、上野寛永寺におわします、公弁法親王様にお伺いするのがよろしかろう…と存じまする」
と言うのだ。それは、
「公弁法親王様は、歴とした宮様であらせられますと共に、我が国の仏法を司る尊い方におわします」
「もちろん、法親王様のお手を煩わせるのは、天下の政を任された公儀としては、大変申し訳ないことではございますが、上様自らが、法親王様を頼りにされれば、朝廷と幕府の関係もさらに深まると存じます」
「また、これにより桂昌院様の従一位の宣下がもたらされるとなれば、徳川家にとってもめでたきことと存じまする…」
と述べて、ひたすら平伏するのだった。
綱吉は、さすがに聡い人間である。
一瞬にして保明の意図を見抜き、
「わかった保明。さすが、儂の竹馬の友じゃ…」
そう言って、早速手配を命じたのだった。
その翌日にも、将軍綱吉と公弁法親王との会談が上野寛永寺にて行われた。公弁法親王の答えは明確だった。
「なるほど、将軍家は、武家でありながら慈悲の深い心をお持ちの方と感服仕りました…」
「私も、この件については、大変心を痛めておりましたが、将軍家自らが、私の意見を…と伺い、驚いておりました。しかし、そのお心を知り、嬉しく思います」              「赤穂の者共の忠義、誠に天晴れというものでありましょう。しかしながら、今は太平の世。法は法として守らねばなりませぬ」
「しかし、人としての情はござります。それは、失礼ながら、私のような宮家の者も、将軍家も、江戸の町の人々も変わりはありません」
「ならば、法の下では、武士らしく扱われては如何…?」
「その上で、天下の人々の情をも満たす方法を考えるのが得策かと存じまする…」
そう言うと、法親王は、綱吉に笑みを見せて静かに退席されるのだった。

この会談が城内で知られると、一気に結論が導き出されることになった。
保明は、老中と大目付を集めると、
「どうであろう。赤穂の者共は、忠義の士としてお預け先の大名家で、武士らしい作法で切腹させてやっては…」
「その上で、浅野家菩提寺である泉岳寺に墓所を設けて葬ってやればよい」
「浪士の家族には気の毒だが、浪士の子には、何かしらの処分は必要であろう…」
そう告げるのだった。
形式上は、相談のように見えるが、法親王と綱吉、そして柳沢が決めたことに逆らえる者はいなかった。
後に、荻生徂徠などの学者たちが、それを補うような理論を創り、世に知らしめたことで、この話は後世に長く語り継がれることになった。

内蔵助は、当初、
「江戸っ子は熱しやすく冷めやすい。その評判も一年も過ぎれば、人の口にさえ上らなくなるだろう…」
と考えていたが、「切腹」が申し渡されると、我が意を得たりとばかりに、満足そうに微笑んだ…と細川家文書にある。
保明は、内蔵助の願いどおりに、この難問の解決して見せたのだった。

「赤穂浪士の切腹が決まった!」
との報せを受けた小平太は、改めて内蔵助の言葉を思い出していた。
(そうだ、内蔵助殿は、俺に江戸行きを命じて、こう言ったのだ…)
「江戸の出たら、噂を広めよ…」
「善は浅野に、悪は吉良に…だぞ。わかるな…」
それは謎かけのように聞こえたが、まさに、
「善良で生真面目な浅野内匠頭」
という評判は、今でも消えることなく残ったが、事実は違う。しかし、人の噂がそう信じ込ませたのだ。
そして、吉良は、
「卑劣で卑怯で好色な吉良上野介」
という悪評が立ち、いわれのない中傷を受けて吉良家は滅亡させられたのだ。
しかし、上野介殿は、高潔で人格者だった。もし自分なら、あの内匠頭ではなく、上野介殿に仕えたいと願うだろう。
それが、人の噂で真逆になってしまう…。
それは、怖ろしいことではあったが、それが政というものかも知れない。
事実、吉良家は赤穂浪士の切腹がすむと、改めて御家の改易が伝えられた。
当時、吉良家の当主は上野介ではなく、孫の吉良左兵衛義周だった。
義周は、あの討ち入りの晩も邸にいて、長刀を振って赤穂浪士と対峙し、けがまで負っていたにも関わらず、「父、上野介義央を浪士共に討たれたるは不届きにつき、改易申しつける」とされたのは、あまりにも理不尽な裁定であった。しかし、公儀の裁定に不服を申し立てることもできず、あの晩、一緒に戦ってくれた上杉家の山吉新八郎と共に、預け先の諏訪高島藩に向かったのだった。
山吉新八郎は、上杉家からの付け人だったが、赤穂浪士と何度も剣を交え、顔に深手を負って昏倒したが、奇跡的に蘇生したのだった。その顔には生涯、大きな刀傷が残ったが、米沢では、
「あれが、赤穂浪士と戦った山吉殿だ…」
といわれ、今でも山吉新八郎の英雄伝説が米沢に残っている。
名門吉良家は、左兵衛義周で改易となり、その義周も江戸に戻ることなく、信州は諏訪の地で寂しく亡くなったという。二十一歳という若さだった。

小平太は、自分が加担した事件だとはいえ、吉良上野介や義周、そしてその家臣たちが気の毒でならなかった。
自分は故あって、赤穂浅野家に仕え、大石内蔵助を助ける側に回ったが、もし、吉良家に遣わされていれば、吉良のために働いたに違いないのだ。
そう考えると、やりきれない思いがした。それでも、元御庭番である以上、その考えは封印するしかなかった。
小平太は、「赤穂浪士銘々伝」を書くに当たって、自分が見聞きした事実は事実として残し、吉良方の奮戦や苦労も書くつもりだった。そして、自分の渾身の作として泉岳寺に収めたのだが、結果として、小平太の思うようにはならなかった。
その原稿は、作者不詳のまま泉岳寺に収められたので、それを読んだ僧は、早速、それを泉岳寺の宣伝に利用したのだった。
もちろん、泉岳寺には泉岳寺だけが知る赤穂浪士の実情もあり、赤穂浪士たちの墓所が出来上がると、連日のように江戸の人々が墓参に訪れるようになった。
また、泉岳寺には、各大名家お預けの際に、泉岳寺に置いていった浪士たちの武具や装束があり、各大名家に問い合わせても、「そちらで、勝手にいたせ!」との回答しかなかった。
当初は困惑した泉岳寺だったが、赤穂浪士が切腹し評判がさらに高まると、それらは、すべて泉岳寺預かりの「遺品」となった。
泉岳寺は、墓所の整備後に「宝物館」を造り、そこに赤穂浪士の遺品を展示すると、さらに赤穂浪士賞賛の声は高まり、墓所も宝物館も連日、墓参客でごった返したのだった。
そこで、泉岳寺は、墓参客へのお礼と称して、小平太の書いた「赤穂浪士銘々伝」を簡単にした冊子を配布し始めたのである。
それは、江戸市中で評判を生み、あっという間に浄瑠璃や歌舞伎で劇化されていった。
この赤穂事件は、劇作家によって「忠臣蔵」という芝居に仕立てられ、その後、数百年後も日本人の心に響く物語となっていった。
保明は、町の噂を耳にすると、あの宗像真蔵をお供に、密かに「忠臣蔵」の芝居を見に行った。
そして、最後まで見終わると、真蔵に向かって、
「なるほど、小平太の奴。上手く書いたものじゃ…」
と感心して見せるのだった。
保明にとって、それは、戦国の世の決別を意味していた。
これからは「文治」の時代である。
徳川五代将軍綱吉公こそ、文治を代表する将軍となるのだ。
側用人として、保明は、これ以上の喜びはなかった。そして、自分が死ぬまで、毎年、内蔵助が切腹した二月四日には、供も連れずに泉岳寺の内蔵助の墓に額ずき、供養のための読経をするのだった。
柳沢保明は、その後「吉保」と名を改め美濃守となった。
位も左近衛少将にまで昇ったが、それでも吉良上野介と同じ官位でしかなかった。
吉保は、徳川家の権力者の中でも一番出世した男で、最後は甲斐の国一国の領主となり十五万石を拝領するに至った。そして、綱吉が亡くなると、すべての要職から退き、家督も子の吉里に譲った。
次の将軍となった徳川家宣は、前の権力者だった吉保の功績を認め、特に咎め立てするようなことはなかった。当然、政治からは遠ざけたが、家宣は、自分の側近に、
「柳沢という男は、先代の時代に権力を恣にした男ではあるが、戦国の世を終わらせた功績により、その罪は問わない…」
と命じた。
側近たちは、驚いて顔を見合わせたが、家宣は、
「あの赤穂事件の後始末を見よ。あれは、すべて柳沢の政の成果である…」
「今や、武士の忠義は揺るぎないものとなった。戦国時代以前の家門を誇る者もいなくなり、徳川の世は盤石ではないか…」
「その功績を、儂は認めざるを得ない」
それを聞いていた側近の新井白石は、深く頷くのだった。そして、
「情と理を尽くしてこその治世か…」
と一人呟いた。

すべての役目を終えると、小平太は懐かしい赤穂の地に旅立った。
小平太のその後は、何も語り継がれていないが、おそらく瀬戸屋に戻り、柚木と幸せに暮らした…と思いたい。
それとも、また、何処の大名家に「隠し目付」として派遣され、人知れずに死んだのかも知れない。しかし、毛利小平太という男は、赤穂浅野家にしかいなかったのも事実なのだ。

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